レオ・フォン・カプリヴィ

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レオ・フォン・カプリヴィ
Leo von Caprivi
生年月日せいねんがっぴ 1831ねん2がつ24にち
出生しゅっしょう プロイセン王国の旗 プロイセン王国おうこく ベルリン
ぼつ年月日ねんがっぴ (1899-02-06) 1899ねん2がつ6にち(67さいぼつ
死没しぼつ ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく スコルレン
ぜんしょく 軍人ぐんじん(陸軍りくぐん歩兵ほへい大将たいしょう)
称号しょうごう プール・ル・メリット勲章くんしょう
サイン

内閣ないかく カプリヴィないかく
在任ざいにん期間きかん 1890ねん3がつ20日はつか - 1894ねん10月26にち
皇帝こうてい ヴィルヘルム2せい

内閣ないかく カプリヴィないかく
在任ざいにん期間きかん 1890ねん3がつ20日はつか - 1894ねん10月29にち
国王こくおう ヴィルヘルム2せい

プロイセン王国おうこく
外務がいむ大臣だいじん
内閣ないかく カプリヴィないかく
在任ざいにん期間きかん 1890ねん3がつ20日はつか - 1894ねん10月29にち
国王こくおう ヴィルヘルム2せい

ドイツ帝国ていこく海軍かいぐん
海軍かいぐん本部ほんぶ長官ちょうかん
在任ざいにん期間きかん 1883ねん3がつ20日はつか - 1888ねん7がつ5にち
皇帝こうてい ヴィルヘルム1せい
フリードリヒ3せい
ヴィルヘルム2せい
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レオ・フォン・カプリヴィ
Leo von Caprivi
カプリヴィの肖像しょうぞう (1894ねん)
所属しょぞく組織そしき プロイセン陸軍りくぐん
ドイツ帝国ていこく陸軍りくぐん
ぐんれき 1848ねん1888ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 陸軍りくぐん歩兵ほへい大将たいしょう
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ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィGeorg Leo von Caprivi1831ねん2がつ24にち - 1899ねん2がつ6にち)は、プロイセンおよドイツ軍人ぐんじん政治せいじオットー・フォン・ビスマルクあといで、1890ねん3月から1894ねん10がつまでだい2だい帝国ていこく宰相さいしょうつとめた。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

軍人ぐんじん[編集へんしゅう]

軍装ぐんそう姿すがたのカプリヴィ

1831ねん2がつ24にちベルリンのシャルロッテンブルク地区ちくまれる。ちちのユリウス・レオポルト・フォン・カプリヴィは最高さいこう裁判所さいばんしょ判事はんじおよ貴族きぞくいん議員ぎいんつとめた。生家せいかイタリアけいスロベニアけいであり、ドレンスカ地方ちほうコチェーヴィエ発祥はっしょうとされている[1][2][3]。しかし、カプリヴィ起源きげんについてはこのせつ否定ひていする見解けんかいもある[4]1849ねんプロイセン王国おうこく陸軍りくぐん入隊にゅうたいし、だいシュレースヴィヒ戦争せんそう英語えいごばん従軍じゅうぐんした。1866ねんフリードリヒ・カール参謀さんぼうとしてひろしおう戦争せんそうに、1870ねんだい10ぐん英語えいごばん参謀さんぼうとしてひろしふつ戦争せんそうにそれぞれ従軍じゅうぐんしている[5]。そのカプリヴィはひろしふつ戦争せんそう参加さんかヘルムート・フォン・モルトケだいモルトケ)によりプール・ル・メリット勲章くんしょう授与じゅよされ中佐ちゅうさ昇進しょうしんし、マーズ=ラ=トゥールのたたかい、メス攻囲こういせん、ボーヌ=ラ=ロランドのたたかいで活躍かつやくした。ひろしふつ戦争せんそうプロイセン陸軍りくぐんしょう英語えいごばん配属はいぞくされ、1882ねんメッツ駐留ちゅうりゅうするだい30歩兵ほへい団長だんちょう任命にんめいされる[5]1883ねん帝国ていこく宰相さいしょうオットー・フォン・ビスマルク政敵せいてきであるアルブレヒト・フォン・シュトッシュ大将たいしょう後任こうにんとして帝国ていこく海軍かいぐん本部ほんぶ長官ちょうかん就任しゅうにんする。任命にんめいはビスマルクによってなされたが、この人事じんじ海軍かいぐん将校しょうこうたちからは不評ふひょうだった。アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく歴史れきしロバート・マッシーによるとこの時点じてんでカプリヴィは海軍かいぐん問題もんだい興味きょうみがなく、かれらのている制服せいふく階級かいきゅうしょう紋章もんしょうらないほどだった。しかし、カプリヴィはぐん官僚かんりょうとして組織そしき管理かんりすぐれた才能さいのう発揮はっきした[5]。カプリヴィは海軍かいぐん本部ほんぶ長官ちょうかん在任ざいにんちゅう魚雷ぎょらいてい開発かいはつ製造せいぞう強調きょうちょうしたが、これはイギリスのモデルよりおおきな戦艦せんかん支持しじしていたドイツ皇帝こうていヴィルヘルム2せいとの対立たいりつ原因げんいんとなり、最終さいしゅうてきには廃案はいあんとなった。1888ねんヴィルヘルム2せい政策せいさく転換てんかんにより海軍かいぐん本部ほんぶ長官ちょうかん辞任じにんし、1890ねん2がつ首相しゅしょう任命にんめいされるまで、ハノーファー駐留ちゅうりゅうにしていただい10ぐん司令しれいかん転任てんにんした。

ドイツ帝国ていこく宰相さいしょう[編集へんしゅう]

宰相さいしょうカプリヴィ

1890ねん3月、ベルリンに召喚しょうかんされビスマルクの解任かいにんつたえられ、後任こうにんとして帝国ていこく宰相さいしょう任命にんめいされる。もっとも、ビスマルクのあとおそうことは不本意ふほんいであったようで「どんなおろものがビスマルクのあとぐことなど、あえてするだろうか」とかたっていた。

カプリヴィないかくは、国内外こくないがい施策しさくにおいて「あたらしい方針ほうしん」を提示ていじした。内政ないせいではドイツ社会しゃかい民主党みんしゅとうとの融和ゆうわさくり、外交がいこう政策せいさくではしんえい路線ろせんった。1890ねん7がつにはイギリスとのあいだヘルゴランド=ザンジバル条約じょうやく締結ていけつし、イギリスはザンジバルえにヘルゴランドとうをドイツに割譲かつじょうした。しかし、これは一部いちぶ植民しょくみん主義しゅぎしゃによる圧力あつりょく要因よういんとなった。ドイツりょう南西なんせいアフリカ現在げんざいのナミビア)にアフリカ東海岸ひがしかいがんのタンガニーカへつうじるルートであるザンベジがわへのアクセスをるため、内陸ないりく併合へいごうした(現在げんざいカプリヴィ回廊かいろう[6]。カプリヴィは前任ぜんにんしゃビスマルクのように、ドイツは海外かいがい植民しょくみんのために勢力せいりょく競争きょうそうする必要ひつようはないとかんがえていた。むしろヨーロッパないでの地位ちい焦点しょうてんて、当時とうじ世界せかいてき多大ただい影響えいきょうりょく保持ほじしていたイギリスとの密接みっせつ関係かんけいきずこうとしたが、実現じつげんしなかった。

カプリヴィは進歩しんぽ主義しゅぎ政策せいさく実施じっしし、1890ねん産業さんぎょう裁判所さいばんしょ設立せつりつして労使ろうし紛争ふんそう調停ちょうていおこなわせると同時どうじに13さい未満みまん子供こども雇用こよう禁止きんしし、13さいから18さい労働ろうどう時間じかんは1にち10時間じかん以内いないさだめた。1891ねんには日曜日にちようび労働ろうどう禁止きんし最低さいてい賃金ちんぎん制度せいど導入どうにゅう女性じょせい労働ろうどう時間じかんを1にち11時間じかん以内いないさだめた。さらに、輸入ゆにゅうされた木材もくざいうしライ麦らいむぎ小麦こむぎ関税かんぜいげられ、財政ざいせい法案ほうあん累進るいしん所得しょとくぜい導入どうにゅうした。その成果せいかには、1892ねんと1893ねん陸軍りくぐん法案ほうあん、1894ねんのロシアとの通商つうしょう条約じょうやくがある。

しかし、自由じゆう貿易ぼうえき政策せいさく推進すいしんしようとしたが国内こくない保守ほしゅそう植民しょくみん獲得かくとく主張しゅちょうする人々ひとびと中心ちゅうしんとする保護ほご貿易ぼうえき論者ろんしゃ反対はんたいった。また、軍事ぐんじめんではアルフレート・フォン・ヴァルダーゼー主張しゅちょうしたロシア帝国ていこくたいする防戦ぼうせんそう反対はんたいしていたが、はんロシア政策せいさくるヴィルヘルム2せい外務省がいむしょうフリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン主導しゅどうによりどくさい保障ほしょう条約じょうやく更新こうしんおこなわず[7]オーストリア=ハンガリー帝国ていこくとの同盟どうめい強化きょうか焦点しょうてんてた。カプリヴィと外務省がいむしょう決定けっていづかずヴィルヘルム2せい個人こじんてきにロシア大使たいしのパベル・アンドレイエヴィッチ・シュヴァロフ伯爵はくしゃくに、条約じょうやく更新こうしんされることを保証ほしょうした。だが条約じょうやく更新こうしんされることはなく、シュヴァロフ伯爵はくしゃく突然とつぜん報告ほうこくにショックをけた。以後いごドイツとロシアが密接みっせつ関係かんけいになることはなく、ロシアとフランスとのあいだふつ協商きょうしょうむすばれ、やがてだいいち世界せかい大戦たいせんともたたかうこととなる。

1892ねんには教育きょういく関係かんけい法案ほうあん提出ていしゅつするが保守党ほしゅとう反対はんたいにより否決ひけつされ、前任ぜんにんしゃビスマルクの政党せいとうへのない攻撃こうげきともなって、国民こくみん自由党じゆうとう中央ちゅうおうとう支持しじうしなった。またヴィルヘルム2せいとの衝突しょうとつえ、そのため4年間ねんかんで12かいちか辞任じにんもうたという。またヴィルヘルム2せいかれを「敏感びんかんふるふとったあたま」とんだ。そしてとうとうカプリヴィは兼務けんむしていたプロイセン首相しゅしょう辞任じにんし、ボート・ツー・オイレンブルク後任こうにんとなった。しかし、プロイセン首相しゅしょう辞任じにんにより権力けんりょく分散ぶんさんしてしまい、国政こくせい掌握しょうあく困難こんなんかんじたカプリヴィは1894ねん帝国ていこく宰相さいしょう辞任じにんし、クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト後任こうにんとなり、ふたたびドイツ帝国ていこく宰相さいしょうとプロイセン首相しゅしょう兼任けんにんされることになった。

引退いんたいかれ首相しゅしょうとしての経験けいけんについての書籍しょせきのこしたりはなしたりすることはなかった。1899ねんにドイツのスカイレン(現在げんざいのポーランドのスクジン)でくなった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ "Rodbina † grofa Caprivija." 1899. Slovenec: političen list za slovenski narod 27(31) (8 Feb.): 4. (スロベニア
  2. ^ "Ministri slovenskega rodu, a nemškega mišljenja." 1918. Tedenske slike 5(14): 154. (スロベニア
  3. ^ Žužek, Aleš. 2013. "Nemški kancler, ki je bil slovenske gore list." SIOL (8 Dec.). (スロベニア
  4. ^ Petschauer, Erich. 1984. "Das Jahrhundertbuch": Gottschee and Its People Through the Centuries. New York: Gottscheer Relief Association, p. 205.
  5. ^ a b c  Rines, George Edwin, ed. (1920). "Caprivi, Georg Leo, Graf von" . Encyclopedia Americana (英語えいご).
  6. ^ Calleo, D. (1980). The German Problem Reconsidered:Germany and the World Order 1870 to the Present. Cambridge University Press. p. 19. ISBN 9780521299664. https://books.google.com/books?id=RYA8AAAAIAAJ 2015ねん2がつ27にち閲覧えつらん 
  7. ^ Raymond James Sontag, Germany and England: Background of Conflict, 1848–1894 (1938) ch 9

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
オットー・フォン・ビスマルク
ドイツの旗 ドイツ帝国ていこく宰相さいしょう
だい2だい:1890ねん - 1894ねん
次代じだい
クロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト
先代せんだい
オットー・フォン・ビスマルク
プロイセン王国おうこく首相しゅしょう
1890ねん - 1892ねん
次代じだい
ボート・ツー・オイレンブルク
ぐんしょく
先代せんだい
アルブレヒト・フォン・シュトッシュ
ドイツの旗 海軍かいぐん本部ほんぶ長官ちょうかん
1883ねん - 1888ねん
次代じだい
アレクサンダー・フォン・モンツドイツばん