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ドミートリイ・ショスタコーヴィチ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
Дмитрий Дмитриевич Шостакович
1950ねん撮影さつえい
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ
Дмитрий Дмитриевич Шостакович
生誕せいたん 1906ねん9月25にち
ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく サンクトペテルブルク
死没しぼつ 1975ねん8がつ9にち(68さいぼつ
ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦れんぽう モスクワ
職業しょくぎょう 作曲さっきょく
B・クストーディエフさく 少年しょうねん時代じだいのショスタコーヴィチの肖像しょうぞう(1919ねんごろ
だいいち交響曲こうきょうきょく発表はっぴょう当時とうじのショスタコーヴィチ(1925ねん

ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチロシア: Дмитрий Дмитриевич Шостакович [ˈdmʲitrʲɪj ˈdmʲitrʲɪjɪvʲɪtɕ ʂəstɐˈkovʲɪtɕ] ( 音声おんせいファイル) ラテン文字もじ転写てんしゃれい: Dmitri Dmitriyevich Shostakovich, 1906ねん9月25にちロシアれき9月12にち) - 1975ねん8がつ9にち)は、ソビエト連邦れんぽう時代じだい作曲さっきょく交響曲こうきょうきょく弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく有名ゆうめいである。

シベリウスプロコフィエフともに、マーラー以降いこう最大さいだい交響曲こうきょうきょく作曲さっきょくとしての評価ひょうかがほぼ確立かくりつされ、世界せかいてきにもとく交響こうきょうきょく大家たいか認知にんちされている。また、弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくにおいても秀逸しゅういつきょくのこし、芸術げいじゅつ音楽おんがくにおける20世紀せいき最大さいだい作曲さっきょく一人ひとりである。ショスタコーヴィチの音楽おんがくにはくらおも雰囲気ふんいきのものがおおいが、その一方いっぽうポピュラー音楽おんがくあいし、ジャズふう軽妙けいみょう作品さくひんすくなからずのこしている。

当初とうしょ体制たいせい迎合げいごうしたソ連それんプロパガンダ作曲さっきょくというイメージでかたられていたが、『ショスタコーヴィチの証言しょうげん[1]出版しゅっぱんされて以後いご、ショスタコーヴィチには皮肉ひにくはん体制たいせい、「みずからがもとめる音楽おんがく体制たいせいもとめる音楽おんがくとの乖離かいり葛藤かっとうした悲劇ひげき作曲さっきょく」というイメージもくわわった。

生涯しょうがい

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略歴りゃくれき

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1974ねん当時とうじ一番いちばんみぎ人物じんぶつ
  • 1906ねん 9月25にちロシア帝国ていこく首都しゅとサンクトペテルブルクまれる。
  • 1915ねん はる両親りょうしんれられてはじめて劇場げきじょうおとずれ、オペラ(リムスキー=コルサコフの《サルタンおう物語ものがたり》)をる。なつには母親ははおやからはじめてのピアノのレッスンをける。あき、シドルフスカヤ商業しょうぎょう学校がっこう入学にゅうがく作曲さっきょくはじめる。
  • 1916ねん グリャッセール音楽おんがく学校がっこう入学にゅうがく
  • 1917ねん 2がつだいいち世界せかい大戦たいせん敗戦はいせん濃厚のうこうとなるなかこったロシア革命かくめい2がつ革命かくめい (1917ねん))を経験けいけん。その最中さいちゅうに、街路がいろじょうどう年配ねんぱい少年しょうねん警官けいかん殺害さつがいされるのを眼前がんぜんる。同月どうげつ、グリャッセールへかよ興味きょうみうしなう。
  • 1918ねん あき、ローザノヴァにピアノを師事しじ。(1917ねんとも)
  • 1919ねん だい108労働ろうどう学校がっこう閉鎖へいさ。ユストニナこう転校てんこうあきサンクトペテルブルク音楽おんがくいん入学にゅうがくグラズノフ師事しじする。
  • 1921ねん ユストニナこう中退ちゅうたい
  • 1922ねん ちち死去しきょ
  • 1923ねん 音楽おんがくいんのピアノ修了しゅうりょう夏休なつやすみを利用りようした結核けっかく療養りょうようのためにおとずれたクリミアで、はつのピアノ・リサイタルをひらく。
  • 1924ねん ヨシフ・スターリンソビエト連邦れんぽう最高さいこう指導しどうしゃとなり、スターリンのイデオロギー(スターリニズム)がその作曲さっきょく活動かつどうおおきな影響えいきょうあたえることとなる。11月、映画えいがかん「スヴェトラーヤ・フィリム」でピアノ伴奏ばんそうのアルバイトをはじめる。
  • 1925ねん 作曲さっきょく修了しゅうりょうにともない、音楽おんがくいん卒業そつぎょう修了しゅうりょう制作せいさくとして交響こうきょうきょくだい1ばん作曲さっきょく
  • 1926ねん 5月16にち交響こうきょうきょくだい1ばん初演しょえんあき音楽おんがくいん大学院だいがくいん課程かてい進学しんがく
  • 1927ねん 1がつだい1かいショパン国際こくさいピアノコンクール出場しゅつじょう
  • 1928ねん メイエルホリド劇場げきじょう音楽おんがく部長ぶちょうとして1がつから3がつまでつとめる。
  • 1930ねん バレエ『黄金おうごん時代じだい』を作曲さっきょく
  • 1931ねん バレエ『ボルト』を作曲さっきょく。『黄金おうごん時代じだい』と『ボルト』はりょうきょくともレニングラードで初演しょえん失敗しっぱいしたものの、ショスタコーヴィチの音楽おんがく好評こうひょうであった。
  • 1932ねん 科学かがくしゃニーナ・ヴァルザルと結婚けっこん婚約こんやく記念きねんとしてはじめられた歌劇かげきムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』を彼女かのじょ献呈けんてい。8月、作曲さっきょく同盟どうめいレニングラード支部しぶ運営うんえい委員いいん選出せんしゅつ
  • 1933ねん 軽音楽けいおんがくかんするレニングラード委員いいんかい委員いいんになる。ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい1ばん初演しょえん
  • 1934ねん スターリンによるだい粛清しゅくせいれる情勢じょうせいにあって、レニングラードアクチャーブリ議会ぎかい議員ぎいん選出せんしゅつされる。同年どうねんは、だい17かいとう大会たいかいの1,966にん代議員だいぎいんちゅう、1,108にん逮捕たいほされ、その大半たいはん銃殺じゅうさつけいとなったとし。1930年代ねんだいだい粛清しゅくせい議員ぎいんのみならず一般いっぱん市民しみんにまでおよび、強制きょうせい収容しゅうようしょおくりや即決そっけつ裁判さいばんによる死刑しけい横行おうこうし、ショスタコーヴィチの作曲さっきょく活動かつどうにもくらかげとす。
  • 1936ねん 歌劇かげき『ムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』(1がつ)とバレエ『あかるい小川おがわ』(2がつ)にたいするプラウダ批判ひはん。5月30にち長女ちょうじょガリーナ生誕せいたん
  • 1937ねん はる一説いっせつには1がつ)、レニングラード音楽おんがくいん講師こうしとして勤務きんむのち教授きょうじゅ)。交響こうきょうきょくだい5ばん作曲さっきょく初演しょえん(11月21にち)。この作品さくひん成功せいこうにより名誉めいよ回復かいふく
  • 1938ねん 5がつ10日とおか長男ちょうなんマクシム生誕せいたん
  • 1939ねん ムソルグスキー生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねんさい準備じゅんび委員いいんかい委員いいんちょうとなる。音楽おんがくいん教授きょうじゅ就任しゅうにん
  • 1940ねん 5月、労働ろうどう赤旗あかはた勲章くんしょう受章じゅしょうピアノ重奏じゅうそうきょくスターリンしょう受賞じゅしょう
  • 1941ねん 交響こうきょうきょくだい7ばん作曲さっきょく翌年よくねん初演しょえん成功せいこうおさめ、同年どうねんアメリカでも演奏えんそうされた。レニングラード音楽おんがくいん教授きょうじゅ辞任じにん
  • 1942ねん 1がつ交響こうきょうきょくだい7ばんがスターリンしょうだい1せき受賞じゅしょうロシア共和きょうわこく功労こうろう芸術げいじゅつ称号しょうごう授与じゅよ
  • 1943ねん 3月、モスクワ音楽おんがくいん教授きょうじゅ就任しゅうにん国歌こっかコンクールに参加さんか
  • 1946ねん ピアノさん重奏じゅうそうきょくだい2ばんがスターリンしょうだい2せき受賞じゅしょう。12月、レーニン勲章くんしょう受章じゅしょう
  • 1947ねん 2がつ、レニングラード音楽おんがくいん教授きょうじゅ復職ふくしょく同月どうげつ作曲さっきょく同盟どうめいレニングラード支部しぶ支部しぶちょう選出せんしゅつ。10月、ロシア共和きょうわこく人民じんみん芸術げいじゅつ称号しょうごう授与じゅよ。ロシア共和きょうわこく最高さいこう議会ぎかい代議員だいぎいん選出せんしゅつ
  • 1948ねん社会しゃかい主義しゅぎリアリズム路線ろせんはんするとして、アラム・ハチャトゥリアンセルゲイ・プロコフィエフとも国家こっかによるジダーノフ批判ひはん対象たいしょうとなる。9月、レニングラード音楽おんがくいん、モスクワ音楽おんがくいんともに教授きょうじゅしょく解任かいにん
  • 1948ねん 3月、世界せかい平和へいわ文化ぶんか科学かがく会議かいぎ出席しゅっせきのため渡米とべい(ニューヨーク)。
  • 1949ねん オラトリオ「もりうた作曲さっきょく初演しょえん
  • 1950ねんもりうた」がスターリンしょうだい1せき受賞じゅしょう。10月、ソヴィエト平和へいわ擁護ようご委員いいんかい委員いいんとなる。11月、世界せかい平和へいわ会議かいぎ出席しゅっせきのためワルシャワり。
  • 1952ねん革命かくめい詩人しじんによる10のきょく」がスターリンしょうだい2せき受賞じゅしょう。12月、世界せかい平和へいわ会議かいぎ出席しゅっせきのためウィーンへ。
  • 1953ねん 交響こうきょうきょくだい10ばん作曲さっきょく初演しょえん(12月17にち)。6月、文化ぶんか代表だいひょうだん一員いちいんとしてオーストリア派遣はけんされる。
  • 1954ねん 交響こうきょうきょくだい10ばんかんする討議とうぎかい(いわゆるだい10論争ろんそう)が作曲さっきょく同盟どうめいひらかれる。8月、ソ連それん人民じんみん芸術げいじゅつ称号しょうごう授与じゅよ。9月、国際こくさい平和へいわしょう受賞じゅしょう。12月、つまニーナ死去しきょ同月どうげつスウェーデン王立おうりつ音楽おんがくアカデミー名誉めいよ会員かいいん選出せんしゅつされる。
  • 1955ねん ひがしドイツ芸術げいじゅつアカデミーじゅん会員かいいん選出せんしゅつされる。11月、ははソーフィヤ死去しきょ
  • 1956ねん 1がつ、サンタ・チェチーリア芸術げいじゅつアカデミーの名誉めいよ会員かいいん選出せんしゅつされる。9月、レーニン勲章くんしょう受章じゅしょう
  • 1957ねん はるひらかれただい2かい作曲さっきょく同盟どうめい大会たいかいにおいて作曲さっきょく同盟どうめいはつ委員いいんちょうとなる。交響こうきょうきょくだい11ばんがレーニンしょう受賞じゅしょう
  • 1958ねん オックスフォおっくすふぉド大学どだいがくより名誉めいよ博士はかせ学位がくい授与じゅよ、イギリス王立おうりつ音楽おんがくアカデミー会員かいいん選出せんしゅつ国際こくさいシベリウス記念きねんしょう受賞じゅしょう。9月、右手みぎて麻痺まひのち脊椎せきついせい小児しょうに麻痺まひであることが判明はんめい)で入院にゅういん
  • 1959ねん 9月、べい国務省こくむしょう主催しゅさいによる文化ぶんか交流こうりゅうプログラムでワシントンで開催かいさいされたソヴィエトさいに、ソヴィエト代表だいひょうだん一員いちいんとして派遣はけんされる。メキシコ音楽おんがくいん名誉めいよ教授きょうじゅ称号しょうごうける。
  • 1960ねん 2がつふたた右手みぎて治療ちりょうのため入院にゅういん。10月、息子むすこマクシムの結婚式けっこんしき転倒てんとう右足みぎあし骨折こっせつ入院にゅういん作曲さっきょく同盟どうめいだい1書記しょき任命にんめい
  • 1961ねん 9月、ソビエト共産党きょうさんとういんとなる。12月、入党にゅうとうえにレニングラード音楽おんがくいん大学院だいがくいんでの教育きょういく活動かつどう復帰ふっきする。交響こうきょうきょくだい4ばん初演しょえん(12月30にち)。
  • 1962ねん 交響こうきょうきょくだい13ばん作曲さっきょく初演しょえん。ソヴィエト連邦れんぽう最高さいこう会議かいぎ代議員だいぎいん選出せんしゅつされる。だい2かいチャイコフスキー国際こくさいコンクール組織そしき委員いいんかい委員いいんちょう任命にんめいされる。6月、右手みぎて治療ちりょうのためさん入院にゅういんつき、イリーナ・スピーンスカヤと再婚さいこん。11月、ゴーリキーおこなわれたコンサートで「祝典しゅくてん序曲じょきょく」を指揮しき
  • 1963ねん ユネスコ国際こくさい音楽おんがく評議ひょうぎかい名誉めいよ会員かいいん選出せんしゅつ
  • 1964ねん バシキール自治じち共和きょうわこく人民じんみん芸術げいじゅつ称号しょうごうける。
  • 1965ねん 心臓しんぞうびょう悪化あっか入院にゅういん。ソヴィエト芸術げいじゅつがく名誉めいよ博士はかせ学位がくい授与じゅよ
  • 1966ねん 5月、生誕せいたん60周年しゅうねん記念きねん演奏えんそうかい出演しゅつえん心筋梗塞しんきんこうそくこし入院にゅういんだい3かいチャイコフスキー国際こくさいコンクールの組織そしき委員いいんかい委員いいんちょう任命にんめいされる。8月、イギリス・ロイヤル・フィルハーモニック協会きょうかい金賞きんしょう受賞じゅしょう。10月、レーニン勲章くんしょう受章じゅしょう社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどう英雄えいゆう称号しょうごう授与じゅよ
  • 1967ねん 3月、オーストリア共和きょうわこく名誉めいよぎん記章きしょう授与じゅよ。9月、右足みぎあし骨折こっせつ入院にゅういん
  • 1968ねん 5月、シャルル・クロ記念きねんフランス・レコード協会きょうかい1とうしょう受賞じゅしょう。ロシア共和きょうわこく作曲さっきょく同盟どうめい理事りじ選出せんしゅつ。《ステパン・ラージンの処刑しょけい》がグリンカしょう受賞じゅしょう世界せかい平和へいわ擁護ようご委員いいんかい委員いいん選出せんしゅつ
  • 1969ねん 交響こうきょうきょくだい14ばん作曲さっきょく初演しょえん。ウィーン・モーツァルト協会きょうかいがモーツァルト記念きねんメダルを授与じゅよ
  • 1970ねん クルガンのサナトリウムで8がつまで療養りょうよう生活せいかつおくる。ベートーヴェン生誕せいたん200ねんさいのソヴィエト連邦れんぽう実行じっこう委員いいんかい委員いいんちょう就任しゅうにん。8月、治療ちりょうのためさい入院にゅういん。11月、《ソヴィエトみん警の行進こうしん》がソヴィエト文学ぶんがく芸術げいじゅつコンクール1とうしょう受賞じゅしょう。フィンランド作曲さっきょく協会きょうかい名誉めいよ会員かいいん任命にんめい
  • 1971ねん 3月、だい24かい共産党きょうさんとう大会たいかい代議員だいぎいんつとめる。9月、2かい心筋梗塞しんきんこうそく入院にゅういん。10月革命かくめい勲章くんしょう受章じゅしょう
  • 1972ねん 5月、ひがしドイツ友好ゆうこうほし金賞きんしょう受賞じゅしょう。7月、せいトリニティー大学だいがくより名誉めいよ音楽おんがく博士はかせ学位がくい授与じゅよされる。スクリャービン生誕せいたん100周年しゅうねんさい実行じっこう委員いいんかい委員いいんちょう選出せんしゅつ
  • 1973ねん デンマーク・ゾンニング基金ききん名誉めいよしょう受賞じゅしょう。6月、ノース・ウェスタン大学だいがくより芸術げいじゅつ名誉めいよ博士はかせ学位がくい授与じゅよ。8月、サハロフ非難ひなん書簡しょかん署名しょめいあねマリア死去しきょ。ラフマニノフ生誕せいたん100周年しゅうねんさい実行じっこう委員いいんかい委員いいんちょう選出せんしゅつ
  • 1974ねん 男声だんせい合唱がっしょうきょく忠誠ちゅうせい》、弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい14ばんがグリンカしょう受賞じゅしょうソ連邦それんぽう最高さいこう会議かいぎ民族みんぞくソヴィエト〈国民こくみん教育きょういく科学かがく文化ぶんか委員いいんかい委員いいんちょうつとめる。
  • 1975ねん 4がつ、フランス芸術げいじゅつアカデミーの名誉めいよ会員かいいんとなる。最後さいご作品さくひんヴィオラソナタ作品さくひん147」完成かんせい。7月、からだ不調ふちょううった入院にゅういん。8月4にちさい入院にゅういんのち、8がつ9にちソ連それん首都しゅとモスクワ病院びょういんにてはいがんで逝去せいきょ。8月14にち、ノヴォジェヴィチ墓地ぼち埋葬まいそうされる。

1906ねんにショスタコーヴィチはペトログラードで誕生たんじょうした。ちちはドミートリイ・ボレスラヴォヴィチ・ショスタコーヴィチではははソフィア・ショスタコーヴィチであった[2]両親りょうしん音楽おんがくきなこともあり、ドミトリイはちいさいころから声楽せいがくやピアノなどをき、また1915ねんにはははれられてリムスキー・コルサコフのオペラ「皇帝こうていサルタンの物語ものがたり」を観劇かんげきするなど、音楽おんがくせっする時間じかんめぐまれた幼少ようしょうごした[3]。やがてははのすすめでピアノを演奏えんそうするようになるとまたたくあいだ上達じょうたつし、ハイドンの交響こうきょうきょく緩徐かんじょ楽章がくしょうやショパンなどを演奏えんそうするようになった[4]

その、ドミトリイは私立しりつのシドロフスカヤ商業しょうぎょう学校がっこうかよい、ロシア革命かくめい影響えいきょう同校どうこう国有こくゆうされ1919ねん廃校はいこうになると、ペトログラードのグリャスセル音楽おんがく学校がっこう転校てんこうし、アレクサンドラ・ローザノヴァにピアノと作曲さっきょく師事しじした[5]音楽おんがくいんへの入試にゅうし対策たいさくにあたって両親りょうしんはドミトリイの作曲さっきょく実力じつりょく指揮しきしゃのアレクサンドル・ジロティに酷評こくひょうされたことがきっかけとなりアレクサンドル・グラズノフにドミトリイをわせた[6]。このときドミトリイの作品さくひんいたグラズノフは「モーツァルトてき才能さいのう」と評価ひょうかした[6]

1919ねんペテルブルク音楽おんがくいんのちにペトログラード音楽おんがくいん、レニングラード音楽おんがくいん)に入学にゅうがく専攻せんこう作曲さっきょくとピアノで、ピアノをレオニード・ニコラーエフに、また作曲さっきょくマクシミリアン・シテインベルク師事しじした[7][8]1925ねんに、どう音楽おんがくいん作曲さっきょく卒業そつぎょう作品さくひんとして作曲さっきょくした交響こうきょうきょくだい1ばんにおいて国際こくさいてき注目ちゅうもくされた[9]

1920年代ねんだい後半こうはんからはオペラ「はな」や「タヒチ・トロット」などを制作せいさくしたがだいいちカ年かねん計画けいかく成立せいりつとプロレタリア音楽家おんがくか協会きょうかい台頭たいとうともない、ネップ流行りゅうこうした軽音楽けいおんがくやジャズなどの音楽おんがくが「ブルジョアてきである」として弾圧だんあつされていくと、ショスタコーヴィチのこれらの作品さくひん批判ひはんにさらされた[10]。またこのころよりショスタコーヴィチは映画えいが音楽おんがく制作せいさくにもたずさわり「しんバビロン英語えいごばん」や「おんなひとり英語えいごばん」、「マクシム」さんさくなどの音楽おんがく発表はっぴょうした[11]。その演劇えんげきのための作品さくひん南京虫なんきんむし」や「射撃しゃげき」、バレエ「黄金おうごん時代じだい」、「ボルト」など舞台ぶたい作品さくひん中心ちゅうしん作品さくひん発表はっぴょうした[12]

1930年代ねんだいにはベルク歌劇かげきヴォツェック」から影響えいきょうけた歌劇かげきムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん」とバレエ「あかるい小川おがわ」を制作せいさく一躍いちやくだい成功せいこうおさめた[13]。その、ピアニストとしての復帰ふっき念頭ねんとうに「24の前奏ぜんそうきょく」やピアノ協奏曲きょうそうきょくだい1ばんなどを発表はっぴょうした[14]

1936ねんにソヴィエト共産党きょうさんとう機関きかんプラウダ』で批判ひはんプラウダ批判ひはん)をけ、自己じこ批判ひはん余儀よぎなくされる[15]。この時期じきソ連それんではスターリンによるだい粛清しゅくせいれており、粛清しゅくせい危機ききから批判ひはんまえ作曲さっきょくし、オーケストラでリハーサルまでしていた交響こうきょうきょくだい4ばん初演しょえん撤回てっかいいられた[16]批判ひはん発表はっぴょうされた交響こうきょうきょくだい5ばん社会しゃかい主義しゅぎリアリズム踏襲とうしゅうした作品さくひんとして共産党きょうさんとうからのお墨付すみつきを[17]あらたに作曲さっきょくされた交響こうきょうきょくだい5ばん以降いこうは、それまでの作風さくふうから一転いってんし、政府せいふ自国じこく音楽おんがくもとめた「社会しゃかい主義しゅぎリアリズム」の路線ろせん沿作風さくふう作品さくひん発表はっぴょうつづけることとなる。

1937ねんにはレニングラード音楽おんがくいん作曲さっきょく講師こうしとして作曲さっきょく管弦楽かんげんがくほうなどの講座こうざった[18]。1938ねんには長男ちょうなんとなるマクシム誕生たんじょうした。

交響こうきょうきょくだい5ばんでの挽回ばんかい室内楽しつないがく中心ちゅうしんてき制作せいさくされた。なかでも、スターリンしょう受賞じゅしょうしたピアノ重奏じゅうそうきょくや、友人ゆうじん突然とつぜんいたんだピアノさん重奏じゅうそうきょくだい2ばん弦楽げんがくよん重奏じゅうそうだい1ばんなどがある。

1941ねんにはどくせんが、同年どうねん9がつからはレニングラード包囲ほういせんはじまり、渦中かちゅうのレニングラードにいる市民しみん鼓舞こぶするため交響こうきょうきょくだい7ばん「レニングラード」制作せいさくされ、だい成功せいこうおさめた[19]。こうしたたたかいへの勝利しょうりえがいた交響こうきょうきょくだい7ばんとは対照たいしょうてき交響こうきょうきょくだい8ばん戦争せんそう惨禍さんか犠牲ぎせいしゃしのおも深刻しんこく内容ないようとなっており、作品さくひん発表はっぴょう、すぐに当局とうきょくからの批判ひはん対象たいしょうとなりレパートリーからははずされた[20]つづ交響こうきょうきょくだい9ばんソ連それんのナチスへの勝利しょうり決定的けっていてきとなった1944ねんかれた作品さくひんで、戦争せんそう勝利しょうりいわ軽快けいかい内容ないよう作品さくひんであるが、ベートーヴェン交響こうきょうきょくだい9ばんのような壮大そうだい賛美さんびてき内容ないよう期待きたいした当局とうきょく期待きたい裏切うらぎ結果けっかとなり、発表はっぴょう、やはりだい8ばん同様どうようはげしい批判ひはんにさらされた[21]

1948ねん、ソビエトの作曲さっきょくのほとんどが「形式けいしき主義しゅぎしゃ」として共産党きょうさんとうにより批判ひはん(「ジダーノフ批判ひはん」とばれる。)されると、オラトリオ『もりうた』や映画えいが音楽おんがくベルリン陥落かんらく』、カンタータ『祖国そこく太陽たいようかがやく』など、あからさまに当局とうきょく迎合げいごうした共産党きょうさんとう賛美さんび作品さくひん多数たすうつくり、名誉めいよ回復かいふく[22]一方いっぽうヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくだい1ばん(1948ねん)や『ユダヤの民族みんぞくから』(1948ねん)、弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい4ばん(1949ねん)など、このころかれた作品さくひんのうち、なんきょくかは公表こうひょうひかえられ、おおくはスターリンののち発表はっぴょうされた。

1953ねんスターリンぬと、だい9ばん以降いこう、ジダーノフ批判ひはん以後いごかれていなかった交響こうきょうきょくだい10ばん)をやく8ねんぶりに発表はっぴょう[23]きょく内容ないようくらさと「社会しゃかい主義しゅぎリアリズム」との関係かんけいにおいて、だい論争ろんそう(いわゆるだい10論争ろんそう)をこし、国外こくがいでもおおきく報道ほうどうされた。

よく1954ねんつまのニーナががん他界たかいした[24]元々もともと夫婦ふうふあいだ関係かんけいんでおり、ショスタコーヴィチもおしであったガリーナ・ウストヴォリスカヤと交際こうさい関係かんけいっていたが、ニーナの死後しご、ガリーナとの再婚さいこんもうむも拒否きょひされた[25]。またそのよく1955ねんははのソフィアも他界たかいした[25]。その1ねんの1956ねんには突如とつじょコムソモール活動かつどうであるマルガリータ・カーイノヴァと結婚けっこんした[26]

このとしソ連それんではニキータ・フルシチョフあらたなそう書記しょきとして権力けんりょく就任しゅうにんし、前任ぜんにんのスターリン政権せいけんおこなわれただい粛清しゅくせい個人こじん崇拝すうはい批判ひはんするスターリン批判ひはんおこなわれた。そののいわゆる「雪解ゆきど」の時期じきには、演奏えんそう禁止きんしされていた作品さくひん名誉めいよ回復かいふく(『ムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』でさえ、中規模ちゅうきぼ程度ていど改訂かいていのち、1963ねん復活ふっかつ上演じょうえんされた)、交響こうきょうきょくだい4ばんヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくだい1ばんといった公表こうひょうひかえられていた作品さくひん発表はっぴょう、「社会しゃかい主義しゅぎリアリズム」の概念がいねんにとらわれない近代きんだいてき斬新ざんしん作風さくふう作品さくひん弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい7ばんや『サーシャ・チョールヌィの5つの』、映画えいが音楽おんがく『ハムレット』など)の発表はっぴょう相次あいついだ[27]

1960ねんにはフルシチョフによる圧力あつりょくから共産党きょうさんとうへの入党にゅうとう余儀よぎなくされた[28]。1962ねんにはかつてスキャンダルに発展はってんしたオペラ「ムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん」を改訂かいていし、だいまく暴力ぼうりょくてき描写びょうしゃ一部いちぶ表現ひょうげんをマイルドにさせた「カテリーナ・イズマイロヴァ」としてさい発表はっぴょうした[29]

1960年代ねんだいごろよりショスターヴィチは健康けんこうがいし、とく右手みぎて麻痺まひ深刻しんこくになっていった[30]。またこのころには作風さくふうもかつての前衛ぜんえいてき手法しゅほうへと回帰かいきし、12おと技法ぎほうやトーン・クラスターなどをショスタコーヴィチなりに解釈かいしゃくした『ブロークのによる7つの歌曲かきょく』や交響こうきょうきょくだい14ばんなどを制作せいさくした[31]

ショスタコーヴィチのさい晩年ばんねん代表だいひょうする作品さくひんには、ロッシーニ『ウィリアム・テル』序曲じょきょくや、ワーグナー楽劇がくげきワルキューレ』の運命うんめい動機どうきなど作曲さっきょく作品さくひん引用いんよう大胆だいたんおこない(自作じさく交響こうきょうきょくだい4ばん引用いんようもある)、自身じしん音楽おんがくてき回想かいそうとした交響こうきょうきょくだい15ばん(1972ねん)、すべての楽章がくしょうをアダージョとし、ベートーヴェンピアノソナタだい14ばん月光げっこうからの引用いんようもみられる弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい15ばん(1974ねん)、の1かげつまえ完成かんせいし、ショスタコーヴィチの「白鳥はくちょううた」ともばれる、作曲さっきょくしゃ自身じしんくことの出来できなかった遺作いさくヴィオラソナタ(1975ねん)などがある。

1975ねん、ショスタコーヴィチははいがんった[32]

作風さくふう

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ショスタコーヴィチの作品さくひんには、J.S.バッハフーガ、ベートーヴェンの後期こうき弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく、マーラーの交響曲こうきょうきょくベルク和声わせい語法ごほう引用いんようほうなどの影響えいきょうられ、オーケストレーションはあまり楽器がっき音色ねいろぜない原色げんしょく配置はいちである。原則げんそくとしてショスタコーヴィチの音楽おんがく調しらべせい音楽おんがく範囲はんいないにあるが、調しらべてき主題しゅだいもちいることもおおく、さい晩年ばんねんにはじゅうおと技法ぎほう自分じぶんなりに消化しょうかした独自どくじおとれつ技法ぎほうやトーンクラスターとう前衛ぜんえい技法ぎほうもちいたりしている。戦争せんそう生死せいしなどをテーマとしたおも作品さくひんおお一方いっぽう交響こうきょうきょくだい9ばんジャズ組曲くみきょくのような軽妙けいみょう作品さくひんおお作曲さっきょくしている。

一般いっぱん作風さくふう変化へんか境界きょうかいてんは、以下いか項目こうもくけられる。

初期しょき前衛ぜんえいてき作品さくひんぐん

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作品さくひん1 - 作品さくひん46(1919ねん - 1936ねん少年しょうねんから音楽おんがくいん入学にゅうがく以前いぜんきょく初期しょきのぞき、ショスタコーヴィチの作風さくふう前衛ぜんえいてき音楽おんがくから出発しゅっぱつしたといってよい。たとえば、交響こうきょうきょくだい1ばん冒頭ぼうとうではグラズノフ和声わせい変更へんこう指摘してきされていた。当時とうじソ連それん文化ぶんか状況じょうきょうは、社会しゃかい主義しゅぎリアリズム以前いぜんの、ロシア・アヴァンギャルドばれる前衛ぜんえいてき芸術げいじゅつさかんな時代じだいであり[33]、ショスタコーヴィチは当時とうじ現代げんだい音楽おんがく語法ごほう探求たんきゅうし、西洋せいようモダニズム作曲さっきょく影響えいきょうけていた。「前衛ぜんえいてき」ともっともはっきりとわかる初期しょき作品さくひんとしては、『弦楽げんがくはち重奏じゅうそうのための2つの小品しょうひん』(作品さくひん11)、ピアノソナタだい1ばん作品さくひん12)、『10の格言かくげんしゅう』(作品さくひん13)、そして交響こうきょうきょくだい2ばん作品さくひん14)がある[33][34]。しかし、『タヒチ・トロット』(作品さくひん16)や映画えいが音楽おんがくしんバビロン』(作品さくひん18)以降いこうは、ジャズやボードビル、キャバレー・ソングなど、軽音楽けいおんがく影響えいきょうけることとなる。この分野ぶんや傑作けっさくとしてはバレエ『黄金おうごん時代じだい』(作品さくひん22)、げき音楽おんがく条件じょうけんづけ死者ししゃ』(作品さくひん31)、ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい1ばん作品さくひん35)などがあるが、枚挙まいきょひまがない。交響こうきょうきょくだい4ばん作品さくひん43)のだい3楽章がくしょうなかあいだは、あきらかに軽音楽けいおんがく影響えいきょう濃厚のうこうである。ショスタコーヴィチの、しんウィーンらく影響えいきょうけたという意味いみでの「前衛ぜんえい音楽おんがく」としての最後さいご作品さくひんは、管弦楽かんげんがくのための『5つの断章だんしょう』(作品さくひん42)である。この作品さくひんは、交響こうきょうきょくだい4ばん同様どうよう発表はっぴょうひかえられ、初演しょえんおこなわれたのは1965ねんになってからである。ゴーゴリ短編たんぺん取材しゅざいしたオペラ『はな』(作品さくひん15)は、かれ自身じしん交流こうりゅうのあったメイエルホリドの斬新ざんしん舞台ぶたい演出えんしゅつ影響えいきょうけ、古典こてん形式けいしき基本きほんとしながらも、ベルククルシェネクどう時期じき作品さくひん参考さんこうにしたきわめて前衛ぜんえいてき作風さくふう発表はっぴょう当時とうじから賛否さんぴ両論りょうろんこす問題もんだいさくとなり、つぎさくのオペラ『ムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』(作品さくひん29)とともにかれ初期しょき作品さくひんのピークとなる。初期しょきはロシア音楽おんがく伝統でんとうぎながら最新さいしん音楽おんがくげるなど機智きち独創どくそうせいんだ作風さくふうであったが、『ムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』がスターリンいかりをい、おりからの粛清しゅくせい絶頂ぜっちょうにあることもかんがみ、前衛ぜんえいしょくうしなわれていった。

社会しゃかい主義しゅぎリアリズム

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作品さくひん47 - 作品さくひん92(1936ねん - 1953ねんだい4ばんのような前衛ぜんえいせいひかえた交響こうきょうきょくだい5ばん作品さくひん47)は初演しょえんに「社会しゃかい主義しゅぎリアリズムのもっとも高尚こうしょう理想りそうしめ好例こうれい」と評価ひょうかされた[35]。この時期じきのショスタコーヴィチが音楽おんがく担当たんとうした映画えいがは「社会しゃかい主義しゅぎリアリズム」にもとづいたテーマのものばかりで、ロシア革命かくめい主題しゅだいとしたものがおおい。たとえば、ノンポリの学生がくせい革命かくめい理念りねん目覚めざめ、社会しゃかい主義しゅぎてき成長せいちょうする姿すがたえがいた『マクシムさんさく』(『マクシムの青春せいしゅん時代じだい作品さくひん41、『マクシムの帰還きかん作品さくひん45、『ヴィヴォルグ地区ちく作品さくひん50)、ロシア革命かくめい英雄えいゆうチャパーエフの活躍かつやくえがいた『ヴォロチャーエフとりで日々ひび』、暗殺あんさつされたキーロフ髣髴ほうふつとさせる人物じんぶつ主人公しゅじんこうの『偉大いだい市民しみん』2さく作品さくひん52、55)、ロシア革命かくめいにおけるレーニンとスターリンの活躍かつやくえがいた『じゅうひと』(作品さくひん55)、ロシア革命かくめい赤軍せきぐんしろぐんとの内戦ないせんえがいた『わすれがたき1919ねん』(1952ねん作品さくひん89)である。だい世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつピアノ重奏じゅうそうきょく作品さくひん57)や交響こうきょうきょくだい8ばん作品さくひん65)、ピアノさん重奏じゅうそうきょくだい2ばん作品さくひん67)などこの路線ろせんからはなれた作品さくひんもいくつかのこしている。しかし、1948ねんに「ジダーノフ批判ひはん」がてからは、オラトリオ『もりうた』(作品さくひん81)や映画えいが音楽おんがくベルリン陥落かんらく』(作品さくひん82)、『革命かくめい詩人しじんによる10のきょく』そしてカンタータ『祖国そこく太陽たいようかがやく』など、ふたた意識いしきしたように「社会しゃかい主義しゅぎリアリズム」色濃いろこ作風さくふう作品さくひんのこしている。この時期じき作品さくひんとしては交響こうきょうきょくだい8ばんなどのほかに、歌劇かげき賭博とばく』や、ヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくだい1ばんなども、社会しゃかい主義しゅぎリアリズムの路線ろせんからははなれた作風さくふうであると評価ひょうかされることがおおい。

ユダヤ音楽おんがくへの傾倒けいとう

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ショスタコーヴィチの作曲さっきょくとしての「ユダヤの音楽おんがく」への関心かんしんあきらかな最初さいしょ作品さくひん ピアノさん重奏じゅうそうきょくだい2ばん (1944ねん)といわれていた[36][37]。もちろんショスタコーヴィチはユダヤじんではなかったが、マーラーへの興味きょうみをはじめとし、1936ねんには、プラウダ批判ひはんによって、自分じぶん悲運ひうんをユダヤじんのそれに沿って象徴しょうちょうするものとかんがえるようになった[38]。1937ねん交響こうきょうきょくだい5ばんだい3楽章がくしょうにはユダヤ音楽おんがく要素ようそあらわれ、それは交響こうきょうきょくだい3ばん(1929ねん)からのユダヤ教会きょうかいでの典礼てんれい詠唱えいしょう旋律せんりつ引用いんようでもある[38]。また交響こうきょうきょくだい7ばん(1941ねん)だい1楽章がくしょうのクライマックスなどにはクレズマー旋律せんりつ使つかわれている[39]音楽おんがくいん愛弟子まなでしでレニングラード攻防こうぼうせん戦死せんししたユダヤじん、ヴェニアミーン・フレーイシュマンの未完みかんのオペラ『ロスチャイルドのヴァイオリン』の補作ほさく(1944)をおこなったこともある。作品さくひんにユダヤ音楽おんがく主題しゅだい使つかわれているのは歌曲かきょくしゅう『ユダヤの民族みんぞくから』(1948ねん)、 ヴァイオリン協奏曲きょうそうきょくだい1ばん(1948ねん)、弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい4ばん(1949ねん)、24の前奏ぜんそうきょくとフーガ(1951ねん)、プーシキンのによる4つのモノローグ(1952ねん)である[40] ピアノ協奏曲きょうそうきょくだい2ばん(1957ねんだい2楽章がくしょう交響こうきょうきょくだい9ばん(1945ねん)フィナーレの後半こうはんには、ユダヤじんには「それ」としてハッキリかるかたちでユダヤ音楽おんがく引用いんようされているという。弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい8ばん(1960ねん)には、ピアノさん重奏じゅうそうきょくだい2ばん最終さいしゅう楽章がくしょうのユダヤ旋律せんりつ明瞭めいりょう引用いんようされている。その作品さくひんでは交響こうきょうきょくだい13ばん (1962ねん)、また 交響こうきょうきょくだい15ばん (1971ねん)最終さいしゅう楽章がくしょうでの交響こうきょうきょくだい7ばん引用いんようにユダヤ音楽おんがくのテーマを見出みだせる[41]。 ショスタコーヴィチのまわりには、たとえばしたしい友人ゆうじん作曲さっきょくミェチスワフ・ヴァインベルク俳優はいゆうソロモン・ミホエルスなどユダヤじんおおかったし、このほかオーケストラの団員だんいんにもユダヤけいおおかった。

スターリン死後しご

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DSCHのおとれつ ショスタコーヴィチ後期こうき作品さくひん頻繁ひんぱんもちいられた。

作品さくひん93 - (1953ねん - )1953ねん3がつ5にち、スターリンが死去しきょ独裁どくさいしゃは、ソビエトの社会しゃかい一時いちじ混乱こんらんをもたらした。1956ねんフルシチョフによっておこなわれた「スターリン批判ひはん」により、スターリンの独裁どくさい体制たいせい名実めいじつともにくずった。スターリンのわせたように、ショスタコーヴィチは、だい9ばん最後さいご中断ちゅうだんしていた交響曲こうきょうきょくはじめ、すぐに発表はっぴょうする。前衛ぜんえいてき作風さくふうではないものの、終始しゅうし音楽おんがく悲劇ひげきてきおもさがきまとう音楽おんがくで、自身じしんのイニシャルをドイツおんめいにした「DSCH」のおとれつ頻出ひんしゅつする、自伝じでんてき作品さくひんである。この作品さくひん以降いこう、ショスタコーヴィチのきょくには「DSCH」のおとれつ頻繁ひんぱん使つかわれるようになる。1950年代ねんだいわりちかくになると、ソヴィエトの社会しゃかい主義しゅぎ体制たいせい次第しだい軟化なんかしはじめ、アメリカとも協調きょうちょう姿勢しせいをとるようになってゆく。「ゆきどけ」といわれるこの時期じき、ショスタコーヴィチが発表はっぴょうひかえていた交響こうきょうきょくだい4ばんなどの作品さくひんすうじゅうねんぶりに「初演しょえん」された。戦前せんぜん、ショスタコーヴィチが個人こじん批判ひはんされる元凶げんきょうとなった歌劇かげき『ムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』はそのままのかたちでの上演じょうえん絶望ぜつぼうてきだったものの、ある程度ていど改訂かいていされた『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品さくひん114)はさい上演じょうえんゆるされる状態じょうたいにまでなった。しかし、交響こうきょうきょくだい13ばん歌詞かし問題もんだい表面ひょうめんしたころ、キューバへのミサイル配備はいび計画けいかくがアメリカに非難ひなんされたのをきっかけに「ゆきどけ」体制たいせい解体かいたいされ、冷戦れいせん時代じだい突入とつにゅうする。

ゆきどけ」

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ロストロポーヴィチ(ひだり)とリヒテル(みぎ)にかこまれて(1968)

ブレジネフ時代じだいになり、国内こくないではけがつよまるが、ショスタコーヴィチ自身じしん生活せいかつ安定あんてい数々かずかず栄誉えいよつつまれるなど、音楽おんがく活動かつどうつづける環境かんきょうはスターリン時代じだいくら格段かくだんめぐまれていた。相変あいかわらず体制たいせい迎合げいごうした作品さくひんもあるが、作風さくふう芸術げいじゅつせいたかまり、なな楽章がくしょう弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい11ばん(1966ねん)・マーラーの『大地だいちうた』の影響えいきょうけた声楽せいがくつきの交響こうきょうきょくだい14ばん(1969ねん)。ゆたかなひびきと緊張きんちょうかんただよ映画えいが音楽おんがく『リアおう』(1970ねん)などの意欲いよくさく相次あいついで発表はっぴょうした。とくに『ブロークのによるななつの歌曲かきょく』(1967ねん)と弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい12ばん(1968ねん)においてはじゅうおと技法ぎほう挑戦ちょうせんするなど、その研究けんきゅうしんおとろえなかった。

さい晩年ばんねんになると、作風さくふう哲学てつがくふうまされた独特どくとく透明とうめいかん支配しはいてきとなる。交響こうきょうきょくだい15ばん(1971ねん)、弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい14ばん(1973ねん)・弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい15ばん(1974ねん)では過去かこ作品さくひんからの引用いんよう顕著けんちょになるが、そこにはすでに健康けんこうおとろえをかんじ、意識いしきした作曲さっきょくしゃおもいがかくれする。それは政治せいじ翻弄ほんろうされた波瀾万丈はらんばんじょう人生じんせいかえり、達観たっかんしたかのようなかんける。また「ミケランジェロのによる組曲くみきょく」(1974ねん)では、自身じしん芸術げいじゅつ総括そうかつをルネサンスの芸術げいじゅつたとえたものとして評価ひょうかされている。

作品さくひん

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ショスタコーヴィチの創作そうさく中心ちゅうしんは、交響曲こうきょうきょく弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくにあった。これらのなかでもとく有名ゆうめいなのが、交響こうきょうきょくだい5ばんだい7ばんだい10ばん弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょくだい8ばんである。また歌劇かげきムツェンスクぐんのマクベス夫人ふじん』 は古今ここんのオペラの傑作けっさくひとつとされる。

交響曲こうきょうきょく

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弦楽げんがくよん重奏じゅうそうきょく

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管弦楽かんげんがくきょく吹奏楽すいそうがくきょく

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協奏曲きょうそうきょく

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室内楽しつないがくきょく

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オペレッタ

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合唱がっしょうきょく

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声楽せいがくきょく

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  • 日本にっぽん詩人しじんによる6つのうた 作品さくひん21(1928ねん) オーケストラ伴奏ばんそうばんあり
  • プーシキンのによる4つのロマンス 作品さくひん46 オーケストラ伴奏ばんそうばんあり
  • 歌曲かきょくしゅう「ユダヤの民族みんぞくより」 作品さくひん79 オーケストラ伴奏ばんそうばんあり
  • レールモントフのによる2つのロマンス 作品さくひん84
  • エフゲニー・ドルマトーフスキーのによる4つの歌曲かきょく 作品さくひん86
  • プーシキンのによる4つのモノローグ 作品さくひん91
  • エフゲニー・ドルマトーフスキーのによる5つのロマンス 作品さくひん98
  • スペインのうた 作品さくひん100(1956ねん
  • 風刺ふうし 作品さくひん109(1960ねん
  • 自作じさく全集ぜんしゅうへの序文じょぶんとその序文じょぶんについてのみじか考察こうさつ 作品さくひん123
  • アレクサンドル・ブロークのによる7つの歌曲かきょく 作品さくひん127
  • マリーナ・ツヴェタエワのによる6つの歌曲かきょく 作品さくひん143 オーケストラ伴奏ばんそうばんあり
  • ミケランジェロのによる組曲くみきょく 作品さくひん145 オーケストラ伴奏ばんそうばんあり

バレエ音楽おんがく

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映画えいが音楽おんがく

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げき付随ふずい音楽おんがく

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ぜん10作品さくひん

ピアノきょく

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編曲へんきょく作品さくひん

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編曲へんきょくでありながら自身じしん作品さくひんとして作品さくひん番号ばんごうあたえているものもある。

  • ドメニコ・スカルラッティの2つの小品しょうひん 作品さくひん17
  • ムソルグスキー 歌劇かげき「ボリス・ゴドゥノフ」の管弦楽かんげんがく編曲へんきょく 作品さくひん58
  • ムソルグスキー 歌劇かげき「ホヴァーンシチナ」の管弦楽かんげんがく編曲へんきょく 作品さくひん106
  • ムソルグスキー 歌曲かきょくしゅううたおどり」の管弦楽かんげんがく編曲へんきょく
  • A.ダヴィデンゴの2つの合唱がっしょうきょく管弦楽かんげんがく編曲へんきょく 作品さくひん124
  • ロベルト・シューマン チェロ協奏曲きょうそうきょく短調たんちょう編曲へんきょく 作品さくひん125
  • ストラヴィンスキー 詩篇しへん交響こうきょうきょくの4ピアノよう編曲へんきょく
  • リムスキー・コルサコフ わたしはほらあなきみっていたの管弦楽かんげんがく編曲へんきょく
  • チシチェンコ チェロ協奏曲きょうそうきょくだい1ばんさいオーケストレーション
  • ヨハン・シュトラウス2せい 「ウィーン気質きしつ」の編曲へんきょく
  • ヨハン・シュトラウス2せい観光かんこう列車れっしゃ」の編曲へんきょく
  • オネゲル 交響こうきょうきょくだい3ばん 典礼てんれいふうの4ピアノよう編曲へんきょく
  • ベートーヴェン のみうた管弦楽かんげんがく伴奏ばんそうよう編曲へんきょく
  • ベートーヴェン ピアノソナタだい8ばん 悲愴ひそうだい2楽章がくしょう管弦楽かんげんがく編曲へんきょく
  • ベートーヴェン ピアノソナタだい32ばんだい1楽章がくしょう管弦楽かんげんがく編曲へんきょく
  • マーラー 交響こうきょうきょくだい10ばんの4ピアノよう編曲へんきょく
  • シューベルト 軍隊ぐんたい行進曲こうしんきょく管弦楽かんげんがく編曲へんきょく
  • ロシア民謡みんようヴォルガの舟歌ふなうた」のオーケストレーション

自作じさく編曲へんきょく

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  • 歌劇かげきはな」のピアノ編曲へんきょく
  • 交響こうきょうきょくだい3ばんのピアノと声楽せいがくよう編曲へんきょく
  • バレエ「あかるい小川おがわ」よりモデラート
  • 主題しゅだい変奏へんそう 作品さくひん3のピアノよう編曲へんきょく
  • 交響こうきょうきょくだい4ばんの2だいピアノよう編曲へんきょく
  • 交響こうきょうきょくだい10ばんの2だいピアノよう編曲へんきょく

その作品さくひん

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  • 兵士へいし(1917ねんごろ
  • もりなかにて
  • 自由じゆう讃歌さんか
  • ソヴィエト讃歌さんか
  • 国歌こっか(ソヴィエト連邦れんぽう
  • 赤軍せきぐんうたアラム・ハチャトゥリアンとのともさく
  • ポルカ
  • 4つのワルツ
  • 平和へいわとり
  • 儀式ぎしきよう行進曲こうしんきょく
  • 2つのマズルカ
  • 祖国そこく栄光えいこううた

創作そうさくジャンルは宗教しゅうきょう音楽おんがく以外いがいのほぼすべてにわたる。労働ろうどう1917ねんから1944ねんあいだソヴィエト連邦れんぽう国歌こっかでもあった『インターナショナル』の管弦楽かんげんがく編曲へんきょくもある。

著作ちょさく

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本人ほんにん著書ちょしょしょうされているものが、日本にっぽんでは2さつ出版しゅっぱんされている。ソロモン・ヴォルコフによる『ショスタコーヴィチの証言しょうげん』(水野みずの忠夫ただおやく 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1980ねん)と、レフ・グリゴーリエフとヤーコフ・プラデークのによる『ショスタコーヴィチ自伝じでん――時代じだい自身じしんかたる』(ラドガ出版しゅっぱんしゃやく ラドガ出版しゅっぱんしゃ発売はつばいナウカ〕、1983ねん)である。前者ぜんしゃは、はじめは1979ねんにアメリカ、ドイツで出版しゅっぱんされたもので、ショスタコーヴィチの評価ひょうかをめぐって論議ろんぎこした。発表はっぴょうされた当初とうしょからソビエト作曲さっきょく同盟どうめいなどのほかローレル・フェイのような西側にしがわ音楽おんがく学者がくしゃからも偽書ぎしょであるうたがいがげかけられ真贋しんがんについては議論ぎろんがあった[1]詳細しょうさいは「ショスタコーヴィチの証言しょうげん」を参照さんしょう

後者こうしゃは1980ねんソ連それん刊行かんこうされた。「自伝じでん」とあるが、正確せいかくには、ショスタコーヴィチが生前せいぜんにさまざまな媒体ばいたい発表はっぴょうした文章ぶんしょうなどを年代ねんだいじゅんにまとめたものである。ヴォルコフやマクシム・ショスタコーヴィチは、「実際じっさいには、別人べつじんいていたのだ」と主張しゅちょうしている。すべての記事きじはソビエト体制たいせいでは公式こうしき見解けんかいとして発表はっぴょうされたものである。

ショスタコーヴィチはさまざまな人物じんぶつ頻繁ひんぱん手紙てがみをやりとりしており、すうさつ出版しゅっぱんされている。邦訳ほうやくしょは2006ねん現在げんざい存在そんざいしない。とりわけ有名ゆうめいなのは、音楽おんがく学者がくしゃイサーク・グリークマンとおこなわれた書簡しょかんしゅうである。1993ねんにロシアで出版しゅっぱんされたもので、英訳えいやくされている (Story of a Friendship, trans. by Anthony Phillips, London: Faver/Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 2001.)。

2006ねん9がつ25にち、ショスタコーヴィチ生誕せいたん100周年しゅうねん記念きねんし、ショスタコーヴィチと公私こうしども親友しんゆうだったイワン・ソレルチンスキーとの往復おうふく書簡しょかん出版しゅっぱんされている。これは、イワンの息子むすこであり音楽おんがく学者がくしゃのドミトリーが編纂へんさんした書籍しょせき。ショスタコーヴィチとソレルチンスキーがった1927ねんから、ソレルチンスキーが急逝きゅうせいした1942ねんまでにやりとりされた、現存げんそんするほぼすべての書簡しょかん掲載けいさいされている。

なお子息しそく2にん(ガリーナとマクシム)による、おおくの写真しゃしんまじえた回想かいそう証言しょうげん『わがちちショスタコーヴィチ』(田中たなか泰子やすこわけ音楽之友社おんがくのともしゃ、2003ねん)が出版しゅっぱんされている。

その

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小惑星しょうわくせい(2669) Shostakovichはショスタコーヴィチにちなんで命名めいめいされた[42]

だいサッカーきで、地元じもとのサッカークラブのスコアをメモちょうしるすなどの熱狂ねっきょうてきサッカーファンだった。サッカーの審判しんぱん資格しかくっていた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b 音楽おんがく学者がくしゃ千葉ちばじゅんは、発表はっぴょう以来いらいつづいた『ショスタコーヴィチの証言しょうげん』の真贋しんがん論争ろんそう現在げんざいでは偽書ぎしょでほぼ決着けっちゃくしているとの見解けんかいしめしている。(千葉ちばじゅん 『ショスタコーヴィチ』 音楽之友社おんがくのともしゃ、2005ねん。181 - 182ぺーじISBN 4-276-22193-5。)
  2. ^ 千葉ちば 2005, p. 8.
  3. ^ 千葉ちば 2005, p. 12-13.
  4. ^ 千葉ちば 2005, p. 13-14.
  5. ^ 千葉ちば 2005, p. 14-15.
  6. ^ a b 千葉ちば 2005, p. 16.
  7. ^ 千葉ちば 2005, p. 19.
  8. ^ 千葉ちば 2005, p. 21.
  9. ^ 千葉ちば 2005, p. 34.
  10. ^ 千葉ちば 2005, p. 46-48.
  11. ^ 千葉ちば 2005, p. 51-52.
  12. ^ 千葉ちば 2005, p. 52-55.
  13. ^ 千葉ちば 2005, p. 57-60.
  14. ^ 千葉ちば 2005, p. 63.
  15. ^ 千葉ちば 2005, p. 66.
  16. ^ 千葉ちば 2005, p. 73-75.
  17. ^ 千葉ちば 2005, p. 78-79.
  18. ^ 千葉ちば 2005, p. 83.
  19. ^ 千葉ちば 2005, p. 91-94.
  20. ^ 千葉ちば 2005, p. 102-103.
  21. ^ 千葉ちば 2005, p. 106-109.
  22. ^ 千葉ちば 2005, p. 110-115.
  23. ^ 千葉ちば 2005, p. 125-128.
  24. ^ 千葉ちば 2005, p. 129.
  25. ^ a b 千葉ちば 2005, p. 130.
  26. ^ 千葉ちば 2005, p. 131.
  27. ^ 千葉ちば 2005, p. 132-137.
  28. ^ 千葉ちば 2005, p. 139-142.
  29. ^ 千葉ちば 2005, p. 147-152.
  30. ^ 千葉ちば 2005, p. 152.
  31. ^ 千葉ちば 2005, p. 155-157.
  32. ^ 千葉ちば 2005, p. 176.
  33. ^ a b Gregor Tassie (2022). The Three Apostles of Russian Music: The Soviet Avant-Garde. Lexington Books 
  34. ^ Sofia Moshevich (2015). Shostakovich's Music for Piano Solo: Interpretation and Performance. Indiana University Press. p. 16 
  35. ^ ローレル・フェイ 『ショスタコーヴィチ ある生涯しょうがい』 アルファベータ、2005ねん改訂かいてい新版しんぱん)、135ぺーじISBN 978-4-87198-534-5
  36. ^ イアン マクドナルド The new Shostakovich p73
  37. ^ エリザベス・ウイルソン『Shostakovich A LIFE Remembered』2006ねん、225ぺーじISBN 978-0-571-22050-2
  38. ^ a b ヨアヒム ブラン Double meaning of Jewish Element in Domitori Shostakovich1985 p68~80
  39. ^ ティモシー ジャクソン、Ho, Allan B. and Feofanov, (ed.): Shostakovich Reconsidered. Toccata Press 1998.251. ISBN 0-907689-56-6 p618
  40. ^ エリザベス・ウイルソン『Shostakovich A LIFE Remembered』2006ねん、267ぺーじISBN 978-0-571-22050-2
  41. ^ ヨアヒム ブラン Double meaning of Jewish Element in Domitori Shostakovich1985 p78
  42. ^ (2669) Shostakovich = 1976 YQ2 = 1980 RW”. MPC. 2021ねん9がつ30にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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