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ダンテ・アリギエーリ

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ダンテから転送てんそう
ダンテ・アリギエーリ
Dante Alighieri
誕生たんじょう Durante Alighieri
1265ねん
フィレンツェ共和きょうわこく フィレンツェ
死没しぼつ 1321ねん9月14にち(56さいぼつ
教皇きょうこうりょう ラヴェンナ
墓地ぼち ラヴェンナ・ダンテのはかイタリアばん
職業しょくぎょう 詩人しじん政治せいじ哲学てつがくしゃ
言語げんご イタリア
ラテン語らてんご
国籍こくせき フィレンツェ共和きょうわこく
ジャンル 叙事詩じょじし清新せいしんたい
代表だいひょうさくかみきょく
新生しんせい
配偶はいぐうしゃ ジェンマ・ドナーティイタリアばん
子供こども 3にん?
親族しんぞく カッチャグイーダ英語えいごばん(ダンテの祖父そふ
ウィキポータル 文学ぶんがく
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ダンテ・アリギエーリイタリア:Dante Alighieri1265ねん - 1321ねん9月14にち)は、イタリア都市とし国家こっかフィレンツェ出身しゅっしん詩人しじん哲学てつがくしゃ政治せいじ政界せいかい追放ついほうされ放浪ほうろう生活せいかつおく文筆ぶんぴつ活動かつどうつづけた。

ダンテの代表だいひょうさく古代こだいローマ詩人しじんウェルギリウスとも地獄じごくInferno)、煉獄れんごくPurgatorio)、天国てんごくParadiso)をたびするテルツァ・リーマ構成こうせいされる叙事詩じょじしかみきょくLa Divina Commedia)』であり、詩文しぶんしゅう新生しんせいLa Vita Nuova)』がある。イタリア文学ぶんがく最大さいだい詩人しじん[1][2]おおきな影響えいきょうあたえたとされるルネサンス文化ぶんか先駆せんくしゃ位置付いちづけられている[1]

生涯しょうがい

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ダンテ・アリギエーリ

誕生たんじょう

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ヴェローナのシニョーリ広場ひろばにある、ダンテぞう

1265ねんに、イタリアの中部ちゅうぶ地域ちいきにあるトスカーナ地方ちほうフィレンツェまち金融きんゆうぎょういとな教皇きょうこうゲルフ)のしょう貴族きぞくちちアリギエーロ・ディ・ベッリンチョーネ(Alaghiero(Alighieroとも) di Bellincione)とそのつまベッラ(Bella)の息子むすことしてまれた。ダンテの先祖せんぞには神聖しんせいローマ皇帝こうていであったコンラート3せいつかえ、だい2かい十字軍じゅうじぐん参加さんかして1148ねんイスラム教徒きょうとたたかい、戦死せんしした祖父そふカッチャグイーダ英語えいごばん1091ねん - 1148ねんごろ)がいることは『かみきょく天国てんごくへんだい15うただい133ぎょうからだい135ぎょうあきらかになる[3]

マリア――唱名しょうみょうこえこうきをひらきて――きゅうへり、なんじとうむかしの授洗しょにて基督教きりすときょうとなり、カッチアグイーダとなりたりき

—『しんきょく天国てんごくへんだい15うた だい133ぎょうからだい135ぎょう山川やまかわへい三郎さぶろうやくかみきょく 天堂てんどう』より)

ダンテは生後せいごせいジョヴァンニ洗礼せんれいどう洗礼せんれいけ「永続えいぞくするもの」の意味いみドゥランテ・アリギエーリDurante Alighieri)と名付なづけられた。なお「ダンテ(Dante)」は、ドゥランテの慣習かんしゅうてき短縮形たんしゅくけいである。

ダンテの正確せいかく誕生たんじょうあきらかではないが、『かみきょく天国てんごくへんだい22うただい109ぎょうからだい117ぎょうなかにその手掛てがかりがられる。

わがかのかねうしつづ天宮てんぐうてそのうちはいりしごとくはやくはなんじあにゆびれてかんや
あゝ榮光えいこうほしよ、おおいなるちから滿まんつるこうよ、なんじとうよりわがすべてのざい(そはいかなるものなりとも)のだしづるをみとめ
わがはじめてトスカーナの空氣くうきを吸ひしとき一切いっさいめつぶる生命せいめいちちなるものなんじとうともだしなんじとうとともにかくれにき

—『しんきょく天国てんごくへんだい22うた だい109ぎょうからだい117ぎょう山川やまかわへい三郎さぶろうやくかみきょく 天堂てんどう』より)

この記述きじゅつによると、ダンテがトスカーナにせいとおるけたのは、すべての生命せいめいちちたる太陽たいよう黄道こうどう十二宮じゅうにきゅうきむぎゅうみやつづそうみやのもとにかかっていたあいだということがかる。すなわち、そうみやのダンテの誕生たんじょうは、1265ねん5月なかばから6がつなかばにかけてのあいだかんがえられている。

少年しょうねん時代じだい

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少年しょうねん時代じだいのダンテについてのかくたる記録きろくとぼしく、どのような成長せいちょう過程かていおくってきたかはさだかではない。修道院しゅうどういん見習みなら修道しゅうどうとして修行しゅぎょうしてきたとも、没落ぼつらく貴族きぞく子弟していとして世俗せぞくなかそだってきたともわれており、諸説しょせつ一致いっちない。おおくのダンテの伝記でんきは、ダンテ自身じしん作品さくひんである『新生しんせい』や『かみきょく』の記述きじゅつたよっており、生年月日せいねんがっぴすら詩文しぶんからの推定すいていによるないのである。だが、すくなくとも成長せいちょう過程かていラテン語らてんご古典こてん文法ぶんぽう修辞しゅうじがく哲学てつがくなどをまなんできたとおもわれる。

ダンテがもっと敬愛けいあいするとして『かみきょく』に登場とうじょうさせているのは、『宝典ほうてん』をあらわしたイタリアの哲学てつがくしゃ有力ゆうりょく政治せいじブルネット・ラティーニ英語えいごばんである[4]。ダンテはおそらく18さいころにラティーニから修辞しゅうじがく論理ろんりがくなどをまなんだとされており[1]、『かみきょく地獄じごくへんだい15うたで、男色なんしょくとがめゆえに炎熱えんねつ地獄じごくはいしながらも「人間にんげんきるみち」をおしえてくれた旧師きゅうしたいする敬慕けいぼわすれていない。

また、ダンテは古代こだいローマの詩人しじんウェルギリウスマルクス・アンナエウス・ルカヌスホラティウスオウィディウスから文体ぶんたい探求たんきゅう過程かていによりラテン文学ぶんがく教養きょうようけ、マルクス・トゥッリウス・キケロルキウス・アンナエウス・セネカからは倫理りんりがくまなんだ。そしてダンテはフィレンツェの詩人しじんでダンテの友人ゆうじんであったグイド・カヴァルカンティからおおきな感化かんかけ、「清新せいしんたい」とばれるふうつくげた。

ダンテは修道院しゅうどういん経営けいえいするラテン語らてんご学校がっこうやラティーニからまなんだのちボローニャ大学だいがく入学にゅうがくし、哲学てつがく法律ほうりつがく修辞しゅうじがく天文学てんもんがくなどを研究けんきゅうした[5]。カヴァルカンティともボローニャ大学だいがくい、カヴァルカンティにより詩作しさくする意欲いよくをもらったとされる。

ベアトリーチェ (Beatrice Portinari)

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ベアトリーチェ

ダンテを代表だいひょうする最初さいしょ詩文しぶん作品さくひん、『新生しんせい』によれば、1274ねん5月1にちもよおされたはるまつりカレンディマッジョ(Calendimaggio)のなかで、ダンテはおなどし少女しょうじょベアトリーチェ・ポルティナーリイタリアばん出会であい、たましいうばわれるかのような感動かんどうおぼえたとう。このとき、ダンテは9さいであった。

それから9ねんときて、ともに18さいになったダンテとベアトリーチェは、サンタ・トリニタきょうのたもとで再会さいかいした。そのときベアトリーチェは会釈えしゃくしてすれちがったのみで、一言ひとこと会話かいわかわさなかったが、以来いらいダンテはベアトリーチェに熱病ねつびょうおかされたように恋焦こいこがれた。しかしこの恋心こいごころ他人たにんさとられないように、べつ二人ふたり女性じょせいてて「とりとめのないすうへん」をつくる。その結果けっか、ダンテの周囲しゅういには色々いろいろ風説ふうせつながれ、感情かんじょうがいしたベアトリーチェは挨拶あいさつすらこばむようになった。こうしてダンテは、ふか失望しつぼうのうちにときごした。1285ねんころに、ダンテは許婚きょこんジェンマ・ドナーティイタリアばん結婚けっこんした[6]

二人ふたりあいだにさしたる交流こうりゅうもないまま、ベアトリーチェもある銀行ぎんこうとつぎ、すうにん子供こどもをもうけて1290ねんに24さい病死びょうしした。彼女かのじょったダンテは狂乱きょうらん状態じょうたいおちいり、キケロやボエティウスなどの古典こてんふけってしん痛手いたでいやそうとした。そして生涯しょうがいをかけてベアトリーチェをなか永遠えいえん存在そんざいとして賛美さんびしていくことをちかい、生前せいぜん彼女かのじょのことをうたったをまとめて『新生しんせい』をあらわした。その生涯しょうがいをかけて『かみきょくさんへん執筆しっぴつし、このなかでベアトリーチェを天国てんごくましまして主人公しゅじんこうダンテをたすける永遠えいえん淑女しゅくじょとしてえがいた。

フィレンツェ追放ついほう

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13世紀せいき当時とうじ北部ほくぶイタリアは、ローマ教皇きょうこうちょう勢力せいりょくかみきよしマ帝国まていこく勢力せいりょく対立たいりつし、かく自治じち都市としグェルフィとう教皇きょうこう)とギベリーニとう皇帝こうてい)にかれて、反目はんもくしあっていた。フィレンツェはグェルフィとうぞくしており、ダンテもグェルフィ党員とういんとしてフィレンツェの市政しせい参画さんかくしていくようになった。1289ねんには、カンパルディーノの合戦かっせんにてりょうとう軍勢ぐんぜい覇権はけんあらそい、みどろのたたかいをひろげた。このときダンテもグェルフィとう騎兵隊きへいたい一員いちいんとして参加さんかしている。その体験たいけんは『かみきょく地獄じごくへんだい22うたなかかされており、すさまじい戦闘せんとう光景こうけい地獄じごくおにかさねられている。

グェルフィとうはこの合戦かっせんからくも勝利しょうりをおさめたが、内部ないぶ対立たいりつからぷたつにれてしまった。教皇きょうこうなかでも、フィレンツェの自立じりつ政策せいさくかかげる富裕ふゆう市民しみんそうからる「しろとう」と、教皇きょうこうつよむすびつこうとする封建ほうけん貴族きぞく支持しじの「くろとう」に分裂ぶんれつりょう党派とうは対立たいりつしたのである。しょう貴族きぞく家柄いえがらであるダンテはしろとう所属しょぞくし、のちにひゃくにん委員いいんかいなどの要職ようしょくくようになった。当初とうしょ市政しせい政権せいけんにぎったのはしろとうで、1300ねんにはしろとう最高さいこう行政ぎょうせい機関きかんプリオラートを構成こうせいするさんにんみつるりょう(プリオーレ)が選出せんしゅつされ、ダンテもこの一人ひとり任命にんめいされた。

しかし、同時どうじくろとうしろとう対立たいりつ激化げきかして、その翌年よくねん1301ねんにはくろとう政変せいへんこして実権じっけんにぎり、フィレンツェはくろとう勢力せいりょくとなった。当時とうじダンテは教皇きょうこうちょう特使とくしとして派遣はけんされ、フィレンツェ市外しがいにいたが、くろとう天下てんかとなったフィレンツェではしろとう勢力せいりょくたいする弾圧だんあつはじまり、幹部かんぶ追放ついほうされた。ダンテも欠席けっせき裁判さいばん教皇きょうこうへの叛逆はんぎゃく公金こうきん横領おうりょうつみわれ、市外しがい追放ついほう罰金ばっきんけい宣告せんこくされた。ダンテはこの判決はんけつ不服ふふくとして出頭しゅっとう命令めいれいおうじず、罰金ばっきん支払しはらわなかったため、くろとうから永久えいきゅう追放ついほう宣告せんこくけ、ふたたびフィレンツェにあしれれば焚刑ふんけいしょされることになった。こうしてダンテの長年ながねんにわたる流浪るろう生活せいかつはじまった。以来いらい、ダンテは二度にど故郷こきょうフィレンツェにあしれることはなかった。

政争せいそうやぶれてフィレンツェを追放ついほうされたダンテは、きたイタリアのかく都市とし流浪るろうし、政局せいきょく転変てんぺんかくしていた。そのなか方針ほうしんちがいからしろとう同志どうしともたもとかち、「一人ひとりいちとう」をかかげる。この体験たいけんはダンテにとって非常ひじょうつらいものであり、『かみきょくちゅうにも、「他人たにんのパンのいかににがいかをるだろう」、と予言よげんかたちをとってしるされている。ダンテの執筆しっぴつ活動かつどうはこのときから本格ほんかくてきはじまり、『かみきょく』や『饗宴きょうえん』、『俗語ぞくごろん』、『帝政ていせいろん』などをあらわしていった。

かみきょく

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ダンテのはか(it:Tomba di Dante)

ダンテが『かみきょくさんへん執筆しっぴつはじめたのは1307ねんころで、かく都市としあいだ孤独こどく流浪るろうしていた時期じきである。『かみきょく』においては、ベアトリーチェにたいする神格しんかくとすらえるほどの崇敬すうけい賛美さんびと、自分じぶん追放ついほうしたくろとうおよび腐敗ふはいしたフィレンツェへの痛罵つうば、そして理想りそう帝政ていせい理念りねん、「三位一体さんみいったい」の神学しんがくまでもがめられており、ダンテ自身じしん波乱はらんちた人生じんせい過程かてい精神せいしんてき成長せいちょうをあらわしているともえる。とくにダンテが幼少ようしょう出会であい、その24さいにして夭逝ようせいしたベアトリーチェを、『新生しんせい』につづいて『かみきょく』のなかさらなる賛美さんびをこめて永遠えいえん淑女しゅくじょとしてとどめたことから、ベアトリーチェの存在そんざい文学ぶんがく史上しじょう永遠えいえんのこることになった。

かみきょく』は地獄じごくへん煉獄れんごくへん順次じゅんじ完成かんせいし、天国てんごくへんはじめたのは書簡しょかんから1316ねんころ推定すいていされる。『かみきょく』が完成かんせいしたのは直前ちょくぜん1321ねんである。ダンテは1318ねんころからラヴェンナ領主りょうしゅのもとにせ、ようやく安住あんじゅうた。ダンテはラヴェンナに子供こどもせてらすようになり、そこで生涯しょうがいをかけた『かみきょく』の執筆しっぴつにとりかかる。そして1321ねんに『かみきょく』のぜんへん完成かんせいさせたが、その直後ちょくご外交がいこう使節しせつとして派遣はけんされたヴェネツィアへの長旅ながたび途上とじょう罹患りかんしたマラリアがもとで、1321ねん9がつ13にちから14にちにかけての夜中よなかくなった。客死かくししたダンテのはかいまもラヴェンナにあり[7]、サン・フランチェスコ聖堂せいどうちかくにちいさな霊廟れいびょうつくられている。フィレンツェはすう世紀せいきわたり、ラヴェンナにダンテの遺骨いこつ返還へんかん要求ようきゅうしているが、ラヴェンナはこれにおうじていない。

死後しご

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ダンテの名声めいせいは、生前せいぜん亡命ぼうめいであるラヴェンナのみにとどまるものであった[8]が、徐々じょじょにイタリア各地かくちへとひろがり、1340ねんには『かみきょく』の最初さいしょ注釈ちゅうしゃくしょあらわされ[8]、1350ねんごろにはかつてダンテを追放ついほうしたフィレンツェにおいてもれられるようになっていった[9]ジョヴァンニ・ボッカッチョはダンテの最初さいしょ賛美さんびしゃ一人ひとりとしてられており、1373ねんにはフィレンツェまねきにおうじて世界せかいはつのダンテにかんする講演こうえんかいおこなうなど、ダンテのさい評価ひょうか普及ふきゅうおおきな役割やくわりたした[10]

しかしルネサンスわって以降いこう、イタリアにおいてダンテはひさしくわすられていたことはあまりられていない。イタリアのロマン主義しゅぎ詩人しじんアルフィエーリによれば、イタリアで『かみきょく』をんだことのあるひとは30めいもいないとしている。スタンダールによると1800ねんごろ、ダンテは軽蔑けいべつされていたとまでしるしているくらいである。[11]

ゲーテもダンテ作品さくひんしたしんではいたものの、『イタリア紀行きこう』においてダンテに言及げんきゅうすることはほぼない。かれはダンテを偉大いだいみとめつつも「ダンテの不快ふかいな、しばしば嫌悪けんおすべき偉大いだいさ」[12]否定ひていてき評価ひょうかをしばしばくだしている。フランスの古典こてん主義しゅぎ作家さっか批評ひひょうはダンテをほぼ黙殺もくさつしており、批評ひひょうサント-ブーヴ画家がかドラクロワらのロマン主義しゅぎ時代じだいにようやく復権ふっけんした。

イタリアでは統一とういつ運動うんどうとナショナリズムの高揚こうようによって、ようやくダンテは注目ちゅうもくされるようになり、1865ねんおこなわれたくに主催しゅさいのダンテ記念きねんさいによって、現在げんざいのようなイタリア国民こくみん最大さいだい精神せいしんてき代表だいひょうしゃとしての地位ちいることになった。

著作ちょさく

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かみきょく初版しょはん(1472ねん4がつ11にち発行はっこう
ソネット25へんカンツォーネ5へんバッラータ1へん合計ごうけい31へんかぞかたには異同いどうあり)から詩文しぶんしゅう。ベアトリーチェの夭逝ようせいという悲報ひほういて惑乱わくらんしたダンテが、生前せいぜんのベアトリーチェを賛美さんびしたなどをまとめたもの。
代表だいひょうさく叙事詩じょじし地獄じごくへん煉獄れんごくへん天国てんごくへんさん構成こうせいからる。作者さくしゃのダンテ自身じしんは、生身なまみのまま彼岸ひがん世界せかい遍歴へんれきし、地獄じごく煉獄れんごく天国てんごく三界さんがいめぐるという内容ないようである。
  • 饗宴きょうえんIl Convivio 1304ねん - 1307ねん
序章じょしょうと14へんのカンツォーネおよび注釈ちゅうしゃくからぜん15かん大作たいさくとして構想こうそうされたが、だい4かん中断ちゅうだんした。ダンテの倫理りんりかんめられた「知識ちしき饗宴きょうえん」は、当時とうじ百科全書ひゃっかぜんしょとしてまれたとされる。
ダンテの母語ぼごイタリアについて考察こうさつしたラテン語らてんご論文ろんぶん言語げんご問題もんだいげ、規範きはんてきな「文語ぶんご」と流動的りゅうどうてきな「俗語ぞくご」を区別くべつした。イタリア方言ほうげんなかから文語ぶんごたかみにまでたっしうるものをさがもとめ、トスカナ地方ちほう方言ほうげんをその候補こうほとする。
 黒田くろだ正利まさとしわけ世界せかいだい思想しそう全集ぜんしゅう 哲学てつがく文芸ぶんげい思想しそうへん4』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1961(昭和しょうわ36)ねん所収しょしゅう
  • 帝政ていせいろんDe Monarchia 1310ねん - 1313ねん?
ぜん3かん。ダンテ自身じしん政治せいじ理念りねんをあらわしたもので、皇帝こうてい正義せいぎ宗教しゅうきょうてき権威けんい分離ぶんりなどについてく。
 中山なかやま昌樹まさきやく『ダンテ全集ぜんしゅう だい8かん新生しんせいどう、1925(大正たいしょう14)ねん所収しょしゅう国立こくりつ国会図書館こっかいとしょかんデジタルコレクション)
 黒田くろだ正利まさとし やく世界せかいだい思想しそう全集ぜんしゅう 哲学てつがく文芸ぶんげい思想しそうへん4』河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、1961(昭和しょうわ36)ねん所収しょしゅう
 小林こばやしこうわけ帝政ていせいろん中公ちゅうこう文庫ぶんこ、2019(平成へいせい30)ねん 

その

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きゅう10000リレ紙幣しへい(1948ねん - 1963ねん)。裏面りめんにダンテの肖像しょうぞうえがかれている。
  • 現在げんざいフィレンツェにあるダンテの生家せいか観光かんこうようてられたもので、実際じっさいいえはフィレンツェを追放ついほうされたのち破壊はかいされているため現存げんそんしていない。
  • ダンテの家系かけい現在げんざいいたるも存続そんぞくし、ワインぎょう「セレーゴ・アリギエーリ」をいとなんでいる。(参考さんこう新聞しんぶん記事きじ
  • 1948ねんから1963ねんまで発行はっこうされた10000イタリア・リレリラ複数ふくすうがた紙幣しへい裏面りめん肖像しょうぞう採用さいようされていた。
  • ダンテがもちいたとされる「ダンテスカ」(ダンテふう)は、イタリアのルネッサンスもちいられたXがたあし折畳おりたた椅子いす[13]

あさひこう文庫ぶんこ

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ダンテ研究けんきゅう大賀おおが寿ひさしよし(1870~1937)があつめたやく3000さつのダンテ関連かんれん蔵書ぞうしょコレクションが京都大学きょうとだいがく付属ふぞく図書館としょかん寄贈きぞうされている[14]文庫ぶんこめい大賀たいがごうあさひ由来ゆらいする。大賀たいが岡山おかやままれで、武田たけだ製薬せいやく勤務きんむしながら、原書げんしょはもとより、新聞しんぶん雑誌ざっし記事きじいたるまでダンテにかんするあらゆるものを収集しゅうしゅうした。武田薬品たけだやくひん渉外しょうがい顧問こもん時代じだい欧米おうべいから貴重きちょうなダンテ関連かんれんしょみせ費用ひよう医薬品いやくひんとともに輸入ゆにゅうしていたが、当主とうしゅ5代目だいめ武田たけだ長兵衛ちょうべえ黙認もくにんしていた[15]大賀たいがはダンテ研究けんきゅうつうじて山川やまかわへい三郎さぶろう京大きょうだい教授きょうじゅじんのほか、ベネデット・クローチェアーノルド・J・トインビーらとも交流こうりゅうがあった[16]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 万有ばんゆう百科ひゃっかだい事典じてん 1973, p. 374.
  2. ^ 世界せかい文化ぶんかだい百科ひゃっか事典じてん 1971, p. 278.
  3. ^ 平川ひらかわ 2009, p. 500.
  4. ^ C・ロヴェッリ『すごい物理ぶつりがく講義こうぎ河出かわで文庫ぶんこ、2019ねん、129ぺーじ 
  5. ^ 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん 1972, p. 541.
  6. ^ 「チョーサー 中世ちゅうせいイタリアへのたび」(神奈川大学かながわだいがく評論ひょうろんブックレット23)p59 奥田おくだ宏子ひろこ 御茶おちゃみず書房しょぼう 2003ねん7がつ10日とおかだい1はんだい1さつ発行はっこう
  7. ^ 池上いけがみ英洋ひでひろうつくしきイタリア 22の物語ものがたり光文社こうぶんしゃ新書しんしょ、2017ねん、36ぺーじISBN 978-4-334-04303-2 
  8. ^ a b 「チョーサー 中世ちゅうせいイタリアへのたび」(神奈川大学かながわだいがく評論ひょうろんブックレット23)p71 奥田おくだ宏子ひろこ 御茶おちゃみず書房しょぼう 2003ねん7がつ10日とおかだい1はんだい1さつ発行はっこう
  9. ^ 「チョーサー 中世ちゅうせいイタリアへのたび」(神奈川大学かながわだいがく評論ひょうろんブックレット23)p60 奥田おくだ宏子ひろこ 御茶おちゃみず書房しょぼう 2003ねん7がつ10日とおかだい1はんだい1さつ発行はっこう
  10. ^ 奥田おくだ宏子ひろこ「チョーサー 中世ちゅうせいイタリアへのたび」(神奈川大学かながわだいがく評論ひょうろんブックレット23)p60-62、御茶おちゃみず書房しょぼう、2003ねん7がつだい1はんだい1さつ発行はっこう
  11. ^ ヨーロッパ文学ぶんがくとラテン中世ちゅうせい. みすず書房しょぼう 
  12. ^ Imaz, F.; Ban, T. A.; Lehmann, H. E. (1976-01). “Proceedings: Butaclamol in the treatment of schizophrenia--a comparison of two treatment methods”. Psychopharmacology Bulletin 12 (1): 31–34. ISSN 0048-5764. PMID 1826. https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/1826. 
  13. ^ 渡辺わたなべゆう室内しつないがく入門にゅうもん建築資料研究社けんちくしりょうけんきゅうしゃ、1995ねん、57ぺーじ 
  14. ^ あさひこう文庫ぶんこ京都大学きょうとだいがく図書館としょかん機構きこう
  15. ^ 東北学院とうほくがくいんんだられざる偉人いじん山川やまかわへい三郎さぶろう――ダンテ『かみきょく翻訳ほんやくめぐたび下館しもだて和巳かずみ東北学院とうほくがくいん、2016-04-08
  16. ^ あさひこう文庫ぶんこ」のみのおや大賀おおが寿ひさしよしのこと岩倉いわくらただ 京都きょうと大学だいがくせいおさむ 1993

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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