オーリヤックにあるブロンズ像 ぞう
シルウェステル2世 せい (Silvester II, 950年 ねん ? - 1003年 ねん 5月12日 にち )は、フランス人 じん 初 はつ のローマ教皇 きょうこう (在位 ざいい :999年 ねん - 1003年 ねん )。本名 ほんみょう オーリヤックのジェルベール (仏 ふつ :Gerbert d'Aurillac)、ラテン語 らてんご 名 な ゲルベルトゥス (Gerbertus)。千年紀 せんねんき をまたいだ教皇 きょうこう であり、数学 すうがく 者 しゃ ・天文学 てんもんがく 者 しゃ として10世紀 せいき の西欧 せいおう 世界 せかい において傑出 けっしゅつ した人物 じんぶつ である。
生 お い立 た ちからランス大司教 だいしきょう 就任 しゅうにん まで[ 編集 へんしゅう ]
ジェルベールは945年 ねん から950年 ねん の頃 ころ にオーヴェルニュ 地方 ちほう で庶民 しょみん の子 こ として生 う まれる。幼少 ようしょう 期 き にベネディクト会 かい 系 けい であるオーリヤック の聖 せい ジェロー修道院 しゅうどういん に入 はい る。967年 ねん に同 どう 修道院 しゅうどういん を訪 おとず れたバルセロナ伯 はく ボレル2世 せい とともにスペインへ赴 おもむ き、ビック やリポイ で自由 じゆう 七 なな 科 か のうち四 よん 科 か (クワードリウィウム quadrivium)を学 まな んだ。
969年 ねん 、ジェルベールはボレル伯 はく らのローマ 行 い きに同行 どうこう し、そこで神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい オットー1世 せい と教皇 きょうこう ヨハネス13世 せい に面会 めんかい する。カロリング朝 あさ ルネサンス の再現 さいげん を望 のぞ むオットー1世 せい から息子 むすこ (のちのオットー2世 せい )の教育 きょういく 係 がかり を嘱望 しょくぼう されるが、当時 とうじ 学問 がくもん が盛 さか んであったフランスのランス へと向 む かう。
972年 ねん 末 すえ か973年 ねん 初頭 しょとう にランスに到着 とうちゃく したジェルベールは教会 きょうかい 学校 がっこう で論理 ろんり 学 がく や修辞 しゅうじ 学 がく を学 まな んだのち、教師 きょうし として活躍 かつやく する。生徒 せいと には、のちのフランス王 おう ロベール2世 せい やシャルトルのフルベールなどがいる。981年 ねん には皇帝 こうてい オットー2世 せい の主催 しゅさい で開 ひら かれたラヴェンナ での討論 とうろん 会 かい に出席 しゅっせき した。論敵 ろんてき を下 くだ したジェルベールは皇帝 こうてい に認 みと められ、983年 ねん に知 ち の集積 しゅうせき 地 ち の一 ひと つであったボッビオ の修道院 しゅうどういん 長 ちょう に任命 にんめい される。しかし職務 しょくむ に忙殺 ぼうさつ され、学問 がくもん に専念 せんねん できないことに失望 しつぼう した。また、前 ぜん 修道 しゅうどう 院長 いんちょう ならびその一派 いっぱ との間 あいだ に確執 かくしつ が生 う まれ、パヴィア司教 しきょう ピエトロ(のちの教皇 きょうこう ヨハネス14世 せい )が仲裁 ちゅうさい を申 もう し出 で たが、それを拒絶 きょぜつ している。オットー2世 せい が983年 ねん 12月7日 にち に没 ぼっ したのちは、ランスに戻 もど って教育 きょういく 活動 かつどう を再開 さいかい させた。
オットー2世 せい の後継 こうけい 争 あらそ いは、3歳 さい で王位 おうい を継承 けいしょう したオットー3世 せい とその母 はは で後見人 こうけんにん のテオファヌ と、バイエルン公 こう ハインリヒの間 あいだ でおこなわれ、ハインリヒ側 がわ に西 にし フランク王 おう ロテール が付 つ いた。ランス大司教 だいしきょう アダルベロン はオットー3世 せい の側 がわ に立 た ち、ユーグ・カペー やテオファヌらと連絡 れんらく を取 と りつつ、オットー3世 せい とロテールとの和解 わかい を取 と り持 も った。ジェルベールはアダルベロンの活動 かつどう を補佐 ほさ したとされる。その後 ご 、ロテールの死去 しきょ (986年 ねん 3月6日 にち )と ロテールの子 こ ルイ5世 せい の事故死 じこし (987年 ねん 5月21日 にち )によりカロリング家 か が断絶 だんぜつ すると、アダルベロンの執 と り成 な しでユーグ・カペーがフランス王 おう に推挙 すいきょ された。
989年 ねん にアダルベロンが死去 しきょ すると、アダルベロンはジェルベールを後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい していたが、カロリング家 か 残存 ざんそん 勢力 せいりょく 懐柔 かいじゅう のためユーグ・カペーはロテールの庶子 しょし アルヌルフを大司教 だいしきょう に任命 にんめい し、ジェルベールは教師 きょうし を続 つづ けることとなる。しかしアルヌルフはユーグ・カペーを裏切 うらぎ り、叔父 おじ のロレーヌ公 こう シャルルと結託 けったく してラン とランスを占領 せんりょう した。991年 ねん にユーグ・カペーに敗 やぶ れたアルヌルフとロレーヌ公 こう シャルルはオルレアン に幽閉 ゆうへい され、サン・バール教会 きょうかい 会議 かいぎ でアルヌルフを罷免 ひめん 、後任 こうにん としてジェルベールがランス大司教 だいしきょう に選 えら ばれる。
教皇 きょうこう 就任 しゅうにん へ[ 編集 へんしゅう ]
フランス地方 ちほう 教会 きょうかい 主義 しゅぎ の独走 どくそう に、教皇 きょうこう ヨハネス15世 せい はジェルベールを破門 はもん することで対抗 たいこう した。この破門 はもん についてはフランス王 おう 太子 たいし ロベール が開催 かいさい したシェル教会 きょうかい 会議 かいぎ で無効 むこう とされた(994年 ねん )。ヨハネス15世 せい によるムーゾン教会 きょうかい 会議 かいぎ (995年 ねん )にジェルベールは単独 たんどく 出席 しゅっせき して正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう するも、決着 けっちゃく は付 つ かなかった。
教皇 きょうこう に直接 ちょくせつ 主張 しゅちょう しようと考 かんが えたものの、ヨハネス15世 せい がローマ有力 ゆうりょく 貴族 きぞく クレッシェンティウス2世 せい によって追放 ついほう されてしまい、ジェルベールは皇帝 こうてい オットー3世 せい の居城 きょじょう マクデブルク に赴 おもむ き、皇帝 こうてい のローマ進軍 しんぐん に随行 ずいこう した。この時 とき からジェルベールはオットー3世 せい の家庭 かてい 教師 きょうし を務 つと めることとなる。
ローマ入城 にゅうじょう 前 まえ にヨハネス15世 せい は熱病 ねつびょう で死亡 しぼう した。皇帝 こうてい は祖父 そふ オットー1世 せい の曾孫 そうそん ブルーノをグレゴリウス5世 せい として教皇 きょうこう に就任 しゅうにん させ(996年 ねん 5月3日 にち )、ローマ入城 にゅうじょう 後 ご グレゴリウス5世 せい から帝 みかど 冠 かんむり を授 さづ けられた(同年 どうねん 5月21日 にち )。戴冠 たいかん 式 しき から数日 すうじつ 後 ご に開催 かいさい された教会 きょうかい 会議 かいぎ において、アルヌルフのランス大司教 だいしきょう 座 ざ への復帰 ふっき が議決 ぎけつ され、またジェルベールは大司教 だいしきょう 座 ざ の簒奪 さんだつ 者 しゃ として非難 ひなん された。
ユーグ・カペー死去 しきょ (996年 ねん 10月23日 にち )ののちフランス王 おう となったロベール2世 せい は、ブロワ 伯 はく ティボー2世 せい の未亡人 みぼうじん ベルト と結婚 けっこん したが、ロベールとベルトは又 また 従姉 じゅうし 弟 おとうと だったため、グレゴリウス5世 せい は結婚 けっこん を認 みと めず破門 はもん した。対 たい してロベール2世 せい は997年 ねん にアルヌルフをランス大司教 だいしきょう に復位 ふくい させ、アルヌルフから結婚 けっこん の認可 にんか を得 え ることとした。その翌 よく 998年 ねん にジェルベールはオットー3世 せい からラヴェンナ大司教 だいしきょう の座 ざ を与 あた えられ、また皇帝 こうてい の文書 ぶんしょ 局長 きょくちょう として皇帝 こうてい の助言 じょげん 者 しゃ となる。ラヴェンナ大司教 だいしきょう としてシモニア の禁止 きんし など教会 きょうかい 改革 かいかく を進 すす め、またロベール2世 せい を非難 ひなん する勅書 ちょくしょ に教皇 きょうこう 名 めい の次 つぎ に署名 しょめい した。
翌 よく 999年 ねん にグレゴリウス5世 せい が死去 しきょ すると、オットー3世 せい から後任 こうにん にジェルベールが推挙 すいきょ され、999年 ねん 4月 がつ 2日 にち にシルウェステル2世 せい として教皇 きょうこう に就任 しゅうにん する。シルウェステルの名 な は、初 はつ のキリスト者 しゃ 皇帝 こうてい コンスタンティヌス1世 せい に洗礼 せんれい を施 ほどこ したシルウェステル1世 せい になぞらえてのものである。
教皇 きょうこう シルウェステルは、オットー3世 せい の助言 じょげん 者 しゃ として神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の政策 せいさく に関 かか わりつつ、教会 きょうかい の腐敗 ふはい を取 と り除 のぞ くための教会 きょうかい 改革 かいかく を続 つづ けた。またハンガリー王 おう イシュトヴァーン1世 せい への王冠 おうかん の授与 じゅよ など東欧 とうおう 世界 せかい への布教 ふきょう にも努 つと めた。ロベール2世 せい の婚姻 こんいん の無効 むこう を宣告 せんこく する一方 いっぽう 、アルヌルフのランス大司教 だいしきょう への復帰 ふっき を認可 にんか している。教皇 きょうこう 就任 しゅうにん 前 まえ はガリア主義 しゅぎ 者 しゃ であったが、就任 しゅうにん 後 ご は一転 いってん して教皇 きょうこう 首位 しゅい 説 せつ 支持 しじ 派 は へと立場 たちば を変 か えた[1] 。
1001年 ねん 1月 がつ にローマ貴族 きぞく らによる暴動 ぼうどう が発生 はっせい した。シルウェステルとオットー3世 せい はローマから追放 ついほう され、ラヴェンナに撤退 てったい して復権 ふっけん を目指 めざ すも、オットー3世 せい は1002年 ねん 1月 がつ 23日 にち に没 ぼっ した。そののちローマ貴族 きぞく と和解 わかい したシルウェステルは、ローマに戻 もど って教会 きょうかい の職務 しょくむ を継続 けいぞく し、1003年 ねん 5月12日 にち に死去 しきょ する。シルウェステルの亡骸 なきがら はラテラノの聖 せい ヨハネス教会 きょうかい に埋葬 まいそう された。
傑出 けっしゅつ した学問 がくもん 的 てき 業績 ぎょうせき [ 編集 へんしゅう ]
古典 こてん 作品 さくひん の写本 しゃほん の収集 しゅうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
シルウェステル2世 せい は生涯 しょうがい にわたって、古代 こだい ローマ時代 じだい の著作 ちょさく の写本 しゃほん を積極 せっきょく 的 てき に各地 かくち から収集 しゅうしゅう していた。出身 しゅっしん 地 ち の修道院 しゅうどういん に写本 しゃほん を求 もと め、プリニウス やスエトニウス の写本 しゃほん をランスの司教 しきょう 座 ざ 付属 ふぞく 学校 がっこう の図書館 としょかん の蔵書 ぞうしょ に加 くわ えもし、時 とき には写本 しゃほん の対価 たいか として自作 じさく の天球儀 てんきゅうぎ や金銭 きんせん をも提供 ていきょう した。この古典 こてん 著作 ちょさく への熱愛 ねつあい は教父 きょうふ の著作 ちょさく へよりも深 ふか く、教皇 きょうこう の使節 しせつ から「プラトン やウェルギリウス などの哲学 てつがく 者 しゃ を師 し として仰 あお ぐべきでない」と指摘 してき されるほどであった。その他 た 、ポルフュリオスの『イサゴーゲ』、アリストテレス の『範疇 はんちゅう 論 ろん 』『命題 めいだい 論 ろん 』、スエトニウス やホラティウス やデモステネス 名義 めいぎ の著作 ちょさく 、そして『共和 きょうわ 制 せい 論 ろん 』をはじめいくつかのキケロ の著作 ちょさく の写本 しゃほん を手 て にして授業 じゅぎょう に用 もち いている。
ボエティウスへの傾倒 けいとう [ 編集 へんしゅう ]
シルウェステル2世 せい はボエティウス を崇敬 すうけい し、理性 りせい により感情 かんじょう と外界 がいかい の障害 しょうがい を克服 こくふく しようとするボエティウスの思想 しそう を実践 じっせん している。ボエティウスの著作 ちょさく や翻訳 ほんやく ・注釈 ちゅうしゃく 本 ほん を用 もち いて自由 じゆう 七 なな 科 か のおもに三 さん 学 がく を教 おし えており、アリストテレス の著作 ちょさく やキケロ 翻訳 ほんやく の『トピカ』もボエティウスの注釈 ちゅうしゃく が入 はい ったものであった。シルウェステル2世 せい が算術 さんじゅつ に重 おも きを置 お いたのも、算術 さんじゅつ を四 よん 科 か の第 だい 一 いち のものとするボエティウスの考 かんが えが反映 はんえい されている。ただし、シルウェステル2世 せい が収集 しゅうしゅう したボエティウスの著作 ちょさく すべてが真 しん 作 さく というわけではなかった。
アラビア学問 がくもん との邂逅 かいこう [ 編集 へんしゅう ]
12世紀 せいき ルネサンス に先 さき んじて、10世紀 せいき にアラビア学問 がくもん に直接的 ちょくせつてき ないし間接 かんせつ 的 てき に触 ふ れた西欧 せいおう 人 じん はごく少数 しょうすう であった。シルウェステル2世 せい は自由 じゆう 七 なな 科 か のうちの四 よん 科 か 、こと算術 さんじゅつ や天文 てんもん に長 た け、それらはアラビア世界 せかい に伝 つた わっていた古代 こだい ギリシア・ローマの知識 ちしき や、アラビア世界 せかい で発展 はってん された知識 ちしき に基 もと づいていた。
シルウェステル2世 せい は西欧 せいおう 世界 せかい で忘 わす れられていた算盤 そろばん の一種 いっしゅ 「アバクス 」を西欧 せいおう 世界 せかい に再 さい 導入 どうにゅう した。アバクスは復活 ふっかつ 祭 さい の日付 ひづけ 計算 けいさん (コンプトゥス )や財務 ざいむ 計算 けいさん に用 もち いられ、この時期 じき から12世紀 せいき ルネサンスにかけてロレーヌ地方 ちほう やシャルトル で多用 たよう された。シルウェステル2世 せい にとってアバクスはオットー3世 せい への書簡 しょかん に比喩 ひゆ として用 もち いるほど身近 みぢか なもので、弟子 でし リケールはシルウェステル2世 せい が作製 さくせい したアバクスの形状 けいじょう を詳述 しょうじゅつ している。ただしこの時代 じだい にはまだゼロ の概念 がいねん は見出 みいだ されていない。
天文 てんもん では、立体 りったい 的 てき な天文 てんもん 図 ず (天球儀 てんきゅうぎ )、天体 てんたい 運行 うんこう を測 はか るアストロラーベ 、日時計 ひどけい などの道具 どうぐ を用 もち いて実学 じつがく 的 てき に教授 きょうじゅ している。弟子 でし リケールの『四 よん 巻 かん 史 し 』ではその形状 けいじょう が事細 ことこま かに記述 きじゅつ されており、現物 げんぶつ を前 まえ にしていたと考 かんが えられる。
シルウェステル2世 せい が学 まな び教 おし えたアラビア経由 けいゆ ・アラビア出自 しゅつじ の学問 がくもん は、イベリア半島 はんとう からもたらされた。アブド・アッラフマーン3世 せい とハカム2世 せい の治世 ちせい のイベリア半島 はんとう は後 こう ウマイヤ朝 あさ の隆盛 りゅうせい によってレコンキスタ が停滞 ていたい し、キリスト教 きょう 圏 けん とアラビア教 きょう 圏 けん (アル=アンダルス )は相対 そうたい 的 てき 平和 へいわ 関係 かんけい を築 きず いていた。アラビア語 ご 文献 ぶんけん は、後 こう ウマイヤ朝 あさ で暮 く らす「啓 けい 典 てん の民 みん 」であるキリスト教徒 きりすときょうと やユダヤ人 じん によりラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく され、キリスト教 きょう 圏 けん に輸出 ゆしゅつ され、シルウェステル2世 せい が学 まな んだバルセロナ近郊 きんこう の修道院 しゅうどういん にも多 おお く所蔵 しょぞう されていた。シルウェステル2世 せい はこれらの翻訳 ほんやく 物 ぶつ から学 まな び、アラビア数字 すうじ を西欧 せいおう 世界 せかい で用 もち いた初期 しょき の人物 じんぶつ ともされている。ただし、シルウェステル2世 せい 自身 じしん がアラビア教 きょう 圏 けん に直接 ちょくせつ 赴 おもむ いたというのは否定 ひてい されている。
教育 きょういく 者 しゃ としてもシルウェステル2世 せい は傑出 けっしゅつ していた。教育 きょういく 方法 ほうほう は理論 りろん のみならず実践 じっせん を重視 じゅうし し、算術 さんじゅつ ないし幾何 きか 学 がく ではアバクスを、天文 てんもん では天球儀 てんきゅうぎ を用 もち いた。音楽 おんがく では一弦琴 いちげんきん を利用 りよう して音階 おんかい と和音 わおん の数学 すうがく 的 てき 観察 かんさつ を行 おこな った。修辞 しゅうじ 学 がく では議論 ぎろん を戦 たたか わせ、また図式 ずしき を用 もち いて解説 かいせつ していた。
こうしてカロリング・ルネサンスと12世紀 せいき ルネサンスの架 か け橋 はし としての役割 やくわり を担 にな った。シルウェステル2世 せい の名声 めいせい を慕 した い、司教 しきょう 区 く の枠 わく を越 こ えてヨーロッパ各地 かくち からランスの学校 がっこう に集 たか った留学生 りゅうがくせい たちに教 おし えることにより、知識 ちしき を後世 こうせい に伝 つた えることとなった。その名声 めいせい は、弟子 でし のリケールによれば、遠 とお くティレニア海 うみ やアドリア海 あどりあかい まで広 ひろ まったとされる。また少 すく なくともシルウェステル2世 せい の弟子 でし の13人 にん が司教 しきょう ・大司教 だいしきょう となり、そして5人 にん 以上 いじょう が主要 しゅよう な修道院 しゅうどういん の修道院 しゅうどういん 長 ちょう となっている。
宗教 しゅうきょう 的 てき な業績 ぎょうせき [ 編集 へんしゅう ]
教皇 きょうこう としてシルウェステル2世 せい はシモニア の禁止 きんし や、聖職 せいしょく 者 しゃ の独身 どくしん 制 せい 、近親 きんしん 者 しゃ の登用 とうよう の禁止 きんし などを推 お し進 すす めた。またスラヴ・バルト方面 ほうめん への布教 ふきょう を推進 すいしん し、ハンガリーの首長 しゅちょう イシュトヴァーン1世 せい をカトリックに改宗 かいしゅう させてハンガリー王冠 おうかん を授 さづ け(1000年 ねん )、ハンガリー国内 こくない のエステルゴム とカロチャ に大司教 だいしきょう 座 ざ を設置 せっち し、ポーランド を管区 かんく とするグニエズノ大司教 だいしきょう 座 ざ を設置 せっち し、東欧 とうおう のカトリック教会 きょうかい を組織 そしき させ、遠 とお くはキエフ の聖職 せいしょく 者 しゃ と連絡 れんらく を取 と った。ロベール2世 せい の従姉妹 いとこ との近親 きんしん 婚 こん に反対 はんたい し、婚姻 こんいん の無効 むこう を宣告 せんこく している。教書 きょうしょ "De corpore et sanguine Domini" を発布 はっぷ している。
シルウェステル2世 せい と悪魔 あくま
シルウェステル2世 せい は後世 こうせい から「紀元 きげん 千 せん 年 ねん の魔術 まじゅつ 師 し 教皇 きょうこう 」と呼 よ ばれることとなる。同 どう 時代 じだい 人 じん からも傑出 けっしゅつ した人物 じんぶつ と見 み なされていたようで、彼 かれ の死後 しご 15年 ねん (1018年 ねん )にして「異教徒 いきょうと の地 ち (後 こう ウマイヤ朝 あさ )の首都 しゅと コルドバ まで赴 おもむ いて天文学 てんもんがく を学 まな んだ」という逸話 いつわ が生 う まれている。しかし当時 とうじ 、キリスト教 きょう 圏 けん から後 こう ウマイヤ朝 あさ に赴 おもむ く人間 にんげん のほとんどは信任 しんにん 状 じょう を与 あた えられた国 くに の使節 しせつ であったことから、否定 ひてい 的 てき にみられている。また、シルウェステル2世 せい がアラビア語 ご の音訳 おんやく を一切 いっさい 用 もち いておらず、ラテン語 らてんご に翻訳 ほんやく された写本 しゃほん を求 もと めていることから、アラビア語 ご を習得 しゅうとく していなかったと考 かんが えられ、そのことからもコルドバまで赴 おもむ いて天文学 てんもんがく を学 まな んだことは否定 ひてい される。
11世紀 せいき 、対立 たいりつ 教皇 きょうこう クレメンス3世 せい 側 がわ の枢機卿 すうききょう が教皇 きょうこう グレゴリウス7世 せい の正当 せいとう 性 せい を非難 ひなん する中 なか で、グレゴリウス7世 せい の教師 きょうし の教師 きょうし であったシルウェステル2世 せい について「悪魔 あくま に自分 じぶん の死期 しき を尋 たず ね、悪魔 あくま はエルサレムでミサを執 と り行 おこな うよりも前 まえ だと答 こた えた。シルウェステル(2世 せい )は当分 とうぶん 先 さき だと安泰 あんたい したが、ローマのエルサレム聖 せい 十字 じゅうじ 教会 きょうかい を訪 おとず れたときに其処で死 し んだ」と彼 かれ を呪術 じゅじゅつ に長 た けた者 もの だとした。
12世紀 せいき 、マームズベリーのウィリアム によって伝説 でんせつ はより具体 ぐたい 的 てき になった。それは「アラブ人 じん の教師 きょうし はジェルベールに魔法 まほう を教 おし えたが、人 ひと が知 し りうるすべての事柄 ことがら を記 しる した書物 しょもつ を手渡 てわた すことだけは拒 こば んでいた。ジェルベールは師 し の娘 むすめ を誑 たぶら かし、師 し を酒 さけ で酔 よ わせ、その書物 しょもつ を奪 うば った。アラブ人 じん はすぐに追 お ったが、ジェルベールは悪魔 あくま と契約 けいやく して海 うみ を飛 と び越 こ えて追 お っ手 て を撒 ま いた」とか「ローマ近郊 きんこう の銅像 どうぞう の暗号 あんごう を解 と き、地底 ちてい に隠 かく されていた黄金 おうごん の宮殿 きゅうでん と財宝 ざいほう の山 やま を発見 はっけん した」とか「質問 しつもん にすべて“はい”か“いいえ”で答 こた える青銅 せいどう 製 せい の頭 あたま を作 つく り、自分 じぶん が教皇 きょうこう になれるか尋 たず ねるとその青銅 せいどう 製 せい の頭 あたま が“はい”と答 こた えた」とかいった内容 ないよう であった。
シルウェステル2世 せい を悪魔 あくま の徒 と とする伝説 でんせつ については、16世紀 せいき 末 まつ にローマを訪 おとず れたモンテーニュ も憤慨 ふんがい している。
この他 ほか に「出生 しゅっしょう 時 じ に鶏 にわとり が三 さん 度 ど 鳴 な きローマにまで鳴 な き声 ごえ が届 とど いた」「古代 こだい ローマの貴族 きぞく カエシウスの子孫 しそん 」といった伝説 でんせつ 的 てき 逸話 いつわ が残 のこ っている。なお、シルウェステル2世 せい が望遠鏡 ぼうえんきょう ・機械 きかい 時計 とけい ・水圧 すいあつ 式 しき オルガン などを所持 しょじ ないし製作 せいさく したという話 はなし に関 かん しては、伝説 でんせつ ではなく事実 じじつ であるとする意見 いけん もある。
シルウェステル2世 せい の著作 ちょさく は「パトロロギア・ラティーナ」 (Patrologia Latina ) 第 だい 139巻 かん の中 なか に印刷 いんさつ されている。
数学 すうがく 関連 かんれん
Libellus de numerorum divisione (数 かず の割算 わりざん についての書 しょ )
De geometria (幾何 きか 学 がく )
Epistola ad Adelbodum (アデルボド宛 あ ての書簡 しょかん )
De sphaerae constructione (天球儀 てんきゅうぎ の製作 せいさく について)
Libellus de rationali et ratione uti (計算 けいさん と計算 けいさん 結果 けっか の書 しょ )
教会 きょうかい 関連 かんれん
Sermo de informatione episcoporum (司教 しきょう の表現 ひょうげん についての説話 せつわ )
De corpore et sanguine Domini (神 かみ の受肉 と血統 けっとう について)
Selecta e concil. Basol., Remens., Masom., etc. (サン・バール教会 きょうかい 会議 かいぎ 、ランス教会 きょうかい 会議 かいぎ 、ムーゾン教会 きょうかい 会議 かいぎ の選集 せんしゅう )
書簡 しょかん
Epistolae ante summum pontificatum scriptae (教皇 きょうこう 就任 しゅうにん 以前 いぜん に記 しる された書簡 しょかん 集 しゅう )
皇帝 こうてい 、教皇 きょうこう 、司教 しきょう らに宛 あ てた218通 つう の書簡 しょかん
Epistolae et decreta pontificia (教皇 きょうこう の書簡 しょかん ならびに決議 けつぎ 書 しょ )
アルヌルフを含 ふく む司教 しきょう 、修道院 しゅうどういん 長 ちょう 、そしてハンガリー王 おう ステファヌス1世 せい に宛 あ てた15通 つう の書簡 しょかん
オットー3世 せい に宛 あ てた真偽 しんぎ 不明 ふめい の書簡 しょかん 1通 つう
5つの短 みじか い詩 し
その他 た
Acta concilii Remensis ad S. Basolum (サン・バールでのランス教会 きょうかい 会議 かいぎ 記録 きろく )
Leonis legati epistola ad Hugonem et Robertum reges (ユーグとロベール治世 ちせい における教皇 きょうこう 使節 しせつ レオの記述 きじゅつ )
和書 わしょ
アンリ・フォシヨン『至福 しふく 千 せん 年 ねん 』神沢 かみさわ 栄三 えいざ 訳 やく 、みずす書房 しょぼう 、1971年 ねん 。
三 さん 佐川 さがわ 亮 あきら 宏 ひろし 『紀元 きげん 千 せん 年 ねん の皇帝 こうてい ―オットー三 さん 世 せい とその時代 じだい 』刀 かたな 水 すい 書房 しょぼう 、2018年 ねん
洋書 ようしょ
Pierre Riché, Gerbert d'Aurillac, le pape de l'an mil, Paris, Éditions Fayard, 1987.
Chanoine Jean Leflon, Gerbert, humanisme et chrétienté au Xe siècle, Saint-Wandrille, Éditions de Fontenelle, 1946.
Pierre Riché, Jean-Paul Callu, ed., Gerbert d' Aurillac, Correspondance (Les classiques de l'histoire de France au moyen age), 2t., Paris, Les belles lettres, 1993.
Harriet Pratt Lattin, Harriet Pratt, ed., The Letters of Gerbert, With His Papal Privileges as Sylvester II, New York, Columbia University Press, 1961.
Anna Marie Flusche, The Life And Legend of Gerbert of Aurillac: The Organbuilder Who Became Pope Sylvester II (Studies in the History and Interpretation of Music), New York, Edwin Mellen Press, 2006.
Robert Latouche, ed., Richer Histoire de France (888-995) (Les classiques de l'histoire de France au moyen age), 2t., Paris, Les belles lettres, 1967.
Georg Heinrich Pertz, ed., Richeri historiarum libri IIII, in Monumenta Germaniae Historica SS. tomus III, Hannover, 1839, reprint New York, 1963.
古代 こだい 中世 ちゅうせい 近世 きんせい 近代 きんだい 現代 げんだい
一覧 いちらん
^1 教皇 きょうこう 選出 せんしゅつ 者 しゃ 。正式 せいしき な教皇 きょうこう に数 かぞ えず
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