ヴィルヘルム2せい (ドイツ皇帝こうてい)

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ヴィルヘルム2せい
Wilhelm II.
ドイツ皇帝こうてい
プロイセン国王こくおう
ヴィルヘルム2せい(1902ねん
在位ざいい 1888ねん6月15にち - 1918ねん11月9にち

ぜん Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン
出生しゅっしょう 1859ねん1がつ27にち
プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこくベルリン皇太子こうたいし宮殿きゅうでんドイツばん
死去しきょ (1941-06-04) 1941ねん6月4にち(82さいぼつ
オランダの旗 オランダドールンドールンじょう
埋葬まいそう 1941ねん6月9にち
オランダの旗 オランダ、ドールン、ドールン城内きうち霊廟れいびょう
配偶はいぐうしゃ アウグステ・ヴィクトリア
(1881ねん - 1921ねん
  ヘルミーネ・ロイス・ツー・グライツ
(1922ねん - 1941ねん
子女しじょ
家名かめい ホーエンツォレルン
王室おうしつ 皇帝こうてい陛下へいかまんさい非公式ひこうしき
父親ちちおや フリードリヒ3せい
母親ははおや ヴィクトリア・フォン・ザクセン=コーブルク・ウント・ゴータ
サイン
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ヴィルヘルム2せいWilhelm II., 1859ねん1がつ27にち - 1941ねん6月4にち)は、だい9だいプロイセン国王こくおうだい3だいドイツ皇帝こうてい在位ざいい1888ねん6月15にち - 1918ねん11月9にち)。ぜんフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセンFriedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)。史上しじょう最後さいごのドイツ君主くんしゅ

概要がいよう[編集へんしゅう]

プロイセン王子おうじフリードリヒ(フリードリヒ3せい)とイギリス王女おうじょヴィクトリア長男ちょうなんとしてベルリンまれる。1888ねん祖父そふヴィルヘルム1せいちちフリードリヒ3せい相次あいついで崩御ほうぎょしたことにより29さいでドイツ皇帝こうてい・プロイセンおう即位そくいした。祖父そふ治世ちせいにおいてながきにわたり宰相さいしょうつとめたオットー・フォン・ビスマルク侯爵こうしゃく辞職じしょくさせて親政しんせい開始かいしし、治世ちせい前期ぜんきには労働ろうどうしゃ保護ほごなど社会しゃかい政策せいさくちかられ、社会しゃかい主義しゅぎしゃ鎮圧ちんあつほう延長えんちょうさせずに廃止はいしした。しかしその保守ほしゅつよめ、社会しゃかい政策せいさくにも消極しょうきょくてきになっていった。1908ねんデイリー・テレグラフ事件じけん以降いこう政治せいじてき権力けんりょくおおきくとした。

一方いっぽう外交がいこうでは一貫いっかんして帝国ていこく主義しゅぎ政策せいさく推進すいしんし、海軍かいぐんりょく増強ぞうきょうしてあらたな植民しょくみん獲得かくとくねらったが、イギリスフランスロシアなど帝国ていこく主義しゅぎこく対立たいりつふかめ、最終さいしゅうてきだいいち世界せかい大戦たいせんまねいた。オーストリア=ハンガリー帝国ていこくオスマン帝国ていこくブルガリア王国おうこく同盟どうめいむすんでイギリス、フランス、ロシアを相手あいてに4ねん以上いじょうにわたって消耗しょうもうせんそう力戦りきせんたたかうこととなった。1916ねんパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥げんすいエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵ほへい大将たいしょうによる軍部ぐんぶ独裁どくさい体制たいせい成立せいりつすると、ほとんど実権じっけん喪失そうしつした。大戦たいせん末期まっきには膨大ぼうだいかず死傷ししょうしゃ負担ふたんえきれなくなった国民こくみんあいだ不満ふまんたかまり、ドイツ革命かくめい発生はっせいするにいたった。革命かくめいしずめるために立憲りっけん君主くんしゅせい移行いこうする憲法けんぽう改正かいせいおこなったが、革命かくめい機運きうんおさまらず、結局けっきょくオランダ亡命ぼうめいして退位たいいすることになった。そのままなしくずてきにドイツは共和きょうわせいヴァイマル共和きょうわせい)へ移行いこうし、ホーエンツォレルンはドイツ皇室こうしつ・プロイセン王室おうしつとしての歴史れきしえた。

ヴィルヘルム2せい自身じしん戦後せんごもオランダのドールンで悠々自適ゆうゆうじてきらし、ドイツ国内こくない帝政ていせい復古ふっこ運動うんどう支援しえんした。1925ねんにドイツ大統領だいとうりょうとなったヒンデンブルクは帝政ていせい復古ふっこであったが、ドイツ国内こくない議会ぎかい状況じょうきょうから帝政ていせい復古ふっこ実現じつげんせず、最終さいしゅうてきはん帝政ていせいアドルフ・ヒトラーによる独裁どくさい体制たいせい誕生たんじょうしたことにより復位ふくい可能かのうせいはなくなった。どくせん目前もくぜんにした1941ねん6がつ4にちにドールンで逝去せいきょした。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

生誕せいたん[編集へんしゅう]

1859ねん1がつ27にちプロイセン王国おうこく首都しゅとベルリンウンター・デン・リンデン皇太子こうたいし宮殿きゅうでんドイツばんまれる[1][2]

どきのプロイセンおうおいであるフリードリヒ王子おうじ(のちのだい2だいドイツ皇帝こうていだい8だいプロイセンおうフリードリヒ3せい)とそのヴィクトリア(イギリス女王じょおうヴィクトリア長女ちょうじょ)のあいだだいいち王子おうじだった[2][3][4]

3月5にち洗礼せんれいけてフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名付なづけられた。フリードリヒやヴィルヘルムはホーエンツォレルン伝統でんとうてき名前なまえであり、ヴィクトールとアルベルトは祖父母そふぼにあたるえい女王じょおうヴィクトリアとそのおうはいアルバートからもらった名前なまえである(ヴィクトールはヴィクトリアの男性だんせいがた、アルベルトはアルバートのドイツみ)。ポツダム宮殿きゅうでんそだてられることとなった[5]

ヴィルヘルムは「逆子さかご」であり、難産なんざんまれた[6][7]後遺症こういしょうひだり半身はんしん障害しょうがいがあり、平衡へいこう感覚かんかくなんがあった[6][# 1]

ヴィルヘルムがまれたとし、プロイセンおうはヴィルヘルムの大伯父おおおじにあたるフリードリヒ・ヴィルヘルム4せいであったが、かれにはがなく、しかもこのころには重度じゅうど精神病せいしんびょうわずらっていたのでおうおとうと、つまりヴィルヘルムの祖父そふであるヴィルヘルム王子おうじ(ヴィルヘルム1せい摂政せっしょうとしてプロイセンの統治とうちにあたっていた。祖父そふは1861ねん正式せいしきだい7だいプロイセンおう即位そくいし、1862ねんオットー・フォン・ビスマルク宰相さいしょうにんじてしょうドイツ主義しゅぎ(プロイセン中心ちゅうしんのドイツ)のドイツ統一とういつ事業じぎょうすすめていった[9]

幼少ようしょう少年しょうねん[編集へんしゅう]

おさなころからけんつよかったといい、おさないヴィルヘルムをロシア帝国ていこく外相がいしょうアレクサンドル・ゴルチャコフは「おさなホーエンツォレルンは、プロイセンの歴代れきだい国王こくおうなかでももっと異彩いさいはなつであろう。やがてはドイツの中心ちゅうしん機関きかんとなって、世界せかいにそのしめすにちがいない。その時機じき到来とうらいするときにはかならヨーロッパおどろかせることをするだろう。」と予言よげんしたという[4]。またおさなころから海上かいじょう興味きょうみしめし、7さいのころには水兵すいへいたちからうみ伝説でんせつについて興味深きょうみぶかそうにいていたという[10]

カルヴァンゲオルク・ヒンツペータードイツばん博士はかせ教育きょういくがかりとなり、厳格げんかく教育きょういくけた[11]。しかしインテリであったははヴィクトリアはヴィルヘルムに非常ひじょうおおくのことを要求ようきゅうしたため、ははからの評価ひょうかはいつもひくかったという[7][12]。また彼女かのじょはヴィルヘルムが身体しんたい障害しょうがいしゃであることもひそかにきらっていたという[8]。これがははへの憎悪ぞうお、ひいてはイギリスへの憎悪ぞうおつながったといわれる[7]

1869ねん1がつ27にちに10さい誕生たんじょうむかえるとだい1近衛このえ歩兵ほへい連隊れんたいドイツばん入隊にゅうたいし、少尉しょうい(Leutnant)に任官にんかんした(即位そくいまでに少将しょうしょうまで昇進しょうしん[5][13][14]。ポツダムの近衛このえ将校しょうこうだんかこまれてフリードリヒ大王だいおう以来いらいのプロイセン軍国ぐんこく主義しゅぎふか心酔しんすいしていった[15][16]。しばしばイギリスの自由じゆう主義しゅぎてき制度せいどとなえたがる「イギリスおんな」のヴィクトリアはかれ近衛このえ将校しょうこうだん憎悪ぞうお対象たいしょうであった[16]。1870ねんひろしふつ戦争せんそう発生はっせいするとヴィルヘルムも従軍じゅうぐん希望きぼうしたが、年少ねんしょうすぎるとしてみとめられず、軍人ぐんじんとしての無念むねんさをうったえていたという[15]

ひろしふつ戦争せんそうちゅう1871ねん1がつ18にち祖父そふであるプロイセン国王こくおうヴィルヘルム1せいドイツ皇帝こうてい(カイザー)に即位そくいし、ドイツ帝国ていこく成立せいりつした。この直後ちょくごにヴィルヘルムが12さいになるとはは同様どうよう自由じゆう主義しゅぎてきだったちちフリードリヒ皇太子こうたいしは「わたし跡継あとつぎとして公平こうへい無私むしになることを希望きぼうする」としてヴィルヘルムを普通ふつう児童じどうかよ小学校しょうがっこう入学にゅうがくさせることを布告ふこくした[17]。ヴィルヘルムは小学校しょうがっこう卒業そつぎょう1874ねんカッセルのヴィルヘルムスヘーエ(Wilhelmshöhe)の離宮りきゅううつり、おなじく普通ふつう子供こどもたちがかよ同地どうちギムナジウム入学にゅうがくした[2][18]。ヴィルヘルムが普通ふつう児童じどう学校がっこうかようことになったのはヒンツペーター博士はかせははヴィクトリアの相談そうだん結果けっかであるという[11]市民しみんてき教育きょういくあたえるためであったが、保守ほしゅてきなヴィルヘルム1せい帝国ていこく宰相さいしょうオットー・フォン・ビスマルク侯爵こうしゃくはこれに反対はんたいしていた[15]

学校がっこうでの教育きょういくほか、ヒンツペーター博士はかせ教育きょういくつづけられた。フェンシング乗馬じょうば製図せいず訓練くんれんもあり、あさ5からよる10までつづくという過密かみつ教育きょういくだった[11]学校がっこう成績せいせき上位じょういであり、1877ねん1がつにギムナジウムを卒業そつぎょうしたときにはだい10好成績こうせいせきであり、表彰ひょうしょうけている[19]。とりわけ語学ごがくすぐれており、英語えいごフランス語ふらんすご自由じゆうあつかえるようになり、ギリシア古典こてんもよくんでいた[20]

ヴィルヘルムとははヴィクトリアの関係かんけい悪化あっか一途いっとをたどった。ヴィクトリアは息子むすこについて「旅行りょこうしても博物館はくぶつかんには興味きょうみしめさず、風景ふうけいうつくしさにも価値かち見出みいださず、まともなほんまなかった」「ヴィルヘルムには謙虚けんきょさ、善意ぜんい配慮はいりょけており、かれ高慢こうまんで、エゴイストで、しんがぞっとするほどつめたい」などと酷評こくひょうするほどだった[11][12]。ビスマルクはヴィルヘルム1せい崩御ほうぎょした場合ばあい自由じゆう主義しゅぎてきなフリードリヒ皇太子こうたいしやヴィクトリアのした帝国ていこく自由じゆう主義しゅぎすることを懸念けねんしていた。そのためビスマルクもこのヴィルヘルムとヴィクトリアのあらそいを「ドイツのしん継承けいしょうしゃたい「イギリスおんな」としてあおり、ヴィルヘルムにイギリスや自由じゆう主義しゅぎへの敵意てきいつよめさせることにつとめた[21]

祖父そふヴィルヘルム1せいもプロイセン保守ほしゅてき人物じんぶつであったから、自由じゆう主義しゅぎてき息子むすこフリードリヒよりも保守ほしゅてきそだっていくまごヴィルヘルムに期待きたいしており、ヴィルヘルムは祖父そふから大変たいへん可愛かわいがられた[22]。ヴィルヘルムもちちではなく祖父そふ模範もはんとしてそだっていった[23]

青年せいねん[編集へんしゅう]

祖父そふドイツ皇帝こうていヴィルヘルム1せいからくろわし勲章くんしょう受勲じゅくんするヴィルヘルムをえがいたエミール・デープラー肖像しょうぞう

1877ねん1がつに18さいたっして成人せいじんした。祖父そふヴィルヘルム1せいよりプロイセン最高さいこう勲章くんしょうであるくろわし勲章くんしょう祖母そぼヴィクトリアえい女王じょおうよりイギリス最高さいこう勲章くんしょうであるガーター勲章くんしょう授与じゅよされた[20]。10月にボン大学だいがく入学にゅうがくした[20][24]ねん在学ざいがくちゅう国際こくさいほう哲学てつがく文学ぶんがく経済けいざいがくなどをまなんだ[20]在学ざいがくちゅうどう大学だいがく学生がくせい組合くみあいひとつ、ケーゼナー・コーアに加入かにゅうした[25]大学だいがく在学ざいがくちゅうの1878ねん9がつ訪英ほうえいし、ヴィクトリア女王じょおう謁見えっけんけた[24]

このころ、シュレースヴィヒ=ホルシュタインこうおんなアウグステ・ヴィクトリアとの結婚けっこん希望きぼうするようになったが、ホルシュタインはドイツ帝国ていこく建設けんせつにあたって排斥はいせきけたいえだったので、反対はんたい根強ねづよかった[26]。これにたいしてヴィルヘルムは「この結婚けっこん成立せいりつすればホルシュタインのホーエンツォレルンへの悪感情あくかんじょうえるであろう。ドイツ帝国ていこくのためこれほどよろこばしい婚姻こんいんはないではないか。」と反論はんろんし、婚姻こんいんみとめさせたという[27]1880ねん6月3にち婚姻こんいん成立せいりつし、1881ねん1がつ27にち挙式きょしきした[27]二人ふたりはポツダムの大理石だいりせき宮殿きゅうでんドイツばん新婚しんこん生活せいかつはじめた[20]彼女かのじょとのあいだ1882ねん5月6にち長男ちょうなんヴィルヘルム(つまりすめらぎ曾孫そうそん)をもうけた。その次々つぎつぎをなし、けい7にんめぐまれた[2]

ヴィルヘルムは保守ほしゅてき近衛このえ将校しょうこうだん影響えいきょうけながら成長せいちょうし、またおなじような政治せいじ傾向けいこうフィリップ・ツー・オイレンブルク伯爵はくしゃくをはじめとするロマンチックな若手わかてグループとしたしいいがあった[23]。このオイレンブルクとは同性愛どうせいあい関係かんけいであったという[# 2]皇帝こうていとなったのちヴィルヘルム2せいはオイレンブルクの爵位しゃくい伯爵はくしゃくから侯爵こうしゃく昇進しょうしんさせ、オイレンブルクの所領しょりょうリーベンベルク(de)によくあしはこび、そこで狩猟しゅりょう同性愛どうせいあいたのしんだという。このは「リーベンベルクの円卓えんたく」とばれ、ここから政治せいじ決定けっていおこなわれる場合ばあいおおかったという[30]。しかしはじめのうちオイレンブルクは政治せいじかかわりたがらず、二人ふたり関係かんけいにいちはやづいた「灰色はいいろ殿下でんか」の異名いみょう外務省がいむしょう参事官さんじかんフリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタインがオイレンブルクをつうじてヴィルヘルムに影響えいきょうおよぼしていた[31]。ホルシュタインはロシアとオーストリア=ハンガリーを同時どうじにつなぎとめようとするビスマルク外交がいこうひややかにていた[32]

またナチス酷似こくじしたはんユダヤ主義しゅぎ政党せいとうキリスト教きりすときょう社会党しゃかいとうドイツばん指導しどうしゃ牧師ぼくしアドルフ・シュテッカードイツばん宮廷きゅうてい説教せっきょうとしてヴィルヘルムに影響えいきょうあたえた。シュテッカーによれば君主くんしゅには大衆たいしゅう王権おうけん和解わかいさせる社会しゃかいてき使命しめいがあり、それはキリストきょう連携れんけいみ、近代きんだい資本しほん主義しゅぎ弊害へいがいとその権化ごんげであるユダヤじん排斥はいせきすることによってのみ達成たっせいされるのだという[23]。これはすなわち保守ほしゅ中央ちゅうおうとう連携れんけいうったえる主張しゅちょうであり、保守ほしゅ自由じゆう主義しゅぎしゃ連携れんけいによる「カルテル」政治せいじおこなうビスマルクを否定ひていするものであった[23]。ヴィルヘルムは友人ゆうじんアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー将軍しょうぐん邸宅ていたくひらかれたシュテッカーの集会しゅうかい参加さんかして話題わだいになった。これにたいしてビスマルクはヴィルヘルムに「殿下でんか皇位こうい継承けいしょうしゃとしてはやくも世論せろんから特定とくてい党派とうはぞくしていると看做みなされないよう注意ちゅういしなければならない。自由じゆう主義しゅぎ時代じだいもあれば、反動はんどう時代じだいもあり、また武力ぶりょく支配しはい時代じだいもあるだろう。支配しはいしゃたるしゃは、君主くんしゅせい危機ききおとしいれぬためにそのような事態じたいうつわりにそなえて行動こうどう自由じゆうのこしてかなければならない。」という苦言くげんていしている[33]

ドイツ皇帝こうてい・プロイセンおう即位そくい[編集へんしゅう]

1888ねん即位そくいまもないヴィルヘルム2せい

1888ねん3月9にち祖父そふであるドイツ皇帝こうてい・プロイセンおうヴィルヘルム1せいが91さい崩御ほうぎょした。ちちフリードリヒ皇太子こうたいしフリードリヒ3せいとしてドイツ皇帝こうてい・プロイセンおう即位そくいし、ヴィルヘルムはその皇太子こうたいしとなった。しかしフリードリヒ3せい即位そくいすでに不治ふじやまいにかかっていた。フリードリヒ3せいはビスマルクの片腕かたうでである保守ほしゅ内相ないしょうロベルト・フォン・プットカマードイツばん解任かいにんし、自由じゆう主義しゅぎしゃとしての矜持きょうじしめしたのち、6月15にち在位ざいい99にちにして崩御ほうぎょした[2][34][35][36][37][38]

皇太子こうたいしヴィルヘルムがただちに即位そくいし、ヴィルヘルム2せいとしてだい3だいドイツ皇帝こうていだい9だいプロイセンおうとなった。当時とうじ29さいであった[35][39]帝政ていせいドイツでは議会ぎかいくらべて皇帝こうていおおきな権力けんりょくがあったため、国政こくせいには皇帝こうてい意志いしおおきく反映はんえいされた。そのためドイツ皇帝こうていは「世界せかいもっとちからのある玉座ぎょくざ」ともひょうされていた[39][40]

即位そくいしたばかりのころのヴィルヘルム2せい覇気はき満々まんまん親政しんせい決意けついしていた[41]。「ホーエンツォレルン使命しめい」にけた自由じゆう主義しゅぎしゃちちはやくなり、自分じぶんわかくして皇帝こうていとなったことを運命うんめいてきとらえていたという[42]

ヴィルヘルム2せいちち崩御ほうぎょるとただちにポツダムちち宮殿きゅうでん軍隊ぐんたい派遣はけんして宮殿きゅうでん包囲ほういし、ははヴィクトリアを一時いちじてき幽閉ゆうへいしている[11]。これはちちフリードリヒ3せいがヴィルヘルム2せい政策せいさく性格せいかく批判ひはんしている日記にっきをつけていたためという。それをっていたヴィルヘルム2せいははヴィクトリアがイギリスか市民しみんにその日記にっきらすとうたがっていたらしい[43][44]

またヴィルヘルム2せいちち解任かいにんされたプットカマーを内相ないしょうもどそうとかんがえていたが、ビスマルクが「わか君主くんしゅ先代せんだい拒否きょひされたものかかわるべきではない」として反対はんたいしたため沙汰さたやみとなった[45]

戦前せんぜん治世ちせい[編集へんしゅう]

内政ないせい[編集へんしゅう]

宰相さいしょうビスマルク時代ときよ[編集へんしゅう]
英国えいこくパンチ』のビスマルク辞職じしょくえがいた挿絵さしえ水先案内みずさきあんないじん下船げせん(en)」

1889ねん5がつルール地方ちほう炭鉱たんこう労働ろうどうしゃだい規模きぼストライキこした。これにたいしてビスマルクは自由じゆう主義しゅぎブルジョワが社会しゃかい主義しゅぎ勢力せいりょくをもっと危険きけんするよう紛争ふんそう解決かいけつ当事とうじしゃまかせようとかんがえ、私有しゆう財産ざいさん保護ほごのために警察けいさつ軍隊ぐんたい投入とうにゅうする以上いじょうのことはなにもしなかった[46]

一方いっぽう、ヴィルヘルム2せい事前じぜん通告つうこくなしで突然とつぜん閣議かくぎんで経営けいえいしゃたちを批判ひはんして労働ろうどうしゃ支持しじ表明ひょうめいした[47][48]。5月14にちにはベルリンをおとずれたさんにん工夫くふう代表だいひょうしゃ引見いんけんし、ドイツ社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとうドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう前身ぜんしん)の扇動せんどうにのって公共こうきょう安全あんぜんおびやかす行為こういめるよう要求ようきゅうする一方いっぽうかれらの陳情ちんじょうみみかたむけた[48][49]企業きぎょうたちにたいしては労働ろうどうしゃ賃金ちんぎん上昇じょうしょうおうじるようもとめ、おうじないのであれば治安ちあん維持いじにあたらせている軍隊ぐんたい撤収てっしゅうさせるとおどけた[49]。またこの地域ちいきぐん司令しれいかん報告ほうこくしょんでヴェストファーレンけんドイツばん知事ちじロベルト・エドゥアルト・フォン・ハーゲマイスタードイツばん怠慢たいまんだんじてビスマルクにその更迭こうてつめいじた[48]

ヴィルヘルム2せいはストライキと社会しゃかい主義しゅぎ労働ろうどうしゃとうとの関連かんれんせい否定ひていし、またストライキが長引ながびけば石炭せきたん不足ふそくし、安全あんぜん保障ほしょうにも影響えいきょうすると懸念けねんしていたが、ビスマルクはこのあらそいを期限切きげんぎれがせまっている社会しゃかい主義しゅぎしゃ鎮圧ちんあつほう更新こうしんのための社会しゃかい主義しゅぎ勢力せいりょくへの攻撃こうげき材料ざいりょうにすることにのみ専心せんしんしていた[46]

ビスマルクは毎年まいとしすうげつ領地りょうちかえくせがあったが、このとしも6がつには領地りょうちかえり、翌年よくねん1がつまでベルリンを不在ふざいにした。このあいだにヴィルヘルム2せいたいロシア強硬きょうこうのヴァルダーゼー将軍しょうぐん外務省がいむしょう参事官さんじかんホルシュタイン、はんユダヤ主義しゅぎしゃのシュテッカーなどはんビスマルク影響えいきょうつよけるようになった[32][50][51]。またヒンツペーター教授きょうじゅ社会しゃかい問題もんだい積極せっきょくてきむべきだといていた[50]。ヴィルヘルム2せいは、ヒンツペーター教授きょうじゅをはじめとして労働ろうどうしゃ問題もんだいつうじた識者しきしゃ助言じょげんしゃにして労働ろうどうしゃ保護ほごみことのりれい準備じゅんび開始かいしした[52]

しかしビスマルクの方向ほうこうせいはそれとはせい反対はんたいであり、かれ期限切きげんぎれがせまっている社会しゃかい主義しゅぎしゃ鎮圧ちんあつほう期限きげん延長えんちょう法案ほうあんを10がつ帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつした。1890ねん1がつ24にち御前ごぜん会議かいぎにおいてヴィルヘルム2せいふたたび「ドイツ企業きぎょう労働ろうどうしゃをレモンのようにしぼっている」こと批判ひはんし、「わたし貧者ひんじゃおうたることをほっする」と宣言せんげんした[53]。ヴィルヘルム2せい社会しゃかい主義しゅぎしゃ鎮圧ちんあつほうについて追放ついほう条項じょうこう[# 3]削除さくじょもとめてビスマルクとはげしい論争ろんそうをした。ヴィルヘルム2せいはビスマルクが社会しゃかい主義しゅぎしゃ鎮圧ちんあつほう否決ひけつじょうじて内乱ないらんこそうとしているとかんじ、「治世ちせい初期しょき臣民しんみんまることのぞまない」とくぎした[55][56]

1890ねん2がつ1にちには日曜日にちようび労働ろうどう禁止きんし女性じょせい少年しょうねん夜間やかん労働ろうどう地下ちか労働ろうどう禁止きんし労働ろうどうしゃ保護ほご国際こくさい会議かいぎのベルリン開催かいさいびかけなどの条項じょうこうふく労働ろうどうしゃ保護ほごみことのりれいの「がつみことのりれいドイツばん」がはっせられた[57]保守ほしゅてきなビスマルクはこのみことのりれい反発はんぱつし「社会しゃかい問題もんだいはもはや薔薇ばら香水こうすい解消かいしょうできない。てつ解決かいけつされる」などとべた[58]。ビスマルクはこのみことのりれいへの副署ふくしょ拒否きょひしたうえ、ベルリン労働ろうどうしゃ保護ほご国際こくさい会議かいぎ開催かいさい妨害ぼうがい工作こうさくおこなった[59]。このけんでヴィルヘルム2せいはビスマルクに決定的けっていてき嫌悪けんおかんったという[60]

1890ねん2がつ20日はつか帝国ていこく議会ぎかい選挙せんきょはビスマルクをささえる「カルテル」3とう保守党ほしゅとう帝国ていこくとう国民こくみん自由党じゆうとう)の敗北はいぼくわった。ビスマルクはさき帝国ていこく議会ぎかい否決ひけつされた社会しゃかい主義しゅぎ鎮圧ちんあつほう再度さいど提出ていしゅつし、また否決ひけつ確実かくじつ軍制ぐんせい改革かいかく法案ほうあん一緒いっしょ提出ていしゅつして議会ぎかいとの紛争ふんそう状態じょうたいつくることでクーデタをこすことを計画けいかくした[31][57][61]。さらに3がつ2にち閣議かくぎでビスマルクはヴィルヘルム2せいふうめようと1852ねんプロイセン閣議かくぎ命令めいれい[# 4]遵守じゅんしゅ閣僚かくりょうたちにもとめたが、これにヴィルヘルム2せい激怒げきどし、3月5にちにブランデンブルクしゅう議会ぎかいでの演説えんぜつにおいて「わたしさえぎもの粉砕ふんさいする」と宣言せんげんした[62][63]

ビスマルクをこと決意けついしたヴィルヘルム2せいは、ビスマルクに帝国ていこく議会ぎかいとの協調きょうちょうのうえでの法案ほうあん成立せいりつさせることをめいじることでかれたくらむクーデタのみちふさ[64]、1890ねん3がつ18にちにビスマルクを辞任じにんいやった[57][65]。ここに1862ねん以来いらいのプロイセン宰相さいしょう、1871ねん以来いらいドイツ帝国ていこく宰相さいしょうであるビスマルクは退任たいにんした[57]

即位そくいまえのヴィルヘルム2せいはドイツ帝国ていこく建設けんせつしゃであるビスマルクを尊敬そんけいしていたが、即位そくいには親政しんせい邪魔じゃま存在そんざいとなっていた[11]。ヴィルヘルム2せいは「いた水先案内みずさきあんないじんわってわたしがドイツというあたらしいふね当直とうちょく将校しょうこうになった」とべ、これによって社会しゃかい主義しゅぎしゃ鎮圧ちんあつほう延長えんちょうされないことが最終さいしゅうてき確定かくていされると同時どうじに「世界せかい政策せいさく」とばれる帝国ていこく主義しゅぎてき膨張ぼうちょう政策せいさく展開てんかいされていくことになる[66]。しかし列強れっきょう既得きとくけんとぶつかるこれらの政策せいさくは、軍事ぐんじりょく背景はいけい露骨ろこつ示威じい行動こうどうとおして実行じっこうされ、ロシア帝国ていこくイギリス帝国ていこくとの関係かんけい悪化あっかさせることになる。

宰相さいしょうカプリヴィ時代じだい[編集へんしゅう]

ビスマルクの後任こうにんのドイツ帝国ていこく・プロイセン王国おうこく宰相さいしょうには海軍かいぐん大臣だいじんレオ・フォン・カプリヴィにんじられた。かれひろしふつ戦争せんそう活躍かつやくした軍人ぐんじんであり、政治せいじ経験けいけんはなかったが、人望じんぼうあつく、ろう皇帝こうていヴィルヘルム1せいもビスマルクが辞職じしょくするときには後任こうにん宰相さいしょうに、とかんがえていた人物じんぶつであった。ビスマルクも辞職じしょくさい後任こうにん宰相さいしょうとしてかれ推挙すいきょしている[67][68]。またカプリヴィはホルシュタインが影響えいきょうりょくっている人物じんぶつでもあり、ホルシュタインとビスマルクの妥協だきょう人事じんじであったともいえる[69]

ヴィルヘルム2せいとカプリヴィは、ビスマルク時代じだい方針ほうしん転換てんかんして、労働ろうどうしゃ保護ほご政策せいさく推進すいしんした。この方針ほうしん転換てんかんは「しん航路こうろ (Neue Kurs) 」とばれた(ヴィルヘルム2せいは「航路こうろ従来じゅうらいのまま、ぜんそく前進ぜんしん」とべていたが、実際じっさいにはビスマルク時代じだいからおおきな変更へんこうくわえられたことから新聞しんぶんなどによってこうばれるようになった[70][71])。1890ねん5がつに「労働ろうどう裁判所さいばんしょかんする法律ほうりつ」と「営業えいぎょう条例じょうれい改正かいせいかんする法律ほうりつ」の法案ほうあん帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつし、1890ねん6がつに「労働ろうどう裁判所さいばんしょかんする法律ほうりつ」がほぼ修正しゅうせいなしで決議けつぎされた。これにより労働ろうどう争議そうぎ調停ちょうていする裁判所さいばんしょ設置せっちされることとなった。この労働ろうどう裁判所さいばんしょ陪審ばいしんいん雇用こようしゃ労働ろうどうしゃ代表だいひょうから半々はんはんずつされ、労働ろうどうしゃ労働ろうどう争議そうぎさいして雇用こようしゃ対等たいとう立場たちば議論ぎろんできる画期的かっきてき制度せいどであった[72]営業えいぎょう条例じょうれい改正かいせい法案ほうあんほうは1891ねん成立せいりつし、これは「2がつみことのりれい」で予告よこくした日曜にちよう労働ろうどう禁止きんし女性じょせい夜勤やきん禁止きんし、13さい以下いか少年しょうねん労働ろうどう禁止きんし、また16さい以下いか男女だんじょ労働ろうどう時間じかん上限じょうげんをそれぞれ10あいだ、11あいだ制限せいげんし、現物げんぶつ賃金ちんぎん支払しはらいも禁止きんしするものだった[67]

こうした「しん航路こうろ政策せいさくおこなわれた背景はいけいには、与党よとう「カルテル」3とうがぼろぼろになったいま左派さは自由じゆう主義しゅぎ勢力せいりょく中央ちゅうおうとう懐柔かいじゅうしたいという思惑おもわくがあった[73]。そして労働ろうどうしゃドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう (SPD) からはなし、政府せいふ支持しじさせる意図いとがあった[74]

しかし、カプリヴィは1892ねん初頭しょとう帝国ていこく議会ぎかいだいいちとうであるカトリック政党せいとう中央ちゅうおうとう迎合げいごうするため、ビスマルク時代じだい徹底的てっていてき分離ぶんりされた教育きょういく教会きょうかいふたたむすびつけようとして、カトリック教会きょうかい教育きょういくへの介入かいにゅう大幅おおはばみとめる学校がっこう教育きょういくほう法案ほうあん議会ぎかい提出ていしゅつした。これは議会ぎかいない自由じゆう主義しゅぎ勢力せいりょくはげしい反発はんぱつまねき、廃案はいあんまれた[75]。ヴィルヘルム2せいもカプリヴィの提出ていしゅつしたこの法案ほうあんたいして「絶対ぜったい反対はんたい」の立場たちばしめした[76]。これはフィリップ・ツー・オイレンブルクがヴィルヘルム2せいに「学校がっこう教育きょういくほう中道ちゅうどう政党せいとう共同きょうどうしておこなうべきで自由じゆう主義しゅぎ勢力せいりょくいかりが帝政ていせいかってこないようにしなければならない」と手紙てがみおくったためであるらしい[76]。このさわぎで1892ねん3がつにカプリヴィはプロイセン宰相さいしょうしょくしてドイツ帝国ていこく宰相さいしょうしょくのみにまることとなった[75]後任こうにんのプロイセン宰相さいしょうにはオイレンブルクのあにであるボート・ツー・オイレンブルク伯爵はくしゃくにんじられた。ドイツ帝国ていこく宰相さいしょうとプロイセン王国おうこく宰相さいしょうしょく分離ぶんりしたことはカプリヴィの権力けんりょくよわめることとなった[75]

カプリヴィは1893ねんに「しょう通商つうしょう条約じょうやく」を可決かけつさせ、1894ねんにはロシアとのあいだ通商つうしょう条約じょうやくむすぶなど自由じゆう貿易ぼうえき政策せいさく推進すいしんしたが、農業のうぎょう関税かんぜいげに激怒げきどした国内こくない農業のうぎょう勢力せいりょくはげしい反発はんぱつにあった[77]

しん航路こうろ政策せいさくによって労働ろうどうしゃ政府せいふ支持しじてんじるとおもっていたヴィルヘルム2せいだったが、かれはその効果こうかをあまりに性急せいきゅうもとめたために効果こうかうすいとかんじるようになり、「しん航路こうろ政策せいさく疑問ぎもんかんじるようになった。そこでふたた弾圧だんあつ法規ほうき路線ろせんもどった[74]。1894ねん9がつ、ヴィルヘルム2せいとボート・ツー・オイレンブルクは「転覆てんぷく政党せいとうたいするたたかい」としょうして「転覆てんぷく防止ぼうしほう (Umsturzgesetz) 」という政府せいふへの政治せいじてき反対はんたい行為こうい処罰しょばつ強化きょうかする法律ほうりつ提起ていきした[74]議会ぎかい反発はんぱつうことをおそれたカプリヴィがこれに反対はんたいし、結局けっきょくヴィルヘルム2せいは1894ねん10がつ26にちにカプリヴィもボートもそろって宰相さいしょうしょくから罷免ひめんした[77]。この決定けっていもリーベンベルクにおいて、つまりオイレンブルクとヴィルヘルム2せいによって決定けっていされたようである。オイレンブルクは1894ねん初頭しょとうごろからホルシュタインとヴィルヘルム2せいあいだ仲介ちゅうかいしているだけの存在そんざいから卒業そつぎょうし、ヴィルヘルム2せい独立どくりつして影響えいきょうりょく発揮はっきするようになっていた[78]

カプリヴィ時代じだいわると「しん航路こうろ」もわりをむかえた[77]

宰相さいしょうホーエンローエ時代じだい[編集へんしゅう]

カプリヴィの後任こうにんとしてドイツ・プロイセン宰相さいしょう就任しゅうにんしたクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト侯爵こうしゃく帝国ていこく議会ぎかいおもんじ、「転覆てんぷく防止ぼうし法案ほうあん」などの弾圧だんあつ法規ほうきドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう(SPD)や中央ちゅうおうとう自由じゆう主義しゅぎ勢力せいりょくとの不毛ふもう対立たいりつまねくと反対はんたいしていたのだが[79]かれ指導しどうりょくかったため皇帝こうていやその側近そっきん意向いこう無視むしできない立場たちばにあり、結局けっきょく転覆てんぷく防止ぼうし法案ほうあん」を議会ぎかい提出ていしゅつせざるをなくなった[79]

しかしすでに弾圧だんあつ法規ほうき思想しそう後退こうたいしており、そうした法案ほうあん議会ぎかい可決かけつさせるのはむずかしかった。1894ねん年末ねんまつ帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつされた「転覆てんぷく防止ぼうし法案ほうあん」は1895ねん5がつ1にち否決ひけつされている[80][81]。1897ねん5がつには公安こうあんみだおそれのある集会しゅうかい解散かいさんめいじる権利けんり警察けいさつみとめる内容ないようの「結社けっしゃほう改正かいせい法案ほうあん」がプロイセン王国おうこく議会ぎかい下院かいん提出ていしゅつされたが、やはり否決ひけつされた。1899ねん6がつに「懲役ちょうえき法案ほうあん」とばれた「工場こうじょう労働ろうどう関係かんけい保護ほご法案ほうあん」(労働ろうどうしゃ団結だんけつけんうばい、ストやぶりを妨害ぼうがいしようとしたもの禁固刑きんこけい懲役ちょうえきけいしょするという内容ないよう)が帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつされたが、圧倒的あっとうてき多数たすうでもって否決ひけつされている[80]弾圧だんあつ法規ほうき次々つぎつぎ否決ひけつされるなか皇帝こうてい周辺しゅうへんでは議会ぎかいたいする「クーデタ」のうわさささやかれた。このうわさ中央ちゅうおうとう与党よとうするのにおおきな効果こうかがあった[79][82]中央ちゅうおうとう与党よとう最初さいしょいち艦隊かんたいほうであった[83]

1897ねん6がつにドイツ東洋とうよう艦隊かんたい司令しれいかんアルフレート・フォン・ティルピッツ海軍かいぐん大臣だいじんにんじられ、さらに10がつにはオイレンブルクとしたしい関係かんけいにあるベルンハルト・フォン・ビューロー伯爵はくしゃくのち侯爵こうしゃく)が外相がいしょうにんじられた。これらはヴィルヘルム2せいの「世界せかい政策せいさく」を推進すいしんするためにオイレンブルクがかんがえた人事じんじであった[78]。ティルピッツが中心ちゅうしんとなりだい規模きぼけんかん計画けいかくてられた。それにもとづいて1898ねん3がつ28にちだいいち艦隊かんたいほう、1900ねん6がつ12にちにはだい艦隊かんたいほう帝国ていこく議会ぎかい可決かけつされた。だい艦隊かんたいほうでは現在げんざい27せき戦艦せんかんを38せき増強ぞうきょうすることがさだめられた[84][85]

社民党しゃみんとう艦隊かんたいほうだい工業こうぎょう利益りえき奉仕ほうしするものとして批判ひはんしていたが、中央ちゅうおうとうはじめおおくの政党せいとう賛成さんせいしたために可決かけつされた[86]。これは「ドイツ艦隊かんたい協会きょうかい」(海軍かいぐんしょう軍需ぐんじゅ産業さんぎょうクルップなどの後押あとおしで創設そうせつされ、やく80まんにん会員かいいんゆうする)による大衆たいしゅうてき圧力あつりょく各党かくとうにかけられていたためである[86]。また皇帝こうてい議会ぎかいたいする「クーデタ」のうわさ中央ちゅうおうとうおそれていたこと背景はいけいとなっていた[83]

ホーエンローエは1900ねん10がつ16にち老齢ろうれい理由りゆう宰相さいしょうすることとなったが[87]中央ちゅうおうとう政府せいふ協力きょうりょく関係かんけい後任こうにん宰相さいしょうビューロー侯爵こうしゃく政権せいけん前半ぜんはんにもつづ[88]

宰相さいしょうビューロー時代じだい[編集へんしゅう]
1905ねん、ヴィルヘルム2せい

1900ねん10がつ17にち外相がいしょうビューロー侯爵こうしゃく後任こうにんのドイツ・プロイセン宰相さいしょう就任しゅうにんした[78][87]。ビューローとオイレンブルクは同性愛どうせいあい関係かんけいさえうたがわれそうな手紙てがみをやりりするほどしたしい関係かんけいにあった[89]。ビューローはオイレンブルクに「ビスマルクは権力けんりょくそのもの、カプリヴィとホーエンローエはかくまえではある程度ていど議会ぎかい政府せいふ代表だいひょうしゃであると自認じにんしていました。わたし自分じぶんかく手足てあしであるとおもっています。わたしだいからいい意味いみにおいて陛下へいか私的してき関係かんけいによるおおやけ支配しはいはじまったのではないでしょうか」などとべている[89]。ヴィルヘルム2せいもビューローにおおいに期待きたいし、ビューローを「わたし自身じしんのビスマルク」とんだという[89]。ビューローの栄進えいしん一方いっぽう、オイレンブルクは次第しだい政治せいじからとおざかるようになっていった。1902ねんにはオーストリア大使たいししょくした。そのは1907ねん失脚しっきゃくまで政治せいじにかかわることはほとんどなくなった[90]

ビューローははじめ帝国ていこく議会ぎかいだいいちとうである中央ちゅうおうとう依存いぞんすることで帝国ていこく議会ぎかい安定あんていてき運営うんえいしていたが[91]、ヴィルヘルム2せい政府せいふ中央ちゅうおうとう支配しはいされるのをこのんでおらず、また中央ちゅうおう党内とうないでもマティアス・エルツベルガー左派さは政治せいじ政府せいふ追従ついしょうしすぎだとしてとう執行しっこうへの批判ひはんつよめていた[92]

政府せいふ中央ちゅうおうとう関係かんけい悪化あっかしていくなか、1904ねんにドイツ帝国ていこく植民しょくみんであるドイツりょう南西なんせいアフリカホッテントットぞくヘレロぞく反乱はんらんこした。ヴィルヘルム2せいとビューローはただちに援軍えんぐん派遣はけんして反乱はんらん鎮圧ちんあつさせたが(ヘレロ・ナマクア虐殺ぎゃくさつ)、1906ねんあきにそのぐん駐留ちゅうりゅうとして帝国ていこく議会ぎかい提出ていしゅつされた追加ついか予算よさんあん社民党しゃみんとう中央ちゅうおうとうによって否決ひけつされたため、政府せいふは12月13にち議会ぎかい解散かいさんしてそう選挙せんきょってた(「ホッテントット選挙せんきょ」とばれた)[93][94][95]。ビスマルク時代じだいからの与党よとう連合れんごうである「カルテル」3とうくわえて、左派さは自由じゆう主義しゅぎ3とう自由じゆう思想家しそうか連合れんごう自由じゆう思想家しそうか人民じんみんとう、ドイツ人民じんみんとう)も対外たいがいてき問題もんだい植民しょくみん政策せいさくについては政府せいふ方針ほうしん支持しじすることを表明ひょうめいした。1907ねん1がつおこなわれた選挙せんきょ結果けっか、この6とう議会ぎかい過半数かはんすう獲得かくとくした[96][97]選挙せんきょに6とう連立れんりつするようになり議会ぎかいないに「ビューロー=ブロック」としょうされた一応いちおう安定あんていした与党よとう連合れんごう形成けいせいされるようになった[97][98]。とはいえ左派さは自由じゆう主義しゅぎ勢力せいりょく対外たいがい問題もんだい植民しょくみん問題もんだい政府せいふ支持しじしただけであり、内政ないせい問題もんだいでは政府せいふとは依然いぜんおおきなへだたりがあった[99]

1906ねん4がつ28にちマクシミリアン・ハルデンドイツばんというユダヤじんジャーナリストが「皇帝こうてい側近そっきん同性愛どうせいあいしゃがいる」という記事きじ発表はっぴょうした。つづ一連いちれん裁判さいばんなかでハルデンは「はんユダヤ主義しゅぎてき国粋こくすい主義しゅぎ同性愛どうせいあいしゃ一味いちみ皇帝こうていあやつっており、強大きょうだい大国たいこくとしての政治せいじ不可能ふかのうにしている」と主張しゅちょうした[100]。ハルデンはビスマルクやホルシュタインの証言しょうげんをもとにオイレンブルクを男色なんしょくとして糾弾きゅうだんし、1908ねん5がつ8にちにオイレンブルクが同性愛どうせいあい容疑ようぎ逮捕たいほされるにいたった(ハルデン=オイレンブルク事件じけん[101]。そのオイレンブルクは病気びょうき療養りょうよう理由りゆう釈放しゃくほうされたが、この事件じけんにより完全かんぜん失脚しっきゃくした。ビューローはじめこれまでオイレンブルクの恩恵おんけいよくしていたものたちも一斉いっせいにオイレンブルクと距離きょりるようになった[102]。このいちけんはヴィルヘルム2せいをかなり不安ふあんにさせたらしい。ヴィルヘルム2せいはビューローに不信ふしんかんつようになり、また皇帝こうてい権威けんいおおきく失墜しっついさせる事件じけんこしてしまう[102]

1908ねん10月28にちにイギリス陸軍りくぐん大佐たいさエドワード・ジェームズ・モンタギュー=スチュアート=ワートリー英語えいごばんとヴィルヘルム2せいのドイツの内政ないせい外交がいこうについてかたった対談たいだんがイギリスの新聞しんぶんデイリー・テレグラフ』に掲載けいさいされた。この対談たいだんでのヴィルヘルム2せいの「軽口かるくち」が国内外こくないがい問題もんだいされた(デイリー・テレグラフ事件じけん)。帝国ていこく議会ぎかいから皇帝こうてい権力けんりょく憲法けんぽう制限せいげんすべきだという論議ろんぎさかんになり、宰相さいしょうビューローからも擁護ようごしてもらえず、窮地きゅうちおちいったヴィルヘルム2せいはこれをしずめるためビューローにたいして「今後こんご憲法けんぽうにのっとって政治せいじおこなう」と約束やくそくする羽目はめとなり、帝国ていこく議会ぎかい威信いしんつよまった[99][103]以降いこうヴィルヘルム2せい権力けんりょく事実じじつじょう軍事ぐんじ限定げんていされ、宰相さいしょう権力けんりょく基盤きばん皇帝こうていから帝国ていこく議会ぎかい多数たすう移行いこうしていった(とはいってもなおも皇帝こうてい最高さいこう権威けんいつづけ、政府せいふ高官こうかんにとってヴィルヘルム2せいから支持しじることはみずからの立場たちば強化きょうかするのに重要じゅうようなことであったが)[104]。このけんでヴィルヘルム2せいはビューローを完全かんぜんに「裏切うらぎもの」と看做みなすようになった。ヴィルヘルム2せいはビューローを公然こうぜんと「ぐさにく」などとぶようになった[105]。しかしヴィルヘルム2せいの「個人こじんてき統治とうち」の終焉しゅうえんはドイツ帝国ていこく深刻しんこくな「指導しどうしゃ不在ふざい」の状態じょうたいまねくこととなる[106]

イギリスとのけんかん競争きょうそうによって巨額きょがくになりはじめた財政ざいせい赤字あかじ深刻しんこくするとビューローは相続そうぞくぜい対象たいしょう拡大かくだい消費しょうひぜい値上ねあげ、新聞しんぶん広告こうこくぜい導入どうにゅうなどによってまかなおうとしたが、議会ぎかいのあらゆる勢力せいりょくから批判ひはんされ、「ビューロー=ブロック」は崩壊ほうかいした。窮地きゅうちおちいったビューローだが、ビューローに反感はんかんっていたヴィルヘルム2せいかれすくおうとはしなかった。ヴィルヘルム2せいは1909ねん7がつ14にちにビューローの辞表じひょう受理じゅりした[107]後任こうにんのドイツ帝国ていこく・プロイセン王国おうこく宰相さいしょうにはテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークにんじられた[107]

宰相さいしょうベートマン時代じだい[編集へんしゅう]

「ビューローブロック」崩壊ほうかい誕生たんじょうしたベートマンないかく保守党ほしゅとう帝国ていこくとう中央ちゅうおうとう政府せいふ支持しじ政党せいとうとして獲得かくとくし、「くろあおブロック」を形成けいせいした[108][109]くろはカトリック、あおプロテスタントユンカー意味いみしている[109]。しかし1912ねん1がつ帝国ていこく議会ぎかい選挙せんきょで「くろあおブロック」は惨敗ざんぱいし、社民党しゃみんとう躍進やくしんして帝国ていこく議会ぎかいだいいちとうおど[109]

くろあおブロック」は崩壊ほうかいし、帝国ていこく議会ぎかい政府せいふ距離きょり急速きゅうそくはなれるなかの1913ねん10がつツァーベルン事件じけん発生はっせいした[110]ぐん横暴おうぼうとして大騒おおさわぎになったが、宰相さいしょうベートマンは陸相りくしょうエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン圧力あつりょくけてぐん立場たちば支持しじしたが、これにたいして帝国ていこく議会ぎかい保守党ほしゅとうのぞぜん政党せいとう宰相さいしょう不信任ふしんにん決議けつぎした[111]。だが、ドイツ帝国ていこくにおいては宰相さいしょう任免にんめんけん皇帝こうていにあり、宰相さいしょう議会ぎかい不信任ふしんにん決議けつぎしたが義務ぎむはない。結局けっきょくベートマンはヴィルヘルム2せい支持しじ地位ちい維持いじし、事件じけん関係かんけいした軍人ぐんじんたち処罰しょばつされることはなかった[111]

しかしこのけん政府せいふ議会ぎかいおおきな亀裂きれつしょうじた[112]

外交がいこう政策せいさく[編集へんしゅう]

しんえいはん[編集へんしゅう]

1890ねん6がつ17にちれるどくさい保障ほしょう条約じょうやく更新こうしんをロシア帝国ていこくもとめていたが(この要請ようせいはビスマルク退任たいにんまえおこなわれていた)、ヴィルヘルム2せいはこれを拒否きょひした。これはかれがロシアとの関係かんけいよりオーストリアルーマニアとの関係かんけい重視じゅうししたためである[67]。またロシアと対立たいりつするイギリスを意図いともあった[113]。これによりロシアとフランスが接近せっきんをはじめ、1894ねんにはふつ同盟どうめい締結ていけつされてしまった[113]当時とうじのフランスはひろしふつ戦争せんそう以来いらい、エルザス=ロートリンゲン(フランスめいアルザス=ロレーヌ)の奪還だっかんねらってはんどく姿勢しせいをますますつよめていた(はんユダヤ主義しゅぎ背景はいけいにしたドレフュス事件じけん発生はっせいにも象徴しょうちょうされるようにフランスでは産業さんぎょうともなって排外はいがい主義しゅぎ人種じんしゅ差別さべつ主義しゅぎ高揚こうようしていた)[114]ふつ同盟どうめいはドイツを敵視てきししたものであると同時どうじにイギリスをも敵視てきししたものであった。フランスはアフリカにおいて、ロシアはアジアにおいてイギリスと植民しょくみん争奪そうだつせんひろげていたからである[115]

1890ねん7がつ1にちにはドイツはイギリスとのあいだヘルゴランド=ザンジバル条約じょうやく締結ていけつした。これをにイギリスをさんこく同盟どうめいがわもうという意図いともあったが、それはイギリスがわ拒否きょひされた[113]。とはいえしんえいはんはこののちしばらくドイツの外交がいこう政策せいさく基本きほん方針ほうしんとなる。えい対立たいりつ関係かんけいなかでどちらか一方いっぽうにだけくみしないというビスマルク時代じだい外交がいこう方針ほうしんはここに破棄はきされたのである[113]。イギリスとドイツの関係かんけい基本きほんてきには1897ねんごろまではわるくなかった[116]

しかしヴィルヘルム2せいは1894ねん11月にロシア皇帝こうていツァーリ)に即位そくいしたニコライ2せいとは個人こじんてきしたしくしていた。二人ふたり英語えいご手紙てがみおくりあう親密しんみつ間柄あいだがらだった[117]

帝国ていこく主義しゅぎとイギリスとの対立たいりつ[編集へんしゅう]
1890ねんのヴィルヘルム2せい肖像しょうぞうマックス・コーナー

ドイツはビスマルク時代じだいにアフリカや太平洋たいへいよう地域ちいきにおいて植民しょくみん獲得かくとくしていたが(ドイツ植民しょくみん帝国ていこく)、イギリス(イギリス帝国ていこく)やフランス(フランス植民しょくみん帝国ていこく)にくらべると圧倒的あっとうてきすくなかった。そのためヴィルヘルム2せいは、よりおおくの植民しょくみん獲得かくとくしてドイツを「のあたる場所ばしょ」にみちびくことを目指めざした[118]。「世界せかい政策せいさく」とよばれる膨張ぼうちょう政策せいさく開始かいしされることとなった[119]。ヴィルヘルム2せい植民しょくみん拡大かくだいにこだわったのは覇権はけん主義しゅぎより軍事ぐんじてき要因よういんおおきかった。植民しょくみん政策せいさく国民こくみん関心かんしん国内こくない問題もんだいから対外たいがい問題もんだいにそらし、国内こくない世論せろん統一とういつするうえでもっと有効ゆうこう手段しゅだんであった[119]。またビスマルク時代じだい以降いこう、ドイツはおおきな戦争せんそうまれることもく、産業さんぎょう成功せいこう経済けいざい規模きぼ拡大かくだいしていた。1875ねんに4200まんにんだったドイツの人口じんこうは1913ねんには6800まんにん増加ぞうかしていた。この余剰よじょう人口じんこう海外かいがい移住いじゅうさせたいという意図いともあった[120]

1890ねん外務がいむ省内しょうない植民しょくみんきょく設置せっちさせ、1894ねんからこのきょく植民しょくみんかんする全権ぜんけんまかせ、植民しょくみん一括いっかつ管理かんりにおいた(同局どうきょくは1907ねん帝国ていこく植民しょくみんしょうとして独立どくりつした省庁しょうちょうになる)[121]。1895ねんにはロシアのもとめにおうじてフランスととも日本にっぽんさんこく干渉かんしょうをかけ、遼東りゃおとん半島はんとうきよし返還へんかんさせた。さんこく干渉かんしょうはドイツにとって極東きょくとう進出しんしゅつあしがかりにするとともにロシアに極東きょくとう権益けんえき関心かんしんたせることによってヨーロッパや中近東ちゅうきんとうにおける同国どうこく影響えいきょうりょくげようという意味いみがあった[122]さんこく干渉かんしょうまもなくドイツに極東きょくとう進出しんしゅつのチャンスがやってきた。1897ねん11月に山東さんとうしょうにおいてドイツじんカトリック宣教師せんきょうし殺害さつがいされたのである(曹州教案きょうあん)。この事件じけん口実こうじつきよし遠征えんせいおこない、よく1898ねんきよから山東さんとう半島はんとう南部なんぶにかわしゅうわん租借そしゃく獲得かくとくした[11][118][123]さらにこの直後ちょくご南太平洋みなみたいへいようカロリン諸島しょとうマリアナ諸島しょとう獲得かくとくした[124]

とはいえ、それ以外いがい植民しょくみん拡大かくだいはなかなかはかどらなかった。植民しょくみん拡大かくだいにはなんといっても巨大きょだい海軍かいぐんりょく不可欠ふかけつであった。元来がんらいドイツは陸軍りくぐん大国たいこくであり、海軍かいぐん陸軍りくぐん付属ふぞくてき存在そんざい看做みなされて軽視けいしされてきた。ヴィルヘルム2せいはアメリカの海軍かいぐん理論りろんアルフレッド・セイヤー・マハン著作ちょさくつよ影響えいきょうけていたため、世界せかいせいするにはうみせいする必要ひつようがあり、それにはきょほう搭載とうさいしたきょ大戦たいせんかん必要ひつようであると確信かくしんした[85]。ヴィルヘルム2せいは1896ねん1がつ18にち演説えんぜつで「ドイツ帝国ていこくいま世界せかい帝国ていこくとなった」、1898ねん9がつ23にち演説えんぜつで「ドイツの将来しょうらい海上かいじょうにあり」と宣言せんげんした[120][125]

1897ねん6がつアルフレート・フォン・ティルピッツ海軍かいぐん大臣だいじん就任しゅうにん[85]かれしただい規模きぼけんかん計画けいかく始動しどうし、艦隊かんたい増強ぞうきょう指針ししんさだめた「艦隊かんたいほう」が制定せいていされた。これをおそれたイギリスも自国じこく艦隊かんたい増強ぞうきょう開始かいしした。当時とうじのイギリスの海軍かいぐんりょく世界せかい最強さいきょうであり、ドイツがイギリスに対抗たいこう海軍かいぐんりょく到達とうたつてんてしなく、えいどく両国りょうこくけんかん競争きょうそう泥沼どろぬますることとなった[85]。とはいえドイツにとって艦隊かんたいとはあくまでイギリスに「ドイツ艦隊かんたいあなどりがたし」とおもわせることで植民しょくみん争奪そうだつ交渉こうしょう有利ゆうりにするための政治せいじてき道具どうぐであった。したがって実際じっさいにイギリスにいつく必要ひつようはないし、イギリスに危険きけん認識にんしきさせられれば十分じゅうぶんであった(ティルピッツはこれを「危険きけん艦隊かんたい思想しそうんだ)[117]

1900ねん以降いこうのヴィルヘルム2せいの「世界せかい政策せいさく」は2つの方向ほうこうせいおこなわれた。ひとつはアフリカにだい植民しょくみんること、もうひとつはバルカン半島ばるかんはんとう中近東ちゅうきんとうなど南東なんとうにドイツの勢力せいりょく拡大かくだいしていくことであった。後者こうしゃはドイツ、オーストリア、オスマン帝国ていこく同盟どうめいによって経済けいざいてき統一とういつたいつくることを目指めざしていた。その象徴しょうちょうバグダート鉄道てつどう3B政策せいさくであった[126]。ドイツは1888ねんにオスマン帝国ていこくからアナトリア鉄道てつどう建設けんせつ特許とっきょていた。1898ねんのヴィルヘルム2せいのオスマン帝国ていこく訪問ほうもんでドイツの中近東ちゅうきんとうへの進出しんしゅつ政策せいさく加速かそくした。この訪問ほうもんさいにヴィルヘルム2せいは「ドイツはぜん世界せかい3おくイスラム教徒きょうとともである」と演説えんぜつしたが、イスラム教徒きょうと数多かずおお版図はんとにおさめるイギリス、フランス、ロシアを刺激しげきした。この演説えんぜつはドイツがイスラム教徒きょうと結託けったくしてえいふつのイスラム支配しはい体制たいせい転覆てんぷくしようとくわだてている証拠しょうことしてえいふつ後々あとあとまで引用いんようされた[127]。1903ねんからはドイツ資本しほんバグダード鉄道てつどう鉄道てつどう建設けんせつ本格ほんかくさせる。ベルリンビザンティンバグダードむすんでドイツの影響えいきょうりょくペルシャ湾ぺるしゃわんまでおよぼそうとした(3B政策せいさく)。しかし「3B政策せいさく」は、ロシアのバルカン・中近東ちゅうきんとうへの南下なんか政策せいさくやイギリスのカルタッタカイロケープむすぶ「3C政策せいさく」に脅威きょういとなるものであった。えいふつはげしく反発はんぱつし、バグダード鉄道てつどう鉄道てつどう建設けんせつ大幅おおはばおくれ、最終さいしゅうてきだいいち世界せかい大戦たいせんのドイツの敗戦はいせんによって挫折ざせつすることとなる[128]

1896ねんみなみアフリカのイギリス植民しょくみんローデシアみなみアフリカ会社かいしゃ騎馬きば警察けいさつたいボーアじん国家こっかトランスヴァール共和きょうわこく金鉱きんこうねらって同国どうこく侵入しんにゅうしたジェームソン侵入しんにゅう事件じけん英語えいごばんにおいてヴィルヘルム2せい鎮圧ちんあつ成功せいこうしたトランスヴァール共和きょうわこく大統領だいとうりょうポール・クリューガーてて祝電しゅくでんおくった。この祝電しゅくでんはジェームソン侵入しんにゅう事件じけん批判ひはんするイギリス以外いがいのヨーロッパ諸国しょこくからはとなえられたが、イギリスとの関係かんけい悪化あっかした[129]祖母そぼヴィクトリア女王じょおうからも手紙てがみおくられてきて苦言くげんていされた[130]。これ以降いこうヴィクトリアは様々さまざま理由りゆうけてヴィルヘルム2せい訪英ほうえい拒否きょひするようになり、ふたた訪英ほうえいゆるされたのは1899ねんになってのことだった[131]

ドイツ包囲ほういもう[編集へんしゅう]

ドイツもイギリスとの関係かんけい回復かいふくつねはかろうとしていた。1899ねん11月にヴィルヘルム2せい訪英ほうえいおこない、アングロサクソンぞくチュートンぞくだい同盟どうめいえいべいどくさんこく同盟どうめい構想こうそう提唱ていしょうしたが、実現じつげんしなかった[132]。1899ねん9がつきよし義和よしかずだんらん発生はっせいし、ちゅうしんドイツ公使こうしクレメンス・フォン・ケーテラー英語えいごばん男爵だんしゃく義和よしかずだんによって殺害さつがいされると、ヴィルヘルム2せいはただちにアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵はくしゃく元帥げんすいひきいる遠征えんせいぐんきよし派遣はけんした。ヴァルダーゼーははちカ国かこく連合れんごうぐん全体ぜんたい最高さいこう司令しれいかんにも就任しゅうにんした[133]はちカ国かこく連合れんごうぐん北京ぺきん占領せんりょうした。このさいにドイツはイギリスとのあいだ揚子江ようすこう協定きょうてい締結ていけつしている。しかしドイツは完全かんぜんにイギリスがわってロシアと対立たいりつする意思いしく、まんしゅう権益けんえき問題もんだいをこの協定きょうていからはずしている。これは極東きょくとう権益けんえき問題もんだいにおいてロシアを牽制けんせいしておきたいイギリスの希望きぼうたすものではなかった[132]。1901ねんにもドイツはイギリスに同盟どうめい提案ていあんしているが、このときもドイツはロシアと決定的けっていてき対立たいりつをしたがらなかったため、同盟どうめい実現じつげんしなかった。結局けっきょくイギリスは「栄光えいこうある孤立こりつ」を放棄ほうきする相手あいてとしてドイツではなく日本にっぽんえらび、1902ねんたいロシアを目的もくてきとしたにちえい同盟どうめい締結ていけつされる[132]

こうした状況じょうきょうなか、ドイツはロシアとイギリスをひがしアジア植民しょくみんめぐって対立たいりつさせることでドイツの国際こくさいてき地位ちい有利ゆうりにしようとした[132]。またこのころからヴィルヘルム2せい側近そっきん忠告ちゅうこく台頭たいとうする日本にっぽん警戒けいかいしんつようになり、黄禍こうかろんかため、ロシアをたすける必要ひつようせいかんじるようになっていた[134]一方いっぽうイギリスはロシアをおさえるため、日本にっぽん支援しえんした。またイギリスはにち戦争せんそう開戦かいせんともにフランスに接近せっきんし、1904ねん4がつ8にちえいふつ協商きょうしょう締結ていけつしている[132]。これはフランスがエジプトにおけるイギリスの権益けんえきみとめるわりにイギリスはフランスがモロッコ植民しょくみんすることをみとめるというものだった[135][136]

これに対抗たいこうしてヴィルヘルム2せいは1905ねん3がつ31にち突然とつぜんモロッコのタンジール訪問ほうもんし、フランスに反感はんかんスルタンにモロッコ独立どくりつ支援しえんすることを約束やくそくした(だいいちモロッコ事件じけん)。ヴィルヘルム2せいのこの行動こうどうながらくかれ好戦こうせんてき性格せいかくあらわれとされてきたが、今日きょうではヴィルヘルム2せいはこの訪問ほうもん消極しょうきょくてき宰相さいしょうビューローと外務省がいむしょう高官こうかんホルシュタインがヴィルヘルム2せい強要きょうようしてやらせたものであることが判明はんめいしている[137]。ドイツはフランスにたいしてモロッコ問題もんだい国際こくさい会議かいぎもとめた。フランス首相しゅしょうモーリス・ルーヴィエフランス語ふらんすごばんたいどく強硬きょうこうのフランス外相がいしょうテオフィル・デルカッセ辞職じしょくさせた結果けっか[138]1906ねん1がつから4がつにかけてアルヘシラス会議かいぎ開催かいさいされた。宰相さいしょうビューローは同盟どうめいこくのイタリア、オーストリア=ハンガリー、そして門戸もんこ開放かいほう国是こくぜにするアメリカがドイツの立場たちば支持しじするだろうとおもっていたが、実際じっさいにはまったくそうならなかった[138]。アメリカもイタリアもえいふつ支持しじし、同盟どうめいこくオーストリアさえも消極しょうきょくてきにドイツを支持しじするにまり、結局けっきょくドイツはアフリカのフランスりょう一部いちぶなに資源しげんのない領域りょういきのドイツへの割譲かつじょうだけで譲歩じょうほせざるをなくなった。ドイツの孤立こりつふかまっただけの結果けっかとなった[135]

1905ねん、ロシアの軍服ぐんぷくるドイツ皇帝こうてい(カイザー)ヴィルヘルム2せいとドイツの軍服ぐんぷくるロシア皇帝こうてい(ツァーリ)ニコライ2せい

1905ねん7がつ24にちにヴィルヘルム2せいはロシア皇帝こうていニコライ2せいフィンランドわんのビヨルケ水道すいどう会見かいけんし、「ビヨルケの密約みつやく」をむすんで「どくのどちらかが第三国だいさんごくから攻撃こうげきけた場合ばあい他方たほうはヨーロッパにおいて軍事ぐんじてき支援しえんおこなう」ことを約束やくそくした。しかしロシアがわはフランスとの同盟どうめい理由りゆうにあくまでこれを密約みつやくとし、さらにロシア外相がいしょうセルゲイ・ヴィッテがロシアになんとくもない約束やくそくであるとニコライ2せい上奏じょうそうしたこともあり、最終さいしゅうてきにこの密約みつやくはロシアがわによってほうむられた[117][135][139]

にち戦争せんそう結局けっきょくロシアの敗北はいぼくわる。イギリスはもはやひがしアジアの権益けんえき問題もんだいにおいてロシアは脅威きょういとはならないと判断はんだんし、むしろ中近東ちゅうきんとう権益けんえき問題もんだいけんかん競争きょうそう相手あいてであるドイツを危険きけんするようになる。イギリスはロシアとの接近せっきん開始かいしし、1907ねんえい協商きょうしょう成立せいりつした[135][140][141]日本にっぽん同盟どうめいこくイギリスにならい、にちふつ協約きょうやく、ついでにち協約きょうやく締結ていけつした[142]着実ちゃくじつすすむドイツ包囲ほういもうにヴィルヘルム2せいあせっていた[142]

にち戦争せんそう中国ちゅうごく分割ぶんかつ門戸もんこ開放かいほう政策せいさくをめぐって日米にちべい対立たいりつふかまった。この状況じょうきょうてドイツはアメリカ・きよし反日はんにち同盟どうめいむすぼうとした[142]反日はんにちはんえいきよしはこれにだったが、アメリカにはイギリスと対立たいりつする意思いしはなかった。日本にっぽん外相がいしょう小村こむら寿太郎じゅたろうもこのうごきを警戒けいかいして先手せんてち、1908ねん日米にちべい協商きょうしょう締結ていけつしている。最終さいしゅうてきに1910ねんから1911ねんにかけてアメリカはドイツと距離きょりをとってイギリスに接近せっきんするようになり、これをけてイギリスもこれまでの反米はんべい姿勢しせい修正しゅうせいして1911ねん更新こうしんされたにちえい同盟どうめいから日米にちべい戦争せんそう発生はっせい日本にっぽん援助えんじょ義務ぎむ条項じょうこう削除さくじょした[143]。こうしてドイツに好意こういてきくに貧弱ひんじゃくきよしとオスマンだけというきびしい状態じょうたいとなった[144]

前述ぜんじゅつしたが、1908ねん10がつ28にちにイギリスの新聞しんぶんデイリー・テレグラフ」にイギリスぐん大佐たいさとヴィルヘルム2せい対談たいだん掲載けいさいされた(デイリー・テレグラフ事件じけん[99]。その対談たいだんでヴィルヘルム2せい自分じぶんしんえいろんしゃであること、そのために自分じぶんはドイツ国内こくない孤立こりつしていること、またボーア戦争せんそうさいふつ両国りょうこくからたいえい大陸たいりく同盟どうめいはたらきかけがあったが、自分じぶんはそれにらなかったこと、ボーア戦争せんそうにおいてイギリスが勝利しょうりできたのは自分じぶんあんのおかげであること、ドイツ艦隊かんたい増強ぞうきょうはイギリスをターゲットにしたものではないことなどを主張しゅちょうした。ヴィルヘルム2せいとしては英国えいこくはんどく感情かんじょうやわらげようとしてった対談たいだんだったのだが、「ドイツ皇帝こうてい不遜ふそん態度たいど」にかえってイギリス世論せろん反発はんぱつし、露仏ろぶつはげしく反発はんぱつしてドイツはますます孤立こりつしてしまった[99]

モロッコでこったはんフランス暴動ぼうどう鎮圧ちんあつすべく出動しゅつどうしたフランスぐん対抗たいこうして、ドイツ外相がいしょうキダーレンの主導しゅどうでドイツ政府せいふは1911ねん7がつ1にちアガディール艦隊かんたい派遣はけんし、モロッコの領土りょうど保全ほぜん門戸もんこ開放かいほううったえ、フランスのモロッコ権益けんえきおかそうとして対立たいりつふかめた(だいモロッコ事件じけん)。ドイツはモロッコ問題もんだいから条件じょうけんとしてフランスりょうコンゴのドイツへの譲渡じょうと要求ようきゅうし、中央ちゅうおうアフリカへの進出しんしゅつねらったが、イギリスがフランス断固だんこ支持しじ表明ひょうめいしたため、結局けっきょくドイツがあらたに獲得かくとくした植民しょくみんはたいして価値かちのないドイツりょうカメルーン領土りょうど拡大かくだいだけだった[145][146]

1912ねんはるにイギリスは陸軍りくぐん大臣だいじんホールデン子爵ししゃく英語えいごばん団長だんちょうとする「ホールデン使節しせつ英語えいごばん」をドイツに派遣はけんし、えいどく交渉こうしょうおこなわれたが、どちらも目標もくひょうたっすることはできなかった。ドイツがもとめた大陸たいりく戦争せんそう発生はっせいした場合ばあいのイギリスの中立ちゅうりつ保証ほしょうはイギリスによって拒否きょひされ、イギリスがもとめたけんかん競争きょうそう休戦きゅうせん提案ていあんはドイツがわ拒否きょひした。宰相さいしょうテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク海軍かいぐん軍備ぐんび増強ぞうきょう制限せいげんをかけることに前向まえむきだったのが、海軍かいぐん大臣だいじんティルピッツがこれに強硬きょうこう反対はんたいした。ヴィルヘルム2せいもティルピッツを支持しじしたため、最終さいしゅうてき拒否きょひすることとなったのであった[147]

大元帥だいげんすいとしての軍務ぐんむ[編集へんしゅう]

ヴィルヘルム2せい即位そくいするとまもなくヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケだいモルトケ)伯爵はくしゃく退役たいえき希望きぼうした[38]。ヴィルヘルム2せい退役たいえき認可にんかし、1888ねん8がつ10日とおか参謀さんぼう次長じちょうアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー伯爵はくしゃくわりの参謀さんぼう総長そうちょうにんじた[148]。ヴァルダーゼーは即位そくいまえからヴィルヘルム2せいしたしくしていた人物じんぶつであり[149]宰相さいしょうビスマルクの失脚しっきゃくにも一役ひとやくった[150]

しかしヴァルダーゼーは伝統でんとうてきなプロイセン軍人ぐんじんらしく陸軍りくぐん増強ぞうきょうろんしゃであったため、植民しょくみん拡大かくだいのために海軍かいぐん増強ぞうきょうしたがっていたヴィルヘルム2せい意見いけん対立たいりつふかめた[151]。ヴィルヘルム2せいはヴァルダーゼーを更迭こうてつして1891ねん1がつ31にちアルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵はくしゃく参謀さんぼう総長そうちょうにんじた[152]。ヴィルヘルム2せいは「参謀さんぼう総長そうちょう一種いっしゅ書記官しょきかんとしてがわにおればよい。したがってにはもっとわか参謀さんぼう総長そうちょう必要ひつようである」とべた[153]

シュリーフェンは決戦けっせん兵器へいきがすでに騎兵きへいから速射そくしゃ兵器へいきうつっていることつよ認識にんしきし、騎兵きへい遠方えんぽう偵察ていさつようるなどぐん近代きんだいすすめた[154]たりまえのことのようであるが、当時とうじのプロイセンぐんはいまだ騎兵きへい信仰しんこうなどの保守ほしゅ主義しゅぎ蔓延まんえんしていた。ひろしふつ戦争せんそうでは気球ききゅう機関きかんじゅうもないプロイセンぐん勝利しょうりしたという成功せいこうれいもそれを後押あとおししていた[155]。ただしシュリーフェンはヴィルヘルム2せい機嫌きげんそこねることはけっしてしなかった。ヴィルヘルム2せい騎兵きへい突撃とつげきあいしていたので御前ごぜん演習えんしゅうではつねにクライマックスに騎兵きへい突撃とつげきおこなわれたが、シュリーフェンはこれに抗議こうぎをすることはなかった[154]陸軍りくぐん増強ぞうきょうのための予算よさん海軍かいぐんけんかん流用りゅうようされても抗議こうぎすることはかった[154]

ふつ同盟どうめい関係かんけい強化きょうかされていくなかでシュリーフェンはロシア・フランスと戦争せんそうになった場合ばあいたいロシアの東部とうぶ戦線せんせん最低限さいていげん兵力へいりょくで以って対処たいしょし、たいフランスの西部せいぶ戦線せんせん右翼うよく戦力せんりょく集中しゅうちゅうさせ、ベルギーの中立ちゅうりつおかして通過つうかし、きたフランスへなだれみ、南下なんかしてパリの背後はいごてそこからスイス国境こっきょうまで北進ほくしんするというシュリーフェン・プランを1897ねんから1905ねんにかけて策定さくていした[156][157][158]。このあんによればロシアぐんひがしプロイセンに侵攻しんこうしてこようが、イギリスぐんがデンマークに上陸じょうりくしてこようがすべて無視むしし、たいフランスせん集中しゅうちゅうしてフランスを6週間しゅうかんかたづけ、しかるのちにそれらのてき対峙たいじすることになる[158]

1903ねんまつにヴィルヘルム2せい参謀さんぼう総長そうちょうシュリーフェンに近衛このえ第一歩だいいっぽへい団長だんちょうヘルムート・ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・モルトケしょうモルトケ)中将ちゅうじょう参謀さんぼう次長じちょうにんじるむねげた[159]しょうモルトケはだいモルトケのおいにあたり、かつて伯父おじ副官ふっかんとしてよく宮廷きゅうてい出入でいりし、ヴィルヘルム2せいから「ユリウス」というあだばれるほど皇帝こうていしたしい間柄あいだがらだった[160][161]。この任命にんめい軍事ぐんじてき意味いみはほとんどなく、ヴィルヘルム2せいは「モルトケ」の「ブランドめい」にかれていただけであるという[162]。シュリーフェンはしょうモルトケを評価ひょうかしていなかったが、シュリーフェンは古風こふう上流じょうりゅう階級かいきゅう出身しゅっしんしゃだったから皇帝こうてい意向いこうにはだまってしたがった[160]

1906ねんにはしょうモルトケを参謀さんぼう総長そうちょうにんじた。しょうモルトケはシュリーフェン・プランの修正しゅうせい開始かいしした。おりしもドイツぐんはフランスぐんだい17ごう計画けいかく英語えいごばんつかんでいた。それによるとフランスぐんはロートリンゲン(左翼さよく)に攻撃こうげきをかけてくるつもりであった。そこで左翼さよくぐんであるロートリンゲンのだい6ぐん、アルザスのだい7ぐんからも攻勢こうせい開始かいしさせることとした。これにより右翼うよくぐん若干じゃっかん規模きぼ縮小しゅくしょうされることとなった[163]

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

開戦かいせん[編集へんしゅう]

ヨーロッパ列強れっきょう諸国しょこくあいだ対立たいりつつよまり、1910ねん以降いこうにはヨーロッパ各国かっこくちか将来しょうらい軍事ぐんじ衝突しょうとつ不可避ふかひとの認識にんしき共有きょうゆうされるようになり、各国かっこく軍拡ぐんかくちかられる[164]

1914ねん6がつ28にちにドイツの同盟どうめいこくオーストリア=ハンガリー帝国ていこく皇太子こうたいしフランツ・フェルディナント大公たいこう夫妻ふさいボスニア(1908ねんにオーストリアが併合へいごうした)のサラエボ訪問ほうもんしたさいセルビアじん民族みんぞく主義しゅぎ団体だんたい所属しょぞくするセルビアじん学生がくせいにより暗殺あんさつされた(サラエボ事件じけん)[165][166]同地どうちはセルビアじん多数たすうであったため、隣接りんせつするセルビア王国おうこくにアイデンティティをかんじてオーストリアの支配しはい反発はんぱつするものおおかったのである[165]。オーストリア政府せいふ暗殺あんさつ背後はいごにセルビア王国おうこくがいると主張しゅちょうし、セルビアにたいして戦争せんそうさない態度たいどのぞんだ。しかしセルビアのバックにはロシア帝国ていこくがおり、戦争せんそうとなればロシアからセルビアへの軍事ぐんじ援助えんじょ予想よそうされたのでオーストリアとしてはドイツの支持しじける必要ひつようがあった[166]

1914ねん7がつ5にちにヴィルヘルム2せいはオーストリア大使たいしたいしてロシアが介入かいにゅうした場合ばあいはドイツがオーストリアを援助えんじょすることを約束やくそくし、セルビアとの戦争せんそう決意けついしているならいまもっと有利ゆうり状況じょうきょうであるとべた[166][167]よく7がつ6にちには宰相さいしょうベートマンもオーストリアに支援しえん約束やくそくする「白紙はくし委任いにんじょう」をあたえた[168]。ドイツの支持しじけたオーストリアはセルビアに最後さいご通牒つうちょうおくる。7月25にちにオーストリアはセルビア政府せいふ回答かいとう不服ふふくとしてセルビアとの国交こっこう断絶だんぜつ。7月28にちにオーストリアはセルビアに宣戦せんせん布告ふこく[169]、セルビア首都しゅとベオグラードへの砲撃ほうげき開始かいしし、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつした[170]

7がつ31にちにロシアが動員どういんれい発令はつれいするとドイツも8がつ1にち総動員そうどういんれい布告ふこくし、ロシアにたいして宣戦せんせん布告ふこくした。同日どうじつヴィルヘルム2せい国民こくみんけて「はいかなる党派とうは存在そんざいらぬ。あるのはただドイツじんのみである」と演説えんぜつし、挙国一致きょこくいっちもとめた[171][172]。8月3にちにはロシアの同盟どうめいこくであるフランスにも宣戦せんせん布告ふこくした[170]。イギリスはドイツにたいしてベルギー中立ちゅうりつまもるよう要請ようせいしたが、「シュリーフェン・プラン」にしがみついていたドイツ軍部ぐんぶとしてはベルギーへ侵攻しんこうしないわけにはいかなかった[173]。ドイツは8がつ4にちにベルギーりょう侵攻しんこう開始かいししたが、これを不服ふふくとして同日どうじつイギリスはドイツに宣戦せんせん布告ふこくした[169]

ヴィルヘルム2せいらドイツ指導しどう開戦かいせんこげるかのような行動こうどうをとったのにはいくつか理由りゆうがある。まずオーストリアはドイツにのこされた最後さいご同盟どうめいこくであり、オーストリアの動揺どうようはドイツにとって死活しかつ問題もんだいであった[164]。オーストリアは確実かくじつにドイツがわつなぎとめておかなければならないし、ロシアが3B政策せいさく妨害ぼうがいをしてこないようおさえつけておきたかった[164][174]。またイギリスは歴史れきしてきひがしヨーロッパにほとんど関心かんしんかったので、すくなくともイギリスは即座そくざには介入かいにゅうしてこないだろうとかんがえられたことがある[168]。さらに「ヨーロッパの反動はんどうとりで」であるロシア帝国ていこくとの戦争せんそうならば帝国ていこく議会ぎかいだいいちとうであるドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう(SPD)から戦争せんそう支持しじ期待きたいすることができた(挙国一致きょこくいっち体制たいせい戦争せんそう突入とつにゅうできる)[174]。そしてもうひとおおきな理由りゆうにドイツ軍部ぐんぶが1916ねんか1917ねんにはドイツぐんのロシアぐんたいする軍事ぐんじてき優位ゆうい消滅しょうめつするとかんがえていたことがある。参謀さんぼう総長そうちょうしょうモルトケは1914ねん6がつに「戦争せんそうはやければはやいほどドイツに有利ゆうりである」とべている。こうした軍部ぐんぶ焦燥しょうそうがヴィルヘルム2せいはじめ政治せいじ指導しどうしゃにも伝染でんせんしていた[166]

大戦たいせん前期ぜんき[編集へんしゅう]

1915ねんのヴィルヘルム2せい

シュリーフェン・プラン」にもとづいてドイツぐん西部せいぶ戦線せんせん主戦しゅせんじょうとし、ベルギーを通過つうかしてきたフランスに進撃しんげきした。一方いっぽう東部とうぶではロシア帝国ていこく陸軍りくぐん(ru)が迅速じんそく動員どういん準備じゅんび完了かんりょうさせてひがしプロイセンんできたが、パウル・フォン・ヒンデンブルク大将たいしょうエーリヒ・ルーデンドルフ少将しょうしょうひきいるだい8ぐんがこれを撃退げきたいした(タンネンベルクのたたか[175]。しかしこのさい参謀さんぼう総長そうちょうしょうモルトケは軍団ぐんだん西部せいぶ戦線せんせんからいて東部とうぶ戦線せんせんおくった[176]結果けっか「シュリーフェン・プラン」がもとめる西部せいぶ戦線せんせん右翼うよく強化きょうかがうまくいかなくなり、9月5にちから9がつ10日とおかにかけての連合れんごうぐん反撃はんげきだいいちマルヌ会戦かいせん)においてドイツぐん侵攻しんこう停止ていししてしまった[177]。ドイツに迅速じんそくなる勝利しょうり約束やくそくするはずだった「シュリーフェン・プラン」は早々そうそう挫折ざせつした[177]

ヴィルヘルム2せいしょうモルトケを更迭こうてつし、わって1914ねん11月3にちけでプロイセン陸相りくしょうエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン参謀さんぼう総長そうちょうにんじた[178]。ファルケンハインはさしあたってドイツぐんヴェルダンリームノヨンせんまで後退こうたいさせた。ファルケンハインは宰相さいしょうベートマンにたいして「この戦争せんそうのぞましい結果けっかわることうたがいないが、それがいつ、どこで、どんなかたち達成たっせいされるかは現状げんじょうまった予想よそうできない」とべている[179]

1914ねんクリスマスまでには西部せいぶ戦線せんせん膠着こうちゃく状態じょうたいとなった[180]当時とうじ兵器へいき水準すいじゅんでは防御ぼうぎょのほうが攻撃こうげきったため、大量たいりょう戦死せんししゃ発生はっせいする塹壕ざんごうせんなどの消耗しょうもうせんになった[181]戦線せんせんがなかなかうごかなかったため、ベルギーのだい部分ぶぶんきたフランスの主要しゅよう工業こうぎょう地帯ちたい大戦たいせんちゅうドイツぐん占領せんりょうつづけた[180]

ヒンデンブルクとルーデンドルフの指揮しきする東部とうぶ戦線せんせん苦戦くせんしていた。オーストリアぐんレンベルクのたたか(de)でロシアぐんやぶれてガリツィア方面ほうめん危機ききおちいった。ポーランドでもロシアぐん中央ちゅうおう同盟どうめいこく(ドイツ・オーストリア)の一進一退いっしんいったい膠着こうちゃく状態じょうたいつづいた[180]。ヒンデンブルクやルーデンドルフは東部とうぶ戦線せんせん増強ぞうきょうもとめたが、参謀さんぼう総長そうちょうファルケンハインはなおもシュリーフェン・プランのしんつばさ作戦さくせん実行じっこうすれば西部せいぶ戦線せんせん打開だかいできるとしんじていたのでおうじなかった[182]。ヴィルヘルム2せい東部とうぶ戦線せんせん増強ぞうきょう西部せいぶ戦線せんせん増強ぞうきょう論争ろんそう見守みまもるだけだったが[183]、1915ねん7がつ2にちポーゼンでの御前ごぜん会議かいぎではファルケンハインを支持しじして東部とうぶ戦線せんせんでのだい作戦さくせん反対はんたいした[184]

開戦かいせんイギリスはドイツ経済けいざいげるために海上かいじょう封鎖ふうさ開始かいしした。戦争せんそう1ねんはドイツが物資ぶっしめん十分じゅうぶん準備じゅんびしていたこともあっておおきな食糧しょくりょう困難こんなん発生はっせいしなかったが、としるごとにドイツの食糧しょくりょう事情じじょう悪化あっかすることはあきらかだった[181]。ドイツはイギリスの食糧しょくりょう事情じじょう悪化あっかさせようとイギリス周辺しゅうへん海域かいいきふねすべ潜水せんすいかんUボートによってしずめるという「制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん」を開始かいしした[185][186]。しかしこれはアメリカ国民こくみんやアメリカ船籍せんせきえをうとして中立ちゅうりつこくアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく反発はんぱつまねいた。アメリカの抗議こうぎおうじてドイツ政府せいふは1915ねん8がつ今後こんご警告けいこく客船きゃくせん撃沈げきちんしないことを約束やくそくした。ついで9がつにはアメリカ船舶せんぱく攻撃こうげきける可能かのうせい減少げんしょうさせるために英仏海峡えいふつかいきょうやその西側にしがわからUボートをげた[185]制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせんとく宰相さいしょうベートマンが反対はんたいしていた。ベートマンはアメリカを強国きょうこく認識にんしきし、アメリカ参戦さんせんだけは回避かいひせねばならないとかんがえていた。たいして軍部ぐんぶはアメリカを軍事ぐんじ小国しょうこく過小かしょう評価ひょうかしていた[187]海軍かいぐん大臣だいじんティルピッツはなおも制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん勝利しょうりふだであると主張しゅちょうつづけたため、ヴィルヘルム2せい宰相さいしょうベートマンの進言しんげんれて1916ねん3がつにティルピッツを解任かいにんした[188][189]

3B政策せいさくやドイツじん軍事ぐんじ顧問こもん採用さいようなどかねてからしんどくてきだったオスマン帝国ていこくは1914ねん10がつ29にちにロシアぐん攻撃こうげき開始かいし中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわ(ドイツがわ)で参戦さんせんした。これは戦争せんそう前期ぜんきのドイツ外交がいこう成功せいこうひとつであった[190]。オスマンの参戦さんせんブルガリア王国おうこく重要じゅうようせいし、連合れんごうこく陣営じんえい中央ちゅうおう同盟どうめいこく陣営じんえいはそろってブルガリアを陣営じんえいきこもうと必死ひっしになったが、結局けっきょくブルガリアは1915ねん9がつにドイツと同盟どうめいして中央ちゅうおう同盟どうめいこくがわ参戦さんせんした[191]

1915ねん4がつまつイープルにおいてドイツぐんはじめてしん兵器へいきどくガス塩素えんそガス)を戦場せんじょう大量たいりょう使用しようした。連合れんごうぐんただちに塩素えんそガスをどくガス兵器へいきとして使用しようするようになった。以降いこうりょう陣営じんえいでのどくガス兵器へいき使用しよう恒常こうじょうし、ホスゲンガスジホスゲンガス、そしてついには無色むしょく無臭むしゅうマスタードガス開発かいはつされて戦場せんじょう地獄じごくした。いち大戦たいせんにおいてりょう陣営じんえい使用しようした砲弾ほうだんの4ぶんの1はどくガスをめた化学かがく砲弾ほうだんであったといわれている[188][192]

1915ねんまつからファルケンハインは本格ほんかくてき西部せいぶ戦線せんせん重点じゅうてんうつし、1916ねん2がつヴェルダンのたたか開始かいしした[188]

大戦たいせん後期こうき「ルーデンドルフ独裁どくさい[編集へんしゅう]

いち大戦たいせんちゅうのヴィルヘルム2せい
いのるヴィルヘルム2せい(1916)

ファルケンハインが発動はつどうした西部せいぶ戦線せんせんのヴェルダンのたたかいはおもわしくなく、またかれ東部とうぶから兵力へいりょくいたのち東部とうぶ戦線せんせんでロシアぐんブルシーロフ攻勢こうせいなど一連いちれん攻勢こうせいがあったことでかれ面目めんぼくつぶれた。ファルケンハイン解任かいにんもとめるこえかく方面ほうめんからつよまり、ヴィルヘルム2せい無視むしできなくなった[193]1916ねん8がつ27にちルーマニア連合れんごうこくがわ参戦さんせんしたのをにファルケンハインは更迭こうてつされることとなった[194]

ヴィルヘルム2せい後任こうにん参謀さんぼう総長そうちょう国民こくみん人気にんきたかいヒンデンブルクをにんじた。参謀さんぼう次長じちょうにはかれ参謀さんぼうちょうであるルーデンドルフをにんじた[194]。これは文官ぶんかん政府せいふちからだけでは国内こくない政治せいじ状態じょうたいおさめるのはむずかしくなってきたと判断はんだんした宰相さいしょうベートマンの推薦すいせんによるものだった[106]。しかしヴィルヘルム2せい自身じしんはヒンデンブルクとルーデンドルフがきではなかったという[195]

これ以降いこうのドイツの戦争せんそう実質じっしつてきにルーデンドルフによって指導しどうされるようになった。かれはヴィルヘルム2せいやベートマン、帝国ていこく議会ぎかいなど政治せいじ指導しどうしゃ干渉かんしょうして「ルーデンドルフ独裁どくさい」とばれる時代じだいきずくこととなった[196][197]依然いぜんとしてヴィルヘルム2せいぐん大元帥だいげんすい最高さいこう司令しれいかんではあったが、開戦かいせん以来いらいうすかったその存在そんざいかんがますますうすくなり、もはや陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい帝国ていこく議会ぎかい多数たすう社民党しゃみんとう中央ちゅうおうとうなど)のあいだをうろうろするだけの周辺しゅうへんてき存在そんざいぎなくなってしまった[198][199][200]

戦争せんそう開始かいしからはじめの2ねんほどは宰相さいしょうベートマンの指導しどうしたに「城内きうち平和へいわ体制たいせい」としょうするぜん政党せいとう労働ろうどう組合くみあい政府せいふへの協力きょうりょくもとめる挙国一致きょこくいっち体制たいせい構築こうちくされ、戦争せんそう目的もくてき論争ろんそうされていた[171][201]。ところが戦時せんじ国債こくさい発行はっこうのたびに宰相さいしょうベートマンが戦争せんそう見通みとおしを帝国ていこく議会ぎかい説明せつめいせねばならず、そうしたなかで1916ねん以降いこうになると帝国ていこく議会ぎかいないでも戦争せんそう目的もくてきをめぐってふたつの党派とうは出現しゅつげんした。「勝利しょうり平和へいわ」(てき領土りょうど併合へいごうてき植民しょくみん獲得かくとくてきから賠償金ばいしょうきんて)を主張しゅちょうする右派うは勢力せいりょくと「和解わかい平和へいわ」(併合へいごう賠償ばいしょうでよいので早期そうきてき平和へいわ条約じょうやく締結ていけつ)を主張しゅちょうする左派さは勢力せいりょくである。「勝利しょうり平和へいわ」はドイツの戦況せんきょうかんがえるとあまりに現実離げんじつばなれしており、「和解わかい平和へいわ」の立場たちばつよまっていった。「和解わかい平和へいわ」を最初さいしょとなえたのは社民党しゃみんとうであった。1917ねんになると社民党しゃみんとうのみならず中央ちゅうおうとう進歩しんぽ人民じんみんとう(略称りゃくしょうFVP、自由じゆう主義しゅぎ左派さは勢力せいりょく合同ごうどう政党せいとう)(de)なども「和解わかい平和へいわ」を支持しじするようになった[202]

1917ねん3がつにはロシア革命かくめいにより300ねんつづいたロマノフあさのロシア帝政ていせい崩壊ほうかいした。ドイツ国民こくみんあいだにも講和こうわ期待きたいするこえたかまり、反戦はんせん運動うんどう政府せいふ改革かいかくもとめる運動うんどう活発かっぱつになった。3月まつには帝国ていこく議会ぎかいない内政ないせい改革かいかくもとめる憲法けんぽう委員いいんかい創設そうせつされた。こうしたうごきに対応たいおうしてヴィルヘルム2せいは4がつ7にち発表はっぴょうした復活ふっかつさい勅書ちょくしょなかで「戦時せんじちゅうにプロイセン選挙せんきょほう改革かいかく準備じゅんび着手ちゃくしゅして戦後せんご実施じっしする」と約束やくそくした[203]。4月ストライキを社民党しゃみんとう中央ちゅうおうとうなど帝国ていこく議会ぎかい多数たすううごきはさら活発かっぱつした。宰相さいしょうベートマンは「和解わかい平和へいわろんにはらなかったが、選挙せんきょけん問題もんだいなど内政ないせい問題もんだい帝国ていこく議会ぎかい多数たすう譲歩じょうほめた。ベートマンのもとめにおうじてヴィルヘルム2せいは7がつ11にちにプロイセン王国おうこく政府せいふたいしてさん等級とうきゅう選挙せんきょけん制度せいど(de)をあらためて平等びょうどう選挙せんきょむねとする選挙せんきょほう改正かいせいめいじる勅書ちょくしょした[204]。だが帝国ていこく議会ぎかい多数たすうはベートマンの努力どりょく評価ひょうかすることはく、かれ批判ひはんつづけた[205]

1917ねん2がつにドイツ外相がいしょうメキシコおくった「アメリカ参戦さんせん場合ばあい、ドイツはメキシコと同盟どうめいむす用意よういがあり、テキサスしゅうアリゾナしゅうニューメキシコしゅうなかきゅうメキシコりょうもどすのを援助えんじょしてもよい。ドイツには日本にっぽん単独たんどく講和こうわ準備じゅんびがあり、そのにちどくぼく反米はんべい同盟どうめい締結ていけつしたい」という電報でんぽうがイギリスぐん傍受ぼうじゅされ、イギリスはこれをアメリカに通達つうたつした。激怒げきどしたウッドロウ・ウィルソン大統領だいとうりょう電報でんぽう国民こくみん公表こうひょうし、アメリカのはんどく感情かんじょうつよまった[206][207]。さらに1917ねん2がつからドイツ海軍かいぐんはイギリスにたいする制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん再開さいかいした。かねてからドイツの潜水せんすいかん作戦さくせん迷惑めいわくしていたアメリカはついに1917ねん4がつ6にちにドイツに宣戦せんせん布告ふこくした。宰相さいしょうベートマンはアメリカの参戦さんせんふせごうと無制限むせいげん潜水せんすいかん作戦さくせん再開さいかい反対はんたいしていたが、ルーデンドルフら軍部ぐんぶ相変あいかわらずアメリカを過小かしょう評価ひょうかし、またアメリカはすでに実質じっしつてき参戦さんせんしているもおなじと主張しゅちょうして強行きょうこうしたのであった[208][209]

選挙せんきょほう問題もんだい制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせんめぐ問題もんだいでのベートマンの「弱腰よわごし」は帝国ていこく議会ぎかい少数しょうすう保守ほしゅやルーデンドルフら陸軍りくぐん最高さいこう司令しれいから批判ひはんさらされた。また帝国ていこく議会ぎかい多数たすうもベートマンを「平和へいわてきでない」と看做みなしていたため陸軍りくぐん最高さいこう司令しれいによるベートマン排斥はいせきうごきに協力きょうりょくした[210]。ヒンデンブルクとルーデンドルフは辞職じしょくをちらつかせて、7がつ13にちにヴィルヘルム2せいにベートマンを罷免ひめんさせた[211][212]帝国ていこく議会ぎかい多数たすう後継こうけい宰相さいしょうすことができなかった[204]一方いっぽうルーデンドルフは後任こうにんもと宰相さいしょうベルンハルト・フォン・ビューロー侯爵こうしゃくもと海軍かいぐん長官ちょうかんアルフレート・フォン・ティルピッツかんがえたが、この二人ふたりはかつてヴィルヘルム2せい解任かいにんした人物じんぶつであったからヴィルヘルム2せいから反対はんたいがあり、結局けっきょく先日せんじつ陸軍りくぐん最高さいこう司令しれいてルーデンドルフらのおぼえがかった戦時せんじ食糧しょくりょう管理庁かんりちょう次官じかんゲオルク・ミヒャエリス就任しゅうにんすることとなった[212][213]まったくの無名むめい人物じんぶつであり、ヴィルヘルム2せいは「まだたこともない人物じんぶつだが」とつぶやいたという[209]

ミヒャエリスは陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい忠実ちゅうじつ代弁だいべんしゃとして行動こうどうし、陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい軍事ぐんじ独裁どくさい体制たいせい完成かんせいした。帝国ていこく議会ぎかい多数たすう敗戦はいせんけるためには陸軍りくぐん最高さいこう司令しれい協力きょうりょくするしかないめんがあった[204]議会ぎかいがいに「勝利しょうり平和へいわ」を主張しゅちょうする超党派ちょうとうは組織そしきとしてティルピッツを議長ぎちょうとする祖国そこくとう結成けっせいされ、125まんにん会員かいいんゆうするにいたった。この組織そしき活動かつどうはファシズムの先駆さきがけともうべきものであり[212]、プロイセン選挙せんきょほう改正かいせい審議しんぎにも影響えいきょうあたえ、結局けっきょく敗戦はいせんまでプロイセン議会ぎかい選挙せんきょほう改正かいせいみとめることはかった[214]。しかし1917ねんなつ最初さいしょ水兵すいへい反乱はんらんがあり、さら軍需ぐんじゅ工場こうじょうでのストライキはどんどん革命かくめいてきになってきた。こうした情勢じょうせいなかミヒャエリスは帝国ていこく議会ぎかい対立たいりつふかめて不信任ふしんにんけられた[214]。これをけてヴィルヘルム2せい陸軍りくぐん最高さいこう司令しれいからの抗議こうぎ無視むししてミヒャエリスを解任かいにんした[215]

帝国ていこく議会ぎかい多数たすう承認しょうにんてからバイエルン王国おうこく宰相さいしょうゲオルク・フォン・ヘルトリング伯爵はくしゃくをドイツ・プロイセン宰相さいしょうにんじた[214][215]。また進歩しんぽ人民じんみんとうフリードリヒ・フォン・パイヤーふく宰相さいしょうにんじられた[216]。ただしヘルトリング自身じしん議会ぎかい主義しゅぎ反対はんたいする保守ほしゅてき人物じんぶつであった[212][217]。1918ねん1がつにはベルリンハンブルクキールライプツィヒニュルンベルクなどで軍事ぐんじ工場こうじょう労働ろうどうしゃ反戦はんせんストライキが勃発ぼっぱつした。100まんにん参加さんかしたストライキとなったが、軍部ぐんぶ政府せいふ指導しどうしゃ逮捕たいほ、スト参加さんかしゃ徴兵ちょうへい戒厳かいげん状態じょうたい強化きょうかなどの強硬きょうこう措置そちのぞんだ[218]。しかし1がつ蜂起ほうき弾圧だんあつはますます国内こくない革命かくめい火種ひだねをまきらすこととなった[219]

一方いっぽう戦局せんきょく悪化あっかつづいていた。ドイツぐん連合れんごうぐん攻勢こうせいさきんじて戦線せんせん後退こうたいさせ、強固きょうこ塹壕ざんごう陣地じんちたいジークフリートせん(de:Siegfriedstellung)」(連合れんごうこくは「ヒンデンブルクせん」とんだ)を構築こうちくして防御ぼうぎょかためた。1917ねん4がつアラス会戦かいせん(de)では連合れんごうこくはじめて戦車せんしゃ投入とうにゅうしてきた。1917ねん11がつまつカンブレーのたたか(de)では400りょう投入とうにゅうしてきた。たいするドイツは不可欠ふかけつ兵器へいきである飛行機ひこうき輸送ゆそう車両しゃりょう生産せいさんだけでいっぱいで戦車せんしゃまで余力よりょくまわらなかった[214][220]だい大戦たいせんでは「戦車せんしゃ大国たいこく」としてられたドイツだが、だいいち大戦たいせんでは「戦車せんしゃ小国しょうこく」であった[221]

しかし東部とうぶ戦線せんせんではドイツは勝利しょうりた。革命かくめい混乱こんらんするロシアにドイツぐんはどんどん進撃しんげきし、ロシアの首都しゅとせまったため、ウラジーミル・レーニンひきいるロシア革命かくめい政府せいふ屈服くっぷくして1918ねん3がつ3にちにドイツとのあいだブレスト=リトフスク条約じょうやく締結ていけつした。この条約じょうやくウクライナバルトさんこくフィンランドなどがロシアから独立どくりつすることとなった[222]。3月5にちにはロシアの後援こうえんうしなったルーマニア降伏ごうぶくし、東部とうぶ戦線せんせん終結しゅうけつした[223]

ロシア脱落だつらくけてドイツぐんはアメリカが本格ほんかく参戦さんせんしてくるまえ西部せいぶ戦線せんせん最後さいご攻勢こうせいをかけることにした。ドイツぐんは1918ねん3がつから7がつにかけて「カイザーシュラハト(皇帝こうていたたかい)」(1918ねん春季しゅんき攻勢こうせい)作戦さくせんおこなった。ドイツぐんは8がつはじめにはパリまで80キロまでせまったが、だいマルヌ会戦かいせんでフランスぐん、アメリカぐん反撃はんげきにあい、ドイツぐんマルヌがわこうにもどされた。以降いこうたたかいの主導しゅどうけん連合れんごうぐんうばわれた[224][225]。1918ねん8がつ8にちアミアンのたたか(de)でオーストラリアぐんにドイツぐん戦線せんせんやぶられた。ルーデンドルフはこのを「ドイツ陸軍りくぐん暗黒あんこく」としょうした[226][227][228]以降いこう戦況せんきょう主導しゅどうけん完全かんぜん連合れんごうぐんにぎり、アメリカぐん中心ちゅうしんとなってドイツぐん陣地じんち次々つぎつぎとされ、ドイツぐん後退こうたいかさねることとなった[227]

大戦たいせん末期まっき「ドイツ革命かくめい[編集へんしゅう]

ドイツの敗戦はいせんちかづくなか同盟どうめいこく次々つぎつぎとドイツからはなれようとした。1918ねん9がつ14にちにはオーストリア=ハンガリー帝国ていこくが、9月25にちにはブルガリア王国おうこく連合れんごうこく休戦きゅうせん懇願こんがんした[229]。1918ねん8がつまつ以降いこうドイツ軍部ぐんぶにも兵士へいし大量たいりょう投降とうこう戦意せんい喪失そうしつ報告ほうこく次々つぎつぎはいってきていた[230]

ルーデンドルフは戦況せんきょう絶望ぜつぼうするようになった。ここにきてヒンデンブルクとルーデンドルフは9月28にち政府せいふたいして一刻いっこくはやくウィルソンべい大統領だいとうりょう提唱ていしょうする「じゅうよんじょう平和へいわ原則げんそく」をれて休戦きゅうせん協定きょうていむすばなければならない、そのためにも政府せいふ改革かいかくして議会ぎかい主義しゅぎもとづく政府せいふつくらねばならないとする通牒つうちょうおくった[217][229][231]外相がいしょうヒンツェもこの見解けんかい支持しじし、敗戦はいせんによる「したからの革命かくめい」をふせぐため、いまのうちに「うえからの革命かくめい」をすすめねばならぬと主張しゅちょうした[229]。ヴィルヘルム2せいはこのときまで戦況せんきょう悪化あっか認識にんしきしていなかったので軍部ぐんぶ提案ていあんおどろいたが、結局けっきょく軍部ぐんぶ外相がいしょうのいいぶんみとめた[232]議会ぎかい政治せいじ反対はんたいしていたヘルトリングは宰相さいしょうすることとなった[229][232]

10月3にち後任こうにんのドイツ・プロイセン宰相さいしょう自由じゆう主義しゅぎしゃとして帝国ていこく議会ぎかいから評価ひょうかたかかったバーデンだい公子こうしマクシミリアンにんじられた。マクシミリアン自身じしん政党せいとうじんではなかったが、社民党しゃみんとう中央ちゅうおうとう進歩しんぽ人民じんみんとうさんとうがマクシミリアンを支持しじして与党よとう構成こうせいしていたため、ドイツではじめての政党せいとうないかくとなった[233]敗戦はいせん確実かくじつになったいま、ルーデンドルフは自分じぶん権力けんりょくをできるだけものわたして敗戦はいせん責任せきにん分担ぶんたんさせたがっていたのでマクシミリアンが権力けんりょくにぎるのに苦労くろうはなかった。軍部ぐんぶ独裁どくさい終焉しゅうえんし、ドイツ史上しじょうはつ政党せいとう政治せいじはじまった[229][233][234]

マクシミリアンはアメリカ大統領だいとうりょうウィルソンと電報でんぽうをやりりして休戦きゅうせん交渉こうしょう要請ようせいしたが、ウィルソンからは10月23にち回答かいとうで「軍国ぐんこく主義しゅぎ王朝おうちょうてき専制せんせい主義しゅぎ除去じょきょ」をもとめられた[235]。ドイツ国民こくみんあいだではヴィルヘルム2せい退位たいいもとめるこえつよまった[235]。マクシミリアンは休戦きゅうせん協定きょうてい反対はんたいてんじたルーデンドルフの罷免ひめんをヴィルヘルム2せい要請ようせいし、これをけてヴィルヘルム2せいは10月26にちにルーデンドルフを解任かいにんした[236][237]後任こうにん参謀さんぼう次長じちょうにはヴィルヘルム・グレーナー就任しゅうにんした[235][238]。しかし、退位たいいはする理由りゆうがないと拒否きょひした。

10月28にち憲法けんぽう改正かいせい告示こくじされ、議会ぎかい主義しゅぎもとづく立憲りっけん君主くんしゅせい導入どうにゅうされた。しかし皇帝こうてい大権たいけんかんする規定きてい曖昧あいまいになっていたことなどから皇帝こうてい権力けんりょく温存おんぞんし「偽装ぎそう議会ぎかい主義しゅぎ」に後退こうたいさせる可能かのうせい留保りゅうほしているとして批判ひはんあつめた[239]結果けっか憲法けんぽう改正かいせいはドイツ国民こくみん印象いんしょうにほとんどのこらず、革命かくめいもとめる機運きうんおさまらなかった[235][239]退位たいいしたくないヴィルヘルム2せいは、10月29にち戦況せんきょう確認かくにんするという名目めいもく不穏ふおん空気くうきつつまれるベルリンをはなれてベルギーのスパかれている大本営だいほんえい移動いどうした[240]時間じかんがたてば状況じょうきょうわるかもしれないとなん根拠こんきょもなくあさはかにも期待きたいしたのである。しかし、当然とうぜんながらこれによってベルリン市民しみん民心みんしんはますます皇帝こうていから離反りはんした[241][242]。 10月まつウィルヘルムスハーフェンにおいて無謀むぼう作戦さくせんへの動員どういんめいじられた水兵すいへいたちが反乱はんらんこした。つづいて11月4にちキールでも水兵すいへい反乱はんらんこし、労働ろうどうしゃがこれに合流ごうりゅうしてキールは「ろうへい協議きょうぎかい」によって実効じっこう支配しはいされた。同様どうよう運動うんどうすさまじいいきおいでドイツ全土ぜんどひろがり、ドイツの主要しゅよう都市としすべて「ろうへい協議きょうぎかい」によって支配しはいされた[243][244]。11月7にちにはバイエルン王国おうこくにおいてクルト・アイスナー中心ちゅうしんとなって王政おうせい打倒だとう革命かくめい発生はっせいし、なが歴史れきしほこヴィッテルスバッハ王家おうけ滅亡めつぼうした[245]。これがきっかけとなってのドイツ帝国ていこくしょくにでも王政おうせい打倒だとう革命かくめい続々ぞくぞく勃発ぼっぱつし、ドイツ帝国ていこくしょくにぜん君主くんしゅ退位たいい余儀よぎなくされた[245][246]

ベルリンでも革命かくめいねつおさまらなくなり、11月7にち社民党しゃみんとう宰相さいしょうマクシミリアンにたいして皇帝こうてい皇太子こうたいし退位たいい要求ようきゅうし、それが実現じつげんできぬ場合ばあい政権せいけんから離脱りだつすると通達つうたつした[247][248]。ただし社民党しゃみんとうのこの要求ようきゅうけっして皇室こうしつ廃止はいしもとめるものではなかった。皇太子こうたいしヴィルヘルム長男ちょうなんヴィルヘルムへの皇位こうい継承けいしょうについてはこの時点じてんでは極左きょくさ独立どくりつ社会しゃかい民主党みんしゅとう極右きょくう国家こっか保守党ほしゅとうのぞいてぜん政党せいとうれられていたのである[249]。しかしこのおよんでもヴィルヘルム2せいはベルリンにいるマクシミリアンから電話でんわけた退位たいい要請ようせい拒否きょひした[240]大本営だいほんえいでは前線ぜんせん部隊ぶたいひきいて国内こくない革命かくめい運動うんどう鎮圧ちんあつしようなどという現実離げんじつばなれした議論ぎろんさえおこなわれる始末しまつだった[248][250]。こういう封建ほうけんてき空気くうき大本営だいほんえいにいたヴィルヘルム2せい戦争せんそう勃発ぼっぱつには自分じぶん責任せきにんがないのだから退位たいいせねばならない如何いかなる理由りゆうもないと本気ほんき妄執もうしゅうしていた[249]結果けっかなしくずてき皇室こうしつ廃止はいしかうことになってしまったのである。

進退しんたいきわまったマクシミリアンは11月9にち午前ごぜんちゅう独断どくだんでヴィルヘルム2せいがドイツ皇帝こうてい・プロイセン王位おういから退位たいいしたと宣言せんげんした[251]皇帝こうていからは退位たいいしたとしてもプロイセン王位おういからは絶対ぜったい退位たいいしないとめていたヴィルヘルム2せいはこれに激怒げきどした[247][252]。しかしグレーナーから革命かくめい運動うんどう鎮圧ちんあつ不可能ふかのうであることをげられた。さらにヒンデンブルクがヴィルヘルム2せいに「わたし陛下へいかがベルリンの革命かくめい政府せいふつかまるような責任せきにんうことはできません。オランダへおげになるしかありません」と進言しんげんした[253]。ヴィルヘルム2せいいかりにふるえ、部屋へやあるまわっていたが、やがてすべてをあきらめ、しずかな調子ちょうし外相がいしょうヒンツェに亡命ぼうめい準備じゅんびをするようめいじた[253]。11月10にち早朝そうちょう特別とくべつ列車れっしゃでスパの大本営だいほんえいをたってオランダへ亡命ぼうめいした[254]。ホーエンツォレルン財産ざいさんなんりょうもの貨車かしゃ満載まんさいしてっていった。たような境遇きょうぐうったヨーロッパの王侯おうこうたちなかでヴィルヘルム2せいのように多額たがく財産ざいさん確保かくほして国外こくがい退去たいきょしたものまれであった[255]

マクシミリアンののちけた宰相さいしょうフリードリヒ・エーベルト社民党しゃみんとう共同きょうどう党首とうしゅ)は将来しょうらい国家こっか体制たいせいかんする最終さいしゅう決定けってい留保りゅうほしたかったが、フィリップ・シャイデマン社民党しゃみんとう共同きょうどう党首とうしゅ)がカール・リープクネヒト意味いみ独断どくだん共和きょうわこく宣言せんげんをしてしまった[256]財産ざいさんだけって早々そうそうにドイツからげたヴィルヘルム2せいたいする世論せろん悪化あっかしており、共和きょうわこく宣言せんげんおおきな反発はんぱつかった。保守ほしゅ政党せいとうでさえも共和きょうわこくへの移行いこうは「一時いちじてきにはやむをない」とする意見いけん大勢おおぜいとなっていた[256]

オランダへ亡命ぼうめいしたヴィルヘルム2せいははじめ公式こうしき退位たいい宣言せんげんをしないとめ、二人ふたり皇太子こうたいしにも同様どうよう態度たいどらせていた[257]。しかし結局けっきょく1918ねん11月28にち退位たいい宣言せんげん正式せいしき署名しょめいした[2]

退位たいい[編集へんしゅう]

1933ねん9がつ晩年ばんねんごしたドールンかん庭園ていえんで。

オランダ政府せいふ政治せいじ活動かつどう停止ていし条件じょうけんにヴィルヘルム2せいれを承諾しょうだくした。連合れんごうこくヴェルサイユ条約じょうやくだい227じょうで「国際こくさい道義どうぎ条約じょうやくたいする最高さいこうつみおかした」としてぜん皇帝こうていとしてのヴィルヘルム2せい訴追そついめた[258]。この手続てつづきは成文法せいぶんほう違反いはんではないあたらしいほう概念がいねんもとづくものであり、の「平和へいわたいするつみ」の萌芽ほうがてき前例ぜんれいとなった[259]。イギリス政府せいふ講和こうわ会議かいぎ以前いぜんからオランダ政府せいふたいしてヴィルヘルム2せい身柄みがらわたしを要求ようきゅうつづけていたが、オランダ政府せいふはヴィルヘルム2せい拘束こうそくしておらず、またかれわたしにかんするオランダ国内こくないほう違反いはんしていないためわたしはできないとして、1920ねん1がつ21にち正式せいしき拒否きょひ通告つうこくおこなった[260]連合れんごうこくかさねてわた要求ようきゅうおこなわず、欠席けっせき裁判さいばんおこなうこともなかった[260]

以降いこうヴィルヘルム2せいはそのまでの23年間ねんかんをオランダでごすこととなった。少数しょうすう近臣きんしんしたがえながらユトレヒトしゅうドールンしろかん貴族きぞくとして安楽あんらく余生よせいおくり、かつての臣下しんかののしりながら趣味しゅみとしてってごした。またこのあいださつ回顧かいころくあらわしている[14]。ヴィルヘルム2せい過去かこかえりみて「自分じぶん退位たいいについてはマクシミリアンとヒンデンブルクに連帯れんたい責任せきにんがあるが、亡命ぼうめい責任せきにん完全かんぜんにヒンデンブルクにある」と確信かくしんするようになった[254]。1921ねんのヒンデンブルクとの書簡しょかんのやりりでヒンデンブルク本人ほんにんみずからの責任せきにんみとめさせている[261]一方いっぽうでヒンデンブルクは大統領だいとうりょうになったのち保守ほしゅ政党せいとう国家こっか人民じんみんとうにヴィルヘルム2せい退位たいいについて追及ついきゅうされるたびに「それはグレーナーにうべきである」とってみずからの責任せきにん否定ひていしている[262]

1921ねん4がつ11にちアウグステ・ヴィクトリア皇后こうごう崩御ほうぎょした。1922ねん11月5にち、ヴィルヘルム2せいあにけいロイスこうおんなヘルミーネ再婚さいこんした[14]。ヴィルヘルム2せいは63さい、ヘルミーネは35さい未亡人みぼうじんであり、この再婚さいこん世界せかいおどろかせた[263]

ヴィルヘルム2せいはオランダ亡命ぼうめいちゅうつね復位ふくい希望きぼういており、戦後せんごもドイツのおう党派とうは右翼うよく勢力せいりょくたいして一定いってい政治せいじてき影響えいきょうりょくたもっていた。ドールンをおとずれた喜劇きげき作家さっか贈呈ぞうていした写真しゃしんには「ちんここになんじ臣民しんみん今日きょうまでに決定けっていしたすべてのことを無効むこうとする。ヴィルヘルム」と冗談じょうだん本気ほんきからない文句もんくえた[264]一方いっぽうちゅうオランダ・ドイツ大使たいし1926ねん1がつグスタフ・シュトレーゼマン外相がいしょうおくった報告ほうこくしょなかで「皇帝こうてい政治せいじについて様々さまざま意見いけんべながらも現在げんざい生活せいかつ状態じょうたい改善かいぜんしたいという希望きぼうっておられません。皇帝こうてい現状げんじょうきわめて快適かいてきであり、心身しんしんともに平穏へいおんでおられます。」といている[265]

ドイツきゅう王侯おうこうたちはドイツ帝国ていこく時代じだい自分じぶん統治とうちにあったしゅうたいして土地とち財産ざいさん返還へんかん請求せいきゅうもとめていたが、ヴィルヘルム2せいプロイセンしゅう政府せいふたいして同様どうよう交渉こうしょうおこなっていた[266]。1926ねんドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとう長期ちょうきする王侯おうこうたちとの裁判さいばんつかれ、穏健おんけん法的ほうてき解決かいけつはかろうとした。それにじょうじてドイツ共産党きょうさんとう強硬きょうこう法的ほうてき解決かいけつ、すなわち王侯おうこう財産ざいさん没収ぼっしゅう法案ほうあん国会こっかい提出ていしゅつした[266]。ヒンデンブルク大統領だいとうりょうはホーエンツォレルン財産ざいさんまもるべく「私有しゆう財産ざいさんたいして法的ほうてき解決かいけつおこなうのは憲法けんぽう違反いはん」として反対はんたいした。結局けっきょくこのけん国民こくみん投票とうひょうにかけられることとなり、君主くんしゅ共和きょうわはげしいあらそいがひろげられた。ちなみにナチ党内とうないでもこのけんについては意見いけんかれた。ナチス左派さはグレゴール・シュトラッサー王侯おうこう財産ざいさん没収ぼっしゅう賛成さんせいしたが、一方いっぽうアドルフ・ヒトラー王侯おうこう財産ざいさん没収ぼっしゅうを「ユダヤじんのペテン」として批判ひはんし、王侯おうこうよりユダヤじんから財産ざいさん没収ぼっしゅうせよと主張しゅちょうしてシュトラッサーの意見いけん退しりぞけた[267]結局けっきょく国家こっか人民じんみんとう鉄兜てつかぶとだんなど保守ほしゅ勢力せいりょくだい反対はんたい運動うんどうにより王侯おうこう財産ざいさん没収ぼっしゅう法案ほうあん退しりぞけられたが、賛成さんせいひょうが1450まんひょうはいったことについてヴィルヘルム2せいは「ドイツには1400まんにんもの不道徳ふどうとくかんがいる」と不満ふまんべた[267]

ヒンデンブルクは帝政ていせい復古ふっこ論者ろんしゃで、ヴィルヘルム2せい復位ふくい主張しゅちょうしていた。一方いっぽうブリューニング首相しゅしょう本人ほんにんではなく、まご帰国きこくさせて帝政ていせい復古ふっこするあんっていたが、ヒンデンブルク大統領だいとうりょうはヴィルヘルム2せいへの忠誠ちゅうせいにこだわった。1934ねん死去しきょしたヒンデンブルクは遺言ゆいごんで、ヴィルヘルム2せいまごであるルイ・フェルディナントむかえた帝政ていせい復古ふっこをいいわたしたが、首相しゅしょうとなっていたヒトラーはこの遺言ゆいごんにぎつぶしたという。

1930ねん、ドイツ本国ほんごくとどまっていただいよん皇子おうじアウグストNSDAP(ナチス)入党にゅうとうした。また、1931ねんにはヘルマン・ゲーリングがオランダをおとずれてヴィルヘルム2せい面会めんかいしている[2]。しかしヒトラーがはん帝政ていせい復古ふっこだとると、ナチス支援しえん消極しょうきょくてきになっていった。

一方いっぽうだい世界せかい大戦たいせんナチス・ドイツ戦争せんそう遂行すいこう全面ぜんめんてき賛同さんどうしていた。ポーランド侵攻しんこうについてヴィルヘルム2せいは「今度こんど戦役せんえき驚嘆きょうたんすべきあり、伝統でんとうてきプロイセン精神せいしんによって遂行すいこうされた」と称賛しょうさんした[121]1940ねん5月、自身じしん亡命ぼうめいさきであるオランダにドイツぐん侵攻しんこうしたさいには、イギリスのチャーチルからヴィルヘルム2せいたいしてイギリスへの亡命ぼうめいすすめがあったにもかかわらず、これを拒絶きょぜつしてオランダにのこり、ドイツぐん保護ほごけている。さらに同年どうねん、かつてかれのドイツぐんげることができなかったパリ陥落かんらくをヒトラーのドイツぐん達成たっせいしたのをると、ヒトラーにたいして祝電しゅくでんった[2][121][252]。1940ねんあき手紙てがみなかでは「こん活躍かつやくしているドイツぐん将軍しょうぐんたちはかつてわたしおしだったものたちである。あるもの少尉しょういとして、あるもの大尉たいいとして、あるもの少佐しょうさとしてわたしのもとで世界せかい大戦たいせんたたかったのだ」とほこらしげにかたっている[14]

どくせんがはじまる直前ちょくぜん1941ねん6月4にち、ヴィルヘルム2せいはいふさがせんのためドールンくずれじた[14][268]。ヒトラーのいのちによりドイツぐんによる葬儀そうぎおこなわれた[2]。ヴィルヘルム2せいはまずドールンもんちかくにある礼拝れいはいどうほうむられ、その遺言ゆいごんしたがって、死後しごドールンのかん庭園ていえん建設けんせつされた霊廟れいびょう改葬かいそうされた。自身じしんあんになる墓碑ぼひにはこうきざまれている。

賞賛しょうさんすることなかれ。賞賛しょうさんようせぬゆえ。栄誉えいよあずかうるなかれ。栄誉えいよもとめぬゆえ。さばくことなかれ。わがこれよりさばかるるゆえ。
1941ねん6がつ9にちドールンオランダばんヴィルヘルム2せい葬儀そうぎ参列さんれつする国家こっか弁務べんむかんアルトゥル・ザイス=インクヴァルトさい前列ぜんれつひだり眼鏡めがね人物じんぶつ)。
中央ちゅうおう老人ろうじんアウグスト・フォン・マッケンゼン元帥げんすい。その後列こうれつひだりより、国防こくぼうぐん最高さいこう司令しれい長官ちょうかん代理だいりヴィルヘルム・カナリス提督ていとく空軍くうぐんそう司令しれいかん代理だいりフリードリッヒ・クリスチャンセン航空こうくうへい大将たいしょう(ほぼかくれている)、陸軍りくぐんそう司令しれいかん代理だいりクルト・ハーゼ上級じょうきゅう大将たいしょう海軍かいぐんそう司令しれいかん代理だいりヘルマン・デンシュ提督ていとく

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

カイザー・ヴィルヘルム・キンダーハイムの子供こどもたちと
ヴィルヘルム2せい原画げんが宮廷きゅうてい画家がかヘルマン・クナックフス仕上しあげた黄禍こうかろんかんする寓意ぐういヨーロッパのしょ国民こくみんよ、なんじらのもっと神聖しんせいたからまもれ!ドイツばん」。1895ねんなつ発表はっぴょうされ、欧米おうべい諸国しょこく首脳しゅのう配布はいふされたこの寓意ぐういは「黄禍こうか」という概念がいねん世界せかいひろめるのにおおきな役割やくわりたした

ヴィルヘルム2せい時代じだい進取しんしゅ気性きしょう保守ほしゅせいとが混在こんざいした過渡かとだったが、それには皇帝こうてい個人こじん嗜好しこうおおきく影響えいきょうしている。芸術げいじゅつてきには保守ほしゅてきで、ゲアハルト・ハウプトマン作品さくひんのような自然しぜん主義しゅぎ文学ぶんがくを「排水溝はいすいこう文学ぶんがく」とんで否定ひていしているが、技術ぎじゅつてき進歩しんぽには非常ひじょう興味きょうみしめし、学術がくじゅつ団体だんたいカイザー=ヴィルヘルム協会きょうかい設立せつりつして科学かがくしゃ援助えんじょした。しかし、みずからは自動車じどうしゃふねることをおそれていたといわれている。

道徳的どうとくてきにも保守ほしゅ主義しゅぎ支配しはいした時代じだいであり、それは1907ねんオイレンブルク事件じけんによって象徴しょうちょうされている。ヴィルヘルム2せい個人こじんてき相談役そうだんやくフィリップ・オイレンブルク侯爵こうしゃくマクシミリアン・ハルデン告発こくはつによって同性愛どうせいあいものとされ、それによって皇帝こうてい侯爵こうしゃくとの絶交ぜっこう余儀よぎなくされた。しかしヴィルヘルム2せいは1927ねんになってもオイレンブルクを「献身けんしんてき殉教者じゅんきょうしゃ」とんでたか評価ひょうかしている[269]

ヴィルヘルム2せい独特どくとく口髭くちひげは「カイゼル髭かいぜるひげ」として有名ゆうめいである。御用ごよう理髪りはつひげ方向ほうこうととのえさせていたのがだい流行りゅうこうしたものであるという。当時とうじ日本にっぽんでもかなり流行りゅうこうしたという[270]

日常にちじょうてきだい酒飲さけのみだったわけではないが、必要ひつようおうじてさけたしなんだ。しかしフランスぎらいからかシャンパンきらっていたという[271]。またヴィルヘルム2せいヘビースモーカーであり、わかころには特注とくちゅうつくらせていたつよ煙草たばこあさからばんまでっていたという。しかし後年こうねんには健康けんこうがいする危険きけんからひかえるようになったという[272]。ヴィルヘルム2せいみことのりれいには「ジャガイモはかわをつけたままべよ。しかし、どうしてもかわをむく必要ひつようがあるなら、けっしてなまのうちにむくな。かならふかすか、うえでむくようにせよ」とあった。そして、みことのりれいのちには内務ないむ大臣だいじんつぎのような注釈ちゅうしゃくえられていた。「ジャガイモをなまのままでかわをむくと、かわ中身なかみが11%もいててられる。ふかすかるかしてからかわをむくと、容易よういうすかわだけをむくことができる」と。

性格せいかくてき苛烈かれつ周囲しゅういたいしてしばしば偏見へんけんってせっしていた。とくにアジアじんたいしては過激かげき黄禍こうかろんものであり、中国人ちゅうごくじん徹底てっていして蔑視べっししていた。義和よしかずだんらん鎮圧ちんあつのためにきよし出征しゅっせいするドイツへいたちにけてヴィルヘルム2せいは「諸君しょくんてきおもったらすぐさまころせ。慈悲じひ無用むようである。捕虜ほりょなどというまどろっこしいもの必要ひつようない」と演説えんぜつしている[40][273]日本にっぽんたいしてもさんこく干渉かんしょうにち戦争せんそう講和こうわ条約じょうやくであるポーツマス条約じょうやく直後ちょくごさい黄禍こうかろん展開てんかいするなどした[274]さんこく干渉かんしょうおこなわれた直後ちょくご1895ねんなつに、ヴィルヘルム2せい原画げんがえがき、宮廷きゅうてい画家がかヘルマン・クナックフス仕上しあげた寓意ぐういヨーロッパのしょ国民こくみんよ、なんじらのもっと神聖しんせいたからまもれ!ドイツばん」をヴィルヘルム2せいロシア皇帝こうていニコライ2せいフェリックス・フォールフランス大統領だいとうりょうウィリアム・マッキンリーアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく大統領だいとうりょうらに配布はいふしたことにより、黄禍こうかろん世界せかい流布るふするにいたった[275]。が、一方いっぽうでドイツをモデルにして近代きんだい国家こっか建設けんせつ努力どりょくする日本にっぽんについては「東洋とうようのプロイセン」とんで評価ひょうかしていた[276]陸軍りくぐんだい演習えんしゅうさい日本にっぽん軍人ぐんじんに「にち戦争せんそう日本にっぽんぐん戦法せんぽう採用さいようした」と説明せつめいしたり、ベルリンを散歩さんぽさい居合いあわせた日本人にっぽんじん留学生りゅうがくせいこえをかけて激励げきれいしたこともある[277]

おなじヨーロッパ諸国しょこくでは非常ひじょうなフランスぎらいでられたほか、イギリスについては「ドイツはキリスト教きりすときょうこくであるが、イギリスははんキリスト教きりすときょうてき自由じゆう主義しゅぎくに」と酷評こくひょうしている。また、イギリスがフリーメイソンユダヤじん経済けいざいてき支配しはいされているとしんじており、2世界せかい大戦たいせんかれらがおこしたと主張しゅちょうしていた。バルカン諸国しょこくしたており、モンテネグロ王国おうこくについて「るにらない小国しょうこく」でモンテネグロおうニコラ1せいして「バルカンのうし泥棒どろぼう」とってはばからなかった。またそのニコラ1せいすえむすめ王妃おうひむかえたイタリアおうヴィットーリオ・エマヌエーレ3せいについても、背丈せたけひくこと揶揄やゆして北欧ほくおう神話しんわ精霊せいれいドワーフたとえていた。

はんユダヤ主義しゅぎてきかんがえもってはいたが、1938ねんきた水晶すいしょうよる事件じけんについては、自身じしんが「ドイツじんであることを躊躇ためらう」との表現ひょうげんで、ナチスによるユダヤじん迫害はくがい憂慮ゆうりょする手紙てがみむすめヴィクトリア・ルイーゼてている。

評価ひょうか[編集へんしゅう]

ヴィルヘルム2せい一般いっぱんだいいち世界せかい大戦たいせん元凶げんきょうとされている。しかしそれは多分たぶん連合れんごうこく戦勝せんしょうこく史観しかんであり、注意ちゅういようする。だいいち世界せかい大戦たいせん客観きゃっかんてき研究けんきゅうすすみ、ヴィルヘルム2せい仕業しわざとされてきたことがじつはそうでなかったことが判明はんめいしつつある。そのさいたるものはかつて開戦かいせん原因げんいんとされてきた1914ねんにヴィルヘルム2せいひらいたというポツダム御前ごぜん会議かいぎなるものがじつ存在そんざいだったこと、またフランスとの緊張きんちょうたかめた1905ねんのヴィルヘルム2せいのタンジールの訪問ほうもんじつはヴィルヘルム2せい自身じしんはモロッコ問題もんだい不干渉ふかんしょう立場たちばだったことなどである。フリッツ・フィッシャー研究けんきゅうをめぐる論争ろんそう以降いこう、ヴィルヘルム2せいだけではなくドイツ国家こっか指導しどうそう全体ぜんたい世界せかい大戦たいせんかっていったことが歴史れきしがく共通きょうつう認識にんしきになりつつあり、そのため現在げんざいではヴィルヘルム2せいいちにんだけに世界せかい大戦たいせん責任せきにんわせる議論ぎろん過去かこものとなっている[142]

子女しじょ[編集へんしゅう]

皇后こうごうアウグステ・ヴィクトリアとのあいだには、以下いかろくなんいちじょをもうけた。後妻ごさいのヘルミーネとのあいだには子供こどもはいない。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 具体ぐたいてきには左腕さわん左足ひだりあしがうまくうごかせず[4][6]はしことができず、また直立ちょくりつ不動ふどう姿勢しせいることができなかった[6]ナイフフォーク使用しようにも不自由ふじゆうがあった[6]かれ人格じんかく形成けいせいをこの肉体にくたいてきコンプレックスもとめようとする伝記でんき作者さくしゃもいるが、さだかではない[6][7]。ヴィルヘルム2せいがこれをかくすためについやした努力どりょく並大抵なみたいていではなく、ついにはうまりこなせるまでになった[8]
  2. ^ ヴィルヘルム2せいは1886ねん5がつひがしプロイセンプローケルヴィッツフィリップ・ツー・オイレンブルク出会であい、以降いこう21年間ねんかんにわたってかれ同性愛どうせいあい関係かんけいむすぶようになったという[28]帝国ていこく宰相さいしょうオットー・フォン・ビスマルク侯爵こうしゃく息子むすこであるヘルベルト・フォン・ビスマルク侯爵こうしゃくによると「陛下へいかはこの地上ちじょうほかだれよりもオイレンブルクをふかあいされた」という[29]。オイレンブルクはヴィルヘルム2せい側近そっきんとして活躍かつやくすることになるが、ヴィルヘルム2せいとしてはかれ積極せっきょくてき政治せいじ世界せかいきずりむことでかれ家庭かていわすれさせ、かれ独占どくせんしようとはかっていたのだという[29]
  3. ^ 社会しゃかい主義しゅぎしゃ住居じゅうきょから退かせる権限けんげん警察けいさつみとめる条項じょうこう[54]
  4. ^ プロイセン大臣だいじんがプロイセンおう上奏じょうそうする場合ばあいはまずプロイセン宰相さいしょう報告ほうこくせねばならず、また上奏じょうそうにあたって宰相さいしょうちあうことを規定きていしたオットー・テオドール・フォン・マントイフェル宰相さいしょう時代じだいの1852ねん命令めいれいのこと[62]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

ドイツの君主くんしゅ
先代せんだい
フリードリヒ3せい
ドイツの旗 ドイツ皇帝こうてい
1888ねん - 1918ねん
次代じだい
帝政ていせい廃止はいし
プロイセンおう
1888ねん - 1918ねん
次代じだい
王政おうせい廃止はいし
プロイセン王家おうけ家長かちょう
1888ねん - 1941ねん
次代じだい
ヴィルヘルム(皇太子こうたいし