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コンクラーヴェ - Wikipedia コンテンツにスキップ

コンクラーヴェ

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コンクラーヴェがおこなわれるシスティーナ礼拝れいはいどう

コンクラーヴェとは、「教皇きょうこう選挙せんきょ」を意味いみする言葉ことばで、ちょんカトリック教会きょうかい最高さいこう司祭しさい[1]たるローマ教皇きょうこう枢機卿すうききょうによる投票とうひょう選出せんしゅつする手続てつづきのことである。日本にっぽんカトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかいではコンクラーベ表記ひょうきする[2]。Conclave とはラテン語らてんごで “cum clavi”(かぎがかかった)のである。

このシステムは、カトリック教会きょうかい歴史れきしなかなに世紀せいきもかけて、他国たこく干渉かんしょう防止ぼうし秘密ひみつ保持ほじするためげられてきたものである。

歴史れきし

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歴代れきだい教皇きょうこうたちは、選挙せんきょ方法ほうほう変更へんこうすることやのぞむなら枢機卿すうききょうだんそうえすることもみとめられていたが、後継こうけいしゃ指名しめいすることだけはゆるされなかった。

初代しょだい教会きょうかい司教しきょうたちは、その共同きょうどうたい創始そうししゃによって指名しめいされていたとかんがえられている。やがて、ローマやそのほかの地域ちいきで、司祭しさい信徒しんと近隣きんりん教区きょうく司教しきょうたちがあつまって司教しきょう決定けっていする方法ほうほうがとられるようになった。教皇きょうこうえらばれる権利けんりのあるのは聖職せいしょくしゃのみであったが、かれらには投票とうひょうけんあたえられなかった。そのわりにかれらには教皇きょうこう決定けってい承認しょうにんする権利けんりあたえられていた。司教しきょうはそのプロセスの監視かんしにんっていた。教皇きょうこう候補者こうほしゃ決定けっていすると信徒しんと同意どういもとめられ、同意どういけてしん教皇きょうこう決定けっていした。民衆みんしゅう大声おおごえ同意どうい(あるいは同意どうい)をしめすのは古代こだい以来いらいのローマの習慣しゅうかんであった。選出せんしゅつ過程かてい不透明ふとうめい部分ぶぶんがあると候補者こうほしゃ認可にんか紛糾ふんきゅうし、対立たいりつ教皇きょうこうつというのも古代こだいではよくあることであった。

769ねんにおこなわれたラテラン教会きょうかい会議かいぎ正式せいしきにローマの信徒しんとによる承認しょうにん廃止はいしされたが、862ねんローマ司教しきょう会議かいぎでは貴族きぞくかぎってその権利けんり復活ふっかつさせた。1059ねんニコラウス2せいきょうれいはっし、枢機卿すうききょう就任しゅうにんのためにローマの聖職せいしょくしゃ信徒しんと同意どうい必要ひつようとしたうえで、教皇きょうこう枢機卿すうききょうだんからえらばれることとはじめて決定けっていした。当時とうじ司教しきょう枢機卿すうききょうたちが最初さいしょあつまってだれつぎ教皇きょうこうにふさわしいか討議とうぎし、はなしがまとまったところで司祭しさい枢機卿すうききょう助祭じょさい枢機卿すうききょうばれて投票とうひょうをおこなうというかたちがとられていた。1139ねん、ラテラン教会きょうかい会議かいぎ教皇きょうこう枢機卿すうききょう選出せんしゅつにおける信徒しんと下級かきゅう聖職せいしょくしゃ同意どうい完全かんぜん廃止はいしされた。

1059ねん以来いらい枢機卿すうききょうだん教皇きょうこう選出せんしゅつ任務にんむになっているが、1268ねんクレメンス4せい死去しきょ教皇きょうこう選挙せんきょ紛糾ふんきゅうして3ねんちか空位くういつづいたことにおこった民衆みんしゅう選挙せんきょしゃたちを会場かいじょうからられないようにめた、という故事こじがあり、これがコンクラーヴェの起源きげんといわれる。現在げんざいのコンクラーヴェの原型げんけいは1274ねんだい2リヨンおおやけ会議かいぎでの議決ぎけつもとづいている。

枢機卿すうききょうだんだけが教皇きょうこう選出せんしゅつけんつという規定きていは、1378ねん以降いこう教会きょうかい大分おおいたきれ時代じだいにおいてはげしい論議ろんぎまととなった。フランス出身しゅっしん教皇きょうこうグレゴリウス11せい死後しごローマ市民しみんイタリア出身しゅっしん教皇きょうこう要求ようきゅうして暴動ぼうどうこし、枢機卿すうききょうだん圧迫あっぱくえかねてイタリア出身しゅっしんウルバヌス6せい選出せんしゅつした。選挙せんきょ不当ふとう圧力あつりょくがかかったとかんじた枢機卿すうききょうだん同年どうねん、ローマをはなれてフォンディ移動いどうし、ふたたび選挙せんきょをおこなって対立たいりつ教皇きょうこう選出せんしゅつした。1409ねんピサ教会きょうかい会議かいぎはこの混乱こんらん収拾しゅうしゅうすべくひらかれたが、結局けっきょく3にん教皇きょうこう選出せんしゅつして事態じたい泥沼どろぬままねいた。結局けっきょく1411ねんから1418ねんにかけてひらかれたコンスタンツこう会議かいぎで、2人ふたり廃位はいいし1にん辞任じにんさせることで混乱こんらん収拾しゅうしゅうすることに成功せいこうした。これ以降いこう枢機卿すうききょうだんのみが教皇きょうこう選挙せんきょけんつことがさい確認かくにんされ、おおやけ会議かいぎ教皇きょうこう権威けんいえるものではないことが確認かくにんされた。

枢機卿すうききょうだん13世紀せいきにはわずか7にんだったこともあるが、16世紀せいきはいって急激きゅうげき拡大かくだいし、1578ねんまで人数にんずう増加ぞうか一途いっとをたどった。これを憂慮ゆうりょした教皇きょうこうシクストゥス5せい枢機卿すうききょうだん人数にんずう上限じょうげんを70めいとした。20世紀せいきまでこの慣例かんれいまもられていたが、教皇きょうこうヨハネ23せいがはじめてこの制限せいげんはらった。つぎ教皇きょうこうパウロ6せい教皇きょうこう選挙せんきょ制度せいど改革かいかくみ、80さい以上いじょう枢機卿すうききょう教皇きょうこう選挙せんきょへの参加さんか制限せいげん投票とうひょうけん枢機卿すうききょうだん人数にんずう上限じょうげんを120にんとした。これは必然ひつぜんてきに80さい未満みまん枢機卿すうききょう人数にんずう上限じょうげんでもある。以後いご有権ゆうけん枢機卿すうききょう任命にんめいは、この上限じょうげんから相当そうとうすう乖離かいりしょうじ、その補充ほじゅう目的もくてきとして、すうねん一度いちどおこなわれている(この規定きてい逆手さかてって80さい以上いじょう聖職せいしょくしゃで、教会きょうかいへの顕著けんちょ貢献こうけんのあるものへの名誉めいよてき枢機卿すうききょう任命にんめいおこなわれるようになった)。ただし、枢機卿すうききょうだん年齢ねんれい構成こうせい考慮こうりょして、この上限じょうげん上回うわまわることもなん発生はっせいしている。

教皇きょうこう選挙せんきょかんする最新さいしん規定きていは、1996ねんヨハネ・パウロ2せい使徒しと憲章けんしょうウニベルシ・ドミニ・グレギス (Universi Dominici Gregis)』(『教皇きょうこう選挙せんきょ使徒しと空位くういについて』)である。この規定きていあたらしくつくられたものではなく、これまでの慣習かんしゅうをまとめ、時代じだいにそぐわない部分ぶぶん修正しゅうせいしたものである。さらにベネディクト16せいが2007ねんと2013ねん自発じはつきょうれいはっして、いくつかの条項じょうこうについて改訂かいていおこなっている。以降いこう、『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』とは、この2ほん自発じはつきょうれいによる改訂かいていふくむものとする。

選挙せんきょ制度せいど

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教皇きょうこう資格しかく

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古代こだいにおいて、ローマ司教しきょう教皇きょうこう)にえらばれるのは男性だんせい信徒しんとでありさえすればよかった。しかし769ねん以降いこう聖職せいしょくしゃにその資格しかく限定げんていされた。時代じだいがたつとさらに限定げんていされて枢機卿すうききょうだんのみが資格しかくつことになった。1179ねんだい3ラテランこう会議かいぎでは、ふたた教皇きょうこう資格しかく一般いっぱん信徒しんとにまでひろげている。1378ねんえらばれたウルバヌス6せいは、枢機卿すうききょうだん以外いがいから教皇きょうこうえらばれた最後さいご人物じんぶつとなった。

ローマ司教しきょうといっても、べつイタリアひとである必要ひつようはない。実際じっさいだい264だい教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい以降いこう教皇きょうこうはすべてイタリアじんえらばれている。現代げんだいでも、男性だんせい信徒しんとであればだれでも枢機卿すうききょうだんえらばれる資格しかくがあることになってはいるが、実際じっさいにはほとんどが大司教だいしきょうまたは司教しきょうからえらばれている。

女性じょせいには史上しじょう教皇きょうこうになる資格しかくあたえられたことはない。「中世ちゅうせいジョアンナという女性じょせい教皇きょうこうがいた」という伝説でんせつがあるが、これはフィクションである。

選出せんしゅつほう

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かつて教皇きょうこう選出せんしゅつには3つの方法ほうほうがあった。

  1. 発声はっせい満場一致まんじょういっちによる決定けってい
    • 枢機卿すうききょうたちがいっせいにしん教皇きょうこう名前なまえをあげて満場一致まんじょういっちした場合ばあいに、その結果けっか聖霊せいれいはたらきによるものとして承認しょうにんする方法ほうほう
  2. 1.が出来できなかった場合ばあいの、妥協だきょうによる決定けってい
    • 選挙せんきょ泥沼どろぬましそうだと判断はんだんした場合ばあい枢機卿すうききょうだんなかから選挙せんきょ委員いいんかいえらして選出せんしゅつ主導しゅどうしてもらう方法ほうほう
  3. 投票とうひょうによる決定けってい
    • いま教皇きょうこう選挙せんきょとして理解りかいされているもので、ぜん枢機卿すうききょう匿名とくめい投票とうひょうかえして教皇きょうこうえら方法ほうほう

ちなみに、発声はっせいによる満場一致まんじょういっちえらばれた最後さいご教皇きょうこう1621ねん選出せんしゅつグレゴリウス15せいであり、選挙せんきょ委員いいんかい主導しゅどうという方法ほうほうえらばれた最後さいご教皇きょうこう1316ねん選出せんしゅつヨハネス22せいである。

ヨハネ・パウロ2せい機能きのうせずに形骸けいがいしていたふたつの方法ほうほう正式せいしき廃止はいしして、投票とうひょうによる決定けっていのみとした。

得票とくひょうすう

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1179ねんまでは投票とうひょうしゃ過半数かはんすうをとれば教皇きょうこう選出せんしゅつされていたが、だい3ラテランこう会議かいぎ投票とうひょうの3ぶんの2以上いじょう得票とくひょうることを条件じょうけんとした。教皇きょうこう選挙せんきょでは自分じぶん名前なまえくことはみとめられない。教皇きょうこう選挙せんきょでは投票とうひょう匿名とくめいせいまもりながら、同時どうじ自分じぶん自身じしんへの投票とうひょうふせたくみなシステムがつくげられてきた。ピウス12せいは、必要ひつよう得票とくひょうすうを3ぶんの2+1ひょうあらためた。ヨハネ・パウロ2せいはシステムをさらにあらた[3]ふたた必要ひつようすうを3ぶんの2以上いじょう参加さんかしゃすうが3でれない場合ばあいは1ひょう加算かさん)とし、さらに自分じぶんへの投票とうひょうみとめ、一定いってい回数かいすう投票とうひょうでもまらないときには、首席しゅせき枢機卿すうききょうのイニシアティブにより、必要ひつよう得票とくひょうすう変更へんこうできるようにした。しかしベネディクト16せいは2007ねんにこの得票とくひょうすう変更へんこう可能かのう規定きてい廃止はいしする修正しゅうせいおこなった。よって現在げんざいではいかなる場合ばあいでも3ぶんの2以上いじょう得票とくひょう必須ひっすである。

場所ばしょ

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コンクラーヴェは、バチカンこくにあるバチカン宮殿きゅうでんうちシスティーナ礼拝れいはいどう(1483ねんひじりべつ)でおこなわれる。

1978ねん10がつのコンクラーヴェまでは、投票とうひょうおこな枢機卿すうききょうたちはシスティーナ礼拝れいはいどうないめられ、しん教皇きょうこう選出せんしゅつされるまでは礼拝れいはいどうからることをきんじられていたが、2005ねんのコンクラーヴェからは廃止はいしされた[3]枢機卿すうききょうだんはかつてのようにシスティーナ礼拝れいはいどう缶詰かんづめにされることはなく、ヨハネ・パウロ2せいによってバチカンに新築しんちくされたサン・マルタかんという宿舎しゅくしゃ生活せいかつしながら、システィーナ礼拝れいはいどう投票とうひょうおもむくことにあらためられた。かれらはバチカンのにわ散策さんさくすることもできるようになったが、新聞しんぶんしゃテレビ局てれびきょくなどのマスコミと連絡れんらくることはもちろん、外部がいぶ手紙てがみしたり電話でんわをかけることもきびしくきんじられる。またこの改革かいかくともない、選挙せんきょ期間きかんちゅうのバチカンの立入禁止たちいりきんし区域くいき拡張かくちょうされている。

コンクラーヴェに参加さんかする枢機卿すうききょうたちは、しん教皇きょうこう選出せんしゅついたるまでの経緯けいいについて外部がいぶ情報じょうほうらすことをきびしくきんじられており、これに違反いはんしたもの教会きょうかいから破門はもんされるまりになっている。しかし、実際じっさいには匿名とくめいでマスコミに情報じょうほう提供ていきょうする枢機卿すうききょうもおり、しん教皇きょうこう選出せんしゅつまでに枢機卿すうききょうたちのあいだでどのようなはないがおこなわれたか、しん教皇きょうこうなんひょう得票とくひょうすう選出せんしゅつされたかなどの情報じょうほうが、ときおり新聞しんぶんやテレビなどで報道ほうどうされることがある。

現代げんだいのコンクラーヴェの手順てじゅん

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概説がいせつ

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以下いかは『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』にもとづく。

司教しきょう枢機卿すうききょう一人ひとりである首席しゅせき枢機卿すうききょうには、教皇きょうこう選挙せんきょにおけるいくつかの役割やくわりあたえられている。もし首席しゅせき枢機卿すうききょう年齢ねんれい制限せいげんによって選挙せんきょ参加さんかしない場合ばあい次席じせき枢機卿すうききょうがその役割やくわりたす。次席じせき枢機卿すうききょう参加さんかしない場合ばあい司教しきょう枢機卿すうききょうなかさい古参こさん人物じんぶつがそれをおこなう。ただしこの制限せいげん教皇きょうこう選挙せんきょ本番ほんばんかぎられ、事前じぜん枢機卿すうききょう会議かいぎは(本人ほんにん健康けんこう問題もんだいがあるなどの場合ばあいのぞいて)参加さんかする。

枢機卿すうききょうだん規模きぼ自体じたいがそれほどおおきくないため、もっとおお人数にんずうなかから教皇きょうこうえらぶべきではないかという意見いけんもある。たとえばある意見いけん現在げんざいのように枢機卿すうききょうだん選挙せんきょをゆだねるのではなく、司教しきょう会議かいぎにゆだねたほうがいいという意見いけんもある。しかし、現在げんざい規定きていでは司教しきょう会議かいぎ招集しょうしゅうできるのは教皇きょうこうのみである。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では司教しきょう会議かいぎのみならず、おおやけ会議かいぎですら、教皇きょうこう逝去せいきょにともなう使徒しと空位くういときには一旦いったん休会きゅうかいし、しん教皇きょうこうによる再開さいかい指示しじたねばならないとしている。

以後いご使徒しと空位くうい発生はっせい条件じょうけん、すなわち「教皇きょうこう逝去せいきょ」または「教皇きょうこう辞任じにん」のケースごとに説明せつめいし、その共通きょうつうとなるコンクラーヴェ本番ほんばんについてべる。

教皇きょうこう逝去せいきょから選挙せんきょまで

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教皇きょうこう逝去せいきょにはカメルレンゴといわれる枢機卿すうききょうう。カメルレンゴとは教皇きょうこう生前せいぜん指名しめいしておいた枢機卿すうききょうであり、教皇きょうこう不在ふざい指示しじ役割やくわりっている。教皇きょうこう逝去せいきょしたと判断はんだんされると、カメルレンゴがぎんのハンマーで教皇きょうこうのひたいをしずかにはたき、洗礼せんれいめいすうかいんで、反応はんのうがないことを確認かくにんしたうえで、確認かくにんするという儀式ぎしきがおこなわれていたが、20世紀せいきはいってからはおこなわれたことがない。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では、たん教皇きょうこうちょう儀典ぎてんちょう聖職せいしょくしゃだん代表だいひょう教皇きょうこう秘書ひしょ使徒しとだん団長だんちょうなど80さい以下いか高位こうい聖職せいしょくしゃって確認かくにんをおこなうことだけをもとめている。なお、ヨハネ・パウロ2せい死去しきょのときは臨終りんじゅう心電図しんでんずを20分間ふんかん計測けいそくすることで確認かくにんをとった[4]

カメルレンゴは教皇きょうこう確認かくにんえると、もと漁師りょうしであったせいペトロにちなんで「漁夫ぎょふ指輪ゆびわ」とばれる教皇きょうこう指輪ゆびわ教皇きょうこうゆびからはずし、枢機卿すうききょうだんまえでそれを破壊はかいしていた。「漁夫ぎょふ指輪ゆびわ」には教皇きょうこう文書ぶんしょ印章いんしょうインタリオリング - 指輪ゆびわしるし)がいており、これが教皇きょうこう死後しご他者たしゃ不正ふせい使用しようされることをふせぐためである。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では書簡しょかんようなまりいんとともに破棄はきもとめており、2005ねんのコンクラーヴェのさいは4がつ16にち枢機卿すうききょう会議かいぎにてなまりいんともども破壊はかいされている[4]

教皇きょうこう逝去せいきょ発表はっぴょうされると、枢機卿すうききょうだん全員ぜんいん集合しゅうごうして会合かいごうひらき、教皇きょうこう選挙せんきょにいたる日程にってい決定けっていする。この会合かいごうには80さい以上いじょう枢機卿すうききょう参加さんかしなくてもいが、希望きぼうするなら参加さんかすることができる。教皇きょうこう葬儀そうぎ死後しご4にちから6にちあいだにおこなわれる。その教皇きょうこうちょう全体ぜんたいが9日間にちかんふくする。これをラテン語らてんご九日ここのか意味いみするノヴェンディアレスという。このあいだ枢機卿すうききょうだん会合かいごう毎日まいにちおこなわれる。教皇きょうこう選挙せんきょ通常つうじょう教皇きょうこう死後しご15にち以降いこうにおこなわれる。ぜん枢機卿すうききょうがそろわない場合ばあい選挙せんきょ実施じっし最高さいこう20日はつかまでばすことが出来できる。

教皇きょうこう辞任じにんから選挙せんきょまで

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教会きょうかいほうには教皇きょうこう生前せいぜん辞任じにんみとめられているが、実際じっさいには教皇きょうこう生前せいぜん辞任じにんする事態じたいはほとんどこっていない。しかし、2013ねん2がつ11にち、ベネディクト16せい通常つうじょう枢機卿すうききょう会議かいぎで「自由じゆう信仰しんこうによりおおやけに」2013ねん2がつ28にち午後ごご8中央ちゅうおうヨーロッパ時間じかん)を以って辞任じにんすることを表明ひょうめいした(ベネディクト16せい辞任じにん)。これにより719ねんぶりに教皇きょうこう生前せいぜん辞任じにん要件ようけんとするコンクラーヴェが開催かいさいされることになった。

ベネディクト16せい辞任じにん表明ひょうめいするときに「2013ねん2がつ28にち午後ごご8を以って、せいペテロの後継こうけいしゃせい空位くういとなり(使徒しと空位くうい発生はっせい)、枢機卿すうききょうだんあたらしい教皇きょうこうえらぶでしょう」とべている。そのため、あらかじめ宣言せんげんした辞任じにん日時にちじまでは教皇きょうこう通常つうじょうひじりつとむおこなうが、辞任じにん日時にちじ到来とうらい使徒しと空位くういとなりせいペテロの後継こうけいしゃ身分みぶんうしなったぜん教皇きょうこうはコンクラーヴェがわるまではあらゆる移動いどう発言はつげん面会めんかいはしない。

使徒しと空位くういとなったあとは逝去せいきょ同様どうよう教会きょうかいはカメルレンゴと枢機卿すうききょうだん共同きょうどう管理かんりはいり、辞任じにんした教皇きょうこう印璽いんじのある指輪ゆびわ破壊はかいされる。辞任じにんした教皇きょうこう存命ぞんめいのままであるので、当然とうぜんながら9日間にちかん服喪ふくもはない。選挙せんきょ開始かいし日程にってい決定けってい規則きそく逝去せいきょ前提ぜんていであったため、ベネディクト16せい同年どうねん2がつ22にちに、(参加さんか予定よていの)ぜん有権ゆうけん枢機卿すうききょうあつまれば前倒まえだおしを可能かのうとする規定きてい追加ついかおこなった。そして3がつ8にち枢機卿すうききょう会議かいぎないおこなわれた投票とうひょうにより、3月12にちよりコンクラーヴェが開催かいさいされることが決定けっていされた。さき改正かいせい規則きそく適用てきようで3にち前倒まえだおしされるかたちとなった。

選挙せんきょ開始かいし

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選挙せんきょ当日とうじつあさ、(選挙せんきょけんのないものふくめた)枢機卿すうききょうだんサン・ピエトロだい聖堂せいどうあつまってミサをささげる。午後ごご有権ゆうけん枢機卿すうききょうたちはバチカン宮殿きゅうでんないのパウロ礼拝れいはいどう集合しゅうごうして、そこから聖霊せいれいたすけをねがうたである「ヴェニ・クレアトール」をうたってシスティーナ礼拝れいはいどうへと移動いどうする。現代げんだいではこの行列ぎょうれつはテレビ中継ちゅうけいされる。礼拝れいはいどう到着とうちゃくすると、首席しゅせき枢機卿すうききょう先導せんどうのもとに宣誓せんせいぶんがとなえられる。宣誓せんせい内容ないようは、もし自分じぶん選出せんしゅつされた場合ばあいひじり自由じゆうまもること、選挙せんきょ秘密ひみつまもること、投票とうひょうにおいて外部がいぶ圧力あつりょくけないことである。つづいて枢機卿すうききょう一人ひとりずつ福音ふくいんしょき、以下いか宣誓せんせいおこなう。名前なまえラテン語らてんごしておこなう。


Et ego N. Cardinalis N. spendeo, voveo ac iuro: Sic me Deus adiuvet et haec Sancta Dei Evangelia, quae manu mea tango.

しかしてわが枢機卿すうききょうN.N.は茲に宣誓せんせいす。しかしてかみよ、われと茲に神聖しんせいなる福音ふくいんたすけたまえ。

宣誓せんせいわると、教皇きょうこうちょう儀典ぎてんちょうの「全員ぜんいん退去たいきょ」の宣言せんげんとともに、儀典ぎてんちょう講話こうわおこな聖職せいしょくしゃのぞき、枢機卿すうききょうだん以外いがい礼拝れいはいどうから退出たいしゅつする。退出たいしゅつ見届みとどけた儀典ぎてんちょうくちすすんで内側うちがわからかぎをかける。テレビ中継ちゅうけいはここでわる。

つづいて講話こうわしゃのこった枢機卿すうききょうだんかって現代げんだい教会きょうかいかかえる問題もんだいしん教皇きょうこうもとめられる資質ししつについての講話こうわをおこなう。講話こうわわると儀典ぎてんちょう講話こうわしゃ退室たいしつし、枢機卿すうききょうだんのみがのこる。首席しゅせき枢機卿すうききょう主導しゅどうのもとにいのりをとなえ、選挙せんきょ方法ほうほう疑問ぎもんてんがないか確認かくにんされる。疑問ぎもんがなければ選挙せんきょはじめられる。投票とうひょう開始かいしわなかった枢機卿すうききょう当該とうがい選挙せんきょ参加さんかすることができない。

選挙せんきょちゅう病気びょうきによって体調たいちょう悪化あっかした場合ばあい退室たいしつすることができる。その場合ばあい回復かいふくしてから選挙せんきょにもどることができる。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』では病気びょうきのために礼拝れいはいどうへいけないもののための不在ふざいしゃ投票とうひょうシステムも整備せいびされ、ひじりマルタかん自室じしつ投票とうひょうをすることができ、そのさい代理だいり投票とうひょう一定いってい手続てつづきのしたみとめられている。しかし病気びょうき以外いがい理由りゆう退室たいしつした場合ばあい以後いご選挙せんきょ参加さんかすることはできない。

枢機卿すうききょうだん以外いがい教皇きょうこう選挙せんきょちゅう枢機卿すうききょうたちにかかわることができるのは、枢機卿すうききょうだん秘書ひしょ教皇きょうこうちょう儀典ぎてんちょう儀式ぎしきちょうこう部屋へやがかり各国かっこくでの告解こっかいけるすうにん司祭しさい二人ふたり医師いし枢機卿すうききょうだん食事しょくじ世話せわ清掃せいそうをおこなうかかりものたちのみである。枢機卿すうききょうだけでなくスタッフ全員ぜんいん選挙せんきょ進行しんこう内容ないようについて重大じゅうだい守秘しゅひ義務ぎむっており、事前じぜんに(枢機卿すうききょうたちとは別途べっとにカメルレンゴにたいして)宣誓せんせいおこなう。とく枢機卿すうききょうだん外部がいぶとの接触せっしょく厳重げんじゅうきんじられる。『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』ではとく新聞しんぶんやテレビなどのメディアと絶対ぜったい接触せっしょくしないようねんしている。実際じっさい、2005ねんのコンクラーヴェからは枢機卿すうききょうだん宿舎しゅくしゃであるひじりマルタかん電話でんわやインターネット回線かいせん切断せつだんされ、ひじりマルタかんとシスティーナ礼拝れいはいどうには、携帯けいたい電話でんわ使用しよう盗聴とうちょう防止ぼうしするためのジャミングがながされるなど電子でんしてきにも厳戒げんかい態勢たいせいがしかれるようになった。

投票とうひょう

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投票とうひょう所定しょてい用紙ようし記名きめいおこなわれ、投票とうひょうしゃみずからが手書てがきで記入きにゅう容器ようきれることとしている。だい1にち午後ごご最初さいしょ投票とうひょうがおこなわれる。このだい1かい投票とうひょうまらなかった場合ばあい、2にち以降いこうからは1にち午前ごぜん2かい午後ごご2かいけい4かい投票とうひょうがおこなわれる。3にちになってもまらない場合ばあいは、1にち投票とうひょうのないはいり、いのりと助祭じょさい枢機卿すうききょう最年長さいねんちょうしゃによる講話こうわがおこなわれる。さらに7かい投票とうひょうがおこなわれてまらない場合ばあいふたた無投票むとうひょうはいり、今度こんど司祭しさい枢機卿すうききょう最年長さいねんちょうしゃ講話こうわをおこなう。さらに7かい投票とうひょうによってもまらない場合ばあいも、おなじようなプロセスがかえされ、今度こんど司教しきょう枢機卿すうききょう年長ねんちょうしゃ講話こうわをおこなう。さらに7投票とうひょうによってもまらない場合ばあいは、最後さいご投票とうひょう最多さいた得票とくひょう上位じょうい2めい候補者こうほしゃによる決選けっせん投票とうひょう移行いこうする。決選けっせん投票とうひょう候補者こうほしゃたちはくわわることができない。

決定けってい受諾じゅだく

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システィーナ礼拝れいはいどう煙突えんとつからの「くろけむり (Fumata nera)」。「ローマの司教しきょうえらばれず」を意味いみする[5]
システィーナ礼拝れいはいどう煙突えんとつからの「しろけむり (Fumata bianca)」。「枢機卿すうききょうだんによりて、ローマの司教しきょうえらばれり」を意味いみする[5]写真しゃしんはヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿すうききょう教皇きょうこう選出せんしゅつした2005ねんのコンクラーヴェのもの)。

それぞれの投票とうひょうには、ひょう集計しゅうけいかず検査けんさ投票とうひょう用紙ようし焼却しょうきゃくおこなわれる。ただし用紙ようし焼却しょうきゃく午前ごぜん午後ごごそれぞれ2かい投票とうひょうおこなわれ、1かい時点じてんまらなければそのまま再度さいど投票とうひょうおこなわれる。投票とうひょう用紙ようし焼却しょうきゃくさいには特殊とくしゅ薬品やくひんぜて、しん教皇きょうこうがまだまらない場合ばあいには礼拝れいはいどう煙突えんとつからくろけむりし、しん教皇きょうこうまった場合ばあいにはしろけむりして外部がいぶへの合図あいずとする。過去かこには未決みけつ場合ばあい湿しめらせたわらを混入こんにゅうやしてくろけむりすようにしていたが、ヨハネ・パウロ1せい選出せんしゅつした1978ねん8がつ教皇きょうこう選挙せんきょくろともしろともつかない灰色はいいろけむり情報じょうほう混乱こんらんしたことがあった。そのため明確めいかく色付いろづけする目的もくてきで、くろけむり場合ばあい塩素えんそさんカリウムアントラセン硫黄いおう化合かごうぶつを、しろけむり場合ばあい塩素えんそさんカリウム乳糖にゅうとう松脂まつやに混合こんごうぶつ投票とうひょう用紙ようしぜてやすようになり[6]、さらにベネディクト16せい選出せんしゅつした2005ねん教皇きょうこう選挙せんきょからは、しん教皇きょうこうまった場合ばあいしろけむり直後ちょくごサン・ピエトロだい聖堂せいどうかねらして正式せいしき合図あいずとすることになった。

投票とうひょうによって、ある枢機卿すうききょう必要ひつよう票数ひょうすう獲得かくとくすると、礼拝れいはいどうない枢機卿すうききょうだん秘書ひしょ教皇きょうこうちょう儀典ぎてんちょうれられる。首席しゅせき枢機卿すうききょう候補者こうほしゃたいし、教皇きょうこう受諾じゅだくするかどうかたずねる。もし、候補者こうほしゃ受諾じゅだくし、すでに司教しきょうであるなら、その時点じてん教皇きょうこうけることになる。もし司祭しさいであるなら、首席しゅせき枢機卿すうききょう司教しきょうじょかいをおこなったうえで、教皇きょうこうける。信徒しんとえらばれた場合ばあいは、首席しゅせき枢機卿すうききょう司祭しさいじょかいしたうえ司教しきょうじょかいをおこなう。

535ねん以来いらい教皇きょうこう選出せんしゅつされたものは、就任しゅうにん自身じしん教皇きょうこうめいみずかめる慣習かんしゅうになっている。

しん教皇きょうこうはあらかじめ用意よういされていた3つのサイズの白衣はくいなかから自分じぶんからだうものをえらんでにまとう。そこで枢機卿すうききょうだん待機たいきしている礼拝れいはいどうもどり、カメルレンゴからあたらしい「漁夫ぎょふ指輪ゆびわ」をり、祭壇さいだんちかくにすえられた椅子いすについて枢機卿すうききょうだんいちにん一人ひとりからの敬意けいい表明ひょうめいける。

つぎ助祭じょさい枢機卿すうききょう最年長さいねんちょうしゃがサン・ピエトロだい聖堂せいどう広場ひろば見下みおろすバルコニーにて、ラテン語らてんごしん教皇きょうこう決定けってい発表はっぴょうする。そしてしん教皇きょうこうがバルコニーにあらわれて、「ウルビ・エト・オルビ」(Urbi et Orbi、「ローマと世界せかいへ」の)ではじまる在位ざいい最初さいしょ祝福しゅくふくあたえる。かつて教皇きょうこう教皇きょうこうかんむりけていたが、ヨハネ・パウロ1せいによってこの戴冠たいかんしき廃止はいしされている。

脚注きゃくちゅう

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出典しゅってん

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  1. ^ 鈴木すずき宣明のぶあき 日立ひたちデジタル平凡社へいぼんしゃ世界せかいだい百科ひゃっか事典じてんだい2はん 教皇きょうこうこう
  2. ^ コンクラーベ(Conclave)とは? カトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかい 2019ねん6がつ1にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 『ウニベルシ・ドミニ・グレギス』
  4. ^ a b カトリック中央ちゅうおう協議きょうぎかい教皇きょうこう空位くうい教皇きょうこう選挙せんきょ
  5. ^ a b Chumley, Cheryl K. (12 March 2013). “What Do American Catholics Want in the Next Pope?”. Fox News. The Washington Times. http://nation.foxnews.com/catholic-church/2013/03/12/what-do-american-catholics-want-next-pope?utm_source=feedburner&utm_medium=feed&utm_campaign=Feed%3A+FoxNation+%28Fox+Nation%29 15 March 2013閲覧えつらん 
  6. ^ にち午前ごぜんくろけむり、そのいろはどうす? - カトリック新聞しんぶんオンライン(2013ねん3がつ13にち)、2013ねん3がつ14にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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