ラヴェンナ

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ラヴェンナ
Ravenna
ラヴェンナの風景
ポポロ広場ひろば (Piazza del Popolo) 西側にしがわ
ラヴェンナの旗 ラヴェンナの紋章
はた 紋章もんしょう
行政ぎょうせい
くに イタリアの旗 イタリア
しゅう エミリア=ロマーニャ州の旗 エミリア=ロマーニャ
けん大都市だいとし ラヴェンナ
CAP郵便ゆうびん番号ばんごう 48100
市外しがい局番きょくばん 0544
ISTATコード 039014
識別しきべつコード H199
分離ぶんり集落しゅうらく #分離ぶんり集落しゅうらく参照さんしょう
隣接りんせつコムーネ #隣接りんせつコムーネ参照さんしょう
公式こうしきサイト リンク
人口じんこう
人口じんこう 156050 にん (2023-01-01 [1])
人口じんこう密度みつど 239 にん/km2
文化ぶんか
住民じゅうみん呼称こしょう ravennati
守護しゅご聖人せいじん きよしアポリナーレ (sant'Apollinare)
祝祭日しゅくさいじつ 7がつ23にち
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい4425ふん04びょう 東経とうけい1211ふん58びょう / 北緯ほくい44.41778 東経とうけい12.19944 / 44.41778; 12.19944座標ざひょう: 北緯ほくい4425ふん04びょう 東経とうけい1211ふん58びょう / 北緯ほくい44.41778 東経とうけい12.19944 / 44.41778; 12.19944
標高ひょうこう 4 (0 - 22) [2] m
面積めんせき 652.89 [3] km2
ラヴェンナの位置(イタリア内)
ラヴェンナ
ラヴェンナの位置いち
ラヴェンナ県におけるコムーネの領域
ラヴェンナけんにおけるコムーネの領域りょういき 地図
イタリアの旗 ポータル イタリア
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ラヴェンナ: Ravenna)は、イタリア共和きょうわこくエミリア=ロマーニャしゅうにある人口じんこうやく156,000にん基礎きそ自治体じちたいコムーネ)。ラヴェンナけんけんである。

古代こだいローマ時代じだいから中世ちゅうせいにかけて繁栄はんえいした都市としで、ラテン語らてんごではラウェンナRavenna)とばれる。西にしマ帝国まていこくひがしゴート王国おうこく首都しゅとき、ひがしマ帝国まていこくラヴェンナ総督そうとくりょう首府しゅふであった。「ラヴェンナの初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくぶつぐん」はユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされている。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

標準ひょうじゅんイタリア以外いがいでは以下いか名称めいしょうつ。

  • ロマーニャ (en: Ravêna

地理ちり[編集へんしゅう]

位置いちひろがり[編集へんしゅう]

ラヴェンナはラヴェンナけん東部とうぶ位置いちし、フェラーラから南東なんとうへ66km、州都しゅうとボローニャからひがしへ69km、フィレンツェから北東ほくとうへ105km、ヴェネツィアからみなみへ114kmの距離きょりにある。

歴史れきしてきにはアドリア海あどりあかいめんした海港かいこう都市としとしてきずかれたラヴェンナであるが、現代げんだいのラヴェンナ市街しがい内陸ないりく所在しょざいしており、うみとのあいだ直線ちょくせん距離きょりで8kmほどはなれている。ラヴェンナ市街しがいアドリア海あどりあかいとのあいだ運河うんがでつながっている。

コムーネとしてのラヴェンナはアドリア海あどりあかいめんし、なが海岸かいがんせんつ。ラヴェンナ市街しがいアドリア海あどりあかいむす運河うんが出口でぐちにあたるマリーナ・ディ・ラヴェンナ(ラヴェンナこう (Port of Ravennaは、イタリアの重要じゅうよう港湾こうわんのひとつである。

コムーネの面積めんせきは 652 km2およぶ。これはイタリアのコムーネではだい2面積めんせきで(最大さいだいローマ[注釈ちゅうしゃく 1])、ラヴェンナけん面積めんせきやく1/3をめる。

ラヴェンナけん概略がいりゃく

隣接りんせつコムーネ[編集へんしゅう]

隣接りんせつするコムーネは以下いかとおり。括弧かっこないのFCはフォルリ=チェゼーナけん、FEはフェラーラけん所属しょぞくしめす。

気候きこう分類ぶんるい地震じしん分類ぶんるい[編集へんしゅう]

ラヴェンナにおけるイタリアの気候きこう分類ぶんるい (itおよびは、zona E, 2227 GGである[4]。 また、イタリアの地震じしんリスク階級かいきゅう (itでは、zona 3 (sismicità bassa)分類ぶんるいされる[5]

歴史れきし[編集へんしゅう]

古代こだい[編集へんしゅう]

ローマ以前いぜん[編集へんしゅう]

ラヴェンナの発祥はっしょうかでない。最初さいしょ定住ていじゅうティレニアじんテッサリアひと、またはウンブリじんエトルリアじんによるものと多様たようにいわれている。ラヴェンナは、湿地しっちたいかたなかにある小島こじまぐんじょうに、堆積たいせきぶつ基礎きそとしててたいえから構成こうせいされた。かず世紀せいきにできたヴェネツィアちがている。ローマじんがわデルタ地帯ちたい征服せいふくしたあいだに、のちにラヴェンナとなる定住ていじゅう無視むしした。しかし、紀元前きげんぜん89ねん連邦れんぽうせいまちとして共和きょうわせいローマなかれた。

ローマ時代じだい[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん49ねんユリウス・カエサルルビコンかわ横断おうだんするまえ自分じぶんぐんをこの集結しゅうけつさせた。紀元前きげんぜん31ねんマルクス・アントニウスとのたたかアウグストゥスみかどがラヴェンナに艦隊かんたいよう軍港ぐんこうクラッシス(Classis)をきずいた。このみなとは、最初さいしょ城壁じょうへきまもられた重要じゅうようローマ海軍かいぐん基地きちであった。現在げんざいうみからはなされたが、中世ちゅうせい初期しょきまでラヴェンナはアドリア海あどりあかい重要じゅうよう海港かいこうのままだった。

ゲルマン遠征えんせいあいだ、ゲルマンじん族長ぞくちょうアルミニウス未亡人みぼうじんトゥースネルダと、マルコマンニおうマルボドゥウスは、ラヴェンナで監禁かんきんされていた。

ラヴェンナは、ローマ支配しはいおおいに繁栄はんえいした。トラヤヌスみかどは2世紀せいき初頭しょとう、70kmのながさのローマ水道すいどう建設けんせつした。402ねんホノリウスみかど西にしマ帝国まていこく首都しゅとミラノからラヴェンナへ遷都せんとした。遷都せんとには、だいいち防衛ぼうえい目的もくてきがあった。ラヴェンナは泥沢どろざわ湿地しっちかこまれ、そしてひがしマ帝国まていこくぐんとの安心あんしんであった。しかし409ねん西にしゴートおうアラリック1せい簡単かんたんにラヴェンナを迂回うかいし、ローマへかって略奪りゃくだつをし(ローマ略奪りゃくだつ)、人質ひとじちとしてテオドシウス1せい皇女おうじょガッラ・プラキディアれてきた。おおくの変遷へんせんののち、ガッラ・プラキディアは息子むすこウァレンティニアヌス3せいとともにラヴェンナへもどり、おいテオドシウス2せい支援しえんした。ラヴェンナは、キリストきょう宮廷きゅうてい厚遇こうぐうされると、平和へいわ時代じだい謳歌おうかした。そしてもっと有名ゆうめいな、世俗せぞくとキリストきょう両方りょうほう建造けんぞうぶつ獲得かくとくした(キリストきょう建造けんぞうぶつ広範囲こうはんい保存ほぞんされている)。

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

ひがしゴート王国おうこく首都しゅと[編集へんしゅう]

テオデリックの宮殿きゅうでんのモザイク

476ねん西にしマ帝国まていこく滅亡めつぼうし、ひがしローマ皇帝こうていゼノンひがしゴートおうテオドリックをイタリア半島はんとうさい獲得かくとくのためおくんだ。ヴェローナのたたかオドアケルはラヴェンナへ退却たいきゃくし、リミニが攻略こうりゃくされラヴェンナの補給ほきゅうたれるまでテオドリックに3年間ねんかん包囲ほういされた(ラヴェンナ包囲ほういせん)。ラヴェンナはひがしゴート王国おうこく首都しゅととなった。

493ねんのち、テオドリックは世俗せぞく信仰しんこう建物たてものサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどうちかくのうしなわれた宮殿きゅうでんふくむ)のためローマじん建築けんちくやとれた。テオドリック宮殿きゅうでん付属ふぞく建築けんちくぶつであった。テオドリックと家臣かしんたちはアリウスであったが、ラテンじんらと平和へいわ共存きょうぞんしていた。526ねんにテオドリックはに、いだむすめアマラスンタは535ねん殺害さつがいされた。

ひがしマ帝国まていこくラヴェンナ総督そうとくりょう[編集へんしゅう]

6世紀せいきのキリストのモザイク長髪ちょうはつひげばし、ギリシャ=ローマふう聖職せいしょくしゃ王族おうぞくのような衣装いしょうている

527ねん即位そくいしたひがしローマ皇帝こうていユスティニアヌス1せいは、マ帝国まていこく復興ふっこう正統せいとう教義きょうぎ擁護ようごかかげ、ひがしゴート支配しはいにもキリスト教きりすときょうアリウスにも反対はんたいしていた。ひがしゴート王国おうこく内紛ないふんによる混乱こんらんじょうじたユスティニアヌス1せいは、535ねん将軍しょうぐんベリサリウスらを派遣はけんしてイタリアに侵攻しんこうした(ゴート戦争せんそう)。540ねんひがしゴートおうウィティギス降伏ごうぶくし、ベリサリウスはラヴェンナを占領せんりょうした。ラヴェンナはイタリアにおけるひがしマ帝国まていこく政府せいふラヴェンナ総督そうとく)の所在地しょざいちとなった。

ラヴェンナでの帝国ていこく復活ふっかつ(ユスティニアヌス1せい外征がいせいマ帝国まていこく時代じだい旧領きゅうりょうもどしたことをす)も、クラッシスこう恩恵おんけいけた。ときまち古代こだい後期こうきポンペイだといわれた。この時代じだい代表だいひょうする遺跡いせきは、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどう(6世紀せいきから7世紀せいき)で、教会きょうかいないにはせいアポリナレスのせい遺物いぶつかれている。しかしたとえクラッシスがローマ時代じだいにつくられたとはいえ、ラヴェンナの成長せいちょういちじるしかったのは帝国ていこく末期まっきであった。ラヴェンナのみなととして、クラッシスは6世紀せいきから7世紀せいきのカギとなる交易こうえき乗降じょうこうこうであり、イタリア・アドリア海あどりあかい沿岸えんがんしゅ要港ようこうであった。

皇帝こうていマウリキウスはラヴェンナに総督そうとくいた。これがラヴェンナ総督そうとくられる。このとき、『ラヴェンナの形状けいじょう』(it、インドからアイルランドまでの地名ちめいしるされた)がかれた。

6世紀せいきから7世紀せいきにかけ、総督そうとくりょうロンゴバルド王国おうこくフランク王国おうこくおびやかされ、ひじりぞう破壊はかい運動うんどうによって東西とうざいのキリスト教会きょうかいかれた。教皇きょうこうちょうコンスタンティノープルそう主教しゅきょうちょうとの競争きょうそう苛烈かれつきわめ、総督そうとくりょう状況じょうきょう支持しじされなくなっていった。

リウトプランドおう時代じだいのロンゴバルド王国おうこくが、712ねんにラヴェンナを占領せんりょうした。しかしひがしマ帝国まていこく返還へんかんさせられた。751ねん、ロンゴバルドおうアイストゥルフがラヴェンナ征服せいふく継承けいしょうし、この前後ぜんご最後さいごのラヴェンナ総督そうとくエウティキウス戦死せんしした。きたイタリアでのひがしローマ支配しはいわった。

ピピンの寄進きしん教皇きょうこうりょう[編集へんしゅう]

旧東きゅうとうマ帝国まていこくりょうねらローマ教皇きょうこうステファヌス2せいは、フランク王国おうこくしょうピピン加勢かせいもとめ、ロンゴバルド王国おうこく攻撃こうげきさせた。きゅう総督そうとくりょう征服せいふく完了かんりょうしたしょうピピンは、征服せいふくした土地とち教皇きょうこう寄進きしんし、784ねんにラヴェンナは教皇きょうこうりょうとなった。その見返みかえりとして、しょうピピンのカール大帝たいてい教皇きょうこうちょうから後押あとおしをけるようになった。ハドリアヌス1せいはカール大帝たいていたいし、ラヴェンナからこのみのものをどんなものもあたえるとみとめた。カール大帝たいていは3遠征えんせい略奪りゃくだつおこない、ローマ時代じだい円柱えんちゅう、モザイク、ぞう、そのっていける品物しなものおおくのすうのぞき、かれ首都しゅとアーヘンませた。

教皇きょうこうちょう支配しはいのもと、ラヴェンナ大司教だいしきょうはローマ教会きょうかいからの独立どくりつ教会きょうかい立場たちば謳歌おうかした。ひがしローマ支配しはい特権とっけん獲得かくとくしていたのである。リウドルフィングあさ皇帝こうていらの寄進きしんのため、ラヴェンナ大司教だいしきょう教皇きょうこうちょうつぎにイタリアで2番目ばんめ裕福ゆうふくであり、とき教皇きょうこう世俗せぞくてき権威けんいえることができた。 1198ねん、ラヴェンナははん皇帝こうていロマーニャ同盟どうめいひきい、教皇きょうこう同盟どうめい従属じゅうぞくさせた。

シニョーリたち、ヴェネツィア共和きょうわこく[編集へんしゅう]

ラヴェンナのポポロ広場ひろば

1218ねん戦争せんそう、トラヴェルサーリがラヴェンナ支配しはいおこない、1240ねんまでつづいた。短期間たんきかん皇帝こうてい代理だいり支配しはい、1248ねんにラヴェンナは教皇きょうこうりょうもどり、ダ・ポレンタが1275ねんまで長期ちょうきシニョリーアせいいたのち、トラヴェルサーリふたた実権じっけん掌握しょうあくした。この時代じだいもっと有名ゆうめいなラヴェンナ住民じゅうみんは、フィレンツェから追放ついほうされていたダンテ・アリギエーリであった。ダ・ポレンタ最後さいごのシニョーリ、オスタジオ3せいは1440ねんヴェネツィア共和きょうわこくによってわれ、ラヴェンナはヴェネツィアの領土りょうど併合へいごうされた。

ヴェネツィアによる支配しはいは1509ねんまでつづき、ラヴェンナ周辺しゅうへんイタリア戦争せんそう過程かてい侵略しんりゃくされた。1512ねんカンブレー同盟どうめい戦争せんそう最中さいちゅう、ラヴェンナはフランスぐん略奪りゃくだつされた。

教皇きょうこうりょうへの復帰ふっき[編集へんしゅう]

ヴェネツィアが後退こうたいさせられると、ラヴェンナは再度さいど教皇きょうこうりょう一部いちぶとして、教皇きょうこう全権ぜんけん委任いにん大使たいしによる支配しはいをうけることになった。1636ねん5がつはすさまじい洪水こうずい被害ひがいけた。つづく3世紀せいき以上いじょう運河うんがもうちかくの河川かせんながれをえ、湿地しっち干拓かんたくした。洪水こうずい発生はっせいする可能かのうせいり、まわりに広大こうだい農業のうぎょうようのベルト地帯ちたいがつくられた。

近代きんだい現代げんだい[編集へんしゅう]

1796ねんまで教皇きょうこうりょうであったラヴェンナは、フランスの傀儡かいらい国家こっかチサルピナ共和きょうわこく(1802ねんからイタリア共和きょうわこく、1805ねんからイタリア王国おうこく)に併合へいごうされた。ナポレオン没落ぼつらくの1814ねん教皇きょうこうちょうもどされた。

1859ねんサルデーニャ王国おうこくぐん占領せんりょうされた。1861ねんにラヴェンナと周囲しゅういのロマーニャ地域ちいきは、新規しんき統合とうごうされたイタリア王国おうこく一部いちぶとなった。

だい世界せかい大戦たいせんでは、1943ねん9がつから1945ねん4がつまでのあいだ連合れんごうこくがわによる攻撃こうげきにさらされた。イタリア解放かいほうのための攻撃こうげきえたラヴェンナをたたえ、1951ねん5がつ19にちヴァロール・ミリターレきん勲章くんしょう共和きょうわこく政府せいふからあたえられた。

おも史跡しせき[編集へんしゅう]

ガッラ・プラキディア廟堂びょうどう内部ないぶ
ガッラ・プラキディア廟堂びょうどう天井てんじょうモザイク
ラヴェンナのドゥオモ
サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会きょうかい
ブランカレオーネじょうのシタデル

6世紀せいきまつからの急速きゅうそく衰退すいたいと、そのラヴェンナが重要じゅうよう都市としにはならなかったことによって、市内しないおよび郊外こうがいには、西にしローマ、ひがしゴート王国おうこくおよびひがしマ帝国まていこく文化ぶんか遺産いさん点在てんざいする。これらの建築けんちくぶつラヴェンナの初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくぶつぐんとして1996ねん世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。

  • ガッラ・プラキディア廟堂びょうどう
    ローマ皇帝こうていテオドシウス1せい皇女おうじょであるガッラ・プラキディア霊廟れいびょうとされる。5世紀せいきなかばの建立こんりゅうえん天井てんじょうふか青色あおいろ特徴とくちょうのモザイクにおおわれ、奥行おくゆきのある構図こうずになっている。ビザンティン以前いぜん古代こだいローマの影響えいきょうい。
  • サン・ヴィターレ聖堂せいどう
    6世紀せいきはじめに建設けんせつ計画けいかくされ、ひがしマ帝国まていこく支配しはいであった548ねん完成かんせい金色きんいろモザイクはち角形かくがたどうない後陣ごじんかざり、様式ようしきてき初期しょきビザンティン美術びじゅつ傑作けっさくである。ユスティニアヌス1せいとその皇后こうごうテオドラモザイクられる。
  • ネオニアーノ洗礼せんれいどう
    5世紀せいきはじめの建立こんりゅう。5世紀せいきなかばにはモザイクもほどこされ、これはドーム中央ちゅうおうにキリスト、そのまわりに12使徒しと、そのした旧約きゅうやく預言よげんしゃのレリーフへと放射状ほうしゃじょうつづく。
  • 大司教だいしきょうかん礼拝れいはいどう
    ラヴェンナ司教しきょうペトルス2せいによって、バシリカ・ウルシアーナに隣接りんせつする司教しきょう宮殿きゅうでん内部ないぶてられた礼拝れいはいどう
  • サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどう
    テオドリックによって、大宮おおみや殿どの隣接りんせつするかたちで建設けんせつされたバシリカ
  • テオドリックびょう
  • アリアーニ(アリウス洗礼せんれいどう
    テオドリックによって建設けんせつされた、現存げんそんする数少かずすくないアリウス建築けんちくぶつ
  • サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどう

そのほかにも以下いか史跡しせきがある。

  • スピリト・サント教会きょうかい(Chiesa dello Spirito Santo) - 5世紀せいきからの原型げんけいをとどめる。元々もともとはアリウス教会きょうかい。ファサードは5つのアーケードをもつ16世紀せいき名高なだかポルチコつ。
  • サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタ教会きょうかい(Chiesa di San Giovanni Evangelista) - 5世紀せいきにガッラ・プラキディアによっててられた。だい世界せかい大戦たいせんちゅうばくげき損傷そんしょうし、修復しゅうふくされた。
  • サン・フランチェスコ聖堂せいどう(Basilica di San Francesco) - 10世紀せいきから11世紀せいき再建さいけんまえ聖堂せいどうは、12使徒しとけんじどうされ、のちペトロにけんじどうされた。ひかえめなレンガづくりのファサードの背後はいごに、本堂ほんどうひとつと2つのがわろうがある。原始げんし教会きょうかいからあるモザイクの断片だんぺんゆかられる(あめのちにはつね水浸みずびたしとなる。納骨のうこつどうおなじ)。この聖堂せいどうで1321ねんダンテ・アリギエーリ葬儀そうぎおこなわれた。ダンテは聖堂せいどう付属ふぞく墓地ぼち埋葬まいそうされた。ラヴェンナの当局とうきょくは、かず世紀せいきわたってフィレンツェからの詩人しじんかん返還へんかん要求ようきゅう拒否きょひつづけている。
  • ラヴェンナのドゥオモ(Duomo di Ravenna) - 18世紀せいきてられた。カトリック教会きょうかいのラヴェンナ=チェルヴィア大司教だいしきょうかれている。
  • サンタ・マリア・マッジョーレ教会きょうかい(Chiesa di Santa Maria Maggiore) - 元々もともとは525ねんから532ねんてられた教会きょうかいで、1671ねんバロック様式ようしき再建さいけんされた。ルカ・ロンギ絵画かいが所蔵しょぞう
  • サン・ジョヴァンニ・バッティスタ教会きょうかい(Chiesa di San Giovanni Battista) - 1683ねんてられたバロック様式ようしき教会きょうかい中世ちゅうせい鐘楼しゅろうのこる。
  • サンタ・マリア・イン・ポルト教会きょうかい(Basilica di Santa Maria in Porto) - 16世紀せいき。18世紀せいきからある豪華ごうかなファサードがある。本堂ほんどうひとつと2つのがわろうがあり、たかまる屋根やねつ。コンスタンティノープルからラヴェンナへもたらされたとつたえられている有名ゆうめいな『ギリシャの聖母せいぼ』(Madonna Greca)ぞう所蔵しょぞうする。
  • コムーネ美術館びじゅつかん - ロマーニャ画家がか絵画かいが所蔵しょぞう
  • ブランカレオーネじょう(Rocca Brancaleone) - 1457ねん、ヴェネツィア共和きょうわこくてた。かつては城壁じょうへき一部いちぶで、現在げんざい公立こうりつ公園こうえんとなっている。しろとシタデル(とりで)2つの部分ぶぶんけられ、シタデルの面積めんせきは14,000 m²になる。
  • テオドリックの宮殿きゅうでん(Palazzo di Teodorico) - きゅうサン・サルヴァトーレ教会きょうかいくちにある。ひがしゴートおう宮殿きゅうでんだったころのモザイクがある。
  • サンタ・エウフェミア教会きょうかい(Chiesa di Santa Eufemia) - カルケドンのエウフェミアけんじどうした18世紀せいき教会きょうかいひがしローマ時代じだい宮殿きゅうでんからの壮麗そうれいなモザイクをつ、いしおおわれたドームける。

文学ぶんがくにおけるラヴェンナ[編集へんしゅう]

ダンテのはか

バイロンは、イタリア貴族きぞくわか人妻ひとづまであるテレサ・グイッチョーリ伯爵はくしゃく夫人ふじんこいち、1819ねんから1821ねんまでラヴェンナでらした。ここでかれは『ドン・ジュアン』と『ラヴェンナ日記にっき』をいた[1]

オスカー・ワイルドは、1878ねんRavennaというタイトルのいた。

ロシアの象徴しょうちょう主義しゅぎ詩人しじんアレクサンドル・ブロークは、1909ねんはるのイタリア旅行りょこう触発しょくはつされ、『ラヴェンナ』というタイトルのいた。

ドイツの詩人しじんヘルマン・ヘッセ旅行りょこう最中さいちゅうかれはラヴェンナを訪問ほうもんし、触発しょくはつされた2へんいた。

ドイツの作家さっかハンス・カロッサ(Hans Carossa,(1878ねん12月15にち - 1956ねん9がつ12にち))は、1938ねん- 1942ねん執筆しっぴつ、 1947ねん刊行かんこうの『イタリア紀行きこう』(Aufzeichnungen aus Italien ; Inselverlag) において、ラヴェンナのおもしるしている[6]

ダンテ・アリギエリは、政争せいそうやぶれてフィレンツェ追放ついほうされたのち、1317ねんごろからラヴェンナにとどまり、『かみきょく』を完成かんせいさせた。ダンテのはかは、ラヴェンナの中心ちゅうしんがいにある。おなじダンテ・アリギエリどおりにダンテ博物館はくぶつかんもある。

自然しぜん環境かんきょう[編集へんしゅう]

市域しいきには複数ふくすうラムサール条約じょうやく登録とうろく湿地しっちがある(イタリアのラムサール条約じょうやく登録とうろく一覧いちらん参照さんしょう)。レーノがわイタリアばん河口かこう砂丘さきゅうみずうみ Sacca di Bellocchioコマッキオ市域しいきにまたる)[7]Valli residue del comprensorio di Comacchioコマッキオアルジェンタ市域しいきにまたる) [8]Punte Alberete[9]Piallassa della Baiona e Risega[10]Ortazzo e Ortazzino[11]である。

交通こうつう[編集へんしゅう]

ラヴェンナは重要じゅうよう商業しょうぎょう観光かんこうこうつ。

ボローニャまたはヴェネツィアからの高速こうそくどうとおる。ローマからの最短さいたん道路どうろE45号線ごうせんである。そのみなみイタリア方面ほうめんとつながるアドリアティカどうとおる。

鉄道てつどうえきはボローニャ、フェッラーラ、ヴェネツィア、ヴェローナ、リミニへの路線ろせんがある。

もっとちか空港くうこうは、フォルリ空港くうこうボローニャ空港くうこうである。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

行政ぎょうせい[編集へんしゅう]

分離ぶんり集落しゅうらく[編集へんしゅう]

ラヴェンナには、以下いか分離ぶんり集落しゅうらく(フラツィオーネ)がある。

  • Ammonite, Bastia, Borgo Montone, Borgo Faina, Borgo Masotti, Borgo Papale, Borgo Sisa, Ca'di Guardia, Camerlona, Campiano, Carraie, Casal Borsetti, Casemurate, Caserma, Castellaccio, Castiglione di Ravenna, Cilla di Savarna, Classe, Coccolia, Conventello, Ducenta, Durazzano-Borgo Sisa, Filetto, Fornace Zarattini, Fosso Ghiaia, Gambellara, Ghibullo, Glorie, Grattacoppa, Lido Adriano, Lido di Classe, Lido di Dante, Lido di Savio, Longana, Madonna dell'Albero, Mandriole, Marina di Ravenna, Marina Romea, Massa-Castello, Mensa-Matellica,[72] Mezzano, Osteria, Palazzone, Piangipane, Pilastro, Ponte Nuovo, Porto Corsini, Porto Fuori, Punta Marina Terme, Punta Ravenna, Ragone, Roncalceci, San Bartolo, San Marco, San Michele, San Pietro in Campiano, San Pietro in Trento, San Pietro in Vincoli, San Romualdo, San Zaccaria, Sant'Alberto, Sant'Antonio, Santerno, Santo Stefano, Savarna, Savio, Torri, Villanova di Ravenna

姉妹しまい都市とし[編集へんしゅう]

スポーツ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ローマ面積めんせきは 1,287 km2 で、ラヴェンナやく2ばいである(面積めんせき比較ひかく参照さんしょう

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Popolazione residente per sesso, età e stato civile al 1° gennaio 2023” (イタリア). 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). 2024ねん3がつ9にち閲覧えつらんメニューでVista per singola areaを選択せんたく。Anno:2023, Ripartizione:Nord-est, Regione:Emilia-Romagna, Provincia:Ravenna, Comune:Ravenna を選択せんたく
  2. ^ 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). “Tavola: Popolazione residente - Ravenna (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア). 2013ねん10がつ20日はつか閲覧えつらん
  3. ^ 国立こくりつ統計とうけい研究所けんきゅうじょ(ISTAT). “Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Ravenna (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア). 2012ねん10がつ28にち閲覧えつらん
  4. ^ Tabella dei gradi/giorno dei Comuni italiani raggruppati per Regione e Provincia”. しん技術ぎじゅつエネルギー環境かんきょうきょく(ENEA) (2011ねん3がつ1にち). 2017ねん1がつ1にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2020ねん9がつ20日はつか閲覧えつらん
  5. ^ classificazione sismica aggiornata al aprile 2023” (xls). https://rischi.protezionecivile.gov.it/it/sismico/attivita/classificazione-sismica/. イタリア市民しみん保護ほごきょく. 2023ねん12月16にち閲覧えつらん
  6. ^ ハンス・カロッサ『イタリアの手記しゅき』(菊池きくち栄一えいいちへんちゅうだいさん書房しょぼう 1963ねん - Hans Carossa : Erinnerungen an Padua und Ravenna. Zwei Kapitel aus >Italienische Aufzeichnungen < von 1947. Insel 1981 (insel taschenbuch 581)ISBN 3-458-32281-7<1000>
  7. ^ Sacca di Bellocchio” (英語えいご). Ramsar Sites Information Service. Ramsar Convention Secretariat. 2016ねん12月5にち閲覧えつらん
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  9. ^ Punte Alberete” (英語えいご). Ramsar Sites Information Service. Ramsar Convention Secretariat. 2016ねん12月5にち閲覧えつらん
  10. ^ Piallassa della Baiona e Risega” (英語えいご). Ramsar Sites Information Service. Ramsar Convention Secretariat. 2016ねん12月5にち閲覧えつらん
  11. ^ Ortazzo e Ortazzino” (英語えいご). Ramsar Sites Information Service. Ramsar Convention Secretariat. 2016ねん12月5にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]