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グリエルモ2せい

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グリエルモ2せい
Guglielmo II
シチリア国王こくおう
イエス・キリストより戴冠たいかんされるグリエルモ2せいモンレアーレだい聖堂せいどうえがかれたモザイク。)
在位ざいい 1166ねん - 1189ねん

出生しゅっしょう 1153ねん?
シチリア王国おうこくパレルモ
死去しきょ 1189ねん11月18にち
シチリア王国おうこくパレルモ
埋葬まいそう シチリア王国おうこくパレルモだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ジョーン・オブ・イングランド
家名かめい オートヴィル
王朝おうちょう オートヴィルあさ
父親ちちおや グリエルモ1せい
母親ははおや マルゲリータ・ディ・ナヴァッラ
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グリエルモ2せい(Guglielmo II il Buono, 1153ねん? - 1189ねん11月18にち)はシチリア王国おうこくノルマンあさだい3だい国王こくおう在位ざいい1166ねん - 1189ねん)。だい2だい国王こくおうグリエルモ1せい息子むすこギヨーム2せいフランスかたり:Guillaume II)、ウィレルムス2せいラテン語らてんごふう)ともばれる。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

1166ねん即位そくいする。治世ちせい初期しょき若年じゃくねんのために母后ぼこうマルゲリータ・ディ・ナヴァッラ摂政せっしょうとなって政治せいじ仕切しきったが、政治せいじはうまく機能きのうせずに内紛ないふんえずこり、その治世ちせい不安定ふあんていなものであったらしい。

だが、この経験けいけんがかえってかれ刺激しげきしたのか、親政しんせい開始かいししたグリエルモ2せい宗教しゅうきょうたいして寛容かんようさくをとり、さらにはひがしマ帝国まていこくにも侵攻しんこうして勢力せいりょく拡大かくだいし、アイユーブあさサラディンエルサレム奪回だっかい侵攻しんこうしてきたときは、自身じしん軍勢ぐんぜい十字軍じゅうじぐんとして派遣はけんしているなど、治世ちせいおおくに成功せいこうおさめている。また、グリエルモ2せいすうこくつうじた教養きょうようゆたかな名君めいくんで、ノルマンひがしマ帝国まていこく文化ぶんか融合ゆうごうしたモンレアーレだい聖堂せいどう建設けんせつするなど、文化ぶんかめんにおいてもおおきな成功せいこうおさめた。

しかしグリエルモ2せいイングランドおうリチャード1せいいもうとジョーンつまとしてむかえたにもかかわらず、男児だんじができずして1189ねん病死びょうしした。王位おうい継承けいしょうしゃ叔母おばコスタンツァになっていたが、おっとハインリヒ6せい支配しはいきらったシチリア国民こくみん従兄じゅうけいタンクレーディ擁立ようりつした。