教皇 きょうこう 領 りょう
Status Ecclesiasticus
国歌 こっか : Marcia trionfale大 だい 凱旋 がいせん 行進曲 こうしんきょく 教皇 きょうこう 領 りょう の位置 いち (1789年 ねん )
1870年 ねん の教皇 きょうこう 領 りょう の地図 ちず
教皇 きょうこう 領 りょう (きょうこうりょう、ラテン語 らてんご :Status Pontificius, イタリア語 ご :Stato Pontificio)は、ローマ教皇 きょうこう あるいはローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう の支配 しはい していた領土 りょうど である。歴史 れきし 的 てき には国家 こっか としての体裁 ていさい も持 も ったため、教皇 きょうこう 国 こく 、教皇 きょうこう 国家 こっか とも呼 よ ばれる。
教皇 きょうこう 領 りょう 成立 せいりつ 前 まえ のイタリア半島 はんとう 。黄色 おうしょく は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう 、ピンクは東 ひがし ローマのラヴェンナ総督 そうとく 府領 ふりょう 、オレンジはランゴバルド人 じん の支配 しはい 地域 ちいき 。
教皇 きょうこう 権 けん の成立 せいりつ [ 編集 へんしゅう ]
教皇 きょうこう 国家 こっか あるいは教皇 きょうこう 領 りょう と呼 よ ばれる教皇 きょうこう の世俗 せぞく 支配 しはい の形成 けいせい 過程 かてい を概観 がいかん する。ローマ司教 しきょう の優位 ゆうい 性 せい はイエス の言葉 ことば に求 もと められた。イエスはペテロ に向 む かって、「汝 なんじ はペテロである。私 わたし はこの岩 いわ (ペテロ)の上 うえ に私 わたし の教会 きょうかい を建 た てよう」と言 い ったという。ペテロが最初 さいしょ のローマ司教 しきょう であったことは、ローマ司教 しきょう こそが教会 きょうかい の本体 ほんたい であるということを指 さ していると受 う け取 と ることもできる。ペテロはイエスから「天国 てんごく の鍵 かぎ 」を預 あづ けられたとされた。「『わたしも言 い っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩 いわ の上 うえ にわたしの教会 きょうかい を建 た てる。陰 かげ 府 ふ の力 ちから もこれに対抗 たいこう できない。わたしはあなたに天国 てんごく の鍵 かぎ を授 さづ ける。あなたが地上 ちじょう でつなぐことは、天上 てんじょう でもつながれる。あなたが地上 ちじょう で解 と くことは、天上 てんじょう でも解 と かれる』」[1] 。
教権 きょうけん の上昇 じょうしょう に最 もっと も貢献 こうけん したのはレオ1世 せい で、455年 ねん にヴァンダル族 ぞく がローマを攻撃 こうげき したときに、その王 おう ガイセリック と交渉 こうしょう してローマの略奪 りゃくだつ を防 ふせ いだ。このころから「教皇 きょうこう (パパ)」という称号 しょうごう はローマ司教 しきょう だけに特別 とくべつ に認 みと められるものであるという観念 かんねん がヨーロッパ世界 せかい に定着 ていちゃく していった。
4世紀 せいき の教皇 きょうこう シリキウス はテサロニカ 主教 しゅきょう を教皇 きょうこう 代理 だいり に任命 にんめい して、ダキア とマケドニア への指導 しどう 権 けん を獲得 かくとく し、ボニファティウス1世 せい は改 あらた めてこれを皇帝 こうてい ホノリウス に認 みと めさせている。
グレゴリウス1世 せい による司教 しきょう 座 ざ 支配 しはい [ 編集 へんしゅう ]
5世紀 せいき 前半 ぜんはん には教皇 きょうこう の権威 けんい はイタリア・ガリア・ヒスパニア・アフリカ・イリュリクムに及 およ んだ。ところが東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に結 むす びついたことで、東方 とうほう の神学 しんがく 論争 ろんそう が西方 せいほう に持 も ち込 こ まれ、神学 しんがく 論争 ろんそう に介入 かいにゅう する皇帝 こうてい の姿勢 しせい は不満 ふまん の種 たね となり、北 きた イタリアの大 だい 主教 しゅきょう が教皇 きょうこう の影響 えいきょう から離脱 りだつ する動 うご きを示 しめ し、ガリア とイベリア半島 はんとう でも分離 ぶんり 傾向 けいこう が見 み られた。イタリア半島 はんとう にランゴバルド族 ぞく が侵入 しんにゅう すると、グレゴリウス1世 せい はフランク王国 おうこく と友好 ゆうこう 的 てき な関係 かんけい を結 むす んだ。分離 ぶんり 傾向 けいこう を示 しめ す西方 せいほう 諸 しょ 地域 ちいき の司教 しきょう たちに対 たい して、グレゴリウス1世 せい は教皇 きょうこう がそれらの上位 じょうい にあることを繰 く り返 かえ し強調 きょうちょう した。司教 しきょう は当時 とうじ すでに有力 ゆうりょく な世俗 せぞく 領主 りょうしゅ となりつつあり上層 じょうそう 階級 かいきゅう には司教 しきょう 座 ざ を熱望 ねつぼう する動 うご きがあった。その結果 けっか 、明 あき らかにふさわしくない候補者 こうほしゃ や若 わか すぎる候補者 こうほしゃ が司教 しきょう 選挙 せんきょ に立 た つようになった。
グレゴリウス1世 せい は、ナポリ 司教 しきょう を解任 かいにん し、メリタ 司教 しきょう を降格 こうかく し、タレントゥム ・カリャリ ・サロナ の高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ を批判 ひはん し、司教 しきょう 座 ざ に対 たい する支配 しはい を徹底 てってい した。ブルンヒルド によるテウデリク2世 せい ・テウデベルト2世 せい の摂政 せっしょう 期 き に起 お こった数々 かずかず のガリア教会 きょうかい の醜聞 しゅうぶん に、グレゴリウスは諫言を書 か き送 おく ったが、実 み を結 むす ぶことはなかった。グレゴリウス1世 せい はビザンツ皇帝 こうてい であるマウリキウス 帝 みかど やフォカス 帝 みかど に宛 あ てた書簡 しょかん では、自 みずか らへりくだって敬意 けいい を表 あらわ しているが、メロヴィング朝 あさ の君主 くんしゅ へ宛 あ てた手紙 てがみ では、彼 かれ らを厳 きび しく叱責 しっせき し高 だか 圧 あつ 的 てき な態度 たいど を取 と っている。この当時 とうじ のガリア教会 きょうかい は完全 かんぜん にメロヴィング朝 あさ の「領 りょう 邦 くに 教会 きょうかい 」と化 か していたからである。
ビザンツ帝国 ていこく に対 たい しては一定 いってい 程度 ていど の影響 えいきょう 力 りょく を行使 こうし したが、従来 じゅうらい 教皇 きょうこう の指導 しどう 権 けん が及 およ んでいたイリュリクム では教義 きょうぎ に関 かん しても無力 むりょく であった。ローマ教皇 きょうこう のイリュリクムに対 たい する管轄 かんかつ 権 けん は最終 さいしゅう 的 てき にグレゴリウス3世 せい 時代 じだい の732年 ねん 、ビザンツ皇帝 こうてい レオーン3世 せい によってコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう の手 て に移 うつ された。
グレゴリウス1世 せい は正統 せいとう 信仰 しんこう の拡大 かくだい に熱心 ねっしん で、ブリテン島 とう への伝道 でんどう を組織 そしき し、このアングロ・サクソン人 じん への布教 ふきょう は順調 じゅんちょう な成果 せいか を上 あ げ、カンタベリー大司教 だいしきょう 区 く が設 もう けられ布教 ふきょう の拠点 きょてん となった。ブリテン島 とう はこののち北 きた ヨーロッパにおける有力 ゆうりょく な布教 ふきょう 拠点 きょてん となり、たとえばカール大帝 たいてい の時代 じだい にはアングロ・サクソン人 じん の伝道 でんどう 者 しゃ たちが、大帝 たいてい のガリアの宮廷 きゅうてい で、キリスト教 きょう 文化 ぶんか の興隆 こうりゅう に多大 ただい な貢献 こうけん をするまでになっていた。またアリウス派 は の牙城 がじょう であった西 にし ゴート王国 おうこく のカトリックへの改宗 かいしゅう に成功 せいこう した。
天国 てんごく への鍵 かぎ を授 さづ けられるペテロ 。 イエスはペテロに天国 てんごく の鍵 かぎ を預 あづ けたとされ、彼 かれ が最初 さいしょ のローマ司教 しきょう となったことで、彼 かれ の後継 こうけい 者 しゃ であるローマ司教 しきょう にその権威 けんい が受 う け継 つ がれているという観念 かんねん が広 ひろ まった。ローマ教皇 きょうこう はこの鍵 かぎ を自身 じしん のシンボルとして用 もち いている。
476年 ねん (480年 ねん )に西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が滅亡 めつぼう した後 のち 、都市 とし やその領土 りょうど 等 とう のローマ教皇 きょうこう への寄進 きしん によって教皇 きょうこう のものとなっていた領地 りょうち というものは存在 そんざい したが、後 のち に教皇 きょうこう 領 りょう となった地域 ちいき は古代 こだい 末期 まっき から中世 ちゅうせい 初期 しょき には東 ひがし ゴート王国 おうこく 、それを滅 ほろ ぼした東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のラヴェンナ総督 そうとく 府 ふ 、ついで6世紀 せいき にイタリアに侵入 しんにゅう して東 ひがし ローマ領 りょう を侵食 しんしょく したランゴバルド人 じん のランゴバルド王国 おうこく などが支配 しはい していた。こうした中 なか 、732年 ねん にカロリング家 か のカール・マルテル が、ランゴバルド王国 おうこく と同盟 どうめい して、トゥール・ポワティエ間 あいだ の戦 たたか い でウマイヤ朝 あさ の侵入 しんにゅう を食 く い止 と めた。さらに、その後 ご 、カール・マルテルは土地 とち を貸与 たいよ する封建 ほうけん 制 せい で騎兵隊 きへいたい を創設 そうせつ した。
フランク王国 おうこく でメロヴィング朝 あさ の君主 くんしゅ に替 か わってカロリング家 か が実権 じっけん を握 にぎ るようになると、教皇 きょうこう とカロリング家 か は接近 せっきん し非常 ひじょう に親密 しんみつ な関係 かんけい を結 むす ぶようになった。
ランゴバルド王国 おうこく を牽制 けんせい したかった教皇 きょうこう ザカリアス は、751年 ねん に名目 めいもく だけの王 おう と成 な り下 さ がっていたフランク王国 おうこく (メロヴィング朝 あさ )のキルデリク3世 せい を廃 はい し、カロリング家 か のピピン3世 せい の王位 おうい 簒奪 さんだつ を支持 しじ してカロリング朝 あさ が創設 そうせつ された。本格 ほんかく 的 てき に教皇 きょうこう 領 りょう が世俗 せぞく の国家 こっか のように成立 せいりつ するのは、翌 よく 752年 ねん にこの国王 こくおう ピピン3世 せい (小 しょう ピピン)がランゴバルド王国 おうこく から奪 うば ったイタリアの領土 りょうど を寄進 きしん してからである。この時期 じき ラヴェンナ大司教 だいしきょう は東 ひがし ローマ皇帝 こうてい の利益 りえき を代弁 だいべん し、ローマ教皇 きょうこう と北 きた イタリアの教会 きょうかい の管轄 かんかつ 権 けん を争 あらそ っていた。ピピン3世 せい はランゴバルド族 ぞく を討伐 とうばつ すると、ラヴェンナ を征服 せいふく し、ローマ教皇 きょうこう に献 けん じ(ピピンの寄進 きしん )、教皇 きょうこう の世俗 せぞく 的 てき 領土 りょうど として教皇 きょうこう 領 りょう が形成 けいせい された。カトリック教会 きょうかい の中心 ちゅうしん であるローマ教皇 きょうこう 庁 ちょう が領土 りょうど をもったことは、精神 せいしん 的 てき な存在 そんざい であるはずの教会 きょうかい の世俗 せぞく 化 か につながった。
つづく教皇 きょうこう ステファヌス2世 せい はガリアのピピン3世 せい の宮廷 きゅうてい に自 みずか ら赴 おもむ き、フランク王国 おうこく がイタリアの政治 せいじ 状況 じょうきょう へ介入 かいにゅう するという約束 やくそく と引 ひ き替 か えに、ピピン3世 せい の息子 むすこ カール とカールマン に塗 ぬり 油 ゆ の秘蹟 ひせき を施 ほどこ した。
カール大帝 たいてい の寄進 きしん とフランク・ローマ皇帝 こうてい [ 編集 へんしゅう ]
773年 ねん に教皇 きょうこう ハドリアヌス1世 せい は、ランゴバルド王国 おうこく によってローマを脅 おびや かされていたが、ピピン3世 せい の跡 あと を継 つ いだカール1世 せい (カール大帝 たいてい )に援軍 えんぐん を要請 ようせい し、774年 ねん にランゴバルド王国 おうこく は滅亡 めつぼう した(Langobardenfeldzug )。カール大帝 たいてい も教皇 きょうこう にローマを中心 ちゅうしん とした中部 ちゅうぶ イタリアを献 けん じた。ハドリアヌス1世 せい は『偽 にせ イシドールス法令 ほうれい 集 しゅう 』中 ちゅう の『コンスタンティヌス帝 みかど の寄進 きしん 状 じょう 』を持 も ち出 だ して、イタリア全土 ぜんど が教皇 きょうこう の支配 しはい に服 ふく するようになることをカール大帝 たいてい に要望 ようぼう した。
カール大帝 たいてい の玉座 ぎょくざ
教皇 きょうこう レオ3世 せい は800年 ねん 、カール1世 せい をローマに招 まね いて、ローマ皇帝 こうてい の冠 かんむり をカールに授 さづ け、彼 かれ に「西 にし ローマ皇帝 こうてい 」の地位 ちい を与 あた えた。この場合 ばあい の「西 にし ローマ」はイタリア半島 はんとう と西 にし ヨーロッパ内陸 ないりく 部 ぶ 、ガリアとゲルマニア(理念 りねん 上 じょう はヒスパニアとブリタニアも含 ふく む)を指 さ す領域 りょういき 的 てき な用語 ようご で、かつての東西 とうざい 分裂 ぶんれつ 時代 じだい の西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく とは基本 きほん 的 てき に異 こと なり、その支配 しはい 者 しゃ に注目 ちゅうもく すれば「カロリング帝国 ていこく 」もしくは「フランク帝国 ていこく 」となる。かくして西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が事実 じじつ 上 じょう 復活 ふっかつ し、フランク国王 こくおう である西 にし ローマ皇帝 こうてい は西 にし 地中海 ちちゅうかい においてキリスト教 きょう 世俗 せぞく 国家 こっか を代表 だいひょう することとなった。欧州 おうしゅう の大 だい 実力 じつりょく 者 しゃ フランク王国 おうこく とローマ教皇 きょうこう が提携 ていけい することによって、東方 とうほう 教会 きょうかい と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく やイスラム帝国 ていこく に対抗 たいこう できる体制 たいせい が整 ととの った。
教皇 きょうこう は教皇 きょうこう 国家 こっか といえるような世俗 せぞく 的 てき な領土 りょうど を持 も っていたとはいえ、基本 きほん 的 てき には教皇 きょうこう 領 りょう も帝国 ていこく の一部 いちぶ で皇帝 こうてい から独立 どくりつ していたわけではない。しかし、教皇 きょうこう は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のコンスタンティノープル総 そう 主教 しゅきょう とは異 こと なり、皇帝 こうてい の官僚 かんりょう であることはなく、教皇 きょうこう 選挙 せんきょ によって皇帝 こうてい の承認 しょうにん を必要 ひつよう とせずに選 えら ばれたのであって、教皇 きょうこう 選任 せんにん に対 たい する皇帝 こうてい の統制 とうせい は制度 せいど としては介在 かいざい することはなかった。またカール大帝 たいてい が帝 みかど 冠 かんむり を教皇 きょうこう から与 あた えられたことは、のちに世俗 せぞく 君主 くんしゅ が皇帝 こうてい を名乗 なの るのに教皇 きょうこう の承認 しょうにん を必要 ひつよう とするという観念 かんねん につながり、教皇 きょうこう に優位 ゆうい 性 せい を与 あた える根拠 こんきょ となった。
しかし、カール大帝 たいてい の没後 ぼつご にフランク王国 おうこく が三 さん 分裂 ぶんれつ し、843年 ねん のヴェルダン条約 じょうやく で西 にし フランク王国 おうこく (フランス王国 おうこく )と東 あずま フランク王国 おうこく が欧州 おうしゅう の大国 たいこく となった。
ローマ教皇 きょうこう ニコラウス1世 せい とコンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう フォティオス1世 せい とがフィリオクェ問題 もんだい を巡 めぐ って、863年 ねん に「フォティオスの分離 ぶんり (英語 えいご 版 ばん ) 」(863年 ねん -867年 ねん )と呼 よ ばれる東西 とうざい 教会 きょうかい の対立 たいりつ 状態 じょうたい に陥 おちい った。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の皇帝 こうてい バシレイオス1世 せい はフォティオス1世 せい を罷免 ひめん して対立 たいりつ を解消 かいしょう した。
神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の誕生 たんじょう [ 編集 へんしゅう ]
教皇 きょうこう ヨハネス12世 せい は、教皇 きょうこう 領 りょう 拡大 かくだい 政策 せいさく で周辺 しゅうへん 国 こく と争 あらそ いが絶 た えなかったが、東 あずま フランク王国 おうこく の国王 こくおう オットー1世 せい に救援 きゅうえん を要請 ようせい し、窮地 きゅうち を脱 だっ した。ヨハネス12世 せい は、962年 ねん にオットー1世 せい にローマ皇帝 こうてい の帝 みかど 冠 かんむり を与 あた え(神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )、この見返 みかえ りとしてオットー大帝 たいてい は教皇 きょうこう 領 りょう を保障 ほしょう した。
1054年 ねん に東西 とうざい 教会 きょうかい の分裂 ぶんれつ 。
教皇 きょうこう 派 は と皇帝 こうてい 派 は [ 編集 へんしゅう ]
その後 ご 、神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい やシチリア王 おう がしばしばイタリア支配 しはい を目指 めざ して教皇 きょうこう 領 りょう に侵攻 しんこう することがあった。
1254年 ねん に教皇 きょうこう の意 い を受 う けたフランス王 おう ルイ9世 せい の弟 おとうと 、シャルル・ダンジュー(カルロ1世 せい )が神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく ホーエンシュタウフェン朝 あさ を滅亡 めつぼう させると、それ以降 いこう は教皇 きょうこう 領 りょう は安泰 あんたい となった。1274年 ねん にフランス王 おう フィリップ3世 せい は、アヴィニョン 周辺 しゅうへん はアルビジョア十字軍 じゅうじぐん 時 とき にトゥールーズ伯 はく レーモン7世 せい がローマ教会 きょうかい に寄進 きしん したはずだと主張 しゅちょう する教皇 きょうこう の主張 しゅちょう に屈 くっ し、アヴィニョン周辺 しゅうへん (コンタ・ヴネサン (英語 えいご 版 ばん ) 、ヴネサン伯爵 はくしゃく 領 りょう 、アヴィニョン市 し を除 のぞ く)を教皇 きょうこう 領 りょう に割譲 かつじょう した。アヴィニョン市 し は1348年 ねん にプロヴァンス伯 はく 兼 けん ナポリ女王 じょおう ジョアンナ が教皇 きょうこう クレメンス6世 せい に売却 ばいきゃく した。以後 いご 、フランス革命 かくめい で没収 ぼっしゅう されるまでアヴィニョンとコンタ・ヴネサンはフランス国内 こくない の教皇 きょうこう 領 りょう の飛 と び地 ち となった。
アヴィニョン捕 と 囚 しゅう と教会 きょうかい 大分 おおいた 裂 きれ [ 編集 へんしゅう ]
しかし、教皇 きょうこう のアヴィニョン捕 と 囚 しゅう (1309年 ねん - 1377年 ねん )が起 お こると、教皇 きょうこう による教皇 きょうこう 領 りょう への支配 しはい が弱 よわ まり、各地 かくち を支配 しはい する代官 だいかん が僭主 せんしゅ (シニョリーア )として独立 どくりつ 君主 くんしゅ のように振舞 ふるま うようになった。
教皇 きょうこう アレクサンデル6世 せい (1492年 ねん - 1503年 ねん )は、庶子 しょし チェーザレ・ボルジア を用 もち いて教皇 きょうこう 領 りょう の再 さい 統一 とういつ を進 すす めた。ユリウス2世 せい (1503年 ねん - 1513年 ねん )の時代 じだい 以降 いこう 、フランス やスペイン 、オーストリア の圧力 あつりょく を受 う けながらも、教皇 きょうこう 領 りょう は国家 こっか としての機能 きのう を持 も つようになった。17世紀 せいき に教皇 きょうこう 領 りょう は最大 さいだい となった。
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
三 さん 十 じゅう 年 ねん 戦争 せんそう (1618年 ねん - 1648年 ねん )で神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が敗 やぶ れ、ヴェストファーレン体制 たいせい (1648年 ねん - 1789年 ねん [10] )下 した でヨーロッパの小 しょう 邦 くに にも主権 しゅけん が認 みと められるようになった為 ため 、教皇 きょうこう 権力 けんりょく は衰微 すいび した。
パリ外国 がいこく 宣教 せんきょう 会 かい 創設 そうせつ とアジア布教 ふきょう [ 編集 へんしゅう ]
教皇 きょうこう アレクサンデル7世 せい の支援 しえん のもと、イエズス会 かい 士 し アレクサンドル・ドゥ・ロード がアジア布教 ふきょう に出発 しゅっぱつ させ、これが事実 じじつ 上 じょう のパリ外国 がいこく 宣教 せんきょう 会 かい 創設 そうせつ とされている。
ピニョー・ド・ベーヌ は、グエン・アイン (阮福暎)へフランスの支援 しえん (ベトナム語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) を与 あた え、西山 にしやま 朝 ちょう と戦 たたか わせた。コーチシナ戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) 、トンキン戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) 、清 しん 仏 ふつ 戦争 せんそう を経 へ て、1887年 ねん にフランス領 りょう インドシナ が成立 せいりつ 。
フランス革命 かくめい およびナポレオン時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
ナポレオン戦争 せんそう 直前 ちょくぜん までの教皇 きょうこう 領 りょう (クリーム色 しょく )。現在 げんざい のラツィオ 、ウンブリア 、マルケ のほぼ全域 ぜんいき とエミリア=ロマーニャ の東部 とうぶ を占 し める。
1808年 ねん 以前 いぜん の教皇 きょうこう 領国 りょうごく 旗 き 。
フランス革命 かくめい は、カトリック教会 きょうかい 全般 ぜんぱん にとってと同様 どうよう 、教皇 きょうこう 座 ざ の現世 げんせい の領域 りょういき にとって悲惨 ひさん な状況 じょうきょう をもたらした。1791年 ねん に、コンタ・ヴネサンおよびアヴィニョン がフランスによって併合 へいごう された。その後 ご 1796年 ねん 、ナポレオン・ボナパルト を司令 しれい 官 かん とするフランス軍 ぐん のイタリア侵略 しんりゃく により、教皇 きょうこう 領 りょう 公国 こうこく は併呑 へいどん され、チザルピーナ共和 きょうわ 国 こく の一部 いちぶ となった。2年 ねん 後 ご の1798年 ねん 、教皇 きょうこう 領 りょう 全体 ぜんたい がローマ共和 きょうわ 国 こく の樹立 じゅりつ を宣言 せんげん したフランス軍 ぐん によって侵略 しんりゃく された。教皇 きょうこう ピウス6世 せい は1799年 ねん にフランスで幽閉 ゆうへい 中 ちゅう に没 ぼっ した。教皇 きょうこう 領 りょう は1800年 ねん 6月 がつ に復活 ふっかつ し、教皇 きょうこう ピウス7世 せい が戻 もど ったが、1808年 ねん に再度 さいど フランスが侵略 しんりゃく し、この時 とき には教皇 きょうこう 領 りょう の残 のこ りがフランス領 りょう に併合 へいごう され、ティブル県 けん およびトラジメーヌ県 けん とされた。1814年 ねん にナポレオン体制 たいせい が倒 たお れたことにより、教皇 きょうこう 領 りょう はウィーン会議 かいぎ で復活 ふっかつ した。
国民 こくみん 国家 こっか イタリアの勃興 ぼっこう と教皇 きょうこう 領 りょう の終焉 しゅうえん [ 編集 へんしゅう ]
近代 きんだい 国家 こっか 誕生 たんじょう の激動 げきどう (1820年 ねん の革命 かくめい (イタリア語 ご 版 ばん 、スペイン語 ご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) 、1830年 ねん の革命 かくめい (イタリア語 ご 版 ばん ) 、1848年 ねん 革命 かくめい 、イタリア統一 とういつ 運動 うんどう )により教皇 きょうこう 領 りょう は縮小 しゅくしょう させられていった。
1859年 ねん 、オーストリア帝国 ていこく からの第 だい 2次 じ イタリア独立 どくりつ 戦争 せんそう で、サルデーニャ王国 おうこく はナポレオン3世 せい と同盟 どうめい し、ソルフェリーノの戦 たたか い でサルデーニャ・フランス連合 れんごう 軍 ぐん はオーストリア軍 ぐん に勝利 しょうり した[11] 。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地 かくち で教皇 きょうこう 支配 しはい からサルデーニャ王国 おうこく への合併 がっぺい 運動 うんどう が展開 てんかい すると、フランス国内 こくない のカトリック派 は も戦争 せんそう に冷淡 れいたん であり、またプロイセンも干渉 かんしょう の気配 けはい を見 み せたことなどから、ナポレオン3世 せい はサルデーニャ王国 おうこく に黙 だま ってオーストリアとヴィッラフランカ で単独 たんどく で講和 こうわ して、オーストリアがヴェネト州 しゅう を保持 ほじ して、トスカーナなど亡命 ぼうめい 君主 くんしゅ の復位 ふくい も約束 やくそく された[11] 。フランスの単独 たんどく 講和 こうわ にサルデーニャ王国 おうこく は戦争 せんそう 継続 けいぞく を希望 きぼう したが、やむなく容認 ようにん し、仮 かり 条約 じょうやく に署名 しょめい した[11] 。1860年 ねん 、ナポレオン3世 せい はサヴォイ とニース のフランスへの割譲 かつじょう を条件 じょうけん に、サルデーニャ王国 おうこく による中部 ちゅうぶ イタリア併合 へいごう を承認 しょうにん した[11] 。1860年 ねん 4月 がつ 、共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ ガリバルディ 率 ひき いる義勇軍 ぎゆうぐん 赤 あか シャツ隊 たい が両 りょう シチリア王国 おうこく を滅 ほろ ぼしてローマに進軍 しんぐん したが、サルデーニャ王国 おうこく は赤 あか シャツ隊 たい によるローマ制圧 せいあつ を恐 おそ れ、先 さき んじて教皇 きょうこう 領 りょう とナポリ王国 おうこく 軍 ぐん を撃破 げきは した[11] 。やむなくガリバルディは征服 せいふく した南 みなみ イタリアをサルデーニャ王 おう ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい に献上 けんじょう し、両者 りょうしゃ は並 なら んでローマに入城 にゅうじょう した[11] 。1861年 ねん に、ローマとヴェネト州 しゅう をのぞくイタリア王国 おうこく がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 せい イタリア王 おう の下 した に成立 せいりつ した[11] 。
1866年 ねん 、プロイセン・オーストリア戦争 せんそう で、イタリアはプロイセンと同盟 どうめい を結 むす んで参戦 さんせん するが、イタリア軍 ぐん は指揮 しき 官 かん の党派 とうは 的 てき 反目 はんもく で機動 きどう 的 てき 作戦 さくせん が妨 さまた げられ、敗戦 はいせん を重 かさ ねた[11] 。プロイセンはイタリアに無 む 通告 つうこく でオーストリアと休戦 きゅうせん し、イタリアは国民 こくみん 的 てき 恥辱 ちじょく のうちにあったが、ヴェネト州 しゅう を回収 かいしゅう できた[11] 。
1867年 ねん フランス軍 ぐん がローマを撤退 てったい する[* 1] と、反 はん 教皇 きょうこう 派 は のガリバルディがローマ占領 せんりょう を試 こころ みるが、再 さい 派遣 はけん されたフランス軍 ぐん によって撃破 げきは され、その後 ご もフランス軍 ぐん はローマに駐留 ちゅうりゅう した[11] 。
1870年 ねん 9月、プロイセン=フランス戦争 せんそう のセダンの戦 たたか い でフランスが降伏 ごうぶく すると、イタリア王国 おうこく は共和 きょうわ 主義 しゅぎ 者 しゃ マッツィーニ派 は によるローマ奪回 だっかい に先 さき んじて、イタリア軍 ぐん は9月19日 にち に簡単 かんたん な砲撃 ほうげき 戦 せん の後 のち 、ローマを占領 せんりょう した[12] 。教皇 きょうこう は教皇 きょうこう の世俗 せぞく 権力 けんりょく の廃棄 はいき に関与 かんよ するすべてのものを破門 はもん にすると宣告 せんこく したが、10月2日 にち の住民 じゅうみん 投票 とうひょう では、ローマのイタリア王国 おうこく への併合 へいごう が圧倒的 あっとうてき に賛成 さんせい され、可決 かけつ した[12] 。翌 よく 1871年 ねん 5月、イタリア王国 おうこく は教皇 きょうこう 保障 ほしょう 法 ほう (Legge delle Guarentigie) を制定 せいてい し、教皇 きょうこう は反対 はんたい したが、政府 せいふ は一方 いっぽう 的 てき に成立 せいりつ させ、イタリア統一 とういつ を完成 かんせい させた[12] 。これにより、教皇 きょうこう 領 りょう は完全 かんぜん に消滅 しょうめつ した。1871年 ねん には、イタリアの首都 しゅと がローマに移 うつ された。
以降 いこう 、教皇 きょうこう ピウス9世 せい は自 みずか らを「バチカンの囚人 しゅうじん 」(1870年 ねん - 1929年 ねん )と呼 よ び、数 すう 代 だい (レオ13世 せい 、ピウス10世 せい 、ベネディクトゥス15世 せい )にわたってイタリア政府 せいふ との交渉 こうしょう を拒否 きょひ した。ピウス11世 せい の時代 じだい にイタリア政府 せいふ とバチカン の間 あいだ での和解 わかい が模索 もさく され、1929年 ねん にラテラノ条約 じょうやく が締結 ていけつ され、世界 せかい 最小 さいしょう の独立 どくりつ 国 こく 「バチカン市 し 国 こく 」が成立 せいりつ した。
^ ローマに駐留 ちゅうりゅう したフランス軍 ぐん については1864年 ねん に2年 ねん 以内 いない に撤退 てったい するという「9月 がつ 協定 きょうてい 」がイタリアとフランス間 あいだ で締結 ていけつ されていた[11] 。
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イタリアに存在 そんざい した国 くに
古代 こだい 中世 ちゅうせい 前期 ぜんき 中世 ちゅうせい 盛期 せいき から近世 きんせい
近代 きんだい
現代 げんだい