コンクラーヴェが行 おこな われるシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう
コンクラーヴェ とは、「教皇 きょうこう 選挙 せんきょ 」を意味 いみ する言葉 ことば で、全 ちょん カトリック教会 きょうかい の最高 さいこう 司祭 しさい [ 1] たるローマ教皇 きょうこう を枢機卿 すうききょう による投票 とうひょう で選出 せんしゅつ する手続 てつづ きのことである。日本 にっぽん のカトリック中央 ちゅうおう 協議 きょうぎ 会 かい ではコンクラーベ と表記 ひょうき する[ 2] 。Conclave とはラテン語 らてんご で “cum clavi”(鍵 かぎ がかかった)の意 い である。
このシステムは、カトリック教会 きょうかい の歴史 れきし の中 なか で何 なに 世紀 せいき もかけて、他国 たこく の干渉 かんしょう を防止 ぼうし し秘密 ひみつ を保持 ほじ するため練 ね り上 あ げられてきたものである。
歴代 れきだい の教皇 きょうこう たちは、選挙 せんきょ の方法 ほうほう を変更 へんこう することや望 のぞ むなら枢機卿 すうききょう 団 だん を総 そう 入 い れ替 か えすることも認 みと められていたが、後継 こうけい 者 しゃ を指名 しめい することだけは許 ゆる されなかった。
初代 しょだい 教会 きょうかい の司教 しきょう たちは、その共同 きょうどう 体 たい の創始 そうし 者 しゃ によって指名 しめい されていたと考 かんが えられている。やがて、ローマやそのほかの地域 ちいき で、司祭 しさい と信徒 しんと 、近隣 きんりん 教区 きょうく の司教 しきょう たちが集 あつ まって司教 しきょう を決定 けってい する方法 ほうほう がとられるようになった。教皇 きょうこう に選 えら ばれる権利 けんり のあるのは聖職 せいしょく 者 しゃ のみであったが、彼 かれ らには投票 とうひょう 権 けん は与 あた えられなかった。その代 か わりに彼 かれ らには教皇 きょうこう を決定 けってい し承認 しょうにん する権利 けんり が与 あた えられていた。司教 しきょう はそのプロセスの監視 かんし の任 にん を負 お っていた。教皇 きょうこう 候補者 こうほしゃ が決定 けってい すると信徒 しんと の同意 どうい が求 もと められ、同意 どうい を受 う けて新 しん 教皇 きょうこう が決定 けってい した。民衆 みんしゅう が大声 おおごえ で同意 どうい (あるいは不 ふ 同意 どうい )を示 しめ すのは古代 こだい 以来 いらい のローマの習慣 しゅうかん であった。選出 せんしゅつ の過程 かてい で不透明 ふとうめい な部分 ぶぶん があると候補者 こうほしゃ 認可 にんか が紛糾 ふんきゅう し、対立 たいりつ 教皇 きょうこう が立 た つというのも古代 こだい ではよくあることであった。
769年 ねん におこなわれたラテラン教会 きょうかい 会議 かいぎ で正式 せいしき にローマの信徒 しんと による承認 しょうにん が廃止 はいし されたが、862年 ねん のローマ司教 しきょう 会議 かいぎ では貴族 きぞく に限 かぎ ってその権利 けんり を復活 ふっかつ させた。1059年 ねん 、ニコラウス2世 せい は教 きょう 令 れい を発 はっ し、枢機卿 すうききょう 就任 しゅうにん のためにローマの聖職 せいしょく 者 しゃ と信徒 しんと の同意 どうい を必要 ひつよう とした上 うえ で、教皇 きょうこう は枢機卿 すうききょう 団 だん から選 えら ばれることと初 はじ めて決定 けってい した。当時 とうじ は司教 しきょう 枢機卿 すうききょう たちが最初 さいしょ に集 あつ まって誰 だれ が次 つぎ の教皇 きょうこう にふさわしいか討議 とうぎ し、話 はなし がまとまったところで司祭 しさい 枢機卿 すうききょう ・助祭 じょさい 枢機卿 すうききょう が呼 よ ばれて投票 とうひょう をおこなうという形 かたち がとられていた。1139年 ねん 、ラテラン教会 きょうかい 会議 かいぎ で教皇 きょうこう や枢機卿 すうききょう の選出 せんしゅつ における信徒 しんと と下級 かきゅう 聖職 せいしょく 者 しゃ の同意 どうい が完全 かんぜん に廃止 はいし された。
1059年 ねん 以来 いらい 、枢機卿 すうききょう 団 だん が教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ の任務 にんむ を担 にな っているが、1268年 ねん クレメンス4世 せい 死去 しきょ 後 ご の教皇 きょうこう 選挙 せんきょ が紛糾 ふんきゅう して3年 ねん 近 ちか く空位 くうい が続 つづ いたことに怒 おこ った民衆 みんしゅう が選挙 せんきょ 者 しゃ たちを会場 かいじょう から出 で られないように閉 と じ込 こ めた、という故事 こじ があり、これがコンクラーヴェの起源 きげん といわれる。現在 げんざい のコンクラーヴェの原型 げんけい は1274年 ねん の第 だい 2リヨン公 おおやけ 会議 かいぎ での議決 ぎけつ に基 もと づいている。
枢機卿 すうききょう 団 だん だけが教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ 権 けん を持 も つという規定 きてい は、1378年 ねん 以降 いこう の教会 きょうかい 大分 おおいた 裂 きれ の時代 じだい において激 はげ しい論議 ろんぎ の的 まと となった。フランス 出身 しゅっしん の教皇 きょうこう グレゴリウス11世 せい の死後 しご 、ローマ市民 しみん はイタリア 出身 しゅっしん の教皇 きょうこう を要求 ようきゅう して暴動 ぼうどう を起 お こし、枢機卿 すうききょう 団 だん は圧迫 あっぱく に耐 た えかねてイタリア 出身 しゅっしん のウルバヌス6世 せい を選出 せんしゅつ した。選挙 せんきょ に不当 ふとう な圧力 あつりょく がかかったと感 かん じた枢機卿 すうききょう 団 だん は同年 どうねん 、ローマを離 はな れてフォンディ へ移動 いどう し、ふたたび選挙 せんきょ をおこなって対立 たいりつ 教皇 きょうこう を選出 せんしゅつ した。1409年 ねん のピサ教会 きょうかい 会議 かいぎ はこの混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう すべく開 ひら かれたが、結局 けっきょく 3人 にん 目 め の教皇 きょうこう を選出 せんしゅつ して事態 じたい の泥沼 どろぬま 化 か を招 まね いた。結局 けっきょく 1411年 ねん から1418年 ねん にかけて開 ひら かれたコンスタンツ公 こう 会議 かいぎ で、2人 ふたり を廃位 はいい し1人 にん を辞任 じにん させることで混乱 こんらん を収拾 しゅうしゅう することに成功 せいこう した。これ以降 いこう 、枢機卿 すうききょう 団 だん のみが教皇 きょうこう 選挙 せんきょ 権 けん を持 も つことが再 さい 確認 かくにん され、公 おおやけ 会議 かいぎ は教皇 きょうこう の権威 けんい を超 こ えるものではないことが確認 かくにん された。
枢機卿 すうききょう 団 だん は13世紀 せいき にはわずか7人 にん だったこともあるが、16世紀 せいき に入 はい って急激 きゅうげき に拡大 かくだい し、1578年 ねん まで人数 にんずう は増加 ぞうか の一途 いっと をたどった。これを憂慮 ゆうりょ した教皇 きょうこう シクストゥス5世 せい は枢機卿 すうききょう 団 だん の人数 にんずう の上限 じょうげん を70名 めい とした。20世紀 せいき までこの慣例 かんれい は守 まも られていたが、教皇 きょうこう ヨハネ23世 せい がはじめてこの制限 せいげん を取 と り払 はら った。次 つぎ の教皇 きょうこう パウロ6世 せい も教皇 きょうこう 選挙 せんきょ 制度 せいど の改革 かいかく に取 と り組 く み、80歳 さい 以上 いじょう の枢機卿 すうききょう の教皇 きょうこう 選挙 せんきょ への参加 さんか を制限 せいげん 、投票 とうひょう 権 けん を持 も つ枢機卿 すうききょう 団 だん の人数 にんずう の上限 じょうげん を120人 にん とした。これは必然 ひつぜん 的 てき に80歳 さい 未満 みまん の枢機卿 すうききょう の人数 にんずう の上限 じょうげん でもある。以後 いご 、有権 ゆうけん 枢機卿 すうききょう の任命 にんめい は、この上限 じょうげん から相当 そうとう 数 すう の乖離 かいり が生 しょう じ、その補充 ほじゅう を目的 もくてき として、数 すう 年 ねん に一度 いちど 行 おこな われている(この規定 きてい を逆手 さかて に取 と って80歳 さい 以上 いじょう の聖職 せいしょく 者 しゃ で、教会 きょうかい への顕著 けんちょ な貢献 こうけん のあるものへの名誉 めいよ 的 てき な枢機卿 すうききょう 任命 にんめい も行 おこな われるようになった)。ただし、枢機卿 すうききょう 団 だん の年齢 ねんれい 構成 こうせい を考慮 こうりょ して、この上限 じょうげん を上回 うわまわ ることも何 なん 度 ど か発生 はっせい している。
教皇 きょうこう 選挙 せんきょ に関 かん する最新 さいしん の規定 きてい は、1996年 ねん のヨハネ・パウロ2世 せい 使徒 しと 憲章 けんしょう 『ウニベルシ・ドミニ・グレギス (Universi Dominici Gregis)』(『教皇 きょうこう 選挙 せんきょ と使徒 しと 座 ざ 空位 くうい について』)である。この規定 きてい は新 あたら しく作 つく られたものではなく、これまでの慣習 かんしゅう をまとめ、時代 じだい にそぐわない部分 ぶぶん を修正 しゅうせい したものである。さらにベネディクト16世 せい が2007年 ねん と2013年 ねん に自発 じはつ 教 きょう 令 れい を発 はっ して、いくつかの条項 じょうこう について改訂 かいてい を行 おこな っている。以降 いこう 、『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』とは、この2本 ほん の自発 じはつ 教 きょう 令 れい による改訂 かいてい も含 ふく むものとする。
古代 こだい において、ローマ司教 しきょう (教皇 きょうこう )に選 えら ばれるのは男性 だんせい 信徒 しんと でありさえすればよかった。しかし769年 ねん 以降 いこう 、聖職 せいしょく 者 しゃ にその資格 しかく が限定 げんてい された。時代 じだい がたつとさらに限定 げんてい されて枢機卿 すうききょう 団 だん のみが資格 しかく を持 も つことになった。1179年 ねん の第 だい 3ラテラン公 こう 会議 かいぎ では、再 ふたた び教皇 きょうこう 資格 しかく を一般 いっぱん 信徒 しんと にまで広 ひろ げている。1378年 ねん に選 えら ばれたウルバヌス6世 せい は、枢機卿 すうききょう 団 だん 以外 いがい から教皇 きょうこう に選 えら ばれた最後 さいご の人物 じんぶつ となった。
ローマ司教 しきょう といっても、別 べつ にイタリア 人 ひと である必要 ひつよう はない。実際 じっさい 、第 だい 264代 だい 教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい 以降 いこう の教皇 きょうこう はすべて非 ひ イタリア人 じん が選 えら ばれている。現代 げんだい でも、男性 だんせい 信徒 しんと であれば誰 だれ でも枢機卿 すうききょう 団 だん に選 えら ばれる資格 しかく があることになってはいるが、実際 じっさい にはほとんどが大司教 だいしきょう または司教 しきょう から選 えら ばれている。
女性 じょせい には史上 しじょう 、教皇 きょうこう になる資格 しかく が与 あた えられたことはない。「中世 ちゅうせい にジョアンナ という女性 じょせい 教皇 きょうこう がいた」という伝説 でんせつ があるが、これはフィクションである。
かつて教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ には3つの方法 ほうほう があった。
発声 はっせい の満場一致 まんじょういっち による決定 けってい
枢機卿 すうききょう たちがいっせいに新 しん 教皇 きょうこう の名前 なまえ をあげて満場一致 まんじょういっち した場合 ばあい に、その結果 けっか を聖霊 せいれい の働 はたら きによるものとして承認 しょうにん する方法 ほうほう 。
1.が出来 でき なかった場合 ばあい の、妥協 だきょう による決定 けってい
選挙 せんきょ が泥沼 どろぬま 化 か しそうだと判断 はんだん した場合 ばあい 、枢機卿 すうききょう 団 だん の中 なか から選挙 せんきょ 委員 いいん 会 かい を選 えら び出 だ して選出 せんしゅつ を主導 しゅどう してもらう方法 ほうほう 。
投票 とうひょう による決定 けってい
今 いま の教皇 きょうこう 選挙 せんきょ として理解 りかい されているもので、全 ぜん 枢機卿 すうききょう が匿名 とくめい 投票 とうひょう を繰 く り返 かえ して教皇 きょうこう を選 えら び出 だ す方法 ほうほう 。
ちなみに、発声 はっせい による満場一致 まんじょういっち で選 えら ばれた最後 さいご の教皇 きょうこう は1621年 ねん 選出 せんしゅつ のグレゴリウス15世 せい であり、選挙 せんきょ 委員 いいん 会 かい の主導 しゅどう という方法 ほうほう で選 えら ばれた最後 さいご の教皇 きょうこう は1316年 ねん 選出 せんしゅつ のヨハネス22世 せい である。
ヨハネ・パウロ2世 せい は機能 きのう せずに形骸 けいがい 化 か していた二 ふた つの方法 ほうほう を正式 せいしき に廃止 はいし して、投票 とうひょう による決定 けってい のみとした。
1179年 ねん までは投票 とうひょう 者 しゃ の過半数 かはんすう をとれば教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ されていたが、第 だい 3ラテラン公 こう 会議 かいぎ は投票 とうひょう の3分 ぶん の2以上 いじょう の得票 とくひょう を得 え ることを条件 じょうけん とした。教皇 きょうこう 選挙 せんきょ では自分 じぶん の名前 なまえ を書 か くことは認 みと められない。教皇 きょうこう 選挙 せんきょ では投票 とうひょう の匿名 とくめい 性 せい を守 まも りながら、同時 どうじ に自分 じぶん 自身 じしん への投票 とうひょう を防 ふせ ぐ巧 たく みなシステムが作 つく り上 あ げられてきた。ピウス12世 せい は、必要 ひつよう な得票 とくひょう 数 すう を3分 ぶん の2+1票 ひょう と改 あらた めた。ヨハネ・パウロ2世 せい はシステムをさらに改 あらた め[ 3] 、再 ふたた び必要 ひつよう 数 すう を3分 ぶん の2以上 いじょう (参加 さんか 者 しゃ 数 すう が3で割 わ り切 き れない場合 ばあい は1票 ひょう 加算 かさん )とし、さらに自分 じぶん への投票 とうひょう を認 みと め、一定 いってい 回数 かいすう の投票 とうひょう でも決 き まらないときには、首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう のイニシアティブにより、必要 ひつよう な得票 とくひょう 数 すう を変更 へんこう できるようにした。しかしベネディクト16世 せい は2007年 ねん にこの得票 とくひょう 数 すう 変更 へんこう 可能 かのう 規定 きてい を廃止 はいし する修正 しゅうせい を行 おこな った。よって現在 げんざい ではいかなる場合 ばあい でも3分 ぶん の2以上 いじょう の得票 とくひょう が必須 ひっす である。
コンクラーヴェは、バチカン市 し 国 こく にあるバチカン宮殿 きゅうでん 内 うち のシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう (1483年 ねん 聖 ひじり 別 べつ )でおこなわれる。
1978年 ねん 10月 がつ のコンクラーヴェまでは、投票 とうひょう を行 おこな う枢機卿 すうききょう たちはシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう 内 ない に閉 と じ込 こ められ、新 しん 教皇 きょうこう が選出 せんしゅつ されるまでは礼拝 れいはい 堂 どう から出 で ることを禁 きん じられていたが、2005年 ねん のコンクラーヴェからは廃止 はいし された[ 3] 。枢機卿 すうききょう 団 だん はかつてのようにシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう に缶詰 かんづめ にされることはなく、ヨハネ・パウロ2世 せい によってバチカンに新築 しんちく されたサン・マルタ館 かん という宿舎 しゅくしゃ で生活 せいかつ しながら、システィーナ礼拝 れいはい 堂 どう に投票 とうひょう に赴 おもむ くことに改 あらた められた。彼 かれ らはバチカンの庭 にわ を散策 さんさく することもできるようになったが、新聞 しんぶん 社 しゃ やテレビ局 てれびきょく などのマスコミと連絡 れんらく を取 と ることはもちろん、外部 がいぶ へ手紙 てがみ を出 だ したり電話 でんわ をかけることも厳 きび しく禁 きん じられる。またこの改革 かいかく に伴 ともな い、選挙 せんきょ 期間 きかん 中 ちゅう のバチカンの立入禁止 たちいりきんし 区域 くいき が拡張 かくちょう されている。
コンクラーヴェに参加 さんか する枢機卿 すうききょう たちは、新 しん 教皇 きょうこう の選出 せんしゅつ に至 いた るまでの経緯 けいい について外部 がいぶ に情報 じょうほう を漏 も らすことを厳 きび しく禁 きん じられており、これに違反 いはん した者 もの は教会 きょうかい から破門 はもん される決 き まりになっている。しかし、実際 じっさい には匿名 とくめい でマスコミに情報 じょうほう を提供 ていきょう する枢機卿 すうききょう もおり、新 しん 教皇 きょうこう の選出 せんしゅつ までに枢機卿 すうききょう たちの間 あいだ でどのような話 はな し合 あ いが行 おこな われたか、新 しん 教皇 きょうこう が何 なん 票 ひょう の得票 とくひょう 数 すう で選出 せんしゅつ されたかなどの情報 じょうほう が、時 とき おり新聞 しんぶん やテレビなどで報道 ほうどう されることがある。
以下 いか は『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』に基 もと づく。
司教 しきょう 枢機卿 すうききょう の一人 ひとり である首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう には、教皇 きょうこう 選挙 せんきょ におけるいくつかの役割 やくわり が与 あた えられている。もし首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう が年齢 ねんれい 制限 せいげん によって選挙 せんきょ に参加 さんか しない場合 ばあい は次席 じせき 枢機卿 すうききょう がその役割 やくわり を果 は たす。次席 じせき 枢機卿 すうききょう も参加 さんか しない場合 ばあい は司教 しきょう 枢機卿 すうききょう の中 なか で最 さい 古参 こさん の人物 じんぶつ がそれをおこなう。ただしこの制限 せいげん は教皇 きょうこう 選挙 せんきょ 本番 ほんばん に限 かぎ られ、事前 じぜん の枢機卿 すうききょう 会議 かいぎ は(本人 ほんにん の健康 けんこう に問題 もんだい があるなどの場合 ばあい を除 のぞ いて)参加 さんか する。
枢機卿 すうききょう 団 だん の規模 きぼ 自体 じたい がそれほど大 おお きくないため、もっと多 おお い人数 にんずう の中 なか から教皇 きょうこう を選 えら ぶべきではないかという意見 いけん もある。たとえばある意見 いけん は現在 げんざい のように枢機卿 すうききょう 団 だん に選挙 せんきょ をゆだねるのではなく、司教 しきょう 会議 かいぎ にゆだねたほうがいいという意見 いけん もある。しかし、現在 げんざい の規定 きてい では司教 しきょう 会議 かいぎ を招集 しょうしゅう できるのは教皇 きょうこう のみである。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では司教 しきょう 会議 かいぎ のみならず、公 おおやけ 会議 かいぎ ですら、教皇 きょうこう 逝去 せいきょ にともなう使徒 しと 座 ざ 空位 くうい 時 とき には一旦 いったん 休会 きゅうかい し、新 しん 教皇 きょうこう による再開 さいかい の指示 しじ を待 ま たねばならないとしている。
以後 いご 、使徒 しと 座 ざ 空位 くうい の発生 はっせい 条件 じょうけん 、すなわち「教皇 きょうこう の逝去 せいきょ 」または「教皇 きょうこう の辞任 じにん 」のケースごとに説明 せつめい し、その後 ご は共通 きょうつう となるコンクラーヴェ本番 ほんばん について述 の べる。
教皇 きょうこう の逝去 せいきょ にはカメルレンゴ といわれる枢機卿 すうききょう が立 た ち会 あ う。カメルレンゴとは教皇 きょうこう が生前 せいぜん 、指名 しめい しておいた枢機卿 すうききょう であり、教皇 きょうこう 不在 ふざい 時 じ に指示 しじ を出 だ す役割 やくわり を持 も っている。教皇 きょうこう が逝去 せいきょ したと判断 はんだん されると、カメルレンゴが銀 ぎん のハンマーで教皇 きょうこう のひたいを静 しず かに叩 はた き、洗礼 せんれい 名 めい で数 すう 回 かい 呼 よ んで、反応 はんのう がないことを確認 かくにん した上 うえ で、死 し を確認 かくにん するという儀式 ぎしき がおこなわれていたが、20世紀 せいき に入 はい ってからはおこなわれたことがない。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では、単 たん に教皇 きょうこう 庁 ちょう 儀典 ぎてん 長 ちょう と聖職 せいしょく 者 しゃ 団 だん の代表 だいひょう 、教皇 きょうこう 秘書 ひしょ 、使徒 しと 団 だん の団長 だんちょう など80歳 さい 以下 いか の高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ が立 た ち会 あ って確認 かくにん をおこなうことだけを求 もと めている。なお、ヨハネ・パウロ2世 せい の死去 しきょ のときは臨終 りんじゅう 後 ご に心電図 しんでんず を20分間 ふんかん 計測 けいそく することで死 し の確認 かくにん をとった[ 4] 。
カメルレンゴは教皇 きょうこう の死 し の確認 かくにん を終 お えると、元 もと 漁師 りょうし であった聖 せい ペトロ にちなんで「漁夫 ぎょふ の指輪 ゆびわ 」と呼 よ ばれる教皇 きょうこう 指輪 ゆびわ を教皇 きょうこう の指 ゆび から外 はず し、枢機卿 すうききょう 団 だん の前 まえ でそれを破壊 はかい していた。「漁夫 ぎょふ の指輪 ゆびわ 」には教皇 きょうこう が文書 ぶんしょ に押 お す印章 いんしょう (インタリオリング - 指輪 ゆびわ 印 しるし )が付 つ いており、これが教皇 きょうこう の死後 しご に他者 たしゃ の手 て で不正 ふせい に使用 しよう されることを防 ふせ ぐためである。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では書簡 しょかん 用 よう の鉛 なまり 印 いん とともに破棄 はき を求 もと めており、2005年 ねん のコンクラーヴェの際 さい は4月 がつ 16日 にち の枢機卿 すうききょう 会議 かいぎ にて鉛 なまり 印 いん ともども破壊 はかい されている[ 4] 。
教皇 きょうこう の逝去 せいきょ が発表 はっぴょう されると、枢機卿 すうききょう 団 だん が全員 ぜんいん 集合 しゅうごう して会合 かいごう を開 ひら き、教皇 きょうこう 選挙 せんきょ にいたる日程 にってい を決定 けってい する。この会合 かいごう には80歳 さい 以上 いじょう の枢機卿 すうききょう は参加 さんか しなくても良 よ いが、希望 きぼう するなら参加 さんか することができる。教皇 きょうこう 葬儀 そうぎ は死後 しご 4日 にち から6日 にち の間 あいだ におこなわれる。その後 ご 、教皇 きょうこう 庁 ちょう 全体 ぜんたい が9日間 にちかん の喪 も に服 ふく する。これをラテン語 らてんご で九日 ここのか を意味 いみ するノヴェンディアレスという。この間 あいだ も枢機卿 すうききょう 団 だん の会合 かいごう は毎日 まいにち 行 おこな われる。教皇 きょうこう 選挙 せんきょ は通常 つうじょう 、教皇 きょうこう の死後 しご 15日 にち 以降 いこう におこなわれる。全 ぜん 枢機卿 すうききょう がそろわない場合 ばあい 、選挙 せんきょ の実施 じっし を最高 さいこう で20日 はつか まで伸 の ばすことが出来 でき る。
教会 きょうかい 法 ほう には教皇 きょうこう の生前 せいぜん 辞任 じにん が認 みと められているが、実際 じっさい には教皇 きょうこう が生前 せいぜん に辞任 じにん する事態 じたい はほとんど起 お こっていない。しかし、2013年 ねん 2月 がつ 11日 にち 、ベネディクト16世 せい が通常 つうじょう 枢機卿 すうききょう 会議 かいぎ で「自由 じゆう な信仰 しんこう により公 おおやけ に」2013年 ねん 2月 がつ 28日 にち 午後 ごご 8時 じ (中央 ちゅうおう ヨーロッパ時間 じかん )を以って辞任 じにん することを表明 ひょうめい した(ベネディクト16世 せい の辞任 じにん )。これにより719年 ねん ぶりに教皇 きょうこう の生前 せいぜん 辞任 じにん を要件 ようけん とするコンクラーヴェが開催 かいさい されることになった。
ベネディクト16世 せい が辞任 じにん を表明 ひょうめい するときに「2013年 ねん 2月 がつ 28日 にち 午後 ごご 8時 じ を以って、聖 せい ペテロの後継 こうけい 者 しゃ の聖 せい 座 ざ は空位 くうい となり(使徒 しと 座 ざ 空位 くうい の発生 はっせい )、枢機卿 すうききょう 団 だん が新 あたら しい教皇 きょうこう を選 えら ぶでしょう」と述 の べている。そのため、あらかじめ宣言 せんげん した辞任 じにん の日時 にちじ までは教皇 きょうこう は通常 つうじょう の聖 ひじり 務 つとむ を行 おこな うが、辞任 じにん の日時 にちじ 到来 とうらい 後 ご は使徒 しと 座 ざ 空位 くうい となり聖 せい ペテロの後継 こうけい 者 しゃ の身分 みぶん を失 うしな った前 ぜん 教皇 きょうこう はコンクラーヴェが終 お わるまではあらゆる移動 いどう 、発言 はつげん 、面会 めんかい はしない。
使徒 しと 座 ざ 空位 くうい となったあとは逝去 せいきょ 時 じ 同様 どうよう 、教会 きょうかい はカメルレンゴと枢機卿 すうききょう 団 だん の共同 きょうどう 管理 かんり 下 か に入 はい り、辞任 じにん した教皇 きょうこう の印璽 いんじ のある指輪 ゆびわ は破壊 はかい される。辞任 じにん した教皇 きょうこう が存命 ぞんめい のままであるので、当然 とうぜん ながら9日間 にちかん の服喪 ふくも はない。選挙 せんきょ 開始 かいし の日程 にってい 決定 けってい の規則 きそく は逝去 せいきょ 前提 ぜんてい であったため、ベネディクト16世 せい は同年 どうねん 2月 がつ 22日 にち に、(参加 さんか 予定 よてい の)全 ぜん 有権 ゆうけん 枢機卿 すうききょう が集 あつ まれば前倒 まえだお しを可能 かのう とする規定 きてい の追加 ついか を行 おこな った。そして3月 がつ 8日 にち 、枢機卿 すうききょう 会議 かいぎ 内 ない で行 おこな われた投票 とうひょう により、3月12日 にち よりコンクラーヴェが開催 かいさい されることが決定 けってい された。先 さき の改正 かいせい 規則 きそく の適用 てきよう で3日 にち 前倒 まえだお しされる形 かたち となった。
選挙 せんきょ 当日 とうじつ の朝 あさ 、(選挙 せんきょ 権 けん のない者 もの も含 ふく めた)枢機卿 すうききょう 団 だん はサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう に集 あつ まってミサ をささげる。午後 ごご 、有権 ゆうけん 枢機卿 すうききょう たちはバチカン宮殿 きゅうでん 内 ない のパウロ礼拝 れいはい 堂 どう に集合 しゅうごう して、そこから聖霊 せいれい の助 たす けを願 ねが う歌 うた である「ヴェニ・クレアトール 」を歌 うた ってシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう へと移動 いどう する。現代 げんだい ではこの行列 ぎょうれつ はテレビ中継 ちゅうけい される。礼拝 れいはい 堂 どう に到着 とうちゃく すると、首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう の先導 せんどう のもとに宣誓 せんせい 文 ぶん がとなえられる。宣誓 せんせい の内容 ないよう は、もし自分 じぶん が選出 せんしゅつ された場合 ばあい 聖 ひじり 座 ざ の自由 じゆう を守 まも ること、選挙 せんきょ の秘密 ひみつ を守 まも ること、投票 とうひょう において外部 がいぶ の圧力 あつりょく を受 う けないことである。続 つづ いて枢機卿 すうききょう は一人 ひとり ずつ福音 ふくいん 書 しょ に手 て を置 お き、以下 いか の宣誓 せんせい を行 おこな う。名前 なまえ はラテン語 らてんご 化 か して行 おこな う。
Et ego N. Cardinalis N. spendeo, voveo ac iuro: Sic me Deus adiuvet et haec Sancta Dei Evangelia, quae manu mea tango.
而 しか して我 わが 、枢機卿 すうききょう N.N.は茲に宣誓 せんせい す。而 しか して神 かみ よ、我 われ と茲に手 て を置 お く神聖 しんせい なる福音 ふくいん を助 たす けたまえ。
宣誓 せんせい が終 お わると、教皇 きょうこう 庁 ちょう 儀典 ぎてん 長 ちょう の「全員 ぜんいん 退去 たいきょ 」の宣言 せんげん とともに、儀典 ぎてん 長 ちょう と講話 こうわ を行 おこな う聖職 せいしょく 者 しゃ を除 のぞ き、枢機卿 すうききょう 団 だん 以外 いがい は礼拝 れいはい 堂 どう から退出 たいしゅつ する。退出 たいしゅつ を見届 みとど けた儀典 ぎてん 長 ちょう は入 い り口 くち に進 すす んで内側 うちがわ から鍵 かぎ をかける。テレビ中継 ちゅうけい はここで終 お わる。
続 つづ いて講話 こうわ 者 しゃ が残 のこ った枢機卿 すうききょう 団 だん に向 む かって現代 げんだい の教会 きょうかい が抱 かか える問題 もんだい と新 しん 教皇 きょうこう に求 もと められる資質 ししつ についての講話 こうわ をおこなう。講話 こうわ が終 お わると儀典 ぎてん 長 ちょう と講話 こうわ 者 しゃ は退室 たいしつ し、枢機卿 すうききょう 団 だん のみが残 のこ る。首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう の主導 しゅどう のもとに祈 いの りをとなえ、選挙 せんきょ の方法 ほうほう に疑問 ぎもん 点 てん がないか確認 かくにん される。疑問 ぎもん がなければ選挙 せんきょ が始 はじ められる。投票 とうひょう の開始 かいし に間 ま に合 あ わなかった枢機卿 すうききょう は当該 とうがい 選挙 せんきょ に参加 さんか することができない。
選挙 せんきょ 中 ちゅう に病気 びょうき によって体調 たいちょう が悪化 あっか した場合 ばあい は退室 たいしつ することができる。その場合 ばあい は回復 かいふく してから選挙 せんきょ にもどることができる。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では病気 びょうき のために礼拝 れいはい 堂 どう へいけない者 もの のための不在 ふざい 者 しゃ 投票 とうひょう システムも整備 せいび され、聖 ひじり マルタ館 かん の自室 じしつ で投票 とうひょう をすることができ、その際 さい の代理 だいり 投票 とうひょう も一定 いってい の手続 てつづ きの下 した に認 みと められている。しかし病気 びょうき 以外 いがい の理由 りゆう で退室 たいしつ した場合 ばあい は以後 いご の選挙 せんきょ に参加 さんか することはできない。
枢機卿 すうききょう 団 だん 以外 いがい で教皇 きょうこう 選挙 せんきょ 中 ちゅう に枢機卿 すうききょう たちにかかわることができるのは、枢機卿 すうききょう 団 だん の秘書 ひしょ 、教皇 きょうこう 庁 ちょう 儀典 ぎてん 長 ちょう 、儀式 ぎしき 長 ちょう 、香 こう 部屋 へや 係 がかり 、各国 かっこく 語 ご での告解 こっかい が聞 き ける数 すう 人 にん の司祭 しさい 、二人 ふたり の医師 いし 、枢機卿 すうききょう 団 だん の食事 しょくじ の世話 せわ や清掃 せいそう をおこなう係 かかり の者 もの たちのみである。枢機卿 すうききょう だけでなくスタッフ全員 ぜんいん が選挙 せんきょ の進行 しんこう や内容 ないよう について重大 じゅうだい な守秘 しゅひ 義務 ぎむ を負 お っており、事前 じぜん に(枢機卿 すうききょう たちとは別途 べっと にカメルレンゴに対 たい して)宣誓 せんせい を行 おこな う。特 とく に枢機卿 すうききょう 団 だん は外部 がいぶ との接触 せっしょく を厳重 げんじゅう に禁 きん じられる。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では特 とく に新聞 しんぶん やテレビなどのメディアと絶対 ぜったい 接触 せっしょく しないよう念 ねん を押 お している。実際 じっさい 、2005年 ねん のコンクラーヴェからは枢機卿 すうききょう 団 だん の宿舎 しゅくしゃ である聖 ひじり マルタ館 かん の電話 でんわ やインターネット回線 かいせん が切断 せつだん され、聖 ひじり マルタ館 かん とシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう には、携帯 けいたい 電話 でんわ 使用 しよう や盗聴 とうちょう を防止 ぼうし するためのジャミングが流 なが される など電子 でんし 的 てき にも厳戒 げんかい 態勢 たいせい がしかれるようになった。
投票 とうひょう は所定 しょてい の用紙 ようし に無 む 記名 きめい で行 おこな われ、投票 とうひょう 者 しゃ 自 みずか らが手書 てが きで記入 きにゅう し容器 ようき に入 い れる事 こと としている。第 だい 1日 にち 目 め の午後 ごご 、最初 さいしょ の投票 とうひょう がおこなわれる。この第 だい 1回 かい の投票 とうひょう で決 き まらなかった場合 ばあい 、2日 にち 目 め 以降 いこう からは1日 にち 午前 ごぜん 2回 かい 、午後 ごご 2回 かい の計 けい 4回 かい の投票 とうひょう がおこなわれる。3日 にち 目 め になっても決 き まらない場合 ばあい は、1日 にち 投票 とうひょう のない日 ひ が入 はい り、祈 いの りと助祭 じょさい 枢機卿 すうききょう の最年長 さいねんちょう 者 しゃ による講話 こうわ がおこなわれる。さらに7回 かい の投票 とうひょう がおこなわれて決 き まらない場合 ばあい 、再 ふたた び無投票 むとうひょう の日 ひ が入 はい り、今度 こんど は司祭 しさい 枢機卿 すうききょう の最年長 さいねんちょう 者 しゃ が講話 こうわ をおこなう。さらに7回 かい の投票 とうひょう によっても決 き まらない場合 ばあい も、同 おな じようなプロセスが繰 く り返 かえ され、今度 こんど は司教 しきょう 枢機卿 すうききょう の年長 ねんちょう 者 しゃ が講話 こうわ をおこなう。さらに7度 ど の投票 とうひょう によっても決 き まらない場合 ばあい は、最後 さいご の投票 とうひょう で最多 さいた 得票 とくひょう を得 え た上位 じょうい 2名 めい の候補者 こうほしゃ による決選 けっせん 投票 とうひょう に移行 いこう する。決選 けっせん 投票 とうひょう に候補者 こうほしゃ たちは加 くわ わることができない。
システィーナ礼拝 れいはい 堂 どう の煙突 えんとつ からの「黒 くろ い煙 けむり (Fumata nera )」。「ローマの司教 しきょう は選 えら ばれず」を意味 いみ する[ 5] 。
システィーナ礼拝 れいはい 堂 どう の煙突 えんとつ からの「白 しろ い煙 けむり (Fumata bianca )」。「枢機卿 すうききょう 団 だん によりて、ローマの司教 しきょう は選 えら ばれり」を意味 いみ する[ 5] (写真 しゃしん はヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿 すうききょう を教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ した2005年 ねん のコンクラーヴェのもの)。
それぞれの投票 とうひょう 後 ご には、票 ひょう の集計 しゅうけい ・数 かず の検査 けんさ ・投票 とうひょう 用紙 ようし の焼却 しょうきゃく が行 おこな われる。ただし用紙 ようし 焼却 しょうきゃく は午前 ごぜん 午後 ごご それぞれ2回 かい 目 め の投票 とうひょう 後 ご に行 おこな われ、1回 かい 目 め の時点 じてん で決 き まらなければそのまま再度 さいど 投票 とうひょう が行 おこな われる。投票 とうひょう 用紙 ようし の焼却 しょうきゃく の際 さい には特殊 とくしゅ な薬品 やくひん を混 ま ぜて、新 しん 教皇 きょうこう がまだ決 き まらない場合 ばあい には礼拝 れいはい 堂 どう の煙突 えんとつ から黒 くろ い煙 けむり を出 だ し、新 しん 教皇 きょうこう が決 き まった場合 ばあい には白 しろ い煙 けむり を出 だ して外部 がいぶ への合図 あいず とする。過去 かこ には未決 みけつ の場合 ばあい 湿 しめ らせたわらを混入 こんにゅう し燃 も やして黒 くろ い煙 けむり を出 だ すようにしていたが、ヨハネ・パウロ1世 せい を選出 せんしゅつ した1978年 ねん 8月 がつ の教皇 きょうこう 選挙 せんきょ で黒 くろ とも白 しろ ともつかない灰色 はいいろ の煙 けむり が出 で て情報 じょうほう が混乱 こんらん したことがあった。そのため明確 めいかく に色付 いろづ けする目的 もくてき で、黒 くろ 煙 けむり の場合 ばあい は過 か 塩素 えんそ 酸 さん カリウム ・アントラセン ・硫黄 いおう の化合 かごう 物 ぶつ を、白 しろ 煙 けむり の場合 ばあい は塩素 えんそ 酸 さん カリウム や乳糖 にゅうとう 、松脂 まつやに の混合 こんごう 物 ぶつ を投票 とうひょう 用紙 ようし に混 ま ぜて燃 も やすようになり[ 6] 、さらにベネディクト16世 せい を選出 せんしゅつ した2005年 ねん の教皇 きょうこう 選挙 せんきょ からは、新 しん 教皇 きょうこう が決 き まった場合 ばあい 、白 しろ い煙 けむり が出 で た直後 ちょくご にサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう の鐘 かね を鳴 な らして正式 せいしき な合図 あいず とすることになった。
投票 とうひょう によって、ある枢機卿 すうききょう が必要 ひつよう な票数 ひょうすう を獲得 かくとく すると、礼拝 れいはい 堂 どう 内 ない に枢機卿 すうききょう 団 だん 秘書 ひしょ と教皇 きょうこう 庁 ちょう 儀典 ぎてん 長 ちょう が呼 よ び入 い れられる。首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう は候補者 こうほしゃ に対 たい し、教皇 きょうこう 位 い を受諾 じゅだく するかどうか尋 たず ねる。もし、候補者 こうほしゃ が受諾 じゅだく し、すでに司教 しきょう であるなら、その時点 じてん で教皇 きょうこう 位 い を受 う けることになる。もし司祭 しさい であるなら、首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう が司教 しきょう 叙 じょ 階 かい をおこなった上 うえ で、教皇 きょうこう 位 い を受 う ける。信徒 しんと が選 えら ばれた場合 ばあい は、首席 しゅせき 枢機卿 すうききょう が司祭 しさい 叙 じょ 階 かい した上 うえ で司教 しきょう 叙 じょ 階 かい をおこなう。
535年 ねん 以来 いらい 、教皇 きょうこう に選出 せんしゅつ された者 もの は、就任 しゅうにん 時 じ に自身 じしん の教皇 きょうこう 名 めい を自 みずか ら決 き める慣習 かんしゅう になっている。
新 しん 教皇 きょうこう はあらかじめ用意 ようい されていた3つのサイズの白衣 はくい の中 なか から自分 じぶん の体 からだ に合 あ うものを選 えら んで身 み にまとう。そこで枢機卿 すうききょう 団 だん が待機 たいき している礼拝 れいはい 堂 どう に戻 もど り、カメルレンゴ から新 あたら しい「漁夫 ぎょふ の指輪 ゆびわ 」を受 う け取 と り、祭壇 さいだん 近 ちか くにすえられた椅子 いす について枢機卿 すうききょう 団 だん 一 いち 人 にん 一人 ひとり からの敬意 けいい の表明 ひょうめい を受 う ける。
次 つぎ に助祭 じょさい 枢機卿 すうききょう の最年長 さいねんちょう 者 しゃ がサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう の広場 ひろば を見下 みお ろすバルコニーに出 で て、ラテン語 らてんご で新 しん 教皇 きょうこう の決定 けってい を発表 はっぴょう する。そして新 しん 教皇 きょうこう がバルコニーにあらわれて、「ウルビ・エト・オルビ 」(Urbi et Orbi、「ローマと世界 せかい へ」の意 い )ではじまる在位 ざいい 最初 さいしょ の祝福 しゅくふく を与 あた える。かつて教皇 きょうこう は教皇 きょうこう 冠 かんむり を受 う けていたが、ヨハネ・パウロ1世 せい によってこの戴冠 たいかん 式 しき は廃止 はいし されている。