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カルーゼル広場 ひろば (Place du Carrousel)は、パリ の1区 く にある公共 こうきょう の広場 ひろば で、ルーヴル美術館 びじゅつかん の中庭 なかにわ の一方 いっぽう が開 ひら かれた部分 ぶぶん にあり、かつて1871年 ねん まではそこにテュイルリー宮殿 きゅうでん があった。美術館 びじゅつかん とテュイルリー庭園 ていえん の間 あいだ に位置 いち し、テュイルリー庭園 ていえん の東 ひがし 端 はし にある。ちなみに西端 せいたん にはコンコルド広場 ひろば がある。
"carrousel" とは、軍事 ぐんじ 馬場 ばば 馬術 ばじゅつ の一種 いっしゅ を意味 いみ している。カルーゼル広場 ひろば がそう呼 よ ばれるようになったのは1662年 ねん のことで、ルイ14世 せい がそこで馬場 ばば 馬術 ばじゅつ を行 おこな わせて観覧 かんらん したことに由来 ゆらい する。
ルイ16世 せい の即位 そくい と結婚 けっこん に関連 かんれん してカルーゼル広場 ひろば に建 た てられた建物 たてもの (1775年 ねん )。背後 はいご にテュイルリー宮殿 きゅうでん がある。
1789年 ねん 10月 がつ 5日 にち のヴェルサイユ行進 こうしん をきっかけに、国王 こくおう ルイ16世 せい 、王妃 おうひ マリー・アントワネット とその子供 こども たち、さらには王 おう 弟 おとうと プロヴァンス伯 はく (後 ご のルイ18世 せい )とその妻 つま 、そして王 おう 妹 いもうと マダム・エリザベート らはヴェルサイユ宮殿 きゅうでん からテュイルリー宮殿 きゅうでん に移 うつ り、議会 ぎかい の監視 かんし 下 か に置 お かれることになった。このテュイルリー宮殿 きゅうでん での監禁 かんきん の間 あいだ 、王室 おうしつ の人々 ひとびと をフランスから脱出 だっしゅつ させる様々 さまざま な計画 けいかく が持 も ち上 あ がった。王妃 おうひ は王 おう と離 はな れたくないという理由 りゆう からそのいくつかを拒否 きょひ している。他 た の計画 けいかく は優柔不断 ゆうじゅうふだん な王 おう のせいで実行 じっこう できなかった。国王 こくおう 一家 いっか の脱出 だっしゅつ が実際 じっさい に決行 けっこう されたのはだいぶ遅 おく れて1791年 ねん 6月 がつ 21日 にち であった。同時 どうじ に逃亡 とうぼう したプロヴァンス伯 はく は亡命 ぼうめい に成功 せいこう したが、国王 こくおう 一家 いっか の試 こころ みは失敗 しっぱい に終 お わった(ヴァレンヌ事件 じけん )。逃亡 とうぼう の約 やく 24時 じ 間 あいだ 後 ご 、ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ で国王 こくおう 一家 いっか らは捕 つか まり、1週間 しゅうかん でパリに連 つ れ戻 もど された。
1792年 ねん 6月 がつ 20日 はつか 、群衆 ぐんしゅう がテュイルリー宮殿 きゅうでん に乱入 らんにゅう し、フランス国家 こっか への忠誠 ちゅうせい の象徴 しょうちょう である赤 あか い帽子 ぼうし (フリジア帽 ぼう )を国王 こくおう に被 かぶ せるという事件 じけん が発生 はっせい した。
同 おな じ年 ねん の8月 がつ 10日 とおか 事件 じけん では、武装 ぶそう した群衆 ぐんしゅう がテュイルリー宮殿 きゅうでん に押 お し寄 よ せ国王 こくおう 一家 いっか は隣 となり の立法 りっぽう 議会 ぎかい に避難 ひなん せざるを得 え なかった。約 やく 1時 じ 間 あいだ 半 はん 後 ご 、宮殿 きゅうでん は群衆 ぐんしゅう に蹂躙 じゅうりん され、スイス傭兵 ようへい たちが虐殺 ぎゃくさつ された。約 やく 700人 にん が殺 ころ され、その血 ち まみれの死体 したい が宮殿 きゅうでん 前 まえ の広場 ひろば (当時 とうじ は「カルーゼル競技 きょうぎ 場 じょう (Cours du Carrousel)」と呼 よ ばれていた)や宮殿 きゅうでん の庭園 ていえん やセーヌ川 がわ の土手 どて に並 なら べられた。8月13日 にち 、国王 こくおう 一家 いっか はタンプル塔 とう に幽閉 ゆうへい された。
1792年 ねん 8月 がつ 21日 にち 、カルーゼル広場 ひろば にギロチン 台 だい が立 た てられた。その後 ご 2回 かい ほど短期間 たんきかん だけ撤去 てっきょ されたが、1793年 ねん 5月 がつ 11日 にち までそこにあった。ここで、総勢 そうぜい 35人 にん が処刑 しょけい された。
1793年 ねん 8月 がつ 2日 にち 、かつてギロチン台 だい のあった場所 ばしょ に前月 ぜんげつ 亡 な くなった革命 かくめい 指導 しどう 者 しゃ ジャン=ポール・マラー を称 とな えた木製 もくせい のピラミッドが建設 けんせつ された。碑文 ひぶん には「今 いま は亡 な きマラーの魂 たましい に。(フランス革命 かくめい 暦 れき )1年 ねん 7月 がつ 13日 にち 没 ぼつ 。彼 かれ は墓 はか の下 した からも、まだ反逆 はんぎゃく 者 しゃ を震 ふる えさせる。危険 きけん な手 て は人々 ひとびと の愛情 あいじょう を妨 さまた げた」と記 しる されていた。また、暗殺 あんさつ された際 さい に浸 つ かっていた坐浴 ざよく 槽 そう と机 つくえ もそこに展示 てんじ された。これらの遺品 いひん は1794年 ねん 7月 がつ 28日 にち まで置 お かれていた。
1848年 ねん 革命 かくめい の際 さい 、テュイルリー宮殿 きゅうでん は暴徒 ぼうと に略奪 りゃくだつ され、ひどい損傷 そんしょう を被 こうむ った。1871年 ねん 5月 がつ 23日 にち 午後 ごご 7時 じ 、パリ・コミューン が制圧 せいあつ されようとしている最中 さいちゅう に、コミューンの命 いのち で12人 にん の男 おとこ が可燃 かねん 物 ぶつ (石油 せきゆ など)を使 つか ってテュイルリー宮殿 きゅうでん に火 ひ を放 はな った。火 ひ は48時 じ 間 あいだ 燃 も え続 つづ け、宮殿 きゅうでん は焼 や け落 お ちた。焼 や け跡 あと の廃墟 はいきょ は11年間 ねんかん そのまま放置 ほうち されていた。1882年 ねん 、フランス国民 こくみん 議会 ぎかい は廃墟 はいきょ の撤去 てっきょ を議決 ぎけつ し、感傷 かんしょう から反対 はんたい する意見 いけん もあったが1883年 ねん に撤去 てっきょ が実施 じっし される。焼 や け跡 あと から見 み つかった品々 しなじな は個人 こじん 企業 きぎょう 家 か に売却 ばいきゃく された。
宮殿 きゅうでん が撤去 てっきょ され更地 さらち となった場所 ばしょ は公共 こうきょう の広場 ひろば とされ、1662年 ねん 以来 いらい の名称 めいしょう である「カルーゼル広場 ひろば 」と呼 よ ばれるようになった。
カルーゼル凱旋 がいせん 門 もん
1806年 ねん から1808年 ねん にテュイルリー宮殿 きゅうでん の門 もん として建設 けんせつ されたカルーゼル凱旋 がいせん 門 もん (Arc de Triomphe du Carrousel) は、宮殿 きゅうでん 撤去 てっきょ 後 ご のカルーゼル広場 ひろば で最 もっと も目立 めだ つ建物 たてもの となった。これはナポレオン のそれまでの戦勝 せんしょう を記念 きねん して1806年 ねん に建設 けんせつ が始 はじ まった凱旋 がいせん 門 もん である。これより有名 ゆうめい なエトワール凱旋 がいせん 門 もん も同 おな じ年 ねん に設計 せっけい されたが、建設 けんせつ には13年 ねん かかり、大 おお きさもほぼ倍 ばい である。
座標 ざひょう : 北緯 ほくい 48度 ど 51分 ふん 43秒 びょう 東経 とうけい 2度 ど 19分 ふん 58秒 びょう / 北緯 ほくい 48.86194度 ど 東経 とうけい 2.33278度 ど / 48.86194; 2.33278