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コンスタンティヌスの寄進きしんじょう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
教皇きょうこうシルウェステル1せい寄進きしんする皇帝こうていコンスタンティヌス1せい。13世紀せいきフレスコ

コンスタンティヌスの寄進きしんじょう(コンスタンティヌスのきしんじょう、ラテン語らてんご: Constitutum Donatio Constantini)は、ローマ皇帝こうていコンスタンティヌス1せい教皇きょうこうりょう寄進きしんした証拠しょうことされた文書ぶんしょである。教権きょうけん重要じゅうよう根拠こんきょひとつであった。

ルネサンス偽書ぎしょであることが指摘してきされた。現在げんざいでは、8世紀せいき中期ちゅうきひがしマ帝国まていこくからの独立どくりつせい主張しゅちょうするために偽造ぎぞうされたとかんがえられている。

内容ないよう

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その内容ないようは、

自分じぶん[注釈ちゅうしゃく 1]ハンセン病はんせんびょう癩病らいびょう)をわずらっていたが、ローマ教皇きょうこうシルウェステル1せい[注釈ちゅうしゃく 2]による洗礼せんれいけたのち治癒ちゆした。その感謝かんしゃしるしとして、ローマ司教しきょう[注釈ちゅうしゃく 3]自分じぶんひとしい権力けんりょくあたえ、ぜん西方せいほう世界せかい[注釈ちゅうしゃく 4]ゆだね、自分じぶんコンスタンティノープル隠退いんたいする」

というものであった。

解説かいせつ

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書簡しょかん形式けいしきかれており、315ねん3月30にちかれたことになっている[1]

まずコンスタンティヌス1せいハンセン病はんせんびょうわずらい、とき教皇きょうこうシルウェステル1せいいのりによってすくわれたとする。コンスタンティヌスはシルウェステル1せい皇帝こうていにしようとしたが、シルウェステル1せいみかどかんむり一度いちどったがかぶらず、みかどかんむりあらためてコンスタンティヌス1せいかぶせたという。

つぎきよしペテロけるかたちで、コンスタンティヌスによる以下いか寄進きしん記録きろくしるす。すなわちアンティオキアアレクサンドリアエルサレムコンスタンティノポリスと、すべての教会きょうかいたいする優越ゆうえつけん皇帝こうてい紋章もんしょうラテラノ宮殿きゅうでん下賜かし西部せいぶぞくしゅうにおける皇帝こうていけん教皇きょうこう委譲いじょうした。

この架空かくう歴史れきしてき事実じじつによって、教皇きょうこうは「普遍ふへんてき司教しきょう」であり皇帝こうてい任命にんめいけん保持ほじしている、という主張しゅちょう根拠こんきょとされた。

影響えいきょう

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800ねんフランク王国おうこくカール大帝たいていへの戴冠たいかんは、この偽書ぎしょ根拠こんきょとしておこなわれた。これを先例せんれいとして、のち教皇きょうこう皇帝こうていよりも優越ゆうえつてき地位ちいにあるとされた。

中世ちゅうせいにおけるローマ教皇きょうこう神聖しんせいローマ皇帝こうていとの叙任じょにんけん闘争とうそうさいにも根拠こんきょとされ、また東方とうほう教会きょうかいとの対立たいりつ問題もんだいではカトリック教会きょうかい独立どくりつせい主張しゅちょうするために引用いんようされた。

11世紀せいき以後いごも、世俗せぞくけん皇帝こうていたいする教皇きょうこう優位ゆういせい(「世界せかいはローマ教皇きょうこう帰属きぞくする」という主張しゅちょう)の根拠こんきょとして使用しようされた。

にせ文書ぶんしょ

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15世紀せいきイタリア人文じんぶん主義しゅぎしゃロレンツォ・ヴァッラが、ふるラテン語らてんご文献ぶんけん使つかわれている用法ようほうとはことなるてんがあることに気付きづき、『コンスタンティヌス寄進きしんじょう偽作ぎさくろん』を発表はっぴょうした。

その幾度いくどもの論争ろんそう18世紀せいき偽書ぎしょであることが確定かくていした。作者さくしゃ不明ふめいである。

この文書ぶんしょ出自しゅつじかではなく、いくつかのせつがある。ローマ教皇きょうこうステファヌス2せい在位ざいい752ねん - 757ねん)ないしその側近そっきんになるというせつ9世紀せいきフランス聖職せいしょくしゃによって教皇きょうこうけん擁護ようごのためにつくられたとするせつ[2]、8世紀せいき中頃なかごろラテラノ聖職せいしょくしゃによって教皇きょうこうへの対抗たいこうのためにつくられたとするせつ[3]おなじく8世紀せいき中頃なかごろ教皇きょうこうパウルス1せい在位ざいいちゅう教皇きょうこうつかえる聖職せいしょくしゃつくったとするせつ[4]、などである。

イギリス歴史れきしR・W・サザーン英語えいごばんは、この文書ぶんしょかれた年代ねんだい750ねん以降いこうとし、その目的もくてき

  1. ビザンツ皇帝こうていとローマ教皇きょうこう不和ふわ正当せいとうするため
  2. フランク王国おうこくたいし、イタリア半島はんとうにおけるきゅうビザンツ帝国ていこくりょうたいする教皇きょうこう主権しゅけん証明しょうめいするため

であったとする[5]

にせイシドールスきょうれいしゅう

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「コンスタンティヌスみかど寄進きしんじょう」は、『にせイシドールスきょうれいしゅう英語えいごばん』に掲載けいさいされていた。

7世紀せいきイベリア半島はんとうセビリャ大司教だいしきょうイシドールス従来じゅうらいきょうれいしゅう『ディオニシアーナ』にスペインでの教会きょうかい会議かいぎ決定けってい増補ぞうほし、『ヒスパナ』というきょうれいしゅう編纂へんさんした。のちにこれが『イシドールス集録しゅうろく』とばれ、教会きょうかいほう(カノンほう)のほうげんとされた。

にせイシドールスきょうれいしゅう』はこれとは別物べつもので、8世紀せいきか9世紀せいきにイシドールスに仮託かたくして作成さくせいされた文書ぶんしょしゅうである。だい1だい3にはクレメンス1せいだい4だい)からグレゴリウス2せいだい89だい)のローマ教皇きょうこうきょうれいおさめ、だい2にはニカイアこう会議かいぎ(325ねん)からトレドこう会議かいぎ(683ねん)の議決ぎけつおさめている。だい1だい3のうち、100以上いじょうきょうれい偽文書ぎぶんしょである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ コンスタンティヌス
  2. ^ 在位ざいい314ねん - 335ねん
  3. ^ 教皇きょうこうのこと
  4. ^ ラテラノ宮殿きゅうでんローマおよびイタリア全土ぜんど帝国ていこく西部せいぶ支配しはいけんなど

出典しゅってん

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  1. ^ R・W・サザーン『西欧せいおう中世ちゅうせい社会しゃかい教会きょうかい』p.97。
  2. ^ (勝田かつた有恒ありつね, もりせいいち & 山内やまうちすすむ 2004, p. 142)
  3. ^ 菊池きくち良男よしおちょ新書しんしょヨーロッパ中世ちゅうせいへん』p.36
  4. ^ (五十嵐いがらしおさむ 2001, p. 171)
  5. ^ R・W・サザーン『西欧せいおう中世ちゅうせい社会しゃかい教会きょうかい』pp.97-99 。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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