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コスタンツァ・ダルタヴィッラ (伊 い : Costanza d'Altavilla , 1154年 ねん 11月2日 にち - 1198年 ねん 11月27日 にち )は、シチリア王国 おうこく の女王 じょおう (在位 ざいい :1194年 ねん - 1198年 ねん )。オートヴィル朝 あさ の最後 さいご の君主 くんしゅ 。ルッジェーロ2世 せい と3人 にん 目 め の王妃 おうひ ベアトリーチェとの間 あいだ に生 う まれた。コスタンツァ・ディ・シチリア (伊 い : Costanza di Sicilia )とも呼 よ ばれる。ドイツ語 ご 名 めい ではコンスタンツェ・フォン・ジツィーリエン (Konstanze von Sizilien)。
父 ちち ルッジェーロ2世 せい はコスタンツァが生 う まれる前 まえ に死去 しきょ している(1154年 ねん 2月 がつ 26日 にち )。甥 おい のグリエルモ2世 せい に嗣子 しし が無 な かったため、1185年 ねん 彼女 かのじょ が貴族 きぞく らによって王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ と定 さだ められていた[1] 。しかし1186年 ねん 1月 がつ 27日 にち 、当時 とうじ の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい フリードリヒ1世 せい の嫡男 ちゃくなん ハインリヒ6世 せい とミラノ で結婚 けっこん した。21歳 さい のハインリヒ6世 せい は31歳 さい の彼女 かのじょ より10歳 さい 年下 としした であった。その結婚 けっこん が晩婚 ばんこん であったので、13世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう 、彼女 かのじょ は修道 しゅうどう 女 おんな の生活 せいかつ を送 おく っていたとする考 かんが えが生 う まれ、ダンテ も『神 かみ 曲 きょく 天国 てんごく 篇 へん 』第 だい 3歌 うた 109行 ぎょう 以下 いか で「当時 とうじ の口碑 こうひ に従 したが ってコンスタンツァを修道 しゅうどう 女 おんな としたらしい」[2] 。
1189年 ねん 11月1日 にち 、グリエルモ2世 せい が嗣子 しし 無 な くして病死 びょうし したため、王位 おうい はコスタンツァか、彼女 かのじょ の夫 おっと であるハインリヒ6世 せい が継承 けいしょう するはずであったが、シチリア人 じん は外国 がいこく に嫁 とつ いだ王女 おうじょ や皇帝 こうてい に支配 しはい されることを嫌 きら って、1190年 ねん 1月 がつ グリエルモ2世 せい の従兄 じゅうけい にあたるタンクレーディ を王位 おうい に即 つ け、新 しん 王 おう は教皇 きょうこう により封 ふう 授された。それに対 たい してハインリヒ6世 せい と妃 ひ のコスタンツァは、1190年 ねん 、教皇 きょうこう の手 て から戴冠 たいかん を受 う け、シチリア王位 おうい を奪 うば おうとシチリアを目指 めざ して軍 ぐん を進 すす めたが、タンクレーディの抵抗 ていこう にあってナポリ で大敗 たいはい を喫 きっ し、軍 ぐん に同行 どうこう していたコスタンツァも捕虜 ほりょ になった。しかし、すぐに解放 かいほう されている。
1194年 ねん 2月 がつ 20日 はつか タンクレーディが死去 しきょ した後 のち にグリエルモ3世 せい が王位 おうい を継 つ ぐが、ハインリヒ6世 せい はシチリアに再度 さいど 遠征 えんせい し、王位 おうい を奪 うば った。そしてハインリヒ6世 せい とコスタンツァは、戴冠 たいかん 式 しき を行 おこ なって正式 せいしき にシチリア王 おう および女王 じょおう となった。同年 どうねん コスタンツァは、当時 とうじ としては高齢 こうれい である40歳 さい で息子 むすこ フリードリヒ(後 ご の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい フリードリヒ2世 せい )を出産 しゅっさん した。高齢 こうれい 出産 しゅっさん だったため、彼女 かのじょ は自分 じぶん が出産 しゅっさん したことを証拠立 しょうこだ てるために、町 まち の広場 ひろば にしつらえた天幕 てんまく の中 なか 、貴婦人 きふじん たちが見守 みまも る中 なか で息子 むすこ を出産 しゅっさん したと言 い われている[3] 。初産 しょさん が遅 おそ かったために、彼女 かのじょ の死後 しご すぐに反 はん シュタウフェン派 は の史書 ししょ には様々 さまざま な噂 うわさ 話 ばなし が記 しる されることになる[1] 。1195年 ねん 復活 ふっかつ 祭 さい の、夫 おっと 不 ふ 在中 ざいちゅう には、彼女 かのじょ がシチリアの政務 せいむ を司 つかさど り、独断 どくだん で問題 もんだい を処理 しょり し、自 みずか ら文書 ぶんしょ を交付 こうふ した[4] 。確実 かくじつ な証拠 しょうこ はないが、皇帝 こうてい たる夫 おっと に対 たい する謀反 むほん の企 くわだ てに加 くわ わったと信 しん じられている[1] 。
1197年 ねん 、9月 がつ 20日 はつか 夫 おっと ハインリヒ6世 せい が急死 きゅうし した後 のち 、コスタンツァは、フリードリヒの摂政 せっしょう として実質 じっしつ 的 てき な政務 せいむ を執 と った[4] 。
ドイツ人 じん を嫌 きら っていたコスタンツァは、ハインリヒ6世 せい によってシチリアに封土 ほうど を与 あた えられていたドイツ貴族 きぞく を追放 ついほう しようとして、ドイツの最高 さいこう 指揮 しき 官 かん マルクヴァルト・フォン・アンヴァイラー(Markward von Anweiler)らをシチリアから追放 ついほう した。しかし結果 けっか として、この行動 こうどう はドイツ貴族 きぞく を息子 むすこ であるフリードリヒの敵 てき に回 まわ し、彼 かれ らの抵抗 ていこう によりその後 ご 10年 ねん もの間 あいだ 、シチリアが内乱 ないらん 状態 じょうたい に陥 おちい るだけに終 お わった。
1198年 ねん にフリードリヒはシチリア王位 おうい を継承 けいしょう 、同年 どうねん に彼女 かのじょ は夫 おっと を追 お うように死去 しきょ した。死後 しご 、遺言 ゆいごん によりローマ教皇 きょうこう インノケンティウス3世 せい がフリードリヒの後見人 こうけんにん になった[7] 。
^ a b c Lexikon des Mittelalters . Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X ), Sp. 1406.
^ 寿 ことぶき 岳 たけし 文章 ぶんしょう 訳 やく 『神 かみ 曲 きょく 天国 てんごく 篇 へん 』集英社 しゅうえいしゃ 1976年 ねん 、25-26頁 ぺーじ 。
^ 出口 いでぐち 治明 じめい 『人類 じんるい 5000年 ねん 史 し III――1001年 ねん ~1500年 ねん 』ちくま新書 しんしょ 2020 (ISBN 978-4-480-07266-5 )、 117-118頁 ぺーじ 。
^ a b フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士 きし の時代 じだい ドイツ中世 ちゅうせい の王家 おうけ の興亡 こうぼう 』(柳井 やない 尚子 しょうこ 訳 やく )法政大学 ほうせいだいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 1992 (叢書 そうしょ ・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0 )、261頁 ぺーじ 。
^ フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士 きし の時代 じだい ドイツ中世 ちゅうせい の王家 おうけ の興亡 こうぼう 』(柳井 やない 尚子 しょうこ 訳 やく )法政大学 ほうせいだいがく 出版 しゅっぱん 局 きょく 1992 (叢書 そうしょ ・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0 )、266頁 ぺーじ 。
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