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プシェムィシル包囲ほういせん

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プシェムィシル包囲ほういせん

1915ねんのプシェムィシル要塞ようさい
戦争せんそうだいいち世界せかい大戦たいせん
年月日ねんがっぴ:1914ねん9がつ16にち -1915ねん3がつ22にち[1]
場所ばしょオーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国ていこく プシェムィシル現在げんざいポーランドの旗 ポーランド
結果けっか:ロシアの勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
オーストリア帝国の旗オーストリア=ハンガリー帝国ていこく ロシア帝国の旗 ロシア帝国ていこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
オーストリア帝国の旗スヴェトザル・ボロイェヴィッチ ロシア帝国の旗アンドレイ・セリバーノフ
戦力せんりょく
138,000[2] 300,000
損害そんがい
戦死せんし 86,000
捕虜ほりょ 117,000
けい 203,000[2]
115,000(このうち40,000は最初さいしょ包囲ほうい損害そんがい[3]))
東部とうぶ戦線せんせん (だいいち世界せかい大戦たいせん)

プシェムィシル包囲ほういせんとは、だいいち世界せかい大戦たいせんにおけるもっとながつづいた包囲ほういせんである[4]プシェムィシルは、ガリツィアのサンかわのほとりにある都市とし要塞ようさいされていた。8月と9がつのガリツィアでのオーストリア・ハンガリーぐん敗退はいたいにより、1914ねん9がつ16にちからプシュムィシルは包囲ほういされたが、10月11にちにオーストリア・ハンガリーぐん攻勢こうせいにより一時いちじてきかいかこえされた。11月9にちからふたた包囲ほういされ、133日間にちかん包囲ほういのち食料しょくりょう弾薬だんやくきて、1915ねん3がつ22にち守備しゅびたい降伏ごうぶくした[1]要塞ようさい救出きゅうしゅつため作戦さくせん要塞ようさい喪失そうしつにより、オーストリア・ハンガリーぐんは、やく100まんにん損失そんしつし、2とその損失そんしつからなおることはできなかった。

背景はいけい

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1914ねん8がつにロシアぐんひがしプロイセンひがしガリツィア(現在げんざいのウクライナとポーランドの国境こっきょう付近ふきん)へ攻勢こうせいをかけた。ひがしプロイセンへの攻勢こうせいタンネンベルクのたたか大敗たいはい撃退げきたいされたが、ひがしガリツィア方面ほうめん攻勢こうせい成功せいこうした。ロシア南西なんせい方面ほうめんぐん(ニコライ・イヴァノフ大将たいしょう)はガリツィアのオーストリア・ハンガリーぐんたいして優勢ゆうせいたたかいをすすめ、9がつまつまでにカルパティア山脈さんみゃくまで進出しんしゅつした。プシェムィシル要塞ようさいはガリツィアないでのオーストリアの唯一ゆいいつ拠点きょてんとなったが、9月28にちにはロシアぐん完全かんぜん包囲ほういされた。ロシアぐんがガリツィアを完全かんぜん占拠せんきょするとシュレジエンやカルパティア山脈さんみゃくえてハンガリー平原へいげん進軍しんぐんすること可能かのうになるため、プシェムィシルの防衛ぼうえいはドイツにもオーストリアにも重要じゅうよう意味いみっていた。

まち周辺しゅうへんかこむ7つのあらたな防衛ぼうえいせん構築こうちくのためにそう延長えんちょう50kmほどの塹壕ざんごうられ、1000kmほどの有刺鉄線ゆうしてっせん使つかわれた。要塞ようさいないには127,000にん守備しゅびへいと18,000にん市民しみんがロシアだい3ぐんの6師団しだん包囲ほういされた。プシェムィシルの守備しゅびたいはオーストリア・ハンガリー帝国ていこく当時とうじ情勢じょうせいをよく反映はんえいしており、日々ひび命令めいれいは15の言語げんご発布はっぷされていた。オーストリアじん、ポーランドじん、ユダヤじん、ウクライナじんおな包囲ほういされた都市とし混在こんざいしており、とも砲撃ほうげきさらされた。飢餓きがコレラ蔓延まんえんし、死傷ししょうしゃえるにつれて民族みんぞくあいだ不和ふわ深刻しんこくになり、緊張きんちょうはしった[5]

1度目どめ包囲ほうい

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9月24にち、ドミトリエフ将軍しょうぐんひきいるロシアだい3ぐん要塞ようさい包囲ほうい開始かいしした。ドミトリエフは十分じゅうぶんかず火砲かほう到着とうちゃくたずにそう攻撃こうげきおこない40,000にん損害そんがいしたが、目標もくひょうまった達成たっせいできなかった。おなごろ、ヒンデンブルクのドイツだい9ぐん北部ほくぶでワルシャワ方面ほうめんへの攻撃こうげき開始かいしした。ドイツのワルシャワへの攻勢こうせい呼応こおうし、スヴェトザル・ボロイェヴィッチのオーストリア・ハンガリーだい3ぐんはプシェムィシル救出きゅうしゅつ作戦さくせんはじめた。10月11にち、ドミトリエフはプシェムィシルの包囲ほういサンかわまで撤退てったいし、1かい包囲ほういせんわった。しかし、救援きゅうえんぐん自体じたい補給ほきゅうじょうきょうはひどい状態じょうたいで、プシェムィシルの貯蔵ちょぞうしていた弾薬だんやく食糧しょくりょうけたので、要塞ようさい補給ほきゅうじょうきょう悪化あっかした。

1ヶ月かげつはん、ロシアぐん強圧きょうあつにより、オーストリア・ハンガリーぐん撤退てったい余儀よぎなくされ、まちふたた包囲ほういされた。まち包囲ほういされる直前ちょくぜんに、食料しょくりょう不足ふそく緩和かんわさせるため住民じゅうみんには一時いちじ避難ひなんめいじられた。

2度目どめ包囲ほうい

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プシェムィシルと包囲ほういされた要塞ようさい

10月31にちヒンデンブルクのドイツだい9ぐんヴィスワがわたたかいにやぶれ、ワルシャワへの攻撃こうげき中止ちゅうしした。その結果けっかスヴェトザル・ボロイェヴィッチだい3ぐんサンかわのラインまでき、ヒンデンブルクの提案ていあんしたポーランド中央ちゅうおうへの攻勢こうせい中止ちゅうしした。11月9にち、ロシアぐん再度さいどプシェムィシルの包囲ほうい開始かいしした。ドミトリエフのだい3ぐん前線ぜんせん任務にんむまわされ、要塞ようさい攻囲こういは、あらたに予備よびやくへい主体しゅたいとして編成へんせいされたセリバーノフ将軍しょうぐんだい11ぐんおこなうことになった。セリパーノフはドミトリエフとはちがい、要塞ようさいへの正面しょうめん攻撃こうげきおこなわず、兵糧ひょうろうめをおこなうことにした。オーストリア・ハンガリーぐん評価ひょうかではプシェムィシルの貯蔵ちょぞう物資ぶっしは3がつちゅうにはきてしまう見込みこみだったので、11月から1915ねん3がつふゆあいだ、プシェムィシルの包囲ほういくため、参謀さんぼう総長そうちょうコンラート上級じょうきゅう大将たいしょうカルパティア山脈さんみゃくえの救出きゅうしゅつ作戦さくせんめいじたが、真冬まふゆ防衛ぼうえいぐん有利ゆうり山岳さんがく地形ちけいという条件じょうけんのなか、オーストリア・ハンガリーぐん凍傷とうしょう病気びょうきだい損害そんがいした。

1915ねん2がつにボロイェヴィッチはべつ救援きゅうえんぐんをプシェムィシルへおくったが、2がつわりにほどけかこえのぞみはついえた。このころにはセリバーノフのぐんには十分じゅうぶん火砲かほう装備そうびしており、3月13にちにはきた防衛ぼうえいせん攻略こうりゃくした。大急おおいそぎでつくられたあらたな防衛ぼうえいせんもロシアの攻撃こうげきさらされたが、そのあいだにロシアに有用ゆうよう物資ぶっしあたえないために、都市とし破壊はかいするための時間じかんかせげた。3月19にちに、守備しゅびたいうちいちまんじゃく東方とうほうやく60キロさき友軍ゆうぐん陣地じんち目指めざすべく、ほとんど自殺じさつてき包囲ほうい突破とっぱ作戦さくせんおこなったが、このうごきはロシアぐん察知さっちされており、容易ようい撃退げきたいされ、要塞ようさいかえれたものはわずかだった。もはや物資ぶっしのぞみもきたので、守備しゅびたいは、要塞ようさいない軍事ぐんじてき価値かちのあるものをすべて破壊はかいしつくしたのち、3月22にち残存ざんそんする守備しゅびたい117,000のへいはロシアぐん降伏ごうぶくした[6]捕虜ほりょなかには9にん将軍しょうぐんと93にん佐官さかんと2,500にん将校しょうこうがいた[7]

結果けっか

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ブダペストにあるプシェムィシル包囲ほういせん記念きねんした彫刻ちょうこく

1915ねんはるにロシアぐんは、オーストリア・ハンガリーを戦争せんそうから脱落だつらくさせるためにカルパチア山脈さんみゃくえてハンガリー平原へいげん目指めざ攻勢こうせいおこなったが、地形ちけい不適切ふてきせつというオーストリア・ハンガリーぐんおな理由りゆう失敗しっぱいした。1915ねん5がつに、ドイツ・オーストリア連合れんごうぐんによるゴリツィエ=タルヌフ攻勢こうせい開始かいしされ、プシェムィシルは6がつにマッケンゼンのドイツだい11ぐんによって奪還だっかんされ、ロシアぐんによる占拠せんきょは67日間にちかんわった。

オーストリア・ハンガリーぐんによるカルパティア山脈さんみゃくえのかいかこえこころみは、物資ぶっし装備そうび不足ふそく真冬まふゆ山岳さんがく攻勢こうせいという現実げんじつてき作戦さくせんにより、だい損害そんがいして失敗しっぱいわった。1915ねん1がつから4がつにおける、オーストリア・ハンガリーぐんのカルパティア山脈さんみゃくでの損害そんがい凍傷とうしょうやまい蔓延まんえんにより、800,000にんにものぼった。ロシアぐんもかなりの損害そんがいしたが、へい補充ほじゅうはオーストリア・ハンガリーにくらべればましであり、軍事ぐんじバランスはロシアにかたむいた[8]。この包囲ほういせんとカルパティア山脈さんみゃくでの軍事ぐんじ作戦さくせんにより、オーストリア・ハンガリーぐんやくひゃくまんにんかえしのつかない損害そんがいこうむった。オーストリア・ハンガリー帝国ていこくはこの打撃だげきから回復かいふくすることはできず、軍事ぐんじてきにドイツにつよ依存いぞんすることになった[9]

参考さんこう文献ぶんけん

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  • Timothy C. Dowling (2014). Russia at War: From the Mongol Conquest to Afghanistan, Chechnya, and Beyond. Przemyśl, Siege of (September 24, 1914 - March 22, 1915). 2 volumes. ABC-CLIO. pp. 681–682, 170, 913. ISBN 1598849484.
  • Tucker, Spencer (2002) [1997]. The Great War, 1914-1918. Routledge. ISBN 1134817495 – via Goggle Books.
  • Written in Blood: The Battles for Fortress Przemysl in WWI by Graydon A. Tunstall, 2016, Indiana University Press ISBN 9780253021977
  • Prit Buttar(2015),Germany Ascendant:The Eastern Front 1915,Osprey Publishing,ISBN 978-1472807953

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Timothy C. Dowling (2014). Russia at War: From the Mongol Conquest to Afghanistan, Chechnya, and Beyond. 2 volumes. ABC-CLIO. pp. 681–682, 170, 913. ISBN 1598849484. https://books.google.ca/books?id=KTq2BQAAQBAJ&q=Przemy%C5%9Bl%2C+Siege+1914 
  2. ^ a b Przemysl leltára” [account of Przemyśl] (Hungarian). Budapest, Hungary: Huszadik század (April 1915). 2 August 2011閲覧えつらん
  3. ^ Przemyslt teljesen felszabadítottuk” [Przemyśl has been fully liberated] (Hungarian). Budapest, Hungary: Huszadik század (October 1914). 2 August 2011閲覧えつらん
  4. ^ A War in Words, p.69, Svetlana Palmer & Sarah Wallis, Simon & Schuster 2003
  5. ^ A War in Words, p.70, Svetlana Palmer & Sarah Wallis, Simon & Schuster 2003
  6. ^ Rothenburg, G. The Army of Francis Joseph. West Lafayette: Purdue University Press, 1976. p 185.
  7. ^ Rothenburg 1976, p. 185.
  8. ^ Tucker, Spencer. "World War I: A Student Encyclopedia". ABC-CLIO Publishing. 2005. Page 349.
  9. ^ A War in Words, p.93

関連かんれん事項じこう

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