ピウス8せい (ローマ教皇きょうこう)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ピウス8せい
だい253だい ローマ教皇きょうこう
教皇きょうこう就任しゅうにん 1829ねん3月31にち
教皇きょうこう離任りにん 1830ねん11月30にち
先代せんだい レオ12せい
次代じだい グレゴリウス16せい
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう (1761-11-20) 1761ねん11月20にち
教皇きょうこうりょう
チンゴリ
死去しきょ (1830-11-30) 1830ねん11月30にち(69さいぼつ
教皇きょうこうりょう
ローマ
教皇きょうこう宮殿きゅうでん
紋章もんしょう ピウス8世の紋章
そののピウス
テンプレートを表示ひょうじ

ピウス8せい(Pius VIII、1761ねん11月20にち - 1830ねん11月30にち)は、ローマ教皇きょうこう在位ざいい1829ねん3月31にち - 1830ねん11月30にち)、カトリック教会きょうかい司祭しさい本名ほんみょうフランチェスコ・サヴェリオ・カスティリオーニFrancesco Saverio Castiglioni)。ナポレオン欧州おうしゅうしん体制たいせいにカトリック教会きょうかいがどう順応じゅんのうしていくかという方向ほうこうせい模索もさくしつづけた。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

1761ねん教皇きょうこうりょうチンゴリ貴族きぞくいえまれたカスティリオーニのぜん半生はんせいにおいて、ヨーロッパはまさにナポレオン時代じだいであった。かれフラスカーティ司教しきょう時代じだい政治せいじ抗争こうそうまれるかたちでフランスへ連行れんこうされている。1816ねんにナポレオンのヨーロッパのしん秩序ちつじょ(いわゆるウィーン体制たいせい)が構築こうちくされ、教皇きょうこうちょう教皇きょうこうりょう復興ふっこうすると、カスティリオーニは枢機卿すうききょう任命にんめいされ、教皇きょうこうレオ12せい側近そっきんとなった。レオ12せい没後ぼつごコンクラーヴェしん教皇きょうこうえらばれると、カスティリオーニはピウス8せい名乗なのった。

ピウス8せい教皇きょうこう在職ざいしょく時代じだいのヨーロッパは、ナポレオン不安定ふあんてい時期じきであった。ピウス8せいはこの不安定ふあんていさの原因げんいん秘密ひみつ結社けっしゃとプロテスタントの策動さくどうにあるとかんがえていたらしく、この両者りょうしゃきびしく糾弾きゅうだんしている。フランスではなながつ革命かくめいによって、ルイ・フィリップ即位そくいする。ピウス8せいはフランスの教会きょうかいふたたびフランス政府せいふからもどしたいとかんがえつつ、ルイ・フィリップをフランスおうとして承認しょうにんしている。またこの時代じだい、イギリスではカトリック教徒きょうと解放かいほうれい1829ねん)がされ、ドイツではむねこん宗教しゅうきょうちがもの同士どうし結婚けっこん)がはじめて教会きょうかいによってみとめられるようになった。近代きんだい国家こっかへと変質へんしつししつづける欧州おうしゅうしょ国家こっかに、カトリック教会きょうかいがどう対応たいおうしていくかがわれていたのである。

ピウス8せい1830ねんきゅうやまいてそのまま逝去せいきょすると、グレゴリウス16せいがそのいだ。