ヴァイマル共和きょうわせい

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ドイツこく
Deutsches Reich (ドイツ)
ドイツ帝国 1918ねん - 1933ねん ナチス・ドイツ
ドイツの国旗 ドイツの国章
国旗こっきくにあきら
国歌こっか: Das Lied der Deutschen(ドイツ
ドイツじんうた(1922ねん - 1933ねん
ドイツの位置
1930ねんのヴァイマル共和きょうわせい
公用こうよう ドイツ
宗教しゅうきょう 1925ねん調査ちょうさ[1]
首都しゅと ベルリン
大統領だいとうりょう
1919ねん2がつ11にち - 1925ねん2がつ28にち フリードリヒ・エーベルト
1925ねん5がつ12にち - 1934ねん8がつ2にちパウル・フォン・ヒンデンブルク
首相しゅしょう
1919ねん2がつ13にち - 6がつ20日はつかフィリップ・シャイデマン
1933ねん1がつ30にち - 1934ねん8がつ3にちアドルフ・ヒトラー
面積めんせき
1925ねん468,787km²
人口じんこう
1925ねん62,411,000にん
変遷へんせん
共和きょうわこく宣言せんげん帝政ていせい廃止はいし 1918ねん11月9にち
ヴァイマル憲法けんぽう制定せいてい1919ねん8がつ11にち
ヒトラー内閣ないかく成立せいりつ1933ねん1がつ30にち
全権ぜんけん委任いにんほう成立せいりつ1933ねん3がつ23にち
ヒトラーが総統そうとう就任しゅうにん1934ねん8がつ3にち
通貨つうかパピエルマルク(1919ねん - 1923ねん
レンテンマルク(1923ねん - 1924ねん
ライヒスマルク(1924ねん - 1933ねん
時間じかんたいUTC +1(DST: +1)
ドイツの歴史れきし
ドイツの国章
あずまフランク王国おうこく
かみきよしマ帝国まていこく
プロイセン王国おうこく ライン同盟どうめい諸国しょこく
ドイツ連邦れんぽう
きたドイツ連邦れんぽう 南部なんぶ諸国しょこく
ドイツ帝国ていこく
ヴァイマル共和きょうわせい
ナチス・ドイツ
連合れんごうぐん軍政ぐんせい
ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく
ひがしドイツ)
ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく
西にしドイツ)
ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく
ワイマール共和きょうわせい自治体じちたい

ヴァイマル共和きょうわせい(ヴァイマルきょうわせい、ドイツ: Weimarer Republik)は、せんあいだドイツ存在そんざいした共和きょうわ政体せいたいである。政治せいじ体制たいせいは1919ねん8がつ制定せいてい公布こうふされたヴァイマル憲法けんぽうもとづいている。ヴァイマル共和きょうわこく、ワイマール共和きょうわせい、ワイマール共和きょうわこく、ドイツ共和きょうわこくなどともしょうされるが、正式せいしき国号こくごうドイツこくドイツ: Deutsches Reich)である。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ヴァイマル共和きょうわせいにおける正式せいしき国号こくごうは、ドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうなどが提案ていあんし、のち日本にっぽんはじ他国たこく言語げんごでの翻訳ほんやくでも実際じっさいおおもちいられた「ドイツ共和きょうわこくDeutsche Republik)」が1919ねん国会こっかい拒否きょひされたため、帝政ていせい時代じだいからの正式せいしき国号こくごうである「ドイツこくDeutsches Reich[2]ドイチェス・ライヒ)」がつづもちいられた[3]首都しゅと帝政ていせい時代じだいおなじくベルリンであり、ヴァイマル首都しゅとであったわけではない。

憲法けんぽう社会しゃかい政策せいさくだいいち世界せかい大戦たいせん賠償ばいしょう両面りょうめん財源ざいげん確保かくほすべく、独占どくせんにより産業さんぎょう合理ごうり推進すいしんした。合理ごうりのため、アメリカイギリスフランスから巨額きょがく短期たんき資本しほん導入どうにゅうし、銀行ぎんこう長期ちょうきしをおこなった。世界せかい恐慌きょうこうこるやいな短資たんし流出りゅうしゅつしてしまい、その支払しはらいのため発行はっこうされた手形てがたさい割引わりびきにされた。こうしてライヒスバンクは、1930ねんから1932ねんにかけて、地金じがね外貨がいか準備じゅんびの1/3をうしなった。失業しつぎょうしゃかずは1929ねんあきやく200まんから翌年よくねんあきばいの400まんとなり、1932ねんなつに600まんとなった。失業しつぎょう保険ほけん過酷かこく受給じゅきゅう要件ようけんが、1932ねん平均へいきん受給じゅきゅうしゃ割合わりあいを2わりおさえた[4][5]

1924-1930ねん(この記事きじでいう合理ごうり景気けいき時代じだい)にNY市場いちば発行はっこうされたドルだて外債がいさいは、ドーズ公債こうさいヤング公債こうさいしゅ幹事かんじであったJPモルガンをはじめとして、しょくにさいブラウン・ブラザーズ・ハリマンシティバンクゴールドマン・サックスディロン・リード発行はっこうされていた[6]

沿革えんかく[編集へんしゅう]

以下いかしゅとしてはやし健太郎けんたろうの『ワイマル共和きょうわこく』(中公新書ちゅうこうしんしょ、1963ねん)の記述きじゅつっているが、このほんかれた時代じだいふるい。そのため、『ドイツ』3(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1993ねん)で指摘してきされているように[7]現在げんざいでは史実しじつかんして部分ぶぶんてき訂正ていせい必要ひつようである。

革命かくめい[編集へんしゅう]

だいいち世界せかい大戦たいせんによる市民しみん生活せいかつ悪化あっか首都しゅとベルリンにおけるドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうといった左派さは影響えいきょうりょく拡大かくだいさせた。1917ねんごろからはストライキが頻繁ひんぱんこるようになり、1918ねんベルリン発生はっせいしただい規模きぼなストライキは参加さんかしゃ40まんにんにもおよんだ[8]。さらに1918ねん3がつ春季しゅんき攻勢こうせい失敗しっぱい以降いこう戦線せんせん崩壊ほうかいは、政府せいふ関係かんけいしゃ軍部ぐんぶにも敗戦はいせん覚悟かくごさせた。9月29にちには参謀さんぼう総長そうちょうパウル・フォン・ヒンデンブルク参謀さんぼう次長じちょうエーリヒ・ルーデンドルフ連名れんめい休戦きゅうせん受諾じゅだくと、議会ぎかい立脚りっきゃくするしん政府せいふ成立せいりつもとめた書簡しょかん提出ていしゅつした[9]。しかしおおくの国民こくみん前線ぜんせん兵士へいし敗戦はいせんかんがえていなかった[9]。その理由りゆうの1つは、長期ちょうきにわたって戦線せんせん膠着こうちゃくしていたもののドイツの戦線せんせん後退こうたいが1918ねんの7がつまでなかったことがあげられる[10]。また、重要じゅうようべつ原因げんいんは、軍部ぐんぶ情報じょうほう統制とうせいおこなって、戦争せんそう先行さきゆきに悲観ひかんてき情報じょうほう国民こくみんらせないようにしていたことにもあった[9]

この書簡しょかんけてゲオルク・フォン・ヘルトリング内閣ないかくそう辞職じしょくし、マクシミリアン・フォン・バーデンしん首相しゅしょうとなった[11]。マクシミリアンないかく閣僚かくりょう社会しゃかい民主党みんしゅとう中央ちゅうおうとう進歩しんぽ人民じんみんとうの3とう議員ぎいん構成こうせいしており、ドイツ帝国ていこく最初さいしょ政党せいとうないかくといえるものであった[11]。マクシミリアンはこの内閣ないかく成立せいりつ基礎きそとしてアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領だいとうりょう交渉こうしょうしたが、ウィルソンはドイツの民主みんしゅ不十分ふじゅうぶん、すなわち皇帝こうていヴィルヘルム2せい退位たいいドイツばん英語えいごばん必要ひつようであるとして拒否きょひした[12]

このころから皇帝こうてい退位たいいもとめるこえたかまりはじめ、11月3にちにはキールにおいて水兵すいへい反乱はんらんこし、翌日よくじつまちレーテろうへい協議きょうぎかい)によって掌握しょうあくされた[13]。その次々つぎつぎ各地かくち反乱はんらんき、11月7にちにはミュンヘン革命かくめい政権せいけん成立せいりつしてバイエルンおうルートヴィヒ3せい退位たいいした[14]社会しゃかい民主党みんしゅとう皇帝こうてい退位たいいければ事態じたい収拾しゅうしゅうできないと主張しゅちょうしたため、11月9にちにマクシミリアン首相しゅしょう皇帝こうてい退位たいい独断どくだん宣言せんげん首相しゅしょう社会しゃかい民主党みんしゅとう党首とうしゅフリードリヒ・エーベルトゆずった[15]。エーベルトは穏健おんけん立憲りっけん君主くんしゅせい政府せいふ目指めざしていたが、一方いっぽう、かねてから戦争せんそう反対はんたいしていた独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう急進きゅうしんてきな2カール・リープクネヒトローザ・ルクセンブルクひきいられたスパルタクスだんと、労働ろうどう組合くみあい組織そしき基盤きばんとする革命かくめいてきオプロイテ革命かくめい目指めざし、しん政府せいふ樹立じゅりつねらっていた[16]同日どうじつ午後ごご2ごろ、このうごきを察知さっちした社会しゃかい民主党みんしゅとう幹部かんぶフィリップ・シャイデマンは、議会ぎかいまえあつまった群衆ぐんしゅうに、独断どくだん共和きょうわせい樹立じゅりつ宣言せんげんした[17]。エーベルト首相しゅしょうは「なん権限けんげんがあって共和きょうわせい宣言せんげんをしたのか」とシャイデマンを叱責しっせきしたが、すでに帝政ていせい復活ふっかつおこなえる情勢じょうせいではなかった[18]

人民じんみん委員いいんかい会議かいぎ[編集へんしゅう]

ドイツの歴史れきし
ドイツの国章
あずまフランク王国おうこく
かみきよしマ帝国まていこく
プロイセン王国おうこく ライン同盟どうめい諸国しょこく
ドイツ連邦れんぽう
きたドイツ連邦れんぽう 南部なんぶ諸国しょこく
ドイツ帝国ていこく
ヴァイマル共和きょうわせい
ナチス・ドイツ
連合れんごうぐん軍政ぐんせい
ドイツ民主みんしゅ共和きょうわこく
ひがしドイツ)
ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく
西にしドイツ)
ドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく

共和きょうわせい宣言せんげん社会しゃかい民主党みんしゅとう独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうたいして政府せいふ構築こうちくへの協力きょうりょくもとめた[19]独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう主導しゅどうけんにぎったリープクネヒトは社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく成立せいりつとレーテによる三権さんけん掌握しょうあく、ブルジョア分子ぶんし政府せいふないからの排除はいじょなどの6ケ条かじょう主張しゅちょうしたが、社会しゃかい民主党みんしゅとうは、国民こくみん議会ぎかいによる選挙せんきょ必要ひつようであること、レーテの全権ぜんけん掌握しょうあく独裁どくさい意味いみ民主みんしゅ主義しゅぎはんすること、緊急きんきゅう事態じたいにある現在げんざい政府せいふないからブルジョア分子ぶんしをすべて排除はいじょすることには反対はんたいであると回答かいとうした[19]。11月10にち独立どくりつ民主党みんしゅとう穏健おんけん強硬きょうこう除外じょがいした会議かいぎひらき、条件じょうけん撤回てっかいして政府せいふ参加さんかめた[20]。この政府せいふ人民じんみん委員いいんかい会議かいぎドイツばんという名称めいしょうがつけられ[21]議長ぎちょうつねにエーベルトが就任しゅうにんするなど社会しゃかい民主党みんしゅとう主導しゅどう政府せいふとなった[22]一方いっぽうでスパルタクスだんとオプロイテは革命かくめい政権せいけん樹立じゅりつ目指めざし、活発かっぱつ活動かつどうした。

この10日とおか深夜しんやから、参謀さんぼう次長じちょうヴィルヘルム・グレーナーとエーベルトのあいだ頻繁ひんぱん連絡れんらくおこなわれはじめた[23]。エーベルトは革命かくめいおさえ、ドイツを安定あんていさせるためにはぐん必要ひつようであるとかんがえており、グレーナーもまたしん政府せいふ安定あんていのぞんでいた。二人ふたりあいだには密約みつやくドイツばんむすばれ、ぐんしん政府せいふ協力きょうりょくすることになった[23]

11月11にちコンピエーニュのもり連合れんごうぐんとドイツの休戦きゅうせん協定きょうてい調印ちょういんされた[24]社会しゃかい民主党みんしゅとう国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょもとめたが、レーテ独裁どくさいによる社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけんねらうスパルタクスだんとオプロイテはこれに反対はんたいした。急進きゅうしんはベルリンのレーテを掌握しょうあくし、さらに全国ぜんこくのレーテにびかけて革命かくめいをもくろんだが、各地かくちのレーテははん政府せいふてき意図いと蜂起ほうきしたのではなく、厭戦えんせん感情かんじょうもとづくものであった[25]。このため、12月16にちから21にちひらかれたレーテの全国ぜんこく大会たいかいひらかれたが、急進きゅうしんはボイコット、レーテの主導しゅどうけん社会しゃかい民主党みんしゅとうによってにぎられることになった[26]。この大会たいかい国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょを1919ねん1がつ19にち開催かいさいすることまり、急進きゅうしん路線ろせん敗北はいぼくした[26]。しかしこの全国ぜんこく大会たいかいではぐん階級かいきゅう解消かいしょうと、兵士へいしによる将校しょうこう選挙せんきょ決議けつぎされ、ぐんはこれに反発はんぱつした[23]。この決議けつぎはグレーナーとレーテ中央ちゅうおう委員いいんかい協議きょうぎによって先送さきおくりされることになったが、独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう不満ふまんち、政府せいふ結束けっそくみだはじめた[27]

このころベルリンには社会しゃかい民主党みんしゅとうオットー・ヴェルスベルリンぐん司令しれいかん指揮しきにある「共和きょうわこく防衛ぼうえいたい」という軍事ぐんじ組織そしきがあったが弱体じゃくたいであり、ベルリン警視総監けいしそうかん就任しゅうにんした独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうエミール・アイヒホルンドイツばん組織そしきした「保安ほあんたい」、王宮おうきゅう占拠せんきょしていた「人民じんみん海兵かいへいだんドイツばん」といったふたつの組織そしき存在そんざい政権せいけん不安定ふあんてい要因よういんとなった[28]。12月23にち王宮おうきゅう略奪りゃくだつおこなった人民じんみん海兵かいへいだんポツダムからせたぐんめいじて攻撃こうげきさせた(人民じんみん海兵かいへいだん事件じけん[29]。この事件じけん反発はんぱつして独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう(ハーゼ、ディットマン、バルトの3にん)は政府せいふから離脱りだつした[30]。しかしこの鎮圧ちんあつ最中さいちゅうぐん群集ぐんしゅうによって武装ぶそう解除かいじょされる事件じけんこり、ぐん無力むりょくしたという印象いんしょう人々ひとびとあたえることになった[31]

1月蜂起ほうき[編集へんしゅう]

12月30にち、スパルタクスだんカール・ラデックらのグループをくわえてあらたな政党せいとう「ドイツ共産党きょうさんとう・スパルタクスだん」を結成けっせいした[32]。これが出発しゅっぱつてんとなってのちドイツ共産党きょうさんとうまれる[32]。しかし敗戦はいせん急速きゅうそく規模きぼ拡大かくだいしたどうとうで、スパルタクスだん勢力せいりょく限定げんていてきとなり、さらに急進きゅうしんてき意見いけん主流しゅりゅうめるようになった。ルクセンブルクらが反対はんたいしたにもかかわらず国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょのボイコットをめ、暴力ぼうりょく革命かくめい路線ろせんあゆことになった[33]。オプロイテはこの急進きゅうしんてき路線ろせん反発はんぱつして共産党きょうさんとう参加さんかしなかった[34]。1919ねん1がつ5にち、ベルリン警視総監けいしそうかんアイヒホルンの解任かいにんをきっかけに、参加さんかしゃ20まんにんにもおよんだだい規模きぼなデモが発生はっせいした[34]。リヒャルト・ミュラーらのオプロイテ幹部かんぶ反対はんたいしたにもかかわらず、リープクネヒトやレーデブール(独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう長老ちょうろう)はこのデモを利用りようして暴動ぼうどうこそうと計画けいかくし、革命かくめい委員いいんかい設立せつりつした[34]よく1がつ6にち、ベルリンではゼネストがはじまり、前日ぜんじつ以上いじょう参加さんかしゃによるだい規模きぼなデモが発生はっせいした[35]。これは暴力ぼうりょく革命かくめいへの一大いちだいチャンスではあったが、昨日きのうのデモでぐん労働ろうどうしゃがわ呼応こおうしてとうとしなかったため、革命かくめい委員いいんかいはデモ以上いじょう行動こうどうをとることをひかえた[35]。これにより、革命かくめいへのみちざされてしまった[35]

一方いっぽう同日どうじつ、エーベルトはグスタフ・ノスケ国防こくぼうしょう最高さいこう指揮しきけんあたえた[36]。ノスケはきゅう軍人ぐんじん組織そしきした武装ぶそう組織そしきドイツ義勇軍ぎゆうぐん(フライコール)の編成へんせい着手ちゃくしゅしたほか、ポツダムそのから軍隊ぐんたい[37]、1がつ9にちから鎮圧ちんあつはじまった。革命かくめい次第しだい鎮圧ちんあつされ、12にちには大勢おおぜいまった[38]。1月15にちにはルクセンブルクとリープクネヒトが市内しないかくひそんでいたところを逮捕たいほされ、連行れんこうされる途中とちゅう惨殺ざんさつされた[38]。これ以降いこう、フライコールの勢力せいりょくはドイツを左右さゆうするおおきなちからであると認識にんしきされた。

ヴァイマル憲法けんぽう成立せいりつ[編集へんしゅう]

ヴェルサイユ条約じょうやくによるドイツの割譲かつじょう地域ちいき

1がつ19にち予定よていどお国民こくみん議会ぎかい選挙せんきょおこなわれた[39]共産党きょうさんとうはボイコットしたものの、投票とうひょうりつは82.7%と高率こうりつだった[40]結果けっかは、社会しゃかい民主党みんしゅとう(163議席ぎせき)・中央ちゅうおうとう(91議席ぎせき)・民主党みんしゅとう(75議席ぎせき)が多数たすうめた[40]

2がつ6にちからヴァイマル国民こくみん議会ぎかい開催かいさいされ[40]2がつ11にち大統領だいとうりょう選挙せんきょドイツばん英語えいごばんエーベルト臨時りんじ大統領だいとうりょう選出せんしゅつされた[40]つづいて、社会しゃかい民主党みんしゅとう中央ちゅうおうとう民主党みんしゅとうによる連立れんりつ政府せいふ形成けいせいされ、シャイデマン首相しゅしょう指名しめい、2がつ13にち、シャイデマン政権せいけん成立せいりつした[41][42]。これら3とうぜん議席ぎせきすうの8わりめ、きわめて安定あんてい政権せいけんだった[41]。この3とうによる連合れんごうヴァイマル連合れんごうドイツばんばれる[41]

しん政府せいふがまずなすべきことはしん憲法けんぽう制定せいていだった[41]憲法けんぽう草案そうあんはエーベルト大統領だいとうりょう委嘱いしょくけ、内相ないしょうプロイスのもとで作成さくせいされ[ちゅう 1]議会ぎかいほん会議かいぎ委員いいんかいでの討論とうろん若干じゃっかん修正しゅうせいのち、7がつまつほん会議かいぎ圧倒的あっとうてき多数たすう賛成さんせい可決かけつされた[41]。このしん憲法けんぽうヴァイマル憲法けんぽう (WRV: Weimarer Reichsverfassung) である[41]。ヴァイマル憲法けんぽうは8がつ11にち公布こうふされた。この憲法けんぽうにおいて大統領だいとうりょう権限けんげんつよ共和きょうわせい、ドイツ帝国ていこくしょくにもとにしたしゅう(ラント)による連邦れんぽうせい基本きほんてき人権じんけん尊重そんちょうさだめられた。これが法制ほうせいにおける人権じんけん概念がいねん萌芽ほうがとされており、のち制定せいていされた日本国にっぽんこく憲法けんぽうにも影響えいきょうあたえている。

一方いっぽう、ドイツがあたらしい議会ぎかいしん憲法けんぽう制定せいてい邁進まいしんしているあいだにも、国外こくがいでは連合れんごうこくパリ講和こうわ会議かいぎにおいて講和こうわ条約じょうやく策定さくていしていた。連合れんごうこくあいだ折衝せっしょうは4月で完了かんりょうし、講和こうわ条件じょうけんをドイツ代表だいひょうだん提示ていじした[44]。この講和こうわ条約じょうやく慣例かんれいことなり、敗戦はいせんこくのドイツをまったくきにして講和こうわ条件じょうけんめられたほかに、戦争せんそう責任せきにんはもっぱらドイツとその同盟どうめいこくにあると断定だんてい巨額きょがく賠償金ばいしょうきんをドイツにしていた[44]。また、戦争せんそう責任せきにんしゃ連合れんごうこくわたすという前例ぜんれいのない条件じょうけんくわえられていた[45]

講和こうわ条件じょうけん過酷かこくさにドイツでは連合れんごうこくたいする非難ひなんれたが、戦争せんそう継続けいぞくする余力よりょくがドイツにない以上いじょう受諾じゅだくする以外いがいのこされていなかった[45]。6月22にち、ドイツは議会ぎかい講和こうわ条約じょうやく承認しょうにんした[45]。しかし、シャイデマン首相しゅしょう条約じょうやく内容ないよう絶対ぜったいてき反対はんたいであったため1919ねん6がつ20日はつか辞任じにん議会ぎかいあらたにグスタフ・バウアーしん首相しゅしょうえらび、よく21にち発足ほっそくした新内しんないかくのもとで講和こうわ条約じょうやく処理しょりおこなわれた[46][47]。6月28にち新内しんないかく外相がいしょうだったヘルマン・ミュラー全権ぜんけんとして、ドイツと連合れんごうこくとのあいだで、ヴェルサイユ宮殿きゅうでんかがみあいだ講和こうわ条約じょうやくヴェルサイユ条約じょうやく)がむすばれた[46]。このヴェルサイユ条約じょうやくで、ラインラントへの連合れんごうぐん駐屯ちゅうとん陸軍りくぐんは10まんにん上限じょうげんとするなどの軍備ぐんび制限せいげん植民しょくみんエルザス=ロートリンゲンうえシュレージエンなどの割譲かつじょうザール地方ちほう国際こくさい連盟れんめいによる管理かんり、ダンツィヒ(げんグダニスク)の自由じゆう都市としなどの領土りょうど削減さくげんおこなわれた。また経済けいざいめんでも連合れんごうこくがわ管理かんり機関きかんがドイツに設置せっちされることになり、飛行機ひこうき開発かいはつ民間みんかん航空こうくう禁止きんしされた。そして戦争せんそう責任せきにんはドイツにあることがさだめられた。なかでもドイツをくるしめることになるのが、多額たがくとなるとられる賠償金ばいしょうきんであった。この条約じょうやくはドイツ国民こくみん屈辱くつじょくあたえ、ヴァイマル政府せいふたいする反感はんかんもととなった。

左右さゆうからの攻撃こうげき[編集へんしゅう]

戦時せんじちゅう大量たいりょう発行はっこうされた戦時せんじ公債こうさい償還しょうかん軍人ぐんじん復員ふくいんなどの膨大ぼうだい出費しゅっぴ、そして産業さんぎょう停滞ていたいによる税収ぜいしゅうげん政府せいふ財政ざいせい圧迫あっぱくしていた。バウアーないかく戦時せんじ利得りとくしゃ富裕ふゆうそう税金ぜいきんをかけることでおぎなおうとしたが、右派うは抵抗ていこうにあって実現じつげんしなかった。政府せいふ紙幣しへい増発ぞうはつおこなうことで対処たいしょしようとしたため、次第しだいインフレーションすすんでいった。

インフレと不況ふきょう国民こくみん生活せいかつ困窮こんきゅう混乱こんらんまねき、左派さは勢力せいりょくによるストライキや暴動ぼうどう頻発ひんぱつした。4がつはじめにはクルト・アイスナー独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう)がひきいるバイエルンしゅう政府せいふ共産党きょうさんとうによってたおされ(厳密げんみつうと、最初さいしょしゅう政府せいふたおしたのは政府せいふ主義しゅぎ極左きょくさであり、その時点じてんではドイツ共産党きょうさんとう政府せいふ参加さんかしなかった。しかし、民心みんしん掌握しょうあく失敗しっぱいしたとるや1週間しゅうかんには共産党きょうさんとう革命かくめいこしてみずか政権せいけんをとった)、バイエルン・レーテ共和きょうわこく成立せいりつした[48]。ノスケ国防こくぼうしょうはフライコール、とくエアハルト海兵かいへい旅団りょだんフランツ・フォン・エップ将軍しょうぐんエップ義勇軍ぎゆうぐん派遣はけんし、鎮圧ちんあつさせた。フライコールは共産きょうさん政権せいけん指導しどうしゃだけでなく無辜むこ市民しみんをも虐殺ぎゃくさつしたが、共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけんがわでも敗北はいぼく以前いぜん人質ひとじちとしてとらえていたもの銃殺じゅうさつするなどとも暴力ぼうりょくてき行動こうどうをとった[49]。もともと保守ほしゅおおかったバイエルンしゅう短期間たんきかんとはいえ共産きょうさん主義しゅぎ政権せいけん成立せいりつしたことは国民こくみん共産きょうさん主義しゅぎたいする嫌悪けんおかんつのらせ、さらなる右傾うけいまねき、おおくの右派うは団体だんたい政党せいとう土壌どじょうとなる[50]とくにバイエルンに駐屯ちゅうとんした軍隊ぐんたい右翼うよく運動うんどう温床おんしょうになった[50]連合れんごうこくはフライコールの解散かいさんもとめ、政府せいふ禁止きんしれいしたため1920ねんごろから解散かいさんはじまった。しかし、軍事ぐんじりょく維持いじするぐん政府せいふ支援しえん黙認もくにんにより、一部いちぶのフライコールは偽装ぎそう団体だんたい移行いこうして組織そしき勢力せいりょく温存おんぞんした。

背後はいごいちとっ伝説でんせつ戯画ぎが。シャイデマンとエルツベルガーが兵士へいし背中せなかそうとしている

このころ国民こくみん議会ぎかいではドイツ敗戦はいせん責任せきにん究明きゅうめいするための調査ちょうさ委員いいんかいひらかれており、おおくの証言しょうげんしゃ喚問かんもんされていた[51]。11月、証言しょうげんだいったヒンデンブルクは、ドイツ帝国ていこくは「背後はいごから匕首ひしゅあいくち(ドイツ革命かくめい)でされた」と発言はつげんした[51]。もちろん、この証言しょうげん事実じじつはんすることはあきらかで、実際じっさいにはドイツ革命かくめいのおこる3ケ月かげつまえにルーデンドルフが戦局せんきょく絶望ぜつぼうてきであると言明げんめいしている[51]。この発言はつげんはドイツの「突然とつぜん敗北はいぼく」に不審ふしんいていた人々ひとびと左派さは暴動ぼうどう不満ふまんいていた人々ひとびとあいだに、ドイツ帝国ていこく内部ないぶからの裏切うらぎりによって敗北はいぼくしたのだという「背後はいごいちとっ伝説でんせつひろめることとなった[51]。そして、以後いご、この伝説でんせつ右翼うよく勢力せいりょくにさんざん利用りようされることになる[51]

カップ一揆いっきでベルリンに進軍しんぐんしたエアハルト旅団りょだん

1920ねん3がつ13にちには右派うは政治せいじヴォルフガング・カップとエアハルト海兵かいへい旅団りょだんがベルリンへの進軍しんぐん開始かいしした(カップ一揆いっき)。ノスケ国防こくぼうしょう国軍こくぐん鎮圧ちんあつめいじたが、陸軍りくぐん軍務ぐんむ局長きょくちょうハンス・フォン・ゼークトは「ぐんぐんたない」と主張しゅちょうして出動しゅつどう命令めいれい拒否きょひした[52]。やむなく政府せいふドレスデン、さらにシュトゥットガルト避難ひなんし、カップはしん政府せいふ樹立じゅりつ宣言せんげんした[53]。しかし、ベルリンからの退去たいきょにあたってバウアー政権せいけん官僚かんりょう国民こくみんたいしてゼネストびかけ、カップの政府せいふ機能きのうしなくなった[52]当初とうしょ、カップはバウアー政権せいけん妥協だきょうしようとしたが完全かんぜん拒絶きょぜつされ、なすすべのなくなったカップは3がつ17にち首相しゅしょうを「辞任じにんする」との声明せいめいしてベルリンから逃亡とうぼう一揆いっき終結しゅうけつした[54]。しかし、ゼネストを主導しゅどうしたぜんドイツ労働ろうどう組合くみあい同盟どうめい責任せきにんしゃ処罰しょばつ内閣ないかく交代こうたいとう6項目こうもくもとめ、ゼネストを解除かいじょしなかった[55]政府せいふはこの条件じょうけん受諾じゅだくし、1920ねん3がつ26にち、バウアー首相しゅしょう退陣たいじんよく27にち外相がいしょうだったヘルマン・ミュラー首班しゅはんとするだい1ミュラー政権せいけん発足ほっそく、ノスケも国防こくぼうしょう解任かいにんされた(後任こうにんオットー・ゲスラー民主党みんしゅとう〉)[56][47]。かわってぐん実権じっけんにぎったのは、そう司令しれいかん就任しゅうにんしたゼークトであった[57]。ゼークトはぐん政治せいじてき中立ちゅうりつ標榜ひょうぼうすることで政府せいふぐんたいする干渉かんしょう排除はいじょ国防こくぼうぐん次第しだい政府せいふちからおよばない「国家こっかない国家こっか」へと変貌へんぼうしていった[58]

この当時とうじはまだ中央ちゅうおう政府せいふ影響えいきょうりょくおよばない地方ちほう各地かくちのこっており、そのような地域ちいきではごく左派さは活動かつどう活発かっぱつだった[59]極左きょくさ目標もくひょう共産きょうさん主義しゅぎ革命かくめいつうじた労働ろうどうしゃ階級かいきゅうによる独裁どくさいだったから、かれらの活動かつどう民主みんしゅ主義しゅぎいちじるしくきずつけることになった[60]。カップ一揆いっきルール蜂起ほうきをはじめとする左派さは蜂起ほうきとそれにたいするぐん弾圧だんあつ頻発ひんぱつし、社会しゃかい民主党みんしゅとう政府せいふ徐々じょじょ支持しじうしなっていった。6月6にちおこなわれた最初さいしょ国会こっかい選挙せんきょ社会しゃかい民主党みんしゅとうをはじめとするヴァイマル連合れんごう勢力せいりょく退潮たいちょうし、左派さは独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう右派うはドイツ国家こっか人民じんみんとうドイツ人民じんみんとうおおきく議席ぎせきばした[61]社会しゃかい民主党みんしゅとう選挙せんきょまえっていた議席ぎせきの3ぶんの1以上いじょううしない、6月8にちミュラー首相しゅしょう辞任じにん社会しゃかい民主党みんしゅとう人民じんみんとうとの協力きょうりょく拒否きょひしたため、6月25にち中央ちゅうおうとう民主党みんしゅとう人民じんみんとうの3とうによるコンスタンティン・フェーレンバッハ内閣ないかく成立せいりつした[61][47]。10月には独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとうコミンテルンへの参加さんかをめぐって分裂ぶんれつし、一部いちぶ共産党きょうさんとううつった[62]

1921ねん3がつ共産党きょうさんとうはコミンテルンのクン・ベーラ指導しどうによって中部ちゅうぶドイツのマンスフェルト占領せんりょうする中部ちゅうぶドイツにおける1921ねん3がつ行動こうどうドイツばんこした。この一揆いっきぐんによってただちに鎮圧ちんあつされたが、ドイツ共産党きょうさんとうたいするコミンテルンの支配しはいつよまっていった。

賠償金ばいしょうきんへの不満ふまん[編集へんしゅう]

1922ねん6がつ27にち国会こっかいおこなわれたラーテナウの葬儀そうぎ

ヴェルサイユ条約じょうやくによってドイツにされた賠償金ばいしょうきん総額そうがくめる賠償ばいしょう会議かいぎは1920ねん初頭しょとう以来いらいなんひらかれてきたが、最終さいしゅうてきに1921ねん3がつからおこなわれたロンドン会議かいぎにおいて決定けっていされた[63]。その金額きんがくは1320おくきんマルク、具体ぐたいてきには毎年まいとし20おくマルクと輸出ゆしゅつがくの26%を[63]30年間ねんかん支払しはら方式ほうしきによる返済へんさいさだめられた。さらに、そのうちの最初さいしょの10おくマルクを25にち以内いない支払しはらえとドイツに通告つうこくしてきた[63]。1921ねん5がつ4にち、フェーレンバッハは受諾じゅだく不可能ふかのうとして辞職じしょくし、かわって5がつ10日とおか就任しゅうにんしたヨーゼフ・ヴィルト中央ちゅうおうとう)のもとで受諾じゅだくされた[63][64]。ヴィルト政権せいけんでは、人民じんみんとうわりに社会しゃかい民主党みんしゅとうはいったのでワイマル連合れんごう復活ふっかつした[63]。なお、10月22にちだい1ヴィルトないかく辞職じしょくしたが、内閣ないかく改造かいぞう同月どうげつ26にちだい2ヴィルトないかく成立せいりつしている[64]

ヴィルトは条約じょうやく遵守じゅんしゅする「履行りこう政策せいさく」をとって連合れんごうこく信頼しんらいようとした[63]。しかしこの莫大ばくだい賠償金ばいしょうきんはドイツの経済けいざいくるしめ、さらにヴェルサイユ条約じょうやくへの不満ふまんつよめることになった。3月20にちにはオーバーシュレジエン地方ちほう帰属きぞくをめぐる住民じゅうみん投票とうひょうおこなわれ、ドイツ帰属きぞく多数たすう(60%以上いじょう)をめた[65]。しかしポーランド帰属きぞく反対はんたいして暴動ぼうどうこし、両国りょうこくあいだ戦闘せんとうこった(シレジア蜂起ほうき[66]国際こくさい連盟れんめいはオーバーシュレジエンを分割ぶんかつして解決かいけつすることにしたが、地下ちか資源しげん産出さんしゅつをポーランドにれるように線引せんひきしたため、ドイツじん多数たすうめる地方ちほうもポーランドりょうとなった[66]。これはドイツ国民こくみんのヴェルサイユ体制たいせいへの反感はんかんをさらにたかめさせた[66]。8月には休戦きゅうせん協定きょうてい署名しょめいし、バウアーないかく蔵相ぞうしょうつとめたマティアス・エルツベルガーがエアハルト旅団りょだんながれをくむ極右きょくうテロ組織そしきコンスルによって暗殺あんさつされた[67]。エルツベルガーは、戦時せんじちゅう平和へいわ決議けつぎ提唱ていしょうしたこと、コンピエーヌの休戦きゅうせん条約じょうやく調印ちょういんしたこと、だい1大戦たいせん戦時せんじ利得りとくしゃ大幅おおはば課税かぜいをしたことなどのために右翼うよくから憎悪ぞうお対象たいしょうにされていた[67]。そして、なによりユダヤじんであったことからはんユダヤ主義しゅぎ根付ねついていた右翼うよく勢力せいりょく暗殺あんさつ対象たいしょうにされたのである[67]

一方いっぽう連合れんごうこくあいだでも賠償金ばいしょうきん支払しはらい方法ほうほうについては議論ぎろんがあり、とくにイギリス首相しゅしょうロイド・ジョージはドイツ経済けいざい破綻はたんとそれにつづ共産きょうさん革命かくめいおそれていた[68]。1922ねんなって賠償ばいしょう支払しはらいのさい検討けんとうおこなわれ、カンヌ会議かいぎ(1がつ)やジェノア会議かいぎ(4がつ - 5がつ)において議論ぎろんされた[68]。ジェノア会議かいぎにはドイツのヴァルター・ラーテナウ外相がいしょう出席しゅっせきみとめられ、またソビエト連邦れんぽうゲオルギー・チチェーリン参加さんかした[68]。この会議かいぎちゅうにラーテナウとチチェーリンは協議きょうぎし、4がつ16にちにはソビエト政権せいけん承認しょうにんどく双方そうほう賠償ばいしょう債務さいむ放棄ほうきさだめたラパッロ条約じょうやく締結ていけつされた[69]。これはポーランドとの紛争ふんそうかかえていた両国りょうこく利害りがい一致いっちしたこと、またきゅう帝政ていせい時代じだい債務さいむ返済へんさい拒否きょひしようとするソビエトと、ソビエトへの賠償ばいしょう支払しはらいによる賠償金ばいしょうきん増加ぞうかおそれたドイツの利害りがい一致いっちしたものである[70]。またゼークトはヴェルサイユ条約じょうやく軍備ぐんび制限せいげんからのがれるために、ソビエトぐん秘密ひみつ協定きょうていむすび、ソビエトぐん再建さいけん支援しえんするとともに、ロシアにおいて秘密ひみつ訓練くんれん兵器へいき生産せいさんおこなった[71]ぐん外務省がいむしょうにはソ連それんむすぶことで西側にしがわ連合れんごうこく対抗たいこうしようとするひがし政策せいさく志向しこうするうごきがあり、ソ連それんとの連絡れんらくはラデックをつうじてひそかにおこなわれていた[72]

ラーテナウは賠償金ばいしょうきん減額げんがくのためにあえてひがし政策せいさく同調どうちょうしたが、はん共産きょうさん主義しゅぎ立場たちばをとる右派うはからはげしい非難ひなんけた。このため6がつ24にち、ラーテナウはエアハルト海兵かいへい旅団りょだん配下はいかによって暗殺あんさつされた[67][73]。ラーテナウの殺害さつがい大変たいへんむごたらしいもので、オープンカーで自宅じたくから外務省がいむしょう出勤しゅっきんする途中とちゅううしろをつけてきた自動車じどうしゃから機関きかんじゅう乱射らんしゃされたあげくしゅりゅうだんまれ、からだ四分五裂しぶんごれつにされた[67]前年ぜんねんの8がつ26にちには、おなじくユダヤじんだったエルツベルガーもと蔵相ぞうしょうコンズル暗殺あんさつされているなど[74][75]、このころ右翼うよくじゅんぐん組織そしきによるテロリズムが大手おおてっていた。

ラーテナウの葬儀そうぎでヴィルト首相しゅしょうは「てき右側みぎがわにいる」という演説えんぜつおこな[ちゅう 2][76]はん政府せいふ活動かつどうへの対処たいしょはじめた。エーベルトは「共和きょうわこく保護ほご緊急きんきゅうれい」をはっし、7がつ21にちに「共和きょうわこく保護ほごほうドイツばん」として法制ほうせいされた[76]。これにより左右さゆう過激かげき活動かつどうへの取締とりしまりは強化きょうかされ、テロ行為こうい一段落いちだんらくした[77][ちゅう 3]。10月、社会しゃかい民主党みんしゅとう独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう右派うは合流ごうりゅうした。このため社会しゃかい民主党みんしゅとう左傾さけいし、エーベルト大統領だいとうりょう提唱ていしょうした人民じんみんとうとの連立れんりつ拒否きょひした。

1922ねん7がつ、ヴィルト政府せいふ連合れんごうこく賠償金ばいしょうきん支払しはらいにかんして協議きょうぎし、マルクの暴落ぼうらく理由りゆうにしてこう3かねんふく再度さいど支払しはら猶予ゆうよもとめたが、強硬きょうこう態度たいどのフランスによって再度さいど交渉こうしょう決裂けつれつした[78]交渉こうしょうまったヴィルト首相しゅしょうは1922ねん11月14にち辞任じにん、ヴィルトないかく瓦解がかいした[78][64][ちゅう 4]。エーベルト大統領だいとうりょうはヴィルトの後任こうにんに、中央ちゅうおうとう人民じんみんとう民主党みんしゅとうバイエルン人民じんみんとうそして国家こっか人民じんみんとう支援しえんけるヴィルヘルム・クーノ指名しめい、11月22にち、クーノないかくわった[79][64]以後いごしばらくのあいだ純然じゅんぜんたるブルジョアないかく時代じだいつづくことになる。

ルール占領せんりょうとインフレーション[編集へんしゅう]

1000パピエルマルク紙幣しへい赤字あかじで10おくマルクの額面がくめんすりされている。

ヴェルサイユ条約じょうやくしたさだめられた高額こうがく戦争せんそう賠償ばいしょうきむはドイツの支払しはら能力のうりょくえ、支払しはらいはとどこおりがちになった。しかし、フランスはドイツが意図いとてき支払しはらいをおくらせており、連合れんごうこくへの反抗はんこうだとみなし、石炭せきたんやコークス・木材もくざいとう物資ぶっし接収せっしゅうして賠償ばいしょうにあてるため、1923ねん1がつ11にちから、ベルギーとともにドイツ屈指くっし工業こうぎょう地帯ちたいであるルール地方ちほう占領せんりょう開始かいしした[80]。ドイツ政府せいふはこれにかん公吏こうりのフランスへの協力きょうりょく禁止きんしし、鉱工業こうこうぎょう従事じゅうじしゃにストライキやサボタージュをびかける「消極しょうきょくてき抵抗ていこう」で対抗たいこうした[81]。また右派うはによる輸送ゆそう機関きかんへの破壊はかい工作こうさくおこなわれた[82]消極しょうきょくてき抵抗ていこう当初とうしょドイツ国内こくない熱狂ねっきょうてき支持しじされたが、ドイツ産業さんぎょう心臓しんぞうであるルール地方ちほう停止ていし経済けいざい重大じゅうだい影響えいきょうあたえた[83]

かねてから進行しんこうしていたインフレは天文学てんもんがくてき規模きぼになり、28%が完全かんぜん失業しつぎょうしゃとなり、42%が不完全ふかんぜん就労しゅうろう状態じょうたいとなった[84]。これにより中産ちゅうさん階級かいきゅう没落ぼつらくし、だい企業きぎょうコンツェルンすすんでいった[85]。このため社会しゃかい不安ふあんはますますすすんでいった。クーノないかく政策せいさくまり、8がつには議会ぎかいから不信任ふしんにんけられた[86]。8月12にちにクーノないかくたおれ、国家こっか人民じんみんとう共産党きょうさんとうのぞ各党かくとう支持しじグスタフ・シュトレーゼマン首相しゅしょうとなった(13にちにシュトレーゼマン政権せいけん発足ほっそく[86][64]。シュトレーゼマンは占領せんりょうへの消極しょうきょくてき抵抗ていこう中止ちゅうしし、11月15にちパピエルマルクから国有こくゆう担保たんぽとしたレンテンマルクへの通貨つうかえ(デノミネーション)をおこない、インフレの沈静ちんせい成功せいこうした[87]。これに一役ひとやくったのが、通貨つうか全権ぜんけん委員いいんヒャルマル・シャハトであった[88]

一方いっぽう政情せいじょう不安ふあん左右さゆう蜂起ほうきまねいた。中部ちゅうぶドイツのザクセンしゅうテューリンゲンしゅうでは、共産きょうさん党員とういん内閣ないかく入閣にゅうかく、さらに軍事ぐんじ組織そしき形成けいせいしてぜんドイツへの革命かくめいこそうとした[89]。これを察知さっちした国防こくぼうしょうオットー・ゲスラーぐん派遣はけんおこなったためりょうしゅう政権せいけん崩壊ほうかいした[90]。このさい共産党きょうさんとう一斉いっせい蜂起ほうき計画けいかくしたが、直前ちょくぜんになって中止ちゅうしした[91]。しかし連絡れんらくミスによりハンブルクでは暴動ぼうどう発生はっせいした[91]

一方いっぽうバイエルンしゅうではグスタフ・フォン・カールしゅう総督そうとくとなり、はん中央ちゅうおう政府せいふ姿勢しせいあきらかにした[92]国家こっか社会しゃかい主義しゅぎドイツ労働ろうどうしゃとうをはじめとするしゅう極右きょくうドイツ闘争とうそう連盟れんめい結成けっせいし、11月8にちに「ベルリン進撃しんげき」のためのクーデターミュンヘン一揆いっきこした。一揆いっきはバイエルンしゅう警察けいさつによって鎮圧ちんあつされたが、政府せいふによる鎮圧ちんあつはされなかった[93]。このあいだ連邦れんぽう政府せいふ政権せいけん不安定ふあんていで、10月4にちにはだい1シュトレーゼマンないかく辞職じしょく[64]同月どうげつ6にちだい2シュトレーゼマン政権せいけん発足ほっそくしたものの、社会しゃかい民主党みんしゅとう右派うはたいする姿勢しせい弱腰よわごしであるとして連立れんりつ離脱りだつ、11月23にちにシュトレーゼマンないかく崩壊ほうかいした[89][64]後継こうけいないかく中央ちゅうおうとうヴィルヘルム・マルクス組織そしきし、シュトレーゼマンは外相がいしょうとなった[89]同月どうげつ30にちにマルクス政権せいけん発足ほっそく[64]以後いごシュトレーゼマンは6つの内閣ないかく外相がいしょうつとめることになる[94]

黄金おうごんの20年代ねんだい[編集へんしゅう]

シュトレーゼマン(みぎ)。ひだり人物じんぶつ後継こうけい外相がいしょうとなったユリウス・クルティウス
1925ねん4がつ大統領だいとうりょう選挙せんきょせん登場とうじょうしたヒンデンブルク陣営じんえい宣伝せんでんカー

一方いっぽうで、イギリスにとって、ルール占領せんりょうこのましい行動こうどうでなかった[95]。イギリスは賠償ばいしょう問題もんだい解決かいけつのための専門せんもん委員いいんかい設置せっち提案ていあんし、最大さいだい債権さいけんこくアメリカ賛同さんどう[95]大国たいこくまえにはフランスも賛成さんせいせざるをず、1923ねん12月にチャールズ・ドーズ委員いいんちょうとするドーズ委員いいんかい設置せっちされた[95]。ドーズ委員いいんかいは1924ねん4がつに「ドーズあん」を作成さくせいし、8がつ16にちにドイツも受諾じゅだくした[95]。これはドイツに8おくマルクの借款しゃっかんあたえ、賠償金ばいしょうきん支払しはらいの初期しょき段階だんかいにおいて1ねんあたりの支払しはら金額きんがく緩和かんわするものであった[95]国家こっか人民じんみんとうはこのあんを「だいのヴェルサイユ条約じょうやく」として批判ひはんし、1924ねん5がつ国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょでは国家こっか人民じんみんとうをはじめとする右派うは、さらに共産党きょうさんとう躍進やくしんした[96]国会こっかい機能きのう不全ふぜんおちいり、12月にはふたた国会こっかい選挙せんきょおこなわれた[97]。ドーズあん景気けいき好転こうてんし、失業しつぎょうしゃもほとんど消滅しょうめつしており、ルール占領せんりょう解除かいじょされたこと極右きょくう極左きょくさ退潮たいちょうした[97]。しかし連立れんりつ交渉こうしょうはうまくいかず、マルクス首相しゅしょうは12月15にち辞職じしょく[ちゅう 5]よく1925ねん1がつ15にちハンス・ルター内閣ないかく成立せいりつするまで議会ぎかい空転くうてんした[99][98]

この最中さいちゅう、エーベルト大統領だいとうりょう戦争せんそうちゅうにストライキに参加さんかしたのは国家こっかたいする反逆はんぎゃくであるというキャンペーンがおこなわれた[100]。あるナチ党員とういんが、エーベルトが1918ねん1がつにストライキに参加さんかしていたことが国家こっか反逆はんぎゃくざいにあたると非難ひなんしたことを、ある地方ちほう新聞しんぶん大々的だいだいてきげて宣伝せんでんしたのがきっかけだった[100]。エーベルトはこれを誣告ぶこくであるとしてうったえ、裁判さいばんには勝訴しょうそした (マルデブルク裁判さいばん)[100]。しかし裁判さいばんちょうはエーベルトが反逆はんぎゃくおこなったこと事実じじつであると認定にんていした[100]。このためエーベルトは右派うはから反逆はんぎゃくしゃとして攻撃こうげきされた[101]愛国あいこくしゃ自認じにんしていたエーベルトにとってこれはがた屈辱くつじょくであり、健康けんこう状態じょうたい悪化あっかさせる一因いちいんになった[101]。1925ねん2がつ28にちにエーベルトは死去しきょし、大統領だいとうりょう選挙せんきょおこなわれることになった[101]

3月25にち大統領だいとうりょう選挙せんきょおこなわれた。国家こっか人民じんみんとう人民じんみんとうカール・ヤレスは38%のひょう獲得かくとく首位しゅいとなったが、当選とうせんには過半数かはんすうひょう必要ひつようであったため、当選とうせんにはいたらなかった。社会しゃかい民主党みんしゅとう中央ちゅうおうとう民主党みんしゅとうのヴァイマル連合れんごう統一とういつ候補こうほとしてマルクスもと首相しゅしょうて、大統領だいとうりょう確保かくほしようとした[102]。ヤレスでは対抗たいこうできないとかんがえた右派うはは、かつての参謀さんぼう総長そうちょうヒンデンブルクをあらたな候補こうほとして擁立ようりつした[ちゅう 6][103]だいかい投票とうひょうでは最多さいた得票とくひょうしゃ当選とうせんとなるため、ヒンデンブルクが、2のマルクスとやく90まんひょう当選とうせんした[102]。このヒンデンブルクの勝利しょうりはバイエルン人民じんみんとうがヒンデンブルクの支持しじまわったことと共産党きょうさんとう独自どくじ候補こうほ固執こしつしたことが原因げんいんとされる[104]

こののち政党せいとう離合りごう集散しゅうさん相次あいついだために政権せいけん不安定ふあんていであり、ルター、だいマルクスと短命たんめい内閣ないかくつづいた[105][ちゅう 7]。しかし右派うは期待きたいあつめていたヒンデンブルクが憲法けんぽう遵守じゅんしゅする姿勢しせいをとったため、いずれの政変せいへんさい議院ぎいんないかくせいまもられた[105]。さらにかれ名声めいせい独立どくりつてき立場たちばをとろうとするゼークトの権威けんい相対そうたいてき低下ていかさせた[107]。さらに1926ねん秋季しゅうき演習えんしゅう皇帝こうていまごヴィルヘルム無断むだん招待しょうたいしたこと問題もんだいとなり、ゼークトは罷免ひめんされた[108]。これによりぐん政治せいじ介入かいにゅうはしばらくのあいだおさえられることになった。

1925ねんには共産党きょうさんとうドイツ帝国ていこく構成こうせい諸国しょこくきゅう君主くんしゅ財産ざいさん接収せっしゅうドイツばん提案ていあんした[109]。これは国会こっかいただちに否決ひけつされたが、共産党きょうさんとう国民こくみん投票とうひょうにかけるよう要求ようきゅうした[109]。ヴァイマル憲法けんぽうではぜん有権者ゆうけんしゃいちわり賛成さんせい署名しょめいおこなった法律ほうりつ否決ひけつされた場合ばあいは、国民こくみん投票とうひょうにかけられるという規定きていがあった[109]共産党きょうさんとう社会しゃかい民主党みんしゅとう党員とういんはたらきかけ、社会しゃかい民主党みんしゅとう接収せっしゅう賛成さんせいまわらせた[109]。しかし1926ねんおこなわれた投票とうひょうではりょうとう共同きょうどうしても1500まんひょうしか獲得かくとくできず、過半数かはんすうの2000まんひょうにはおよばなかった[109]。この結果けっか左派さは勢力せいりょく限界げんかいしめすとともに、社会しゃかい民主党みんしゅとうたいする保守ほしゅそう反感はんかんたかめることになった[110]

また、1928年度ねんど予算よさん編成へんせいにも問題もんだいこった。海軍かいぐんはヴェルサイユ条約じょうやく制限せいげんをクリアする装甲そうこうかんポケット戦艦せんかん開発かいはつ要求ようきゅうしたが、建造けんぞうとして計上けいじょうされた900まんライヒスマルクが過大かだいであるとして、社会しゃかい民主党みんしゅとう民主党みんしゅとう共産党きょうさんとう反対はんたいした[111]1928ねん5がつ選挙せんきょ社会しゃかい民主党みんしゅとうは「軍艦ぐんかんより子供こども給食きゅうしょくを」をスローガンとする選挙せんきょキャンペーンをおこなった[112]選挙せんきょ結果けっか社会しゃかい民主党みんしゅとう左派さは政党せいとう躍進やくしんし、6月28にちには社会しゃかい民主党みんしゅとう主導しゅどうだいミュラー内閣ないかく成立せいりつした[113]。しかし、ぐんつよ要望ようぼうでミュラー内閣ないかくはポケット戦艦せんかん予算よさん復活ふっかつさせた[114]。このため選挙せんきょキャンペーンで軍艦ぐんかん反対はんたいとなえていた社会しゃかい民主党みんしゅとう反対はんたいにまわり、内閣ないかく参加さんかしていた社会しゃかい民主党みんしゅとう閣僚かくりょう投票とうひょうでは反対はんたいまわった[115]。この経緯けいい社会しゃかい民主党みんしゅとうたいする信頼しんらいをさらにきずつけることになった[115]。また選挙せんきょには敗北はいぼくした国家こっか人民じんみんとうアルフレート・フーゲンベルク右派うは勢力せいりょく拡大かくだいしていった。

外交がいこうめんではいわゆる「シュトレーゼマン外交がいこう」により、ドイツの国際こくさいてき地位ちい回復かいふくしつつあった。1925ねん10がつにはロカルノ条約じょうやく締結ていけつされ、ヨーロッパにおける安全あんぜん保障ほしょう体制たいせい、「ロカルノ体制たいせい」が成立せいりつした。1926ねん4がつ24にちにはどく両国りょうこく不可侵ふかしん局外きょくがい中立ちゅうりつさだめたベルリン条約じょうやく締結ていけつされ、9がつ10日とおかには国際こくさい連盟れんめいへの加盟かめい満場一致まんじょういっち承認しょうにんされ、常任じょうにん理事りじこくとなった。さらにラインラントかれていた占領せんりょうぐん一部いちぶ撤兵てっぺいし、民間みんかん航空こうくう復活ふっかつ飛行機ひこうき製造せいぞう許可きょかされた。

経済けいざいめんこうきょうつづき、1926ねんのリストラによって一時いちじ増大ぞうだいした失業しつぎょうりつも1928ねんには5%だい回復かいふく[116]労働ろうどう条件じょうけん飛躍ひやくてき改善かいぜんされた。この相対そうたいてき安定あんてい黄金おうごんの20年代ねんだいドイツばんばれている。この好景気こうけいきをもたらしたのはアメリカ資本しほんによる資金しきん投入とうにゅうであったが、大半たいはん短期たんき信用しんようによるものであり、本国ほんごく事情じじょうによってはいつげられるかわからないものであった[117]。さらに投入とうにゅうさきおおくが公共こうきょう事業じぎょうであり、公務員こうむいん人件じんけん増大ぞうだいする結果けっかまねいた[117]。さらに1927ねん失業しつぎょう保険ほけんほう代表だいひょうされるヴァイマル共和きょうわせい手厚てあつ福祉ふくし政策せいさくも、国家こっか予算よさん膨大ぼうだいまねことになる[118]

世界せかい恐慌きょうこう[編集へんしゅう]

1929ねん2がつオーウェン・D・ヤング委員いいんちょうとする賠償金ばいしょうきん支払しはら方法ほうほう検討けんとうする委員いいんかい設置せっちされ、「ヤングあん」を策定さくていした[119]。6月に調印ちょういんおこなわれたこのあんは、ドーズあん以上いじょう支払しはらいを緩和かんわし、賠償金ばいしょうきん支払しはらいのための外債がいさい利子りし賠償金ばいしょうきんふくまれるよう定義ていぎされたため、実質じっしつてき賠償金ばいしょうきんがく削減さくげんとなった(賠償金ばいしょうきん支払しはらいを最初さいしょの3年間ねんかんひくおさえるとともに、総額そうがくもドーズあんよりやく17%減額げんがくする)[119][120]。さらに連合れんごうこくによるドイツ経済けいざい管理かんり機関きかんはすべて撤廃てっぱいされ、ラインラントからの連合れんごうぐん撤退てったい決定けっていされた[119]。しかし、その代償だいしょうとして完済かんさいまで59ねん最初さいしょの37年間ねんかんとし平均へいきん20おくマルクの支払しはらい、そのの22年間ねんかんはそれよりもずっと少額しょうがく支払しはらい)もかかるという副作用ふくさようもあった[120][119]。フーゲンベルクら右派うは子孫しそん屈辱くつじょくのこすものだとしてもう反発はんぱつした。

この反対はんたいしゃなかには政府せいふ特使とくしとしてヤングあん調印ちょういん参加さんかしたシャハトふくまれていた[121]。シャハトには実行じっこうりょくがありたしかにすぐれた財政ざいせいではあったが、同時どうじ個人こじんてき野心やしん処世しょせいじゅつだけでうご人間にんげん[122]、この時期じきから急速きゅうそく右傾うけいし、右翼うよく人間にんげんむすぶようになっていた[123]

一方いっぽう、フーゲンベルクは民間みんかん軍事ぐんじ団体だんたい鉄兜てつかぶとだんフランツ・ゼルテ、さらにナチスのアドルフ・ヒトラー連携れんけいして、ヤングあん反対はんたい闘争とうそう開始かいしした[124]。このヤングあん反対はんたい闘争とうそう指導しどうしゃぐんなかにヒトラーがくわえられたことはヒトラーやナチスにとっておおきな意味いみっていた[125]。この当時とうじのヒトラーは右翼うよく活動かつどうとしてはただの小物こものぎなかったからである[125]。フーゲンベルクはこの当時とうじ最大さいだい右翼うよく政治せいじだったから[123]闘争とうそう運動うんどう一角いっかくみ、フーゲンベルクとかたならべたことはりもなおさず右翼うよく大物おおものとして認知にんちされたことを意味いみした[125]

7がつにはフーゲンベルクにより「ドイツ国民こくみん請願せいがんのための共和きょうわこく委員いいんかい」がつくられ、ヤングあん拒否きょひ、ドイツの戦争せんそう責任せきにん否定ひてい目的もくてきとした人民じんみん投票とうひょうおこなうための草案そうあん作成さくせいはじめた[120]委員いいんかいのメンバーは、フランツ・ゼルテ鉄兜てつかぶと団長だんちょう)、テオドール・デュスターベルク鉄兜てつかぶとだん指導しどうしゃ)、ハインリヒ・クラス英語えいごばんひろしドイツ同盟どうめい英語えいごばんフリッツ・ティッセン合同ごうどう製鋼せいこうドイツばん会長かいちょう)で、このなかにヒトラーもくわわった[120]草案そうあん「ドイツ国民こくみん奴隷どれい反対はんたいする法案ほうあん」が9月にどう委員いいんかいによって完成かんせい[120]、フーゲンベルクらは400まんぴつ署名しょめいあつめて人民じんみん投票とうひょう実施じっし(1929ねん12月29にち)にまでこぎつけたが、580まんひょう選挙せんきょ人数にんずうの13.8%)の賛成さんせいしかられず失敗しっぱいわった[126][120]。ヤングあん反対はんたい闘争とうそう惨敗ざんぱいする結果けっかわったが、ヒトラーやナチスにとっては大変たいへんうまみのあった運動うんどうだった[120]。フーゲンベルクが支配しはいするメディアに頻繁ひんぱん登場とうじょうすることが出来できたのでおおいに宣伝せんでんになったほか資金しきんげん影響えいきょうりょくのある人物じんぶつちかしくなる機会きかいおおくあったからである[120]。このおかげで、1929ねん8がつにニュルンベルクでひらかれたナチスのとう大会たいかいは、2ねんまえとは比較ひかくにならないほどだい規模きぼはなやかなものにすることができた[120]

好調こうちょうだったドイツ経済けいざいも、アメリカ資本しほん株式かぶしき投機とうきへの資金しきん移動いどうにより、1928ねん後半こうはんから減速げんそくはじめた[126]。1929ねんふゆには失業しつぎょうしゃが200まんにんえるようになった[126]。このため失業しつぎょう保険ほけん支払しはらいが膨大ぼうだいがくとなり、なんらかの対策たいさくせまられた。失業しつぎょう保険ほけん原資げんし労使ろうし双方そうほうからの資金しきんであり、蔵相ぞうしょうルドルフ・ヒルファーディング拠出きょしゅつ割合わりあい現行げんこうの3%から0.5%げるほう改正かいせいおこなった。しかしこれは資本しほんもう反発はんぱつけ、シュトレーゼマンのぞくする人民じんみんとう反対はんたいした[127]。シュトレーゼマンは法案ほうあん採決さいけつ棄権きけんするという妥協だきょうあん人民じんみんとう政権せいけん離脱りだつめたが、過労かろうから発作ほっさこし、10月3にち急死きゅうしした[120]

さらに10月24にち発生はっせいした世界せかい恐慌きょうこうにより、アメリカ資本しほんげがはじまり、復興ふっこうきざしがはじめていたドイツ経済けいざいふたた暗転あんてんした。ヒルファーディングは国債こくさい増発ぞうはつおこなおうとしたが、シャハトの反対はんたい発行はっこうできなかった[128]。そこで大蔵おおくら次官じかんヨハネス・ポーピッツ外債がいさい募集ぼしゅうによって解決かいけつしようとしたが、シャハトが政府せいふ財政ざいせい政策せいさく批判ひはんする宣言せんげんおこなったため、けしようとしていたアメリカの銀行ぎんこういてしまい、しゅはなくなってしまった[128]。このため、ポーピッツは責任せきにんをとって辞職じしょくづまったヒルファーディングも辞職じしょくまれた[129]

ヤングあんは1930ねん1がつ批准ひじゅん手続てつづきが開始かいしされ、かろうじて国会こっかい承認しょうにんされた[130]。しかし、失業しつぎょうしゃはなおも増大ぞうだいして350まんにんたっし、失業しつぎょう保険ほけんふたた議論ぎろんとなった[130]。ミュラー内閣ないかく蔵相ぞうしょうパウル・モルゲンハウアー英語えいごばん拠出きょしゅつ割合わりあいをさらに0.5%げて賃金ちんぎんの4.0%にする政策せいさくあん提示ていじしたが、ふたた人民じんみんとう反対はんたいして実現じつげんいたらなかった[130][131]中央ちゅうおうとうブリューニング首相しゅしょう)と民主党みんしゅとうのマイアーは、国庫こっこから失業しつぎょう保険ほけんたいする支出ししゅつおこない、りない場合ばあいには0.25%拠出きょしゅつ割合わりあいげるという妥協だきょうあん提示ていじしたが、今度こんど社会しゃかい民主党みんしゅとう出身しゅっしん労働ろうどうしょうルドルフ・ヴィッセルもう反発はんぱつした[132]。ヴィッセルやヘルマン・ミュラー(ミュラー首相しゅしょう同姓どうせい同名どうめいだがべつ議員ぎいん)ら労働ろうどう組合くみあい勢力せいりょく組合くみあい利益りえきにならないとして妥協だきょうあん反対はんたいし、社会しゃかい民主党みんしゅとう全体ぜんたい妥協だきょうあん反対はんたい賛同さんどうさせた[133]進退しんたいきわまったミュラーは3がつ27にち辞職じしょくし、社会しゃかい民主党みんしゅとうみずからのみずからの首相しゅしょう命運めいうんってしまうことになった[131][106]

ただし、ミュラー辞任じにん直接的ちょくせつてき原因げんいん失業しつぎょう保険ほけん拠出きょしゅつきん問題もんだいまりだったが、その大分おおいたまえからミュラーをそうとする策動さくどうつづいていたことは見逃みのがせない。ヒンデンブルク大統領だいとうりょうはやくも1929ねん3がつ段階だんかいで、社会しゃかい民主党みんしゅとう政権せいけんから必要ひつようがあると主張しゅちょうしだしていた[131]。ミュラー内閣ないかくすくうために大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい使つかみちのこされていたにもかかわらず、1930ねんはじめの段階だんかいでヒンデンブルクはそれを拒否きょひしている[131]同年どうねん12がつには、ヤングあん批准ひじゅんされたならただちにミュラーをすとヒンデンブルクはめていた[131]

大統領だいとうりょうないかく[編集へんしゅう]

このころゼークトのドイツぐん掌握しょうあくしていたのは国防こくぼう次官じかんクルト・フォン・シュライヒャーだった[134]。シュライヒャーはヒンデンブルク大統領だいとうりょう息子むすこオスカー・フォン・ヒンデンブルクともしたしく、大統領だいとうりょう側近そっきん一人ひとりとなっていた[135]。シュライヒャーは後継こうけい首相しゅしょうとしてヤングあん批准ひじゅん活躍かつやくしたハインリヒ・ブリューニング中央ちゅうおうとう所属しょぞく)を推薦すいせんした[136]。ブリューニングはヘルマン・ミュラーぜん首相しゅしょうしたしかったのでシュライヒャーの策謀さくぼうることは本意ほんいではなかったのだが、シュライヒャーはヒンデンブルク大統領だいとうりょうにブリューニングのことをんでいたので、大統領だいとうりょうがブリューニングに組閣そかくめいじたのは必然ひつぜんだった[137]。ヒンデンブルクはブリューニングに首相しゅしょう任命にんめいするさい議会ぎかい拘束こうそくされること内閣ないかく形成けいせいすることめいじた[137]。それでもブリューニングは中央ちゅうおうとう人民じんみんとう協力きょうりょく、さらに社会しゃかい民主党みんしゅとうとのだい連立れんりつ目指めざしたが、社会しゃかい民主党みんしゅとう人民じんみんとうとの協力きょうりょく拒絶きょぜつしたため、少数しょうすう与党よとうによる議会ぎかい運営うんえい余儀よぎなくされた(1930ねん3がつ30にち、ブリューニングないかく成立せいりつ[106])。このため、これ以降いこう内閣ないかく議会ぎかい基盤きばんたない「大統領だいとうりょうないかく」としょうされる[137]

ブリューニングないかくはヴァイマル共和きょうわせいなか最長さいちょう期間きかん維持いじすることができた政権せいけんだったが、そのおおきな特徴とくちょうは、大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい積極せっきょくてき使用しよう外交がいこう成果せいかさい重要じゅうようしたことである[138]

大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいはワイマル憲法けんぽうだい48じょう(いわゆる緊急きんきゅう事態じたい条項じょうこう)に規定きていのある大統領だいとうりょう権限けんげんで、非常ひじょう強力きょうりょくであるがゆえに危険きけんなもので、一定いってい歯止はどめが規定きていされていたとはいえ、一時いちじてき基本きほんてき人権じんけん一部いちぶまたはすべてを議会ぎかい承認しょうにんなしに停止ていしすることが可能かのうだった[139]。また、カール・シュミット指摘してきしたように、だい48じょうだい5こうにはほう制度せいどてき不備ふびがあり、緊急きんきゅうれい発動はつどうできる権限けんげん具体ぐたいてき内容ないよう法律ほうりつさだめるとかれていたのに、肝心かんじん法律ほうりつ最後さいごまで制定せいていされないまま放置ほうちされた(というよりも、権限けんげん制限せいげんさせないためにむしろ意図いとてき放置ほうちしていた)[140]。そのため、大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい法的ほうてき根拠こんきょにして、大統領だいとうりょう行政ぎょうせい恣意しいてきにその権限けんげん運用うんようし、国民こくみん権利けんり制限せいげん治安ちあん維持いじ措置そちをとることを可能かのうにしていた[140]実際じっさいに、だい48じょうはシュミットがう「主権しゅけん独裁どくさい」へのみちひらいた条文じょうぶんとして悪名あくめいたかい。

大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいは、ヒンデンブルク大統領だいとうりょうではそれまで1発令はつれいされたことがなかった大統領だいとうりょう権限けんげん[141][ちゅう 8]組閣そかくたって、ブリューニングはヒンデンブルク大統領だいとうりょう事前じぜんに、大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい行使こうし保証ほしょうもとめていた[141]

ブリューニングないかく船出ふなではまずまずで、政権せいけん成立せいりつ直後ちょくご社会しゃかい民主党みんしゅとうなどが提出ていしゅつした内閣ないかく不信任ふしんにんあんを、反対はんたい252ひょう賛成さんせい187ひょう否決ひけつ内閣ないかく信任しんにんされた[143][141]。しかし、世界せかい恐慌きょうこう影響えいきょう深刻しんこく財源ざいげん不足ふそくおぎなうために次々つぎつぎ増税ぞうぜいのための立法りっぽう措置そちらざるをなくなった[144]一方いっぽう失業しつぎょうしゃは300まんにんえていた[141]

ブリューニングは全面ぜんめんてき増税ぞうぜい、さらに失業しつぎょう保険ほけんの1%げを策定さくていした。7月16にちにこの法案ほうあん否決ひけつされると、ヒンデンブルク大統領だいとうりょう大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいとしてこの法案ほうあん施行しこうさせた[145]。しかし社会しゃかい民主党みんしゅとう大統領だいとうりょうれいしにうごき、国会こっかいしを僅差きんさ可決かけつした[145]。このとき予算よさん審議しんぎでブリューニング政権せいけん少数しょうすう与党よとう転落てんらく、ブリューニングは国会こっかい解散かいさんせざるをなくなった[143]。さらに国会こっかい解散かいさんちゅうに、若干じゃっかん修正しゅうせいほどこしたうえでふたたび大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいによって増税ぞうぜいおこなった[145]

大統領だいとうりょう国会こっかいとのこの応酬おうしゅう問題もんだいとなった。とく問題もんだいされたのが、国会こっかい解散かいさんちゅう大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいはっして、一度いちど国会こっかい否決ひけつした法案ほうあん復活ふっかつさせたてんで、違憲いけん可能かのうせいがあるとの理由りゆう法学ほうがくしゃから批判ひはんこえがり、世論せろん反発はんぱつおおきかった[146]

9月14にち国会こっかい議員ぎいん選挙せんきょ投票とうひょうおこなわれたが、この選挙せんきょで107議席ぎせき獲得かくとくしてだい2とう躍進やくしんしたのがナチスだった( だい1とう社会しゃかい民主党みんしゅとうで143議席ぎせき獲得かくとく[147]。それ以前いぜんのナチスの議席ぎせきすうが12であったことをかんがえれば、これはすさまじい躍進やくしんだった[147]。それ以外いがいにも、ドイツ共産党きょうさんとうが77議席ぎせき獲得かくとくしてだい3とうんでいる[147]

ブリューニングはナチとうむことには否定ひていてきだったが、周辺しゅうへん人間にんげんなかには政府せいふむことでナチスを懐柔かいじゅうしようとかんがえるものもてきた[148]。それでもブリューニングは、ナチスの敵意てきいらし、微妙びみょう外交がいこう問題もんだいである賠償金ばいしょうきん減額げんがくさまたげにならないようにするため、1930ねん10がつ5にちトレヴィラヌス英語えいごばん大臣だいじんのアパートでヒトラーと極秘ごくひ会談かいだんした(トレヴィラヌスのほかにもフリックグレゴール・シュトラッサー同席どうせき[148]。ブリューニングはヒトラーに政府せいふ外交がいこう方針ほうしん微妙びみょうさを説明せつめいしたが、ヒトラーにはその微妙びみょうさを理解りかいする能力のうりょくけており、ブリューニングのったことも理解りかいしていなかった[148]わりにヒトラーがやったこととえば、ブリューニングらのまえでの1あいだにわたる、ドイツ共産党きょうさんとう社会しゃかい民主党みんしゅとう抹殺まっさつせよとか、フランスはドイツの仇敵きゅうてきであるとか、ロシアはボルシェビキの故郷こきょうであるとかいった粗野そや演説えんぜつだった[148]会談かいだんみのりのないものだっただけでなく、政府せいふ外交がいこう方針ほうしん極秘ごくひであるから外部がいぶらすなとわれたにもかかわらず、ヒトラーはその大要たいようをすぐに公開こうかいしたほか、ナチスの海外かいがい新聞しんぶん局長きょくちょうだったエルンスト・ハンフシュテングルがアメリカ大使たいしにもリークするというだい失態しったいまでついた[148]当然とうぜんのこととして、ヒトラーはブリューニングをはげしく攻撃こうげきするようになった[148]。その一方いっぽう社会しゃかい民主党みんしゅとうはナチスを警戒けいかいしてブリューニングの政策せいさくわば黙認もくにんするようになった[149][ちゅう 9]各州かくしゅうでの選挙せんきょでもナチスが躍進やくしんし、民主みんしゅ主義しゅぎ体制たいせい危機ききむかえた。

ブリューニングないかく崩壊ほうかい[編集へんしゅう]

1932ねん4がつ10日とおか大統領だいとうりょう選挙せんきょ投票とうひょうませてるブリューニング(中央ちゅうおう)

ヴェルサイユ体制たいせい破棄はきうったえるナチスの躍進やくしんは、ドイツにたいするしょ外国がいこく信用しんよう一気いっき低下ていかさせた。このため海外かいがい資本しほんげはますます顕著けんちょとなり、1930ねんまつには失業しつぎょうしゃが400まんにんえた[151]。このような情勢じょうせいでブリューニングの増税ぞうぜい政策せいさくはますます支持しじされなくなっていった。

ブリューニングは外交がいこうじょう成果せいかげるため、1931ねん3がつ23にちオーストリア関税かんぜい同盟どうめいむすんだ(どくおう関税かんぜい同盟どうめい事件じけん[152]。しかし、1922ねんにオーストリアが国際こくさい連盟れんめい仲介ちゅうかいによる経済けいざい援助えんじょ各国かっこくからけたさいに、オーストリアの経済けいざいてき独立どくりつおびやかすようなめをいちこくむすぶことをきんずる規定きていふくんだ条約じょうやく各国かっこくむすんでおり、それに抵触ていしょくすると反発はんぱつするくにあらわれた[152]実際じっさいには、この関税かんぜい同盟どうめいがオーストリアがむすんだ条約じょうやく違反いはんであるとれるわけではなかったが、オーストリアに融資ゆうしするくにとしては最大さいだいだったフランスはおおいに気分きぶんがいした[152]。フランスは、関税かんぜい同盟どうめいについてドイツ・オーストリアに抗議こうぎ融資ゆうしげをおそれたオーストリアは関税かんぜい同盟どうめい破棄はきかんがえざるをなかった[153]。そして実際じっさいにフランスはオーストリアから資本しほんげたため、5月8にちにはオーストリア最大さいだい銀行ぎんこうクレジット・アンシュタルトドイツばん)が破綻はたんした[153]どう銀行ぎんこうはヨーロッパ全土ぜんど取引とりひきをしていたため、この銀行ぎんこう破綻はたんはドイツやオーストリアのみならず、ヨーロッパ全土ぜんど経済けいざい打撃だげきあたえた(世界せかい恐慌きょうこう[153]賠償ばいしょう支払しはらいはもはや不可能ふかのうであり、アメリカ大統領だいとうりょうハーバート・フーヴァーは6がつ19にち西欧せいおう諸国しょこくとドイツにたいする賠償ばいしょう債務さいむ支払しはらいをいち年間ねんかん猶予ゆうよすると宣言せんげんした(フーヴァーモラトリアム[154]。しかしこの発表はっぴょうによってもドイツ経済けいざい悪化あっかまらず、企業きぎょう銀行ぎんこう破綻はたん相次あいついだ[155]。また関税かんぜい同盟どうめいも9がつ常設じょうせつ国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょによって違法いほう判断はんだんされたため成立せいりつしなかった[153]

1931ねん10がつ3にちユリウス・クルティウス英語えいごばん外相がいしょうどくおう関税かんぜい同盟どうめい失敗しっぱいにより引責いんせき辞任じにん、ルール工業こうぎょうかい国民党こくみんとうたいしてブリューニングないかく信任しんにん撤回てっかいするよう圧力あつりょくをかけはじめ、内閣ないかく改造かいぞう大統領だいとうりょう要求ようきゅうするうごきもてきた[156]。ブリューニングは大統領だいとうりょう辞任じにんもうたがヒンデンブルクは、保守ほしゅしょくつよめるとの条件じょうけんけて組閣そかくをブリューニングにさい委任いにん、「議会ぎかい独立どくりつに」内閣ないかくつくことあらためて指示しじし、大統領だいとうりょうないかくとしての性格せいかくつよまった[156][157]。10月10にちだい2ブリューニングないかく成立せいりつした[156][ちゅう 10]。しかし、政権せいけんから国民党こくみんとう離脱りだつしたので国会こっかい基盤きばんさらよわくなり、ブリューニングが首相しゅしょう外相がいしょうを、グレーナーが国防こくぼうしょう内相ないしょう兼務けんむするきびしい組閣そかくだった[156]。また実際じっさい国会こっかい支持しじまったられなく、内閣ないかくへの信任しんにんひょうが125にたいして、不信任ふしんにんが577ひょうもあるという状態じょうたいだった[158]結果けっかとして、ブリューニングないかく大統領だいとうりょう支持しじだけがたよりという隘路あいろはいっていった。このころから国会こっかい議決ぎけつされない大統領だいとうりょうれいによる立法りっぽう増加ぞうかし、1931ねんには大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいかず国会こっかい採択さいたく立法りっぽうかず上回うわまわり、1932ねんには大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい60にたいし、議会ぎかいでの立法りっぽうはわずか5となった[159]

10月11にちアルフレート・フーゲンベルク主唱しゅしょうドイツ国家こっか人民じんみんとう、ナチス、鉄兜てつかぶとだんとう右派うはによるはんブリューニング戦線せんせん決起けっき集会しゅうかいひらかれた[160]。このとき極右きょくう団体だんたいによる合同ごうどう集会しゅうかいのちハルツブルク戦線せんせんとの名前なまえ記憶きおくされるようになる[160]会場かいじょうにはきゅう帝国ていこく皇族こうぞくゼークトシャハトらがあつまり盛会せいかいとなったが、このハルツブルク戦線せんせんはヒトラーがでなかったために実際じっさい影響えいきょうりょくとぼしいものであった[161]。ナチスは単独たんどくでの政権せいけん掌握しょうあくねらっており、突撃とつげきたい活発かっぱつにテロ活動かつどうおこなった。こののちブリューニングは経済けいざい悪化あっか理由りゆう再度さいど賠償ばいしょう問題もんだい解決かいけつのための交渉こうしょうおこない、1932ねん1がつスイスローザンヌ会議かいぎひらこと合意ごういされた[155]。しかし、えいふつ都合つごう会議かいぎ半年はんとし延期えんきされているあいだにブリューニングは失脚しっきゃくしてしまいローザンヌ会議かいぎでドイツに有利ゆうり条件じょうけん賠償ばいしょう問題もんだい解決かいけつするみち水泡すいほうかえした[155]

1932ねんはるには大統領だいとうりょう任期にんきれがせまっていた[162]。ヒンデンブルクは選挙せんきょせんいとって信任しんにん投票とうひょうによる再選さいせんねがっていたが、結局けっきょく選挙せんきょせんおこなわれることになった(1932ねんドイツ大統領だいとうりょう選挙せんきょ)。社会しゃかい民主党みんしゅとう共和きょうわ大統領だいとうりょう候補こうほとしてヒンデンブルクをすことに決定けってい一方いっぽう右翼うよくのフーゲンベルクは鉄兜てつかぶとだんふく団長だんちょうのデュースベルク(選挙せんきょせん途中とちゅう離脱りだつ)を、共産党きょうさんとうエルンスト・テールマンした[163]。ヒトラーはドイツ国籍こくせき問題もんだいから立候補りっこうほ問題もんだいかかえていたが、ヴィルヘルム・フリック仲介ちゅうかいによりブラウンシュヴァイク自由じゆうしゅうのベルリン駐在ちゅうざい公使館こうしかんづけ参事官さんじかんになるという形式けいしき公務員こうむいんになったものにドイツ国籍こくせき付与ふよする)をってぎりぎりでドイツ国籍こくせき取得しゅとくドイツばんおなじく大統領だいとうりょうせんのぞんだ[163][164]

3月13にちおこなわれたいち投票とうひょうでヒンデンブルクは最多さいた得票とくひょう獲得かくとくしたものの、わずか0.4%の不足ふそく過半数かはんすうにはおよばなかった[165]。4がつ10日とおか投票とうひょう再選さいせん確定かくていしたものの、2となったヒトラーの影響えいきょうりょく拡大かくだいだれにもあきらかとなった[166]。この選挙せんきょせんはかつてヒンデンブルクを支持しじした右派うはがヒトラー支持しじまわり、ヴァイマル連合れんごうをはじめとするはんヒンデンブルクだった政党せいとうがヒンデンブルクを支持しじするという、前回ぜんかい大統領だいとうりょう選挙せんきょぎゃく構図こうずとなった[167]。このころヒンデンブルクはかなり老衰ろうすいしており、側近そっきん(シュライヒャー、ハンマーシュタイン官房かんぼう長官ちょうかんオットー・マイスナー農相のうしょうオルゲンブルク=ヤヌシャウ英語えいごばん息子むすこオスカー・フォン・ヒンデンブルクら)によって簡単かんたんうごかされるようになっていた[168][169]

4がつ13にち国防こくぼうしょうけん内相ないしょうとなっていたヴィルヘルム・グレーナーは、突撃とつげきたい親衛隊しんえいたい禁止きんし命令めいれいした[170]。しかしナチスとの連携れんけい模索もさくするシュライヒャーの策動さくどうでグレーナーは失脚しっきゃくした[162]国防こくぼうしょうとなったシュライヒャーはブリューニングないかくたおして右派うは独裁どくさいによるしん政権せいけん樹立じゅりつ目指めざし、さらに策動さくどう開始かいしした。突撃とつげきたい禁止きんし命令めいれい解除かいじょ材料ざいりょうとしてヒトラーと交渉こうしょうし、大統領だいとうりょうにはブリューニング政権せいけんすすめる東部とうぶ救済きゅうさい政策せいさくユンカー抑圧よくあつであるとんだ。5月29にちには、ヒンデンブルク大統領だいとうりょうがブリューニングにたいして「右翼うよく政府せいふ形成けいせい」「労働ろうどう組合くみあい指導しどうしゃとの接触せっしょく禁止きんし」「農業のうぎょうボルシェヴィズムの中止ちゅうし」をもうわたし、事実じじつじょう退陣たいじん要求ようきゅうした[171]窮地きゅうちまれたブリューニングは5月30にち東部とうぶ救済きゅうさい政策せいさく失敗しっぱい理由りゆう辞職じしょくした[171]

ブリューニングにたいする評価ひょうか錯綜さくそうしている[172]。ブリューニング自身じしん生前せいぜん自身じしん政治せいじ体験たいけんについてほとんど発言はつげんしなかったことから、かつては、ワイマール体制たいせい最後さいご擁護ようごしゃという評価ひょうかから、ナチス政権せいけん誕生たんじょういた重要じゅうようなステップを準備じゅんびしたというものまで幅広はばひろかった[172]。しかし死後しご回想かいそうろく出版しゅっぱんされ、ナチスには抵抗ていこうしたもののブリューニングは権威けんい主義しゅぎてき帝政ていせい復活ふっかつろんしゃだったことがわかっている[172]。したがって、はやし健太郎けんたろうのような、ブリューニングを共和きょうわせい崩壊ほうかい阻止そししようとした最後さいご闘志とうしとみなす評価ひょうか[173]は、時代遅じだいおくれになっている。

共和きょうわせい終末しゅうまつ[編集へんしゅう]

シュライヒャーは友人ゆうじんフランツ・フォン・パーペン推薦すいせんし、6月1にちにパーペンないかく成立せいりつした[174]中央ちゅうおうとうは、とうとの約束やくそく反故ほごにして勝手かって首相しゅしょうになったパーペンに憤慨ふんがいしており、パーペンを除名じょめい処分しょぶんにした[175]。パーペンないかくは、首相しゅしょう以下いか大半たいはんのものが政党せいとう所属しょぞくしておらず、しかも、首相しゅしょうふくめて内閣ないかく10にんちゅう7にんまでが貴族きぞく出身しゅっしんというかい内閣ないかくで、マスコミから「男爵だんしゃくないかく」と名付なづけられる始末しまつだった[175]

国会こっかい基盤きばんのないパーペンは、ナチスに接近せっきんした。内閣ないかく成立せいりつ直後ちょくご、ヒンデンブルク大統領だいとうりょうばれたパーペンは、ヒトラーともに3しゃ会談かいだんった[175]。このとき会談かいだん内容ないよう不明ふめいだが、突撃とつげきたい禁止きんしれい撤廃てっぱい国会こっかい解散かいさんそう選挙せんきょ約束やくそくされたことは確実かくじつだとわれている[175]。この密約みつやくでは、ナチスが内閣ないかく不信任ふしんにんあん提出ていしゅつしないことを交換こうかん条件じょうけんにしていたもの、結局けっきょくは9月には反故ほごにされてしまう[176]。また、ナチスは態度たいどひるがえして内閣ないかく攻撃こうげきした。

6月16にちからローザンヌ会議かいぎ開催かいさいされ、賠償金ばいしょうきんは30おくマルクに減額げんがくされたうえ状況じょうきょうによっては支払しはらわなくてもよいという、事実じじつじょう賠償ばいしょう問題もんだい解決かいけつ決定けっていされた[177]。しかしあくまでヴェルサイユ体制たいせい解消かいしょう具体ぐたいてきには、ドイツが主張しゅちょうしていたヴェルサイユ条約じょうやくだい231じょう削除さくじょのこと)をうったえたナチスはこの会議かいぎ失敗しっぱいであるとして攻撃こうげきした[177]突撃とつげきたい活動かつどうはますます活発かっぱつになり、多数たすう死者ししゃ事件じけん続発ぞくはつした。

7がつ17にち、パーペンはアルトナ発生はっせいした武力ぶりょく衝突しょうとつ事件じけん理由りゆうプロイセンしゅう政府せいふ解体かいたいし、みずか国家こっか弁務べんむかんとなってプロイセンしゅう掌握しょうあくし、いわゆるプロイセン・クーデタドイツばんこす[178]すでに、7がつ14にちにパーペンとシュライヒャーはヒンデンブルク大統領だいとうりょう面会めんかいして大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい発令はつれい許可きょかており、アルトナでの事件じけんそのものはパーペンの画策かくさくではなかったにしても、この介入かいにゅうはあらかじめシナリオができていたものだった[179]。この措置そち対抗たいこうしてプロイセンしゅう国事こくじ裁判所さいばんしょに、共和きょうわこく政府せいふによるプロイセンしゅうりは憲法けんぽう違反いはんであるとの訴訟そしょうこした[179]。10月には、共和きょうわこく政府せいふ措置そち一部いちぶ違法いほうであったと判断はんだんされたが、パーペンはしたがわなかった[180]。これは高度こうど自治じちゆるされていた各州かくしゅうたいする中央ちゅうおう権力けんりょく介入かいにゅうのはじまりとなった。

7がつ31にちおこなわれた国会こっかい選挙せんきょでナチスはさらに躍進やくしんし、だいいちとうとなって230議席ぎせき獲得かくとく同時どうじ共産党きょうさんとうも89議席ぎせき大幅おおはばばした[181]。9月12にち開催かいさいされた議会ぎかいはすぐに解散かいさんされ、11月16にちにふたたび選挙せんきょおこなわれた[181]相次あいつ選挙せんきょはナチスの資金繰しきんぐりを悪化あっかさせ、議席ぎせきは196に減少げんしょうしたものの、相変あいかわらずだいいちとうつづけた[182]。シュライヒャーはパーペンを辞職じしょくさせ、12月3にちみずか首相しゅしょうとなった。しかしこのころからヒンデンブルクはパーペンを信頼しんらいするようになり、パーペンも裏切うらぎられた屈辱くつじょくからシュライヒャー打倒だとう目指めざすようになる。

1933ねん1がつ30にち首相しゅしょう官邸かんていまどあらわれたヒトラー

パーペンはヒトラーと接触せっしょくし、みずからのかえきをねらった。また、大統領だいとうりょう側近そっきんグループであるオスカー・フォン・ヒンデンブルクオットー・マイスナーんで、ヒトラーぎらいのヒンデンブルクの理解りかいようとした。やがて国会こっかい基盤きばんたず、大統領だいとうりょう信任しんにんうしなったシュライヒャーの政権せいけん運営うんえいまり、1933ねん1がつ28にち辞職じしょくした[183]。ヒンデンブルクはパーペンの再任さいにんのぞんだが、ヒトラー首相しゅしょう以外いがいではナチスの支持しじられないとさとったパーペンは拒否きょひし、みずかふく首相しゅしょうになるとしてしぶ大統領だいとうりょう説得せっとくした。

ヒトラー内閣ないかく成立せいりつとヴァイマル共和きょうわせい終焉しゅうえん[編集へんしゅう]

1933ねん1がつ30にち、ヒトラーが首相しゅしょう就任しゅうにんし、ヒトラー内閣ないかく成立せいりつした。ナチスはこの政権せいけん掌握しょうあくを「国家こっか社会しゃかい主義しゅぎ革命かくめい」と定義ていぎした。2月27にちドイツ国会こっかい議事堂ぎじどう放火ほうか事件じけんによって発令はつれいされた緊急きんきゅう大統領だいとうりょうれいは、ヴァイマル憲法けんぽう基本きほんてき人権じんけん停止ていしするとともに、実質じっしつてき政党せいとう抵抗ていこうりょくうばった。3月23にち、ヒトラーは全権ぜんけん委任いにんほう制定せいていし、憲法けんぽう違背いはいする法律ほうりつ制定せいていする権限けんげんふく強大きょうだい立法りっぽうけん掌握しょうあくした。これにより、ヴァイマル憲法けんぽう事実じじつじょうその効力こうりょくうしなった。さらに、1934ねん8がつ2にちにヒンデンブルクが死去しきょしてあいだもなく、ヒトラーは大統領だいとうりょう首相しゅしょう権能けんのう統合とうごうして「指導しどうしゃけん首相しゅしょう総統そうとう)」とし、8がつ19にちには民族みんぞく投票とうひょう実施じっししてこの措置そち国民こくみん承認しょうにんさせた。ヴァイマル憲法けんぽうはその正式せいしき廃止はいしされることはなかったが、完全かんぜん空文くうぶんし、実質じっしつてきにヴァイマル共和きょうわせい終了しゅうりょうした。

失敗しっぱい原因げんいん[編集へんしゅう]

ヴァイマル共和きょうわせいがなぜ失敗しっぱいしたかという議論ぎろんは21世紀せいきはいってもつづいているが、だい恐慌きょうこうによる社会しゃかい不安定ふあんていくに経済けいざい規模きぼ度外視どがいしした賠償ばいしょうさだめたヴェルサイユ条約じょうやくへの反発はんぱつのほか、ドイツじん政治せいじかん民主みんしゅ主義しゅぎへの不信ふしんげられる。ナショナリズム研究けんきゅうおこなっている哲学てつがくしゃ歴史れきしハンス・コーン英語えいごばんは、「ほとんどのドイツ国民こくみんとく右派うは論客ろんかくはヴァイマル共和きょうわせい臨時りんじ存在そんざいであるとみなし、実際じっさいにそれを国家こっかしょうすることを拒否きょひしていた。かれらにとって国家こっかという言葉ことばは『ほこり』であり、『権力けんりょく』であり、『権威けんい』を意味いみするからである」と、ドイツ国民こくみんがヴァイマル共和きょうわせい正当せいとう国家こっかでないとかんがえていたと指摘してきし、「ドイツじん共和きょうわ政体せいたいたんなる組織そしき、しかも西欧せいおう腐敗ふはいした組織そしきにすぎないと軽侮けいぶしていた。民主みんしゅ主義しゅぎはドイツ精神せいしん適応てきおうしない西欧せいおうからの輸入ゆにゅうひんであったとなしていた」と、ドイツじん民主みんしゅ主義しゅぎという概念がいねんそのものを嫌悪けんおしていたとしている[184]エルンスト・ユンガーオスヴァルト・シュペングラーらも同様どうようかんがえており、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックは、かみきよしマ帝国まていこくドイツ帝国ていこく継承けいしょうするあらたな「だいさんライヒだいさん帝国ていこく)」を構築こうちくするべきであるととなえた。

ヴァイマル憲法けんぽうにおける大統領だいとうりょう権限けんげん強大きょうだいさもげられる。憲法けんぽうだい48じょうには大統領だいとうりょう権限けんげん議会ぎかい承認しょうにんとおさずに決裁けっさいができる「大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれい」がさだめられており、とく最後さいご大統領だいとうりょうであるヒンデンブルクは、そのはん社会しゃかい主義しゅぎはん民主みんしゅ主義しゅぎてき志向しこうもあってこの条項じょうこう強引ごういん濫用らんようし、議会ぎかい軽視けいし政治せいじおこなった。また、既存きそん政党せいとうがいずれも単独たんどく組閣そかくできず、内閣ないかく不信任ふしんにん決議けつぎ乱発らんぱつ政治せいじ混乱こんらんつづけ、大統領だいとうりょう信任しんにんらなければ組閣そかくもままならなかったことげられている[185]実際じっさいに、共和きょうわせい施行しこうからヒトラーが就任しゅうにんするまでの13年間ねんかんで14にん首相しゅしょうわるさまであった。こうした議会ぎかい政治せいじ不安定ふあんていさと大統領だいとうりょう強権きょうけんにより、徐々じょじょ議院ぎいんないかくせい機能きのうしなくなり、ヒトラーが首相しゅしょう任命にんめいされ、全権ぜんけん委任いにんほう成立せいりつするにいたって完全かんぜん終焉しゅうえんした。

現在げんざいのドイツの事実じじつじょう憲法けんぽうであるドイツ連邦れんぽう共和きょうわこく基本きほんほう(ボン基本きほんほう)は、こうしたヴァイマル憲法けんぽう反省はんせいうえち、大統領だいとうりょう権能けんのう儀礼ぎれいてきなものに限定げんていし、民主みんしゅてき体制たいせいくつがえ自由じゆう制限せいげんし、国民こくみん民主みんしゅ主義しゅぎ維持いじ誓約せいやくさせること、民主みんしゅ主義しゅぎ否定ひていする政党せいとう団体だんたい禁止きんし緊急きんきゅう立法りっぽうによる憲法けんぽう改正かいせいおよびほう適用てきよう停止ていし禁止きんしなどをさだめた「たたか民主みんしゅ主義しゅぎ」をうたっている。国民こくみん投票とうひょう制度せいどさだめられているものの、国土こくど変更へんこう民主みんしゅせい否定ひていでない憲法けんぽう改正かいせいにのみ適用てきようされるむね規定きていされている。また、議会ぎかい政治せいじ不安定ふあんていふせぐため、不信任ふしんにん決議けつぎ次期じき首相しゅしょう指名しめいした建設けんせつてき状態じょうたいでなければとおらないむねさだめられているのも特徴とくちょうである。

政治せいじ制度せいど[編集へんしゅう]

1919ねん8がつ14にちのヴァイマル憲法けんぽう制定せいてい以後いご国会こっかい(ライヒスターク)と上院じょういん(ライヒスラート)の二院にいんせいをとることになった。国会こっかい選挙せんきょ方式ほうしき厳正げんせい拘束こうそく名簿めいぼしきによる比例ひれい代表だいひょうせいをとっており、投票とうひょうすうそう議席ぎせき変動へんどうした。上院じょういん各州かくしゅうから2めい代表だいひょうしゃ議員ぎいんとなり、かく議員ぎいんしゅう意向いこうけて行動こうどうした。

しゅう(ラント)はドイツ帝国ていこく時代じだい連邦れんぽう諸国しょこくもととなって構成こうせいされており、つよ自治じち権力けんりょくっていた。独自どくじ警察けいさつ議会ぎかい内閣ないかくち、司法しほうけん各州かくしゅう管轄かんかつにあった。

しゅう しゅうはた 紋章もんしょう 面積めんせき (km2) 人口じんこう 人口じんこう密度みつどひと/km2 首府しゅふ
アンハルト自由じゆうしゅう 2.313,58 351.045 143 デッサウ
バーデン共和きょうわこく 15.069,87 2.312.500 153 カールスルーエ
バイエルン自由じゆうしゅう 75.996,47 7.379.600 97 ミュンヘン
ブラウンシュヴァイク自由じゆうしゅう 3.672,05 501.875 137 ブラウンシュヴァイク
自由じゆうハンザ都市としブレーメン 257,32 338.846 1.322 ブレーメン
自由じゆうハンザ都市としハンブルク 415,26 1.132.523 2.775 ハンブルク
ヘッセン人民じんみんしゅう 7.691,93 1.347.279 167 ダルムシュタット
リッペ自由じゆうしゅう 1.215,16 163.648 135 デトモルト
自由じゆうハンザ都市としリューベック 297,71 127.971 430 リューベック
メクレンブルク=シュヴェリーン自由じゆうしゅう 13.126,92 674.045 51 シュヴェリーン
メクレンブルク=シュトレーリッツ自由じゆうしゅう 2.929,50 110.269 38 ノイシュトレーリッツ
オルデンブルク自由じゆうしゅう 6.423,98 545.172 85 オルデンブルク
プロイセン自由じゆうしゅう 291.639,93 38.120.170 131 ベルリン
ザクセン自由じゆうしゅう 14.986,31 4.992.320 333 ドレスデン
シャウムブルク=リッペしゅう 340,30 48.046 141 ビュッケブルク
テューリンゲンしゅう 11.176,78 1.607.329 137 ワイマール
ヴァルデック=ピルモント自由じゆうしゅう 1055,43 55.816 53 アロルゼン
ヴュルテンベルク自由じゆう人民じんみんしゅう 19.507,63 2.580.235 132 シュトゥットガルト
ザールラント[ちゅう 11] 1.910,49 768.000 402 ザールブリュッケン
ドイツこく 468.116,13 62.410.619 134 ベルリン

文化ぶんか[編集へんしゅう]

20世紀せいき初頭しょとうはじまった表現ひょうげん主義しゅぎ運動うんどうはこの時代じだいおおきく開花かいかし、そのおおきな対象たいしょうひとつが映画えいがであった。「カリガリ博士はかせ」、「メトロポリス」など映画えいがのこ作品さくひんや、フリッツ・ラングエミール・ヤニングスめい監督かんとくマレーネ・ディートリヒ代表だいひょうされるだいスターもおおされた。

音楽おんがくでは表現ひょうげん主義しゅぎ最盛さいせいだいいち世界せかい大戦たいせん終了しゅうりょうしており、ヴァイマル共和きょうわせい時代じだいにはじゅうおと技法ぎほうや、表現ひょうげん主義しゅぎへの反動はんどうからまれたしんそくぶつ主義しゅぎしん古典こてん主義しゅぎ主流しゅりゅうとなった。オーストリアから移住いじゅうしてきたフランツ・シュレーカーアルノルト・シェーンベルクエルンスト・クルシェネクのほか、パウル・ヒンデミットクルト・ヴァイルハンス・アイスラーなどの作曲さっきょく活躍かつやく。クルシェネクの『ジョニーは演奏えんそうする』、ワイルの『三文さんもんオペラ』はカバレット文化ぶんか影響えいきょうけた時事じじオペラ英語えいごばん典型てんけいてきれいで、おおきな成功せいこうおさめた。演奏えんそうでは、ブルーノ・ワルターヴィルヘルム・フルトヴェングラーエーリヒ・クライバーオットー・クレンペラーなどの指揮しきしゃ活躍かつやくした。

美術びじゅつ分野ぶんやでは表現ひょうげん主義しゅぎ影響えいきょうけた構成こうせい主義しゅぎしんそくぶつ主義しゅぎ建築けんちく分野ぶんやではヴァルター・グロピウスミース・ファン・デル・ローエらによるバウハウス運動うんどう台頭たいとうした。

しかしナチスが政権せいけん掌握しょうあくすると、この時代じだいまれたあたらしい芸術げいじゅつはナチスによって退廃たいはい芸術げいじゅつとされておおきく抑圧よくあつされ、またユダヤけいはん体制たいせい演奏えんそう芸術げいじゅつ建築けんちく迫害はくがいされ、おおくのもの亡命ぼうめい余儀よぎなくされたり活動かつどう停止ていししたりしていった。

軍事ぐんじ[編集へんしゅう]

ヴェルサイユ条約じょうやくによって軍備ぐんびにはつよ制限せいげんがかけられていたが、ぐん共和きょうわせい指導しどうしゃ秘密裏ひみつり軍事ぐんじりょく維持いじしようとした。プロイセン王国おうこく以来いらい伝統でんとう参謀さんぼう本部ほんぶ禁止きんしされたが、兵務へいむきょくという維持いじされた。

また外貨がいか獲得かくとくやドイツの軍事ぐんじノウハウや技術ぎじゅつりょく維持いじ向上こうじょうするために、軍事ぐんじ援助えんじょ武器ぶき輸出ゆしゅつ活発かっぱつおこなわれた。中華民国ちゅうかみんこくボリビアひとしたいする援助えんじょは、にちちゅう戦争せんそうチャコ戦争せんそう活用かつようされた。

フライコール[編集へんしゅう]

退役たいえき軍人ぐんじん一部いちぶはフライコールやその偽装ぎそう団体だんたい流入りゅうにゅうしたが、これは兵力へいりょく維持いじするためのじゅん軍隊ぐんたいという側面そくめんもあり、現役げんえき軍人ぐんじん指導しどうてき立場たちばをとることおおかった。のち政治せいじ団体だんたいし、おおきな影響えいきょうりょくったものには鉄兜てつかぶとだんられている。

また、当時とうじ政治せいじ活動かつどうでは対立たいりつ勢力せいりょくによる暴力ぼうりょくてき妨害ぼうがい行為こうい日常にちじょう茶飯事さはんじであり、かれらの武力ぶりょく政治せいじ不可欠ふかけつのものとなった。このため政党せいとうじゅん軍事ぐんじ組織そしき保有ほゆうしており、社会しゃかい民主党みんしゅとう国旗こっきだん共産党きょうさんとう赤色あかいろ戦線せんせん戦士せんし同盟どうめい、ナチとう突撃とつげきたい親衛隊しんえいたい代表だいひょうてきなものとされる。この団体だんたい相互そうご武力ぶりょく衝突しょうとつやテロをかえし、治安ちあんじょう重大じゅうだい問題もんだいとなった。これらの団体だんたいはしばしば禁止きんし制限せいげん措置そちがとられたが解消かいしょうされることく、ナチス・ドイツの成立せいりつまで共和きょうわせい宿痾しゅくあとしてのこことになる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 正確せいかくうと、しん憲法けんぽう草案そうあん作成さくせいはシャイデマン政権せいけん以前いぜん社会しゃかい主義しゅぎ政権せいけん時点じてんすではじめられていた[43]人民じんみん委員いいん政府せいふ公法こうほうがく教授きょうじゅだったプロイス内務省ないむしょう次官じかんとしてまねき、プロイスに憲法けんぽう草案そうあん作成さくせい依頼いらい、1がつはじめに草案そうあん提出ていしゅつされた[43]
  2. ^ はやし『ワイマル共和きょうわこく』ではラーテナウの葬儀そうぎ演説えんぜつしたことになっているが、『ドイツ』3、p.146では国会こっかいでの演説えんぜつじょう発言はつげんである。
  3. ^ はやし『ワイマル共和きょうわこく』では共和きょうわこく保護ほごほう効果こうかあらわしたようにかれているが、『ドイツ 3』p.146では、実際じっさいには「十分じゅうぶん効果こうかをあげなかった」とかれている。当時とうじ裁判官さいばんかん帝政ていせい支持しじ保守ほしゅだい多数たすうで、裁判さいばん結果けっか右翼うよくあま左翼さよくきびしいものになったのが原因げんいんとしてあげられている[78][74]
  4. ^ はやし『ワイマル共和きょうわこく』p.95では、ヴィルトないかく瓦解がかい原因げんいんは、社会しゃかい民主党みんしゅとう左傾さけいしたため、人民じんみんとうとの連立れんりつ失敗しっぱいしたからだとかれている。
  5. ^ マルクス政権せいけん不安定ふあんていで、1924ねん5がつ26にち、マルクスが辞任じにんしたことでだい1マルクス内閣ないかく倒壊とうかい、6月3にちにはだい2マルクス政権せいけん発足ほっそくしたが、結局けっきょくそれも半年はんとししかもたなかった[98]。なお、マルクス政権せいけんはルター政権せいけん崩壊ほうかいのちさい登場とうじょうする。
  6. ^ 規定きていでは、だい1かい投票とうひょう立候補りっこうほしていなくても、だい2かい投票とうひょう立候補りっこうほできた[103]
  7. ^ 1925ねん12月5にちにはだい1ルターないかく辞職じしょく[98]よく1926ねん1がつ20日はつかだい2ルターないかく成立せいりつしたが[98]同年どうねん5がつ12にちにはだい2ルターないかく辞職じしょく[98]首相しゅしょうしょくふたたびマルクスがつとめることになった[98]。マルクス内閣ないかく比較的ひかくてき長保ながほちした部類ぶるいで、同月どうげつ16にちだい3マルクス内閣ないかく成立せいりつ[98]同年どうねん12がつ17にちだい3マルクス内閣ないかく辞職じしょく[98]、1927ねん1がつ29にちだい4マルクス内閣ないかく発足ほっそくしたが[98]、1928ねん6がつ12にちだい4マルクス内閣ないかく倒壊とうかい[106]、そのは、ふたたびヘルマン・ミュラーが政権せいけんにない、同月どうげつ28にちだい2ミュラー政権せいけん発足ほっそくした[106]
  8. ^ エーベルト大統領だいとうりょう時代じだいには大統領だいとうりょう緊急きんきゅうれいは135かい発令はつれいされている[142]。しかし、その内容ないようは、ほぼ憲法けんぽう趣旨しゅし沿ったものである[142]
  9. ^ この黙認もくにん政策せいさくは「寛容かんよう政策せいさく」とか「よりちいさなあくろん」とばれた[150]
  10. ^ 資料しりょうによっては日時にちじ多少たしょうずれている。エーリッヒ・アイク『ワイマル共和きょうわ国史こくしⅣ』巻末かんまつ年表ねんぴょう、p.52では、だい1ブリューニングないかく辞職じしょくは10月7にちのことで、だい2ブリューニングないかく成立せいりつは、同月どうげつ9にちのこととかれている。
  11. ^ ザールラントはヴェルサイユ条約じょうやく規定きていもとづいて、国際こくさい連盟れんめい管理かんり地域ちいき指定していされていた。ザールラントはナチス政権せいけん成立せいりつの1935ねんに、住民じゅうみん投票とうひょうによってドイツに復帰ふっきした。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  2. ^ Reichはドイツで「帝国ていこくくに」の意味いみだが、英語えいごの empire とはことなる。ライヒ参照さんしょうのこと。
  3. ^ 国号こくごうについては妥協だきょう産物さんぶつであり、憲法けんぽう1じょうには「ドイツこく共和きょうわこくである Das Deutsche Reich ist eine Republik.」と記述きじゅつされた。
  4. ^ はら四郎しろう 『ドイツ資本しほん主義しゅぎ せんあいだ研究けんきゅう桜井さくらい書店しょてん 2006ねん pp.145-151, p.204. フランスの短期たんき資本しほん焦点しょうてんをあてた叙述じょじゅつとなっている。
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    国際こくさい決済けっさい銀行ぎんこう調しらべによると、1931ねん3がつまつ時点じてんで、主要しゅようなドイツの銀行ぎんこう短期たんき負債ふさい56おくレンテンマルクのうち、37.1%はアメリカに、20.4%はイギリスに依存いぞんしていた。」
  6. ^ 西牟田にしむた祐二ゆうじ 世界せかいだい恐慌きょうこう債務さいむさい交渉こうしょう : 1933ねん5〜6がつベルリン債務さいむ会議かいぎ中心ちゅうしん 經濟けいざい研究けんきゅう 14, 101-127, 2011-01-20
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • 石田いしだ勇治ゆうじ長谷部はせべ恭男やすお『ナチスの「手口てぐち」と緊急きんきゅう事態じたい条項じょうこう集英社しゅうえいしゃ集英社しゅうえいしゃ新書しんしょ〉、2017ねんISBN 978-4-08-720896-2 
  • リタ・タルマン ちょ長谷川はせがわ公昭きみあき やく『ヴァイマル共和きょうわこく白水しろみずしゃ〈クセジュ文庫ぶんこ〉、2003ねんISBN 4-560-05865-2 
  • 成瀬なるせおさむ山田やまだ欣吾きんご木村きむら靖二やすじ へん『ドイツ』 3かん山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねんISBN 4-634-46140-4 
  • エーリッヒ・アイク『ワイマル共和きょうわ国史こくし』 Ⅳ 1931~1933、ぺりかんしゃ、1989ねんISBN 4831504505 
  • 多田ただしんすき「ナチズムの精神せいしん構造こうぞう : ドイツ精神せいしんへのいち視角しかく」『横浜よこはましょうだい論集ろんしゅう』37(1)、横浜商科大学よこはましょうかだいがく、2003ねん、68-89ぺーじNAID 110006000032 
  • Ian Kershaw (1998). Hilter 1889-1936 Hubris. Penguin Books. ISBN 978-0-14-192579-0 

関連かんれん書籍しょせき[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]