ルーヴル美術館 びじゅつかん (ルーヴルびじゅつかん、仏 ふつ : Musée du Louvre )は、パリ にあるフランス の国立 こくりつ 美術館 びじゅつかん 。世界 せかい 最大 さいだい 級 きゅう の美術館 びじゅつかん (博物館 はくぶつかん )であるとともに世界 せかい 最大 さいだい 級 きゅう の史跡 しせき のひとつで、パリ中心 ちゅうしん 部 ぶ 1区 く のセーヌ川 がわ の右岸 うがん に位置 いち する。収蔵 しゅうぞう 品 ひん 38万 まん 点 てん 以上 いじょう 。先史 せんし 時代 じだい から19世紀 せいき までのさまざまな美術 びじゅつ 品 ひん 3万 まん 5,000点 てん 近 ちか くが、総 そう 面積 めんせき 6万 まん 600平方 へいほう メートル の展示 てんじ 場所 ばしょ で公開 こうかい されている。世界 せかい でもっとも入場 にゅうじょう 者 しゃ 数 すう の多 おお い美術館 びじゅつかん で、毎年 まいとし 800万 まん 人 にん を超 こ える入場 にゅうじょう 者 しゃ が訪 おとず れ[2] 、2018年 ねん は初 はじ めて1,000万 まん 人 にん を超 こ えた[3] 。フランスの世界 せかい 遺産 いさん であるパリのセーヌ河岸 かわぎし にも包括 ほうかつ 登録 とうろく されている[4] 。
そのコレクションの一部 いちぶ は、日本 にっぽん を含 ふく め海外 かいがい へ貸 か し出 だ されることも多 おお い[5] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん は、フランス王 おう フィリップ2世 せい が12世紀 せいき に、もともとは要塞 ようさい として建設 けんせつ したルーヴル城 じょう (ルーヴル宮殿 きゅうでん )に収容 しゅうよう されている。現在 げんざい の建物 たてもの にも要塞 ようさい として使用 しよう されていた当時 とうじ の面影 おもかげ が一部 いちぶ 残 のこ っているが、幾度 いくど となく増 ぞう 改築 かいちく が繰 く り返 かえ されて、現在 げんざい のルーヴル宮殿 きゅうでん の建物 たてもの となっている。フランソワ1世 せい の改築 かいちく 計画 けいかく 以来 いらい 、歴代 れきだい フランス王 おう の王宮 おうきゅう として使用 しよう されていたルーヴル宮殿 きゅうでん だったが、1682年 ねん にフランス王 おう ルイ14世 せい が、自身 じしん の王宮 おうきゅう にヴェルサイユ宮殿 きゅうでん を選 えら び、ルーヴル宮殿 きゅうでん の主 しゅ たる役割 やくわり は、1692年 ねん 以来 いらい 収集 しゅうしゅう されてきた古代 こだい 彫刻 ちょうこく などの王室 おうしつ 美術 びじゅつ 品 ひん コレクションの収蔵 しゅうぞう 、展示 てんじ 場所 ばしょ となった[6] 。1692年 ねん にはルーヴル宮殿 きゅうでん に、フランス学士 がくし 院 いん 碑文 ひぶん ・美文 びぶん アカデミーと王立 おうりつ 絵画 かいが 彫刻 ちょうこく アカデミーが収容 しゅうよう され、1699年 ねん に最初 さいしょ のサロン が開催 かいさい されている。アカデミーはその後 ご 100年 ねん にわたってルーヴル宮殿 きゅうでん に設置 せっち されていた[7] 。そして、フランス革命 かくめい 下 した の憲法 けんぽう 制定 せいてい 国民 こくみん 議会 ぎかい で、ルーヴル宮殿 きゅうでん をフランスが保有 ほゆう する優 すぐ れた美術 びじゅつ 品 ひん を展示 てんじ する美術館 びじゅつかん として使用 しよう することが決定 けってい された。
美術館 びじゅつかん として正式 せいしき に開館 かいかん したのは1793年 ねん である。このときには、王室 おうしつ 所有 しょゆう だった、あるいはキリスト教 きりすときょう の教会 きょうかい 財産 ざいさん から没収 ぼっしゅう された絵画 かいが を中心 ちゅうしん として、537点 てん の絵画 かいが が展示 てんじ されている。しかしながら、建物 たてもの の構造 こうぞう 上 じょう の問題 もんだい から1796年 ねん にいったん閉館 へいかん されており、1801年 ねん に再度 さいど 開館 かいかん した。フランス皇帝 こうてい ナポレオン1世 せい が、諸国 しょこく から美術 びじゅつ 品 ひん を収奪 しゅうだつ したことにより所蔵 しょぞう 品 ひん は増大 ぞうだい していき、美術館 びじゅつかん も名前 なまえ を「ナポレオン美術館 びじゅつかん (Musée Napoléon )」と改名 かいめい したこともあった。その後 ご 、ワーテルローの戦 たたか い の敗戦 はいせん でナポレオン・ボナパルト がフランス皇帝 こうてい 位 い を追 お われ、ナポレオン軍 ぐん が収奪 しゅうだつ していた美術 びじゅつ 品 ひん の多 おお くが元 もと の持 も ち主 ぬし たちに返還 へんかん されている。王政 おうせい 復古 ふっこ でフランス王 おう となったルイ18世 せい 、シャルル10世 せい の統治 とうち 時代 じだい 、さらにフランス第 だい 二 に 帝政 ていせい 時代 じだい でルーヴル美術館 びじゅつかん の所蔵 しょぞう 品 ひん はさらに増 ふ え続 つづ け、2万 まん 点 てん を超 こ える美術 びじゅつ 品 ひん が集 あつ められた。その後 ご に成立 せいりつ したフランス第 だい 三 さん 共和 きょうわ 政 せい の時代 じだい にも、ルーヴル美術館 びじゅつかん の所蔵 しょぞう 品 ひん は遺贈 いぞう や寄贈 きぞう などによって着実 ちゃくじつ に増 ふ えていった。2003年 ねん に「イスラム美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」が創設 そうせつ され、所蔵 しょぞう 品 ひん が「古代 こだい エジプト美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「古代 こだい ギリシア ・エトルリア ・ローマ美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「イスラム美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん 」「工芸 こうげい 品 ひん 部門 ぶもん 」「絵画 かいが 部門 ぶもん 」「素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん 」の8部門 ぶもん に分類 ぶんるい されることとなった[8] 。
中世 ちゅうせい ・ルネサンス期 き ・ブルボン王朝 おうちょう 期 き [ 編集 へんしゅう ]
ルーヴル宮殿 きゅうでん 地下 ちか 室 しつ 。中世 ちゅうせい ルーヴル城 じょう の面影 おもかげ が残 のこ る唯一 ゆいいつ の場所 ばしょ [9] 。
現在 げんざい ルーヴル美術館 びじゅつかん として使用 しよう されているルーヴル宮殿 きゅうでん は、12世紀 せいき にカペー朝 あさ 第 だい 7代 だい のフランス王 おう フィリップ2世 せい (在位 ざいい 1180年 ねん - 1223年 ねん )が要塞 ようさい として建設 けんせつ したルーヴル城 じょう をもととしており、当時 とうじ の建物 たてもの の面影 おもかげ が現在 げんざい も地下 ちか 室 しつ に残 のこ っている[9] 。ただし、ルーヴル城 じょう が、すでに存在 そんざい していた別 べつ の建造 けんぞう 物 ぶつ を増 ふえ 改築 かいちく した要塞 ようさい だったのか、一 いち から建 た てられた要塞 ようさい だったのかどうかは伝 つた わっていない[10] 。セーヌ川 がわ の中洲 なかす であるシテ島 とう は、中世 ちゅうせい においてもパリの中心 ちゅうしん 地 ち であった。都市 とし の防衛 ぼうえい という面 めん で、街 まち の中心 ちゅうしん を流 なが れるセーヌ川 がわ 自体 じたい が防御 ぼうぎょ の弱点 じゃくてん となっていたため、防衛 ぼうえい 要塞 ようさい たるルーヴル城 じょう が建設 けんせつ された[11] 。円筒 えんとう 形 がた で、径 みち 約 やく 15メートルのドンジョン (主 おも 塔 とう 、天守 てんしゅ )の周囲 しゅうい に方形 ほうけい の城壁 じょうへき (約 やく 78×72メートル)を巡 めぐ らした要塞 ようさい は、20年余 ねんよ の歳月 さいげつ を要 よう して完成 かんせい した[12] 。この城壁 じょうへき は、現代 げんだい のルーヴルのシュリー翼 つばさ の位置 いち にあたり、シュリー翼 つばさ の中庭 なかにわ (クール・カレ)の南西 なんせい 側 がわ 4分 ぶん の1の面積 めんせき に相当 そうとう する。当時 とうじ のルーヴルは宮殿 きゅうでん ではなくまさに要塞 ようさい であり、建物 たてもの の役割 やくわり は大 だい 部分 ぶぶん が牢獄 ろうごく や人質 ひとじち の監禁 かんきん 場所 ばしょ にあてられていた[13] 。パリ市 し の防衛 ぼうえい のために建造 けんぞう されたルーヴル城 じょう であったが、この城 しろ が英国 えいこく など外国 がいこく からの攻撃 こうげき にさらされることは結局 けっきょく なかった[14] 。当時 とうじ のルーヴルの遺構 いこう は、のちのナポレオン3世 せい の時代 じだい 、1866年 ねん にも発掘 はっくつ 調査 ちょうさ が行 おこな われているが、本格 ほんかく 的 てき ・学術 がくじゅつ 的 てき な発掘 はっくつ 調査 ちょうさ が行 おこな われたのは1984年 ねん から1986年 ねん のことである[15] 。また、1991年 ねん に発掘 はっくつ された城壁 じょうへき の一部 いちぶ は、地下 ちか のショッピングセンター の大 だい ホールで一般 いっぱん に公開 こうかい されている[14] 。
「ルーヴル (louvre )」 の語源 ごげん については複数 ふくすう の説 せつ がある。12世紀 せいき 後半 こうはん のパリで最大 さいだい の建築 けんちく 物 ぶつ だったことから「偉大 いだい な」を意味 いみ するフランス語 ふらんすご 「L'Œuvre 」からという説 せつ 、森 もり の中 なか に建 た てられたことから「オーク 」を意味 いみ するフランス語 ふらんすご 「rouvre 」からという説 せつ 、『ラルース百科 ひゃっか 事典 じてん 』の「狼 おおかみ 狩 か り」と関係 かんけい するラテン語 らてんご 「lupus 」が変化 へんか した、ビザンチン帝国 ていこく で使 つか われていたラテン語 らてんご 「lupara 」から派生 はせい したという説 せつ などがある[10] [16] 。また、7世紀 せいき フランス のモー の女子大 じょしだい 修道 しゅうどう 院長 いんちょう 聖 せい ファーレは「パリ地方 ちほう にルーヴラ (Luvra ) と呼 よ ばれる邸宅 ていたく がある」という記録 きろく を修道院 しゅうどういん に残 のこ しているが、この記述 きじゅつ の「パリ」はおそらく現在 げんざい のパリとは違 ちが う地域 ちいき を指 さ していると考 かんが えられる[17] 。
シャルル5世 せい 時代 じだい のルーヴル(『ベリー公 こう のいとも豪華 ごうか なる時 とき 祷 いのり 書 しょ 』より)
ルーヴル宮殿 きゅうでん は中世 ちゅうせい 時代 じだい を通 つう じて何 なん 度 ど も改築 かいちく されている。14世紀 せいき にはフランス王 おう シャルル5世 せい (在位 ざいい 1364年 ねん - 1380年 ねん )が、レーモン・デュ・タンブルに命 めい じてルーヴル城 じょう を改修 かいしゅう し、「要塞 ようさい 」のイメージが強 つよ かったルーヴルを、規模 きぼ は従来 じゅうらい のままで、華 はな やかな「城 しろ 館 かん (シャトー)」へと造 つく り替 か えた[18] 。1546年 ねん にはフランソワ1世 せい が、ルネサンス様式 ようしき の壮麗 そうれい な建物 たてもの への改築 かいちく を決定 けってい した[19] 。このフランソワ1世 せい が収集 しゅうしゅう した美術 びじゅつ 品 ひん 、たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチ の『モナ・リザ 』などが、ルーヴル美術 びじゅつ コレクションの中核 ちゅうかく となっていった[20] 。フランソワ1世 せい は、1528年 ねん にルーヴル城 じょう のドンジョン(主 おも 塔 とう )を取 と り壊 こわ した。1546年 ねん には建築 けんちく 家 か ピエール・レスコに命 めい じて、旧 きゅう 城 しろ を取 と り壊 こわ し新 あら たな宮殿 きゅうでん を建築 けんちく する工事 こうじ を開始 かいし したが、その翌年 よくねん フランソワ1世 せい が死去 しきょ したため、ルーヴル城 じょう の改築 かいちく は息子 むすこ のアンリ2世 せい (在位 ざいい 1547年 ねん - 1559年 ねん )に引 ひ き継 つ がれた[21] 。アンリ2世 せい の死後 しご 、その妃 ひ カトリーヌ・ド・メディシス が、ルーヴルの西 にし 約 やく 500メートルのところに新 あら たな宮殿 きゅうでん の建築 けんちく を始 はじ めさせた。かつて瓦 かわら (テュイル)製造 せいぞう 工房 こうぼう があったことからテュイルリー宮殿 きゅうでん と呼 よ ばれるこの宮殿 きゅうでん は、フィリベール・ドロルムの設計 せっけい で、1563年 ねん から建築 けんちく が開始 かいし され、完成 かんせい には約 やく 1世紀 せいき を要 よう した[22] 。
ヴァロア王朝 おうちょう の終焉 しゅうえん 後 ご 、ブルボン王朝 おうちょう の初代 しょだい の王 おう であるアンリ4世 せい (在位 ざいい 1589年 ねん - 1610年 ねん )は、旧 きゅう ルーヴル城 じょう の部分 ぶぶん を4倍 ばい の面積 めんせき に広 ひろ げ(現代 げんだい のシュリー翼 つばさ に相当 そうとう )、セーヌ河 かわ に沿 そ ってルーヴルと西 にし のテュイルリー宮殿 きゅうでん を直接 ちょくせつ 結 むす ぶ、長大 ちょうだい な回廊 かいろう (現在 げんざい の「大 だい 展示 てんじ 室 しつ (Grande Galerie )」)を建設 けんせつ させた。グランド・ギャルリの建設 けんせつ やクール・カレ(方形 ほうけい 中庭 なかにわ )の拡張 かくちょう を含 ふく む「グラン・デッサン(大 だい 計画 けいかく )」はアンリ4世 せい の時代 じだい に開始 かいし されたが、造営 ぞうえい は次 つぎ のルイ13世 せい (在位 ざいい 1610年 ねん - 1643年 ねん )の時代 じだい にも引 ひ き継 つ がれた[23] 。太陽 たいよう 王 おう ルイ14世 せい (在位 ざいい 1643年 ねん - 1715年 ねん )もさらなる拡張 かくちょう 計画 けいかく を進 すす め、1657年 ねん からは建築 けんちく 家 か ルイ・ル・ヴォーが中心 ちゅうしん となって、クール・カレ(方形 ほうけい 中庭 なかにわ )の拡張 かくちょう 、ならびにルーヴル宮殿 きゅうでん とテュイルリー宮殿 きゅうでん を結 むす ぶ建物 たてもの の工事 こうじ が進 すす められた[24] 。しかしながら、1682年 ねん にルイ14世 せい が自身 じしん の宮殿 きゅうでん に、それまでの歴代 れきだい フランス王 おう が宮廷 きゅうてい としていたルーヴル宮殿 きゅうでん から、ヴェルサイユ宮殿 きゅうでん へと宮廷 きゅうてい を移 うつ すことを決 き めた。宮廷 きゅうてい の移動 いどう にともなうヴェルサイユ宮殿 きゅうでん の改築 かいちく 工事 こうじ は遅 おく れがちではあったが、遷宮 せんぐう は予定 よてい どおりに行 おこな われ、王族 おうぞく が不在 ふざい となったルーヴル宮殿 きゅうでん は、芸術 げいじゅつ 家 か たちの住居 じゅうきょ 兼 けん アトリエ として提供 ていきょう されることとなった[19] [25] [26] 。
1747年 ねん に出版 しゅっぱん された美術 びじゅつ 評論 ひょうろん 家 か ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌの著作 ちょさく がきっかけで、18世紀 せいき 半 なか ばに王室 おうしつ 美術 びじゅつ コレクションを公開 こうかい 展示 てんじ するギャラリー を設置 せっち しようという気運 きうん が高 たか まった[27] 。1750年 ねん 10月 がつ 14日 にち にルイ15世 せい がギャラリーの設置 せっち を承認 しょうにん し、リュクサンブール宮殿 きゅうでん に「王室 おうしつ 絵画 かいが ギャラリー (Galerie royale de peinture )」を設 もう け、王室 おうしつ コレクションが所蔵 しょぞう する96点 てん の絵画 かいが 作品 さくひん を展示 てんじ することを許可 きょか した。ギャラリーの開館 かいかん には、ル・ノルマン・ド・トゥルヌエム (en:Charles François Paul Le Normant de Tournehem ) と、マリニー侯爵 こうしゃく アベル=フランソワ が立会 たちあ っている。「王 おう の絵画 かいが (Tableaux du Roy )」は、毎週 まいしゅう 水曜日 すいようび と土曜日 どようび に一般 いっぱん 公開 こうかい された。公開 こうかい された王室 おうしつ 絵画 かいが コレクションには、ルネサンス 期 き のイタリア人 じん 画家 がか アンドレア・デル・サルト の『慈愛 じあい 』をはじめ、ルネサンス期 き イタリア人 じん 画家 がか ラファエロ 、ティツィアーノ 、ヴェロネーゼ 、バロック 期 き オランダ人 じん 画家 がか レンブラント 、ヴァン・ダイク 、バロック期 き フランス人 じん 画家 がか プッサン らの絵画 かいが 作品 さくひん が含 ふく まれていた。1778年 ねん にルイ16世 せい がリュクサンブール宮殿 きゅうでん をプロヴァンス 伯爵 はくしゃく ルイ に与 あた えたため、この絵画 かいが ギャラリーは1780年 ねん に閉館 へいかん された[28] 。しかしながら、ルイ16世 せい のもとでリュクサンブール宮殿 きゅうでん に代 か わる王立 おうりつ 美術館 びじゅつかん の設置 せっち は国 くに の政策 せいさく となっていった[27] 。そして、王室 おうしつ 建造 けんぞう 物 ぶつ 長官 ちょうかん で王立 おうりつ 絵画 かいが 彫刻 ちょうこく アカデミー にも関 かか わっていたダンジヴィレ伯 はく シャルル・クロード (en:Charles-Claude Flahaut de la Billaderie, comte d'Angiviller ) が美術 びじゅつ コレクションを拡張 かくちょう し、1776年 ねん にルーヴル宮殿 きゅうでん を「巨大 きょだい なギャラリー (Grande Galerie )」として、美術館 びじゅつかん へと転用 てんよう する案 あん を提出 ていしゅつ した[28] 。ルーヴル宮殿 きゅうでん を美術館 びじゅつかん へと転用 てんよう するというこの提案 ていあん には多 おお くの賛同 さんどう 者 しゃ が現 あらわ れたが王室 おうしつ からの許可 きょか は下 お りず、本格 ほんかく 的 てき にルーヴル宮殿 きゅうでん が美術館 びじゅつかん として使用 しよう されるようになったのはフランス革命 かくめい 以降 いこう のことだった[28] 。
フランス革命 かくめい 下 した で、ルーヴル宮殿 きゅうでん は大衆 たいしゅう に開 ひら かれた美術館 びじゅつかん へと姿 すがた を変 か えた。1791年 ねん 5月 がつ に憲法 けんぽう 制定 せいてい 国民 こくみん 議会 ぎかい がルーヴル宮殿 きゅうでん を「あらゆる科学 かがく 、芸術 げいじゅつ が集 あつ められた場所 ばしょ 」とする法案 ほうあん を可決 かけつ した[28] 。1792年 ねん 8月 がつ 10日 とおか にルイ16世 せい が投獄 とうごく され、ルーヴル宮殿 きゅうでん に所蔵 しょぞう されていた王室 おうしつ 美術 びじゅつ コレクションは私有 しゆう 財産 ざいさん ではなく、国有 こくゆう 財産 ざいさん となった。市民 しみん による美術 びじゅつ コレクションの破壊 はかい や略奪 りゃくだつ を恐 おそ れた国民 こくみん 議会 ぎかい は、8月 がつ 19日 にち にルーヴル宮殿 きゅうでん の美術館 びじゅつかん 化 か を至急 しきゅう 推 お し進 すす めるという声明 せいめい を出 だ している。10月には国有 こくゆう 財産 ざいさん 保存 ほぞん 委員 いいん 会 かい が設置 せっち され、美術 びじゅつ コレクションを一般 いっぱん 展示 てんじ するための準備 じゅんび が進 すす められた[29] 。
『エロス の接吻 せっぷん で目覚 めざ めるプシュケ 』(アントニオ・カノーヴァ ) 1787年 ねん に制作 せいさく 依頼 いらい 、1824年 ねん に完成 かんせい [30] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん の開館 かいかん は1793年 ねん 8月 がつ 10日 とおか で、この日 ひ は前 ぜん 国王 こくおう ルイ16世 せい の処刑 しょけい 一 いち 周年 しゅうねん にあたる日 ひ だった。週 しゅう のうち3日間 にちかん 大衆 たいしゅう に解放 かいほう されたルーヴル美術館 びじゅつかん は、大 おお いなる成果 せいか であるとして高 たか く評価 ひょうか された[31] 。開館 かいかん 当時 とうじ のルーヴル美術館 びじゅつかん には、537点 てん の絵画 かいが と、184点 てん のその他 た の美術 びじゅつ 品 ひん が収蔵 しゅうぞう されていた。コレクションのうち4分 ぶん の3ほどが王室 おうしつ 美術 びじゅつ コレクション由来 ゆらい で、残 のこ りはフランス革命 かくめい で他国 たこく へ亡命 ぼうめい した上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 、ローマ ・カトリック教会 きょうかい からの押収 おうしゅう 美術 びじゅつ 品 ひん を国有 こくゆう 財産 ざいさん 化 か したものだった[32] [33] 。コレクションを拡張 かくちょう 、系統 けいとう 立 た てて整理 せいり するために、毎年 まいとし 10万 まん リーヴル の献金 けんきん が集 あつ まった[28] 。1794年 ねん から、フランス革命 かくめい 軍 ぐん が北 きた ヨーロッパ諸国 しょこく から美術 びじゅつ 品 ひん を押収 おうしゅう し始 はじ め、1797年 ねん 2月 がつ にフランス とローマ教皇 きょうこう との和平 わへい 条約 じょうやく であるトレンチノ条約 じょうやく (en:Treaty of Tolentino ) が締結 ていけつ されてからは、古代 こだい ローマ彫刻 ちょうこく 『ラオコーン像 ぞう 』や『ベルヴェデーレのアポロン 』などの美術 びじゅつ 品 ひん が、ヴァチカン から押収 おうしゅう されてフランスへと持 も ち込 こ まれた。これらはルーヴル美術館 びじゅつかん を「国民 こくみん 主権 しゅけん の象徴 しょうちょう 」たる一流 いちりゅう の美術館 びじゅつかん とすることを目的 もくてき としていた[32] [34] 。
開館 かいかん 初期 しょき のルーヴル美術館 びじゅつかん は混沌 こんとん としたものだった。特権 とっけん を受 う けた芸術 げいじゅつ 家 か がいまだに美術館 びじゅつかん 内 ない に住 す んでいただけでなく、絵画 かいが の展示 てんじ 方法 ほうほう もまったく分類 ぶんるい されておらず、「床 ゆか から天上 てんじょう まで所 ところ 狭 せま しと」作品 さくひん がかけられているだけだった[32] 。その後 ご 、1796年 ねん 5月 がつ に建物 たてもの の構造 こうぞう 上 じょう の問題 もんだい からいったん閉館 へいかん され、1801年 ねん 7月 がつ に、作品 さくひん を年代 ねんだい 順 じゅん に配置 はいち したうえで新 あら たな照明 しょうめい が追加 ついか されて再度 さいど 開館 かいかん している[32] 。
ナポレオン1世 せい と第 だい 一 いち 帝政 ていせい 期 き [ 編集 へんしゅう ]
ナポレオン1世 せい がフランスの実権 じっけん を握 にぎ り、ヨーロッパ諸国 しょこく との戦争 せんそう に勝利 しょうり し続 つづ けたことによって、フランスの美術 びじゅつ 品 ひん コレクションは、諸国 しょこく からの略奪 りゃくだつ 美術 びじゅつ 品 ひん で溢 あふ れかえっていった[35] 。1798年 ねん から1801年 ねん のエジプト侵攻 しんこう 後 ご 、ナポレオン1世 せい はルーヴル美術館 びじゅつかん の初代 しょだい 館長 かんちょう にドミニク・ヴィヴァン (en:Dominique Vivant ) を任命 にんめい した。これにちなんで、1803年 ねん にルーヴル美術館 びじゅつかん は「ナポレオン美術館 びじゅつかん 」へと改名 かいめい され、スペイン 、オーストリア 、オランダ 、イタリア などの美術 びじゅつ 品 ひん が収蔵 しゅうぞう された。これらの美術 びじゅつ 品 ひん は、トレンチノ条約 じょうやく などの和平 わへい 条約 じょうやく を無視 むし して諸国 しょこく から略奪 りゃくだつ された美術 びじゅつ 品 ひん だった[36] 。1815年 ねん のワーテルローの戦 たたか い でフランスが敗北 はいぼく し、略奪 りゃくだつ された美術 びじゅつ 品 ひん の元 もと の所有 しょゆう 者 しゃ たちはその返還 へんかん をフランスに求 もと めた。しかしながら、ルーヴル美術館 びじゅつかん の上層 じょうそう 部 ぶ はこの要求 ようきゅう にほとんど応 おう じず、略奪 りゃくだつ 美術 びじゅつ 品 ひん の多 おお くを自分 じぶん たちのプライベート・コレクションに紛 まぎ れこませて、隠匿 いんとく しようとした。進 すす まない返還 へんかん 交渉 こうしょう に憤 いきどお った諸国 しょこく は、ワーテルローの戦 たたか いで勝利 しょうり したイギリスに特使 とくし を送 おく り、美術 びじゅつ 品 ひん 返還 へんかん への協力 きょうりょく を求 もと めた。この結果 けっか 多 おお くの美術 びじゅつ 品 ひん が返還 へんかん されたが、そのままルーヴル美術館 びじゅつかん に残 のこ された美術 びじゅつ 品 ひん も存在 そんざい している[36] 。返還 へんかん されずにルーヴルに残 のこ った主要 しゅよう な美術 びじゅつ 品 ひん に、マンテーニャ の『慈愛 じあい 』、ヴェロネーゼ の『カナの婚礼 こんれい 』、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン の『受胎 じゅたい 告知 こくち 』などがある[37] 。王政 おうせい 復古 ふっこ 後 ご の1815年 ねん に、フランス王 おう ルイ18世 せい とイタリアとの間 あいだ に、未 み 返還 へんかん の略奪 りゃくだつ 美術 びじゅつ 品 ひん についての協定 きょうてい が交 か わされた。たとえば、現在 げんざい もルーヴル美術館 びじゅつかん が所蔵 しょぞう するヴェロネーゼの『カナの婚礼 こんれい 』は、この時 とき の協定 きょうてい でフランス人 じん 画家 がか シャルル・ル・ブラン の一大 いちだい コレクションと交換 こうかん され、元 もと の所有 しょゆう 者 しゃ であるローマの美術 びじゅつ 品 ひん 収集 しゅうしゅう 家 か アレッサンドロ・アルバーニ (en:Alessandro Albani ) にも賠償金 ばいしょうきん が支払 しはら われている。
王政 おうせい 復古 ふっこ 期 き 、第 だい 二 に 帝政 ていせい 期 き [ 編集 へんしゅう ]
『ミロのヴィーナス 』はルイ18世 せい の時代 じだい にルーヴル美術館 びじゅつかん に収蔵 しゅうぞう された彫刻 ちょうこく である。
ナポレオン1世 せい が失脚 しっきゃく し、フランスはルイ18世 せい が王位 おうい に就 つ いて、王政 おうせい 復古 ふっこ 期 き (1814年 ねん - 1830年 ねん )に入 はい る。ルイ18世 せい と次 つぎ 王 おう のシャルル10世 せい の治世 ちせい 下 か で、72万 まん フラン をかけてルーヴル美術館 びじゅつかん に135点 てん の美術 びじゅつ 品 ひん が追加 ついか された。さらに、古代 こだい エジプト学者 がくしゃ ジャン=フランソワ・シャンポリオン の指揮 しき の下 した 、古代 こだい エジプト美術 びじゅつ 品 ひん の専門 せんもん 部局 ぶきょく が編成 へんせい され、イギリス人 じん 画家 がか 、エジプト学 がく 研究 けんきゅう 者 しゃ ヘンリー・ソルト (en:Henry Salt (Egyptologist) ) やイタリア人 じん 古 こ 美術 びじゅつ 品 ひん 収集 しゅうしゅう 家 か ベルナルディーノ・ドロヴェッティ (en:Bernardino Drovetti ) らのコレクションから、7,000点 てん 以上 いじょう の古代 こだい エジプト美術 びじゅつ 品 ひん を購入 こうにゅう している。ただし、この時代 じだい に追加 ついか された美術 びじゅつ 品 ひん の数 かず よりも、王権 おうけん を回復 かいふく するためという名目 めいもく でルーヴル美術館 びじゅつかん からヴェルサイユ宮殿 きゅうでん へと持 も ち出 だ された美術 びじゅつ 品 ひん のほうが多 おお かった。1848年 ねん に第 だい 二 に 共和 きょうわ 制 せい が成立 せいりつ すると、共和 きょうわ 政府 せいふ は美術 びじゅつ 品 ひん の修復 しゅうふく 費用 ひよう として200万 まん フランを供出 きょうしゅつ し、さらに美術 びじゅつ 品 ひん の展示 てんじ 場所 ばしょ である「アポロン・ギャラリー (Galerie d'Apollon )」、「サロン・カレ (Salon Carré )」、「大 だい 展示 てんじ 室 しつ (Grande Galérie )」の完成 かんせい を推進 すいしん した[38] 。1858年 ねん にフランス第 だい 二 に 帝政 ていせい が成立 せいりつ し、フランス皇帝 こうてい となったナポレオン3世 せい は、1861年 ねん に641点 てん の絵画 かいが 、古代 こだい ギリシア の金貨 きんか 、ジャンピエトロ・カンパーナ侯爵 こうしゃく の美術 びじゅつ 品 ひん コレクション (en:Campana collection ) 由来 ゆらい の古 こ 美術 びじゅつ 品 ひん など、1万 まん 1,835点 てん の美術 びじゅつ 品 ひん を購入 こうにゅう した。1852年 ねん から1870年 ねん にわたるフランス第 だい 二 に 帝政 ていせい 下 か でフランス経済 けいざい は拡大 かくだい し、ルーヴル美術館 びじゅつかん は1870年 ねん までに2万 まん 点 てん にのぼる美術 びじゅつ 品 ひん を新 あら たに収蔵 しゅうぞう している。また、「花 はな の展示 てんじ 室 しつ (en:Pavillon de Flore )」と「大 だい 展示 てんじ 室 しつ 」が、建築 けんちく 家 か ルイ・ヴィスコンティとヘクター・ルフェル (en:Hector Lefuel ) によって改装 かいそう されたのもこの時期 じき である[38] 。
第 だい 三 さん 共和 きょうわ 制 せい 期 き と世界 せかい 大戦 たいせん 期 き [ 編集 へんしゅう ]
ヴァトー の『ピエロ 』。1718年 ねん - 1719年 ねん ごろの作品 さくひん で、旧称 きゅうしょう 『ジル』と呼 よ ばれていた。
フランス第 だい 三 さん 共和 きょうわ 政 せい の時代 じだい にルーヴル美術館 びじゅつかん に新 あら たに収蔵 しゅうぞう された美術 びじゅつ 品 ひん は、遺贈 いぞう 、寄贈 きぞう によるものが多 おお かった。アンゲラン・カルトン (en:Enguerrand Quarton ) 作 さく といわれる、15世紀 せいき の油彩 ゆさい 画 が 『ヴィルヌーヴ=レザヴィニョンのピエタ 』は「ルーヴル友 とも の会 かい (Société des Amis du Louvre )」が寄贈 きぞう したもので、1863年 ねん に発掘 はっくつ された古代 こだい ギリシア彫刻 ちょうこく 『サモトラケのニケ 』は、同年 どうねん にルーヴル美術館 びじゅつかん へと収 おさ められたものである。『サモトラケのニケ』は、頭部 とうぶ 、左腕 さわん が存在 そんざい しないなどのひどい損傷 そんしょう があるが、1884年 ねん の展示 てんじ 以来 いらい 、ルーヴル美術館 びじゅつかん が誇 ほこ る主要 しゅよう な古代 こだい 彫刻 ちょうこく となっている[39] 。1869年 ねん に美術 びじゅつ 品 ひん 収集 しゅうしゅう 家 か の医者 いしゃ ルイ・ラ・カーズ (en:Louis La Caze ) が遺贈 いぞう した583点 てん の美術 びじゅつ 品 ひん からなる「ラ・カーズ・コレクション (Collection La Caze)」には、ロココ期 き のフランス人 じん 画家 がか シャルダン 、フラゴナール らの絵画 かいが が含 ふく まれており、その他 た ラ・カーズ・コレクション由来 ゆらい の著名 ちょめい な作品 さくひん として、バロック期 き のオランダ人 じん 画家 がか レンブラント の『ダビデ王 おう の手紙 てがみ を手 て にしたバテシバの水浴 すいよく 』、ロココ期 き のフランス人 じん 画家 がか ヴァトー の『ピエロ (旧称 きゅうしょう 『ジル』)』などがある[39] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん の拡大 かくだい は、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 こう ゆるやかになっていき、重要 じゅうよう な作品 さくひん の購入 こうにゅう はほとんどなされていない。例外 れいがい といえる作品 さくひん として、バロック美術 びじゅつ 期 き のフランス人 じん ラ・トゥール の『聖 せい トマス』と、遺贈 いぞう された大 だい 規模 きぼ なコレクションとして、1935年 ねん にエドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド が遺贈 いぞう した、4,000点 てん の版画 はんが (エングレービング )、3,000点 てん の絵画 かいが 、500点 てん の装飾 そうしょく 本 ほん が挙 あ げられる[33] 。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 時 とき には、多 おお くの美術 びじゅつ 品 ひん がルーヴル美術館 びじゅつかん から避難 ひなん した。第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 直前 ちょくぜん にドイツ軍 ぐん がチェコ のズデーテン地方 ちほう を併合 へいごう した時 とき には、『モナ・リザ 』などの重要 じゅうよう な作品 さくひん が、ロワール=エ=シェール のシャンボール城 じょう へと移 うつ された。1939年 ねん 後半 こうはん に第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が勃発 ぼっぱつ すると、『サモトラケのニケ』や『ミロのヴィーナス 』といった重要 じゅうよう な彫刻 ちょうこく 作品 さくひん がアンドル のヴァランセ城 じょう (en:Château de Valençay ) へと移 うつ されている[40] 。所蔵 しょぞう 美術 びじゅつ 品 ひん の梱包 こんぽう に2日 にち かけ、1939年 ねん 8月 がつ 27日 にち に一団 いちだん のトラックがルーヴル美術館 びじゅつかん を離 はな れた。12月28日 にち までには、あまりに巨大 きょだい で重量 じゅうりょう がかさむ作品 さくひん と「地下 ちか 室 しつ に所蔵 しょぞう されていた重要 じゅうよう ではない絵画 かいが 作品 さくひん 」を除 のぞ いて、主要 しゅよう な作品 さくひん はすべてルーヴル美術館 びじゅつかん から姿 すがた を消 け している[41] 。1945年 ねん 初頭 しょとう 、それまでドイツ に占拠 せんきょ されていたフランスが解放 かいほう されると、各地 かくち に分散 ぶんさん していた美術 びじゅつ 品 ひん が元通 もとどお りルーヴル美術館 びじゅつかん へと戻 もど されていった[42] 。
大 だい ルーヴル計画 けいかく とルーヴル・ピラミッド[ 編集 へんしゅう ]
1874年 ねん までにルーヴル宮殿 きゅうでん は現在 げんざい の構成 こうせい となった。ほぼ正方形 せいほうけい の宮殿 きゅうでん 本体 ほんたい 、中庭 なかにわ (Cour Carrée ) の東 ひがし に面 めん する最古 さいこ の建築 けんちく 物 ぶつ シュリー翼 つばさ (Aile Sully )、ナポレオン広場 ひろば (Cour Napoléon ) の北 きた に面 めん するリシュリュー翼 つばさ (Aile Richelieu ) と、広場 ひろば の南 みなみ に面 めん するセーヌ川 がわ 沿 ぞ いのドゥノン翼 つばさ (Aile Denon ) である[43] 。1983年 ねん に、当時 とうじ のフランス大統領 だいとうりょう ミッテラン が推進 すいしん した「パリ大 だい 改造 かいぞう 計画 けいかく (en:Grands Projets of François Mitterrand )」の一環 いっかん である「大 だい ルーヴル計画 けいかく (Grand Louvre )」で建物 たてもの が改築 かいちく されるとともに、それまでルーヴル宮殿 きゅうでん 内 ない にあった財務省 ざいむしょう が移設 いせつ され、宮殿 きゅうでん 施設 しせつ 全体 ぜんたい が美術館 びじゅつかん となった。そして建築 けんちく 家 か イオ・ミン・ペイ から、ナポレオン広場 ひろば に設 もう けられた新 あら たなエントランスにガラス 製 せい のピラミッド (en:Louvre Pyramid ) を建築 けんちく する提案 ていあん がなされた[44] 。このピラミッドと直下 ちょっか の地下 ちか ロビーが落成 らくせい したのは1988年 ねん 10月 がつ 15日 にち のことである。そして大 だい ルーヴル計画 けいかく の第 だい 二 に 段階 だんかい として、1993年 ねん に地下 ちか のカルーゼル・ショッピング・モールに、採光 さいこう 用途 ようと を兼 か ねる逆 ぎゃく ピラミッド (en:La Pyramide Inversée ) が完成 かんせい した。従来 じゅうらい の宮殿 きゅうでん 入口 いりくち には、多数 たすう の来館 らいかん 者 しゃ をさばききれないため行列 ぎょうれつ ができるという問題 もんだい があったが、ナポレオン広場 ひろば の広大 こうだい な地下 ちか エントランスがその問題 もんだい を解決 かいけつ した。2002年 ねん 以降 いこう のルーヴル美術館 びじゅつかん 入場 にゅうじょう 者 しゃ 数 すう は、この大 だい ルーヴル計画 けいかく 以前 いぜん に比 くら べて約 やく 2倍 ばい に増加 ぞうか している[45] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん とルーヴル・ピラミッド(夜間 やかん )
ルーヴル美術館 びじゅつかん には、38万 まん 点 てん 以上 いじょう の収蔵 しゅうぞう 品 ひん がある。そのうちおよそ3万 まん 5,000点 てん が8部門 ぶもん に分 わ かれて展示 てんじ されており、常設 じょうせつ 展示 てんじ 室 しつ の総 そう 面積 めんせき は6万 まん 600平方 へいほう メートル以上 いじょう となっている[46] 。ルーヴル美術館 びじゅつかん に展示 てんじ されているのは、彫刻 ちょうこく 、工芸 こうげい 品 ひん 、絵画 かいが 、ドローイング 、古代 こだい 美術 びじゅつ 品 ひん などである[33] 。世界 せかい でもっとも入場 にゅうじょう 者 しゃ 数 すう の多 おお い美術館 びじゅつかん ・博物館 はくぶつかん であり、一 いち 日 にち 平均 へいきん 1万 まん 5,000人 にん の入場 にゅうじょう 者 しゃ 数 すう のうち約 やく 65パーセントが外国 がいこく 人 じん 観光 かんこう 客 きゃく となっている[45] [47] 。
イタリア人 じん 建築 けんちく 家 か マリオ・ベッリーニ (en:Mario Bellini ) とルディ・リキオッティが国際 こくさい コンペに勝 か ち残 のこ り、両者 りょうしゃ の設計 せっけい による、イスラム美術 びじゅつ 品 ひん を展示 てんじ する3,000平方 へいほう メートル[48] の新 あら たなギャラリーが2012年 ねん に開館 かいかん した。当初 とうしょ 2009年 ねん の開館 かいかん が期待 きたい されていたこのギャラリーは、美術館 びじゅつかん 南 みなみ のドゥノン翼 つばさ 中央 ちゅうおう にある新 しん 古典 こてん 様式 ようしき の「ヴィスコンティの中庭 なかにわ 」に位置 いち する2階 かい 建 だ ての建物 たてもの で、天頂 てんちょう が金色 きんいろ の起伏 きふく ある屋根 やね と、蜘蛛 くも の巣 す のように張 は り巡 めぐ らされる9,000本 ほん 近 ちか い鉄管 てっかん で構成 こうせい された内装 ないそう を持 も っている[49] 。このギャラリーは、1989年 ねん に設置 せっち されたルーヴル・ピラミッド以来 いらい 、21世紀 せいき に入 はい って最初 さいしょ の大 おお きな建造 けんぞう 物 ぶつ となっている。
また、近年 きんねん のル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん は日本 にっぽん との関係 かんけい もある。一 いち 例 れい では2010年 ねん からルーヴル美術館 びじゅつかん が進 すす めている照明 しょうめい 改修 かいしゅう では、日本 にっぽん の東芝 とうしば が照明 しょうめい システムを提供 ていきょう [50] しており、従来 じゅうらい の照明 しょうめい よりも明 あ かりを特定 とくてい の範囲 はんい に均一 きんいつ に照 て らしている。結果 けっか 、絵画 かいが の濃淡 のうたん を忠実 ちゅうじつ に再現 さいげん されている。
ルネサンス期 き の巨匠 きょしょう レオナルド・ダ・ヴィンチ が描 えが いたモナ・リザ は、ルーヴルでもっとも集客 しゅうきゃく 力 りょく がある作品 さくひん となっている。
ルーヴル美術館 びじゅつかん は国立 こくりつ の美術館 びじゅつかん ではあるが、1990年代 ねんだい からその独立 どくりつ 性 せい を強 つよ めつつあり[47] [51] [52] [53] 、2003年 ねん 以降 いこう は政府 せいふ から運営 うんえい 予算 よさん を捻出 ねんしゅつ するための独自 どくじ 基金 ききん を創設 そうせつ することが求 もと められている[52] 。2006年 ねん には、全 ぜん 予算 よさん のうち国 くに が負担 ふたん する割合 わりあい がそれまでの75パーセントから62パーセントまで低下 ていか した。2003年 ねん に出版 しゅっぱん された小説 しょうせつ 『ダ・ヴィンチ・コード 』をもとにした、2006年 ねん の同名 どうめい の映画 えいが 『ダ・ヴィンチ・コード 』制作 せいさく 時 じ に撮影 さつえい 場所 ばしょ としてギャラリーを提供 ていきょう し、250万 まん ドル の収入 しゅうにゅう を得 え たこともあった[54] [55] 。2008年 ねん には、年間 ねんかん 予算 よさん 3億 おく 5,000万 まん ドルのうち国 くに が負担 ふたん するのはおよそ半分 はんぶん の1億 おく 8,000万 まん ドルとなり、残 のこ りは寄付 きふ 金 きん と入場 にゅうじょう チケットの売上 うりあげ 金 きん でまかなわれた[51] 。
前 ぜん ルーヴル美術館 びじゅつかん 長 ちょう ピエール・ローゼンベール (en:Pierre Rosenberg ) の後 のち を継 つ いで、2001年 ねん からアンリ・ロワレット (en:Henri Loyrette ) が館長 かんちょう となった。ロワレットはそれまでの館長 かんちょう とは異 こと なり、所蔵 しょぞう 美術 びじゅつ 作品 さくひん の貸 か し出 だ しに積極 せっきょく 的 てき な方針 ほうしん をとっている[47] [52] 。2006年 ねん に、1,300点 てん の作品 さくひん が他 た 施設 しせつ に貸 か し出 だ され、その貸出 かしだし 料金 りょうきん が新 あら たな美術 びじゅつ 作品 さくひん の購入 こうにゅう 資金 しきん に充 あ てられた。2006年 ねん から2009年 ねん には、米国 べいこく ジョージア州 しゅう アトランタ のハイ美術館 びじゅつかん から作品 さくひん の貸出 かしだし 料金 りょうきん として690万 まん ドルを得 え て、作品 さくひん の修復 しゅうふく 費用 ひよう として使 つか われている[52] 。2012年 ねん にはルーヴル美術館 びじゅつかん とサンフランシスコ美術館 びじゅつかん との間 あいだ で、5年間 ねんかん の展示 てんじ 、出版 しゅっぱん 、教育 きょういく 、保存 ほぞん 、教育 きょういく に関 かん する協定 きょうてい が結 むす ばれた[56] 。2012年 ねん に9,850万 まん ユーロ をかけてイスラム美術 びじゅつ ギャラリーが拡張 かくちょう され、そのうち3,100万 まん ユーロが国 くに の基金 ききん から、1,700万 まん ユーロがサウジアラビア 王族 おうぞく のアミラ・タウィールが創設 そうせつ した基金 ききん であるワリード・ビン・タタール基金 ききん (en:Alwaleed Bin Talal Foundation ) から供出 きょうしゅつ された。そのほか、アゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく 、クウェート の首長 しゅちょう 、オマーン の国王 こくおう 、モロッコ の国王 こくおう から、合計 ごうけい 2,600万 まん ユーロの寄付 きふ が集 あつ まった。また、2012年 ねん にルーヴル美術館 びじゅつかん の別館 べっかん であるアラブ首長 しゅちょう 国 こく 連邦 れんぽう のルーヴル・アブダビ (en:Louvre Abu Dhabi ) 建設 けんせつ 計画 けいかく が発表 はっぴょう されたときには、開設 かいせつ 後 ご に30年間 ねんかん 「ルーヴル」という名称 めいしょう を使用 しよう する料金 りょうきん として、4億 おく ユーロが支払 しはら われたといわれている[48] 。ロワレットは、コレクションの弱 よわ い分野 ぶんや を補完 ほかん するために、他 た 施設 しせつ への所蔵 しょぞう 作品 さくひん の貸与 たいよ 料金 りょうきん と「入場 にゅうじょう 料 りょう 収益 しゅうえき の20%を、毎年 まいとし の作品 さくひん 購入 こうにゅう 資金 しきん に充 あ てる」としている[52] 。また、ロワレットは経営 けいえい 改革 かいかく にも熱心 ねっしん で、それまでルーヴル美術館 びじゅつかん の数 かず あるギャラリーの開館 かいかん 率 りつ が80%程度 ていど だったのに対 たい して、90%まで開館 かいかん 率 りつ を向上 こうじょう させた。そのほか、開館 かいかん 時間 じかん の延長 えんちょう 、毎週 まいしゅう 金曜 きんよう 夜 よる の入館 にゅうかん 料 りょう 無料 むりょう 化 か 、作品 さくひん 購入 こうにゅう 予算 よさん の450万 まん ドルから3,600万 まん ドルへの引 ひ き上 あ げなどの業績 ぎょうせき を挙 あ げている[51] [52] 。
2004年 ねん にフランス政府 せいふ は、ルーヴル美術館 びじゅつかん の別館 べっかん をパ=ド=カレー の、以前 いぜん は炭鉱 たんこう 町 まち として栄 さか えていたが、すでに過疎 かそ 化 か しているランス に建設 けんせつ することを決定 けってい した。これはパリのルーヴル美術館 びじゅつかん 本館 ほんかん の混雑 こんざつ 緩和 かんわ と全体 ぜんたい での入場 にゅうじょう 者 しゃ 数 すう の増加 ぞうか 、さらにフランス北部 ほくぶ の産業 さんぎょう 経済 けいざい 振興 しんこう を目的 もくてき としたものだった[57] 。計画 けいかく 当初 とうしょ の別館 べっかん 建設 けんせつ 候補 こうほ 地 ち としてランスのほかに、アミアン 、アラス 、ブローニュ=シュル=メール 、カレー 、ヴァランシエンヌ の北部 ほくぶ 5都市 とし の名前 なまえ が挙 あ がっていたが、最終 さいしゅう 的 てき に当時 とうじ の首相 しゅしょう ジャン=ピエール・ラファラン が、ランスに「ルーヴル・ランス (Le Louvre-Lens )」という名前 なまえ の別館 べっかん を建 た てることを決定 けってい した。そして2005年 ねん に、日本人 にっぽんじん 建築 けんちく 家 か 妹島 いもうとじま 和世 かずよ と西沢 にしざわ 立 たて 衛 まもる のユニットSANAA がルーヴル・ランスの設計 せっけい を任 まか され、建築 けんちく 計画 けいかく が始動 しどう した。2012年 ねん 12月の開館 かいかん 時 じ に、ルーヴル美術館 びじゅつかん の関係 かんけい 者 しゃ は、別館 べっかん は600点 てん にのぼる美術 びじゅつ 品 ひん 収容 しゅうよう 能力 のうりょく を有 ゆう し、年間 ねんかん 50万 まん 人 にん の集客 しゅうきゃく を見込 みこ んでいるとした[57] 。
2007年 ねん にルーヴル美術館 びじゅつかん は、2012年 ねん までにアラブ首長 しゅちょう 国 こく 連邦 れんぽう のアブダビ にルーヴル美術館 びじゅつかん の別館 べっかん を建設 けんせつ すると発表 はっぴょう した。しかしながら建設 けんせつ は遅 おく れており、開館 かいかん は早 はや くても2015年 ねん になるといわれている[58] 。フランスの文化 ぶんか ・コミュニケーション相 あい ルノー・ドヌデュー・ド・ヴァーブルと、アブダビ首長 しゅちょう 一族 いちぞく のシーク・スルターン・ビン・アール=ナヒヤーンとの間 あいだ に、新 しん 美術館 びじゅつかん に「ルーヴル」の名称 めいしょう を冠 かん することを30年間 ねんかん 許可 きょか する契約 けいやく が結 むす ばれ、8億 おく 3,200万 まん の費用 ひよう でアブダビに新 あら たな美術館 びじゅつかん が創設 そうせつ されることとなった。ルーヴル・アブダビ の設計 せっけい 者 しゃ はフランス人 じん 建築 けんちく 家 か ジャン・ヌーヴェル で、ビューロー・ハッポルド社 しゃ (en:Buro Happold ) が建設 けんせつ を担当 たんとう し、2万 まん 4,000平方 へいほう メートルの建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち に空 そら 飛 と ぶ円盤 えんばん のようなドーム状 じょう の屋根 やね を持 も つ建物 たてもの となる予定 よてい である。フランス政府 せいふ はルーヴル・アブダビとの間 あいだ に、200点 てん から300点 てん の美術 びじゅつ 品 ひん を10年 ねん 交代 こうたい 周期 しゅうき で貸 か し出 だ す契約 けいやく 、専門 せんもん 的 てき 知識 ちしき および助言 じょげん を提供 ていきょう する契約 けいやく 、15年間 ねんかん にわたって年 とし 4回 かい の展示 てんじ 会 かい を開催 かいさい する契約 けいやく を締結 ていけつ している。ルーヴル・アブダビに展示 てんじ される美術 びじゅつ 品 ひん は、ルーヴル美術館 びじゅつかん のほか、ポンピドゥー・センター 、オルセー美術館 びじゅつかん 、ヴェルサイユ宮殿 きゅうでん 、ギメ美術館 びじゅつかん 、ロダン美術館 びじゅつかん 、ケ・ブランリ美術館 びじゅつかん など、フランスの複数 ふくすう の美術館 びじゅつかん から集 あつ められる予定 よてい である[59] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん は、ナチス・ドイツ が諸国 しょこく から収奪 しゅうだつ した美術 びじゅつ 品 ひん と同 おな じく、ナポレオン1世 せい がヨーロッパ諸国 しょこく から収奪 しゅうだつ した美術 びじゅつ 品 ひん に関 かん する文化財 ぶんかざい の帰属 きぞく 問題 もんだい で、さまざまな議論 ぎろん の中心 ちゅうしん となっている。ナチス・ドイツによるフランス占領 せんりょう の終了 しゅうりょう 後 ご 、フランスから収奪 しゅうだつ されていた15万 まん 点 てん 以上 いじょう の美術 びじゅつ 品 ひん のうち、6万 まん 1,233点 てん がフランスへ返還 へんかん され、「私有 しゆう 財産 ざいさん 担当 たんとう 部局 ぶきょく (Office des Biens Privés )」の管轄 かんかつ となった。1949年 ねん までに所有 しょゆう 者 しゃ が現 あらわ れなかった、絵画 かいが 作品 さくひん 1,001点 てん を含 ふく む美術 びじゅつ 品 ひん 2,130点 てん が「フランス美術館 びじゅつかん 部局 ぶきょく (Direction des Musées de France )」に移管 いかん され、返還 へんかん 先 さき が見 み つかるまで適切 てきせつ な保管 ほかん に責任 せきにん を持 も つと同時 どうじ に、複数 ふくすう のフランス国立 こくりつ 美術館 びじゅつかん が共同 きょうどう 運営 うんえい する「回収 かいしゅう 美術 びじゅつ 品 ひん 保管 ほかん 部局 ぶきょく (Musees Nationaux Recuperation )」の管轄 かんかつ となった。これらの美術 びじゅつ 品 ひん のうち10%から35%については、ユダヤ人 じん から略奪 りゃくだつ されたものだと考 かんが えられている[60] 。
所有 しょゆう 者 しゃ が分 わ からなかったこれらの返還 へんかん 美術 びじゅつ 品 ひん が、1946年 ねん に一斉 いっせい 公開 こうかい された。1950年 ねん から1954年 ねん にかけても、所有 しょゆう 者 しゃ であると名乗 なの りを上 あ げた人物 じんぶつ が正当 せいとう な権利 けんり を持 も っているかどうかを見極 みきわ める目的 もくてき で、再 ふたた び一般 いっぱん 公開 こうかい された。その後 ご も、所有 しょゆう 者 しゃ が現 あらわ れなかった美術 びじゅつ 品 ひん の所蔵 しょぞう 、および展示 てんじ はルーヴル美術館 びじゅつかん など複数 ふくすう の美術館 びじゅつかん が実施 じっし している。1951年 ねん から1965年 ねん にかけて、37点 てん の美術 びじゅつ 品 ひん が正当 せいとう な所有 しょゆう 者 しゃ に返還 へんかん されたが、1960年代 ねんだい の終 お わりには名乗 なの り出 で る所有 しょゆう 者 しゃ が減少 げんしょう していき、美術館 びじゅつかん での一時 いちじ 保管 ほかん 品 ひん として分類 ぶんるい されていった。1997年 ねん に首相 しゅしょう アラン・ジュペ が、社会 しゃかい 問題 もんだい 相 しょう だったジャン・マッテオリ (en:Jean Mattéoli )を議長 ぎちょう とする委員 いいん 会 かい を発足 ほっそく させ、この未 み 返還 へんかん 美術 びじゅつ 品 ひん の調査 ちょうさ を命 めい じた。この調査 ちょうさ の結果 けっか 、ルーヴル美術館 びじゅつかん には未 み 返還 へんかん 美術 びじゅつ 品 ひん が678点 てん 保管 ほかん されていることが分 わ かっている[61] 。
デンデラ神殿 しんでん の天井 てんじょう を飾 かざ っていた浮彫 うきぼり 彫刻 ちょうこく 『デンデラの黄道 こうどう 帯 たい 』。エジプト からの返還 へんかん 要求 ようきゅう に、ルーヴル美術館 びじゅつかん は応 おう じていない。
ナポレオン1世 せい はヨーロッパ諸国 しょこく に対 たい して軍事 ぐんじ 行動 こうどう を起 お こし、緒戦 しょせん は勝利 しょうり した。イタリアでは終戦 しゅうせん 条約 じょうやく に伴 ともな う賠償 ばいしょう として、北 きた ヨーロッパ では戦利 せんり 品 ひん として美術 びじゅつ 品 ひん を略奪 りゃくだつ 。エジプトでは発掘 はっくつ による出土 しゅつど 品 ひん として古代 こだい 美術 びじゅつ 品 ひん を手 て に入 い れた。ただし、エジプトの古代 こだい 美術 びじゅつ 品 ひん の大 だい 部分 ぶぶん は、1801年 ねん のナイルの海戦 かいせん でイギリス海軍 かいぐん が勝利 しょうり し、フランスから戦利 せんり 品 ひん として没収 ぼっしゅう している。『ロゼッタ・ストーン 』など、これらのエジプト古代 こだい 美術 びじゅつ 品 ひん は1803年 ねん に大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん に収蔵 しゅうぞう されたが、エジプトからイギリスに対 たい して返還 へんかん 要求 ようきゅう が出 だ されている。エジプトの文化財 ぶんかざい 輸出 ゆしゅつ 禁止 きんし 法 ほう が制定 せいてい された1835年 ねん 以前 いぜん である1821年 ねん にルーヴル美術館 びじゅつかん に収蔵 しゅうぞう された、デンデラ神殿 しんでん の天井 てんじょう を飾 かざ っていた浮彫 うきぼり 彫刻 ちょうこく 『デンデラの黄道 こうどう 帯 たい (en:Dendera zodiac )』も、エジプトからフランスへ返還 へんかん 要求 ようきゅう がなされている。しかしながらルーヴル美術館 びじゅつかん は、入手 にゅうしゅ は合法 ごうほう なものであるとしてエジプトからの返還 へんかん 要求 ようきゅう を拒否 きょひ している。文化 ぶんか 、教育 きょういく などを担当 たんとう する国際 こくさい 連合 れんごう の機関 きかん ユネスコ には「文化財 ぶんかざい の原 げん 保有 ほゆう 国 こく への返還 へんかん 促進 そくしん 政府 せいふ 間 あいだ 委員 いいん 会 かい 」が存在 そんざい し、ルーヴル美術館 びじゅつかん もこの活動 かつどう に参加 さんか している[62] 。この活動 かつどう の一環 いっかん として、2009年 ねん にルーヴル美術館 びじゅつかん から5点 てん のフレスコ画 が 断片 だんぺん がエジプトへ返還 へんかん された。これらの断片 だんぺん は数 すう 年 ねん 前 まえ にルーヴル美術館 びじゅつかん が2箇所 かしょ のプライベート・コレクションから正当 せいとう な形 かたち で購入 こうにゅう した美術 びじゅつ 品 ひん だったが、「フランス博物館 はくぶつかん コレクション学術 がくじゅつ 委員 いいん 会 かい (en:Commission scientifique nationale des collections des musées de France )」が「価値 かち が低 ひく い (déclassement)」と評価 ひょうか したものだった[63] 。
Category:ルーヴル所蔵 しょぞう 品 ひん も参照 さんしょう
ルーヴル美術館 びじゅつかん には38万 まん 点 てん 以上 いじょう の美術 びじゅつ 品 ひん が収蔵 しゅうぞう されており、そのうち3万 まん 5,000点 てん ほどが8部門 ぶもん (「古代 こだい エジプト美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「古代 こだい ギリシア・エトルリア・ローマ美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「イスラム美術 びじゅつ 部門 ぶもん 」「彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん 」「工芸 こうげい 品 ひん 部門 ぶもん 」「絵画 かいが 部門 ぶもん 」「素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん 」)に分類 ぶんるい されて展示 てんじ されている[64] [8] 。
古代 こだい エジプト美術 びじゅつ 部門 ぶもん [ 編集 へんしゅう ]
エジプトのサッカラ から出土 しゅつど した『書記 しょき 座像 ざぞう 』。石灰岩 せっかいがん と化粧 けしょう 漆喰 しっくい による彫刻 ちょうこく で、紀元前 きげんぜん 2600年 ねん から2350年 ねん ごろの作品 さくひん と考 かんが えられている[65] 。
古代 こだい エジプト美術 びじゅつ 部門 ぶもん には、ナイル川 がわ 流域 りゅういき に発展 はってん した文明 ぶんめい の、紀元前 きげんぜん 4000年 ねん から4世紀 せいき にわたる[66] 5万 まん 点 てん 以上 いじょう の美術 びじゅつ 品 ひん が所蔵 しょぞう されている[67] 。エジプト美術 びじゅつ コレクションとしては世界 せかい 最大 さいだい 規模 きぼ であり、古代 こだい 、中 ちゅう 王国 おうこく 時代 じだい 、新 しん 王国 おうこく 時代 じだい 、初期 しょき キリスト教 きりすときょう 時代 じだい (コプト美術 びじゅつ )、ローマ属 ぞく 州 しゅう 時代 じだい 、プトレマイオス王国 おうこく 時代 じだい 、ビザンティン帝国 ていこく 時代 じだい の美術 びじゅつ 品 ひん が網羅 もうら されている[66] 。この部局 ぶきょく の原点 げんてん は王室 おうしつ コレクションまでさかのぼることができるが、ナポレオン1世 せい の1798年 ねん のエジプト遠征 えんせい でコレクションが大 おお きく発展 はってん したものである。このときのエジプト遠征 えんせい には、のちに初代 しょだい ルーヴル美術館 びじゅつかん 館長 かんちょう となるドミニク・ヴィヴァン (en:Dominique Vivant ) も同行 どうこう していた[67] 。その後 ご 、ジャン=フランソワ・シャンポリオン が『ロゼッタ・ストーン』を解読 かいどく すると、フランス王 おう シャルル10世 せい が古代 こだい エジプト専門 せんもん 部局 ぶきょく の創設 そうせつ を命 めい じた。シャンポリオンは、エドム・アントワーヌ・デュラン、ヘンリー・ソルト (en:Henry Salt (Egyptologist) )、ベルナルディーノ・ドロヴェッティ (en:Bernardino Drovetti ) が収集 しゅうしゅう したコレクションの購入 こうにゅう を進言 しんげん し、これらのコレクションから7,000点 てん あまりのエジプト美術 びじゅつ 品 ひん が所蔵 しょぞう 品 ひん に加 くわ えられた。さらに、エジプト考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん の基礎 きそ を作 つく ることになるフランス人 じん 考古 こうこ 学者 がくしゃ オギュスト・マリエット によって、エジプト美術 びじゅつ 品 ひん の所蔵 しょぞう 数 すう は増大 ぞうだい していった。マリエットは、エジプトのメンフィス で発掘 はっくつ 調査 ちょうさ を行 おこな い、『書記 しょき 座像 ざぞう (en:The Seated Scribe )』などの出土 しゅつど 品 ひん を、ルーヴル美術館 びじゅつかん へと送 おく りだした[67] [68] 。
エジプト美術 びじゅつ 品 ひん は20以上 いじょう の展示 てんじ 室 しつ で公開 こうかい されている。美術 びじゅつ 品 ひん のほかに、パピルス の巻物 まきもの 、ミイラ 、工具 こうぐ 、衣服 いふく 、宝石 ほうせき 、遊戯 ゆうぎ 盤 ばん 、楽器 がっき 、武器 ぶき なども展示 てんじ されている[67] [66] 。古代 こだい エジプトの所蔵 しょぞう 品 ひん では『ゲベル・エル・アラクの短刀 たんとう (en:Gebel el-Arak Knife )』『書記 しょき 坐像 ざぞう 』『ジェドエフラー 王 おう スフィンクス の頭部 とうぶ 』などが有名 ゆうめい である。中 ちゅう 王国 おうこく 時代 じだい の美術 びじゅつ 品 ひん は「金 かね 細工 ざいく と彫像 ちょうぞう 」で知 し られ、それまでの写実 しゃじつ 的 てき 表現 ひょうげん から理想 りそう 化 か 表現 ひょうげん へと移行 いこう していった。この様式 ようしき の好例 こうれい として、片岩 かたいわ 製 せい の『アメンエムハトアンクの彫像 ちょうぞう 』、木製 もくせい の『供物 くもつ を運 はこ ぶ女性 じょせい 』などがある。新 しん 王国 おうこく 時代 じだい 、初期 しょき キリスト教 きりすときょう 時代 じだい では、女神 めがみ ネフティス の彫像 ちょうぞう や、女神 めがみ ハトホル の石灰岩 せっかいがん 彫刻 ちょうこく などが、この時代 じだい の様式 ようしき をよく表 あらわ している[66] [68] 。
『タニスの
大 だい スフィンクス』、
アメン・ラー 神殿 しんでん 旧 きゅう 所在 しょざい 、
年代 ねんだい 不 ふ 詳 しょう
『
蛇王 じゃおう のステラ』、
第 だい 1王朝 おうちょう 、
紀元前 きげんぜん 3000
年 ねん ごろ
『ネブケドの
死者 ししゃ の書 しょ 』、
第 だい 18
王朝 おうちょう 、
紀元前 きげんぜん 1550 - 1295
年 ねん ごろ
古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん [ 編集 へんしゅう ]
石灰岩 せっかいがん レリーフ『有 ゆう 翼 つばさ 人面 じんめん 牡 おす 牛 うし 像 ぞう 』。アッシリア 帝国 ていこく 、紀元前 きげんぜん 8世紀 せいき 。
古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん は、1881年 ねん に創設 そうせつ された二 に 番目 ばんめ に新 あたら しい部局 ぶきょく で、イスラム教 いすらむきょう 普及 ふきゅう 前 まえ の古代 こだい オリエント文明 ぶんめい の美術 びじゅつ 品 ひん が収蔵 しゅうぞう されている。古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん は、ユーフラテス川 がわ 西側 にしがわ 地域 ちいき (キプロス 、レヴァント 、アナトリア半島 はんとう 、アラビア半島 はんとう 、北 きた アフリカ )、古代 こだい メソポタミア 、ペルシア の三 さん 地域 ちいき 別 べつ に細分 さいぶん 化 か されている[69] 。古代 こだい オリエント美術 びじゅつ のコレクションが充実 じゅうじつ したのは、フランス人 じん 学者 がくしゃ ポール=エミール・ボッタ による、1843年 ねん のドゥル・シャルキン 発掘 はっくつ 調査 ちょうさ 、アッシリア王 おう サルゴン2世 せい の王宮 おうきゅう 発見 はっけん とほぼ同 どう 時期 じき に当 あ たる[66] [70] 。この遺跡 いせき からの出土 しゅつど 品 ひん が、古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん の前身 ぜんしん である「アッシリア美術館 びじゅつかん 」の基礎 きそ となった[66] 。
古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん では、初期 しょき メソポタミア文明 ぶんめい ともいわれるシュメール文明 ぶんめい の美術 びじゅつ 品 ひん と、アッカド帝国 ていこく の出土 しゅつど 品 ひん であるラガシュ王国 おうこく 王子 おうじ の碑文 ひぶん 『禿 は げ鷹 たか の碑 ひ (en:Stele of the Vultures )』(紀元前 きげんぜん 2,450年 ねん 頃 ごろ )、アッカド王 おう ナラム・シン の戦勝 せんしょう 記念 きねん 碑 ひ などが展示 てんじ されている。1901年 ねん に発見 はっけん された、高 たか さ2.25メートルの閃緑岩 がん に古代 こだい バビロニア の「ハンムラビ法典 ほうてん 」が楔形文字 くさびがたもじ で刻 きざ まれた石碑 せきひ も有名 ゆうめい である。紀元前 きげんぜん 18世紀 せいき のマリ王国 おうこく 王宮 おうきゅう 壁画 へきが (en:Investiture of Zimri-Lim ) や、紀元前 きげんぜん 25世紀 せいき の『エビフ・イルの像 ぞう 』も、この古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん の展示 てんじ 室 しつ で公開 こうかい されている。
古代 こだい ペルシアの所蔵 しょぞう 品 ひん では、『射手 しゃしゅ のフリーズ』などが有名 ゆうめい である[66] [71] 。ペルセポリス からの貴重 きちょう な出土 しゅつど 品 ひん も所蔵 しょぞう されており、2005年 ねん にイギリスで開 ひら かれた古代 こだい ペルシア展 てん で公開 こうかい するために、大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん に貸 か し出 だ されたこともある[72] 。
『
禿 は げ
鷹 たか の
碑 ひ 』、
ラガシュ 王国 おうこく 、
紀元前 きげんぜん 2660
年 ねん - 2330
年 ねん ごろ
ナラム・シン の
戦勝 せんしょう 碑 ひ 、
アッカド 時代 じだい 、
紀元前 きげんぜん 2254
年 ねん - 2218
年 ねん
アイベックス の
角 かく でできた
角 かく 杯 はい 、
古代 こだい ペルシア、
紀元前 きげんぜん 600
年 ねん - 300
年 ねん
古代 こだい ギリシア・エトルリア・ローマ美術 びじゅつ 部門 ぶもん [ 編集 へんしゅう ]
大理石 だいりせき 彫刻 ちょうこく 『サモトラケのニケ 』(紀元前 きげんぜん 190年 ねん ごろ)
古代 こだい ギリシア・エトルリア・ローマ美術 びじゅつ 部門 ぶもん は、新 しん 石器 せっき 時代 じだい から6世紀 せいき までの、地中海 ちちゅうかい 沿岸 えんがん 地方 ちほう の美術 びじゅつ 品 ひん を収蔵 しゅうぞう している[73] 。時代 じだい 区分 くぶん としてはキクラデス文明 ぶんめい からロ ろ ーマ帝国 まていこく 衰退 すいたい までとなる。古代 こだい ギリシア・エトルリア・ローマ美術 びじゅつ 部門 ぶもん は、ルーヴル美術館 びじゅつかん でも最古 さいこ の部局 ぶきょく のひとつで、所蔵 しょぞう 品 ひん が王室 おうしつ コレクションだった時代 じだい までさかのぼることができ、フランス王 おう フランソワ1世 せい が購入 こうにゅう した美術 びじゅつ 品 ひん も含 ふく まれている[66] [74] 。コレクション初期 しょき には『ミロのヴィーナス 』や『ベルヴェデーレのアポロン (en:Apollo Belvedere )』のような、大理石 だいりせき 彫刻 ちょうこく の収集 しゅうしゅう に重点 じゅうてん が置 お かれていた。『ベルヴェデーレのアポロン』は、ナポレオン1世 せい がヴァチカンから押収 おうしゅう したものだったが、ナポレオンが失脚 しっきゃく した1815年 ねん にヴァチカンへと返還 へんかん されている。19世紀 せいき になってから、デュラン・コレクションやフランス国立 こくりつ 図書館 としょかん から、『ボルゲーゼの壺 つぼ (en:Borghese Vase )』のような大理石 だいりせき 彫刻 ちょうこく や銅像 どうぞう などを購入 こうにゅう している[65] [73] 。古代 こだい ギリシア・アルカイック期 き の収蔵 しゅうぞう 品 ひん には、宝飾 ほうしょく 品 ひん 、『オーセールの婦人 ふじん (en:Lady of Auxerre )』(紀元前 きげんぜん 640年 ねん ごろ)や『サモスのヘラ』(紀元前 きげんぜん 570年 ねん - 560年 ねん ごろ)のような石灰岩 せっかいがん 彫刻 ちょうこく がある[66] [75] 。紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき 以降 いこう の収蔵 しゅうぞう 品 ひん は、『ボルゲーゼの剣 けん 闘士 とうし (en:Borghese Gladiator )』に代表 だいひょう されるような、人体 じんたい を写実 しゃじつ 的 てき に再現 さいげん した彫刻 ちょうこく が多 おお くなっている。また、ルーヴル美術館 びじゅつかん には『サモトラケのニケ 』(紀元前 きげんぜん 190年 ねん ごろ)や『ミロのヴィーナス 』のような、古代 こだい 美術 びじゅつ の象徴 しょうちょう ともいえるヘレニズム期 き の名作 めいさく が所蔵 しょぞう されている[74] 。
長大 ちょうだい なカンパーナ・ギャラリーには、1,000点 てん を超 こ えるギリシア陶器 とうき の一大 いちだい コレクションが展示 てんじ されている。セーヌ川 がわ 沿 ぞ いのドゥノン翼 つばさ の各 かく 展示 てんじ 室 しつ には数 すう 多 おお くの古代 こだい ローマ彫刻 ちょうこく が展示 てんじ されている[73] 。肖像 しょうぞう 彫刻 ちょうこく のコレクションも有名 ゆうめい で、アグリッパ やマルクス・アンニウス・ウェルスらの大理石 だいりせき 彫刻 ちょうこく 、『ピオンビーノのアポロン (en:Apollo of Piombino )』などのブロンズ 像 ぞう が知 し られている。
『腕 うで を組 く んだ偶像 ぐうぞう 型 がた の女性 じょせい 像 ぞう の頭部 とうぶ 』、紀元前 きげんぜん 2700年 ねん - 2300年 ねん ごろ(ギリシア)
『
ミロのヴィーナス 』、
紀元前 きげんぜん 130
年 ねん ごろ(ギリシア)
『ボルゲーゼの壷 つぼ 』、紀元前 きげんぜん (ギリシア)
『ボルゲーゼの
剣 けん 闘士 とうし 』、
紀元前 きげんぜん 100
年 ねん ごろ(ギリシア)
『ピオンビーノのアポロン』、紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき (エトルリア)
『ボルゲーゼの
アレス 』、
紀元前 きげんぜん 430
年 ねん ごろの
アルカメネス 原作 げんさく 、
紀元前 きげんぜん 1
世紀 せいき ごろのローマン・コピー
イスラム美術 びじゅつ 部門 ぶもん [ 編集 へんしゅう ]
象牙 ぞうげ と銀 ぎん の宝石 ほうせき 箱 ばこ 、966年 ねん 。
2003年 ねん に創設 そうせつ されたイスラム美術 びじゅつ 部門 ぶもん は、ルーヴル美術館 びじゅつかん ではもっとも新 あたら しい部門 ぶもん で「13世紀 せいき にわたる三 みっ つの大陸 たいりく 」の美術 びじゅつ 品 ひん が収蔵 しゅうぞう されている[76] 。コレクションには、陶磁器 とうじき 、ガラス工芸 こうげい 品 ひん 、金属 きんぞく 工芸 こうげい 品 ひん 、木製品 もくせいひん 、象牙 ぞうげ 工芸 こうげい 品 ひん 、絨毯 じゅうたん 、織物 おりもの 、ミニアチュール など、5,000点 てん 以上 いじょう の美術 びじゅつ 品 ひん が含 ふく まれている[77] 。イスラム美術 びじゅつ 部門 ぶもん はもともと工芸 こうげい 部門 ぶもん の一部 いちぶ だったが、2003年 ねん に独立 どくりつ した部局 ぶきょく として新設 しんせつ された。アンダルシア 由来 ゆらい の『アル=ムギラの銘 めい のある小 しょう 箱 はこ 』(968年 ねん )と呼 よ ばれる象牙 ぞうげ の筒 つつ 状 じょう の箱 はこ や、『サン・ルイの洗礼 せんれい 盤 ばん 』(13世紀 せいき から14世紀 せいき ごろ、マムルーク朝 あさ )と呼 よ ばれる金属 きんぞく 製 せい のボウル 、イラン由来 ゆらい の『サン=ジョスの屍 かばね 衣 ころも 』などが有名 ゆうめい な収蔵 しゅうぞう 品 ひん となっている[70] [76] 。ほかに、ペルシア語 ご で書 か かれたフェルドウスィーの『シャー・ナーメ 』3ページ分 ぶん なども有名 ゆうめい である[77] 。
ヨンベ語族 ごぞく の彫刻 ちょうこく (19世紀 せいき )
彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん には、古代 こだい ギリシア・エトルリア・ローマ美術 びじゅつ 部門 ぶもん に属 ぞく さない、1850年 ねん 以前 いぜん の彫刻 ちょうこく が収蔵 しゅうぞう されている[78] 。ルーヴル美術館 びじゅつかん が、いまだルーヴル宮殿 きゅうでん として使用 しよう されていた時代 じだい から彫刻 ちょうこく の収集 しゅうしゅう は開始 かいし されていたが、ミケランジェロ の『瀕死 ひんし の奴隷 どれい 』と『抵抗 ていこう する奴隷 どれい 』を除 のぞ いて、1824年 ねん までは古代 こだい 彫刻 ちょうこく しか公開 こうかい されていなかった[79] 。ルーヴル美術館 びじゅつかん 開設 かいせつ 当時 とうじ には100点 てん ほどの彫刻 ちょうこく しかなく、ほかの王室 おうしつ コレクションの彫刻 ちょうこく の多 おお くはヴェルサイユ宮殿 きゅうでん に移設 いせつ されていた。その後 ご も彫刻 ちょうこく コレクションはほとんど増加 ぞうか することはなかったが、1847年 ねん にレオン・ラボルデが彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん の責任 せきにん 者 しゃ に任命 にんめい されると、コレクションの数 かず は徐々 じょじょ に増 ふ えていった。ラボルデは中世 ちゅうせい の彫刻 ちょうこく を収集 しゅうしゅう する部門 ぶもん を設置 せっち し、『キルデベルデ1世 せい 像 ぞう 』『スタンガの扉 とびら 』などの彫像 ちょうぞう 、彫刻 ちょうこく を購入 こうにゅう していった[79] 。彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん は、もともとは工芸 こうげい 部門 ぶもん の一部 いちぶ 局 きょく だったが、フランス美術 びじゅつ 品 ひん のコレクションを推進 すいしん していた館長 かんちょう ルイ・クラジョが、1871年 ねん に自治 じち 裁量 さいりょう 権 けん を与 あた えている[78] [79] 。1986年 ねん に1850年 ねん 以降 いこう の彫刻 ちょうこく は、新設 しんせつ されたオルセー美術館 びじゅつかん へと移 うつ された。「大 だい ルーヴル計画 けいかく 」によって、彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん の収蔵 しゅうぞう 品 ひん の展示 てんじ 場所 ばしょ が、フランス彫刻 ちょうこく を展示 てんじ するリシュリュー翼 つばさ と、フランス以外 いがい の彫刻 ちょうこく を展示 てんじ するドゥノン翼 つばさ に分 わ けられた[78] 。
ロマネスク様式 ようしき のフランス彫刻 ちょうこく には『獅子 しし の穴 あな の中 なか のダニエル』(11世紀 せいき )や『オーヴェルニュ の聖母 せいぼ 』(12世紀 せいき )などが所蔵 しょぞう されている。16世紀 せいき にはルネサンス の抑制 よくせい 表現 ひょうげん の影響 えいきょう がフランス彫刻 ちょうこく にも表 あらわ れ始 はじ め、ジャン・グージョン の浮彫 うきぼり や、ジェルマン・ピロン (en:Germain Pilon ) の『十字架 じゅうじか 降下 こうか 』や『キリスト復活 ふっかつ 』などにその影響 えいきょう を見 み ることができる。17世紀 せいき から18世紀 せいき のフランス彫刻 ちょうこく として、エティエンヌ=モーリス・ファルコネ (en:Étienne Maurice Falconet ) の『水浴 すいよく する女 おんな 』や、フランソワ・アンギエ (en:François Anguier ) の『オベリスク』などがある。新 しん 古典 こてん 様式 ようしき の彫刻 ちょうこく には、アントニオ・カノーヴァ の『キューピッド の口 くち づけに目覚 めざ めたプシュケ』(1793年 ねん )がある[79] 。
工芸 こうげい 品 ひん 部門 ぶもん [ 編集 へんしゅう ]
聖 せい ブラシウス を描 えが いた、13世紀 せいき フランスのステンドグラス
工芸 こうげい 品 ひん 部門 ぶもん には、中世 ちゅうせい から19世紀 せいき 半 なか ばまでの美術 びじゅつ 工芸 こうげい 品 ひん が収蔵 しゅうぞう されている。もともとは彫刻 ちょうこく 部門 ぶもん の一部 いちぶ 局 きょく で、フランス王室 おうしつ コレクションと、歴代 れきだい フランス王家 おうけ の墓所 はかしょ であるサン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう からフランス革命 かくめい 時 じ に持 も ち出 だ された作品 さくひん が基礎 きそ となっている[80] [81] 。これらの収蔵 しゅうぞう 品 ひん の中 なか でもっとも重要 じゅうよう なものに、ピエトラ・ドゥーラ(宝石 ほうせき や貴石 たかいし を散 ち りばめた絵画 かいが のような工芸 こうげい 品 ひん 、(en:pietre dure ))の壺 つぼ と青銅器 せいどうき が挙 あ げられる。その後 ご 、1825年 ねん に購入 こうにゅう したデュラン・コレクションから「陶磁器 とうじき 、エナメル細工 ざいく 、ステンドグラス 」がもたらされ、さらに1828年 ねん に芸術 げいじゅつ 家 か ピエール・レヴォワルからおよそ800点 てん の作品 さくひん が寄贈 きぞう された。ロマン主義 しゅぎ の潮流 ちょうりゅう がルネサンスと中世 ちゅうせい の芸術 げいじゅつ に再 ふたた び光 ひかり を当 あ て、ソヴァジョという人物 じんぶつ が1,500点 てん にのぼる中世 ちゅうせい 工芸 こうげい 品 ひん と、ファイアンス陶磁器 とうじき を遺贈 いぞう した。1862年 ねん にはカンパーナ侯爵 こうしゃく のコレクションから、15世紀 せいき から16世紀 せいき に制作 せいさく されたものを中心 ちゅうしん として、金 きむ 細工 ざいく 、マヨルカ陶磁器 とうじき などが追加 ついか されている[81] [82] 。
工芸 こうげい 品 ひん 部門 ぶもん の収蔵 しゅうぞう 品 ひん はリシュリュー翼 つばさ 2階 かい とドゥノン翼 つばさ のアポロン・ギャラリーに展示 てんじ されている。アポロン・ギャラリーの名付 なづ け親 おや は画家 がか のシャルル・ル・ブランで、太陽 たいよう 王 おう ルイ14世 せい からこのギャラリーを太陽 たいよう をテーマとした装飾 そうしょく を命 めい じられた人物 じんぶつ である。中世 ちゅうせい の工芸 こうげい 品 ひん コレクションには、ルイ14世 せい が戴冠 たいかん 式 しき に使用 しよう した王冠 おうかん や、シャルル5世 せい の王 おう 笏 しゃく 、『斑 むら 岩 がん の壺 つぼ 』などがある[83] 。ルネサンス期 き の工芸 こうげい 品 ひん コレクションには、ジャンボローニャ が制作 せいさく したブロンズ像 ぞう 『ネッソスとデイアネイラ』、タペストリー 『マクシミリアンの狩猟 しゅりょう のタピスリー』などがある[80] 。ルネサンス以降 いこう の時代 じだい のコレクションで有名 ゆうめい なものとして、ポンパドゥール夫人 ふじん が所有 しょゆう していたセーヴル磁器 じき のコレクションや、ナポレオン3世 せい のアパルトマンなどが挙 あ げられる[80] 。
レオナルド・ダ・ヴィンチ の『モナ・リザ 』。おそらくレオナルドがフランソワ1世 せい の宮廷 きゅうてい に滞在 たいざい していたときに現在 げんざい の形 かたち となった。
絵画 かいが 部門 ぶもん には、7,500点 てん を超 こ える絵画 かいが 作品 さくひん が収蔵 しゅうぞう されている[84] 。13世紀 せいき から1848年 ねん までの作品 さくひん がコレクションされており、12名 めい のキュレーター がその展示 てんじ に責任 せきにん を負 お っている。絵画 かいが 作品 さくひん のうち、およそ3分 ぶん の2がフランス人 じん 画家 がか の作品 さくひん で、残 のこ りの絵画 かいが のうち1,200点 てん 以上 いじょう が北方 ほっぽう ヨーロッパ(アルプス 以北 いほく のヨーロッパ)の作品 さくひん となっている。イタリア絵画 かいが はフランソワ1世 せい とルイ14世 せい のコレクション由来 ゆらい の作品 さくひん が大 だい 部分 ぶぶん となっており、その他 た のイタリア絵画 かいが は未 み 返還 へんかん になっているナポレオン1世 せい の収奪 しゅうだつ 絵画 かいが が多 おお く、少 すく ないながら正式 せいしき に購入 こうにゅう した作品 さくひん も存在 そんざい する[85] [86] 。イタリア絵画 かいが のコレクションはフランソワ1世 せい が始 はじ めたもので、ラファエロ 、ミケランジェロ [注釈 ちゅうしゃく 1] らルネサンス期 き の巨匠 きょしょう の作品 さくひん を購入 こうにゅう し、のちにレオナルド・ダ・ヴィンチ を自身 じしん の宮廷 きゅうてい に迎 むか えた[20] [87] 。フランス革命 かくめい で没収 ぼっしゅう 、国有 こくゆう 財産 ざいさん 化 か されたこれらの王室 おうしつ 絵画 かいが コレクションが、ルーヴル美術館 びじゅつかん の中核 ちゅうかく となった。1986年 ねん に、それまで鉄道 てつどう 駅 えき 舎 しゃ として使用 しよう されていたドルセー駅 えき がオルセー美術館 びじゅつかん (ミュゼ・ドルセー)として生 う まれ変 か わり、ルーヴル美術館 びじゅつかん の絵画 かいが コレクションのうち1848年 ねん 以降 いこう に完成 かんせい した絵画 かいが 作品 さくひん がオルセー美術館 びじゅつかん に移 うつ された(一部 いちぶ の印象派 いんしょうは 絵画 かいが など例外 れいがい あり)。フランス絵画 かいが と北 きた ヨーロッパ絵画 かいが はリシュリュー翼 つばさ に、スペイン絵画 かいが とイタリア絵画 かいが はドゥノン翼 つばさ 2階 かい に展示 てんじ されている[86] 。
初期 しょき のフランス絵画 かいが に、アンゲラン・カルトン (en:Enguerrand Quarton ) の『ヴィルヌーヴ=レザヴィニョンのピエタ 』(1455年 ねん ごろ)がある。フランス王 おう ジャン2世 せい の肖像 しょうぞう で、作者 さくしゃ 未 み 詳 しょう の『ジャン2世 せい 善良 ぜんりょう 公 こう の肖像 しょうぞう 』(1360年 ねん ごろ)は、古代 こだい 以降 いこう の作品 さくひん としては、おそらく最古 さいこ の個人 こじん 肖像 しょうぞう 画 が といわれている[88] 。17世紀 せいき のフランス絵画 かいが には、ラ・トゥール の『大工 だいく の聖 せい ヨセフ 』や『灯火 ともしび の前 まえ のマグダラのマリア 』、プッサン の『詩人 しじん の霊感 れいかん 』や『我 わが アルカディアにもあり 』、シャンパーニュ の『1662年 ねん の奉納 ほうのう 画 が 』、プルビュスの『フランス王 おう ヘンリー四 よん 世 せい の後継 こうけい 者 しゃ マリー・ド・メディシス』、リゴー の『ルイ14世 せい 』などがある。また、18世紀 せいき から19世紀 せいき にかけてのフランス絵画 かいが の重要 じゅうよう な作品 さくひん として、ヴァトー の『シテール島 とう の巡礼 じゅんれい 』、シャルダン の『赤 あか エイ 』、ブーシェ の『水浴 すいよく のディアナ 』、ダヴィド の『ナポレオン1世 せい の戴冠 たいかん 』、アングル の『グランド・オダリスク 』、ドラクロワ の『民衆 みんしゅう を導 みちび く自由 じゆう の女神 めがみ 』などがある。
アルプス 以北 いほく の北方 ほっぽう 絵画 かいが には、ヤン・ファン・エイク の『宰相 さいしょう ロランの聖母 せいぼ 』、ロヒール・ファン・デル・ウェイデン の『ブラック家 か の祭壇 さいだん 画 が 』、『受胎 じゅたい 告知 こくち 』、ヒエロニムス・ボス の『愚者 ぐしゃ の船 ふね 』、クエンティン・マサイス の『両替 りょうがえ 商 しょう とその妻 つま 』、ピーテル・ブリューゲル の『足 あし なえたち 』、フェルメール の『レースを編 あ む女 おんな 』、『天文学 てんもんがく 者 しゃ 』、レンブラント の『エマオの晩餐 ばんさん 』、『ダビデ王 おう の手紙 てがみ を手 て にしたバテシバの水浴 すいよく 』、『屠殺 とさつ された牛 うし 』、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ の『カラスのいる木 き (en:The Tree of Crows )』などがある。
イタリア絵画 かいが では、特 とく にルネサンス期 き のコレクションに重要 じゅうよう な作品 さくひん が多 おお い。ルネサンス初期 しょき の画家 がか マンテーニャ とベッリーニ の『キリスト磔刑 たっけい 』には写実 しゃじつ 主義 しゅぎ と詳細 しょうさい な表現 ひょうげん の萌芽 ほうが がみられ「精神 せいしん 世界 せかい を表現 ひょうげん した重要 じゅうよう な場面 ばめん が描 えが かれている」とされている[89] 。そのほか、フラ・アンジェリコ 、フィリッポ・リッピ 、ドメニコ・ギルランダイオ 、サンドロ・ボッティチェッリ 、ピエトロ・ペルジーノ らの名作 めいさく が多 おお く所蔵 しょぞう されている。ルネサンス盛期 せいき の絵画 かいが コレクションには、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ 』、『聖 ひじり アンナと聖母子 せいぼし 』、『洗礼 せんれい 者 しゃ 聖 ひじり ヨハネ 』、『岩窟 がんくつ の聖母 せいぼ 』、ラファエロ の『美 うつく しき女 おんな 庭師 にわし 』、『バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像 しょうぞう 』、ティツィアーノ の『田園 でんえん の奏楽 そうがく 』、『キリストの埋葬 まいそう 』、『荊冠 けいかん のキリスト 』、ヴェロネーゼ の『カナの婚礼 こんれい 』など巨匠 きょしょう たちの代表 だいひょう 作 さく の数々 かずかず が所蔵 しょぞう されている。バロック期 き の絵画 かいが コレクションにはカラヴァッジョ の『女 おんな 占 うらな い師 し (en:The Fortune Teller (Caravaggio) )』、『聖母 せいぼ の死 し 』など重要 じゅうよう 作 さく が所蔵 しょぞう されている[90] [91] 。
スペイン絵画 かいが は他 た の画 が 派 は に比 くら べて数 すう 多 おお くはないが、スペイン本国 ほんごく 以外 いがい では屈指 くっし の収集 しゅうしゅう である[92] 。エル・グレコ 、ホセ・デ・リベーラ 、フランシスコ・デ・スルバラン 、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ 、フランシスコ・デ・ゴヤ らの名品 めいひん が収蔵 しゅうぞう されている。特 とく にリベーラの『えび足 あし の少年 しょうねん 』、ムリーリョの『乞食 こじき の少年 しょうねん 』は名高 なだか い。
美術 びじゅつ 品 ひん 収集 しゅうしゅう 家 か の医者 いしゃ ルイ・ラ・カーズ (en:Louis La Caze ) が1869年 ねん に遺贈 いぞう した絵画 かいが 584点 てん は、通称 つうしょう 「ラ・カーズ・コレクション」と呼 よ ばれ、個人 こじん が寄付 きふ した絵画 かいが 点数 てんすう としてはルーヴル史上 しじょう 最大 さいだい のコレクションとなっている。ラ・カーズ・コレクションには、ヴァトー の『ピエロ 』(旧称 きゅうしょう 『ジル』)、リベーラの『えび足 あし の少年 しょうねん 』、ムリーリョの『乞食 こじき の子供 こども 』、レンブラントの『ダビデ王 おう の手紙 てがみ を手 て にしたバテシバの水浴 すいよく 』などが含 ふく まれている。2007年 ねん にはラ・カーズ・コレクションを主 おも とした展覧 てんらん 会 かい である「1868年 ねん :ルイ・ラ・カーズ・コレクション - ルーヴルが所蔵 しょぞう するヴァトーとシャルダン」が開催 かいさい された[93] 。
素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん [ 編集 へんしゅう ]
素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん には、紙 かみ を素材 そざい とした美術 びじゅつ 品 ひん である、デッサン 、パステル 画 が 、ミニアチュール 、版画 はんが 、本 ほん 、写本 しゃほん 、書簡 しょかん 、リトグラフ などが収蔵 しゅうぞう されている[94] [95] 。コレクションの基礎 きそ となったのは、8,600点 てん にのぼる王室 おうしつ コレクション (Cabinet du Roi ) で、その後 ご 、1806年 ねん のフィリポ・バルディヌッチのプライベート・コレクションの遺贈 いぞう などによって、1,200点 てん ほどの作品 さくひん が追加 ついか 、購入 こうにゅう されていった[65] [96] 。素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん が創設 そうせつ されたのは1797年 ねん 8月 がつ 5日 にち のことで、このときにはアポロン・ギャラリーに415点 てん の作品 さくひん が展示 てんじ された。素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん は3つの部局 ぶきょく に分 わ けられている。コレクションの中核 ちゅうかく をなす王室 おうしつ コレクション、1,400点 てん あまりの王室 おうしつ コレクション由来 ゆらい の銅版 どうはん 画板 がばん 、そしてエドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルド が遺贈 いぞう した、4,000点 てん の版画 はんが (エングレービング )、3,000点 てん の絵画 かいが 、500点 てん の装飾 そうしょく 本 ほん である[33] 。2012年 ねん 現在 げんざい では、その製作 せいさく 技法 ぎほう 、および素材 そざい の紙 かみ が光 ひかり に弱 よわ いために常設 じょうせつ 展示 てんじ はされておらず、特別 とくべつ な閲覧 えつらん か企画 きかく 展 てん のときのみに、厳重 げんじゅう な環境 かんきょう 管理 かんり 下 か で公開 こうかい されている[94] [95] 。
ルーヴル周辺 しゅうへん と交通 こうつう アクセスなど [ 編集 へんしゅう ]
ルーヴル美術館 びじゅつかん 周辺 しゅうへん の地図 ちず 。バス停 ばすてい 留 とめ 所 しょ 、地下鉄 ちかてつ 路線 ろせん 図 ず 、駐車 ちゅうしゃ 場 じょう が表示 ひょうじ されている。
ルーヴル美術館 びじゅつかん はパリ中央 ちゅうおう 部 ぶ 第 だい 1区 く 、セーヌ川 がわ 右岸 うがん に位置 いち する。西 にし 隣 となり には、かつてフランス王宮 おうきゅう として使用 しよう されていたテュイルリー宮殿 きゅうでん 跡 あと がある。現在 げんざい もテュイルリー庭園 ていえん (en:Tuileries Garden ) として残 のこ っている宮殿 きゅうでん の庭園 ていえん 部分 ぶぶん は、1564年 ねん にアンリ2世 せい 妃 ひ カトリーヌ・ド・メディシス が造園 ぞうえん させたもので、1664年 ねん にアンドレ・ル・ノートル が再 さい 設計 せっけい した庭園 ていえん である。テュイルリー庭園 ていえん のガーデン・ハウスは、1940年 ねん から1944年 ねん までナチス・ドイツに収奪 しゅうだつ されたユダヤ人 じん 文化財 ぶんかざい が収容 しゅうよう されていたが、1947年 ねん に近 きん 現代 げんだい 美術 びじゅつ を所蔵 しょぞう するジュ・ド・ポーム国立 こくりつ 美術館 びじゅつかん として開館 かいかん した[97] 。ジュ・ド・ポーム国立 こくりつ 美術館 びじゅつかん と隣接 りんせつ して、オランジュリー美術館 びじゅつかん がある。オランジュリー美術館 びじゅつかん は印象派 いんしょうは とポスト印象派 いんしょうは の絵画 かいが 作品 さくひん が収 おさ められており、特 とく にモネ の『睡蓮 すいれん 』の連作 れんさく を所蔵 しょぞう していることで名高 なだか い。
ルーヴル美術館 びじゅつかん は、パリの中央 ちゅうおう 部 ぶ をおよそ8キロにわたって西 にし に貫 つらぬ く、いわゆる「パリの歴史 れきし 軸 じく 」の起点 きてん となっている。ルーヴル美術館 びじゅつかん 中庭 なかにわ を東 ひがし 端 はし に、シャンゼリゼ通 どお り を経 へ てグランダルシュ を西端 せいたん とする。1871年 ねん に、パリ・コミューン 鎮圧 ちんあつ の混乱 こんらん でテュイルリー宮殿 きゅうでん が焼失 しょうしつ し、ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん の建物 たてもの が「歴史 れきし 軸 じく 」に対 たい してわずかに傾 かたむ いていることが明 あき らかになった[98] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん へはメトロ のパレ・ロワイヤル=ミュゼ・デュ・ルーヴル駅 えき 、あるいはルーヴル=リヴォリ駅 えき が最寄 もよ り駅 えき となっている[99] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん には3か所 しょ のエントランスがある。ルーヴル・ピラミッド があるメイン・エントランス、地下 ちか ショッピング・モールのカルーゼル・デュ・ルーヴル からのエントランス、ドゥノン翼 つばさ 東端 ひがしばた のポルト・デ・リオン(ライオン門 もん /ライオン口 こう )のエントランスである。メイン・エントランスの地下 ちか には、ウニベイル・ロダムコ・ウェストフィールド が管理 かんり するショッピング・モールのカルーゼル・デュ・ルーブルがある。カルーゼル・デュ・ルーブルには、フランスで最初 さいしょ に開店 かいてん したApple Store やマクドナルド なども出店 しゅってん しており、場所 ばしょ 柄 がら これらの店舗 てんぽ は相応 ふさわ しくないのではないかという論争 ろんそう にもなっている[100] 。
ルーヴル美術館 びじゅつかん 内 ない での写真 しゃしん 撮影 さつえい 、ビデオ撮影 さつえい は許可 きょか されているが、フラッシュの使用 しよう は禁止 きんし されている。
なお、新型 しんがた コロナウイルス の感染 かんせん 防止 ぼうし のために、ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん は閉鎖 へいさ されていた。しかし、多 おお くの訪問 ほうもん 者 しゃ を見捨 みす てないために、ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん は展示 てんじ されていないものも含 ふく め、すべての作品 さくひん を見 み ることができるプラットフォームを立 た ち上 あ げた。新 あたら しいプラットフォームでは、すでに482,000を超 こ えるイラスト付 つ きのコレクションが公開 こうかい されており、それはル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん の豊富 ほうふ で多様 たよう なコレクションの75%に相当 そうとう する[101] 。
^ “The Art Newspaper Ranking VISITOR FIGURES 2016 ” (PDF). The Art Newspaper. 2017年 ねん 10月 がつ 16日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Travel + Leisure. “World's Most-Visited Museums ”. 2012年 ねん 10月 がつ 31日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 「仏 ふつ ルーブル入館 にゅうかん 者 しゃ 最高 さいこう の1000万 まん 人 にん 超 ちょう /18年 ねん 。前年 ぜんねん 比 ひ 25%増 ぞう /テロ落 お ち込 こ み回復 かいふく ビヨンセさん効果 こうか も」 『東京 とうきょう 新聞 しんぶん 』夕刊 ゆうかん 2019年 ねん 1月 がつ 7日 にち (2面 めん )掲載 けいさい の共同通信 きょうどうつうしん 配信 はいしん 記事 きじ 。2019年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ UNESCO. “Paris, Banks of the Seine ”. 2013年 ねん 1月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 一 いち 例 れい として、2018年 ねん に日本 にっぽん で開催 かいさい された「ルーヴル美術館 びじゅつかん 展 てん 肖像 しょうぞう 芸術 げいじゅつ ―人 ひと は人 ひと をどう表現 ひょうげん してきたか 」(2019年 ねん 1月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん )。
^ “Louvre Website- Chateau to Museum, 1672 and 1692 ”. Louvre.fr. 2011年 ねん 8月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Louvre Website- Chateau to Museum 1692 ”. Louvre.fr. 2011年 ねん 8月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b “コレクションと学芸 がくげい 部門 ぶもん ”. ルーヴル美術館 びじゅつかん . 2013年 ねん 1月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Mignot, p. 32
^ a b Edwards, pp. 193–94
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, pp. 17-18.
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, p. 17, 23.
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, p. 23.
^ a b 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, p. 24.
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, pp. 22-23.
^ In Larousse Nouveau Dictionnaire étymologique et historique , Librairie Larousse, Paris, 1971, p. 430: ***loup 1080, Roland (leu , forme conservée dans à la queue leu leu , Saint Leu , etc.); du lat. lupus; loup est refait sur le fém. louve, où le *v* a empêché le passage du *ou* à *eu* (cf. Louvre, du lat. pop. lupara)*** the etymology of the word louvre is from lupara , feminine (pop. Latin) form of lupus .
^ In Lebeuf (Abbé), Fernand Bournon, Histoire de la ville et de tout le diocèse de Paris par l'abbé Lebeuf , Vol 2, Paris: Féchoz et Letouzey, 1883, p. 296: "Louvre".
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, p. 26.
^ a b Edwards, p. 198
^ a b Chaundy, Bob (2006年 ねん 9月 がつ 29日 にち ). “Faces of the Week” . BBC. http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/magazine/5392000.stm 2007年 ねん 10月 がつ 5日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, pp. 30-31.
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, pp. 37-38.
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, pp. 42-47.
^ 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』, p. 53.
^ Mignot, p. 42
^ Nore, p. 274
^ a b Carbonell, p. 56
^ a b c d e Nora, p. 278
^ Oliver, p. 21–22
^ Monaghan, Sean M.; Rodgers, Michael (2000年 ねん ). “French Sculpture 1800–1825, Canova ”. 19th Century Paris Project . School of Art and Design, San Jose State University. 2008年 ねん 4月 がつ 20日 はつか 時点 じてん のオリジナル よりアーカイブ。2008年 ねん 4月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Oliver, p. 35
^ a b c d Alderson, p.24, 25
^ a b c d Mignot, pp. 68, 69
^ McClellan, p. 7
^ Mignot, p. 52
^ a b Alderson, p.25
^ Mignot, p. 69.
^ a b Mignot, pp. 52–54
^ a b Mignot, pp. 70–71
^ Alan Riding, And the Show Went On: Cultural Life in Nazi-Occupied Paris . Alfred A Knopf, New York: 2010. p34.
^ Simon, p. 23[誰 だれ ? ]
^ Simon, p. 177
^ Mignot, p. 13
^ Mignot, p. 66
^ a b “Online Extra: Q&A with the Louvre's Henri Loyrette ”. Business Week Online (2002年 ねん 6月 がつ 17日 にち ). 2008年 ねん 9月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Œuvres ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c “New Boss at Louvre's helm” . BBC News . (2002年 ねん 6月 がつ 17日 にち ). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/1249145.stm 2008年 ねん 9月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Gareth Harris (13 September 2012), Islamic art, covered Financial Times .
^ Carol Vogel (19 September 2012), The Louvre’s New Islamic Galleries Bring Riches to Light New York Times .
^ フランス・ルーヴル美術館 びじゅつかん とともに進 すす めている照明 しょうめい 改修 かいしゅう プロジェクトについて
^ a b c Gumbel, Peter (2008年 ねん 7月 がつ 31日 にち ). “Sacre Bleu! It's the Louvre Inc.” . Time Magazine . http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1828324-1,00.html 2008年 ねん 9月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e f Baum, Geraldine (2006年 ねん 5月 がつ 14日 にち ). “Cracking the Louvre's code — Los Angeles Times” . Los Angeles Times . http://articles.latimes.com/2006/may/14/entertainment/ca-louvre14 2008年 ねん 9月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Louvre, Organization Chart ”. Louvre.fr Official Site . 2008年 ねん 5月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Matlack, Carol (2008年 ねん 7月 がつ 28日 にち ). “The Business of Art: Welcome to The Louvre Inc. ”. Der Spiegel Online . 2008年 ねん 9月 がつ 25日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Lunn, p. 137
^ Scarlet Cheng (15 November 2012), Louvre and San Francisco museums sign five-year deal The Art Newspaper .
^ a b Gentleman, Amelia (2004年 ねん 12月1日 にち ). “Lens puts new angle on the Louvre” . Guardian (UK). http://www.guardian.co.uk/world/2004/dec/01/france.arts 2008年 ねん 2月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ SARA HAMDAN (2012年 ねん 9月 がつ 26日 にち ). “After a Sputtering Start, the Louvre Abu Dhabi Project Gathers Pace” . nytimes (The New York Times Company). http://www.nytimes.com/2012/09/27/world/middleeast/27iht-m27-gulf-louvre.html?_r=0 2013年 ねん 1月 がつ 10日 とおか 閲覧 えつらん 。
^ Riding, Alan (2007年 ねん 3月 がつ 6日 にち ). “The Louvre's Art: Priceless. The Louvre's Name: Expensive.” . The New York Times . http://www.nytimes.com/2007/03/07/arts/design/07louv.html 2008年 ねん 4月 がつ 24日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Rapport Matteoli, Le pillage de l'art en France pendant l'occupation et la situation des 2000 oeuvres confiées aux Musées nationaux, p. 50, 60, 69 ” (PDF). 2011年 ねん 8月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Rickman, p. 294
^ Merryman, abstract
^ “Le Louvre se dit "satisfait" de la restitution des fresques égyptiennes - Culture - Nouvelobs.com ”. Tempsreel.nouvelobs.com. 2011年 ねん 8月 がつ 21日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “35,000 works of art ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 9月 がつ 27日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c Mignot, p. 92
^ a b c d e f g h i Nave, pp.42–43
^ a b c d Mignot, pp 76, 77
^ a b “Egyptian Antiquities ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “コレクションと学芸 がくげい 部門 ぶもん 古代 こだい オリエント美術 びじゅつ 部門 ぶもん ”. Musée du Louvre. 2013年 ねん 1月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Mignot, pp. 119–21
^ “Decorative Arts ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 5月 がつ 20日 はつか 閲覧 えつらん 。
^ “Forgotten Empire: The World of Ancient Persia” . University of California Press. (2006年 ねん ). http://arthistory.about.com/library/weekly/sp/bl_forgottenempcat_rev.htm 2007年 ねん 11月12日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c “Greek, Etruscan, and Roman Antiquities ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Mignot, pp. 155–58
^ Hannan, p.252
^ a b “Islamic Art ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Ahlund, p. 24
^ a b c “Sculptures ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d Mignot, 397–401
^ a b c Nave, p 130
^ a b Mignot, pp. 451–54
^ “Decorative Arts ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Lasko, p. 242
^ Pierre Rosenberg, Dictionnaire amoureux du Louvre , Plon, Paris, 2007, p. 229.
^ Hannan, p. 262
^ a b Mignot, pp. 199–201, 272–73, 333–35
^ “Paintings ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Mignot, p. 201
^ Hannan, p. 267
^ Mignot, p. 378
^ Hannan, pp. 270–278
^ ルーヴル美術館 びじゅつかん 収蔵 しゅうぞう 絵画 かいが のすべて、2011年 ねん 発行 はっこう 、713頁 ぺーじ ISBN 978-4-7993-1048-9 2023年 ねん 1月 がつ 29日 にち 閲覧 えつらん
^ 。www.louvre.fr – Musée du Louvre – Exhibitions – Past Exhibitions – The La Caze Collection. Retrieved 23 May 2009.
^ a b Mignot, 496
^ a b “素描 そびょう ・版画 はんが 部門 ぶもん ”. ルーヴル美術館 びじゅつかん . 2013年 ねん 1月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “Prints and Drawings ”. Musée du Louvre. 2008年 ねん 4月 がつ 23日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Mroue, p. 176
^ Rogers, p. 159
^ “How to get here ”. Louvre Museum . 2008年 ねん 9月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “'Bad taste' cries as McDonald's moves into 'Mona Lisa' museum” . CNN. (2009年 ねん 10月 がつ 7日 にち ). https://edition.cnn.com/2009/WORLD/europe/10/06/mcdonalds.louvre/ 2010年 ねん 5月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Fernando da Silva, Alexandre (2021年 ねん 4月 がつ 8日 にち ). “O Louvre ao alcance de todos! ” [誰 だれ もが手 て の届 とど くところにあるル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん !] (Portuguese). Jornal O Maringá. 2021年 ねん 7月 がつ 28日 にち 閲覧 えつらん 。
^ “(4513) Louvre = 1971 QW1 = 1989 CS3 ”. MPC. 2021年 ねん 10月 がつ 9日 にち 閲覧 えつらん 。
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク/高階 たかしな 秀爾 ひでじ 監修 かんしゅう 、遠藤 えんどう ゆかり訳 やく 『ルーヴル美術館 びじゅつかん の歴史 れきし 』創 つく 元 もと 社 しゃ 〈「知 ち の再 さい 発見 はっけん 」双書 そうしょ 〉、2004年 ねん 。ISBN 4422211757 。
Alderson, William T.; Alexander, Edward (1996). Museums in motion: an introduction to the history and functions of museums . Walnut Creek, Calif: Published in cooperation with the American Association for State and Local History [by] AltaMira Press. ISBN 0-7619-9155-7 . OCLC 33983419 . https://books.google.co.jp/books?id=F-K2b6A9hqIC&pg=PA23&dq=the+louvre+opened&redir_esc=y&hl=ja
Ahlund, Mikael (2000). Islamic art collections: an international survey . Richmond, Surrey, England: Curzon. ISBN 0-7007-1153-8 . OCLC 237132457 . https://books.google.co.jp/books?id=ObmTTi84jrsC&pg=PA24&dq=islamic+art++louvre&redir_esc=y&hl=ja
Bowkett, Stephen; Porter, Tom (2004). Archispeak: an illustrated guide to architectural terms . London: Spon Press. ISBN 0-415-30011-8 . OCLC 123339639 . https://books.google.com/?id=I6ilomUOgoMC&pg=PA12&dq=axe+historique [リンク切 き れ ]
Carbonell, Bettina (2004). Museum Studies: An Anthology of Contexts . Blackwell Pub.. ISBN 978-0-631-22825-7 . OCLC 52358814 . https://books.google.co.jp/books?id=9DN5N9IRrzYC&dq=history+of+art+museums+louvre&redir_esc=y&hl=ja
Edwards, Henry Sutherland (1893). Old and New Paris: Its History, Its People, and Its Places . Paris: Cassell and Co.. https://books.google.co.jp/books?id=wdJ1YyELlgsC&pg=PA194&dq=history+of+the+word+louvre&redir_esc=y&hl=ja 2008年 ねん 4月 がつ 30日 にち 閲覧 えつらん 。
Hannan, Bill and Lorna (2004). Art for Travellers:France . Northampton, Massachusetts: Interlink Books. ISBN 1-56656-509-X . OCLC 51336501 . https://books.google.co.jp/books?id=KDPaAAAACAAJ&dq=hannan+france&redir_esc=y&hl=ja
Lasko, Peter (1995). Ars Sacra, 800–1200 . Yale University Press. ISBN 978-0-300-06048-5 . OCLC 231858991 . https://books.google.co.jp/books?id=PwJb18lq5gkC&dq=porphyry+vase+louvre&redir_esc=y&hl=ja
McClellan, Andrew (1999). Inventing the Louvre: Art, Politics, and the Origins of the Modern Museum... . Berkeley: University of California Press. ISBN 0-520-22176-1 . OCLC 40830142 . https://books.google.co.jp/books?id=UUxG3N-t750C&dq=inventing+the+louvre+luxembourg+gallery&redir_esc=y&hl=ja
Merryman, John Henry (2006). Imperialism, art and restitution . Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-85929-8 . OCLC 183928459 . http://www.cambridge.org/catalogue/catalogue.asp?isbn=9780521859295&ss=exc
Mignot, Claude (1999). The Pocket Louvre: A Visitor's Guide to 500 Works . New York: Abbeville Press. ISBN 0-7892-0578-5 . OCLC 40762767
Mroue, Haas (2003). Frommer's Paris from $90 a Day . Frommer's. ISBN 0-7645-5806-4 . OCLC 229256386 . https://books.google.co.jp/books?id=zdtw7rkxfzgC&dq=Mroue+Louvre&redir_esc=y&hl=ja
Miltoun, Francis (1910). Royal Palaces and Parks of France . L.C. Page & Co. https://books.google.co.jp/books?id=JWQBAAAAYAAJ&pg=RA1-PA114&lpg=RA1-PA114&dq=pavillon+de+flore+committee&redir_esc=y&hl=ja
Lunn, Martin (2004). Da Vinci code Decoded . New York: Disinformation. ISBN 0-9729529-7-7 . OCLC 224340425
Nave, Alain (1998). Treasures of the Louvre . Barnes & Noble Publishing. ISBN 0-7607-1067-8 . OCLC 40334510 . https://books.google.co.jp/books?id=t1CURRmNhuQC&dq=history+of+louvre+acquisitions&redir_esc=y&hl=ja
Nora, Pierre; Lawrence D. Kritzman (1996). Realms of Memory . New York: Columbia University Press. ISBN 978-0-231-10926-0 . OCLC 234041248 . https://books.google.co.jp/books?id=4rmT7223jfEC&dq=the+louvre+opening&redir_esc=y&hl=ja
Oliver, Bette Wyn (2007). From Royal to National: The Louvre Museum and the Bibliothèque Nationale . Lexington Books. ISBN 978-0-7391-1861-0 . OCLC 70883061 . https://books.google.co.jp/books?id=oOXAtXKvXn0C&dq=the+louvre+opening+1793&redir_esc=y&hl=ja
Rickman, Gregg (1999). Swiss Banks and Jewish Souls . Transaction Publishers. ISBN 1-56000-426-6 . OCLC 40698624 . https://books.google.co.jp/books?id=by4SG25lAA0C&pg=PA251&dq=Matt%C3%A9oli+Commission+louvre&redir_esc=y&hl=ja
Rogers, Elizabeth A. (2001). Landscape design: a cultural and architectural history . New York: Harry N. Abrams. ISBN 0-8109-4253-4 . OCLC 186087857 . https://books.google.com/?id=vGpRAAAAMAAJ&q=results+tuileries+fire+louvre+axis&dq=results+tuileries+fire+louvre+axis [リンク切 き れ ]
Sturdy, David (1995). Science and social status: the members of the Académie des sciences 1666–1750 . Woodbridge, Suffolk, U.K.: Boydell Press. ISBN 0-85115-395-X . OCLC 185477008 . https://books.google.co.jp/books?id=xLsNxkRXiNAC&dq=francois+I+keep+Louvre&redir_esc=y&hl=ja
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 地理 ちり 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か その他 た