教皇きょうこう

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ローマ教皇きょうこうから転送てんそう
バチカンの旗 バチカンこく
教皇きょうこう
Pāpa
在位ざいいちゅう教皇きょうこう
だい266だい教皇きょうこう
フランシスコ

2013ねん3月13にちより
詳細しょうさい
初代しょだい ペトロ
成立せいりつ 33ねん?
宮殿きゅうでん公務こうむ
バチカン宮殿きゅうでん
住居じゅうきょ
サン・マルタかん
ウェブサイト vatican.va
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称号しょうごう教皇きょうこう
敬称けいしょう せいした猊下げいか台下だいか
ラテン語らてんご: Sua Sanctitas
英語えいご: His Holiness
ローマ司教しきょうラテン語らてんご: Episcopus Romanus
キリストの代理人だいりにんラテン語らてんご: Vicarius Christi
使徒しとのかしら(あたま)の継承けいしょうしゃラテン語らてんご: Successor principis apostolorum
ぜん世界せかいのカトリック教会きょうかい統治とうちしゃラテン語らてんご: Caput Universalis Ecclesiae
イタリア半島はんとう首座しゅざ司教しきょうラテン語らてんご: Primas Italiae
ローマ首都しゅと管区かんく大司教だいしきょうラテン語らてんご: Archiepiscopus et metropolitanus provinciae ecclesiasticae Romanae
バチカンこく首長しゅちょうラテン語らてんご: Princeps sui iuris Civitatis Vaticanae
かみのしもべ(ぼく)のしもべ(ラテン語らてんご: Servus Servorum Dei

教皇きょうこう(きょうこう、ラテン語らてんご: Pāpa[1] / Pontifex[2]イタリア: Papaギリシア: Πάπας Pápas[3]英語えいご: The Pope / The Pontiff[4])は、カトリック教会きょうかい最高さいこう聖職せいしょくしゃ称号しょうごう[5]

一般いっぱんてきにはカトリック教会きょうかいローマ司教しきょうにしてぜん世界せかいのカトリック教徒きょうと精神せいしんてき指導しどうしゃであるローマ教皇きょうこう(ローマきょうこう)をす。バチカンこく元首げんしゅ教皇きょうこう地位ちいは「教皇きょうこう」あるいは「教皇きょうこう」とばれる。また「せい[注釈ちゅうしゃく 1]あるいは「使徒しと[注釈ちゅうしゃく 2]という用語ようご使つかわれる。「せい」と「使徒しと」は中世ちゅうせい教会きょうかいほう学者がくしゃたちによって形成けいせいされた概念がいねんで、だいいち教皇きょうこうすが、広義こうぎにおいては教皇きょうこうちょうをも[6]2013ねん3月13にちからはフランシスコ教皇きょうこうつとめている。

日本語にほんごでは「マ法王まほうおう」(ローマほうおう)と表記ひょうきされることもおおいが、日本にっぽんカトリック教会きょうかい中央ちゅうおう団体だんたいであるカトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかいは「ローマ教皇きょうこう」の表記ひょうき推奨すいしょうしており、日本にっぽん政府せいふは2019ねんに「法王ほうおう」から「教皇きょうこう」へ呼称こしょう変更へんこう発表はっぴょうした(後述こうじゅつ)。また、カトリックの内部ないぶでは「教父きょうふ」「パパさま」の呼称こしょうもちいる場合ばあいもある。なお、退位たいいした教皇きょうこう称号しょうごう名誉めいよ教皇きょうこう名誉めいよ法王ほうおうとも)ともいわれる。

ほんこうではおもローマ教皇きょうこうについて記述きじゅつする。

概説がいせつ[編集へんしゅう]

初期しょきのローマ司教しきょうたちはペトロ後継こうけいしゃ、ペトロの代理だいりしゃにんじていたが、時代じだいくだって教皇きょうこう権威けんいすにしたがって、みずからをもって「イエス・キリスト代理だいりしゃ」とひょうすようになっていった。「キリストの代理だいりしゃ」という称号しょうごうはじめて歴史れきしじょうにあらわれるのは495ねんで、ローマの司教しきょう会議かいぎにおいて教皇きょうこうゲラシウス1せいしてもちいられたものがもっとも初期しょきれいである。これは五大ごだいそう大司教だいしきょう(ローマ、アンティオキアエルサレムコンスタンティノープルアレクサンドリア)のなかにおけるローマ司教しきょう優位ゆういしめすものとしてもちいられた。

教皇きょうこうはカトリック教会きょうかい全体ぜんたい首長しゅちょうという宗教しゅうきょうてき地位ちいのみならず、ローマ市内しないにある世界せかい最小さいしょう独立どくりつ国家こっかバチカン首長しゅちょうという国家こっか元首げんしゅたる地位ちいをもになっている。1870ねんのイタリア半島はんとう統一とういつ以前いぜんには教皇きょうこう政治せいじてき権威けんいおよ領域りょういきはさらにひろく、教皇きょうこうりょうばれていた。教皇きょうこうりょう成立せいりつ根拠こんきょとされた「コンスタンティヌスの寄進きしんじょう」が偽書ぎしょであることは15世紀せいき以降いこうひろられていたが、教皇きょうこうりょうそのものはイタリア統一とういつまで存続そんぞくした。1870ねん以降いこう教皇きょうこうちょうとイタリア政府せいふ断絶だんぜつ状態じょうたいおちいったため、教皇きょうこう政治せいじてき位置いちづけはあやふやであったが1929ねんむすばれたラテラノ条約じょうやくによってようやくイタリア政府せいふとの和解わかいた。

現在げんざい教皇きょうこうアルゼンチン出身しゅっしんフランシスコ在位ざいい:2013ねん - )である。史上しじょうはつアメリカ大陸あめりかたいりく出身しゅっしん教皇きょうこうでありイエズスかい出身しゅっしん教皇きょうこうである。先代せんだい教皇きょうこうベネディクト16せい在位ざいい:2005ねん - 2013ねん)はドイツ出身しゅっしんであり、先々さきざきだい教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい在位ざいい:1978ねん - 2005ねん)はポーランド出身しゅっしんとイタリアじん・イタリア以外いがい地域ちいき出身しゅっしん教皇きょうこうが3だいつづいている。それ以前いぜんイタリアじん教皇きょうこう先例せんれいは、ドイツじんともオランダじんともいえるハドリアヌス6せい16世紀せいきヨーロッパ出身しゅっしん先例せんれいシリア出身しゅっしんグレゴリウス3せいまでさかのぼる。

称号しょうごう[編集へんしゅう]

教皇きょうこう年鑑ねんかん」によれば現在げんざい教皇きょうこうもちいられる公式こうしき称号しょうごうには以下いかのようなものがある。

バチカン年鑑ねんかん2006年版ねんばんからは、ローマ教皇きょうこう保持ほじしていたタイトル「西方せいほうそう大司教だいしきょう」(ラテン語らてんご: Patriarcha Occidentis)が「不正確ふせいかくで、歴史れきしてきにも時代遅じだいおくれ」との教皇きょうこう指示しじ削除さくじょされた。

ラテン語らてんご公式こうしき言語げんごである教会きょうかいほう正文せいぶんなかでは、教皇きょうこうは「Romanus Pontifex(ロマヌス・ポンティフェクス)」というあらわされる。「Pontifex」は、古代こだいローマ時代じだい最高さいこう神祇官じんぎかんからがれた名称めいしょうである「Pontifex Maximus(ポンティフェクス・マクシムス)」[注釈ちゅうしゃく 3]略称りゃくしょうである。「Pāpa(パーパ)」という呼称こしょう教皇きょうこうたいする非公式ひこうしきかたであり、ローマ教皇きょうこうほかにもアレクサンドリアそう主教しゅきょうたいしてももちいられる(後述こうじゅつ)が、「Pontifex」という称号しょうごうもっぱらローマ教皇きょうこうにのみもちいられる[注釈ちゅうしゃく 4]公式こうしきかたすべげるなら、「ローマ司教しきょう、キリストの代理だいりしゃ使徒しと継承けいしょうしゃぜんカトリック教会きょうかい統治とうちしゃ、イタリア半島はんとう首座しゅざ司教しきょう、ローマ首都しゅと管区かんく大司教だいしきょう、バチカンこく首長しゅちょうかみのしもべのしもべ」となる。このような長大ちょうだい正式せいしき名称めいしょうでよばれる機会きかいはほとんどない。

教皇きょうこう署名しょめい通常つうじょう教皇きょうこうめい○○、PP、○だい」というかたちおこなわれる。たとえばパウロ6せいなら「Paulus PP. VI」である。PPは Papa のりゃくである。また、Pontifex Maximus の略号りゃくごうである「P.M.」あるいは「Pont.Max.」という称号しょうごうくわえられることもある。かいみことのりなどの公式こうしき文書ぶんしょには正式せいしきに「教皇きょうこうめい、カトリック教会きょうかい司教しきょう (Episcopus Ecclesiae Catholicae)」と署名しょめいされる。

文頭ぶんとうにはよく「教皇きょうこうめい司教しきょうにしてかみのしもべのしもべ (Episcopus Servus Servorum Dei)」という署名しょめいまれる。この形式けいしきだい教皇きょうこうとよばれたグレゴリウス1せいにまでさかのぼるふるである。そのほかの称号しょうごうとして「summus pontifex」、「sanctissimus pater」(いたりせいなるちち)および「beatissimus pater」(もっとも祝福しゅくふくされたちち)、「sanctissimus dominus noster」(われらがもっともせいなる君主くんしゅ)などがある。中世ちゅうせいにおいては「dominus apostolicus」(使徒しとである君主くんしゅ)も使つかわれ、現在げんざいでもラテン語らてんご荘厳そうごんれんいのりなかで、そのかく変化へんかがたである「dominum apostolicum」とばれている。

変遷へんせん[編集へんしゅう]

初代しょだい教会きょうかい時代じだいから一貫いっかんしてローマ司教しきょう教皇きょうこうという特別とくべつ地位ちい保持ほじしたわけではなく、ペトロのローマ到着とうちゃく以降いこうかず世紀せいきをかけて徐々じょじょ発達はったつしていったということはカトリック教徒きょうとふくめてひろれられている。古代こだいのローマはマ帝国まていこく首都しゅととして初代しょだい教会きょうかい信徒しんとたちにとっても特別とくべつ場所ばしょであった。しかしそのころのローマ司教しきょう権威けんい影響えいきょうりょくはローマのそとへおよぶものではなかった。

ローマのクレメンス96ねんごろ、コリント信徒しんとへあてていた手紙てがみにローマ司教しきょう権威けんいかんする言及げんきゅうがあり、アンティオキアのイグナティオス105ねんごろにローマの信徒しんとへあてていた手紙てがみなかでローマ司教しきょうの「たっけん」にふれている。この「たっけん」について、あるものはこれこそが古代こだいからローマ司教しきょう特別とくべつ権威けんいっていたとかんがえるものと、たん名誉めいよてきなもので実際じっさいてき権威けんいはなかったというものがいる。

2世紀せいき189ねんごろ)になって、リヨンのエイレナイオスが『異端いたん反駁はんばく』3:3:2でローマ教会きょうかい首位しゅいけんについてべている。そこでは「ローマの教会きょうかい特別とくべつ起源きげんゆうし、しん使徒しと由来ゆらいする伝承でんしょうたもっていることはすべての教会きょうかいみとめられていることである。」とされている。この記述きじゅつ史上しじょうはじめてローマ教会きょうかい特別とくべつ地位ちいについて明確めいかくべたものであるが、ギリシャなどの東方とうほう地域ちいきにおいてはローマの首位しゅいれられていなかったとかんがえられる。とくにローマ皇帝こうていがローマをはなれてコンスタンティノープルにうつったあとでその傾向けいこう顕著けんちょとなった。381ねんだい1コンスタンティノープルこう会議かいぎにおいて教皇きょうこう出席しゅっせき見合みあわせたのも、その地位ちい権威けんいについてマ帝国まていこく東西とうざい見解けんかいかれていたからである。

はん世紀せいき440ねん着座ちゃくざしたレオ1せいだい教皇きょうこう時代じだいになるとローマ教皇きょうこうこそが、イエスから使徒しとペトロにあたえられ、ペトロから代々だいだいがれたぜん教会きょうかいおよ権威けんいっているという見解けんかい公式こうしきとなえられるようになる。451ねんカルケドンこう会議かいぎではレオ1せい使節しせつとおして「自分じぶんこえはペトロのこえである」とべた。当時とうじローマとコンスタンティノープルどちらかの権威けんいうえなのか議論ぎろんになっていたが、このおおやけ会議かいぎ席上せきじょう、コンスタンティノープル大司教だいしきょうは「コンスタンティノープルはあたらしいローマ」であるため「名誉めいよある地位ちいをローマにゆずるものである」という声明せいめいしたが、ローマがわからこと判断はんだんをうやむやにしているという意見いけんれられなかった。

世俗せぞく君主くんしゅとの関係かんけいでは8世紀せいきころまでひがしローマ皇帝こうてい主権しゅけんにあり、教義きょうぎ問題もんだい皇帝こうてい対立たいりつした教皇きょうこう逮捕たいほされ、流刑りゅうけいしょされるということもあった。8世紀せいきなかごろ教皇きょうこうりょう成立せいりつし、ひがしマ帝国まていこくから離脱りだつした。

カトリック教会きょうかいでは伝統でんとうてき教皇きょうこう地位ちい権威けんい聖書せいしょ由来ゆらいするものであるとしている。とく重視じゅうしされるのはマタイによる福音ふくいんしょの16:18-19のイエスのペトロにたいする言葉ことばである。

「シモン・バル・ヨナ。おまえ祝福しゅくふくされたものだ。このことはにくによってでなくてんにおられるちちによってしめされている。わたしはう、おまえはいわ(ペトロ)である。このいわうえわたし教会きょうかいをたてよう。ちからもこれにつことはできない。わたしはてんくにかぎさづける。あなたが地上ちじょうでつなぐものはてんでもつながれ、地上ちじょうくものはてんでもかれるのである。」

この箇所かしょから「天国てんごくかぎ」のデザインが教皇きょうこう紋章もんしょうれられている。

ただし、この聖書せいしょ箇所かしょについては、教皇きょうこうけん根拠こんきょとするこのようなローマ・カトリック教会きょうかいにおける解釈かいしゃくは、正教会せいきょうかいプロテスタントではれられていない。

継承けいしょう[編集へんしゅう]

選出せんしゅつ[編集へんしゅう]

古代こだいから中世ちゅうせい初期しょきにかけて教皇きょうこうはローマ周辺しゅうへん聖職せいしょくしゃによってえらばれていた。1059ねん選挙せんきょけん枢機卿すうききょう限定げんていされ、1179ねんはいってすべてのひょう権利けんり同等どうとうとされた。教皇きょうこう枢機卿すうききょうだんから選出せんしゅつされる。教皇きょうこうえらばれるための条件じょうけんは、(聖職せいしょくしゃでなくてもよく)男子だんしのカトリック信徒しんとということしかなかったので、司教しきょうでない聖職せいしょくしゃ教皇きょうこうえらばれると、教皇きょうこうまえ枢機卿すうききょうだんまえ司教しきょうじょかいけることになっていた。教皇きょうこう選出せんしゅつ枢機卿すうききょうでなかった最後さいご教皇きょうこうは、1378ねんえらばれた教皇きょうこうウルバヌス6せいである。現行げんこう教会きょうかいほうでは80さい未満みまん枢機卿すうききょうから選出せんしゅつされることになっているため、そのような事態じたいこらない。

1274ねんだい2リヨンおおやけ会議かいぎでは、教皇きょうこう選挙せんきょのシステムが規定きていされた。それによれば教皇きょうこう死後しご10日とおか以内いない枢機卿すうききょうだん会合かいごうひらき、つぎ教皇きょうこう選出せんしゅつされるまでそのはなれないことがさだめられた。これは1268ねん教皇きょうこうクレメンス4せい死後しご混乱こんらんから、3ねんにわたる教皇きょうこう不在ふざい使徒しと空位くうい)がつづいたことをけてさだめられたものであった。16世紀せいきなかばまでには教皇きょうこう選挙せんきょのシステムは、ほぼ現代げんだいのものにちかいものになった。

教皇きょうこう選挙せんきょ唯一ゆいいつ方法ほうほうは、枢機卿すうききょうだんによる投票とうひょうである。伝統でんとうてき教皇きょうこう選出せんしゅつほうとしては「満場一致まんじょういっちにより決定けっていする方法ほうほう」、「司祭しさいだん代表だいひょうたちによって教皇きょうこう決定けっていする方法ほうほう」、そして「投票とうひょうによって教皇きょうこう決定けっていする方法ほうほう」のみっつがあった。満場一致まんじょういっち方法ほうほうというのは、選挙せんきょしゃたちがしん教皇きょうこう名前なまえさけび、それが完全かんぜん一致いっちした場合ばあいに、その決定けってい有効ゆうこうとする方法ほうほうであるが1621ねん以降いこうもちいられたことはなく、ヨハネ・パウロ2せいによって「代表だいひょうたちによる方法ほうほう」ととも廃止はいしされた。

1978ねん以前いぜん教皇きょうこう選挙せんきょがおわるとしん教皇きょうこう中心ちゅうしんとしてシスティーナ礼拝れいはいどうからサン・ピエトロだい聖堂せいどう壮麗そうれい行列ぎょうれつおこなうことが慣例かんれいとされていた。そしてだい聖堂せいどうにつくと教皇きょうこう三重みえかんむりけ、教皇きょうこうとしての最初さいしょ祝福しゅくふくウルビ・エト・オルビ)をあたえる。つづいて教皇きょうこうまえかざてられたトーチにをともし、すぐにそれをして「シク・トランジト・グローリア・ムンディ」(この栄華えいがはかくもむなしくる)という訓戒くんかいあたえ、教皇きょうこうが(かつて「近代きんだい主義しゅぎ対抗たいこうするちかい」とよばれた)教皇きょうこう宣誓せんせいおこなうというのが伝統でんとうてき教皇きょうこう着座ちゃくざながれであった。しかし、ヨハネ・パウロ1せい以降いこう、このたねふるめかしい儀式ぎしきは、教皇きょうこう就任しゅうにんおこなわれていない。

ラテン語らてんごの「セーデ・ヴァカンテ」(使徒しと空位くうい)という言葉ことば教皇きょうこう不在ふざい通常つうじょう教皇きょうこう死去しきょからつぎ教皇きょうこう選出せんしゅつまで)の状態じょうたい言葉ことばである。この言葉ことばから「使徒しと空位くうい主義しゅぎしゃ」とばれる人々ひとびと呼称こしょうまれた。この人々ひとびと現代げんだいいたすうだい教皇きょうこうたちは不当ふとうにその地位ちいについているとかんがえ、カトリック教会きょうかいからはなれている。かれらかられば現在げんざい状態じょうたいは「使徒しと空位くうい」であるということになる。かれらがこのようにとなえる最大さいだい理由りゆうだい2バチカンこう会議かいぎ以降いこう改革かいかくれられないことにある。とくトリエント・ミサばれる伝統でんとうてきラテン語らてんごミサが現代げんだいながれに沿って各国かっこくおこなわれるようになったことが不満ふまんなのである。このため、とくだい2バチカンこう会議かいぎ以降いこう複数ふくすう自称じしょう教皇きょうこう対立たいりつ教皇きょうこう)があらわれている。

死去しきょ[編集へんしゅう]

現在げんざい教皇きょうこう不在ふざい使徒しと空位くうい)における対応たいおうさだめているのは1996ねんのヨハネ・パウロ2せいによる教皇きょうこう文書ぶんしょ『ウニベルシ・ドミニチ・グレギス』である。それによれば教皇きょうこう不在ふざいには首席しゅせき枢機卿すうききょう中心ちゅうしん枢機卿すうききょうだん集団しゅうだん指導しどうせいによってバチカンこくとカトリック教会きょうかい全体ぜんたい指導しどうする。しかし教会きょうかいほうでは教皇きょうこう不在ふざいになんらかの重大じゅうだい決定けってい変更へんこう枢機卿すうききょうだんだけでおこなうことは禁止きんしされている。教皇きょうこう承認しょうにん必要ひつようとする決定けっていしん教皇きょうこう着座ちゃくざまで保留ほりゅうされる。

教皇きょうこう確認かくにんかんしては、首席しゅせき枢機卿すうききょう教皇きょうこう本名ほんみょうさんび、ぎんのハンマーでがくさんたたくという方法ほうほうによるとされていたが、あまりに時代じだい錯誤さくごであると批判ひはん対象たいしょうになっていた。ただしこのはん世紀せいきあいだ実際じっさいにこの方法ほうほうもちいられたことはいとされ、医師いしによる科学かがくてき知見ちけんもとづいた確認かくにんされたのちに「伝統でんとうてき儀式ぎしき」としておこなわれ、この時点じてん首席しゅせき枢機卿すうききょう教皇きょうこう右手みぎてから指輪ゆびわ印章いんしょう漁師りょうし指輪ゆびわ」をはずす。

パウロ6せい場合ばあいは、晩年ばんねんになってみずか指輪ゆびわをはずしていたが、通常つうじょう教皇きょうこう死去しきょ指輪ゆびわがはずされる。指輪ゆびわには教皇きょうこう印章いんしょうられているため、悪用あくようふせぐために破壊はかいされることになっている。

教皇きょうこう遺体いたいはすぐ埋葬まいそうされず、数日すうじつあいだ聖堂せいどうなどに安置あんちされる。20世紀せいき教皇きょうこうたちはみなサン・ピエトロだい聖堂せいどう安置あんちされてきた。教皇きょうこうちょう埋葬まいそうきゅう日間にちかんふくすことになる。これをラテン語らてんごで「ノヴェム・ディアリス」という。

辞任じにん[編集へんしゅう]

教会きょうかいほう332じょうだいこうによれば、教皇きょうこう辞任じにん退位たいい)するために必要ひつよう条件じょうけんはあくまで自発じはつてき辞任じにんであることと、さだめられた手続てつづきをまもることである。ヨハネ・パウロ2せいまでは事実じじつじょう終身しゅうしんせいとなっており[7]教皇きょうこう自発じはつてき辞任じにん直近ちょっきんで600ねんほどれいがなかった[8]。 しかしベネディクト16せいは2013ねん2がつ11にち高齢こうれい理由りゆうとして2013ねん2がつ28にち午後ごご8をもって辞任じにんすると宣言せんげんし、そのまま辞任じにん成立せいりつした。辞任じにん教皇きょうこう名誉めいよ教皇きょうこう(Pope emeritus)とばれせいした尊称そんしょう維持いじされる。

辞任じにん死去しきょ同様どうようであるが、服喪ふくもがないことがおおきなちがいである。ベネディクト16せい辞任じにんまえ規定きてい追加ついかし、ぜん有権ゆうけん枢機卿すうききょうがそろっていれば、コンクラーヴェ開始かいし前倒まえだおしを可能かのうとした(もちろん会場かいじょうであるシスティーナ礼拝れいはいどう準備じゅんびととのっている必要ひつようがあるが)。

なお、2002ねん6がつと7がつにわたってヨハネ・パウロ2せい教会きょうかいほうにもとづいての辞任じにん検討けんとうしていたことがイタリアのメディアによって報道ほうどうされたことがある。ヨハネ・パウロ2せい遺言ゆいごんでも2000ねんに80さい誕生たんじょうむかえたことを節目ふしめ真剣しんけん辞任じにん検討けんとうしていたとほうじられているが、さだかではない。ヨハネ・パウロ2せい晩年ばんねん、さまざまなやまいくるしみ、職務しょくむたせないとかんがえていたようではあるが、最終さいしゅうてきに2005ねん4がつ2にちまで教皇きょうこうしょくにとどまることとなった。

シンボルと徽章きしょう[編集へんしゅう]

バチカンのくにあきら三重みえかんむり天国てんごくかぎ英語えいごばん(Cross keys(交差こうさするかねかぎぎんかぎ))

三重みえかんむり (Triregnum) はここすうだい教皇きょうこうたちはもちいていない(められたのは1960年代ねんだい中頃なかごろから)が、古代こだい以来いらいローマ教皇きょうこうのシンボルとなっている。教皇きょうこう典礼てんれい儀式ぎしきなかでは司教しきょうのしるしであるミトラ司教しきょうかんむり)をかぶっている。十字架じゅうじかのついたつえも13世紀せいき以前いぜんからもちいられている。またパリウムはばインチほどの布製ぬのせい)がカズラうえ着用ちゃくようされる。

かねぎんふたつのかぎ交差こうさするかたちえがかれる天国てんごくかぎ教皇きょうこうのシンボルとしてもちいられている。そのうちのぎんかぎ現世げんせいてき権威けんいを、かねかぎ宗教しゅうきょうてき権威けんいしめしている。漁師りょうしだったペトロにちなんで「漁師りょうし指輪ゆびわ」とばれるかね指輪ゆびわ教皇きょうこうによってもちいられている。また、ウンブラクルム (unbracullum) としてられる教皇きょうこうようあかかねせんはいったかさ図柄ずがらもちいられることがある。

古代こだい以来いらいながきにわたって教皇きょうこうのシンボルとしてもちいられたものに教皇きょうこうよう輿こし(セディア・ゲスタトリア)がある。みこしのような土台どだい教皇きょうこう椅子いすそなけられ、12にん従者じゅうしゃによってはこばれる。さらに二人ふたりおうぎもちがってあおぐのが慣例かんれいであった。教皇きょうこうよう輿こしはあまりにぜん時代じだいてきであるということでヨハネ・パウロ1せい使用しよういやがったが、ヨハネ・パウロ2せいによって正式せいしき廃止はいしされた。ヨハネ・パウロ2せい移動いどうよう教皇きょうこうようオープンカー(パパモビル)をはじめてもちいた。

教皇きょうこうはまた独自どくじ紋章もんしょうっている。図柄ずがら歴代れきだいかく教皇きょうこうごとにそれぞれちがうが基本きほんてき構成こうせいはほぼおなじであり、交差こうさしてまれたかねぎんかぎ三重みえかんむりあか組紐くみひもかならえがかれてきた。バチカンこくはたとされているのは黄色おうしょくしろはたであり、教皇きょうこう三重みえかんむりがそこにもえがかれている。このはたがはじめてあらわれたのは1808ねんのことであり、それ以前いぜん教皇きょうこうちょうせいいろであるあかかねはた使つかっていた。

装備そうびひん

地位ちい権威けんい[編集へんしゅう]

教皇きょうこうは、カトリック教会きょうかいちょうせい)として宗教しゅうきょうじょう権威けんいと、バチカンこく国家こっか元首げんしゅとして国際こくさいほうじょう権威けんい両方りょうほう保持ほじしている。かずひゃくねんながきにわたり、教皇きょうこうちょう(ローマのせい)はカトリック教会きょうかい枢要すうよう機関きかんとして機能きのうしてきた。

せい」(Sancta Sedes) あるいは「使徒しと」といういいかたは、教会きょうかい用語ようごでローマ教皇きょうこう(と教皇きょうこうちょう全体ぜんたい)の特別とくべつ権威けんいしめすものである。歴史れきしじょう、ローマ教皇きょうこう以外いがいでは例外れいがいてきマインツ大司教だいしきょうについても「せい」の称号しょうごうもちいられたが、1802ねん大司教だいしきょうはいされて以降いこうのマインツ司教しきょう特別とくべつ権威けんいうしない、現在げんざいではこのようなかた一般いっぱんてきではない。

国際こくさい社会しゃかいとカトリック教会きょうかいなかみとめられてきた教皇きょうこう特別とくべつ権威けんい栄誉えいよ特権とっけんは、すべて使徒しとあたまペトロの権威けんいからがれたものとみなされてきた。ペトロの権威けんいによってローマはカトリック教会きょうかいなか中心ちゅうしんてき位置いちめることになった。

ローマ教皇きょうこうはあくまでローマ司教しきょうとしてその権威けんい行使こうしするが、ローマにむことが必須ひっすというわけではない。ラテン語らてんご定式ていしき「Ubi Papa, ibi Curia」(教皇きょうこうむところは、どこでも教会きょうかい中央ちゅうおう政府せいふである)といういいかたは、教皇きょうこうがカトリック教会きょうかい中心ちゅうしん都市としかぎりローマ司教しきょうでありつづけることができることをしめしている。たとえば1309ねんから1378ねんにかけて教皇きょうこうアヴィニョンにおかれていた(アヴィニョン教皇きょうこうちょう)が、これは古代こだいイスラエル故事こじになぞらえて「教会きょうかいバビロンしゅう」あるいは「アヴィニョンしゅう」とよばれた。

現在げんざい教皇きょうこう司教しきょう聖堂せいどうサン・ジョバンニ・イン・ラテラノだい聖堂せいどうであり、公邸こうていバチカン宮殿きゅうでんである。また避暑ひしょよう別荘べっそうとして(古代こだい都市としアルバ・ロンガちかく)カステル・ガンドルフォ別荘べっそうっている。歴史れきしじょうでは、教皇きょうこうながきにわたってラテラン宮殿きゅうでん在所ざいしょとしており、避暑ひしょよう施設しせつクイリナーレ宮殿きゅうでんであった。クイリナーレ宮殿きゅうでんはその、イタリアおう宮殿きゅうでんて、大統領だいとうりょう公邸こうていになっている。

現在げんざい教皇きょうこう地位ちい規定きていしているのはだい1バチカンこう会議かいぎ1870ねん)で採択さいたくされた教義きょうぎ憲章けんしょう「キリストの教会きょうかい」である。どう憲章けんしょうだいいちしょうは「ペトロに由来ゆらいする使徒しとてき首位しゅいせい」というタイトルで、「福音ふくいんしょからも、しゅキリストが使徒しとペトロに人々ひとびと優越ゆうえつする権威けんいあたえたことはあきらかである」(だい1せつ)とべ、さらに「もしペトロがキリストによって使徒しとのかしらとされ、教会きょうかいにみえるしるしとしててられたということをみとめず、そのイエスからの直接ちょくせつ権威けんいたん名誉めいよてきなものだけで実質じっしつてき意味いみたないというもの教会きょうかいから排斥はいせきされる。」としている。(「~は教会きょうかいから排斥はいせきされる」という表現ひょうげんアナテマばれるもので、古代こだい以来いらいだい1バチカンこう会議かいぎにいたるまでもちいられ、カトリック教会きょうかい教義きょうぎについてべた文章ぶんしょうかならえられる定型ていけいぶんであった。)

だいしょうせいにおけるペトロの権威けんい存続そんぞくについて」では、「しゅキリストがペトロにあたえた権威けんい永続えいぞくてきなもので、『いわうえにたてられた』教会きょうかいとして存続そんぞくし、『おわりのとき』までつづくものである」とべ、「ペトロのいだものだれでもキリストに由来ゆらいする権威けんい保持ほじし、ぜん教会きょうかいたいする首位しゅいせいゆうする」とする。よって「この権威けんいがキリストの意図いとによるものでなく、ペトロの権威けんい永遠えいえんのものであることをみとめないもの、ローマのせいがペトロの権威けんい継承けいしょうしていないというもの教会きょうかいから排斥はいせきされる」という。

だいさんしょう「ローマのせいゆうする首位しゅいけんちから性質せいしつ」では、「フィレンツェおおやけ会議かいぎにおいてローマのせい使徒しと世界せかい教会きょうかいにおよぶ首位しゅいせいち、ローマのせい使徒しとなが、キリストの代理だいりであるペトロの権威けんいぎ、ぜん教会きょうかいちち教師きょうしたる地位ちいむね宣言せんげんされている」とし、「このせい布告ふこくにもとづいて、ローマ教会きょうかい教会きょうかいたいしても卓越たくえつした地位ちい保持ほじする」としている。

教皇きょうこうちからどう憲章けんしょうの3しょうなどにさだめられている。それは「信仰しんこう最高さいこう判定はんていしゃであり、信仰しんこう問題もんだいについての決定けっていけんつ。すなわちせいとしての決定的けっていてき布告ふこくは、だれくつがえすことができない」というものである。これはどうこう会議かいぎ布告ふこくされた教皇きょうこう不可ふか謬性の問題もんだい密接みっせつ関連かんれんっている。

だい2バチカンこう会議かいぎ以前いぜんのカトリック教会きょうかいでは「すくいのためにはローマのせいとのかかわりが必要ひつようである(教皇きょうこうボニファティウス8せい言葉ことば)」と伝統でんとうてきおしえており、このかんがかたはよく「extra Ecclesiam the popeus salus」(教会きょうかいそとすくいなし)という言葉ことばあらわされてきた。パウロ6せいも「教会きょうかいそとにいるものは聖霊せいれいめぐみをけられない。カトリック教会きょうかい現代げんだいきるキリストのからだである。だからこそ、もしそこからはなれてしまえば聖霊せいれいめぐみをることができないのである。」といっている。

しかし、このかんがかたはカトリック教会きょうかい以外いがいひとだけでなく、肝心かんじんのカトリック教会きょうかいなかでも誤解ごかいされてきた。歴代れきだい教皇きょうこうたちは「カトリック教会きょうかいなかにいる人々ひとびとすくいにつながっている」といっている一方いっぽうで「カトリック教会きょうかいえんのない人々ひとびとすくわれないというわけではない」ということをしばしば強調きょうちょうしている。ピウス9せいかいみことのり『クアント・コンフィカムル・モエロール』(1868ねん)でこうべた、「わたしたちは、われわれのせいなる宗教しゅうきょうとかかわりのないひとであっても、かみによってすべてのひとしんまれた自然しぜんほうしたがい、とくちた人生じんせいおくるなら、かみちかららしによって永遠えいえんいのちはいることができるということをっている。」

ヨハネ・パウロ2せいは『レデンプトーリス・ミッシオ』のなかで「現代げんだいのみならず、過去かこにおいても、福音ふくいん教会きょうかいについて機会きかいがなかったおおくの人々ひとびとがいて、たとえかれらがまったくキリスト教きりすときょうかかわることがなくても、神秘しんぴてききずなによって、キリストのすくいをけてきたことはあきらかです。」といっている。

教皇きょうこうのものとされ、実際じっさい行使こうしされてきた権能けんのう以下いかのとおりである。司教しきょう任命にんめい教区きょうく設立せつりつ廃止はいし教皇きょうこうちょう職員しょくいん任命にんめい教皇きょうこうちょう文書ぶんしょ認可にんか典礼てんれい祭儀さいぎ変更へんこう教会きょうかいほう改定かいていれつぶく列聖れっせい教会きょうかい裁判さいばん最高さいこう決定けっていけんかいみことのり公布こうふ、(信仰しんこう道徳どうとくかんする事柄ことがらについての)不可ふか謬な宣言せんげん修道しゅうどうかい承認しょうにん禁止きんし。ただ、これらの権能けんのう実際じっさいおこなうのは教皇きょうこうちょうのメンバーたちであり、実質じっしつてき教皇きょうこうおこなうのは最終さいしゅうてき承認しょうにんあたえることだけである。

政治せいじてき役割やくわり[編集へんしゅう]

4世紀せいきマ帝国まていこくではキリスト教徒きりすときょうとかず飛躍ひやくてき増加ぞうかしたが、司教しきょう世俗せぞくにおいてなんらかの権力けんりょく獲得かくとくすることはなかった。ローマ司教しきょうがその信徒しんとたいする影響えいきょうりょくによって帝国ていこく行政ぎょうせいシステムのなかちからあたえられるようになっていったのは5世紀せいき以降いこうのことである。教皇きょうこう政治せいじてき存在そんざいかんはじめてせつけたのは452ねんにローマに侵入しんにゅうしてきたアッティラ教皇きょうこうレオ1せいきのすえに撤退てったいさせることに成功せいこうしたことによってであった。

さらに754ねんにはフランク王国おうこくピピン3せいしょうピピン)が領土りょうど一部いちぶ教皇きょうこうステファヌス2せい寄進きしんしたこと(ピピンの寄進きしん)は、教皇きょうこう政治せいじてき影響えいきょうりょく無視むしできないものになっていたことをしめしている。この土地とちこう教皇きょうこうりょう基礎きそとなった。800ねんには教皇きょうこうレオ3せいがフランク王国おうこくカール大帝たいていにローマ皇帝こうていとしての王冠おうかんさづけている。ここからのちに神聖しんせいローマ皇帝こうていとしてられることになる王位おうい系譜けいふはじまる。これ以降いこうナポレオン自分じぶん自身じしん王冠おうかんをかぶるまで、教皇きょうこう王冠おうかんさづける権威けんいち、世俗せぞく王位おういカトリック教かとりっくきょうかいによって承認しょうにんされるものであるという伝統でんとうがつくられていく。さきにのべた教皇きょうこうりょうイタリア王国おうこく成立せいりつする1870ねんまで存続そんぞくした。

教皇きょうこうりょう保持ほじすることで、教皇きょうこう領土りょうど世俗せぞく君主くんしゅ一人ひとりというだけでなく、ぜんキリスト教徒きりすときょうとながという聖俗せいぞくにわたる強力きょうりょく権威けんいつことになった。淫蕩いんとうかぎりをつくしたことで悪名あくめいたかアレクサンデル6せいや、軍事ぐんじてき才能さいのうそなえてすう戦役せんえきたたかったユリウス2せいなどが政治せいじてき権威けんい行使こうしした教皇きょうこう代表だいひょうかくといえよう。またグレゴリウス改革かいかくられるグレゴリウス7せいアレクサンデル3せいなどはかみきよしマ帝国まていこく影響えいきょうにおいて教会きょうかい改革かいかくこころざした宗教しゅうきょうてき権威けんいしゃとして後代こうだいられている。中世ちゅうせい教皇きょうこうたちはかいみことのりによって政治せいじてき影響えいきょうりょく行使こうししたが、世界せかい史上しじょうとく有名ゆうめいかいみことのりとしてヘンリー2せいアイルランド侵攻しんこう根拠こんきょとなった『ラウダビリテル』(1155ねん)、世界せかいスペインポルトガル分割ぶんかつするトルデシリャス条約じょうやくのもととなった『インテル・チェテラス』(1493ねん)、エリザベス1せい破門はもんし、家臣かしん臣従しんじゅう義務ぎむいた『レグナンス・イン・エクスケルシス』(1570ねん)、グレゴリオれきさだめた『グラビッシマス』(1582ねん)などがある。

現代げんだい外交がいこう儀礼ぎれいとして、教皇きょうこう外国がいこく公式こうしき訪問ほうもんさいには、相手あいてこく元首げんしゅ教皇きょうこう宿泊しゅくはくさき出向でむいて挨拶あいさつおこな[注釈ちゅうしゃく 5][9]

教皇きょうこうをめぐる議論ぎろん[編集へんしゅう]

カトリック教会きょうかいない[編集へんしゅう]

カトリック教会きょうかいなかにおいて「教皇きょうこう権威けんい」は教義きょうぎとして宣言せんげんされたものである以上いじょう、その職務しょくむ権威けんい否定ひていすることはみとめられない。だい1バチカンこう会議かいぎでは「カトリック教会きょうかいにおいて教皇きょうこう首位しゅいけんたっけんみとめないものは分離ぶんりされる」というアナテマがはっきりとしめされた(ただ、教皇きょうこう地位ちい厳密げんみつ位置いちづけについて議論ぎろんすることはみとめられている)。

だい1バチカンこう会議かいぎ採択さいたくされた教皇きょうこう不可ふか教皇きょうこう首位しゅい反対はんたいするグループは、復古ふっこカトリック教会きょうかい形成けいせいした。

カトリック教会きょうかいがいからの異論いろん[編集へんしゅう]

カトリック教会きょうかいそとでははっきりとローマ教皇きょうこう権威けんいについては疑義ぎぎしめされることがある。そのたね疑義ぎぎをおおまかにまとめるとつぎのようになる。

  1. ローマ教皇きょうこうみとめつつも、ぜん世界せかい司教しきょうたちのなかにおける首位しゅいけんへの疑問ぎもん
  2. 教皇きょうこう制度せいどそのものへの疑問ぎもん

ヨハネ23せいかいみことのり『パーチェム・イン・テリス』において、アッシリア東方とうほう教会きょうかい東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかい正教会せいきょうかいせい公会こうかいなどのしょ教会きょうかいは「使徒しとからの継承けいしょう」という概念がいねん共通きょうつうっているため、ローマ司教しきょうたる教皇きょうこう栄誉えいよある地位ちいおおかれすくなかれみとめているとべている(ここでいう「栄誉えいよある地位ちい」というのはけっして首位しゅいけんとイコールではない)。

しかしこの箇所かしょ言及げんきゅうされているもろ教派きょうはは、東方とうほう典礼てんれいカトリック教会きょうかいのぞき、ローマ教皇きょうこう司教しきょうえるペトロ権威けんい継承けいしょうしているということをみとめていないし、ペトロがローマにったということすらみとめないものもある。教皇きょうこう首位しゅいけんは、司教しきょうとしてのローマがマ帝国まていこく首都しゅとであったことにも由来ゆらいすることはカルケドンこう会議かいぎきょうれいだい28じょうでも明示めいじされているため、教皇きょうこうぜん教会きょうかいたい教導きょうどうけん発揮はっきすることをみとめないのである。また、かれらはだい1バチカンこう会議かいぎおおやけ会議かいぎとしてみとめておらず、結果けっかてきにそこで採択さいたくされた教皇きょうこう不可ふか謬にかんする宣言せんげん無効むこうである。

プロテスタントにとっては「使徒しと継承けいしょう」というかんがかたすられがたいものである。このような人々ひとびとかられば、名誉めいよてきなものであれ、教会きょうかいさいけんじょうのものであれ、聖書せいしょかれていない以上いじょう、ペトロの首位しゅいけんというものはありえない。また教皇きょうこうけん西にしマ帝国まていこくひがしマ帝国まていこくなどの世俗せぞく権力けんりょく複雑ふくざつにかかわってきたことや、統一とういつイタリア王国おうこく成立せいりつ教皇きょうこうりょう接収せっしゅうのあとながつづいた政府せいふとの確執かくしつなどが教皇きょうこうけんというものへの歴史れきしてき疑問ぎもんてんとなっている。

西欧せいおうにおいては教皇きょうこうけんのありかたにたいする不満ふまん宗教しゅうきょう改革かいかくへいたるひとつの底流ていりゅうとなった。カトリック教会きょうかいからはなれた教派きょうはにおいては教皇きょうこう地位ちいについての見解けんかいはさまざまで、たんぜん教会きょうかいたいする統治とうちけんみとめないものから、黙示録もくしろくあらわれるはんキリストであると極端きょくたんなものまである。

ほかにボルジア出身しゅっしんアレクサンデル6せいカリストゥス3せいのような堕落だらくした教皇きょうこうれいをあげて、堕落だらくした人間にんげんがこのような権威けんいっていたことに疑問符ぎもんふをつけるものもある。そのような批判ひはんしゃによれば全智ぜんち全能ぜんのうかみが、このような堕落だらくした人間にんげんせいなる権威けんいあたえるはずがなく、「堕落だらくした教皇きょうこう」というものの存在そんざいすることこそ教皇きょうこうかみ意思いし由来ゆらいするものでないことの証左しょうさであるという。これにたいする反論はんろんとしては、かみ堕落だらくした人間にんげんにすらおおきな地位ちいあたえることがあることの証明しょうめいとして、古代こだいイスラエルおうたちや、使徒しと一人ひとりでありながらイエスを裏切うらぎったイスカリオテのユダをあげる意見いけんもある。またどれほど堕落だらくした教皇きょうこうであっても教皇きょうこう制度せいどそのものが消滅しょうめつしなかったことを教皇きょうこうけんかみまもられたものであることの証明しょうめいであるというものもある。

正教会せいきょうかいからの異論いろん[編集へんしゅう]

正教会せいきょうかいにおいては、ローマ・カトリックが主張しゅちょうするようなローマ教皇きょうこうロマの「パパ」)の権限けんげんみとめられない。正教会せいきょうかいにおいて現在げんざい名誉めいよじょう首位しゅいにあるのは、「ぜんそう主教しゅきょう」の称号しょうごうコンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうであるが、コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょう絶対ぜったいてき権限けんげんぜん正教会せいきょうかい行使こうししているわけではなく、各地かくち独立どくりつ正教会せいきょうかいがある[10]

なお、日本にっぽん正教会せいきょうかいでは教皇きょうこう (Papa) に相当そうとうする訳語やくごとして"「パパ」"(かぎ括弧かっこふくめていち)という表記ひょうきもちいられ、「教皇きょうこう」の表記ひょうきはあまりもちいられない(完全かんぜんもちいられないわけではなく、もちいられている媒体ばいたいまれ存在そんざいする)。

正教会せいきょうかいからはローマ・カトリックの教会きょうかいろんたいして以下いかのような異論いろんがある[10]

  • ローマ・カトリックは、ローマ教皇きょうこう道徳どうとくてき権威けんい調停ちょうていといったおだやかな権限けんげんを、絶対ぜったいてき権限けんげんえている。
  • ローマ・カトリックにおいては、ローマ教皇きょうこう首位しゅいぜん教会きょうかいの「原理げんり根源こんげん」とされ(英国えいこく国教こっきょうかい主教しゅきょうへのかいみことのり:1864ねん9がつ16にち)ているが、正教会せいきょうかいにおいては、教会きょうかい唯一ゆいいつの「原理げんり根源こんげん」はハリストス(キリスト)以外いがいかんがえられない。

またペトロ後継こうけいという観点かんてんについては、正教会せいきょうかい教会きょうかいろんではすべての主教しゅきょうがペトロをぐものである。これについては、すべての主教しゅきょう自分じぶん教会きょうかいおよびすべての教会きょうかいにおいてペトロのにあるとするせいキプリアヌスかんがえが参照さんしょうされる。またせいニコラオス・カヴァシラスによる以下いか指摘してきにも言及げんきゅうされる[10]

  • 教皇きょうこう使徒しとではないし、使徒しと統率とうそつしゃでもない。使徒しと使徒しとじょひじりじょかいしたことい。つかさ牧者ぼくしゃ学者がくしゃじょひじりしたのみである。
  • ペトロはぜん教会きょうかいであるが、教皇きょうこうはローマの主教しゅきょうそう主教しゅきょう)にぎない。
  • ペトロはアンティオキアやアレクサンドリアで主教しゅきょうじょひじりじょかい)すること出来できたが、ローマ主教しゅきょうにはそれは出来できない。
  • ペトロはローマの主教しゅきょうじょひじりじょかい)したが、教皇きょうこう教皇きょうこうをペトロの後継こうけいしゃにんじること出来できない。

ただし、古代こだいから現代げんだいいたるまで正教会せいきょうかい教皇きょうこう首位しゅいせい地位ちいについてローマカトリックがわ見解けんかいことにしてきた一方いっぽうで、東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつ以前いぜんのローマ教皇きょうこう聖人せいじんとなっていたものについては正教会せいきょうかい崇敬すうけいしている(れいクレメンス1せいグレゴリウス1せいなど)。

称号しょうごう変遷へんせんとそのの「教皇きょうこう[編集へんしゅう]

パルマリアン・カトリック教会きょうかい英語えいごばんは、1978ねん以来いらい、4だいにわたって教皇きょうこう主張しゅちょうしている(2018ねん現在げんざい)。

古代こだい教会きょうかいでは「papa/πάπας[注釈ちゅうしゃく 6]」というのは一般いっぱんてき司教しきょうたいする敬称けいしょうであったが、徐々じょじょにローマ司教しきょうとアレクサンドリア主教しゅきょう限定げんていされる称号しょうごうになっていった。今日きょうも、ローマ教皇きょうこう以外いがい公式こうしきに Papa/Πάπας という称号しょうごうばれるのは、正教会せいきょうかい東方とうほう正教会せいきょうかい)の(ギリシア・)アレクサンドリアそう主教しゅきょうと、コプト正教会せいきょうかい首長しゅちょうである(コプト・)アレクサンドリアそう主教しゅきょうだけである(両者りょうしゃべつ組織そしきであり、それぞれ別人べつじんてる)。

エウセビウス『教会きょうかい』によればアレクサンドリア主教しゅきょうに3世紀せいきごろから Papa/Πάπας称号しょうごうもちいられ、のち都市としにも主教しゅきょう称号しょうごうとして波及はきゅうしたが、やがてアレクサンドリア主教しゅきょうとローマ司教しきょうしゃにのみもちいられるようになった。これは当時とうじ東方とうほう教会きょうかいひがしマ帝国まていこくりょう)と西方せいほう教会きょうかい西にしマ帝国まていこくりょう)のそれぞれ中心ちゅうしんであった。現在げんざいでも、正教会せいきょうかいコプト正教会せいきょうかいではこの習慣しゅうかんまもり、ローマ司教しきょうアレクサンドリアそう主教しゅきょう双方そうほうを Papa/Πάπας 称号しょうごう保持ほじしゃとみなしている。

一方いっぽう中世ちゅうせい以降いこうカトリック教会きょうかいにおいて、教皇きょうこうは「ローマ司教しきょう」にしか使用しようせず、たんに「教皇きょうこう(Papa)」とべばそれはローマ教皇きょうこう意味いみする。なおカトリックでは「せいした」(His Holiness)はかつてローマ教皇きょうこうのみの敬称けいしょうであったが、だい2バチカンこう会議かいぎ以降いこう上記じょうきのアレクサンドリア教皇きょうこうふく東方とうほう教会きょうかいそう主教しゅきょうなどの高位こうい聖職せいしょくしゃにももちいている。

カトリック教会きょうかい公式こうしき認定にんてい関係かんけいなく教皇きょうこう宣言せんげんするものを、対立たいりつ教皇きょうこうという。通常つうじょう対立たいりつ教皇きょうこうまれる背景はいけいには、カトリック教会きょうかいない論争ろんそう特定とくてい教皇きょうこう正統せいとうせいをめぐって紛糾ふんきゅうする事態じたい存在そんざいする(教会きょうかい大分おおいたきれ)。対立たいりつ教皇きょうこう多発たはつした中世ちゅうせいにおいて、正統せいとう教皇きょうこう以外いがい教皇きょうこう名乗なの人物じんぶつあらわれるのは、宗教しゅうきょうだけでなく政治せいじをもまきこむだい問題もんだいであった。

カトリック教会きょうかいないおおきな影響えいきょうりょくイエズスかい総長そうちょうは、かつて「くろ教皇きょうこう」とばれることがあった。これはイエズスかい質素しっそくろいスータンをていたことと、教皇きょうこうつねしろふくることに由来ゆらいしている。

教皇きょうこうちょういち機関きかんである福音ふくいん宣教せんきょうしょう長官ちょうかん枢機卿すうききょう)は「あか教皇きょうこう」とばれることがある。このしょくにあるものはアジアとアフリカ全域ぜんいき教会きょうかい責任せきにんしゃであるため、教皇きょうこう匹敵ひってきするほどの地位ちいだという意味いみである。なお、「あか」は枢機卿すうききょうころもいろである。

日本語にほんごでの呼称こしょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんカトリック教会きょうかい呼称こしょう[編集へんしゅう]

現在げんざい日本にっぽんのカトリック教会きょうかい公式こうしき表記ひょうきでは、「教皇きょうこう」がもちいられている。信徒しんとあいだでは、したしみをめた敬称けいしょうとして「パパさま」というかた使つかわれることがある[12][13][14]

日本にっぽんのカトリック教会きょうかい中央ちゅうおう団体だんたいであるカトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかいは、1981ねん教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい来日らいにちに、それまで混用こんようされてきた「教皇きょうこう」と「法王ほうおう」の呼称こしょう統一とういつするため、世俗せぞく君主くんしゅのイメージのつよい「おう」というふくむ「法王ほうおう」でなく「教皇きょうこう」への統一とういつさだめた。このとき、東京とうきょうにある「マ法王まほうおうちょう大使館たいしかん」においてもこれにあわせて「法王ほうおうちょう」から「教皇きょうこうちょう」への名称めいしょう変更へんこうおこなおうとしたが、日本にっぽん政府せいふから「日本にっぽんにおける各国かっこく公館こうかん名称めいしょう変更へんこうクーデターなどによる国名こくめい変更へんこうなど、特別とくべつ場合ばあい以外いがいみとめられない」としてみとめられず、「マ法王まほうおうちょう大使館たいしかん」の名称めいしょうのまま現在げんざいいたっている[15]

一方いっぽうで、2019ねん11月のフランシスコ教皇きょうこう来日らいにちに、日本にっぽん政府せいふ同年どうねん11がつ20日はつか従来じゅうらい法王ほうおう」としていた呼称こしょう今後こんご教皇きょうこう」に変更へんこうすると発表はっぴょうした。それにともない、NHK大手おおて新聞しんぶん各社かくしゃなど一般いっぱんメディアも追随ついずいし、「教皇きょうこう」という呼称こしょうえるうごきが一気いっきひろまった[16][17]

明治めいじ日本にっぽんのカトリック教会きょうかいでは「教父きょうふ」という訳語やくごもちいた用例ようれいられる[18](なお、大正たいしょう以降いこう文献ぶんけんには「教皇きょうこう」のかたりられる[19])。また、つい近年きんねんまで典礼てんれいなかでは、現役げんえき教皇きょうこうを「わたしたちの教父きょうふ○○」と慣習かんしゅうがあった[20][21]が、これもフランシスコ教皇きょうこう来日らいにちに「わたしたちの教皇きょうこう○○」といいかえられるようになった。

日本にっぽん政府せいふによる呼称こしょう[編集へんしゅう]

官報かんぽう外務省がいむしょう文書ぶんしょでは、戦前せんぜんからながらく基本きほんてきには「法王ほうおう」のかたりもちいられていたが、教皇きょうこう使用しようされないわけではなかった[22][23][24]コプト正教会せいきょうかいながたいしては「コプト教皇きょうこう」の呼称こしょうもちいている[25][26]

2018ねんには、立憲りっけん民主党みんしゅとう所属しょぞく衆議院しゅうぎいん議員ぎいん山内やまうち康一やすいち衆議院しゅうぎいん予算よさん委員いいんかいにおいて「教皇きょうこう」に変更へんこうするべきではないかと質問しつもんおこなっている。これをけて外務省がいむしょうはバチカンとマ法王まほうおうちょう大使館たいしかんわせをおこなったが、いずれも変更へんこうもとめていないという回答かいとうている。河野こうの太郎たろう外務がいむ大臣だいじん当時とうじ)はグルジアからジョージア変更へんこうおこなった事例じれいのように、変更へんこう要求ようきゅうがあった場合ばあいにはしっかりと対応たいおうしていくと答弁とうべんしていた[27]2019ねん11月23にちから教皇きょうこうフランシスコ日本にっぽん訪問ほうもんすることをけ、政府せいふは11月20にちに「教皇きょうこう」への呼称こしょう変更へんこう発表はっぴょうした[28][29]

マスメディアの呼称こしょう[編集へんしゅう]

NHKでは、「マ法王まほうおう」「法王ほうおう」が慣用かんようてき使つかわれ、一般いっぱん定着ていちゃくしているとして原則げんそくてきには「法王ほうおう」の呼称こしょうもちいるとしていた[30]が、日本にっぽんのカトリック関係かんけいしゃ中心ちゅうしんに「教皇きょうこう」とばれていること、2019ねん11月22にち教皇きょうこうフランシスコの訪日ほうにちにあわせて日本にっぽん政府せいふが「教皇きょうこう」に呼称こしょう変更へんこうしたことをまえ、「ローマ教皇きょうこう」の呼称こしょう変更へんこうした[31]。また、読売新聞よみうりしんぶん朝日新聞あさひしんぶん毎日新聞まいにちしんぶん産経新聞さんけいしんぶん日本経済新聞にほんけいざいしんぶんといった主要しゅよう共同通信きょうどうつうしん時事通信じじつうしんも「ローマ教皇きょうこう」の呼称こしょう表記ひょうき変更へんこうした[32][17]

各国かっこくでの呼称こしょう[編集へんしゅう]

せいからの公式こうしき中国語ちゅうごくごやくは「きょうむね」(きょうそう)であるほか、「教皇きょうこう」という訳語やくご中国語ちゅうごくごけん使つかわれる。韓国かんこくでは「교황敎皇きょうこう、キョファン)」である。

英語えいごでは「The Pope」、「The Pontiff」、または「Father」[33]。「supreme pontiff」(ラテン語らてんご: pontifex maximus)とも。

その[編集へんしゅう]

  • 教皇きょうこう公用こうようしゃひとつでメルセデス・ベンツ・Gクラス改造かいぞうしたものは「教皇きょうこうしゃ」(パパモビル)とばれる。
  • 教皇きょうこうめい自由じゆうえらぶことはできるが、ペトロの名前なまええらんだものはいない。
  • 対立たいりつ教皇きょうこうのぞき、もっとおおえらばれた教皇きょうこうめいは「ヨハネス(ヨハネ)」の22にんである。いで「グレゴリウス(グレゴリオ)」と「ベネディクトゥス(ベネディクト)」が16にんずつとなっている。
    • かつては、歴史れきし混乱こんらんで「17せい以降いこうがひとつおおくカウントされていた。そのこのあやまちは修正しゅうせいされて「17せい」から「20せい」はそれぞれ代数だいすうが1つずつ若返わかがえって「16せい」から「19せい」となったが、21せい以降いこうの3めい修正しゅうせいされないままのこってしまっている。よって「ヨハネス20せい」が実在じつざいしないため、現時点げんじてん最後さいごに「ヨハネス」を名乗なのった教皇きょうこうヨハネス23せい(ヨハネスとしては22代目だいめ)となっている。
    • 「ヨハネス」をふく合名ごうめい使用しようして名乗なのった教皇きょうこうが2にんいる(ヨハネ・パウロ1せいヨハネ・パウロ2せい)ので、これをカウントにれると「ヨハネス」を名乗なのった教皇きょうこう合計ごうけい24にんとなる。
  • 完全かんぜんなオリジナルの教皇きょうこうめい名乗なのった最新さいしん教皇きょうこうは、2013ねん3がつ選出せんしゅつされたげん教皇きょうこうフランシスコである。それまではながらくランドがその記録きろく保持ほじしゃだった。
  • もっとわか教皇きょうこうになったのは、18さいヨハネス12せいである。
  • 1295ねん以降いこうもっと高齢こうれい教皇きょうこう選出せんしゅつされたのは、79さいクレメンス10せいである。
  • 1295ねん以降いこうもっと長寿ちょうじゅだった教皇きょうこうは、93さいくなったレオ13せいである。
  • 史実しじつ確認かくにんされる範囲はんい在任ざいにん期間きかんもっとながかったのは、31ねん7ヶ月かげつピウス9せい1846ねん6月16にち - 1878ねん2がつ7にち)である。
  • 在位ざいい期間きかんもっとみじかかったのはウルバヌス7せいで、わずか13にち1590ねん9月15にち - 9月27にち)である。これは選出せんしゅつされてもなくマラリアかかり、教皇きょうこう着座ちゃくざしきすら出来できずに病没びょうぼつしたため。
  • 2016ねん2がつ12にちに、ロシア正教会せいきょうかいそう主教しゅきょうやく1000ねんぶりの歴史れきしてき会談かいだん[34]おこなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ラテン語らてんご: Sancta Sedes.
  2. ^ ラテン語らてんご: Sedes Apostolica.
  3. ^ 共和きょうわせいローマ時代じだいには独立どくりつした官職かんしょくであったが、帝政ていせいローマ時代じだいにはローマ皇帝こうてい兼務けんむする称号しょうごうひとつであった。このことをもって、きょうすめらぎという称号しょうごう根拠こんきょや、ひがしローマ皇帝こうてい従属じゅうぞくせず、かみきよしマ帝国まていこく皇帝こうていをはじめとする西欧せいおう諸国しょこく君主くんしゅ優越ゆうえつする権威けんいしるしとする。
  4. ^ ローマ教皇きょうこう公式こうしきTwitterアカウントめいは、@Pontifexとなっている。
  5. ^ 例外れいがいとして、教皇きょうこう日本にっぽん公式こうしき訪問ほうもんした場合ばあいのみは、通常つうじょう外交がいこう儀礼ぎれいどおりに日本にっぽん元首げんしゅである天皇てんのう御所ごしょ教皇きょうこう訪問ほうもんし、挨拶あいさつする[9]
  6. ^ "πάπας"は、古代こだいギリシアで「ちち」を意味いみする幼児ようじ"πάππας"に由来ゆらいする[11]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ papa - Wiktionary(en)
  2. ^ pontifex - Wiktionary(en)
  3. ^ πάπας - Wiktionary(en)πάπας - Βικιλεξικό
  4. ^ pontiff - Wiktionary(en)
  5. ^ 新村しんむらいずるへん広辞苑こうじえん だいろくはん』(岩波書店いわなみしょてん2011ねん)728ぺーじおよび松村まつむらあきらへん大辞林だいじりん だいさんはん』(三省堂さんせいどう2006ねん)649ぺーじ参照さんしょう
  6. ^ J. P. ラベル「使徒しと」『しんカトリックだい事典じてん研究けんきゅうしゃOnlineDictionary。 
  7. ^ マ法王まほうおう退位たいい表明ひょうめいか 地元じもと通信つうしんしゃ報道ほうどう. 朝日新聞あさひしんぶん. (2013ねん2がつ11にち). http://www.asahi.com/international/update/0211/TKY201302110235.html 2013ねん2がつ11にち閲覧えつらん 
  8. ^ “Breaking: Pope Benedict XVI announces he will resign because of 'ill health'” (英語えいご). インデペンデント. (2013ねん2がつ11にち). http://www.independent.co.uk/news/world/europe/breaking-pope-benedict-xvi-announces-he-will-resign-because-of-ill-health-8489837.html 2013ねん2がつ11にち閲覧えつらん 
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]