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カルロ1せい (シチリアおう)

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カルロ1せい
Carlo I
ナポリ国王こくおう
シチリア国王こくおう
在位ざいい 1266ねん1がつ6にち - 1285ねん1がつ7にち
べつごう アカイアこうアンジューはくプロヴァンスはくメーヌはく

出生しゅっしょう 1227ねん3月21にち
フランス王国おうこく
死去しきょ 1285ねん1がつ7にち
ナポリ王国の旗 ナポリ王国おうこくフォッジャ
埋葬まいそう フランス王国おうこくサン=ドニだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ ベアトリス・ド・プロヴァンス
  マルグリット・ド・ブルゴーニュ
子女しじょ カルロ2せい ほか
家名かめい アンジュー=シチリア
王朝おうちょう ナポリ・アンジューあさ
父親ちちおや ルイ8せい (フランスおう)
母親ははおや ブランシュ・ド・カスティーユ
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カルロ1せいイタリア: Carlo I d'Angiò, 1227ねん3月21にち - 1285ねん1がつ7にち)は、シチリアおう在位ざいい1266ねん - 1282ねん)、のちナポリおう在位ざいい1282ねん - 1285ねん)。カペーけいアンジューアンジュー=シチリア)ので、フランスおうルイ8せい王妃おうひブランシュ・ド・カスティーユ[1]ルイ9せい末弟ばってい。シチリア王位おういくまでの活躍かつやくにより、フランス語ふらんすごめいもとアンジューはくシャルルシャルル・ダンジューCharles d'Anjou)と表記ひょうきされることがおおい。ほんこうでも以降いこうシャルルと表記ひょうきする。

フランス南部なんぶイタリア北部ほくぶ積極せっきょくてき勢力せいりょく拡大かくだいおこない、ローマ教皇きょうこう支持しじホーエンシュタウフェン滅亡めつぼうさせシチリア王国おうこく征服せいふくし、さらにはひがしマ帝国まていこく征服せいふく地中海ちちゅうかい帝国ていこく建設けんせつ夢見ゆめみたが、シチリアのばんいのり事件じけん契機けいき失敗しっぱいわった。

生涯しょうがい

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プロヴァンスはく継承けいしょう

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1246ねんにシャルルはプロヴァンスはくレーモン・ベランジェ4せいすえむすめベアトリス結婚けっこんし、プロヴァンスはくりょう継承けいしょうした。さらに、1247ねんにフランス王家おうけからアンジューメーヌはくりょう親王しんのうさいとしてった。しかし、プロヴァンスはくつまのベアトリスやむすめたちは、すえむすめのプロヴァンス継承けいしょう不満ふまんとなえた。さらに、プロヴァンスは法的ほうてきにはかみきよしマ帝国まていこくアルル・ブルグント王国おうこくりょうであり、支配しはい諸侯しょこうマルセイユアルルアヴィニョンひとし都市とし大幅おおはば自治じち享受きょうじゅしていたため、まもなくシャルルのフランスふう集権しゅうけんてき支配しはいたいして不満ふまんち、反乱はんらんこすようになった。シャルルが完全かんぜんにプロヴァンスの反乱はんらん鎮圧ちんあつするには1262ねんまでかかった。

十字軍じゅうじぐん

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1248ねんあにのフランスおうルイ9せいだい7かい十字軍じゅうじぐんこしてエジプトはいった。末弟ばっていとしてシャルルもこれに参加さんか勇戦ゆうせんしたが、とも捕虜ほりょになった。解放かいほうされたのちはフランスにもどり、あにのトゥールーズはくアルフォンスやははブランシュととも摂政せっしょうつとめた。

また、1270ねんだい8かい十字軍じゅうじぐんにも参加さんかし、自己じこ勢力せいりょく拡大かくだいねらってチュニジア攻撃こうげきするよう仕向しむけたが、ルイ9せい遠征えんせいさき病没びょうぼつする結果けっかとなった。

シチリア

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1252ねんローマ教皇きょうこうインノケンティウス4せいから、神聖しんせいローマ皇帝こうていコンラート4せいわってシチリアおうとなることを提示ていじされるが、ヨーロッパの平和へいわ安定あんていねがうルイ9せいはこれをゆるさず、はなしえになった。

しかし、1258ねんフリードリヒ2せい庶子しょしでコンラート4せい異母弟いぼていマンフレーディがシチリアおうになりローマをおびやかすようになると、ローマ教皇きょうこうはさらに熱心ねっしんにシチリア王位おういちかけてきた(じつイングランドおうヘンリー3せい次男じなんエドマンドはなしがついていたが、これに不安ふあんかんじたイングランド諸侯しょこう反乱はんらんこしたためえになった)。今度こんどはルイ9せいも、庶子しょしでありながら王位おうい簒奪さんだつしたマンフレーディに不満ふまんいていたため、これを承認しょうにんした。

1266ねん、ローマ教皇きょうこうクレメンス4せいからシチリアおうカルロ1せいとして戴冠たいかんされ、教皇きょうこう承認しょうにん十字軍じゅうじぐんしょうし、アンジュー、プロヴァンスのへいくわえてフランスちゅうからへいあつめ、イタリアに進撃しんげきした。

同年どうねんベネヴェントのたたかでマンフレーディをにさせ、シチリアを占領せんりょうした。さらに、1268ねんにシチリア王位おういもとめてきたイタリアに侵攻しんこうしてきたコンラート4せいコッラディーノタリアコッツォのたたか英語えいごばんらえ処刑しょけいすることにより、ホーエンシュタウフェン完全かんぜん滅亡めつぼうさせ、みなみイタリアの支配しはい成功せいこうした。

地中海ちちゅうかい帝国ていこく

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しかしシャルルの野望やぼうはとどまるところをらず、今度こんどはシチリアおう伝統でんとう政策せいさくであるひがしマ帝国まていこく征服せいふく野望やぼういだくようになる。そのために、かれ綿密めんみつ政治せいじ工作こうさく次々つぎつぎした。

1267ねんには男子だんし後継こうけいしゃ見込みこみがないアカイア公国こうこくギヨーム2せい・ド・ヴィルアルドゥアンヴィテルボ協定きょうていむすび、ギヨームをしたがえしんとしたうえ自分じぶん次男じなんフィリップとギヨームのむすめイザベルを結婚けっこんさせて両者りょうしゃ後継こうけいしゃとし、かれらに男子だんしまれない場合ばあいにはシャルルみずからがアカイアこうとなるべきことも決定けっていした。そのひがしローマ皇帝こうていミカエル8せいパレオロゴスによってくにわれたラテン帝国ていこく皇帝こうていボードゥアン2せいド・クルトネー保護ほごし、さらにかれ息子むすこフィリップと自分じぶんむすめベアトリス(1275ねんぼつ)を結婚けっこんさせてその保護ほごしゃおさまり、1273ねんにはラテン皇帝こうてい地位ちい相続そうぞくした。1277ねんには、さらにエルサレム王国おうこく継承けいしょうけんれ、エルサレムおうしょうした。

1277ねん次男じなんフィリップ、1278ねんにアカイアこうギヨームがとも男子だんし後継こうけいしゃなく死去しきょし、シャルルはアカイアこうねることとなった。こうした背景はいけいうえに、さらにいくつかの領土りょうどをアドリア海岸かいがん獲得かくとくしてひがしマ帝国まていこく侵攻しんこうしようとしたが、ミカエル8せい東西とうざい教会きょうかい統一とういつ政策せいさくなどで侵攻しんこう一時いちじ中断ちゅうだんせざるをなくなった。

シチリアのばんいのり

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しかしシャルル1せいあきらめず、1282ねん再度さいど侵攻しんこう目論もくろんだが、これに脅威きょういかんじていたミカエル8せいは、アラゴンジェノヴァむすび、遠征えんせいのために重税じゅうぜいせられていたシチリア住民じゅうみんはんフランス感情かんじょうあお工作こうさくおこなった。

同年どうねんはる発生はっせいしたシチリアのばんいのり事件じけん自体じたい偶発ぐうはつてきだった。当初とうしょ、シャルルはこの反乱はんらんかるていたため対応たいおうおくれ、シチリア全土ぜんどうしなった。シチリアの住民じゅうみんはローマ教皇きょうこう保護ほごねがたが、シャルルを支持しじする教皇きょうこうは、かえって住民じゅうみん破門はもんした。このためシチリア住民じゅうみんは、マンフレーディのむすめ婿むこであるアラゴンおうペドロ3せい援助えんじょもとめた。これをけたペドロ3せいはシチリアに上陸じょうりくし、シチリアおう宣言せんげんした。

ナポリ王国おうこく

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以降いこう、ナポリを拠点きょてんとするシャルルとペドロ3せいあいだ戦争せんそうつづいた(シチリアばんいのり戦争せんそう)。シャルルは、ローマ教皇きょうこうマルティヌス4せいにペドロ3せい破門はもんし、おいのフランスおうフィリップ3せいにアラゴン王位おういあたえるよう工作こうさくし、シャルルのけたフィリップ3せいがアラゴンをめたが、成果せいかがらず、ぎゃく敗北はいぼくした。1284ねんのナポリとアラゴンの海戦かいせんもシャルルがわく、長男ちょうなんシャルル2せい捕虜ほりょになり、1285ねん失意しついのうちに病死びょうしした。同年どうねん、フィリップ3せい、ペドロ3せい、マルティヌス4せいぼっしている。

シャルルの死後しご1288ねん捕虜ほりょから解放かいほうされたシャルル2せい後継こうけいしゃとなり、以後いごもシチリアおうしょうしたがシチリアを支配しはいをすることはなく、通常つうじょうはナポリおうしょうされる。のちにシャルルの曾孫そうそんカルロ・ロベルトハンガリーおうとなった。この王朝おうちょうハンガリー・アンジューあさばれる。

シャルルのゆめ

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シャルルのゆめは、シャルルマーニュ後継こうけいしゃ自負じふするフランス王国おうこくロベルト・イル・グイスカルド以来いらいひがしマ帝国まていこくねらうシチリア王国おうこく聖地せいち回復かいふくのぞむローマ教皇きょうこうゆめもとづいたもので、おいのフィリップ3せい神聖しんせいローマ皇帝こうていにつけ、コンスタンティノープル征服せいふくして地中海ちちゅうかい帝国ていこくきずき、エルサレム奪回だっかいするというものだった。

家族かぞく

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最初さいしょつまベアトリス・ド・プロヴァンス(1234ねん - 1267ねん)とのあいだに4なん3じょをもうけた。

ベアトリスと死別しべつ、1268ねんブルゴーニュこうユーグ4せい孫娘まごむすめマルグリット・ド・ブルゴーニュ再婚さいこんした。2人ふたりは1じょマルグリット(マルゲリータ)をもうけたが夭逝ようせいした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ かめちょう洋子ようこ『イタリアの中世ちゅうせい都市とし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2011ねん、73ぺーじISBN 978-4-634-34944-5 

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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先代せんだい
ギヨーム2せい・ド・ヴィルアルドゥアン
アカイアこう
1278ねん - 1285ねん
次代じだい
カルロ2せい
先代せんだい
アンジューはく
1247ねん - 1285ねん
次代じだい
シャルル(カルロ)2せい
先代せんだい
レーモン・ベランジェ4せい
プロヴァンスはく
1246ねん - 1285ねん
1267ねんまでベアトリス共同きょうどう統治とうち
次代じだい
シャルル2せい