ドイツ革命かくめい

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドイツ革命かくめい
種類しゅるい 革命かくめい[1][2][3]
民主みんしゅ主義しゅぎ革命かくめい[3]
目的もくてき 政治せいじてき自由じゆう平和へいわ要求ようきゅう[2]
レーテ権力けんりょく樹立じゅりつ革命かくめい[2]
対象たいしょう 帝政ていせいドイツ
結果けっか 帝政ていせい崩壊ほうかい[1]
だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつ[2]
社会しゃかい主義しゅぎ運動うんどう挫折ざせつ
ヴァイマル共和きょうわせい成立せいりつ[2]
発生はっせい現場げんば ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく
期間きかん 1918ねん11月3にち - 1919ねん8がつ11にち
指導しどうしゃ フリードリヒ・エーベルト
カール・リープクネヒト革命かくめい
ローザ・ルクセンブルク革命かくめい
関連かんれん団体だんたい 社会しゃかい民主党みんしゅとう(SPD)独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうスパルタクスだん
関連かんれん事象じしょう だいいち世界せかい大戦たいせん
いちがつ闘争とうそう
ロシア革命かくめい

ドイツ革命かくめい(ドイツかくめい、どく: Novemberrevolution, えい: German Revolution of 1918–19)は、だいいち世界せかい大戦たいせん末期まっきに、1918ねん11月3にちキール軍港ぐんこう水兵すいへい反乱はんらんはしはっした大衆たいしゅうてき蜂起ほうきと、その帰結きけつとしてドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せい廃位はいいドイツばん英語えいごばんされ、帝政ていせいドイツが打倒だとうされた革命かくめいである。ドイツでは11月革命かくめいともう。

これにより、だいいち世界せかい大戦たいせん終結しゅうけつし、ドイツでは議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎむねとするヴァイマル共和きょうわこく樹立じゅりつされた。また、革命かくめい指導しどうしゃクルト・アイスナーローザ・ルクセンブルクエルンスト・トラーオイゲン・レヴィーネカール・リープクネヒトらがユダヤじんであったことから、ドイツ革命かくめい反発はんぱつした民族みんぞく主義しゅぎ右翼うよくは、共産きょうさん主義しゅぎしゃとユダヤじんによる「背後はいごいちとっ」でドイツを敗北はいぼくへとみちびいたとする見方みかたひろめ、革命かくめいのドイツでははんユダヤ主義しゅぎたかまっていった[4]

休戦きゅうせん交渉こうしょう皇帝こうてい退位たいい問題もんだい[編集へんしゅう]

ドイツ参謀さんぼう本部ほんぶ戦争せんそう短期たんき終結しゅうけつ目指めざして立案りつあんしたシュリーフェン・プランは、フランスぐんとの戦線せんせん全域ぜんいきわたって泥沼どろぬま塹壕ざんごうせんおちいったことで挫折ざせつした。国内こくない独裁どくさいてき地位ちいかためた軍部ぐんぶは、この膠着こうちゃく状態じょうたいやぶり、つぎせん能力のうりょく維持いじするために、あらゆる人員じんいん物資ぶっし戦争せんそう遂行すいこう動員どういんする体制たいせいエーリヒ・ルーデンドルフ参謀さんぼう次長じちょう提唱ていしょうした、いわゆる「そう力戦りきせん体制たいせい確立かくりつすすんだ。これは一方いっぽうでは、戦争せんそうによる経済けいざい活動かつどう停滞ていたいあいまって、国民こくみん多大ただい窮乏きゅうぼう辛苦しんくいることとなり、戦局せんきょく悪化あっかとともに軍部ぐんぶへの反発はんぱつ戦争せんそう反対はんたいする気運きうんたかまりをまねき、平和へいわとパンをもとめるデモや暴動ぼうどう頻発ひんぱつした。

だい1世界せかい大戦たいせんちゅう、ドイツの食糧しょくりょう事情じじょうわるいことがおおく、とくに1916ねんから1917ねんにかけてのふゆはそれが深刻しんこくだった[5]社会しゃかい下層かそう階級かいきゅうではじゃがいもではなくかぶら主食しゅしょくになる有様ありさまで、そのため「かぶらのふゆ」とばれた[5]。この時期じき配給はいきゅうされた食料しょくりょうは、必要ひつようカロリーすう半分はんぶんから3ぶんの1にしかたっしないという悲惨ひさんさだった[5]当然とうぜんのこととして、デモ暴動ぼうどうストライキ職場しょくば放棄ほうきだい規模きぼ発生はっせいした[5]。また、だい1大戦たいせん期間きかんちゅうのドイツの慢性まんせいてき食糧しょくりょう不足ふそくは、社会しゃかいてき弱者じゃくしゃ直撃ちょくげきした[6]。あまり注目ちゅうもくされることはないため言及げんきゅうされることはすくないが、この当時とうじ、ドイツでは公立こうりつ病院びょういんにおいて精神病せいしんびょう患者かんじゃやく7まんにん餓死がししている[7]。この7まんにんという数字すうじは、1939ねん以降いこう実施じっしされたナチス・ドイツにおける強制きょうせい安楽あんらく計画けいかく (T4作戦さくせん) での死者ししゃすうのうちの精神病せいしんびょう患者かんじゃ殺害さつがいしゃすうにほぼ匹敵ひってきするが[8]、ほとんど顧られていない。

1917ねん3月12にち勃発ぼっぱつしたロシア革命かくめいとその成功せいこうはドイツの労働ろうどうしゃ刺激しげきし、1918ねん1がつには全国ぜんこく規模きぼ大衆たいしゅうてきストライキおこなわれた。また一時いちじドイツと連合れんごうこく仲介ちゅうかいやくたっていたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領だいとうりょうの「じゅうよんじょう平和へいわ原則げんそく」に代表だいひょうされる公正こうせい講和こうわのアピールは[9]政治せいじにも和平わへいへのみち選択せんたくさせることとなった。

ドイツ国内こくないでは反戦はんせん運動うんどう活発かっぱつした。国内こくないでは1918ねん初頭しょとうから反戦はんせん運動うんどう労働ろうどうしゃによる反戦はんせんストライキが激化げきか参加さんかしゃ全国ぜんこくで100まんにん以上いじょうにものぼった[10]国軍こくぐん政府せいふ反戦はんせんストライキにたいして強硬きょうこう姿勢しせいのぞみ、指導しどうしゃ逮捕たいほ、ストライキ参加さんかしゃ大量たいりょう徴兵ちょうへい工場こうじょうぐん管理かんり戒厳かいげん状態じょうたい強化きょうかなどを実施じっしし、反戦はんせんだい打撃だげきけた[11]同時どうじに、政府せいふ強硬きょうこう姿勢しせい以外いがい選択肢せんたくしがなくなり、西部せいぶ戦線せんせんでの勝利しょうり有利ゆうり条件じょうけんでの講和こうわ目指めざ以外いがいなくなった[11]

1918ねん3がつ21にち、ドイツぐんは76師団しだんほう6600もん飛行機ひこうき1000というだい部隊ぶたい使つかって西部せいぶ戦線せんせんだい攻勢こうせいはじめた[11]。5月にはマルヌがわえ、一時いちじパリ目前もくぜんまでせまったがドイツぐん損害そんがいおおきく、連合れんごうこく補給ほきゅう十分じゅうぶんにできた一方いっぽう、ドイツぐん補給ほきゅうわず次第しだい劣勢れっせいになっていった[11]

政府せいふキュールマン英語えいごばん外相がいしょうは、軍事ぐんじてき解決かいけつだけでは戦争せんそう終結しゅうけつ無理むりであり、外交がいこう交渉こうしょう必要ひつようであると議会ぎかい力説りきせつしたが、陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい (OHL) や保守ほしゅ面々めんめん一時いちじてき軍事ぐんじてき戦果せんか幻惑げんわくされ、キュールマンを辞任じにんみ、さら西部せいぶ戦線せんせんだい攻勢こうせいは7がつまでつづけられた[11]。7がつまつから連合れんごうぐん反撃はんげきはじまり、8がつ8にち戦闘せんとうではドイツへいの5まんにん以上いじょう捕虜ほりょになるだい敗北はいぼくきっした[12]ルーデンドルフに「ドイツ陸軍りくぐん暗黒あんこく木曜日もくようび」とわしめるほどのだい敗北はいぼくで、以後いごドイツぐん退却たいきゃく大量たいりょう捕虜ほりょ兵士へいし投降とうこう常態じょうたいした[12]厭戦えんせんによる士気しき低下ていか深刻しんこくで、補充ほじゅう部隊ぶたい前線ぜんせんきを拒否きょひして暴動ぼうどうこしたり、休暇きゅうかのち部隊ぶたいもどらなかったり、兵役へいえきのがれをする兵士へいし続出ぞくしゅつ戦争せんそう末期まっきにはこういった兵士へいしが100まんにんちかくにのぼった[12]。また、ドイツ国内こくないでも食糧しょくりょう不足ふそく深刻しんこくしたままだった[12]

しかし、このようなあきらかな劣勢れっせいなかにあってもなおルーデンドルフは強気つよきで、政府せいふたいして軍事ぐんじ情勢じょうせいまさしくつたえず、勝利しょうりいちげきののちの和平わへい交渉こうしょう主張しゅちょうしてゆずらなかった[12]。OHLは戦局せんきょく悪化あっかまさしく政府せいふつたえなかったので、いきおい政府せいふにおける講和こうわ活動かつどう停滞ていたい気味ぎみにならざるをえず、本格ほんかくてき講和こうわすすむというよりもむしろ、単純たんじゅん国内こくない改革かいかく要求ようきゅう政府せいふ批判ひはんのレベルにとどまっていた[12]

その状況じょうきょうも9がつになって一変いっぺんする。9月28にち、ルーデンドルフは突如とつじょとして、げん政府せいふ更迭こうてつ議会ぎかい多数たすうによるしん政権せいけん樹立じゅりつウィルソンの14かじょうもとづく講和こうわ実現じつげんをせまった[13]背景はいけいには、ドイツの敗北はいぼく決定的けっていてきとなったことで、9月14にち同盟どうめいこくオーストリア=ハンガリー帝国ていこく講和こうわ交渉こうしょう用意よういしていると発表はっぴょうしたことや、おなじく同盟どうめいこくブルガリア同月どうげつ25にち連合れんごうこくたいして休戦きゅうせんもうたなど、同盟どうめい関係かんけい崩壊ほうかいしたことにあった[13]

9月29にち御前ごぜん会議かいぎで、ルーデンドルフの提案ていあん承認しょうにんされ、首相しゅしょうゲオルク・フォン・ヘルトリング辞任じにん同意どうい後任こうにん自由じゆう主義しゅぎしゃわれていたバーデン辺境へんきょうはくマックス・フォン・バーデンだい公子こうし宰相さいしょうにあてられることになった[13]当初とうしょ消極しょうきょくてきだった社会しゃかい民主党みんしゅとう(SPD)もエーベルト説得せっとく政府せいふへの参加さんか同意どういしたことで、議会ぎかい多数たすう3とうドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう中央ちゅうおうとうドイツ民主党みんしゅとう[よう出典しゅってん])による政府せいふつくられる見通みとおしになった[13]。OHL代表だいひょうはようやく10がつ2にちになってはじめて、ドイツの本当ほんとう戦局せんきょく各党かくとう代表だいひょうつたえた[13]。これまでOHLはただしい戦況せんきょう議会ぎかいげていなかったので、ドイツの敗戦はいせんという予期よきせぬ状況じょうきょうなかしん政府せいふ講和こうわ国内こくない改革かいかく実行じっこうしなければならない羽目はめおちいった[13]

10月3にち、マックスを首班しゅはんとするさんとう政府せいふ成立せいりつし、戦時せんじちゅう軍部ぐんぶ独裁どくさいわった[14]。OHLは、マックスの反対はんたいって、政府せいふ成立せいりつただちにウィルソン大統領だいとうりょうへの交渉こうしょう依頼いらい通牒つうちょうはっした[13]。しかし、ドイツ政府せいふ停戦ていせん交渉こうしょうは、敗戦はいせん予期よきしていなかったドイツ国民こくみんとのみぞふかめた[14]

マックス宰相さいしょう連合れんごうこくとの講和こうわ交渉こうしょう開始かいしし、10月23にちアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうウッドロウ・ウィルソンじゅうよんカ条かじょう平和へいわ原則げんそくもとづく講和こうわ条件じょうけんとして、ドイツ帝国ていこくにおける軍国ぐんこく主義しゅぎ王朝おうちょうてき専制せんせい主義しゅぎ除去じょきょ要求ようきゅうした[14]独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうらは皇帝こうていヴィルヘルム2せい退位たいいドイツばん英語えいごばん要求ようきゅうし、講和こうわ運動うんどう広範囲こうはんいおこなわれるようになった[14]。これに反発はんぱつしたルーデンドルフが交渉こうしょう継続けいぞく反対はんたいして戦争せんそう継続けいぞく主張しゅちょうするという事態じたいきたが、マックスだい公子こうし皇帝こうていヴィルヘルム2せいせまってルーデンドルフを解任かいにん後任こうにんヴィルヘルム・グレーナー就任しゅうにんした[15][14]

その憲法けんぽう改正かいせいによる議院ぎいんないかくせい普通ふつう選挙せんきょなどの導入どうにゅうおこなわれたが[16]、アメリカがわ皇帝こうてい退位たいいもとめているという情報じょうほうがチューリヒ在住ざいじゅうのアメリカ領事りょうじからもたらされた。ウィルソン自身じしん皇帝こうてい退位たいいもとめたことはなく、また想定そうていもしていなかったが[17]、10月25にちごろからは皇帝こうてい退位たいい問題もんだい講和こうわ前提ぜんていとして公然こうぜんかたられるようになった[18]。この情勢じょうせいうごきをてマックスだい公子こうし政府せいふ皇帝こうてい退位たいい方針ほうしんかためつつあったが、ヴィルヘルム2せいとその周辺しゅうへんはあくまで退位たいい反対はんたいした。10月29にち皇帝こうてい不穏ふおんなベルリンをはなれて大本営だいほんえいのあるスパかい、ってきたマックスだい公子こうし退位たいい要請ようせい拒絶きょぜつした[14]

キールの反乱はんらんとレーテ蜂起ほうき[編集へんしゅう]

キールでの労働ろうどうしゃ蜂起ほうき(1918ねん11月4にち)

1918ねん10がつまつ休戦きゅうせん交渉こうしょう反対はんたいするドイツ海軍かいぐん首脳しゅのうは、イギリス艦隊かんたい決戦けっせんいどもうとヴィルヘルムスハーフェンみなと大洋たいよう艦隊かんたい主力しゅりょく出撃しゅつげきめいじた[14]。しかし、10月29にち命令めいれい有効ゆうこうせい疑惑ぎわくった水兵すいへいたちやく1000にん出撃しゅつげき命令めいれい拒絶きょぜつし、命令めいれい服従ふくじゅうによって反抗はんこうした[14]。この出撃しゅつげき自殺じさつてき無謀むぼう作戦さくせんであったとされるが[19]実態じったいには論評ろんぴょう余地よちがあるとされる[20]海軍かいぐん司令しれい作戦さくせん中止ちゅうしをもたらしたサボタージュの兵士へいしたちを逮捕たいほし、キール軍港ぐんこうおくった。

11月1にち、キール軍港ぐんこう駐屯ちゅうとんしていただいさん戦隊せんたい水兵すいへいたちが仲間なかま釈放しゃくほうもとめたが、司令しれい拒絶きょぜつした[14]11月3にちには水兵すいへい兵士へいし、さらに労働ろうどうしゃによるデモがおこなわれた。これを鎮圧ちんあつしようと官憲かんけん発砲はっぽうしたことで一挙いっきょ蜂起ほうきへと拡大かくだいし、11月4にちには労働ろうどうしゃ兵士へいしレーテ評議ひょうぎかいソビエトドイツ語どいつごやく)が結成けっせいされ、4まんにん水兵すいへい兵士へいし労働ろうどうしゃ港湾こうわん制圧せいあつし、かん赤旗あかはたかかげた(キールの反乱はんらん英語えいごばん[14]政府せいふ社会しゃかい民主みんしゅ党員とういんグスタフ・ノスケ派遣はけんし、蜂起ほうきしたレーテ水兵すいへいらの待遇たいぐう改善かいぜんなどの要求ようきゅう交渉こうしょうして、またノスケを「総督そうとく」としたことで、平常へいじょうした[14][21]蜂起ほうき背景はいけいとして、ドイツ海軍かいぐん将校しょうこう貴族きぞく教養きょうよう市民しみんそう出身しゅっしんしゃめられているのにたいして一般いっぱん兵員へいいん労働ろうどうしゃめられていたため、社会しゃかい階層かいそうあいだ政治せいじてき対立たいりつ反映はんえいしやすかったことが指摘してきされている[14]

キールのらん鎮静ちんせいしたが、こうしてドイツ革命かくめい開始かいしされた[19]。こののちキールからった水兵すいへい労働ろうどうしゃによって同様どうよう蜂起ほうきはたちまちひろまり、5にちにはリューベックブルンスビュッテルコーク英語えいごばん、6にちにはハンブルクブレーメンヴィルヘルムスハーフェン、7にちにはハノーファーオルデンブルクケルン、8にちには西部せいぶドイツすべての都市としがレーテの支配しはいとなり、各地かくち将校しょうこう逮捕たいほされて武装ぶそう解除かいじょされ、各地かくちぐん当局とうきょく兵士へいし評議ひょうぎかい労働ろうどうしゃ評議ひょうぎかい主権しゅけん無抵抗むていこう承認しょうにんした[21]

11月7にちからはじまったバイエルン革命かくめい(ミュンヘン革命かくめいとも)ではバイエルンおうルートヴィヒ3せい退位たいいし、王制おうせい打倒うちたおされ、レーテが権力けんりょく掌握しょうあくした[22]。このような大衆たいしゅうてき蜂起ほうきろうへいレーテの結成けっせいは、11月8にちまでにドイツ北部ほくぶへ、11月10にちまでにはほとんどすべての主要しゅよう都市とし波及はきゅうした。そうじてレーテ運動うんどうばれ、ロシア革命かくめいソビエト評議ひょうぎかい)をして組織そしきされたろうへいレーテであるが、ボリシェビキのような前衛ぜんえい党派とうは革命かくめい指導しどうしたわけではなく、おおくのろうへいレーテの実権じっけん社会しゃかい民主党みんしゅとう掌握しょうあくした。

共和きょうわこく宣言せんげん[編集へんしゅう]

共和きょうわせい宣言せんげんするシャイデマン

11月9にち首都しゅとベルリンゼネストこった[22]。ベルリンのまちは、平和へいわ自由じゆうとパンをもとめる労働ろうどうしゃ市民しみんのデモでくされた。これにたいしてマックスだい公子こうし皇帝こうてい退位たいい宣言せんげんし、政府せいふ社会しゃかい民主党みんしゅとう党首とうしゅフリードリヒ・エーベルトゆだねた[23]。しかしベルリン各地かくちでは複数ふくすうのレーテが結成けっせいされ、事態じたい一向いっこうにおさまる気配けはいをみせなかった。このときカール・リープクネヒトが「社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく」の宣言せんげんをしようとしていることがつたえられると、エーベルトとともにいた社会しゃかい民主みんしゅ党員とういんフィリップ・シャイデマンは、議事堂ぎじどうまどからして独断どくだん共和きょうわせい樹立じゅりつ宣言せんげんした(ドイツ共和きょうわこく宣言せんげん)。

社会しゃかい民主党みんしゅとうにとってレーテ(評議ひょうぎかい)とはボルシェビズムのソビエトであったのでこれを否定ひていしたため、独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうやスパルタクスだんなどの革命かくめいとのこうそうとなっていく[23]。しかし、ベルリンの兵舎へいしゃ工場こうじょう相次あいついでレーテが結成けっせいされはじめたため、政権せいけん維持いじ目指めざしたエーベルトは独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうとの連立れんりつ政府せいふ人民じんみん委員いいん政府せいふ」の結成けっせいった[23]11月10にち社会しゃかい民主党みんしゅとう独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう(USPD)、民主党みんしゅとうからなるかり政府せいふ人民じんみん委員いいん評議ひょうぎかいドイツばん」が樹立じゅりつされた。そのうちヴィルヘルム2せいオランダ亡命ぼうめいした[22]一方いっぽう、ベルリンのろうへいレーテは人民じんみん委員いいん評議ひょうぎかい承認しょうにんしたものの、独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう左派さはである革命かくめいてきオプロイテ半数はんすうめるだいベルリンろうへいレーテ執行しっこう評議ひょうぎかいドイツばん選出せんしゅつし、ドイツにおける最高さいこう権力けんりょくをゆだねることを宣言せんげんし、じゅう権力けんりょく状態じょうたいまれた[23]

11月10にちよる共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめいへの進展しんてんふせぎ、革命かくめい早期そうき終息しゅうそくはかるエーベルトのもとに、グレーナー参謀さんぼう次長じちょうから電話でんわがあり秘密ひみつ会談かいだんがもたれた。その結果けっかとして、エーベルトらは革命かくめいきゅう進化しんか阻止そしし、議会ぎかいしたですみやかに秩序ちつじょ回復かいふくすること、そしてこれらの目的もくてき達成たっせいのための実働じつどう部隊ぶたい軍部ぐんぶ提供ていきょうすること、またぐんは、ぐん維持いじ将校しょうこう権威けんい回復かいふくなど旧来きゅうらい将校しょうこう組織そしき温存おんぞんするという協定きょうていむすばれ(エーベルト・グレーナー協定きょうていドイツばん)、人民じんみん委員いいん評議ひょうぎかい政府せいふとドイツぐん相互そうご依存いぞん関係かんけいはじまった[24]。エーベルトはまた旧来きゅうらい官僚かんりょう組織そしき温存おんぞんし、社会しゃかい民主みんしゅ党員とういん派遣はけんすることで行政ぎょうせい機構きこう維持いじしようとした[24]一方いっぽう海軍かいぐん水兵すいへい反乱はんらん将校しょうこう権威けんい失墜しっついしたまま混乱こんらんつづき、維持いじみとめられたが革命かくめい制圧せいあつする能力のうりょくはなかった[24]。しかし首都しゅと治安ちあんまもるためにクックスハーフェンからせた水兵すいへいとベルリンの水兵すいへいによる「人民じんみん海兵かいへいだんドイツばん」が結成けっせいされた。しかし海兵かいへいだんには次第しだい革命かくめいてきオプロイテが浸透しんとうし、左傾さけいしていくことになる。

11月11にち、ドイツ代表だいひょうマティアス・エルツベルガー、グレーナーらが連合れんごうこくとの休戦きゅうせん条約じょうやく調印ちょういんし、だいいち世界せかい大戦たいせん公式こうしき終結しゅうけつした[22]

模索もさく[編集へんしゅう]

11月15にちには、さき政治せいじ協定きょうていかたちで、労働ろうどう組合くみあいだい企業きぎょうあいだに「中央ちゅうおう労働ろうどう共同きょうどうたい協定きょうていむすばれた。(シュティンネス・レギーン協定きょうていドイツばん労働ろうどう組合くみあい労働ろうどう運動うんどうきゅう進化しんかふせぐために、団結だんけつけん承認しょうにんなど資本しほんがわからの譲歩じょうほ労使ろうし協調きょうちょう内容ないようとしていた。

12月16にち全国ぜんこくろうへいレーテ大会たいかいでは、急進きゅうしんが、ドイツ帝国ていこくぐん解体かいたいと「国民こくみんぐん」の創設そうせつ要求ようきゅうしたが、エーベルトはこれを無視むしして、多数たすうめる社会しゃかい民主みんしゅ党員とういん賛成さんせいによりよく1919ねん1がつ19にち国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ決定けっていした[22]。これに反発はんぱつした独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう政府せいふから離脱りだつし、どうとう左派さはのスパルタクスだんは1918ねん12がつまつ共産党きょうさんとう結成けっせいし、よく1919ねん1がつ選挙せんきょボイコットを決定けっていした[22]

12月23にちベルリン王宮おうきゅう占拠せんきょしていた人民じんみん海兵かいへいだん武装ぶそう解除かいじょしようとエーベルトが派遣はけんした部隊ぶたいとのあいだ戦闘せんとうきたが、結局けっきょく撃退げきたいされた。これに抗議こうぎして独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう政府せいふから離脱りだつした(人民じんみん海兵かいへいだん事件じけんドイツばん)。しん政府せいふにはノスケが入閣にゅうかくし、軍事ぐんじ問題もんだいあつかうこととなる。

12月30にちローザ・ルクセンブルクらのスパルタクスだん中心ちゅうしんドイツ共産党きょうさんとう(KPD)が結成けっせいされた。

ベルリン・スパルタクスだん蜂起ほうき[編集へんしゅう]

ベルリンで武装ぶそう抵抗ていこうする革命かくめい

1919ねん1がつ5にち独立どくりつ社会しゃかい民主みんしゅ党員とういんであったベルリンの警視庁けいしちょう長官ちょうかんエミール・アイヒホルン(de)が辞職じしょくさせられたことをきっかけとして政府せいふ反対はんたいするだい規模きぼなデモがき、武装ぶそうした労働ろうどうしゃ主要しゅよう施設しせつなどを占拠せんきょした。これにたいして独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう共産党きょうさんとう無為むい無策むさく終始しゅうししたため、翌日よくじつデモは自然しぜん解散かいさんした。政府せいふ革命かくめいへの本格ほんかくてき武力ぶりょく弾圧だんあつ開始かいしし、以降いこういちがつ闘争とうそう」(スパルタクスだん蜂起ほうき)とばれる流血りゅうけつ事態じたいつづいた。

1がつ9にち、ノスケの指示しじによって、きゅう軍兵ぐんびょうによって編成へんせいされたフライコール(ドイツ義勇軍ぎゆうぐん)がベルリンに到着とうちゃくし、スパルタクスだんなどの革命かくめいはげしい戦闘せんとう展開てんかいした(スパルタクスのしゅう)。1がつ15にちまでには革命かくめい鎮圧ちんあつされ、また同日どうじつ革命かくめい象徴しょうちょうてき指導しどうしゃであったカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクは殺害さつがいされた[22]

国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょによるワイマール共和きょうわこく成立せいりつ[編集へんしゅう]

1がつ19にち国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょ実施じっしされ、社会しゃかい民主党みんしゅとうだいいちとう獲得かくとくした。2がつ6にちヴァイマル国民こくみん議会ぎかい召集しょうしゅうされた。国家こっか政体せいたい議会ぎかいせい民主みんしゅ主義しゅぎ共和きょうわこくとすることが確認かくにんされ、いわゆる「ワイマール共和きょうわこく」が誕生たんじょうした[22]

1919ねん2がつ、ワイマール国民こくみん議会ぎかい大統領だいとうりょうにエーベルト、首相しゅしょうにシャイデマンが選出せんしゅつされ、社会しゃかい民主党みんしゅとう中央ちゅうおうとう民主党みんしゅとうによるワイマール連合れんごう政府せいふ形成けいせいされた[22]。これら3とう革命かくめい以前いぜんのマックス・フォン・バーデン政府せいふ支柱しちゅうであった[22]のちには、当時とうじ世界せかいもっと民主みんしゅてき憲法けんぽうとされたワイマール憲法けんぽう制定せいていされた。

スパルタクスだん蜂起ほうき以後いごワイマール共和きょうわ国軍こくぐん(フライコールと国防こくぼうぐん)は、各地かくちひろがった労働ろうどうしゃ武装ぶそう蜂起ほうき(レーテ・ストライキ)、3月のベルリンでのゼネスト、5月にミュンヘンのレーテ共和きょうわこく鎮圧ちんあつし、ドイツ革命かくめい終焉しゅうえんむかえた[22]

バイエルン革命かくめい[編集へんしゅう]

アイスナー政権せいけん[編集へんしゅう]

クルト・アイスナー
アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ伯爵はくしゃく

バイエルン王国おうこくでは共産きょうさん主義しゅぎしゃソビエト体制たいせい構築こうちくしようとして内戦ないせん状態じょうたいとなり、またアイスナー首相しゅしょうはユダヤじんであったので右派うはの「匕首ひしゅ伝説でんせつ」の筋書すじがきのとおりとなった[25]。1918ねん11月7にち首都しゅとミュンヘン独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうのユダヤじんクルト・アイスナー共和きょうわ政府せいふ樹立じゅりつ宣言せんげんした。同日どうじつ、ミュンヘンのデモたいぐん駐屯ちゅうとんかったが、ぐん無抵抗むていこうであった[25]ぐん支援しえんがなかったドイツの帝政ていせい崩壊ほうかいした[25]革命かくめい成立せいりつした要因よういんには、戦局せんきょく悪化あっかによる厭戦えんせん感情かんじょうと、オーストリアの降伏ごうぶくによりバイエルンが戦場せんじょうとなることへの危機ききかんがあった。11月7にちよる療養りょうようちゅうのバイエルンおうヴィッテルスバッハルートヴィヒ3せい一族いちぞく逃亡とうぼうした[26]

アイスナーはレーテくにせい基礎きそこうとしたが、中産ちゅうさん階級かいきゅうをレーテにもうとしたためプロレタリア独裁どくさい実現じつげんできないとして共産きょうさん主義しゅぎしゃから「疑似ぎじレーテ共和きょうわこく」と批判ひはんされた[25]。また、社会しゃかい民主党みんしゅとうなどからの議会ぎかい設置せっち要求ようきゅう拒否きょひできず、1がつ12にち選挙せんきょ実施じっしした。その結果けっか独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうは180議席ぎせきちゅう3議席ぎせきとどまった。さらにアイスナーが世界せかい大戦たいせん端緒たんしょとなったオーストリアのセルビアへの最後さいご通牒つうちょうにドイツが共謀きょうぼうしていたという公文書こうぶんしょ公開こうかいすると、国家こっかへの背信はいしんであるとしてアイスナー暫定ざんてい首相しゅしょうは1919ねん2がつ21にちトゥーレ協会きょうかい会員かいいんのユダヤけいアルコ・ファーライ伯爵はくしゃく暗殺あんさつされた[25]。アイスナー暫定ざんてい首相しゅしょう暗殺あんさつ、バイエルンは政府せいふ状態じょうたいとなった[25]

ランダウアー・トラー政権せいけん[編集へんしゅう]

共産きょうさん主義しゅぎしゃはこの混乱こんらんじょうじて共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん樹立じゅりつ目論もくろむが、4がつ6にち政府せいふ主義しゅぎしゃグスタフ・ランダウアー独立どくりつ社会しゃかい民主みんしゅ党員とういんげき作家さっかエルンスト・トラーらが革命かくめいこした。トラー政権せいけんには自由じゆう貨幣かへい提唱ていしょうしゃであるシルビオ・ゲゼル金融きんゆう担当たんとう大臣だいじんとして入閣にゅうかくしていた。文学ぶんがく青年せいねんあつまりであったしん政権せいけん体制たいせい維持いじできなかった。

レヴィーネ政権せいけんとミュンヘン内戦ないせん[編集へんしゅう]

いち週間しゅうかん4がつ13にちスパルタクスだん創設そうせつしゃ一人ひとりであるロシア出身しゅっしんのユダヤじん革命かくめいオイゲン・レヴィーネひきいる共産きょうさん主義しゅぎしゃ革命かくめいこし、政権せいけん奪取だっしゅした(バイエルン・レーテ共和きょうわこく)。レヴィーネは「プロレタリア独裁どくさいてた」と宣言せんげんし、10日間にちかんゼネストを宣言せんげんした[25]

モスクワのボリシェビキ政権せいけんはバイエルンの共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん革命かくめい拠点きょてんになりうるとしてたか評価ひょうかした。このあいだ4がつ16にち当時とうじのヒトラーがレーテ代表だいひょう代理だいりえらばれており、フライコールとらえられてから連隊れんたい告発こくはつ委員いいんかい参加さんかし、カール・マイヤーによってはんボリシェヴィキ講習こうしゅうのあとドイツ労働ろうどうしゃとうにおくりこまれる。

4がつ30にち、ルイトポルト・ギムナジウムにおいて「赤軍せきぐん独裁どくさい」を宣言せんげんした23さい水兵すいへいエグルホーファーが、トゥーレ協会きょうかい会員かいいんふく人質ひとじち8にん政府せいふぐん兵士へいし2にん拷問ごうもんてにしろぐんへの報復ほうふくとして処刑しょけいした[25]捕虜ほりょ殺害さつがいほうによってはん革命かくめいぐんふるち、ミュンヘン市街しがいせん展開てんかいして、死者ししゃ660にんたっした[25]。レヴィーネはらえられ、7がつ5にち処刑しょけいされ、バイエルン革命かくめい終焉しゅうえんした。

1919ねん5月11にち、フォン・メール少将しょうしょう指揮しきバイエルンぐんだいよん集団しゅうだん編成へんせいされ、バンベルクに避難ひなんしていたバイエルン政府せいふ組織そしきわって政府せいふ状態じょうたいとなっていたミュンヘンに軍政ぐんせいいた[25]

バイエルン革命かくめいのヒトラー[編集へんしゅう]

アドルフ・ヒトラーはドイツ革命かくめいについて共産きょうさん主義しゅぎしゃとユダヤじんによる犯罪はんざいかえべたが、バイエルン革命かくめいのヒトラーは、兵士へいし評議ひょうぎかい管理かんりするぐん配属はいぞくされており、この時期じき自身じしん行動こうどうについてはなそうとはしなかった[27]

1914ねん、バイエルン王国おうこくぐんへの入隊にゅうたい志願しがんしたヒトラーはだい16予備よび歩兵ほへい連隊れんたい配属はいぞくされ、伝令でんれいへいとして従軍じゅうぐんした[28]。1916ねんソンムのたたかでヒトラーはひだり大腿だいたい負傷ふしょうし、ベーリッツ・サナトリウムに入院にゅういんしたが、療養りょうようちゅうにミュンヘンをおとずれ、人々ひとびと士気しき低下ていかや、ユダヤじん事務じむいんおおいことに衝撃しょうげきけ、前線ぜんせんではユダヤじん兵士へいしすくないとした[29]大戦たいせん末期まっきの1918ねん10がつ14にち、ヒトラーはてきぐんマスタードガス攻撃こうげきけてパーゼヴァルク病院びょういん搬送はんそうされ、そこで敗戦はいせんとドイツ革命かくめいった[30]

ヒトラーは1918ねん11月にミュンヘンにもどり、トラウンシュタイン戦争せんそう捕虜ほりょ収容しゅうようしょ看守かんしゅとして配属はいぞくされたが、収容しゅうようしょ管理かんりしていたのも兵士へいし評議ひょうぎかいだった[31]。1919ねん2がつには収容しゅうようしょ解体かいたいにともないミュンヘンにもどり、だい動員どういん解除かいじょ中隊ちゅうたい配属はいぞくされ、ミュンヘン中央ちゅうおうえき警備けいびにあたった[32]。また、所属しょぞく連隊れんたいいのちにより、ヒトラーは2がつ左翼さよく兵士へいし労働ろうどうしゃ1まんにんのデモたい参加さんかしている[33]

ヒトラーは1919ねん4がつ3にちけで所属しょぞく部隊ぶたい代表だいひょうであったという記録きろくのこっており、社会しゃかい主義しゅぎ政府せいふのプロパガンダ部門ぶもん協力きょうりょくした[27]だいレーテ共和きょうわこく宣言せんげん翌日よくじつの4がつ14にち、ミュンヘン兵士へいし評議ひょうぎかいしん政府せいふ支持しじ確認かくにんするために選挙せんきょおこなったが、ヒトラーは大隊だいたいふく代表だいひょう選出せんしゅつされた[27]。ただし、この時期じきのヒトラーについては不明ふめいてんおおく、革命かくめい指導しどうしゃエルンスト・トラーによればヒトラーは当時とうじ社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎしゃ名乗なのっており、またヒトラー自身じしんも「だれしもいち社会しゃかい民主みんしゅ主義しゅぎしゃだったことがある」と1921ねんべたことがあった[34]

軍政ぐんせいのミュンヘンで6がつにバイエルンぐんだいよん集団しゅうだんのカール・マイヤー大尉たいいつくったミュンヘン大学だいがくでのはんボルシェビキ講座こうざ参加さんかしたヒトラーはそこで才能さいのうみとめられた[25]。9月16にち、ヒトラーはアドルフ・ゲムリヒへの書簡しょかんで、ユダヤとは宗教しゅうきょうではなく人種じんしゅ問題もんだいであり、感情かんじょうてきはんユダヤ主義しゅぎはポグロムにとどまるが、理性りせいてきはんユダヤ主義しゅぎはユダヤじん権利けんり体系たいけいてき剥奪はくだつし、「最終さいしゅう目的もくてきはユダヤじん完全かんぜん排除はいじょ」にあると回答かいとうした[25]。9月後半こうはん、ヒトラーの弁論べんろんたくみさにつよ印象いんしょうけたアントン・ドレクスラーは、ヒトラーをドイツ労働ろうどうしゃとうさそい、ヒトラーは入党にゅうとうした[35]。ドイツ労働ろうどうしゃとうは1919ねん1がつ5にち、ドレクスラー、ディートリヒ・エッカートゴットフリート・フェーダーカール・ハラーによって結党けっとうされていた。

そののドイツ社会しゃかいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

だい世界せかい大戦たいせん末期まっきのイギリス外相がいしょうアーネスト・ベヴィン
さき世界せかい大戦たいせんのちに、カイザー体制たいせい崩壊ほうかいさせなかったほうが、われわれにとってはよかったとおもう。ドイツじん立憲りっけん君主くんしゅせい方向ほうこう指導しどうしたほうがずっとよかったのだ。かれらから象徴しょうちょううばってしまったがために、ヒトラーのようなおとこをのさばらせる心理しんりてき門戸もんこひらいてしまったのであるから。――1945ねん7がつ、於ポツダム会談かいだん[36]

ドイツ革命かくめいにより帝政ていせい打倒だとうされ、共和きょうわこく樹立じゅりつされたが、ドイツを世界せかい大戦たいせんみちびき、軍国ぐんこく主義しゅぎ積極せっきょくてきささえてきた帝国ていこく時代じだい支配しはいそうである軍部ぐんぶ独占どくせん資本しほんユンカーなどは温存おんぞんされた。かれらの後援こうえんによる極右きょくう勢力せいりょく右翼うよく軍人ぐんじんらの共和きょうわこく転覆てんぷく陰謀いんぼうクーデターこころみはみぎから共和きょうわこく政府せいふさぶり、一方いっぽう極左きょくさ党派とうはひだりから社会しゃかい民主党みんしゅとうの「社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃへの裏切うらぎり」をはげしく攻撃こうげきした。これら左右さゆうからの攻撃こうげきがヴァイマル共和きょうわこく政治せいじてき不安定ふあんていさの一因いちいんとなった。

左翼さよく革命かくめい反発はんぱつした右派うはは、いわゆる匕首ひしゅ伝説でんせつ流布るふさせていった。パウル・フォン・ヒンデンブルクやルーデンドルフが言明げんめいし、ヒトラーをはじめとするナチとうなどは、だいいち世界せかい大戦たいせん依然いぜんとして戦争せんそう遂行すいこう余力よりょくがあったドイツを、国内こくない社会しゃかい主義しゅぎしゃ共産きょうさん主義しゅぎしゃ、ユダヤじんとそれに支持しじされた政府せいふ裏切うらぎり、「勝手かってに」降伏ごうぶくした、もしくは「背後はいごいちとっ」をくわえたことによりドイツを敗北はいぼくへとみちびいたとするデマゴギーがまれ、はんユダヤ主義しゅぎたかまっていった[4][37]。また、人民じんみん委員いいん政府せいふのエーベルトもベルリンの帰還きかんへいまえに「いかなるてき諸君しょくんやぶれなかった」としてドイツぐん不敗ふはい神話しんわ演説えんぜつし、匕首ひしゅ伝説でんせつ拡大かくだいささえた[37]。このほか、あたらしいドイツ・ナショナリズムとしての「保守ほしゅ革命かくめい」なども展開てんかいした。ヒトラーはドイツ11月革命かくめいを「国家こっか民族みんぞくへの犯罪はんざい」として演説えんぜつかえし、レーテ共和きょうわこくすことは「背後はいごからのいちとっき」や国際こくさいユダヤじん陰謀いんぼうろん説得せっとくりょくたせることとなった[25]ハプスブルク批判ひはんしていたヒトラーはのち宮廷きゅうてい勢力せいりょくかかわらないですむようにしてくれたことだけは革命かくめいこした社会しゃかい民主党みんしゅとう感謝かんしゃするとべている[25]

ミュンヘンではレーテ共和きょうわこく革命かくめいとそれにつづ内戦ないせんは、ソ連それんとう外国がいこく共産党きょうさんとう勢力せいりょくしつけられた「恐怖きょうふ支配しはい」として住民じゅうみん記憶きおくのこった[25]。さらにドイツ全土ぜんどでも、バイエルン革命かくめいはロシアのボリシェヴィキとユダヤじんがドイツをるという見方みかたひろまり、中産ちゅうさん階級かいきゅうけの新聞しんぶんミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテンは「ロシア・ボリシェヴィズム工作こうさくいん」である共産党きょうさんとうが「つみのない人々ひとびと虐殺ぎゃくさつした」とし、これは「人道じんどう正義せいぎほうたいするつみ」であるとほうじた[25]共産きょうさん主義しゅぎへの恐怖きょうふ保守ほしゅてき中産ちゅうさん階級かいきゅう農村のうそん浸透しんとうし、ドイツの人民じんみんあいだ急進きゅうしん右翼うよく支持しじされるようになり、これ以降いこう、バイエルンははん革命かくめい巣窟そうくつとなった[25]。レーテ共和きょうわこく崩壊ほうかい、40まん兵士へいしようするバイエルン住民じゅうみん防衛ぼうえいぐん編成へんせいされた[38]。バイエルンでの右翼うよく勢力せいりょく発展はってんは、ミュンヘンでのナチス結成けっせいにつながっていった[39]

1920ねん3月13にち右派うはクーデターカップ一揆いっきがベルリンで発生はっせいした。これに対抗たいこうしたルール地方ちほう左派さは労働ろうどうしゃ蜂起ほうきした(ルール蜂起ほうき)。ルール労働ろうどうしゃ評議ひょうぎかい(レーテ)が結成けっせいされ、一部いちぶルール赤軍せきぐんとして反乱はんらんこしたが、3月から4がつにかけてヴァイマル共和きょうわ国軍こくぐんによって多数たすう犠牲ぎせいしゃして鎮圧ちんあつされた。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ドイツ革命かくめいは、フランス革命かくめいより地味じみで、社会しゃかい主義しゅぎしゃからは「裏切うらぎられた革命かくめい」とうつるが、ローベルト・ゲルヴァルト著作ちょさく史上しじょう最大さいだい革命かくめい』で、ほぼ無血むけつ革命かくめいで、極右きょくう極左きょくさ民衆みんしゅう支持しじられずに大統領だいとうりょうエーベルトらの現実げんじつ主義しゅぎ機能きのうし、家父かふちょうてき帝政ていせいから女性じょせい参政さんせいけん検閲けんえつ廃止はいし労働ろうどうしゃ権利けんり拡大かくだいなどの実現じつげん評価ひょうかして「史上しじょう最大さいだい革命かくめい」とひょうした[40]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん コトバンク. 2018ねん11月9にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e 百科ひゃっか事典じてんマイペディア コトバンク. 2018ねん11月9にち閲覧えつらん
  3. ^ a b 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ) コトバンク. 2018ねん11月9にち閲覧えつらん
  4. ^ a b ポリアコフ4,pp.416-434.
  5. ^ a b c d ドイツ 3 1997, p. 102.
  6. ^ 米本よねもと昌平しょうへい松原まつばら洋子ようこ、橳島次郎じろう市野川いちのかわようこう優生ゆうせいがく人間にんげん社会しゃかい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2007ねん7がつ、104ぺーじISBN 4-06-149511-9 
  7. ^ 米本よねもと優生ゆうせいがく』pp.103-104.
  8. ^ 米本よねもと優生ゆうせいがく』p.104.
  9. ^ 牧野まきの雅彦まさひこ, 2009 & p.24-29.
  10. ^ ドイツ 3 1997, p. 106-107.
  11. ^ a b c d e ドイツ 3 1997, p. 107.
  12. ^ a b c d e f ドイツ 3 1997, p. 108.
  13. ^ a b c d e f g ドイツ 3 1997, p. 109.
  14. ^ a b c d e f g h i j k l ドイツ 3,p.109-119.
  15. ^ 牧野まきの雅彦まさひこ, 2009 & p.53.
  16. ^ 牧野まきの雅彦まさひこ, 2009 & p.53-54.
  17. ^ 牧野まきの雅彦まさひこ, 2009 & p.56.
  18. ^ 牧野まきの雅彦まさひこ, 2009 & p.58.
  19. ^ a b 山田やまだよしあらわ 1998, pp. 1.
  20. ^ 牧野まきの雅彦まさひこ, 2009 & p.61.
  21. ^ a b 山田やまだよしあらわ 1998, pp. 2.
  22. ^ a b c d e f g h i j k 「ドイツ革命かくめい」ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん,吉田よしだ輝夫てるお「ドイツ革命かくめい日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)
  23. ^ a b c d 山田やまだよしあらわ 1998, pp. 3.
  24. ^ a b c 山田やまだよしあらわ 1998, pp. 4.
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q カーショー上巻じょうかん,p.136-150.
  26. ^ カーショー上巻じょうかん,p.138.
  27. ^ a b c カーショー上巻じょうかん,p.143.
  28. ^ カーショー上巻じょうかん,p.117-8.
  29. ^ カーショー上巻じょうかん,p.122.
  30. ^ カーショー上巻じょうかん,p.124.
  31. ^ カーショー上巻じょうかん,p.141-2.
  32. ^ カーショー上巻じょうかん,p.142.
  33. ^ カーショー上巻じょうかん,p.145.
  34. ^ カーショー上巻じょうかん,p.144.
  35. ^ #カーショーじょう,p.151-2.
  36. ^ 君塚きみづか直隆なおたか. 立憲りっけん君主くんしゅせいくに日本にっぽん――カイザーの体制たいせい崩壊ほうかいさせなかったほうが・・・”. https://synodos.jp/society/21460 2018ねん4がつ30にち閲覧えつらん 
  37. ^ a b ドイツ 3,pp.138-9.
  38. ^ カーショー上巻じょうかん,p.196-7.
  39. ^ はやし(1976) 94ぺーじ 「5 ドイツ共産きょうさん革命かくめい失敗しっぱい」 を参照さんしょう
  40. ^ 史上しじょう最大さいだい革命かくめい書評しょひょう 現実げんじつ主義しゅぎのもと民衆みんしゅう権利けんり拡大かくだい藤原ふじわらたつ) - 朝日新聞あさひしんぶん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 木村きむら, 靖二やすじ成瀬なるせ, 山田やまだ, 欣吾きんご へん『ドイツ 3』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかい歴史れきし大系たいけい〉、1997ねん7がつ 
  • 木村きむら靖二やすじ へん『ドイツ山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ世界せかい各国かっこく13〉、2001ねん8がつ 
  • はやし健太郎けんたろうりょう大戦たいせんあいだ世界せかい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ〉、1976ねん
  • 牧野まきの雅彦まさひこ『ヴェルサイユ条約じょうやく マックス・ウェーバーとドイツの講和こうわ中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ、2009ねんISBN 978-4121019806 
  • 山田やまだよしあきらドイツ革命かくめい海軍かいぐん兵士へいし最高さいこう評議ひょうぎかい」『大阪府立大学おおさかふりつだいがく紀要きよう 人文じんぶん社会しゃかい科学かがくだい40かん大阪府立大学おおさかふりつだいがく、1992ねん、1-16ぺーじdoi:10.24729/00006281ISSN 04734645NAID 120006721543 
  • イアン・カーショー『ヒトラー(うえ)1889-1936 傲慢ごうまん石田いしだ勇治ゆうじ監修かんしゅうかわ喜田きた敦子あつこやく白水しろみずしゃ、2016ねん1がつ20日はつかISBN 978-4560084489 
  • レオン・ポリアコフ『はんユダヤ主義しゅぎ歴史れきし だい4かん 自殺じさつかうヨーロッパ』菅野かんの賢治けんじ合田あいだ正人まさと監訳かんやくしょう幡谷はたや友二ともじ高橋たかはし博美ひろみ宮崎みやざきかいやく筑摩書房ちくましょぼう、2006ねん7がつISBN 978-4480861245 [原著げんちょ1977ねん]
  • 米本よねもと昌平しょうへい松原まつばら洋子ようこ、橳島次郎じろう市野川いちのかわようこう優生ゆうせいがく人間にんげん社会しゃかい講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ現代新書げんだいしんしょ〉、2007ねん7がつISBN 4-06-149511-9 

関連かんれん図書としょ[編集へんしゅう]

  • はやし健太郎けんたろう『バイエルン革命かくめい 1918-19ねん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん1がつISBN 978-4-634-64450-2 

関連かんれん作品さくひん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]