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教皇きょうこうりょう

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教皇きょうこうりょう
Status Ecclesiasticus
東ローマ帝国
ロンバルディア王国
イタリア王国 (神聖ローマ帝国)
754ねん - 1870ねん イタリア王国
教皇領の国旗 教皇領の国章
国旗こっき(1825ねん - 1870ねん)くにあきら(15世紀せいき - 19世紀せいき
国歌こっか: Marcia trionfale
だい凱旋がいせん行進曲こうしんきょく
教皇領の位置
教皇きょうこうりょう位置いち(1789ねん
公用こうよう ラテン語らてんご
イタリア
宗教しゅうきょう カトリック
首都しゅと ローマ
ローマ教皇きょうこう
752ねん - 757ねん ステファヌス2せい
1846ねん - 1878ねんピウス9せい
変遷へんせん
ピピンの寄進きしん 756ねん
ヴェネツィア条約じょうやく
かみきよしマ帝国まていこくから独立どくりつ
1177ねん
最初さいしょ解体かいたい1798ねん2がつ15にち
バチカンの囚人しゅうじん1870ねん
ラテラノ条約じょうやく
(→バチカンこくに)
1929ねん2がつ11にち
通貨つうか教皇きょうこうりょうスクード英語えいごばん( - 1866ねん
教皇きょうこうりょうリラ英語えいごばん(1866ねん - 1870ねん
現在げんざいバチカンの旗 バチカン
イタリアの旗 イタリア
フランスの旗 フランス
1870ねん教皇きょうこうりょう地図ちず

教皇きょうこうりょう(きょうこうりょう、ラテン語らてんご:Status Pontificius, イタリア:Stato Pontificio)は、ローマ教皇きょうこうあるいはローマ教皇きょうこうちょう支配しはいしていた領土りょうどである。歴史れきしてきには国家こっかとしての体裁ていさいったため、教皇きょうこうこく教皇きょうこう国家こっかともばれる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

教皇きょうこうりょう成立せいりつまえのイタリア半島はんとう黄色おうしょくひがしマ帝国まていこくりょう、ピンクはひがしローマのラヴェンナ総督そうとく府領ふりょう、オレンジはランゴバルドじん支配しはい地域ちいき

教皇きょうこうけん成立せいりつ[編集へんしゅう]

教皇きょうこう国家こっかあるいは教皇きょうこうりょうばれる教皇きょうこう世俗せぞく支配しはい形成けいせい過程かてい概観がいかんする。ローマ司教しきょう優位ゆういせいイエス言葉ことばもとめられた。イエスはペテロかって、「なんじはペテロである。わたしはこのいわ(ペテロ)のうえわたし教会きょうかいてよう」とったという。ペテロが最初さいしょのローマ司教しきょうであったことは、ローマ司教しきょうこそが教会きょうかい本体ほんたいであるということをしているとることもできる。ペテロはイエスから「天国てんごくかぎ」をあづけられたとされた。「『わたしもっておく。あなたはペトロ。わたしはこのいわうえにわたしの教会きょうかいてる。かげちからもこれに対抗たいこうできない。わたしはあなたに天国てんごくかぎさづける。あなたが地上ちじょうでつなぐことは、天上てんじょうでもつながれる。あなたが地上ちじょうくことは、天上てんじょうでもかれる』」[1]

教権きょうけん上昇じょうしょうもっと貢献こうけんしたのはレオ1せいで、455ねんヴァンダルぞくがローマを攻撃こうげきしたときに、そのおうガイセリック交渉こうしょうしてローマの略奪りゃくだつふせいだ。このころから「教皇きょうこう(パパ)」という称号しょうごうはローマ司教しきょうだけに特別とくべつみとめられるものであるという観念かんねんがヨーロッパ世界せかい定着ていちゃくしていった。

4世紀せいき教皇きょうこうシリキウステサロニカ主教しゅきょう教皇きょうこう代理だいり任命にんめいして、ダキアマケドニアへの指導しどうけん獲得かくとくし、ボニファティウス1せいあらためてこれを皇帝こうていホノリウスみとめさせている。

グレゴリウス1せいによる司教しきょう支配しはい[編集へんしゅう]

5世紀せいき前半ぜんはんには教皇きょうこう権威けんいはイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムにおよんだ[2]。ところがひがしマ帝国まていこくむすびついたことで、東方とうほう神学しんがく論争ろんそう西方せいほうまれ、神学しんがく論争ろんそう介入かいにゅうする皇帝こうてい姿勢しせい不満ふまんたねとなり、きたイタリアのだい主教しゅきょう教皇きょうこう影響えいきょうから離脱りだつするうごきをしめし、ガリアイベリア半島はんとうでも分離ぶんり傾向けいこうられた。イタリア半島はんとうランゴバルドぞく侵入しんにゅうすると、グレゴリウス1せいフランク王国おうこく友好ゆうこうてき関係かんけいむすんだ。分離ぶんり傾向けいこうしめ西方せいほうしょ地域ちいき司教しきょうたちにたいして、グレゴリウス1せい教皇きょうこうがそれらの上位じょういにあることをかえ強調きょうちょうした。司教しきょう当時とうじすでに有力ゆうりょく世俗せぞく領主りょうしゅとなりつつあり上層じょうそう階級かいきゅうには司教しきょう熱望ねつぼうするうごきがあった[3][4]。その結果けっかあきらかにふさわしくない候補者こうほしゃわかすぎる候補者こうほしゃ司教しきょう選挙せんきょつようになった[3]

グレゴリウス1せいは、ナポリ司教しきょう解任かいにんし、メリタ司教しきょう降格こうかくし、タレントゥムカリャリサロナ高位こうい聖職せいしょくしゃ批判ひはんし、司教しきょうたいする支配しはい徹底てっていした[5]ブルンヒルドによるテウデリク2せいテウデベルト2せい摂政せっしょうこった数々かずかずのガリア教会きょうかい醜聞しゅうぶんに、グレゴリウスは諫言をおくったが、むすぶことはなかった[6]。グレゴリウス1せいはビザンツ皇帝こうていであるマウリキウスみかどフォカスみかどてた書簡しょかんでは、みずからへりくだって敬意けいいあらわしているが、メロヴィングあさ君主くんしゅてた手紙てがみでは、かれらをきびしく叱責しっせきだかあつてき態度たいどっている[7]。この当時とうじのガリア教会きょうかい完全かんぜんメロヴィングあさの「りょうくに教会きょうかい」としていたからである[8]

ビザンツ帝国ていこくたいしては一定いってい程度ていど影響えいきょうりょく行使こうししたが、従来じゅうらい教皇きょうこう指導しどうけんおよんでいたイリュリクムでは教義きょうぎかんしても無力むりょくであった[6]。ローマ教皇きょうこうのイリュリクムにたいする管轄かんかつけん最終さいしゅうてきグレゴリウス3せい時代じだい732ねん、ビザンツ皇帝こうていレオーン3せいによってコンスタンティノープルそう主教しゅきょううつされた[9]

グレゴリウス1せい正統せいとう信仰しんこう拡大かくだい熱心ねっしんで、ブリテンとうへの伝道でんどう組織そしきし、このアングロ・サクソンじんへの布教ふきょう順調じゅんちょう成果せいかげ、カンタベリー大司教だいしきょうもうけられ布教ふきょう拠点きょてんとなった。ブリテンとうはこののちきたヨーロッパにおける有力ゆうりょく布教ふきょう拠点きょてんとなり、たとえばカール大帝たいてい時代じだいにはアングロ・サクソンじん伝道でんどうしゃたちが、大帝たいていのガリアの宮廷きゅうていで、キリストきょう文化ぶんか興隆こうりゅう多大ただい貢献こうけんをするまでになっていた。またアリウス牙城がじょうであった西にしゴート王国おうこくのカトリックへの改宗かいしゅう成功せいこうした。

成立せいりつ[編集へんしゅう]

天国てんごくへのかぎさづけられるペテロ
イエスはペテロに天国てんごくかぎあづけたとされ、かれ最初さいしょのローマ司教しきょうとなったことで、かれ後継こうけいしゃであるローマ司教しきょうにその権威けんいがれているという観念かんねんひろまった。ローマ教皇きょうこうはこのかぎ自身じしんのシンボルとしてもちいている。

476ねん480ねん)に西にしマ帝国まていこく滅亡めつぼうしたのち都市としやその領土りょうどとうのローマ教皇きょうこうへの寄進きしんによって教皇きょうこうのものとなっていた領地りょうちというものは存在そんざいしたが、のち教皇きょうこうりょうとなった地域ちいき古代こだい末期まっきから中世ちゅうせい初期しょきにはひがしゴート王国おうこく、それをほろぼしたひがしマ帝国まていこくラヴェンナ総督そうとく、ついで6世紀せいきにイタリアに侵入しんにゅうしてひがしローマりょう侵食しんしょくしたランゴバルドじんランゴバルド王国おうこくなどが支配しはいしていた。こうしたなか732ねんカロリングカール・マルテルが、ランゴバルド王国おうこく同盟どうめいして、トゥール・ポワティエあいだたたかウマイヤあさ侵入しんにゅうめた。さらに、その、カール・マルテルは土地とち貸与たいよする封建ほうけんせい騎兵隊きへいたい創設そうせつした。

ピピンの寄進きしん[編集へんしゅう]

フランク王国おうこくメロヴィングあさ君主くんしゅわってカロリング実権じっけんにぎるようになると、教皇きょうこうとカロリング接近せっきん非常ひじょう親密しんみつ関係かんけいむすぶようになった。

ランゴバルド王国おうこく牽制けんせいしたかった教皇きょうこうザカリアスは、751ねん名目めいもくだけのおうがっていたフランク王国おうこくメロヴィングあさ)のキルデリク3せいはいし、カロリングピピン3せい王位おうい簒奪さんだつ支持しじしてカロリングあさ創設そうせつされた。本格ほんかくてき教皇きょうこうりょう世俗せぞく国家こっかのように成立せいりつするのは、よく752ねんにこの国王こくおうピピン3せいしょうピピン)がランゴバルド王国おうこくからうばったイタリアの領土りょうど寄進きしんしてからである。この時期じきラヴェンナ大司教だいしきょうひがしローマ皇帝こうてい利益りえき代弁だいべんし、ローマ教皇きょうこうきたイタリアの教会きょうかい管轄かんかつけんあらそっていた。ピピン3せいはランゴバルドぞく討伐とうばつすると、ラヴェンナ征服せいふくし、ローマ教皇きょうこうけんじ(ピピンの寄進きしん)、教皇きょうこう世俗せぞくてき領土りょうどとして教皇きょうこうりょう形成けいせいされた。カトリック教会きょうかい中心ちゅうしんであるローマ教皇きょうこうちょう領土りょうどをもったことは、精神せいしんてき存在そんざいであるはずの教会きょうかい世俗せぞくにつながった。

つづく教皇きょうこうステファヌス2せいはガリアのピピン3せい宮廷きゅうていみずかおもむき、フランク王国おうこくがイタリアの政治せいじ状況じょうきょう介入かいにゅうするという約束やくそくえに、ピピン3せい息子むすこカールカールマンぬり秘蹟ひせきほどこした。

カール大帝たいてい寄進きしんとフランク・ローマ皇帝こうてい[編集へんしゅう]

773ねん教皇きょうこうハドリアヌス1せいは、ランゴバルド王国おうこくによってローマをおびやかされていたが、ピピン3せいあといだカール1せい(カール大帝たいてい)に援軍えんぐん要請ようせいし、774ねんにランゴバルド王国おうこく滅亡めつぼうした(Langobardenfeldzug)。カール大帝たいてい教皇きょうこうにローマを中心ちゅうしんとした中部ちゅうぶイタリアをけんじた。ハドリアヌス1せいは『にせイシドールス法令ほうれいしゅうちゅうの『コンスタンティヌスみかど寄進きしんじょう』をして、イタリア全土ぜんど教皇きょうこう支配しはいふくするようになることをカール大帝たいてい要望ようぼうした。

カール大帝たいてい玉座ぎょくざ

教皇きょうこうレオ3せい800ねん、カール1せいをローマにまねいて、ローマ皇帝こうていかんむりをカールにさづけ、かれに「西にしローマ皇帝こうてい」の地位ちいあたえた。この場合ばあいの「西にしローマ」はイタリア半島はんとう西にしヨーロッパ内陸ないりく、ガリアとゲルマニア(理念りねんじょうはヒスパニアとブリタニアもふくむ)を領域りょういきてき用語ようごで、かつての東西とうざい分裂ぶんれつ時代じだい西にしマ帝国まていこくとは基本きほんてきことなり、その支配しはいしゃ注目ちゅうもくすれば「カロリング帝国ていこく」もしくは「フランク帝国ていこく」となる。かくして西にしマ帝国まていこく事実じじつじょう復活ふっかつし、フランク国王こくおうである西にしローマ皇帝こうてい西にし地中海ちちゅうかいにおいてキリストきょう世俗せぞく国家こっか代表だいひょうすることとなった。欧州おうしゅうだい実力じつりょくしゃフランク王国おうこくとローマ教皇きょうこう提携ていけいすることによって、東方とうほう教会きょうかいひがしマ帝国まていこくイスラム帝国ていこく対抗たいこうできる体制たいせいととのった。

教皇きょうこう教皇きょうこう国家こっかといえるような世俗せぞくてき領土りょうどっていたとはいえ、基本きほんてきには教皇きょうこうりょう帝国ていこく一部いちぶ皇帝こうていから独立どくりつしていたわけではない。しかし、教皇きょうこうひがしマ帝国まていこくのコンスタンティノープルそう主教しゅきょうとはことなり、皇帝こうてい官僚かんりょうであることはなく、教皇きょうこう選挙せんきょによって皇帝こうてい承認しょうにん必要ひつようとせずにえらばれたのであって、教皇きょうこう選任せんにんたいする皇帝こうてい統制とうせい制度せいどとしては介在かいざいすることはなかった。またカール大帝たいていみかどかんむり教皇きょうこうからあたえられたことは、のちに世俗せぞく君主くんしゅ皇帝こうてい名乗なのるのに教皇きょうこう承認しょうにん必要ひつようとするという観念かんねんにつながり、教皇きょうこう優位ゆういせいあたえる根拠こんきょとなった。

しかし、カール大帝たいてい没後ぼつごにフランク王国おうこくさん分裂ぶんれつし、843ねんヴェルダン条約じょうやく西にしフランク王国おうこくフランス王国おうこく)とあずまフランク王国おうこく欧州おうしゅう大国たいこくとなった。

ローマ教皇きょうこうニコラウス1せいとコンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうフォティオス1せいとがフィリオクェ問題もんだいめぐって、863ねんに「フォティオスの分離ぶんり英語えいごばん」(863ねん-867ねん)とばれる東西とうざい教会きょうかい対立たいりつ状態じょうたいおちいった。ひがしマ帝国まていこく皇帝こうていバシレイオス1せいはフォティオス1せい罷免ひめんして対立たいりつ解消かいしょうした。

かみきよしマ帝国まていこく誕生たんじょう[編集へんしゅう]

教皇きょうこうヨハネス12せいは、教皇きょうこうりょう拡大かくだい政策せいさく周辺しゅうへんこくあらそいがえなかったが、あずまフランク王国おうこく国王こくおうオットー1せい救援きゅうえん要請ようせいし、窮地きゅうちだっした。ヨハネス12せいは、962ねんオットー1せいにローマ皇帝こうていみかどかんむりあたえ(かみきよしマ帝国まていこく)、この見返みかえりとしてオットー大帝たいてい教皇きょうこうりょう保障ほしょうした。

1054ねん東西とうざい教会きょうかい分裂ぶんれつ

教皇きょうこう皇帝こうてい[編集へんしゅう]

その神聖しんせいローマ皇帝こうていシチリアおうがしばしばイタリア支配しはい目指めざして教皇きょうこうりょう侵攻しんこうすることがあった。 1254ねん教皇きょうこうけたフランスおうルイ9せいおとうと、シャルル・ダンジュー(カルロ1せい)が神聖しんせいマ帝国まていこくホーエンシュタウフェンあさ滅亡めつぼうさせると、それ以降いこう教皇きょうこうりょう安泰あんたいとなった。1274ねんにフランスおうフィリップ3せいは、アヴィニョン周辺しゅうへんアルビジョア十字軍じゅうじぐんときトゥールーズはくレーモン7せいがローマ教会きょうかい寄進きしんしたはずだと主張しゅちょうする教皇きょうこう主張しゅちょうくっし、アヴィニョン周辺しゅうへんコンタ・ヴネサン英語えいごばん、ヴネサン伯爵はくしゃくりょう、アヴィニョンのぞく)を教皇きょうこうりょう割譲かつじょうした。アヴィニョン1348ねんにプロヴァンスはくけんナポリ女王じょおうジョアンナ教皇きょうこうクレメンス6せい売却ばいきゃくした。以後いごフランス革命かくめい没収ぼっしゅうされるまでアヴィニョンとコンタ・ヴネサンはフランス国内こくない教皇きょうこうりょうとなった。

アヴィニョンしゅう教会きょうかい大分おおいたきれ[編集へんしゅう]

しかし、教皇きょうこうアヴィニョンしゅう1309ねん - 1377ねん)がこると、教皇きょうこうによる教皇きょうこうりょうへの支配しはいよわまり、各地かくち支配しはいする代官だいかん僭主せんしゅシニョリーア)として独立どくりつ君主くんしゅのように振舞ふるまうようになった。

イタリア戦争せんそう[編集へんしゅう]

教皇きょうこうアレクサンデル6せい(1492ねん - 1503ねん)は、庶子しょしチェーザレ・ボルジアもちいて教皇きょうこうりょうさい統一とういつすすめた。ユリウス2せい(1503ねん - 1513ねん)の時代じだい以降いこうフランススペインオーストリア圧力あつりょくけながらも、教皇きょうこうりょう国家こっかとしての機能きのうつようになった。17世紀せいき教皇きょうこうりょう最大さいだいとなった。

さんじゅうねん戦争せんそう[編集へんしゅう]

さんじゅうねん戦争せんそう1618ねん - 1648ねん)でかみきよしマ帝国まていこくやぶれ、ヴェストファーレン体制たいせい1648ねん - 1789ねん[10]したでヨーロッパのしょうくににも主権しゅけんみとめられるようになったため教皇きょうこう権力けんりょく衰微すいびした。

パリ外国がいこく宣教せんきょうかい創設そうせつとアジア布教ふきょう[編集へんしゅう]

教皇きょうこうアレクサンデル7せい支援しえんのもと、イエズスかいアレクサンドル・ドゥ・ロードアジア布教ふきょう出発しゅっぱつさせ、これが事実じじつじょうパリ外国がいこく宣教せんきょうかい創設そうせつとされている。

ピニョー・ド・ベーヌは、グエン・アイン(阮福暎)へフランスの支援しえんベトナムばん英語えいごばんあたえ、西山にしやまちょうたたかわせた。コーチシナ戦争せんそう英語えいごばんトンキン戦争せんそう英語えいごばんしんふつ戦争せんそうて、1887ねんフランスりょうインドシナ成立せいりつ

フランス革命かくめいおよびナポレオン時代じだい[編集へんしゅう]

ナポレオン戦争せんそう直前ちょくぜんまでの教皇きょうこうりょう(クリームしょく)。現在げんざいラツィオウンブリアマルケのほぼ全域ぜんいきエミリア=ロマーニャ東部とうぶめる。
1808ねん以前いぜん教皇きょうこう領国りょうごく

フランス革命かくめいは、カトリック教会きょうかい全般ぜんぱんにとってと同様どうよう教皇きょうこう現世げんせい領域りょういきにとって悲惨ひさん状況じょうきょうをもたらした。1791ねんに、コンタ・ヴネサンおよびアヴィニョンがフランスによって併合へいごうされた。その1796ねんナポレオン・ボナパルト司令しれいかんとするフランスぐんのイタリア侵略しんりゃくにより、教皇きょうこうりょう公国こうこく併呑へいどんされ、チザルピーナ共和きょうわこく一部いちぶとなった。2ねんの1798ねん教皇きょうこうりょう全体ぜんたいローマ共和きょうわこく樹立じゅりつ宣言せんげんしたフランスぐんによって侵略しんりゃくされた。教皇きょうこうピウス6せいは1799ねんにフランスで幽閉ゆうへいちゅうぼっした。教皇きょうこうりょうは1800ねん6がつ復活ふっかつし、教皇きょうこうピウス7せいもどったが、1808ねん再度さいどフランスが侵略しんりゃくし、このときには教皇きょうこうりょうのこりがフランスりょう併合へいごうされ、ティブルけんおよびトラジメーヌけんとされた。1814ねんにナポレオン体制たいせいたおれたことにより、教皇きょうこうりょうウィーン会議かいぎ復活ふっかつした。

国民こくみん国家こっかイタリアの勃興ぼっこう教皇きょうこうりょう終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

近代きんだい国家こっか誕生たんじょう激動げきどう1820ねん革命かくめいイタリアばんスペインばんフランス語ふらんすごばん英語えいごばん1830ねん革命かくめいイタリアばん1848ねん革命かくめいイタリア統一とういつ運動うんどう)により教皇きょうこうりょう縮小しゅくしょうさせられていった。

1859ねんオーストリア帝国ていこくからのだい2イタリア独立どくりつ戦争せんそうで、サルデーニャ王国おうこくナポレオン3せい同盟どうめいし、ソルフェリーノのたたかでサルデーニャ・フランス連合れんごうぐんはオーストリアぐん勝利しょうりした[11]。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地かくち教皇きょうこう支配しはいからサルデーニャ王国おうこくへの合併がっぺい運動うんどう展開てんかいすると、フランス国内こくないのカトリック戦争せんそう冷淡れいたんであり、またプロイセンも干渉かんしょう気配けはいせたことなどから、ナポレオン3せいはサルデーニャ王国おうこくだまってオーストリアとヴィッラフランカ単独たんどく講和こうわして、オーストリアがヴェネトしゅう保持ほじして、トスカーナなど亡命ぼうめい君主くんしゅ復位ふくい約束やくそくされた[11]。フランスの単独たんどく講和こうわにサルデーニャ王国おうこく戦争せんそう継続けいぞく希望きぼうしたが、やむなく容認ようにんし、かり条約じょうやく署名しょめいした[11]1860ねん、ナポレオン3せいサヴォイニースのフランスへの割譲かつじょう条件じょうけんに、サルデーニャ王国おうこくによる中部ちゅうぶイタリア併合へいごう承認しょうにんした[11]。1860ねん4がつ共和きょうわ主義しゅぎしゃガリバルディひきいる義勇軍ぎゆうぐんあかシャツたいりょうシチリア王国おうこくほろぼしてローマに進軍しんぐんしたが、サルデーニャ王国おうこくあかシャツたいによるローマ制圧せいあつおそれ、さきんじて教皇きょうこうりょうナポリ王国おうこくぐん撃破げきはした[11]。やむなくガリバルディは征服せいふくしたみなみイタリアをサルデーニャおうヴィットーリオ・エマヌエーレ2せい献上けんじょうし、両者りょうしゃならんでローマに入城にゅうじょうした[11]1861ねんに、ローマとヴェネトしゅうをのぞくイタリア王国おうこくヴィットーリオ・エマヌエーレ2せいイタリアおうした成立せいりつした[11]

1866ねんプロイセン・オーストリア戦争せんそうで、イタリアはプロイセンと同盟どうめいむすんで参戦さんせんするが、イタリアぐん指揮しきかん党派とうはてき反目はんもく機動きどうてき作戦さくせんさまたげられ、敗戦はいせんかさねた[11]。プロイセンはイタリアに通告つうこくでオーストリアと休戦きゅうせんし、イタリアは国民こくみんてき恥辱ちじょくのうちにあったが、ヴェネトしゅう回収かいしゅうできた[11]

1867ねんフランスぐんがローマを撤退てったいする[* 1]と、はん教皇きょうこうのガリバルディがローマ占領せんりょうこころみるが、さい派遣はけんされたフランスぐんによって撃破げきはされ、そのもフランスぐんはローマに駐留ちゅうりゅうした[11]

1870ねん9月、プロイセン=フランス戦争せんそうセダンのたたかでフランスが降伏ごうぶくすると、イタリア王国おうこく共和きょうわ主義しゅぎしゃマッツィーニによるローマ奪回だっかいさきんじて、イタリアぐんは9月19にち簡単かんたん砲撃ほうげきせんのち、ローマを占領せんりょうした[12]教皇きょうこう教皇きょうこう世俗せぞく権力けんりょく廃棄はいき関与かんよするすべてのものを破門はもんにすると宣告せんこくしたが、10月2にち住民じゅうみん投票とうひょうでは、ローマのイタリア王国おうこくへの併合へいごう圧倒的あっとうてき賛成さんせいされ、可決かけつした[12]よく1871ねん5月、イタリア王国おうこく教皇きょうこう保障ほしょうほう (Legge delle Guarentigie) を制定せいていし、教皇きょうこう反対はんたいしたが、政府せいふ一方いっぽうてき成立せいりつさせ、イタリア統一とういつ完成かんせいさせた[12]。これにより、教皇きょうこうりょう完全かんぜん消滅しょうめつした。1871ねんには、イタリアの首都しゅとがローマにうつされた。

影響えいきょう[編集へんしゅう]

以降いこう教皇きょうこうピウス9せいみずからを「バチカンの囚人しゅうじん」(1870ねん - 1929ねん)とび、すうだいレオ13せいピウス10せいベネディクトゥス15せい)にわたってイタリア政府せいふとの交渉こうしょう拒否きょひした。ピウス11せい時代じだいにイタリア政府せいふバチカンあいだでの和解わかい模索もさくされ、1929ねんラテラノ条約じょうやく締結ていけつされ、世界せかい最小さいしょう独立どくりつこくバチカンこく」が成立せいりつした。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ローマに駐留ちゅうりゅうしたフランスぐんについては1864ねんに2ねん以内いない撤退てったいするという「9がつ協定きょうてい」がイタリアとフランスあいだ締結ていけつされていた[11]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • なおけい太郎たろう 『ビザンツ帝国ていこく東海大学とうかいだいがく出版しゅっぱんかい、1999ねん
  • H・I・マルー 『教父きょうふ時代じだい』2、上智大学じょうちだいがく中世ちゅうせい思想しそう研究所けんきゅうじょやく平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃライブラリー, 168 . キリストきょう〉、1996ねん
  • M・D・ノウルズ 『中世ちゅうせいキリスト教きりすときょう成立せいりつ』3、上智大学じょうちだいがく中世ちゅうせい思想しそう研究所けんきゅうじょやく平凡社へいぼんしゃ平凡社へいぼんしゃライブラリー, 174 . キリストきょう〉、1996ねん
  • William, Barry (1902). The Papal Monarchy from St. Gregory the Great to Boniface VIII. T. Fisher Unwin.
  • 森田もりた鉄郎てつお ちょだい1へん イタリア」、井上いのうえ幸治こうじ へん南欧なんおう山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかい各国かっこく5〉、1957ねん3がつ 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]