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ロシアぐん (しろぐん)

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ロシアぐんそうぐん司令しれいかんヴラーンゲリ将軍しょうぐんとコサック部隊ぶたい司令しれいかんたち;敬礼けいれいをするヴラーンゲリそうぐん司令しれいかん、その右側みぎがわだい4クバン軍団ぐんだん司令しれいかんシャチーロフ将軍しょうぐん左側ひだりがわドン・コサックぐんアタマンボガエーフスキイ将軍しょうぐん

ロシアぐん(ロシア:Русская армияルースカヤ・アールミヤ)は、ピョートル・ヴラーンゲリによって建設けんせつされたロシア軍隊ぐんたいである。赤軍せきぐん反対はんたいするしろぐん(はくまもるぐん)運動うんどう展開てんかいした。ロシアぐん区別くべつしてクリミアのロシアぐん(Русская Армия в Крымуルースカヤ・アールミヤ・フクルィーム)ともばれる。ヴラーンゲリ指揮しきだい1軍団ぐんだん(1й Армейский корпус)とコサック部隊ぶたい主力しゅりょくとなった。

概要がいよう

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設立せつりつ

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ヴラーンゲリそうぐん司令しれいかんクバン・コサックのシャチーロフ将軍しょうぐん市民しみん政府せいふのクリヴォシェーイン代表だいひょう

1920ねんはる亡命ぼうめいしたアントーン・デニーキンわってみなみロシアぐん全権ぜんけんにぎったピョートル・ヴラーンゲリは、それまでの帝政ていせい復古ふっこ目指めざす「統一とういつロシア」主義しゅぎて、クリミア半島くりみあはんとうセヴァストポリ中心ちゅうしんあらたな独立どくりつ共和きょうわこく建設けんせつおこな方針ほうしんかためた。ヴラーンゲリは、ウクライナ人民じんみん共和きょうわこくグルジア民主みんしゅ共和きょうわこくをモデルとするしん国家こっか樹立じゅりつ目指めざし、5月11にち、それまでのみなみロシアぐんをロシアぐん改名かいめいし、組織そしき刷新さっしんはかった。

しん組織そしき政策せいさくめん仕切しきったのは、「アジア・ロシア政府せいふ」の首班しゅはんアレクサーンドル・クリヴォシェーインであった。ロシア帝国ていこく政治せいじであったクリヴォシェーインは、帝政ていせい時代じだいにはストルィピン改革かいかくんだ人物じんぶつであった。クリヴォシェーインは、ボリシェヴィキに中央ちゅうおう権力けんりょく掌握しょうあくされると、エカテリノダールにおいてはん革命かくめい政府せいふロシア国家こっか連合れんごう」を組織そしきした。これは、デニーキンぐん政府せいふとして機能きのうした。デニーキンぐんノヴォロシーイスクから退却たいきゃくしたのちクリヴォシェーインは国外こくがいのがれていたが、ヴラーンゲリのたってのねがいからクリミアでのしん政府せいふ発足ほっそく中心ちゅうしんてき役割やくわりになうことに合意ごういした。ヴラーンゲリは、クリヴォシェーインの手腕しゅわんにすべての希望きぼうたくしていたとわれる。

それまで、しろぐん勢力せいりょくけんとなった南部なんぶロシアウクライナ人口じんこう大半たいはんめていた農民のうみん支持しじることに失敗しっぱいしていた。クリヴォシェーインは、しん政府せいふ農民のうみん支持しじ基盤きばん以上いじょうかれらからの永続えいぞくてき支持しじることが肝心かんじんであるとかんがえた。しろぐん司令しれいかんのほとんどは帝政ていせいであり、栄光えいこうちたロシア帝国ていこく復活ふっかつのぞんでいた。そのため、なかには非常ひじょう反動はんどうてき思考しこうった人物じんぶつすくなくはなかった。帝政ていせい時代じだい農奴のうどとしてしいたげられてきた農民のうみんらは、しろぐん勝利しょうりによってふたた以前いぜん態勢たいせいもどることを警戒けいかいしていた。ロシア帝国ていこく農民のうみん農奴のうど解放かいほうれいにより自由じゆう保障ほしょうされていたものの、反動はんどうてき政府せいふによりその権利けんりはしばしばおかされてきた。これにたいし、クリヴォシェーインは土地とち農民のうみんあた完全かんぜん個人こじん所有しょゆうとする土地とち改革かいかく重要じゅうよう政策せいさくとしてした。ヴラーンゲリは、クリヴォシェーインの政策せいさくにより、農民のうみんらの支持しじ勢力せいりょく回復かいふくがされることを期待きたいした。農民のうみんのぞ土地とち個人こじん所有しょゆうソビエト全面ぜんめん否定ひていしており、またソビエトは農民のうみん敵視てきししていたこともあり、ヴラーンゲリのロシアにとって農民のうみんへの懐柔かいじゅう有益ゆうえきであるとかんがえられた。

ぐんなおしと政府せいふ機構きこう拡充かくじゅうはか国家こっか地域ちいき経済けいざいてき発展はってんにもんだ結果けっか、クルィームは当時とうじきゅうロシア帝国ていこく領土りょうどなかでもっとも経済けいざいてき発展はってんした地域ちいきとなった。この経済けいざいりょく背景はいけいに、ヴラーンゲリはボリシェヴィキを打倒だとうしようとこころみた。軍備ぐんびには、イギリスせいフランスせいだいいちきゅうのものが導入どうにゅうされた。くわえて、みなみロシアぐん時代じだいよりセヴァストーポリみなとにあった艦艇かんていおおくをしろぐん接収せっしゅうしていた。これらの艦艇かんていは、じゅうがつ革命かくめいのちウクライナこく艦隊かんたいのちに赤軍せきぐん艦隊かんたいとなっていたきゅうロシア帝国ていこく海軍かいぐん黒海こっかい艦隊かんたい所属しょぞくかんで、戦艦せんかん以下いか若干じゃっかん新鋭しんえいかんおおくの旧式きゅうしきかんふくんでいた。

敗北はいぼく亡命ぼうめい

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ヴラーンゲリそうぐん司令しれいかん航空こうくう部隊ぶたいパイロットたち

しかし、おりしも終結しゅうけつしたポーランド・ソヴィエト戦争せんそうウクライナ・ソヴィエト戦争せんそう結果けっか、それまで主力しゅりょくをウクライナ方面ほうめんかれていた赤軍せきぐんぜん勢力せいりょくをクルィームへけられるようになった。くわえて、イギリスはロシアぐんへの支援しえん拒絶きょぜつし、フランスはクリヴォシェーインの政府せいふたいする支援しえん約束やくそくしたものの、支援しえんいそがないとしていた。かずおとるロシアぐんは、赤軍せきぐんだい勢力せいりょくまえしばたあいだ存亡そんぼう危機ききたされることになった。

赤軍せきぐんはウクライナでポーランドぐん敗北はいぼくきっしたが、ヴラーンゲリはその敗戦はいせん赤軍せきぐん弱体じゃくたいしているという可能かのうせいのぞみをかけ北方ほっぽうけて突撃とつげきおこなった。しかし、赤軍せきぐんいきおいはまったくおとろえておらず、それどころかかつてにもまして強力きょうりょくであった。一方いっぽう、ロシアぐんはデニーキンの亡命ぼうめいともなおおくが亡命ぼうめいしており、その戦力せんりょくしろぐん最盛さいせいおおきく下回したまわっていた。ロシアぐんきたターヴリヤ(クリミア半島くりみあはんとう北部ほくぶ)での決戦けっせんにおいて赤軍せきぐん甚大じんだい損害そんがいあたえたものの、自軍じぐん兵力へいりょく半数はんすううしな手痛ていた敗戦はいせんきっした。

ヴラーンゲリは、残存ざんそん勢力せいりょくをロシア国外こくがいのがして態勢たいせいなお決意けついをした。ヴラーンゲリは、ぜん指揮しきかん兵士へいし、そしてかれらにしたがってきた市民しみんたい選択せんたく自由じゆうあたえた。すなわち、かれらはさきえないヴラーンゲリの亡命ぼうめいしたがうか、ソヴィエト勢力せいりょくによる占領せんりょう現地げんちのこるかの選択せんたくせまられたのである。

1920ねん11月14にち、ヴラーンゲリ以下いかのロシアぐんは160せき船舶せんぱくで以ってトルコ亡命ぼうめいした。だい1軍団ぐんだんガリポリへ、コサック部隊ぶたいレムノスとううつった。一方いっぽう、クルィームにのこるすべてのロシアぐん関係かんけいしゃには、軍人ぐんじん市民しみんわずボリシェヴィキからは恩赦おんしゃ約束やくそくされていた。しかし、ボリシェヴィキの常套じょうとう手段しゅだんとしてこの約束やくそくはすぐにくつがえされ、ロシアぐん関係かんけいしゃの99 %ちかくが銃殺じゅうさつあるいは銃剣じゅうけんによる刺殺しさつ、またはうみしずめるなどの手段しゅだんによって虐殺ぎゃくさつされた[よう検証けんしょう]

ヴラーンゲリら離脱りだつ成功せいこうした一団いちだんは、トルコのイスタンブールチュニジアビゼルト滞在たいざいした。しかし、12月29にち艦隊かんたいはフランス政府せいふにより接収せっしゅうされ、ロシアぐんおおきくその戦力せんりょくがれることとなった。

国外こくがいでの活動かつどう

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のこされたすくない資金しきん軍備ぐんびでは、ロシアぐんヨーロッパ・ロシアへの上陸じょうりく作戦さくせんおこなうことはもはや不可能ふかのうとなっていた。また、同様どうよう理由りゆうだい1軍団ぐんだん極東きょくとう地方ちほうのこされていたしろぐん組織そしき極東きょくとうロシアぐんとの合一ごういつおこなうことも不可能ふかのうであった。仕方しかたなく、ロシアぐんそう司令しれいかんピョートル・ヴラーンゲリ将軍しょうぐんは、再起さいきをかけてだい1軍団ぐんだんブルガリア移動いどうさせた。

その、ロシアぐん1922ねんまでブルガリアに滞在たいざいした。しかし、「共産きょうさん主義しゅぎ伝染でんせんびょう」はこのとしブルガリアにまでおよんだ。「モスクワあかしゅ」はブルガリアの共産きょうさん主義しゅぎしゃ資金しきん武器ぶき援助えんじょおこない、コミンテルン活動かつどうはそもそも1917ねんからこの活動かつどう展開てんかいしていた。そこで、ロシア軍人ぐんじんブルガリアじんへの助力じょりょくだけが共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい屈服くっぷくさせることができた。

その、モスクワの共産きょうさん主義しゅぎしゃテロリスト外交がいこうてきあつりょくによりその影響えいきょうりょくセルビアにまでおよばせた。これをけ、1923ねんよりだい1軍団ぐんだんやロシアぐん軍事ぐんじ学校がっこう陸軍りくぐん幼年ようねん学校がっこう将校しょうこうは、共産きょうさん主義しゅぎしゃいきおいをぐためセルブ・クロアチア・スロヴェニア王国おうこく移動いどうした。1924ねんには、ヴラーンゲリを中心ちゅうしんとしてロシア国外こくがいぜんしろぐん勢力せいりょくたばねるロシアぜんぐん連合れんごう組織そしきされた。しかし、ヴラーンゲリは1928ねんブリュッセルにおいて急死きゅうしした。(ソ連それんスパイによる暗殺あんさつせつがある)

ロシアぐんは、古参こさん将校しょうこう精力せいりょくてき活動かつどう展開てんかいするのにくわえ、1920年代ねんだいから1930年代ねんだいつうじてしん世代せだい養育よういくにもちかられた。しかし、1941ねんナチス・ドイツぐんソ連それん侵攻しんこうによりどくせん開始かいしされると、ロシアぐんふたた宿敵しゅくてき赤軍せきぐんとの決戦けっせんのぞ機会きかい遭遇そうぐうした。構成こうせいいんおおくがしん世代せだいってわられていたロシアぐんだい1軍団ぐんだんは、古参こさん将校しょうこう指揮しきさい集結しゅうけつしたコサック部隊ぶたいなどとともにドイツぐんロシア軍団ぐんだん(ロシア防衛ぼうえい軍団ぐんだんとも)の一員いちいんとして戦闘せんとう参加さんかした。しかし、ドイツソ連それんやぶれると、長年ながねんにわたって継続けいぞくされてきたロシアぐん努力どりょく水泡すいほうすこととなった。

組織そしき

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参謀さんぼう

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  • 参謀さんぼうちょう:P.マフロフ少将しょうしょう(1920ねん4がつ28にち - 1920ねん6がつ6にち)、P.シャチロフ中将ちゅうじょう(1920ねん6がつ16にち - 1920ねん11月)
  • 軍事ぐんじ局長きょくちょう:V.ヴャジミチノフ中将ちゅうじょう(1920ねん4がつ28にち - 1920ねん11月)
  • 補給ほきゅう局長きょくちょう:P.ヴィリチェフスキー中将ちゅうじょう(1920ねん4がつ28にち - 1920ねん8がつ
  • 特別とくべつ課長かちょう:クリモヴィッチ将軍しょうぐん
  • 当直とうちょく将官しょうかん:S.トルハチェフ少将しょうしょう(1920ねん4がつ28にち - 1920ねん11月)
  • 航空こうくう部長ぶちょう:V.トカチェフ少将しょうしょう(1920ねん4がつ - 1920ねん11月)
  • 騎兵きへい総監そうかん:Y.ユゼフォヴィッチ中将ちゅうじょう(1920ねん6がつ - 1920ねん9がつ

編成へんせい

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1920ねん9がつ時点じてん編成へんせい

  • だい1ぐん
    • だい1軍団ぐんだん
      • コルニーロフ打撃だげき師団しだん
      • マルコフ将軍しょうぐん歩兵ほへい師団しだん
      • ドロズドフスキー将軍しょうぐん歩兵ほへい師団しだん
      • だい6歩兵ほへい師団しだん
    • だい3ドン軍団ぐんだん
      • だい1ドン師団しだん
      • だい2ドン師団しだん
      • だい3ドン師団しだん
      • 親衛しんえい旅団りょだん
  • だい2ぐん
    • だい2軍団ぐんだん
      • だい13歩兵ほへい師団しだん
      • だい34歩兵ほへい師団しだん
      • だい2独立どくりつ混成こんせい騎兵きへい旅団りょだん
    • だい3軍団ぐんだん
      • だい6歩兵ほへい師団しだん
      • だい7歩兵ほへい師団しだん
    • 親衛しんえい支隊したい
  • だい3ロシアぐん
    • だい1狙撃そげき師団しだん
    • だい2狙撃そげき師団しだん
    • 混成こんせいコサック師団しだん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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