組曲 くみきょく 『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』(てんらんかいのえ、露 ろ : Картинки с выставки ; 仏 ふつ : Tableaux d'une exposition ; 独 どく : Bilder einer Ausstellung ; 英 えい : Pictures at an Exhibition )は、1874年 ねん にロシア の作曲 さっきょく 家 か モデスト・ムソルグスキー によって作曲 さっきょく されたピアノ のための組曲 くみきょく である。ロシアの画家 がか であるヴィクトル・ハルトマン (ガルトマンとも)の死 し を悲 かな しみ、絵 え の展覧 てんらん 会 かい を訪 おとず れた際 さい の散歩 さんぽ (プロムナード)の様子 ようす を曲 きょく にしている。曲 くせ ごとに拍子 ひょうし が違 ちが うのは歩 ある きながら絵 え を見 み ているという、歩調 ほちょう を表 あらわ しているとも言 い われている。後世 こうせい では、多 おお くの作曲 さっきょく 家 か によってオーケストラ(管弦楽 かんげんがく )に編曲 へんきょく された。とりわけ、フランスのモーリス・ラヴェル による、トランペット・ソロで開始 かいし される編曲 へんきょく が名高 なだか い。
『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』はムソルグスキーが、友人 ゆうじん であったヴィクトル・ハルトマンの遺作 いさく 展 てん を歩 ある きながら、そこで見 み た10枚 まい の絵 え [ 1] の印象 いんしょう を音楽 おんがく に仕立 した てたものである。ロシアにとどまらずフランス、ローマ、ポーランドなどさまざまな国 くに の風物 ふうぶつ が描 えが かれている。また、これらの10枚 まい の絵 え がただ無秩序 むちつじょ に並 なら ぶのではなく、「プロムナード」という短 みじか い前奏 ぜんそう 曲 きょく あるいは間奏 かんそう 曲 きょく [ 2] が5回 かい 繰 く り返 かえ して挿入 そうにゅう されるのが特徴 とくちょう 的 てき で、この「プロムナード」は展覧 てんらん 会 かい の巡回 じゅんかい 者 しゃ 、すなわちムソルグスキー自身 じしん の歩 ある く姿 すがた を表現 ひょうげん している(使 つか われるごとに曲想 きょくそう が変 か わるので、次 つぎ の曲 きょく の雰囲気 ふんいき と調 しらべ 性 せい とを的確 てきかく に感 かん じて弾 ひ くことが大切 たいせつ である[ 3] )といわれる。覚 おぼ えやすいメロディーと緩急 かんきゅう 自在 じざい の構成 こうせい (ユーモラスな曲 きょく 、優雅 ゆうが な曲 きょく 、おどろおどろしい曲 きょく 、重々 おもおも しい曲 きょく など)から、ムソルグスキーの作品 さくひん の中 なか でももっとも知 し られた作品 さくひん の一 ひと つである。
絵 え の印象 いんしょう を描 えが いた10曲 きょく と、「プロムナード」[ 2] 5曲 きょく (自筆 じひつ 譜 ふ では第 だい 2プロムナード、第 だい 3プロムナード、第 だい 4プロムナードは調 しらべ 号 ごう を用 もち いずに臨時 りんじ 記号 きごう で書 か かれている[ 3] )、「死 し せる言葉 ことば による死者 ししゃ への呼 よ びかけ」の16曲 きょく からなる。ただし、ラヴェル版 ばん は第 だい 6曲 きょく と第 だい 7曲 きょく の間 あいだ の第 だい 5プロムナードが削除 さくじょ された[ 4] 15曲 きょく で、これと同様 どうよう に第 だい 5プロムナードが削除 さくじょ されている版 はん も多 おお い。「死 し せる言葉 ことば による死者 ししゃ への呼 よ びかけ」は「プロムナード」の変奏 へんそう であり、6番目 ばんめ の「プロムナード」と位置 いち づけることもできる。
なお、ムソルグスキーは各 かく プロムナードと直後 ちょくご の曲 きょく 、「リモージュの市場 いちば 」から「死 し せる言葉 ことば による死者 ししゃ への呼 よ びかけ」、「バーバ・ヤガー」と「キエフの大門 おおもん 」をアタッカ で繋 つな ぐ指示 しじ をしている[ 5] 。
途中 とちゅう で拍子 ひょうし が変 か わるが、スターソフによれば、ゆっくりと歩 ある いたり早々 そうそう と歩 ある いたりして会場 かいじょう を動 うご き、時 とき には悲 かな しげに、亡 な くなったハルトマンのことを考 かんが えている自身 じしん を描 えが いているという。演奏 えんそう 時間 じかん は約 やく 1分 ふん 40秒 びょう 。
急 きゅう に止 と まったり始 はじ まったりする旋律 せんりつ が、小人 こども のぎこちなく走 はし っている様子 ようす を感 かん じさせる。演奏 えんそう 時間 じかん は約 やく 3分 ふん 。
第 だい 1プロムナードよりも低 ひく く安 やす らかな旋律 せんりつ が続 つづ く。演奏 えんそう 時間 じかん は約 やく 1分 ふん 弱 じゃく 。
低 ひく く重々 おもおも しい旋律 せんりつ が流 なが れる。ハルトマンは建築 けんちく 物 ぶつ の絵画 かいが には大体 だいたい の大 おお きさを見物 けんぶつ 客 きゃく にもわからせるために、わざと人物 じんぶつ を描 えが いたものが多 おお い。この曲 きょく のもとになった絵画 かいが もその1つと考 かんが えられており、スターソフによると「中世 ちゅうせい ヨーロッパ(おそらくイタリア)の古城 こじょう で吟遊詩人 ぎんゆうしじん が歌 うた う歌 うた 」を再現 さいげん したものと解釈 かいしゃく している。
低音 ていおん の和音 わおん が組 く み合 あ わされ、より暗 くら く重 おも みのあるものになっている。
テュイルリーの庭 にわ - 遊 あそ びの後 のち の子供 こども たちの口 くち げんか[ 編集 へんしゅう ]
チュルイリーの庭 にわ とも表記 ひょうき される。テュルイリー宮殿 きゅうでん の庭 にわ で遊 あそ んだ後 のち に喧嘩 けんか をする子供 こども たちの様子 ようす が表現 ひょうげん される。
ブイドロ と表記 ひょうき されることもある。重々 おもおも しく牛車 うしぐるま が近 ちか くを通 とお り過 す ぎ、遠 とお ざかっていく様子 ようす が表現 ひょうげん されている。
それまでのプロムナードと異 こと なり、短調 たんちょう となっている。演奏 えんそう 時間 じかん は約 やく 40秒 びょう 。
孵化 ふか しきっていない雛 ひな が飛 と び跳 は ねたりして踊 おど るところを描 えが いている。演奏 えんそう 時間 じかん は約 やく 1分 ふん 10秒 びょう 程 ほど 。
モデスト・ムソルグスキー
ムソルグスキーは音楽 おんがく 史 し などでは「ロシア5人組 にんぐみ 」と呼 よ ばれる音楽家 おんがくか 集団 しゅうだん の1人 ひとり として良 よ く知 し られているが、ムソルグスキー1人 にん に限 かぎ って見 み ると、後年 こうねん になるほどウラディーミル・スターソフ の影響 えいきょう がきわめて大 おお きい。スターソフはロシアの芸術 げいじゅつ 史 し 研究 けんきゅう 家 か であり評論 ひょうろん 家 か であったが、指導 しどう 者 しゃ 的 てき な面 めん もあり、多 おお くの若 わか い芸術 げいじゅつ 家 か の慈父 じふ のような役割 やくわり を果 は たした。そして彼 かれ のサロンには、音楽 おんがく 、絵画 かいが 、建築 けんちく 、彫刻 ちょうこく 家 か などが集 あつ まり、ロシア固有 こゆう の芸術 げいじゅつ を探求 たんきゅう する空気 くうき が醸成 じょうせい されていた。
ヴィクトル・ハルトマン
ファクシミリ版 ばん 17ページ。「カタコンベ」と「死 し せる言葉 ことば による死者 ししゃ への呼 よ びかけ」
「小人 こども 」の冒頭 ぼうとう 部分 ぶぶん
1870年 ねん ころ、ムソルグスキーはヴィクトル・ハルトマン という建築 けんちく 家 か であり画家 がか でもある人物 じんぶつ と出会 であ い、交友 こうゆう を結 むす ぶ。しかし1873年 ねん 8月 がつ 4日 にち 、ハルトマンは動脈 どうみゃく 瘤 こぶ が原因 げんいん で急死 きゅうし してしまう。ムソルグスキーの落胆 らくたん ぶりは大 おお きく、残 のこ された手紙 てがみ などによると、ハルトマンの体 からだ の異常 いじょう に気 き づきながら友人 ゆうじん としてなすべきことをしていなかったのではないかと、自責 じせき の念 ねん にかられている様子 ようす がわかる。一方 いっぽう 、スターソフはハルトマンの遺作 いさく 展 てん を開 ひら くことにした。ハルトマンの作品 さくひん を整理 せいり することと、ハルトマン未亡人 みぼうじん のための資金 しきん 援助 えんじょ が目的 もくてき であったと思 おも われる。遺作 いさく 展 てん は、1874年 ねん の2月 がつ から3月 がつ にかけて、母校 ぼこう であったサンクトペテルブルク美術 びじゅつ アカデミーにおいて400点 てん の遺作 いさく を集 あつ めて大々的 だいだいてき に開催 かいさい された。
その展覧 てんらん 会 かい から半年 はんとし 後 ご の1874年 ねん 7月 がつ 4日 にち 、ムソルグスキーは『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』を完成 かんせい させた。同年 どうねん 6月 がつ 24日 にち 付 づけ のスターソフへの手紙 てがみ には、この曲 きょく について興奮 こうふん 気味 ぎみ に「アイディアが煮 に えたぎっていて紙 かみ に書 か く暇 ひま がない」「今 こん 間奏 かんそう (プロムナード)とそれ以外 いがい に(曲 きょく 集 しゅう 前半 ぜんはん の)4曲 きょく を書 か いた」などと書 か かれており、その前 まえ に作曲 さっきょく していた歌曲 かきょく の完成 かんせい よりまだ10日 とおか 程度 ていど しかたっていないことから、作業 さぎょう の遅 おそ いムソルグスキーにしては珍 めずら しく2 - 3週間 しゅうかん 足 た らずで一挙 いっきょ に作曲 さっきょく されたものと推測 すいそく されている。この自筆 じひつ 譜 ふ は、現在 げんざい はレニングラード国立 こくりつ 公共 こうきょう M. J. サルティコフ・シェッシュドリン図書館 としょかん に保存 ほぞん されている(手 て 稿本 こうほん 部門 ぶもん 、M. P. ムソルグスキー基礎 きそ 資料 しりょう 502番 ばん 、文書 ぶんしょ 番号 ばんごう 129)。いわゆる自筆 じひつ 譜 ふ とかファクシミリ版 ばん と呼 よ ばれているものである。なお、原典 げんてん 版 ばん ・原曲 げんきょく といった場合 ばあい 、本来 ほんらい はムソルグスキーの自筆 じひつ 譜 ふ (またはファクシミリ版 ばん )を指 さ すが、ファクシミリ版 ばん が1975年 ねん まで公開 こうかい されなかったため、1931年 ねん に出版 しゅっぱん されたモスクワ音楽 おんがく 院 いん 教授 きょうじゅ パーヴェル・ラム(Pavel Lamm )による校訂 こうてい 版 ばん が今 いま でも原典 げんてん 版 ばん として広 ひろ く受 う け入 い れられている[ 7] 。
リムスキー=コルサコフ版 ばん 初版 しょはん 表紙 ひょうし
リムスキー=コルサコフ
『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』はムソルグスキーの生前 せいぜん には一 いち 度 ど も演奏 えんそう されず、出版 しゅっぱん もされないままであった。そもそも作曲 さっきょく 者 しゃ 本人 ほんにん が、1880年 ねん にフーゴー・リーマン が編纂 へんさん 中 ちゅう であった音楽 おんがく 事典 じてん への依頼 いらい に応 こた えて書 か いた原稿 げんこう の中 なか で「オペラ作曲 さっきょく 中 ちゅう の気晴 きば らしに絵画 かいが のような作品 さくひん 集 しゅう を書 か いた」と、タイトルすら書 か かないで述 の べるほど関心 かんしん を失 うしな っていたようである。そして1881年 ねん 3月28日 にち 、ムソルグスキーはアルコール依存 いぞん 症 しょう と生活苦 せいかつく から衰弱 すいじゃく してこの世 よ を去 さ る。今日 きょう よく知 し られる彼 かれ の肖像 しょうぞう 画 が は、死 し の3週間 しゅうかん ほど前 まえ 、スターソフの元 もと でやはり懇意 こんい であったイリヤ・レーピン の筆 ふで によるものである(レーピンは『ヴォルガの舟 ふね 曳 ひ き 』で有名 ゆうめい なロシア・リアリズム の画家 がか )。
幸 さいわ いにもリムスキー=コルサコフ がムソルグスキーの遺稿 いこう の整理 せいり に当 あ たった。そして、『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』のピアノ譜 ふ が1886年 ねん に出版 しゅっぱん され、ついに日 ひ の目 め を見 み る。ただしリムスキー=コルサコフの改訂 かいてい が目立 めだ つため、現在 げんざい は「リムスキー=コルサコフ版 ばん 」として、原典 げんてん 版 ばん とは区別 くべつ されている。改訂 かいてい は、現在 げんざい では独創 どくそう 的 てき で斬新 ざんしん とも評価 ひょうか されるムソルグスキーの原典 げんてん 版 ばん が、当時 とうじ の感覚 かんかく ではあまりに荒削 あらけず りで、非常識 ひじょうしき と捉 とら えられる部分 ぶぶん もあったためと言 い われており、時 とき にはリムスキー=コルサコフがムソルグスキーの音楽 おんがく を理解 りかい していなかったからだとも言 い われている。しかし、ムソルグスキーの様々 さまざま な作品 さくひん の楽譜 がくふ を世 よ に出 だ した意味 いみ は大 おお きく、5人組 にんぐみ の中 なか で、リムスキー=コルサコフが最 もっと もその音楽 おんがく の素晴 すば らしさを認識 にんしき していた証左 しょうさ といってよい。
特 とく に明確 めいかく な原典 げんてん 版 ばん との相違 そうい 点 てん は、「ビドロ」が弱音 よわね で始 はじ まって次第 しだい に音量 おんりょう が大 おお きくなる点 てん (原典 げんてん 版 ばん ではフォルティッシモで始 はじ まる)、「サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ」の最後 さいご がC-D♭-C-B♭となる点 てん (原典 げんてん 版 ばん はC-D♭-B♭-B♭)。これらは下記 かき のラヴェル版 ばん でも踏襲 とうしゅう されている。
トゥシュマロフ版 ばん の展覧 てんらん 会 かい の絵 え 第 だい 1プロムナード
ムソルグスキーの残 のこ した音楽 おんがく の多 おお くが未 み 完成 かんせい のものであったが、後 のち にさまざまな音楽家 おんがくか がこれを補筆 ほひつ もしくは改訂 かいてい や編曲 へんきょく をして世 よ に出 だ した。
リムスキー=コルサコフ校訂 こうてい のピアノ譜 ふ の出版 しゅっぱん の5年 ねん 後 ご の1891年 ねん 、リムスキー=コルサコフの弟子 でし であったミハイル・トゥシュマロフ がこの曲 きょく の最初 さいしょ のオーケストラ編曲 へんきょく を行 おこな った。トゥシュマロフ版 ばん は5番目 ばんめ 以外 いがい の「プロムナード」、「小人 こども 」、「ビドロ」、「テュイルリーの庭 にわ 」を省略 しょうりゃく した短縮 たんしゅく 版 ばん であった。トゥシュマロフ版 ばん は通常 つうじょう 「トゥシュマロフおよびリムスキー=コルサコフ編 へん 」と表記 ひょうき されているが、リムスキー=コルサコフが編曲 へんきょく にどこまで関与 かんよ したかは明 あき らかではない。ただし、トゥシュマロフ版 ばん は、発表 はっぴょう の年 とし にリムスキー=コルサコフの指揮 しき によって初演 しょえん されている。
モーリス・ラヴェル
1922年 ねん 、フランスのラヴェル が、指揮 しき 者 しゃ クーセヴィツキー の依頼 いらい で『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』を管弦楽 かんげんがく へと編曲 へんきょく した。この編曲 へんきょく 版 ばん はクーセヴィツキーの率 ひき いるオーケストラによって、同年 どうねん 10月19日 にち (初演 しょえん )と10月26日 にち にパリのオペラ座 ざ で演奏 えんそう され、これをきっかけに一挙 いっきょ にムソルグスキーの『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』は世界 せかい 的 てき に有名 ゆうめい になった。
ラヴェルがこの仕事 しごと を引 ひ き受 う けた理由 りゆう としては、報酬 ほうしゅう もさることながら当時 とうじ フランスの音楽家 おんがくか (サン=サーンス やドビュッシー 、ラヴェルなど)にムソルグスキーの和音 わおん を多用 たよう する様式 ようしき が評価 ひょうか されつつあったこと、ムソルグスキーのピアノ曲 きょく は管弦楽 かんげんがく 曲 きょく を作 つく るための習作 しゅうさく のような作 つく り[ 8] であったことなどが挙 あ げられている。
ラヴェルは編曲 へんきょく に当 あ たり、友人 ゆうじん のカルヴォコレッシ に譜面 ふめん の手配 てはい を依頼 いらい した。その手紙 てがみ (1922年 ねん 2月 がつ 3日 にち 付 づけ )には「ムソルグスキーの自筆 じひつ 譜 ふ (の入手 にゅうしゅ )を期待 きたい している。何 なに とかして入手 にゅうしゅ する方法 ほうほう はないだろうか。または入手 にゅうしゅ 可能 かのう な人物 じんぶつ を知 し らないか」と記 しる しており、ラヴェルが当時 とうじ 出版 しゅっぱん されていたムソルグスキーの楽譜 がくふ には、リムスキー=コルサコフによる改変 かいへん があることを知 し っており[ 9] 、自身 じしん はムソルグスキーのオリジナルから編曲 へんきょく をする意図 いと であったことが判 わか っているが、カルヴォコレッシは自筆 じひつ 譜 ふ を入手 にゅうしゅ できなかったようで、最終 さいしゅう 的 てき にはすでに出版 しゅっぱん されていたリムスキー=コルサコフ版 ばん に基 もと づき[ 10] 、1922年 ねん の3月 がつ からまず「キエフの大門 おおもん 」に着手 ちゃくしゅ して5月 がつ 1日 にち に完成 かんせい 、続 つづ けて残 のこ りを初秋 しょしゅう 頃 ごろ までかけて編曲 へんきょく を行 おこな った。その際 さい 、ラヴェルの自作 じさく 編曲 へんきょく にもみられるように、ダイナミクスの問題 もんだい による小節 しょうせつ の追加 ついか [ 11] など一部 いちぶ を補筆 ほひつ している。
その編曲 へんきょく は特 とく に冒頭 ぼうとう のトランペットのファンファーレ的 てき な「プロムナード」に象徴 しょうちょう されるように、ラヴェルの異名 いみょう である「オーケストラの魔術 まじゅつ 師 し 」どおりの華麗 かれい で色彩 しきさい 的 てき なもので、原曲 げんきょく のロシア的 てき な要素 ようそ を重視 じゅうし するよりもオーケストラ作品 さくひん としての華 はな やかな色彩 しきさい を与 あた えることを企図 きと し、そして成功 せいこう している。ラヴェルの編曲 へんきょく はスラブ色 しょく の強 つよ い楽曲 がっきょく であった『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』に新 あたら しい生命 せいめい を与 あた えることに成功 せいこう したと言 い ってよい。
なお、楽譜 がくふ は1929年 ねん にロシア音楽 おんがく 出版 しゅっぱん から出版 しゅっぱん され、現在 げんざい は同社 どうしゃ の業務 ぎょうむ を引 ひ き継 つ いだブージー・アンド・ホークス などで刊行 かんこう されている。
編成 へんせい 表 ひょう
木管 もっかん
金管 きんかん
打 だ
弦 つる
Fl.
3(2, 3番 ばん はFl.picc. 持 も ち替 か え)
Hr.
4
Timp.
●
Vn. 1
●
Ob.
3(3番 ばん はC.I. 持 も ち替 か え)
Trp.
3
他 た
Ptti. , Tamb. , Gr.C. , Tam-T. , Glsp. , Xylo. , Trg. , Crec. , Fouet , Camp.
Vn.2
●
Cl.
2, Cl.b. 1
Trb.
3
Va.
●
Fg.
2, Cfg. 1
Tub.
1
Vc.
●
他 た Sax.a. 1他 た Cb. ●
その他 た Cel. , Arpa 2
ストコフスキー
ラヴェル版 ばん は世界 せかい 的 てき な人気 にんき を得 え たが、同 どう 版 はん の演奏 えんそう 権 けん はクーセヴィツキーが5年間 ねんかん 独占 どくせん する契約 けいやく だったことや、著作 ちょさく 権 けん の問題 もんだい [ 12] で他 た の音楽家 おんがくか によるオーケストラ編曲 へんきょく も多数 たすう 試 こころ みられた。
その中 なか で特 とく に有名 ゆうめい なものは、指揮 しき 者 しゃ ストコフスキー による編曲 へんきょく 版 ばん である。冒頭 ぼうとう の「プロムナード」の旋律 せんりつ が第 だい 1ヴァイオリンのみのユニゾン で演奏 えんそう される。ラヴェル 版 はん のフランス風 ふう に洗練 せんれん された編曲 へんきょく に対 たい し、原曲 げんきょく のロシア的 てき な響 ひび きを生 い かすという意図 いと のもとに編曲 へんきょく されている。ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー が録音 ろくおん するなど、本場 ほんば ロシア(ソビエト)でも受 う け入 い れられていた。
ホロヴィッツ
ムソルグスキー自身 じしん は一流 いちりゅう のピアニストではなかったこともあり、原曲 げんきょく のピアノ書法 しょほう ではラヴェル編曲 へんきょく の管弦楽 かんげんがく 版 ばん のような色彩 しきさい 感 かん に乏 とぼ しいことは否 いな めない。1940年代 ねんだい に入 はい るころ、ロシア出身 しゅっしん で当時 とうじ アメリカに亡命 ぼうめい していたウラディミール・ホロヴィッツ が独自 どくじ の編曲 へんきょく を手掛 てが け、1947年 ねん からコンサートでしばしば演奏 えんそう するようになった。1947年 ねん のスタジオ録音 ろくおん と1951年 ねん のライヴ録音 ろくおん がレコードとして発売 はつばい され、大 おお きな話題 わだい になった。
これらは編曲 へんきょく とはいえ、ピアノ版 ばん の『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』の録音 ろくおん としては最 もっと も古 ふる い部類 ぶるい に属 ぞく する。原典 げんてん を重視 じゅうし する向 む きには敬遠 けいえん される[ 13] ことがあるものの、ムソルグスキーによるピアノ原曲 げんきょく を世界 せかい に知 し らしめる上 じょう で、ホロヴィッツの演奏 えんそう が果 は たした役割 やくわり は極 きわ めて大 おお きい。同時 どうじ に、ホロヴィッツがこの編曲 へんきょく の楽譜 がくふ を公開 こうかい しなかったことと、その録音 ろくおん が越 こ え難 がた い決定 けってい 盤 ばん と評価 ひょうか されたことが、他 た のピアニストがピアノ版 ばん に取 と り組 く むことを避 さ けた最 もっと も大 おお きな要因 よういん とも言 い える。もちろん原曲 げんきょく より技巧 ぎこう 的 てき には難 むずか しくなっている個所 かしょ が多 おお いが、その後 ご 、幾 いく 人 にん かが録音 ろくおん された演奏 えんそう からの楽譜 がくふ 起 お こしを試 こころ みた結果 けっか 、聴感上 じょう の難 なん 度 ど に比 くら べ、非常 ひじょう に効率 こうりつ 的 てき な編曲 へんきょく がなされていることが分 わ かっており、ホロヴィッツがいかにピアノ技法 ぎほう を熟知 じゅくち していたかをうかがい知 し ることができる。
ホロヴィッツ自身 じしん 、この編曲 へんきょく は超絶 ちょうぜつ 演奏 えんそう 技巧 ぎこう を披露 ひろう するためではなく、ムソルグスキーの原曲 げんきょく が持 も つロシア的 てき な性格 せいかく を一層 いっそう 引 ひ き出 だ しつつ、ピアノの持 も つ可能 かのう 性 せい を最大限 さいだいげん に活 い かすことを目的 もくてき とした編曲 へんきょく であると述 の べている。
リヒテルのソフィア・ライブ(原典 げんてん 版 ばん の復活 ふっかつ )[ 編集 へんしゅう ]
リヒテル
ラヴェル編曲 へんきょく のオーケストラ版 ばん の人気 にんき に伴 ともな い、原曲 げんきょく (ピアノ曲 きょく )の方 ほう も、少 すこ しずつ演奏 えんそう されるようになってきた。しかし難曲 なんきょく であったため、これを弾 はじ けるのは「ヴィルトゥオーゾ の証明 しょうめい 」のような扱 あつか いになりかけていて、むしろ管弦楽 かんげんがく 版 ばん が原曲 げんきょく であるかのような扱 あつか いでもあった。また1931年 ねん にラムの校訂 こうてい 版 ばん が出版 しゅっぱん されてからも、演奏 えんそう されることはあってもリムスキー=コルサコフ版 ばん だった。そうした中 なか 、ロシアのピアニスト、リヒテル のレコードが新 あたら しい扉 とびら を開 ひら く。1958年 ねん のことである。
当時 とうじ はアメリカとソ連 それん (現在 げんざい のロシア)の対立 たいりつ が激化 げきか し、東西 とうざい 冷戦 れいせん の真 ま っ最中 さいちゅう である。ロシアのピアニストたちは高 たか い評価 ひょうか を得 え ていたが、そのレコードや演奏 えんそう が西側 にしがわ 諸国 しょこく で聴 き ける機会 きかい はなかなかなく、リヒテルも幻 まぼろし のピアニストと言 い われていた。そのリヒテルのソフィア (ブルガリア)でのコンサート録音 ろくおん がレコードとして発売 はつばい された。曲目 きょくもく の中 なか に『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』があった。西側 にしがわ 諸国 しょこく ではまだほとんど聴 き くことができなかった、原典 げんてん 版 ばん に忠実 ちゅうじつ な演奏 えんそう であった。リヒテルのすさまじいばかりの演奏 えんそう 技術 ぎじゅつ も衝撃 しょうげき 的 てき で、これが原典 げんてん 版 ばん がメジャーになるきっかけと言 い って良 よ い。
現在 げんざい 、入手 にゅうしゅ 可能 かのう なCDやレコードを整理 せいり すると、この1958年 ねん を境 さかい にして、『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』のピアノ曲 きょく の録音 ろくおん が、リムスキー=コルサコフ版 ばん から原典 げんてん 版 ばん へとがらりと切 き り替 か わるのがよくわかる。原典 げんてん 版 ばん は、ラヴェル編曲 へんきょく 版 ばん とは違 ちが いロシア臭 しゅう が強 つよ く、強烈 きょうれつ な個性 こせい がある。無論 むろん 、演奏 えんそう するには難曲 なんきょく であることに変 か わりはないが、ラヴェル版 ばん のピアノ編曲 へんきょく のようになりがちであったピアノ原曲 げんきょく が、ラヴェル版 ばん にはない魅力 みりょく を持 も ったものになった。そして、ラヴェル版 ばん に負 ま けず劣 おと らぬ人気 にんき の曲 きょく になった。
なお、リヒテル当人 とうにん はラヴェル版 ばん に関 かん しては「私 わたし はあの編曲 へんきょく は嫌 きら いだ」「ムソルグスキーの音楽 おんがく を理解 りかい していない」と評 ひょう しており、たいへんに批判 ひはん 的 てき であった。
エマーソン・レイク・アンド・パーマー(1992年 ねん の再 さい 結成 けっせい ライブにて)
イギリスのプログレッシブ・ロック ・バンド、エマーソン・レイク・アンド・パーマー (ELP)はクラシックの楽曲 がっきょく をロックにアレンジして演奏 えんそう することを得意 とくい としていた。(ロック・グループが、クラシックの曲 きょく をシンセサイザー やハモンドオルガン でアレンジして演奏 えんそう したことは、当時 とうじ としてはセンセーショナルなことであった。)展覧 てんらん 会 かい の絵 え もレパートリーの一 ひと つであり、1971年 ねん にそのライブ演奏 えんそう を収録 しゅうろく したレコードを発売 はつばい する。ただしこのELP版 ばん は一部 いちぶ を抜粋 ばっすい したものであり、バンドによるオリジナル部分 ぶぶん を挿入 そうにゅう した形式 けいしき であった(それでも30分 ふん を超 こ える演奏 えんそう である)。また、原曲 げんきょく のテーマに合 あ わせた死 し と生 せい に関 かん する独自 どくじ の歌詞 かし を付 つ けて歌 うた っており、最後 さいご のキエフの大門 おおもん は「我 わ が生 なま に終 お わりなし、我 わ が死 し に始 はじ まりなし、死 し こそ生 なま なり(There's no end to my life, no beginning to my death, Death is life.)」と締 し めくくられている。ライブ録音 ろくおん であるこのアルバムではアンコール曲 きょく も収録 しゅうろく されており、その曲 きょく はくるみ割 わ り人形 にんぎょう (Nut Rocker)である。このような演奏 えんそう が実現 じつげん したことには、もともとクラシックの素養 そよう のあったリーダーのキース・エマーソンによる影響 えいきょう が大 おお きい。
ELPの展覧 てんらん 会 かい の絵 え は長 なが い間 あいだ ライブ録音 ろくおん しか存在 そんざい しなかったが、後 のち に約 やく 15分 ふん に短縮 たんしゅく したバージョンをスタジオ録音 ろくおん してアルバムに収 おさ めている。
ELP以降 いこう 、一挙 いっきょ に様々 さまざま なアレンジが出 で てくる。冨田 とみた 勲 いさお のシンセサイザー版 ばん (1974年 ねん )、山下 やました 和仁 かずひと のギター独奏 どくそう 版 ばん (1981年 ねん )などは世界 せかい 的 てき にも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。このほか、オルガン版 ばん や吹奏楽 すいそうがく 版 ばん 、マンドリン版 ばん などの人気 にんき も高 たか く、現在 げんざい もさまざまな録音 ろくおん が次々 つぎつぎ と出 で ている。また、プログレッシブ・ロックの影響 えいきょう を受 う けたドイツのヘヴィメタル ・バンドであるメコン・デルタ はエマーソン・レイク・アンド・パーマー版 ばん を元 もと にした曲 きょく 、およびオーケストラとの共演 きょうえん 版 ばん を発表 はっぴょう している。
また多 おお くが散逸 さんいつ しているハルトマンの絵 え についても、1991年 ねん に日本 にっぽん のNHK が團 だん 伊玖磨 いくま の進行 しんこう でスペシャル番組 ばんぐみ 『革命 かくめい に消 き えた絵画 かいが ・追跡 ついせき ・ムソルグスキー“展覧 てんらん 会 かい の絵 え ”』を放送 ほうそう した。ハルトマンの絵 え のうち『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』のモチーフとなったとされる10枚 まい の絵 え をすべて明 あき らかにする、という『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』の謎 なぞ 解 と きの核心 かくしん にせまった番組 ばんぐみ であった。こちらについては絵柄 えがら と楽想 がくそう の乖離 かいり や、学問 がくもん 的 てき な手続 てつづ きが不十分 ふじゅうぶん であるという批判 ひはん もあり、曲 きょく と絵 え との関連 かんれん 性 せい がすべて明 あき らかになったとは言 い えないが、それまで曲 きょく に比 くら べてハルトマンの絵 え の研究 けんきゅう はほとんどされていなかったので先駆 せんく 的 てき な仕事 しごと であったと言 い って良 よ い。また「ビドロ」という言葉 ことば の意味 いみ (ポーランド語 ご の"bydło"には「牛車 うしぐるま 」の他 ほか に「(牛 うし のように)虐 しいた げられた人 ひと 」の意味 いみ がある。ハルトマンがポーランドで描 えが いたスケッチのタイトルは『ポーランドの反乱 はんらん 』であり、自筆 じひつ 譜 ふ にも本来 ほんらい のタイトルを削 けず って書 か き直 なお した跡 あと があったことから、公表 こうひょう を憚 はばか った可能 かのう 性 せい が高 たか い)や音楽 おんがく 的 てき な印象 いんしょう などから絵 え を推理 すいり していく「面白 おもしろ さ」は画期的 かっきてき であった。
Stern-Combo-Meißen(2011年 ねん 6月 がつ 19日 にち のライブにて)
2015年 ねん 、ドイツのプログレッシブ・ロック・バンド Stern-Combo Meissen が "Bilder einer Ausstellung" のタイトルで『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』の全編 ぜんぺん をロック化 か した作品 さくひん を発表 はっぴょう している。
2022年 ねん ロシアのウクライナ侵攻 しんこう を受 う けて、ウクライナの平和 へいわ や犠牲 ぎせい 者 しゃ への鎮魂 ちんこん の思 おも いからキエフの大門 おおもん または組曲 くみきょく 全曲 ぜんきょく を演奏 えんそう する動 うご きがある[ 14] 。
スキッドモア管弦楽 かんげんがく 団 だん による演奏 えんそう
最 もっと も有名 ゆうめい な編曲 へんきょく はラヴェル のオーケストレーション によるものであり、オーケストラの演奏 えんそう 会 かい で取 と り上 あ げられる演目 えんもく のほとんどはこの版 はん であるが、他 ほか にも多 おお くの版 はん が存在 そんざい する。ラヴェル以降 いこう に作 つく られた管弦楽 かんげんがく 版 ばん は、ラヴェル版 ばん (またはラヴェル以前 いぜん に作 つく られたリムスキー=コルサコフ版 ばん )を参考 さんこう にしているものが多 おお く、その影響 えいきょう はきわめて大 おお きい。
日本 にっぽん の冨田 とみた 勲 いさお は、シンセサイザーによる編曲 へんきょく ・録音 ろくおん を行 おこな った。その2つの編曲 へんきょく 版 ばん のうち、管弦楽 かんげんがく 版 ばん は手塚 てづか 治虫 おさむ の実験 じっけん アニメーションのために書 か き下 お ろした作品 さくひん である。これは手塚 てづか がラヴェル版 ばん を用 もち いようとしたところ、ムソルグスキーの著作 ちょさく 権 けん は消滅 しょうめつ していたもののラヴェルの著作 ちょさく 権 けん が生 い きていることが判明 はんめい し(1998年 ねん まで)、デュラン 社 しゃ から膨大 ぼうだい な使用 しよう 料 りょう を要求 ようきゅう され予算 よさん を超 こ えてしまったためやむなく取 と り下 さ げ、代 か わりに冨田 とみた に依頼 いらい したという経緯 けいい がある。冨田 とみた はわずか1週間 しゅうかん でこの編曲 へんきょく を仕上 しあ げたという[ 15] (現在 げんざい DVDなどで見 み られる実験 じっけん アニメーションの『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』は、完成 かんせい 当時 とうじ のものではなく、宗教 しゅうきょう 対立 たいりつ のエピソードがカットされたなどにより、曲 きょく の一部 いちぶ が編曲 へんきょく 当時 とうじ のものとは異 こと なる)。
^ ハルトマンの絵 え はその後 ご ほとんど散逸 さんいつ してしまった。このため、少 すく なくとも第 だい 1曲 きょく から第 だい 4曲 きょく 、第 だい 7曲 きょく に相当 そうとう する絵 え は不明 ふめい なままであり、スターソフによる解説 かいせつ から想像 そうぞう するしかない。後述 こうじゅつ するNHK番組 ばんぐみ のモチーフとなった絵 え の調査 ちょうさ 後 ご も、そもそも10枚 まい の絵 え なのか、またムソルグスキーがガルトマンの絵 え だけを題材 だいざい にしているのかについては異論 いろん がある。
^ a b 自筆 じひつ 譜 ふ ではいわゆる第 だい 1と第 だい 5のみが「プロムナード」と題 だい されている。各種 かくしゅ 校訂 こうてい 版 ばん ではリムスキー=コルサコフらが出版 しゅっぱん に際 さい して一律 いちりつ に「プロムナード」とつけたものと判断 はんだん している。
^ a b ドレミ楽譜 がくふ 出版 しゅっぱん 社 しゃ 刊 かん 『ムソルグスキー「展覧 てんらん 会 かい の絵 え 」全曲 ぜんきょく 集 しゅう 』より。
^ 削除 さくじょ した理由 りゆう は不明 ふめい 。ラヴェル研究 けんきゅう 家 か のアービー・オレンシュタインによる「第 だい 1プロムナードの繰 く り返 かえ しという印象 いんしょう を避 さ けるためでは」という推測 すいそく 以外 いがい にもいくつかの説 せつ が唱 とな えられているが、どれも裏付 うらづ ける証拠 しょうこ はない。確実 かくじつ なのは、自筆 じひつ 譜 ふ を参照 さんしょう できなかったラヴェルはムソルグスキーが第 だい 1と第 だい 5のみに「プロムナード」と指示 しじ したことを知 し らなかった点 てん である。
^ リムスキー=コルサコフ版 ばん ではアタッカの表記 ひょうき がない状態 じょうたい で出版 しゅっぱん された。ムソルグスキーの指示 しじ を知 し らなかったラヴェルは、編曲 へんきょく に際 さい して初版 しょはん スコアでは「リモージュの市場 いちば 」から「死 し せる言葉 ことば による死者 ししゃ への呼 よ びかけ」、「バーバ・ヤガー」と「キエフの大門 おおもん 」のみアタッカを指定 してい している。
^ a b c 作曲 さっきょく 者 しゃ はロシア語 ご でタイトルをつけている。フランス語 ふらんすご タイトルはリムスキー=コルサコフによるもの。
^ ただしラムの校訂 こうてい についても、改 あらた めて自筆 じひつ 譜 ふ ファクシミリ版 ばん の第 だい 2刷 さつ を底本 ていほん にベーレンライター原典 げんてん 版 ばん を編纂 へんさん したクリストフ・フラム(Christoph Flamm)が「ラム版 ばん も文字通 もじどお りの批判 ひはん 校訂 こうてい 版 ばん ではない」と指摘 してき しているように、問題 もんだい 点 てん が多々 たた あることが判明 はんめい している。
^ 一 いち 例 れい として「カタコンベ」の、伸 の ばしている音 おと に対 たい してクレッシェンドをかけるというピアノでは演奏 えんそう 不可能 ふかのう な指定 してい が挙 あ げられる。
^ ラヴェルは1908年 ねん にパリ・オペラ座 ざ で初演 しょえん された、リムスキー=コルサコフによる改訂 かいてい 版 ばん 『ボリス・ゴドゥノフ 』初演 しょえん に立 た ち会 あ っている。
^ ラヴェルは3月 がつ 24日 にち 付 づけ でカルヴォコレッシに、手配 てはい してもらった譜面 ふめん の到着 とうちゃく を知 し らせている。
^ 『展覧 てんらん 会 かい の絵 え 』編曲 へんきょく 時期 じき にクーセヴィツキーへ送 おく った手紙 てがみ で、「(小節 しょうせつ を付加 ふか するなどしたが)あくまでも技術 ぎじゅつ 的 てき に必要 ひつよう なものです。リムスキー・コルサコフのような改変 かいへん ではないからムソルグスキーも許 ゆる してくれるでしょう」と書 か いている。
^ ラヴェルが編曲 へんきょく した当時 とうじ 、ムソルグスキーの著作 ちょさく 権 けん は既 すで に失効 しっこう していた。
^ なお、ホロヴィッツが編曲 へんきょく の底本 ていほん にしたのはリムスキー=コルサコフ版 ばん である。
^ ムソルグスキー作曲 さっきょく 「キエフの大門 おおもん に心 しん を寄 よ せたいのです」…友人 ゆうじん の死 し を悼 いた む楽曲 がっきょく 、音楽家 おんがくか が発信 はっしん (2022年 ねん 3月 がつ 8日 にち 付 づけ 讀賣新聞 よみうりしんぶん オンライン)
^ 冨田 とみた 勲 いさお ×宇川 うがわ 直宏 なおひろ 対談 たいだん (ナタリー )での冨田 とみた の回想 かいそう によれば、締 し め切 き りまでの期間 きかん は4日 にち しかなかったが、冨田 とみた は手塚 てづか から直接 ちょくせつ 電話 でんわ で「冨田 とみた さんだったら、ちょいちょいちょいのちょいですよ」と言 い われたために「無理 むり です」とは言 い えなかった、と語 かた っている。
^ “生誕 せいたん 120周年 しゅうねん 記念 きねん 「近衞 このえ 秀麿 ひでまろ 再 さい 発見 はっけん 」パネル展示 てんじ ”. 近衞 このえ 音楽 おんがく 研究所 けんきゅうじょ (2018年 ねん ). 2023年 ねん 9月 がつ 11日 にち 閲覧 えつらん 。 「パネル3 ムソルグスキー《展覧 てんらん 会 かい の絵 え 》(ラヴェル版 ばん と近衞 このえ 版 ばん ) 」の項 こう 。
^ 「女声 じょせい 合唱 がっしょう とオーケストラのための組曲 くみきょく 展覧 てんらん 会 かい の絵 え 」すみだ少年 しょうねん 少女 しょうじょ 合唱 がっしょう 団 だん 30周年 しゅうねん 記念 きねん 演奏 えんそう 会 かい プログラム. 2016年 ねん 3月 がつ 20日 はつか