ルーヴル宮殿きゅうでん

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ルーヴル宮殿きゅうでん
Palais du Louvre
クール・ナポレオンから撮影さつえいしたルーヴル宮殿きゅうでんルーヴル・ピラミッド夜景やけい地図
概要がいよう
用途ようと 宮殿きゅうでん
建築けんちく様式ようしき ゴシック様式ようしき(13世紀せいき、14世紀せいきふえ改築かいちくされた箇所かしょ)、
ルネサンス様式ようしき(16世紀せいきふえ改築かいちくされた箇所かしょ)、
ルイ13せい様式ようしきバロック様式ようしき(17世紀せいき、18世紀せいきふえ改築かいちくされた箇所かしょ)、
しん古典こてん様式ようしきしんバロック様式ようしき・ナポレオン3せい様式ようしき(19世紀せいきふえ改築かいちくされた箇所かしょ)、
モダニズム様式ようしき(20世紀せいきふえ改築かいちくされた箇所かしょ
着工ちゃっこう 1202ねんルーヴルじょう)、1546ねん(ルーヴル宮殿きゅうでん
完成かんせい 1989ねんルーヴル・ピラミッド完成かんせい
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世界遺産 パリのセーヌ河岸かわぎし
フランス
ルーヴル宮殿の鳥瞰
ルーヴル宮殿きゅうでん鳥瞰ちょうかん
英名えいめい Paris, Banks of the Seine
ふつめい Paris, rives de la Seine
登録とうろく区分くぶん 文化ぶんか遺産いさん
登録とうろく基準きじゅん (ⅰ),(ⅱ),(ⅳ)
登録とうろくねん 1991ねん
公式こうしきサイト 世界せかい遺産いさんセンター英語えいご
地図ちず
ルーヴル宮殿の位置
ルーヴル宮殿の位置(パリ内)
ルーヴル宮殿
ルーヴル宮殿の位置(パリ1区内)
ルーヴル宮殿
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ルーヴル宮殿きゅうでん(ルーヴルきゅうでん、ふつ: Palais du LouvreIPA: [palɛ dy luvʁ])は、かつて歴代れきだいフランスおう王宮おうきゅうとして使用しようされていた宮殿きゅうでんパリセーヌがわ右岸うがん位置いちし、西側にしがわのテュイルリー庭園ていえん東側ひがしがわのサンジェルマン・ロクセロワ教会きょうかいあいだにある。ルーヴル宮殿きゅうでん北側きたがわはリヴォリどおり (en:Rue de Rivoli) にめんし、南側みなみがわはフランソワ・ミッテランどおり (en:Quai François Mitterrand) にめんしている。中世ちゅうせい建築けんちくはじめられ、16世紀せいき以降いこうぞう改築かいちくかえされてきた。1682ねんにフランスおうルイ14せいヴェルサイユ宮殿きゅうでん遷宮せんぐうするまで、事実じじつじょう歴代れきだいフランス王宮おうきゅうとしての役割やくわりたしている。ルーヴル宮殿きゅうでんは1682ねん以降いこうも、アンシャン・レジーム終焉しゅうえんする1789ねんまで、名目めいもくじょう、あるいは公式こうしき政庁せいちょうとして使用しようされていた。そのルーヴル宮殿きゅうでんないルーヴル美術館びじゅつかん創設そうせつされ、また、様々さまざま官公庁かんこうちょう部署ぶしょ収容しゅうようされていった。

上空じょうくうからたルーヴル宮殿きゅうでん

現在げんざいのルーヴル宮殿きゅうでん広大こうだい両翼りょうよくと4むねしゅたる建造けんぞうぶつ構成こうせいされている。かず世紀せいきにわたって幾度いくどふえ改築かいちくかえされてきた結果けっか全体ぜんたいとしての建築けんちく様式ようしき統一とういつされているとはえない。建造けんぞうぶつそう面積めんせきやく40ヘクタールで、ナポレオン1せい時代じだい完成かんせいしたクール・カレ(方形ほうけい中庭なかにわ)と、ナポレオン3せい時代じだい整備せいび開始かいしされたさらにひろいクール・ナポレオン(ナポレオン中庭なかにわ/ナポレオン広場ひろば)のめんおおきな中庭なかにわがある。このクール・ナポレオンは西側にしがわカルーゼル広場ひろばめんしている。

ルーヴル宮殿きゅうでん構成こうせいは、中世ちゅうせいからルネサンス建造けんぞうされた、クール・カレをかこ建築けんちくぶつつばさとうとセーヌ河岸かわぎし沿ってながびるグランド・ギャルリ(だい展示てんじしつ)で構成こうせいされる通称つうしょうきゅうルーヴル」と、19世紀せいき以降いこう建造けんぞうされた、クール・ナポレオンの北側きたがわ南側みなみがわ沿ってびる建築けんちくぶつつばさとう、1871ねん焼失しょうしつしたテュイルリー宮殿きゅうでん遺構いこうとなるテュイルリー庭園ていえんから構成こうせいされる通称つうしょうしんルーヴル」に大別たいべつされる。現在げんざいではルーヴル宮殿きゅうでん全体ぜんたいそうゆか面積めんせきのうち、やく60,600平方へいほうメートル以上いじょう美術びじゅつひん展示てんじ場所ばしょとして使用しようされている[1]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

ルーヴルという名称めいしょう語源ごげん[編集へんしゅう]

「ルーヴル (Louvre)」という名称めいしょう由来ゆらいははっきりしていない。フランスじん歴史れきしアンリ・ソーヴァル (en:Henri Sauval) が、「ふるいラテン=サクソン用語ようごしゅうによると『Leouar』という言葉ことばは『城塞じょうさい』という意味いみである」と1660年代ねんだいごろにしるしており、この「Leouar」が「Louvre」の語源ごげんであるとするせつがある[2]。キース・ブリッグスは、このせつ有名ゆうめい現代げんだい書籍しょせきにもげられることをみとめたうえで、ソーヴァルがいう用語ようごしゅういちたりとも発見はっけんされたことがないことから、「Leouar語源ごげんせつ過去かこ主流しゅりゅうだったせつにすぎないとしている。そしてブリッグスは、H. J. ウルフが1969ねんとなえた「Louvre」は「あか」を意味いみするラテン語らてんごの「Rubras」に由来ゆらいするというせつ支持しじした[3]。デイヴィッド・ハンサーは「オオカミよう狩猟しゅりょうけん訓練くんれん場所ばしょ」を意味いみするフランス語ふらんすごlouveterie」が語源ごげんではないかとしている[4]

時代別のルーヴルとテュイルリー宮殿の平面図
時代じだいべつのルーヴルとテュイルリー宮殿きゅうでん平面へいめん

時代じだいべつのルーヴルとテュイルリー宮殿きゅうでん平面へいめん

建築けんちくねん フランス統治とうちしゃ 建築けんちく
1
  
1546ねん - 1549ねん フランソワ1せいアンリ2せい ピエール・レスコ
2
  
1559ねん - 1574ねん フランソワ2せいシャルル4せいアンリ3せい ピエール・レスコ
3
  
1564ねん - 1570ねん カトリーヌ・ド・メディシス フィリベール・ドロルム
4
  
1566ねん カトリーヌ・ド・メディシス ピエール・レスコ
5
  
1570ねん - 1572ねん カトリーヌ・ド・メディシス ジャン・ビュラン
6
  
1595ねん - 1610ねん アンリ4せい ルイ・メテゥゾー
7
  
1595ねん - 1610ねん アンリ4せい ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー
1861ねん - 1870ねん ナポレオン3せい エクトール・ルフエル
8
  
1595ねん - 1610ねん アンリ4せい ジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー
9
  
1624ねん - 1654ねん ルイ13せいルイ14せい ジャック・ルメルシエ
10
  
1653ねん - 1655ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー
11
  
1659ねん - 1662ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー、カルロ・ヴィガラニ
12
  
1659ねん - 1664ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー
13
  
1661ねん - 1664ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー
14
  
1664ねん - 1666ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー
15
  
1664ねん - 1666ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー
1874ねん - 1880ねん フランスだいさん共和きょうわ政府せいふ エクトール・ルフエル
16
  
1667ねん - 1670ねん ルイ14せい ルイ・ル・ヴォー、クロード・ペローシャルル・ル・ブラン
17
  
1806ねん - 1811ねん ナポレオン1せい シャルル・ペルシエ、ピエール・フォンティーヌ
18
  
1816ねん - 1824ねん ルイ18せい ピエール=フランソワ=レオナール・フォンティーヌ
19
  
1852ねん - 1857ねん ナポレオン3せい ルイ・ヴィスコンティ、エクトール・ルフエル
20
  
1861ねん - 1870ねん ナポレオン3せい エクトール・ルフエル
21
  
1874ねん - 1880ねん フランスだいさん共和きょうわ政府せいふ エクトール・ルフエル

中世ちゅうせい[編集へんしゅう]

城塞じょうさい[編集へんしゅう]

中世ちゅうせいのルーヴルとフィリップ・オーギュストの防壁ぼうへき平面へいめん。シャルル5せい時代じだい増築ぞうちくされた箇所かしょえがかれている[5]

1190ねんに、だい3かい十字軍じゅうじぐん主導しゅどうしたことでもられるフランスおうフィリップ2せいが、パリ全域ぜんいきかこ城壁じょうへき (en:Wall of Philip II Augustus) の建設けんせつめいじた。「フィリップ・オーギュストの防壁ぼうへき」ともばれるこの城壁じょうへきは、北西ほくせいからのてき侵攻しんこうそなえたもので、城壁じょうへき外部がいぶにはすうむね堅固けんご城塞じょうさい建設けんせつされた。これらの城塞じょうさいのうちセーヌがわ建設けんせつされたのが、現在げんざいのルーヴル宮殿きゅうでん前身ぜんしんにあたる城塞じょうさいとしてのルーヴルである。ルーヴルが建設けんせつされたのは、現在げんざいのクール・カレ南西なんせい部分ぶぶんのおよそよんぶんいち相当そうとうする場所ばしょで、1202ねん完成かんせいした。現在げんざいでもルーヴルのシュリーつばさで、建設けんせつ当時とうじのルーヴルの遺物いぶつ一般いっぱん公開こうかいされている[6][7]

完成かんせい当初とうしょのルーヴルは78メートル × 72メートルのほぼ正方形せいほうけい建造けんぞうぶつで、たかさ2.6メートルの胸壁きょうへきちょういずる狭間はざまそなえた城壁じょうへきかこまれていた。 さらにその外側そとがわみずをたたえたほりがめぐらされていた。城壁じょうへき外部がいぶには10むね防御ぼうぎょよう尖塔せんとうがあり、城壁じょうへきかくかくおよび北側きたがわ西側にしがわ城壁じょうへき中央ちゅうおうに1むねずつと、南側みなみがわ東側ひがしがわもうけられたせまもんりょうわきにそれぞれ2むねずつてられていた[6]中庭なかにわのやや北東ほくとうりには、石造いしづくりのきゅう傾斜けいしゃけたふかいぬいほりかこまれた、たかさ13メートル、直径ちょっけい4メートルの円筒えんとうじょうおもとうドンジョン)が設置せっちされていた。ルーヴルに派遣はけんされた兵士へいしたちの寝泊ねとまりには、おもとうえん天井てんじょう大部屋おおべやと、城壁じょうへき内部ないぶ西側にしがわ南側みなみがわてられたつばさとう使用しようされていた[8]。この時代じだいのルーヴルは城塞じょうさいであり、当時とうじのフランスおうたちがパリで住居じゅうきょとしていたのはコンシェルジュリー宮殿きゅうでんだった[9]

円筒えんとうがた建物たてもの方形ほうけい建物たてものくらべて死角しかくすくなく、侵攻しんこうしてくるてき遠距離えんきょりから視認しにんできるという特長とくちょうつ。このため当時とうじのフランスでは円筒えんとうがたしゅとう城塞じょうさいおおかったが、ルーヴルほどだい規模きぼ城塞じょうさいまれだった。ルーヴルはフランスおう権力けんりょく象徴しょうちょうとなり、国王こくおうたいする忠誠ちゅうせい誓言せいげんとして採用さいようされるほどだった。ルーヴルは1528ねん解体かいたいされているが、この慣習かんしゅう時代じだいをはるかにくだアンシャン・レジームわりまでつづいている[8][10]。ルーヴルは中世ちゅうせい時代じだいつうじてなんふえ改築かいちくされた。13世紀せいきなかばのフランスおうルイ9せいのころには、ルーヴルは王室おうしつ財産ざいさん保管ほかんにもなっている。また、ヴァロワ王朝おうちょうには、監獄かんごく法廷ほうてい収容しゅうようされたこともあった[11]

王宮おうきゅう[編集へんしゅう]

装飾そうしょく写本しゃほんベリーこうのいとも豪華ごうかなるときいのりしょ』にえがかれた、シャルル5せい時代じだいのルーヴル。

パリの隆盛りゅうせいひゃくねん戦争せんそう勃発ぼっぱつ商人しょうにんあたまエティエンヌ・マルセル台頭たいとうまねき、実質じっしつてきにパリ市長しちょうともいえる地位ちいにいたマルセルは、フィリップ・オーギュストの防壁ぼうへき外側そとがわるいきずはじめた。フランスおう対立たいりつしていたマルセルの暗殺あんさつにフランス王位おういいたシャルル5せいも、このるい建造けんぞう継続けいぞくしてさらに防壁ぼうへきへと強化きょうかしていった[10]。「シャルル5せい防壁ぼうへき (en:Wall of Charles V)」とばれるこの防壁ぼうへきは、現在げんざいでもルーヴル美術館びじゅつかんのギャルリ・カルーゼル(カルーゼル展示てんじしつ)でることができる[9]。マルセルのるいさい西端せいたん設置せっちされていた木造もくぞうとうから、シャルル5せい防壁ぼうへきがセーヌ右岸うがんめぐっていたフィリップ・オーギュストの防壁ぼうへき外側そとがわにも延長えんちょうされた。じゅう防壁ぼうへきかこまれたルーヴルの軍事ぐんじてき重要じゅうようせいとその価値かち飛躍ひやくてきたかまっていった[12]

シャルル5せいおう太子たいしシャルルだった時期じきにパリのフランス王宮おうきゅうとして使用しようされていたのはシテ宮殿きゅうでんだった。ちちおうジャン2せいひゃくねん戦争せんそうでイングランドの捕虜ほりょとなって以来いらい、シャルルが摂政せっしょうとしてシテ宮殿きゅうでんでフランスの国政こくせいつかさどっていた。当時とうじフランス王室おうしつはげしく対立たいりつしていたエティエンヌ・マルセルの私兵しへいが1358ねんにシテ宮殿きゅうでん乱入らんにゅうして、フランスおう相談役そうだんやくらを殺害さつがいするという事件じけんこす。自身じしんがシテ宮殿きゅうでん滞在たいざいしているときにこされたこの事件じけんにシャルルははげしくいきどおった。シャルルはシテ宮殿きゅうでんではなく、ルーヴルをフランス王宮おうきゅうとすることをめた[9]。ルーヴルが城塞じょうさいから宮殿きゅうでんへと改築かいちくされたのは1360ねんから1380ねんにかけてである[12]城壁じょうへきにはガラスまどけられ、中庭なかにわにはあらたなつばさとう建設けんせつされた。屋根やねには装飾そうしょくされた煙突えんとつしょうとう尖塔せんとうなどが設置せっちされている。「可愛かわいらしいルーヴル (joli Louvre)」としてられるシャルル5せい改築かいちくしたルーヴルは、装飾そうしょく写本しゃほんベリーこうのいとも豪華ごうかなるときいのりしょ』の「10がつ」のえがかれている[13]

ルネサンス[編集へんしゅう]

1528ねんに、幽閉ゆうへいされていたスペインから帰還きかんしたフランスおうフランソワ1せいが、ルーヴルのおもとうやぶ却をめいじた。フランソワ1せいフォンテーヌブロー宮殿きゅうでんで、のルーヴル美術館びじゅつかん中核ちゅうかくコレクションとなる美術びじゅつひん収集しゅうしゅう開始かいしした。フランソワ1せい購入こうにゅうした有名ゆうめい美術びじゅつひんに、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』がある[14]。1546ねんにフランソワ1せいは、建築けんちくピエール・レスコ彫刻ちょうこくジャン・グージョンに、ルーヴルを当時とうじ主流しゅりゅうだったルネサンス様式ようしき宮殿きゅうでん改装かいそうするようにめいじた[9][15][16]。レスコはかつてロワール渓谷けいこく古城こじょう修復しゅうふく手掛てがけたことがあり、このルーヴル改装かいそう計画けいかくにも抜擢ばってきされた建築けんちくである。フランソワ1せいが1547ねん死去しきょすると、ルーヴル改装かいそう計画けいかくはいったん中止ちゅうしされたが、フランソワ1せいのちおそって王位おういいたアンリ2せいが、1549ねんからルーヴル改装かいそう計画けいかく再開さいかいした[9]

レスコはルーヴルの西側にしがわてられていたつばさとうやぶ却し、現在げんざいでもレスコつばさばれるつばさとうあらたに建造けんぞうした。また、おう別館べっかん (Pavillon du Roi) のアンリ2せい寝室しんしつ天井てんじょうを、伝統でんとうてきりょう構造こうぞうではなく、古代こだいギリシア・ローマ様式ようしきした女性じょせいぞう彫刻ちょうこく装飾そうしょくした[17]美術びじゅつ史家しかアンソニー・ブラント (en:Anthony Blunt) はレスコがのこした業績ぎょうせきについて「フランス古典こてん主義しゅぎともいえる様式ようしきで、独自どくじ原則げんそく調和ちょうわちている」とひょうしている[17]

フランソワ2せいシャルル9せい時代じだいに、レスコは南側みなみがわつばさとうやぶ却してレスコつばさおな設計せっけいつばさとう建造けんぞうした。これはエクーアンじょう (en:Château d'Écouen) のように、4むね建物たてもの正方形せいほうけい城郭じょうかく構成こうせいする設計せっけいだったとかんがえられており、北側きたがわにはたかさがひくいものの同一どういつ設計せっけいつばさとうと、東側ひがしがわにはエントランスがあるつばさとう建造けんぞう計画けいかくされていた[18]。レスコはルーヴルの南東なんとうかくからセーヌがわへとびるプティート・ギャルリ(プティート展示てんじしつ)の設計せっけい担当たんとうした。しかしながら、ユグノー戦争せんそう勃発ぼっぱつにより、すべてのルーヴル改装かいそう作業さぎょう中止ちゅうしされてしまった[19]

1564ねん初頭しょとうになって、1559ねん事故死じこししたアンリ2せい王妃おうひようおうシャルル9せい摂政せっしょうつとめていたカトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西側にしがわのシャルル5せい防壁ぼうへきがい宮殿きゅうでん建造けんぞうめいじた。この宮殿きゅうでんはタイル工場こうじょう (tuileries) の跡地あとちてられたことからテュイルリー宮殿きゅうでんばれるようになった。建築けんちくフィリベール・ドゥ・ロルム (en:Philibert de l'Orme) が設計せっけい担当たんとうし、ロルムが1570ねん死去しきょするとジャン・ビュラン (en:Jean Bullant) が計画けいかくいだ[15][19]

ブルボンあさ以降いこう[編集へんしゅう]

ユグノー戦争せんそうちゅう断絶だんぜつしたヴァロワのち、1589ねんブルボンがフランス王位おういぎ、アンリ4せい在位ざいい1589ねん - 1610ねん)がルーヴルの「だい計画けいかく (Grand Design)」を開始かいしした。中世ちゅうせい城塞じょうさい時代じだいからの遺構いこうをすべてやぶ却して中庭なかにわクール・カレを拡張かくちょうするとともに、ルーヴルとテュイルリー宮殿きゅうでんむす長大ちょうだい回廊かいろう建造けんぞう計画けいかくすすめたのである。建築けんちくジャック・アンドルーエ・デュ・セルソー (en:Jacques II Androuet du Cerceau) とルイ・メテゥゾーが完成かんせいしたこの回廊かいろうはグランド・ギャルリ(だい展示てんじしつGrande Galerie)とばれるようになった[22]。セーヌがわ沿ってながさ400メートルちょうはばおよそ30メートルにおよぶこの長大ちょうだい回廊かいろうは、完成かんせい当時とうじ世界せかい最長さいちょう建造けんぞうぶつだった。アンリ4せいは、すうひゃくにんにのぼる芸術げいじゅつ工芸こうげいをルーヴルにまわせて芸術げいじゅつ活動かつどう後援こうえんした。この慣習かんしゅうは200ねんにナポレオン3せい廃止はいしするまでつづいている。

17世紀せいき初頭しょとうルイ13せいが、レスコつばさきたへとばいながさへの延長えんちょう決定けっていし、建築けんちくジャック・ルメルシエが1642ねんごろに完成かんせいさせた。このときに延長えんちょうされたレスコつばさ中央ちゅうおうとうは、1857ねん時計とけい設置せっちされたことから「時計とけいとう (en:Pavillon de l’Horloge) とばれるようになっていった[22]。ルメルシエは、きたつばさひがしへと延伸えんしんするだいいち工事こうじがけている[23]

ルイ14せい時代じだい[編集へんしゅう]

1739ねん発行はっこうされた「テュルゴーのパリ地図ちず (en:Turgot map of Paris)」に掲載けいさいされているルーヴル。ルイ14せい時代じだいにはきたつばさ西にしつばさなどの屋根やね完成かんせいわっている。最終さいしゅうてき完成かんせいしたのはおよそ100ねんのナポレオン1せい時代じだいだった。

1659ねんフランスおうルイ14せいが、建築けんちくルイ・ル・ヴォー (en:Louis Le Vau) と画家がかシャルル・ル・ブランにルーヴルの拡張かくちょう計画けいかく推進すいしんめいじた。ル・ヴォーはテュイルリー宮殿きゅうでん改装かいそう完了かんりょうするまで作業さぎょう監督かんとくつとめ、さらにルーヴルのきたつばさかりぐみみなみつばさ延伸えんしん完遂かんすいおう別館べっかん装飾そうしょく、プティート・ギャルリに沿ってもうけられたあらたなギャルリであるおうだい執務しつむしつ (Grand Cabinet du Roi) と礼拝れいはいどう新設しんせつ担当たんとうした。ル・ブランはギャルリ・アポロン(アポロン展示てんじしつ (en:Galerie d'Apollon))の装飾そうしょく担当たんとうした。造園ぞうえんアンドレ・ル・ノートルは、カトリーヌ・ド・メディシスが1564ねんにイタリアふう庭園ていえんとして完成かんせいさせたテュイルリー庭園ていえんを、フランスふう庭園ていえんへと改装かいそうしている[22][24][25]。「王室おうしつ美術びじゅつコレクション (Cabinet du Roi)」の中核ちゅうかくは、プティート・ギャルリのうえかい設置せっちされたアポロン・ギャルリ西側にしがわの8部屋へやかざられていた。1673ねんごろにはおおくの歴代れきだいフランスおう肖像しょうぞうがこれらの部屋へや収蔵しゅうぞうされており、アート・ギャラリーとして公開こうかいされるようになっていった。1681ねんにルイ14せいがフランス王宮おうきゅうをルーヴルからヴェルサイユ宮殿きゅうでんうつすと、アポロン・ギャルリの絵画かいがのうち26てんがヴェルサイユ宮殿きゅうでんへとされた。ルーヴルの王室おうしつ美術びじゅつコレクションの価値かちはそのぶんひくくなったとはいえ、1684ねん発行はっこうのパリガイドブックにも記載きさいされており、1686ねんにはシャム外交がいこうかんいちぎょう見学けんがくおとずれている[26]

ルイ13せい任命にんめいした、ル・ヴォー、ル・ブラン、クロード・ペローらで構成こうせいされる建築けんちく委員いいんかいが、ルーヴルのひがしファサードの設計せっけい担当たんとうした[27]。1668ねん建設けんせつ開始かいしされ、ルイ14せい在位ざいいちゅうの1680ねん一応いちおう完成かんせいた。しかしながらつばさ部分ぶぶん一部いちぶ完成かんせいで、すべて完成かんせいしたのはナポレオン1せい時代じだいになってからだった[24]。このひがしファサードの設計せっけい主導しゅどうしたのはペローだといわれており、かく建築けんちく意見いけんをうまく調整ちょうせいしてみなみつばさよこはばばいにする決定けっていくだしたのもペローだった[24]

ペローが設計せっけいしたルーヴルのひがしファサード(1665ねん - 1680ねん)。ヨーロッパ屈指くっし古典こてん主義しゅぎ建築けんちくとされる。

ひがしファサードの屋根やねあきらかにフランスふうではないたいらな構造こうぞうと、典型てんけいてきなイタリアふう欄干らんかんかこまれている。このデザインがフランス建築けんちく一大いちだい転換てんかんとなった。当時とうじのルーヴルでは、特別とくべつにパリへと招聘しょうへいされた世界せかいてきなイタリアじん建築けんちく彫刻ちょうこくベルニーニ改装かいそう設計せっけい担当たんとうしていた。しかしながら、このひがしファサードはベルニーニによる設計せっけいあんではなく、ペローの設計せっけいあん採用さいようされた建物たてものである。ペローは古代こだいローマの建築けんちくウィトルウィウスのデザインをフランス建築けんちく昇華しょうかした。はしらとうコロネードペディメントなど、古典こてん主義しゅぎとバロックを抑制よくせいてき融合ゆうごうした様式ようしきは、なに世紀せいきにもわたってヨーロッパやアメリカのだい規模きぼ建造けんぞうぶつ手本てほんとなってきた。ニューヨークのメトロポリタン美術館びじゅつかんもペローの様式ようしきからの影響えいきょうけている。ペローはみなみつばさよこはば倍増ばいぞう計画けいかく責任せきにんしゃでもあった。みなみつばさファサードはル・ヴォーのデザインで改装かいそうされていたが、ペローはよりひがしファサードと調和ちょうわするデザインでみなみつばさファサードを一新いっしんしている[24]。さらにペローはきたつばさ市街しがいがわファサードの設計せっけい担当たんとうしたほか[24]、クール・カレがわきたひがしみなみファサードのデザインの責任せきにんしゃでもあったとかんがえられている[28]

19世紀せいき以降いこう[編集へんしゅう]

テュイルリー宮殿きゅうでんは、1871ねん5がつパリ・コミューン鎮圧ちんあつ混乱こんらん焼失しょうしつした。
クール・ナポレオンに設置せっちされていたレオン・ガンベッタ記念きねん(1900ねんごろ)。1954ねん撤去てっきょされた。

1806ねんにフランス皇帝こうていナポレオン1せいいのちで、ひがしびるむねつばさ中間ちゅうかんカルーゼル凱旋がいせんもん建設けんせつ開始かいしされた。これはナポレオン1せい自身じしん軍事ぐんじてき業績ぎょうせきたたえるための凱旋がいせんもんで、建築けんちくシャルル・ペルシエ (en:Charles Percier) が設計せっけいし、1808ねん完成かんせいした。現在げんざいのカルーゼル凱旋がいせんもんには彫刻ちょうこくフランソワ・ジョゼフ・ボジオのクアドリガ安置あんちされているが、これはナポレオン没落ぼつらくフランス王政おうせい復古ふっこ設置せっちされたものである。

19世紀せいきなかばごろまでカルーゼル広場ひろばには中世ちゅうせい以来いらいのルーヴルじょう遺構いこうのこっていた。これらの遺構いこうがすべて撤去てっきょされたのはナポレオン3せいフランスだい帝政ていせいになってからだった。ルーヴルとテュイルリー宮殿きゅうでんとをむす壮大そうだい計画けいかく着想ちゃくそうされたのはおよそ3世紀せいきまえのことだったが、このだい計画けいかく最終さいしゅう建築けんちくぶつとなる、リヴォリどおりに並行へいこうしてびる北側きたがわのリシュリューつばさ南側みなみがわのドゥノンつばさ完成かんせいしたのは、このフランスだい帝政ていせいである。この2つばさは、建築けんちくルイ・ヴィスコンティ (en:Louis Visconti) とエクトル・ルフュール (en:Hector Lefuel) が設計せっけい担当たんとうした、フランスだい帝政ていせい代表だいひょうするネオ・バロック様式ようしき建造けんぞうぶつである。だい規模きぼ彫刻ちょうこく細工ざいく装飾そうしょくされたほか、フランス史上しじょう著名ちょめい歴史れきしてき人物じんぶつ彫像ちょうぞう設置せっちされた。この人物じんぶつ彫像ちょうぞう一部いちぶ以下いかげる。

テュイルリー宮殿きゅうでんは、1871ねん5がつパリ・コミューン鎮圧ちんあつにコミューン参加さんかしゃによって放火ほうかされ、はなかんのこして完全かんぜん焼失しょうしつした。ルーヴルのリシュリュー文書ぶんしょしつつつまれて焼失しょうしつしたが、その建物たてもの消防しょうぼうとルーヴル職員しょくいんとの懸命けんめい消火しょうか活動かつどうによって破壊はかいまぬかれた[29]。テュイルリー宮殿きゅうでん焼失しょうしつ以来いらい、ルーヴルの東側ひがしがわ中庭なかにわであるカルーゼル広場ひろばは、いちめんのみが開放かいほうされたままの、いわゆる「クール・ドヌール (en:Cour d'honneur)」の状態じょうたいとなっている。

1888ねんにフランスの政治せいじレオン・ガンベッタ記念きねんがクール・ナポレオンの中央ちゅうおう現在げんざいルーヴル・ピラミッド位置いちする場所ばしょ建立こんりゅうされた。当時とうじのクール・ナポレオンはふたつの庭園ていえんとなっており、一方いっぽう庭園ていえんにこのガンベッタの記念きねんが、もう一方いっぽう庭園ていえんにはフランスの軍人ぐんじん侯爵こうしゃくラファイエット記念きねん設置せっちされていた。しかしながらこれらの記念きねん庭園ていえんは、時計とけいとうからの見晴みはらしをよくするために1954ねん撤去てっきょされている。

だいルーヴル計画けいかくとルーヴル・ピラミッド[編集へんしゅう]

1983ねん当時とうじフランス大統領だいとうりょうフランソワ・ミッテランが、「パリだい改造かいぞう計画けいかく (en:Grands Projets of François Mitterrand)」を推進すいしんした。この計画けいかく一環いっかんとして「だいルーヴル計画けいかく (Grand Louvre)」が実施じっしされることとなり、1983ねんだいルーヴル計画けいかく公団こうだん設立せつりつされた。この計画けいかくでは、ルーヴルの建造けんぞうぶつ修復しゅうふくと、リシュリューつばさ収容しゅうようされていた財務省ざいむしょう移設いせつして、建物たてもの全体ぜんたい美術館びじゅつかんとして使用しようすることがめられた。さらにアメリカの建築けんちくイオ・ミン・ペイに、クール・ナポレオンの中央ちゅうおうあらたに設置せっちするメイン・エントランスの設計せっけいまかされ、1989ねんルーヴル・ピラミッドばれるガラスせいきん未来みらいてきなデザインのピラミッドが完成かんせいした[30][31]完成かんせい当初とうしょには、古典こてんてき建築けんちくぶつであるルーヴルに、このような建造けんぞうぶつ相応ふさわしくないのではないかという議論ぎろんこったが、徐々じょじょあらたなパリのランドマークとしてパリれられつつある。1993ねんにはルーヴル・ピラミッドとたいとなるルーヴル・ぎゃくピラミッド完成かんせいした。2002ねん以降いこうのルーヴルの入場にゅうじょうしゃすうは、だいルーヴル計画けいかく以前いぜんくらべてやく2ばい増加ぞうかしている[32]

だいルーヴル計画けいかく一環いっかんとして、ルーヴルでは建物たてもの場所ばしょによって全体ぜんたいおおきくみっつにけ、しゅたる建物たてもの名前なまえぶことをめた。ルーヴルのメインエントランスであるルーヴルピラミッドの地下ちかからの順路じゅんろとして、ひがしかうシュリーつばさきたかうリシュリューつばさ、そしてみなみかうドゥノンつばさである[33][34]

ギャラリー[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Œuvres”. Musée du Louvre. 2008ねん4がつ27にち閲覧えつらん
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  4. ^ Hanser 2006, p. 115; en:Wolfcatcher Royalfr:Louveterie参照さんしょう
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  20. ^ Drawing by architect Henri Legrand (1868) based on historical documents reproduced in Berty 1868, after p. 168 (at Gallica).
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  22. ^ a b c Mignot 1999, p. 39.
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • Berger, Robert W. (1999). Public Access to Art in Paris: A Documentary History from the Middle Ages to 1800. University Park: Pennsylvania State University Press. ISBN 9780271017495.
  • Berty, Adolphe (1868). Topographie historique du vieux Paris. Région du Louvre et des Tuileries. Tome 2. Paris: Imprimerie Impériale. Copy at Gallica.
  • Biasini, Émile; Lebrat, Jean; Bezombes, Dominique; Vincent, Jean-Michel (1989). The Grand Louvre: A Museum Transfigured 1981–1993. Paris: Electa Moniteur. ISBN 9782866530662.
  • Blunt, Anthony; Beresford, Richard (1999). Art and architecture in France, 1500-1700. New Haven: Yale University Press. ISBN 0-300-07748-3.
  • Briggs, Keith (2008). "The Domesday Book castle LVVRE". Journal of the English Place-Name Society, vol. 40, pp. 113–118. Retrieved 16 February 2013.
  • Christ, Yvan (1949). Le Louvre et les Tuileries : Histoire architecturale d'un double palais. [Paris]: Éditions "Tel". OCLC 1122966.
  • Edwards, Henry Sutherland (1893). Old and New Paris: Its History, Its People, and Its Places. Paris: Cassell. View at Google Books. Retrieved 30 April 2008.
  • Hanser, David A. (2006). Architecture of France. Westport, Connecticut: Greenwood Press. ISBN 9780313319020.
  • Hautecoeur, Louis (1940). Histoire du Louvre: Le Château – Le Palais – Le Musée, des origines à nos jours, 1200–1940, 2nd edition. Paris: Administration provisoire d'imprimerie. OCLC 433847563, 174906288.
  • Lowry, Bates (1956). Palais du Louvre, 1528-1624: The Development of a Sixteenth-Century Architectural Complex (thesis/dissertation). University of Chicago. OCLC 214308093. ProQuest
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  • Ochterbeck, Cynthia Clayton, editor (2009). The Green Guide Paris, pp. 168–201. Greenville, South Carolina: Michelin Maps and Guides. ISBN 9781906261375.
  • Sauval, Henri (1724). Histoire et recherches des antiquités de la ville de Paris, vol. 2, Paris: C. Moette and J. Chardon. Copy at Google Books.
  • Sturdy, David (1995). Science and social status: the members of the Académie des sciences 1666-1750. Woodbridge, Suffolk, U.K.: Boydell Press. ISBN 085115395X. Preview at Google Books.

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

座標ざひょう: 北緯ほくい4851ふん40びょう 東経とうけい220ふん11びょう / 北緯ほくい48.86111 東経とうけい2.33639 / 48.86111; 2.33639