セルゲイ・イワノフ 作 さく 『動乱 どうらん 時代 じだい 』(19世紀 せいき 末 まつ )
動乱 どうらん 時代 じだい (どうらんじだい、ロシア語 ご : Смутное время, Smutnoye vremya )、大 だい 動乱 どうらん (だいどうらん)またはスムータ (ロシア語 ご : Сму́та, Smuta )は、ロシアの歴史 れきし で、1598年 ねん のリューリク朝 あさ フョードル1世 せい の死去 しきょ から1613年 ねん のロマノフ朝 あさ 創設 そうせつ までの時代 じだい を指 さ す。
1601年 ねん から1603年 ねん にかけて、ロシアは、当時 とうじ の人口 じんこう の3分 ぶん の1に相当 そうとう する200万 まん 人 にん が死 し ぬというロシア大 だい 飢饉 ききん (英語 えいご 版 ばん ) に見舞 みま われた。また、1610年 ねん から1613年 ねん にかけてはツァーリ不在 ふざい の空位 くうい 時期 じき に陥 おちい った。さらに1605年 ねん から1618年 ねん にかけてのロシア・ポーランド戦争 せんそう で、ロシアはポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に占領 せんりょう され、民衆 みんしゅう の蜂起 ほうき が起 お こり、皇位 こうい 簒奪 さんだつ 者 しゃ 、皇位 こうい 僭称 せんしょう 者 しゃ が次々 つぎつぎ 現 あらわ れた。
ボリス・ゴドゥノフ
1598年 ねん 、フョードル1世 せい が没 ぼっ してリューリク朝 あさ が断絶 だんぜつ したため、後継 こうけい 者 しゃ 問題 もんだい が発生 はっせい した。このとき、フョードルの義兄 ぎけい にして側近 そっきん であり、既 すで に精神 せいしん を病 や んでいたフョードルに代 か わり摂政 せっしょう として統治 とうち にあたっていたタタール 系 けい の「大 だい 貴族 きぞく 」ボリス・ゴドゥノフ が、当時 とうじ の身分 みぶん 制 せい 議会 ぎかい であるゼムスキー・ソボル(全国 ぜんこく 会議 かいぎ ) によって後継 こうけい 者 しゃ に選 えら ばれた。リューリク朝 あさ の血 ち をひかないゴドゥノフの短 みじか い在位 ざいい 期間 きかん (1598年 ねん - 1605年 ねん )には、病弱 びょうじゃく なフョードルの治世 ちせい よりも、さらに統治 とうち が困難 こんなん に陥 おちい った。
この頃 ころ 、南米 なんべい のワイナプチナ 火山 かざん が大 だい 噴火 ふんか し、その噴煙 ふんえん が大気圏 たいきけん 上層 じょうそう に達 たっ することで世界 せかい 的 てき な異常 いじょう 気象 きしょう を引 ひ き起 お こしていた。ロシアでは1601年 ねん から1603年 ねん にロシア大 だい 飢饉 ききん (英語 えいご 版 ばん ) として知 し られる極端 きょくたん な凶作 きょうさく となり、夏 なつ でも夜 よる の気温 きおん が氷点下 ひょうてんか に達 たっ し、作物 さくもつ を全滅 ぜんめつ させた[1] 。飢餓 きが は広 ひろ がり、やがて大 だい 飢饉 ききん となった。政府 せいふ は金銭 きんせん や食糧 しょくりょう をモスクワ の貧民 ひんみん に配給 はいきゅう したが、結局 けっきょく それは難民 なんみん の首都 しゅと への流入 りゅうにゅう を招 まね き、経済 けいざい 的 てき 混乱 こんらん を加速 かそく させることになった。 寡頭制 せい の一角 いっかく を率 ひき いていたロマノフ家 か は、これ以上 いじょう 大 だい 貴族 きぞく に従 したが うことは恥辱 ちじょく であると考 かんが えた。陰謀 いんぼう が横行 おうこう し、地方 ちほう は飢饉 ききん とペスト によって荒廃 こうはい していった。武装 ぶそう した無法者 むほうもの の大 だい 集団 しゅうだん が国 くに 中 ちゅう で跋扈 ばっこ し、あらゆる残虐 ざんぎゃく 行為 こうい が行 おこな われた。前線 ぜんせん に立 た つドン・コサック軍 ぐん は休 やす むことなく動員 どういん され、政府 せいふ は秩序 ちつじょ 維持 いじ 不能 ふのう を露呈 ろてい していた。
やがて、ゴドゥノフの擁立 ようりつ に反対 はんたい した有力 ゆうりょく な貴族 きぞく たちの影響 えいきょう 下 か で、ゴドゥノフを皇位 こうい 簒奪 さんだつ 者 しゃ として敵視 てきし する不満 ふまん の声 こえ が上 あ がり始 はじ めると、先帝 せんてい の弟 おとうと で本来 ほんらい の皇位 こうい 継承 けいしょう 者 しゃ であり、既 すで に死 し んだはずのドミトリー が、実 じつ は生 い きていて身 み を潜 ひそ めている、という噂 うわさ が広 ひろ まるようになった。
殺害 さつがい されるフョードル2世 せい と母 はは マリヤ
1603年 ねん 、偽 にせ ドミトリー1世 せい 、つまり一連 いちれん のドミトリー僭称 せんしょう 者 しゃ の最初 さいしょ の人物 じんぶつ が、自分 じぶん こそがロシア皇帝 こうてい 位 い の正当 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ であるとしてポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に現 あらわ れた。ドミトリー は、兄 あに である先帝 せんてい がまだ亡 な くなる前 まえ に刃物 はもの による不審 ふしん 死 し を遂 と げており、それはゴドゥノフの差 さ し金 がね による暗殺 あんさつ だと思 おも われていた。
しかし、ドミトリーに成 な り済 す ました謎 なぞ の人物 じんぶつ が現 あらわ れると、多 おお くの人々 ひとびと が彼 かれ を皇帝 こうてい 位 い の正当 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ と見 み なすようになった。偽 にせ ドミトリーは、ロシア国内 こくない でも、また、国外 こくがい でも特 とく にポーランドや教皇 きょうこう 領 りょう では支持 しじ を集 あつ めた。ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の諸 しょ 勢力 せいりょく は、彼 かれ をロシアへの影響 えいきょう 力 りょく を拡大 かくだい する道具 どうぐ とするか、少 すく なくとも、彼 かれ を支持 しじ することで何 なん らかの見返 みかえ りを得 え ようとしていた。教皇 きょうこう は、東方 とうほう 正教会 せいきょうかい のロシアに対 たい して、ローマ・カトリック の勢力 せいりょく を拡大 かくだい する機会 きかい と考 かんが えていた。
同年 どうねん 、数ヶ月 すうかげつ 後 ご 、ポーランド勢 ぜい は4000人 にん という小 しょう 兵力 へいりょく で国境 こっきょう を越 こ えた。軍勢 ぐんぜい には、ポーランド人 じん 、リトアニア人 じん 、ロシア人 じん 亡命 ぼうめい 者 しゃ 、ドイツ人 じん 傭兵 ようへい に加 くわ え、ドニエプル川 がわ やドン川 がわ 流域 りゅういき のコサック が加 くわ わっていたが、これは、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく のロシアへの介入 かいにゅう 、一連 いちれん の偽 にせ ドミトリーをめぐる戦乱 せんらん のはじまりであった。この時点 じてん でポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく は、国王 こくおう ジグムント3世 せい が介入 かいにゅう に反対 はんたい していたこともあり、ロシアに正式 せいしき な宣戦 せんせん 布告 ふこく はしていなかったが、一部 いちぶ の有力 ゆうりょく 貴族 きぞく (マグナート )が偽 にせ ドミトリーを支持 しじ し、後々 あとあと の見返 みかえ りを期待 きたい して兵力 へいりょく や資金 しきん を提供 ていきょう していた。偽 にせ ドミトリーはポーランド貴族 きぞく の女性 じょせい マリナ・ムニシュフヴナ と代理 だいり 結婚式 けっこんしき (花婿 はなむこ の代理人 だいりにん を立 た て、花婿 はなむこ 不在 ふざい のクラクフ で挙式 きょしき された)を行 おこな った。
1605年 ねん にボリス・ゴドゥノフ が亡 な くなると、モスクワ への入城 にゅうじょう に成功 せいこう した。ボリスの息子 むすこ でツァーリとなっていたフョードル2世 せい は、偽 にせ ドミトリーのモスクワ入城 にゅうじょう 時 じ に母 はは とともに殺害 さつがい された。一人 ひとり 残 のこ されたフョードル2世 せい の姉 あね クセニヤ は、数ヶ月 すうかげつ 間 あいだ 偽 にせ ドミトリーに慰 なぐさ み物 もの にされたあげく、その花嫁 はなよめ マリナ・ムニシュフヴナ がモスクワ入 い りする直前 ちょくぜん 、修道院 しゅうどういん に入 い れられた。
ヴァシーリー4世 せい
偽 にせ ドミトリーの治世 ちせい は短 みじか かった。1年 ねん も経 た たないうちに、リューリク朝 あさ の血 ち を引 ひ く公 おおやけ (クニャージ )のひとりであった野心 やしん 家 か のヴァシーリー・シュイスキー が陰謀 いんぼう を企 くわだ てた。シュイスキーの手勢 てぜい は、クレムリン での結婚式 けっこんしき の直後 ちょくご に偽 にせ ドミトリー1世 せい を殺害 さつがい し、その支持 しじ 者 しゃ も多数 たすう 虐殺 ぎゃくさつ した[2] 。 シュイスキーとその手勢 てぜい は、このときおよそ2000人 にん のポーランド人 じん を殺害 さつがい したと考 かんが えられている。この虐殺 ぎゃくさつ に対 たい する、ポーランドの反発 はんぱつ は強 つよ かったが、政府 せいふ は事件 じけん の責任 せきにん 者 しゃ への報復 ほうふく を先 さき 延 の ばしにすることを決 き めた[3] 。
実権 じっけん を掌握 しょうあく したシュイスキーはリューリク の男系 だんけい 子孫 しそん であることを理由 りゆう に、自分 じぶん の支持 しじ 者 しゃ を集 あつ めた議会 ぎかい で皇帝 こうてい に選出 せんしゅつ され、ヴァシーリー4世 せい となった。だが、この政変 せいへん には、ロシアの大 だい 貴族 きぞく 、共和 きょうわ 国 こく のマグナート、コサック、ドイツ人 じん 傭兵 ようへい のいずれもが不満 ふまん をもった。
程 ほど なくして新 あら たな僭称 せんしょう 者 しゃ である偽 にせ ドミトリー2世 せい が現 あらわ れ、イヴァン雷 かみなり 帝 みかど の息子 むすこ にして正当 せいとう な継承 けいしょう 者 しゃ は自分 じぶん であると主張 しゅちょう した。先行 せんこう した偽 にせ ドミトリーと同 おな じように、この僭称 せんしょう 者 しゃ もポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく のマグナートたちから保護 ほご と支持 しじ を得 え ていた。これに対抗 たいこう してシュイスキーがスウェーデンと同盟 どうめい を結 むす び、ヤコブ・デ・ ラ・ガルディ (英語 えいご 版 ばん ) が率 ひき いるスウェーデン軍 ぐん がロシア国内 こくない に介入 かいにゅう した(デ・ラ・ガーディエ戦役 せんえき )。ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく 国王 こくおう ジグムント3世 せい は、ロシアとスウェーデンの同盟 どうめい 関係 かんけい を危機 きき と見 み て、ロシアへの介入 かいにゅう を決意 けつい し、ロシア・ポーランド戦争 せんそう を始 はじ めた。
老齢 ろうれい のヴァシーリーを支 ささ えたのは若 わか き甥 おい のミハイル・スコピン=シュイスキー である。ミハイルは有能 ゆうのう な将軍 しょうぐん であり、偽 にせ ピョートル やイヴァン・ボロトニコフ (ロシア語 ご 版 ばん 、英語 えいご 版 ばん ) による反乱 はんらん が起 お こった際 さい にその鎮圧 ちんあつ などで多大 ただい な軍功 ぐんこう を挙 あ げた。このため、老齢 ろうれい で無力 むりょく なヴァシーリー4世 せい に代 か わって後継 こうけい 者 しゃ として国民 こくみん に望 のぞ まれたが、1610年 ねん 5月 がつ に24歳 さい で急死 きゅうし した。
ニジニ・ノヴゴロド の人々 ひとびと に、ポーランド人 じん に対 たい する義勇軍 ぎゆうぐん の決起 けっき を訴 うった えるミーニン(コンスタンチン・マコフスキー 作 さく 、1896年 ねん )。
ポーランド・リトアニア軍 ぐん は、ロシア国境 こっきょう を越 こ え、スモレンスク を包囲 ほうい し、20ヶ月 かげつ に及 およ ぶ攻 おさむ 城 しろ 戦 せん を展開 てんかい した(Siege of Smolensk (1609–1611) )。ロシア=スウェーデン連合 れんごう 軍 ぐん がクルシノの戦 たたか い に敗 やぶ れると、同年 どうねん 7月 がつ にヴァシーリー4世 せい は退位 たいい を余儀 よぎ なくされた。
その後 ご 、偽 にせ ドミトリー2世 せい が皇帝 こうてい の位 くらい に就 つ く前 まえ に、ポーランド軍 ぐん の司令 しれい 官 かん で、ヴォイヴォダ(領主 りょうしゅ ) 、マグナートでもあったスタニスワフ・ジュウキェフスキ は、国王 こくおう ジグムント3世 せい の長男 ちょうなん ヴワディスワフ のロシア皇帝 こうてい 擁立 ようりつ に動 うご いた。モスクワの一部 いちぶ の人々 ひとびと は、ロシア正教会 せいきょうかい の地位 ちい の維持 いじ と、一定 いってい の特権 とっけん の付与 ふよ を条件 じょうけん に、この構想 こうそう を支持 しじ した。そうした了解 りょうかい の上 うえ で、ポーランド軍 ぐん はモスクワに入城 にゅうじょう し、クレムリンを占拠 せんきょ した。
ポーランド王 おう はこの妥協 だきょう 策 さく に反対 はんたい し、自 みずか ら皇帝 こうてい となりロシアをローマ・カトリック に改宗 かいしゅう させようと決意 けつい する。これには反対 はんたい も多 おお く、王 おう の計画 けいかく はロシアにおける反 はん カトリック主義 しゅぎ と反 はん ポーランド感情 かんじょう を引 ひ き起 お こした。バルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん のイングリア 地方 ちほう で、やがてスウェーデン・ポーランド戦争 せんそう に展開 てんかい する実質 じっしつ 的 てき 戦争 せんそう 状態 じょうたい にあったスウェーデンも、ロシアに宣戦 せんせん 布告 ふこく し(イングリア戦争 せんそう )、新 あら たな偽 にせ ドミトリー をイングリアのイヴァンゴロド で擁立 ようりつ した。スウェーデン王子 おうじ であるカール・フィリップ (1611年 ねん に即位 そくい したスウェーデン王 おう グスタフ・アドルフ の弟 おとうと )もノヴゴロド 市民 しみん によってツァーリに擁立 ようりつ されたが、偽 にせ ドミトリーたちやポーランド王 おう 太子 たいし ヴワディスワフほどの対抗 たいこう 馬 ば にはなれなかった。
ロシアは国家 こっか 機能 きのう を喪失 そうしつ していた。皇帝 こうてい は空位 くうい となり、大 だい 貴族 きぞく は互 たが いに対立 たいりつ していた。ロシア正教会 せいきょうかい の総 そう 主教 しゅきょう ゲルモゲーン は投獄 とうごく され、カトリックであるポーランド軍 ぐん がクレムリンやスモレンスクを占領 せんりょう し、プロテスタント であるスウェーデン軍 ぐん がノヴゴロドを占領 せんりょう していた。タタール の侵略 しんりゃく が続 つづ いて、ロシアの南部 なんぶ 境界 きょうかい 地域 ちいき は無人 むじん 化 か し、荒廃 こうはい しており[4] 、無数 むすう の無法者 むほうもの の群 む れが全土 ぜんど で跋扈 ばっこ していた。一連 いちれん の戦争 せんそう や反乱 はんらん によって、何 なん 万 まん 人 にん もの人 ひと が死 し んだ。1611年 ねん 3月17日 にち から19日 にち にかけて、ポーランド軍 ぐん とドイツ人 じん 傭兵 ようへい はモスクワの反乱 はんらん を名目 めいもく に鎮圧 ちんあつ し、 住民 じゅうみん 7000人 にん を虐殺 ぎゃくさつ して町 まち に火 ひ を放 はな った[5] 。9月22日 にち にはポーランド・リトアニア軍 ぐん がヴォログダ の住民 じゅうみん と聖職 せいしょく 者 しゃ を皆殺 みなごろ しにした[5] 。
この他 ほか にも数 すう 多 おお くの都市 とし が破壊 はかい され、ロシアは更 さら に弱体 じゃくたい 化 か をした。
ミハイル・ロマノフの戴冠 たいかん 式 しき (イパチェフ修道院 しゅうどういん )
ロシアの民衆 みんしゅう は、ニジニ・ノヴゴロド の商人 しょうにん クジマ・ミーニン と、ドミトリー・ポジャルスキー 公 おおやけ に率 ひき いられて立 た ち上 あ がった。旧暦 きゅうれき 10月22日 にち [5] (新暦 しんれき 11月1日 にち )のモスクワの戦 たたか いの後 のち 、侵略 しんりゃく 者 しゃ 側 がわ はクレムリンに撤退 てったい し、旧暦 きゅうれき 10月24日 にち から27日 にち [6] (新暦 しんれき 11月3 - 6日 にち )には、近 ちか くにいたポーランド軍 ぐん も撤退 てったい を余儀 よぎ なくされ、クレムリンに残 のこ った軍勢 ぐんぜい はポジャルスキーに降伏 ごうぶく した。ロシアでは現在 げんざい でも、11月4日 にち を国民 こくみん 団結 だんけつ の日 ひ (英語 えいご 版 ばん 、ロシア語 ご 版 ばん ) として祝日 しゅくじつ としている。
1613年 ねん 2月 がつ 11日 にち (新暦 しんれき 2月 がつ 11日 にち )、ロマノフ家 か 出身 しゅっしん のロストフ 府 ふ 主教 しゅきょう フィラレート (後 ご のモスクワ総 そう 主教 しゅきょう )の息子 むすこ 、ミハイル・ロマノフ が、ゼムスキー・ソボル(全国 ぜんこく 会議 かいぎ ) によって皇帝 こうてい に選 えら ばれた。彼 かれ は結婚 けっこん を通 とお してリューリク朝 あさ に連 つら なっており、伝説 でんせつ によれば、勇敢 ゆうかん な農夫 のうふ イワン・スサーニン (英語 えいご 版 ばん ) によって敵 てき から救 すく われた人物 じんぶつ であった。権力 けんりょく を掌握 しょうあく した新 あたら しいツァーリは、偽 にせ ドミトリー2世 せい の3歳 さい の息子 むすこ を縛 しば り首 くび にし、獄中 ごくちゅう のマリナ・ムニシュフヴナ を窒息 ちっそく 死 し させた。
スウェーデンとのイングリア戦争 せんそう は、1617年 ねん のストルボヴァの和 わ 約 やく まで続 つづ いた。ロシア・ポーランド戦争 せんそう は、1619年 ねん のデウリノの和 わ 約 やく まで断続 だんぞく 的 てき に続 つづ いた。こうした条約 じょうやく によって平和 へいわ はもたらされたが、ロシアと接 せっ する両国 りょうこく に対 たい し、ロシアは領土 りょうど 面 めん の譲歩 じょうほ を強 し いられた。もっとも、その後 ご の歴史 れきし の中 なか で、ロシアはこの頃 ころ に失 うしな った領土 りょうど のほとんどを回復 かいふく した。最 もっと も重要 じゅうよう だったのは、危機 きき 的 てき な状況 じょうきょう を通 とお して、ロシア社会 しゃかい の諸 しょ 階級 かいきゅう がロマノフ朝 あさ のツァーリを中心 ちゅうしん に一致 いっち 団結 だんけつ し、強力 きょうりょく なロシア帝国 ていこく の基礎 きそ を築 きず いたということであった。
オペラ『イワン・スサーニン』で、主人公 しゅじんこう スサーニン を演 えん じるフョードル・シャリアピン 。
聖 せい ヴァシーリー大 だい 聖堂 せいどう 前 まえ のミーニンとポジャルスキーの像 ぞう (1804 ‐ 16年 ねん )
動乱 どうらん 時代 じだい は、ロシアの国内外 こくないがい を問 と わず、数 すう 多 おお くの後世 こうせい の芸術 げいじゅつ 家 か や劇 げき 作家 さっか たちにインスピレーションを与 あた えた。最 もっと も人気 にんき がある3つの主題 しゅだい は、ポジャルスキーとミーニンによるモスクワの解放 かいほう 、ボリス・ゴドゥノフと偽 にせ ドミトリーの抗 こう 争 そう 、ミハイル・ロマノフをポーランド軍 ぐん から助 たす けるために自身 じしん を犠牲 ぎせい にしたとされる農夫 のうふ イワン・スサーニン の物語 ものがたり である。
ロシアでもポーランドでも、動乱 どうらん 時代 じだい の出来事 できごと に題材 だいざい をとった絵画 かいが は無数 むすう に描 えが かれている。
歴史 れきし 書 しょ も多数 たすう 書 か かれており、2001年 ねん 、テキサスA&M大学 だいがく のロシア史 し の専門 せんもん 家 か チェスター・ダニング (英語 えいご 版 ばん ) は、700ページ近 ちか い『Russia's First Civil War: The Time of Troubles and the Founding of the Romanov Dynasty 』を出版 しゅっぱん した。調査 ちょうさ と執筆 しっぴつ に12年 ねん が費 つい やされたというこの大著 たいちょ は、Penn State University Press から出版 しゅっぱん され、Book of the Month Club が運営 うんえい するHistory Book Clubで取 と り上 あ げられた。ダニングは、近代 きんだい ロシアの起点 きてん を1613年 ねん のロマノフ朝 あさ の創始 そうし に置 お くことを主張 しゅちょう している。ダニングは、動乱 どうらん 時代 じだい のことを広 ひろ く調査 ちょうさ し、それがロマノフ朝 あさ の基礎 きそ となったことを論 ろん じている[7] 。
^ Borisenkov E, Pasetski V. The thousand-year annals of the extreme meteorological phenomena . ISBN 5-244-00212-0 , p. 190.
^ John Stevens Cabot Abbott , The Empire of Russia ; "The murderers ransacked the palace, penetrating every room, killing every Polish man and treating the Polish ladies with the utmost brutality."「殺人 さつじん 者 しゃ たちは宮殿 きゅうでん 内 ない をくまなく探 さが しまわり、全 すべ ての部屋 へや に押 お し入 い り、ポーランド人 じん の男 おとこ を皆殺 みなごろ しにし、ポーランド人 じん の女 おんな たちに暴虐 ぼうぎゃく の極 きわ みを尽 つ くした。」
^ John Stevens Cabot Abbott , The Empire of Russia ; "The Poles were exasperated beyond measure at the massacre of so many of their nobles and at the insult offered to Mariana, the tzarina . But Poland was at that time distracted by civil strife, and the king found it expedient to postpone the hour of vengeance."「ポーランド人 じん たちは、自国 じこく の貴族 きぞく たち多数 たすう が虐殺 ぎゃくさつ され、マリアナが辱 はずかし められたことに対 たい して尋常 じんじょう ならず激怒 げきど した。しかし、当時 とうじ のポーランドは内訌 ないこう を抱 かか えており、国王 こくおう は、復讐 ふくしゅう の機会 きかい を先送 さきおく りにするのが賢明 けんめい であると判断 はんだん した。」
^ The Tatar Khanate of Crimea , allempires.net
^ a b c Sergey Solovyov , History of Russia from the Earliest Times , Vol. 8 .
^ Nikolay Kostomarov , Russian History in Biographies of its main figures , Chap. 30 .
^ Dunning, Chester S. L. (2001). Russia's first civil war: the Time of Troubles and the founding of the Romanov dynasty . Penn State Press. ISBN 0271020741
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