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サルッツォこうこく

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サルッツォこうこく
Marchesato di Saluzzo
デル・ヴァスト家 1175ねん - 1548ねん フランス王国
サルッツォ侯国の国旗 サルッツォ侯国の国章
国旗こっきくにあきら
サルッツォ侯国の位置
左上ひだりうえうす緑色みどりいろ部分ぶぶんがサルッツォこうこく
首都しゅと サルッツォ
ほう
1175ねん - 1175ねん マンフレード1せい
1537ねん - 1548ねんガブリエーレ
変遷へんせん
ほう成立せいりつ 1175ねん
フランスに併合へいごう1548ねん
フランス支配しはい1548ねん - 1601ねん
リヨン条約じょうやく1601ねん
サヴォイア統治とうち1601ねん -

サルッツォこうこく(サルッツォこうこく、: Marchesato di Saluzzo)は、イタリア過去かこにあった国家こっかである。アルプスまたぎ、現在げんざいピエモンテしゅうフランスりょうふくんでいた。

ほうこく領土りょうど

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サルッツォは、クーネオけんトリノけんとの一部分いちぶぶん歴史れきしじょういくかそして現在げんざいもフランスの支配しはいとなっている地域ちいき所有しょゆうしていた。歴史れきしてきなサルッツォの領土りょうどストゥーラがわがわアルプス山脈あるぷすさんみゃくとのあいだだけであった。

サルッツォを自治じちてき支配しはいしていたデル・ヴァスト(del Vasto)は、おおくの政略せいりゃく結婚けっこんのためリグーリアピエモンテにも領地りょうち所有しょゆうしていたが、サルッツォにはこれらの領地りょうち統合とうごうされなかった。おそらく、サヴォイアのイタリアへの前進ぜんしんがなければ、有力ゆうりょくなイタリアの領主りょうしゅとしてサルッツォはピエモンテのほか土地とち征服せいふくできたであろう。

デル・ヴァスト政治せいじ

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リグーリアのふる貴族きぞく系統けいとうで、ヴェンティミリア周辺しゅうへんしていたデル・ヴァストボニファーチョ(Bonifacio del Vasto)が8さいとき外祖父がいそふトリノ辺境へんきょうはくオルデリーコ・マンフレーディ2せいからふうじざれて都市とし領主りょうしゅとなり、長男ちょうなんマンフレード(Manfredo I di Saluzzo)に引継ひきつがれた。それからデル・ヴァストはサルッツォの侯爵こうしゃくとなり、本当ほんとう領主りょうしゅようにその爵位しゃくい代々だいだいがれていった。

みずからの領地りょうち拡張かくちょうかんがえていたマンフレード2せいは、サヴォイアぐんたたかっていた。サヴォイアは幾度いくど対立たいりつってったよわほうこくたいし、その主人しゅじんであるといううぬぼれあり、かれぬと未亡人みぼうじんのアラージア・デル・モンフェッラート(Alasia del Monferrato)はとしごとの税金ぜいきん一式いっしきかれらに支払しはらわなければならなかった。

マンタじょう, サルッツォにあるマンタのサルッツォの領主りょうしゅふるくからの所有しょゆうぶつ

内部ないぶ確執かくしつにたびたびくるしめられたサルッツォはルドヴィーコ1せい(Ludovico I di Saluzzo)とルドヴィーコ2せい(Ludovico II di Saluzzo)の15世紀せいきは、かれらの治世ちせいしたおおきく繁栄はんえいした。1せい皇帝こうていとフランスおう不仲ふなか仲裁ちゅうさいのようなイタリアの交戦こうせんこくたいして中立ちゅうりつ政治せいじをした。2せい戦場せんじょうでの栄光えいこうもとめながらなん敗北はいぼくし、ほうこく栄光えいこう終焉しゅうえんはじまりをつくっていった。

実際じっさいかれぬと息子むすこたちは爵位しゃくいはげしくい、領地りょうちれ、財産ざいさん浪費ろうひした。ようやく順位じゅんい決定けっていしたときにはときすでおそし、フランスがほうこくをつけていてガブリエーレ侯爵こうしゃくはいし、ほうパリ王冠おうかん付属ふぞくさせる手続てつづきが出来できていた。

サルッツォはリヨン条約じょうやくでサヴォイアがるまでのはん世紀せいきあいだ、フランスりょう一部いちぶまれ、イタリア統一とういつまでは交互こうご自治じちうばわれる状態じょうたいとなった。

デル・ヴァスト領主りょうしゅ一覧いちらん

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関連かんれん項目こうもく

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