シチリア首長 しゅちょう 国 こく
إمارة صقلية (アラビア語 ご )
西暦 せいれき 1000年 ねん のイタリア。シチリアのアミール領 りょう は黄 き 緑色 みどりいろ で塗 ぬ られている。
アグラブ朝 あさ (831年 ねん -909年 ねん )、およびファーティマ朝 あさ (909年 ねん -948年 ねん )の属 ぞく 州 しゅう 。948年 ねん 以降 いこう 、カルブ朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) の下 した で自律 じりつ 的 てき なアミール の支配 しはい 下 か となる。
シチリア首長 しゅちょう 国 こく (シチリアしゅちょうこく、アラビア語 ご : إمارة صقلية )は、831年 ねん から1091年 ねん の間 あいだ シチリア島 とう を支配 しはい した首長 しゅちょう 国 こく である。シチリア島 とう はアグラブ朝 あさ のカーディー 、アサド・ブン・アル=フラート (英語 えいご 版 ばん ) による遠征 えんせい 以来 いらい 1世紀 せいき 余 あま りの時間 じかん をかけて征服 せいふく され、パレルモ に拠点 きょてん を置 お きアミール またはワーリー を称 しょう するムスリムの支配 しはい 者 しゃ の統治 とうち 下 か に入 はい った。そして、シチリアのムスリム政権 せいけん は傭兵 ようへい として南 みなみ イタリアで活動 かつどう していたノルマン人 じん によって完全 かんぜん に再 さい 征服 せいふく されるまで継続 けいぞく した[1] 。本 ほん 項 こう ではこのシチリアのアミール領 りょう (Emirate of Sicily 、アラビア語 ご : إِمَارَة صِقِلِّيَة )を中心 ちゅうしん にシチリアにおけるムスリムの歴史 れきし について解説 かいせつ する。
ムスリムのムーア人 じん は652年 ねん に初 はじ めてシチリアに侵入 しんにゅう し、827年 ねん から902年 ねん にかけての長期 ちょうき にわたる一連 いちれん の衝突 しょうとつ (英語 えいご 版 ばん ) を経 へ てビザンツ帝国 ていこく (東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )から島 しま 全体 ぜんたい の支配 しはい 権 けん を奪 うば い取 と った。ただしシチリア島 とう 北東 ほくとう 端 はし のロメッタ は965年 ねん までビザンツ領 りょう に残 のこ った。アラブ・ビザンティン文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) が発達 はったつ し、多 た 宗教 しゅうきょう (multiconfessional)・多言 たげん 語 ご の国家 こっか (state)を作 つく り上 あ げた。シチリアのアミール政権 せいけん はルッジェーロ1世 せい に率 ひき いられたキリスト教徒 きりすときょうと のノルマン人 じん 傭兵 ようへい によって征服 せいふく され、彼 かれ によって1071年 ねん にシチリア伯 はく 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) が創設 そうせつ された。シチリア島内 とうない の最後 さいご のムスリム都市 とし ノート は1091年 ねん に征服 せいふく された。
多 た 民族 みんぞく 的 てき なシチリア伯 はく 領 りょう と、続 つづ くシチリア王国 おうこく においても、シチリア・ムスリムはその市民 しみん として残留 ざんりゅう していた。彼 かれ らのうちキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう していなかった者 もの たちは1240年代 ねんだい に追放 ついほう された。12世紀 せいき 末 まつ 、あるいは1220年代 ねんだい までは、ムスリムはシチリア島 とう の人口 じんこう において多数 たすう 派 は を構成 こうせい していた。ただし東北 とうほく 部 ぶ のヴァル・デモーネ (英語 えいご 版 ばん ) は、ムスリム支配 しはい の間 あいだ でもビザンツ・ギリシア人 じん (Byzantine Greek)とキリスト教 きりすときょう が支配 しはい 的 てき であった[2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] 。当時 とうじ のイスラームとアラブの影響 えいきょう は今日 きょう のシチリア語 ご のいくつかの要素 ようそ に残 のこ っており、建築 けんちく 、そして地名 ちめい にもその影響 えいきょう が残 のこ されている。
ムスリムによる初期 しょき の襲撃 しゅうげき [ 編集 へんしゅう ]
シチリア島 とう は紀元前 きげんぜん に戦 たたか われたポエニ戦争 せんそう 以来 いらい 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の支配 しはい 下 か にあった[9] 。その後 ご 、5世紀 せいき のいわゆるゲルマン人 じん の大 だい 移動 いどう 期 き にはヴァンダル王国 おうこく 、次 つ いで東 ひがし ゴート王国 おうこく がシチリアの支配 しはい 権 けん を握 にぎ った[10] 。
535年 ねん 、帝国 ていこく の失 うしな われた西方 せいほう 領土 りょうど 回復 かいふく を試 こころ みた東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ユスティニアヌス1世 せい はシチリア島 とう をロ ろ ーマ帝国 まていこく (当時 とうじ の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は現在 げんざい では一般 いっぱん にビザンツ帝国 ていこく と呼 よ ばれている)の下 した に取 と り戻 もど した。だが、間 ま もなくビザンツ帝国 ていこく の地中海 ちちゅうかい での影響 えいきょう 力 りょく は衰微 すいび し、新 あら たに勃興 ぼっこう したムスリム勢力 せいりょく が地中海 ちちゅうかい のアフリカ沿岸 えんがん を攻撃 こうげき した。その過程 かてい で、シチリア島 とう は正統 せいとう カリフ(ハリーファ)ウスマーン 治下 ちか の652年 ねん にムスリム の侵攻 しんこう を受 う けた。この最初 さいしょ の侵攻 しんこう は短期間 たんきかん であり、ムスリムはすぐに島 しま を去 さ った。7世紀 せいき の終 お わりまでに、ムスリム王朝 おうちょう のウマイヤ朝 ちょう が北 きた アフリカを完全 かんぜん に征服 せいふく (英語 えいご 版 ばん ) し、ムスリムはカルタゴ 市 し 近郊 きんこう に拠点 きょてん となる港 みなと を得 え た[11] 。700年 ねん 頃 ごろ 、パンテッレリーア 島 しま がムスリムに占領 せんりょう された。当時 とうじ 、シチリア侵攻 しんこう への試 こころ みを妨 さまた げていたのはムスリム内部 ないぶ の不和 ふわ のみであった。ムスリムはビザンツ帝国 ていこく との間 あいだ に貿易 ぼうえき 協定 きょうてい を結 むす び、ムスリム商人 しょうにん がシチリアの港 みなと で商品 しょうひん 取引 とりひき を行 おこな うことが認 みと められた。
最初 さいしょ の、本当 ほんとう の意味 いみ での征服 せいふく 遠征 えんせい は740年 ねん に開始 かいし された。この年 とし 、かつて728年 ねん にもシチリア攻撃 こうげき に参加 さんか したことのあったムスリムの王子 おうじ ハビーブ(Habib)はシラクサ 市 し を占領 せんりょう することに成功 せいこう した。島 しま 全体 ぜんたい の征服 せいふく が計画 けいかく されたが、チュニジア におけるベルベル人 じん の反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) のために退却 たいきゃく を余儀 よぎ なくされた。2度目 どめ の攻撃 こうげき は752年 ねん に、シラクサの再 さい 占領 せんりょう のみを目指 めざ して行 おこな われた。
エウフェミオスの反乱 はんらん とムスリムによるシチリア征服 せいふく [ 編集 へんしゅう ]
826年 ねん 、シチリアのビザンツ艦隊 かんたい 司令 しれい 官 かん エウフェミオス (英語 えいご 版 ばん ) は修道 しゅうどう 女 おんな に自分 じぶん と結婚 けっこん するよう強要 きょうよう した。皇帝 こうてい ミカエル2世 せい はこの件 けん の噂 うわさ をき付 きつ け、将軍 しょうぐん コンスタンティノスにこの結婚 けっこん を解消 かいしょう させエウフェミオスの鼻 はな を切断 せつだん するように命 めい じた。エウフェミオスは反乱 はんらん を起 お こしコンスタンティノスを殺害 さつがい してシラクサを占領 せんりょう した。しかし彼 かれ は順次 じゅんじ 敗北 はいぼく を重 かさ ね、北 きた アフリカ へ逃亡 とうぼう した[1] 。エウフェミオスはチュニジア を支配 しはい するアグラブ朝 あさ のアミール、ズィヤーダ・アッラーフ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) に、将軍 しょうぐん としての地位 ちい 及 およ び安全 あんぜん と引 ひ き換 か えにシチリアの支配 しはい 権 けん を差 さ し出 だ し、ムスリムの軍隊 ぐんたい が派遣 はけん された[1] 。
ズィヤーダ・アッラーフ1世 せい はシチリア島 とう の征服 せいふく に同意 どうい し、エウフェミオスに毎年 まいとし の貢 みつぎ 納 おさめ と引 ひ き換 か えにこの島 しま を与 あた えることを約束 やくそく した。そして70歳 さい になるカーディー のアサド・ブン・アル=フラート (英語 えいご 版 ばん ) に征服 せいふく が託 たく された。アグラブ朝 あさ のムスリム軍団 ぐんだん は、マツァーラ・デル・ヴァッロ への上陸 じょうりく 後 ご 、歩兵 ほへい 10,000人 にん 、騎兵 きへい 700騎 き 、そしてエウフェミオスのものを加 くわ えて増強 ぞうきょう した船舶 せんぱく 100隻 せき を数 かぞ えた。ビザンツ帝国 ていこく 軍 ぐん に対 たい する最初 さいしょ の戦 たたか いは827年 ねん 7月 がつ 15日 にち にマツァーラ近郊 きんこう で行 おこな われ、アグラブ朝 あさ が勝利 しょうり した。
アサド・ブン・アル=フラートはその後 ご 、島 しま の南岸 なんがん を占領 せんりょう し、シラクサ を包囲 ほうい した。1年間 ねんかん の包囲 ほうい (英語 えいご 版 ばん ) と反逆 はんぎゃく の企 くわだ ての後 のち 、彼 かれ の軍隊 ぐんたい はドゥーチェ、Giustiniano Participazio 率 ひき いるヴェネツィア艦隊 かんたい に支援 しえん されてパレルモ から派遣 はけん されてきた大軍 たいぐん を撃破 げきは することに成功 せいこう した。しかし、ムスリムの軍隊 ぐんたい 内 ない でペストが蔓延 まんえん して多数 たすう の死者 ししゃ を出 だ し、アサド・ブン・アル=フラート自身 じしん も死亡 しぼう すると、ムスリムたちはミネーオ 城 しろ へ後退 こうたい した。アサドの後 のち にはムハンマド(在職 ざいしょく :828年 ねん -829年 ねん )、次 つ いでズハイル(在職 ざいしょく 829年 ねん -830年 ねん )がムスリムの指揮 しき を引 ひ き継 つ ぎ[12] 、彼 かれ らは再 ふたた び攻勢 こうせい に出 で たが、カストロジョヴァンニ (現在 げんざい のエンナ、この時 とき エウフェミオスが死亡 しぼう した)の征服 せいふく に失敗 しっぱい し、マツァーラへ後退 こうたい した。
830年 ねん 、彼 かれ らは30,000人 にん のイフリーキヤ 人 ひと とアンダルス人 じん の軍勢 ぐんぜい という強力 きょうりょく な援軍 えんぐん を得 え た。アンダルスのムスリムの軍勢 ぐんぜい は同年 どうねん の7月 がつ から8月 がつ にかけてビザンツ帝国 ていこく の司令 しれい 官 かん テオドトスを撃破 げきは した。だが、再 ふたた びペストがムスリムを襲 おそ い、マツァーラへの退却 たいきゃく 、さらにはイフリーキヤへの撤退 てったい を強 し いた。イフリーキヤ 人 ひと 部隊 ぶたい はパレルモ 包囲 ほうい に派遣 はけん され、831年 ねん 9月 がつ に、1年 ねん にわたる包囲 ほうい の後 のち に同市 どうし を占領 せんりょう することに成功 せいこう した[13] 。パレルモはシチリアにおけるムスリムの首都 しゅと となり、アル=マディーナ(The City )と改名 かいめい された[14] 。
この征服 せいふく の状況 じょうきょう はシーソーのように一進一退 いっしんいったい を繰 く り返 かえ した。強力 きょうりょく な抵抗 ていこう と多 おお くの内部 ないぶ 紛争 ふんそう によって、ムスリムによるビザンツ領 りょう シチリアの征服 せいふく には1世紀 せいき 以上 いじょう の時間 じかん が費 つい やされた。シラクサは長期 ちょうき にわたってビザンツ領 りょう に踏 ふ み止 とど まったが、878年 ねん に陥落 かんらく (英語 えいご 版 ばん ) し、タオルミーナ は902年 ねん に陥落 かんらく した。そしてビザンツ帝国 ていこく の最後 さいご の拠点 きょてん は965年 ねん に占領 せんりょう された[1] 。
シチリア島 とう の総督 そうとく [ 編集 へんしゅう ]
アラブ・ノルマン (英語 えいご 版 ばん ) 美術 びじゅつ と建築 けんちく は、西方 せいほう 的 てき (Occidental)特徴 とくちょう (古典 こてん 的 てき な柱 はしら やフリーズなど) に典型 てんけい 的 てき なアラビア風 ふう の装飾 そうしょく とカリグラフィー を合成 ごうせい させたものである。
アサド・ブン・アル=フラートの跡 あと を継 つ いだシチリア島 とう のムスリム支配 しはい 者 しゃ たちはワーリー (総督 そうとく 、wālī )、場合 ばあい によってはアミール (amīr )、アーミル('āmil )と呼 よ ばれ、アグラブ朝 あさ 配下 はいか の総督 そうとく としてシチリア島 とう の支配 しはい に携 たずさ わった[12] 。シチリア島 とう のワーリーは、現地 げんち のムスリムたちによって選出 せんしゅつ された後 のち アグラブ朝 あさ の承認 しょうにん を得 え るか、あるいはアグラブ朝 あさ から直接 ちょくせつ 任命 にんめい された[12] 。このシチリアのワーリー/アミールは、自 みずか らの意思 いし で戦争 せんそう と和平 わへい が可能 かのう な実質 じっしつ 的 てき な君主 くんしゅ であった。しかし、アグラブ朝 あさ の影響 えいきょう 力 りょく は大 おお きく、その臣下 しんか という体裁 ていさい は維持 いじ され続 つづ けた。当時 とうじ シチリアで発行 はっこう された貨幣 かへい にアグラブ朝 あさ の君主 くんしゅ の名 な が刻 きざ まれ、フトゥバ (金曜日 きんようび に行 おこな われる説教 せっきょう )においてはアッバース朝 あさ のカリフ (ハリーファ)と共 とも にアグラブ朝 あさ のアミールの名 な が唱 とな えられた事実 じじつ が、アグラブ朝 あさ のシチリアにおける権威 けんい を証明 しょうめい している[15] 。
シーア派 は 指導 しどう 者 しゃ アブー=アブドゥッラー がチュニジア の支配 しはい 権 けん を握 にぎ り、アグラブ朝 ちょう がファーティマ朝 あさ に取 と って代 か わられたという報 しら せがシチリア島 とう に届 とど くと、シチリアのムスリムたちはアグラブ朝 あさ のシチリア総督 そうとく アフマドを幽閉 ゆうへい し、前 ぜん 総督 そうとく のアリーを「ファーティマ朝 あさ の」シチリア総督 そうとく として選出 せんしゅつ した[16] 。こうしてシチリア島 とう はスンナ派 は であるチュニジア のアグラブ朝 あさ 、シーア派 は であるエジプト のファーティマ朝 あさ の権威 けんい に順次 じゅんじ 服 ふく した。しかし、イスラーム時代 じだい を通 つう じて、スンナ派 は がシチリア島 とう のムスリムコミュニティの主流 しゅりゅう 派 は を占 し め[17] 、パレルモの住民 じゅうみん の(全 すべ てではないとしても)ほとんどがスンナ派 は であった[18] 。ファーティマ朝 あさ とシチリアの関係 かんけい はアグラブ朝 あさ の時 とき と大 おお きくは変化 へんか せず、フトゥバにおいてファーティマ朝 あさ カリフの名 な が唱 とな えられ、総督 そうとく はファーティマ朝 あさ によって任命 にんめい されたが、シチリアは高 たか い政治 せいじ 的 てき 自立 じりつ 性 せい を保 たも っていた[16] 。
943年 ねん から947年 ねん にかけて、ファーティマ朝 あさ の厳格 げんかく な宗教 しゅうきょう 政策 せいさく に対 たい する宗派 しゅうは 的 てき 反乱 はんらん が北 きた アフリカ全域 ぜんいき で発生 はっせい した後 のち 、ファーティマ朝 あさ の報復 ほうふく から逃 のが れようとする難民 なんみん の波 なみ がシチリアに向 む かって数 すう 度 ど にわたって発生 はっせい し、島内 とうない のスンナ派 は 人口 じんこう は更 さら に増大 ぞうだい した[19] 。ビザンツ帝国 ていこく はこの一時 いちじ 的 てき な不和 ふわ を利用 りよう して、シチリア島 とう の東端 ひがしばた 部 ぶ を数 すう 年間 ねんかん 占領 せんりょう した。
947年 ねん 4月 がつ 25日 にち に、パレルモで当時 とうじ のシチリア総督 そうとく イブン・アッターフ に対 たい する反乱 はんらん が発生 はっせい した[16] 。ファーティマ朝 あさ のカリフ、イスマーイール・アル=マンスール (英語 えいご 版 ばん ) は、混乱 こんらん の収拾 しゅうしゅう を託 たく してカルブ家 か のアル=ハサン・アル=カルビー (英語 えいご 版 ばん ) (在職 ざいしょく :948年 ねん -953年 ねん )をシチリア島 とう のアミール(総督 そうとく )に任命 にんめい した。彼 かれ はひっきりなしに反乱 はんらん をおこしていたビザンツ人 じん を制御 せいぎょ し統治 とうち することに成功 せいこう した。ハサンは事 こと が済 す んだ後 のち 、953年 ねん にはファーティマ朝 あさ の宮廷 きゅうてい に呼 よ び戻 もど されたが、シチリア総督 そうとく (アミール)位 い には彼 かれ の息子 むすこ アフマド・ブン・アル=ハサン が就任 しゅうにん した[20] 。アフマドも969年 ねん にファーティマ朝 あさ 本国 ほんごく へ召還 しょうかん され、その後 ご ハサンの解放 かいほう 奴隷 どれい ヤイーシュにシチリア支配 しはい が委 ゆだ ねられた[20] 。しかし、間 ま もなく無 む 政府 せいふ 状態 じょうたい に陥 おちい ったため、再 ふたた びアフマドがシチリアの支配 しはい 者 しゃ となり、その兄弟 きょうだい アブー・ル=カースィム (英語 えいご 版 ばん ) が代理 だいり としてシチリアに派遣 はけん された[20] 。970年 ねん にはアフマドが死去 しきょ したため、アブー・ル=カースィムが正式 せいしき にシチリアのアミールとなり、以降 いこう ハサンの子孫 しそん (カルブ家 か )がシチリア総督 そうとく 位 い を世襲 せしゅう することが慣習 かんしゅう 化 か した[20] 。これをカルブ朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) と呼 よ ぶ。
カルブ朝 あさ の下 もと で、11世紀 せいき に至 いた るまで南 みなみ イタリア への襲撃 しゅうげき が続 つづ けられ、982年 ねん にはオットー1世 せい 率 ひき いる「ドイツ」軍 ぐん をカラーブリア のクロトーネ 近郊 きんこう で撃破 げきは した。アミール、ユースフ・アル=カルビー (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :986年 ねん -998年 ねん )の即位 そくい と共 とも に、着実 ちゃくじつ な衰退 すいたい の時代 じだい が始 はじ まった。アル=アクハル(al-Akhal、在位 ざいい :1017年 ねん -1037年 ねん )の下 した で王朝 おうちょう 内 ない の内部 ないぶ 対立 たいりつ は激化 げきか し、支配 しはい 家系 かけい 内 ない の様々 さまざま な派閥 はばつ がビザンツ帝国 ていこく やチュニジアに新 あら たに興 おこ ったズィール朝 あさ と同調 どうちょう した。1036年 ねん にはズィール朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ アル=ムイッズ・ブン・バーディース (英語 えいご 版 ばん ) はムスリムたちの反乱 はんらん に介入 かいにゅう すると共 とも に、シチリア島 とう の併合 へいごう を試 こころ みて派兵 はへい した。この戦 たたか いの中 なか でカルブ朝 あさ のアミール、アフマド2世 せい が殺害 さつがい され、ズィール朝 あさ の王子 おうじ アブドゥッラーフがシチリア総督 そうとく となった[20] [21] 。1040年 ねん には殺害 さつがい されたアフマド2世 せい の兄弟 きょうだい ハッサーン・アッ=サムサム (英語 えいご 版 ばん ) がアブドゥッラーフを破 やぶ りカルブ朝 あさ を復活 ふっかつ させたが、もはやシチリア全土 ぜんど に支配 しはい を及 およ ぼすことは困難 こんなん になっていた[20] 。
アラブ統治 とうち 下 か のシチリア社会 しゃかい [ 編集 へんしゅう ]
パレルモのアラブ人 じん 楽士 がくし
シチリア島 とう のアラブの統治 とうち 者 しゃ たちは土地 とち 改革 かいかく (英語 えいご 版 ばん ) を行 おこな った。これは後 のち に生産 せいさん 性 せい を高 たか め、大 だい 地主 じぬし の勢力 せいりょく を弱 よわ めて小規模 しょうきぼ 自作農 じさくのう の発達 はったつ を促 うなが した。アラブ人 じん たちはさらにカナート によって灌漑 かんがい システムを改善 かいぜん した。オレンジ 、レモン 、ピスタチオ 、サトウキビ がシチリアに導入 どうにゅう された。950年 ねん にシチリア島 とう を訪 おとず れたバグダード の商人 しょうにん イブン・ハウカル (英語 えいご 版 ばん ) がパレルモ について記録 きろく している。カスル(Kasr、宮殿 きゅうでん )と呼 よ ばれる壁 かべ に囲 かこ われた区域 くいき (suburb)は今日 きょう までパレルモの中心 ちゅうしん であり、巨大 きょだい な金曜 きんよう モスクが後期 こうき ローマの大 だい 聖堂 せいどう (カテドラル)の跡地 あとち の上 うえ にあった。アル=ハーリサ(Al-Khalisa、カルサ (英語 えいご 版 ばん ) )には宮殿 きゅうでん 、ハンマーム(浴場 よくじょう )、モスク、政府 せいふ 官庁 かんちょう 、そして私営 しえい 刑務所 けいむしょ (a private prison)があった。イブン・ハウカルは150の店舗 てんぽ で7,000人 にん の精肉 せいにく 業者 ぎょうしゃ が取引 とりひき していたと見積 みつ もっている。1050年 ねん までにパレルモの人口 じんこう は350,000人 にん に達 たっ し、ヨーロッパ最大 さいだい の都市 とし の1つとなっていた。ただしアンダルス (イスラーム・スペイン)の首都 しゅと コルドバ とビザンツ帝国 ていこく の首都 しゅと コンスタンティノープル の規模 きぼ はさらに大 おお きかった。この2つの都市 とし は450,000人 にん から500,000人 にん の人口 じんこう を抱 かか えていた。パレルモの人口 じんこう はノルマン人 じん の統治 とうち 下 か で150,000人 にん に減少 げんしょう し、同 おな じ頃 ごろ にはコルドバでもムスリムの弱体 じゃくたい 化 か によって人口 じんこう が大幅 おおはば に減少 げんしょう した。1330年 ねん までにパレルモの人口 じんこう は51,000人 にん に減少 げんしょう した[22] 。
アラブ人 じん の旅行 りょこう 者 しゃ ・地理 ちり 学者 がくしゃ ・詩人 しじん であるイブン・ジュバイル は12世紀 せいき の終 お わりにこの地域 ちいき を訪 おとず れ、アル=カスルとアル=ハーリサ(カルサ)について述 の べている。
この首都 しゅと は華麗 かれい さと富 とみ という2つの恩寵 おんちょう に恵 めぐ まれている。それはあらゆる人間 にんげん が望 のぞ みうる現実 げんじつ と空想 くうそう の美 うつく しさ全 すべ てを持 も ち合 あ わせている。華麗 かれい さと優雅 ゆうが さが広場 ひろば (piazzas)と田園 でんえん とを飾 かざ っている。通 とお りと街道 かいどう は広 ひろ く、景観 けいかん の美 うつく しさは目 め も眩 くら むばかりである。街 まち は驚異 きょうい で満 み ち、コルドバ(Córdoba、ママ)と同 おな じく石灰岩 せっかいがん で建 た てられた建物 たてもの がある。4つの泉 いずみ から尽 つ きることのない水 みず の流 なが れが街 まち の中 なか を流 なが れている。あまりにも多 おお くのモスクがあり、数 かぞ えきることはできない。そのほとんどは学校 がっこう としても機能 きのう している。この華麗 かれい さは目 め も眩 くら むばかりである。
この時代 じだい を通 つう じて、ビザンツ系 けい シチリア人 じん (Byzantine Sicilians)による反乱 はんらん が継続 けいぞく 的 てき に、特 とく に東部 とうぶ で発生 はっせい しており、一部 いちぶ の領土 りょうど は反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ 前 まえ に再 さい 占領 せんりょう されることすらあった[23] 。
シチリアで鋳造 ちゅうぞう されたアグラブ朝 あさ の4分 ぶん の1ディナール 貨。879年 ねん 。
ムスリムに征服 せいふく されたシチリアの現地 げんち 住民 じゅうみん は西 にし シチリアのローマ化 か しカトリックを信仰 しんこう するシチリア人 じん と、主 しゅ として島 しま の東 ひがし 半分 はんぶん に住 す むギリシア語 ご を話 はな すビザンツ・カトリック信徒 しんと からなり、また相当 そうとう 数 すう のユダヤ人 じん もいた[24] 。この西部 せいぶ と東部 とうぶ の人々 ひとびと は1つの教会 きょうかい に属 ぞく していたが、1054年 ねん の諸 しょ 事件 じけん から分裂 ぶんれつ が始 はじ まった。1204年 ねん のコンスタンティノープルの寇略はビザンツ人 じん の「正教 せいきょう 」についての懸念 けねん に関 かん する限 かぎ り最後 さいご の一 いち 押 お しであった[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 。
キリスト教徒 きりすときょうと とユダヤ教徒 きょうと はムスリムの支配 しはい の下 した でズィンミー (庇護 ひご 民 みん )として旧来 きゅうらい の信仰 しんこう を維持 いじ することを認 みと められたが、いくつかの制約 せいやく を受 う けた。ズィンミーはジズヤ (人頭 じんとう 税 ぜい )とハラージュ (地租 ちそ )の支払 しはら いを要求 ようきゅう されていた。ただしムスリムが支払 しはら う税 ぜい (ザカート )は免除 めんじょ された。アラブ支配 しはい の下 した ではジズヤを支払 しはら う人々 ひとびと には各種 かくしゅ のカテゴリーがあったが、共通 きょうつう 項 こう はムスリム支配 しはい への服従 ふくじゅう の証 あかし としてジズヤを支払 しはら い、引 ひ き換 か えに外部 がいぶ および内部 ないぶ からの攻撃 こうげき から保護 ほご を受 う けるというものであった。誠実 せいじつ な宗教 しゅうきょう 心 しん によるか強制 きょうせい であるかは別 べつ として、数 すう 多 おお くの現地 げんち 人 じん がイスラームに改宗 かいしゅう した。ノルマン人 じん による征服 せいふく の時点 じてん で人口 じんこう の約 やく 半分 はんぶん がムスリムであった。10世紀 せいき 半 なか ば、ファーティマ朝 あさ は積極 せっきょく 的 てき な改宗 かいしゅう を進 すす めキリスト教徒 きりすときょうと への弾圧 だんあつ を強化 きょうか する政策 せいさく を採用 さいよう した。しかし、イスラーム支配 しはい が始 はじ まって100年 ねん が経過 けいか してもなお、多数 たすう のギリシア語 ご を用 もち いるキリスト教徒 きりすときょうと コミュニティがズィンミーとして、特 とく に北東 ほくとう シチリアでは栄 さか えていた。これは大 おお きくは、共存 きょうぞん を許 ゆる したジズヤのシステムの結果 けっか であった。この被 ひ 征服 せいふく 者 しゃ との共存 きょうぞん 関係 かんけい は1160年代 ねんだい のシチリア島 とう の再 さい 征服 せいふく の後 のち 、特 とく に1189年 ねん のノルマンの王 おう グリエルモ2世 せい (ウィレルムス2世 せい )の死 し の後 のち 、崩壊 ほうかい した。
衰退 すいたい と「ターイファ」の時代 じだい [ 編集 へんしゅう ]
パレルモ市 し の鍵 かぎ を受 う け取 と るルッジェーロ1世 せい 。
シチリアのアミール政権 せいけん はムスリム体制 たいせい 内 ない における王朝 おうちょう の内部 ないぶ 紛争 ふんそう によって断片 だんぺん 化 か し始 はじ めた[1] 。シチリアのアミール位 い を奪回 だっかい したハサン・アル=サムザム (英語 えいご 版 ばん ) は1044年 ねん に廃位 はいい され、島 しま は以下 いか のような4人 にん のカーディー 領 りょう 、または小 ちい さな封建 ほうけん 的 てき 領地 りょうち (fiefdoms)に細分 さいぶん 化 か した[20] 。
アブドゥッラーフ・ブン・マンクート(Abdallah ibn Mankut):トラパニ(Trapani)、マルサーラ (Marsala)、マザーラ(Mazara)、シャッカ (Sciacca)のカーディー領 りょう (qadit)[20] 。
イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs):アグリジェント 、カストロジョヴァンニ(Castrogiovanni)、カストロヌオーヴォ(Castronuovo)[20] 。
イブン・マクラーティー:パレルモ、カターニア(Catania)[25] 。
イブン・スムナ(Ibn Thumna):シラクサ[25] 。
また、主 しゅ 邑パレルモは街 まち の有力 ゆうりょく 者 しゃ による自治 じち が行 おこな われるようになった[25] 。
1038年 ねん 、イタリアのカテパノに任命 にんめい されたゲオルギオス・マニアケス (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いるビザンツ 軍 ぐん がメッシーナ海峡 かいきょう を渡 わた り、ノルマン人 じん (英語 えいご 版 ばん ) の軍団 ぐんだん を組 く み入 い れた。1040年 ねん の夏 なつ に別 べつ の決定的 けっていてき 勝利 しょうり を収 おさ めた後 のち 、マニアケスはシラクサを包囲 ほうい しこれを征服 せいふく することに成功 せいこう した。にもかかわらず、コンスタンティノープルで起 お きた政変 せいへん によって彼 かれ はその地位 ちい を追 お われ、その後 ご のムスリムの反撃 はんげき によってビザンツ帝国 ていこく が征服 せいふく した都市 とし は全 すべ て奪還 だっかん された[23] [26] 。ビザンツ帝国 ていこく の新 あら たな司令 しれい 官 かん アルギュロス はノルマン人 じん の心 しん を繋 つな ぎとめることに失敗 しっぱい し、ノルマン人 じん たちは鉄腕 てつわん と呼 よ ばれたグリエルモ (英語 えいご 版 ばん ) (ウィレルムス)を自 みずか らの指導 しどう 者 しゃ として選出 せんしゅつ してビザンツ帝国 ていこく に反旗 はんき を翻 ひるがえ した[26] 。
この間 あいだ 、シチリアの各 かく カーディーは合従連衡 がっしょうれんこう を繰 く り返 かえ し、イブン・スムナがアブドゥッラーフを撃破 げきは して最 もっと も有力 ゆうりょく な君主 くんしゅ となった[25] 。しかし、その後 ご のイブン・アル=ハッワースとの戦 たたか いには敗 やぶ れ、危機 きき に陥 おちい ったイブン・スムナはノルマン人 じん に助 たす けを求 もと めた[25] 。11世紀 せいき までに南 みなみ イタリア本土 ほんど の勢力 せいりょく はノルマン人 じん 傭兵 ようへい を雇用 こよう するようになっていた。彼 かれ らはヴァイキング の子孫 しそん のキリスト教徒 きりすときょうと である。この時 とき イブン・スムナが見返 みかえ りとして領土 りょうど を与 あた えるという約束 やくそく を結 むす んだことが、後 ご のノルマン人 じん によるシチリア征服 せいふく の端緒 たんしょ となる[27] 。
イブン・スムナからシチリア全土 ぜんど を約束 やくそく されたとされるノルマン人 じん の首領 しゅりょう ルッジェーロ1世 せい (ロゲリウス1世 せい )は1061年 ねん にメッシーナ を占領 せんりょう した[28] 。その後 ご 、イブン・スムナと共 とも に周辺 しゅうへん 地域 ちいき を制圧 せいあつ したが、1062年 ねん には同時 どうじ 行 ぎょう にアプーリア とカラーブリア を手 て に入 い れていた兄 あに のロベルト・グイスカルド (グイスカルドゥス)にイタリア半島 はんとう へ呼 よ び出 だ され移動 いどう した[28] 。ルッジェーロ1世 せい の不 ふ 在中 ざいちゅう にイブン・スムナは殺害 さつがい されてしまい、彼 かれ と共 とも にいたノルマン人 じん たちはメッシーナへの退却 たいきゃく を余儀 よぎ なくされた[28] 。
ルッジェーロ1世 せい はシチリアとイタリアを往復 おうふく しながら島 しま の再 さい 征服 せいふく を試 こころ み、戦 たたか いは一進一退 いっしんいったい を続 つづ けた[28] 。この中 なか で、北 きた アフリカのズィール朝 あさ がムスリムに援軍 えんぐん を送 おく った。しかし、この部隊 ぶたい は1063年 ねん にチェラーミの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で打 う ち破 やぶ られた。多数 たすう のキリスト教徒 きりすときょうと たちがムスリムの支配 しはい に対 たい して反乱 はんらん を起 お こした。1068年 ねん 、ルッジェーロと彼 かれ の兵士 へいし たちは再 ふたた び、ズィール朝 あさ のムスリム軍 ぐん をミジルメーリ で撃破 げきは した。ズィール朝 あさ の軍団 ぐんだん はこの敗北 はいぼく の後 のち 、混乱 こんらん の中 なか でシチリア島 とう から去 さ り、カターニアは1071年 ねん にノルマン人 じん の手 て に落 お ちた。その後 ご 、1072年 ねん 1月 がつ 10日 とおか に1年 ねん の包囲 ほうい の末 すえ パレルモが陥落 かんらく した[29] 。トラパニもまた同年 どうねん に降伏 ごうぶく した。
一連 いちれん の征服 せいふく 活動 かつどう で、主要 しゅよう な港湾 こうわん 都市 とし を失 うしな ったことは島内 とうない のムスリム権力 けんりょく に深刻 しんこく な打撃 だげき を与 あた えた。最後 さいご の活動 かつどう 的 てき な抵抗 ていこう が行 おこな われた一角 いっかく は、イブン・アッバード(ベナヴェルト)が統治 とうち するシラクサであった。彼 かれ は1075年 ねん にルッジェーロ1世 せい の息子 むすこ ジョルダン(Jordan)を破 やぶ り、1081年 ねん にはカターニアを奪回 だっかい 、その後 ご すぐにカラーブリアを襲撃 しゅうげき した。しかし、ルッジェーロ1世 せい は1086年 ねん にシラクサを包囲 ほうい した。イブン・アッバードは海戦 かいせん によって包囲 ほうい を破 やぶ ろうとしたが、その中 なか で不意 ふい に死亡 しぼう してしまった。この敗北 はいぼく の後 のち シラクサは降伏 ごうぶく し、イブン・アッバードの妻 つま と息子 むすこ はノートとブテラに逃 のが れた。その間 あいだ 、Qas'r Ianni市 し (エンナ)は未 いま だその地 ち のアミール、イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs)によって支配 しはい されており、彼 かれ は数 すう 年 ねん にわたり踏 ふ み止 とど まった。彼 かれ の後継 こうけい 者 しゃ 、ハンムード(Hammud)は、1087年 ねん の継承 けいしょう 後 ご すぐに降伏 ごうぶく し、キリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう した。改宗 かいしゅう の後 のち 、ハンムードはキリスト教徒 きりすときょうと 貴族 きぞく の一部 いちぶ となり、ルッジェーロ1世 せい によってカラーブリア に与 あた えられた邸宅 ていたく に家族 かぞく と共 とも に隠居 いんきょ した。1091年 ねん 、最後 さいご のアラブ人 じん の拠点 きょてん であるシチリア南端 なんたん のブテラ とノート 、及 およ びマルタ 島 しま が、あっけなくキリスト教徒 きりすときょうと シチリア王 おう の手 て に落 お ちた。ノルマン人 じん のシチリア征服 せいふく の後 のち 、彼 かれ らは現地 げんち のアミールであるユースフ・ブン・アブドゥッラーフ(Yusuf Ibn Abdallah)を権力 けんりょく の座 ざ から排除 はいじょ したが、それはアラブ人 じん の慣例 かんれい に従 したが って行 おこな われた[30] 。
12世紀 せいき のアラブ・ノルマン絵画 かいが 。
シチリア王 おう ルッジェーロ2世 せい 統治 とうち 下 か のノルマン人 じん のシチリア王国 おうこく はその多 た 民族 みんぞく 的 てき 性質 せいしつ と宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう によって特徴付 とくちょうづ けられる。ノルマン人 じん 、ユダヤ人 じん 、ムスリム・アラブ人 じん 、ビザンツ・ギリシア人 じん 、「ランゴバルド人 じん (英語 えいご 版 ばん ) 」(ロンバルディア人 じん )[注釈 ちゅうしゃく 1] 、そして古 ふる くからのシチリア人 じん が調和 ちょうわ 的 てき な関係 かんけい の中 なか で生活 せいかつ していた[33] [34] 。アラビア語 ご は政府 せいふ と行政 ぎょうせい の言語 げんご としてノルマン人 じん の支配 しはい が始 はじ まった後 のち も少 すく なくとも1世紀 せいき は使用 しよう され続 つづ けていた。その痕跡 こんせき はシチリアの言語 げんご に残 のこ されており、また今日 きょう のマルタの言語 げんご にはよりはっきりと残 のこ されている[11] 。ムスリムたちは小売 こうり 業 ぎょう や製造 せいぞう 業 ぎょう といった産業 さんぎょう における支配 しはい 的 てき 地位 ちい を維持 いじ しており、同時 どうじ にムスリムの芸術 げいじゅつ と専門 せんもん 的 てき 知識 ちしき は政府 せいふ と行政 ぎょうせい において強 つよ く求 もと められていた[35] 。
しかしながら、シチリア島 とう のムスリムは自発 じはつ 的 てき な退去 たいきょ かキリスト教徒 きょうと 支配 しはい への服従 ふくじゅう という選択 せんたく を迫 せま られた。多 おお くのムスリムが、可能 かのう ならば島 しま を去 さ ることを選択 せんたく した。アブラフィア (英語 えいご 版 ばん ) によれば、「シチリア島 とう のキリスト教化 きょうか は、逆説 ぎゃくせつ 的 てき にではあるが、その文化 ぶんか が脅威 きょうい に晒 さら されていた人々 ひとびと によって〔つまりムスリム自身 じしん がそこを去 さ ることによって〕為 な されたものでもあった」[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] [36] [37] 。そしてまた、ムスリムたちは徐々 じょじょ にキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう していった。ノルマン人 じん たちは正教会 せいきょうかい の聖職 せいしょく 者 しゃ をカトリックの聖職 せいしょく 者 しゃ に置 お き換 か えた。アラビア語 ご を話 はな すキリスト教徒 きりすときょうと たちが存在 そんざい するにもかかわらず、ムスリムの農民 のうみん たちはギリシアの教会 きょうかい に惹 ひ きつけられ、洗礼 せんれい を受 う けギリシア語 ご のキリスト教徒 きりすときょうと 名 めい を採用 さいよう しさえした。モンレアーレ で登録 とうろく されていたギリシア語 ご 名 めい を持 も つキリスト教徒 きりすときょうと の農奴 のうど が、ムスリムの両親 りょうしん と暮 く らしていた例 れい が複数 ふくすう ある[38] [39] 。ノルマン人 じん の支配 しはい 者 しゃ たちはシチリアに、北西部 ほくせいぶ および南部 なんぶ イタリアから、そして一部 いちぶ はフランス南東 なんとう 部 ぶ から、数 すう 千 せん 人 にん のイタリア人 じん 入植 にゅうしょく 者 しゃ を連 つ れてくることによって、この地 ち で着実 ちゃくじつ なラテン化 か を継続 けいぞく した。今日 きょう に至 いた るまで、シチリア中央 ちゅうおう 部 ぶ にはガロ・イタリック方言 ほうげん を話 はな すコミュニティが存在 そんざい している[40] 。
ムスリムに対 たい するポグロム は1169年代 ねんだい に始 はじ まった。シチリア島 とう のムスリムとキリスト教徒 きりすときょうと のコミュニティはますます地理 ちり 的 てき に分離 ぶんり していた。島内 とうない のムスリムコミュニティはキリスト教徒 きりすときょうと 地域 ちいき である北部 ほくぶ および東 ひがし 半 はん 部 ぶ から、南部 なんぶ と西 にし 半 はん 部 ぶ を分 わ ける内部 ないぶ の境界 きょうかい 線 せん によって概 おおむ ね孤立 こりつ していた[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 。臣民 しんみん であるシチリアのムスリムは、キリスト教徒 きりすときょうと の主人 しゅじん 、つまるところは王室 おうしつ の慈悲 じひ に依存 いぞん していた。グリエルモ2世 せい が1189年 ねん に死亡 しぼう した後 のち 、この王室 おうしつ の庇護 ひご は失 うしな われ、島内 とうない のムスリムに対 たい する広範 こうはん な攻撃 こうげき が開始 かいし された。これは長 なが きにわたるあらゆる共存 きょうぞん への希望 きぼう を破壊 はかい したが、両者 りょうしゃ それぞれの人口 じんこう は不均衡 ふきんこう であったかもしれない[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 。ハインリヒ6世 せい とその妻 つま コンスタンツァ の死 し と、1年 ねん 後 ご のペストの流行 りゅうこう は政治 せいじ 的 てき 混乱 こんらん を引 ひ き起 お こした。王室 おうしつ の庇護 ひご を失 うしな ったのに加 くわ え、未 いま だ幼児 ようじ でローマ教皇 きょうこう 庇護 ひご 下 か のシチリア王 おう となったフリードリヒ2世 せい (フェデリーコ2世 せい )の下 もと で、シチリアは対立 たいりつ するドイツ諸侯 しょこう と教皇 きょうこう の軍勢 ぐんぜい の戦場 せんじょう となった。島内 とうない のムスリム反乱 はんらん 者 しゃ はマークワード・フォン・アンヴァイラー (英語 えいご 版 ばん ) のようなドイツの諸侯 しょこう の側 がわ にたった。これに対 たい し、教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい はマークワードがシチリア島 とう のサラセン人 じん と軽蔑 けいべつ すべき同盟 どうめい を結 むす んだと主張 しゅちょう し、彼 かれ に対 たい する十字軍 じゅうじぐん を宣言 せんげん した。しかしその一方 いっぽう で、1206年 ねん にはインノケンティウス3世 せい はムスリムの指導 しどう 者 しゃ たちにシチリア王室 おうしつ への忠誠 ちゅうせい を維持 いじ させることを試 こころ みた[41] 。この時 とき までにムスリムの反乱 はんらん は本格 ほんかく 的 てき なものとなっていた。彼 かれ らはイアート(Jato)、エンテッラ(Entella)、プラターニ(Platani)、チェルソ(Celso)、カラトラージ(Calatrasi)、コルリオーネ(Corleone、1208年 ねん 占領 せんりょう )、グアスタネッラ(Guastanella)、そしてチーニジ(Cinisi)を支配 しはい 下 か に置 お き、反乱 はんらん はシチリア西部 せいぶ 全域 ぜんいき に拡大 かくだい した。この反乱 はんらん はムハンマド・ブン・アッバード(Muhammad Ibn Abbād)に率 ひき いられていた。彼 かれ は自身 じしん を信徒 しんと たちの長 なが (英語 えいご 版 ばん ) (アミールル・ムーミニーン、amir al-mu'minin)と称 しょう し、コインに打 だ 刻 こく していた。そしてイスラーム世界 せかい の他 ほか の地域 ちいき のムスリムの支援 しえん を得 え ようと試 こころ みた[42] [43] 。
だが、フリードリヒ2世 せい はもはや子供 こども ではなく、1221年 ねん にムスリムの反 はん 徒 と たちに対 たい する一連 いちれん の遠征 えんせい を開始 かいし した。ホーエンシュタウフェン朝 あさ の軍隊 ぐんたい はイアート、エンテッラ、そしてその他 た の要塞 ようさい の防衛 ぼうえい 軍 ぐん を根絶 ねだ やしにした。1223年 ねん 、フリードリヒ2世 せい とキリスト教徒 きりすときょうと たちはアプーリアのルチェラ への最初 さいしょ のムスリム追放 ついほう を開始 かいし した[44] 。1年 ねん 後 ご 、マルタ 島 しま とジェルバ 島 しま に出兵 しゅっぺい が行 おこな われた。これは王 おう の支配 しはい を及 およ ぼし、その地 ち のムスリムが反 はん 徒 と たちを支援 しえん するのを防 ふせ ぐためのものであった[42] 。逆説 ぎゃくせつ 的 てき ではあるが、サラセン人 じん の射手 しゃしゅ はこの当時 とうじ からのキリスト教徒 きりすときょうと 軍隊 ぐんたい の一般 いっぱん 的 てき な構成 こうせい 要素 ようそ の1つであった[45] 。
ホーエンシュタウフェン家 か とその後継 こうけい 者 しゃ たち(アンジュー=シチリア家 か とアラゴン のバルセロナ家 か )は2世紀 せいき の間 あいだ 、徐々 じょじょ にシチリアを「ラテン化 か 」した。そしてその社会 しゃかい 的 てき プロセスは(ビザンツとは対照 たいしょう 的 てき に)ラテン・カトリック導入 どうにゅう のための下地 したじ を築 きず いた。ラテン化 か プロセスは主 おも にローマ教会 きょうかい とその典礼 てんれい によって推 お し進 すす められた。シチリアにおけるイスラーム消滅 しょうめつ は1240年代 ねんだい にルチェラ への最後 さいご の追放 ついほう が行 おこな われ、完了 かんりょう した[46] 。1282年 ねん のシチリアの晩 ばん 祷 いのり の時 とき までに、シチリア島 とう にはムスリムはいなくなっており、その社会 しゃかい は完全 かんぜん にラテン化 か されていた。
アル=ハサン・ブン・アリー・アル=カルビー (英語 えいご 版 ばん ) (948年 ねん -953年 ねん )
アフマド・ブン・アル=ハサン・アル=ムイッズィーヤ(Ahmad ibn al-Hasan al-Muizziyya、953年 ねん -969年 ねん )
ヤイーシュ(Yaish、969年 ねん )
アフマド・ブン・アル=ハサン・アル=ムイッズィーヤ(Ahmad ibn al-Hasan al-Muizziyya、969年 ねん -970年 ねん )
アブー・ル=カースィム・アリー・ブン・アル=ハサン・アル=カルビー (英語 えいご 版 ばん ) (970年 ねん -982年 ねん )
ジャービル・ブン・アリー(Jabir ibn 'Ali、982年 ねん -983年 ねん )
ジャアファル・ブン・ムハンマド(Ja'far ibn Muhammad、983年 ねん -986年 ねん )
アブドゥッラーフ・ブン・ムハンマド(Abd Allah ibn Muhammad、986年 ねん )
ユースフ・アル=カルビー(Yusuf al-Kalbi、986年 ねん -998年 ねん )
ジャアファル2世 せい (998年 ねん -1019年 ねん )
アフマド2世 せい ・アル=アクハル(Ahmad II al-Akhal、1017年 ねん -1037年 ねん )
アブドゥッラーフ・アブー・ハフス、Abd Allah Abu Hafs、1035年 ねん -1040年 ねん 、ズィール朝 あさ の総督 そうとく 。1037年 ねん にアフマド2世 せい を撃破 げきは し殺害 さつがい した)
ハッサーン・アッ=サムサム(Hasan al-Samsam、1040-1044年 ねん 、1053年 ねん 死亡 しぼう )
カターニア:(1053年 ねん -?)、イブン・アル=マクラーティ(Ibn al-Maklatí、イブン=スムナに敗 やぶ れる)
シラクサ、後 のち にカターニアを含 ふく む:(1053年 ねん -1062年 ねん )、ムハンマド・ブン・イブラーヒーム(Muhammed ibn Ibrahim、イブン・スムナ:Ibn Thumna)
アグリジェントおよびカストロジョヴァンニ(1053年 ねん -1065年 ねん ):アリー・ブン・ニーマ(Alí ibn Nima、イブン=ハッワース:Ibn al-Hawwàs)
トラパニおよびマツァーラ(1053年 ねん -1071年 ねん ):アブドゥッラーフ・ブン・マンクート(Abdallah ibn Mankut)
アイユーブ・ブン・タミーム(Ayyub ibn Tamim、ズィール朝 あさ 、1065年 ねん -1068年 ねん 、諸 しょ ターイファを統一 とういつ )[47]
パレルモ(1068年 ねん -1071年 ねん ):共和 きょうわ 政 せい
アグリジェントおよびカストロジョヴァンニ(1065年 ねん -1087年 ねん ):ハンムード(Hammud)
シラクサおよびカターニア:(1071年 ねん -1086年 ねん ):イブン・アッバード(Ibn Abbad、ベナヴェルト:Benavert)
^ 当時 とうじ の「ランゴバルド人 じん 」(ロンバルディア人 じん )という名称 めいしょう はいわゆるゲルマン人 じん の部族 ぶぞく のランゴバルド人 じん の同義語 どうぎご ではない。高山 こうざん によれば、当時 とうじ 南 みなみ イタリアの「アプーリアやカンパーニアの住民 じゅうみん の大 だい 多数 たすう は、同 どう 時代 じだい の史料 しりょう でしばしば『ランゴバルド人 じん 』と記 しる されるラテン語 らてんご ・キリスト教 きりすときょう 文化 ぶんか の伝統 でんとう を持 も つ人々 ひとびと であった」[31] 。そして当時 とうじ シチリアに移住 いじゅう してきた北 きた イタリア出身 しゅっしん の人々 ひとびと は自 みずか らをランゴバルドに由来 ゆらい する名称 めいしょう の「ロンバルディア人 じん 」と呼 よ んだが、当時 とうじ ロンバルディアと呼 よ ばれた領域 りょういき は広 ひろ く、現在 げんざい のロマーニャ 、リグーリア 、ピエモンテ も含 ふく んでいた[32] 。
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