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インノケンティウス9せい (ローマ教皇きょうこう)

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インノケンティウス9せい
だい230だい ローマ教皇きょうこう
インノケンティウス9世
教皇きょうこう就任しゅうにん 1591ねん10月29にち
教皇きょうこう離任りにん 1591ねん12月30にち
先代せんだい グレゴリウス14せい
次代じだい クレメンス8せい
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう 1519ねん7がつ20日はつか
教皇きょうこうりょうボローニャ
死去しきょ (1591-12-30) 1591ねん12月30にち(72さいぼつ
教皇きょうこうりょうローマ
母校ぼこう ボローニャ大学だいがく
そののインノケンティウス
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インノケンティウス9せい(Innocentius IX, 1519ねん7がつ20日はつか - 1591ねん12月30にち)は、ローマ教皇きょうこう在位ざいい:1591ねん)。本名ほんみょうジャン・アントニオ・ファッキネティGian Antonio Facchinetti)。教皇きょうこうグレゴリウス14せい時代じだい外交がいこう成果せいかによってたか評価ひょうかて、教皇きょうこう選出せんしゅつされたが、2かげつ病死びょうしした。

生涯しょうがい

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きたイタリア、ボローニャのクラヴェーニャ出身しゅっしん。ファッキネッティは法学ほうがくられたボローニャ大学だいがく卒業そつぎょうし、教会きょうかいほう専門せんもんとしてアルディンゲリ枢機卿すうききょう秘書ひしょからファルネーゼ実力じつりょくしゃアレッサンドロ枢機卿すうききょう秘書ひしょとなった。アレッサンドロ枢機卿すうききょうパルマこうオッターヴィオ・ファルネーゼあにで、さき教皇きょうこうパウルス3せいまごたり、アヴィニョン司教しきょうであったため、ファッキネッティを代理だいりとしてアヴィニョンに派遣はけんした。つづいて使節しせつとしてパルマでの業務ぎょうむたらせた。1560ねんカラブリアのニカストロ(げんラメーツィア・テルメ)の司教しきょう任命にんめいされ、1562ねんトリエントこう会議かいぎ出席しゅっせきした。ピウス5せいはファッキネッティを教皇きょうこう使節しせつとして、1566ねんヴェネツィア派遣はけんした。ファッキネッティはヴェネツィアとスペイン同盟どうめい締結ていけつさせ、1571ねんレパントの海戦かいせん勝利しょうりむすびついた。1572ねんにはエルサレム名義めいぎ大司教だいしきょう任命にんめいされている。

このような華々はなばなしいキャリアをつファッキネッティは、教皇きょうこうグレゴリウス14せいしただい1の側近そっきんとして活躍かつやくした。とくに、教皇きょうこうマラリアによってゆかすことがおおかったため、ファッキネッティがほとんどの実務じつむけていた。グレゴリウス14せい先行さきゆきがみじかいことがわかると、スペインはんスペイン枢機卿すうききょうだん活発かっぱつ選挙せんきょ工作こうさく開始かいしする。前回ぜんかいコンクラーヴェ教皇きょうこう選挙せんきょ)ではフェリペ2せい教皇きょうこう候補者こうほしゃを7めい限定げんていするほどのこうあつてき介入かいにゅうおこなったことが、はんスペイン枢機卿すうききょうたちの反感はんかんっていた。このとき選挙せんきょではそこまでの露骨ろこつ介入かいにゅうおこなわれなかったが、依然いぜんスペイン枢機卿すうききょうだんおおきな影響えいきょうりょくっていた。

選挙せんきょ自体じたいはすんなりとファッキネッティを教皇きょうこうえらした。しかし就任しゅうにん早々そうそう、スペインのフェリペ2せいとフランスのカトリック同盟どうめいアンリ4せいあらそうなど、多事多難たじたなんであった。教皇きょうこう自身じしんにも外交がいこうのグランドプランはあったとおもわれるが、2かげつ死去しきょしたため実現じつげんはなかった。

インノケンティウス9せいが2かげつあいだにしたことは、2人ふたり枢機卿すうききょう任命にんめいしたことであった。そのうち1人ひとりおいのジョヴァンニ・アントニオ・ファッキネッティであった。親族しんぞくのチェーザレ・ファッキネッティも1643ねん枢機卿すうききょうげられている。

脚注きゃくちゅう

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