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ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ムソルグスキー 1870ねん

ボリス・ゴドゥノフ』 (ロシア: Борис Годунов Ru-Boris_Godunov.ogg 発音はつおん)は、モデスト・ムソルグスキー作曲さっきょくしたプロローグと4まくから構成こうせいされるオペラである。「ボリス・ゴドノフ」や「ボリス・ゴドゥノーフ」ともしょうされる。今日きょうムソルグスキーの作曲さっきょくしたオペラのなかでもっとも有名ゆうめい作品さくひんである。

ロシア実在じつざいしたツァーリボリス・ゴドゥノフ(1551ねん - 1605ねん)の生涯しょうがいをオペラしたものである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

1868ねん、ムソルグスキーは当時とうじえるような創作そうさく意欲いよく作曲さっきょく没頭ぼっとうできない官吏かんり生活せいかつとの矛盾むじゅんくるしんでいた。その影響えいきょうがあるためか、『ボリス・ゴドゥノフ』を作曲さっきょくする以前いぜん1856ねんに『アイルランドのハン』、1863ねんから1866ねんにかけて、フローベール原作げんさくによる『サランボー』、ゴーゴリ原作げんさくによる『結婚けっこん英語えいごばん』などのオペラを作曲さっきょくしたが、いずれも完成かんせいわっている[1]

同年どうねんはる、ムソルグスキーはリュドミーラ・シェスタコーワ夫人ふじん音楽家おんがくかのサロンにしばしばかおし、当時とうじ夫人ふじんのサロンに出入でいりしていた歴史れきしのウラディーミル・ニコルスキーとい、ムソルグスキーがオペラの題材だいざいさがしていることをはなすと、ニコルスキーは早速さっそく「プーシキン物語ものがたり」のなかにある劇詩げきし「ボリス・ゴドゥノフ」を作曲さっきょくすることをすすめた。劇詩げきしんだムソルグスキーは物語ものがたり面白おもしろさにしんかれ、「ボリス・ゴドゥノフ」のオペラにすることを決意けついした。

1868ねん9月、ムソルグスキーは官吏かんり勤務きんむさき林野りんやきょくてんじられたが、おりよく幸運こううんにも親友しんゆうのオポチーニンがいえむかえてくれたため、その好意こういあまんじて10がつから本格ほんかくてき作曲さっきょく着手ちゃくしゅした。勤務きんむさきちかくにあり、静寂せいじゃく郊外こうがい周辺しゅうへんであったため 作曲さっきょくとどこおることなく1868ねん10がつから1869ねん初夏しょかまでに声楽せいがく総譜そうふ完成かんせいされ、同年どうねん12月15にちにはオーケストラ総譜そうふ完成かんせいした。(この時点じてん初稿しょこう完成かんせいさせる)

ムソルグスキーはオペラの作曲さっきょく着手ちゃくしゅして以来いらい、しばしば友人ゆうじんたちの音楽おんがくサロンで完成かんせいした部分ぶぶんかせていたという。オーケストラの部分ぶぶん親友しんゆう顧問こもんかんブルゴールドの令嬢れいじょうナデージダち、ムソルグスキーは自分じぶん自身じしん歌手かしゅとなってすべてのパートをうたったとつたえられる。

完成かんせいされたオペラだい1さく『ボリス・ゴドゥノフ』は、その上演じょうえんもとめて1870ねんなつ帝室ていしつ歌劇かげきじょう管理かんり総譜そうふ提出ていしゅつしたが、帝室ていしつ歌劇かげきしょがわから上演じょうえん拒否きょひされてしまう。これにたいしムソルグスキーは憤慨ふんがいしたが、ウラディーミル・スターソフ友人ゆうじんたち(そのなかにはリムスキー=コルサコフもいた)からの意見いけんいたうえでかんがなおし、すぐさまオペラの改訂かいてい着手ちゃくしゅした。改訂かいていばん1872ねん6月23にち完成かんせいされた。

初演しょえん[編集へんしゅう]

初演しょえん指揮しき担当たんとうしたエドゥアルド・ナープラヴニーク

全曲ぜんきょく上演じょうえんされるまで時間じかんようし、そのあいだなんかい抜粋ばっすい上演じょうえんされた(日付ひづけユリウスれき)。

抜粋ばっすいばん[編集へんしゅう]

配役はいやく 演者えんじゃ
おんな主人しゅじん ダリヤ・レオノヴァ
グリゴリー・オトレピエフ(にせドミトリー) フョードル・コミッサルジェフスキー
ヴァルラーム オシップ・ペトロフ
ミサイール ヴァシリー・ヴァシリエフ(ヴァシリエフ2せい
警吏 ミハイル・サリオッティ
マリーナ・ムニーシェク ユリヤ・プラトノヴァ
ランゴーニ ヨゼフ・パレチェク

全曲ぜんきょく初演しょえん[編集へんしゅう]

1874ねん2がつ27にちにサンクトペテルブルク、マリインスキー劇場げきじょうにてナープラヴニーク指揮しき、ゲンナジー・コンドラチエフ演出えんしゅつ、マトヴェイ・シシコフとミハイル・ボチャロフの美術びじゅつにより初演しょえん。ただし「僧坊そうぼう」を省略しょうりゃくし「革命かくめい」をだい5まくとするかたちであった。

配役はいやく 演者えんじゃ
ボリス・ゴドゥノフ イヴァン・メルニコフ
フョードル アレクサンドラ・クルチコヴァ
クセニヤ ヴィルヘルミナ・ラーブ
乳母うば オルガ・シュレーダー
ヴァシリー・シュイスキーこう ヴァシリー・ヴァシリエフ(ヴァシリエフ2せい
グリゴリー・オトレピエフ(にせドミトリー) フョードル・コミッサルジェフスキー
アンドレイ・シチェルカーロフ ソボレフ
ピーメン ウラディーミル・ヴァシリエフ(ヴァシリエフ1せい
マリーナ・ムニーシェク ユリヤ・プラトノヴァ
ランゴーニ ヨゼフ・パレチェク
ヴァルラーム オシップ・ペトロフ
ミサイール パーヴェル・デュジコフ
ニキーティチ ミハイル・サリオッティ
ミチューハ リャードフ
侍従じじゅう ソボレフ
フルシチョフ マトヴェーエフ
おんな主人しゅじん アントニーナ・アバリノヴァ
ロヴィツキ ウラディーミル・ヴァシリエフ(ヴァシリエフ1せい
チェルニコフスキ ソボレフ
白痴はくち パーヴェル・ブラーホフ

モスクワ初演しょえんは、ムソルグスキー死後しご1888ねん12月16にちボリショイ劇場げきじょうにてイッポリト・アルタニ指揮しきおこなわれた。

ムソルグスキーによる2つのはん[編集へんしゅう]

  • 原典げんてんばん - 1869ねん
  • 改訂かいていばん - 1872ねん(ヴォーカルスコアは1874ねん出版しゅっぱん[4]
めい めい短縮形たんしゅくけい 1869ねん原典げんてんばん 1872ねん改訂かいていばん
モスクワ近郊きんこうノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん中庭なかにわ ノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん だい1だい1じょう プロローグだい1じょう
モスクワクレムリンだい聖堂せいどう広場ひろば 戴冠たいかんしき だい1だい2じょう プロローグだい2じょう
モスクワクレムリンチュードフ修道院しゅうどういん僧坊そうぼう 僧坊そうぼう だい2だい1じょう だい1まくだい1じょう
リトアニア国境こっきょう付近ふきん旅籠はたご 旅籠はたご だい2だい2じょう だい1まくだい2じょう
モスクワクレムリンテレムノイ宮殿きゅうでんにある皇帝こうてい居間いま クレムリンの だい3 だい2まく
ポーランドサンドミエシュ城内きうちのマリーナの部屋へや - - だい3まくだい1じょう
サンドミエシュ城内きうち噴水ふんすいのある月夜つきよ庭園ていえん 噴水ふんすい - だい3まくだい2じょう
モスクワせいワシリイだい聖堂せいどうまえあか広場ひろば せいワシリイだい聖堂せいどう だい4だい1じょう -
モスクワクレムリングラノヴィータヤ宮殿きゅうでん ボリスの だい4だい2じょう だい4まくだい1じょう
クロームィちかくのもりなか 革命かくめい - だい4まくだい2じょう

1869ねん完成かんせいした原典げんてんばんは、1871ねん2がつ17にちになって歌劇かげきじょうがわから正式せいしき採用さいようとして通知つうちがなされた[5]原典げんてんばんは、標準ひょうじゅんてきなオペラの形態けいたいかられば、極端きょくたん女声じょせいやくすくないなど、おおきく逸脱いつだつするものであったため、上演じょうえん拒否きょひされたとられる[6]上演じょうえん拒否きょひほうのち、ムソルグスキーはスターソフらともはない、オペラの改定かいてい作業さぎょうんだ。まず、重要じゅうよう女声じょせいやくであるマリーナ・ムニーシェクが登場とうじょうし、バレエ場面ばめんもあるポーランドを舞台ぶたいとする2じょうつくられ[7]さらにプーシキンの原作げんさくではほとんどれられていない民衆みんしゅう蜂起ほうきえがいた「クロームィちかくのもりなか」の(いわゆる「革命かくめい」)が追加ついかされている。わりに原典げんてんばんにあったせいワシリイだい聖堂せいどうけずられ、どう場面ばめんにあった子供こどもたちと白痴はくちのやりり、白痴はくちうたながれよ、ながれよ、にがなみだ!」は「革命かくめい」にうつされている。そして、原典げんてんばんがボリスのわるのにたいして、改訂かいていばんは「革命かくめい」でくくられることになり、オペラの印象いんしょうおおきくえることとなった[8]原典げんてんばんではボリス個人こじん悲劇ひげきという印象いんしょうであったものが、にせドミトリーや民衆みんしゅう前面ぜんめんされ、白痴はくちうたわることにより、個人こじんよりもロシアというくに悲劇ひげき強調きょうちょうされるようになっている。改訂かいていばんの9つの場面ばめん分析ぶんせきすると、クレムリンのおうぎようとして、だれひかりてるかにより、オペラ全体ぜんたいがシンメトリックな構造こうぞうとなっていることがわかる[9]。これはムソルグスキーの次回じかいさくホヴァーンシチナ』にも継承けいしょうされている[10]

1.ノヴォデヴィチ
修道院しゅうどういん
2.戴冠たいかんしき 3.僧坊そうぼう
4.旅籠はたご
5.クレムリンの 6.マリーナの部屋へや
7.噴水ふんすい
8.ボリスの 9.革命かくめい
民衆みんしゅう ボリス・ゴドゥノフ グリゴリー
(にせドミトリー)
ボリス・ゴドゥノフ グリゴリー
(にせドミトリー)
ボリス・ゴドゥノフ 民衆みんしゅう

このほか原典げんてんばんが4つの構成こうせいされていたのにたいし、改訂かいていばんはプロローグと4まくから構成こうせいされるようになっている。また、改訂かいていばんのこされた部分ぶぶんたいしても、下記かきのように追加ついか削除さくじょがなされている。

  • 「ノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん」の最後さいご巡礼じゅんれい一団いちだんったのちのミチューハら民衆みんしゅう、警吏ニキーティチのやりりが削除さくじょされた。
  • 僧坊そうぼう」で、ウグリチで殺人さつじんしゃたちがボリスの命令めいれいでドミトリーをころした、と白状はくじょうするのをピーメン自身じしん実際じっさい現地げんちたという部分ぶぶん削除さくじょされた。修道しゅうどうそう舞台裏ぶたいうらうた合唱がっしょう追加ついかされた。
  • 旅籠はたご」でおんな主人しゅじんうたう「わたしかもつかまえた」が改訂かいていばん追加ついかされた。
  • 「クレムリンの」で、乳母うばとフョードルがうたうた追加ついかされた。また、改訂かいていばんからオウムと時計とけい登場とうじょうするようになる[11]
  • 「ボリスの」の冒頭ぼうとう、シチェルカーロフが貴族きぞくたちにボリスの言葉ことばつたえる部分ぶぶん削除さくじょされた。

楽器がっき編成へんせい[編集へんしゅう]

演奏えんそう時間じかん[編集へんしゅう]

  • 1869ねん原典げんてんばん
    だい125ふんだい235ふんだい325ふんだい435ふん およそ2あいだ
  • 1872ねん改訂かいていばん
    プロローグ25ふんだい1まく35ふんだい2まく35ふんだい3まく45ふんだい4まく45ふん およそ3あいだ5ふん

上記じょうき両方りょうほうはん録音ろくおんしているゲルギエフばん参考さんこうとした。

  • リムスキー=コルサコフばん
    プロローグ20ふんだい1まく40ふんだい2まく30ふんだい3まく40ふんだい4まく60ふん およそ3あいだ10ふん
    イッポリトフ=イワノフ編曲へんきょくによるせいワシリイだい聖堂せいどうだい4まく追加ついかした場合ばあい時間じかん

原作げんさく台本だいほん[編集へんしゅう]

  • 原作げんさくアレクサンドル・プーシキン歴史れきしてき悲劇ひげきもとづく。改訂かいていばんはさらにニコライ・カラムジーンの「ロシア国家こっか」による。
  • 台本だいほんはムソルグスキー自身じしんによる。またウラディーミル・スターソフも協力きょうりょくしている。

登場とうじょう人物じんぶつ[編集へんしゅう]

人物じんぶつめい 声域せいいき やく
ボリス・ゴドゥノフ バス(またはバリトン) ロシアのツァーリ
フョードル メゾソプラノ ボリスの息子むすこ
クセニヤ ソプラノ ボリスのむすめ、フョードルのあね
乳母うば アルト クセニヤの乳母うば
ヴァシリー・シュイスキー テノール ボリスの首席しゅせき顧問こもん公爵こうしゃく
グリゴリー・オトレピエフ テノール 僭称せんしょうしゃにせのドミトリーとなる
アンドレイ・シチェルカーロフ バリトン 貴族きぞく会議かいぎ書記官しょきかん
ピーメン バス 修道しゅうどうそう年代ねんだい編纂へんさんしゃ
マリーナ・ムニーシェク ソプラノ(またはメゾソプラノ) ポーランド貴族きぞくむすめ
ランゴーニ バス イエズスかい密使みっし
ヴァルラーム バス 浮浪ふろうじん逃亡とうぼうそう
ミサイール テノール 浮浪ふろうじん逃亡とうぼうそう
ニキーティチ バス 警吏ちょう
ミチューハ バリトン 農民のうみん
侍従じじゅう テノール 貴族きぞく
フルシチョフ テノール だい貴族きぞく
おんな主人しゅじん メゾソプラノ 旅籠はたご居酒屋いざかや)のおんな主人しゅじん
ロヴィツキ バス イエズスかい
チェルニコフスキ バス イエズスかい
白痴はくちイヴァヌイチ テノール せい愚者ぐしゃ

その合唱がっしょうだまやく

だい貴族きぞくだい貴族きぞく子供こどもじゅう兵隊へいたい近衛このえへい国境こっきょう監視かんしの警吏、警吏、ポーランドの貴族きぞく貴婦人きふじんサンドミエシュむすめたち、巡礼じゅんれい、モスクワの民衆みんしゅう

歴史れきしてき背景はいけい[編集へんしゅう]

『ボリス・ゴドゥノフ』を理解りかいするには、ロシアにおいて「動乱どうらん時代じだい」とばれる1598ねんリューリクあさ断絶だんぜつから1613ねんロマノフあさ成立せいりつまでの経緯けいい基礎きそ知識ちしきとしておくことが必要ひつようである。

  • 1584ねんイヴァン4せいイヴァンかみなりみかど)がぼっする。のちにはかみなりみかど二人ふたり息子むすこ病弱びょうじゃく軽度けいど知的ちてき障害しょうがいフョードルとその異母弟いぼていドミトリーのこされる。かみなりみかど寵臣ちょうしんであるボリス・ゴドゥノフのいもうとつまむかえていたフョードルがフョードル1せいとして戴冠たいかんする。
  • フョードル1せい戴冠たいかん直後ちょくごにモスクワで暴動ぼうどう発生はっせいする。ドミトリーをツァーリにしようとする一部いちぶだい貴族きぞくによるものだったらしく、暴動ぼうどう鎮圧ちんあつ、ドミトリーとその母親ははおやマリヤ・ナガヤ、マリヤの一族いちぞくウグリチ追放ついほうされる。
  • 1591ねん、ドミトリーがウグリチでなぞげる(母親ははおやであるマリヤ・ナガヤがしろ中庭なかにわのどかれよこたわっている息子むすこ発見はっけんした)。ヴァシリー・シュイスキーがひきいる調査ちょうさだん派遣はけんされ、「ドミトリーは、ナイフあそびの最中さいちゅうてんかん発作ほっさこしみずからをきずつけた」と結論けつろんける。マリヤ・ナガヤは息子むすこ過失かしつありとされ、修道院しゅうどういん幽閉ゆうへい一族いちぞく投獄とうごくされる。民衆みんしゅうあいだでは摂政せっしょうであるボリスがドミトリーを殺害さつがいしたといううわさひろまる。
  • 1598ねん、フョードル1せいぼっする(ボリスによる謀殺ぼうさつといううわさった)。かったため、リューリクあさ断絶だんぜつ全国ぜんこく会議かいぎでボリスがツァーリに選出せんしゅつされ戴冠たいかんする
  • 1605ねんボリスが急死きゅうしする息子むすこフョードルがこうフョードル2せいとなるが、ドミトリー支持しじまわものこうたず、もなくその母親ははおやとともに殺害さつがいされる。ドミトリーがモスクワ入城にゅうじょうたし戴冠たいかんする。ボリスのむすめクセニヤはそのわらわとされたのち修道院しゅうどういんれられる。
  • 1606ねん、ドミトリーがポーランド貴族きぞくむすめマリーナ・ムニーシェクと結婚けっこんする。しかし、すめらぎ正教会せいきょうかい改宗かいしゅうするという慣例かんれいやぶり、カトリックのままだったため、だい貴族きぞく民衆みんしゅうロシア正教会せいきょうかい反感はんかんい、婚礼こんれいげてぐに反乱はんらん勃発ぼっぱつ、ドミトリーは殺害さつがいされる。ヴァシーリー・シュイスキーが即位そくいヴァシーリー4せいとなる。
  • 1607ねん、モスクワで殺害さつがいされたはずのドミトリーが「奇跡きせきてきたすかった」といううわさながれ、だい2のドミトリー登場とうじょう、モスクワ進軍しんぐん開始かいしする。モスクワ占領せんりょうはできなかったもののモスクワ近郊きんこうトゥシノじんかまえる。
  • 1610ねん、ポーランドぐんがモスクワに入城にゅうじょうする。ヴァシーリー4せいクーデターにより退位たいいさせられ、だい2のドミトリーはポーランドに見限みかぎられ殺害さつがいされる。
  • 1612ねんだい3のドミトリー処刑しょけいされる。義勇軍ぎゆうぐんによりモスクワ開放かいほうされる。

あらすじ[編集へんしゅう]

  • 【】ないは1872ねん改訂かいていばんにおいて削除さくじょまたは追加ついかされた部分ぶぶんしめす。
モスクワ近郊きんこうノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん中庭なかにわ(1598ねん) - ノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん
ノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん(シシコフのデザイン、1870ねん
序曲じょきょくみじか緊迫きんぱくしたかんじの前奏ぜんそうはじまる。まくがると修道院しゅうどういん中庭なかにわをモスクワの人々ひとびと大勢おおぜいうろつきまわっている。警吏ニキーティチが登場とうじょうし、警棒けいぼうおどしながら人々ひとびとたてってないでひざまずいておねがいしろと命令めいれいする。人々ひとびとはそれにおう大声おおごえ請願せいがんする(民衆みんしゅう合唱がっしょう何故なぜとう見棄みすてられるのか、とうちちよ!」)が、そのなにをおねがいしているのかよくわからず、ニキーティチの姿すがたえなくなると、ミチューハをはじめそれぞれ勝手かってにおしゃべりをはじめる。再度さいど、ニキーティチが姿すがたあらわ人々ひとびとおどすので、また大声おおごえげておねがいしはじめる。貴族きぞく会議かいぎ書記官しょきかんであるシチェルカーロフがあらわれると、ニキーティチは人々ひとびとせいはなしくようにめいじる。シチェルカーロフは、ボリス・ゴドゥノフが人々ひとびとねがいもむなしく、がんとして帝位ていいこうとしない(シチェルカーロフのアリア「せい教徒きょうとたちよ!おおやけはききいれてくださらない」)とかた修道院しゅうどういんえる。つづいて巡礼じゅんれい一団いちだん登場とうじょうし、「かみ栄光えいこうとなえ、きよしぞうってツァーリをおむかえにくのだ」と合唱がっしょう修道院しゅうどういんはいっていく。
【1869ねん原典げんてんばんのみ:巡礼じゅんれい一団いちだんったのち、ミチューハたちが「きよしぞうってどんなツァーリをむかえにくんだ?だれを?ボリスか?」などとはなしていると、ニキーティチが修道院しゅうどういんからてきて、明日あしたあさ、クレムリンに命令めいれいまてて、とつたえる。人々ひとびとはなるほどクレムリンでも大声おおごえげろってことか、とつぶやく。】
モスクワクレムリンだい聖堂せいどう広場ひろば(1598ねん) - 戴冠たいかんしき
戴冠たいかんしき(ボチャロフのデザイン、1874ねん
ウスペンスキーだい聖堂せいどうとアルハンゲルスキーだい聖堂せいどうはさまれた広場ひろば[12]にモスクワの民衆みんしゅうあつまっている。かねひびなかだい貴族きぞくヴァシリー・シュイスキーこう登場とうじょうし、「ツァーリ・ボリス・フョードロヴィチまんさい!」とさけぶ。民衆みんしゅうがそれにこたえて「長寿ちょうじゅ健康けんこうとうちちなるツァーリに!」とさけぶ。シュイスキーこう音頭取おんどとりで、民衆みんしゅうはツァーリをたたえるだい合唱がっしょうをする(民衆みんしゅう合唱がっしょうそらにはすでかがや太陽たいようが」[13])。やがて戴冠たいかんしきえたボリスがおうしゃくけんしるべち、貴族きぞくやその子弟していしたがえてウスペンスキーだい聖堂せいどうから姿すがたあらわす。貴族きぞく一緒いっしょになりまんさいかえされるなか、ボリスは権力けんりょくしゃ責任せきにん痛感つうかん独白どくはくする(ボリスのモノローグ「たましいかなしむ」)。ふたた歓喜かんきこえがり(民衆みんしゅう合唱がっしょう光栄こうえいあれ!光栄こうえいあれ!光栄こうえいあれ!」)、アルハンゲルスキーだい聖堂せいどうからてきたボリスが宮廷きゅうていむかうところでまく
モスクワクレムリンチュードフ修道院しゅうどういん僧坊そうぼう(1603ねん)- 僧坊そうぼう
チュードフ修道院しゅうどういん
真夜中まよなか僧坊そうぼう修道しゅうどうそうピーメンがランプのあかりをたよりに年代ねんだいつづっている(ピーメンのアリア「あとひと物語ものがたりえて」[14]わか修道しゅうどうそうグリゴリーはそのよこねむっているが、悪夢あくむうなされて目覚めざめる。それはなんているゆめで、たかとうのぼった自分じぶんしたると、モスクワの群集ぐんしゅう自分じぶん指差ゆびさ嘲笑あざわらっている。いたたまれなくなった自分じぶんとうから逆様さかさまちるとそこで目覚めざめるというものであった[15]。ピーメンはわかがたぎるせいであろうとなだめ、自分じぶんえた年代ねんだいおそろしい内容ないよう(ボリスによる皇子おうじドミトリーの殺害さつがい)についてかたる。【1869ねん原典げんてんばんのみ:ピーメンは実際じっさいにウグリチにおもむき、殺人さつじんしゃたちがボリスの指示しじでドミトリーを殺害さつがいしたと白状はくじょうするのを目撃もくげきしたという。】ピーメンのはなしいているうちにグリゴリーはんだ皇子おうじドミトリーがきていれば自分じぶんおなどしであることをる。やがてよるけ、あさ勤行ごんぎょうのためピーメンはるが、野心やしんのグリゴリーは心中しんちゅうのひそかにボリス打倒だとうくわだてる。
リトアニア国境こっきょう付近ふきん旅籠はたご(1603ねん)- 旅籠はたご
リトアニア国境こっきょう旅籠はたご(シシコフのデザイン、1870ねん
このそうされる3つの主題しゅだいからなる前奏ぜんそうはじまる。【1872ねん改訂かいていばん追加ついか旅籠はたごおんな主人しゅじんが「わたしかもつかまえた[16]」とうたっていると、屋外おくがいこえがして逃亡とうぼうそうであるヴァルラームとミサイールがじょ主人しゅじん喜捨きしゃもとめるので、とびらちゅうまねれる。】にんつづいて道案内みちあんないになりすましたグリゴリーが旅籠はたごはいってる。かれはモスクワにられなくなり、ここまでげてきたのである。リトアニアへはいるまで安心あんしんできないとうグリゴリーに、ヴァルラームはさけさえあればどこでもいいとい、おんな主人しゅじんってきたさけして豪快ごうかいうたはじめる(ヴァルラームのうたむかしカザンのまちでイヴァンかみなりみかどは」[17])。やがていがまわったヴァルラームは「やつうまはし[18]」というきょくをぶつぶつうたいながらねむんでしまう。そのよこでグリゴリーはおんな主人しゅじんにリトアニアまでどれかかるかたずねる。関所せきしょがあって警吏が見張みはっているとわれてグリゴリーはあおざめるが、おんな主人しゅじん脇道わきみちれれば大丈夫だいじょうぶう。やがてとびらがたたかれ、警吏たち[19]はいってる。警吏はさんにん尋問じんもんし、根拠こんきょいままヴァルラームをおたずものであるグリゴリー・オトレピエフとめつける。無論むろん、ヴァルラームは否定ひていする。モスクワからとどいた命令めいれいしょにはおたずもの人相にんそうかれているのだが、警吏たちはだれ文字もじめない。するとグリゴリーが自分じぶんめるとい、内容ないよういつわっておたずもの人相にんそうをヴァルラームそっくりにむので、警吏たちはヴァルラームにびかかる。びっくりしたヴァルラームは、命令めいれいしょをグリゴリーからったくり、一文字いちもんじ一文字ひともじたどたどしくはじめる。んでいくうちにおたずもの人相にんそうがグリゴリーそっくりであることにがつくが、グリゴリーはっていたナイフをりかざし、旅籠はたごまどからしていく。ヴァルラーム、ミサイール、警吏たちが「やつつかまえろ!」とさけびながらっていくところでまく
モスクワクレムリンテレムノイ宮殿きゅうでんにある皇帝こうてい居間いま(1604ねん)- クレムリンの
フョードルの勉強べんきょう見守みまもるボリス
ボリスのむすめクセニヤが、急死きゅうしした許婚きょこん肖像しょうぞういている。【1872ねん改訂かいていばん追加ついかおとうとのフョードルと乳母うばなぐさめるが、なかなか笑顔えがおせない。たのしくさせようと二人ふたり滑稽こっけいおどうたっているところへ】ボリスが登場とうじょうし、クセニヤをなぐさめ、乳母うばとともに別室べっしつがらせる。のこったフョードルになにをしているかたずねると、地図ちず地理ちり勉強べんきょうをしているというこたえがかえってる。ボリスはこのくにすべてがおまえものになる、勉強べんきょうつづけなさいとい、物思ものおもいにしずむ。自分じぶん権力けんりょくれ、6ねんあいだくに無事ぶじおさめてきたが、しん幸福こうふくはない。許婚きょこん急死きゅうしだい貴族きぞく裏切うらぎり、外国がいこく陰謀いんぼう飢饉ききん疫病えきびょうつづき、すべてのつみ自分じぶんにあると国中くになか怨嗟えんさこえがっているとうたう(ボリスのモノローグ「わたし最高さいこう権力けんりょくにした」)。
【1872ねん改訂かいていばん追加ついか突然とつぜん舞台裏ぶたいうら悲鳴ひめいがり、ボリスはフョードルに様子ようすかせる。】わりに侍従じじゅうがやってて、シュイスキーこう目通めどおりの許可きょかもとめてきたことをつたえる(同時どうじかれなにたくらんでいることもつたえる)。【1872ねん改訂かいていばん追加ついかもどってきたフョードルは、さわぎはオウム乳母うばたちびついただけと報告ほうこくする。手際てぎわよく報告ほうこくした息子むすこをボリスはめるが、将来しょうらいツァーリになったら信頼しんらい出来でき相談役そうだんやくたねば駄目だめだ、と丁度ちょうどはいってたシュイスキーこうけるようう。】シュイスキーこうは、リトアニアに僭称せんしょうしゃあらわれ、ドミトリーのかたっていると報告ほうこくする。驚愕きょうがくしたボリスはフョードルをがらせ、シュイスキーこう対応たいおうさくあたえ、出発しゅっぱつさせる。が、おもなおして、シュイスキーこうがウグリチで確認かくにんした子供こども遺体いたい本当ほんとう皇子おうじドミトリーだったのかたずねる。シュイスキーこうが「にまみれ、おそろしいきずくちけているにもかかわらず、きよらかでかがやくばかりのおかおは、たしかに皇子おうじのもの」とこたえると、ボリスは気分きぶんわるくなり、シュイスキーこうがらせ、ソファーにたおんでしまう。
【1872ねん改訂かいていばん追加ついか:このとき居間いまかれていただい時計とけいときはじめる。】ボリスは錯乱さくらん状態じょうたいになり、だらけの子供こどもまぼろしる(時計とけい)。自分じぶん人民じんみんえらばれたツァーリだとボリスはさけび、かみすくいをもとめる。
ポーランドサンドミエシュ城内きうちのマリーナの部屋へや(1604ねん)【1872ねん改訂かいていばん追加ついかされた
マリーナの部屋へや(シシコフのデザイン、1870ねん
マリーナはかがみまえすわり、小間使こまづかいにかみかさせている。サンドミエシュのむすめたちが、マリーナのまえ彼女かのじょうつくしさをとなえてうたうたっているが、マリーナはそれがらず、小間使こまづかいもむすめたちがらせてしまう。ひとりになった彼女かのじょは、自分じぶん権力けんりょくしい、名誉めいよしい、そのために僭称せんしょうしゃドミトリーにちかづいて、やがてはツァーリのきさきになってやるとうたう(マリーナのアリア「なんてなやましく物憂ものうく」[20]。そこへイエズスかいのランゴーニがあらわれ、マリーナにたいして、異教いきょう蔓延はびこるロシアのにカトリック信仰しんこうひろめなさい、そのために貴女きじょ美貌びぼうかして僭称せんしょうしゃドミトリーにちかづき、とりこにしてしまいなさい、と嗾ける。
サンドミエシュ城内きうち噴水ふんすいのある月夜つきよ庭園ていえん(1604ねん)- 噴水ふんすい【1872ねん改訂かいていばん追加ついかされた
噴水ふんすい(シシコフのデザイン、1870ねん
僭称せんしょうしゃドミトリーとなったグリゴリーがにわでマリーナをびている。そこへランゴーニが登場とうじょうする。ランゴーニは、ロシアへカトリック信仰しんこうひろめるというかれ陰謀いんぼうさら確実かくじつなものとさせるため、マリーナとグリゴリーの仲介ちゅうかいしゃとなろうとしている。ランゴーニは、マリーナがグリゴリー、いや、ドミトリーをあいしているとげる。もなくポロネーズ音楽おんがくこえてて、マリーナが客人きゃくじんたちともなって登場とうじょうする。グリゴリーとランゴーニは物陰ものかげかくれる。客人きゃくじんたち城内じょうないもどると、マリーナが一人ひとりにわへやってる。グリゴリーはマリーナの実家じっか武力ぶりょくりてモスクワへ進軍しんぐんする野望やぼうを、マリーナはツァーリのきさきになり権力けんりょくにぎ野望やぼうをそれぞれしんめながら、あい二重唱にじゅうしょううたう(にせドミトリーとマリーナの重唱じゅうしょう「おお皇子おうじさま、おねがい」)。そんな二人ふたりかげうかがいながら、ランゴーニもまた野望やぼう実現じつげんいちちかづいたことをよろこぶ。
モスクワせいワシリイだい聖堂せいどうまえあか広場ひろば(1605ねん)- せいワシリイだい聖堂せいどう【1869ねん原典げんてんばんのみ】
せいワシリイだい聖堂せいどう
えた群衆ぐんしゅうあたりをあるまわっている。ミチューハを先頭せんとうにしていちぐんおとこたちだい聖堂せいどうからる。ミチューハは、内部ないぶでグリゴリー・オトレピエフの破門はもんきドミトリー皇子おうじへの追善ついぜんいのりがなされていたことをみなかたる。みなきているドミトリー皇子おうじ追善ついぜんいのりだなんて罰当ばちあたりめ、皇子おうじ軍隊ぐんたいがもうすぐやってて、ボリスたちくだされる!と息巻いきまくが、老人ろうじんたちにだまってっていろとたしなめられる。
そこへ子供こどもたちとともに白痴はくち登場とうじょう子供こどもたち白痴はくちっていた銅貨どうかげてしまう。白痴はくちいているところへボリスがおともれてだい聖堂せいどうからる。人々ひとびとひざまずきツァーリにパンをう。おとも貴族きぞくたちほどこぶつあたえるが全体ぜんたいにはわたらない。人々ひとびと大地だいちにひれす。そのとき白痴はくちがボリスにたいしてうったえる。
子供こどもたち自分じぶん銅貨どうかった。子供こどもたちころしてくれ。あのかわいそうな皇子おうじころすようめいじたように。」
よこにいたシュイスキーこう白痴はくちらえるよう護衛ごえいうが、ボリスはそれをせいして、白痴はくち自分じぶんのためいのってくれとたのむ。しかし、白痴はくちヘロデおうのためにいのることは聖母せいぼさまゆるさない、とってこれをことわる。ボリスも群集ぐんしゅうり、一人ひとりさびしくうたう(白痴はくちうたながれよ、ながれよ、にがなみだ!」)。
モスクワクレムリングラノヴィータヤ宮殿きゅうでん(1605ねん) - ボリスの
グラノヴィータヤ宮殿きゅうでん(シシコフのデザイン、1870ねん
ボリスは貴族きぞくたち招集しょうしゅうにせドミトリーへの対応たいおうさく協議きょうぎさせる。【1869ねん原典げんてんばんのみ:会議かいぎ冒頭ぼうとう、シチェルカーロフがボリスの言葉ことばつたえるが、】ボリスは姿すがたせない。貴族きぞくたち威勢いせいく、にせドミトリーは拷問ごうもんし、死刑しけいにし、死体したいさらしゃにする、と票決ひょうけつする(貴族きぞくたちの合唱がっしょう「さて諸君しょくん票決ひょうけつこう」)。シュイスキーこうおくれてはいってる。かれ貴族きぞくたち子供こどもまぼろしおびえて錯乱さくらんするボリスの様子ようす自身じしん真似まねをしながらはなす。丁度ちょうどそのとき、ボリスがまさにそのままの狂態きょうたい議場ぎじょうはいってる。一旦いったんしずまったボリスだが、シュイスキーこうれてきたピーメンがかたる、ドミトリーのはかまえきた奇蹟きせきはなしピーメンのアリア「あるばんのこと」)をくうちにふたたびおかしくなる。さとったボリスは、フョードルをび、わかれをげる(ボリスのわかれ「さらばよ、わしはもうぬ」)。ちょういのかねり、哀悼あいとううたながれるなか、ボリスはぬ(ボリスのかねだ!ちょういのかねだ!」)。貴族きぞくたちの「身罷みまかられた」というつぶやきとともにまく
クロームィちかくのもりなか(1605ねん) - 革命かくめい【1872ねん改訂かいていばん追加ついかされた
ボリスの軍隊ぐんたい司令しれいかんだっただい貴族きぞくフルシチョフが、蜂起ほうきした群集ぐんしゅうらえられ、嘲弄ちょうろうされている。そこへ子供こどもたちとともに白痴はくち登場とうじょう子供こどもたち白痴はくちっていた銅貨どうかげてしまう。白痴はくちわめく。
とおくからヴァルラームとミサイールが、ボリスの悪行あくぎょうのため、宇宙うちゅう全体ぜんたいがおかしくなった、とうたいながらやってる。彼等かれら扇動せんどうしゃとなり、群集ぐんしゅうとともに「ボリスにを!」とさけぶ。つづいてイエズスかいのロヴィツキとチェルニコフスキがかみとなえながらやってるが、ヴァルラームとう異端いたん魔法使まほうつかいと看做みなされ、らえられてしまう。最後さいご軍勢ぐんぜいとともににせドミトリー(グリゴリー)が登場とうじょう、フルシチョフのいましめをき、軍勢ぐんぜい、ヴァルラームとう放浪ほうろうしゃ群集ぐんしゅう、イエズスかいとともにモスクワへけてすすんでいく。
その後姿うしろすがたながら、白痴はくちはこれからロシアをおそ混乱こんらんうれいて一人ひとりさびしくうたう(白痴はくちうたながれよ、ながれよ、にがなみだ!」)。そらけ、警鐘けいしょう群衆ぐんしゅうさけびがこえる。

主要しゅようきょく[編集へんしゅう]

  • 民衆みんしゅう合唱がっしょう何故なぜとう見棄みすてられるのか、とうちちよ!」(ロシア: На кого ты нас покидаешь, отец наш!
  • シチェルカーロフのアリア「せい教徒きょうとたちよ!おおやけはききいれてくださらない」(ロシア: Православные! Неумолим боярин!
  • 民衆みんしゅう合唱がっしょうそらにはすでかがや太陽たいようが」(ロシア: Уж как на небе солнцу красному
  • ボリスのモノローグ「たましいかなしむ」(ロシア: Скорбит душа
  • 民衆みんしゅう合唱がっしょう光栄こうえいあれ!光栄こうえいあれ!光栄こうえいあれ!」(ロシア: Слава! Слава! Слава!
  • ピーメンのアリア「あとひと物語ものがたりえて」(ロシア: Еще одно, последнее сказанье
  • ヴァルラームのうたむかしカザンのまちでイヴァンかみなりみかどは」(ロシア: Как во городе было во Казани
  • ボリスのモノローグ「わたし最高さいこう権力けんりょくにした」(ロシア: Достиг я высшей власти
  • 時計とけいロシア: Сцена с курантами
  • マリーナのアリア「なんてなやましく物憂ものうく」(ロシア: Как томительно и вяло
  • ポロネーズ(ロシア: Полонез
  • にせドミトリーとマリーナの重唱じゅうしょう「おお皇子おうじさま、おねがい」(ロシア: О царевич, умоляю
  • 貴族きぞくたちの合唱がっしょう「さて諸君しょくん票決ひょうけつこう」(ロシア: Что ж? Пойдём на голоса, бояре
  • ピーメンのアリア「あるばんのこと」(ロシア: Однажды, в вечерний час
  • ボリスのわかれ「さらばよ、わしはもうぬ」(ロシア: Прощай, мой сын, умираю...
  • ボリスのかねだ!ちょういのかねだ!」(ロシア: Звон! Погребальный звон!
  • 白痴はくちうたながれよ、ながれよ、にがなみだ!」(ロシア: Лейтесь, лейтесь, слёзы горькие!

他者たしゃによるはん[編集へんしゅう]

リムスキー=コルサコフばん[編集へんしゅう]

ムソルグスキーの同僚どうりょうであったリムスキー=コルサコフは、『ボリス・ゴドゥノフ』の作品さくひん価値かちみとめながらも、みずからの音楽おんがくせいわない部分ぶぶんたいしては批判ひはんてきであった。とくオーケストレーションについては、はやくから攻撃こうげきしており、1872ねん全曲ぜんきょく上演じょうえん先立さきだちポロネーズが抜粋ばっすい上演じょうえんされたさい、ムソルグスキーがフランスバロックジャン=バティスト・リュリ管弦楽かんげんがくほうならって弦楽器げんがっきばかりで編曲へんきょくおこなったこと[21]意味いみのない馬鹿ばかげたアイデアであるとキュイとともに批判ひはんしている。ムソルグスキーはこの批判ひはんこたえ、全曲ぜんきょく上演じょうえんまえ再度さいどポロネーズの管弦楽かんげんがく編曲へんきょくおこなっているのだが、そのはんもリムスキー=コルサコフには物足ものたりないものであった[22]

ボリスをえんじるシャリアピン(アレクサンドル・ゴロヴィン 1912ねん

1889ねん、リムスキー=コルサコフは、サンクトペテルブルクでカール・ムック指揮しきする『ニーベルングのゆびたまき』にせっし、ワーグナー管弦楽かんげんがくほうおおいに感銘かんめいけた。そして、ワーグナーりゅう管弦楽かんげんがくほう研究けんきゅうにつけると、その成果せいかを『ボリス・ゴドゥノフ』のポロネーズの演奏えんそうかいよう編曲へんきょくというかたち発表はっぴょうした。つづいて1892ねん戴冠たいかんしき編曲へんきょくおこない、以後いご断続だんぞくてき作業さぎょうつづけ、1896ねん全曲ぜんきょく編曲へんきょく作業さぎょうえている[23]。このリムスキー=コルサコフによる改訂かいていばんは、同年どうねんベッセリしゃから出版しゅっぱんされサンクトペテルブルク音楽おんがくいん上演じょうえんされた。楽譜がくふ出版しゅっぱんさいしてリムスキー=コルサコフは序文じょぶんせており、そのなかかれは、『ボリス・ゴドゥノフ』は、現実げんじつ無視むしした演奏えんそう困難こんなんさ、支離滅裂しりめつれつフレーズ、ぎこちないメロディ耳障みみざわりな和声わせい転調てんちょう間違まちがった対位法たいいほう稚拙ちせつなオーケストレーションなどのため、上演じょうえんされなくなったとべ、「ムソルグスキーの存命ぞんめいちゅう、オペラがあまりのもながいという理由りゆうで、いくつもの重要じゅうよう場面ばめん省略しょうりゃくされて上演じょうえんされた。だが今回こんかい編曲へんきょく省略しょうりゃくされた部分ぶぶん多少たしょう復活ふっかつさせた」としている。序文じょぶん非難ひなんしたように、リムスキー=コルサコフの改訂かいてい管弦楽かんげんがくほう改訂かいていのみにまらず、リムスキー=コルサコフがおかしいとかんじたフレーズ、メロディ、和声わせい転調てんちょうといった部分ぶぶんにまでおよんでいる。さら序文じょぶん言葉ことばとは裏腹うらはらに、リムスキー=コルサコフ自身じしん重要じゅうようではないと判断はんだんした6つの箇所かしょ削除さくじょ[24]演奏えんそう効果こうかをあげるため、随所ずいしょ自身じしんによるあらたな楽想がくそうくわえている。そして、最終さいしゅうまく場面ばめん順序じゅんじょえ、「革命かくめい」ではなく「ボリスの」でえるように改変かいへんしている[25]

1906ねん、リムスキー=コルサコフは2度目どめ編曲へんきょくかる。この編曲へんきょくでは、前回ぜんかい編曲へんきょく削除さくじょされた6つの部分ぶぶんのオーケストレーションがなされるとともに、リムスキー=コルサコフがまだ万全ばんぜんではないとおもっていた戴冠たいかんしきくわえられ、ボリスのモノローグの前後ぜんごあらたに作曲さっきょくした楽節がくせつ挿入そうにゅうされている。この改訂かいていばん1908ねんにベッセリしゃから出版しゅっぱんされた。

リムスキー=コルサコフによる改訂かいていばん(1908年版ねんばん)は、1908ねんディアギレフによりパリ・オペラ上演じょうえんされた。ボリスをえんじたシャリアピン好演こうえん[26]もあり、この上演じょうえん非常ひじょう成功せいこうおさめ、『ボリス・ゴドゥノフ』に世界せかいてき知名度ちめいどあたえた。同時どうじにオペラの上演じょうえんさいしては、ムソルグスキーのオリジナルではなく、リムスキー=コルサコフばん通常つうじょうもちいるという、その世界せかいてきながつづいた習慣しゅうかんまれることになった。

ボリショイ劇場げきじょうばん[編集へんしゅう]

リムスキー=コルサコフの弟子でしであるイッポリトフ=イワノフは、1927ねんになって、けなかった場面ばめんであるせいワシリイだい聖堂せいどうたいしてリムスキー=コルサコフふう管弦楽かんげんがく編曲へんきょくおこなった。このはん同年どうねん1がつ18にちにボリショイ劇場げきじょうにおいてリムスキー=コルサコフばんしん演出えんしゅつとして上演じょうえんされた。以降いこう、ボリショイ劇場げきじょうにおいては、イッポリトフ=イワノフばんせいワシリイだい聖堂せいどうをリムスキー=コルサコフばんれて上演じょうえんだい4まくを3じょうから構成こうせいし、せいワシリイだい聖堂せいどう - 革命かくめい - ボリスのじゅん上演じょうえん)するのが通例つうれいとなっている。ただし、たんに1場面ばめん追加ついかするのではなく、下記かきのような削除さくじょともなって上演じょうえんされる。

  • だい3まくのポーランドのは、だい1じょうすべ削除さくじょだい2じょう短縮たんしゅくしランゴーニのパートをすべ削除さくじょ。この結果けっか、ランゴーニやくうたわず、にせドミトリーとマリーナの二重唱にじゅうしょうわったのち姿すがただけをせる(あるいはまった登場とうじょうしない)ことになる。
  • 子供こどもたち白痴はくちっていた銅貨どうかげてしまう場面ばめんは、重複じゅうふくするため、せいワシリイだい聖堂せいどうえんじ、革命かくめいでは削除さくじょ

なお、オペラ全曲ぜんきょく録音ろくおん(セッション録音ろくおん)のさいは、だい3まく削除さくじょせずに録音ろくおんされるのが普通ふつうである。

ショスタコーヴィチばん[編集へんしゅう]

リムスキー=コルサコフの改訂かいていばんは、ディアギレフのパリ上演じょうえんのち、ロシアだけでなく西欧せいおう諸国しょこく上演じょうえんされ成功せいこうおさめていったが、一方いっぽうで、ムソルグスキーのオリジナルにもどるべきだ、というこえがった[27]原点げんてん回帰かいき賛同さんどうする人々ひとびとは、公開こうかい講座こうざひらくとともに、楽譜がくふ復刻ふっこく出版しゅっぱん尽力じんりょくした。1874ねん出版しゅっぱんヴォーカルスコアの復刻ふっこくがなされるとともに、刊行かんこうであったせいワシリイだい聖堂せいどうはじめて出版しゅっぱんされた。ソヴィエト連邦れんぽう音楽おんがく学者がくしゃであるパーヴェル・ラムは、ムソルグスキーののこした2つのはん調査ちょうさし、1928ねんにムソルグスキーが削除さくじょしたすべての部分ぶぶん復活ふっかつさせた楽譜がくふ出版しゅっぱんした。

1939ねんにボリショイ劇場げきじょうは、ドミートリイ・ショスタコーヴィチたいして、『ボリス・ゴドゥノフ』のさいオーケストレーションを依頼いらいした。ショスタコーヴィチは、ラムにより出版しゅっぱんされたピアノもちいて、かれかんじたムソルグスキーのオーケストレーションの不備ふびただすことにつとめ、よく1940ねん作業さぎょう完了かんりょうした。しかし、だい祖国そこく戦争せんそう勃発ぼっぱつのため上演じょうえんはならず、1959ねんになってようやくキーロフ歌劇かげきじょう上演じょうえんされた。ショスタコーヴィチばんはその本来ほんらい依頼いらいもとであるボリショイ劇場げきじょうではかえりみられることなく、ソ連それん時代じだいのキーロフ歌劇かげきじょう使つかわれるにとどまった。

そのはん[編集へんしゅう]

おも録音ろくおん映像えいぞう[編集へんしゅう]

おも録音ろくおん[編集へんしゅう]

指揮しきしゃ 管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ボリスやく 録音ろくおんねん レーベル 備考びこう
ゴロワノフ ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん レイゼン 1948 メロディア
Aquarius
1908ねんリムスキー=コルサコフばん
大幅おおはばなカットあり
ゴロワノフ ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ピロゴフ 1949 メロディア 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
ドブローウェン フランス国立こくりつ放送ほうそう管弦楽かんげんがくだん クリストフ 1952 EMI 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
バラノヴィッチ ベオグラード国立こくりつ歌劇かげきじょう管弦楽かんげんがくだん チャンガロヴィッチ 1954 デッカ 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
クリュイタンス パリ音楽おんがくいん管弦楽かんげんがくだん クリストフ 1962 EMI 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
メリク=パシャーエフ ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ペトロフ 1962 メロディア 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
メリク=パシャーエフ ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ロンドン 1963 ソニー 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
カラヤン ウィーン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん
ウィーン少年しょうねん合唱がっしょうだん
ギャウロフ 1970 デッカ 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
セムコフ ポーランド国立こくりつ放送ほうそう管弦楽かんげんがくだん タルヴェラ 1976 EMI 1872ねん改訂かいていばん
フェドセーエフ モスクワ放送ほうそう交響こうきょう楽団がくだん ヴェデルニコフ 1983 フィリップス 1872ねん改訂かいていばん
エルムレル ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ネステレンコ 1985 メロディア 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
キタエンコ DR放送ほうそう交響こうきょう楽団がくだん ハウグランド 1986 Kontrapunkt 1872ねん改訂かいていばん
チャカロフ ソフィア音楽おんがくさい管弦楽かんげんがくだん ギャウロフ 1986 ソニー 1872ねん改訂かいていばん
ロストロポーヴィチ ワシントン・ナショナル交響こうきょう楽団がくだん ライモンディ 1987 エラート 1872ねん改訂かいていばん
アバド ベルリン・フィルハーモニー管弦楽かんげんがくだん
ベルリン放送ほうそう合唱がっしょうだん、テルツ少年しょうねん合唱がっしょうだん
コチェルガ 1993 ソニー 1872ねん改訂かいていばん
ゲルギエフ キーロフ歌劇かげきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん プチーリン 1997 フィリップス 1869ねん原典げんてんばん
ゲルギエフ キーロフ歌劇かげきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ヴァネーエフ 1997 フィリップス 1872ねん改訂かいていばん

おも映像えいぞう[編集へんしゅう]

演出えんしゅつ 指揮しきしゃ 管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ボリスやく 収録しゅうろくねん 備考びこう
ネボルシン ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ピロゴフ 1954 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
ハイキン ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ネステレンコ 1978 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
モロゾワ ラザレフ ボリショイ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ネステレンコ 1987 1908ねんリムスキー=コルサコフばん
タルコフスキー ゲルギエフ キーロフ劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん合唱がっしょうだん ロイド 1990 1872ねん改訂かいていばん
デッカー ヴァイグル バルセロナ・リセウだい劇場げきじょう管弦楽かんげんがくだん サルミネン 2004 1869ねん原典げんてんばん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 『アイルランドのハン』は計画けいかくのみで草稿そうこう紛失ふんしつ、『サランボー』は断片だんぺんのみが現存げんそんしている。この計画けいかくのみにわったオペラは複数ふくすう存在そんざいする(詳細しょうさいムソルグスキーの楽曲がっきょく一覧いちらん参照さんしょう)
  2. ^ 合唱がっしょうなしの管弦楽かんげんがくきょくとして演奏えんそうされた。 - チャンパイ p.222
  3. ^ 同時どうじに『ローエングリン』と『だん射手しゃしゅ』の抜粋ばっすい上演じょうえんされた。 - チャンパイ p.225
  4. ^ 厳密げんみつえば1872ねんばんと1874年版ねんばんにもこまかなはある。 桑野くわの p.17
  5. ^ 最終さいしゅうてきおも指揮しきしゃ奏者そうしゃからなる7めいによる投票とうひょうおこなわれ、賛成さんせい1、反対はんたい6の結果けっかにより採用さいようとなった。唯一ゆいいつ賛成さんせいひょうはナープラヴニークによるものだった。 - チャンパイ p.219
  6. ^ リュドミラ・シェスタコーワの記録きろく - チャンパイ p.220
  7. ^ にせドミトリーとマリーナの登場とうじょうするあい場面ばめんは、原典げんてんばん作曲さっきょくさいすでげられていたが、最終さいしゅうてき放棄ほうきされた。 - 田辺たなべ p.84
  8. ^ 革命かくめい」で終了しゅうりょうするというアイディアはニコルスキーにより提案ていあんされた。 - チャンパイ p.224
  9. ^ C.エマーソン&R.W.オルダーニ『モデスト・ムソルグスキーと「ボリス・ゴドゥノフ」』(1994ねん) - 田辺たなべ p.89
  10. ^ 一柳いちりゅう富美子とみこ提唱ていしょうしている。
  11. ^ オウム、時計とけいともボリス・ゴドゥノフの治世ちせいころ、ロシアにはいってきた。
  12. ^ ツァーリは、ウスペンスキーだい聖堂せいどう戴冠たいかんしきおこなったのち代々だいだいのツァーリがまつられているアルハンゲルスキーだい聖堂せいどううつり、祝福しゅくふくける。 - 桑野くわの p.55-59
  13. ^ 有名ゆうめい民謡みんよう「スラヴァ(光栄こうえいあれ、ロシア: Слава)」のメロディにもとづく。ベートーヴェン弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい8ばん、リムスキー=コルサコフのオペラ『皇帝こうてい花嫁はなよめ』チャイコフスキーのオペラ『マゼッパ』などにも使つかわれている。
  14. ^ 年代ねんだい編纂へんさんはイヴァンかみなりみかど時代じだいには禁止きんしれいされており、ボリスの時代じだいつづ厳重げんじゅうかんされていた。ピーメンが深夜しんや年代ねんだいつづるのも、いのちがけの行為こういでありその行為こういからもピーメンがはんボリスであることがわかる。 - 桑野くわの p.126
  15. ^ にせドミトリーの最期さいごは、反乱はんらんぐんからげようとしてまどからりてあし骨折こっせつしたところを射殺しゃさつされる、というものであった。
  16. ^ シャインの収集しゅうしゅうした「ロシア歌謡かようしゅう」からきょく借用しゃくよう
  17. ^ ムソルグスキーの依頼いらいによりスターソフが「だいロシア歴史れきし歌謡かようしゅう」からさがしてきた。 - 桑野くわの p.192
  18. ^ ふる婚礼こんれいかねるノヴゴロド」をもとにしている。
  19. ^ 1874ねん全曲ぜんきょく初演しょえんときから、モスクワのノヴォデヴィチ修道院しゅうどういん登場とうじょうした警吏ニキーティチとおよそ300キロメートルはなれたリトアニア国境こっきょうの警吏をどういち歌手かしゅえんじるという慣例かんれいつづいている。 - チャンパイ p.229-230
  20. ^ マリーナは、にせドミトリーが殺害さつがいされたのち一時いちじ投獄とうごくされるが助命じょめいされポーランドに帰国きこくした。そのだい2のドミトリー結婚けっこんかれむ。だい2のドミトリーも殺害さつがいされると、コサックアタマンであるザルツキーにり、息子むすこをツァーリにしようとくわだてるが失敗しっぱいし、最後さいご獄死ごくしした。
  21. ^ ルイ14せい宮廷きゅうてい管弦楽かんげんがくだんおうの24ほんのヴァイオリン」をしたのだとわれる。 - チャンパイ p.252
  22. ^ ただし、ムソルグスキーのオーケストレーションは抜粋ばっすい上演じょうえんではラローシから激賞げきしょうされており、全曲ぜんきょく初演しょえんさい批評ひひょうから好意こういてきめられていた。
  23. ^ 編曲へんきょく作業さぎょうもちいたオーケストラの規模きぼ標準ひょうじゅんサイズのものであったため、ワーグナー・サイズのオーケストラで編曲へんきょくされたポロネーズは再度さいど編曲へんきょくなおされている。
  24. ^ 序文じょぶん強調きょうちょうした復活ふっかつさせた場面ばめんとは、政治せいじてき理由りゆう省略しょうりゃくされるようになった「革命かくめい」のことをさすとおもわれる。なお、1896年版ねんばんのサンクトペテルブルク音楽おんがくいんでの初演しょえんも「革命かくめい」は政治せいじてき配慮はいりょにより削除さくじょされた。
  25. ^ 最終さいしゅうまく場面ばめんえの理由りゆうをリムスキー=コルサコフは説明せつめいしていない。
  26. ^ ロシア国内こくないでは、1898ねんサーヴァ・マモントフモスクワ私立しりつ歌劇かげきだんでボリスをえんじて成功せいこうおさめている。
  27. ^ 1874ねん全曲ぜんきょく初演しょえんさい悪意あくいある批評ひひょうおこないムソルグスキーをかなしませたキュイも原点げんてん回帰かいき提唱ていしょうした。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]