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イスラーム期のシチリア - Wikipedia コンテンツにスキップ

イスラームのシチリア

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シチリア首長しゅちょうこく
إمارة صقلية (アラビア)
シチリア・テマ 831ねん - 1091ねん シチリア伯領
シチリア首長国の位置
西暦せいれき1000ねんのイタリア。シチリアのアミールりょう緑色みどりいろられている。
公用こうよう アラビアシチリア方言ほうげん中世ちゅうせいギリシアぞくラテン語らてんご
国教こっきょう イスラム教いすらむきょう
宗教しゅうきょう カルケドンキリスト教きりすときょう
首都しゅと バルハルム(Bal'harm、げん:パレルモ)
元首げんしゅとう
xxxxねん - xxxxねん 不明ふめい
変遷へんせん
設立せつりつ 831ねん
解体かいたい1091ねん
現在げんざいイタリアの旗 イタリア
マルタの旗 マルタ
アグラブあさ(831ねん-909ねん)、およびファーティマあさ(909ねん-948ねん)のぞくしゅう。948ねん以降いこうカルブあさ英語えいごばんした自律じりつてきアミール支配しはいとなる。

シチリア首長しゅちょうこく(シチリアしゅちょうこく、アラビア: إمارة صقلية‎)は、831ねんから1091ねんあいだシチリアとう支配しはいした首長しゅちょうこくである。シチリアとうアグラブあさカーディーアサド・ブン・アル=フラート英語えいごばんによる遠征えんせい以来いらい1世紀せいきあまりの時間じかんをかけて征服せいふくされ、パレルモ拠点きょてんアミールまたはワーリーしょうするムスリムの支配しはいしゃ統治とうちはいった。そして、シチリアのムスリム政権せいけん傭兵ようへいとしてみなみイタリアで活動かつどうしていたノルマンじんによって完全かんぜんさい征服せいふくされるまで継続けいぞくした[1]ほんこうではこのシチリアのアミールりょうEmirate of Sicilyアラビア: إِمَارَة صِقِلِّيَة‎)を中心ちゅうしんにシチリアにおけるムスリムの歴史れきしについて解説かいせつする。

ムスリムのムーアじんは652ねんはじめてシチリアに侵入しんにゅうし、827ねんから902ねんにかけての長期ちょうきにわたる一連いちれん衝突しょうとつ英語えいごばんビザンツ帝国ていこくひがしマ帝国まていこく)からしま全体ぜんたい支配しはいけんうばった。ただしシチリアとう北東ほくとうはしロメッタは965ねんまでビザンツりょうのこった。アラブ・ビザンティン文化ぶんか英語えいごばん発達はったつし、宗教しゅうきょう(multiconfessional)・多言たげん国家こっか(state)をつくげた。シチリアのアミール政権せいけんルッジェーロ1せいひきいられたキリスト教徒きりすときょうとノルマンじん傭兵ようへいによって征服せいふくされ、かれによって1071ねんシチリアはくりょう英語えいごばん創設そうせつされた。シチリア島内とうない最後さいごのムスリム都市としノートは1091ねん征服せいふくされた。

民族みんぞくてきなシチリアはくりょうと、つづシチリア王国おうこくにおいても、シチリア・ムスリムはその市民しみんとして残留ざんりゅうしていた。かれらのうちキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしていなかったものたちは1240年代ねんだい追放ついほうされた。12世紀せいきまつ、あるいは1220年代ねんだいまでは、ムスリムはシチリアとう人口じんこうにおいて多数たすう構成こうせいしていた。ただし東北とうほくヴァル・デモーネ英語えいごばんは、ムスリム支配しはいあいだでもビザンツ・ギリシアじん(Byzantine Greek)とキリスト教きりすときょう支配しはいてきであった[2][3][4][5][6][7][8]当時とうじのイスラームとアラブの影響えいきょう今日きょうシチリアのいくつかの要素ようそのこっており、建築けんちく、そして地名ちめいにもその影響えいきょうのこされている。

ムスリムによる初期しょき襲撃しゅうげき[編集へんしゅう]

シチリアとう紀元前きげんぜんたたかわれたポエニ戦争せんそう以来いらいマ帝国まていこく支配しはいにあった[9]。その5世紀せいきのいわゆるゲルマンじんだい移動いどうにはヴァンダル王国おうこくいでひがしゴート王国おうこくがシチリアの支配しはいけんにぎった[10]

535ねん帝国ていこくうしなわれた西方せいほう領土りょうど回復かいふくこころみたひがしローマ皇帝こうていユスティニアヌス1せいシチリアとうマ帝国まていこく当時とうじひがしマ帝国まていこく現在げんざいでは一般いっぱんビザンツ帝国ていこくばれている)のしたもどした。だが、もなくビザンツ帝国ていこく地中海ちちゅうかいでの影響えいきょうりょく衰微すいびし、あらたに勃興ぼっこうしたムスリム勢力せいりょく地中海ちちゅうかいのアフリカ沿岸えんがん攻撃こうげきした。その過程かていで、シチリアとう正統せいとうカリフ(ハリーファ)ウスマーン治下ちかの652ねんムスリム侵攻しんこうけた。この最初さいしょ侵攻しんこう短期間たんきかんであり、ムスリムはすぐにしまった。7世紀せいきわりまでに、ムスリム王朝おうちょうのウマイヤちょうきたアフリカを完全かんぜん征服せいふく英語えいごばんし、ムスリムはカルタゴ近郊きんこう拠点きょてんとなるみなと[11]。700ねんごろパンテッレリーアしまがムスリムに占領せんりょうされた。当時とうじ、シチリア侵攻しんこうへのこころみをさまたげていたのはムスリム内部ないぶ不和ふわのみであった。ムスリムはビザンツ帝国ていこくとのあいだ貿易ぼうえき協定きょうていむすび、ムスリム商人しょうにんがシチリアのみなと商品しょうひん取引とりひきおこなうことがみとめられた。

最初さいしょの、本当ほんとう意味いみでの征服せいふく遠征えんせいは740ねん開始かいしされた。このとし、かつて728ねんにもシチリア攻撃こうげき参加さんかしたことのあったムスリムの王子おうじハビーブ(Habib)はシラクサ占領せんりょうすることに成功せいこうした。しま全体ぜんたい征服せいふく計画けいかくされたが、チュニジアにおけるベルベルじん反乱はんらん英語えいごばんのために退却たいきゃく余儀よぎなくされた。2度目どめ攻撃こうげきは752ねんに、シラクサのさい占領せんりょうのみを目指めざしておこなわれた。

エウフェミオスの反乱はんらんとムスリムによるシチリア征服せいふく[編集へんしゅう]

826ねん、シチリアのビザンツ艦隊かんたい司令しれいかんエウフェミオス英語えいごばん修道しゅうどうおんな自分じぶん結婚けっこんするよう強要きょうようした。皇帝こうていミカエル2せいはこのけんうわさをききつけ、将軍しょうぐんコンスタンティノスにこの結婚けっこん解消かいしょうさせエウフェミオスのはな切断せつだんするようにめいじた。エウフェミオスは反乱はんらんこしコンスタンティノスを殺害さつがいしてシラクサを占領せんりょうした。しかしかれ順次じゅんじ敗北はいぼくかさね、きたアフリカ逃亡とうぼうした[1]。エウフェミオスはチュニジア支配しはいするアグラブあさのアミール、ズィヤーダ・アッラーフ1せい英語えいごばんに、将軍しょうぐんとしての地位ちいおよ安全あんぜんえにシチリアの支配しはいけんし、ムスリムの軍隊ぐんたい派遣はけんされた[1]

ズィヤーダ・アッラーフ1せいはシチリアとう征服せいふく同意どういし、エウフェミオスに毎年まいとしみつぎおさめえにこのしまあたえることを約束やくそくした。そして70さいになるカーディーアサド・ブン・アル=フラート英語えいごばん征服せいふくたくされた。アグラブあさのムスリム軍団ぐんだんは、マツァーラ・デル・ヴァッロへの上陸じょうりく歩兵ほへい10,000にん騎兵きへい700、そしてエウフェミオスのものをくわえて増強ぞうきょうした船舶せんぱく100せきかぞえた。ビザンツ帝国ていこくぐんたいする最初さいしょたたかいは827ねん7がつ15にちにマツァーラ近郊きんこうおこなわれ、アグラブあさ勝利しょうりした。

アサド・ブン・アル=フラートはそのしま南岸なんがん占領せんりょうし、シラクサ包囲ほういした。1年間ねんかん包囲ほうい英語えいごばん反逆はんぎゃくくわだてののちかれ軍隊ぐんたいはドゥーチェ、Giustiniano Participazioひきいるヴェネツィア艦隊かんたい支援しえんされてパレルモから派遣はけんされてきた大軍たいぐん撃破げきはすることに成功せいこうした。しかし、ムスリムの軍隊ぐんたいないでペストが蔓延まんえんして多数たすう死者ししゃし、アサド・ブン・アル=フラート自身じしん死亡しぼうすると、ムスリムたちはミネーオしろ後退こうたいした。アサドののちにはムハンマド(在職ざいしょく:828ねん-829ねん)、いでズハイル(在職ざいしょく829ねん-830ねん)がムスリムの指揮しき[12]かれらはふたた攻勢こうせいたが、カストロジョヴァンニ現在げんざいのエンナ、このときエウフェミオスが死亡しぼうした)の征服せいふく失敗しっぱいし、マツァーラへ後退こうたいした。

830ねんかれらは30,000にんイフリーキヤひととアンダルスじん軍勢ぐんぜいという強力きょうりょく援軍えんぐんた。アンダルスのムスリムの軍勢ぐんぜい同年どうねんの7がつから8がつにかけてビザンツ帝国ていこく司令しれいかんテオドトスを撃破げきはした。だが、ふたたびペストがムスリムをおそい、マツァーラへの退却たいきゃく、さらにはイフリーキヤへの撤退てったいいた。イフリーキヤひと部隊ぶたいパレルモ包囲ほうい派遣はけんされ、831ねん9がつに、1ねんにわたる包囲ほういのち同市どうし占領せんりょうすることに成功せいこうした[13]。パレルモはシチリアにおけるムスリムの首都しゅととなり、アル=マディーナ(The City)と改名かいめいされた[14]

この征服せいふく状況じょうきょうはシーソーのように一進一退いっしんいったいかえした。強力きょうりょく抵抗ていこうおおくの内部ないぶ紛争ふんそうによって、ムスリムによるビザンツりょうシチリアの征服せいふくには1世紀せいき以上いじょう時間じかんついやされた。シラクサは長期ちょうきにわたってビザンツりょうとどまったが、878ねん陥落かんらく英語えいごばんし、タオルミーナは902ねん陥落かんらくした。そしてビザンツ帝国ていこく最後さいご拠点きょてんは965ねん占領せんりょうされた[1]

シチリアとう総督そうとく[編集へんしゅう]

アラブ・ノルマン英語えいごばん美術びじゅつ建築けんちくは、西方せいほうてき(Occidental)特徴とくちょう古典こてんてきはしらやフリーズなど) に典型てんけいてきアラビアふう装飾そうしょくカリグラフィー合成ごうせいさせたものである。

アサド・ブン・アル=フラートのあといだシチリアとうのムスリム支配しはいしゃたちはワーリー総督そうとくwālī)、場合ばあいによってはアミールamīr)、アーミル('āmil)とばれ、アグラブあさ配下はいか総督そうとくとしてシチリアとう支配しはいたずさわった[12]。シチリアとうのワーリーは、現地げんちのムスリムたちによって選出せんしゅつされたのちアグラブあさ承認しょうにんるか、あるいはアグラブあさから直接ちょくせつ任命にんめいされた[12]。このシチリアのワーリー/アミールは、みずからの意思いし戦争せんそう和平わへい可能かのう実質じっしつてき君主くんしゅであった。しかし、アグラブあさ影響えいきょうりょくおおきく、その臣下しんかという体裁ていさい維持いじされつづけた。当時とうじシチリアで発行はっこうされた貨幣かへいにアグラブあさ君主くんしゅきざまれ、フトゥバ金曜日きんようびおこなわれる説教せっきょう)においてはアッバースあさカリフ(ハリーファ)とともにアグラブあさのアミールのとなえられた事実じじつが、アグラブあさのシチリアにおける権威けんい証明しょうめいしている[15]

シーア指導しどうしゃアブー=アブドゥッラーチュニジア支配しはいけんにぎり、アグラブちょうファーティマあさってわられたというしらせがシチリアとうとどくと、シチリアのムスリムたちはアグラブあさのシチリア総督そうとくアフマドを幽閉ゆうへいし、ぜん総督そうとくのアリーを「ファーティマあさの」シチリア総督そうとくとして選出せんしゅつした[16]。こうしてシチリアとうスンナであるチュニジアアグラブあさシーアであるエジプトファーティマあさ権威けんい順次じゅんじふくした。しかし、イスラーム時代じだいつうじて、スンナがシチリアとうのムスリムコミュニティの主流しゅりゅう[17]、パレルモの住民じゅうみんの(すべてではないとしても)ほとんどがスンナであった[18]。ファーティマあさとシチリアの関係かんけいはアグラブあさときおおきくは変化へんかせず、フトゥバにおいてファーティマあさカリフのとなえられ、総督そうとくはファーティマあさによって任命にんめいされたが、シチリアはたか政治せいじてき自立じりつせいたもっていた[16]

943ねんから947ねんにかけて、ファーティマあさ厳格げんかく宗教しゅうきょう政策せいさくたいする宗派しゅうはてき反乱はんらんきたアフリカ全域ぜんいき発生はっせいしたのち、ファーティマあさ報復ほうふくからのがれようとする難民なんみんなみがシチリアにかってすうにわたって発生はっせいし、島内とうないのスンナ人口じんこうさら増大ぞうだいした[19]。ビザンツ帝国ていこくはこの一時いちじてき不和ふわ利用りようして、シチリアとう東端ひがしばたすう年間ねんかん占領せんりょうした。

947ねん4がつ25にちに、パレルモで当時とうじのシチリア総督そうとくイブン・アッターフたいする反乱はんらん発生はっせいした[16]。ファーティマあさのカリフ、イスマーイール・アル=マンスール英語えいごばんは、混乱こんらん収拾しゅうしゅうたくしてカルブアル=ハサン・アル=カルビー英語えいごばん在職ざいしょく:948ねん-953ねん)をシチリアとうのアミール(総督そうとく)に任命にんめいした。かれはひっきりなしに反乱はんらんをおこしていたビザンツじん制御せいぎょ統治とうちすることに成功せいこうした。ハサンはことんだのち、953ねんにはファーティマあさ宮廷きゅうていもどされたが、シチリア総督そうとく(アミール)にはかれ息子むすこアフマド・ブン・アル=ハサン就任しゅうにんした[20]。アフマドも969ねんにファーティマあさ本国ほんごく召還しょうかんされ、そのハサンの解放かいほう奴隷どれいヤイーシュにシチリア支配しはいゆだねられた[20]。しかし、もなく政府せいふ状態じょうたいおちいったため、ふたたびアフマドがシチリアの支配しはいしゃとなり、その兄弟きょうだいアブー・ル=カースィム英語えいごばん代理だいりとしてシチリアに派遣はけんされた[20]。970ねんにはアフマドが死去しきょしたため、アブー・ル=カースィムが正式せいしきにシチリアのアミールとなり、以降いこうハサンの子孫しそん(カルブ)がシチリア総督そうとく世襲せしゅうすることが慣習かんしゅうした[20]。これをカルブあさ英語えいごばんぶ。

カルブあさもとで、11世紀せいきいたるまでみなみイタリアへの襲撃しゅうげきつづけられ、982ねんにはオットー1せいひきいる「ドイツ」ぐんカラーブリアクロトーネ近郊きんこう撃破げきはした。アミール、ユースフ・アル=カルビー英語えいごばん在位ざいい:986ねん-998ねん)の即位そくいともに、着実ちゃくじつ衰退すいたい時代じだいはじまった。アル=アクハル(al-Akhal、在位ざいい:1017ねん-1037ねん)のした王朝おうちょうない内部ないぶ対立たいりつ激化げきかし、支配しはい家系かけいない様々さまざま派閥はばつビザンツ帝国ていこくやチュニジアにあらたにおこったズィールあさ同調どうちょうした。1036ねんにはズィールあさ支配しはいしゃアル=ムイッズ・ブン・バーディース英語えいごばんはムスリムたちの反乱はんらん介入かいにゅうするとともに、シチリアとう併合へいごうこころみて派兵はへいした。このたたかいのなかでカルブあさのアミール、アフマド2せい殺害さつがいされ、ズィールあさ王子おうじアブドゥッラーフがシチリア総督そうとくとなった[20][21]。1040ねんには殺害さつがいされたアフマド2せい兄弟きょうだいハッサーン・アッ=サムサム英語えいごばんがアブドゥッラーフをやぶりカルブあさ復活ふっかつさせたが、もはやシチリア全土ぜんど支配しはいおよぼすことは困難こんなんになっていた[20]

アラブ統治とうちのシチリア社会しゃかい[編集へんしゅう]

パレルモのアラブじん楽士がくし

シチリアとうのアラブの統治とうちしゃたちは土地とち改革かいかく英語えいごばんおこなった。これはのち生産せいさんせいたかめ、だい地主じぬし勢力せいりょくよわめて小規模しょうきぼ自作農じさくのう発達はったつうながした。アラブじんたちはさらにカナートによって灌漑かんがいシステムを改善かいぜんした。オレンジレモンピスタチオサトウキビがシチリアに導入どうにゅうされた。950ねんにシチリアとうおとずれたバグダード商人しょうにんイブン・ハウカル英語えいごばんパレルモについて記録きろくしている。カスル(Kasr、宮殿きゅうでん)とばれるかべかこわれた区域くいき(suburb)は今日きょうまでパレルモの中心ちゅうしんであり、巨大きょだい金曜きんようモスクが後期こうきローマのだい聖堂せいどう(カテドラル)の跡地あとちうえにあった。アル=ハーリサ(Al-Khalisa、カルサ英語えいごばん)には宮殿きゅうでん、ハンマーム(浴場よくじょう)、モスク、政府せいふ官庁かんちょう、そして私営しえい刑務所けいむしょ(a private prison)があった。イブン・ハウカルは150の店舗てんぽで7,000にん精肉せいにく業者ぎょうしゃ取引とりひきしていたと見積みつもっている。1050ねんまでにパレルモの人口じんこうは350,000にんたっし、ヨーロッパ最大さいだい都市としの1つとなっていた。ただしアンダルス(イスラーム・スペイン)の首都しゅとコルドバビザンツ帝国ていこく首都しゅとコンスタンティノープル規模きぼはさらにおおきかった。この2つの都市としは450,000にんから500,000にん人口じんこうかかえていた。パレルモの人口じんこうはノルマンじん統治とうちで150,000にん減少げんしょうし、おなごろにはコルドバでもムスリムの弱体じゃくたいによって人口じんこう大幅おおはば減少げんしょうした。1330ねんまでにパレルモの人口じんこうは51,000にん減少げんしょうした[22]

アラブじん旅行りょこうしゃ地理ちり学者がくしゃ詩人しじんであるイブン・ジュバイルは12世紀せいきわりにこの地域ちいきおとずれ、アル=カスルとアル=ハーリサ(カルサ)についてべている。

この首都しゅと華麗かれいさととみという2つの恩寵おんちょうめぐまれている。それはあらゆる人間にんげんのぞみうる現実げんじつ空想くうそううつくしさすべてをわせている。華麗かれいさと優雅ゆうがさが広場ひろば(piazzas)と田園でんえんとをかざっている。とおりと街道かいどうひろく、景観けいかんうつくしさはくらむばかりである。まち驚異きょういち、コルドバ(Córdoba、ママ)とおなじく石灰岩せっかいがんてられた建物たてものがある。4つのいずみからきることのないみずながれがまちなかながれている。あまりにもおおくのモスクがあり、かぞえきることはできない。そのほとんどは学校がっこうとしても機能きのうしている。この華麗かれいさはくらむばかりである。

この時代じだいつうじて、ビザンツけいシチリアじん(Byzantine Sicilians)による反乱はんらん継続けいぞくてきに、とく東部とうぶ発生はっせいしており、一部いちぶ領土りょうど反乱はんらん鎮圧ちんあつまえさい占領せんりょうされることすらあった[23]

シチリアで鋳造ちゅうぞうされたアグラブあさの4ぶんの1ディナール貨。879ねん

ムスリムに征服せいふくされたシチリアの現地げんち住民じゅうみん西にしシチリアのローマしカトリックを信仰しんこうするシチリアじんと、しゅとしてしまひがし半分はんぶんむギリシアはなすビザンツ・カトリック信徒しんとからなり、また相当そうとうすうのユダヤじんもいた[24]。この西部せいぶ東部とうぶ人々ひとびとは1つの教会きょうかいぞくしていたが、1054ねんしょ事件じけんから分裂ぶんれつはじまった。1204ねんのコンスタンティノープルの寇略はビザンツじんの「正教せいきょう」についての懸念けねんかんするかぎ最後さいごいちしであった[訳語やくご疑問ぎもんてん]キリスト教徒きりすときょうととユダヤ教徒きょうとはムスリムの支配しはいしたズィンミー庇護ひごみん)として旧来きゅうらい信仰しんこう維持いじすることをみとめられたが、いくつかの制約せいやくけた。ズィンミーはジズヤ人頭じんとうぜい)とハラージュ地租ちそ)の支払しはらいを要求ようきゅうされていた。ただしムスリムが支払しはらぜいザカート)は免除めんじょされた。アラブ支配しはいしたではジズヤを支払しはら人々ひとびとには各種かくしゅのカテゴリーがあったが、共通きょうつうこうはムスリム支配しはいへの服従ふくじゅうあかしとしてジズヤを支払しはらい、えに外部がいぶおよび内部ないぶからの攻撃こうげきから保護ほごけるというものであった。誠実せいじつ宗教しゅうきょうしんによるか強制きょうせいであるかはべつとして、すうおおくの現地げんちじんがイスラームに改宗かいしゅうした。ノルマンじんによる征服せいふく時点じてん人口じんこうやく半分はんぶんがムスリムであった。10世紀せいきなかば、ファーティマあさ積極せっきょくてき改宗かいしゅうすすキリスト教徒きりすときょうとへの弾圧だんあつ強化きょうかする政策せいさく採用さいようした。しかし、イスラーム支配しはいはじまって100ねん経過けいかしてもなお、多数たすうのギリシアもちいるキリスト教徒きりすときょうとコミュニティがズィンミーとして、とく北東ほくとうシチリアではさかえていた。これはおおきくは、共存きょうぞんゆるしたジズヤのシステムの結果けっかであった。この征服せいふくしゃとの共存きょうぞん関係かんけいは1160年代ねんだいのシチリアとうさい征服せいふくのちとくに1189ねんのノルマンのおうグリエルモ2せい(ウィレルムス2せい)ののち崩壊ほうかいした。

衰退すいたいと「ターイファ」の時代じだい[編集へんしゅう]

剣を携えて座る男性がトレイの上に物を受け取っている
パレルモかぎルッジェーロ1せい

シチリアのアミール政権せいけんはムスリム体制たいせいないにおける王朝おうちょう内部ないぶ紛争ふんそうによって断片だんぺんはじめた[1]。シチリアのアミール奪回だっかいしたハサン・アル=サムザム英語えいごばんは1044ねん廃位はいいされ、しま以下いかのような4にんカーディーりょう、またはちいさな封建ほうけんてき領地りょうち(fiefdoms)に細分さいぶんした[20]

  • アブドゥッラーフ・ブン・マンクート(Abdallah ibn Mankut):トラパニ(Trapani)、マルサーラ(Marsala)、マザーラ(Mazara)、シャッカ(Sciacca)のカーディーりょう(qadit)[20]
  • イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs):アグリジェント、カストロジョヴァンニ(Castrogiovanni)、カストロヌオーヴォ(Castronuovo)[20]
  • イブン・マクラーティー:パレルモ、カターニア(Catania)[25]
  • イブン・スムナ(Ibn Thumna):シラクサ[25]

また、しゅ邑パレルモはまち有力ゆうりょくしゃによる自治じちおこなわれるようになった[25]

1038ねん、イタリアのカテパノに任命にんめいされたゲオルギオス・マニアケス英語えいごばんひきいるビザンツぐんがメッシーナ海峡かいきょうわたり、ノルマンじん英語えいごばん軍団ぐんだんれた。1040ねんなつべつ決定的けっていてき勝利しょうりおさめたのち、マニアケスはシラクサを包囲ほういしこれを征服せいふくすることに成功せいこうした。にもかかわらず、コンスタンティノープルできた政変せいへんによってかれはその地位ちいわれ、そののムスリムの反撃はんげきによってビザンツ帝国ていこく征服せいふくした都市としすべ奪還だっかんされた[23][26]。ビザンツ帝国ていこくあらたな司令しれいかんアルギュロスはノルマンじんしんつなぎとめることに失敗しっぱいし、ノルマンじんたちは鉄腕てつわんばれたグリエルモ英語えいごばん(ウィレルムス)をみずからの指導しどうしゃとして選出せんしゅつしてビザンツ帝国ていこく反旗はんきひるがえした[26]

このあいだ、シチリアのかくカーディーは合従連衡がっしょうれんこうかえし、イブン・スムナがアブドゥッラーフを撃破げきはしてもっと有力ゆうりょく君主くんしゅとなった[25]。しかし、そののイブン・アル=ハッワースとのたたかいにはやぶれ、危機ききおちいったイブン・スムナはノルマンじんたすけをもとめた[25]。11世紀せいきまでにみなみイタリア本土ほんど勢力せいりょくノルマンじん傭兵ようへい雇用こようするようになっていた。かれらはヴァイキング子孫しそんキリスト教徒きりすときょうとである。このときイブン・スムナが見返みかえりとして領土りょうどあたえるという約束やくそくむすんだことが、のノルマンじんによるシチリア征服せいふく端緒たんしょとなる[27]

イブン・スムナからシチリア全土ぜんど約束やくそくされたとされるノルマンじん首領しゅりょうルッジェーロ1せい(ロゲリウス1せい)は1061ねんメッシーナ占領せんりょうした[28]。その、イブン・スムナととも周辺しゅうへん地域ちいき制圧せいあつしたが、1062ねんには同時どうじぎょうアプーリアカラーブリアれていたあにロベルト・グイスカルド(グイスカルドゥス)にイタリア半島はんとうされ移動いどうした[28]。ルッジェーロ1せい在中ざいちゅうにイブン・スムナは殺害さつがいされてしまい、かれともにいたノルマンじんたちはメッシーナへの退却たいきゃく余儀よぎなくされた[28]

ルッジェーロ1せいはシチリアとイタリアを往復おうふくしながらしまさい征服せいふくこころみ、たたかいは一進一退いっしんいったいつづけた[28]。このなかで、きたアフリカのズィールあさがムスリムに援軍えんぐんおくった。しかし、この部隊ぶたいは1063ねんチェラーミのたたか英語えいごばんやぶられた。多数たすうキリスト教徒きりすときょうとたちがムスリムの支配しはいたいして反乱はんらんこした。1068ねん、ルッジェーロとかれ兵士へいしたちはふたたび、ズィールあさのムスリムぐんミジルメーリ撃破げきはした。ズィールあさ軍団ぐんだんはこの敗北はいぼくのち混乱こんらんなかでシチリアとうからり、カターニアは1071ねんにノルマンじんちた。その、1072ねん1がつ10日とおかに1ねん包囲ほういすえパレルモが陥落かんらくした[29]。トラパニもまた同年どうねん降伏ごうぶくした。

一連いちれん征服せいふく活動かつどうで、主要しゅよう港湾こうわん都市としうしなったことは島内とうないのムスリム権力けんりょく深刻しんこく打撃だげきあたえた。最後さいご活動かつどうてき抵抗ていこうおこなわれた一角いっかくは、イブン・アッバード(ベナヴェルト)が統治とうちするシラクサであった。かれは1075ねんにルッジェーロ1せい息子むすこジョルダン(Jordan)をやぶり、1081ねんにはカターニアを奪回だっかい、そのすぐにカラーブリアを襲撃しゅうげきした。しかし、ルッジェーロ1せいは1086ねんにシラクサを包囲ほういした。イブン・アッバードは海戦かいせんによって包囲ほういやぶろうとしたが、そのなか不意ふい死亡しぼうしてしまった。この敗北はいぼくのちシラクサは降伏ごうぶくし、イブン・アッバードのつま息子むすこはノートとブテラにのがれた。そのあいだ、Qas'r Ianni(エンナ)はいまだそののアミール、イブン・アル=ハッワース(Ibn al-Hawwàs)によって支配しはいされており、かれすうねんにわたりとどまった。かれ後継こうけいしゃ、ハンムード(Hammud)は、1087ねん継承けいしょうすぐに降伏ごうぶくし、キリスト教きりすときょう改宗かいしゅうした。改宗かいしゅうのち、ハンムードはキリスト教徒きりすときょうと貴族きぞく一部いちぶとなり、ルッジェーロ1せいによってカラーブリアあたえられた邸宅ていたく家族かぞくとも隠居いんきょした。1091ねん最後さいごのアラブじん拠点きょてんであるシチリア南端なんたんブテラノートおよマルタしまが、あっけなくキリスト教徒きりすときょうとシチリアおうちた。ノルマンじんのシチリア征服せいふくのちかれらは現地げんちのアミールであるユースフ・ブン・アブドゥッラーフ(Yusuf Ibn Abdallah)を権力けんりょくから排除はいじょしたが、それはアラブじん慣例かんれいしたがっておこなわれた[30]

影響えいきょう[編集へんしゅう]

12世紀せいきのアラブ・ノルマン絵画かいが

シチリアおうルッジェーロ2せい統治とうちのノルマンじんシチリア王国おうこくはその民族みんぞくてき性質せいしつ宗教しゅうきょうてき寛容かんようによって特徴付とくちょうづけられる。ノルマンじん、ユダヤじん、ムスリム・アラブじん、ビザンツ・ギリシアじん、「ランゴバルドじん英語えいごばん」(ロンバルディアじん[注釈ちゅうしゃく 1]、そしてふるくからのシチリアじん調和ちょうわてき関係かんけいなか生活せいかつしていた[33][34]アラビア政府せいふ行政ぎょうせい言語げんごとしてノルマンじん支配しはいはじまったのちすくなくとも1世紀せいき使用しようされつづけていた。その痕跡こんせきシチリアの言語げんごのこされており、また今日きょうマルタの言語げんごにはよりはっきりとのこされている[11]。ムスリムたちは小売こうりぎょう製造せいぞうぎょうといった産業さんぎょうにおける支配しはいてき地位ちい維持いじしており、同時どうじにムスリムの芸術げいじゅつ専門せんもんてき知識ちしき政府せいふ行政ぎょうせいにおいてつよもとめられていた[35]

しかしながら、シチリアとうのムスリムは自発じはつてき退去たいきょかキリスト教徒きょうと支配しはいへの服従ふくじゅうという選択せんたくせまられた。おおくのムスリムが、可能かのうならばしまることを選択せんたくした。アブラフィア英語えいごばんによれば、「シチリアとうのキリスト教化きょうかは、逆説ぎゃくせつてきにではあるが、その文化ぶんか脅威きょういさらされていた人々ひとびとによって〔つまりムスリム自身じしんがそこをることによって〕されたものでもあった」[訳語やくご疑問ぎもんてん][36][37]。そしてまた、ムスリムたちは徐々じょじょキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしていった。ノルマンじんたちは正教会せいきょうかい聖職せいしょくしゃをカトリックの聖職せいしょくしゃえた。アラビアはなキリスト教徒きりすときょうとたちが存在そんざいするにもかかわらず、ムスリムの農民のうみんたちはギリシアの教会きょうかいきつけられ、洗礼せんれいけギリシアキリスト教徒きりすときょうとめい採用さいようしさえした。モンレアーレ登録とうろくされていたギリシアめいキリスト教徒きりすときょうと農奴のうどが、ムスリムの両親りょうしんらしていたれい複数ふくすうある[38][39]。ノルマンじん支配しはいしゃたちはシチリアに、北西部ほくせいぶおよび南部なんぶイタリアから、そして一部いちぶはフランス南東なんとうから、すうせんにんのイタリアじん入植にゅうしょくしゃれてくることによって、この着実ちゃくじつなラテン継続けいぞくした。今日きょういたるまで、シチリア中央ちゅうおうにはガロ・イタリック方言ほうげんはなすコミュニティが存在そんざいしている[40]

ムスリムにたいするポグロムは1169年代ねんだいはじまった。シチリアとうのムスリムとキリスト教徒きりすときょうとのコミュニティはますます地理ちりてき分離ぶんりしていた。島内とうないのムスリムコミュニティはキリスト教徒きりすときょうと地域ちいきである北部ほくぶおよびひがしはんから、南部なんぶ西にしはんける内部ないぶ境界きょうかいせんによっておおむ孤立こりつしていた[訳語やくご疑問ぎもんてん]臣民しんみんであるシチリアのムスリムは、キリスト教徒きりすときょうと主人しゅじん、つまるところは王室おうしつ慈悲じひ依存いぞんしていた。グリエルモ2せいが1189ねん死亡しぼうしたのち、この王室おうしつ庇護ひごうしなわれ、島内とうないのムスリムにたいする広範こうはん攻撃こうげき開始かいしされた。これはながきにわたるあらゆる共存きょうぞんへの希望きぼう破壊はかいしたが、両者りょうしゃそれぞれの人口じんこう不均衡ふきんこうであったかもしれない[訳語やくご疑問ぎもんてん]ハインリヒ6せいとそのつまコンスタンツァと、1ねんのペストの流行りゅうこう政治せいじてき混乱こんらんこした。王室おうしつ庇護ひごうしなったのにくわえ、いま幼児ようじでローマ教皇きょうこう庇護ひごのシチリアおうとなったフリードリヒ2せい(フェデリーコ2せい)のもとで、シチリアは対立たいりつするドイツ諸侯しょこう教皇きょうこう軍勢ぐんぜい戦場せんじょうとなった。島内とうないのムスリム反乱はんらんしゃマークワード・フォン・アンヴァイラー英語えいごばんのようなドイツの諸侯しょこうがわにたった。これにたいし、教皇きょうこうインノケンティウス3せいはマークワードがシチリアとうのサラセンじん軽蔑けいべつすべき同盟どうめいむすんだと主張しゅちょうし、かれたいする十字軍じゅうじぐん宣言せんげんした。しかしその一方いっぽうで、1206ねんにはインノケンティウス3せいはムスリムの指導しどうしゃたちにシチリア王室おうしつへの忠誠ちゅうせい維持いじさせることをこころみた[41]。このときまでにムスリムの反乱はんらん本格ほんかくてきなものとなっていた。かれらはイアート(Jato)、エンテッラ(Entella)、プラターニ(Platani)、チェルソ(Celso)、カラトラージ(Calatrasi)、コルリオーネ(Corleone、1208ねん占領せんりょう)、グアスタネッラ(Guastanella)、そしてチーニジ(Cinisi)を支配しはいき、反乱はんらんはシチリア西部せいぶ全域ぜんいき拡大かくだいした。この反乱はんらんはムハンマド・ブン・アッバード(Muhammad Ibn Abbād)にひきいられていた。かれ自身じしん信徒しんとたちのなが英語えいごばん(アミールル・ムーミニーン、amir al-mu'minin)としょうし、コインにこくしていた。そしてイスラーム世界せかいほか地域ちいきのムスリムの支援しえんようとこころみた[42][43]

だが、フリードリヒ2せいはもはや子供こどもではなく、1221ねんにムスリムのはんたちにたいする一連いちれん遠征えんせい開始かいしした。ホーエンシュタウフェンあさ軍隊ぐんたいはイアート、エンテッラ、そしてその要塞ようさい防衛ぼうえいぐん根絶ねだやしにした。1223ねんフリードリヒ2せいキリスト教徒きりすときょうとたちはアプーリアのルチェラへの最初さいしょのムスリム追放ついほう開始かいしした[44]。1ねんマルタしまジェルバしま出兵しゅっぺいおこなわれた。これはおう支配しはいおよぼし、そののムスリムがはんたちを支援しえんするのをふせぐためのものであった[42]逆説ぎゃくせつてきではあるが、サラセンじん射手しゃしゅはこの当時とうじからのキリスト教徒きりすときょうと軍隊ぐんたい一般いっぱんてき構成こうせい要素ようその1つであった[45]

ホーエンシュタウフェンとその後継こうけいしゃたち(アンジュー=シチリアアラゴンバルセロナ)は2世紀せいきあいだ徐々じょじょにシチリアを「ラテン」した。そしてその社会しゃかいてきプロセスは(ビザンツとは対照たいしょうてきに)ラテン・カトリック導入どうにゅうのための下地したじきずいた。ラテンプロセスはおもにローマ教会きょうかいとその典礼てんれいによってすすめられた。シチリアにおけるイスラーム消滅しょうめつは1240年代ねんだいルチェラへの最後さいご追放ついほうおこなわれ、完了かんりょうした[46]。1282ねんシチリアのばんいのりときまでに、シチリアとうにはムスリムはいなくなっており、その社会しゃかい完全かんぜんにラテンされていた。

アミールの一覧いちらん[編集へんしゅう]

  • アル=ハサン・ブン・アリー・アル=カルビー英語えいごばん(948ねん-953ねん
  • アフマド・ブン・アル=ハサン・アル=ムイッズィーヤ(Ahmad ibn al-Hasan al-Muizziyya、953ねん-969ねん
  • ヤイーシュ(Yaish、969ねん
  • アフマド・ブン・アル=ハサン・アル=ムイッズィーヤ(Ahmad ibn al-Hasan al-Muizziyya、969ねん-970ねん
  • アブー・ル=カースィム・アリー・ブン・アル=ハサン・アル=カルビー英語えいごばん(970ねん-982ねん
  • ジャービル・ブン・アリー(Jabir ibn 'Ali、982ねん-983ねん
  • ジャアファル・ブン・ムハンマド(Ja'far ibn Muhammad、983ねん-986ねん
  • アブドゥッラーフ・ブン・ムハンマド(Abd Allah ibn Muhammad、986ねん
  • ユースフ・アル=カルビー(Yusuf al-Kalbi、986ねん-998ねん
  • ジャアファル2せい(998ねん-1019ねん
  • アフマド2せい・アル=アクハル(Ahmad II al-Akhal、1017ねん-1037ねん
  • アブドゥッラーフ・アブー・ハフス、Abd Allah Abu Hafs、1035ねん-1040ねん、ズィールあさ総督そうとく。1037ねんにアフマド2せい撃破げきは殺害さつがいした)
  • ハッサーン・アッ=サムサム(Hasan al-Samsam、1040-1044ねん、1053ねん死亡しぼう

ターイファ時代じだい[編集へんしゅう]

  • カターニア:(1053ねん-?)、イブン・アル=マクラーティ(Ibn al-Maklatí、イブン=スムナにやぶれる)
  • シラクサ、のちにカターニアをふくむ:(1053ねん-1062ねん)、ムハンマド・ブン・イブラーヒーム(Muhammed ibn Ibrahim、イブン・スムナ:Ibn Thumna)
  • アグリジェントおよびカストロジョヴァンニ(1053ねん-1065ねん):アリー・ブン・ニーマ(Alí ibn Nima、イブン=ハッワース:Ibn al-Hawwàs)
  • トラパニおよびマツァーラ(1053ねん-1071ねん):アブドゥッラーフ・ブン・マンクート(Abdallah ibn Mankut)
  • アイユーブ・ブン・タミーム(Ayyub ibn Tamim、ズィールあさ、1065ねん-1068ねんしょターイファを統一とういつ[47]
  • パレルモ(1068ねん-1071ねん):共和きょうわせい
  • アグリジェントおよびカストロジョヴァンニ(1065ねん-1087ねん):ハンムード(Hammud)
  • シラクサおよびカターニア:(1071ねん-1086ねん):イブン・アッバード(Ibn Abbad、ベナヴェルト:Benavert)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじの「ランゴバルドじん」(ロンバルディアじん)という名称めいしょうはいわゆるゲルマンじん部族ぶぞくランゴバルドじん同義語どうぎごではない。高山こうざんによれば、当時とうじみなみイタリアの「アプーリアやカンパーニアの住民じゅうみんだい多数たすうは、どう時代じだい史料しりょうでしばしば『ランゴバルドじん』としるされるラテン語らてんごキリスト教きりすときょう文化ぶんか伝統でんとう人々ひとびとであった」[31]。そして当時とうじシチリアに移住いじゅうしてきたきたイタリア出身しゅっしん人々ひとびとみずからをランゴバルドに由来ゆらいする名称めいしょうの「ロンバルディアじん」とんだが、当時とうじロンバルディアとばれた領域りょういきひろく、現在げんざいロマーニャリグーリアピエモンテふくんでいた[32]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  9. ^ ユレ 2013, pp. 68-70
  10. ^ ユレ 2013, pp. 78-81
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  40. ^ Charles Dalli, From Islam to Christianity: the Case of Sicily, p. 160 (archived link)
  41. ^ Charles Dalli, From Islam to Christianity: the Case of Sicily, p. 160-161 (archived link)
  42. ^ a b Charles Dalli, From Islam to Christianity: the Case of Sicily, p. 161 (archived link)
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  45. ^ Saracen Archers in Southern Italy Archived November 28, 2007, at the Wayback Machine.
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  47. ^ http://www.historyfiles.co.uk/KingListsEurope/ItalySicily.htm

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]