サンドロ・ボッティチェッリ

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サンドロ・ボッティチェッリ
東方とうほうさん博士はかせ礼拝れいはい』にまれたボッティチェッリ自画像じがぞう
本名ほんみょう Alessandro di Mariano Filipepi
誕生たんじょう 1445ねんころ
出生しゅっしょう フィレンツェ
死没しぼつねん 1510ねん5月17にち
死没しぼつ フィレンツェ
国籍こくせき イタリアの旗 イタリア
運動うんどう動向どうこう ルネサンス
影響えいきょうけた
芸術げいじゅつ
フィリッポ・リッピアンドレア・デル・ヴェロッキオ
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代表だいひょうさくの『プリマヴェーラ』がもちいられている100000リラ紙幣しへい

サンドロ・ボッティチェッリイタリア: Sandro Botticelli, 1445ねん3月1にち[1444ねんとも]- 1510ねん5月17にち[1])は、ルネサンスのイタリアのフィレンツェまれの画家がかで、本名ほんみょうアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ (Alessandro di Mariano Filipepi) といい、ボッティチェッリあにふとっていたことからいた「ちいさなたる」という意味いみのあだである[2]。ボッティチェルリ、ボッティチェリ、ボティチェリ、ボティチェッリ、ボッチチェリ、ボッチチェルリなどと表記ひょうきされることもある。

概要がいよう[編集へんしゅう]

初期しょきルネサンスでもっと業績ぎょうせきのこしたフィレンツェ代表だいひょうてき画家がかフィリッポ・リッピもとまなび、メディチ保護ほごけ、宗教しゅうきょう神話しんわなどの傑作けっさくのこした。

1492ねん、メディチ当主とうしゅロレンツォ・デ・メディチ死後しごドメニコかい修道しゅうどうサヴォナローラがフィレンツェの腐敗ふはい批判ひはんし、市政しせいへの影響えいきょうりょくつよめた。そのためボッティチェッリも神秘しんぴ主義しゅぎてき宗教しゅうきょうえがくようになる[3]。ボッティチェッリはサヴォナローラの反対はんたいからの注文ちゅうもんもよくけており、この事実じじつかれがヴァザーリがしるすよりはずっと自由じゆう立場たちばにいたことをしめしている。この時期じき以降いこう作品さくひん精彩せいさいくとして評価ひょうかたかくない。1501ねんころには制作せいさくめる。フィリッピーノ・リッピかれ師事しじしていた。

ボッティチェッリはギリシャ文化ぶんか純粋じゅんすい傾倒けいとうしたとられる『はる』『ヴィーナスの誕生たんじょう』をえがいた。その400ねんにわたりわすられてしまい、やっとれられるようになったのは19世紀せいきすえだった。それまでヨーロッパはボッティチェッリをれるだけの多様たようせい素地そじけていたため、そのはあまりられることはなかった。19世紀せいきイギリスラファエルまえ注目ちゅうもくされたことから名声めいせいひろまったという経緯けいいがある。

出自しゅつじ[編集へんしゅう]

サンドロ・ボッティチェッリはフィレンツェのヌォーヴァどおり(げんポルチェッラーナどおり)に誕生たんじょうした。4にん兄弟きょうだいすえとして、貧乏びんぼうではないものの質素しっそ家庭かていそだった。ちちマリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピはかわなめし職人しょくにんでサント・スピリト地区ちくちかくに工房こうぼうかまえていた。実際じっさい、ポルチェッラーナどおりのあるサンタ・マリア・ノヴェッラ地区ちく住人じゅうにんおおくは同様どうよう仕事しごとをしていた。というのも、アルノかわとムニョーネがわちかく、仕事しごと有利ゆうりだったためである。サンドロにかんする初期しょき史料しりょうは、土地とち台帳だいちょうとどによっている。土地とち台帳だいちょうには、家主やぬしみずからの財産ざいさん収入しゅうにゅう支出ししゅつ、さらに家族かぞく構成こうせいとう申告しんこくすることが義務ぎむづけられていた。1458ねん土地とち台帳だいちょうにマリアーノ・フィリペーピは4にん息子むすこジョヴァンニ、アントニオ、シモーネ、サンドロをげている。なおサンドロは13さいで、「病弱びょうじゃく」、「勉学べんがくちゅう」としるされていることから、何人なんにんかの学者がくしゃは、サンドロは病気びょうきがちの幼少ようしょう時代じだいごしたために内向ないこうてき性格せいかくになり、そのためにいくつかの作品さくひん陰鬱いんうつ雰囲気ふんいきることができるのではないかと推測すいそくしている。あにのアントニオはかね細工ざいく仕事しごとをしていた。それゆえ、サンドロはかれ工房こうぼう芸術げいじゅつとしての初期しょき教育きょういくけた可能かのうせいたかい。一方いっぽう、ヴァザーリが「ボッティチェッリでん」でべているように、父親ちちおや友人ゆうじんボッティチェッロの工房こうぼう見習みならいをしていたという仮説かせつ排除はいじょすべきであろう。というのも、今日きょういたるまで、該当がいとうする時期じきにフィレンツェにこの職人しょくにんがいたことを証明しょうめいするいかなる史料しりょうてき証拠しょうこ存在そんざいしないからである。

修行しゅぎょう時代じだい[編集へんしゅう]

ボッティチェッリのしん意味いみでの修業しゅうぎょうは1464ねんから1467ねんまでのフィリッポ・リッピの工房こうぼうにおいてであった。ボッティチェッリもすうおおくの徒弟とていたちとともに、プラートだい聖堂せいどう礼拝れいはいどうにて一連いちれんフレスコせいステファノと洗礼せんれいしゃひじりヨハネでん》を制作せいさくちゅうであったフィリッポ・リッピのした修業しゅうぎょうをした。

この時期じきボッティチェッリにより制作せいさくされた一連いちれん聖母せいぼぞうには、師匠ししょうであるフィリッポ・リッピの影響えいきょうがとりわけ顕著けんちょであり、いくつかの作品さくひんはリッピの《聖母子せいぼし》(1465ねんウフィッツィ美術館びじゅつかんくら)を忠実ちゅうじつならっている。ボッティチェッリに帰属きぞくされる最初さいしょ作品さくひんは《聖母子せいぼし天使てんし》(1465ねんごろ養育よういくいんぞう)である。この作品さくひんはリッピのどう時期じき作品さくひんとの類似るいじせいきわめて顕著けんちょであり、むしろ模写もしゃであるかのようである。おなじことが《聖母子せいぼし二人ふたり天使てんし》(1465ねんごろワシントン)、《聖母子せいぼし天使てんし》(アジャクシオフェッシュ美術館びじゅつかん)にもえる。

フィリッポ・リッピの工房こうぼうのちにしスポレートかったボッティチェッリは、アントニオ・デル・ポッライオーロアンドレア・デル・ヴェッロッキオ工房こうぼう出入でいりし、かれらから影響えいきょうけることで、絵画かいが様式ようしき徐々じょじょ進化しんかさせた。ヴェッロッキオの影響えいきょうは、1468ねんから1469ねんにかけて制作せいさくされた一連いちれん聖母せいぼぞう―《バラえん聖母せいぼ》(ウフィツィ美術館びじゅつかんぞう)、《セラフィムの聖母せいぼ》(ウフィッツィ美術館びじゅつかんぞう)、《聖母子せいぼし天使てんしたち》(ナポリ、カポディモンテ美術館びじゅつかんくら)―に顕著けんちょである。

これらの作品さくひんなかでは、人物じんぶつぞうは「まど」のような絵画かいがえんぎりぎりのところに遠近えんきん法的ほうてき配置はいちされており、背景はいけい建造けんぞうぶつ観念かんねんてき空間くうかん規定きていしている。構図こうずはそれゆえ段階だんかいてき進化しんかしており、遠近えんきんほうえがかれた理論りろんてき空間くうかんと、前景ぜんけいから現実げんじつてき空間くうかんとのあいだつな役割やくわりたしている。

独立どくりつ経歴けいれき[編集へんしゅう]

1469ねん土地とち台帳だいちょうしめしているとおり、そのときすでにボッティチェッリはみずかをもち独立どくりつして仕事しごとをしていた。1470ねん10月9にちフィリッポ・リッピがスポレートでくなり、同年どうねんボッティチェッリはみずからの工房こうぼうかまえた。同年どうねん6がつ18にちから8がつ18にちまで、かれはじめて公的こうてき注文ちゅうもんけてはたらき、たか名声めいせい反響はんきょうけた。フィレンツェの商業しょうぎょう裁判所さいばんしょのスパッリエーラ(もたれ)ために制作せいさくした《剛毅ごうき》のことである。このパネルはピエロ・ポッライオーロが制作せいさくした一連いちれんの《ななとく》にめられることになっていた。ボッティチェッリはポッライオーロが提示ていじした計画けいかくあんっていたが、それとはまったことなる方法ほうほう制作せいさくした。ピエロがもちいた大理石だいりせきせい質素しっそせきに、豪華ごうか装飾そうしょくされた玉座ぎょくざえがき、司法官しほうかんつとめにかんする道徳どうとくてき特質とくしつ喚起かんきする奇抜きばつ形体けいたいられた。つまり、この美徳びとくをもつのに必要ひつような「大切たいせつなもの」を象徴しょうちょうてきあらわしたのである。建築けんちくはそこにすわ女性じょせい堅固けんご彫塑ちょうそてきで、とりわけうつくしい姿すがた一体いったいになる。ボッティチェッリは初期しょき模範もはんから徐々じょじょ距離きょりき、かれどう時代じだいじんたちの様式ようしきから本質ほんしつてきことなる様式ようしきすことで、当時とうじのフィレンツェの芸術げいじゅつにおける唯一ゆいいつ無二むに存在そんざいとなったのである。

1470年代ねんだい作品さくひん[編集へんしゅう]

1472ねんにボッティチェッリはフィレンツェの画家がか信心しんじんかいであるひじりルカ組合くみあい登録とうろくし、かれ友人ゆうじんであった15さいフィリッピーノ・リッピフィリッポ・リッピの息子むすこ)を組合くみあい登録とうろくするようすすめた。フィリッピーノはのち親友しんゆうとなるだけでなく、かれ一番いちばん協力きょうりょくしゃとなる。この時期じきに《せいセバスティアーノ》(もとサンタ・マリア・マッジョーレ教会きょうかい)は制作せいさくされた。この作品さくひんにおいてボッティチェッリはプラトン・アカデミー哲学てつがくへの接近せっきんすでしめしている。

マルシリオ・フィチーノおよびアーニョロ・ポィツィアーノにより振興しんこうされたメディチ周辺しゅうへん学者がくしゃサークルのなかでは、現実げんじつは2つのおおきな原理げんりわせとしてられていた。つまり一方いっぽうかみであり、他方たほう不動ふどう物質ぶっしつである。人間にんげんはそれゆえ世界せかいなか特権とっけんてき位置いちめていた、というのも、理性りせいとおしてかみ観想かんそう到達とうたつるからである。しかし同時どうじみずからの本能ほんのうしたが物質ぶっしつせいにとらわれるならもっとひく状態じょうたい退しりぞ可能かのうせいもあった。この作品さくひんでボッティチェッリは、身体しんたいうつくしさを賛美さんびするにまらず、世俗せぞくから聖人せいじんはなし、周囲しゅういひかりによってかれそらへ、超越ちょうえつ近付ちかづけている。《ユーディットでん》(1472)のえがかれたれん祭壇さいだんは、ボッティチェッリがからまなんだこと総括そうかつであろう。1まいの《ホロフェルネスの遺体いたい発見はっけん》では、人物じんぶつぞう明快めいかい造形ぞうけいせいあざやかな色彩しきさい場面ばめん強調きょうちょうされた表現ひょうげんせいにおいて、まだポッライオーロの様式ようしきへの参照さんしょう顕著けんちょである。この1番目ばんめのエピソードを特徴とくちょうづけるドラマせい暴力ぼうりょくは、2番目ばんめのエピソード《ベトゥリアに帰還きかんするユーディット》では完全かんぜんっていて、むしろ牧歌ぼっかてきで「リッピふうの」様式ようしきである。

1473ねんから1474ねんにかけて制作せいさくされた《東方とうほうさん博士はかせ礼拝れいはい》はアナモルフォーシスほういちれいである。この作品さくひんるには、それを水平すいへい必要ひつようがある。

1470年代ねんだいにボッティチェッリの様式ようしきすで概観がいかん十分じゅうぶんしめしている。のちつづかれ作品さくひんはメディチ重鎮じゅうちんからの大型おおがた委嘱いしょくによるもので、人文じんぶん主義しゅぎてき哲学てつがくてき主題しゅだいによってゆたかさをしていく。

しんプラトン主義しゅぎ影響えいきょう[編集へんしゅう]

しんプラトン主義しゅぎものたちは、この時期じきまでにられた古代こだい文化ぶんか説得せっとくてき方法ほうほうさい評価ひょうかすることで、古代こだい文化ぶんか包含ほうがんする異教いきょうせい非難ひなんするキリスト教きりすときょうと、人文じんぶん主義しゅぎ運動うんどう最初さいしょ支持しじしゃとのあいだまれた亀裂きれつめることができた。かれらは「倫理りんりてき模範もはんとして古代こだい美徳びとく」を積極せっきょくてき提案ていあんしただけでなく、キリストきょう理想りそう古典こてん文化ぶんか理想りそうとを一致いっちさせるにいたった。これは、プラトンや、ぜんキリスト教きりすときょう社会しゃかい深遠しんえん宗教しゅうきょうせい主張しゅちょうしていた神秘しんぴ主義しゅぎ様々さまざま風潮ふうちょう依拠いきょした結果けっかであった。

表象ひょうしょう芸術げいじゅつあたえたこれらの理論りろん影響えいきょう甚大じんだいであった。およびあいしんプラトン主義しゅぎ芸術げいじゅつ中心ちゅうしんてき主題しゅだいとなった。というのも、あいうごかされた人間にんげんは、物質ぶっしつ世界せかい最下位さいかいから、精神せいしん最高さいこうにまで到達とうたつるとかんがえられたからである。このようにして、神秘しんぴ主義しゅぎ完全かんぜん復活ふっかつし、きよしてき主題しゅだい同等どうとう権威けんいあたえられた。それゆえに、世俗せぞくてき性格せいかくをもつ装飾そうしょくは、大変たいへん普及ふきゅうしたのである。

異教いきょうのオリンポスさんもっと罪深つみぶか女神めがみであったウェヌス(ヴィーナス)は、しんプラトン主義しゅぎしゃたちにより完全かんぜんさい解釈かいしゃくされ、芸術げいじゅつたちによりもっと頻繁ひんぱんえがかれる主題しゅだいの1つとなったが、それはめんてき性格せいかくつものであった。一方いっぽうは「天空てんくうのウェヌス」である。これは精神せいしんてきあい象徴しょうちょうであり、人間にんげん宗教しゅうきょうてき苦行くぎょうへとみちびくものである。他方たほうは「地上ちじょうのウェヌス」である。これは本能ほんのうせい象徴しょうちょう情熱じょうねつ象徴しょうちょうであり、ひと下位かいへともどすものである。

よくえがかれたもう1つの主題しゅだいは、上位じょうい原理げんり下位かい原理げんりとの闘争とうそうであり(たとえばウェヌスによりなだめられた軍神ぐんしんマルスや、ヘラクレスによりたおされた怪物かいぶつなど)、人間にんげん精神せいしん連続れんぞくした緊張きんちょう状態じょうたい、つまり美徳びとく悪徳あくとくとのあいだ葛藤かっとうした状態じょうたいあらわした。すなわち、人間にんげん素質そしつてきにはぜんかう傾向けいこうにあるが、完璧かんぺき状態じょうたいたもつことができなかったり、とき本能ほんのうによって理性りせいうしな危険きけんおちいったりする。こうした個々人ここじん限界げんかい自覚じかくすることに、しんプラトン主義しゅぎしゃ実存じつぞんてきなドラマは由来ゆらいしており、一見いっけん到達とうたつ不可能ふかのう状態じょうたい生涯しょうがいにわたっていかけることになるということに意識いしきてきなのである。

ボッティチェッリはしんプラトン主義しゅぎしゃたちの友人ゆうじんとなり、このかんがえを完全かんぜんみとめたため、かれらにより理論りろんされたを、みずからのメランコリックで観照かんしょうてき性格せいかくにより、個人こじんてき解釈かいしゃくくわえながら、視覚しかくてき表現ひょうげんすることができた。ただし、その解釈かいしゃくは、おな文化ぶんかてき環境かんきょうつながりのあったほか芸術げいじゅつたちにより提案ていあんされた解釈かいしゃくとはかならずしも一致いっちするものではない。

ピサ滞在たいざい時代じだい[編集へんしゅう]

1474ねん、ボッティチェッリはカンポサント(共同きょうどう墓地ぼち)(it)をフレスコ装飾そうしょくするため、ピサ招聘しょうへいされた。かれ力量りきりょうるため、祭壇さいだんとして《聖母せいぼ昇天しょうてん》をえがかされたが、結局けっきょくカンポサントの装飾そうしょく委嘱いしょくされるにはいたらなかった。理由りゆうさだかではない。

1490年代ねんだい以降いこう[編集へんしゅう]

1490年代ねんだいはいり、預言よげんしゃサヴォナローラがフィレンツェに蔓延まんえんしていた古代こだい異教いきょうてき文化ぶんかおよび享楽きょうらくてき生活せいかつ否定ひていし、キリストきょう信仰しんこうかえるようにうったえた。ボッティチェッリはサヴォナローラからふか宗教しゅうきょうてき影響えいきょうけ、甘美かんび聖母子せいぼしぞう神話しんわてき作品さくひんえがかなくなった。わりに、『キリストの哀悼あいとう』、『オリーブえんいのり』、『神秘しんぴ降誕こうたん』などキリストの受難じゅなん救済きゅうさいをテーマとする謹厳きんげんかつ敬虔けいけん作品さくひんえがかれたが[3]主題しゅだいのみならず様式ようしきてきにも中世ちゅうせいゴシック絵画かいが伝統でんとう回帰かいきするかのようにそれまでの合理ごうりてき遠近えんきんほう往々おうおうにして破棄はきされている[4]

代表だいひょうさく[編集へんしゅう]

プリマヴェーラ』と『ヴィーナス(ウェヌス)の誕生たんじょう』の作者さくしゃとして著名ちょめいである。異教いきょうてき官能かんのうてきなテーマの絵画かいがであり、フィレンツェ・ルネサンスの最盛さいせいげるものである。

『プリマヴェーラ』は、近年きんねん修復しゅうふく結果けっか、オリジナルの華麗かれい色彩しきさいがよみがえり、従来じゅうらいすす(すす)におおわれてはっきりえなかったおおくの草花くさばなが、ヴィーナス(ウェヌス)の地面じめんえがまれているのがえるようになった。研究けんきゅうしゃによると、これらの草花くさばなのほとんどは、いまでもトスカーナ地方ちほう自生じせいしているという。

『プリマヴェーラ』(1477年 - 1478年頃、ウフィツィ美術館) 『ヴィーナスの誕生』(1485年頃、ウフィツィ美術館)
プリマヴェーラ』(1477ねん - 1478ねんころ、ウフィツィ美術館びじゅつかん
ヴィーナスの誕生たんじょう』(1485ねんころ、ウフィツィ美術館びじゅつかん

ギャラリー[編集へんしゅう]

など多数たすう

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ ボティチェリ』 - コトバンク
  2. ^ 中野なかの京子きょうこ名画めいがなぞ 中野なかの京子きょうこく ギリシャ神話しんわへん文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2011ねん、36ぺーじISBN 978-4-16-373850-5 
  3. ^ a b フィレンツェ・ルネサンス4 再生さいせいへの挑戦ちょうせん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん、1991ねん刊行かんこう、66ぺーじ ISBN 4-14-008762-5
  4. ^ ボッティチェッリてん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、2016ねん刊行かんこう、162ぺーじ
  5. ^ プラド美術館びじゅつかんガイドブック、2009ねん刊行かんこう、224ぺーじ ISBN 978-84-8480-189-4

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]