第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう
同盟 どうめい 軍 ぐん の進軍 しんぐん を示 しめ した地図 ちず
戦争 せんそう :バルカン戦争 せんそう
年月日 ねんがっぴ :1913年 ねん 6月29日 にち - 8月 がつ 10日 とおか
場所 ばしょ :バルカン半島 ばるかんはんとう
結果 けっか :ブルガリア王国 おうこく の敗北 はいぼく 、ブカレスト条約 じょうやく とコンスタンティノープル条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) の締結 ていけつ
交戦 こうせん 勢力 せいりょく
ブルガリア王国 おうこく
セルビア王国 おうこく ルーマニア王国 おうこく オスマン帝国 ていこく ギリシャ王国 おうこく モンテネグロ王国 おうこく
指導 しどう 者 しゃ ・指揮 しき 官 かん
フェルディナント ミハイル・サヴォフ (英語 えいご 版 ばん ) ヴァシル・クチンチェフ (英語 えいご 版 ばん ) ニコラ・イヴァノフ (英語 えいご 版 ばん ) ラトコ・ディミトリエフ (英語 えいご 版 ばん ) スティリアン・コヴァチェフ (英語 えいご 版 ばん ) ステファン・トシェフ ニコラ・ジェコフ
ペータル1世 せい ラドミル・プトニク ステパ・ステパノヴィッチ ペータル・ボヨヴィッチ カロル1世 せい フェルディナンド王 おう 太子 たいし アレクサンドル・アヴェレスク イオン・クルチェル メフメト5世 せい エンヴェル・パシャ アフメト・イッゼト・パシャ コンスタンティノス1世 せい ヴィクトル・ドゥスマニス (英語 えいご 版 ばん ) パヴロス・クンドゥリオティス (英語 えいご 版 ばん ) ニコラ1世 せい ダニーロ王 おう 太子 たいし ヤンコ・ヴコティッチ
戦力 せんりょく
500,221-576,878
348,000[1] 330,000[1] 255,000[2] 148,000 12,802[1] 合計 ごうけい :1,093,802
損害 そんがい
戦死 せんし 7,583行方 ゆくえ 不明 ふめい 9,694負傷 ふしょう 42,911 ほか死者 ししゃ 3,049大砲 たいほう 140門 もん 合計 ごうけい :死傷 ししょう 者 しゃ 65,927[3]
セルビア:50,000 戦死 せんし 9,000負傷 ふしょう 36,000病死 びょうし 5,000[4] ギリシャ:29,886 戦死 せんし 5,851負傷 ふしょう 23,847行方 ゆくえ 不明 ふめい 188[5] モンテネグロ:1,201 戦死 せんし 240負傷 ふしょう 961[4] ルーマニア:6,000以上 いじょう 戦死 せんし 者 しゃ 僅少 きんしょう 病死 びょうし 6,000[6] オスマン帝国 ていこく 4,000以上 いじょう 戦死 せんし 者 しゃ 僅少 きんしょう 病死 びょうし 4,000[7] 合計 ごうけい :戦闘 せんとう の損害 そんがい 約 やく 76,000損害 そんがい の総計 そうけい 約 やく 91,000
第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう (だいにじバルカンせんそう、英語 えいご : Second Balkan War )は、ブルガリア王国 おうこく が第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう での取 と り分 ぶん に不満 ふまん を感 かん じて、1913年 ねん 6月16日 にち (ユリウス暦 れき )/6月29日 にち (グレゴリオ暦 れき )に元 もと 同盟 どうめい 国 こく のセルビア王国 おうこく とギリシャ王国 おうこく を攻撃 こうげき したことで勃発 ぼっぱつ した戦争 せんそう 。セルビア軍 ぐん とギリシャ軍 ぐん はブルガリア軍 ぐん の攻勢 こうせい を撃退 げきたい して反撃 はんげき に転 てん じ、ブルガリア領 りょう に進軍 しんぐん した。ブルガリアがルーマニア王国 おうこく との国境 こっきょう 紛争 ふんそう も抱 かか えていたため、ルーマニアが介入 かいにゅう を決定 けってい 、さらにオスマン帝国 ていこく も機 き に乗 じょう じて第 だい 一 いち 次 じ 戦争 せんそう で失 うしな った領土 りょうど を一部 いちぶ 取 と り戻 もど そうとした。ルーマニア軍 ぐん がブルガリア首都 しゅと ソフィア に迫 せま ると、ブルガリアは停戦 ていせん を求 もと め、第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう で得 え た領土 りょうど の一部 いちぶ をブカレスト条約 じょうやく でセルビア、ギリシャ、ルーマニアに割譲 かつじょう せざるを得 え なかった。オスマン帝国 ていこく とはコンスタンティノープル条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) でエディルネ を割譲 かつじょう して講和 こうわ した。
第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう をめぐる政治 せいじ 情勢 じょうせい と軍事 ぐんじ 上 じょう の準備 じゅんび が約 やく 200から300人 にん の従軍 じゅうぐん 記者 きしゃ (英語 えいご 版 ばん ) を寄 よ せ付 つ けた。
第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 中 なか 、バルカン同盟 どうめい (ブルガリア王国 おうこく 、セルビア王国 おうこく 、モンテネグロ王国 おうこく 、ギリシャ王国 おうこく )はオスマン帝国 ていこく をヨーロッパ諸 もろ 州 しゅう (アルバニア 、マケドニア 、サンジャク 、トラキア )から追 お い出 だ し、オスマン帝国 ていこく にはチャタルジャ (英語 えいご 版 ばん ) とガリポリ半島 はんとう しか残 のこ されなかった。1913年 ねん 5月 がつ 30日 にち に締結 ていけつ されたロンドン条約 じょうやく では黒海 こっかい 海岸 かいがん のメデア(トルコ語 ご 名 めい クルキョイ (英語 えいご 版 ばん ) )からエ え ーゲ海 げかい 海岸 かいがん のエノス(トルコ語 ご 名 めい エネズ (英語 えいご 版 ばん ) )までがバルカン諸国 しょこく とトルコの境界 きょうかい と定 さだ め、エノス=メデア線 せん の西 にし がバルカン諸国 しょこく に割譲 かつじょう されると定 さだ めた。これは占有 せんゆう 物 ぶつ 保有 ほゆう の原則 げんそく (英語 えいご 版 ばん ) に基 もと づいており、アルバニア独 どく 立国 りっこく (英語 えいご 版 ばん ) が建国 けんこく する結果 けっか となった。
しかし、バルカン同盟 どうめい 諸国 しょこく が分 わ け前 まえ 、特 とく にマケドニアの扱 あつか いについて不和 ふわ が生 しょう じた。戦前 せんぜん のバルカン同盟 どうめい につながる交渉 こうしょう ではセルビアとブルガリアが1912年 ねん 3月 がつ 13日 にち に秘密 ひみつ 協定 きょうてい を締結 ていけつ して戦争 せんそう 後 ご の国境 こっきょう を定 さだ め、マケドニア北部 ほくぶ を分割 ぶんかつ した。戦後 せんご に紛争 ふんそう が生 しょう じた場合 ばあい ではクリヴァ・パランカ =オフリド 線 せん から北 きた (両 りょう 都市 とし はブルガリア領 りょう となる)が「紛争 ふんそう 地帯 ちたい 」と定 さだ められロシアが仲介 ちゅうかい するとし、線 せん から南 みなみ はブルガリア領 りょう と定 さだ められた。戦争 せんそう 中 ちゅう にはセルビア軍 ぐん が定 さだ められた国境 こっきょう のはるか南 みなみ 、ビトラ =ゲヴゲリヤ 線 せん まで進軍 しんぐん した(両 りょう 都市 とし ともセルビアに占領 せんりょう された)。一方 いっぽう 、ギリシャ軍 ぐん も北 きた へ進軍 しんぐん 、ブルガリア軍 ぐん が到着 とうちゃく する直前 ちょくぜん にテッサロニキ を占領 せんりょう 、セルビアとの国境 こっきょう を定 さだ めた。
戦前 せんぜん に定 さだ められたセルビア・ブルガリア間 あいだ のマケドニア分割 ぶんかつ 。紛争 ふんそう 地帯 ちたい (灰色 はいいろ )も描 えが かれている。
ロンドンの講和 こうわ 会議 かいぎ において、ブルガリア代表 だいひょう がセルビアに警告 けいこく を発 はっ し、ブルガリアがセルビアのアドリア海 あどりあかい での主張 しゅちょう (アルバニア北部 ほくぶ の領有 りょうゆう )を支持 しじ しないと述 の べると、セルビア代表 だいひょう は激怒 げきど してクリヴァ・パランカ=オフリド線 せん に基 もと づく戦前 せんぜん の協定 きょうてい を違反 いはん すると返答 へんとう したが、ブルガリア代表 だいひょう はその条項 じょうこう は有効 ゆうこう のままであると堅持 けんじ してセルビアに協定 きょうてい 通 どお り北 きた マケドニア地域 ちいき を引 ひ き渡 わた すよう要求 ようきゅう した。セルビア代表 だいひょう はブルガリアの要求 ようきゅう が過激 かげき であると指摘 してき 、もしセルビアがアルバニア北部 ほくぶ と北 きた マケドニアの両方 りょうほう とも失 うしな ったら参戦 さんせん する意味 いみ がないと主張 しゅちょう した。
ブルガリアがセルビアに戦前 せんぜん の北 きた マケドニアに関 かん する協定 きょうてい の履行 りこう を要求 ようきゅう すると、セルビア人 じん は列強 れっきょう がアルバニア北部 ほくぶ での獲得 かくとく 領土 りょうど の放棄 ほうき を要求 ようきゅう してきたことに立腹 りっぷく してこれ以上 いじょう の領土 りょうど 放棄 ほうき を拒否 きょひ した。これによりセルビア・ブルガリア同盟 どうめい が崩壊 ほうかい 、両国 りょうこく 間 あいだ の戦争 せんそう が不可避 ふかひ になった。直後 ちょくご 、占領 せんりょう 地 ち の境界 きょうかい でブルガリアとセルビア=ギリシャ間 あいだ の小競 こぜ り合 あ いが生 しょう じた。ブルガリアの脅威 きょうい に直面 ちょくめん したセルビアは同 おな じくブルガリアの目的 もくてき を憂慮 ゆうりょ したギリシャとの交渉 こうしょう を開始 かいし した。
第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 後 ご のバルカン諸国 しょこく の領土 りょうど 拡大 かくだい 。戦前 せんぜん のセルビアとブルガリア間 あいだ の秘密 ひみつ 協定 きょうてい に基 もと づく。
ロンドン条約 じょうやく の締結 ていけつ から2日 にち 後 ご でブルガリアの攻撃 こうげき から28日 にち 前 まえ にあたる1913年 ねん 5月 がつ 19日 にち (ユリウス暦 れき )/6月1日 にち (グレゴリオ暦 れき )、ギリシャとセルビアが秘密裏 ひみつり に防衛 ぼうえい 同盟 どうめい (英語 えいご 版 ばん ) を締結 ていけつ 、両国 りょうこく 間 あいだ の占領 せんりょう 区 く の境界 きょうかい をそのまま国境 こっきょう と定 さだ めた上 うえ でブルガリアかオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく が侵攻 しんこう してきた場合 ばあい の同盟 どうめい を定 さだ めた。これにより、ギリシャは同盟 どうめい 締結 ていけつ 時点 じてん のマケドニア占領 せんりょう 区 く を保障 ほしょう することになり、セルビアの北 きた マケドニア紛争 ふんそう に巻 ま き込 こ まれる形 かたち となった[8] 。ブルガリア首相 しゅしょう イヴァン・エフストラティエフ・ゲショフ (英語 えいご 版 ばん ) はセルビアとギリシャの接近 せっきん を防 ふせ ぐべく5月 がつ 21日 にち にギリシャと協定 きょうてい を締結 ていけつ 、両国 りょうこく の占領 せんりょう 区 く の境界 きょうかい を定 さだ めた。これによりブルガリアはギリシャの南 みなみ マケドニア支配 しはい を実質 じっしつ 的 てき に承認 しょうにん したが、ゲショフが直後 ちょくご に辞任 じにん したためブルガリアの外交 がいこう 努力 どりょく は無駄 むだ に終 お わった。
ブルガリアはさらにルーマニアとの紛争 ふんそう も抱 かか えていた。ブルガリアがシリストラ 要塞 ようさい のルーマニアへの引 ひ き渡 わた しを拒否 きょひ したのであった。第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 後 ご にルーマニアがシリストラ要塞 ようさい の割譲 かつじょう を要求 ようきゅう すると、ブルガリア外相 がいしょう は代 か わりに国境 こっきょう 線 せん の小 ちい さな変更 へんこう (シリストラが割譲 かつじょう されない形 かたち だった)、およびマケドニアのヴラフ人 じん の権利 けんり を保障 ほしょう することを提案 ていあん した。ルーマニアは武力 ぶりょく でブルガリア領 りょう に侵攻 しんこう すると脅 おど したが、ロシアが仲介 ちゅうかい してそれを防 ふせ いだ。結果 けっか として1913年 ねん 5月 がつ 8日 にち にサンクトペテルブルク協定 きょうてい が締結 ていけつ され、ブルガリアがシリストラを諦 あきら めた。これはブルガリアの領土 りょうど 割譲 かつじょう 拒否 きょひ とルーマニアの南 みなみ ドブルジャ(英語 えいご 版 ばん ) 全体 ぜんたい の併合 へいごう という立場 たちば を妥協 だきょう させた形 かたち だったが、ロシアがブルガリアの領土 りょうど 保全 ほぜん に失敗 しっぱい したことでブルガリアはセルビアとの紛争 ふんそう におけるロシアの仲介 ちゅうかい への信頼 しんらい 性 せい に疑問 ぎもん を感 かん じるようになった[9] 。ブルガリアの行動 こうどう は長期 ちょうき 的 てき にはブルガリア・ロシア関係 かんけい (英語 えいご 版 ばん ) に悪影響 あくえいきょう を与 あた えた。ロシアが再度 さいど 仲介 ちゅうかい に乗 の り出 だ したとき、ブルガリアが戦前 せんぜん のセルビアとの協定 きょうてい の見直 みなお しを頑 かたく なに拒否 きょひ したことで、ロシアはブルガリアとの同盟 どうめい を取 と り消 け してしまった。
ブルガリア王 おう フェルディナント
1912年 ねん 、ブルガリアの民族 みんぞく 主義 しゅぎ はツァール のフェルディナント とブルガリア軍部 ぐんぶ が述 の べたように、1878年 ねん 時点 じてん で過激 かげき 主義 しゅぎ 的 てき とされたサン・ステファノ条約 じょうやく の内容 ないよう をさらに越 こ え、東 ひがし トラキア、西 にし トラキア、テッサロニキを含 ふく むマケドニア全体 ぜんたい 、エディルネ 、コンスタンティノープル まで含 ふく まれた[10] 。ブルガリアの指導 しどう 部 ぶ が早期 そうき から現実 げんじつ 的 てき な思考 しこう に欠 か いた証拠 しょうこ [11] としてはロシアが第 だい 一 いち 次 じ チャタルジャの戦 たたか い(英語 えいご 版 ばん ) と同 どう 時期 じき の1912年 ねん 11月5日 にち にブルガリア軍 ぐん に警告 けいこく を発 はっ し、コンスタンティノープルを占領 せんりょう した場合 ばあい はロシアが攻撃 こうげき すると脅 おど したにもかかわらずブルガリア軍 ぐん が占領 せんりょう を試 こころ みたことが挙 あ げられる。
ブルガリア軍 ぐん はエディルネ占領 せんりょう (英語 えいご 版 ばん ) には成功 せいこう したものの、フェルディナンド1世 せい のコンスタンティノープルで戴冠 たいかん する野心 やしん は第 だい 二 に 次 じ チャタルジャの戦 たたか い(英語 えいご 版 ばん ) で占領 せんりょう に失敗 しっぱい したことでその非 ひ 現実 げんじつ さが明 あき らかになった。さらに、トラキアとコンスタンティノープルの占領 せんりょう に集中 しゅうちゅう したことで、ブルガリアは最終 さいしゅう 的 てき にはテッサロニキを含 ふく むマケドニアの大半 たいはん を失 うしな う結果 けっか となったが、これは容易 ようい には受 う け入 い れられず、フェルディナンド1世 せい を取 と り巻 ま くブルガリア軍部 ぐんぶ が元 もと 同盟 どうめい 国 こく との戦争 せんそう に踏 ふ み切 き る結果 けっか となった。しかし、東 ひがし にトラキアの喪失 そうしつ を受 う け入 い れたくなかったオスマン帝国 ていこく 、北 きた に激怒 げきど したルーマニアがいる状況 じょうきょう で南 みなみ のギリシャと西 にし のセルビアとの戦争 せんそう に踏 ふ み切 き る決定 けってい は冒険 ぼうけん 的 てき であり、特 とく にオスマン帝国 ていこく が5月にオスマン軍 ぐん の再 さい 編成 へんせい を行 おこな うべくドイツの使節 しせつ 団 だん を緊急 きんきゅう に要請 ようせい した状況 じょうきょう ではなおさらである。6月 がつ 中 ちゅう にはブルガリアがセルビア・ギリシャ間 あいだ のブルガリアからの攻撃 こうげき に関 かん する協定 きょうてい に気 き づいた。6月27日 にち 、モンテネグロはセルビア・ブルガリア戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ した場合 ばあい 、セルビア側 がわ につくと宣言 せんげん した。ルーマニアは2月 がつ 5日 にち にオーストリア=ハンガリーとのトランシルヴァニア をめぐる紛争 ふんそう を解決 かいけつ して軍事 ぐんじ 同盟 どうめい を締結 ていけつ 、6月28日 にち に再度 さいど のバルカン戦争 せんそう で中立 ちゅうりつ に留 と まらないと公式 こうしき に警告 けいこく した[8] 。
セルビア王 おう ペータル1世 せい
マケドニアで主 おも にセルビア軍 ぐん とブルガリア軍 ぐん の間 あいだ の小競 こぜ り合 あ いが続 つづ く中 なか 、ロシア皇帝 こうてい ニコライ2世 せい はスラヴ人 じん の同盟 どうめい 国 こく を失 うしな いたくなかったため紛争 ふんそう を阻止 そし しようとした。6月8日 にち 、彼 かれ は同 おな じ文面 ぶんめん の親書 しんしょ をブルガリア王 おう とセルビア王 おう に送 おく り、1912年 ねん のセルビア・ブルガリア条約 じょうやく に基 もと づく仲介 ちゅうかい を申 もう し出 で た。セルビアは1912年 ねん の条約 じょうやく で得 え る予定 よてい だったアルバニア北部 ほくぶ が列強 れっきょう の決定 けってい で独立 どくりつ してしまったため、1912年 ねん の条約 じょうやく を改正 かいせい して北 きた マケドニアのブルガリア領 りょう を補償 ほしょう として獲得 かくとく しようとした。一方 いっぽう 、ブルガリアのロシアへの返答 へんとう は条件 じょうけん が多 おお すぎて最後 さいご 通牒 つうちょう の様相 ようそう を呈 てい し、ロシアの外交 がいこう 官 かん はブルガリアがすでにセルビアとの戦争 せんそう を決 き めたと結論 けつろん 付 つ けた。結局 けっきょく 、ロシアは激怒 げきど して仲介 ちゅうかい の申 もう し出 で を取 と りやめ、代 か わりに1902年 ねん のブルガリア同盟 どうめい 条約 じょうやく を取 と り消 け した。というのも、ブルガリアはロシアがオーストリア=ハンガリーの拡張 かくちょう 主義 しゅぎ を防 ふせ ぐために35年間 ねんかん かけて、多 おお くの人命 じんめい 、資金 しきん と外交 がいこう 資本 しほん (英語 えいご 版 ばん ) を注 そそ いだバルカン同盟 どうめい を打 う ち壊 こわ そうとしていたためであった[12] 。ロシア外相 がいしょう セルゲイ・サゾーノフ がブルガリア首相 しゅしょう ストヤン・ダネフ (英語 えいご 版 ばん ) に述 の べた言葉 ことば は「私 わたし たちから何 なに も期待 きたい せず、1902年 ねん から今 いま までの全 すべ ての協定 きょうてい はその存在 そんざい を忘 わす れてください」だった[13] 。ニコライ2世 せい は直近 ちょっきん の仲介 ちゅうかい でブルガリアとルーマニアに締結 ていけつ させたシリストラに関 かん する協定 きょうてい をブルガリアが履行 りこう を拒否 きょひ したことにすでに怒 おこ っていたが、さらにセルビアとギリシャによる、紛争 ふんそう を平和 へいわ 裏 うら に解決 かいけつ する第一歩 だいいっぽ として3国 こく それぞれの軍 ぐん を4分 ぶん の1削減 さくげん する提案 ていあん もブルガリアに拒否 きょひ された。
ルーマニア王 おう カロル1世 せい
ブルガリアではハト派 は のゲショフが辞任 じにん してタカ派 は で親 しん 露 ろ 派 は のダネフが首相 しゅしょう に就任 しゅうにん したため、すでに戦争 せんそう 一直線 いっちょくせん であった。6月16日 にち 、ブルガリア軍部 ぐんぶ は宣戦 せんせん 布告 ふこく 無 な しでセルビア軍 ぐん とギリシャ軍 ぐん の陣地 じんち を同時 どうじ に攻撃 こうげき 、また攻撃 こうげき 命令 めいれい に反 はん するすべての命令 めいれい を無視 むし するよう命 めい じた。しかし、翌日 よくじつ に政府 せいふ が参謀 さんぼう 本部 ほんぶ に停戦 ていせん を命 めい じるよう圧力 あつりょく をかけたことが混乱 こんらん を招 まね いたばかりか宣戦 せんせん 布告 ふこく なき戦争 せんそう の状態 じょうたい も解決 かいけつ できず、フェルディナンド1世 せい は政府 せいふ からの圧力 あつりょく に屈 くっ してサヴォフ将軍 しょうぐん を解任 かいにん 、ラトコ・ディミトリエフ (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん を総 そう 指揮 しき 官 かん に任命 にんめい した。
モンテネグロ王 おう ニコラ1世 せい
ブルガリアの目的 もくてき はセルビア軍 ぐん とギリシャ軍 ぐん を撃破 げきは しつつ、列強 れっきょう が介入 かいにゅう して停戦 ていせん するまでにできるだけ占領 せんりょう 地域 ちいき を広 ひろ げることだった。物量 ぶつりょう の優勢 ゆうせい を確保 かくほ すべく、ブルガリア軍 ぐん 全 ぜん 軍 ぐん が戦闘 せんとう に参加 さんか した。(公式 こうしき に宣言 せんげん された)ルーマニアの介入 かいにゅう やオスマン帝国 ていこく の反撃 はんげき への準備 じゅんび は全 まった くなされず、この2か国 こく から攻撃 こうげき されないことを何故 なぜ かロシアが保証 ほしょう するという仮定 かてい がなされた[14] 。これは6月 がつ 9日 にち にロシアが激怒 げきど してブルガリアとの同盟 どうめい を取 と り消 け し、外交 がいこう でも親 しん ルーマニアの姿勢 しせい を示 しめ した(ロシアは1912年 ねん 12月にルーマニア王 おう カロル1世 せい をロシアの名誉 めいよ 元帥 げんすい に叙 じょ した)にもかかわらずである[8] 。戦争 せんそう の計画 けいかく ではヴァルダル 平原 へいげん を進 すす み、セルビア軍 ぐん に集中 しゅうちゅう 攻撃 こうげき して無害 むがい 化 か させた上 うえ で北 きた マケドニアを占領 せんりょう しつつ、同時 どうじ にテッサロニキ近 ちか くで(セルビア軍 ぐん の半分 はんぶん 程度 ていど である)ギリシャ軍 ぐん に対 たい する攻勢 こうせい に打 う って出 で (こちらは集中 しゅうちゅう 攻撃 こうげき にはならない)、テッサロニキとマケドニア南部 なんぶ を占領 せんりょう することだった。ブルガリア軍部 ぐんぶ は自軍 じぐん がギリシャ軍 ぐん を撃破 げきは できる程度 ていど なのか確信 かくしん を持 も てなかったが、最悪 さいあく でも南部 なんぶ 戦線 せんせん を守備 しゅび でき、北部 ほくぶ でセルビア軍 ぐん を撃破 げきは した後 のち の援軍 えんぐん が到着 とうちゃく するまで持 も ちこたえることができると考 かんが えた。
1913年 ねん 6月 がつ 時点 じてん のバルカン諸国 しょこく 軍 ぐん の情勢 じょうせい
1903年 ねん 陸軍 りくぐん 法 ほう に基 もと づき、ブルガリア軍 ぐん は「行動 こうどう 軍 ぐん 」と国民 こくみん 民兵 みんぺい の2種類 しゅるい に分 わ けられ、その主力 しゅりょく は9個 こ 歩兵 ほへい 師団 しだん と1個 いっこ 騎兵 きへい 師団 しだん だった。ブルガリア軍 ぐん はヨーロッパ諸国 しょこく の軍 ぐん とは違 ちが う編成 へんせい をしていた。すなわち、1個 いっこ 歩兵 ほへい 師団 しだん は3個 こ 旅団 りょだん で構成 こうせい されており、1個 いっこ 旅団 りょだん は2個 こ 連隊 れんたい 、1個 いっこ 連隊 れんたい は4個 こ 大隊 だいたい 、1個 いっこ 大隊 だいたい は6個 こ 中隊 ちゅうたい 、1個 いっこ 中隊 ちゅうたい は250人 にん だった(250人 にん は一般 いっぱん 的 てき な中隊 ちゅうたい よりも大 おお きい構成 こうせい である)。これに1個 いっこ 独立 どくりつ 大隊 だいたい 、2個 こ 大型 おおがた 砲兵 ほうへい 連隊 れんたい 、1個 いっこ 騎兵 きへい 連隊 れんたい が加 くわ えられ、合計 ごうけい としては1個 いっこ 師団 しだん が25個 こ 歩兵 ほへい 大隊 だいたい (ただし一般 いっぱん 的 てき な大隊 だいたい よりも人数 にんずう がかなり多 おお い)と16個 こ 騎兵 きへい 中隊 ちゅうたい で構成 こうせい され[15] 。当時 とうじ の軍 ぐん で一般 いっぱん 的 てき な9個 こ 大隊 だいたい ×2個 こ 師団 しだん よりも人数 にんずう が多 おお かった。これは1913年 ねん 時点 じてん のギリシャ軍 ぐん とセルビア軍 ぐん と比 くら べても同 おな じだった。その結果 けっか 、第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう の開戦 かいせん 時点 じてん で動員 どういん されたブルガリア軍 ぐん の人数 にんずう が599,878人 にん だったにもかかわらず[16] [17] 、師団 しだん の数 かず は9個 こ しかおらず、ブルガリア軍 ぐん の「師団 しだん 」は軍団 ぐんだん に近 ちか い実力 じつりょく を有 ゆう した。第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう の戦中 せんちゅう と戦後 せんご における戦術 せんじゅつ 上 じょう の必要 ひつよう 性 せい から、第 だい 10師団 しだん が第 だい 1と第 だい 6師団 しだん からの2個 こ 旅団 りょだん ずつと新兵 しんぺい で構成 こうせい された3個 こ 独立 どくりつ 旅団 りょだん で創設 そうせつ されたが、ブルガリア軍 ぐん の「重 おも い」編成 へんせい は残 のこ った。一方 いっぽう 、ギリシャのマケドニア軍 ぐん も同 おな じく9個 こ 師団 しだん にもかかわらず118,000人 にん しかいなかった。また、大砲 たいほう の数 かず も各国 かっこく 軍 ぐん の実力 じつりょく に影響 えいきょう を与 あた えた。ギリシャ軍 ぐん 9個 こ 師団 しだん は大砲 たいほう 176門 もん を、セルビア軍 ぐん 10個 こ 師団 しだん は大砲 たいほう 230門 もん を保有 ほゆう していたが、ブルガリア軍 ぐん は1,116門 もん を保有 ほゆう しており、これはギリシャ軍 ぐん の6倍 ばい 、セルビア軍 ぐん の5倍 ばい にあたる。
第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう 中 ちゅう のブルガリア軍 ぐん の実力 じつりょく については論争 ろんそう がある。第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう の開戦 かいせん 時点 じてん でブルガリア軍 ぐん は599,878人 にん を動員 どういん した(うち366,209人 にん が行動 こうどう 軍 ぐん 、53,927人 にん が追加 ついか 部隊 ぶたい 、53,983人 にん が国民 こくみん 民兵 みんぺい 、94,526人 にん が1912年 ねん と1913年 ねん の徴兵 ちょうへい からの新兵 しんぺい 、14,204人 にん が義勇 ぎゆう 兵 へい 、14,424人 にん が国境 こっきょう 守備 しゅび 軍 ぐん だった)。そして、戦争 せんそう 中 ちゅう に14,000人 にん が戦死 せんし 、19,000人 にん が病死 びょうし したため、合計 ごうけい で33,000人 にん が失 うしな われたが、それを補 おぎな うために主 おも に占領 せんりょう 地 ち から6万 まん 人 にん を徴兵 ちょうへい 、うち2万 まん 1千 せん 人 にん ずつでセレス 、ドラマ 、オドリン の合計 ごうけい 3個 こ 独立 どくりつ 旅団 りょだん を編成 へんせい した。動員 どういん が解除 かいじょ された兵士 へいし がいないことは知 し られている。しかし、ブルガリア軍 ぐん の首脳 しゅのう 部 ぶ によると、6月16日 にち 時点 じてん では兵士 へいし 492,528人 にん と士官 しかん 7,693人 にん が編成 へんせい されている(この数字 すうじ は上記 じょうき の3個 こ 旅団 りょだん を含 ふく む)[18] 。これは第 だい 一 いち 次 じ と第 だい 二 に 次 じ 戦争 せんそう の間 あいだ で99,657人 にん の差 さ を示 しめ している。一方 いっぽう で負傷 ふしょう 者 しゃ を含 ふく む損害 そんがい を引 ひ き、新兵 しんぺい を足 た すと合計 ごうけい で少 すく なくとも576,878人 にん となる。また、戦争 せんそう に必要 ひつよう な物資 ぶっし も不足 ふそく しており、一 いち 例 れい としてはライフルの数 かず が378,998丁 ちょう しかなかった。
戦争 せんそう 勃発 ぼっぱつ 以前 いぜん の共同 きょうどう 占領 せんりょう 期 き におけるテッサロニキ港 こう のギリシャ哨兵 しょうへい (左 ひだり )とブルガリア哨兵 しょうへい (右 みぎ )。
ブルガリア軍 ぐん の配置 はいち はヴァシル・クチンチェフ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる第 だい 1軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) とラトコ・ディミトリエフ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる第 だい 3軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) が旧 きゅう セルビア・ブルガリア国境 こっきょう に、ステファン・トシェフ 率 ひき いる第 だい 5軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) がキュステンディル 一帯 いったい に、スティリアン・コヴァチェフ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる第 だい 4軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) がコチャニ とラドヴィシュ (英語 えいご 版 ばん ) 地域 ちいき に配置 はいち され、ニコラ・イヴァノフ (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる第 だい 2軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) が対 たい ギリシャ軍 ぐん に配置 はいち された。
セルビア王国 おうこく 軍 ぐん は348,000人 にん であり、うち252,000人 にん が戦闘 せんとう 員 いん で[1] 3個 こ 軍 ぐん 10個 こ 師団 しだん に分 わ けられた。主力 しゅりょく はヴァルダル川 かわ 沿 ぞ いとスコピエ 近 ちか くに配備 はいび されていた。名目 めいもく 上 じょう の総 そう 指揮 しき 官 かん はペータル1世 せい であり、ラドミル・プトニク が参謀 さんぼう 総長 そうちょう と実際 じっさい の総 そう 指揮 しき 官 かん を務 つと めた。
ギリシャでは国王 こくおう コンスタンティノス1世 せい が軍 ぐん の指揮 しき を執 と り、ヴィクトル・ドゥスマニス (英語 えいご 版 ばん ) 中将 ちゅうじょう が参謀 さんぼう 総長 そうちょう を務 つと めた。
モンテネグロはマケドニア戦線 せんせん にヤンコ・ヴコティッチ 将軍 しょうぐん 率 ひき いる1個 いっこ 師団 しだん (1万 まん 2千 せん 人 にん )を派遣 はけん した。
ルーマニア王国 おうこく はバルカン半島 ばるかんはんとう 最大 さいだい の軍 ぐん を保有 ほゆう していたが、1878年 ねん のルーマニア独立 どくりつ 戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) でオスマン帝国 ていこく とたたかって以来 いらい 、戦闘 せんとう を行 おこな っていなかった。平時 へいじ には士官 しかん 6,149人 にん と兵士 へいし 94,170人 にん を有 ゆう しており、バルカン半島 ばるかんはんとう のレベルから考 かんが えて装備 そうび はそれなりによかった。すなわち、ルーマニア軍 ぐん は主 おも にクルップ 社 しゃ が製造 せいぞう した野砲 やほう 126門 もん 、榴弾 りゅうだん 砲 ほう 15門 もん 、山砲 さんぽう 3門 もん を保有 ほゆう していた。動員 どういん をかけた場合 ばあい 、ルーマニア軍 ぐん は5個 こ 軍 ぐん に分 わ けられる417,720人 にん を招集 しょうしゅう できた。うち約 やく 8万 まん 人 にん が南 みなみ ドブルジャの占領 せんりょう を目標 もくひょう とし、25万 まん 人 にん がブルガリアへの攻勢 こうせい を目標 もくひょう とした[1] 。
開戦 かいせん 時点 じてん のブルガリアの戦闘 せんとう 計画 けいかく
ブルガリアの計画 けいかく では第 だい 1、3、4、5軍 ぐん でセルビア軍 ぐん を、第 だい 2軍 ぐん でテッサロニキのギリシャ軍 ぐん を攻撃 こうげき する予定 よてい だったが、開戦 かいせん 直後 ちょくご に前進 ぜんしん を命 めい じられたのは第 だい 2軍 ぐん と第 だい 4軍 ぐん だけだった。これによりセルビア軍 ぐん は攻撃 こうげき してくるブルガリア軍 ぐん への対処 たいしょ に集中 しゅうちゅう して進軍 しんぐん を止 と めることができた。ギリシャ戦線 せんせん では人数 にんずう で劣勢 れっせい であり、最初 さいしょ は戦闘 せんとう もあまり激 はげ しくなかったが、6月19日 にち にはギリシャの全面 ぜんめん 攻撃 こうげき になり、ブルガリア軍 ぐん はテッサロニキから北 きた にある陣地 じんち から引 ひ き上 あ げざるを得 え ず、テッサロニキに配置 はいち された大隊 だいたい は孤立 こりつ してすぐに撃滅 げきめつ された。ブルガリア軍 ぐん は続 つづ いてキルキス とストルマ川 がわ の間 あいだ に防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を構 かま えた。この時点 じてん で集中 しゅうちゅう 攻撃 こうげき によるマケドニア中部 ちゅうぶ のセルビア軍 ぐん の撃破 げきは が非 ひ 現実 げんじつ 的 てき であると判明 はんめい 、ブルガリア軍 ぐん はルーマニアが介入 かいにゅう するまでもなく撤退 てったい を開始 かいし 、ギリシャ軍 ぐん の進軍 しんぐん によりソフィアを守備 しゅび すべくブルガリア軍 ぐん は退 しりぞ く必要 ひつよう があった。
イヴァノフ将軍 しょうぐん 率 ひき いる南 みなみ マケドニアのブルガリア第 だい 2軍 ぐん はドイラン湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) から南東 なんとう のキルキス、ラハナス (英語 えいご 版 ばん ) 、セレス、そしてパンゲオ山脈 さんみゃく (英語 えいご 版 ばん ) を越 こ えてエ え ーゲ海 げかい まで続 つづ く線上 せんじょう で配置 はいち された。第 だい 2軍 ぐん は5月よりこの配置 はいち であり、第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう でエディルネ包囲 ほうい 戦 せん を戦 たたか っていたため経験 けいけん 豊富 ほうふ な軍隊 ぐんたい だった。イヴァノフ将軍 しょうぐん は大敗 たいはい の責任 せきにん を回避 かいひ するためか戦後 せんご に自軍 じぐん が3万 まん 6千 せん 人 にん しかおらず、多 おお くの部隊 ぶたい が人員 じんいん 不足 ふそく であると主張 しゅちょう したが、これは第 だい 2軍 ぐん の部隊 ぶたい を細 こま かく調査 ちょうさ すると間違 まちが いであるとわかる。イヴァノフの第 だい 2軍 ぐん は第 だい 3師団 しだん から1個 いっこ 旅団 りょだん を減 へ らした人数 にんずう 、すなわちそれぞれ4個 こ 大隊 だいたい で構成 こうせい された4個 こ 連隊 れんたい (合計 ごうけい で16個 こ 大隊 だいたい と師団 しだん ごとの砲兵 ほうへい )、第 だい I、第 だい X旅団 りょだん の第 だい 16、25連隊 れんたい (合計 ごうけい で8個 こ 大隊 だいたい と砲兵 ほうへい )、ドラマ旅団 りょだん の第 だい 7、69、75連隊 れんたい (合計 ごうけい で12個 こ 大隊 だいたい )、セレス旅団 りょだん の第 だい 55、56、57連隊 れんたい (合計 ごうけい で12個 こ 大隊 だいたい と師団 しだん ごとの砲兵 ほうへい )、第 だい 5国境 こっきょう 大隊 だいたい 、第 だい 10独立 どくりつ 大隊 だいたい 、第 だい 10騎兵 きへい 連隊 れんたい (7個 こ 乗馬 じょうば 中隊 ちゅうたい と7個 こ 歩兵 ほへい 中隊 ちゅうたい )で構成 こうせい された。合計 ごうけい では58個 こ 歩兵 ほへい 大隊 だいたい の232個 こ 中隊 ちゅうたい 、1個 いっこ 騎兵 きへい 連隊 れんたい (14個 こ 中隊 ちゅうたい )、大砲 たいほう 175門 もん で人数 にんずう は8万 まん (ブルガリア側 がわ の公式 こうしき 人数 にんずう )から10万 まん 8千 せん 人 にん (ギリシャ側 がわ の公式 こうしき 文献 ぶんけん で、1932年 ねん 以前 いぜん の公式 こうしき ブルガリア戦争 せんそう 史 し に基 もと づく)だった[19] 。現代 げんだい の歴史 れきし 家 か の間 あいだ ではイヴァノフが自軍 じぐん の人数 にんずう を過小 かしょう 評価 ひょうか していたが、ギリシャ軍 ぐん の人数 にんずう よりは少 すく ないことが通説 つうせつ となっている[1] 。ギリシャの参謀 さんぼう 本部 ほんぶ もブルガリア軍 ぐん の人数 にんずう を8万 まん から10万 まん 5千 せん としている[20] 。
国王 こくおう コンスタンティノス1世 せい 率 ひき いるギリシャ軍 ぐん は8個 こ 師団 しだん と1個 いっこ 騎兵 きへい 旅団 りょだん (117,861人 にん )と大砲 たいほう 176門 もん であり[21] 、オルファノス湾 わん からゲヴゲリヤ 地域 ちいき までの線上 せんじょう に配置 はいち された。ギリシャ軍 ぐん の参謀 さんぼう 本部 ほんぶ にはブルガリア軍 ぐん の攻撃 こうげき 目標 もくひょう を知 し る手段 しゅだん がなかったため、ブルガリア軍 ぐん は攻撃 こうげき に選 えら んだ箇所 かしょ で一時 いちじ 的 てき な局地 きょくち 優勢 ゆうせい を得 え ることとなる。
6月26日 にち 、ブルガリア軍 ぐん はギリシャ軍 ぐん を撃滅 げきめつ してテッサロニキに進軍 しんぐん するとの命令 めいれい を受 う けた。しかしギリシャ軍 ぐん はブルガリア軍 ぐん の進軍 しんぐん を止 と め、29日 にち に全 ぜん 軍 ぐん 反攻 はんこう の命令 めいれい が発 はっ された。ブルガリア軍 ぐん はオスマン軍 ぐん から鹵獲 ろかく した大砲 たいほう も用 もち いてキルキスで強固 きょうこ な防御 ぼうぎょ 陣地 じんち を築 きず いた。ギリシャ第 だい 4(英語 えいご 版 ばん ) 、第 だい 2 、第 だい 5(英語 えいご 版 ばん ) 旅団 りょだん は大砲 たいほう の援護 えんご を受 う けて平原 へいげん を前進 ぜんしん してブルガリア軍 ぐん に急襲 きゅうしゅう 、大 だい 損害 そんがい を受 う けたものの翌日 よくじつ には塹壕 ざんごう を奪取 だっしゅ した。ブルガリア軍 ぐん 左翼 さよく では第 だい 7師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) がセレスを、第 だい 1 と第 だい 6師団 しだん (英語 えいご 版 ばん ) がラハナスを占領 せんりょう した。ギリシャ軍 ぐん は第 だい 2軍 ぐん を撃破 げきは したが、これは第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう におけるブルガリアの最大 さいだい の敗北 はいぼく である。ブルガリア側 がわ の文献 ぶんけん では6,971人 にん の損害 そんがい 、捕虜 ほりょ が6,000人 にん 以上 いじょう 、大砲 たいほう 130門 もん がギリシャ軍 ぐん に鹵獲 ろかく されたとした一方 いっぽう 、ギリシャ軍 ぐん の損害 そんがい は8,700人 にん とされた[22] 。28日 にち 、ブルガリア軍 ぐん と非 ひ 正規 せいき 軍 ぐん は撤退 てったい している最中 さいちゅう にセレスに放火 ほうか した(セレスの北西 ほくせい はブルガリア領 りょう で南東 なんとう はギリシャ領 りょう だった[23] )。ほかにもニグリタ (英語 えいご 版 ばん ) 、ドクサト (英語 えいご 版 ばん ) 、デミル・ヒサル (英語 えいご 版 ばん ) が放火 ほうか されたが[24] 、戦闘 せんとう 後 ご にギリシャ軍 ぐん がブルガリア領 りょう キルキスや周辺 しゅうへん のブルガリア人 じん 集落 しゅうらく に放火 ほうか したことへの報復 ほうふく とされた[25] 。ブルガリア軍 ぐん 右翼 うよく ではギリシャ軍 ぐん のエヴゾネス がゲヴゲリヤとマツィコヴォ (英語 えいご 版 ばん ) 高地 こうち を占領 せんりょう した。これによりブルガリアのドイランを通 とお る撤退 てったい 経路 けいろ が脅 おびや かされ、イヴァノフの軍勢 ぐんぜい が決死 けっし の撤退 てったい を敢行 かんこう したがその実態 じったい は潰走 かいそう に近 ちか かった。第 だい 14師団 しだん が援軍 えんぐん にきたが時 とき すでに遅 おそ く、ストルミツァ やブルガリア国境 こっきょう への撤退 てったい に加 くわ わるだけに終 お わった。ギリシャは7月 がつ 5日 にち にドイラン (英語 えいご 版 ばん ) を占領 せんりょう したが、ブルガリア軍 ぐん のストルマ山道 さんどう を通 とお る撤退 てったい は阻止 そし できなかった。11日 にち 、ギリシャ陸軍 りくぐん は艦隊 かんたい の援護 えんご を受 う けてカヴァラ で上陸 じょうりく 、さらに内陸 ないりく の西 にし トラキアへ進軍 しんぐん した。19日 にち 、ギリシャ軍 ぐん はネヴロコプ を占領 せんりょう 、25日 にち には海軍 かいぐん と陸軍 りくぐん の連合 れんごう 攻撃 こうげき でアレクサンドルーポリ を占領 せんりょう 、ブルガリアを完全 かんぜん にエ え ーゲ海 げかい から切 き り離 はな した[26] 。
第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう 中 ちゅう の1913年 ねん 6月 がつ 、セルビア軍 ぐん と野外 やがい 無線 むせん 電報 でんぽう ステーション 。
ブルガリア第 だい 4軍 ぐん はセルビア領 りょう マケドニアへの侵攻 しんこう において最 もっと も重要 じゅうよう な位置 いち についていた[27] 。戦闘 せんとう は1913年 ねん 6月 がつ 29/30日 にち にブルガリア第 だい 4軍 ぐん とセルビア第 だい 1と第 だい 3軍 ぐん の間 あいだ で開始 かいし 、最初 さいしょ はズレトフスカ川 がわ (マケドニア語 ご 版 ばん ) 沿 ぞ いで戦 たたか われたがブルガリア軍 ぐん が撤退 てったい した後 のち はブレガルニツァ川 かわ 沿 ぞ いで戦 たたか われた[27] 。ブルガリア軍 ぐん 内部 ないぶ の混乱 こんらん により7月 がつ 1日 にち から3日 にち にかけて大 だい 損害 そんがい を被 こうむ り[27] 、さらにセルビア軍 ぐん が戦闘 せんとう もなしにブルガリア第 だい 4軍 ぐん の第 だい 7師団 しだん を捕虜 ほりょ にした[27] 。8日 にち にはブルガリア軍 ぐん の大敗 たいはい が明 あき らかになった[28] 。
戦場 せんじょう の北部 ほくぶ ではブルガリア軍 ぐん がセルビア国境 こっきょう のピロト への進撃 しんげき を開始 かいし 、セルビア軍部 ぐんぶ はピロトとニシュ を守備 しゅび するセルビア第 だい 2軍 ぐん に援軍 えんぐん を送 おく らなければならなかった。これによりブルガリア軍 ぐん は7月 がつ 18日 にち のカリマンツィの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でセルビア軍 ぐん のマケドニアにおける攻勢 こうせい を停止 ていし させることができた。
1913年 ねん 7月 がつ 13日 にち 、ミハイル・サヴォフ (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん はブルガリア第 だい 4と第 だい 5軍 ぐん の指揮 しき を執 と った[29] 。ブルガリア軍 ぐん はマケドニア北東 ほくとう 部 ぶ のブレガルニツァ川 がわ (英語 えいご 版 ばん ) にあるカリマンツィ (英語 えいご 版 ばん ) 村 むら 周辺 しゅうへん で強固 きょうこ な陣地 じんち を築 きず いた[29] 。7月18日 にち 、セルビア第 だい 3軍 ぐん が攻撃 こうげき を開始 かいし 、ブルガリア軍 ぐん の陣地 じんち に接近 せっきん した[29] 。ブルガリア軍 ぐん は持 も ちこたえ、大砲 たいほう でセルビア軍 ぐん の攻撃 こうげき を撃退 げきたい した[29] 。セルビア軍 ぐん がブルガリア軍 ぐん の守備 しゅび を突破 とっぱ した場合 ばあい 、ブルガリア第 だい 2軍 ぐん の破滅 はめつ を意味 いみ する可能 かのう 性 せい があり、これによりブルガリアはマケドニアから完全 かんぜん に追 お い出 だ される危険 きけん があった[29] 。しかし、ブルガリア軍 ぐん が守備 しゅび に成功 せいこう 、さらに第 だい 1と第 だい 3軍 ぐん が北部 ほくぶ で進軍 しんぐん に成功 せいこう したことで、セルビア軍 ぐん はブルガリア西部 せいぶ に侵攻 しんこう できなかった[30] 。これはブルガリア軍 ぐん の士気 しき を上 あ げたが、南部 なんぶ のギリシャ軍 ぐん との戦況 せんきょう がいよいよ致命 ちめい 的 てき になってきた[30] 。
クレスナ渓谷 けいこく を進 すす むギリシャ軍 ぐん
セルビア戦線 せんせん は膠着 こうちゃく していた。国王 こくおう コンスタンティノス1世 せい は対峙 たいじ していたブルガリア軍 ぐん が撃破 げきは されたのを見 み て、ブルガリア領 りょう にさらに深 ふか く進軍 しんぐん して、首都 しゅと ソフィアを占領 せんりょう するよう命 めい じた。これは決定的 けっていてき な勝利 しょうり を得 え るためであったが、首相 しゅしょう エレフテリオス・ヴェニゼロス はセルビア軍 ぐん が戦争 せんそう の目的 もくてき を達成 たっせい したことで戦闘 せんとう に消極 しょうきょく 的 てき になり、残 のこ りの戦闘 せんとう の重圧 じゅうあつ をギリシャ軍 ぐん に被 かぶ せようとしたことに気付 きづ き、国王 こくおう の決定 けってい に反対 はんたい したが結局 けっきょく 押 お し切 き られた。クレスネンスコ峡谷 きょうこく の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) ではギリシャ軍 ぐん がセルビア戦線 せんせん から駆 か けつけたブルガリア第 だい 2と第 だい 4軍 ぐん に奇襲 きしゅう され、守備 しゅび 陣地 じんち を築 きず いたが、7月 がつ 21日 にち にはギリシャ軍 ぐん が人数 にんずう でブルガリア軍 ぐん に劣 おと り、しかもブルガリア軍 ぐん が反撃 はんげき に転 てん じた。ブルガリア軍 ぐん の参謀 さんぼう 本部 ほんぶ はカンナエの戦 たたか い のようにギリシャ軍 ぐん を包囲 ほうい しようとしてその両翼 りょうよく に圧力 あつりょく をかけた[30] 。しかし激戦 げきせん の結果 けっか ギリシャ軍 ぐん はクレスネンスコ峡谷 きょうこく を突破 とっぱ して7月 がつ 26日 にち にシミトリ を占領 せんりょう [31] 、27から28日 にち にかけての夜 よる にはブルガリア軍 ぐん がソフィア から76キロメートル南 みなみ のゴルナ・ジュマヤ にまで押 お された[32] 。一方 いっぽう 、ギリシャ軍 ぐん は西 にし トラキアへの進軍 しんぐん を継続 けいぞく 、7月 がつ 26日 にち にクサンティ に、その翌日 よくじつ にコモティニ に入城 にゅうじょう した[32] 。28日 にち 、ブルガリア軍 ぐん はギリシャ軍 ぐん に強力 きょうりょく に押 お され、ゴルナ・ジュマヤの放棄 ほうき を余儀 よぎ なくされた[33] 。
ギリシャ軍 ぐん は疲労 ひろう していて兵站 へいたん 上 じょう の問題 もんだい にも直面 ちょくめん したが、頑強 がんきょう に抵抗 ていこう し、局地 きょくち 戦 せん での反 はん 撃 げき も行 おこな った。7月 がつ 20日 はつか 、ブルガリア軍 ぐん はギリシャ軍 ぐん の両翼 りょうよく からの反撃 はんげき を撃退 げきたい する必要 ひつよう があったために攻撃 こうげき の手 て を緩 ゆる めた。東側 ひがしがわ ではギリシャ軍 ぐん がプレデラ山道 さんどう を通 とお ってメホミヤ へ反攻 はんこう しようとしたが、ブルガリア軍 ぐん により山道 さんどう の東側 ひがしがわ で止 と められ膠着 こうちゃく した。西側 にしがわ では何 なに とかセルビア軍 ぐん と合流 ごうりゅう すべくツァレヴォ・セロ (英語 えいご 版 ばん ) への攻勢 こうせい が始 はじ まったが、結局 けっきょく ギリシャ軍 ぐん が自軍 じぐん の陣地 じんち を保持 ほじ したに留 とど まった[34] 。
ルーマニアは南 みなみ ドブルジャを奪取 だっしゅ すべく1913年 ねん 7月 がつ 5日 にち に軍 ぐん を動員 どういん 、10日 とおか にブルガリアに宣戦 せんせん 布告 ふこく した[1] 。ルーマニア政府 せいふ は自国 じこく の宣戦 せんせん 布告 ふこく の目的 もくてき と戦争 せんそう での流血 りゅうけつ が増 ふ えてきたことに対 たい する国際 こくさい での憂慮 ゆうりょ を和 やわ らげるために「ルーマニアはブルガリアの国家 こっか 組織 そしき を降伏 ごうぶく させようとも、その軍 ぐん を撃破 げきは しようともしていない」とする外交 がいこう 回状 かいじょう を出 だ した[1] 。リチャード・ホールによると、「ルーマニアが紛争 ふんそう に介入 かいにゅう したことでブルガリアの情勢 じょうせい はもはや支 ささ えられないものとなり、ルーマニアがドナウ川 がわ を渡 わた ったことは第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう の決定的 けっていてき な軍事 ぐんじ 行動 こうどう となった」という[35] 。
ルーマニアが宣戦 せんせん 布告 ふこく した日 ひ 、イオン・クルチェル 将軍 しょうぐん 率 ひき いるルーマニア第 だい 5軍 ぐん (8万 まん 人 にん )がドブルジャに侵攻 しんこう 、トゥトラカン からバルチク までを前線 ぜんせん として占領 せんりょう した[1] 。第 だい 5軍 ぐん の騎兵 きへい はブルガリアからの抵抗 ていこう がないことが明 あき らかになるまでヴァルナ 市 し を占領 せんりょう した[1] 。7月14日 にち から15日 にち にかけての夜 よる 、フェルディナンド王子 おうじ 率 ひき いるドナウ軍 ぐん がオリャホヴォ 、ギゲン (英語 えいご 版 ばん ) 、ニコポル でブルガリア国境 こっきょう を越 こ えた[1] 。最初 さいしょ の占領 せんりょう が完成 かんせい すると、ルーマニア軍 ぐん は2隊 たい に分 わ け、1隊 たい は西 にし のフェルディナンド (現 げん モンタナ)に前進 ぜんしん 、もう1つは南西 なんせい にあるブルガリア首都 しゅと ソフィアに向 む かった。2隊 たい とも本 ほん 軍 ぐん が攻 せ める前 まえ に騎兵 きへい 部隊 ぶたい を偵察 ていさつ に派遣 はけん した[6] 。
7月 がつ 18日 にち 、ルーマニア軍 ぐん はフェルディナンドを占領 せんりょう 、20日 はつか にはソフィアから116キロメートル北 きた のヴラツァ を占領 せんりょう した。7月23日 にち 、ルーマニア軍 ぐん 前衛 ぜんえい の騎兵 きへい がソフィアまでわずか7マイルのヴラジデブナに入城 にゅうじょう した[6] 。25日 にち にはルーマニア軍 ぐん とセルビア軍 ぐん がベログラトチク で合流 ごうりゅう したため、重要 じゅうよう 都市 とし のヴィディン が孤立 こりつ した。ブルガリアの後背 こうはい は全 まった くの無防備 むぼうび であり、ルーマニア軍 ぐん は抵抗 ていこう を受 う けず、首都 しゅと ソフィアへの道 みち には何 なん の障礙 しょうがい もなかった。さらに北西 ほくせい 部 ぶ の都市 とし が切 き り離 はな され包囲 ほうい された[6] 。またルーマニア軍 ぐん による侵攻 しんこう の最中 さいちゅう 、ルーマニア空軍 くうぐん が写真 しゃしん 偵察 ていさつ を行 おこな い、プロパガンダの小 しょう 冊子 さっし を空中 くうちゅう 投下 とうか した。そのため、ソフィアははじめて敵国 てきこく の飛行機 ひこうき に上空 じょうくう を侵犯 しんぱん された首都 しゅと になった[6] 。
ルーマニア軍 ぐん は短期間 たんきかん の参戦 さんせん において戦闘 せんとう による被害 ひがい は生 しょう じなかったが、コレラ が蔓延 まんえん したため6千 せん 人 にん を失 うしな った[6] 。
軍服 ぐんぷく を着 き たアフメト・イッゼト・パシャ 、1913年 ねん 頃 ごろ 。
ルーマニアの侵攻 しんこう への抵抗 ていこう の欠如 けつじょ により、オスマン帝国 ていこく はブルガリアに割譲 かつじょう した領土 りょうど への侵攻 しんこう を決定 けってい した。侵攻 しんこう の主 おも な目標 もくひょう はエディルネ(アドリアノープル)であったが、エディルネの守備 しゅび 軍 ぐん はヴルコ・ヴェルチェフ (ブルガリア語 ご 版 ばん ) 率 ひき いるわずか4千 せん 人 にん だった[7] 。東 ひがし トラキア を占領 せんりょう していたブルガリア軍 ぐん の大半 たいはん はそれ以前 いぜん にセルビア軍 ぐん とギリシャ軍 ぐん による攻撃 こうげき に対処 たいしょ すべく撤退 てったい していた。7月12日 にち 、チャタルジャ (英語 えいご 版 ばん ) とゲリボル のオスマン駐留 ちゅうりゅう 軍 ぐん はエノス=メデア線 せん に到着 とうちゃく 、20日 はつか にはそれを越 こ えてブルガリアに侵攻 しんこう した[7] 。オスマン軍 ぐん はアフメト・イッゼト・パシャ 率 ひき いる20万 まん から25万 まん 人 にん であり、第 だい 1軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) は線 せん の東 ひがし 端 はし (メデア)に配置 はいち され、以降 いこう 東 ひがし から西 にし の順 じゅん に第 だい 2(英語 えいご 版 ばん ) 、第 だい 3(英語 えいご 版 ばん ) 、第 だい 4軍 ぐん (英語 えいご 版 ばん ) が続 つづ き、うち第 だい 4軍 ぐん はゲリボルに配置 はいち されていた[7] 。
数 かず で大幅 おおはば な優勢 ゆうせい を有 ゆう するオスマン軍 ぐん の進軍 しんぐん に直面 ちょくめん したブルガリア軍 ぐん はバルカン戦争 せんそう 以前 いぜん の国境 こっきょう 線 せん に後退 こうたい した。エディルネは7月 がつ 19日 にち に放棄 ほうき されたが、オスマン軍 ぐん がすぐに占領 せんりょう しなかったためブルガリア軍 ぐん は翌 よく 20日 にち にそれを再 さい 占領 せんりょう した。しかし、オスマン軍 ぐん の進軍 しんぐん が止 と まらなかったため、21日 にち に再 ふたた び放棄 ほうき され、23日 にち にはオスマン軍 ぐん が占領 せんりょう した[7] 。エディルネは1360年代 ねんだい にムラト1世 せい によって征服 せいふく され(英語 えいご 版 ばん ) ており、1453年 ねん にコンスタンティノープルが陥落 かんらく するまでオスマン帝国 ていこく の首都 しゅと だった。戦争 せんそう 大臣 だいじん エンヴェル・パシャ は自身 じしん を「2人 ふたり 目 め のエディルネ征服 せいふく 者 しゃ 」と呼 よ び、威光 いこう を示 しめ したが、実際 じっさい にはエディルネへの進撃 しんげき は抵抗 ていこう を受 う けなかった[7] 。
オスマン軍 ぐん はバルカン戦争 せんそう 以前 いぜん の国境 こっきょう で止 と まらず、ブルガリア領 りょう に侵入 しんにゅう した。例 たと えば、騎兵 きへい 部隊 ぶたい がヤンボル に進軍 しんぐん した[7] 。一般 いっぱん 市民 しみん の間 あいだ ではルーマニアの進軍 しんぐん よりもオスマン帝国 ていこく の進軍 しんぐん に恐怖 きょうふ し、その多 おお くが山岳 さんがく 地帯 ちたい に逃亡 とうぼう した。ブルガリア指導 しどう 部 ぶ の間 あいだ でも運 うん の尽 つ きであると認 みと めた。歴史 れきし 家 か のリチャード・ホールは「第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう に勝 か つために多 おお くのブルガリア兵士 へいし が死 し んだ東 ひがし トラキアの戦場 せんじょう が再 ふたた びオスマン帝国 ていこく の支配 しはい 下 か に置 お かれた」と述 の べた[7] 。ルーマニア軍 ぐん と同 おな じく、オスマン軍 ぐん も戦闘 せんとう による死傷 ししょう 者 しゃ は出 で なかったが、コレラで兵士 へいし 4千 せん 人 にん を失 うしな った[7] 。オスマン軍 ぐん は侵攻 しんこう 中 ちゅう でもその後 ご でも東 ひがし トラキアのブルガリア人 じん に対 たい する残虐 ざんぎゃく 行為 こうい を行 おこな い、ほぼ全員 ぜんいん が追放 ついほう された。これは1918年 ねん に出版 しゅっぱん された『1913年 ねん のトラキア・ブルガリア人 じん の破滅 はめつ (英語 えいご 版 ばん ) 』で記録 きろく されている。
オスマン帝国 ていこく のトラキアにおける快 かい 進撃 しんげき に抵抗 ていこう すべく、ロシアはカフカースを越 こ えてオスマン帝国 ていこく に攻撃 こうげき すると脅 おど し、黒海 こっかい 艦隊 かんたい をコンスタンティノープルに派遣 はけん したが、これはイギリスの介入 かいにゅう を招 まね いてしまった。
ルーマニア軍 ぐん がソフィアに迫 せま る中 なか 、ブルガリアはロシアに仲介 ちゅうかい を要請 ようせい したが、ロシアが行動 こうどう を起 お こさなかったためブルガリア首相 しゅしょう ストヤン・ダネフ (英語 えいご 版 ばん ) が辞任 じにん した。7月17日 にち 、フェルディナンド1世 せい はヴァシル・ラドスラホフ (英語 えいご 版 ばん ) を首相 しゅしょう に任命 にんめい 、親 しん 独 どく 反 はん 露 ろ 政権 せいけん が発足 ほっそく した[29] 。7月 がつ 20日 はつか 、セルビア首相 しゅしょう ニコラ・パシッチ (英語 えいご 版 ばん ) はブルガリア代表 だいひょう をセルビア領 りょう ニシュ で同盟 どうめい 国 こく との直接 ちょくせつ 交渉 こうしょう に招 まね いた。しかし、セルビアもギリシャも攻勢 こうせい に出 で たため講和 こうわ を急 いそ がず、22日 にち にはフェルディナンド1世 せい がブカレスト駐在 ちゅうざい イタリア大使 たいし を通 つう じてカロル1世 せい に親書 しんしょ を送 おく り、ルーマニア軍 ぐん がようやくソフィアを前 まえ に進軍 しんぐん を停止 ていし した[29] 。ルーマニアはブカレストで交渉 こうしょう を行 おこな うことを提案 ていあん 、代表 だいひょう たちは7月 がつ 24日 にち に鉄道 てつどう でニシュからブカレストに移動 いどう した[29] 。
そして、各国 かっこく 代表 だいひょう が7月 がつ 30日 にち にブカレストに会合 かいごう した。セルビア代表 だいひょう はパシッチが、モンテネグロ代表 だいひょう はヴコティッチが、ギリシャ代表 だいひょう はヴェニゼロスが、ルーマニア代表 だいひょう はティトゥ・マイオレスク (英語 えいご 版 ばん ) が、ブルガリア代表 だいひょう は財務 ざいむ 大臣 だいじん ディミトゥル・トンチェフ (ブルガリア語 ご 版 ばん ) が率 ひき いた。代表 だいひょう たちは7月 がつ 31日 にち から5日間 にちかん の停戦 ていせん に合意 ごうい した[36] 。しかし、ルーマニアがオスマン帝国 ていこく の参加 さんか を拒否 きょひ したため、ブルガリアはオスマン帝国 ていこく と別個 べっこ に交渉 こうしょう しなければならなかった[36] 。
バルカン戦争 せんそう 後 ご の最終 さいしゅう 国境 こっきょう
ブルガリアは7月 がつ 19日 にち には早 はや くも南 みなみ ドブルジャをルーマニアに割譲 かつじょう することに同意 どうい した。これにより主 しゅ 目的 もくてき を達成 たっせい したルーマニアはブカレストでの講和 こうわ 交渉 こうしょう で仲介 ちゅうかい 役 やく を務 つと めることとなった[36] 。ブルガリアはセルビアとのマケドニア分割 ぶんかつ においてヴァルダル川 がわ を国境 こっきょう としたかったが、セルビアはストルマ川 がわ を国境 こっきょう とすることを主張 しゅちょう した。そこにオーストリア=ハンガリーとロシアが圧力 あつりょく をかけ、セルビアは北 きた マケドニアの大半 たいはん を得 え ることで手 て を打 う つことを余儀 よぎ なくされた。シュティプ だけは(パシッチの言葉 ことば を借 か りて)「フィチェフ将軍 しょうぐん を記念 きねん して」ブルガリアに残 のこ された。イヴァン・フィチェフ は第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう でブルガリア軍 ぐん を率 ひき いてコンスタンティノープル直前 ちょくぜん にまで攻 せ め寄 よ せた[36] ブルガリア軍 ぐん の参謀 さんぼう 総長 そうちょう であり、当時 とうじ はブルガリア代表 だいひょう 団 だん の1人 にん でもあった。ブルガリアがカヴァラ を領有 りょうゆう すべき理由 りゆう についてフィチェフが説明 せつめい したとき、ヴェニゼロスは「将軍 しょうぐん 、私 わたし たちに責任 せきにん はありません。6月(29日 にち )の前 まえ 、私 わたし たちはあなたを恐 おそ れて、セレス とドラマ とカヴァラを差 さ し出 だ したが、今 いま や私 わたし たちは勝者 しょうしゃ の役割 やくわり であり、私 わたし たちの利益 りえき しか考 かんが えません。」と返答 へんとう したとされる[36] 。オーストリア=ハンガリーとロシアはブルガリアを支持 しじ したものの、ギリシャは王妃 おうひ がドイツ皇帝 こうてい ヴィルヘルム2世 せい の妹 いもうと だったこともあってドイツと同盟 どうめい しており、さらにフランスの支援 しえん もとりつけたためカヴァラを確保 かくほ することに成功 せいこう した。ブルガリアは開発 かいはつ 度 ど の低 ひく いデデアーチ 港 みなと しか確保 かくほ できなかった[36] 。
交渉 こうしょう は8月 がつ 8日 にち までに終結 しゅうけつ した。8月 がつ 10日 とおか 、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ、ルーマニア、セルビアがブカレスト条約 じょうやく を締結 ていけつ してマケドニアを三 さん 分割 ぶんかつ した。そのうち最 もっと も大 おお きい北 きた マケドニア はセルビアに、最 もっと も小 ちい さいピリン・マケドニア はブルガリアに、海岸 かいがん 部 ぶ のエーゲ・マケドニア はギリシャに帰属 きぞく した[36] 。これにより、第 だい 一 いち 次 じ バルカン戦争 せんそう 前 まえ と比 くら べて、ブルガリアは領土 りょうど を16%拡大 かくだい 、人口 じんこう を430万 まん から470万 まん 人 にん に増 ふ やした。ルーマニアは領土 りょうど を5%拡大 かくだい 、モンテネグロは領土 りょうど を62%拡大 かくだい した[37] 。ギリシャは領土 りょうど を68%拡大 かくだい 、人口 じんこう を270万 まん から440万 まん 人 にん に増 ふ やした。セルビアは領土 りょうど をほぼ倍増 ばいぞう して、人口 じんこう を290万 まん から450万 まん に増 ふ やした[38] 。
モンテネグロ代表 だいひょう はブカレストでの交渉 こうしょう で旧 きゅう ノヴィ・パザル県 けん (英語 えいご 版 ばん ) における譲歩 じょうほ をセルビアから引 ひ き出 だ そうとしており、これは成功 せいこう して11月7日 にち にベオグラード で締結 ていけつ された条約 じょうやく にて確認 かくにん された[36] 。
8月 がつ 、オスマン軍 ぐん はコモティニ で西 にし トラキアの臨時 りんじ 政府 せいふ を設立 せつりつ してブルガリアに圧力 あつりょく をかけた。ブルガリアは9月6日 にち にミハイル・サヴォフ (英語 えいご 版 ばん ) 将軍 しょうぐん と外交 がいこう 官 かん のアンドレイ・トシェフ とグリゴール・ナチョヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) を代表 だいひょう としてコンスタンティノープルでの講和 こうわ 交渉 こうしょう に派遣 はけん した[39] 。オスマン代表 だいひょう は外相 がいしょう メフメト・タラート・パシャ 、海軍 かいぐん 相 しょう チュリュクスル・マフムト・パシャ (英語 えいご 版 ばん ) とハリル・サーミ・ベイ (英語 えいご 版 ばん ) だった。ロシアは8月 がつ を通 とお して介入 かいにゅう 、エディルネが再 ふたた びトルコ領 りょう になるのを防 ふせ ごうとしたが、トシェフはオスマン代表 だいひょう に「ロシア人 じん は根本 こんぽん 的 てき にはコンスタンティノープルを自国 じこく 領 りょう だと考 かんが えています。彼 かれ らはコンスタンティノープルを手 て に入 い れたとき、できるだけ多 おお くの後背 こうはい 地 ち を手 て に入 い れることだけが関心 かんしん 事 こと です。もしトルコ人 じん がアドリアノープルを支配 しはい していたら、それも手 て に入 い れるでしょう。」と述 の べた[39] 。
エディルネを早々 そうそう に諦 あきら めたブルガリアはクルク・キリセ (ブルガリア語 ご 名 めい ロゼングラト)を確保 かくほ しようとした。サヴォフは「全 すべ ての前線 ぜんせん でトルコ人 じん を撃破 げきは したブルガリアは数 すう 多 おお くのブルガリア人 じん の血 ち が流 なが れた戦場 せんじょう を1つも保持 ほじ せずにこの栄誉 えいよ ある戦役 せんえき を終 お えることができない」と宣言 せんげん し、マフムト・パシャは「私 わたし たちが取 と ったものは私 わたし たちのもの」と宣言 せんげん した[39] 。結局 けっきょく 、9月30日 にち に締結 ていけつ されたコンスタンティノープル条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) ではブルガリアは全 すべ ての戦場 せんじょう を維持 いじ できなかった。ブルガリア軍 ぐん がロドピ山脈 さんみゃく から南 みなみ に戻 もど るのはようやく10月 がつ のことだった[39] 。ラドスラホフ内 ない 閣 かく はその後 ご も同盟 どうめい を目指 めざ してオスマン帝国 ていこく と交渉 こうしょう し続 つづ け、1914年 ねん 8月 がつ のオスマン・ブルガリア同盟 どうめい (英語 えいご 版 ばん ) で結実 けつじつ した。
1913年 ねん 11月14日 にち 、ギリシャとオスマン帝国 ていこく はアテネ条約 じょうやく (英語 えいご 版 ばん ) を締結 ていけつ して両国 りょうこく 間 あいだ の戦争 せんそう 状態 じょうたい を正式 せいしき に終結 しゅうけつ させた。1914年 ねん 3月 がつ 14日 にち 、セルビアはコンスタンティノープルでオスマン帝国 ていこく と条約 じょうやく を締結 ていけつ して1913年 ねん のロンドン条約 じょうやく を再 さい 確認 かくにん 、オスマン帝国 ていこく との外交 がいこう 関係 かんけい を回復 かいふく した[39] 。モンテネグロとオスマン帝国 ていこく の間 あいだ の条約 じょうやく は締結 ていけつ されなかった。
第 だい 二 に 次 じ バルカン戦争 せんそう の結果 けっか 、セルビアはドナウ川 がわ 南側 みなみがわ で軍事 ぐんじ 強国 きょうこく に成長 せいちょう [40] 、ヴァルダル中部 ちゅうぶ とノヴィ・パザルの東 ひがし 半分 はんぶん を手 て に入 い れた。フランスからの借款 しゃっかん で賄 まかな われた軍事 ぐんじ への投資 とうし が結実 けつじつ したのであった。領土 りょうど の面積 めんせき が18,650平方 へいほう マイルから33,891平方 へいほう マイルに拡大 かくだい 、人口 じんこう が150万 まん 以上 いじょう 増 ふ えた。しかし、新 あたら しく獲得 かくとく した領土 りょうど の住民 じゅうみん は戦後 せんご に圧迫 あっぱく され、嫌 いや がらせに見舞 みま われた。例 たと えば、彼 かれ らは「文化 ぶんか レベルが低 ひく すぎる」として投票 とうひょう 権 けん を拒否 きょひ されたが、実際 じっさい は多 おお くの領域 りょういき で多数 たすう を占 し めたセルビア人 じん 以外 いがい の住民 じゅうみん を国政 こくせい から締 し め出 だ すためであった。労働 ろうどう 者 しゃ 新聞 しんぶん (セルビア語 ご 版 ばん ) など野党 やとう 側 がわ に属 ぞく する新聞 しんぶん は「新 しん セルビア人 じん 」がトルコ治下 ちか でより多 おお くの政治 せいじ 権利 けんり を有 ゆう していたと指摘 してき した[41] 。トルコ風 ふう の建物 たてもの 、学校 がっこう 、浴場 よくじょう 、モスクが破壊 はかい された。1913年 ねん 10月 がつ と11月にはイギリスの副 ふく 領事 りょうじ が系統的 けいとうてき な脅迫 きょうはく 、恣意 しい 的 てき な拘留 こうりゅう 、殴打 おうだ 、強姦 ごうかん 、村 むら への放火 ほうか 、虐殺 ぎゃくさつ などがセルビア人 じん によって併合 へいごう 地 ち で行 おこな われた。セルビア政府 せいふ はこれらの問題 もんだい の調査 ちょうさ や阻止 そし に興味 きょうみ を持 も たず、公平 こうへい さで選 えら ばれた諸国 しょこく の専門 せんもん 家 か で構成 こうせい されたカーネギー調査 ちょうさ 団 だん がバルカン半島 ばるかんはんとう に到着 とうちゃく したとき、ベオグラード政府 せいふ から何 なん の援助 えんじょ も受 う けられなかったという[42] 。
講和 こうわ 条約 じょうやく によりギリシャ軍 ぐん は戦中 せんちゅう に占領 せんりょう した西 にし トラキア(英語 えいご 版 ばん ) とピリン・マケドニアからの撤退 てったい を余儀 よぎ なくされたが、ブルガリアに割譲 かつじょう された地域 ちいき とアルバニアに割譲 かつじょう された北 きた エピロス(英語 えいご 版 ばん ) はギリシャでよく受 う け入 い れられなかった。ギリシャは戦中 せんちゅう に占領 せんりょう した地域 ちいき のうち、ドイツからの外交 がいこう 支援 しえん で辛 かろ うじてセレス とカヴァラ を確保 かくほ したのみだった。セルビアは北 きた マケドニアでさらなる領土 りょうど を得 え て、南部 なんぶ での領土 りょうど 拡張 かくちょう に満足 まんぞく したため、今度 こんど は北 きた に注目 ちゅうもく してオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく とボスニア・ヘルツェゴヴィナ を争 あらそ い、1年 ねん 後 ご にはそれが原因 げんいん となり戦争 せんそう が勃発 ぼっぱつ 、やがて第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん に発展 はってん した。イタリアはリビア をめぐる伊 い 土 ど 戦争 せんそう でエ え ーゲ海 げかい のドデカネス諸島 しょとう を占領 せんりょう したが、バルカン戦争 せんそう を口実 こうじつ に、1912年 ねん の協定 きょうてい に違反 いはん して返還 へんかん しなかった。
アルバニア、ひいてはアドリア海 あどりあかい のオトラント海峡 かいきょう を支配 しはい しようとしたオーストリア=ハンガリーとイタリアが強 つよ く主張 しゅちょう した結果 けっか 、アルバニアはロンドン条約 じょうやく で独立 どくりつ した。1913年 ねん 12月17日 にち のフィレンツェ協定 きょうてい でアルバニアの国境 こっきょう が定 さだ められると、セルビアはアドリア海 あどりあかい への出口 でぐち を失 うしな い、ギリシャはアルバニア南部 なんぶ にあたる北 きた エピロス(英語 えいご 版 ばん ) を維持 いじ した。しかし、これは現地 げんち のギリシャ人 じん 住民 じゅうみん に歓迎 かんげい されない決定 けってい であり、彼 かれ らは反乱 はんらん を起 お こして、1914年 ねん のコルフ協定 きょうてい (英語 えいご 版 ばん ) で北 きた エピロス自治 じち 共和 きょうわ 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) を建国 けんこく して自治 じち 権 けん を手 て に入 い れた[43] 。
敗北 はいぼく したブルガリアは復讐 ふくしゅう 主義 しゅぎ (英語 えいご 版 ばん ) に走 はし り、民族 みんぞく 主義 しゅぎ の野望 やぼう を満 み たす機会 きかい を窺 うかが った。ブカレスト条約 じょうやく が締結 ていけつ された後 のち 、ブルガリア代表 だいひょう 団 だん 団長 だんちょう のトンチェフは「列強 れっきょう が(領土 りょうど 分配 ぶんぱい を)変 か えるか、私 わたし たち自身 じしん がそれを壊 こわ すかです」と述 の べた[40] 。その結果 けっか 、ブルガリアはバルカンでの敵国 てきこく (セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ルーマニア)が第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん で親 おや 連合 れんごう 国 こく だったこともあり中央 ちゅうおう 同盟 どうめい 国 こく として参戦 さんせん した。しかしブルガリアは再 ふたた び敗北 はいぼく 、国家 こっか 的 てき トラウマ(英語 えいご 版 ばん ) を残 のこ すとともにヌイイ条約 じょうやく で再 ふたた び領土 りょうど を失 うしな った。
日付 ひづけ はユリウス暦 れき 準拠 じゅんきょ 。
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