ロシア革命かくめい

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ロシア革命かくめい
場所ばしょロシア
結果けっか

ボリシェヴィキの勝利しょうり。ソビエト連邦れんぽう成立せいりつ

ロシア革命かくめい(ロシアかくめい、: Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤえい: Russian Revolution)とは、1917ねんロシア帝国ていこくきた2革命かくめいのことを名称めいしょうである。とく史上しじょうはつ社会しゃかい主義しゅぎ国家こっか(ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう)樹立じゅりつにつながったことに重点じゅうてん場合ばあいには、じゅうがつ革命かくめいのことを意味いみしている。またぎゃくに、広義こうぎには1905ねんロシアだいいち革命かくめいふくめた長期ちょうきしょ革命かくめい運動うんどう意味いみする。

がつ革命かくめい」、「じゅうがつ革命かくめい」は当時とうじロシアでもちいられていたユリウスれきにおける革命かくめい勃発ぼっぱつもとにしており、現在げんざい一般いっぱんてきもちいられるグレゴリオれきではそれぞれ「さんがつ革命かくめい」、「じゅういちがつ革命かくめい」となる。この項目こうもく使用しようされている月日つきひ1918ねん2がつ14にちのグレゴリオれき導入どうにゅうまでの事柄ことがらについてはユリウスれきによる月日つきひ表記ひょうきしており、13にち加算かさんするとグレゴリオれき月日つきひ換算かんさんできる。

背景はいけい[編集へんしゅう]

前史ぜんし[編集へんしゅう]

1905ねん日曜日にちようび事件じけんによってはじまったロシアだいいち革命かくめいは、1907ねん6がつストルイピン首相しゅしょうのクーデタで終息しゅうそくした。労働ろうどう運動うんどう革命かくめい運動うんどう一時いちじてき停滞ていたいし、革命かくめい西にしヨーロッパへとのがれた。

ストライキ件数けんすう[1]
年次ねんじ ストライキ件数けんすう 参加さんか労働ろうどうしゃすう
絶対ぜったいすう ぜん工場こうじょうすう(%) 絶対ぜったいすう ぜん労働ろうどうしゃ(%)
1905 13,995 93.2 2,863,173 163.6
1906 6,114 42.2 1,108,406 65.6
1907 3,573 23.8 740,074 41.9
1908 892 5.9 176,101 9.7
1909 340 2.3 64,166 3.5
1910 222 1.4 46,623 2.4
1911 466 2.8 105,110 5.1
1912 2,032 11.7 725,491 33⁰⁹⁰
1913 2,404 13.4 887,096 38.3
1914 3,534 25.2 1,337,458 68.2
1915 928 7.3 539,528 28.1
1916 1,410 11.3 1,086,364 51.9

1912ねん4がつバイカル北方ほっぽうのレナ金鉱きんこうストライキなか労働ろうどうしゃたいして軍隊ぐんたい発砲はっぽうし、多数たすう死者ししゃた(レナ金鉱きんこう事件じけん)。全国ぜんこく抗議こうぎストがひろがり、労働ろうどう運動うんどうさい活性かっせいへとかった。ストライキは1914ねんにはだいいち革命かくめい匹敵ひってきするレベルにたっした。

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんにおいてツァーリのぐんは、ハプスブルクぐんやぶったものの、ドイツぐんには敗北はいぼくつづきで、ポーランドやバルト諸国しょこくからは退却たいきゃくした[2]ぜんロシア・ゼムストヴォ連合れんごう武器ぶき生産せいさんやしたものの、市民しみん資源しげん使つかたし、行政ぎょうせい無能むのうさをあかるみにした[2]減耗げんもうぶんわせるためにいそいで召集しょうしゅうされた新兵しんぺいは、十分じゅうぶん訓練くんれんけられず、装備そうび貧弱ひんじゃくで、おびただしい被害ひがいし、兵士へいし士気しきひくいことがつたわると、上層じょうそうへのいかりがつよまった[2]。1915ねん7がつにロシアぐんがワルシャワで敗北はいぼくすると、ニコライ2せい前線ぜんせんかってぐんみずか指揮しきすると決定けっていしたが、敗北はいぼく責任せきにん皇帝こうていうことになったし、皇帝こうてい戦地せんちおもむいたことで、政治せいじてき真空しんくう状態じょうたいまれたため、これは致命ちめいてきあやまりとなった。[2]。また、アレクサンドラ皇后こうごうは、自堕落じだらくなぞ僧侶そうりょラスプーチンとのつきあいをやめなかった[3]

だいいち世界せかい大戦たいせんによって愛国あいこく主義しゅぎたかまり、弾圧だんあつつよまって労働ろうどう運動うんどうはいったんわきしやられたが、戦争せんそう生活せいかつ条件じょうけん悪化あっかをもたらすと労働ろうどう運動うんどう復活ふっかつした。1915ねん6がつコストロマー、8がつイヴァノヴォ=ヴォズネセンスク労働ろうどうしゃ警官けいかん軍隊ぐんたい射殺しゃさつされる事件じけんき、抗議こうぎのストをこした[4]

自由じゆう主義しゅぎものは1915ねん国会こっかいカデット中心ちゅうしんとして「進歩しんぽブロック」をつくり、戦勝せんしょうをもたらしうる「信任しんにんないかく」の実現じつげんをめざして政府せいふ批判ひはんつよめた。自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえいない急進きゅうしん労働ろうどうしゃ代表だいひょうふく工業こうぎょう動員どういんのための組織そしきとして戦時せんじ工業こうぎょう委員いいんかい主要しゅよう都市とし設立せつりつした[5]

1916ねん6がつ政府せいふ従来じゅうらい兵役へいえき免除めんじょしてきた中央ちゅうおうアジアしょ民族みんぞくザカフカーズかい教徒きょうと住民じゅうみん後方こうほう勤務きんむ動員どういんすることを発表はっぴょうした。中央ちゅうおうアジア、カザフスタン住民じゅうみんは7がつ反乱はんらんこした。10月にはペトログラードの労働ろうどうしゃがストライキをおこない、軍隊ぐんたい一部いちぶくわわった[6]

11月、進歩しんぽブロックのミリュコーフ国会こっかいにおいて政府せいふ行為こういをひとつひとつげて「愚行ぐこうなのか、それとも裏切うらぎりなのか」と非難ひなんする演説えんぜつおこなった。支配しはいそう動揺どうようはげしくなり、12月には皇帝こうてい夫妻ふさいって権勢けんせいをふるっていた僧侶そうりょラスプーチン皇族こうぞく貴族きぞくのグループによって暗殺あんさつされた[7]

1917ねん1がつ中央ちゅうおう戦時せんじ工業こうぎょう委員いいんかい労働ろうどうしゃグループは「くに完全かんぜん民主みんしゅ」「人民じんみん依拠いきょする臨時りんじ政府せいふ」をスローガンとしてかかげて国会こっかいデモをびかけた。政府せいふ労働ろうどうしゃグループのメンバーや協力きょうりょくしゃ逮捕たいほし、中央ちゅうおう戦時せんじ工業こうぎょう委員いいんかい抗議こうぎ声明せいめい発表はっぴょうした[8]

がつ革命かくめい[編集へんしゅう]

がつ革命かくめい勃発ぼっぱつじゅう権力けんりょく成立せいりつ[編集へんしゅう]

1917ねん2がつ抗議こうぎデモ
1917ねんのペトログラード・ソヴィエト会議かいぎ

1917ねん初頭しょとうふゆ過酷かこくなほどにさむく、ペトログラードでは食料しょくりょう供給きょうきゅうまっていた[3]

2がつ23にち金属きんぞく労働ろうどうしゃのストライキをきっかけに、主婦しゅふ繊維せんい労働ろうどうしゃくわわり、一部いちぶ女性じょせいはパン襲撃しゅうげきした[3]。ペトログラードで国際こくさい婦人ふじんデーにあわせてヴィボルグ地区ちく女性じょせい労働ろうどうしゃがストライキにはいり、デモをおこなった。食糧しょくりょう不足ふそくへの不満ふまん背景はいけいとした「パンをよこせ」という要求ようきゅう中心ちゅうしんとなっていた[9]

よく2がつ24にち群衆ぐんしゅうは15まんにんふくがり、デモたい一部いちぶ銃撃じゅうげきされた[3]労働ろうどうしゃもデモに呼応こおうし、数日すうじつのうちにデモとストは全市ぜんしひろがった。要求ようきゅうも「戦争せんそう反対はんたい」や「専制せんせい打倒だとう」へと拡大かくだいした。労働ろうどう組合くみあいゼネスト宣言せんげんすると、首都しゅと機能きのう停止ていしした[3]

ニコライ2せいぐんにデモやストの鎮圧ちんあつめいじ、ドゥーマには停会ていかい命令めいれいした。兵士へいしのなかには、警察けいさつぐん銃撃じゅうげきしたのに衝撃しょうげきをうけ、寝返ねがえって将校しょうこうはじめるものもいた[3]参謀さんぼう総長そうちょうミハイル・アレクセーエフはペトログラードへ進軍しんぐんしようとしたが、不穏ふおんうごきがあり、軍隊ぐんたい維持いじのためには皇帝こうていてるほかなかった[10]ぐん命令めいれい服従ふくじゅうしなくなったことで、ツァーリの権力けんりょくせた[3]

2がつ27にち労働ろうどうしゃ兵士へいしはメンシェヴィキのびかけにおうじてペトログラード・ソヴィエト結成けっせいした。メンシェヴィキのチヘイゼ議長ぎちょうえらばれた[11]一方いっぽうおなにドゥーマの議員ぎいん国会こっかい議長ぎちょうであるじゅうがつとうオクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時りんじ委員いいんかいをつくってしん政府せいふ設立せつりつへとうごいた。

3月1にち、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備しゅびぐんたいして「命令めいれいだいいちごう」をした。「国会こっかい軍事ぐんじ委員いいんかい命令めいれいは、それがろうへいソヴィエトの命令めいれい決定けっていはんしないかぎりで遂行すいこうすべきである」などとし、国家こっか権力けんりょく臨時りんじ政府せいふかちあう姿勢しせいしめした。これによってまれた状況じょうきょうじゅう権力けんりょくばれた。

ドゥーマ臨時りんじ委員いいんかいは3がつ2にち、ゼムストヴォの指導しどうしゃゲオルギー・リヴォフ公爵こうしゃく首相しゅしょうとする臨時りんじ政府せいふだいいち臨時りんじ政府せいふ)を設立せつりつした[10]臨時りんじ政府せいふから退位たいい要求ようきゅうされたニコライ2せいおとうとミハイル・アレクサンドロヴィチ大公たいこう皇位こういゆずったものの、ミハイル大公たいこう翌日よくじつの3がつ3にちにこれを拒否きょひした。こうして後継こうけいのないまま3がつ15にちにニコライ2せい退位たいい表明ひょうめいロマノフあさ事実じじつじょう終焉しゅうえんした[12]

臨時りんじ政府せいふには、社会しゃかい革命かくめいとうからアレクサンドル・ケレンスキー法相ほうしょうとして入閣にゅうかくしたものの、そのほかはカデットやオクチャブリストなどからなる自由じゆう主義しゅぎしゃ中心ちゅうしん内閣ないかくであった。決定的けっていてき勝利しょうりするまで戦争せんそう継続けいぞくしようとする臨時りんじ政府せいふたいして、ソビエトはいくさ反対はんたいし、この対立たいりつは、一時いちじてきに、ケレンスキーらエスエルとメンシェヴィキの入閣にゅうかく解消かいしょうされた[13]。ロシア帝国ていこく混乱こんらんさせようとしたドイツ帝国ていこくは、亡命ぼうめいしていたレーニンらを封印ふういん列車れっしゃせて帰国きこくさせ、敗北はいぼく主義しゅぎ宣伝せんでんおこなわせた[13]。このほか、自力じりき帰国きこくしたチェルノーフ、マルトフ、トロツキーや、シベリアからカーメネフやスターリンがもどり、戦争せんそう継続けいぞく弾劾だんがいすると、戦争せんそうづかれた大衆たいしゅうはこれを支持しじした[13]

ペトログラード・ソヴィエトを指導しどうするメンシェヴィキは、ロシアが当面とうめんする革命かくめいブルジョワ革命かくめいであり、権力けんりょくブルジョワジーにぎるべきであるという認識にんしきから、臨時りんじ政府せいふをブルジョワ政府せいふなして支持しじする方針ほうしんしめした。

よんがつ危機きき[編集へんしゅう]

臨時りんじ政府せいふは3がつ6にち同盟どうめいこくとの協定きょうてい維持いじして戦争せんそう継続けいぞくする姿勢しせいしめした声明せいめい発表はっぴょうした[14]。この声明せいめい連合れんごうこくがわから歓迎かんげいされた。一方いっぽう、ペトログラード・ソヴィエトが3月14にちに「ぜん世界せかいしょ国民こくみんへ」とだいして発表はっぴょうした声明せいめいは、「われわれは、自己じこ支配しはい階級かいきゅう侵略しんりゃく政策せいさくにすべての手段しゅだんをもって対抗たいこうするであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパのしょ国民こくみんに、平和へいわのための断乎だんこたる協同きょうどう行動こうどうびかける」「ロシア人民じんみんツァーリ専制せんせい権力けんりょく打倒だとうしたように、諸君しょくんはん専制せんせいてき体制たいせいのクビキをげすてよ」とし、臨時りんじ政府せいふ姿勢しせいとのちがいをみせた[15]

ソヴィエトのあつりょくにより、臨時りんじ政府せいふは3がつ28にちにあらためて以下いか内容ないようの「戦争せんそう目的もくてきについての声明せいめい」(3.27声明せいめい)を発表はっぴょうした[16]。「自由じゆうロシアの目的もくてきは、民族みんぞく支配しはいすることでもなく、かれらからその民族みんぞくてき財産ざいさん奪取だっしゅすることでもなく、外国がいこく領土りょうど暴力ぼうりょくてき奪取だっしゅでもない。それは、しょ民族みんぞく自決じけつ基礎きそとした確固かっこたる平和へいわをうちたてることである。……この原則げんそくは、わが同盟どうめいこくたいしてっている義務ぎむ完全かんぜん遵守じゅんしゅしつつ……臨時りんじ政府せいふ外交がいこう政策せいさく基礎きそとされるであろう」[16]

ソヴィエトはこの臨時りんじ政府せいふ声明せいめい歓迎かんげいし、さらにこの声明せいめい連合れんごうこく政府せいふ正式せいしき通知つうちするよう圧力あつりょくをかけた[17]ミリュコフ外相がいしょうは4がつ18にちにこの声明せいめい発送はっそうした[17]。しかしかれ声明せいめいに「ミリュコフ覚書おぼえがき」をし、そのなかで「遂行すいこうされた革命かくめいが、共通きょうつう同盟どうめいした闘争とうそうにおけるロシアの役割やくわり弱化じゃっか招来しょうらいする、とかんがえる理由りゆうはいささかもない。まったぎゃくに……決定的けっていてき勝利しょうりまで世界せかい戦争せんそう遂行すいこうしようというぜん国民こくみんてき志向しこうは、つよまっただけである」と解説かいせつした[17]

この「ミリュコフ覚書おぼえがき」は3.27声明せいめい主旨しゅしとはあきらかにことなっていたため、新聞しんぶんほうじられるとともに労働ろうどうしゃ兵士へいしはげしい抗議こうぎデモ(よんがつ危機きき)をこした。ミリュコフ外相がいしょうグチコフ陸海りくかいしょう辞任じにん余儀よぎなくされた[18]。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府せいふへの参加さんかめた。5月5にち成立せいりつしただいいち連立れんりつ政府せいふは、もともと法相ほうしょうとして入閣にゅうかくしていたケレンスキーのほかに、ソヴィエトないのメンシェヴィキと社会しゃかい革命かくめいとうから入閣にゅうかくがあり、ソヴィエトからの代表だいひょうを4めいふく構成こうせいとなった[12]

レーニンの「よんがつテーゼ」[編集へんしゅう]

ボリシェヴィキは弾圧だんあつによって弱体じゃくたいしていたため、がつ革命かくめい過程かてい指導しどうりょく発揮はっきすることはできず、ソヴィエトにおいても少数しょうすうにとどまった。臨時りんじ政府せいふやソヴィエトにたいする姿勢しせいかんしても革命かくめい当初とうしょ方針ほうしん明確めいかくさだめることができなかった。

3月12にち中央ちゅうおう委員いいんカーメネフスターリン流刑りゅうけいからペトログラードに帰還きかんすると、ボリシェヴィキ政策せいさく臨時りんじ政府せいふたいする条件じょうけん支持しじ戦争せんそう継続けいぞく容認ようにんへと変化へんかした[19]機関きかんプラウダ』には「臨時りんじ政府せいふきゅう体制たいせい残滓ざんし実際じっさいたたかかぎり、それにたいして革命かくめいてきプロレタリアートの断乎だんこたる支持しじ保証ほしょうされる」「軍隊ぐんたい軍隊ぐんたいとが対峙たいじしているときに、武器ぶきをしまって家路いえじにつくよう一方いっぽう提案ていあんするのは、もっともばかげた政策せいさくであろう。……われわれは、銃弾じゅうだんには銃弾じゅうだんを、砲弾ほうだんには砲弾ほうだんをもって、自己じこ持場もちば固守こしゅするであろう」などといった論説ろんせつ掲載けいさいされた[19]

これにたいし、4がつ3にち亡命ぼうめいスイスからドイツ政府せいふ用意よういした「封印ふういん列車れっしゃ」で帰国きこくしたレーニンは、「現在げんざい革命かくめいにおけるプロレタリアート任務にんむについて」とだいしたテーゼ(よんがつテーゼ)を発表はっぴょうして政策せいさく転換てんかんうったえた。その内容ないようは、臨時りんじ政府せいふをブルジョワ政府せいふなし、いっさい支持しじしないこと、「祖国そこく防衛ぼうえい」を拒否きょひすること、ぜん権力けんりょくのソヴィエトへの移行いこう宣伝せんでんすることなどであった[12]。レーニンはよんがつテーゼで、臨時りんじ政府せいふたもとをわかち、プロレタリアートと貧農ひんのう権力けんりょくわただい段階だんかい前進ぜんしんすること、そして、警察けいさつ軍隊ぐんたい官僚かんりょう廃止はいし土地とち国有こくゆう労働ろうどうしゃによる工業こうぎょう生産せいさん管理かんり約束やくそくするボリシェヴィキこそプロレタリアの利益りえき代表だいひょうする唯一ゆいいつとうであると宣伝せんでんした[20]

ミリュコフ覚書おぼえがき」がこしたよんがつ危機きき影響えいきょうもあり、このよんがつテーゼは4がつ24にちから29にちにかけてひらかれたボリシェヴィキのとう全国ぜんこく協議きょうぎかいれられ、とう公式こうしき見解けんかいとなった[21]

攻勢こうせい失敗しっぱいなながつ蜂起ほうき[編集へんしゅう]

なながつ蜂起ほうき(1917)。ユリウスれき7がつ4にちペトログラード

だいいち連立れんりつ政府せいふ陸海りくかいしょうとなったケレンスキーは、同盟どうめい諸国しょこくからの要求ようきゅうこたえ、前線ぜんせんにおいてだい攻勢こうせいケレンスキー攻勢こうせい)を仕掛しかけた。将軍しょうぐんたちは攻勢こうせいともな愛国あいこく主義しゅぎてき熱狂ねっきょうによって兵士へいしたちの不満ふまんおさえようとした。しかし6がつ18にちはじまった攻勢こうせい数日すうじつ頓挫とんざし、ドイツからの反攻はんこうった。

攻勢こうせいまると兵士へいしたちのあいだで政府せいふたいする不信ふしんかんはさらにつよまった。7月3にち、ペトログラードのだいいち機関きかんじゅう連隊れんたいは、ソヴィエトの中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいぜん権力けんりょく掌握しょうあくするようもとめるための武装ぶそうデモをおこなうことを決定けっていした。部隊ぶたい工場こうじょう労働ろうどうしゃ呼応こおうし、そののうちに武装ぶそうデモがはじまった。

しかしソヴィエトの中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいはデモたい要求ようきゅう拒否きょひした。

7がつ4にちになるとデモの規模きぼはさらに拡大かくだいしたが、政府せいふとソヴィエト中央ちゅうおう支持しじする部隊ぶたい前線ぜんせんからペトログラードに到着とうちゃくし、ちから関係かんけい逆転ぎゃくてんした。武装ぶそうデモは失敗しっぱいわった。

デモを扇動せんどうしたのはアナーキストであり、ボリシェヴィキは当初とうしょ段階だんかいではデモをおさえる姿勢しせいをとっていた。しかしおさえきれないままはじまってしまったデモを支持しじする以外いがいなくなった。デモが失敗しっぱいわると一切いっさいがボリシェヴィキの扇動せんどうによるものとなされ、はげしい弾圧だんあつけることになった。トロツキーやカーメネフは逮捕たいほされ、レーニンやジノヴィエフ地下ちかもぐった。デモに参加さんかした部隊ぶたい武装ぶそう解除かいじょされ、兵士へいしたちは前線ぜんせんおくられた。

レーニンは、このなながつ蜂起ほうきによりがつ革命かくめい以来いらいじゅう権力けんりょく状況じょうきょうわり、権力けんりょく決定的けっていてきはん革命かくめいへと移行いこうした、と評価ひょうかし、よんがつテーゼの「ぜん権力けんりょくをソヴィエトへ」というスローガンを放棄ほうきすることをびかけた。このスローガンは権力けんりょく平和へいわてき移行いこう意味いみするものだったため、その放棄ほうきとは実質じっしつてきには武装ぶそう蜂起ほうきによる権力けんりょく奪取だっしゅ意味いみした。ボリシェヴィキは7がつまつから8がつはじめにかけてひらかれただいろくかいとう大会たいかいでレーニンのびかけにもとづく決議けつぎ採択さいたくした。

コルニーロフの反乱はんらん[編集へんしゅう]

だいいち連立れんりつないかく7がつ8にちにリヴォフ首相しゅしょう辞任じにんしたことでわり、同月どうげつ24にちにケレンスキーを首相しゅしょうとするだい連立れんりつないかく成立せいりつした。この連立れんりつないかく社会しゃかい革命かくめいとうとメンシェヴィキからおおくの閣僚かくりょう選出せんしゅつされ、カデットからの閣僚かくりょうは4めいにすぎないなど、社会しゃかい主義しゅぎしゃ主導しゅどうけんにぎ構成こうせいとなった[22]。しかしケレンスキーないかく政策せいさくはリヴォフないかくとほとんどわったところのないものだった。攻勢こうせい失敗しっぱいにより保守ほしゅ支持しじうしない、なながつ蜂起ほうき弾圧だんあつにより革命かくめいからも支持しじされなくなったため、臨時りんじ政府せいふ支持しじ基盤きばんはきわめてよわいものとなった。

7がつ18にちぐん最高さいこうそう司令しれいかん任命にんめいされたラーヴル・コルニーロフは、がつ革命かくめい以後いご獲得かくとくされた兵士へいし権利けんり制限せいげんし、「有害ゆうがい分子ぶんし」を追放ついほうすることなどを政府せいふ要求ようきゅうして保守ほしゅ支持しじあつめた。保守ほしゅ支持しじようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求ようきゅうをすべてれることはできず、両者りょうしゃ対立たいりつすることになった。

8がつ24にち、コルニーロフはアレクサンドル・クルイモフロシアばん将軍しょうぐんたいし、ペトログラードへ進撃しんげきして革命かくめい労働ろうどうしゃ兵士へいし武装ぶそう解除かいじょし、ソヴィエトを解散かいさんさせることをめいじた。翌日よくじつには政府せいふたいしてぜん権力けんりょく移譲いじょう要求ようきゅうした。

カデットの閣僚かくりょうはコルニーロフに連帯れんたいして辞任じにんし、ぐんかく方面ほうめんぐんそう司令しれいかんもコルニーロフを支持しじした。ケレンスキーはソヴィエトにたいして無条件むじょうけん支持しじ要請ようせいした。8月28にち、ソヴィエトはこれにおうじてたいはん革命かくめい人民じんみん闘争とうそう委員いいんかいをつくった。弾圧だんあつけてきたボリシェヴィキも委員いいんかい参加さんかしてコルニーロフとたたか姿勢しせいしめした。

ペトログラードに接近せっきんした反乱はんらんぐん兵士へいしたちは、ソヴィエトを支持しじする労働ろうどうしゃ兵士へいし説得せっとくけ、将校しょうこう命令めいれいしたがわなくなった。反乱はんらんぐん一発いっぱつ銃弾じゅうだんつことなく解体かいたいし、コルニーロフの反乱はんらんロシアばん英語えいごばん失敗しっぱいわった。クルイモフは自殺じさつし、コルニーロフは9月1にち逮捕たいほされた[23]

カデット閣僚かくりょう辞任じにんしてだい連立れんりつないかく崩壊ほうかいしたため、ケレンスキーは9月1にちに5にんからなる執政しっせい暫定ざんていてきつくり、正式せいしき連立れんりつないかく成立せいりつ目指めざした。ソヴィエトは9月14にちから22にちにかけて「民主みんしゅ主義しゅぎ会議かいぎ」をひらいて権力けんりょく問題もんだい討議とうぎし、有産ゆうさん階級かいきゅう代表だいひょうとの連立れんりつ政府せいふをつくること、コルニーロフ反乱はんらん加担かたんした分子ぶんし排除はいじょすること、カデットを排除はいじょすること、というさんてん決議けつぎした。しかし有産ゆうさん階級かいきゅう代表だいひょうとの連立れんりつ政府せいふとは実質じっしつてきにはカデットとの連立れんりつ政府せいふだったため、このみっつの決議けつぎたがいに矛盾むじゅんしていた。9月25にち成立せいりつしただいさん連立れんりつ政府せいふ結局けっきょくはカデットもふくむものになった。

じゅうがつ革命かくめい[編集へんしゅう]

じゅうがつ革命かくめい勃発ぼっぱつとソヴィエト権力けんりょく成立せいりつ[編集へんしゅう]

防護ぼうご巡洋艦じゅんようかんアヴローラ
じゅうがつ革命かくめいさいしてふゆみや砲撃ほうげきし、革命かくめい成功せいこう貢献こうけんしたとされる。映画えいがじゅうがつ』ではその場面ばめんえがかれる。にち戦争せんそうにおける日本海にほんかい海戦かいせんにも参加さんかしており、撃沈げきちんまたは鹵獲ろかくまぬかれた数少かずすくないかんひとつであった。現在げんざいサンクトペテルブルクネヴァがわ保存ほぞんされている。

ソヴィエト内部ないぶではコルニーロフの反乱はんらん以後いごボリシェヴィキへの支持しじ急速きゅうそくたかまった。1917ねん6がつだい一回いっかいぜんロシアソビエト大会たいかいでは、エスエル285議席ぎせき、メンシェヴィキ248議席ぎせき、ボリシェヴィキは105議席ぎせきだったが、なつごろにはボリシェヴィキの党員とういんは25まんにんにもなり、9月のソビエトでは半分はんぶん議席ぎせき獲得かくとくした[24]

8がつまつから9がつにかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出ていしゅつ決議けつぎ採択さいたくされ、ボリシェヴィキ中心ちゅうしん執行しっこう選出せんしゅつされた。レーニンは、憲法けんぽう制定せいてい会議かいぎひらかれることでケレンスキーが正統せいとう政府せいふ樹立じゅりつすることを危惧きぐし、議会ぎかいせい打倒だとうのための武装ぶそう蜂起ほうきによる権力けんりょく奪取だっしゅをボリシェヴィキの中央ちゅうおう委員いいんかい提案ていあんした[25]。ボリシェヴィキ中央ちゅうおう委員いいんかいは10がつ10日とおか武装ぶそう蜂起ほうき方針ほうしん決定けっていし、10月16にち拡大かくだい中央ちゅうおう委員いいんかい会議かいぎでもさい確認かくにんした。臨時りんじ政府せいふは、ボリシェヴィキの武装ぶそう蜂起ほうき計画けいかくみみにすると、軍事ぐんじ革命かくめい委員いいん指導しどうしゃ逮捕たいほかんがえた[25]

一方いっぽう、ペトログラード・ソヴィエトは10月12にち軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかい設置せっちした[26]。これは元々もともとはペトログラードの防衛ぼうえい目的もくてきとしてメンシェヴィキが提案ていあんしたものだったが、武装ぶそう蜂起ほうきのための機関きかん必要ひつようとしていたボリシェヴィキは賛成さんせいした。トロツキーは「われわれは、権力けんりょく奪取だっしゅのための司令しれい準備じゅんびしている、とわれている。われわれはこのことをかくしはしない」と演説えんぜつし、あからさまに武装ぶそう蜂起ほうき方針ほうしんみとめた[26]。メンシェヴィキは軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかいへの参加さんか拒否きょひし、委員いいんかい構成こうせいメンバーはボリシェヴィキ48めい社会しゃかい革命かくめいとう左派さは14めい、アナーキスト4めいとなった。前後ぜんごしてぐんかく部隊ぶたい次々つぎつぎにペトログラード・ソヴィエトにたいする支持しじ表明ひょうめいし、臨時りんじ政府せいふではなくソヴィエトの指示しじしたがうことをめた。

10月24にち臨時りんじ政府せいふ最後さいご反撃はんげきこころみ、忠実ちゅうじつ部隊ぶたいによってボリシェヴィキの新聞しんぶん『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所いんさつしょ占拠せんきょしたが、軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかいはこれをがねとして武力ぶりょく行動こうどう開始かいし。レーニンは「政府せいふをたたきのめさなければならない。行動こうどうおくらせることはひとしい」と号令ごうれいをかけ、トロツキーら軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかいは、あかまもるたいに、鉄道てつどう電力でんりょく会社かいしゃ郵便ゆうびん電信でんしん銀行ぎんこう街路がいろ橋梁きょうりょう掌握しょうあくめいじた[25]ふゆみやからケレンスキーがアメリカ大使館あめりかたいしかんくるまのがれると、蜂起ほうき流血りゅうけつなしで成功せいこうした。臨時りんじ政府せいふは、ぐんのどの部隊ぶたいうごかすことはできなかった[25]

ペトログラードの要所ようしょ制圧せいあつしたボリシェヴィキは、10月25にちあさに「臨時りんじ政府せいふ打倒うちたおされた。国家こっか権力けんりょくは、ペトログラードろうへいソヴィエトの機関きかんであり、ペトログラードのプロレタリアートと守備しゅびぐん先頭せんとうっている、軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかいうつった」とチラシ宣言せんげんした[27][28]。その、26にち未明みめいふゆみや占領せんりょうし、ケレンスキー以外いがい閣僚かくりょう逮捕たいほした[29]

蜂起ほうき並行へいこうしてだいかい全国ぜんこく労働ろうどうしゃ兵士へいし代表だいひょうソヴィエト大会たいかいひらかれた。この大会たいかいにおいては社会しゃかい革命かくめいとう右派うはやメンシェヴィキが蜂起ほうき反対はんたい退席たいせきしていたため、のこった社会しゃかい革命かくめいとう中央ちゅうおう左派さはたいしてボリシェヴィキは多数たすうめていた。

10月26にちにレーニンは「平和へいわかんする布告ふこく」で「賠償ばいしょう併合へいごう」というメンシェヴィキのあん採用さいようし、「民族みんぞく自決じけつ」にもとづく講和こうわ提案ていあんした[30]。これは帝政ていせいロシアが締結ていけつした条約じょうやく履行りこう無効むこうするものだった[30]

ふゆみや占領せんりょうち、大会たいかい権力けんりょくのソヴィエトへの移行いこう宣言せんげんした。10月27にち大会たいかいあたらしい政府せいふとしてレーニンを議長ぎちょうとする「人民じんみん委員いいん会議かいぎ」(ソヴナルコム)を設立せつりつし、各地かくちのソビエトを代表だいひょうすると主張しゅちょうした[30]

ふゆみやから逃亡とうぼうしたケレンスキーは、プスコフ騎兵きへいだい三軍さんぐん団長だんちょうクラスノフ協力きょうりょくをとりつけ、そのぐんによって10がつ27にちにペトログラードへの反攻はんこう開始かいしした。ペトログラード市内しないでも社会しゃかい革命かくめいとうやメンシェヴィキを中心ちゅうしんに「祖国そこく革命かくめい救済きゅうさい委員いいんかい」がつくられ、10月29にち士官しかん学校がっこうせいらが反乱はんらん開始かいしした。しかし反乱はんらんはそののうちに鎮圧ちんあつされ、ケレンスキー・クラスノフぐん翌日よくじつ戦闘せんとうやぶれた。

モスクワでは10月25にち臨時りんじ労農ろうのう政府せいふ支持しじする軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかい設立せつりつされ、26にち臨時りんじ政府せいふがわ社会しゃかい保安ほあん委員いいんかいがつくられた。10月27にち武力ぶりょく衝突しょうとつこり、当初とうしょ社会しゃかい保安ほあん委員いいんかいがわ優勢ゆうせいだったが、周辺しゅうへん地域ちいきから軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかいがわ支持しじする援軍えんぐん到着とうちゃくして形勢けいせい逆転ぎゃくてんした。11月2にち社会しゃかい保安ほあん委員いいんかい屈服くっぷくして和平わへい協定きょうていおうじた。軍事ぐんじ革命かくめい委員いいんかいは11月3にちにソヴィエト権力けんりょく樹立じゅりつ宣言せんげんした。

しかし、11月8にちだいかいぜんロシアソヴィエト大会たいかいでボリシェヴィキは739議席ぎせきちゅう、338議席ぎせきしかめなかった[28]。トロツキーはメンシェヴィキにたいして「とっとと歴史れきしのゴミのやまってしまえ」と侮辱ぶじょくした[28]

11月8にち土地とちについての布告ふこくによって、貴族きぞく教会きょうかい皇室こうしつ土地とち農民のうみんソビエトにわたした[31]。これはエスエルの綱領こうりょうかすったものであったが、この土地とち分配ぶんぱいによって、保有ほゆう細分さいぶんされ、都市としけの食料しょくりょう供給きょうきゅうよりも自給自足じきゅうじそく特権とっけんしてしまった[31]労働ろうどうしゃ統制とうせいれいでは、工業こうぎょう労働ろうどうしゃ管理かんり樹立じゅりつするもので、だい企業きぎょう所有しょゆうけん自治体じちたいくに移管いかんされた[31]

ボリシェヴィキとともに武装ぶそう蜂起ほうき参加さんかした社会しゃかい革命かくめいとう左派さはは、11月にとう中央ちゅうおうにより除名じょめい処分しょぶんけ、左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとうとして独立どくりつした。左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとうはボリシェヴィキからの入閣にゅうかく要請ようせいおうじ、12月9にち両者りょうしゃ連立れんりつ政府せいふ成立せいりつした。

憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい解散かいさん[編集へんしゅう]

がつ革命かくめい以後いご国家こっか権力けんりょく形態けいたいめるものとして臨時りんじ政府せいふ実施じっし約束やくそくしていた憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいは、じゅうがつ革命かくめいまでついにひらかれなかった。ボリシェヴィキは臨時りんじ政府せいふたいしてその開催かいさい要求ようきゅうしてきたため、武装ぶそう蜂起ほうき成功せいこうしたあとの10がつ27にち憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい選挙せんきょ実施じっしすることをめた。しかし11月におこなわれた選挙せんきょでは社会しゃかい革命かくめいとう得票とくひょうりつ40パーセントで410議席ぎせきだいいちとうとなり、ボリシェヴィキは得票とくひょうりつ24パーセントで175議席ぎせきにとどまった[32]

レーニンは12月26にちに「憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいについてのテーゼ」を発表はっぴょうした。憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいはブルジョワ共和きょうわこくにおいては民主みんしゅ主義しゅぎ最高さいこう形態けいたいだが、現在げんざいはそれより高度こうど形態けいたいであるソヴィエト共和きょうわこく実現じつげんしている、としたうえで、憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいたいしてソヴィエト権力けんりょく承認しょうにん要求ようきゅうするものだった。一方いっぽう社会しゃかい革命かくめいとうは「ぜん権力けんりょく憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかいへ!」というスローガンをかかげ、じゅうがつ革命かくめい否定ひていする姿勢しせいしめした。

翌年よくねん1がつ5にちひらかれた憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい社会しゃかい革命かくめいとう主導しゅどうするところとなり、ボリシェヴィキが提出ていしゅつした決議けつぎあん否決ひけつした。翌日よくじつ人民じんみん委員いいん会議かいぎ憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい強制きょうせいてき解散かいさんさせた。1がつ10日とおかにはロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこく成立せいりつ宣言せんげんされ、ロシアは世界せかいはつ共産きょうさん主義しゅぎ国家こっかとなった。

ブレスト=リトフスク条約じょうやく[編集へんしゅう]

ぜん交戦こうせんこく併合へいごう賠償ばいしょう講和こうわ提案ていあんした10月26にち平和へいわかんする布告ふこくは、フランスやイギリスなどの同盟どうめい諸国しょこくから無視むしされたため、ソヴィエト政府せいふはドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独たんどく講和こうわけてブレスト=リトフスクで交渉こうしょう開始かいしした。交渉こうしょう外務がいむ人民じんみん委員いいんとなっていたトロツキーが担当たんとうした。この交渉こうしょうかんしてボリシェヴィキの内部ないぶみっつのグループが形成けいせいされた。講和こうわ反対はんたいし、革命かくめい戦争せんそうによってロシア革命かくめいをヨーロッパへ波及はきゅうさせようとするブハーリンのグループ、ただちにドイツがわ条件じょうけんれて「息継いきつぎ」の時間じかんようとするレーニンのグループ、そしてドイツでの革命かくめい勃発ぼっぱつ期待きたいしつつ交渉こうしょうばそうとするトロツキーのグループである。

ドイツはソヴィエト政府せいふ提案ていあんれ、11月19にち交渉こうしょうせきについた[30]最初さいしょ段階だんかいではトロツキーのなかあいだてき見解けんかい支持しじたため、ソヴィエト政府せいふはドイツがわが1がつ27にちきつけた最後さいご通牒つうちょう拒否きょひした。ドイツは、ソビエトが他国たこく革命かくめい待望たいぼうして時間じかんかせぎをしていることがわかると、1918ねん2がつ8にちウクライナ個別こべつ講和こうわ条約じょうやくをむすんだ[30]。トロツキーは激怒げきどしてせきったが、ドイツはかれのはったりを見抜みぬいて攻撃こうげき再開さいかいした[30]

ドイツぐん攻撃こうげきでロシアぐん潰走かいそうすると、ボリシェヴィキのなかでようやくレーニンの見解けんかい多数たすうめた。3月3にち、ソヴィエト政府せいふ当初とうしょよりさらにきびしい条件じょうけんでの講和こうわ条約じょうやくブレスト=リトフスク条約じょうやく調印ちょういんした。このブレスト=リトフスク条約じょうやくによって、ロシアはフィンランドエストニアラトビアリトアニアポーランドウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域ちいきうしない、巨額きょがく賠償金ばいしょうきんせられることとなった。のちに、同年どうねん11がつドイツ革命かくめいき、ドイツが敗北はいぼくするとボリシェヴィキはこの条約じょうやく破棄はきしたが、ウクライナをのぞ上記じょうき割譲かつじょう地域ちいきもどせず、独立どくりつみとめることとなった。戦争せんそう離脱りだつして革命かくめい拡大かくだいさせようとして時間じかんかせぎをしたロシアは、フィンランド、バルト諸国しょこく、ポーランド、ウクライナの独立どくりつという代償だいしょうをはらうことになった[30]

左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう講和こうわ条約じょうやく反対はんたいし、ボリシェヴィキとの連立れんりつ政府せいふから脱退だったいした[33]

内戦ないせんいちとう独裁どくさい[編集へんしゅう]

1918ねん5がつ捕虜ほりょとしてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団ぐんだん反乱はんらんこし[34]、これにじょうじてアメリカや日本にっぽんがシベリアに出兵しゅっぺいした(シベリア出兵しゅっぺい)。イギリスぐんしろうみ沿岸えんがん都市とし占領せんりょうした。サマーラでは社会しゃかい革命かくめいとう憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい議員ぎいん独自どくじ政府せいふ憲法けんぽう制定せいてい議会ぎかい議員ぎいん委員いいんかいКомуч、コムーチ)をつくり、さらにきゅうぐん将校しょうこう各地かくち軍事ぐんじ行動こうどう開始かいしした。こうしたはん革命かくめいぐんは、総称そうしょうしてしろぐんばれたが、みどりぐんのようにボリシェヴィキにもしろぐんにもくみしないぐん存在そんざいした。しろぐん有力ゆうりょく将帥しょうすいとしては、アントーン・デニーキンアレクサンドル・コルチャークグリゴリー・セミョーノフなどがられる。ソヴィエト政府せいふはブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつ軍事ぐんじ人民じんみん委員いいんとなっていたトロツキーのした赤軍せきぐん創設そうせつしてたたかった。

この内戦ないせんたたかくため、ボリシェヴィキは戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎばれる極端きょくたん統制とうせい経済けいざいさくった。これはあらゆる企業きぎょう国営こくえい私企業しきぎょう禁止きんし強力きょうりょく経済けいざい中央ちゅうおう統制とうせい配給はいきゅうせい、そして農民のうみんから必要ひつよう最小限さいしょうげんのものをのぞくすべての穀物こくもつ徴発ちょうはつする穀物こくもつ割当わりあて徴発ちょうはつ制度せいどなどからなっていた。この政策せいさく戦時せんじ混乱こんらんもあって失敗しっぱいわり、ロシア経済けいざい壊滅かいめつてき打撃だげきけた。農民のうみん穀物こくもつ徴発ちょうはつ反発はんぱつして穀物こくもつ秘匿ひとくし、しばしば反乱はんらんこした。また都市とし労働ろうどうしゃもこの農民のうみん反乱はんらんによって食糧しょくりょう確保かくほすることができなくなり、深刻しんこく食糧しょくりょう不足ふそく見舞みまわれるようになった。1921ねんには、工業こうぎょう生産せいさん大戦たいせんまえの20%、農業のうぎょう生産せいさんも3ぶんの1にまでんでいた[35]

この内戦ないせん干渉かんしょうせんはボリシェヴィキのいちとう独裁どくさいつよめた。ボリシェヴィキ以外いがいのすべての政党せいとう非合法ひごうほうされた。1918ねんはる創設そうせつされた[36]秘密ひみつ警察けいさつチェーカー裁判所さいばんしょ決定けっていなしに逮捕たいほ処刑しょけいおこな権限けんげんあたえられた。チェーカーは、しろぐんよりも、ボリシェヴィキ独裁どくさい不満ふまんほか社会しゃかい主義しゅぎ政党せいとう撃退げきたいすることが目的もくてきであり、メンシェビキ社会しゃかい革命かくめいとうがソヴィエトで多数たすうめるようになると、レーニンはチェーカーを使つかって「プチブル侵入しんにゅうしゃ」としてこれらを一掃いっそうし、信頼しんらいできるボリシェヴィキをその後釜あとがまえた[36]

一方いっぽう退位たいい監禁かんきんされていたニコライ2せいとその家族かぞくは、1918ねん7がつ17にちはん革命かくめいがわ奪還だっかんされるおそれがしょうじたために銃殺じゅうさつされた。8月30にち左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう党員とういんがレーニンにたいする暗殺あんさつ未遂みすい事件じけんこすと、これをきっかけにレーニンは「赤色あかいろテロル」を宣言せんげんし、チェーカー人民じんみんてきはん革命かくめいはんとう活動かつどうしゃ摘発てきはつしていった[36]。こうしてなつわりまでに、各地かくちのソビエトはとう支配しはいかれ、「ソヴィエト(評議ひょうぎかい)」は形式けいしきてき組織そしきとなり、レーニンが「国家こっか革命かくめい」で賞賛しょうさんし、1917ねんには姿すがたあらわしかけたコミューン国家こっかは、完全かんぜんとう国家こっかにとってわられた[36]

一時期いちじきしろぐんはロシアやウクライナのかなりの部分ぶぶん支配しはいにおいたものの、内紛ないふんなどによって急速きゅうそく勢力せいりょくうしなっていき、次々つぎつぎとソヴィエト政府せいふがわによって鎮圧ちんあつされていった。デニーキンの敗残はいざんへいをまとめげ、しろぐん最後さいごまでのこってクリミア半島くりみあはんとうてこもっていたピョートル・ヴラーンゲリ将軍しょうぐんひきいるロシアぐんも、1920ねん11月のペレコープ=チョーンガル作戦さくせんやぶれて制圧せいあつされ[37]内戦ないせんはこれをもって収束しゅうそくし、ソヴィエト政府せいふがわ勝利しょうりわった。内戦ないせんでは戦闘せんとう病気びょうきえで1500まんにん死亡しぼうした[38]きゅう体制たいせい上流じょうりゅう階級かいきゅうなど150まんにん国外こくがい脱出だっしゅつした[38]しろぐん参加さんかした、あるいは赤軍せきぐんやソヴィエトに反対はんたいした人々ひとびと国外こくがい大量たいりょう亡命ぼうめいしこうした亡命ぼうめいしゃしろけいロシアじんばれるようになった。

内戦ないせんわっても戦時せんじ共産きょうさん主義しゅぎ体制たいせいはしばらく継続けいぞくしており、これに反発はんぱつしてきる反乱はんらんもやむことがなかった。1921ねんには軍港ぐんこう都市としクロンシュタット海軍かいぐん兵士へいしによるクロンシュタットの反乱はんらんき、ボリシェヴィキによって鎮圧ちんあつされたものの、同年どうねん3がつ21にち経済けいざい統制とうせいをややゆるめたネップしん経済けいざい政策せいさく)が採択さいたくされ、軌道きどう修正しゅうせいはかられるようになった。このネップ体制たいせいで、農業のうぎょう工業こうぎょう生産せいさん回復かいふくにむかった。最後さいごまでシベリアにのこっていた日本にっぽんぐん1922ねん撤退てったいした。

内戦ないせん混乱こんらんから、ボリシェヴィキ党員とういん増大ぞうだいし、1918ねん1がつに11まん5000にんだった党員とういんすうは、1921ねん3がつには57まん6000にん資料しりょうによっては77まん5000にん)になった[38]内戦ないせんのさなか、とうは「本物ほんもののボリシェヴィキとはかわジャンパーこしには「同志どうしゼル銃ぜるじゅう」をつるした、屈強くっきょう決断けつだんりょくのある戦士せんし」というイメージをし、極端きょくたん義侠ぎきょうしん暴力ぼうりょくによる支配しはいおしえていった[38]。1921ねん党員とういん構成こうせいは、労働ろうどうしゃ41%、農民のうみん28.2%、「雇用こようしゃその」のしょうインテリゲンチャが30.8%で、なかには、理想りそう主義しゅぎしゃ狂信きょうしんしゃ復讐ふくしゅうたくらひと、ゴロツキ、便宜べんぎ主義しゅぎしゃがいたほか、きゅう体制たいせい下士官かしかんもおり、とう就職しゅうしょくさきにもなっていた[38]

最初さいしょ憲法けんぽう[編集へんしゅう]

1918ねん7がつ4にちから7がつ10日とおかにかけてひらかれただい5かいぜんロシア・ソヴィエト大会たいかい最初さいしょ1918ねんソヴィエト憲法けんぽう英語えいごばん採択さいたくした。憲法けんぽう基本きほんてき任務にんむは「ブルジョワジーを完全かんぜん抑圧よくあつし、人間にんげんによる人間にんげん搾取さくしゅをなくし、階級かいきゅうへの分裂ぶんれつ国家こっか権力けんりょくもない社会しゃかい主義しゅぎをもたらすために、強力きょうりょくぜんロシア・ソヴィエト権力けんりょくのかたちで、都市とし農村のうそんのプロレタリアートおよび貧農ひんのう独裁どくさい確立かくりつすること」とされた(だい9じょう)。また、ソヴィエト大会たいかいえらばれるぜんロシア・ソヴィエト中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかい最高さいこう権力けんりょく機関きかんとする一方いっぽう、ソヴィエト大会たいかいおよび中央ちゅうおう執行しっこう委員いいんかいたいして責任せきにん人民じんみん委員いいん会議かいぎにも立法りっぽうけんみとめた。

この大会たいかい会期かいきちゅうの7がつ6にち、ブレスト=リトフスク条約じょうやく反対はんたいする左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう戦争せんそう再開さいかいねらってドイツ大使たいしのミルバッハを暗殺あんさつし、ぐん一部いちぶんで政府せいふたいする反乱はんらんこした。反乱はんらん鎮圧ちんあつされ、左翼さよく社会しゃかい革命かくめいとう弾圧だんあつけることになった。ソヴィエト政府せいふはボリシェヴィキの単独たんどく政権せいけんとなり、野党やとう存在そんざいしなくなった。1922ねんにはロシア社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこくザカフカース社会しゃかい主義しゅぎ連邦れんぽうソビエト共和きょうわこくウクライナ社会しゃかい主義しゅぎソビエト共和きょうわこくはくロシア・ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこくの4つを統合とうごうし、ソビエト社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく連邦れんぽう成立せいりつした。

革命かくめい社会しゃかい犯罪はんざい[編集へんしゅう]

革命かくめいによって、帝政ていせい時代じだい司法しほう制度せいど警察けいさつ制度せいど崩壊ほうかいし、犯罪はんざい多発たはつし、社会しゃかい混乱こんらん極度きょくどすすんだ[39]。かつて安全あんぜんであった都市としペトログラードも、急速きゅうそく危険きけん都市としとなった[39]

まず、がつ革命かくめい勃発ぼっぱつすると、大量たいりょう武器ぶきが、蜂起ほうきした民衆みんしゅう解放かいほうされた囚人しゅうじんにわたり、また警察けいさつ破壊はかいされ、わってみん警が登場とうじょうした[39]。しかし、命令めいれいしょ偽造ぎぞう簡単かんたんで、みん警の制服せいふく腕章わんしょうだけで市民しみん沈黙ちんもくし、みん警や軍事ぐんじ委員いいん偽装ぎそうして財産ざいさん押収おうしゅうする犯罪はんざい頻発ひんぱつし、ほぼ政府せいふ状態じょうたいとなった[39]

さらになながつ事件じけん政情せいじょう不安ふあんすと、7がつには冷凍れいとう会社かいしゃから23まんルーブリ、8がつには博物館はくぶつかんから800まんルーブリの貴重きちょうひんぬすまれ、1にちで30けん強盗ごうとう事件じけん発生はっせいし、10月になると日間にちかんで800けんいち週間しゅうかんで1360けん発生はっせいした[39]。1915ねんには3けんしか発生はっせいしなかった武装ぶそう強盗ごうとう事件じけんも、1917ねん3がつから10がつまでに87けん発生はっせいした[39]。アナーキスト集団しゅうだんが、4がつにはリヒテンベルグこうていを、5月にはルーゲはくてい襲撃しゅうげきして強盗ごうとうし、K.K.グリゴリエフ伯爵はくしゃく殺害さつがいされた[39]。6月にはもと内務ないむ大臣だいじんドゥルノヴォやしきが「搾取さくしゅしゃ搾取さくしゅする」としょうしておそわれ、7がつには種々しゅじゅ工場こうじょう爆発ばくはつ放火ほうか事件じけん発生はっせい、オフタ工場こうじょう火災かさいでは20にん焼死しょうしし、避難ひなんみん自宅じたくおそわれた[39]なながつ事件じけん以降いこうは、政治せいじてき意見いけんちがいで殺人さつじんにまで発展はってんした事件じけん頻発ひんぱつし、政治せいじてき意見いけんちがいを意見いけん交換こうかん相互そうご譲歩じょうほではなく、暴力ぼうりょく解決かいけつしようとするような社会しゃかい暴力ぼうりょく進行しんこうした[39]。また、だいいち大戦たいせんちゅう移入いにゅうした中国人ちゅうごくじん労働ろうどうしゃ殺人さつじん事件じけん加害かがいしゃとも被害ひがいしゃともなった[39]

3月12にち死刑しけい廃止はいしされ、3月17にちには囚人しゅうじんには刑期けいき縮小しゅくしょう大赦たいしゃあたえられたが、犯罪はんざいしゃ一夜いちやにして模範もはんてき市民しみんてんずることはなかったし、脱走だっそうへいにとっても犯罪はんざい生活せいかつ手段しゅだんであった[39]みん警も摘発てきはつをおこなったものの、犯罪はんざいしゃによる武装ぶそう抵抗ていこう暴動ぼうどう蜂起ほうきなどで反撃はんげきされた。司法しほう制度せいど崩壊ほうかいすると、守衛しゅえいもストライキを開始かいしし、みん警総とく命令めいれい無視むしし、人間にんげん善意ぜんい前提ぜんていして出発しゅっぱつしたあたらしい司法しほう制度せいど犯罪はんざいしゃ利用りようされた[39]。また、私刑しけい(サモスード)が横行おうこうし、泥棒どろぼうがその群衆ぐんしゅうなぐころされる事件じけん多発たはつし、「人民じんみん裁判さいばんもっと公正こうせいで、もっと迅速じんそく」であるとして、その満場一致まんじょういっち死刑しけい判決はんけつくだし、殺害さつがいする事件じけん発生はっせいした[39]

革命かくめい過程かていにおいて公共こうきょう秩序ちつじょ市民しみん安全あんぜん保障ほしょうすべき公的こうてき暴力ぼうりょく機関きかん崩壊ほうかいし、暴力ぼうりょく野放のばなしになり、公的こうてき暴力ぼうりょく私的してき暴力ぼうりょくとの差異さい消滅しょうめつした[39]究極きゅうきょくてき制裁せいさい手段しゅだん (ultima ratio) を政治せいじ体制たいせいには、ほう統治とうち不可能ふかのうであり,社会しゃかい紛争ふんそう解決かいけつ唯一ゆいいつ手段しゅだん暴力ぼうりょくになることは必然ひつぜんてきで、このような社会しゃかい暴力ぼうりょくは、市民しみん残忍ざんにんにしていった[39]きゅう世界せかい価値かちかん排除はいじょされ、急激きゅうげき社会しゃかいてき政治せいじてき変動へんどうなか善悪ぜんあく観念かんねん混乱こんらんし、合法ごうほうせい犯罪はんざいせいちがいがあいまいになった。 階級かいきゅう対立たいりつ激化げきかするととも個人こじん財産ざいさん生命せいめい不可侵ふかしんせい攻撃こうげきされた。マルクス主義まるくすしゅぎ政治せいじてきイデオロギーは、階級かいきゅう憎悪ぞうお復讐ふくしゅうしんあおて、社会しゃかい犯罪はんざい拍車はくしゃをかけた[39]

ロシア革命かくめい評価ひょうか影響えいきょう[編集へんしゅう]

ロシアの1913ねん人口じんこうは1おく6900まんにんで、1917ねん工業こうぎょう労働ろうどうしゃは340まんにん人口じんこうの2%をめるほどで、首都しゅとペトログラードの労働ろうどうしゃ都市とし出身しゅっしんしゃは2わりほどで、あとは農民のうみん出身しゅっしんであった[40]。つまり「労働ろうどうしゃ」がほとんどいないところで「プロレタリア(労働ろうどうしゃ権力けんりょく」がまれたのであり、ジノビエフはボルシェビキを「存在そんざいしない階級かいきゅう前衛ぜんえいとう」としょうした[40]下斗米しもとめ伸夫のぶおは「ロシア革命かくめい労働ろうどうしゃ革命かくめいというのは神話しんわひとしい」とべる[40]

ロシア革命かくめいは、すくなくとも最初さいしょ勃発ぼっぱつしたがつ革命かくめい時点じてんにおいては自然しぜん発生はっせいてき革命かくめいであり、どの政治せいじ勢力せいりょく革命かくめい展開てんかいをリードしているわけではなく、むしろきゅう展開てんかいいそいかけるかたちとなっていた。しかし成立せいりつした臨時りんじ政府せいふ情勢じょうせいをコントロールできないなか、レーニン指導しどうのボリシェヴィキが情勢じょうせい先導せんどうしてくようになり、じゅうがつ革命かくめいではボリシェヴィキとう武装ぶそう組織そしきがケレンスキーら臨時りんじ政府せいふ閣僚かくりょう逮捕たいほし、権力けんりょく掌握しょうあく強行きょうこうした[41]。この武力ぶりょくによる権力けんりょく奪取だっしゅについて、革命かくめいというよりはむしろクーデターというべきではないかとロシア・マルクス主義まるくすしゅぎちちしょうされるプレハノフ批判ひはんし、ゴーリキー民主みんしゅ主義しゅぎたいするずべき行為こういだと非難ひなんした[41]。ボリシェヴィキ指導しどうグリゴリー・ジノヴィエフやルイコフなどもちからによる権力けんりょく奪取だっしゅ批判ひはんした[41]

社会しゃかい革命かくめいとう指導しどうしゃヴィクトル・チェルノフは、だいいち世界せかい大戦たいせん内戦ないせん人々ひとびと残忍ざんにんさになれていったが、政権せいけんについたボリシェヴィキはサディストであるとひょうした[38]

ともあれじゅうがつ革命かくめいによって成立せいりつしたボリシェヴィキ主導しゅどう政権せいけん世界せかいはつ社会しゃかい主義しゅぎ国家こっかであり、ぜん世界せかいおおきな影響えいきょうおよぼした。ボリシェヴィキは世界せかい革命かくめいろんによってロシアの革命かくめい世界せかいへと輸出ゆしゅつすることをのぞんでおり、1919ねん3がつ2にちにボリシェヴィキ主導しゅどうのもとで結成けっせいされたコミンテルンもヨーロッパ諸国しょこく革命かくめい波及はきゅうさせることをおも目的もくてきひとつとしていた。しかしこうしたこころみは成功せいこうせず、いちこく社会しゃかい主義しゅぎろん登場とうじょうとともにコミンテルンの役割やくわり変容へんようしていった。

マーティン・メイリアによれば、これまでヨーロッパの革命かくめいではきゅう体制たいせい打倒だとうされると、ある社会しゃかい集団しゅうだん没落ぼつらくする一方いっぽうで、ほかの社会しゃかい集団しゅうだん浮上ふじょうした。フランス革命かくめいでは、貴族きぞく僧侶そうりょ地位ちい没落ぼつらくする一方いっぽうで、中流ちゅうりゅう階級かいきゅう農民のうみん地位ちいたかくなり、そこでは集団しゅうだん地位ちい変化へんかすることはあっても、いずれかが徹底的てっていてき排除はいじょされることはなかった[42]。しかしロシア革命かくめいでは、「普通ふつう人々ひとびと」「勤労きんろう大衆たいしゅう」よりうえ社会しゃかい階級かいきゅうはすべて威圧いあつてき社会しゃかい集団しゅうだんであるとして除去じょきょされた[42]貴族きぞく僧侶そうりょ自由じゆう主義しゅぎてき専門せんもんしょく中流ちゅうりゅう階級かいきゅうなどは、社会しゃかい集団しゅうだんとしては消滅しょうめつした。財産ざいさん地位ちい剥奪はくだつされた個人こじん大半たいはんは、社会しゃかい集団しゅうだんとしてのつながりは分断ぶんだんされ、くだかれ、しん制度せいどのもとで法的ほうてきにも差別さべつされ、参政さんせいけん剥奪はくだつされ、食料しょくりょう配給はいきゅうらされた[42]。こうしてソビエト・ロシアでは市民しみん社会しゃかい消滅しょうめつし、画一かくいつてきな「勤労きんろう大衆たいしゅう」だけがのこされた[42]

ギャラリー[編集へんしゅう]

イワン・ウラジミーロフロシアばんによる、レーニン統治とうちでのロシアの世相せそうえがいた一連いちれん水彩すいさい現存げんそんしており、レーニンの政策せいさくまけ側面そくめんうかがることができる。

文献ぶんけん案内あんない[編集へんしゅう]

まず、日本語にほんごめるロシア革命かくめい当事とうじしゃによる著作ちょさくとして、がつ革命かくめい臨時りんじ政府せいふ閣僚かくりょうとなったアレクサンドル・ケレンスキーの『ケレンスキー回顧かいころく[43]帝政ていせい国会こっかい議員ぎいんシューリギンの『革命かくめい記録きろく[44]じゅうがつ武装ぶそう蜂起ほうき指導しどうしたトロツキーの『ロシア革命かくめい[45]、アナーキストのヴォーリンによる『1917ねん裏切うらぎられた革命かくめい[46]じゅうがつ革命かくめい司法しほう人民じんみん委員いいんとなった左翼さよくエスエルのスタインベルグによる『左翼さよくエスエル戦闘せんとう[47]がある。

菊地きくち昌典まさのりへん『ロシア革命かくめい[48]革命かくめい当時とうじ声明せいめい回想かいそうふくむ。『ロシヤ社会民主労働党しゃかいみんしゅろうどうとう(ボ)だいななかいよんがつぜんロシヤ協議きょうぎ会議かいぎごとろく[49]よんがつテーゼをめぐるボリシェヴィキの党内とうない討論とうろん議事ぎじろく加藤かとう一郎いちろうへん『ナロードの革命かくめいとう[50]左翼さよくエスエルの決議けつぎ声明せいめい収録しゅうろくしている。

ジャーナリストによる記録きろくとしてはジョン・リード『世界せかいをゆるがしたじゅう日間にちかん[51]もっと有名ゆうめいなものである。基本きほんてきにはボリシェヴィキの観点かんてんからかれており、レーニンが序文じょぶんいている。

E.H.カーの『ボリシェヴィキ革命かくめい[52]西欧せいおうのロシア革命かくめい研究けんきゅうにおいて古典こてんとしての位置いちめる。日本にっぽん研究けんきゅうでは、がつ革命かくめいかんしては江口えぐちほおろうへん『ロシア革命かくめい研究けんきゅう』におさめられている和田わだ春樹はるき論文ろんぶんがつ革命かくめい[53]じゅうがつ革命かくめいかんしては長尾ながおひさ論文ろんぶん『ロシヤじゅうがつ革命かくめい研究けんきゅう[54]もっとくわしい。そのほかの文献ぶんけんについては菊地きくち昌典まさのりへん『ソビエト研究けんきゅう入門にゅうもん[55]もちでん幸男ゆきお野村のむら達朗たつろうほかへん西洋せいようきん現代げんだい研究けんきゅう入門にゅうもん[56]ることができる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 栗生くりゅうさわ猛夫たけお図説ずせつ ロシアの歴史れきし河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ、2010ねんISBN 9784309761435 
  • 黒川くろかわ祐次ゆうじ物語ものがたりウクライナの歴史れきし : ヨーロッパ最後さいご大国たいこく中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ; 1655〉、東京とうきょう、2002ねん日本語にほんごISBN 4-121-01655-6
  • 田中たなか, 倉持くらもち, 俊一しゅんいち和田わだ, 春樹はるき へん世界せかい歴史れきし体系たいけい ロシア3』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん 
  • 長尾ながおひさ『ロシヤじゅうがつ革命かくめい亜紀あき書房しょぼう亜紀あき現代げんだい叢書そうしょ ; 5〉、1972ねん11月20にちNDLJP:12176811 
  • 長尾ながおひさ『ロシヤじゅうがつ革命かくめい研究けんきゅう社会しゃかい思想しそうしゃ、1973ねん3がつ30にちNDLJP:12185450 
  • つじ義昌よしまさ『ロシア革命かくめい労使ろうし関係かんけい展開てんかい御茶おちゃみず書房しょぼう、1981ねん 
  • 藤本ふじもとかず貴夫たかお松原まつばら広志ひろし へん『ロシアきん現代げんだい ピョートル大帝たいていから現代げんだいまで』ミネルみねるァ書房ぁしょぼう、1999ねんISBN 9784623027477 
  • アレクサンドル・ケレンスキー『ケレンスキー回顧かいころく恒文社こうぶんしゃ、1977ねんISBN 4770401353 
  • シューリギン革命かくめい記録きろく河出かわで書房しょぼう、1956ねん 
  • トロツキー『ロシア革命かくめいぜんかん)』岩波書店いわなみしょてん、2000ねん 
  • ヴォーリン『1917ねん裏切うらぎられた革命かくめいはやし書店しょてん、1968ねん 
  • スタインベルグ左翼さよくエスエル戦闘せんとう鹿砦ろくさいしゃ、1970ねん 
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  • 加藤かとう一郎いちろうへん『ナロードの革命かくめいとう鹿砦ろくさいしゃ、1975ねん 
  • 菊地きくち昌典まさのりへん『ロシア革命かくめい筑摩書房ちくましょぼう、1971ねん 
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  • E.H.カー『ボリシェヴィキ革命かくめいぜんさんかん)』みすず書房しょぼう、1967-1971。 
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  • 菊地きくち昌典まさのりへん『ソビエト研究けんきゅう入門にゅうもん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい、1976ねん 
  • 和田わだ春樹はるき、1968、「がつ革命かくめい」、江口えぐちほおろうへん)『ロシア革命かくめい研究けんきゅう』、中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ
  • マーティン・メイリア白須しらす英子えいこやく『ソヴィエトの悲劇ひげき』(くさおもえしゃ、1997)上下じょうげまき
  • 桑野くわのたかし監修かんしゅう若林わかばやしゆうちょ風刺ふうしとアネクドートがえがいたロシア革命かくめい現代書館げんだいしょかん、2017ねんISBN 4768458130
  • ヤーラオシュ, コンラート・H・ 橋本はしもと伸也しんややく (2022), 灰燼かいじんのなかから: 20世紀せいきヨーロッパこころ, 人文書院じんぶんしょいん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]