この項目 こうもく では、カトリック教会 きょうかい の最高 さいこう 指導 しどう 者 しゃ について説明 せつめい しています。教皇 きょうこう のその他 た の用法 ようほう については「教皇 きょうこう (曖昧 あいまい さ回避 かいひ ) 」をご覧 らん ください。
教皇 きょうこう (きょうこう、ラテン語 らてんご : Pāpa[1] / Pontifex[2] 、イタリア語 ご : Papa 、ギリシア語 ご : Πάπας Pápas [3] 、英語 えいご : The Pope / The Pontiff[4] )は、カトリック教会 きょうかい の最高 さいこう 位 い 聖職 せいしょく 者 しゃ の称号 しょうごう [5] 。
一般 いっぱん 的 てき にはカトリック教会 きょうかい のローマ司教 しきょう にして全 ぜん 世界 せかい のカトリック教徒 きょうと の精神 せいしん 的 てき 指導 しどう 者 しゃ であるローマ教皇 きょうこう (ローマきょうこう)を指 さ す。バチカン市 し 国 こく の元首 げんしゅ 。教皇 きょうこう の地位 ちい は「教皇 きょうこう 位 い 」あるいは「教皇 きょうこう 座 ざ 」と呼 よ ばれる。また「聖 せい 座 ざ 」[注釈 ちゅうしゃく 1] あるいは「使徒 しと 座 ざ 」[注釈 ちゅうしゃく 2] という用語 ようご も使 つか われる。「聖 せい 座 ざ 」と「使徒 しと 座 ざ 」は中世 ちゅうせい の教会 きょうかい 法 ほう 学者 がくしゃ たちによって形成 けいせい された概念 がいねん で、第 だい 一 いち に教皇 きょうこう を指 さ すが、広義 こうぎ においては教皇 きょうこう 庁 ちょう をも指 さ す[6] 。2013年 ねん 3月13日 にち からはフランシスコ が教皇 きょうこう を務 つと めている。
日本語 にほんご では「ロ ろ ーマ法王 まほうおう 」(ローマほうおう)と表記 ひょうき されることも多 おお いが、日本 にっぽん のカトリック 教会 きょうかい の中央 ちゅうおう 団体 だんたい であるカトリック中央 ちゅうおう 協議 きょうぎ 会 かい は「ローマ教皇 きょうこう 」の表記 ひょうき を推奨 すいしょう しており、日本 にっぽん 政府 せいふ は2019年 ねん に「法王 ほうおう 」から「教皇 きょうこう 」へ呼称 こしょう の変更 へんこう を発表 はっぴょう した(後述 こうじゅつ )。また、カトリックの内部 ないぶ では「教父 きょうふ 」「パパ様 さま 」の呼称 こしょう を用 もち いる場合 ばあい もある。なお、退位 たいい した教皇 きょうこう の称号 しょうごう は名誉 めいよ 教皇 きょうこう (名誉 めいよ 法王 ほうおう とも)ともいわれる。
本 ほん 項 こう では主 おも にローマ 教皇 きょうこう について記述 きじゅつ する。
初期 しょき のローマ司教 しきょう たちはペトロ の後継 こうけい 者 しゃ 、ペトロの代理 だいり 者 しゃ を任 にん じていたが、時代 じだい が下 くだ って教皇 きょうこう の権威 けんい が増 ま すに従 したが って、自 みずか らをもって「イエス・キリスト の代理 だいり 者 しゃ 」と評 ひょう すようになっていった。「キリストの代理 だいり 者 しゃ 」という称号 しょうごう が初 はじ めて歴史 れきし 上 じょう にあらわれるのは495年 ねん で、ローマの司教 しきょう 会議 かいぎ において教皇 きょうこう ゲラシウス1世 せい を指 さ して用 もち いられたものがもっとも初期 しょき の例 れい である。これは五大 ごだい 総 そう 大司教 だいしきょう 座 ざ (ローマ、アンティオキア 、エルサレム 、コンスタンティノープル 、アレクサンドリア )の中 なか におけるローマ司教 しきょう 位 い の優位 ゆうい を示 しめ すものとして用 もち いられた。
教皇 きょうこう はカトリック教会 きょうかい 全体 ぜんたい の首長 しゅちょう という宗教 しゅうきょう 的 てき な地位 ちい のみならず、ローマ市内 しない にある世界 せかい 最小 さいしょう の独立 どくりつ 国家 こっか バチカン の首長 しゅちょう という国家 こっか 元首 げんしゅ たる地位 ちい をも担 にな っている。1870年 ねん のイタリア半島 はんとう 統一 とういつ 以前 いぜん には教皇 きょうこう の政治 せいじ 的 てき 権威 けんい の及 およ ぶ領域 りょういき はさらに広 ひろ く、教皇 きょうこう 領 りょう と呼 よ ばれていた。教皇 きょうこう 領 りょう の成立 せいりつ の根拠 こんきょ とされた「コンスタンティヌスの寄進 きしん 状 じょう 」が偽書 ぎしょ であることは15世紀 せいき 以降 いこう 広 ひろ く知 し られていたが、教皇 きょうこう 領 りょう そのものはイタリア 統一 とういつ まで存続 そんぞく した。1870年 ねん 以降 いこう 、教皇 きょうこう 庁 ちょう とイタリア政府 せいふ が断絶 だんぜつ 状態 じょうたい に陥 おちい ったため、教皇 きょうこう の政治 せいじ 的 てき 位置 いち づけはあやふやであったが1929年 ねん に結 むす ばれたラテラノ条約 じょうやく によってようやくイタリア政府 せいふ との和解 わかい を見 み た。
現在 げんざい の教皇 きょうこう はアルゼンチン 出身 しゅっしん のフランシスコ (在位 ざいい :2013年 ねん - )である。史上 しじょう 初 はつ のアメリカ大陸 あめりかたいりく 出身 しゅっしん の教皇 きょうこう でありイエズス会 かい 出身 しゅっしん の教皇 きょうこう である。先代 せんだい の教皇 きょうこう のベネディクト16世 せい (在位 ざいい :2005年 ねん - 2013年 ねん )はドイツ出身 しゅっしん であり、先々 さきざき 代 だい の教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい (在位 ざいい :1978年 ねん - 2005年 ねん )はポーランド出身 しゅっしん とイタリア人 じん ・イタリア以外 いがい の地域 ちいき の出身 しゅっしん の教皇 きょうこう が3代 だい 続 つづ いている。それ以前 いぜん の非 ひ イタリア人 じん の教皇 きょうこう の先例 せんれい は、ドイツ人 じん ともオランダ人 じん ともいえるハドリアヌス6世 せい の16世紀 せいき 、非 ひ ヨーロッパ出身 しゅっしん の先例 せんれい はシリア 出身 しゅっしん のグレゴリウス3世 せい まで遡 さかのぼ る。
「教皇 きょうこう 年鑑 ねんかん 」によれば現在 げんざい 、教皇 きょうこう に用 もち いられる公式 こうしき な称号 しょうごう には以下 いか のようなものがある。
キリストの代理人 だいりにん (ラテン語 らてんご : Vicarius Christi )
ローマ司教 しきょう (ラテン語 らてんご : Episcopus Romanus )
使徒 しと のかしら(頭 あたま )の継承 けいしょう 者 しゃ (ラテン語 らてんご : Successor principis apostolorum )
全 ぜん 世界 せかい のカトリック教会 きょうかい の統治 とうち 者 しゃ (ラテン語 らてんご : Caput Universalis Ecclesiae )
イタリア半島 はんとう の首座 しゅざ 司教 しきょう (ラテン語 らてんご : Primas Italiae )
ローマ首都 しゅと 管区 かんく の大司教 だいしきょう (ラテン語 らてんご : Archiepiscopus et metropolitanus provinciae ecclesiasticae Romanae )
バチカン市 し 国 こく の首長 しゅちょう (ラテン語 らてんご : Princeps sui iuris Civitatis Vaticanae )
神 かみ のしもべ(僕 ぼく )のしもべ(ラテン語 らてんご : Servus Servorum Dei )
バチカン年鑑 ねんかん 2006年版 ねんばん からは、ローマ教皇 きょうこう の保持 ほじ していたタイトル「西方 せいほう の総 そう 大司教 だいしきょう 」(ラテン語 らてんご : Patriarcha Occidentis )が「不正確 ふせいかく で、歴史 れきし 的 てき にも時代遅 じだいおく れ」との教皇 きょうこう の指示 しじ で削除 さくじょ された。
ラテン語 らてんご が公式 こうしき 言語 げんご である教会 きょうかい 法 ほう の正文 せいぶん の中 なか では、教皇 きょうこう は「Romanus Pontifex(ロマヌス・ポンティフェクス)」という名 な で表 あらわ される。「Pontifex 」は、古代 こだい ローマ時代 じだい の最高 さいこう 神祇官 じんぎかん から引 ひ き継 つ がれた名称 めいしょう である「Pontifex Maximus (ポンティフェクス・マクシムス)」[注釈 ちゅうしゃく 3] の略称 りゃくしょう である。「Pāpa (パーパ)」という呼称 こしょう は教皇 きょうこう に対 たい する非公式 ひこうしき な呼 よ び方 かた であり、ローマ教皇 きょうこう の他 ほか にもアレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう に対 たい しても用 もち いられる(後述 こうじゅつ )が、「Pontifex」という称号 しょうごう は専 もっぱ らローマ教皇 きょうこう にのみ用 もち いられる[注釈 ちゅうしゃく 4] 。公式 こうしき な呼 よ び方 かた を全 すべ て挙 あ げるなら、「ローマ司教 しきょう 、キリストの代理 だいり 者 しゃ 、使徒 しと の継承 けいしょう 者 しゃ 、全 ぜん カトリック教会 きょうかい の統治 とうち 者 しゃ 、イタリア半島 はんとう の首座 しゅざ 司教 しきょう 、ローマ首都 しゅと 管区 かんく の大司教 だいしきょう 、バチカン市 し 国 こく の首長 しゅちょう 、神 かみ のしもべのしもべ」となる。このような長大 ちょうだい な正式 せいしき 名称 めいしょう でよばれる機会 きかい はほとんどない。
教皇 きょうこう の署名 しょめい は通常 つうじょう 「教皇 きょうこう 名 めい ○○、PP、○代 だい 」という形 かたち で行 おこな われる。たとえばパウロ6世 せい なら「Paulus PP. VI」である。PPは Papa の略 りゃく である。また、Pontifex Maximus の略号 りゃくごう である「P.M.」あるいは「Pont.Max.」という称号 しょうごう が書 か き加 くわ えられることもある。回 かい 勅 みことのり などの公式 こうしき 文書 ぶんしょ には正式 せいしき に「教皇 きょうこう 名 めい 、カトリック教会 きょうかい の司教 しきょう (Episcopus Ecclesiae Catholicae)」と署名 しょめい される。
文頭 ぶんとう にはよく「教皇 きょうこう 名 めい 、司教 しきょう にして神 かみ のしもべのしもべ (Episcopus Servus Servorum Dei)」という署名 しょめい が書 か き込 こ まれる。この形式 けいしき は大 だい 教皇 きょうこう とよばれたグレゴリウス1世 せい にまでさかのぼる古 ふる い呼 よ び名 な である。そのほかの称号 しょうごう として「summus pontifex」、「sanctissimus pater」(至 いたり 聖 せい なる父 ちち )および「beatissimus pater」(もっとも祝福 しゅくふく された父 ちち )、「sanctissimus dominus noster」(われらがもっとも聖 せい なる君主 くんしゅ )などがある。中世 ちゅうせい においては「dominus apostolicus」(使徒 しと である君主 くんしゅ )も使 つか われ、現在 げんざい でもラテン語 らてんご の荘厳 そうごん な連 れん 祷 いのり の中 なか で、その格 かく 変化 へんか 型 がた である「dominum apostolicum」と呼 よ ばれている。
初代 しょだい 教会 きょうかい の時代 じだい から一貫 いっかん してローマ司教 しきょう が教皇 きょうこう という特別 とくべつ な地位 ちい を保持 ほじ したわけではなく、ペトロ のローマ到着 とうちゃく 以降 いこう 、数 かず 世紀 せいき をかけて徐々 じょじょ に発達 はったつ していったということはカトリック教徒 きょうと も含 ふく めて広 ひろ く受 う け入 い れられている。古代 こだい のローマはロ ろ ーマ帝国 まていこく の首都 しゅと として初代 しょだい 教会 きょうかい の信徒 しんと たちにとっても特別 とくべつ な場所 ばしょ であった。しかしそのころのローマ司教 しきょう の権威 けんい と影響 えいきょう 力 りょく はローマの外 そと へおよぶものではなかった。
ローマのクレメンス が96年 ねん ごろ、コリント の信徒 しんと へあてて書 か いた手紙 てがみ にローマ司教 しきょう の権威 けんい に関 かん する言及 げんきゅう があり、アンティオキアのイグナティオス も105年 ねん ごろにローマの信徒 しんと へあてて書 か いた手紙 てがみ の中 なか でローマ司教 しきょう の「裁 たっ 治 ち 権 けん 」にふれている。この「裁 たっ 治 ち 権 けん 」について、ある者 もの はこれこそが古代 こだい からローマ司教 しきょう が特別 とくべつ な権威 けんい を持 も っていたと考 かんが えるものと、単 たん に名誉 めいよ 的 てき なもので実際 じっさい 的 てき な権威 けんい はなかったというものがいる。
2世紀 せいき (189年 ねん ごろ)になって、リヨンのエイレナイオス が『異端 いたん 反駁 はんばく 』3:3:2でローマ教会 きょうかい の首位 しゅい 権 けん について述 の べている。そこでは「ローマの教会 きょうかい が特別 とくべつ な起源 きげん を有 ゆう し、真 しん に使徒 しと に由来 ゆらい する伝承 でんしょう を保 たも っていることはすべての教会 きょうかい で認 みと められていることである。」とされている。この記述 きじゅつ は史上 しじょう 初 はじ めてローマ教会 きょうかい の特別 とくべつ な地位 ちい について明確 めいかく に述 の べたものであるが、ギリシャなどの東方 とうほう 地域 ちいき においてはローマの首位 しゅい は受 う け入 い れられていなかったと考 かんが えられる。特 とく にローマ皇帝 こうてい がローマを離 はな れてコンスタンティノープルに移 うつ ったあとでその傾向 けいこう は顕著 けんちょ となった。381年 ねん の第 だい 1コンスタンティノープル公 こう 会議 かいぎ において教皇 きょうこう が出席 しゅっせき を見合 みあ わせたのも、その地位 ちい と権威 けんい についてロ ろ ーマ帝国 まていこく の東西 とうざい で見解 けんかい が分 わ かれていたからである。
半 はん 世紀 せいき 後 ご の440年 ねん に着座 ちゃくざ したレオ1世 せい 大 だい 教皇 きょうこう の時代 じだい になるとローマ教皇 きょうこう こそが、イエスから使徒 しと ペトロに与 あた えられ、ペトロから代々 だいだい 引 ひ き継 つ がれた全 ぜん 教会 きょうかい に及 およ ぶ権威 けんい を持 も っているという見解 けんかい が公式 こうしき に唱 とな えられるようになる。451年 ねん のカルケドン公 こう 会議 かいぎ ではレオ1世 せい は使節 しせつ を通 とお して「自分 じぶん の声 こえ はペトロの声 こえ である」と述 の べた。当時 とうじ ローマとコンスタンティノープルどちらかの権威 けんい が上 うえ なのか議論 ぎろん になっていたが、この公 おおやけ 会議 かいぎ の席上 せきじょう 、コンスタンティノープル大司教 だいしきょう は「コンスタンティノープルは新 あたら しいローマ」であるため「名誉 めいよ ある地位 ちい をローマに譲 ゆず るものである」という声明 せいめい を出 だ したが、ローマ側 がわ から事 こと の判断 はんだん をうやむやにしているという意見 いけん が出 で て受 う け入 い れられなかった。
世俗 せぞく 君主 くんしゅ との関係 かんけい では8世紀 せいき 頃 ころ まで東 ひがし ローマ皇帝 こうてい の主権 しゅけん 下 か にあり、教義 きょうぎ 問題 もんだい で皇帝 こうてい と対立 たいりつ した教皇 きょうこう が逮捕 たいほ され、流刑 りゅうけい に処 しょ されるということもあった。8世紀 せいき 中 なか ごろ教皇 きょうこう 領 りょう が成立 せいりつ し、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から離脱 りだつ した。
カトリック教会 きょうかい では伝統 でんとう 的 てき に教皇 きょうこう の地位 ちい と権威 けんい が聖書 せいしょ に由来 ゆらい するものであるとしている。特 とく に重視 じゅうし されるのはマタイによる福音 ふくいん 書 しょ の16:18-19のイエスのペトロに対 たい する言葉 ことば である。
「シモン・バル・ヨナ。お前 まえ は祝福 しゅくふく されたものだ。このことは血 ち と肉 にく によってでなく天 てん におられる父 ちち によって示 しめ されている。わたしは言 い う、おまえは岩 いわ (ペトロ)である。この岩 いわ の上 うえ に私 わたし の教会 きょうかい をたてよう。死 し の力 ちから もこれに勝 か つことはできない。わたしは天 てん の国 くに の鍵 かぎ を授 さづ ける。あなたが地上 ちじょう でつなぐものは天 てん でもつながれ、地上 ちじょう で解 と くものは天 てん でも解 と かれるのである。」
この箇所 かしょ から「天国 てんごく の鍵 かぎ 」のデザインが教皇 きょうこう の紋章 もんしょう に取 と り入 い れられている。
ただし、この聖書 せいしょ 箇所 かしょ については、教皇 きょうこう 権 けん の根拠 こんきょ とするこのようなローマ・カトリック教会 きょうかい における解釈 かいしゃく は、正教会 せいきょうかい 、プロテスタント では受 う け入 い れられていない。
古代 こだい から中世 ちゅうせい の初期 しょき にかけて教皇 きょうこう はローマ周辺 しゅうへん に住 す む聖職 せいしょく 者 しゃ によって選 えら ばれていた。1059年 ねん に選挙 せんきょ 権 けん が枢機卿 すうききょう に限定 げんてい され、1179年 ねん に入 はい ってすべての票 ひょう の権利 けんり が同等 どうとう とされた。教皇 きょうこう は枢機卿 すうききょう 団 だん から選出 せんしゅつ される。教皇 きょうこう に選 えら ばれるための条件 じょうけん は、(聖職 せいしょく 者 しゃ でなくてもよく)男子 だんし のカトリック信徒 しんと ということしかなかったので、司教 しきょう でない聖職 せいしょく 者 しゃ が教皇 きょうこう に選 えら ばれると、教皇 きょうこう 位 い に着 つ く前 まえ に枢機卿 すうききょう 団 だん の前 まえ で司教 しきょう 叙 じょ 階 かい を受 う けることになっていた。教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ 時 じ に枢機卿 すうききょう でなかった最後 さいご の教皇 きょうこう は、1378年 ねん に選 えら ばれた教皇 きょうこう ウルバヌス6世 せい である。現行 げんこう の教会 きょうかい 法 ほう では80歳 さい 未満 みまん の枢機卿 すうききょう から選出 せんしゅつ されることになっているため、そのような事態 じたい は起 お こらない。
1274年 ねん の第 だい 2リヨン公 おおやけ 会議 かいぎ では、教皇 きょうこう 選挙 せんきょ のシステムが規定 きてい された。それによれば教皇 きょうこう の死後 しご 、10日 とおか 以内 いない に枢機卿 すうききょう 団 だん が会合 かいごう を開 ひら き、次 つぎ の教皇 きょうこう が選出 せんしゅつ されるまでその場 ば を離 はな れないことが定 さだ められた。これは1268年 ねん の教皇 きょうこう クレメンス4世 せい の死後 しご の混乱 こんらん から、3年 ねん にわたる教皇 きょうこう の不在 ふざい (使徒 しと 座 ざ 空位 くうい )が続 つづ いたことを受 う けて定 さだ められたものであった。16世紀 せいき 半 なか ばまでには教皇 きょうこう 選挙 せんきょ のシステムは、ほぼ現代 げんだい のものに近 ちか いものになった。
教皇 きょうこう 選挙 せんきょ の唯一 ゆいいつ の方法 ほうほう は、枢機卿 すうききょう 団 だん による投票 とうひょう である。伝統 でんとう 的 てき な教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ 法 ほう としては「満場一致 まんじょういっち により決定 けってい する方法 ほうほう 」、「司祭 しさい 団 だん の代表 だいひょう たちによって教皇 きょうこう を決定 けってい する方法 ほうほう 」、そして「投票 とうひょう によって教皇 きょうこう を決定 けってい する方法 ほうほう 」の三 みっ つがあった。満場一致 まんじょういっち の方法 ほうほう というのは、選挙 せんきょ 者 しゃ たちが新 しん 教皇 きょうこう の名前 なまえ を叫 さけ び、それが完全 かんぜん に一致 いっち した場合 ばあい に、その決定 けってい を有効 ゆうこう とする方法 ほうほう であるが1621年 ねん 以降 いこう 用 もち いられたことはなく、ヨハネ・パウロ2世 せい によって「代表 だいひょう たちによる方法 ほうほう 」と共 とも に廃止 はいし された。
1978年 ねん 以前 いぜん 、教皇 きょうこう 選挙 せんきょ がおわると新 しん 教皇 きょうこう を中心 ちゅうしん としてシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう からサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう へ壮麗 そうれい な行列 ぎょうれつ を行 おこな うことが慣例 かんれい とされていた。そして大 だい 聖堂 せいどう につくと教皇 きょうこう は三重 みえ 冠 かんむり を受 う け、教皇 きょうこう としての最初 さいしょ の祝福 しゅくふく (ウルビ・エト・オルビ )を与 あた える。続 つづ いて教皇 きょうこう の前 まえ で飾 かざ り立 た てられたトーチに火 ひ をともし、すぐにそれを消 け して「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この世 よ の栄華 えいが はかくもむなしく消 き え去 さ る)という訓戒 くんかい を与 あた え、教皇 きょうこう が(かつて「近代 きんだい 主義 しゅぎ に対抗 たいこう する誓 ちか い」とよばれた)教皇 きょうこう 宣誓 せんせい を行 おこな うというのが伝統 でんとう 的 てき な教皇 きょうこう 着座 ちゃくざ の流 なが れであった。しかし、ヨハネ・パウロ1世 せい 以降 いこう 、この種 たね の古 ふる めかしい儀式 ぎしき は、教皇 きょうこう の就任 しゅうにん 時 じ に行 おこな われていない。
ラテン語 らてんご の「セーデ・ヴァカンテ」(使徒 しと 座 ざ 空位 くうい )という言葉 ことば は教皇 きょうこう 不在 ふざい (通常 つうじょう は教皇 きょうこう の死去 しきょ から次 つぎ の教皇 きょうこう の選出 せんしゅつ まで)の状態 じょうたい を指 さ す言葉 ことば である。この言葉 ことば から「使徒 しと 座 ざ 空位 くうい 主義 しゅぎ 者 しゃ 」と呼 よ ばれる人々 ひとびと の呼称 こしょう が生 う まれた。この人々 ひとびと は現代 げんだい に至 いた る数 すう 代 だい の教皇 きょうこう たちは不当 ふとう にその地位 ちい についていると考 かんが え、カトリック教会 きょうかい から離 はな れている。彼 かれ らから見 み れば現在 げんざい の状態 じょうたい は「使徒 しと 座 ざ 空位 くうい 」であるということになる。彼 かれ らがこのように唱 とな える最大 さいだい の理由 りゆう は第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ 以降 いこう の改革 かいかく が受 う け入 い れられないことにある。特 とく にトリエント・ミサ と呼 よ ばれる伝統 でんとう 的 てき なラテン語 らてんご ミサが現代 げんだい 化 か の流 なが れに沿 そ って各国 かっこく 語 ご で行 おこな われるようになったことが不満 ふまん なのである。このため、特 とく に第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ 以降 いこう 、複数 ふくすう の自称 じしょう 教皇 きょうこう (対立 たいりつ 教皇 きょうこう )が現 あらわ れている。
現在 げんざい 、教皇 きょうこう の不在 ふざい 時 じ (使徒 しと 座 ざ 空位 くうい )における対応 たいおう を定 さだ めているのは1996年 ねん のヨハネ・パウロ2世 せい による教皇 きょうこう 文書 ぶんしょ 『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。それによれば教皇 きょうこう 不在 ふざい 時 じ には首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう を中心 ちゅうしん に枢機卿 すうききょう 団 だん が集団 しゅうだん 指導 しどう 制 せい によってバチカン市 し 国 こく とカトリック教会 きょうかい 全体 ぜんたい を指導 しどう する。しかし教会 きょうかい 法 ほう では教皇 きょうこう 不在 ふざい 時 じ になんらかの重大 じゅうだい な決定 けってい や変更 へんこう を枢機卿 すうききょう 団 だん だけで行 おこな うことは禁止 きんし されている。教皇 きょうこう の承認 しょうにん を必要 ひつよう とする決定 けってい は新 しん 教皇 きょうこう の着座 ちゃくざ まで保留 ほりゅう される。
教皇 きょうこう の死 し の確認 かくにん に関 かん しては、首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう が教皇 きょうこう の本名 ほんみょう を三 さん 度 ど 呼 よ び、銀 ぎん のハンマーで額 がく を三 さん 度 ど たたくという方法 ほうほう によるとされていたが、あまりに時代 じだい 錯誤 さくご であると批判 ひはん の対象 たいしょう になっていた。但 ただ しこの半 はん 世紀 せいき の間 あいだ 、実際 じっさい にこの方法 ほうほう が用 もち いられたことは無 な いとされ、医師 いし による科学 かがく 的 てき 知見 ちけん に基 もと づいた死 し が確認 かくにん された後 のち に「伝統 でんとう 的 てき な儀式 ぎしき 」として行 おこな われ、この時点 じてん で首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう が教皇 きょうこう の右手 みぎて から指輪 ゆびわ 印章 いんしょう 「漁師 りょうし の指輪 ゆびわ 」を外 はず す。
パウロ6世 せい の場合 ばあい は、晩年 ばんねん になって自 みずか ら指輪 ゆびわ をはずしていたが、通常 つうじょう は教皇 きょうこう の死去 しきょ 時 じ に指輪 ゆびわ がはずされる。指輪 ゆびわ には教皇 きょうこう の印章 いんしょう が彫 ほ られているため、悪用 あくよう を防 ふせ ぐために破壊 はかい されることになっている。
教皇 きょうこう の遺体 いたい はすぐ埋葬 まいそう されず、数日 すうじつ 間 あいだ 聖堂 せいどう などに安置 あんち される。20世紀 せいき の教皇 きょうこう たちはみなサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう に安置 あんち されてきた。教皇 きょうこう 庁 ちょう は埋葬 まいそう 後 ご 、九 きゅう 日間 にちかん の喪 も に服 ふく すことになる。これをラテン語 らてんご で「ノヴェム・ディアリス」という。
教会 きょうかい 法 ほう 332条 じょう 第 だい 二 に 項 こう によれば、教皇 きょうこう が辞任 じにん (退位 たいい )するために必要 ひつよう な条件 じょうけん はあくまで自発 じはつ 的 てき な辞任 じにん であることと、定 さだ められた手続 てつづ きを守 まも ることである。ヨハネ・パウロ2世 せい までは事実 じじつ 上 じょう の終身 しゅうしん 制 せい となっており[7] 、教皇 きょうこう の自発 じはつ 的 てき 辞任 じにん は直近 ちょっきん で600年 ねん ほど例 れい がなかった[8] 。
しかしベネディクト16世 せい は2013年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、高齢 こうれい を理由 りゆう として2013年 ねん 2月 がつ 28日 にち 午後 ごご 8時 じ をもって辞任 じにん すると宣言 せんげん し、そのまま辞任 じにん が成立 せいりつ した。辞任 じにん 後 ご の教皇 きょうこう は名誉 めいよ 教皇 きょうこう (Pope emeritus)と呼 よ ばれ聖 せい 下 した の尊称 そんしょう も維持 いじ される。
辞任 じにん 後 ご は死去 しきょ 時 じ 同様 どうよう であるが、服喪 ふくも がないことが大 おお きな違 ちが いである。ベネディクト16世 せい は辞任 じにん 前 まえ に規定 きてい を追加 ついか し、全 ぜん 有権 ゆうけん 枢機卿 すうききょう がそろっていれば、コンクラーヴェ開始 かいし の前倒 まえだお しを可能 かのう とした(もちろん会場 かいじょう であるシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう の準備 じゅんび が整 ととの っている必要 ひつよう があるが)。
なお、2002年 ねん 6月 がつ と7月 がつ の二 に 度 ど にわたってヨハネ・パウロ2世 せい が教会 きょうかい 法 ほう にもとづいての辞任 じにん を検討 けんとう していたことがイタリアのメディアによって報道 ほうどう されたことがある。ヨハネ・パウロ2世 せい の遺言 ゆいごん でも2000年 ねん に80歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を迎 むか えたことを節目 ふしめ に真剣 しんけん に辞任 じにん を検討 けんとう していたと報 ほう じられているが、定 さだ かではない。ヨハネ・パウロ2世 せい は晩年 ばんねん 、さまざまな病 やまい で苦 くる しみ、職務 しょくむ を果 は たせないと考 かんが えていたようではあるが、最終 さいしゅう 的 てき に2005年 ねん 4月 がつ 2日 にち の死 し まで教皇 きょうこう 職 しょく にとどまることとなった。
バチカンの国 くに 章 あきら (三重 みえ 冠 かんむり 、天国 てんごく の鍵 かぎ (英語 えいご 版 ばん ) (Cross keys(交差 こうさ する金 かね の鍵 かぎ と銀 ぎん の鍵 かぎ ))
三重 みえ 冠 かんむり (Triregnum) はここ数 すう 代 だい の教皇 きょうこう たちは用 もち いていない(取 と り止 と められたのは1960年代 ねんだい 中頃 なかごろ から)が、古代 こだい 以来 いらい ローマ教皇 きょうこう のシンボルとなっている。教皇 きょうこう は典礼 てんれい 儀式 ぎしき の中 なか では司教 しきょう のしるしであるミトラ (司教 しきょう 冠 かんむり )をかぶっている。十字架 じゅうじか のついた杖 つえ も13世紀 せいき 以前 いぜん から用 もち いられている。またパリウム (幅 はば 二 に インチほどの布製 ぬのせい の輪 わ )がカズラ の上 うえ に着用 ちゃくよう される。
金 かね と銀 ぎん の二 ふた つの鍵 かぎ が交差 こうさ する形 かたち で描 えが かれる天国 てんごく の鍵 かぎ も教皇 きょうこう のシンボルとして用 もち いられている。そのうちの銀 ぎん の鍵 かぎ は現世 げんせい 的 てき な権威 けんい を、金 かね の鍵 かぎ は宗教 しゅうきょう 的 てき な権威 けんい を示 しめ している。漁師 りょうし だったペトロにちなんで「漁師 りょうし の指輪 ゆびわ 」と呼 よ ばれる金 かね の指輪 ゆびわ も教皇 きょうこう によって用 もち いられている。また、ウンブラクルム (unbracullum) として知 し られる教皇 きょうこう 用 よう の赤 あか と金 かね の線 せん が入 はい った傘 かさ の図柄 ずがら も用 もち いられることがある。
古代 こだい 以来 いらい 、長 なが きにわたって教皇 きょうこう のシンボルとして用 もち いられたものに教皇 きょうこう 用 よう 輿 こし (セディア・ゲスタトリア) がある。みこしのような土台 どだい に教皇 きょうこう の椅子 いす が備 そな え付 つ けられ、12人 にん の従者 じゅうしゃ によって運 はこ ばれる。さらに二人 ふたり の扇 おうぎ もちが付 つ き添 そ ってあおぐのが慣例 かんれい であった。教皇 きょうこう 用 よう 輿 こし はあまりに前 ぜん 時代 じだい 的 てき であるということでヨハネ・パウロ1世 せい も使用 しよう を嫌 いや がったが、ヨハネ・パウロ2世 せい によって正式 せいしき に廃止 はいし された。ヨハネ・パウロ2世 せい は移動 いどう 用 よう に教皇 きょうこう 用 よう オープンカー(パパモビル )を初 はじ めて用 もち いた。
教皇 きょうこう はまた独自 どくじ の紋章 もんしょう を持 も っている。図柄 ずがら は歴代 れきだい の各 かく 教皇 きょうこう 毎 ごと にそれぞれ違 ちが うが基本 きほん 的 てき な構成 こうせい はほぼ同 おな じであり、交差 こうさ して組 く まれた金 かね と銀 ぎん の鍵 かぎ 、三重 みえ 冠 かんむり 、赤 あか い組紐 くみひも は必 かなら ず描 えが かれてきた。バチカン市 し 国 こく の旗 はた とされているのは黄色 おうしょく と白 しろ の旗 はた であり、教皇 きょうこう の三重 みえ 冠 かんむり がそこにも描 えが かれている。この旗 はた がはじめて現 あらわ れたのは1808年 ねん のことであり、それ以前 いぜん 、教皇 きょうこう 庁 ちょう は聖 せい 座 ざ の色 いろ である赤 あか と金 かね の旗 はた を使 つか っていた。
装備 そうび 品 ひん
教皇 きょうこう は、カトリック教会 きょうかい の長 ちょう (聖 せい 座 ざ )として宗教 しゅうきょう 上 じょう の権威 けんい と、バチカン市 し 国 こく の国家 こっか 元首 げんしゅ として国際 こくさい 法 ほう 上 じょう の権威 けんい の両方 りょうほう を保持 ほじ している。数 かず 百 ひゃく 年 ねん の長 なが きにわたり、教皇 きょうこう 庁 ちょう (ローマの聖 せい 座 ざ )はカトリック教会 きょうかい の枢要 すうよう 機関 きかん として機能 きのう してきた。
「聖 せい 座 ざ 」(Sancta Sedes) あるいは「使徒 しと 座 ざ 」というい方 いかた は、教会 きょうかい 用語 ようご でローマ教皇 きょうこう (と教皇 きょうこう 庁 ちょう 全体 ぜんたい )の特別 とくべつ な権威 けんい を示 しめ すものである。歴史 れきし 上 じょう 、ローマ教皇 きょうこう 座 ざ 以外 いがい では例外 れいがい 的 てき にマインツ大司教 だいしきょう 座 ざ についても「聖 せい 座 ざ 」の称号 しょうごう が用 もち いられたが、1802年 ねん に大司教 だいしきょう の位 い を廃 はい されて以降 いこう のマインツ司教 しきょう は特別 とくべつ な権威 けんい を失 うしな い、現在 げんざい ではこのような呼 よ び方 かた は一般 いっぱん 的 てき ではない。
国際 こくさい 社会 しゃかい とカトリック教会 きょうかい の中 なか で認 みと められてきた教皇 きょうこう の特別 とくべつ な権威 けんい ・栄誉 えいよ ・特権 とっけん は、すべて使徒 しと の頭 あたま ペトロの権威 けんい から引 ひ き継 つ がれたものとみなされてきた。ペトロの権威 けんい によってローマはカトリック教会 きょうかい の中 なか で中心 ちゅうしん 的 てき な位置 いち を占 し めることになった。
ローマ教皇 きょうこう はあくまでローマ司教 しきょう としてその権威 けんい を行使 こうし するが、ローマに住 す むことが必須 ひっす というわけではない。ラテン語 らてんご の定式 ていしき 「Ubi Papa, ibi Curia」(教皇 きょうこう が住 す むところは、どこでも教会 きょうかい の中央 ちゅうおう 政府 せいふ である)というい方 いかた は、教皇 きょうこう がカトリック教会 きょうかい の中心 ちゅうしん 都市 とし に住 す む限 かぎ りローマ司教 しきょう であり続 つづ けることができることを示 しめ している。たとえば1309年 ねん から1378年 ねん にかけて教皇 きょうこう 座 ざ はアヴィニョン におかれていた(アヴィニョン教皇 きょうこう 庁 ちょう )が、これは古代 こだい イスラエル の故事 こじ になぞらえて「教会 きょうかい のバビロン捕 と 囚 しゅう 」あるいは「アヴィニョン捕 と 囚 しゅう 」とよばれた。
現在 げんざい の教皇 きょうこう の司教 しきょう 座 ざ 聖堂 せいどう はサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大 だい 聖堂 せいどう であり、公邸 こうてい はバチカン宮殿 きゅうでん である。また避暑 ひしょ 用 よう の別荘 べっそう として(古代 こだい の都市 とし アルバ・ロンガ の近 ちか く)カステル・ガンドルフォ に別荘 べっそう を持 も っている。歴史 れきし 上 じょう では、教皇 きょうこう は長 なが きにわたってラテラン宮殿 きゅうでん を在所 ざいしょ としており、避暑 ひしょ 用 よう の施設 しせつ はクイリナーレ宮殿 きゅうでん であった。クイリナーレ宮殿 きゅうでん はその後 ご 、イタリア王 おう の宮殿 きゅうでん を経 へ て、大統領 だいとうりょう 公邸 こうてい になっている。
現在 げんざい の教皇 きょうこう の地位 ちい を規定 きてい しているのは第 だい 1バチカン公 こう 会議 かいぎ (1870年 ねん )で採択 さいたく された教義 きょうぎ 憲章 けんしょう 「キリストの教会 きょうかい 」である。同 どう 憲章 けんしょう の第 だい 一 いち 章 しょう は「ペトロに由来 ゆらい する使徒 しと 的 てき 首位 しゅい 性 せい 」というタイトルで、「福音 ふくいん 書 しょ からも、主 しゅ キリストが使徒 しと ペトロに他 た の人々 ひとびと に優越 ゆうえつ する権威 けんい を与 あた えたことは明 あき らかである」(第 だい 1節 せつ )と述 の べ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒 しと のかしらとされ、教会 きょうかい の目 め にみえるしるしとして立 た てられたということを認 みと めず、そのイエスからの直接 ちょくせつ の権威 けんい が単 たん に名誉 めいよ 的 てき なものだけで実質 じっしつ 的 てき な意味 いみ を持 も たないという者 もの は教会 きょうかい から排斥 はいせき される。」としている。(「~は教会 きょうかい から排斥 はいせき される」という表現 ひょうげん はアナテマ と呼 よ ばれるもので、古代 こだい 以来 いらい 、第 だい 1バチカン公 こう 会議 かいぎ にいたるまで用 もち いられ、カトリック教会 きょうかい が教義 きょうぎ について述 の べた文章 ぶんしょう に必 かなら ず添 そ えられる定型 ていけい 文 ぶん であった。)
第 だい 二 に 章 しょう 「聖 せい 座 ざ におけるペトロの権威 けんい の存続 そんぞく について」では、「主 しゅ キリストがペトロに与 あた えた権威 けんい は永続 えいぞく 的 てき なもので、『岩 いわ の上 うえ にたてられた』教会 きょうかい として存続 そんぞく し、『おわりの時 とき 』まで続 つづ くものである」と述 の べ、「ペトロの座 ざ を引 ひ き継 つ いだ者 もの は誰 だれ でもキリストに由来 ゆらい する権威 けんい を保持 ほじ し、全 ぜん 教会 きょうかい に対 たい する首位 しゅい 性 せい を有 ゆう する」とする。よって「この権威 けんい がキリストの意図 いと によるものでなく、ペトロの権威 けんい は永遠 えいえん のものであることを認 みと めない者 もの 、ローマの聖 せい 座 ざ がペトロの権威 けんい を継承 けいしょう していないという者 もの は教会 きょうかい から排斥 はいせき される」という。
第 だい 三 さん 章 しょう 「ローマの聖 せい 座 ざ の有 ゆう する首位 しゅい 権 けん の力 ちから と性質 せいしつ 」では、「フィレンツェ公 おおやけ 会議 かいぎ においてローマの聖 せい 座 ざ 、使徒 しと 座 ざ は世界 せかい の教会 きょうかい におよぶ首位 しゅい 性 せい を持 も ち、ローマの聖 せい 座 ざ が使徒 しと の長 なが 、キリストの代理 だいり であるペトロの権威 けんい を引 ひ き継 つ ぎ、全 ぜん 教会 きょうかい の父 ちち ・教師 きょうし たる地位 ちい を持 も つ旨 むね が宣言 せんげん されている」とし、「この聖 せい 座 ざ の布告 ふこく にもとづいて、ローマ教会 きょうかい は他 た の教会 きょうかい に対 たい しても卓越 たくえつ した地位 ちい を保持 ほじ する」としている。
教皇 きょうこう の力 ちから は同 どう 憲章 けんしょう の3章 しょう などに定 さだ められている。それは「信仰 しんこう の最高 さいこう の判定 はんてい 者 しゃ であり、信仰 しんこう の問題 もんだい についての決定 けってい 権 けん を持 も つ。すなわち聖 せい 座 ざ としての決定的 けっていてき な布告 ふこく は、誰 だれ も覆 くつがえ すことができない」というものである。これは同 どう じ公 こう 会議 かいぎ で布告 ふこく された教皇 きょうこう 不可 ふか 謬性の問題 もんだい と密接 みっせつ な関連 かんれん を持 も っている。
第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ 以前 いぜん のカトリック教会 きょうかい では「救 すく いのためにはローマの聖 せい 座 ざ とのかかわりが必要 ひつよう である(教皇 きょうこう ボニファティウス8世 せい の言葉 ことば )」と伝統 でんとう 的 てき に教 おし えており、この考 かんが え方 かた はよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会 きょうかい の外 そと に救 すく いなし)という言葉 ことば で表 あらわ されてきた。パウロ6世 せい も「教会 きょうかい の外 そと にいるものは聖霊 せいれい の恵 めぐ みを受 う けられない。カトリック教会 きょうかい は現代 げんだい に生 い きるキリストの体 からだ である。だからこそ、もしそこから離 はな れてしまえば聖霊 せいれい の恵 めぐ みを得 え ることができないのである。」といっている。
しかし、この考 かんが え方 かた はカトリック教会 きょうかい 以外 いがい の人 ひと だけでなく、肝心 かんじん のカトリック教会 きょうかい の中 なか でも誤解 ごかい されてきた。歴代 れきだい の教皇 きょうこう たちは「カトリック教会 きょうかい の中 なか にいる人々 ひとびと は救 すく いにつながっている」といっている一方 いっぽう で「カトリック教会 きょうかい と縁 えん のない人々 ひとびと が救 すく われないというわけではない」ということをしばしば強調 きょうちょう している。ピウス9世 せい は回 かい 勅 みことのり 『クアント・コンフィカムル・モエロール』(1868年 ねん )でこう述 の べた、「わたしたちは、われわれの聖 せい なる宗教 しゅうきょう とかかわりのない人 ひと であっても、神 かみ によって全 すべ ての人 ひと の心 しん に書 か き込 こ まれた自然 しぜん 法 ほう に従 したが い、徳 とく に満 み ちた人生 じんせい を送 おく るなら、神 かみ の力 ちから と照 て らしによって永遠 えいえん の命 いのち に入 はい ることができるということを知 し っている。」
ヨハネ・パウロ2世 せい は『レデンプトーリス・ミッシオ』の中 なか で「現代 げんだい のみならず、過去 かこ においても、福音 ふくいん や教会 きょうかい について知 し る機会 きかい がなかった多 おお くの人々 ひとびと がいて、たとえ彼 かれ らがまったくキリスト教 きりすときょう と関 かか わることがなくても、神秘 しんぴ 的 てき な絆 きずな によって、キリストの救 すく いを受 う けてきたことは明 あき らかです。」といっている。
教皇 きょうこう のものとされ、実際 じっさい に行使 こうし されてきた権能 けんのう は以下 いか のとおりである。司教 しきょう の任命 にんめい 、教区 きょうく の設立 せつりつ と廃止 はいし 、教皇 きょうこう 庁 ちょう の職員 しょくいん の任命 にんめい 、教皇 きょうこう 庁 ちょう 文書 ぶんしょ の認可 にんか 、典礼 てんれい 祭儀 さいぎ の変更 へんこう 、教会 きょうかい 法 ほう の改定 かいてい 、列 れつ 福 ぶく と列聖 れっせい 、教会 きょうかい 裁判 さいばん の最高 さいこう 決定 けってい 権 けん 、回 かい 勅 みことのり の公布 こうふ 、(信仰 しんこう と道徳 どうとく に関 かん する事柄 ことがら についての)不可 ふか 謬な宣言 せんげん 、修道 しゅうどう 会 かい の承認 しょうにん と禁止 きんし 。ただ、これらの権能 けんのう を実際 じっさい に行 おこな うのは教皇 きょうこう 庁 ちょう のメンバーたちであり、実質 じっしつ 的 てき に教皇 きょうこう が行 おこな うのは最終 さいしゅう 的 てき な承認 しょうにん を与 あた えることだけである。
政治 せいじ 的 てき 役割 やくわり [ 編集 へんしゅう ]
4世紀 せいき にロ ろ ーマ帝国 まていこく ではキリスト教徒 きりすときょうと の数 かず が飛躍 ひやく 的 てき に増加 ぞうか したが、司教 しきょう が世俗 せぞく において何 なん らかの権力 けんりょく を獲得 かくとく することはなかった。ローマ司教 しきょう がその信徒 しんと に対 たい する影響 えいきょう 力 りょく によって帝国 ていこく の行政 ぎょうせい システムの中 なか で力 ちから を与 あた えられるようになっていったのは5世紀 せいき 以降 いこう のことである。教皇 きょうこう が政治 せいじ 的 てき な存在 そんざい 感 かん を初 はじ めて見 み せつけたのは452年 ねん にローマに侵入 しんにゅう してきたアッティラ を教皇 きょうこう レオ1世 せい が駆 か け引 ひ きのすえに撤退 てったい させることに成功 せいこう したことによってであった。
さらに754年 ねん にはフランク王国 おうこく のピピン3世 せい (小 しょう ピピン)が領土 りょうど の一部 いちぶ を教皇 きょうこう ステファヌス2世 せい に寄進 きしん したこと(ピピンの寄進 きしん )は、教皇 きょうこう の政治 せいじ 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく が無視 むし できないものになっていたことを示 しめ している。この土地 とち が後 こう の教皇 きょうこう 領 りょう の基礎 きそ となった。800年 ねん には教皇 きょうこう レオ3世 せい がフランク王国 おうこく のカール大帝 たいてい にローマ皇帝 こうてい としての王冠 おうかん を授 さづ けている。ここからのちに神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい として知 し られることになる王位 おうい の系譜 けいふ が始 はじ まる。これ以降 いこう 、ナポレオン が自分 じぶん 自身 じしん で王冠 おうかん をかぶるまで、教皇 きょうこう が王冠 おうかん を授 さづ ける権威 けんい を持 も ち、世俗 せぞく の王位 おうい はカトリック教 かとりっくきょう 会 かい によって承認 しょうにん されるものであるという伝統 でんとう がつくられていく。先 さき にのべた教皇 きょうこう 領 りょう はイタリア王国 おうこく の成立 せいりつ する1870年 ねん まで存続 そんぞく した。
教皇 きょうこう 領 りょう を保持 ほじ することで、教皇 きょうこう は領土 りょうど を持 も つ世俗 せぞく の君主 くんしゅ の一人 ひとり というだけでなく、全 ぜん キリスト教徒 きりすときょうと の長 なが という聖俗 せいぞく にわたる強力 きょうりょく な権威 けんい を持 も つことになった。淫蕩 いんとう の限 かぎ りをつくしたことで悪名 あくめい 高 たか いアレクサンデル6世 せい や、軍事 ぐんじ 的 てき 才能 さいのう を備 そな えて数 すう 度 ど の戦役 せんえき を闘 たたか ったユリウス2世 せい などが政治 せいじ 的 てき な権威 けんい を行使 こうし した教皇 きょうこう の代表 だいひょう 格 かく といえよう。またグレゴリウス改革 かいかく で知 し られるグレゴリウス7世 せい やアレクサンデル3世 せい などは神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の影響 えいきょう 下 か において教会 きょうかい 改革 かいかく を志 こころざ した宗教 しゅうきょう 的 てき な権威 けんい 者 しゃ として後代 こうだい に知 し られている。中世 ちゅうせい の教皇 きょうこう たちは回 かい 勅 みことのり によって政治 せいじ 的 てき な影響 えいきょう 力 りょく を行使 こうし したが、世界 せかい 史上 しじょう で特 とく に有名 ゆうめい な回 かい 勅 みことのり としてヘンリー2世 せい のアイルランド 侵攻 しんこう の根拠 こんきょ となった『ラウダビリテル』(1155年 ねん )、世界 せかい をスペイン とポルトガル で分割 ぶんかつ するトルデシリャス条約 じょうやく のもととなった『インテル・チェテラス』(1493年 ねん )、エリザベス1世 せい を破門 はもん し、家臣 かしん の臣従 しんじゅう の義務 ぎむ を解 と いた『レグナンス・イン・エクスケルシス 』(1570年 ねん )、グレゴリオ暦 れき を定 さだ めた『グラビッシマス』(1582年 ねん )などがある。
現代 げんだい の外交 がいこう 儀礼 ぎれい として、教皇 きょうこう の外国 がいこく 公式 こうしき 訪問 ほうもん の際 さい には、相手 あいて 国 こく の元首 げんしゅ が教皇 きょうこう の宿泊 しゅくはく 先 さき に出向 でむ いて挨拶 あいさつ を行 おこな う[注釈 ちゅうしゃく 5] [9] 。
教皇 きょうこう 位 い をめぐる議論 ぎろん [ 編集 へんしゅう ]
カトリック教会 きょうかい 内 ない [ 編集 へんしゅう ]
カトリック教会 きょうかい の中 なか において「教皇 きょうこう の権威 けんい 」は教義 きょうぎ として宣言 せんげん されたものである以上 いじょう 、その職務 しょくむ の権威 けんい を否定 ひてい することは認 みと められない。第 だい 1バチカン公 こう 会議 かいぎ では「カトリック教会 きょうかい において教皇 きょうこう の首位 しゅい 権 けん 、裁 たっ 治 ち 権 けん を認 みと めないものは分離 ぶんり される」というアナテマがはっきりと示 しめ された(ただ、教皇 きょうこう の地位 ちい の厳密 げんみつ な位置 いち づけについて議論 ぎろん することは認 みと められている)。
第 だい 1バチカン公 こう 会議 かいぎ で採択 さいたく された教皇 きょうこう 不可 ふか 謬 ・教皇 きょうこう 首位 しゅい に反対 はんたい するグループは、復古 ふっこ カトリック教会 きょうかい を形成 けいせい した。
カトリック教会 きょうかい 外 がい からの異論 いろん [ 編集 へんしゅう ]
カトリック教会 きょうかい の外 そと でははっきりとローマ教皇 きょうこう の権威 けんい については疑義 ぎぎ が示 しめ されることがある。その種 たね の疑義 ぎぎ をおおまかにまとめると次 つぎ のようになる。
ローマ教皇 きょうこう を認 みと めつつも、全 ぜん 世界 せかい の司教 しきょう たちの中 なか における首位 しゅい 権 けん への疑問 ぎもん
教皇 きょうこう 制度 せいど そのものへの疑問 ぎもん
ヨハネ23世 せい は回 かい 勅 みことのり 『パーチェム・イン・テリス』において、アッシリア東方 とうほう 教会 きょうかい 、東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい 、正教会 せいきょうかい 、聖 せい 公会 こうかい などの諸 しょ 教会 きょうかい は「使徒 しと からの継承 けいしょう 」という概念 がいねん を共通 きょうつう に持 も っているため、ローマ司教 しきょう たる教皇 きょうこう の持 も つ栄誉 えいよ ある地位 ちい を多 おお かれ少 すく なかれ認 みと めていると述 の べている(ここでいう「栄誉 えいよ ある地位 ちい 」というのは決 けっ して首位 しゅい 権 けん とイコールではない)。
しかしこの箇所 かしょ で言及 げんきゅう されている諸 もろ 教派 きょうは は、東方 とうほう 典礼 てんれい カトリック教会 きょうかい を除 のぞ き、ローマ教皇 きょうこう が他 た の司教 しきょう を超 こ えるペトロ の権威 けんい を継承 けいしょう しているということを認 みと めていないし、ペトロがローマに行 い ったということすら認 みと めないものもある。教皇 きょうこう の首位 しゅい 権 けん は、司教 しきょう 座 ざ としてのローマがロ ろ ーマ帝国 まていこく の首都 しゅと であったことにも由来 ゆらい することはカルケドン公 こう 会議 かいぎ の教 きょう 令 れい 第 だい 28条 じょう でも明示 めいじ されているため、教皇 きょうこう が全 ぜん 教会 きょうかい に対 たい し教導 きょうどう 権 けん を発揮 はっき することを認 みと めないのである。また、彼 かれ らは第 だい 1バチカン公 こう 会議 かいぎ を公 おおやけ 会議 かいぎ として認 みと めておらず、結果 けっか 的 てき にそこで採択 さいたく された教皇 きょうこう 不可 ふか 謬に関 かん する宣言 せんげん も無効 むこう である。
プロテスタント にとっては「使徒 しと 座 ざ の継承 けいしょう 」という考 かんが え方 かた すら受 う け入 い れがたいものである。このような人々 ひとびと から見 み れば、名誉 めいよ 的 てき なものであれ、教会 きょうかい 裁 さい 治 ち 権 けん 上 じょう のものであれ、聖書 せいしょ に書 か かれていない以上 いじょう 、ペトロの首位 しゅい 権 けん というものはありえない。また教皇 きょうこう 権 けん が西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく や東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく などの世俗 せぞく の権力 けんりょく と複雑 ふくざつ にかかわってきたことや、統一 とういつ イタリア王国 おうこく 成立 せいりつ 時 じ の教皇 きょうこう 領 りょう 接収 せっしゅう のあと長 なが く続 つづ いた政府 せいふ との確執 かくしつ などが教皇 きょうこう 権 けん というものへの歴史 れきし 的 てき な疑問 ぎもん 点 てん となっている。
西欧 せいおう においては教皇 きょうこう 権 けん のありかたに対 たい する不満 ふまん が宗教 しゅうきょう 改革 かいかく へいたるひとつの底流 ていりゅう となった。カトリック教会 きょうかい から離 はな れた教派 きょうは においては教皇 きょうこう の地位 ちい についての見解 けんかい はさまざまで、単 たん に全 ぜん 教会 きょうかい に対 たい する統治 とうち 権 けん を認 みと めないものから、黙示録 もくしろく に現 あらわ れる反 はん キリスト であると言 い う極端 きょくたん なものまである。
ほかにボルジア家 か 出身 しゅっしん のアレクサンデル6世 せい やカリストゥス3世 せい のような堕落 だらく した教皇 きょうこう の例 れい をあげて、堕落 だらく した人間 にんげん がこのような権威 けんい を持 も っていたことに疑問符 ぎもんふ をつけるものもある。そのような批判 ひはん 者 しゃ によれば全智 ぜんち 全能 ぜんのう の神 かみ が、このような堕落 だらく した人間 にんげん に聖 せい なる権威 けんい を与 あた えるはずがなく、「堕落 だらく した教皇 きょうこう 」というものの存在 そんざい することこそ教皇 きょうこう 位 い が神 かみ の意思 いし に由来 ゆらい するものでないことの証左 しょうさ であるという。これに対 たい する反論 はんろん としては、神 かみ が堕落 だらく した人間 にんげん にすら大 おお きな地位 ちい を与 あた えることがあることの証明 しょうめい として、古代 こだい イスラエル の王 おう たちや、使徒 しと の一人 ひとり でありながらイエスを裏切 うらぎ ったイスカリオテのユダ をあげる意見 いけん もある。またどれほど堕落 だらく した教皇 きょうこう であっても教皇 きょうこう 制度 せいど そのものが消滅 しょうめつ しなかったことを教皇 きょうこう 権 けん が神 かみ に守 まも られたものであることの証明 しょうめい であるというものもある。
正教会 せいきょうかい からの異論 いろん [ 編集 へんしゅう ]
正教会 せいきょうかい においては、ローマ・カトリックが主張 しゅちょう するようなローマ教皇 きょうこう (ロマの「パパ」 )の権限 けんげん は認 みと められない。正教会 せいきょうかい において現在 げんざい 名誉 めいよ 上 じょう の首位 しゅい にあるのは、「全 ぜん 地 ち 総 そう 主教 しゅきょう 」の称号 しょうごう を持 も つコンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう であるが、コンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう も絶対 ぜったい 的 てき な権限 けんげん を全 ぜん 正教会 せいきょうかい に行使 こうし している訳 わけ ではなく、各地 かくち に独立 どくりつ 正教会 せいきょうかい がある[10] 。
なお、日本 にっぽん 正教会 せいきょうかい では教皇 きょうこう (Papa) に相当 そうとう する訳語 やくご として"「パパ」 "(鉤 かぎ 括弧 かっこ を含 ふく めて一 いち 語 ご )という表記 ひょうき が用 もち いられ、「教皇 きょうこう 」の表記 ひょうき はあまり用 もち いられない(完全 かんぜん に用 もち いられない訳 わけ ではなく、用 もち いられている媒体 ばいたい も稀 まれ に存在 そんざい する)。
正教会 せいきょうかい からはローマ・カトリックの教会 きょうかい 論 ろん に対 たい して以下 いか のような異論 いろん がある[10] 。
ローマ・カトリックは、ローマ教皇 きょうこう の道徳 どうとく 的 てき な権威 けんい や調停 ちょうてい といった穏 おだ やかな権限 けんげん を、絶対 ぜったい 的 てき な権限 けんげん に変 か えている。
ローマ・カトリックにおいては、ローマ教皇 きょうこう の首位 しゅい は全 ぜん 教会 きょうかい の「原理 げんり ・根源 こんげん 」とされ(英国 えいこく 国教 こっきょう 会 かい 主教 しゅきょう への回 かい 勅 みことのり :1864年 ねん 9月 がつ 16日 にち )ているが、正教会 せいきょうかい においては、教会 きょうかい の唯一 ゆいいつ の「原理 げんり ・根源 こんげん 」はハリストス(キリスト) 以外 いがい に考 かんが えられない。
またペトロ の後継 こうけい という観点 かんてん については、正教会 せいきょうかい の教会 きょうかい 論 ろん では全 すべ ての主教 しゅきょう がペトロを受 う け継 つ ぐものである。これについては、全 すべ ての主教 しゅきょう は自分 じぶん の教会 きょうかい および他 た の全 すべ ての教会 きょうかい においてペトロの座 ざ にあるとする聖 せい キプリアヌス の考 かんが えが参照 さんしょう される。また聖 せい ニコラオス・カヴァシラス による以下 いか の指摘 してき にも言及 げんきゅう される[10] 。
教皇 きょうこう は使徒 しと ではないし、使徒 しと の統率 とうそつ 者 しゃ でもない。使徒 しと が他 た の使徒 しと を叙 じょ 聖 ひじり (叙 じょ 階 かい ) した事 こと は無 な い。司 つかさ 牧者 ぼくしゃ や学者 がくしゃ を叙 じょ 聖 ひじり したのみである。
ペトロは全 ぜん 教会 きょうかい の師 し であるが、教皇 きょうこう はローマの主教 しゅきょう (総 そう 主教 しゅきょう )に過 す ぎない。
ペトロはアンティオキアやアレクサンドリアで主教 しゅきょう を叙 じょ 聖 ひじり (叙 じょ 階 かい )する事 こと が出来 でき たが、ローマ主教 しゅきょう にはそれは出来 でき ない。
ペトロはローマの主教 しゅきょう を叙 じょ 聖 ひじり (叙 じょ 階 かい )したが、教皇 きょうこう が教皇 きょうこう をペトロの後継 こうけい 者 しゃ に任 にん じる事 こと は出来 でき ない。
ただし、古代 こだい から現代 げんだい に至 いた るまで正教会 せいきょうかい は教皇 きょうこう の首位 しゅい 性 せい と地位 ちい についてローマカトリック側 がわ と見解 けんかい を異 こと にしてきた一方 いっぽう で、東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ 以前 いぜん のローマ教皇 きょうこう で聖人 せいじん となっていた者 もの については正教会 せいきょうかい も崇敬 すうけい している(例 れい :クレメンス1世 せい 、グレゴリウス1世 せい など)。
称号 しょうごう の変遷 へんせん とその他 た の「教皇 きょうこう 」[ 編集 へんしゅう ]
パルマリアン・カトリック教会 きょうかい (英語 えいご 版 ばん ) は、1978年 ねん 以来 いらい 、4代 だい にわたって教皇 きょうこう 位 い を主張 しゅちょう している(2018年 ねん 現在 げんざい )。
古代 こだい 教会 きょうかい では「papa/πάπας [注釈 ちゅうしゃく 6] 」というのは一般 いっぱん 的 てき な司教 しきょう に対 たい する敬称 けいしょう であったが、徐々 じょじょ にローマ司教 しきょう とアレクサンドリア主教 しゅきょう に限定 げんてい される称号 しょうごう になっていった。今日 きょう も、ローマ教皇 きょうこう 以外 いがい で公式 こうしき に Papa/Πάπας という称号 しょうごう で呼 よ ばれるのは、正教会 せいきょうかい (東方 とうほう 正教会 せいきょうかい )の(ギリシア・)アレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう と、コプト正教会 せいきょうかい の首長 しゅちょう である(コプト・)アレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう だけである(両者 りょうしゃ は別 べつ 組織 そしき であり、それぞれ別人 べつじん を立 た てる)。
エウセビウス『教会 きょうかい 史 し 』によればアレクサンドリア 主教 しゅきょう に3世紀 せいき ごろから Papa/Πάπας の称号 しょうごう が用 もち いられ、のち他 た の都市 とし にも主教 しゅきょう の称号 しょうごう として波及 はきゅう したが、やがてアレクサンドリア主教 しゅきょう とローマ司教 しきょう の二 に 者 しゃ にのみ用 もち いられるようになった。これは当時 とうじ の東方 とうほう 教会 きょうかい (東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう )と西方 せいほう 教会 きょうかい (西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう )のそれぞれ中心 ちゅうしん 地 ち であった。現在 げんざい でも、正教会 せいきょうかい やコプト正教会 せいきょうかい ではこの習慣 しゅうかん を守 まも り、ローマ司教 しきょう と自 じ 派 は のアレクサンドリア総 そう 主教 しゅきょう の双方 そうほう を Papa/Πάπας 称号 しょうごう の保持 ほじ 者 しゃ とみなしている。
一方 いっぽう 、中世 ちゅうせい 以降 いこう のカトリック教会 きょうかい において、教皇 きょうこう は「ローマ司教 しきょう 」にしか使用 しよう せず、単 たん に「教皇 きょうこう (Papa)」と呼 よ べばそれはローマ教皇 きょうこう を意味 いみ する。なおカトリックでは「聖 せい 下 した 」(His Holiness )はかつてローマ教皇 きょうこう のみの敬称 けいしょう であったが、第 だい 2バチカン公 こう 会議 かいぎ 以降 いこう 、上記 じょうき のアレクサンドリア教皇 きょうこう を含 ふく む東方 とうほう 教会 きょうかい の総 そう 主教 しゅきょう などの高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ にも用 もち いている。
カトリック教会 きょうかい の公式 こうしき な認定 にんてい と関係 かんけい なく教皇 きょうこう 位 い を宣言 せんげん する者 もの を、対立 たいりつ 教皇 きょうこう という。通常 つうじょう 、対立 たいりつ 教皇 きょうこう が生 う まれる背景 はいけい には、カトリック教会 きょうかい 内 ない の論争 ろんそう や特定 とくてい の教皇 きょうこう の正統 せいとう 性 せい をめぐって紛糾 ふんきゅう する事態 じたい が存在 そんざい する(教会 きょうかい 大分 おおいた 裂 きれ )。対立 たいりつ 教皇 きょうこう が多発 たはつ した中世 ちゅうせい において、正統 せいとう な教皇 きょうこう 以外 いがい に教皇 きょうこう を名乗 なの る人物 じんぶつ が現 あらわ れるのは、宗教 しゅうきょう だけでなく政治 せいじ をもまきこむ大 だい 問題 もんだい であった。
カトリック教会 きょうかい 内 ない で大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も つイエズス会 かい の総長 そうちょう は、かつて「黒 くろ い教皇 きょうこう 」と呼 よ ばれることがあった。これはイエズス会 かい 士 し が質素 しっそ な黒 くろ いスータンを着 き ていたことと、教皇 きょうこう は常 つね に白 しろ い服 ふく を着 き ることに由来 ゆらい している。
教皇 きょうこう 庁 ちょう の一 いち 機関 きかん である福音 ふくいん 宣教 せんきょう 省 しょう の長官 ちょうかん (枢機卿 すうききょう )は「赤 あか い教皇 きょうこう 」と呼 よ ばれることがある。この職 しょく にあるものはアジアとアフリカ全域 ぜんいき の教会 きょうかい の責任 せきにん 者 しゃ であるため、教皇 きょうこう に匹敵 ひってき するほどの地位 ちい だという意味 いみ である。なお、「赤 あか 」は枢機卿 すうききょう の衣 ころも の色 いろ である。
日本語 にほんご での呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん カトリック教会 きょうかい の呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
現在 げんざい 、日本 にっぽん のカトリック教会 きょうかい の公式 こうしき な表記 ひょうき では、「教皇 きょうこう 」が用 もち いられている。信徒 しんと の間 あいだ では、親 した しみを込 こ めた敬称 けいしょう として「パパ様 さま 」という呼 よ び方 かた が使 つか われることがある[12] [13] [14] 。
日本 にっぽん のカトリック教会 きょうかい の中央 ちゅうおう 団体 だんたい であるカトリック中央 ちゅうおう 協議 きょうぎ 会 かい は、1981年 ねん の教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい の来日 らいにち 時 じ に、それまで混用 こんよう されてきた「教皇 きょうこう 」と「法王 ほうおう 」の呼称 こしょう を統一 とういつ するため、世俗 せぞく の君主 くんしゅ のイメージの強 つよ い「王 おう 」という字 じ を含 ふく む「法王 ほうおう 」でなく「教皇 きょうこう 」への統一 とういつ を定 さだ めた。このとき、東京 とうきょう にある「ロ ろ ーマ法王 まほうおう 庁 ちょう 大使館 たいしかん 」においてもこれにあわせて「法王 ほうおう 庁 ちょう 」から「教皇 きょうこう 庁 ちょう 」への名称 めいしょう 変更 へんこう を行 おこな おうとしたが、日本 にっぽん 政府 せいふ から「日本 にっぽん における各国 かっこく 公館 こうかん の名称 めいしょう 変更 へんこう はクーデター などによる国名 こくめい 変更 へんこう 時 じ など、特別 とくべつ な場合 ばあい 以外 いがい は認 みと められない」として認 みと められず、「ロ ろ ーマ法王 まほうおう 庁 ちょう 大使館 たいしかん 」の名称 めいしょう のまま現在 げんざい へ至 いた っている[15] 。
一方 いっぽう で、2019年 ねん 11月のフランシスコ教皇 きょうこう 来日 らいにち を期 き に、日本 にっぽん 政府 せいふ は同年 どうねん 11月 がつ 20日 はつか 、従来 じゅうらい 「法王 ほうおう 」としていた呼称 こしょう を今後 こんご 「教皇 きょうこう 」に変更 へんこう すると発表 はっぴょう した。それに伴 ともな い、NHK や大手 おおて 新聞 しんぶん 各社 かくしゃ など一般 いっぱん メディアも追随 ついずい し、「教皇 きょうこう 」という呼称 こしょう に変 か える動 うご きが一気 いっき に広 ひろ まった[16] [17] 。
明治 めいじ 期 き 日本 にっぽん のカトリック教会 きょうかい では「教父 きょうふ 」という訳語 やくご を用 もち いた用例 ようれい が見 み られる[18] (なお、大正 たいしょう 期 き 以降 いこう の文献 ぶんけん には「教皇 きょうこう 」の語 かたり が見 み られる[19] )。また、つい近年 きんねん まで典礼 てんれい の中 なか では、現役 げんえき の教皇 きょうこう を「わたしたちの教父 きょうふ ○○」と呼 よ ぶ慣習 かんしゅう があった[20] [21] が、これもフランシスコ教皇 きょうこう 来日 らいにち を期 き に「わたしたちの教皇 きょうこう ○○」とい換 いか えられるようになった。
日本 にっぽん 政府 せいふ による呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
官報 かんぽう や外務省 がいむしょう の文書 ぶんしょ では、戦前 せんぜん から長 なが らく基本 きほん 的 てき には「法王 ほうおう 」の語 かたり が用 もち いられていたが、教皇 きょうこう が使用 しよう されないわけではなかった[22] [23] [24] 。コプト正教会 せいきょうかい の長 なが に対 たい しては「コプト教皇 きょうこう 」の呼称 こしょう を用 もち いている[25] [26] 。
2018年 ねん には、立憲 りっけん 民主党 みんしゅとう 所属 しょぞく 衆議院 しゅうぎいん 議員 ぎいん の山内 やまうち 康一 やすいち が衆議院 しゅうぎいん 予算 よさん 委員 いいん 会 かい において「教皇 きょうこう 」に変更 へんこう するべきではないかと質問 しつもん を行 おこな っている。これを受 う けて外務省 がいむしょう はバチカンとロ ろ ーマ法王 まほうおう 庁 ちょう 大使館 たいしかん に問 と い合 あ わせを行 おこな ったが、いずれも変更 へんこう を求 もと めていないという回答 かいとう を得 え ている。河野 こうの 太郎 たろう 外務 がいむ 大臣 だいじん (当時 とうじ )はグルジアからジョージア へ変更 へんこう を行 おこな った事例 じれい のように、変更 へんこう の要求 ようきゅう があった場合 ばあい にはしっかりと対応 たいおう していくと答弁 とうべん していた[27] 。2019年 ねん 11月23日 にち から教皇 きょうこう フランシスコ が日本 にっぽん を訪問 ほうもん することを受 う け、政府 せいふ は11月20日 にち に「教皇 きょうこう 」への呼称 こしょう 変更 へんこう を発表 はっぴょう した[28] [29] 。
マスメディアの呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
NHK では、「ロ ろ ーマ法王 まほうおう 」「法王 ほうおう 」が慣用 かんよう 的 てき に使 つか われ、一般 いっぱん に定着 ていちゃく しているとして原則 げんそく 的 てき には「法王 ほうおう 」の呼称 こしょう を用 もち いるとしていた[30] が、日本 にっぽん のカトリック関係 かんけい 者 しゃ を中心 ちゅうしん に「教皇 きょうこう 」と呼 よ ばれていること、2019年 ねん 11月22日 にち の教皇 きょうこう フランシスコの訪日 ほうにち にあわせて日本 にっぽん 政府 せいふ が「教皇 きょうこう 」に呼称 こしょう 変更 へんこう したことを踏 ふ まえ、「ローマ教皇 きょうこう 」の呼称 こしょう に変更 へんこう した[31] 。また、読売新聞 よみうりしんぶん 、朝日新聞 あさひしんぶん 、毎日新聞 まいにちしんぶん 、産経新聞 さんけいしんぶん 、日本経済新聞 にほんけいざいしんぶん といった主要 しゅよう 紙 し 、共同通信 きょうどうつうしん 、時事通信 じじつうしん も「ローマ教皇 きょうこう 」の呼称 こしょう に表記 ひょうき を変更 へんこう した[32] [17] 。
各国 かっこく 語 ご での呼称 こしょう [ 編集 へんしゅう ]
聖 せい 座 ざ からの公式 こうしき 中国語 ちゅうごくご 訳 やく は「教 きょう 宗 むね 」(きょうそう)であるほか、「教皇 きょうこう 」という訳語 やくご も中国語 ちゅうごくご 圏 けん で使 つか われる。韓国 かんこく 語 ご では「교황 (敎皇 きょうこう 、キョファン)」である。
英語 えいご では「The Pope」、「The Pontiff」、または「Father」[33] 。「supreme pontiff」(ラテン語 らてんご : pontifex maximus )とも。
教皇 きょうこう の公用 こうよう 車 しゃ の一 ひと つでメルセデス・ベンツ・Gクラス を改造 かいぞう したものは「教皇 きょうこう 車 しゃ 」(パパモビル )と呼 よ ばれる。
教皇 きょうこう 名 めい は自由 じゆう に選 えら ぶことはできるが、ペトロの名前 なまえ を選 えら んだものはいない。
対立 たいりつ 教皇 きょうこう を除 のぞ き、最 もっと も多 おお く選 えら ばれた教皇 きょうこう 名 めい は「ヨハネス (ヨハネ)」の22人 にん である。次 つ いで「グレゴリウス (グレゴリオ)」と「ベネディクトゥス (ベネディクト)」が16人 にん ずつとなっている。
かつては、歴史 れきし の混乱 こんらん で「17世 せい 」以降 いこう がひとつ多 おお くカウントされていた。その後 ご この過 あやま ちは修正 しゅうせい されて「17世 せい 」から「20世 せい 」はそれぞれ代数 だいすう が1つずつ若返 わかがえ って「16世 せい 」から「19世 せい 」となったが、21世 せい 以降 いこう の3名 めい は修正 しゅうせい されないまま残 のこ ってしまっている。よって「ヨハネス20世 せい 」が実在 じつざい しないため、現時点 げんじてん で最後 さいご に「ヨハネス」を名乗 なの った教皇 きょうこう はヨハネス23世 せい (ヨハネスとしては22代目 だいめ )となっている。
「ヨハネス」を複 ふく 合名 ごうめい に使用 しよう して名乗 なの った教皇 きょうこう が2人 にん いる(ヨハネ・パウロ1世 せい とヨハネ・パウロ2世 せい )ので、これをカウントに入 い れると「ヨハネス」を名乗 なの った教皇 きょうこう は合計 ごうけい 24人 にん となる。
完全 かんぜん なオリジナルの教皇 きょうこう 名 めい を名乗 なの った最新 さいしん の教皇 きょうこう は、2013年 ねん 3月 がつ に選出 せんしゅつ された現 げん 教皇 きょうこう フランシスコ である。それまでは長 なが らくランド がその記録 きろく の保持 ほじ 者 しゃ だった。
最 もっと も若 わか く教皇 きょうこう になったのは、18歳 さい のヨハネス12世 せい である。
1295年 ねん 以降 いこう で最 もっと も高齢 こうれい で教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ されたのは、79歳 さい のクレメンス10世 せい である。
1295年 ねん 以降 いこう で最 もっと も長寿 ちょうじゅ だった教皇 きょうこう は、93歳 さい で亡 な くなったレオ13世 せい である。
史実 しじつ で確認 かくにん される範囲 はんい で在任 ざいにん 期間 きかん が最 もっと も長 なが かったのは、31年 ねん 7ヶ月 かげつ のピウス9世 せい (1846年 ねん 6月16日 にち - 1878年 ねん 2月 がつ 7日 にち )である。
在位 ざいい 期間 きかん が最 もっと も短 みじか かったのはウルバヌス7世 せい で、僅 わず か13日 にち (1590年 ねん 9月15日 にち - 9月27日 にち )である。これは選出 せんしゅつ されて間 ま もなくマラリア に罹 かか り、教皇 きょうこう 着座 ちゃくざ 式 しき すら出来 でき ずに病没 びょうぼつ したため。
2016年 ねん 2月 がつ 12日 にち に、ロシア正教会 せいきょうかい 総 そう 主教 しゅきょう と約 やく 1000年 ねん ぶりの歴史 れきし 的 てき 会談 かいだん [34] を行 おこな った。
古代 こだい 中世 ちゅうせい 近世 きんせい 近代 きんだい 現代 げんだい
一覧 いちらん
^1 教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ 者 しゃ 。正式 せいしき な教皇 きょうこう に数 かぞ えず
種別 しゅべつ 大陸 たいりく 別 べつ
§ イギリス国王 こくおう が兼 か ねる。
西 にし ヨーロッパ東 ひがし ヨーロッパ南 みなみ ヨーロッパ北 きた ヨーロッパ国家 こっか 承認 しょうにん を得 え た国連 こくれん 非 ひ 加盟 かめい の国 くに と地域 ちいき 関連 かんれん 項目 こうもく
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