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ルーヴル美術館びじゅつかん

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ルーヴル美術館びじゅつかん
Musée du Louvre
ルーヴル美術館びじゅつかん
ルーヴル美術館の位置(パリ内)
ルーヴル美術館
ルーヴル美術館びじゅつかん位置いち
ルーヴル美術館の位置(パリ1区内)
ルーヴル美術館
ルーヴル美術館びじゅつかん (パリ1)
施設しせつ情報じょうほう
専門せんもん分野ぶんや 美術びじゅつ
来館らいかんしゃすう

740まんにん(2016ねん[1]

館長かんちょう ロランス・デカール
開館かいかん 1793ねん
所在地しょざいち フランスの旗 フランス パリ 1
位置いち 北緯ほくい4851ふん37びょう 東経とうけい220ふん15びょう / 北緯ほくい48.860339 東経とうけい2.337599 / 48.860339; 2.337599
アクセス
外部がいぶリンク www.louvre.fr
プロジェクト:GLAM
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ルーヴル美術館びじゅつかん(ルーヴルびじゅつかん、ふつ: Musée du Louvre)は、パリにあるフランス国立こくりつ美術館びじゅつかん世界せかい最大さいだいきゅう美術館びじゅつかん博物館はくぶつかん)であるとともに世界せかい最大さいだいきゅう史跡しせきのひとつで、パリ中心ちゅうしん1セーヌがわ右岸うがん位置いちする。収蔵しゅうぞうひん38まんてん以上いじょう先史せんし時代じだいから19世紀せいきまでのさまざまな美術びじゅつひん3まん5,000てんちかくが、そう面積めんせき6まん600平方へいほうメートル展示てんじ場所ばしょ公開こうかいされている。世界せかいでもっとも入場にゅうじょうしゃすうおお美術館びじゅつかんで、毎年まいとし800まんにんえる入場にゅうじょうしゃおとず[2]、2018ねんはじめて1,000まんにんえた[3]。フランスの世界せかい遺産いさんであるパリのセーヌ河岸かわぎしにも包括ほうかつ登録とうろくされている[4]

そのコレクションの一部いちぶは、日本にっぽんふく海外かいがいされることもおお[5]

概要がいよう[編集へんしゅう]

ルーヴル美術館びじゅつかんは、フランスおうフィリップ2せい12世紀せいきに、もともとは要塞ようさいとして建設けんせつしたルーヴルじょうルーヴル宮殿きゅうでん)に収容しゅうようされている。現在げんざい建物たてものにも要塞ようさいとして使用しようされていた当時とうじ面影おもかげ一部いちぶのこっているが、幾度いくどとなくぞう改築かいちくかえされて、現在げんざいのルーヴル宮殿きゅうでん建物たてものとなっている。フランソワ1せい改築かいちく計画けいかく以来いらい歴代れきだいフランスおう王宮おうきゅうとして使用しようされていたルーヴル宮殿きゅうでんだったが、1682ねんにフランスおうルイ14せいが、自身じしん王宮おうきゅうヴェルサイユ宮殿きゅうでんえらび、ルーヴル宮殿きゅうでんしゅたる役割やくわりは、1692ねん以来いらい収集しゅうしゅうされてきた古代こだい彫刻ちょうこくなどの王室おうしつ美術びじゅつひんコレクションの収蔵しゅうぞう展示てんじ場所ばしょとなった[6]。1692ねんにはルーヴル宮殿きゅうでんに、フランス学士がくしいん碑文ひぶん美文びぶんアカデミーと王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーが収容しゅうようされ、1699ねん最初さいしょサロン開催かいさいされている。アカデミーはその100ねんにわたってルーヴル宮殿きゅうでん設置せっちされていた[7]。そして、フランス革命かくめいした憲法けんぽう制定せいてい国民こくみん議会ぎかいで、ルーヴル宮殿きゅうでんをフランスが保有ほゆうするすぐれた美術びじゅつひん展示てんじする美術館びじゅつかんとして使用しようすることが決定けっていされた。

美術館びじゅつかんとして正式せいしき開館かいかんしたのは1793ねんである。このときには、王室おうしつ所有しょゆうだった、あるいはキリスト教きりすときょう教会きょうかい財産ざいさんから没収ぼっしゅうされた絵画かいが中心ちゅうしんとして、537てん絵画かいが展示てんじされている。しかしながら、建物たてもの構造こうぞうじょう問題もんだいから1796ねんにいったん閉館へいかんされており、1801ねん再度さいど開館かいかんした。フランス皇帝こうていナポレオン1せいが、諸国しょこくから美術びじゅつひん収奪しゅうだつしたことにより所蔵しょぞうひん増大ぞうだいしていき、美術館びじゅつかん名前なまえを「ナポレオン美術館びじゅつかん (Musée Napoléon)」と改名かいめいしたこともあった。そのワーテルローのたたか敗戦はいせんナポレオン・ボナパルトフランス皇帝こうていわれ、ナポレオンぐん収奪しゅうだつしていた美術びじゅつひんおおくがもとぬしたちに返還へんかんされている。王政おうせい復古ふっこでフランスおうとなったルイ18せいシャルル10せい統治とうち時代じだい、さらにフランスだい帝政ていせい時代じだいでルーヴル美術館びじゅつかん所蔵しょぞうひんはさらにつづけ、2まんてんえる美術びじゅつひんあつめられた。その成立せいりつしたフランスだいさん共和きょうわせい時代じだいにも、ルーヴル美術館びじゅつかん所蔵しょぞうひん遺贈いぞう寄贈きぞうなどによって着実ちゃくじつえていった。2003ねんに「イスラム美術びじゅつ部門ぶもん」が創設そうせつされ、所蔵しょぞうひんが「古代こだいエジプト美術びじゅつ部門ぶもん」「古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもん」「古代こだいギリシアエトルリアローマ美術びじゅつ部門ぶもん」「イスラム美術びじゅつ部門ぶもん」「彫刻ちょうこく部門ぶもん」「工芸こうげいひん部門ぶもん」「絵画かいが部門ぶもん」「素描そびょう版画はんが部門ぶもん」の8部門ぶもん分類ぶんるいされることとなった[8]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

12 - 20世紀せいき[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい・ルネサンス・ブルボン王朝おうちょう[編集へんしゅう]

ルーヴル宮殿きゅうでん地下ちかしつ中世ちゅうせいルーヴルじょう面影おもかげのこ唯一ゆいいつ場所ばしょ[9]

現在げんざいルーヴル美術館びじゅつかんとして使用しようされているルーヴル宮殿きゅうでんは、12世紀せいきカペーあさだい7だいのフランスおうフィリップ2せい在位ざいい1180ねん - 1223ねん)が要塞ようさいとして建設けんせつしたルーヴルじょうをもととしており、当時とうじ建物たてもの面影おもかげ現在げんざい地下ちかしつのこっている[9]。ただし、ルーヴルじょうが、すでに存在そんざいしていたべつ建造けんぞうぶつふえ改築かいちくした要塞ようさいだったのか、いちからてられた要塞ようさいだったのかどうかはつたわっていない[10]。セーヌがわ中洲なかすであるシテとうは、中世ちゅうせいにおいてもパリの中心ちゅうしんであった。都市とし防衛ぼうえいというめんで、まち中心ちゅうしんながれるセーヌがわ自体じたい防御ぼうぎょ弱点じゃくてんとなっていたため、防衛ぼうえい要塞ようさいたるルーヴルじょう建設けんせつされた[11]円筒えんとうがたで、みちやく15メートルのドンジョンおもとう天守てんしゅ)の周囲しゅうい方形ほうけい城壁じょうへきやく78×72メートル)をめぐらした要塞ようさいは、20年余ねんよ歳月さいげつようして完成かんせいした[12]。この城壁じょうへきは、現代げんだいのルーヴルのシュリーつばさ位置いちにあたり、シュリーつばさ中庭なかにわ(クール・カレ)の南西なんせいがわ4ぶんの1の面積めんせき相当そうとうする。当時とうじのルーヴルは宮殿きゅうでんではなくまさに要塞ようさいであり、建物たてもの役割やくわりだい部分ぶぶん牢獄ろうごく人質ひとじち監禁かんきん場所ばしょにあてられていた[13]。パリ防衛ぼうえいのために建造けんぞうされたルーヴルじょうであったが、このしろ英国えいこくなど外国がいこくからの攻撃こうげきにさらされることは結局けっきょくなかった[14]当時とうじのルーヴルの遺構いこうは、のちのナポレオン3せい時代じだい、1866ねんにも発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれているが、本格ほんかくてき学術がくじゅつてき発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれたのは1984ねんから1986ねんのことである[15]。また、1991ねん発掘はっくつされた城壁じょうへき一部いちぶは、地下ちかショッピングセンターだいホールで一般いっぱん公開こうかいされている[14]

「ルーヴル (louvre)」 の語源ごげんについては複数ふくすうせつがある。12世紀せいき後半こうはんのパリで最大さいだい建築けんちくぶつだったことから「偉大いだいな」を意味いみするフランス語ふらんすごL'Œuvre」からというせつもりなかてられたことから「オーク」を意味いみするフランス語ふらんすごrouvre」からというせつ、『ラルース百科ひゃっか事典じてん』の「おおかみり」と関係かんけいするラテン語らてんごlupus」が変化へんかした、ビザンチン帝国ていこく使つかわれていたラテン語らてんごlupara」から派生はせいしたというせつなどがある[10][16]。また、7世紀せいきフランスモー女子大じょしだい修道しゅうどう院長いんちょうせいファーレは「パリ地方ちほうにルーヴラ (Luvra) とばれる邸宅ていたくがある」という記録きろく修道院しゅうどういんのこしているが、この記述きじゅつの「パリ」はおそらく現在げんざいのパリとはちが地域ちいきしているとかんがえられる[17]

シャルル5せい時代じだいのルーヴル(『ベリーこうのいとも豪華ごうかなるときいのりしょ』より)

ルーヴル宮殿きゅうでん中世ちゅうせい時代じだいつうじてなん改築かいちくされている。14世紀せいきにはフランスおうシャルル5せい在位ざいい1364ねん - 1380ねん)が、レーモン・デュ・タンブルにめいじてルーヴルじょう改修かいしゅうし、「要塞ようさい」のイメージがつよかったルーヴルを、規模きぼ従来じゅうらいのままで、はなやかな「しろかん(シャトー)」へとつくえた[18]。1546ねんにはフランソワ1せいが、ルネサンス様式ようしき壮麗そうれい建物たてものへの改築かいちく決定けっていした[19]。このフランソワ1せい収集しゅうしゅうした美術びじゅつひん、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』などが、ルーヴル美術びじゅつコレクションの中核ちゅうかくとなっていった[20]。フランソワ1せいは、1528ねんにルーヴルじょうのドンジョン(おもとう)をこわした。1546ねんには建築けんちくピエール・レスコにめいじて、きゅうしろこわあらたな宮殿きゅうでん建築けんちくする工事こうじ開始かいししたが、その翌年よくねんフランソワ1せい死去しきょしたため、ルーヴルじょう改築かいちく息子むすこアンリ2せい在位ざいい1547ねん - 1559ねん)にがれた[21]。アンリ2せい死後しご、そのカトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西にしやく500メートルのところにあらたな宮殿きゅうでん建築けんちくはじめさせた。かつてかわら(テュイル)製造せいぞう工房こうぼうがあったことからテュイルリー宮殿きゅうでんばれるこの宮殿きゅうでんは、フィリベール・ドロルムの設計せっけいで、1563ねんから建築けんちく開始かいしされ、完成かんせいにはやく1世紀せいきようした[22]

ヴァロア王朝おうちょう終焉しゅうえんブルボン王朝おうちょう初代しょだいおうであるアンリ4せい在位ざいい1589ねん - 1610ねん)は、きゅうルーヴルじょう部分ぶぶんを4ばい面積めんせきひろげ(現代げんだいのシュリーつばさ相当そうとう)、セーヌかわ沿ってルーヴルと西にしのテュイルリー宮殿きゅうでん直接ちょくせつむすぶ、長大ちょうだい回廊かいろう現在げんざいの「だい展示てんじしつ (Grande Galerie)」)を建設けんせつさせた。グランド・ギャルリの建設けんせつやクール・カレ(方形ほうけい中庭なかにわ)の拡張かくちょうふくむ「グラン・デッサン(だい計画けいかく)」はアンリ4せい時代じだい開始かいしされたが、造営ぞうえいつぎルイ13せい在位ざいい1610ねん - 1643ねん)の時代じだいにもがれた[23]太陽たいようおうルイ14せい在位ざいい1643ねん - 1715ねん)もさらなる拡張かくちょう計画けいかくすすめ、1657ねんからは建築けんちくルイ・ル・ヴォーが中心ちゅうしんとなって、クール・カレ(方形ほうけい中庭なかにわ)の拡張かくちょう、ならびにルーヴル宮殿きゅうでんとテュイルリー宮殿きゅうでんむす建物たてもの工事こうじすすめられた[24]。しかしながら、1682ねんルイ14せい自身じしん宮殿きゅうでんに、それまでの歴代れきだいフランスおう宮廷きゅうていとしていたルーヴル宮殿きゅうでんから、ヴェルサイユ宮殿きゅうでんへと宮廷きゅうていうつすことをめた。宮廷きゅうてい移動いどうにともなうヴェルサイユ宮殿きゅうでん改築かいちく工事こうじおくれがちではあったが、遷宮せんぐう予定よていどおりにおこなわれ、王族おうぞく不在ふざいとなったルーヴル宮殿きゅうでんは、芸術げいじゅつたちの住居じゅうきょけんアトリエとして提供ていきょうされることとなった[19][25][26]

1747ねん出版しゅっぱんされた美術びじゅつ評論ひょうろんラ・フォン・ド・サン=ティエンヌの著作ちょさくがきっかけで、18世紀せいきなかばに王室おうしつ美術びじゅつコレクションを公開こうかい展示てんじするギャラリー設置せっちしようという気運きうんたかまった[27]。1750ねん10がつ14にちルイ15せいがギャラリーの設置せっち承認しょうにんし、リュクサンブール宮殿きゅうでんに「王室おうしつ絵画かいがギャラリー (Galerie royale de peinture)」をもうけ、王室おうしつコレクションが所蔵しょぞうする96てん絵画かいが作品さくひん展示てんじすることを許可きょかした。ギャラリーの開館かいかんには、ル・ノルマン・ド・トゥルヌエム (en:Charles François Paul Le Normant de Tournehem) と、マリニー侯爵こうしゃくアベル=フランソワ立会たちあっている。「おう絵画かいが (Tableaux du Roy)」は、毎週まいしゅう水曜日すいようび土曜日どようび一般いっぱん公開こうかいされた。公開こうかいされた王室おうしつ絵画かいがコレクションには、ルネサンスイタリアじん画家がかアンドレア・デル・サルトの『慈愛じあい』をはじめ、ルネサンスイタリアじん画家がかラファエロティツィアーノヴェロネーゼバロックオランダじん画家がかレンブラントヴァン・ダイク、バロックフランスじん画家がかプッサンらの絵画かいが作品さくひんふくまれていた。1778ねんルイ16せいがリュクサンブール宮殿きゅうでんプロヴァンス伯爵はくしゃくルイあたえたため、この絵画かいがギャラリーは1780ねん閉館へいかんされた[28]。しかしながら、ルイ16せいのもとでリュクサンブール宮殿きゅうでんわる王立おうりつ美術館びじゅつかん設置せっちくに政策せいさくとなっていった[27]。そして、王室おうしつ建造けんぞうぶつ長官ちょうかん王立おうりつ絵画かいが彫刻ちょうこくアカデミーにもかかわっていたダンジヴィレはくシャルル・クロード (en:Charles-Claude Flahaut de la Billaderie, comte d'Angiviller) が美術びじゅつコレクションを拡張かくちょうし、1776ねんにルーヴル宮殿きゅうでんを「巨大きょだいなギャラリー (Grande Galerie)」として、美術館びじゅつかんへと転用てんようするあん提出ていしゅつした[28]。ルーヴル宮殿きゅうでん美術館びじゅつかんへと転用てんようするというこの提案ていあんにはおおくの賛同さんどうしゃあらわれたが王室おうしつからの許可きょかりず、本格ほんかくてきにルーヴル宮殿きゅうでん美術館びじゅつかんとして使用しようされるようになったのはフランス革命かくめい以降いこうのことだった[28]

フランス革命かくめい[編集へんしゅう]

フランス革命かくめいしたで、ルーヴル宮殿きゅうでん大衆たいしゅうひらかれた美術館びじゅつかんへと姿すがたえた。1791ねん5がつ憲法けんぽう制定せいてい国民こくみん議会ぎかいがルーヴル宮殿きゅうでんを「あらゆる科学かがく芸術げいじゅつあつめられた場所ばしょ」とする法案ほうあん可決かけつした[28]。1792ねん8がつ10日とおかルイ16せい投獄とうごくされ、ルーヴル宮殿きゅうでん所蔵しょぞうされていた王室おうしつ美術びじゅつコレクションは私有しゆう財産ざいさんではなく、国有こくゆう財産ざいさんとなった。市民しみんによる美術びじゅつコレクションの破壊はかい略奪りゃくだつおそれた国民こくみん議会ぎかいは、8がつ19にちにルーヴル宮殿きゅうでん美術館びじゅつかん至急しきゅうすすめるという声明せいめいしている。10月には国有こくゆう財産ざいさん保存ほぞん委員いいんかい設置せっちされ、美術びじゅつコレクションを一般いっぱん展示てんじするための準備じゅんびすすめられた[29]

開館かいかん[編集へんしゅう]
エロス接吻せっぷん目覚めざめるプシュケ』(アントニオ・カノーヴァ
1787ねん制作せいさく依頼いらい、1824ねん完成かんせい[30]

ルーヴル美術館びじゅつかん開館かいかん1793ねん8がつ10日とおかで、このぜん国王こくおうルイ16せい処刑しょけいいち周年しゅうねんにあたるだった。しゅうのうち3日間にちかん大衆たいしゅう解放かいほうされたルーヴル美術館びじゅつかんは、おおいなる成果せいかであるとしてたか評価ひょうかされた[31]開館かいかん当時とうじのルーヴル美術館びじゅつかんには、537てん絵画かいがと、184てんのその美術びじゅつひん収蔵しゅうぞうされていた。コレクションのうち4ぶんの3ほどが王室おうしつ美術びじゅつコレクション由来ゆらいで、のこりはフランス革命かくめい他国たこく亡命ぼうめいした上流じょうりゅう階級かいきゅうローマカトリック教会きょうかいからの押収おうしゅう美術びじゅつひん国有こくゆう財産ざいさんしたものだった[32][33]。コレクションを拡張かくちょう系統けいとうてて整理せいりするために、毎年まいとし10まんリーヴル献金けんきんあつまった[28]。1794ねんから、フランス革命かくめいぐんきたヨーロッパ諸国しょこくから美術びじゅつひん押収おうしゅうはじめ、1797ねん2がつフランスローマ教皇きょうこうとの和平わへい条約じょうやくであるトレンチノ条約じょうやく (en:Treaty of Tolentino) が締結ていけつされてからは、古代こだいローマ彫刻ちょうこくラオコーンぞう』や『ベルヴェデーレのアポロン』などの美術びじゅつひんが、ヴァチカンから押収おうしゅうされてフランスへとまれた。これらはルーヴル美術館びじゅつかんを「国民こくみん主権しゅけん象徴しょうちょう」たる一流いちりゅう美術館びじゅつかんとすることを目的もくてきとしていた[32][34]

開館かいかん初期しょきのルーヴル美術館びじゅつかん混沌こんとんとしたものだった。特権とっけんけた芸術げいじゅつがいまだに美術館びじゅつかんないんでいただけでなく、絵画かいが展示てんじ方法ほうほうもまったく分類ぶんるいされておらず、「ゆかから天上てんじょうまでところせましと」作品さくひんがかけられているだけだった[32]。その、1796ねん5がつ建物たてもの構造こうぞうじょう問題もんだいからいったん閉館へいかんされ、1801ねん7がつに、作品さくひん年代ねんだいじゅん配置はいちしたうえであらたな照明しょうめい追加ついかされて再度さいど開館かいかんしている[32]

ナポレオン1せいだいいち帝政ていせい[編集へんしゅう]

ナポレオン1せいがフランスの実権じっけんにぎり、ヨーロッパ諸国しょこくとの戦争せんそう勝利しょうりつづけたことによって、フランスの美術びじゅつひんコレクションは、諸国しょこくからの略奪りゃくだつ美術びじゅつひんあふれかえっていった[35]。1798ねんから1801ねんエジプト侵攻しんこう、ナポレオン1せいはルーヴル美術館びじゅつかん初代しょだい館長かんちょうにドミニク・ヴィヴァン (en:Dominique Vivant) を任命にんめいした。これにちなんで、1803ねんにルーヴル美術館びじゅつかんは「ナポレオン美術館びじゅつかん」へと改名かいめいされ、スペインオーストリアオランダイタリアなどの美術びじゅつひん収蔵しゅうぞうされた。これらの美術びじゅつひんは、トレンチノ条約じょうやくなどの和平わへい条約じょうやく無視むしして諸国しょこくから略奪りゃくだつされた美術びじゅつひんだった[36]。1815ねんワーテルローのたたかでフランスが敗北はいぼくし、略奪りゃくだつされた美術びじゅつひんもと所有しょゆうしゃたちはその返還へんかんをフランスにもとめた。しかしながら、ルーヴル美術館びじゅつかん上層じょうそうはこの要求ようきゅうにほとんどおうじず、略奪りゃくだつ美術びじゅつひんおおくを自分じぶんたちのプライベート・コレクションにまぎれこませて、隠匿いんとくしようとした。すすまない返還へんかん交渉こうしょういきどおった諸国しょこくは、ワーテルローのたたかいで勝利しょうりしたイギリスに特使とくしおくり、美術びじゅつひん返還へんかんへの協力きょうりょくもとめた。この結果けっかおおくの美術びじゅつひん返還へんかんされたが、そのままルーヴル美術館びじゅつかんのこされた美術びじゅつひん存在そんざいしている[36]返還へんかんされずにルーヴルにのこった主要しゅよう美術びじゅつひんに、マンテーニャの『慈愛じあい』、ヴェロネーゼの『カナの婚礼こんれい』、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの『受胎じゅたい告知こくち』などがある[37]王政おうせい復古ふっこの1815ねんに、フランスおうルイ18せいとイタリアとのあいだに、返還へんかん略奪りゃくだつ美術びじゅつひんについての協定きょうていわされた。たとえば、現在げんざいもルーヴル美術館びじゅつかん所蔵しょぞうするヴェロネーゼの『カナの婚礼こんれい』は、このとき協定きょうていでフランスじん画家がかシャルル・ル・ブラン一大いちだいコレクションと交換こうかんされ、もと所有しょゆうしゃであるローマの美術びじゅつひん収集しゅうしゅうアレッサンドロ・アルバーニ (en:Alessandro Albani) にも賠償金ばいしょうきん支払しはらわれている。

王政おうせい復古ふっこだい帝政ていせい[編集へんしゅう]

ミロのヴィーナス』はルイ18せい時代じだいにルーヴル美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされた彫刻ちょうこくである。

ナポレオン1せい失脚しっきゃくし、フランスはルイ18せい王位おういいて、王政おうせい復古ふっこ(1814ねん - 1830ねん)にはいる。ルイ18せいつぎおうシャルル10せい治世ちせいで、72まんフランをかけてルーヴル美術館びじゅつかんに135てん美術びじゅつひん追加ついかされた。さらに、古代こだいエジプト学者がくしゃジャン=フランソワ・シャンポリオン指揮しきした古代こだいエジプト美術びじゅつひん専門せんもん部局ぶきょく編成へんせいされ、イギリスじん画家がかエジプトがく研究けんきゅうしゃヘンリー・ソルト (en:Henry Salt (Egyptologist)) やイタリアじん美術びじゅつひん収集しゅうしゅうベルナルディーノ・ドロヴェッティ (en:Bernardino Drovetti) らのコレクションから、7,000てん以上いじょう古代こだいエジプト美術びじゅつひん購入こうにゅうしている。ただし、この時代じだい追加ついかされた美術びじゅつひんかずよりも、王権おうけん回復かいふくするためという名目めいもくでルーヴル美術館びじゅつかんからヴェルサイユ宮殿きゅうでんへとされた美術びじゅつひんのほうがおおかった。1848ねんだい共和きょうわせい成立せいりつすると、共和きょうわ政府せいふ美術びじゅつひん修復しゅうふく費用ひようとして200まんフランを供出きょうしゅつし、さらに美術びじゅつひん展示てんじ場所ばしょである「アポロン・ギャラリー (Galerie d'Apollon)」、「サロン・カレ (Salon Carré)」、「だい展示てんじしつ (Grande Galérie)」の完成かんせい推進すいしんした[38]。1858ねんフランスだい帝政ていせい成立せいりつし、フランス皇帝こうていとなったナポレオン3せいは、1861ねんに641てん絵画かいが古代こだいギリシア金貨きんか、ジャンピエトロ・カンパーナ侯爵こうしゃく美術びじゅつひんコレクション (en:Campana collection) 由来ゆらい美術びじゅつひんなど、1まん1,835てん美術びじゅつひん購入こうにゅうした。1852ねんから1870ねんにわたるフランスだい帝政ていせいでフランス経済けいざい拡大かくだいし、ルーヴル美術館びじゅつかんは1870ねんまでに2まんてんにのぼる美術びじゅつひんあらたに収蔵しゅうぞうしている。また、「はな展示てんじしつ (en:Pavillon de Flore)」と「だい展示てんじしつ」が、建築けんちくルイ・ヴィスコンティとヘクター・ルフェル (en:Hector Lefuel) によって改装かいそうされたのもこの時期じきである[38]

だいさん共和きょうわせい世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

ヴァトーの『ピエロ』。1718ねん - 1719ねんごろの作品さくひんで、旧称きゅうしょう『ジル』とばれていた。

フランスだいさん共和きょうわせい時代じだいにルーヴル美術館びじゅつかんあらたに収蔵しゅうぞうされた美術びじゅつひんは、遺贈いぞう寄贈きぞうによるものがおおかった。アンゲラン・カルトン (en:Enguerrand Quarton) さくといわれる、15世紀せいき油彩ゆさいヴィルヌーヴ=レザヴィニョンのピエタ』は「ルーヴルともかい (Société des Amis du Louvre)」が寄贈きぞうしたもので、1863ねん発掘はっくつされた古代こだいギリシア彫刻ちょうこくサモトラケのニケ』は、同年どうねんにルーヴル美術館びじゅつかんへとおさめられたものである。『サモトラケのニケ』は、頭部とうぶ左腕さわん存在そんざいしないなどのひどい損傷そんしょうがあるが、1884ねん展示てんじ以来いらい、ルーヴル美術館びじゅつかんほこ主要しゅよう古代こだい彫刻ちょうこくとなっている[39]。1869ねん美術びじゅつひん収集しゅうしゅう医者いしゃルイ・ラ・カーズ (en:Louis La Caze) が遺贈いぞうした583てん美術びじゅつひんからなる「ラ・カーズ・コレクション (Collection La Caze)」には、ロココのフランスじん画家がかシャルダンフラゴナールらの絵画かいがふくまれており、そのラ・カーズ・コレクション由来ゆらい著名ちょめい作品さくひんとして、バロックのオランダじん画家がかレンブラントの『ダビデおう手紙てがみにしたバテシバの水浴すいよく』、ロココのフランスじん画家がかヴァトーの『ピエロ旧称きゅうしょう『ジル』)』などがある[39]

ルーヴル美術館びじゅつかん拡大かくだいは、だいいち世界せかい大戦たいせんこうゆるやかになっていき、重要じゅうよう作品さくひん購入こうにゅうはほとんどなされていない。例外れいがいといえる作品さくひんとして、バロック美術びじゅつのフランスじんラ・トゥールの『せいトマス』と、遺贈いぞうされただい規模きぼなコレクションとして、1935ねんエドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド遺贈いぞうした、4,000てん版画はんがエングレービング)、3,000てん絵画かいが、500てん装飾そうしょくほんげられる[33]

だい世界せかい大戦たいせんときには、おおくの美術びじゅつひんがルーヴル美術館びじゅつかんから避難ひなんした。だい世界せかい大戦たいせん直前ちょくぜんにドイツぐんチェコズデーテン地方ちほう併合へいごうしたときには、『モナ・リザ』などの重要じゅうよう作品さくひんが、ロワール=エ=シェールシャンボールじょうへとうつされた。1939ねん後半こうはんだい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつすると、『サモトラケのニケ』や『ミロのヴィーナス』といった重要じゅうよう彫刻ちょうこく作品さくひんアンドルのヴァランセじょう (en:Château de Valençay) へとうつされている[40]所蔵しょぞう美術びじゅつひん梱包こんぽうに2にちかけ、1939ねん8がつ27にち一団いちだんのトラックがルーヴル美術館びじゅつかんはなれた。12月28にちまでには、あまりに巨大きょだい重量じゅうりょうがかさむ作品さくひんと「地下ちかしつ所蔵しょぞうされていた重要じゅうようではない絵画かいが作品さくひん」をのぞいて、主要しゅよう作品さくひんはすべてルーヴル美術館びじゅつかんから姿すがたしている[41]。1945ねん初頭しょとう、それまでドイツ占拠せんきょされていたフランスが解放かいほうされると、各地かくち分散ぶんさんしていた美術びじゅつひん元通もとどおりルーヴル美術館びじゅつかんへともどされていった[42]

だいルーヴル計画けいかくとルーヴル・ピラミッド[編集へんしゅう]

1874ねんまでにルーヴル宮殿きゅうでん現在げんざい構成こうせいとなった。ほぼ正方形せいほうけい宮殿きゅうでん本体ほんたい中庭なかにわ (Cour Carrée) のひがしめんする最古さいこ建築けんちくぶつシュリーつばさ (Aile Sully)、ナポレオン広場ひろば (Cour Napoléon) のきためんするリシュリューつばさ (Aile Richelieu) と、広場ひろばみなみめんするセーヌがわ沿いのドゥノンつばさ (Aile Denon) である[43]。1983ねんに、当時とうじフランス大統領だいとうりょうミッテラン推進すいしんした「パリだい改造かいぞう計画けいかく (en:Grands Projets of François Mitterrand)」の一環いっかんである「だいルーヴル計画けいかく (Grand Louvre)」で建物たてもの改築かいちくされるとともに、それまでルーヴル宮殿きゅうでんないにあった財務省ざいむしょう移設いせつされ、宮殿きゅうでん施設しせつ全体ぜんたい美術館びじゅつかんとなった。そして建築けんちくイオ・ミン・ペイから、ナポレオン広場ひろばもうけられたあらたなエントランスにガラスせいピラミッド (en:Louvre Pyramid) を建築けんちくする提案ていあんがなされた[44]。このピラミッドと直下ちょっか地下ちかロビーが落成らくせいしたのは1988ねん10がつ15にちのことである。そしてだいルーヴル計画けいかくだい段階だんかいとして、1993ねん地下ちかのカルーゼル・ショッピング・モールに、採光さいこう用途ようとねるぎゃくピラミッド (en:La Pyramide Inversée) が完成かんせいした。従来じゅうらい宮殿きゅうでん入口いりくちには、多数たすう来館らいかんしゃをさばききれないため行列ぎょうれつができるという問題もんだいがあったが、ナポレオン広場ひろば広大こうだい地下ちかエントランスがその問題もんだい解決かいけつした。2002ねん以降いこうのルーヴル美術館びじゅつかん入場にゅうじょうしゃすうは、このだいルーヴル計画けいかく以前いぜんくらべてやく2ばい増加ぞうかしている[45]

ルーヴル美術館びじゅつかんとルーヴル・ピラミッド(夜間やかん

21世紀せいき[編集へんしゅう]

ルーヴル美術館びじゅつかんには、38まんてん以上いじょう収蔵しゅうぞうひんがある。そのうちおよそ3まん5,000てんが8部門ぶもんかれて展示てんじされており、常設じょうせつ展示てんじしつそう面積めんせきは6まん600平方へいほうメートル以上いじょうとなっている[46]。ルーヴル美術館びじゅつかん展示てんじされているのは、彫刻ちょうこく工芸こうげいひん絵画かいがドローイング古代こだい美術びじゅつひんなどである[33]世界せかいでもっとも入場にゅうじょうしゃすうおお美術館びじゅつかん博物館はくぶつかんであり、いちにち平均へいきん1まん5,000にん入場にゅうじょうしゃすうのうちやく65パーセントが外国がいこくじん観光かんこうきゃくとなっている[45][47]

イタリアじん建築けんちくマリオ・ベッリーニ (en:Mario Bellini) とルディ・リキオッティが国際こくさいコンペにのこり、両者りょうしゃ設計せっけいによる、イスラム美術びじゅつひん展示てんじする3,000平方へいほうメートル[48]あらたなギャラリーが2012ねん開館かいかんした。当初とうしょ2009ねん開館かいかん期待きたいされていたこのギャラリーは、美術館びじゅつかんみなみのドゥノンつばさ中央ちゅうおうにあるしん古典こてん様式ようしきの「ヴィスコンティの中庭なかにわ」に位置いちする2かいての建物たてもので、天頂てんちょう金色きんいろ起伏きふくある屋根やねと、蜘蛛くものようにめぐらされる9,000ほんちか鉄管てっかん構成こうせいされた内装ないそうっている[49]。このギャラリーは、1989ねん設置せっちされたルーヴル・ピラミッド以来いらい、21世紀せいきはいって最初さいしょおおきな建造けんぞうぶつとなっている。

また、近年きんねんブル美術館ぶるびじゅつかん日本にっぽんとの関係かんけいもある。いちれいでは2010ねんからルーヴル美術館びじゅつかんすすめている照明しょうめい改修かいしゅうでは、日本にっぽん東芝とうしば照明しょうめいシステムを提供ていきょう[50]しており、従来じゅうらい照明しょうめいよりもかりを特定とくてい範囲はんい均一きんいつらしている。結果けっか絵画かいが濃淡のうたん忠実ちゅうじつ再現さいげんされている。

運営うんえい[編集へんしゅう]

ルネサンス巨匠きょしょうレオナルド・ダ・ヴィンチえがいたモナ・リザは、ルーヴルでもっとも集客しゅうきゃくりょくがある作品さくひんとなっている。

ルーヴル美術館びじゅつかん国立こくりつ美術館びじゅつかんではあるが、1990年代ねんだいからその独立どくりつせいつよめつつあり[47][51][52][53]、2003ねん以降いこう政府せいふから運営うんえい予算よさん捻出ねんしゅつするための独自どくじ基金ききん創設そうせつすることがもとめられている[52]。2006ねんには、ぜん予算よさんのうちくに負担ふたんする割合わりあいがそれまでの75パーセントから62パーセントまで低下ていかした。2003ねん出版しゅっぱんされた小説しょうせつダ・ヴィンチ・コード』をもとにした、2006ねん同名どうめい映画えいがダ・ヴィンチ・コード制作せいさく撮影さつえい場所ばしょとしてギャラリーを提供ていきょうし、250まんドル収入しゅうにゅうたこともあった[54][55]。2008ねんには、年間ねんかん予算よさん3おく5,000まんドルのうちくに負担ふたんするのはおよそ半分はんぶんの1おく8,000まんドルとなり、のこりは寄付きふきん入場にゅうじょうチケットの売上うりあげきんでまかなわれた[51]

ぜんルーヴル美術館びじゅつかんちょうピエール・ローゼンベール (en:Pierre Rosenberg) ののちいで、2001ねんからアンリ・ロワレット (en:Henri Loyrette) が館長かんちょうとなった。ロワレットはそれまでの館長かんちょうとはことなり、所蔵しょぞう美術びじゅつ作品さくひんしに積極せっきょくてき方針ほうしんをとっている[47][52]。2006ねんに、1,300てん作品さくひん施設しせつされ、その貸出かしだし料金りょうきんあらたな美術びじゅつ作品さくひん購入こうにゅう資金しきんてられた。2006ねんから2009ねんには、米国べいこくジョージアしゅうアトランタハイ美術館びじゅつかんから作品さくひん貸出かしだし料金りょうきんとして690まんドルをて、作品さくひん修復しゅうふく費用ひようとして使つかわれている[52]。2012ねんにはルーヴル美術館びじゅつかんサンフランシスコ美術館びじゅつかんとのあいだで、5年間ねんかん展示てんじ出版しゅっぱん教育きょういく保存ほぞん教育きょういくかんする協定きょうていむすばれた[56]。2012ねんに9,850まんユーロをかけてイスラム美術びじゅつギャラリーが拡張かくちょうされ、そのうち3,100まんユーロがくに基金ききんから、1,700まんユーロがサウジアラビア王族おうぞくのアミラ・タウィールが創設そうせつした基金ききんであるワリード・ビン・タタール基金ききん (en:Alwaleed Bin Talal Foundation) から供出きょうしゅつされた。そのほか、アゼルバイジャン共和きょうわこくクウェート首長しゅちょうオマーン国王こくおうモロッコ国王こくおうから、合計ごうけい2,600まんユーロの寄付きふあつまった。また、2012ねんにルーヴル美術館びじゅつかん別館べっかんであるアラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽうのルーヴル・アブダビ (en:Louvre Abu Dhabi) 建設けんせつ計画けいかく発表はっぴょうされたときには、開設かいせつに30年間ねんかん「ルーヴル」という名称めいしょう使用しようする料金りょうきんとして、4おくユーロが支払しはらわれたといわれている[48]。ロワレットは、コレクションのよわ分野ぶんや補完ほかんするために、施設しせつへの所蔵しょぞう作品さくひん貸与たいよ料金りょうきんと「入場にゅうじょうりょう収益しゅうえきの20%を、毎年まいとし作品さくひん購入こうにゅう資金しきんてる」としている[52]。また、ロワレットは経営けいえい改革かいかくにも熱心ねっしんで、それまでルーヴル美術館びじゅつかんかずあるギャラリーの開館かいかんりつが80%程度ていどだったのにたいして、90%まで開館かいかんりつ向上こうじょうさせた。そのほか、開館かいかん時間じかん延長えんちょう毎週まいしゅう金曜きんようよる入館にゅうかんりょう無料むりょう作品さくひん購入こうにゅう予算よさんの450まんドルから3,600まんドルへのげなどの業績ぎょうせきげている[51][52]

ルーヴル別館べっかん[編集へんしゅう]

ルーヴル・ランス[編集へんしゅう]

2004ねんにフランス政府せいふは、ルーヴル美術館びじゅつかん別館べっかんパ=ド=カレーの、以前いぜん炭鉱たんこうまちとしてさかえていたが、すでに過疎かそしているランス建設けんせつすることを決定けっていした。これはパリのルーヴル美術館びじゅつかん本館ほんかん混雑こんざつ緩和かんわ全体ぜんたいでの入場にゅうじょうしゃすう増加ぞうか、さらにフランス北部ほくぶ産業さんぎょう経済けいざい振興しんこう目的もくてきとしたものだった[57]計画けいかく当初とうしょ別館べっかん建設けんせつ候補こうほとしてランスのほかに、アミアンアラスブローニュ=シュル=メールカレーヴァランシエンヌ北部ほくぶ5都市とし名前なまえがっていたが、最終さいしゅうてき当時とうじ首相しゅしょうジャン=ピエール・ラファランが、ランスに「ルーヴル・ランス (Le Louvre-Lens)」という名前なまえ別館べっかんてることを決定けっていした。そして2005ねんに、日本人にっぽんじん建築けんちく妹島いもうとじま和世かずよ西沢にしざわたてまもるのユニットSANAAがルーヴル・ランスの設計せっけいまかされ、建築けんちく計画けいかく始動しどうした。2012ねん12月の開館かいかんに、ルーヴル美術館びじゅつかん関係かんけいしゃは、別館べっかんは600てんにのぼる美術びじゅつひん収容しゅうよう能力のうりょくゆうし、年間ねんかん50まんにん集客しゅうきゃく見込みこんでいるとした[57]

ルーヴル・アブダビ[編集へんしゅう]

2007ねんにルーヴル美術館びじゅつかんは、2012ねんまでにアラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽうアブダビにルーヴル美術館びじゅつかん別館べっかん建設けんせつすると発表はっぴょうした。しかしながら建設けんせつおくれており、開館かいかんはやくても2015ねんになるといわれている[58]。フランスの文化ぶんか・コミュニケーションあいルノー・ドヌデュー・ド・ヴァーブルと、アブダビ首長しゅちょう一族いちぞくのシーク・スルターン・ビン・アール=ナヒヤーンとのあいだに、しん美術館びじゅつかんに「ルーヴル」の名称めいしょうかんすることを30年間ねんかん許可きょかする契約けいやくむすばれ、8おく3,200まん費用ひようでアブダビにあらたな美術館びじゅつかん創設そうせつされることとなった。ルーヴル・アブダビ設計せっけいしゃはフランスじん建築けんちくジャン・ヌーヴェルで、ビューロー・ハッポルドしゃ (en:Buro Happold) が建設けんせつ担当たんとうし、2まん4,000平方へいほうメートルの建設けんせつ予定よていそら円盤えんばんのようなドームじょう屋根やね建物たてものとなる予定よていである。フランス政府せいふはルーヴル・アブダビとのあいだに、200てんから300てん美術びじゅつひんを10ねん交代こうたい周期しゅうき契約けいやく専門せんもんてき知識ちしきおよび助言じょげん提供ていきょうする契約けいやく、15年間ねんかんにわたってとし4かい展示てんじかい開催かいさいする契約けいやく締結ていけつしている。ルーヴル・アブダビに展示てんじされる美術びじゅつひんは、ルーヴル美術館びじゅつかんのほか、ポンピドゥー・センターオルセー美術館びじゅつかん、ヴェルサイユ宮殿きゅうでんギメ美術館びじゅつかんロダン美術館びじゅつかんケ・ブランリ美術館びじゅつかんなど、フランスの複数ふくすう美術館びじゅつかんからあつめられる予定よていである[59]

論争ろんそう[編集へんしゅう]

ルーヴル美術館びじゅつかんは、ナチス・ドイツ諸国しょこくから収奪しゅうだつした美術びじゅつひんおなじく、ナポレオン1せいがヨーロッパ諸国しょこくから収奪しゅうだつした美術びじゅつひんかんする文化財ぶんかざい帰属きぞく問題もんだいで、さまざまな議論ぎろん中心ちゅうしんとなっている。ナチス・ドイツによるフランス占領せんりょう終了しゅうりょう、フランスから収奪しゅうだつされていた15まんてん以上いじょう美術びじゅつひんのうち、6まん1,233てんがフランスへ返還へんかんされ、「私有しゆう財産ざいさん担当たんとう部局ぶきょく (Office des Biens Privés)」の管轄かんかつとなった。1949ねんまでに所有しょゆうしゃあらわれなかった、絵画かいが作品さくひん1,001てんふく美術びじゅつひん2,130てんが「フランス美術館びじゅつかん部局ぶきょく (Direction des Musées de France)」に移管いかんされ、返還へんかんさきつかるまで適切てきせつ保管ほかん責任せきにんつと同時どうじに、複数ふくすうのフランス国立こくりつ美術館びじゅつかん共同きょうどう運営うんえいする「回収かいしゅう美術びじゅつひん保管ほかん部局ぶきょく (Musees Nationaux Recuperation)」の管轄かんかつとなった。これらの美術びじゅつひんのうち10%から35%については、ユダヤじんから略奪りゃくだつされたものだとかんがえられている[60]

所有しょゆうしゃからなかったこれらの返還へんかん美術びじゅつひんが、1946ねん一斉いっせい公開こうかいされた。1950ねんから1954ねんにかけても、所有しょゆうしゃであると名乗なのりをげた人物じんぶつ正当せいとう権利けんりっているかどうかを見極みきわめる目的もくてきで、ふたた一般いっぱん公開こうかいされた。そのも、所有しょゆうしゃあらわれなかった美術びじゅつひん所蔵しょぞう、および展示てんじはルーヴル美術館びじゅつかんなど複数ふくすう美術館びじゅつかん実施じっししている。1951ねんから1965ねんにかけて、37てん美術びじゅつひん正当せいとう所有しょゆうしゃ返還へんかんされたが、1960年代ねんだいわりには名乗なの所有しょゆうしゃ減少げんしょうしていき、美術館びじゅつかんでの一時いちじ保管ほかんひんとして分類ぶんるいされていった。1997ねん首相しゅしょうアラン・ジュペが、社会しゃかい問題もんだいしょうだったジャン・マッテオリ (en:Jean Mattéoli)を議長ぎちょうとする委員いいんかい発足ほっそくさせ、この返還へんかん美術びじゅつひん調査ちょうさめいじた。この調査ちょうさ結果けっか、ルーヴル美術館びじゅつかんには返還へんかん美術びじゅつひんが678てん保管ほかんされていることがかっている[61]

デンデラ神殿しんでん天井てんじょうかざっていた浮彫うきぼり彫刻ちょうこく『デンデラの黄道こうどうたい』。エジプトからの返還へんかん要求ようきゅうに、ルーヴル美術館びじゅつかんおうじていない。

ナポレオン1せいはヨーロッパ諸国しょこくたいして軍事ぐんじ行動こうどうこし、緒戦しょせん勝利しょうりした。イタリアでは終戦しゅうせん条約じょうやくともな賠償ばいしょうとして、きたヨーロッパでは戦利せんりひんとして美術びじゅつひん略奪りゃくだつ。エジプトでは発掘はっくつによる出土しゅつどひんとして古代こだい美術びじゅつひんれた。ただし、エジプトの古代こだい美術びじゅつひんだい部分ぶぶんは、1801ねんナイルの海戦かいせんイギリス海軍かいぐん勝利しょうりし、フランスから戦利せんりひんとして没収ぼっしゅうしている。『ロゼッタ・ストーン』など、これらのエジプト古代こだい美術びじゅつひんは1803ねんだいえい博物館はくぶつかん収蔵しゅうぞうされたが、エジプトからイギリスにたいして返還へんかん要求ようきゅうされている。エジプトの文化財ぶんかざい輸出ゆしゅつ禁止きんしほう制定せいていされた1835ねん以前いぜんである1821ねんにルーヴル美術館びじゅつかん収蔵しゅうぞうされた、デンデラ神殿しんでん天井てんじょうかざっていた浮彫うきぼり彫刻ちょうこく『デンデラの黄道こうどうたい (en:Dendera zodiac)』も、エジプトからフランスへ返還へんかん要求ようきゅうがなされている。しかしながらルーヴル美術館びじゅつかんは、入手にゅうしゅ合法ごうほうなものであるとしてエジプトからの返還へんかん要求ようきゅう拒否きょひしている。文化ぶんか教育きょういくなどを担当たんとうする国際こくさい連合れんごう機関きかんユネスコには「文化財ぶんかざいげん保有ほゆうこくへの返還へんかん促進そくしん政府せいふあいだ委員いいんかい」が存在そんざいし、ルーヴル美術館びじゅつかんもこの活動かつどう参加さんかしている[62]。この活動かつどう一環いっかんとして、2009ねんにルーヴル美術館びじゅつかんから5てんフレスコ断片だんぺんがエジプトへ返還へんかんされた。これらの断片だんぺんすうねんまえにルーヴル美術館びじゅつかんが2箇所かしょのプライベート・コレクションから正当せいとうかたち購入こうにゅうした美術びじゅつひんだったが、「フランス博物館はくぶつかんコレクション学術がくじゅつ委員いいんかい (en:Commission scientifique nationale des collections des musées de France)」が「価値かちひくい (déclassement)」と評価ひょうかしたものだった[63]

コレクション[編集へんしゅう]

Category:ルーヴル所蔵しょぞうひん参照さんしょう

ルーヴル美術館びじゅつかんには38まんてん以上いじょう美術びじゅつひん収蔵しゅうぞうされており、そのうち3まん5,000てんほどが8部門ぶもん(「古代こだいエジプト美術びじゅつ部門ぶもん」「古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもん」「古代こだいギリシア・エトルリア・ローマ美術びじゅつ部門ぶもん」「イスラム美術びじゅつ部門ぶもん」「彫刻ちょうこく部門ぶもん」「工芸こうげいひん部門ぶもん」「絵画かいが部門ぶもん」「素描そびょう版画はんが部門ぶもん」)に分類ぶんるいされて展示てんじされている[64][8]

古代こだいエジプト美術びじゅつ部門ぶもん[編集へんしゅう]

エジプトのサッカラから出土しゅつどした『書記しょき座像ざぞう』。石灰岩せっかいがん化粧けしょう漆喰しっくいによる彫刻ちょうこくで、紀元前きげんぜん2600ねんから2350ねんごろの作品さくひんかんがえられている[65]

古代こだいエジプト美術びじゅつ部門ぶもんには、ナイルがわ流域りゅういき発展はってんした文明ぶんめいの、紀元前きげんぜん4000ねんから4世紀せいきにわたる[66]5まんてん以上いじょう美術びじゅつひん所蔵しょぞうされている[67]。エジプト美術びじゅつコレクションとしては世界せかい最大さいだい規模きぼであり、古代こだいちゅう王国おうこく時代じだいしん王国おうこく時代じだい初期しょきキリスト教きりすときょう時代じだいコプト美術びじゅつ)、ローマぞくしゅう時代じだいプトレマイオス王国おうこく時代じだいビザンティン帝国ていこく時代じだい美術びじゅつひん網羅もうらされている[66]。この部局ぶきょく原点げんてん王室おうしつコレクションまでさかのぼることができるが、ナポレオン1せいの1798ねんエジプト遠征えんせいでコレクションがおおきく発展はってんしたものである。このときのエジプト遠征えんせいには、のちに初代しょだいルーヴル美術館びじゅつかん館長かんちょうとなるドミニク・ヴィヴァン (en:Dominique Vivant) も同行どうこうしていた[67]。そのジャン=フランソワ・シャンポリオンが『ロゼッタ・ストーン』を解読かいどくすると、フランスおうシャルル10せい古代こだいエジプト専門せんもん部局ぶきょく創設そうせつめいじた。シャンポリオンは、エドム・アントワーヌ・デュラン、ヘンリー・ソルト (en:Henry Salt (Egyptologist))、ベルナルディーノ・ドロヴェッティ (en:Bernardino Drovetti) が収集しゅうしゅうしたコレクションの購入こうにゅう進言しんげんし、これらのコレクションから7,000てんあまりのエジプト美術びじゅつひん所蔵しょぞうひんくわえられた。さらに、エジプト考古学こうこがく博物館はくぶつかん基礎きそつくることになるフランスじん考古こうこ学者がくしゃオギュスト・マリエットによって、エジプト美術びじゅつひん所蔵しょぞうすう増大ぞうだいしていった。マリエットは、エジプトのメンフィス発掘はっくつ調査ちょうさおこない、『書記しょき座像ざぞう (en:The Seated Scribe)』などの出土しゅつどひんを、ルーヴル美術館びじゅつかんへとおくりだした[67][68]

エジプト美術びじゅつひんは20以上いじょう展示てんじしつ公開こうかいされている。美術びじゅつひんのほかに、パピルス巻物まきものミイラ工具こうぐ衣服いふく宝石ほうせき遊戯ゆうぎばん楽器がっき武器ぶきなども展示てんじされている[67][66]古代こだいエジプトの所蔵しょぞうひんでは『ゲベル・エル・アラクの短刀たんとう (en:Gebel el-Arak Knife)』『書記しょき坐像ざぞう』『ジェドエフラーおうスフィンクス頭部とうぶ』などが有名ゆうめいである。ちゅう王国おうこく時代じだい美術びじゅつひんは「かね細工ざいく彫像ちょうぞう」でられ、それまでの写実しゃじつてき表現ひょうげんから理想りそう表現ひょうげんへと移行いこうしていった。この様式ようしき好例こうれいとして、片岩かたいわせいの『アメンエムハトアンクの彫像ちょうぞう』、木製もくせいの『供物くもつはこ女性じょせい』などがある。しん王国おうこく時代じだい初期しょきキリスト教きりすときょう時代じだいでは、女神めがみネフティス彫像ちょうぞうや、女神めがみハトホル石灰岩せっかいがん彫刻ちょうこくなどが、この時代じだい様式ようしきをよくあらわしている[66][68]

古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもん[編集へんしゅう]

石灰岩せっかいがんレリーフ『ゆうつばさ人面じんめんおすうしぞう』。アッシリア帝国ていこく紀元前きげんぜん8世紀せいき

古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもんは、1881ねん創設そうせつされた番目ばんめあたらしい部局ぶきょくで、イスラム教いすらむきょう普及ふきゅうまえ古代こだいオリエント文明ぶんめい美術びじゅつひん収蔵しゅうぞうされている。古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもんは、ユーフラテスがわ西側にしがわ地域ちいきキプロスレヴァントアナトリア半島はんとうアラビア半島はんとうきたアフリカ)、古代こだいメソポタミアペルシアさん地域ちいきべつ細分さいぶんされている[69]古代こだいオリエント美術びじゅつのコレクションが充実じゅうじつしたのは、フランスじん学者がくしゃポール=エミール・ボッタによる、1843ねんドゥル・シャルキン発掘はっくつ調査ちょうさ、アッシリアおうサルゴン2せい王宮おうきゅう発見はっけんとほぼどう時期じきたる[66][70]。この遺跡いせきからの出土しゅつどひんが、古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもん前身ぜんしんである「アッシリア美術館びじゅつかん」の基礎きそとなった[66]

古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもんでは、初期しょきメソポタミア文明ぶんめいともいわれるシュメール文明ぶんめい美術びじゅつひんと、アッカド帝国ていこく出土しゅつどひんであるラガシュ王国おうこく王子おうじ碑文ひぶん禿たか (en:Stele of the Vultures)』(紀元前きげんぜん2,450ねんごろ)、アッカドおうナラム・シン戦勝せんしょう記念きねんなどが展示てんじされている。1901ねん発見はっけんされた、たかさ2.25メートルの閃緑がん古代こだいバビロニアの「ハンムラビ法典ほうてん」が楔形文字くさびがたもじきざまれた石碑せきひ有名ゆうめいである。紀元前きげんぜん18世紀せいきマリ王国おうこく王宮おうきゅう壁画へきが (en:Investiture of Zimri-Lim) や、紀元前きげんぜん25世紀せいきの『エビフ・イルのぞう』も、この古代こだいオリエント美術びじゅつ部門ぶもん展示てんじしつ公開こうかいされている。

古代こだいペルシアの所蔵しょぞうひんでは、『射手しゃしゅのフリーズ』などが有名ゆうめいである[66][71]ペルセポリスからの貴重きちょう出土しゅつどひん所蔵しょぞうされており、2005ねんにイギリスでひらかれた古代こだいペルシアてん公開こうかいするために、だいえい博物館はくぶつかんされたこともある[72]

古代こだいギリシア・エトルリア・ローマ美術びじゅつ部門ぶもん[編集へんしゅう]

大理石だいりせき彫刻ちょうこくサモトラケのニケ』(紀元前きげんぜん190ねんごろ)

古代こだいギリシア・エトルリア・ローマ美術びじゅつ部門ぶもんは、しん石器せっき時代じだいから6世紀せいきまでの、地中海ちちゅうかい沿岸えんがん地方ちほう美術びじゅつひん収蔵しゅうぞうしている[73]時代じだい区分くぶんとしてはキクラデス文明ぶんめいからマ帝国まていこく衰退すいたいまでとなる。古代こだいギリシア・エトルリア・ローマ美術びじゅつ部門ぶもんは、ルーヴル美術館びじゅつかんでも最古さいこ部局ぶきょくのひとつで、所蔵しょぞうひん王室おうしつコレクションだった時代じだいまでさかのぼることができ、フランスおうフランソワ1せい購入こうにゅうした美術びじゅつひんふくまれている[66][74]。コレクション初期しょきには『ミロのヴィーナス』や『ベルヴェデーレのアポロン (en:Apollo Belvedere)』のような、大理石だいりせき彫刻ちょうこく収集しゅうしゅう重点じゅうてんかれていた。『ベルヴェデーレのアポロン』は、ナポレオン1せいがヴァチカンから押収おうしゅうしたものだったが、ナポレオンが失脚しっきゃくした1815ねんにヴァチカンへと返還へんかんされている。19世紀せいきになってから、デュラン・コレクションやフランス国立こくりつ図書館としょかんから、『ボルゲーゼのつぼ (en:Borghese Vase)』のような大理石だいりせき彫刻ちょうこく銅像どうぞうなどを購入こうにゅうしている[65][73]古代こだいギリシア・アルカイック収蔵しゅうぞうひんには、宝飾ほうしょくひん、『オーセールの婦人ふじん (en:Lady of Auxerre)』(紀元前きげんぜん640ねんごろ)や『サモスのヘラ』(紀元前きげんぜん570ねん - 560ねんごろ)のような石灰岩せっかいがん彫刻ちょうこくがある[66][75]紀元前きげんぜん4世紀せいき以降いこう収蔵しゅうぞうひんは、『ボルゲーゼのけん闘士とうし (en:Borghese Gladiator)』に代表だいひょうされるような、人体じんたい写実しゃじつてき再現さいげんした彫刻ちょうこくおおくなっている。また、ルーヴル美術館びじゅつかんには『サモトラケのニケ』(紀元前きげんぜん190ねんごろ)や『ミロのヴィーナス』のような、古代こだい美術びじゅつ象徴しょうちょうともいえるヘレニズム名作めいさく所蔵しょぞうされている[74]

長大ちょうだいなカンパーナ・ギャラリーには、1,000てんえるギリシア陶器とうき一大いちだいコレクションが展示てんじされている。セーヌがわ沿いのドゥノンつばさかく展示てんじしつにはすうおおくの古代こだいローマ彫刻ちょうこく展示てんじされている[73]肖像しょうぞう彫刻ちょうこくのコレクションも有名ゆうめいで、アグリッパやマルクス・アンニウス・ウェルスらの大理石だいりせき彫刻ちょうこく、『ピオンビーノのアポロン (en:Apollo of Piombino)』などのブロンズぞうられている。

イスラム美術びじゅつ部門ぶもん[編集へんしゅう]

象牙ぞうげぎん宝石ほうせきばこ、966ねん

2003ねん創設そうせつされたイスラム美術びじゅつ部門ぶもんは、ルーヴル美術館びじゅつかんではもっともあたらしい部門ぶもんで「13世紀せいきにわたるみっつの大陸たいりく」の美術びじゅつひん収蔵しゅうぞうされている[76]。コレクションには、陶磁器とうじき、ガラス工芸こうげいひん金属きんぞく工芸こうげいひん木製品もくせいひん象牙ぞうげ工芸こうげいひん絨毯じゅうたん織物おりものミニアチュールなど、5,000てん以上いじょう美術びじゅつひんふくまれている[77]。イスラム美術びじゅつ部門ぶもんはもともと工芸こうげい部門ぶもん一部いちぶだったが、2003ねん独立どくりつした部局ぶきょくとして新設しんせつされた。アンダルシア由来ゆらいの『アル=ムギラのめいのあるしょうはこ』(968ねん)とばれる象牙ぞうげつつじょうはこや、『サン・ルイの洗礼せんれいばん』(13世紀せいきから14世紀せいきごろ、マムルークあさ)とばれる金属きんぞくせいボウル、イラン由来ゆらいの『サン=ジョスのかばねころも』などが有名ゆうめい収蔵しゅうぞうひんとなっている[70][76]。ほかに、ペルシアかれたフェルドウスィーの『シャー・ナーメ』3ページぶんなども有名ゆうめいである[77]

彫刻ちょうこく部門ぶもん[編集へんしゅう]

ヨンベ語族ごぞく彫刻ちょうこく(19世紀せいき

彫刻ちょうこく部門ぶもんには、古代こだいギリシア・エトルリア・ローマ美術びじゅつ部門ぶもんぞくさない、1850ねん以前いぜん彫刻ちょうこく収蔵しゅうぞうされている[78]。ルーヴル美術館びじゅつかんが、いまだルーヴル宮殿きゅうでんとして使用しようされていた時代じだいから彫刻ちょうこく収集しゅうしゅう開始かいしされていたが、ミケランジェロの『瀕死ひんし奴隷どれい』と『抵抗ていこうする奴隷どれい』をのぞいて、1824ねんまでは古代こだい彫刻ちょうこくしか公開こうかいされていなかった[79]。ルーヴル美術館びじゅつかん開設かいせつ当時とうじには100てんほどの彫刻ちょうこくしかなく、ほかの王室おうしつコレクションの彫刻ちょうこくおおくはヴェルサイユ宮殿きゅうでん移設いせつされていた。その彫刻ちょうこくコレクションはほとんど増加ぞうかすることはなかったが、1847ねんにレオン・ラボルデが彫刻ちょうこく部門ぶもん責任せきにんしゃ任命にんめいされると、コレクションのかず徐々じょじょえていった。ラボルデは中世ちゅうせい彫刻ちょうこく収集しゅうしゅうする部門ぶもん設置せっちし、『キルデベルデ1せいぞう』『スタンガのとびら』などの彫像ちょうぞう彫刻ちょうこく購入こうにゅうしていった[79]彫刻ちょうこく部門ぶもんは、もともとは工芸こうげい部門ぶもん一部いちぶきょくだったが、フランス美術びじゅつひんのコレクションを推進すいしんしていた館長かんちょうルイ・クラジョが、1871ねん自治じち裁量さいりょうけんあたえている[78][79]。1986ねんに1850ねん以降いこう彫刻ちょうこくは、新設しんせつされたオルセー美術館びじゅつかんへとうつされた。「だいルーヴル計画けいかく」によって、彫刻ちょうこく部門ぶもん収蔵しゅうぞうひん展示てんじ場所ばしょが、フランス彫刻ちょうこく展示てんじするリシュリューつばさと、フランス以外いがい彫刻ちょうこく展示てんじするドゥノンつばさけられた[78]

ロマネスク様式ようしきのフランス彫刻ちょうこくには『獅子ししあななかのダニエル』(11世紀せいき)や『オーヴェルニュ聖母せいぼ』(12世紀せいき)などが所蔵しょぞうされている。16世紀せいきにはルネサンス抑制よくせい表現ひょうげん影響えいきょうがフランス彫刻ちょうこくにもあらわはじめ、ジャン・グージョン浮彫うきぼりや、ジェルマン・ピロン (en:Germain Pilon) の『十字架じゅうじか降下こうか』や『キリスト復活ふっかつ』などにその影響えいきょうることができる。17世紀せいきから18世紀せいきのフランス彫刻ちょうこくとして、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ (en:Étienne Maurice Falconet) の『水浴すいよくするおんな』や、フランソワ・アンギエ (en:François Anguier) の『オベリスク』などがある。しん古典こてん様式ようしき彫刻ちょうこくには、アントニオ・カノーヴァの『キューピッドくちづけに目覚めざめたプシュケ』(1793ねん)がある[79]

工芸こうげいひん部門ぶもん[編集へんしゅう]

せいブラシウスえがいた、13世紀せいきフランスのステンドグラス

工芸こうげいひん部門ぶもんには、中世ちゅうせいから19世紀せいきなかばまでの美術びじゅつ工芸こうげいひん収蔵しゅうぞうされている。もともとは彫刻ちょうこく部門ぶもん一部いちぶきょくで、フランス王室おうしつコレクションと、歴代れきだいフランス王家おうけ墓所はかしょであるサン=ドニだい聖堂せいどうからフランス革命かくめいされた作品さくひん基礎きそとなっている[80][81]。これらの収蔵しゅうぞうひんなかでもっとも重要じゅうようなものに、ピエトラ・ドゥーラ(宝石ほうせき貴石たかいしりばめた絵画かいがのような工芸こうげいひん、(en:pietre dure))のつぼ青銅器せいどうきげられる。その、1825ねん購入こうにゅうしたデュラン・コレクションから「陶磁器とうじき、エナメル細工ざいくステンドグラス」がもたらされ、さらに1828ねん芸術げいじゅつピエール・レヴォワルからおよそ800てん作品さくひん寄贈きぞうされた。ロマン主義しゅぎ潮流ちょうりゅうがルネサンスと中世ちゅうせい芸術げいじゅつふたたひかりて、ソヴァジョという人物じんぶつが1,500てんにのぼる中世ちゅうせい工芸こうげいひんと、ファイアンス陶磁器とうじき遺贈いぞうした。1862ねんにはカンパーナ侯爵こうしゃくのコレクションから、15世紀せいきから16世紀せいき制作せいさくされたものを中心ちゅうしんとして、きむ細工ざいくマヨルカ陶磁器とうじきなどが追加ついかされている[81][82]

工芸こうげいひん部門ぶもん収蔵しゅうぞうひんはリシュリューつばさ2かいとドゥノンつばさのアポロン・ギャラリーに展示てんじされている。アポロン・ギャラリーの名付なづおや画家がかのシャルル・ル・ブランで、太陽たいようおうルイ14せいからこのギャラリーを太陽たいようをテーマとした装飾そうしょくめいじられた人物じんぶつである。中世ちゅうせい工芸こうげいひんコレクションには、ルイ14せい戴冠たいかんしき使用しようした王冠おうかんや、シャルル5せいおうしゃく、『むらがんつぼ』などがある[83]。ルネサンス工芸こうげいひんコレクションには、ジャンボローニャ制作せいさくしたブロンズぞう『ネッソスとデイアネイラ』、タペストリー『マクシミリアンの狩猟しゅりょうのタピスリー』などがある[80]。ルネサンス以降いこう時代じだいのコレクションで有名ゆうめいなものとして、ポンパドゥール夫人ふじん所有しょゆうしていたセーヴル磁器じきのコレクションや、ナポレオン3せいのアパルトマンなどがげられる[80]


絵画かいが部門ぶもん[編集へんしゅう]

レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。おそらくレオナルドがフランソワ1せい宮廷きゅうてい滞在たいざいしていたときに現在げんざいかたちとなった。

絵画かいが部門ぶもんには、7,500てんえる絵画かいが作品さくひん収蔵しゅうぞうされている[84]。13世紀せいきから1848ねんまでの作品さくひんがコレクションされており、12めいキュレーターがその展示てんじ責任せきにんっている。絵画かいが作品さくひんのうち、およそ3ぶんの2がフランスじん画家がか作品さくひんで、のこりの絵画かいがのうち1,200てん以上いじょう北方ほっぽうヨーロッパ(アルプス以北いほくのヨーロッパ)の作品さくひんとなっている。イタリア絵画かいがはフランソワ1せいとルイ14せいのコレクション由来ゆらい作品さくひんだい部分ぶぶんとなっており、そののイタリア絵画かいが返還へんかんになっているナポレオン1せい収奪しゅうだつ絵画かいがおおく、すくないながら正式せいしき購入こうにゅうした作品さくひん存在そんざいする[85][86]。イタリア絵画かいがのコレクションはフランソワ1せいはじめたもので、ラファエロミケランジェロ[注釈ちゅうしゃく 1]らルネサンス巨匠きょしょう作品さくひん購入こうにゅうし、のちにレオナルド・ダ・ヴィンチ自身じしん宮廷きゅうていむかえた[20][87]。フランス革命かくめい没収ぼっしゅう国有こくゆう財産ざいさんされたこれらの王室おうしつ絵画かいがコレクションが、ルーヴル美術館びじゅつかん中核ちゅうかくとなった。1986ねんに、それまで鉄道てつどうえきしゃとして使用しようされていたドルセーえきオルセー美術館びじゅつかん(ミュゼ・ドルセー)としてまれわり、ルーヴル美術館びじゅつかん絵画かいがコレクションのうち1848ねん以降いこう完成かんせいした絵画かいが作品さくひんがオルセー美術館びじゅつかんうつされた(一部いちぶ印象派いんしょうは絵画かいがなど例外れいがいあり)。フランス絵画かいがきたヨーロッパ絵画かいがはリシュリューつばさに、スペイン絵画かいがとイタリア絵画かいがはドゥノンつばさ2かい展示てんじされている[86]

初期しょきのフランス絵画かいがに、アンゲラン・カルトン (en:Enguerrand Quarton) の『ヴィルヌーヴ=レザヴィニョンのピエタ』(1455ねんごろ)がある。フランスおうジャン2せい肖像しょうぞうで、作者さくしゃしょうの『ジャン2せい善良ぜんりょうこう肖像しょうぞう』(1360ねんごろ)は、古代こだい以降いこう作品さくひんとしては、おそらく最古さいこ個人こじん肖像しょうぞうといわれている[88]。17世紀せいきのフランス絵画かいがには、ラ・トゥールの『大工だいくせいヨセフ』や『灯火ともしびまえのマグダラのマリア』、プッサンの『詩人しじん霊感れいかん』や『わがアルカディアにもあり』、シャンパーニュの『1662ねん奉納ほうのう』、プルビュスの『フランスおうヘンリーよんせい後継こうけいしゃマリー・ド・メディシス』、リゴーの『ルイ14せい』などがある。また、18世紀せいきから19世紀せいきにかけてのフランス絵画かいが重要じゅうよう作品さくひんとして、ヴァトーの『シテールとう巡礼じゅんれい』、シャルダンの『あかエイ』、ブーシェの『水浴すいよくのディアナ』、ダヴィドの『ナポレオン1せい戴冠たいかん』、アングルの『グランド・オダリスク』、ドラクロワの『民衆みんしゅうみちび自由じゆう女神めがみ』などがある。

アルプス以北いほく北方ほっぽう絵画かいがには、ヤン・ファン・エイクの『宰相さいしょうロランの聖母せいぼ』、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの『ブラック祭壇さいだん』、『受胎じゅたい告知こくち』、ヒエロニムス・ボスの『愚者ぐしゃふね』、クエンティン・マサイスの『両替りょうがえしょうとそのつま』、ピーテル・ブリューゲルの『あしなえたち』、フェルメールの『レースをおんな』、『天文学てんもんがくしゃ』、レンブラントの『エマオの晩餐ばんさん』、『ダビデおう手紙てがみにしたバテシバの水浴すいよく』、『屠殺とさつされたうし』、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの『カラスのいる (en:The Tree of Crows)』などがある。

イタリア絵画かいがでは、とくルネサンスのコレクションに重要じゅうよう作品さくひんおおい。ルネサンス初期しょき画家がかマンテーニャベッリーニの『キリスト磔刑たっけい』には写実しゃじつ主義しゅぎ詳細しょうさい表現ひょうげん萌芽ほうががみられ「精神せいしん世界せかい表現ひょうげんした重要じゅうよう場面ばめんえがかれている」とされている[89]。そのほか、フラ・アンジェリコフィリッポ・リッピドメニコ・ギルランダイオサンドロ・ボッティチェッリピエトロ・ペルジーノらの名作めいさくおお所蔵しょぞうされている。ルネサンス盛期せいき絵画かいがコレクションには、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』、『ひじりアンナと聖母子せいぼし』、『洗礼せんれいしゃひじりヨハネ』、『岩窟がんくつ聖母せいぼ』、ラファエロの『うつくしきおんな庭師にわし』、『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像しょうぞう』、ティツィアーノの『田園でんえん奏楽そうがく』、『キリストの埋葬まいそう』、『荊冠けいかんのキリスト』、ヴェロネーゼの『カナの婚礼こんれい』など巨匠きょしょうたちの代表だいひょうさく数々かずかず所蔵しょぞうされている。バロック絵画かいがコレクションにはカラヴァッジョの『おんなうらな (en:The Fortune Teller (Caravaggio))』、『聖母せいぼ』など重要じゅうようさく所蔵しょぞうされている[90][91]

スペイン絵画かいがくらべてすうおおくはないが、スペイン本国ほんごく以外いがいでは屈指くっし収集しゅうしゅうである[92]エル・グレコホセ・デ・リベーラフランシスコ・デ・スルバランバルトロメ・エステバン・ムリーリョフランシスコ・デ・ゴヤらの名品めいひん収蔵しゅうぞうされている。とくにリベーラの『えびあし少年しょうねん』、ムリーリョの『乞食こじき少年しょうねん』は名高なだかい。

美術びじゅつひん収集しゅうしゅう医者いしゃルイ・ラ・カーズ (en:Louis La Caze) が1869ねん遺贈いぞうした絵画かいが584てんは、通称つうしょう「ラ・カーズ・コレクション」とばれ、個人こじん寄付きふした絵画かいが点数てんすうとしてはルーヴル史上しじょう最大さいだいのコレクションとなっている。ラ・カーズ・コレクションには、ヴァトーの『ピエロ』(旧称きゅうしょう『ジル』)、リベーラの『えびあし少年しょうねん』、ムリーリョの『乞食こじき子供こども』、レンブラントの『ダビデおう手紙てがみにしたバテシバの水浴すいよく』などがふくまれている。2007ねんにはラ・カーズ・コレクションをおもとした展覧てんらんかいである「1868ねん:ルイ・ラ・カーズ・コレクション - ルーヴルが所蔵しょぞうするヴァトーとシャルダン」が開催かいさいされた[93]

フランス絵画かいが[編集へんしゅう]

北方ほっぽう絵画かいが[編集へんしゅう]

イタリア絵画かいが[編集へんしゅう]

スペイン絵画かいが[編集へんしゅう]

素描そびょう版画はんが部門ぶもん[編集へんしゅう]

素描そびょう版画はんが部門ぶもんには、かみ素材そざいとした美術びじゅつひんである、デッサンパステルミニアチュール版画はんがほん写本しゃほん書簡しょかんリトグラフなどが収蔵しゅうぞうされている[94][95]。コレクションの基礎きそとなったのは、8,600てんにのぼる王室おうしつコレクション (Cabinet du Roi) で、その、1806ねんのフィリポ・バルディヌッチのプライベート・コレクションの遺贈いぞうなどによって、1,200てんほどの作品さくひん追加ついか購入こうにゅうされていった[65][96]素描そびょう版画はんが部門ぶもん創設そうせつされたのは1797ねん8がつ5にちのことで、このときにはアポロン・ギャラリーに415てん作品さくひん展示てんじされた。素描そびょう版画はんが部門ぶもんは3つの部局ぶきょくけられている。コレクションの中核ちゅうかくをなす王室おうしつコレクション、1,400てんあまりの王室おうしつコレクション由来ゆらい銅版どうはん画板がばん、そしてエドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド遺贈いぞうした、4,000てん版画はんがエングレービング)、3,000てん絵画かいが、500てん装飾そうしょくほんである[33]。2012ねん現在げんざいでは、その製作せいさく技法ぎほう、および素材そざいかみひかりよわいために常設じょうせつ展示てんじはされておらず、特別とくべつ閲覧えつらん企画きかくてんのときのみに、厳重げんじゅう環境かんきょう管理かんり公開こうかいされている[94][95]

ルーヴル周辺しゅうへん交通こうつうアクセスなど[編集へんしゅう]

ルーヴル美術館びじゅつかん周辺しゅうへん地図ちずバス停ばすていとめしょ地下鉄ちかてつ路線ろせん駐車ちゅうしゃじょう表示ひょうじされている。

ルーヴル美術館びじゅつかんはパリ中央ちゅうおうだい1、セーヌがわ右岸うがん位置いちする。西にしとなりには、かつてフランス王宮おうきゅうとして使用しようされていたテュイルリー宮殿きゅうでんあとがある。現在げんざいもテュイルリー庭園ていえん (en:Tuileries Garden) としてのこっている宮殿きゅうでん庭園ていえん部分ぶぶんは、1564ねんにアンリ2せいカトリーヌ・ド・メディシス造園ぞうえんさせたもので、1664ねんアンドレ・ル・ノートルさい設計せっけいした庭園ていえんである。テュイルリー庭園ていえんのガーデン・ハウスは、1940ねんから1944ねんまでナチス・ドイツに収奪しゅうだつされたユダヤじん文化財ぶんかざい収容しゅうようされていたが、1947ねんきん現代げんだい美術びじゅつ所蔵しょぞうするジュ・ド・ポーム国立こくりつ美術館びじゅつかんとして開館かいかんした[97]。ジュ・ド・ポーム国立こくりつ美術館びじゅつかん隣接りんせつして、オランジュリー美術館びじゅつかんがある。オランジュリー美術館びじゅつかん印象派いんしょうはポスト印象派いんしょうは絵画かいが作品さくひんおさめられており、とくモネの『睡蓮すいれん』の連作れんさく所蔵しょぞうしていることで名高なだかい。

ルーヴル美術館びじゅつかんは、パリの中央ちゅうおうをおよそ8キロにわたって西にしつらぬく、いわゆる「パリの歴史れきしじく」の起点きてんとなっている。ルーヴル美術館びじゅつかん中庭なかにわひがしはしに、シャンゼリゼどおグランダルシュ西端せいたんとする。1871ねんに、パリ・コミューン鎮圧ちんあつ混乱こんらんでテュイルリー宮殿きゅうでん焼失しょうしつし、ブル美術館ぶるびじゅつかん建物たてものが「歴史れきしじく」にたいしてわずかにかたむいていることがあきらかになった[98]

ルーヴル美術館びじゅつかんへはメトロパレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴルえき、あるいはルーヴル=リヴォリえき最寄もよえきとなっている[99]

ルーヴル美術館びじゅつかんには3かしょのエントランスがある。ルーヴル・ピラミッドがあるメイン・エントランス、地下ちかショッピング・モールのカルーゼル・デュ・ルーヴルからのエントランス、ドゥノンつばさ東端ひがしばたのポルト・デ・リオン(ライオンもん/ライオンこう)のエントランスである。メイン・エントランスの地下ちかには、ウニベイル・ロダムコ・ウェストフィールド管理かんりするショッピング・モールのカルーゼル・デュ・ルーブルがある。カルーゼル・デュ・ルーブルには、フランスで最初さいしょ開店かいてんしたApple Storeマクドナルドなども出店しゅってんしており、場所ばしょがらこれらの店舗てんぽ相応ふさわしくないのではないかという論争ろんそうにもなっている[100]

ルーヴル美術館びじゅつかんないでの写真しゃしん撮影さつえい、ビデオ撮影さつえい許可きょかされているが、フラッシュの使用しよう禁止きんしされている。

なお、新型しんがたコロナウイルス感染かんせん防止ぼうしのために、ブル美術館ぶるびじゅつかん閉鎖へいさされていた。しかし、おおくの訪問ほうもんしゃ見捨みすてないために、ブル美術館ぶるびじゅつかん展示てんじされていないものもふくめ、すべての作品さくひんることができるプラットフォームをげた。あたらしいプラットフォームでは、すでに482,000をえるイラストきのコレクションが公開こうかいされており、それはブル美術館ぶるびじゅつかん豊富ほうふ多様たようなコレクションの75%に相当そうとうする[101]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ ジョルジョ・ヴァザーリの『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』には、ミケランジェロの『レダと白鳥はくちょう』(現存げんそんせず)は、フランソワ1せい購入こうにゅうしたとかれている。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]