ポーランド・ソビエト・リガ平和 へいわ 条約 じょうやく 後 ご の中央 ちゅうおう ・東 ひがし ヨーロッパ
ポーランド・ソビエト・リガ平和 へいわ 条約 じょうやく (ポーランド・ソビエト・リガへいわじょうやく、ポーランド語 ご : Traktat ryski ; ロシア語 ご : Рижский мирный договор ; ウクライナ語 ご : Ризький мир )は、1921年 ねん 3月18日 にち 、リガ において、一方 いっぽう をポーランド共和 きょうわ 国 こく とし、他方 たほう をロシア・ソビエト連邦 れんぽう 社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく とウクライナ・ソビエト社会 しゃかい 主義 しゅぎ 共和 きょうわ 国 こく として結 むす ばれた講和 こうわ 条約 じょうやく である。
この条約 じょうやく により、ポーランド・ソビエト戦争 せんそう は終結 しゅうけつ した。リガ平和 へいわ 条約 じょうやく (Peace of Riga)ともいわれる。
ロシア内戦 ないせん が生 しょう じている際 さい 、ポーランド国民 こくみん は歴史 れきし 的 てき に敵対 てきたい していたロシア から、ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の領土 りょうど 全 すべ てを奪回 だっかい したいと考 かんが えていた。当時 とうじ ソビエトは自国 じこく の革命 かくめい を必要 ひつよう なら武力 ぶりょく を使用 しよう してでも、西 にし ヨーロッパに輸出 ゆしゅつ しようとしていた。仮 かり に、ボリシェヴィキ がポーランドを占拠 せんきょ した場合 ばあい 、彼 かれ らはドイツの共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の助 たす けを借 か りて、ドイツ でのソビエト革命 かくめい の成功 せいこう を確実 かくじつ にすると考 かんが えられていた。
歴史 れきし 家 か のJ.F.C.フラー は、最 もっと も重要 じゅうよう な戦 たたか いの1つとしてワルシャワの戦 たたか い を記載 きさい している。この戦闘 せんとう により、ポーランドは敵 てき を打 う ち負 ま かし大 だい 勝利 しょうり を収 おさ め、ソビエトは平和 へいわ 条約 じょうやく のための交渉 こうしょう を始 はじ めた[1] 。
条約 じょうやく の会談 かいだん は1920年 ねん 8月 がつ 17日 にち に開始 かいし された。ポーランドの反撃 はんげき が迫 せま るミンスク で、そして9月21日 にち 、リガ に移動 いどう して再開 さいかい された。リガで、ソビエトは2つの提案 ていあん を9月21日 にち 、28日 にち に行 い った。ポーランドの代表 だいひょう は10月2日 にち に逆 ぎゃく 提案 ていあん を行 おこな った。5日 にち にソビエトはポーランドの提案 ていあん の修正 しゅうせい 版 ばん を提案 ていあん し、ポーランドはそれを受 う け入 い れ、10月12日 にち に停戦 ていせん が調印 ちょういん された[2] 。そして、10月18日 にち に効力 こうりょく を発 はっ した。
主 おも な交渉 こうしょう は、ポーランドのヤン・ドンプスキ (ポーランド語 ご 版 ばん ) とソビエトのアドリフ・ヨッフェ によって行 おこな われた。
この条約 じょうやく は、その当初 とうしょ から議論 ぎろん を呼 よ んでいた。
ポーランド・ボリシェヴィキ戦争 せんそう の間 あいだ にポーランドが獲得 かくとく したもののほとんどが、近視 きんし 的 てき で偏狭 へんきょう な人 ひと が平和 へいわ の交渉 こうしょう と呼 よ ぶものにより失 うしな われたと多数 たすう の人 ひと が主張 しゅちょう した。彼 かれ らはポーランドの独立 どくりつ 性 せい をもたらしたものが欠 か けていた。それは、ユゼフ・ピウスツキ による、将来 しょうらい の予言 よげん と戦士 せんし の心 しん と体 からだ を持 も った完全 かんぜん 性 せい の理解 りかい の組 く み合 あ わせである。
リガの条約 じょうやく の交渉 こうしょう 中 ちゅう 1921年 ねん までは、ピウスツキは国家 こっか 元首 げんしゅ としてではなく、オブザーバーとして参加 さんか していた。その条約 じょうやく の交渉 こうしょう は、「卑怯 ひきょう な行動 こうどう 」と彼 かれ は述 の べていた[3] 。軍 ぐん の敗北 はいぼく により、ボリシェヴィキは、ポーランドに和平 わへい の代表 だいひょう 団 だん に、論争 ろんそう となっている国境 こっきょう 線 せん の地域 ちいき における領土 りょうど の譲歩 じょうほ を提案 ていあん した。しかし、ポーランド側 がわ で見 み ていた多数 たすう の傍観 ぼうかん 者 しゃ は、ポーランドが勝利 しょうり せず敗北 はいぼく したかの様 よう に、リガ の交渉 こうしょう が行 おこな われていると考 かんが えていた。
実際 じっさい 、セイム の6人 にん から構成 こうせい されている特別 とくべつ 議会 ぎかい の代表 だいひょう は、ソビエトの大 おお きな譲歩 じょうほ を受 う け入 い れるかの投票 とうひょう を行 おこな った。その譲歩 じょうほ は、ミンスク を国境 こっきょう のポーランド側 がわ に残 のこ すと言 い うものであった。国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ スタニスワフ・グラプスキ (ポーランド語 ご 版 ばん ) の圧 あつ 力 りょく により、100 kmの追加 ついか の領土 りょうど は否決 ひけつ された。国家 こっか 主義 しゅぎ 者 しゃ は、その国境 こっきょう 内 ない に1/3の少数 しょうすう 民族 みんぞく しか存在 そんざい しない統一 とういつ ポーランド州 しゅう と、ポーランド人 じん の移民 いみん の試 こころ みの成功 せいこう による特権 とっけん を想像 そうぞう していた。そのため、この否決 ひけつ は国家 こっか 主義 しゅぎ 戦略 せんりゃく の勝利 しょうり であり、ピウスツキの連邦 れんぽう 制 せい を完全 かんぜん に打破 だは したことによる勝利 しょうり であった。しかし、大衆 たいしゅう の意見 いけん は、戦争 せんそう の終結 しゅうけつ を要求 ようきゅう しており、ポーランド人 じん は、両 りょう 陣営 じんえい とも、国際 こくさい 連盟 れんめい からの圧力 あつりょく を受 う けていた。
一方 いっぽう 、平和 へいわ 条約 じょうやく の交渉 こうしょう はソビエトが調印 ちょういん に躊躇 ちゅうちょ したことにより、数 すう か月 げつ 延期 えんき された。しかし、ソビエトは、国内 こくない の不安定 ふあんてい な状態 じょうたい に直面 ちょくめん した。2月23日 にち から3月 がつ 17日 にち まで、クロンシュタット の水兵 すいへい の反乱 はんらん に直面 ちょくめん した。これは衝撃 しょうげき を与 あた えた。農民 のうみん がソビエトの権力 けんりょく に対 たい して蜂起 ほうき したのだった。農民 のうみん は、軍隊 ぐんたい を食 た べさせるための穀物 こくもつ を所有 しょゆう しており、消費 しょうひ 者 しゃ のいる地域 ちいき を望 のぞ んでいた。この様 よう な状況 じょうきょう から、レーニン は平和 へいわ 条約 じょうやく の締結 ていけつ のため、ソビエトの全権 ぜんけん を委任 いにん した[1] 。
ポーランドとソヴィエトによるベラルーシ分割 ぶんかつ を批判 ひはん するプロパガンダポスター。分割 ぶんかつ する二 に 国 こく の足元 あしもと ではウクライナが踏 ふ みつけられている。
結局 けっきょく 、両 りょう 陣営 じんえい とも1921年 ねん 3月18日 にち にリガ平和 へいわ 条約 じょうやく の調印 ちょういん を決定 けってい した。その条約 じょうやく では、ポーランドとロシアの間 あいだ で、ベラルーシ とウクライナ で紛争 ふんそう 中 ちゅう の領土 りょうど を分割 ぶんかつ した。
シモン・ペトリューラ に率 ひき いられたウクライナはポーランドと協力 きょうりょく して戦 たたか っていた。しかし、リガ条約 じょうやく では、ポーランドは彼 かれ らをだました―ポーランドとウクライナ両 りょう 陣営 じんえい の危機 きき になるものだった[1] 。ピウスツキは、この条約 じょうやく は恥知 はじし らずなもので、近視 きんし 的 てき な政治 せいじ 的 てき 計算 けいさん によるものであると感 かん じていた。
伝 つた えられるところでは、彼 かれ は部屋 へや をでて、リガ会議 かいぎ の結果 けっか を待 ま っているウクライナ人 じん に話 はな しかけた。「みなさん、私 わたし はあなたたちに詫 わ びないといけない。」[4] [5] [6] 条約 じょうやく はウクライナとのポーランドの同盟 どうめい に反 はん するものであった。その同盟 どうめい は、それぞれが和平 わへい を個別 こべつ に結 むす ぶことを禁止 きんし していた。これは、ポーランドとウクライナの少数 しょうすう 派 は との関係 かんけい を悪化 あっか させた。このウクライナの少数 しょうすう 派 は はウクライナが同盟 どうめい 国 こく ポーランドにだまされ、ソビエトのプロパガンダと1930年代 ねんだい と1940年代 ねんだい におけるヴォルィーニ におけるウクライナ人 じん の虐殺 ぎゃくさつ (英語 えいご 版 ばん ) の結果 けっか によって、利用 りよう されたと感 かん じていた。1921年 ねん の終 お わりまで、ウクライナ人 じん とベラルーシ人 じん とロシア白 しろ 軍 ぐん の多数 たすう の戦力 せんりょく は、ポーランド国境 こっきょう を越 こ え、降伏 ごうぶく するか、ソビエト軍 ぐん により全滅 ぜんめつ させられた。
しかし、ユゼフ・ピウスツキ の夢 ゆめ である、東欧 とうおう の独立 どくりつ 諸国 しょこく によるミェンズィモジェ 構想 こうそう は、この条約 じょうやく により挫折 ざせつ した。なぜなら、ポーランドは、ウクライナとの同盟 どうめい による責任 せきにん とその独立 どくりつ の支援 しえん を満 み たすことができず、リトアニア人 じん が自分 じぶん たちの国家 こっか の首都 しゅと であると主張 しゅちょう しているヴィリニュス のポーランドへの併合 へいごう の結果 けっか 、ポーランドとリトアニアの関係 かんけい は同様 どうよう に悪化 あっか したためである。
リガ平和 へいわ 条約 じょうやく 後 ご のポーランドの国境 こっきょう と、ポーランド分割 ぶんかつ 前 まえ のポーランド・リトアニア連合 れんごう の国境 こっきょう
レーニンも平和 へいわ 条約 じょうやく は不十分 ふじゅうぶん であると考 かんが えていた。彼 かれ は、革命 かくめい を西 にし へ拡大 かくだい させるという構想 こうそう を一時 いちじ 的 てき にあきらめることにした[1] 。
条約 じょうやく の2ページ目 め 。ポーランド語 ご 版 ばん
一方 いっぽう 、リガ平和 へいわ 条約 じょうやく はポーランドの東部 とうぶ 国境 こっきょう を安定 あんてい させた。新 あたら しいポーランドの州 しゅう は、ポーランド・リトアニア連合 れんごう が第 だい 一 いち 次 じ 、第 だい 二 に 次 じ ポーランド分割 ぶんかつ でロシアに奪 うば われたほとんどの土地 とち であった。そこには、特 とく にスルーツク とジトーミル の近辺 きんぺん には、ポーランドの少数 しょうすう 民族 みんぞく (100万 まん 以下 いか )が住 す んでいた。これは、ソビエトにこれらのポーランド人 じん に対 たい する報復 ほうふく を引 ひ き起 お こした。―これは、莫大 ばくだい な資産 しさん (土地 とち や森林 しんりん )の没収 ぼっしゅう 、宗教 しゅうきょう 的 てき 迫害 はくがい (1923年 ねん のヤン・チェプラク (ポーランド語 ご 版 ばん ) 司教 しきょう 逮捕 たいほ )、そして、1931年 ねん から1934年 ねん にカザフスタン へのポーランド人 じん の全 すべ ての人員 じんいん の強制 きょうせい 移住 いじゅう を引 ひ き起 お こした。リガ条約 じょうやく の国境 こっきょう におけるポーランド側 がわ に住 す んでいるポーランド人 じん を含 ふく む人々 ひとびと とウクライナ 人 ひと と、ベラルーシ 人 ひと 、リトアニア 人 ひと 、ユダヤ人 じん 等 ひとし の少数 しょうすう 民族 みんぞく (約 やく 600万 まん 人 にん の人口 じんこう )は、1938年 ねん までの17年間 ねんかん 、共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ の独裁 どくさい 者 しゃ から解放 かいほう され、資産 しさん の自由 じゆう や宗教 しゅうきょう の自由 じゆう が許 ゆる された。しかし、これは、民族 みんぞく 差別 さべつ から、特 とく に1929年 ねん からの世界 せかい 恐慌 きょうこう において、彼 かれ らを保護 ほご することではなかった、
ポーランドは、ポーランド分割 ぶんかつ 期間 きかん の帝政 ていせい ロシア への経済 けいざい 投資 とうし に対 たい する賠償金 ばいしょうきん として3000万 まん ルーブル を受 う け取 と った。ロシアは1772年 ねん に略奪 りゃくだつ した、ザウスキ図書館 としょかん のような絵画 かいが や他 た のポーランドの国有 こくゆう 財産 ざいさん を返還 へんかん した。両 りょう 陣営 じんえい は戦争 せんそう 自体 じたい の賠償 ばいしょう 請求 せいきゅう を放棄 ほうき することを宣言 せんげん した。