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第二次バルカン戦争 - Wikipedia コンテンツにスキップ

だいバルカン戦争せんそう

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だいバルカン戦争せんそう

同盟どうめいぐん進軍しんぐんしめした地図ちず
戦争せんそうバルカン戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1913ねん6月29にち - 8がつ10日とおか
場所ばしょバルカン半島ばるかんはんとう
結果けっかブルガリア王国おうこく敗北はいぼくブカレスト条約じょうやくコンスタンティノープル条約じょうやく英語えいごばん締結ていけつ
交戦こうせん勢力せいりょく
ブルガリア王国 (近代) ブルガリア王国おうこく セルビア王国 セルビア王国おうこく
ルーマニア王国 ルーマニア王国おうこく
オスマン帝国 オスマン帝国ていこく
ギリシャ ギリシャ王国おうこく
モンテネグロ王国 モンテネグロ王国おうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ブルガリア王国の旗 フェルディナント
ブルガリア王国の旗 ミハイル・サヴォフ英語えいごばん
ブルガリア王国の旗 ヴァシル・クチンチェフ英語えいごばん
ブルガリア王国の旗 ニコラ・イヴァノフ英語えいごばん
ブルガリア王国の旗 ラトコ・ディミトリエフ英語えいごばん
ブルガリア王国の旗 スティリアン・コヴァチェフ英語えいごばん
ブルガリア王国の旗 ステファン・トシェフ
ブルガリア王国の旗 ニコラ・ジェコフ
セルビア王国の旗 ペータル1せい
セルビア王国の旗 ラドミル・プトニク
セルビア王国の旗 ステパ・ステパノヴィッチ
セルビア王国の旗 ペータル・ボヨヴィッチ
ルーマニア王国の旗 カロル1せい
ルーマニア王国の旗 フェルディナンドおう太子たいし
ルーマニア王国の旗 アレクサンドル・アヴェレスク
ルーマニア王国の旗 イオン・クルチェル
オスマン帝国の旗 メフメト5せい
オスマン帝国の旗 エンヴェル・パシャ
オスマン帝国の旗 アフメト・イッゼト・パシャ
ギリシャの旗 コンスタンティノス1せい
ギリシャの旗 ヴィクトル・ドゥスマニス英語えいごばん
ギリシャの旗 パヴロス・クンドゥリオティス英語えいごばん
モンテネグロ王国の旗 ニコラ1せい
モンテネグロ王国の旗 ダニーロおう太子たいし
モンテネグロ王国の旗 ヤンコ・ヴコティッチ
戦力せんりょく
500,221-576,878 セルビア王国の旗 348,000[1]
ルーマニアの旗 330,000[1]
オスマン帝国の旗 255,000[2]
ギリシャの旗 148,000
モンテネグロ王国の旗 12,802[1]
合計ごうけい:1,093,802
損害そんがい
戦死せんし7,583
行方ゆくえ不明ふめい9,694
負傷ふしょう42,911
ほか死者ししゃ3,049
大砲たいほう140もん

合計ごうけい
死傷ししょうしゃ65,927
[3]
セルビア王国の旗 セルビア:50,000
戦死せんし9,000
負傷ふしょう36,000
病死びょうし5,000[4]
ギリシャの旗 ギリシャ:29,886
戦死せんし5,851
負傷ふしょう23,847
行方ゆくえ不明ふめい188[5]
モンテネグロ王国の旗 モンテネグロ:1,201
戦死せんし240
負傷ふしょう961[4]
ルーマニアの旗 ルーマニア:6,000以上いじょう
戦死せんししゃ僅少きんしょう
病死びょうし6,000[6]
オスマン帝国の旗 オスマン帝国ていこく4,000以上いじょう
戦死せんししゃ僅少きんしょう
病死びょうし4,000[7]

合計ごうけい
戦闘せんとう損害そんがいやく76,000
損害そんがい総計そうけいやく91,000

だいバルカン戦争せんそう(だいにじバルカンせんそう、英語えいご: Second Balkan War)は、ブルガリア王国おうこくだいいちバルカン戦争せんそうでのぶん不満ふまんかんじて、1913ねん6月16にちユリウスれき)/6月29にちグレゴリオれき)にもと同盟どうめいこくセルビア王国おうこくギリシャ王国おうこく攻撃こうげきしたことで勃発ぼっぱつした戦争せんそう。セルビアぐんとギリシャぐんはブルガリアぐん攻勢こうせい撃退げきたいして反撃はんげきてんじ、ブルガリアりょう進軍しんぐんした。ブルガリアがルーマニア王国おうこくとの国境こっきょう紛争ふんそうかかえていたため、ルーマニアが介入かいにゅう決定けってい、さらにオスマン帝国ていこくじょうじてだいいち戦争せんそううしなった領土りょうど一部いちぶもどそうとした。ルーマニアぐんがブルガリア首都しゅとソフィアせまると、ブルガリアは停戦ていせんもとめ、だいいちバルカン戦争せんそう領土りょうど一部いちぶブカレスト条約じょうやくでセルビア、ギリシャ、ルーマニアに割譲かつじょうせざるをなかった。オスマン帝国ていこくとはコンスタンティノープル条約じょうやく英語えいごばんエディルネ割譲かつじょうして講和こうわした。

だいバルカン戦争せんそうをめぐる政治せいじ情勢じょうせい軍事ぐんじじょう準備じゅんびやく200から300にん従軍じゅうぐん記者きしゃ英語えいごばんけた。

背景はいけい

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だいいちバルカン戦争せんそうなかバルカン同盟どうめいブルガリア王国おうこくセルビア王国おうこくモンテネグロ王国おうこくギリシャ王国おうこく)はオスマン帝国ていこくをヨーロッパもろしゅうアルバニアマケドニアサンジャクトラキア)からし、オスマン帝国ていこくにはチャタルジャ英語えいごばんガリポリ半島はんとうしかのこされなかった。1913ねん5がつ30にち締結ていけつされたロンドン条約じょうやくでは黒海こっかい海岸かいがんのメデア(トルコめいクルキョイ英語えいごばん)からゲ海げかい海岸かいがんのエノス(トルコめいエネズ英語えいごばん)までがバルカン諸国しょこくとトルコの境界きょうかいさだめ、エノス=メデアせん西にしがバルカン諸国しょこく割譲かつじょうされるとさだめた。これは占有せんゆうぶつ保有ほゆう原則げんそく英語えいごばんもとづいており、アルバニアどく立国りっこく英語えいごばん建国けんこくする結果けっかとなった。

しかし、バルカン同盟どうめい諸国しょこくまえとくにマケドニアのあつかいについて不和ふわしょうじた。戦前せんぜんのバルカン同盟どうめいにつながる交渉こうしょうではセルビアとブルガリアが1912ねん3がつ13にち秘密ひみつ協定きょうてい締結ていけつして戦争せんそう国境こっきょうさだめ、マケドニア北部ほくぶ分割ぶんかつした。戦後せんご紛争ふんそうしょうじた場合ばあいではクリヴァ・パランカオフリドせんからきたりょう都市としはブルガリアりょうとなる)が「紛争ふんそう地帯ちたい」とさだめられロシアが仲介ちゅうかいするとし、せんからみなみはブルガリアりょうさだめられた。戦争せんそうちゅうにはセルビアぐんさだめられた国境こっきょうのはるかみなみビトラゲヴゲリヤせんまで進軍しんぐんした(りょう都市としともセルビアに占領せんりょうされた)。一方いっぽう、ギリシャぐんきた進軍しんぐん、ブルガリアぐん到着とうちゃくする直前ちょくぜんテッサロニキ占領せんりょう、セルビアとの国境こっきょうさだめた。

戦前せんぜんさだめられたセルビア・ブルガリアあいだのマケドニア分割ぶんかつ紛争ふんそう地帯ちたい灰色はいいろ)もえがかれている。

ロンドンの講和こうわ会議かいぎにおいて、ブルガリア代表だいひょうがセルビアに警告けいこくはっし、ブルガリアがセルビアのアドリア海あどりあかいでの主張しゅちょう(アルバニア北部ほくぶ領有りょうゆう)を支持しじしないとべると、セルビア代表だいひょう激怒げきどしてクリヴァ・パランカ=オフリドせんもとづく戦前せんぜん協定きょうてい違反いはんすると返答へんとうしたが、ブルガリア代表だいひょうはその条項じょうこう有効ゆうこうのままであると堅持けんじしてセルビアに協定きょうていどおきたマケドニア地域ちいきわたすよう要求ようきゅうした。セルビア代表だいひょうはブルガリアの要求ようきゅう過激かげきであると指摘してき、もしセルビアがアルバニア北部ほくぶきたマケドニアの両方りょうほうともうしなったら参戦さんせんする意味いみがないと主張しゅちょうした。

ブルガリアがセルビアに戦前せんぜんきたマケドニアにかんする協定きょうてい履行りこう要求ようきゅうすると、セルビアじん列強れっきょうがアルバニア北部ほくぶでの獲得かくとく領土りょうど放棄ほうき要求ようきゅうしてきたことに立腹りっぷくしてこれ以上いじょう領土りょうど放棄ほうき拒否きょひした。これによりセルビア・ブルガリア同盟どうめい崩壊ほうかい両国りょうこくあいだ戦争せんそう不可避ふかひになった。直後ちょくご占領せんりょう境界きょうかいでブルガリアとセルビア=ギリシャあいだ小競こぜいがしょうじた。ブルガリアの脅威きょうい直面ちょくめんしたセルビアはおなじくブルガリアの目的もくてき憂慮ゆうりょしたギリシャとの交渉こうしょう開始かいしした。

だいいちバルカン戦争せんそうのバルカン諸国しょこく領土りょうど拡大かくだい戦前せんぜんのセルビアとブルガリアあいだ秘密ひみつ協定きょうていもとづく。

ロンドン条約じょうやく締結ていけつから2にちでブルガリアの攻撃こうげきから28にちまえにあたる1913ねん5がつ19にち(ユリウスれき)/6月1にち(グレゴリオれき)、ギリシャとセルビアが秘密裏ひみつり防衛ぼうえい同盟どうめい英語えいごばん締結ていけつ両国りょうこくあいだ占領せんりょう境界きょうかいをそのまま国境こっきょうさだめたうえでブルガリアかオーストリア=ハンガリー帝国ていこく侵攻しんこうしてきた場合ばあい同盟どうめいさだめた。これにより、ギリシャは同盟どうめい締結ていけつ時点じてんのマケドニア占領せんりょう保障ほしょうすることになり、セルビアのきたマケドニア紛争ふんそうまれるかたちとなった[8]。ブルガリア首相しゅしょうイヴァン・エフストラティエフ・ゲショフ英語えいごばんはセルビアとギリシャの接近せっきんふせぐべく5がつ21にちにギリシャと協定きょうてい締結ていけつ両国りょうこく占領せんりょう境界きょうかいさだめた。これによりブルガリアはギリシャのみなみマケドニア支配しはい実質じっしつてき承認しょうにんしたが、ゲショフが直後ちょくご辞任じにんしたためブルガリアの外交がいこう努力どりょく無駄むだわった。

ブルガリアはさらにルーマニアとの紛争ふんそうかかえていた。ブルガリアがシリストラ要塞ようさいのルーマニアへのわたしを拒否きょひしたのであった。だいいちバルカン戦争せんそうにルーマニアがシリストラ要塞ようさい割譲かつじょう要求ようきゅうすると、ブルガリア外相がいしょうわりに国境こっきょうせんちいさな変更へんこう(シリストラが割譲かつじょうされないかたちだった)、およびマケドニアのヴラフじん権利けんり保障ほしょうすることを提案ていあんした。ルーマニアは武力ぶりょくでブルガリアりょう侵攻しんこうするとおどしたが、ロシアが仲介ちゅうかいしてそれをふせいだ。結果けっかとして1913ねん5がつ8にちにサンクトペテルブルク協定きょうてい締結ていけつされ、ブルガリアがシリストラをあきらめた。これはブルガリアの領土りょうど割譲かつじょう拒否きょひとルーマニアのみなみドブルジャ英語えいごばん全体ぜんたい併合へいごうという立場たちば妥協だきょうさせたかたちだったが、ロシアがブルガリアの領土りょうど保全ほぜん失敗しっぱいしたことでブルガリアはセルビアとの紛争ふんそうにおけるロシアの仲介ちゅうかいへの信頼しんらいせい疑問ぎもんかんじるようになった[9]。ブルガリアの行動こうどう長期ちょうきてきにはブルガリア・ロシア関係かんけい英語えいごばん悪影響あくえいきょうあたえた。ロシアが再度さいど仲介ちゅうかいしたとき、ブルガリアが戦前せんぜんのセルビアとの協定きょうてい見直みなおしをかたくなに拒否きょひしたことで、ロシアはブルガリアとの同盟どうめいしてしまった。

戦争せんそう準備じゅんび

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ブルガリアの計画けいかく

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ブルガリアおうフェルディナント

1912ねん、ブルガリアの民族みんぞく主義しゅぎツァールフェルディナントとブルガリア軍部ぐんぶべたように、1878ねん時点じてん過激かげき主義しゅぎてきとされたサン・ステファノ条約じょうやく内容ないようをさらにえ、ひがしトラキア、西にしトラキア、テッサロニキをふくむマケドニア全体ぜんたいエディルネコンスタンティノープルまでふくまれた[10]。ブルガリアの指導しどう早期そうきから現実げんじつてき思考しこういた証拠しょうこ[11]としてはロシアがだいいちチャタルジャのたたか英語えいごばんどう時期じきの1912ねん11月5にちにブルガリアぐん警告けいこくはっし、コンスタンティノープルを占領せんりょうした場合ばあいはロシアが攻撃こうげきするとおどしたにもかかわらずブルガリアぐん占領せんりょうこころみたことがげられる。

ブルガリアぐんエディルネ占領せんりょう英語えいごばんには成功せいこうしたものの、フェルディナンド1せいのコンスタンティノープルで戴冠たいかんする野心やしんだいチャタルジャのたたか英語えいごばん占領せんりょう失敗しっぱいしたことでその現実げんじつさがあきらかになった。さらに、トラキアとコンスタンティノープルの占領せんりょう集中しゅうちゅうしたことで、ブルガリアは最終さいしゅうてきにはテッサロニキをふくむマケドニアの大半たいはんうしな結果けっかとなったが、これは容易よういにはれられず、フェルディナンド1せいくブルガリア軍部ぐんぶもと同盟どうめいこくとの戦争せんそう結果けっかとなった。しかし、ひがしにトラキアの喪失そうしつれたくなかったオスマン帝国ていこくきた激怒げきどしたルーマニアがいる状況じょうきょうみなみのギリシャと西にしのセルビアとの戦争せんそう決定けってい冒険ぼうけんてきであり、とくにオスマン帝国ていこくが5月にオスマンぐんさい編成へんせいおこなうべくドイツの使節しせつだん緊急きんきゅう要請ようせいした状況じょうきょうではなおさらである。6がつちゅうにはブルガリアがセルビア・ギリシャあいだのブルガリアからの攻撃こうげきかんする協定きょうていづいた。6月27にち、モンテネグロはセルビア・ブルガリア戦争せんそう勃発ぼっぱつした場合ばあい、セルビアがわにつくと宣言せんげんした。ルーマニアは2がつ5にちにオーストリア=ハンガリーとのトランシルヴァニアをめぐる紛争ふんそう解決かいけつして軍事ぐんじ同盟どうめい締結ていけつ、6月28にち再度さいどのバルカン戦争せんそう中立ちゅうりつまらないと公式こうしき警告けいこくした[8]

セルビアおうペータル1せい

マケドニアでおもにセルビアぐんとブルガリアぐんあいだ小競こぜいがつづなか、ロシア皇帝こうていニコライ2せいスラヴじん同盟どうめいこくうしないたくなかったため紛争ふんそう阻止そししようとした。6月8にちかれおな文面ぶんめん親書しんしょをブルガリアおうとセルビアおうおくり、1912ねんのセルビア・ブルガリア条約じょうやくもとづく仲介ちゅうかいもうた。セルビアは1912ねん条約じょうやく予定よていだったアルバニア北部ほくぶ列強れっきょう決定けってい独立どくりつしてしまったため、1912ねん条約じょうやく改正かいせいしてきたマケドニアのブルガリアりょう補償ほしょうとして獲得かくとくしようとした。一方いっぽう、ブルガリアのロシアへの返答へんとう条件じょうけんおおすぎて最後さいご通牒つうちょう様相ようそうていし、ロシアの外交がいこうかんはブルガリアがすでにセルビアとの戦争せんそうめたと結論けつろんけた。結局けっきょく、ロシアは激怒げきどして仲介ちゅうかいもうりやめ、わりに1902ねんのブルガリア同盟どうめい条約じょうやくした。というのも、ブルガリアはロシアがオーストリア=ハンガリーの拡張かくちょう主義しゅぎふせぐために35年間ねんかんかけて、おおくの人命じんめい資金しきん外交がいこう資本しほん英語えいごばんそそいだバルカン同盟どうめいこわそうとしていたためであった[12]。ロシア外相がいしょうセルゲイ・サゾーノフがブルガリア首相しゅしょうストヤン・ダネフ英語えいごばんべた言葉ことばは「わたしたちからなに期待きたいせず、1902ねんからいままでのすべての協定きょうていはその存在そんざいわすれてください」だった[13]。ニコライ2せい直近ちょっきん仲介ちゅうかいでブルガリアとルーマニアに締結ていけつさせたシリストラにかんする協定きょうていをブルガリアが履行りこう拒否きょひしたことにすでにおこっていたが、さらにセルビアとギリシャによる、紛争ふんそう平和へいわうら解決かいけつする第一歩だいいっぽとして3こくそれぞれのぐんを4ぶんの1削減さくげんする提案ていあんもブルガリアに拒否きょひされた。

ルーマニアおうカロル1せい

ブルガリアではハトのゲショフが辞任じにんしてタカしんのダネフが首相しゅしょう就任しゅうにんしたため、すでに戦争せんそう一直線いっちょくせんであった。6月16にち、ブルガリア軍部ぐんぶ宣戦せんせん布告ふこくしでセルビアぐんとギリシャぐん陣地じんち同時どうじ攻撃こうげき、また攻撃こうげき命令めいれいはんするすべての命令めいれい無視むしするようめいじた。しかし、翌日よくじつ政府せいふ参謀さんぼう本部ほんぶ停戦ていせんめいじるよう圧力あつりょくをかけたことが混乱こんらんまねいたばかりか宣戦せんせん布告ふこくなき戦争せんそう状態じょうたい解決かいけつできず、フェルディナンド1せい政府せいふからの圧力あつりょくくっしてサヴォフ将軍しょうぐん解任かいにんラトコ・ディミトリエフ英語えいごばん将軍しょうぐんそう指揮しきかん任命にんめいした。

モンテネグロおうニコラ1せい

ブルガリアの目的もくてきはセルビアぐんとギリシャぐん撃破げきはしつつ、列強れっきょう介入かいにゅうして停戦ていせんするまでにできるだけ占領せんりょう地域ちいきひろげることだった。物量ぶつりょう優勢ゆうせい確保かくほすべく、ブルガリアぐんぜんぐん戦闘せんとう参加さんかした。(公式こうしき宣言せんげんされた)ルーマニアの介入かいにゅうやオスマン帝国ていこく反撃はんげきへの準備じゅんびまったくなされず、この2かこくから攻撃こうげきされないことを何故なぜかロシアが保証ほしょうするという仮定かていがなされた[14]。これは6がつ9にちにロシアが激怒げきどしてブルガリアとの同盟どうめいし、外交がいこうでもしんルーマニアの姿勢しせいしめした(ロシアは1912ねん12月にルーマニアおうカロル1せいをロシアの名誉めいよ元帥げんすいじょした)にもかかわらずである[8]戦争せんそう計画けいかくではヴァルダル平原へいげんすすみ、セルビアぐん集中しゅうちゅう攻撃こうげきして無害むがいさせたうえきたマケドニアを占領せんりょうしつつ、同時どうじにテッサロニキちかくで(セルビアぐん半分はんぶん程度ていどである)ギリシャぐんたいする攻勢こうせいって(こちらは集中しゅうちゅう攻撃こうげきにはならない)、テッサロニキとマケドニア南部なんぶ占領せんりょうすることだった。ブルガリア軍部ぐんぶ自軍じぐんがギリシャぐん撃破げきはできる程度ていどなのか確信かくしんてなかったが、最悪さいあくでも南部なんぶ戦線せんせん守備しゅびでき、北部ほくぶでセルビアぐん撃破げきはしたのち援軍えんぐん到着とうちゃくするまでちこたえることができるとかんがえた。

諸国しょこくぐん情勢じょうせい

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1913ねん6がつ時点じてんのバルカン諸国しょこくぐん情勢じょうせい

1903ねん陸軍りくぐんほうもとづき、ブルガリアぐんは「行動こうどうぐん」と国民こくみん民兵みんぺいの2種類しゅるいけられ、その主力しゅりょくは9歩兵ほへい師団しだん1個いっこ騎兵きへい師団しだんだった。ブルガリアぐんはヨーロッパ諸国しょこくぐんとはちが編成へんせいをしていた。すなわち、1個いっこ歩兵ほへい師団しだんは3旅団りょだん構成こうせいされており、1個いっこ旅団りょだんは2連隊れんたい1個いっこ連隊れんたいは4大隊だいたい1個いっこ大隊だいたいは6中隊ちゅうたい1個いっこ中隊ちゅうたいは250にんだった(250にん一般いっぱんてき中隊ちゅうたいよりもおおきい構成こうせいである)。これに1個いっこ独立どくりつ大隊だいたい、2大型おおがた砲兵ほうへい連隊れんたい1個いっこ騎兵きへい連隊れんたいくわえられ、合計ごうけいとしては1個いっこ師団しだんが25歩兵ほへい大隊だいたい(ただし一般いっぱんてき大隊だいたいよりも人数にんずうがかなりおおい)と16騎兵きへい中隊ちゅうたい構成こうせいされ[15]当時とうじぐん一般いっぱんてきな9大隊だいたい×2師団しだんよりも人数にんずうおおかった。これは1913ねん時点じてんのギリシャぐんとセルビアぐんくらべてもおなじだった。その結果けっかだいいちバルカン戦争せんそう開戦かいせん時点じてん動員どういんされたブルガリアぐん人数にんずうが599,878にんだったにもかかわらず[16][17]師団しだんかずは9しかおらず、ブルガリアぐんの「師団しだん」は軍団ぐんだんちか実力じつりょくゆうした。だいいちバルカン戦争せんそう戦中せんちゅう戦後せんごにおける戦術せんじゅつじょう必要ひつようせいから、だい10師団しだんだい1とだい6師団しだんからの2旅団りょだんずつと新兵しんぺい構成こうせいされた3独立どくりつ旅団りょだん創設そうせつされたが、ブルガリアぐんの「おもい」編成へんせいのこった。一方いっぽう、ギリシャのマケドニアぐんおなじく9師団しだんにもかかわらず118,000にんしかいなかった。また、大砲たいほうかず各国かっこくぐん実力じつりょく影響えいきょうあたえた。ギリシャぐん9師団しだん大砲たいほう176もんを、セルビアぐん10師団しだん大砲たいほう230もん保有ほゆうしていたが、ブルガリアぐんは1,116もん保有ほゆうしており、これはギリシャぐんの6ばい、セルビアぐんの5ばいにあたる。

だいバルカン戦争せんそうちゅうのブルガリアぐん実力じつりょくについては論争ろんそうがある。だいいちバルカン戦争せんそう開戦かいせん時点じてんでブルガリアぐんは599,878にん動員どういんした(うち366,209にん行動こうどうぐん、53,927にん追加ついか部隊ぶたい、53,983にん国民こくみん民兵みんぺい、94,526にんが1912ねんと1913ねん徴兵ちょうへいからの新兵しんぺい、14,204にん義勇ぎゆうへい、14,424にん国境こっきょう守備しゅびぐんだった)。そして、戦争せんそうちゅうに14,000にん戦死せんし、19,000にん病死びょうししたため、合計ごうけいで33,000にんうしなわれたが、それをおぎなうためにおも占領せんりょうから6まんにん徴兵ちょうへい、うち2まん1せんにんずつでセレスドラマオドリン合計ごうけい3独立どくりつ旅団りょだん編成へんせいした。動員どういん解除かいじょされた兵士へいしがいないことはられている。しかし、ブルガリアぐん首脳しゅのうによると、6月16にち時点じてんでは兵士へいし492,528にん士官しかん7,693にん編成へんせいされている(この数字すうじ上記じょうきの3旅団りょだんふくむ)[18]。これはだいいちだい戦争せんそうあいだで99,657にんしめしている。一方いっぽう負傷ふしょうしゃふく損害そんがいき、新兵しんぺいすと合計ごうけいすくなくとも576,878にんとなる。また、戦争せんそう必要ひつよう物資ぶっし不足ふそくしており、いちれいとしてはライフルのかずが378,998ちょうしかなかった。

戦争せんそう勃発ぼっぱつ以前いぜん共同きょうどう占領せんりょうにおけるテッサロニキこうのギリシャ哨兵しょうへいひだり)とブルガリア哨兵しょうへいみぎ)。

ブルガリアぐん配置はいちヴァシル・クチンチェフ英語えいごばんひきいるだい1ぐん英語えいごばんラトコ・ディミトリエフ英語えいごばんひきいるだい3ぐん英語えいごばんきゅうセルビア・ブルガリア国境こっきょうに、ステファン・トシェフひきいるだい5ぐん英語えいごばんキュステンディル一帯いったいに、スティリアン・コヴァチェフ英語えいごばんひきいるだい4ぐん英語えいごばんコチャニラドヴィシュ英語えいごばん地域ちいき配置はいちされ、ニコラ・イヴァノフ英語えいごばんひきいるだい2ぐん英語えいごばんたいギリシャぐん配置はいちされた。

セルビア王国おうこくぐんは348,000にんであり、うち252,000にん戦闘せんとういん[1]3ぐん10師団しだんけられた。主力しゅりょくはヴァルダルかわ沿いとスコピエちかくに配備はいびされていた。名目めいもくじょうそう指揮しきかんペータル1せいであり、ラドミル・プトニク参謀さんぼう総長そうちょう実際じっさいそう指揮しきかんつとめた。

ギリシャでは国王こくおうコンスタンティノス1せいぐん指揮しきり、ヴィクトル・ドゥスマニス英語えいごばん中将ちゅうじょう参謀さんぼう総長そうちょうつとめた。

モンテネグロはマケドニア戦線せんせんヤンコ・ヴコティッチ将軍しょうぐんひきいる1個いっこ師団しだん(1まん2せんにん)を派遣はけんした。

ルーマニア王国おうこくバルカン半島ばるかんはんとう最大さいだいぐん保有ほゆうしていたが、1878ねんルーマニア独立どくりつ戦争せんそう英語えいごばんでオスマン帝国ていこくとたたかって以来いらい戦闘せんとうおこなっていなかった。平時へいじには士官しかん6,149にん兵士へいし94,170にんゆうしており、バルカン半島ばるかんはんとうのレベルからかんがえて装備そうびはそれなりによかった。すなわち、ルーマニアぐんおもクルップしゃ製造せいぞうした野砲やほう126もん榴弾りゅうだんほう15もん山砲さんぽう3もん保有ほゆうしていた。動員どういんをかけた場合ばあい、ルーマニアぐんは5ぐんけられる417,720にん招集しょうしゅうできた。うちやく8まんにんみなみドブルジャの占領せんりょう目標もくひょうとし、25まんにんがブルガリアへの攻勢こうせい目標もくひょうとした[1]

戦争せんそう経過けいか

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開戦かいせん

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開戦かいせん時点じてんのブルガリアの戦闘せんとう計画けいかく

ブルガリアの計画けいかくではだい1、3、4、5ぐんでセルビアぐんを、だい2ぐんでテッサロニキのギリシャぐん攻撃こうげきする予定よていだったが、開戦かいせん直後ちょくご前進ぜんしんめいじられたのはだい2ぐんだい4ぐんだけだった。これによりセルビアぐん攻撃こうげきしてくるブルガリアぐんへの対処たいしょ集中しゅうちゅうして進軍しんぐんめることができた。ギリシャ戦線せんせんでは人数にんずう劣勢れっせいであり、最初さいしょ戦闘せんとうもあまりはげしくなかったが、6月19にちにはギリシャの全面ぜんめん攻撃こうげきになり、ブルガリアぐんはテッサロニキからきたにある陣地じんちからげざるをず、テッサロニキに配置はいちされた大隊だいたい孤立こりつしてすぐに撃滅げきめつされた。ブルガリアぐんつづいてキルキスストルマがわあいだ防御ぼうぎょ陣地じんちかまえた。この時点じてん集中しゅうちゅう攻撃こうげきによるマケドニア中部ちゅうぶのセルビアぐん撃破げきは現実げんじつてきであると判明はんめい、ブルガリアぐんはルーマニアが介入かいにゅうするまでもなく撤退てったい開始かいし、ギリシャぐん進軍しんぐんによりソフィアを守備しゅびすべくブルガリアぐん退しりぞ必要ひつようがあった。

ブルガリアのたいギリシャ攻勢こうせい

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イヴァノフ将軍しょうぐんひきいるみなみマケドニアのブルガリアだい2ぐんドイラン英語えいごばんから南東なんとうのキルキス、ラハナス英語えいごばん、セレス、そしてパンゲオ山脈さんみゃく英語えいごばんえてゲ海げかいまでつづ線上せんじょう配置はいちされた。だい2ぐんは5月よりこの配置はいちであり、だいいちバルカン戦争せんそうでエディルネ包囲ほういせんたたかっていたため経験けいけん豊富ほうふ軍隊ぐんたいだった。イヴァノフ将軍しょうぐん大敗たいはい責任せきにん回避かいひするためか戦後せんご自軍じぐんが3まん6せんにんしかおらず、おおくの部隊ぶたい人員じんいん不足ふそくであると主張しゅちょうしたが、これはだい2ぐん部隊ぶたいこまかく調査ちょうさすると間違まちがいであるとわかる。イヴァノフのだい2ぐんだい3師団しだんから1個いっこ旅団りょだんらした人数にんずう、すなわちそれぞれ4大隊だいたい構成こうせいされた4連隊れんたい合計ごうけいで16大隊だいたい師団しだんごとの砲兵ほうへい)、だいI、だいX旅団りょだんだい16、25連隊れんたい合計ごうけいで8大隊だいたい砲兵ほうへい)、ドラマ旅団りょだんだい7、69、75連隊れんたい合計ごうけいで12大隊だいたい)、セレス旅団りょだんだい55、56、57連隊れんたい合計ごうけいで12大隊だいたい師団しだんごとの砲兵ほうへい)、だい5国境こっきょう大隊だいたいだい10独立どくりつ大隊だいたいだい10騎兵きへい連隊れんたい(7乗馬じょうば中隊ちゅうたいと7歩兵ほへい中隊ちゅうたい)で構成こうせいされた。合計ごうけいでは58歩兵ほへい大隊だいたいの232中隊ちゅうたい1個いっこ騎兵きへい連隊れんたい(14中隊ちゅうたい)、大砲たいほう175もん人数にんずうは8まん(ブルガリアがわ公式こうしき人数にんずう)から10まん8せんにん(ギリシャがわ公式こうしき文献ぶんけんで、1932ねん以前いぜん公式こうしきブルガリア戦争せんそうもとづく)だった[19]現代げんだい歴史れきしあいだではイヴァノフが自軍じぐん人数にんずう過小かしょう評価ひょうかしていたが、ギリシャぐん人数にんずうよりはすくないことが通説つうせつとなっている[1]。ギリシャの参謀さんぼう本部ほんぶもブルガリアぐん人数にんずうを8まんから10まん5せんとしている[20]

国王こくおうコンスタンティノス1せいひきいるギリシャぐんは8師団しだん1個いっこ騎兵きへい旅団りょだん(117,861にん)と大砲たいほう176もんであり[21]、オルファノスわんからゲヴゲリヤ地域ちいきまでの線上せんじょう配置はいちされた。ギリシャぐん参謀さんぼう本部ほんぶにはブルガリアぐん攻撃こうげき目標もくひょう手段しゅだんがなかったため、ブルガリアぐん攻撃こうげきえらんだ箇所かしょ一時いちじてき局地きょくち優勢ゆうせいることとなる。

6月26にち、ブルガリアぐんはギリシャぐん撃滅げきめつしてテッサロニキに進軍しんぐんするとの命令めいれいけた。しかしギリシャぐんはブルガリアぐん進軍しんぐんめ、29にちぜんぐん反攻はんこう命令めいれいはっされた。ブルガリアぐんはオスマンぐんから鹵獲ろかくした大砲たいほうもちいてキルキスで強固きょうこ防御ぼうぎょ陣地じんちきずいた。ギリシャだい4英語えいごばんだい2だい5英語えいごばん旅団りょだん大砲たいほう援護えんごけて平原へいげん前進ぜんしんしてブルガリアぐん急襲きゅうしゅうだい損害そんがいけたものの翌日よくじつには塹壕ざんごう奪取だっしゅした。ブルガリアぐん左翼さよくではだい7師団しだん英語えいごばんがセレスを、だい1だい6師団しだん英語えいごばんがラハナスを占領せんりょうした。ギリシャぐんだい2ぐん撃破げきはしたが、これはだいバルカン戦争せんそうにおけるブルガリアの最大さいだい敗北はいぼくである。ブルガリアがわ文献ぶんけんでは6,971にん損害そんがい捕虜ほりょが6,000にん以上いじょう大砲たいほう130もんがギリシャぐん鹵獲ろかくされたとした一方いっぽう、ギリシャぐん損害そんがいは8,700にんとされた[22]。28にち、ブルガリアぐん正規せいきぐん撤退てったいしている最中さいちゅうにセレスに放火ほうかした(セレスの北西ほくせいはブルガリアりょう南東なんとうはギリシャりょうだった[23])。ほかにもニグリタ英語えいごばんドクサト英語えいごばんデミル・ヒサル英語えいごばん放火ほうかされたが[24]戦闘せんとうにギリシャぐんがブルガリアりょうキルキスや周辺しゅうへんのブルガリアじん集落しゅうらく放火ほうかしたことへの報復ほうふくとされた[25]。ブルガリアぐん右翼うよくではギリシャぐんエヴゾネスがゲヴゲリヤとマツィコヴォ英語えいごばん高地こうち占領せんりょうした。これによりブルガリアのドイランをとお撤退てったい経路けいろおびやかされ、イヴァノフの軍勢ぐんぜい決死けっし撤退てったい敢行かんこうしたがその実態じったい潰走かいそうちかかった。だい14師団しだん援軍えんぐんにきたがときすでにおそく、ストルミツァやブルガリア国境こっきょうへの撤退てったいくわわるだけにわった。ギリシャは7がつ5にちドイラン英語えいごばん占領せんりょうしたが、ブルガリアぐんのストルマ山道さんどうとお撤退てったい阻止そしできなかった。11にち、ギリシャ陸軍りくぐん艦隊かんたい援護えんごけてカヴァラ上陸じょうりく、さらに内陸ないりく西にしトラキアへ進軍しんぐんした。19にち、ギリシャぐんネヴロコプ占領せんりょう、25にちには海軍かいぐん陸軍りくぐん連合れんごう攻撃こうげきアレクサンドルーポリ占領せんりょう、ブルガリアを完全かんぜんゲ海げかいからはなした[26]

セルビア戦線せんせん

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だいバルカン戦争せんそうちゅうの1913ねん6がつ、セルビアぐん野外やがい無線むせん電報でんぽうステーション

ブルガリアだい4ぐんはセルビアりょうマケドニアへの侵攻しんこうにおいてもっと重要じゅうよう位置いちについていた[27]戦闘せんとうは1913ねん6がつ29/30にちにブルガリアだい4ぐんとセルビアだい1とだい3ぐんあいだ開始かいし最初さいしょズレトフスカがわマケドニアばん沿いでたたかわれたがブルガリアぐん撤退てったいしたのちはブレガルニツァかわ沿いでたたかわれた[27]。ブルガリアぐん内部ないぶ混乱こんらんにより7がつ1にちから3にちにかけてだい損害そんがいこうむ[27]、さらにセルビアぐん戦闘せんとうもなしにブルガリアだい4ぐんだい7師団しだん捕虜ほりょにした[27]。8にちにはブルガリアぐん大敗たいはいあきらかになった[28]

戦場せんじょう北部ほくぶではブルガリアぐんがセルビア国境こっきょうピロトへの進撃しんげき開始かいし、セルビア軍部ぐんぶはピロトとニシュ守備しゅびするセルビアだい2ぐん援軍えんぐんおくらなければならなかった。これによりブルガリアぐんは7がつ18にちカリマンツィのたたか英語えいごばんでセルビアぐんのマケドニアにおける攻勢こうせい停止ていしさせることができた。

1913ねん7がつ13にちミハイル・サヴォフ英語えいごばん将軍しょうぐんはブルガリアだい4とだい5ぐん指揮しきった[29]。ブルガリアぐんはマケドニア北東ほくとうブレガルニツァがわ英語えいごばんにあるカリマンツィ英語えいごばんむら周辺しゅうへん強固きょうこ陣地じんちきずいた[29]。7月18にち、セルビアだい3ぐん攻撃こうげき開始かいし、ブルガリアぐん陣地じんち接近せっきんした[29]。ブルガリアぐんちこたえ、大砲たいほうでセルビアぐん攻撃こうげき撃退げきたいした[29]。セルビアぐんがブルガリアぐん守備しゅび突破とっぱした場合ばあい、ブルガリアだい2ぐん破滅はめつ意味いみする可能かのうせいがあり、これによりブルガリアはマケドニアから完全かんぜんされる危険きけんがあった[29]。しかし、ブルガリアぐん守備しゅび成功せいこう、さらにだい1とだい3ぐん北部ほくぶ進軍しんぐん成功せいこうしたことで、セルビアぐんはブルガリア西部せいぶ侵攻しんこうできなかった[30]。これはブルガリアぐん士気しきげたが、南部なんぶギリシャぐんとの戦況せんきょうがいよいよ致命ちめいてきになってきた[30]

ギリシャぐん攻勢こうせい

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クレスナ渓谷けいこくすすむギリシャぐん

セルビア戦線せんせん膠着こうちゃくしていた。国王こくおうコンスタンティノス1せい対峙たいじしていたブルガリアぐん撃破げきはされたのをて、ブルガリアりょうにさらにふか進軍しんぐんして、首都しゅとソフィアを占領せんりょうするようめいじた。これは決定的けっていてき勝利しょうりるためであったが、首相しゅしょうエレフテリオス・ヴェニゼロスはセルビアぐん戦争せんそう目的もくてき達成たっせいしたことで戦闘せんとう消極しょうきょくてきになり、のこりの戦闘せんとう重圧じゅうあつをギリシャぐんかぶせようとしたことに気付きづき、国王こくおう決定けってい反対はんたいしたが結局けっきょくられた。クレスネンスコ峡谷きょうこくたたか英語えいごばんではギリシャぐんがセルビア戦線せんせんからけつけたブルガリアだい2とだい4ぐん奇襲きしゅうされ、守備しゅび陣地じんちきずいたが、7がつ21にちにはギリシャぐん人数にんずうでブルガリアぐんおとり、しかもブルガリアぐん反撃はんげきてんじた。ブルガリアぐん参謀さんぼう本部ほんぶカンナエのたたかのようにギリシャぐん包囲ほういしようとしてその両翼りょうよく圧力あつりょくをかけた[30]。しかし激戦げきせん結果けっかギリシャぐんはクレスネンスコ峡谷きょうこく突破とっぱして7がつ26にちシミトリ占領せんりょう[31]、27から28にちにかけてのよるにはブルガリアぐんソフィアから76キロメートルみなみゴルナ・ジュマヤにまでされた[32]一方いっぽう、ギリシャぐん西にしトラキアへの進軍しんぐん継続けいぞく、7がつ26にちクサンティに、その翌日よくじつコモティニ入城にゅうじょうした[32]。28にち、ブルガリアぐんはギリシャぐん強力きょうりょくされ、ゴルナ・ジュマヤの放棄ほうき余儀よぎなくされた[33]

ギリシャぐん疲労ひろうしていて兵站へいたんじょう問題もんだいにも直面ちょくめんしたが、頑強がんきょう抵抗ていこうし、局地きょくちせんでのはんげきおこなった。7がつ20日はつか、ブルガリアぐんはギリシャぐん両翼りょうよくからの反撃はんげき撃退げきたいする必要ひつようがあったために攻撃こうげきゆるめた。東側ひがしがわではギリシャぐんがプレデラ山道さんどうとおってメホミヤ反攻はんこうしようとしたが、ブルガリアぐんにより山道さんどう東側ひがしがわめられ膠着こうちゃくした。西側にしがわではなにとかセルビアぐん合流ごうりゅうすべくツァレヴォ・セロ英語えいごばんへの攻勢こうせいはじまったが、結局けっきょくギリシャぐん自軍じぐん陣地じんち保持ほじしたにとどまった[34]

ルーマニア王国おうこく介入かいにゅう

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ルーマニアはみなみドブルジャを奪取だっしゅすべく1913ねん7がつ5にちぐん動員どういん10日とおかにブルガリアに宣戦せんせん布告ふこくした[1]。ルーマニア政府せいふ自国じこく宣戦せんせん布告ふこく目的もくてき戦争せんそうでの流血りゅうけつえてきたことにたいする国際こくさいでの憂慮ゆうりょやわらげるために「ルーマニアはブルガリアの国家こっか組織そしき降伏ごうぶくさせようとも、そのぐん撃破げきはしようともしていない」とする外交がいこう回状かいじょうした[1]。リチャード・ホールによると、「ルーマニアが紛争ふんそう介入かいにゅうしたことでブルガリアの情勢じょうせいはもはやささえられないものとなり、ルーマニアがドナウがわわたったことはだいバルカン戦争せんそう決定的けっていてき軍事ぐんじ行動こうどうとなった」という[35]

ルーマニアが宣戦せんせん布告ふこくしたイオン・クルチェル将軍しょうぐんひきいるルーマニアだい5ぐん(8まんにん)がドブルジャに侵攻しんこうトゥトラカンからバルチクまでを前線ぜんせんとして占領せんりょうした[1]だい5ぐん騎兵きへいはブルガリアからの抵抗ていこうがないことがあきらかになるまでヴァルナ占領せんりょうした[1]。7月14にちから15にちにかけてのよるフェルディナンド王子おうじひきいるドナウぐんオリャホヴォギゲン英語えいごばんニコポルでブルガリア国境こっきょうえた[1]最初さいしょ占領せんりょう完成かんせいすると、ルーマニアぐんは2たいけ、1たい西にしフェルディナンドげんモンタナ)に前進ぜんしん、もう1つは南西なんせいにあるブルガリア首都しゅとソフィアにかった。2たいともほんぐんめるまえ騎兵きへい部隊ぶたい偵察ていさつ派遣はけんした[6]

7がつ18にち、ルーマニアぐんはフェルディナンドを占領せんりょう20日はつかにはソフィアから116キロメートルきたヴラツァ占領せんりょうした。7月23にち、ルーマニアぐん前衛ぜんえい騎兵きへいがソフィアまでわずか7マイルのヴラジデブナに入城にゅうじょうした[6]。25にちにはルーマニアぐんとセルビアぐんベログラトチク合流ごうりゅうしたため、重要じゅうよう都市としヴィディン孤立こりつした。ブルガリアの後背こうはいまったくの無防備むぼうびであり、ルーマニアぐん抵抗ていこうけず、首都しゅとソフィアへのみちにはなん障礙しょうがいもなかった。さらに北西ほくせい都市としはなされ包囲ほういされた[6]。またルーマニアぐんによる侵攻しんこう最中さいちゅうルーマニア空軍くうぐん写真しゃしん偵察ていさつおこない、プロパガンダのしょう冊子さっし空中くうちゅう投下とうかした。そのため、ソフィアははじめて敵国てきこく飛行機ひこうき上空じょうくう侵犯しんぱんされた首都しゅとになった[6]

ルーマニアぐん短期間たんきかん参戦さんせんにおいて戦闘せんとうによる被害ひがいしょうじなかったが、コレラ蔓延まんえんしたため6せんにんうしなった[6]

オスマン帝国ていこく介入かいにゅう

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軍服ぐんぷくアフメト・イッゼト・パシャ、1913ねんごろ

ルーマニアの侵攻しんこうへの抵抗ていこう欠如けつじょにより、オスマン帝国ていこくはブルガリアに割譲かつじょうした領土りょうどへの侵攻しんこう決定けっていした。侵攻しんこうおも目標もくひょうはエディルネ(アドリアノープル)であったが、エディルネの守備しゅびぐんヴルコ・ヴェルチェフブルガリアばんひきいるわずか4せんにんだった[7]ひがしトラキア占領せんりょうしていたブルガリアぐん大半たいはんはそれ以前いぜんにセルビアぐんとギリシャぐんによる攻撃こうげき対処たいしょすべく撤退てったいしていた。7月12にちチャタルジャ英語えいごばんゲリボルのオスマン駐留ちゅうりゅうぐんはエノス=メデアせん到着とうちゃく20日はつかにはそれをえてブルガリアに侵攻しんこうした[7]。オスマンぐんアフメト・イッゼト・パシャひきいる20まんから25まんにんであり、だい1ぐん英語えいごばんせんひがしはし(メデア)に配置はいちされ、以降いこうひがしから西にしじゅんだい2英語えいごばんだい3英語えいごばんだい4ぐん英語えいごばんつづき、うちだい4ぐんはゲリボルに配置はいちされていた[7]

かず大幅おおはば優勢ゆうせいゆうするオスマンぐん進軍しんぐん直面ちょくめんしたブルガリアぐんはバルカン戦争せんそう以前いぜん国境こっきょうせん後退こうたいした。エディルネは7がつ19にち放棄ほうきされたが、オスマンぐんがすぐに占領せんりょうしなかったためブルガリアぐんよく20にちにそれをさい占領せんりょうした。しかし、オスマンぐん進軍しんぐんまらなかったため、21にちふたた放棄ほうきされ、23にちにはオスマンぐん占領せんりょうした[7]。エディルネは1360年代ねんだいムラト1せいによって征服せいふくされ英語えいごばんており、1453ねんコンスタンティノープルが陥落かんらくするまでオスマン帝国ていこく首都しゅとだった。戦争せんそう大臣だいじんエンヴェル・パシャ自身じしんを「2人ふたりのエディルネ征服せいふくしゃ」とび、威光いこうしめしたが、実際じっさいにはエディルネへの進撃しんげき抵抗ていこうけなかった[7]

オスマンぐんはバルカン戦争せんそう以前いぜん国境こっきょうまらず、ブルガリアりょう侵入しんにゅうした。たとえば、騎兵きへい部隊ぶたいヤンボル進軍しんぐんした[7]一般いっぱん市民しみんあいだではルーマニアの進軍しんぐんよりもオスマン帝国ていこく進軍しんぐん恐怖きょうふし、そのおおくが山岳さんがく地帯ちたい逃亡とうぼうした。ブルガリア指導しどうあいだでもうんきであるとみとめた。歴史れきしのリチャード・ホールは「だいいちバルカン戦争せんそうつためにおおくのブルガリア兵士へいしんだひがしトラキアの戦場せんじょうふたたびオスマン帝国ていこく支配しはいかれた」とべた[7]。ルーマニアぐんおなじく、オスマンぐん戦闘せんとうによる死傷ししょうしゃなかったが、コレラで兵士へいし4せんにんうしなった[7]。オスマンぐん侵攻しんこうちゅうでもそのでもひがしトラキアのブルガリアじんたいする残虐ざんぎゃく行為こういおこない、ほぼ全員ぜんいん追放ついほうされた。これは1918ねん出版しゅっぱんされた『1913ねんのトラキア・ブルガリアじん破滅はめつ英語えいごばん』で記録きろくされている。

オスマン帝国ていこくのトラキアにおけるかい進撃しんげき抵抗ていこうすべく、ロシアはカフカースをえてオスマン帝国ていこく攻撃こうげきするとおどし、黒海こっかい艦隊かんたいをコンスタンティノープルに派遣はけんしたが、これはイギリスの介入かいにゅうまねいてしまった。

終戦しゅうせんへのみち

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停戦ていせん

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ルーマニアぐんがソフィアにせまなか、ブルガリアはロシアに仲介ちゅうかい要請ようせいしたが、ロシアが行動こうどうこさなかったためブルガリア首相しゅしょうストヤン・ダネフ英語えいごばん辞任じにんした。7月17にち、フェルディナンド1せいヴァシル・ラドスラホフ英語えいごばん首相しゅしょう任命にんめいしんどくはん政権せいけん発足ほっそくした[29]。7がつ20日はつか、セルビア首相しゅしょうニコラ・パシッチ英語えいごばんはブルガリア代表だいひょうをセルビアりょうニシュ同盟どうめいこくとの直接ちょくせつ交渉こうしょうまねいた。しかし、セルビアもギリシャも攻勢こうせいたため講和こうわいそがず、22にちにはフェルディナンド1せいがブカレスト駐在ちゅうざいイタリア大使たいしつうじてカロル1せい親書しんしょおくり、ルーマニアぐんがようやくソフィアをまえ進軍しんぐん停止ていしした[29]。ルーマニアはブカレストで交渉こうしょうおこなうことを提案ていあん代表だいひょうたちは7がつ24にち鉄道てつどうでニシュからブカレストに移動いどうした[29]

そして、各国かっこく代表だいひょうが7がつ30にちにブカレストに会合かいごうした。セルビア代表だいひょうはパシッチが、モンテネグロ代表だいひょうはヴコティッチが、ギリシャ代表だいひょうはヴェニゼロスが、ルーマニア代表だいひょうティトゥ・マイオレスク英語えいごばんが、ブルガリア代表だいひょう財務ざいむ大臣だいじんディミトゥル・トンチェフブルガリアばんひきいた。代表だいひょうたちは7がつ31にちから5日間にちかん停戦ていせん合意ごういした[36]。しかし、ルーマニアがオスマン帝国ていこく参加さんか拒否きょひしたため、ブルガリアはオスマン帝国ていこく別個べっこ交渉こうしょうしなければならなかった[36]

ブカレスト条約じょうやく

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バルカン戦争せんそう最終さいしゅう国境こっきょう

ブルガリアは7がつ19にちにははやくもみなみドブルジャをルーマニアに割譲かつじょうすることに同意どういした。これによりしゅ目的もくてき達成たっせいしたルーマニアはブカレストでの講和こうわ交渉こうしょう仲介ちゅうかいやくつとめることとなった[36]。ブルガリアはセルビアとのマケドニア分割ぶんかつにおいてヴァルダルがわ国境こっきょうとしたかったが、セルビアはストルマがわ国境こっきょうとすることを主張しゅちょうした。そこにオーストリア=ハンガリーとロシアが圧力あつりょくをかけ、セルビアはきたマケドニアの大半たいはんることでつことを余儀よぎなくされた。シュティプだけは(パシッチの言葉ことばりて)「フィチェフ将軍しょうぐん記念きねんして」ブルガリアにのこされた。イヴァン・フィチェフだいいちバルカン戦争せんそうでブルガリアぐんひきいてコンスタンティノープル直前ちょくぜんにまでせた[36]ブルガリアぐん参謀さんぼう総長そうちょうであり、当時とうじはブルガリア代表だいひょうだんの1にんでもあった。ブルガリアがカヴァラ領有りょうゆうすべき理由りゆうについてフィチェフが説明せつめいしたとき、ヴェニゼロスは「将軍しょうぐんわたしたちに責任せきにんはありません。6月(29にち)のまえわたしたちはあなたをおそれて、セレスドラマとカヴァラをしたが、いまわたしたちは勝者しょうしゃ役割やくわりであり、わたしたちの利益りえきしかかんがえません。」と返答へんとうしたとされる[36]。オーストリア=ハンガリーとロシアはブルガリアを支持しじしたものの、ギリシャは王妃おうひがドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せいいもうとだったこともあってドイツと同盟どうめいしており、さらにフランスの支援しえんもとりつけたためカヴァラを確保かくほすることに成功せいこうした。ブルガリアは開発かいはつひくデデアーチみなとしか確保かくほできなかった[36]

交渉こうしょうは8がつ8にちまでに終結しゅうけつした。8がつ10日とおか、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ、ルーマニア、セルビアがブカレスト条約じょうやく締結ていけつしてマケドニアをさん分割ぶんかつした。そのうちもっとおおきいきたマケドニアはセルビアに、もっとちいさいピリン・マケドニアはブルガリアに、海岸かいがんエーゲ・マケドニアはギリシャに帰属きぞくした[36]。これにより、だいいちバルカン戦争せんそうまえくらべて、ブルガリアは領土りょうどを16%拡大かくだい人口じんこうを430まんから470まんにんやした。ルーマニアは領土りょうどを5%拡大かくだい、モンテネグロは領土りょうどを62%拡大かくだいした[37]。ギリシャは領土りょうどを68%拡大かくだい人口じんこうを270まんから440まんにんやした。セルビアは領土りょうどをほぼ倍増ばいぞうして、人口じんこうを290まんから450まんやした[38]

モンテネグロ代表だいひょうはブカレストでの交渉こうしょうきゅうノヴィ・パザルけん英語えいごばんにおける譲歩じょうほをセルビアからそうとしており、これは成功せいこうして11月7にちベオグラード締結ていけつされた条約じょうやくにて確認かくにんされた[36]

コンスタンティノープル条約じょうやく

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8がつ、オスマンぐんコモティニ西にしトラキアの臨時りんじ政府せいふ設立せつりつしてブルガリアに圧力あつりょくをかけた。ブルガリアは9月6にちミハイル・サヴォフ英語えいごばん将軍しょうぐん外交がいこうかんアンドレイ・トシェフグリゴール・ナチョヴィチ英語えいごばん代表だいひょうとしてコンスタンティノープルでの講和こうわ交渉こうしょう派遣はけんした[39]。オスマン代表だいひょう外相がいしょうメフメト・タラート・パシャ海軍かいぐんしょうチュリュクスル・マフムト・パシャ英語えいごばんハリル・サーミ・ベイ英語えいごばんだった。ロシアは8がつとおして介入かいにゅう、エディルネがふたたびトルコりょうになるのをふせごうとしたが、トシェフはオスマン代表だいひょうに「ロシアじん根本こんぽんてきにはコンスタンティノープルを自国じこくりょうだとかんがえています。かれらはコンスタンティノープルをれたとき、できるだけおおくの後背こうはいれることだけが関心かんしんことです。もしトルコじんがアドリアノープルを支配しはいしていたら、それもれるでしょう。」とべた[39]

エディルネを早々そうそうあきらめたブルガリアはクルク・キリセ(ブルガリアめいロゼングラト)を確保かくほしようとした。サヴォフは「すべての前線ぜんせんでトルコじん撃破げきはしたブルガリアはすうおおくのブルガリアじんながれた戦場せんじょうを1つも保持ほじせずにこの栄誉えいよある戦役せんえきえることができない」と宣言せんげんし、マフムト・パシャは「わたしたちがったものはわたしたちのもの」と宣言せんげんした[39]結局けっきょく、9月30にち締結ていけつされたコンスタンティノープル条約じょうやく英語えいごばんではブルガリアはすべての戦場せんじょう維持いじできなかった。ブルガリアぐんロドピ山脈さんみゃくからみなみもどるのはようやく10がつのことだった[39]。ラドスラホフないかくはその同盟どうめい目指めざしてオスマン帝国ていこく交渉こうしょうつづけ、1914ねん8がつオスマン・ブルガリア同盟どうめい英語えいごばん結実けつじつした。

1913ねん11月14にち、ギリシャとオスマン帝国ていこくアテネ条約じょうやく英語えいごばん締結ていけつして両国りょうこくあいだ戦争せんそう状態じょうたい正式せいしき終結しゅうけつさせた。1914ねん3がつ14にち、セルビアはコンスタンティノープルでオスマン帝国ていこく条約じょうやく締結ていけつして1913ねんのロンドン条約じょうやくさい確認かくにん、オスマン帝国ていこくとの外交がいこう関係かんけい回復かいふくした[39]。モンテネグロとオスマン帝国ていこくあいだ条約じょうやく締結ていけつされなかった。

その

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だいバルカン戦争せんそう結果けっか、セルビアはドナウがわ南側みなみがわ軍事ぐんじ強国きょうこく成長せいちょう[40]、ヴァルダル中部ちゅうぶとノヴィ・パザルのひがし半分はんぶんれた。フランスからの借款しゃっかんまかなわれた軍事ぐんじへの投資とうし結実けつじつしたのであった。領土りょうど面積めんせきが18,650平方へいほうマイルから33,891平方へいほうマイルに拡大かくだい人口じんこうが150まん以上いじょうえた。しかし、あたらしく獲得かくとくした領土りょうど住民じゅうみん戦後せんご圧迫あっぱくされ、いやがらせに見舞みまわれた。たとえば、かれらは「文化ぶんかレベルがひくすぎる」として投票とうひょうけん拒否きょひされたが、実際じっさいおおくの領域りょういき多数たすうめたセルビアじん以外いがい住民じゅうみん国政こくせいからすためであった。労働ろうどうしゃ新聞しんぶんセルビアばんなど野党やとうがわぞくする新聞しんぶんは「しんセルビアじん」がトルコ治下ちかでよりおおくの政治せいじ権利けんりゆうしていたと指摘してきした[41]。トルコふう建物たてもの学校がっこう浴場よくじょう、モスクが破壊はかいされた。1913ねん10がつと11月にはイギリスのふく領事りょうじ系統的けいとうてき脅迫きょうはく恣意しいてき拘留こうりゅう殴打おうだ強姦ごうかんむらへの放火ほうか虐殺ぎゃくさつなどがセルビアじんによって併合へいごうおこなわれた。セルビア政府せいふはこれらの問題もんだい調査ちょうさ阻止そし興味きょうみたず、公平こうへいさでえらばれた諸国しょこく専門せんもん構成こうせいされたカーネギー調査ちょうさだんバルカン半島ばるかんはんとう到着とうちゃくしたとき、ベオグラード政府せいふからなん援助えんじょけられなかったという[42]

講和こうわ条約じょうやくによりギリシャぐん戦中せんちゅう占領せんりょうした西にしトラキア英語えいごばんとピリン・マケドニアからの撤退てったい余儀よぎなくされたが、ブルガリアに割譲かつじょうされた地域ちいきとアルバニアに割譲かつじょうされたきたエピロス英語えいごばんはギリシャでよくれられなかった。ギリシャは戦中せんちゅう占領せんりょうした地域ちいきのうち、ドイツからの外交がいこう支援しえんかろうじてセレスカヴァラ確保かくほしたのみだった。セルビアはきたマケドニアでさらなる領土りょうどて、南部なんぶでの領土りょうど拡張かくちょう満足まんぞくしたため、今度こんどきた注目ちゅうもくしてオーストリア=ハンガリー帝国ていこくボスニア・ヘルツェゴヴィナあらそい、1ねんにはそれが原因げんいんとなり戦争せんそう勃発ぼっぱつ、やがてだいいち世界せかい大戦たいせん発展はってんした。イタリアはリビアをめぐる戦争せんそうゲ海げかいドデカネス諸島しょとう占領せんりょうしたが、バルカン戦争せんそう口実こうじつに、1912ねん協定きょうてい違反いはんして返還へんかんしなかった。

アルバニア、ひいてはアドリア海あどりあかいオトラント海峡かいきょう支配しはいしようとしたオーストリア=ハンガリーとイタリアがつよ主張しゅちょうした結果けっか、アルバニアはロンドン条約じょうやく独立どくりつした。1913ねん12月17にちのフィレンツェ協定きょうていでアルバニアの国境こっきょうさだめられると、セルビアはアドリア海あどりあかいへの出口でぐちうしない、ギリシャはアルバニア南部なんぶにあたるきたエピロス英語えいごばん維持いじした。しかし、これは現地げんちのギリシャじん住民じゅうみん歓迎かんげいされない決定けっていであり、かれらは反乱はんらんこして、1914ねんコルフ協定きょうてい英語えいごばんきたエピロス自治じち共和きょうわこく英語えいごばん建国けんこくして自治じちけんれた[43]

敗北はいぼくしたブルガリアは復讐ふくしゅう主義しゅぎ英語えいごばんはしり、民族みんぞく主義しゅぎ野望やぼうたす機会きかいうかがった。ブカレスト条約じょうやく締結ていけつされたのち、ブルガリア代表だいひょうだん団長だんちょうのトンチェフは「列強れっきょうが(領土りょうど分配ぶんぱいを)えるか、わたしたち自身じしんがそれをこわすかです」とべた[40]。その結果けっか、ブルガリアはバルカンでの敵国てきこく(セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ルーマニア)がだいいち世界せかい大戦たいせんおや連合れんごうこくだったこともあり中央ちゅうおう同盟どうめいこくとして参戦さんせんした。しかしブルガリアはふたた敗北はいぼく国家こっかてきトラウマ英語えいごばんのこすとともにヌイイ条約じょうやくふたた領土りょうどうしなった。

戦闘せんとう一覧いちらん

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日付ひづけユリウスれき準拠じゅんきょ

だいバルカン戦争せんそう戦闘せんとう
名称めいしょう 守備しゅびこく 指揮しきかん 攻撃こうげきこく 指揮しきかん 日付ひづけ 勝利しょうりこく
キルキス・ラハナスのたたか英語えいごばん ブルガリア ニコラ・イヴァノフ英語えいごばん ギリシャ コンスタンティノス1せい 1913ねん6がつ19にち - 6月21にち ギリシャ
ドイランのたたか英語えいごばん ブルガリア ニコラ・イヴァノフ ギリシャ コンスタンティノス1せい 1913ねん6がつ22にち - 6月23にち ギリシャ
ブレガルニツァがわたたか英語えいごばん セルビア ラドミル・プトニク ブルガリア 1913ねん6がつ17にち - 6月25にち セルビア
ルペル峡谷きょうこくたたかブルガリアばん ブルガリア ギリシャ コンスタンティノス1せい 1913ねん6がつ27にち ギリシャ
ルーマニアによるブルガリア上陸じょうりく英語えいごばん ブルガリア ルーマニア イェウスタツィウ・セバスティアンルーマニアばん 1913ねん7がつ1にち - 7がつ2にち ルーマニア
クニャジェヴァツのたたか英語えいごばん セルビア ブルガリア 1913ねん7がつ4にち - 7がつ7にち ブルガリア
カリマンツィのたたか英語えいごばん ブルガリア セルビア 1913ねん7がつ15にち - 7がつ18にち ブルガリア
クレスネンスコ峡谷きょうこくたたか英語えいごばん ブルガリア ミハイル・サヴォフ英語えいごばん
ニコラ・イヴァノフ
ギリシャ コンスタンティノス1せい 1913ねん7がつ8にち - 7がつ18にち 膠着こうちゃく停戦ていせん[44]
ヴィディン包囲ほういせん英語えいごばん ブルガリア セルビア 1913ねん7がつ14にち - 7がつ18にち 膠着こうちゃく停戦ていせん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i j k Hall (2000), p. 117.
  2. ^ Edward J. Erickson, Defeat in Detail, The Ottoman Army in the Balkans, 1912–1913, Westport, Praeger, 2003, p. 323.
  3. ^ Archived copy”. 29 December 2011てんオリジナルよりアーカイブ。2012ねん1がつ12にち閲覧えつらん
  4. ^ a b Hall (2000), p. 135.
  5. ^ Calculation” (PDF) (ギリシア). Hellenic Army General Staff. p. 12. 7 June 2011てんオリジナルよりアーカイブ。14 January 2010閲覧えつらん.
  6. ^ a b c d e f Hall (2000), p. 118.
  7. ^ a b c d e f g h i Hall (2000), p. 119.
  8. ^ a b c Balkan crises, Texas.net, オリジナルの7 November 2009時点じてんにおけるアーカイブ。, https://web.archive.org/web/20091107115652/http://cnparm.home.texas.net/Wars/BalkanCrises/BalkanCrises02.htm .
  9. ^ Hall (2000), p. 97.
  10. ^ Penchev, Boyko (2007). Tsarigrade/Istanbul and the Spatial Construction of Bulgarian National Identity in the Nineteenth Century. CAS Sofia Working Paper Series. Central and Eastern European Online Library. pp. 1–18. オリジナルの13 October 2017時点じてんにおけるアーカイブ。. http://www.ceeol.com./ 
  11. ^ The rise of nationality in Balkans, RW Senton-Watson, p. 235.
  12. ^ Crampton, Richard (1987). A short history of modern Bulgaria. Cambridge University Press. p. 62. ISBN 978-0-521-27323-7 
  13. ^ Hall (2000), p. 104.
  14. ^ Hall (2000), p. 108.
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  18. ^ The war between Bulgaria and Balkan Countries, I, Ministry of War, (1932), p. 158 .
  19. ^ The Greek Army during the Balkan Wars, III, Ministry of Army, (1932), p. 97 .
  20. ^ Hall (2000), p. 112.
  21. ^ The Greek Army during the Balkan Wars, C, Ministry of Army, (1932), p. 116 .
  22. ^ Hall (2000), p. 113.
  23. ^ The Carnegie Endowment for International Peace, Report of the International Commission to Inquire into the Causes and Conduct of the Balkan War (1914), p.83 "The villages around it are Bulgarian to the north and west, but a rural Greek population approaches it from the south and east" Archived 10 October 2017 at the Wayback Machine.
  24. ^ Price, Crawfurd (1914). The Balkan cockpit. T. Werner Laurie LTD, p. 347
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  26. ^ Hall (2000), p. 115.
  27. ^ a b c d Hall (2000), p. 110.
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  32. ^ a b Gedeon, Dimitrios (1998). A concise history of the Balkan Wars, 1912–1913 (1.udg. ed.). Athens: Hellenic Army General Staff. p. 260. ISBN 978-960-7897-07-7. オリジナルの3 June 2016時点じてんにおけるアーカイブ。. https://books.google.com/?id=n4-RAAAAIAAJ&dq=%22Finally+they+forced+the+Bulgarians+to+abandon+Summit+1378+on+the+night%22+Dzhumaya&q=%22Finally+they+forced+the+Bulgarians+to+abandon+Summit+1378+on+the+night+of+14-15+July+and+withdraw+towards+Dzhumaya.+On+the+same+day+in+western+Thrace%2C+Division+VIII%2C+unopposed%2C+liberated+the+city+of+Komotene.+%22#search_anchor 
  33. ^ Price, Crawfurd (1914). The Balkan cockpit. T. Werner Laurie LTD, p. 336.
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  35. ^ Hall (2000), pp. 117–118.
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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん図書としょ

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外部がいぶリンク

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