ポーランド・ソビエト戦争せんそう

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ポーランド=ソビエト戦争せんそう

左上ひだりうえ:1920ねん1がつ、ダウガフピルスのたたかいでのポーランドだい1戦車せんしゃ連隊れんたいルノー FT-17左下ひだりした:1920ねん5がつ7にち、フレシチャーティクでのポーランドぐんとウクライナぐんみぎじょう:1920ねん8がつラジミンのたたかでのポーランドぐんシュワルツローゼじゅう機関きかんじゅう中央ちゅうおう:1920ねん8がつ、ワルシャワのたたかいで機関きかんじゅう配置はいちにつくポーランドぐん左下ひだりした:ラジミンとワルシャワあいだ道路どうろじょう赤軍せきぐん捕虜ほりょ見張みはるポーランドぐんみぎ:1920ねん9がつのニーメンのたたかいでベラルーシでのポーランドぐん守備しゅびたい
戦争せんそう:ポーランド=ソビエト戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1919ねん2がつ14にち - 1921ねん3月18にち
場所ばしょポーランドウクライナベラルーシリトアニアラトビア
結果けっか:ポーランドの勝利しょうりリガ平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ
交戦こうせん勢力せいりょく
ロシアSFSRの旗 ロシアSFSR
ウクライナSSRの旗 ウクライナSSR
はくロシアSSR
ポーランドの旗 ポーランド
ウクライナの旗 ウクライナ
ベラルーシの旗 ベラルーシ
ラトビアの旗 ラトビア
指導しどうしゃ指揮しきかん
ロシアSFSRの旗 ウラジーミル・レーニン
ロシアSFSRの旗 レフ・トロツキー
ロシアSFSRの旗 セルゲイ・カーメネフ
ロシアSFSRの旗 ミハイル・トゥハチェフスキー
ロシアSFSRの旗 アレクサンドル・エゴロフ
ロシアSFSRの旗 ヨシフ・スターリン
ロシアSFSRの旗 セミョーン・ブジョーンヌイ
ポーランドの旗 ユゼフ・ピウスツキ
ポーランドの旗 エドヴァルト・リッツ=シミグウィ
ポーランドの旗 ヴワディスワフ・シコルスキ
ウクライナの旗 シモン・ペトリューラ
戦力せんりょく
800,000 - 950,000 738,000
損害そんがい
67,000 戦死せんし
80,000—200,000+ 捕虜ほりょ
47,000—72,000 戦死せんし
113,518 戦傷せんしょう
51,351 捕虜ほりょ

ポーランド=ソビエト戦争せんそう(ポーランド=ソビエトせんそう、ポーランド: wojna polsko-bolszewicka(ヴォーイナ・ポールスコ・ボルシェヴィーツカ = ポーランド・ボルシェビキ戦争せんそうロシア: советско-польская война(サヴィェーツカ・ポーリスカヤ・ヴァイナー = ソビエト・ポーランド戦争せんそうウクライナ: польсько-радянська війна(ポーリスィコ・ラヂャーンシカ・ヴィイナー = ポーランド・ロシア戦争せんそう)は、だいいち世界せかい大戦たいせん1919ねん2がつから1921ねん3がつにかけてウクライナベラルーシ西部せいぶポーランド東部とうぶ中心ちゅうしんおこなわれたポーランドとボリシェヴィキ政府せいふのあいだの戦争せんそうロシア革命かくめいたいする干渉かんしょう戦争せんそう一環いっかんともとらえられる。また、日本語にほんごでは慣用かんようてきに「ソビエト・ポーランド戦争せんそう」、「ポーランド・ソ連それん戦争せんそう」、「ソ連それん・ポーランド戦争せんそう」などともかれる。なお、実際じっさい戦争せんそうおこなわれたのはソビエト連邦れんぽう成立せいりつ(1922ねんまえである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせん直後ちょくごのロシアは、ロシア革命かくめいたいする干渉かんしょう戦争せんそう内戦ないせん影響えいきょうにより、混沌こんとんとした情勢じょうせいにあった。パリ講和こうわ会議かいぎ結果けっかにより、ポーランド分割ぶんかつ以来いらいのロシア国家こっかによる支配しはいから独立どくりつたしたポーランドは、民族みんぞくてき宗教しゅうきょうてき影響えいきょうやかつてのポーランド・リトアニア共和きょうわこく領域りょういき人口じんこう動態どうたいなどからベラルーシ西部せいぶやウクライナ西部せいぶ土地とち野心やしんっていた。このため、講和こうわ会議かいぎられた領域りょういきをさらに東方とうほう拡大かくだいし、分割ぶんかつまえ1772ねん8がつ5にち以前いぜん)の領土りょうど回復かいふく1791ねん以後いごのポーランド国家こっか版図はんと復活ふっかつさせるため、ロシア内戦ないせん混乱こんらんじょうじてソ連それん侵攻しんこうした。

1920ねん当初とうしょ、ポーランドぐんキエフ占領せんりょうするなどおおきく進撃しんげきしたが、そのポーランドぐん政治せいじてき理由りゆうによりフランス軍事ぐんじ顧問こもんだんによる作戦さくせん採用さいようすると騎兵きへい機動きどうりょくかせなくなりソ連それんめあぐね、1920ねん4がつ以降いこう赤軍せきぐんはんげき開始かいし、6がつにはワルシャワ包囲ほういした。しかし、ユゼフ・ピウスツキ策定さくていした騎兵きへい大群たいぐんによる長距離ちょうきょり高速度こうそくど行軍こうぐん[1]もちいただい機動きどう作戦さくせんだい成功せいこうし、これによりミハイル・トゥハチェフスキーひきいる赤軍せきぐんはほぼぜんぐん包囲ほうい殲滅せんめつ危険きけんさらされて崩壊ほうかい敗走はいそう開始かいしした。これはのちに「ヴィスワがわ奇跡きせき」とばれる。このだい逆転ぎゃくてんげきにより8がつまつから赤軍せきぐん撤退てったい、ポーランドぐんソ連それんぐんたいする猛烈もうれつ追撃ついげきてんじた。赤軍せきぐん東方とうほうより体勢たいせいなおそうとするが、ポーランドぐん機動きどう部隊ぶたいはこれらのこころみをも粉砕ふんさいした。

進撃しんげきつづけるポーランドは支配しはいけんミンスク近辺きんぺんまで到達とうたつさせたものの、財政難ざいせいなん危険きけんにより、ソ連それん提案ていあんで10がつ停戦ていせんおうじることとなった。1921ねん3がつ講和こうわ条約じょうやくむすばれ、これによりポーランドはヴィリニュス(ヴィルノ)を中心ちゅうしんとしたヴィルノ地方ちほうなどリトアニア中部ちゅうぶリヴィウ(ルヴフ)を中心ちゅうしんとしたガリツィア地方ちほうなどウクライナ西部せいぶ併合へいごうし、東方とうほう領土りょうど正式せいしき画定かくていした。

背景はいけい[編集へんしゅう]

1919ねん3がつ勢力せいりょく範囲はんい

1918ねんだいいち世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうすると、東欧とうおうおおきな変革へんかくむかえることとなった。ドイツ敗北はいぼくにより、ドイツによる東欧とうおう緩衝かんしょう国家こっか建設けんせつ計画けいかく不可能ふかのうとなり、ロシアも革命かくめい影響えいきょうにより他国たこくへの干渉かんしょう能力のうりょくうしなっていた。このため、ヴェルサイユ条約じょうやくにより誕生たんじょうした東欧とうおうしん国家こっかは、弱体じゃくたいしょう国家こっかおおかった。そのなかで、ポーランドは例外れいがいてき相対そうたいてき大国たいこくとなりえた。また、かつてポーランド王国おうこくポーランド・リトアニア共和きょうわこく)として東欧とうおう広大こうだい領域りょういき保有ほゆうしていたが、ポーランド分割ぶんかつによりその領土りょうどうしなわれたため、領域りょういき復活ふっかつにかける願望がんぼうっていた。1918ねんさい独立どくりつたすさいにドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国ていこく、ロシアなどから領土りょうどうばったこともその一環いっかんだったが、東部とうぶ国境こっきょう交渉こうしょうすべきロシア政府せいふ不在ふざいということもあり、この時点じてん確定かくていであった(ただし、1919ねん12月には境界きょうかいとしてカーゾンせん提案ていあんがなされている)。

ポーランドはユゼフ・ピウスツキ中心ちゅうしんに、かつてのポーランド・リトアニア共和きょうわこく領域りょういき復活ふっかつと、ポーランドを中心ちゅうしんとした反共はんきょう国家こっか連合れんごうによってソビエト連邦れんぽうソ連それん)および、ドイツ革命かくめい前後ぜんごして労働ろうどう運動うんどう激化げきか共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい瀬戸際せとぎわにあったドイツと対抗たいこうする方針ほうしんっていた。ただし、ポーランドはソ連それん政体せいたいそのものへの干渉かんしょうやロシア地域ちいき征服せいふくなどの意図いとっておらず、きゅうポーランド王国おうこく版図はんと全体ぜんたいにおけるみずからの国家こっか建設けんせつとその思想しそうてき領土りょうどてき防衛ぼうえいだいいちであった。しかしながら、ピウスツキの民主みんしゅ主義しゅぎ自由じゆう主義しゅぎ民族みんぞく主義しゅぎ文化ぶんか多元たげん主義しゅぎ)の並立へいりつ理念りねんすなわちきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく(の1791ねん5がつ3にち憲法けんぽう)の理念りねん復刻ふっこくである「ヤギェウォ理念りねん」にたいするソ連それん警戒けいかい感情かんじょうは(この理念りねんがまさにソ連それん革命かくめいにとってのはん革命かくめい理念りねんならないことであるから)当然とうぜんのことながら非常ひじょうたかく、革命かくめいきゅうロシア帝国ていこく勢力せいりょく範囲はんいからの分離ぶんり独立どくりつ目論もくろ強力きょうりょく勢力せいりょくがいくつも「国家こっか」をてていたしょうロシア(ウクライナ)へのポーランド(しょうロシア地方ちほうは1795ねんだい2ポーランド分割ぶんかつ以前いぜんきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく領土りょうどであった)の干渉かんしょう可能かのうせいきわめておおきいこともあり、成立せいりつあいだもなくいま戦時せんじにあったソ連それん政権せいけんの、ポーランドとそれにくみするはん革命かくめい勢力せいりょくたいする警戒けいかい弥増いやましにしていた。

1919ねん前半ぜんはんごろは、ソ連それんはん革命かくめい干渉かんしょう戦争せんそうおこなわれていた。また、フランスの支援しえんけて、ポーランドぐん創設そうせつおこなわれている。1919ねん後半こうはんになると、ソ連それん革命かくめい政府せいふ徐々じょじょしろぐんたい有利ゆうりになりはじめた。ソ連それんは、ドイツ革命かくめい共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめい機運きうんたかまっているドイツとむすぶことも考慮こうりょはじめ、ウラジーミル・レーニンやトゥハチェフスキーは、ポーランドへの攻撃こうげき示唆しさしたこともあった。このことも腹背ふくはい友好国ゆうこうこくつことになるポーランドを刺激しげきしていた。

ウクライナへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

ユゼフ・ピウスツキとロマン・ドモフスキポーランドばん英語えいごばんというポーランドの2人ふたり傑出けっしゅつした指導しどうしゃのうち、ピウスツキはきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこくの5がつ3にち憲法けんぽう民族みんぞく共存きょうぞんしょ民族みんぞく平等びょうどう自由じゆう主義しゅぎ理念りねんによる国家こっか復活ふっかつ構想こうそうする社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎものであった。ピウスツキがポーランドりょうとして画定かくていしようとかんがえていた地域ちいきはウクライナにおいてはきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこくキエフけんならなかった。なお、ピウスツキはきゅうリトアニア大公たいこうこくのリトアニアじん貴族きぞくすなわちシュラフタいえだしである。すなわちピウスツキ本人ほんにんきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく基本きほん理念りねんであるしょ民族みんぞく平等びょうどう体現たいげんであった。

一方いっぽう、ピウスツキの政敵せいてきでポーランド民族みんぞく主義しゅぎものであったドモフスキはポーランド民族みんぞく労働ろうどうしゃ階級かいきゅう出身しゅっしんであったが、苦学くがくして最高さいこう学府がくふワルシャワ大学だいがく優秀ゆうしゅう成績せいせき卒業そつぎょう生物せいぶつ学者がくしゃとなった。学生がくせい時代じだいからポーランド独立どくりつ運動うんどうかかわり、その欧州おうしゅう各国かっこく日本にっぽんめぐって見聞けんぶんひろめたかれどう時代じだいてきにはピウスツキよりも現実げんじつ主義しゅぎてきで、「欧州おうしゅうすべてのくに民族みんぞく主義しゅぎ理念りねん国民こくみん国家こっか建設けんせつをしている現代げんだいではピウスツキの民族みんぞく国家こっか構想こうそうはもはや安定あんていてき国家こっか形態けいたいではなく、ポーランド民族みんぞくあきらかに圧倒的あっとうてき多数たすうめられる地域ちいきのみに限定げんていして構成こうせいされたよりコンパクトな領土りょうどのなかでポーランドじん排他はいたてき運営うんえいするいわゆるポーランド民族みんぞく中心ちゅうしん主義しゅぎ国家こっか建設けんせつ目指めざしたほうが堅実けんじつだ」「国民こくみんだれもが民族みんぞく意識いしき希薄きはくだったきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく当時とうじならいざしらずいまの時代じだいはウクライナじんなどといった排他はいたてき思想しそう民族みんぞく自国じこくおおかかむのは民族みんぞく同士どうし利権りけんあらそいのたねになり非常ひじょう危険きけんである」「ポーランドじんはもはやきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく復活ふっかつのぞむべきではない」「新生しんせいポーランドは民族みんぞく主義しゅぎ国家こっかとしてポーランド民族みんぞく独占どくせんてき運営うんえい国内こくない少数しょうすう民族みんぞくにはポーランドへの同化どうか強制きょうせいしポーランドすべきだ」と主張しゅちょうしてピウスツキと対立たいりつした。

ロシアの政府せいふからの実質じっしつてき独立どくりつたしたウクライナでは、ウクライナ民族みんぞく主義しゅぎしゃシモン・ペトリューラ再建さいけんしたウクライナ人民じんみん共和きょうわこくが、ポーランドにほろぼされたウクライナ民族みんぞく主義しゅぎ国家こっかである西にしウクライナ人民じんみん共和きょうわこく残存ざんそん勢力せいりょく共同きょうどうし、赤軍せきぐんとのあいだ一進一退いっしんいったい戦闘せんとう継続けいぞくしていた。しかしながら、ウクライナ勢力せいりょくにとっては不運ふうんなことに、1919ねん10がつウクライナぐんあいだチフスだい流行りゅうこうし、兵力へいりょくの70%がうしなわれてしまった。これはもはや軍隊ぐんたいではなく棺桶かんおけである、といわれたとされる。ボリシェヴィキ憎悪ぞうおし、キエフ・ルーシ以来いらいのウクライナの独立どくりつ夢見ゆめみるペトリューラは、無念むねんうちにウクライナ民族みんぞく主義しゅぎにとっての宿敵しゅくてきポーランドへの亡命ぼうめい余儀よぎなくされた。

ピウスツキとドモフスキの国家こっか理念りねん対立たいりつにおいては、民族みんぞく平等びょうどう国家こっか目指めざおおきな領土りょうどもとめる左派さはリベラルのピウスツキが、ポーランド民族みんぞく独占どくせん国家こっか目指めざちいさな領土りょうどもとめる右翼うよく民族みんぞく主義しゅぎのドモフスキにたいして政治せいじてき優勢ゆうせいとなったのが前提ぜんていとなってポーランド・ソビエト戦争せんそう開始かいしされたのである。この戦争せんそううらにはこのような事情じじょうがあった。したがってピウスツキの目指めざした新生しんせいポーランドが、ドモフスキだけでなくウクライナ民族みんぞく主義しゅぎしゃペトリューラとも対立たいりつしたのは必然ひつぜんであった。

推移すいい[編集へんしゅう]

戦争せんそう開始かいし[編集へんしゅう]

東部とうぶ戦線せんせんのドイツぐんは1918ねんより撤退てったい開始かいしした。ドイツぐん撤退てったいかく地域ちいき共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん誕生たんじょうしたが、ロシアの革命かくめい政府せいふはそれらの共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん連携れんけいすることをのぞんでいた。しかし、かく地域ちいき共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん小規模しょうきぼ連携れんけいれておらず、場合ばあいによっては対立たいりつするなど、東欧とうおう混沌こんとんとした状況じょうきょうにあった。1918ねん11月18にちにレーニンはドイツぐん撤退てったいした地域ちいきけて赤軍せきぐん進出しんしゅつさせるように命令めいれいした。目的もくてきは、各地かくち共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん連携れんけいすることのほか、ドイツとオーストリアの革命かくめい勢力せいりょく支援しえんすることにあった。

1919ねん2がつからポーランドぐんはフランスの支援しえんけて、革命かくめい政権せいけんソ連それん仮想かそうてきとし、ぐん編成へんせい開始かいしした。フランスは、ロシアにおいてしろぐん不利ふりであったことから、わりとして自由じゆう主義しゅぎ陣営じんえいのポーランドを支援しえんすることを決定けっていし、400めい士官しかんからなる軍事ぐんじ顧問こもんだんをポーランドに派遣はけんした[2]。フランスの軍事ぐんじ顧問こもんだんはドイツやロシア、オーストリア・ハンガリーの遺棄いき機材きざいなどをもちいて、ポーランドぐん編成へんせいおこなった。亡命ぼうめいポーランドじんやポーランド移民いみん構成こうせいされ、だいいち世界せかい大戦たいせんにおいては西部せいぶ戦線せんせん義勇ぎゆうへい部隊ぶたいとしてたたかっていたハラー(J.Hallera)将軍しょうぐん部隊ぶたいも、ポーランドぐんくわわった。これにより、1919ねん9がつにはポーランドぐんは54まんにん兵員へいいんゆうし、うち23まんにん東部とうぶ国境こっきょう配置はいちされていた。

1919ねん2がつにヴィリニュスにおいて、赤軍せきぐんはポーランド民兵みんぺい部隊ぶたい撃破げきはし、当地とうち占領せんりょうした。しかし2がつなかばにはコブリンからネマンがわロシア:ニェーマンがわポーランド:ニェメンがわ)にかけて戦線せんせん構築こうちくされはじめ、しろぐん部隊ぶたい交戦こうせん激化げきかしたため、赤軍せきぐんはそれ以上いじょう西にしへの進撃しんげきおこなわなかった。3月にはポーランドも反撃はんげきおこない、ネマンがわえて、リダスロニムまち進撃しんげきしている。また、グロドノやヴィリニュスでも戦闘せんとうおこなわれ、ポーランドぐん勝利しょうりしている。10月までにポーランドぐんドヴィナーがわまで進撃しんげきした。

1919ねん12月の勢力せいりょく範囲はんい

1919ねんのポーランドぐん攻撃こうげきおおむ順調じゅんちょう推移すいいしたが、なつごろのロシア方面ほうめんではドン地方ちほう強大きょうだい勢力せいりょくきずいたはん革命かくめいアントーン・デニーキンぐんモスクワへの進撃しんげきおこなっているなど、きゅうロシア帝国ていこく領域りょういきにおける干渉かんしょう戦争せんそう影響えいきょうおおきかった。なお、きゅうロシア帝国ていこく帝国ていこく主義しゅぎしゃでロシア民族みんぞく至上しじょう主義しゅぎしゃであるデニーキンはポーランドの独立どくりつ理解りかいしめさなかったために、ポーランド政府せいふぐんとの連携れんけいいものではなかった。これは、デニーキンぐんとウクライナ勢力せいりょくとのあいだでも同様どうようのことであった。

和平わへい交渉こうしょうは1919ねんちゅうおこなわれてはいたものの、ポーランドの政治せいじソ連それんたいする譲歩じょうほ拒否きょひし、成立せいりつしなかった。また、リトアニア独立どくりつさい、ヴィリニュスを首都しゅと予定よていとし、ポーランドと交渉こうしょうおこなったものの、民族みんぞくきゅうポーランド・リトアニア共和きょうわこく復活ふっかつ目指めざすポーランドは民族みんぞく主義しゅぎ国家こっか目指めざ新生しんせいリトアニアには譲歩じょうほせず自国じこくりょうとしたために、両国りょうこく関係かんけい悪化あっかしている。一方いっぽうラトビアとの交渉こうしょうにおいてはポーランドぐんへの協力きょうりょくることに成功せいこうしており、翌年よくねんにはソ連それんたいするはん革命かくめい意見いけん一致いっちしたウクライナ人民じんみん共和きょうわこくとの連合れんごうにも成功せいこうする。

1920ねん[編集へんしゅう]

1920ねんはいると、赤軍せきぐんはデニーキンぐん撃破げきはし、ラトビアやエストニア平和へいわ条約じょうやくむすぶことに成功せいこうしたため、ポーランド方面ほうめん赤軍せきぐん集中しゅうちゅうはじめた。1920ねん1がつには70まん赤軍せきぐんベレジナがわ付近ふきん集中しゅうちゅうしていた。1920ねんなかばまでに、これは80まんにん増強ぞうきょうされた。このころの赤軍せきぐんは、ドイツぐん遺棄いき兵器へいき干渉かんしょうぐんから奪取だっしゅした最新さいしん兵器へいき装備そうびされていた。ポーランドぐんは、1920ねんなつには70まん兵員へいいんゆうし、兵力へいりょく赤軍せきぐん同等どうとうであったものの、兵站へいたん状況じょうきょうわるく、装備そうび統一とういつされていないと欠点けってんっていた。

4がつには、ポーランドに亡命ぼうめいしていたペトリューラはポーランドとのあいだワルシャワ条約じょうやく英語えいごばんポーランドばんロシアばんウクライナばんむすび、かれ再建さいけんしたウクライナ人民じんみん共和きょうわこくをウクライナを代表だいひょうする唯一ゆいいつ政府せいふとしてみとめ、たがいに単独たんどく講和こうわむすばない、戦後せんごひがしハリチナーをポーランドに割譲かつじょうするなどを条件じょうけんかれひきいる執政しっせいないかくぐんがポーランドとともたたかうことになった。ペトリューラは、なによりもまずボリシェヴィキをにくんでおり、それをたおすためであれば、ウクライナ民族みんぞく主義しゅぎ思想しそう宿敵しゅくてきであるはずの民族みんぞく国家こっかポーランドとの連合れんごうさなかった。

将兵しょうへいまえ演説えんぜつするレーニン(1920ねん5がつ

一方いっぽう、ポーランドぐん赤軍せきぐん攻勢こうせいまえ先制せんせい攻撃こうげきおこなうことを計画けいかくし、4がつから進撃しんげき開始かいしした(キエフ攻勢こうせい)。ポーランドだい3ぐんはペトリューラぐん共同きょうどうし、5月7にち(または5月6にち)にキエフを占領せんりょうした。しかし赤軍せきぐんただちに反撃はんげきおこない、北部ほくぶにおいては赤軍せきぐん反撃はんげき成功せいこう、ポーランドだい1ぐんおおきく後退こうたいした。5月24にち南部なんぶのポーランドぐんセミョーン・ブジョーンヌイひきいるだい1騎兵きへいぐんコサック攻撃こうげきけた。6がつ10日とおかころまでにポーランドぐん敗退はいたい決定的けっていてきになり、ペトリューラも6月13にち(または6月12にち)にキエフを放棄ほうきして撤退てったいした。戦略せんりゃく予備よび部隊ぶたい不足ふそく重砲じゅうほう不足ふそくとあいまって、整然せいぜんとした撤退てったいとはならず、壊走にちかいものとなった。

1920ねん7がつにもだい規模きぼ戦闘せんとうがあり、はげしい戦闘せんとうすえ赤軍せきぐん勝利しょうりし、ポーランドぐんはさらに撤退てったいすることとなった。ポーランドぐんだいいち世界せかい大戦たいせんのドイツぐん塹壕ざんごうあと利用りようして防御ぼうぎょおこなったりしたが、兵力へいりょくたび不足ふそくにより赤軍せきぐん突破とっぱされた。7がつ14にちにはヴィリニュスを赤軍せきぐん占領せんりょうした。

7がつ16にちボリシェヴィキぐんはポーランド領内りょうない侵攻しんこうすることを決定けっていした[3]レーニンは、赤軍せきぐん侵攻しんこうによってポーランド国内こくないのプロレタリアートががり、赤軍せきぐん共同きょうどうユゼフ・ピウスツキ政権せいけん反抗はんこうするとしんじていた[3]一方いっぽうで、スターリンはこれに反対はんたいし、レーニンのかんがえにたい警告けいこくはっした[3]。スターリンはまた、赤軍せきぐんはポーランドに侵攻しんこうするには準備じゅんび不足ふそく状態じょうたいであり、侵攻しんこう強行きょうこうした場合ばあいクリミアしろぐん再起さいきのチャンスをあたえ、内戦ないせん再燃さいねんする事態じたいになりかねないと主張しゅちょうしたが[3]最終さいしゅうてき議論ぎろんけ、ポーランドへの侵攻しんこう決定けっていした[4]

7がつ19にちにはグロドノを赤軍せきぐん占領せんりょうした。赤軍せきぐん進撃しんげき速度そくどはやく、1にちに20マイルになることもあった。

また、8がつ1にちには、ブレスト・リトフスクを赤軍せきぐんだい16ぐん占領せんりょうしたが、そこのブクがわにおいてポーランドだい4ぐん防戦ぼうせんおこない、赤軍せきぐんを1週間しゅうかんわた足止あしどめした。ミハイル・トゥハチェフスキーひきいる赤軍せきぐん北西ほくせい正面しょうめんぐんは、8がつ2にちワルシャワから60マイルの地点ちてん到達とうたつしている。南方なんぽうのガリツィア地方ちほうにおいても赤軍せきぐん攻勢こうせいでリヴィウなどで戦闘せんとうおこなわれていたが、リヴィウ近郊きんこうにおいてもポーランドぐん反撃はんげき成功せいこう赤軍せきぐん進撃しんげき足止あしどめした。これをけて、赤軍せきぐん利用りよう可能かのう部隊ぶたいをワルシャワ攻撃こうげき集中しゅうちゅうさせることとした。

一方いっぽう、スターリンは南西なんせい戦線せんせんリヴィウ攻略こうりゃく指揮しきしていたものの、8がつ初旬しょじゅん配下はいか部隊ぶたい移動いどうしてトゥハチェフスキーのワルシャワ攻略こうりゃく支援しえんするよう再三さいさんにわたり命令めいれいされながら、命令めいれい実行じっこう拒否きょひした[5]。8がつ中旬ちゅうじゅん、ワルシャワのポーランドぐん反攻はんこうてんじて赤軍せきぐん撃退げきたいし(ヴィスワがわ奇跡きせき)、スターリンは政治せいじきょく会議かいぎ参加さんかするためモスクワに帰還きかんした[6][注釈ちゅうしゃく 1]

ポーランドがわ混乱こんらん[編集へんしゅう]

ポーランドりょうではなく自由じゆう都市としとして独立どくりつしていたものの、ポーランド経済けいざいにとっての最大さいだい貿易ぼうえきみなとであったダンツィヒ(グダニスク)では、ほとんどがドイツ民族みんぞくからなる港湾こうわん労働ろうどうしゃたちがドイツ革命かくめいやそののドイツ労働ろうどう運動うんどう呼応こおうして、イギリス・フランス両国りょうこくから流入りゅうにゅうする物資ぶっしのポーランド国内こくないへの輸送ゆそう妨害ぼうがい遅延ちえんさせた。物資ぶっし供給きょうきゅうとどこおるようになったことで、ポーランドぐん苦境くきょうたされていった。

ポーランドがわはこのときにが経験けいけんによって、1920ねんさかいにダンツィヒ近郊きんこう自国じこくりょう漁村ぎょそんグディニャ当時とうじ世界せかい最新さいしん設備せつび貿易ぼうえきこう建設けんせつ開始かいし、この新港しんこうだい世界せかい大戦たいせんまでかけてバルト海ばるとかい沿岸えんがん諸国しょこく最大さいだいかつ最新さいしん貿易ぼうえきこうとして拡張かくちょう整備せいびしていくことになるが、このグディニャ整備せいびによってダンツィヒの貨物かもつ取扱とりあつかいだか激減げきげんし、ダンツィヒのドイツけい住民じゅうみん熱狂ねっきょうてきナチス支持しじしゃとなっていくのである。

外交がいこう[編集へんしゅう]

ポーランドのポスター『ボリシェヴィキ自由じゆう』。はだかおとこレフ・トロツキー

ポーランドの首相しゅしょうS・グラブスキ(S. Grabski)は、7がつ1にち国家こっか元首げんしゅ議会ぎかい(セイム)議長ぎちょう首相しゅしょう閣僚かくりょう3にんぐん代表だいひょう3にん大使たいし10にんから国防こくぼう会議かいぎ全権ぜんけん委任いにんした。しかしポーランド政府せいふ要請ようせいにより西側にしがわ外交がいこうかんはじめた予備よび交渉こうしょうソ連それんがわ拒否きょひい、グラブスキないかくそう辞職じしょくし、W・ウィトス(W. Witos)を首相しゅしょうとする(右翼うよくから左翼さよくまでが一丸いちがんとなった)挙国一致きょこくいっち国防こくぼう政府せいふ成立せいりつした。ここでポーランド国民こくみん愛国心あいこくしんがり、ポーランドぐん一気いっき志願しがんへいあつまり総数そうすう90まんとなった。

ソ連それんは7がつ28にち占領せんりょうしたポーランド地域ちいき共産きょうさん政権せいけんであるポーランド臨時りんじ革命かくめい委員いいんかい(Tymczasowy Komitet Rewolucyjny Polski)を樹立じゅりつしたが、住民じゅうみん支持しじけなかったために、成功せいこうはしなかった。

新生しんせいリトアニアははんポーランドの姿勢しせいであり、ソ連それん圧力あつりょくと、ヴィリニュスの確保かくほ目的もくてきのために1919ねん7がつソ連それんがわ参戦さんせんした。

フランスは軍事ぐんじ顧問こもんだん派遣はけんするなど、ポーランドを支援しえんしていた。1920ねんにポーランドが危機ききおちいると、フランスとイギリスはさらにマキシム・ウェイガン将軍しょうぐん軍事ぐんじ顧問こもんとして派遣はけんした。

ヴィスワがわ奇跡きせき[編集へんしゅう]

1920ねん8がつ勢力せいりょく範囲はんい

8がつ10日とおかより赤軍せきぐんのコサック部隊ぶたいによるワルシャワ包囲ほういのための行動こうどう開始かいしされ、たいするポーランドぐんエドヴァルト・リッツ=シミグウィがワルシャワのまもりをかたワルシャワのたたかはじまった。トゥハチェフスキーひきいる赤軍せきぐん北西ほくせい正面しょうめんぐんは、ワルシャワの北部ほくぶにポーランドぐん部隊ぶたいすくないことから、主力しゅりょく北部ほくぶ集中しゅうちゅうさせ、北西ほくせい正面しょうめんぐん左翼さよく兵力へいりょくうすくし、ブジョーンヌイのだい1騎兵きへいぐんにカバーしてもらう心積こころづもりであった。赤軍せきぐん司令しれいはトゥハチェフスキーの要請ようせいしたがい、だい1騎兵きへいぐん北上ほくじょうするようにめいじたが、北西ほくせい正面しょうめんぐん南西なんせい正面しょうめんぐん指揮しきかんあいだ不仲ふなか南西なんせい正面しょうめんぐん政治せいじ顧問こもんヨシフ・スターリン思惑おもわくにより、だい1騎兵きへいぐんはワルシャワではなく、みなみのリヴィウの攻略こうりゃく継続けいぞくすることとなった。

ヴワディスワフ・シコルスキ将軍しょうぐんひきいるポーランドだい5ぐんは、8がつ14にちにワルシャワのきたにあるモドリンから出撃しゅつげきし、1にちあたり30キロ以上いじょう迅速じんそく機動きどうおこない、赤軍せきぐん攻撃こうげき足止あしどめした。そのあいだに、ピウスツキ指揮しきの5歩兵ほへい師団しだん1個いっこ騎兵きへい旅団りょだんから機動きどう部隊ぶたいは、だい1騎兵きへいぐんがカバーしなかったことからしょうじた、赤軍せきぐん北西ほくせい正面しょうめんぐん南西なんせい正面しょうめんぐんとのあいだ間隙かんげき進撃しんげきし、北西ほくせい正面しょうめんぐん包囲ほういにかかった。包囲ほういおそれたトゥハチェフスキーはぐん撤退てったいめいじ、赤軍せきぐん打撃だげきけ、ブクがわひがしまで撤退てったいした。ポーランドはこの勝利しょうりを「ヴィスワがわ奇跡きせき」とんだ。

8がつ17にちには、赤軍せきぐんのリヴィウへの進撃しんげき停止ていしした。8がつ29にちから31にちにかけて、だい1騎兵きへいぐんもリヴィウのきたザモシュチュでポーランド騎兵きへい部隊ぶたい戦闘せんとうおこな敗退はいたいする。9月6にち戦闘せんとうでも敗退はいたいし、東方とうほうのヴラジミルボルィンスキ方向ほうこう撤退てったいした。

トゥハチェフスキーは赤軍せきぐん部隊ぶたいさい編成へんせいし、9月にはグロドノ付近ふきん戦線せんせん構築こうちくしたが、ポーランドぐんはネマンがわ付近ふきん戦闘せんとう赤軍せきぐん撃破げきはし、さらに東方とうほうへの進撃しんげきつづけた。10月なかばにポーランドがベラルーシの首都しゅとミンスク近郊きんこうまで進撃しんげきするにいたり、ソビエト政府せいふ和平わへい提案ていあん10月12にち停戦ていせん条約じょうやくであるリガ条約じょうやく調印ちょういん、18にち発効はっこうした。

結果けっか[編集へんしゅう]

1920ねん以降いこう国境こっきょう

ポーランド政府せいふは、ロシア・ソビエト政府せいふとウクライナ・ソビエト政府せいふとのあいだにリガ条約じょうやく締結ていけつしたが、これはポーランド政府せいふがウクライナ・ソビエト政府せいふをウクライナの代表だいひょう政府せいふとしてみとめたということを意味いみするものであった。これはポーランドが西欧せいおう諸国しょこく国際こくさい連盟れんめいからつよ圧力あつりょくけたためであるとはいえ、結果けっかとしてペトリューラがポーランドとの共同きょうどう戦線せんせんさいむすんだ「ウクライナ人民じんみん共和きょうわこくをウクライナを代表だいひょうする唯一ゆいいつ政府せいふとしてみとめる」という協定きょうてい違反いはんしたものになってしまった。なお、リガ条約じょうやく当時とうじロシアとウクライナには独立どくりつしてソビエト政府せいふ存在そんざいしていた。戦争せんそう当時とうじポーランドに亡命ぼうめいしていたペトリューラはそのポーランドをはなれてウィーンへ亡命ぼうめいして「西にしウクライナ人民じんみん政府せいふ」を主宰しゅさいしつづけた。そのパリに亡命ぼうめいしたが、1926ねんにユダヤじん政府せいふ主義しゅぎしゃシュワルツバルトによって暗殺あんさつされた。[8]

ポーランド政府せいふは1922ねん日本にっぽん政府せいふとのあいだでにち通商つうしょう航海こうかい条約じょうやく調印ちょういんし、手厚てあつ経済けいざいてき支援しえんけた。

この戦争せんそう見聞けんぶんしたシャルル・ド・ゴールなどは、つぎ戦争せんそう形態けいたい正確せいかく予測よそくするにいたった。ポーランド政府せいふは、この戦争せんそう経験けいけんから騎兵きへい部隊ぶたい重要じゅうようし、そのねりなり積極せっきょくてきおこなうこととなった。この戦争せんそう参加さんかした最後さいご兵士へいしユゼフ・コワルスキー2013ねんまで存命ぞんめいしていた。

ソビエト政府せいふ軍事ぐんじてき敗北はいぼくをしたこともあって、領土りょうどめん大幅おおはばにポーランドに譲歩じょうほし、ベラルーシおよびウクライナの西部せいぶ(ガリツィア)はポーランドりょうとなった。ポーランドも消耗しょうもうしていたため、和平わへいむすぶことには同意どういしていた。しかし、これは個別こべつ和平わへいむすばないとするウクライナじん民族みんぞく主義しゅぎ勢力せいりょくとの軍事ぐんじ同盟どうめいはんするものであった。このことは、のちソ連それんはんポーランドプロパガンダ利用りようされることとなった。

失脚しっきゃくしたスターリンは、1922ねんソビエト共産党きょうさんとう書記しょきちょう復帰ふっきした。1923ねん日本にっぽん検事けんじ総長そうちょうであった小山こやま松吉まつきちが『「ソヴイエト」こく司法しほう制度せいどおよ訴訟そしょう手続てつづき』(法曹ほうそうかい雑誌ざっし)を出版しゅっぱんし、翌年よくねん1924ねんレーニンぼっした。

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

映画えいが
小説しょうせつ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく
  1. ^ モスクワにもどったのち、スターリンはレーニンとトロツキーから戦争せんそう指導しどうについて批判ひはんされ、8がつ17にちみずからを軍事ぐんじてき役職やくしょくから解任かいにんすることを要求ようきゅうし、9月1にち受理じゅりされた[7]
出典しゅってん
  1. ^ フランスの軍事ぐんじ顧問こもんだん反対はんたいしていた。
  2. ^ 軍事ぐんじ顧問こもんだんにはシャルル・ド・ゴール参加さんかイギリス士官しかん小数しょうすうくわわっていた。
  3. ^ a b c d Service 2004, p. 177.
  4. ^ Service 2004, p. 178.
  5. ^ Conquest 1991, p. 87; Service 2004, p. 179; Kotkin 2014, p. 362; Khlevniuk 2015, p. 60.
  6. ^ Service 2004, pp. 180, 182; Kotkin 2014, p. 364.
  7. ^ Service 2004, p. 182; Kotkin 2014, pp. 364–365.
  8. ^ なお一部いちぶウクライナじんにはシュワルツバルトをソ連それんのエージェントと主張しゅちょうするものもいるが、世界せかい規模きぼると歴史れきし学者がくしゃあいだでは少数しょうすうである

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]