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中東戦域 (第一次世界大戦) - Wikipedia コンテンツにスキップ

中東ちゅうとう戦域せんいき (だいいち世界せかい大戦たいせん)

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だいいち世界せかい大戦たいせん中東ちゅうとう戦域せんいき
だいいち世界せかい大戦たいせんなか
The Gallipoli Campaign, February–April 1915
1915ねん4がつ ガリポリ戦役せんえき
とき1914ねん10月29にち1918ねん10月30にち
(4ねん1日間にちかん)
場所ばしょ中東ちゅうとうスーダンエジプトシナイ半島しないはんとうパレスチナシリアヨルダンペルシャガリポリ半島はんとうアラビア半島はんとうペルシアわんメソポタミア)、コーカサス中央ちゅうおうアジア
結果けっか

連合れんごうこく勝利しょうり

領土りょうど
変化へんか
オスマン帝国ていこく分割ぶんかつ英語えいごばん
衝突しょうとつした勢力せいりょく

イギリスの旗 イギリス帝国ていこく

ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく
フランスの旗 フランス

アルメニアの旗 アルメニア
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
イタリア王国の旗 イタリア王国おうこく
ヒジャーズ王国おうこく
アシール王国おうこく英語えいごばん
ナジュドおよびハッサ王国おうこく

クウェート[1][2][3]

オスマン帝国の旗 オスマン帝国ていこく
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく[4][5]

ジャバル・シャンマル王国おうこく
戦力せんりょく
イギリスの旗: 2,550,000[6]
ロシア帝国の旗: 1,000,000[7]
フランスの旗: すうじゅうまん[7]
アルメニアの旗: すうじゅうまん[7]
イタリア王国の旗: 70,000[6]
合計ごうけい: 3,620,000+

オスマン帝国の旗: 2,800,000 (徴兵ちょうへいした兵士へいしふくめて),[8] (最大さいだいで800,000)[8][9]
ドイツの旗: 2,100,000 (1916ねん8がつ), 20,000 (1918ねん)[8]
:9,000 (1918ねん)[10] ムドロス休戦きゅうせん協定きょうてい時点じてんぜんオスマンぐんへいすうは323,000。[11]

ぜん戦線せんせんでの兵士へいしすうは2,002,000だった。[11]
被害ひがいしゃすう
死傷ししょう捕虜ほりょ行方ゆくえ不明ふめい 1,000,000 – 1,500,000 [よう出典しゅってん] 死傷ししょう捕虜ほりょ行方ゆくえ不明ふめい 1,500,000(243,598の戦死せんししゃふくむ)[12]
合計ごうけい 民間みんかんじんふくむと5,000,000。[13] オスマン帝国ていこく具体ぐたいてき死傷ししょうしゃ内訳うちわけは、だいいち世界せかい大戦たいせんのオスマン帝国ていこく死傷ししょうしゃ英語えいごばん参照さんしょう

中東ちゅうとう戦域せんいき(ちゅうとうせんいき)または中東ちゅうとう戦線せんせん(ちゅうとうせんせん)とは、だいいち世界せかい大戦たいせんなかガリポリコーカサス英語えいごばんシナイ・パレスチナ英語えいごばんペルシア英語えいごばんメソポタミア英語えいごばんなど、中東ちゅうとう地域ちいき展開てんかいされた連合れんごうこく中央ちゅうおう同盟どうめいこくたたかいのおこなわれた戦線せんせん総称そうしょう

背景はいけい

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オスマン帝国ていこく大戦たいせん勃発ぼっぱつ当初とうしょにおいてはしんどくてき中立ちゅうりつにあった。しかし、オスマン債務さいむ管理かんりきょくまれたドイツ帝国ていこくとの経済けいざい関係かんけいがさらに密接みっせつとなり、ついに大戦たいせん参加さんか決心けっしんした。オスマンぐん1914ねん10月29にちクリミア半島くりみあはんとう砲撃ほうげきしてロシア帝国ていこくとの国交こっこう断絶だんぜつイギリスフランスはオスマンにたい抗議こうぎしたが無視むしされた。そのためえいふつもまたオスマンにたい敵対てきたい行動こうどうるにいたった。

1914ねん

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1914ねん 戦地せんちへと行軍こうぐんする訓練くんれんえたばかりのオスマンぐん新兵しんぺい

コーカサス

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11月2にち開戦かいせん同時どうじにロシア帝国ていこくコーカサスぐんオスマンだい3ぐん英語えいごばん根拠地こんきょちであるエルズルムへと進撃しんげきした。国境こっきょう付近ふきんうすいながらも騎兵きへいまく展開てんかいしていたオスマンぐんはすぐにこれをることができた。オスマンだい11軍団ぐんだん英語えいごばん反撃はんげきし、さらにオスマンだい9軍団ぐんだん英語えいごばんくわわってゆっくりと北進ほくしんしていった。11月のわりまでに戦線せんせん国境こっきょうからエルズルムにかって25キロメートルの地点ちてん膠着こうちゃくした。ロシアぐん損害そんがいやく7せんで、オスマンぐんやく1まん3せんうしなった[14]

12月8にちだい3ぐんかつれるため参謀さんぼう本部ほんぶいんハーフズ・ハック・ベイ大佐たいさだい3ぐんふく参謀さんぼうちょうとしてトラブゾンへと到着とうちゃくした。ハック大佐たいさだい3ぐん参謀さんぼうちょうでドイツじんのグーゼ(Guse)中佐ちゅうさ攻勢こうせい計画けいかく策定さくていするよう個人こじんてき指示しじあたえた。グーゼ中佐ちゅうさ作戦さくせん計画けいかくてたが、あまりに雄大ゆうだい作戦さくせんのためだい3ぐん司令しれいかんハサン・イッゼト・パシャ難色なんしょくしめし、隷下れいかだい9軍団ぐんだんちょうアフメト・フェヴズィ英語えいごばんじゅんしょう不安ふあんらした。このあんは、1個いっこ軍団ぐんだん前線ぜんせんのロシアぐん拘束こうそくし、2軍団ぐんだんでもって左翼さよくからロシアぐん背後はいごまわむというものである。12月12にち参謀さんぼう総長そうちょうエンヴェル・パシャがエルズルムへ到着とうちゃくし、このだい規模きぼ攻勢こうせい作戦さくせん実行じっこう決断けつだんした。だい9およだい10軍団ぐんだん英語えいごばんちょう作戦さくせん成功せいこう疑問ぎもんらして更迭こうてつされた。

12月22にちオスマンだい3ぐん攻勢こうせい開始かいしした。ロシアがわ[15]はこれほどはや攻勢こうせいるとは予想よそうだにしていなかったが、前線ぜんせんから野戦やせん司令しれいとど報告ほうこくはオスマンぐん攻撃こうげきしめしていた。作戦さくせん2にち、オスマンぐんさい左翼さよくだい10軍団ぐんだんオルトゥ占領せんりょうしてさらに前進ぜんしん左翼さよくだい9軍団ぐんだんは24にちまでにサルカムシュ郊外こうがいたっし、25にちよるにはサルカムシュのきゅう市街しがい到達とうたつした。28にちにはだい10軍団ぐんだんはセリムにすすめ、サルカムシュとカルスとをつなぐ道路どうろ封鎖ふうさした。ここまで順調じゅんちょうすべしをせたオスマンぐん攻勢こうせいであったが、急激きゅうげき天候てんこう悪化あっかとロシアぐん反撃はんげきによって急速きゅうそくおとろえてくる。12月のわりごろのオスマンだい10軍団ぐんだん記録きろくによると、ゆきが1.5メートルにまでたっし、気温きおんはマイナス26にまでがったという[16]

オスマンぐん右翼うよくだい11軍団ぐんだん前線ぜんせんのロシアぐんへのけは十分じゅうぶんではなく、多数たすうのロシアぐん将兵しょうへいがサルカムシュ防衛ぼうえいのため後退こうたいしていった。カフカスぐん司令しれいかん代理だいり情勢じょうせい悲観ひかんして前線ぜんせんより退避たいひしたが、参謀さんぼうちょうでこのときロシアだい2カフカス軍団ぐんだん指揮しきしていたニコライ・ユデーニチはあくまでもサルカムシュ固守こしゅ決断けつだん現地げんち指導しどうするとともに部隊ぶたいをサルカムシュにけるよう指示しじした。オスマンだい9軍団ぐんだんはサルカムシュ占領せんりょう手間取てまどり、だい10軍団ぐんだん北方ほっぽうより応援おうえんたロシア援軍えんぐん部隊ぶたい側面そくめんさらされて苦戦くせんした。エルヴェル・パシャは督戦とくせんするも戦況せんきょう進展しんてんせず、1がつ4にちさかいにして攻守こうしゅ逆転ぎゃくてんした。強烈きょうれつなロシアぐん圧迫あっぱくこたえかねてオスマンだい9およだい10軍団ぐんだん後退こうたいはじめる。さらにだい10軍団ぐんだん司令しれい襲撃しゅうげきされて司令しれいかんおよ参謀さんぼうちょう捕虜ほりょとなる惨状さんじょうらし、1がつ7にちオスマンぐん全面ぜんめん退却たいきゃくうつった。

サルカムシュ会戦かいせんばれるたたかいはロシアぐん勝利しょうりわり、ロシアの将軍しょうぐんユデーニチはロシア・カフカスぐん野戦やせん司令しれいかんへと昇進しょうしんした。ほん会戦かいせんによってオスマンぐんへいやく5まんにんうしな[17]、ロシアぐんは2まん8せんもの損害そんがいした[18]

1915ねん

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コーカサス

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前年ぜんねんのオスマンぐんだい敗北はいぼくにより戦力せんりょくバランスがおおきくくずれていたがロシアぐん東部とうぶ戦線せんせんいそがしく、またオスマンぐんイスタンブール方面ほうめんから増援ぞうえんせたことにより戦力せんりょくしょう拮抗きっこうすることとなった。あきにはあたらしいロシアぐん前線ぜんせん指揮しきかんニコライ・ニコラーエヴィチ大公たいこう就任しゅうにんし、りょうぐん対峙たいじのままこのとしえた。

ダーダネルス

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1915ねん ガリポリ半島はんとうでのムスタファ・ケマル兵士へいしたち。

東部とうぶ戦線せんせんどくおうぐん相対そうたいするロシアぐんはコーカサス方面ほうめん負担ふたんかんじており、イギリスにこの圧力あつりょくやわらげてもらえるよう要請ようせいした。イギリスがわはこれにこたえるため海軍かいぐんによるダーダネルス海峡かいきょう強行きょうこう突破とっぱ計画けいかくされた。イギリス政府せいふコンスタンティノープル目標もくひょうとしてガリポリ半島はんとう攻撃こうげき決定けってい、2がつ海軍かいぐんによる攻撃こうげき準備じゅんびした。

一方いっぽう、オスマンがわでは1914ねん8がつ動員どういんよりガリポリ半島はんとうにはさい精鋭せいえい配置はいちされ、バルカン戦争せんそう戦闘せんとう経験けいけんしゃ優先ゆうせんてき配属はいぞくされた。半島はんとう防衛ぼうえいにはバルカン戦争せんそう勇名ゆうめいをはせたエサド・パシャ指揮しきだい3軍団ぐんだんかれ、集中しゅうちゅうおそいオスマンぐんなかでは異例いれいともいえる予定よていどおりの22にち動員どういん完結かんけつした。チャナッカレ地域ちいき全体ぜんたいジェヴァト・ベイ指揮しきのチャナッカレ要塞ようさい地区ちく司令しれい統括とうかつし、たい上陸じょうりくせん訓練くんれんにいそしんだ。11月3にちのイギリス海軍かいぐんによる襲撃しゅうげきはダーダネルス海峡かいきょう重要じゅうようさをオスマンぐん認識にんしきさせ、ドイツぐん砲兵ほうへい部隊ぶたいふく多数たすう火砲かほうはこまれた。1915ねん2がつ19にちえいふつ連合れんごう艦隊かんたいガリポリ半島はんとう南端なんたんおよ対岸たいがんほうたいして砲撃ほうげき。ついで25にちだい2かい攻撃こうげき、3月より断続だんぞくてき攻撃こうげきした。3月18にち攻撃こうげき最高潮さいこうちょうたっしたがえいふつ艦隊かんたい戦艦せんかん3せき沈没ちんぼつふくだい損害そんがいをこうむって失敗しっぱいし、これにより陸軍りくぐんによる上陸じょうりく作戦さくせん計画けいかくうつった。

4がつ25にちえいふつ連合れんごうぐんはチャナッカレ地域ちいきにおいて強行きょうこう上陸じょうりく開始かいし、キリディ・バヒル要塞ようさい占領せんりょう目的もくてきとし、一部いちぶをもってサロスおよびアジアがわクム・カレに牽制けんせい上陸じょうりく主力しゅりょくをもってアルブルヌ(アンザック)およびガリポリ半島はんとう南端なんたん上陸じょうりくした。オスマンぐんはチャナッカレ地域ちいきあらたにザンデルス・パシャ指揮しきだい5ぐんをすえて連合れんごうぐんむかった。アルブルヌ方面ほうめんではムスタファ・ケマル・ベイ指揮しきだい19師団しだん果敢かかん攻撃こうげきによってアンザック橋頭堡きょうとうほめることに成功せいこうし、半島はんとう南端なんたん方面ほうめんではハリル・サーミ・ベイ指揮しきだい9師団しだんえいだい29師団しだん進出しんしゅつをなんとかめた。これよりガリポリでのたたかいは西部せいぶ戦線せんせんにも陣地じんちせん様相ようそうていし、夏季かきおこなわれたクリティア (キルテ)攻防こうぼうせん人命じんめいばかりがうしなわれた。

戦局せんきょく打開だかいのため連合れんごうぐんは8がつ上旬じょうじゅんをもってそう攻撃こうげき計画けいかく当初とうしょからの目的もくてき、キリディ・バヒル要塞ようさい占領せんりょう目指めざし、半島はんとう南端なんたんにおいて陽動ようどう攻撃こうげきをなし、アンザック部隊ぶたいおもおさむとしてスヴラわんあらたにべつ部隊ぶたい上陸じょうりくしてこれを援護えんごすることとなった。オスマンがわ連合れんごうぐん攻勢こうせい察知さっちしていたがだい5ぐんはスヴラを重視じゅうしせず、サロスわんあらたに上陸じょうりくするものと予想よそうしていた。8月8にち連合れんごうぐんそう攻撃こうげき開始かいしした。オスマンぐんはスヴラ上陸じょうりく驚愕きょうがくし、ただちにサロスわんにいた部隊ぶたいをスヴラへと南下なんかさせた。これとともに半島はんとう南端なんたんたいする南部なんぶ集団しゅうだん、アンザックにたいする北部ほくぶ集団しゅうだんくわえてあらたにスヴラ上陸じょうりく部隊ぶたいえいだい9軍団ぐんだん)にたいするアナファルタラル集団しゅうだん創設そうせつし、これにムスタファ・ケマルをこれにてた。スヴラではイギリスぐん緩慢かんまん前進ぜんしんたいしてオスマンぐん急速きゅうそく集中しゅうちゅうして要地ようち占領せんりょう攻撃こうげきしとどめた。アンザック方面ほうめんでは高地こうち占領せんりょうするオスマンぐんたいしアンザックが果敢かかん突貫とっかんしたが、ついに挫折ざせつした。

1916ねん1がつ初旬しょじゅんまでにガリポリ半島はんとうじょう連合れんごうぐん全面ぜんめん撤退てったいした。

メソポタミア

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1915ねん12月 クートのたたかでの塹壕ざんごう

ペルシャ湾ぺるしゃわん石油せきゆ利権りけん保護ほご名目めいもくとして、イギリスぐんはメソポタミアへと進攻しんこうした。1914ねん11月6にち、インドへい主体しゅたいとした1個いっこ師団しだんシャットゥルアラブがわ河口かこうファオに上陸じょうりく(アル=ファオ上陸じょうりくせん)。微弱びじゃくなオスマンぐん部隊ぶたい撃退げきたいして、1914ねん11月23にちバスラ占領せんりょうした。1915ねん3がつジョン・ニクソン大将たいしょうがインドから増援ぞうえんの1コ師団しだんひきいて着任ちゃくにんし、メソポタミアにおけるぜん英軍えいぐん指揮しきした。

イラク(メソポタミア)には戦前せんぜん、オスマンぐん4コ師団しだん駐屯ちゅうとんしていたが、1914ねん8がつ動員どういん開始かいしとともに3コ師団しだん転出てんしゅつ。うち、1コ師団しだんもどされて、2コ師団しだん主力しゅりょくとなっていた。1915ねん4がつ15にち、イラク地区ちく司令しれい司令しれいかんけんバスラ県知事けんちじスュレイマン・アスケリー・ベイ英語えいごばん中佐ちゅうさ指揮しきのオスマンぐんやく1まん2せんは、バスラ奪還だっかんのため攻撃こうげきしたが撃退げきたいされた。自軍じぐんのあまりの不甲斐ふがいないたたかいぶりに憤激ふんげきしたスュレイマン・アリケリーは自決じけつし、オスマンぐんわりにヌーレッディン・ベイ大佐たいさをしてイラク地区ちく司令しれい司令しれいかんめいじた。

5月24にちだい12インド師団しだんナーシリーヤ占領せんりょうどう28にちにはだい6プーナ師団しだんがアマラを占領せんりょうし、オスマンぐん前衛ぜんえい部隊ぶたい北方ほっぽう駆逐くちくした。10月、だい6プーナ団長だんちょうチャールズ・タウンゼンド英語えいごばん将軍しょうぐんクート・エル・アマラ (クート)を占領せんりょう。バグダードを目指めざしてなおも前進ぜんしんし、前面ぜんめん防御ぼうぎょせんるオスマンぐんとのあいだでセルマン・パーク会戦かいせん(クテシフォンのたたかい)がおこなわれた。3コ師団しだんもの増援ぞうえんけたヌーレッディンは陣地じんちまもりきり、ぎゃくだい6プーナ師団しだんはクートにかって敗走はいそうした。タウンゼンドはクート固守こしゅ決意けついして篭城ろうじょうし、追撃ついげきするオスマンぐんはこれを包囲ほういした。

シナイおよびパレスチナ

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1914ねんまつからシリア集中しゅうちゅうしていたオスマンだい4ぐんエジプト攻略こうりゃくのため前進ぜんしん開始かいしした。当事とうじ英軍えいぐんカイロ付近ふきんやく4師団しだん集中しゅうちゅうしてオスマンぐんよりも優勢ゆうせいだった。 しかしオスマンぐん兵力へいりょく過大かだい判断はんだんして守勢しゅせいり、スエズ運河うんがせん陣地じんちかまえていた。オスマンぐんは2がつ2にちより主力しゅりょくをもって攻撃こうげきしたが英軍えいぐん頑強がんきょう抵抗ていこう成功せいこうせずシリアに退却たいきゃくした。これ以後いごりょうぐんともガリポリせんいそがしく沈静ちんせい状態じょうたいとなった。

1916ねん

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コーカサス

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1がつ中旬ちゅうじゅんからロシアぐん攻勢こうせい開始かいしし、2がつ18にちにはエルズルム要塞ようさい攻略こうりゃくした。オスマンぐん急遽きゅうきょ増援ぞうえんけてなん回復かいふく攻撃こうげきおこなったがすべて撃退げきたいされ、7がつ下旬げじゅんにはエルズィンジャンもロシアぐん占領せんりょうされてしまった。

メソポタミア

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1916ねん メソポタミア戦線せんせん英語えいごばんでのオスマンぐん参謀さんぼう本部ほんぶ

メソポタミアでは、前年ぜんねんよりオスマン包囲ほういぐん1まん4せん~5せん篭城ろうじょうぐん1まん3せんによるクート攻囲こういせんつづいていた。ヌーレッディンは当初とうしょ急襲きゅうしゅうによってクートを奪取だっしゅしようとしたが失敗しっぱいし、正攻法せいこうほうえた。英軍えいぐんはエイルマー将軍しょうぐん歩兵ほへい3旅団りょだん騎兵きへい1個いっこ旅団りょだんをもってクート救出きゅうしゅつおもむかせた。1月、ヌーレッディンはコーカサス戦線せんせん転出てんしゅつしてハリル・ベイ大佐たいさがこれにわる。エイルマーはなんほどけかこえ攻撃こうげきおこなったが、クート前面ぜんめんのオスマン軍陣ぐんじんくことができなかった。4月29にち篭城ろうじょう4ヶ月かげつすえついにクートは陥落かんらく劣勢れっせい包囲ほういぐん優勢ゆうせいなる救出きゅうしゅつ部隊ぶたい阻止そしして篭城ろうじょう部隊ぶたい降伏ごうぶくせしめたクッテル・アマラ攻囲こういせんは、オスマンぐん戦史せんしかざたたかいとなった[19]

4がつ18にちにバグダード総督そうとくけんだい6ぐん司令しれいかんでドイツじんコルマール・フォン・デア・ゴルツ将軍しょうぐん死去しきょともない、24にちハリル・ベイミールリヴァー英語えいごばん昇進しょうしんしてバグダード総督そうとく任命にんめいされた。

クートでの失敗しっぱいりた英軍えいぐん司令しれいかんをモードにえて戦力せんりょく充実じゅうじつつとめ、積極せっきょくてき行動こうどうることなく年末ねんまつむかえた。一方いっぽう、オスマンぐん戦力せんりょく不足ふそくにもかかわらず一部いちぶ部隊ぶたいかれたうえペルシア出兵しゅっぺい英語えいごばんによってへい酷使こくしする羽目はめになった。

シナイおよびパレスチナ

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6がつにオスマン帝国ていこく支配しはいのメッカ太守たいしゅフサイン・イブン・アリーはイギリスのちゅうエジプト高等こうとう弁務べんむかんヘンリー・マクマホンびかけにおうヒジャーズ王国おうこく独立どくりつ宣言せんげんし、オスマン帝国ていこくたいアラブ反乱はんらん開始かいしした。8がつオスマンぐん再度さいどスエズに進攻しんこうし、ロマニのたたかこった。結果けっかてきにオスマンぐん敗退はいたいした。

ペルシア

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1917ねん

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コーカサス

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1916-17ねんふゆりょう陣営じんえいとも休止きゅうし状態じょうたいとなっていた。はるになってもこの状態じょうたいつづき、5月にいたりロシアぐん革命かくめい余波よはけてまった戦意せんい喪失そうしつ。ロシアぐんはムシュへの局地きょくちてき撤退てったいをした。ロシアぐんにとって幸運こううんなことに、カフカスのオスマンだい2ぐんだい3ぐん過去かこ作戦さくせんによっていためつけられており、これを追撃ついげきする能力のうりょくはなかった。結局けっきょく、1917ねんわりまでだい規模きぼ戦闘せんとうおこなわれず、オスマンぐんだい規模きぼ攻勢こうせいもなかった。

メソポタミア

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戦力せんりょく補充ほじゅうした英軍えいぐん後方こうほう機関きかん充実じゅうじつさせ、またそう兵力へいりょくは9まん5せんたっした。1916ねん12月8にち英軍えいぐんはクートさい占領せんりょう目指めざして攻勢こうせい開始かいしむかつはキャーズム・カラベキル大佐たいさ指揮しきするへいやく1まんである。翌年よくねん2がつ23にち激戦げきせんすえ英軍えいぐんはクートを占領せんりょうし、バグダードを目指めざしてさらに進撃しんげきつづけた。オスマンぐん少数しょうすう援軍えんぐんけバグダードを固守こしゅしようとしたが、イギリスぐん戦線せんせん突破とっぱされた。3月11にち、オスマンぐん重要じゅうよう作戦さくせん根拠地こんきょちでありドイツ中東ちゅうとう戦略せんりゃく重要じゅうよう地点ちてんでもあったバグダード陥落かんらくした。

ハリル・パシャは英軍えいぐん前進ぜんしん極力きょくりょく阻止そししようとすくない兵力へいりょく増援ぞうえんをかきあつ陣地じんちいた。5月になって猛暑もうしょのためりょうぐんとも作戦さくせん行動こうどう中止ちゅうしし、9月にいたり英軍えいぐん再度さいど攻勢こうせいる。オスマンぐんはじりじりと後退こうたいさせられ、まったくの敗勢はいせいとなった。11月18にちにはえいモード将軍しょうぐんがチフスにかかって病死びょうしし、マーシャル将軍しょうぐんがこれにわった。

シナイおよびパレスチナ

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エルサレムのたたかい (1917ねん)英語えいごばんでのイギリスぐん砲兵ほうへい

イギリスぐんは1916ねん12月より攻撃こうげき前進ぜんしんこし、翌年よくねん1がつ8にちラファ占領せんりょう。さらにエル・アリシュを占領せんりょうし、シナイ半島しないはんとうからオスマンぐん駆逐くちくされた。いきおいにるイギリスぐんは3がつ要衝ようしょうガザ攻撃こうげき敢行かんこうした。イギリスぐんはガザをほとんど包囲ほういしたにもかかわらずふか塹壕ざんごうにこもるオスマンぐん部隊ぶたいくことができず、オスマンだい4ぐんの2師団しだんによる反撃はんげきによって撃退げきたいされてしまった。4月、若干じゃっかん増援ぞうえんけたイギリスぐん再度さいどガザを攻撃こうげきした。しかしオスマンぐん増援ぞうえんけており、陣地じんちもさらにふかくしていた。イギリスぐん少数しょうすう戦車せんしゃ投入とうにゅうするもついにガザをも攻略こうりゃくすることはかなわなかった。この失敗しっぱいけてえいエジプト遠征えんせいぐん司令しれいかんはマレイからエドムンド・アレンビーen)にわった。

アレンビーは本国ほんごくだい規模きぼ増援ぞうえん要求ようきゅうし、大量たいりょう兵員へいいん火砲かほう増加ぞうか後方こうほう体制たいせい充実じゅうじつがなされた。これにくわえてアレンビーはがっていた士気しきなおしつつ遠征えんせいぐん西部せいぶ戦線せんせん方式ほうしき導入どうにゅうし、歩兵ほへい砲兵ほうへい戦術せんじゅつ改善かいぜん重砲じゅうほうへい統括とうかつする砲兵ほうへいぐん創設そうせつなどの改革かいかく断行だんこうして戦闘せんとう有効ゆうこうせい大幅おおはばげた。一方いっぽうオスマンぐんサイドでは、ヨーロッパに派遣はけんしていた部隊ぶたい撤収てっしゅうさせてこれをもと電撃でんげきぐん集団しゅうだん[20]とその隷下れいかだい7ぐんしん編成へんせいした。エンヴェルの構想こうそうでは、電撃でんげきぐん集団しゅうだんをメソポタミアに投入とうにゅうしてバグダード攻勢こうせいおこなうつもりだったが、周囲しゅういもう反対はんたいにあったうえぐん集団しゅうだん司令しれいかん就任しゅうにんしたフォン・ファルケンハインにも反対はんたいされたため、危険きけんたかいガザ-ベエルシェバせん配置はいちされた。また、パレスチナに元々もともといただい4ぐんのうちガザ方面ほうめん前線ぜんせん配置はいちされていた部隊ぶたいだい8ぐんとしてあらたに編成へんせいした。

10がつまつ、イギリスぐんはガザに陽動ようどう攻撃こうげきおこない、ベエルシェバに攻撃こうげき敢行かんこうした。数々かずかず欺瞞ぎまん工作こうさくによってイギリスぐんがガザに攻撃こうげきをかけるとしんじさせられていたオスマンぐんはベエルシェバにすくないへいしか配置はいちしていなかった。早々そうそうにベエルシェバをいた[21]イギリスぐんひだり旋回せんかいしてガザの後方こうほう連絡れんらくせん脅威きょういした。これに気付きづいたファルケンハインは撤退てったい命令めいれいし、その追撃ついげきせんによって12月ついにイギリスぐんエルサレム占領せんりょうした。

1918ねん

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1918ねん うみ海岸かいがん沿ってられたオスマンぐん塹壕ざんごう

コーカサス

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前年ぜんねんより休戦きゅうせん状態じょうたいとなっていたがロシアぐん逐次ちくじかいたいするにおよびオスマンぐん活動かつどう開始かいしし、アルメニア地方ちほう回復かいふく。ついで南部なんぶカフカス地方ちほう席巻せっけんした。9月中旬ちゅうじゅん、オスマンぐんはドイツの要求ようきゅうにより石油せきゆ産地さんちバクー占領せんりょう。しかしながら休戦きゅうせん条約じょうやく成立せいりつすると暫時ざんじ国内こくない撤退てったいした。

メソポタミア

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この方面ほうめんのオスマンぐん戦線せんせん崩壊ほうかい危機ききにあった。5月、夏季かきのためりょうぐんキルクーク付近ふきんでにらみいとなった。7月アリ・イフサン・パシャ昇進しょうしんしてだい6ぐん司令しれいかんとなり、ハリル・パシャは東部とうぶぐん集団しゅうだん司令しれいかん転出てんしゅつした。

10月23にちだい6ぐん隷下れいかのティグリス集団しゅうだん (だい2、だい14歩兵ほへい師団しだん)は、イスマイル・ハック・ベイ英語えいごばん大佐たいさ指揮しき攻勢こうせい転移てんいしたが、オスマンぐんの10ばい以上いじょう兵力へいりょくようしたイギリスぐんは、カラト・シャルカト(現在げんざいアル・シャルカト英語えいごばん包囲ほうい殲滅せんめつしようと行動こうどう激戦げきせんとなった。7日間にちかん戦闘せんとうのちオスマンぐんかろうじて包囲ほういもうからだっしたが、降服こうふくし (シャルカトのたたか英語えいごばん)、へい8せんほう57もんうしなった[22]。ムドロス講和こうわ条約じょうやく調印ちょういんには英軍えいぐんはハムマム・アリにいたがさらに前進ぜんしんし、11月4にちモスル入城にゅうじょうして戦闘せんとう終了しゅうりょうした。

シナイおよびパレスチナ

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イギリスぐん春季しゅんき小規模しょうきぼ攻勢こうせいおこなったが、オスマンぐん撃退げきたいされた。イギリスぐんはさらに攻勢こうせい準備じゅんびしていたが、ドイツぐん春季しゅんきだい攻勢こうせいにより兵員へいいん物資ぶっし西部せいぶ戦線せんせん移送いそうされて実行じっこうできなくなった。インドへいによる増援ぞうえんけたえいエジプト遠征えんせいぐんは、西部せいぶ戦線せんせんせんくんをもとにもう訓練くんれんおこなった。8月にはいり、遠征えんせいぐん司令しれいかんアレンビーはしん攻勢こうせい企図きと。アラブ反乱はんらんぐんえい空軍くうぐんによってオスマンぐん通信つうしんもうをマヒさせ、1コ軍団ぐんだんしゅおさむ、もう1コ軍団ぐんだん陽動ようどう担当たんとうし、突破口とっぱこうから乗馬じょうば軍団ぐんだんてきちゅうふか進撃しんげきする計画けいかくだった。戦力せんりょく総勢そうぜい15まん歩兵ほへい5まん6せん騎兵きへい1まんせん火砲かほう552もんにもたっしていた。

オスマンがわでは、あらたにリーマン・ザンデルスが電撃でんげきぐん集団しゅうだん司令しれいかんとなった。1918ねん8がつ時点じてんでは、総勢そうぜい10まんえ、うち歩兵ほへい4まんようしていた。アレンビーはオスマンぐん戦力せんりょく歩兵ほへい3まん2せん騎兵きへい3せん火砲かほう370もん推定すいていしている[23]。ザンデルスの手記しゅきよれば、支給しきゅうひん不足ふそく脱走だっそうしゃ多発たはつするほどぐん集団しゅうだん物資ぶっし不足ふそくなやまされていた[24]軍隊ぐんたい移動いどう不可欠ふかけつ牽引けんいん動物どうぶつ致命ちめいてき不足ふそくしていたために、ザンデルスは機動きどう防御ぼうぎょではなく、陣地じんち防御ぼうぎょ志向しこうした。

9月19にちえいエジプト遠征えんせいぐん攻勢こうせい開始かいし英軍えいぐん航空こうくうたいにより通信つうしんしょ破壊はかいされてかく部隊ぶたい連絡れんらくれなくなったオスマンぐんは、英軍えいぐん乗馬じょうば部隊ぶたいによって背後はいごまわりこまれだい混乱こんらんおちいった。敗走はいそうするオスマンへい英軍えいぐん航空機こうくうき乗馬じょうばへいちをかけて、電撃でんげきぐん集団しゅうだん壊滅かいめつした。

英軍えいぐんはさらに前進ぜんしんしてダマスカス占領せんりょうして、10月24にちにはアレッポを、10月26にちにはバグダード鉄道てつどう分岐ぶんきてんであるムスリーミイェを占領せんりょうした。

終戦しゅうせん

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連合れんごうこくによるイスタンブール占領せんりょう英語えいごばん

バルカン半島ばるかんはんとうのサロニカ戦線せんせん崩壊ほうかいし、ブルガリアは休戦きゅうせん条約じょうやく締結ていけつ。トラキアに殺到さっとうしてくるであろう連合れんごうぐん対応たいおうのために、首都しゅと方面ほうめんまわすべき戦略せんりゃく予備よびはオスマンぐんには最早もはやなかった。1918ねん10がつ30にちレムノスとうムドロスにおいてオスマン帝国ていこくムドロス休戦きゅうせん協定きょうてい締結ていけつし、ここに中東ちゅうとう戦線せんせんまくじた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Slot 2005, p. 406
  2. ^ Slot 2005, p. 407
  3. ^ Slot 2005, p. 409
  4. ^ Austro-Hungarian Army in the Ottoman Empire 1914–1918 Archived 2008ねん6がつ18にち, at the Wayback Machine.
  5. ^ Jung, Peter (2003). Austro-Hungarian Forces in World War I. Oxford: Osprey. p. 47. ISBN 1841765945 
  6. ^ a b Fleet, Kate; Faroqhi, Suraiya; Kasaba, Reşat (2006). The Cambridge History of Turkey: Turkey in the Modern World. Cambridge University Press. p. 94. ISBN 0521620961. https://books.google.com/books?id=iOoGH4GckQgC&pg=PA93 
  7. ^ a b c Erickson, Edward J. (2007). Ottoman Army Effectiveness in World War I: a comparative study. Taylor & Francis. p. 154. ISBN 0-415-77099-8 
  8. ^ a b c Broadberry, S. N.; Harrison, Mark (2005). The Economics Of World War I. Cambridge University Press. p. 117. ISBN 0521852129. https://books.google.com/books?id=rpBbX3kdnhgC&pg=PA117 
  9. ^ Gerd Krumeich: Enzyklopädie Erster Weltkrieg, UTB, 2008, ISBN 3825283968, page 761 (ドイツ.
  10. ^ Kostiner, Joseph (1993). The Making of Saudi Arabia, 1916–1936: From Chieftaincy to Monarchical State. Oxford University Press. p. 28. ISBN 0195360702. https://books.google.com/books?id=l7-RZx_QIOsC&pg=PA28 
  11. ^ a b A Brief History of the Late Ottoman Empire, M. Sükrü Hanioglu, page 181, 2010
  12. ^ Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War By Huseyin (FRW) Kivrikoglu, Edward J. Erickson, Greenwood Publishing Group, 2001, ISBN 0313315167, page 211.
  13. ^ James L.Gelvin "The Israel-Palestine Conflict: One Hundred Years of War " Publisher: Cambridge University Press ISBN 978-0-521-61804-5 Page 77
  14. ^ オスマンぐん損害そんがいのうち2せん8ひゃく脱走だっそうしゃ。これには2人ふたりのアルメニアじん士官しかんふくんでいる。
  15. ^ 開戦かいせん以来いらいカフカスのロシアぐんコーカサス総督そうとく英語えいごばんイラリオン・ヴォロンツォフ=ダシュコフ英語えいごばん指揮しきかんであったが、軍人ぐんじんというより行政ぎょうせいかんであったので、A.Z.Myshlayevskiが代理だいりつとめていた。しかしかれ実戦じっせんというより研究けんきゅうしゃはだで、指揮しきかんには適格てきかくだった。ただ参謀さんぼうちょうニコライ・ユデーニチ定見ていけんのある前線ぜんせん将校しょうこうだった。
  16. ^ Erickson(2001),p.58。だい9およだい10軍団ぐんだんとおった山間さんかんでは、さらに気温きおんがマイナス40にまでがった。
  17. ^ Erickson(2001),p.60。これはトルコ公刊こうかん戦史せんしによる数字すうじである。内訳うちわけは2まん3せん戦死せんし、1まん病院びょういん、7せん捕虜ほりょとなり、負傷ふしょうしゃ1まんにん英語えいごけんでは一般いっぱんてき戦死せんし9まん捕虜ほりょ4まんから5まん記載きさいされてきた。Cornish(2006),p85ではオスマンぐん損害そんがいは7まん5せんたっし、火砲かほうだい部分ぶぶんうしなったとかれている。
  18. ^ Cornish(2006),p85。死者ししゃ1まん6せんにん負傷ふしょうしゃおよせん病者びょうしゃおも凍傷とうしょう)1まん2せんにん
  19. ^ 樋口ひぐち正治しょうじ(1940),p.168
  20. ^ 電撃でんげきぐん集団しゅうだんはパレスチナ方面ほうめんとメソポタミア方面ほうめん統括とうかつ
  21. ^ ベエルシェバ占領せんりょうせんさい、グラントじゅんしょうのオーストラリアだい4けい騎兵きへい旅団りょだん乗馬じょうば襲撃しゅうげきおこなって、これに成功せいこうしている。
  22. ^ 樋口ひぐち正治しょうじ(1940),p.88
  23. ^ Falls(1930),p.452
  24. ^ Sanders(1920),p.270、「脱走だっそうしゃかず最近さいきんすう週間しゅうかん危険きけんなまでにえた。だい8ぐんでは、8がつ15にちから9がつ14にちまでに1100にんかぞえている。つかまえられたときのおまりの弁明べんめいは、食事しょくじ十分じゅうぶんではない、下着したぎがないか履物はきものがない、ふくがぼろぼろ、である」

参考さんこう文献ぶんけん

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  • デイヴィット・フロムキン(ちょ)、平野ひらの勇夫いさおむくでん直子なおこ翻訳ほんやく)『平和へいわ破滅はめつさせた和平わへい じょう紀伊國屋きのくにや書店しょてん、1988=2004ねん翻訳ほんやくISBN 9784314009669 
  • デイヴィット・フロムキン(ちょ)、平野ひらの勇夫いさおむくでん直子なおこ翻訳ほんやく)『平和へいわ破滅はめつさせた和平わへい 紀伊國屋きのくにや書店しょてん、1988=2004ねん翻訳ほんやくISBN 9784314009676 
  • 樋口ひぐち正治しょうじいちきゅういちよんねんいたりいちきゅういちはちねん 近東きんとうけるぜん大戦たいせん考察こうさつ偕行社かいこうしゃ、1940ねん 
  • リデル・ハート、上村うえむら達雄たつおわけ)『だいいち世界せかい大戦たいせんした〉』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1970=1976ねん翻訳ほんやく/2001ねんISBN 9784120031007 
  • Bruce, Anthony (2002). The Last Crusade: The Palestine Campaign in the First World War. John Murray Publishers. ISBN 0719554322 
  • Cornish, Nik (2006). The Russian Army and the First World War. Spellmount. ISBN 1862272883 
  • Erickson, Edward (2001). Ordered to Die: A History of the Ottoman Army in the First World War. Praeger. ISBN 0313315167 
  • Erickson, Edward (2007). Ottoman Army Effectiveness in World War I: A Comparative Study. Routledge. ISBN 0415770998 
  • Erickson, Edward (2008). Gallipoli and the Middle East 1914-1918. Amber Books. ISBN 1906626049 
  • Wilcox, Ron (2006). Battles on the Tigris: The Mesopotamian Campaign of the First World War. Pen & sword. ISBN 1844154300