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テュイルリー宮殿きゅうでん

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座標ざひょう: 北緯ほくい4851ふん50びょう 東経とうけい219ふん34びょう / 北緯ほくい48.86389 東経とうけい2.32611 / 48.86389; 2.32611

テュイルリー宮殿きゅうでん
焼失しょうしつまえのテュイルリー宮殿きゅうでん

テュイルリー宮殿きゅうでん(テュイルリーきゅうでん、ふつ: Palais des Tuileries)は、17世紀せいきから19世紀せいきまで使用しようされていたフランスパリ1にあった宮殿きゅうでんルーヴル宮殿きゅうでん西側にしがわ隣接りんせつする。また、チュイルリー宮殿きゅうでんチュイリュリーみや[1]とも表記ひょうきされる。

沿革えんかく[編集へんしゅう]

テュイルリー宮殿きゅうでん白色はくしょく部分ぶぶん)とルーヴル宮殿きゅうでん着色ちゃくしょく部分ぶぶん)の配置はいち
テュイルリー宮殿きゅうでん(1600ねん
テュイルリー宮殿きゅうでん正門せいもんであるカルーゼル凱旋がいせんもんまえでの観兵かんぺいしき(1810ねん)、イポリット・ベランジェ
手前てまえからカルーゼル凱旋がいせんもん、テュイルリー宮殿きゅうでんエトワール凱旋がいせんもん(1860ねん
1867ねん6がつ10日とおか、テュイルリー庭園ていえんでの夜会やかい参加さんかちゅう君主くんしゅたち、ピエール・ファン・エルフン
パリ・コミューンたたかいの混乱こんらんのさなか焼失しょうしつしたテュイルリー宮殿きゅうでん(1871ねん5がつ

1563ねん当時とうじ摂政せっしょうであったおうははカトリーヌ・ド・メディシス建造けんぞうめいじ、フィリベール・ドゥ・ロルム設計せっけいのもと、やく100ねんときついやして完成かんせいした[2]

1664ねんにはルイ14せいいのちで、ヴェルサイユ宮殿きゅうでん庭園ていえんなども手掛てがけたル・ノートルによって泉水せんすい散歩道さんぽみちなどが整備せいびされ、現代げんだいのこ庭園ていえんつくげられたが、1683ねん王宮おうきゅうはヴェルサイユ宮殿きゅうでんうつる。ルイ15せい即位そくいはつオルレアン公爵こうしゃく摂政せっしょうにパリへ居所きょしょうつし、テュイルリー宮殿きゅうでん滞在たいざいしたが、1722ねんにヴェルサイユへかえみやし、宮殿きゅうでんふたたくことになった。その芸術げいじゅつらの社交しゃこうとして時々ときどき活用かつようされた。

テュイルリーに王室おうしつもどるのは、フランス革命かくめい最中さいちゅうであった。1789ねん10月のヴェルサイユ行進こうしんによりルイ16せいとその一家いっかはパリへ連行れんこうされ、テュイルリー宮殿きゅうでんまることになった。パリ市街しがいなか位置いちし、群衆ぐんしゅう圧力あつりょくにさらされすぎたとおもったルイ16せいマリー・アントワネット王妃おうひはテュイルリーをきらっていたため、パリ郊外こうがいサン=クルーじょうへしばらくうつったが、すぐにテュイルリーにもどってきた。1791ねん6月21にち国王こくおう一家いっか国外こくがい脱出だっしゅつこころみてから逮捕たいほされたヴァレンヌ事件じけんけに、ブルボンあさ位相いそうおおきく失墜しっついされた。どう時期じき憲法けんぽう制定せいてい国民こくみん議会ぎかいにおいて1791ねん憲法けんぽう制定せいていされ、同年どうねん10月1にちにはテュイルリー宮殿きゅうでん立法りっぽう議会ぎかい開催かいさいされることとなった。

1792ねん8がつ10日とおか事件じけん勃発ぼっぱつし、ルイ16せいらえられたのちは、テュイルリーは国民こくみん公会こうかい公安こうあん委員いいんかい拠点きょてんとして使用しようされる。しかし、これらさい急進きゅうしんてき革命かくめい政府せいふながくはつづかず、ヴァンデミエールの反乱はんらんのち成立せいりつした総裁そうさい政府せいふは、政府せいふ機能きのうリュクサンブール宮殿きゅうでんなどに移動いどうさせ、国民こくみん公会こうかい二分にぶんされ、上院じょういんにあたる元老げんろうかいはテュイルリーにのこり、下院かいんにあたるひゃくにんかいブルボン宮殿きゅうでんうつっていった。

1794ねん6月8にちロベスピエール主導しゅどうでテュイルリー宮殿きゅうでんおよシャン=ド=マルス公園こうえんにおいて最高さいこう存在そんざい祭典さいてん開催かいさいされた。1799ねん軍事ぐんじクーデターによりすべりょう政府せいふ成立せいりつし、よく1800ねん1がつ19にちにはナポレオン・ボナパルトがテュイルリー宮殿きゅうでんみずからの公邸こうていとした(同様どうように1800-02ねんあいだ、パリ西部せいぶ近郊きんこうマルメゾンじょうにも政府せいふ機能きのうかれた)。1804ねん5月18にち、ナポレオンはフランス皇帝こうてい即位そくいし、同年どうねん12がつ戴冠たいかん挙行きょこうすることで、だいいち帝政ていせい成立せいりつした。このとき、ナポレオンの戴冠たいかんしきおこなうためにパリをおとずれた教皇きょうこうピウス7せいは、4ヵ月かげつにわたりテュイルリーでんだ。帝国ていこく政治せいじ中心ちゅうしんであると皇宮こうぐうとして、テュイルリー宮殿きゅうでんしん古典こてん主義しゅぎ帝政ていせい様式ようしき改装かいそうされた。

ナポレオン戦争せんそうともなフランス帝国ていこく対外たいがい遠征えんせいでの勝利しょうりは、テュイルリー宮殿きゅうでん室内しつない改善かいぜんしたり、かざってくれた。1806ねんから1808ねんにかけて宮殿きゅうでん正門せいもんであるカルーゼル凱旋がいせんもんてられ、ルーヴル宮殿きゅうでんとの境界きょうかい区切くぎへい凱旋がいせんもん中心ちゅうしん設置せっちされている。1809ねんには宮殿きゅうでん北側きたがわめんしたリヴォリどお沿ってルーブル宮殿きゅうでん直結ちょっけつする回廊かいろう建設けんせつ着手ちゃくしゅしたが、これはだい帝政ていせいまでに完成かんせいされなかった。

1810ねん4がつ2にち、ナポレオンとマリー・ルイーズ皇后こうごう結婚式けっこんしき記念きねんする祝宴しゅくえんひらかれ、よく1811ねん3がつには夫妻ふさいあいだ唯一ゆいいつであるナポレオン2せいまれた。たいふつ同盟どうめいぐんがパリを占領せんりょうした直後ちょくご1814ねん4がつ6にち、ナポレオンは退位たいいして同年どうねん5月3にちルイ18せいがテュイルリーににゅうみやしながら、ブルボンあさ復活ふっかつした。ひゃくにち天下でんかにルイ18せいベルギー逃走とうそうしており、パリに帰還きかんしたナポレオンはおもエリゼ宮えりぜきゅう殿どの滞在たいざいした。ひゃくにち天下でんかのちふたたびブルボンあさ復活ふっかつすると、宮廷きゅうていのヴェルサイユへの復帰ふっきすら予想よそうされたが、むしろルイ18せいはテュイルリー宮殿きゅうでんつづいて居住きょじゅうすることをめた。中道ちゅうどうてき国政こくせい路線ろせん追求ついきゅうしたルイ18せいだい革命かくめいやナポレオンの治世ちせいのこした遺産いさんとの調和ちょうわはかったことから、アンシアン・レジームへの回帰かいき連想れんそうさせるヴェルサイユへの復帰ふっき必要ひつようなものとなされた。また、テュイルリー宮殿きゅうでんがナポレオンによる改装かいそう以来いらい完璧かんぺき状態じょうたい維持いじしていたことも考慮こうりょされた。

復古ふっこ王政おうせいした、テュイルリーの宮廷きゅうていだい革命かくめい以前いぜん厳格げんかく礼法れいほう位階いかい秩序ちつじょ回復かいふくした。ルイ18せい治世ちせいには国王こくおう高齢こうれい病気びょうきになり、宮廷きゅうてい自粛じしゅくする気流きりゅうつよかったのに、かれ1824ねん9月16にち宮殿きゅうでんない専用せんよう寝室しんしつ崩御ほうぎょした。ルイ18せい生前せいぜん王座おうざまもった最後さいごのフランス君主くんしゅである一方いっぽう、テュイルリー宮殿きゅうでん臨終りんじゅうむかえた唯一ゆいいつ国王こくおうであった。1830ねん7がつシャルル10せいがサン=クルーじょうまるなかにパリではなながつ革命かくめいきた。7がつ29にち市街しがいせんさいしては一連いちれん暴徒ぼうとがテュイルリー宮殿きゅうでん乱入らんにゅうし、家具かぐ装飾そうしょくひんらをぬすんだり、破損はそんしている。なながつ王政おうせい成立せいりつすると、あたらしい国王こくおうルイ・フィリップただちにテュイルリーで居住きょじゅうすることを拒否きょひしたが、1831ねん2がつ暴動ぼうどう警護けいご問題もんだい提起ていきされ、王政おうせい威信いしんたかめようとするカジミール・ペリエ首相しゅしょう勧告かんこくにより、同年どうねん9月21にちには家族かぞくともにテュイルリーに入居にゅうきょした。「市民しみんおう」を自任じにんしたルイ・フィリップは宮殿きゅうでんない国王こくおう専用せんよう空間くうかん王族おうぞくおよ大臣だいじん共有きょうゆうした。

1833ねん1がつには「平和へいわあいだ」と名付なづけられた舞踏ぶとう会場かいじょう新設しんせつされる。なながつ王政おうせいのテュイルリー宮殿きゅうでん復古ふっこ王政おうせいいた雰囲気ふんいきとは対照たいしょうてきすうせんにん名士めいしあつまるすうおおくの歓迎かんげいかい舞踏ぶとうかい、コンサートの中心ちゅうしんとなった。「接待せったい機構きこう」へと変貌へんぼうした宮殿きゅうでん貴族きぞくブルジョア国会こっかい議員ぎいん高位こうい官僚かんりょう外国がいこく貴賓きひんおとずれた。ルイ・フィリップは多様たよう行事ぎょうじつうじて業績ぎょうせき主義しゅぎてき社会しゃかい基調きちょう特徴付とくちょうづけられたオルレアン統治とうち正当せいとうせいあたえ、統合とうごう精神せいしん誇示こじすることをのぞんだ[3]王子おうじらの部屋へやロココ様式ようしき加味かみされ豪華ごうかかざられており、ちちおうよりエリート性向せいこうつよく、礼法れいほう重視じゅうししたおう太子たいしフェルディナンこう自分じぶん部屋へやべつ歓迎かんげいかいたのしんだ。

1848ねんがつ革命かくめいむかえ、テュイルリー宮殿きゅうでん徹底的てっていてき略奪りゃくだつされた。1852ねん1がつ親衛しんえいクーデターにより帝位ていいいたナポレオン3せい居所きょしょエリゼ宮えりぜきゅう殿どのからテュイルリーにうつし、よく1853ねん1がつ30にちウジェニー・ド・モンティジョとの結婚式けっこんしきげた。だい帝政ていせいにテュイルリーの宮廷きゅうていもっと洗練せんれんされたはなやかさを享受きょうじゅした。1848ねん略奪りゃくだつにより損傷そんしょうされた室内しつない補修ほしゅうし、儀典ぎてん中心ちゅうしん舞台ぶたいである国賓こくひんしつ造成ぞうせいされた。だいいち帝政ていせいこころみられた北側きたがわ回廊かいろう工事こうじ再開さいかいされ、ルーヴル宮殿きゅうでん直結ちょっけつさせながら、ふたつの宮殿きゅうでん巨大きょだい団地だんち形成けいせいすることになる。カルーゼル広場ひろばまえ乱立らんりつしていた建物たてものらも整備せいびされることで、広場ひろば規模きぼひろがった。1855ねん8がつイギリスヴィクトリア女王じょおうおとずれ、1867ねん6がつにはパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい出席しゅっせきした各国かっこく君主くんしゅ特使とくし歓迎かんげいかい開催かいさいされるなど、テュイルリー宮殿きゅうでん外交がいこうとしても重要じゅうよう舞台ぶたいであった。ひろしふつ戦争せんそうなかには負傷ふしょうへい治療ちりょうする臨時りんじぐん病院びょういん設置せっちされた。

1871ねん5月23にちパリ・コミューン鎮圧ちんあつ最中さいちゅうにコミューンがわ兵士へいし放火ほうかし、焼失しょうしつした。

オテル・ド・ヴィル(パリ市庁舎しちょうしゃ)やルーヴル宮殿きゅうでん一部いちぶなどパリ・コミューン焼失しょうしつした建物たてもの外壁がいへきさい利用りようして逐次ちくじ再建さいけんされた。しかし、外壁がいへきのみの廃墟はいきょとなったテュイルリー宮殿きゅうでん再建さいけん可能かのう状態じょうたいであったものの王政おうせい帝政ていせい遺物いぶつとして撤去てっきょまり、反対はんたい運動うんどうなか1883ねん外壁がいへき解体かいたいされた。現在げんざいでは庭園ていえんテュイルリー庭園ていえんふつ:Jardin des Tuileries)のみがのこり、当時とうじ面影おもかげつたえている。

現在げんざいのテュイルリー庭園ていえん
同上どうじょう

再建さいけん計画けいかく[編集へんしゅう]

2003ねん、フランス政府せいふはテュイルリー宮殿きゅうでん再建さいけん委員いいんかい設置せっちし、焼失しょうしつした宮殿きゅうでん再建さいけん計画けいかくした。再建さいけんにかかる費用ひようやく3おくユーロ推定すいていされ、税金ぜいきん投入とうにゅうせず、全額ぜんがく民間みんかんからの寄付きふまかなうとしている。再建さいけんは、展示てんじスペースが不足ふそくしている隣接りんせつルーヴル美術館びじゅつかんから収蔵しゅうぞうひん一部いちぶ移転いてんし、展示てんじおこなうなどの活用かつよう方法ほうほう検討けんとうされているが、現在げんざいのパリの景観けいかんくずしてしまうという反対はんたい意見いけんもあり、計画けいかく棚上たなあ状態じょうたいである。

ギャラリー[編集へんしゅう]

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脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 中野なかの京子きょうこ名画めいがく ロマノフ12の物語ものがたり光文社こうぶんしゃ、2014ねん、144ぺーじISBN 978-4-334-03811-3 
  2. ^ 中野なかの京子きょうこ『マリー・アントワネット運命うんめいの24あいだ られざるフランス革命かくめい、ヴァレンヌ逃亡とうぼう朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、2012ねん、44ぺーじISBN 978-4-02-250903-1 
  3. ^ Charles-Eloi Vial (2016). Les derniers feux de la monarchie, pp. 352-360.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]