フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい (Friedrich Wilhelm IV, 1795年 ねん 10月15日 にち - 1861年 ねん 1月 がつ 2日 にち )は、プロイセン国王 こくおう (在位 ざいい :1840年 ねん 6月7日 にち - 1861年 ねん 1月 がつ 2日 にち )。三 さん 月 がつ 革命 かくめい 以降 いこう の民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう に対 たい して反動 はんどう 勢力 せいりょく の中心 ちゅうしん となり、欽定 きんてい 憲法 けんぽう を制定 せいてい して上 うえ からの近代 きんだい 化 か を進 すす めた。ある程度 ていど 国民 こくみん に歩 あゆ み寄 よ る姿勢 しせい は持 も っていたものの、中世 ちゅうせい 的 てき な王権 おうけん に憧 あこが れて時代 じだい 錯誤 さくご な君主 くんしゅ 観 かん を示 しめ したため、玉座 ぎょくざ のロマン主義 しゅぎ 者 もの と呼 よ ばれた。また、容姿 ようし からひらめ ともあだ名 な された。
1795年 ねん 10月15日 にち 、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 せい とその王妃 おうひ メクレンブルク=シュトレーリッツ 公 おおやけ 女 おんな ルイーゼ との間 あいだ に生 う まれた。彼 かれ は両親 りょうしん の模範 もはん 的 てき 家庭 かてい で市民 しみん 的 てき に育 そだ てられたが、10代の半 なか ばからしばらくの間 あいだ はフランス革命 かくめい に伴 ともな うナポレオン の侵攻 しんこう によってケーニヒスベルク での亡命 ぼうめい 生活 せいかつ を強 し いられた。
亡命 ぼうめい 時代 じだい は狂信 きょうしん 的 てき な神学 しんがく 者 しゃ ヨーハン・フリードリヒ・デルブリュック から教育 きょういく を受 う け、激昂 げっこう しやすい反面 はんめん 特 とく に女性 じょせい に対 たい しては臆病 おくびょう なほど控 ひか えめな性格 せいかく が形成 けいせい されている。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい と王妃 おうひ エリーザベト・ルドヴィカ1847
1823年 ねん 11月29日 にち 、バイエルン国王 こくおう マクシミリアン1世 せい の娘 むすめ で再 さい 従妹 じゅうまい (祖母 そぼ 同士 どうし が姉妹 しまい )のエリーザベト・ルドヴィカ と結婚 けっこん した。この婚姻 こんいん はホーエンツォレルン家 か とヴィッテルスバッハ家 か の結 むす びつきを強 つよ めることを意図 いと していた。バイエルン王室 おうしつ の王女 おうじょ がプロイセン王室 おうしつ からの求婚 きゅうこん を受 う け入 い れた上 うえ で、ベルリンに長旅 ながたび をすることに皇太子 こうたいし は多大 ただい な配慮 はいりょ を示 しめ した。
政治 せいじ 的 てき な面 めん ではこの婚姻 こんいん を理解 りかい していたにもかかわらず、プロイセン側 がわ もバイエルン側 がわ でも結婚 けっこん に際 さい して両 りょう 王室 おうしつ の宗派 しゅうは の違 ちが いが障害 しょうがい になった。プロイセン国王 こくおう がカトリック 信仰 しんこう の王妃 おうひ を受 う け入 い れることは不可能 ふかのう なため、王妃 おうひ の改宗 かいしゅう が必要 ひつよう であった。しかし、婚姻 こんいん を前 まえ にしてエリーザベト・ルドヴィカ はカトリック信仰 しんこう から福音 ふくいん 主義 しゅぎ 信仰 しんこう への改宗 かいしゅう を拒 こば んだ。この困難 こんなん な状況 じょうきょう において、プロイセン皇太子 こうたいし は信仰 しんこう に関 かん する王妃 おうひ の毅然 きぜん たる態度 たいど を尊重 そんちょう すると言明 げんめい した。
その後 ご 、両者 りょうしゃ の外交 がいこう 的 てき 尽力 じんりょく によって妥協 だきょう 点 てん を見出 みいだ すことに落 お ち着 つ いた。王妃 おうひ エリーザベト・ルドヴィカは当分 とうぶん の間 あいだ カトリック信仰 しんこう を保 たも ち続 つづ けるが、福音 ふくいん 主義 しゅぎ 信仰 しんこう の教 きょう 説 せつ に関 かん する講義 こうぎ を受 う けることが義務 ぎむ づけられた。その上 うえ 、日常 にちじょう 生活 せいかつ におけるカトリック信仰 しんこう の実践 じっせん も約束 やくそく されていた。プロイセン宮廷 きゅうてい での長 なが い生活 せいかつ を経 へ て、最終 さいしゅう 的 てき にはホーエンツォレルン家 か の改革 かいかく 派 は 信仰 しんこう への改宗 かいしゅう がエリーザベトの自由 じゆう 意志 いし でおこなわれた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい とエリーザベト・ルドヴィカの結婚 けっこん 生活 せいかつ は幸 しあわ せであったと全 すべ ての者 もの たちから証言 しょうげん されているが、子供 こども は出来 でき なかった。当時 とうじ の医師 いし クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント によって、王位 おうい 継承 けいしょう 者 しゃ であった皇太子 こうたいし 時 じ に勃起 ぼっき 不全 ふぜん と診断 しんだん されていたと言 い われている。
即位 そくい 前 まえ の政治 せいじ 状況 じょうきょう [ ソースを編集 へんしゅう ]
父 ちち 王 おう フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 せい 統治 とうち 時代 じだい のプロイセン王国 おうこく において、前 ぜん 近代 きんだい 的 てき な国際 こくさい 秩序 ちつじょ としてのウィーン体制 たいせい に基 もと づく政治 せいじ が支配 しはい 的 てき になっていた。当時 とうじ のドイツ全土 ぜんど において民族 みんぞく 主義 しゅぎ 的 てき 統一 とういつ 運動 うんどう のような市民 しみん 的 てき 自由 じゆう を希求 ききゅう する運動 うんどう (ブルシェンシャフト など)が検閲 けんえつ によって押 お さえ込 こ まれていた。1836年 ねん だけで204人 にん の蜂起 ほうき 学生 がくせい たちが拘束 こうそく され、学生 がくせい 数 すう 人 にん には死刑 しけい 判決 はんけつ も出 だ された。
同様 どうよう に、混 こん 宗 むね 婚 こん をめぐってローマ・カトリック教会 きょうかい との果 は てしない対立 たいりつ がプロイセン王国 おうこく において生 しょう じていた。1825年 ねん 、混 こん 宗 むね 婚 こん 法 ほう がプロイセン全域 ぜんいき に適用 てきよう された。しかし、多 おお くのローマ・カトリック教会 きょうかい 司教 しきょう がその法 ほう を無視 むし したため、ケルン大司教 だいしきょう 他 た 数 すう 人 にん の高位 こうい 聖職 せいしょく 者 しゃ が政府 せいふ によって逮捕 たいほ 、拘束 こうそく された。そのため、プロイセン王国 おうこく における政府 せいふ とローマ・カトリック教会 きょうかい との対立 たいりつ は激 はげ しさを増 ま していた。
1840年 ねん 6月7日 にち にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい は国王 こくおう に即位 そくい した。その即位 そくい は自由 じゆう 主義 しゅぎ 派 は と保守 ほしゅ 派 は を新 あら たな国王 こくおう への大 おお きな期待 きたい で結 むす びつけた。数 かず 千 せん 人 にん の聴衆 ちょうしゅう を前 まえ にして演説 えんぜつ した最初 さいしょ のプロイセン国王 こくおう であったので、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい がその期待 きたい に沿 そ っているように見 み えた。1840年 ねん 9月 がつ 10日 とおか のケーニヒスベルク と10月 がつ 15日 にち のベルリンでのプロイセン王国 おうこく の立場 たちば 表明 ひょうめい に際 さい して(彼 かれ の父 ちち 王 おう による憲法 けんぽう 制定 せいてい の約束 やくそく を確認 かくにん した)の発言 はつげん であった[1] 。
彼 かれ は父 ちち 王 おう のおこなった復古 ふっこ 的 てき 、抑圧 よくあつ 的 てき 政治 せいじ を終 お わらせた。同時 どうじ にローマ・カトリック教会 きょうかい との対立 たいりつ も大 おお きな譲歩 じょうほ をすることで解消 かいしょう させた。同様 どうよう に、彼 かれ は古 こ ルター派 は に向 む けた抑圧 よくあつ 政策 せいさく も終 お わらせた。その結果 けっか 、逮捕 たいほ されていた牧師 ぼくし は釈放 しゃくほう され、古 こ ルター派 は 教会 きょうかい による独自 どくじ 教会 きょうかい 組織 そしき 結成 けっせい も許 ゆる され、教会堂 きょうかいどう の建設 けんせつ も認 みと められた。ただし、古 こ ルター派 は 教会 きょうかい には教会 きょうかい 塔 とう の建設 けんせつ と鐘 かね を鳴 な らすことを禁 きん じる制約 せいやく が課 か せられた。また前 ぜん 王 おう の時代 じだい に逮捕 たいほ されていたフリッツ・ロイター やフリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン (英語 えいご 版 ばん ) のような自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ たちに恩赦 おんしゃ を与 あた えた。さらに、エルンスト・アルント 、ヘルマン・フォン・ボイエン 、グリム兄弟 きょうだい たちを復職 ふくしょく させた。 オーストリア帝国 ていこく に対抗 たいこう して、彼 かれ はドイツ連邦 れんぽう に向 む けてカールスバート決議 けつぎ を押 お し通 とお すことを止 と めるように働 はたら きかけた。しかしながら、その後 ご も検閲 けんえつ だけは続 つづ けられていた。
1840年 ねん から1857年 ねん までフリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい はスイス のヌーシャテル (ノイエンブルク)侯 こう でもあった。この称号 しょうごう は侯 ほう 国 こく の独立 どくりつ 以後 いご も維持 いじ された。
1842年 ねん 、ゴシック建築 けんちく を代表 だいひょう するケルン大 だい 聖堂 せいどう の建設 けんせつ 再開 さいかい を祝 いわ う式典 しきてん に、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい はプロイセン国王 こくおう として臨御 りんぎょ した。なお、国王 こくおう は即位 そくい した1840年 ねん に、大 だい 聖堂 せいどう を建設 けんせつ するための公法人 こうほうじん であるケルン大 だい 聖堂 せいどう 中央 ちゅうおう 建築 けんちく 協会 きょうかい の設立 せつりつ を許可 きょか していた。国王 こくおう 自身 じしん 、未 み 達成 たっせい である「ドイツ統一 とういつ 」の重要 じゅうよう なシンボルとして大 だい 聖堂 せいどう 建設 けんせつ 再開 さいかい 祝祭 しゅくさい を歓迎 かんげい し、ケルン大司教 だいしきょう と共 とも に建築 けんちく 再開 さいかい のための礎石 そせき を据 す えた。ケルン大 だい 聖堂 せいどう の建設 けんせつ 再開 さいかい はケルン大司教 だいしきょう だけの決定 けってい ではなく、福音 ふくいん 主義 しゅぎ 信仰 しんこう を持 も つプロイセン王 おう による巨額 きょがく の財政 ざいせい 支援 しえん によって可能 かのう になったのである。したがって、このケルン大 だい 聖堂 せいどう の建築 けんちく 再開 さいかい はプロイセン王国 おうこく の威信 いしん を高 たか めるための国家 こっか 的 てき 事業 じぎょう であった。19世紀 せいき のドイツにおいて中世 ちゅうせい 世界 せかい を高 たか く評価 ひょうか するロマン主義 しゅぎ 思想 しそう が盛 さか んになっており、国王 こくおう 自身 じしん もこの思想 しそう に強 つよ い共感 きょうかん を持 も つに至 いた っている。
国王 こくおう が即位 そくい した翌年 よくねん の1841年 ねん に、ヘーゲルの死後 しご 空席 くうせき となったベルリン大学 だいがく 哲学 てつがく 教授 きょうじゅ にロマン派 は に近 ちか いシェリング を招聘 しょうへい し、ヘーゲル左派 さは の急進 きゅうしん 的 てき 思想 しそう に対 たい するいわば防壁 ぼうへき にしようとした。1817年 ねん にプロイセン王国 おうこく でルター派 は と改革 かいかく 派 は を合同 ごうどう したプロイセン福音 ふくいん 主義 しゅぎ 教会 きょうかい が父 ちち 王 おう のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世 せい による命令 めいれい で設立 せつりつ されていた。この合同 ごうどう 教会 きょうかい には、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 せい によって作成 さくせい された礼拝 れいはい 式 しき 文 ぶん が下賜 かし された。その式 しき 文 ぶん はニュルンベルク のルター派 は 教会 きょうかい 礼拝 れいはい 式 しき に倣 なら ったものであり、ローマ・カトリック教会 きょうかい のミサ に準拠 じゅんきょ したものであった[2] 。ラテン語 らてんご でおこなわれていた当時 とうじ のローマ・カトリック教会 きょうかい のミサとは異 こと なり、ドイツ語 ご での礼拝 れいはい 式 しき 文 ぶん (祝祭日 しゅくさいじつ にはラテン語 らてんご 式 しき 文 ぶん も挿入 そうにゅう することも容易 ようい だった)であったが、プロイセン領 りょう 邦 くに 教会 きょうかい の礼拝 れいはい は宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 以前 いぜん のミサ様式 ようしき に戻 もど っていた。このような教会 きょうかい で宗教 しゅうきょう 生活 せいかつ をした国王 こくおう にとってローマ・カトリック教会 きょうかい は遠 とお い存在 そんざい ではなく、親近 しんきん 感 かん すら持 も っていた。ゴシック様式 ようしき ケルン大 だい 聖堂 せいどう の建築 けんちく 再開 さいかい も違和感 いわかん のあるものでは無 な かった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい は芸術 げいじゅつ 、とりわけネオゴシック様式 ようしき を愛好 あいこう していた。彼 かれ はポツダム のサンスーシ 庭園 ていえん においてフリーデン(平和 へいわ )教会 きょうかい の建設 けんせつ を提案 ていあん した。この教会 きょうかい 名称 めいしょう は「平和 へいわ の君 きみ 、われらの主 しゅ イエス・キリストに奉 たてまつ げる」という意味 いみ で付 つ けられた。教会 きょうかい は初期 しょき キリスト教 きりすときょう 的 てき –ローマ・カトリック教会 きょうかい の建築 けんちく 様式 ようしき を手本 てほん にして建設 けんせつ された。とりわけ、ローマにある聖 せい クレメンテ教会 きょうかい と初期 しょき キリスト教会 きょうかい 建築 けんちく で有名 ゆうめい なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会 きょうかい を組 く み合 あ わせて建築 けんちく されている。この教会 きょうかい において皇太子 こうたいし は銅板 どうばん 銘 めい 版 ばん にローマのキリスト教会 きょうかい 建築 けんちく に奉 たてまつ げていることを銘記 めいき している。
さらに、コブレンツ の南 みなみ にあるシュトルツェンフェルス城 じょう とシュヴァーベン 地方 ちほう ヘヒンゲンにある一族 いちぞく の発祥 はっしょう 地 ち にあるホーエンツォレルン城 じょう をネオゴシック様式 ようしき で再建 さいけん した。
ケルン大 だい 聖堂 せいどう (1900年 ねん )
ホーエンツォレルン城 じょう
フリードリヒ・ウイルヘルム4世 せい の胸像 きょうぞう (バート・エーンハウゼン市 し )
父 ちち 王 おう フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 せい は断片 だんぺん 的 てき な単語 たんご と不定 ふてい 詞 し の組 く み合 あ わせを吐 は き捨 す てるように発 はっ し、公式 こうしき のスピーチを一 いち 度 ど も行 おこな わなかったが、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい は父 ちち 王 おう とは大 おお きく違 ちが い、説教 せっきょう じみた格調 かくちょう 高 たか い即位 そくい 演説 えんぜつ で人々 ひとびと を驚 おどろ かせ、その後 ご もことあるごとに熱弁 ねつべん をふるった。また自由 じゆう 主義 しゅぎ の理解 りかい 者 しゃ としてふるまい、革命 かくめい 的 てき な詩人 しじん ゲオルク・ヘルヴェーク と会 あ ったときには「予 よ は気骨 きこつ ある反抗 はんこう を愛 あい しておる」などという言葉 ことば まで発 はっ している。
1847年 ねん に開 ひら かれた議会 ぎかい は、父 ちち 王 おう が約束 やくそく していた憲法 けんぽう の制定 せいてい を要求 ようきゅう したがフリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい はこれを拒絶 きょぜつ した。しかしこれを機 き に翌 よく 1848年 ねん には三 さん 月 がつ 革命 かくめい が勃発 ぼっぱつ し、ベルリン では市民 しみん と軍隊 ぐんたい が市街 しがい 戦 せん を展開 てんかい することになる。事態 じたい を憂慮 ゆうりょ したフリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい は、軍隊 ぐんたい に市外 しがい への退去 たいきょ を命 めい じて憲法 けんぽう の制定 せいてい を約束 やくそく し、国民 こくみん 議会 ぎかい が解散 かいさん した後 のち の1848年 ねん 12月8日 にち に欽定 きんてい 憲法 けんぽう (パウロ教会 きょうかい 憲法 けんぽう )を制定 せいてい した。
この憲法 けんぽう は国民 こくみん ではなく国王 こくおう によって制定 せいてい されたものであったが、臣民 しんみん としての言論 げんろん ・集会 しゅうかい の自由 じゆう 、司法 しほう の独立 どくりつ 、三 さん 級 きゅう 選挙 せんきょ などが保障 ほしょう されており、1918年 ねん のドイツ革命 かくめい によるヴィルヘルム2世 せい 退位 たいい まで効力 こうりょく を保 たも った。(ヴァイマル憲法 けんぽう は1919年 ねん 8月 がつ 11日 にち に公布 こうふ された)1849年 ねん 3月28日 にち 、フランクフルト国民 こくみん 議会 ぎかい はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい に「ドイツ皇帝 こうてい 」の称号 しょうごう を贈 おく ろうとしたが、国王 こくおう は帝位 ていい を民衆 みんしゅう ではなく諸侯 しょこう の協議 きょうぎ によって決 き められるものと考 かんが えて戴冠 たいかん を拒否 きょひ した。1848年 ねん の革命 かくめい 鎮圧 ちんあつ に功 こう あって「榴弾 りゅうだん 王子 おうじ 」とあだ名 な された王 おう 弟 おとうと ヴィルヘルムも同様 どうよう に反動 はんどう 的 てき で、このころバーデン大公 たいこう 国 こく の民主 みんしゅ 化 か 運動 うんどう に介入 かいにゅう して、多 おお くの自由 じゆう 主義 しゅぎ 者 しゃ を即決 そっけつ 軍法 ぐんぽう 会議 かいぎ で処刑 しょけい している。
晩年 ばんねん のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい は、小 しょう ドイツ主義 しゅぎ に徹 てっ してドイツ連邦 れんぽう の形成 けいせい を目指 めざ したが、オーストリア帝国 ていこく とロシア帝国 ていこく の干渉 かんしょう にあって不 ふ 成功 せいこう に終 お わった。王 おう は1857年 ねん 以降 いこう 、何 なん 度 ど か脳卒中 のうそっちゅう に倒 たお れて言語 げんご に障害 しょうがい が生 しょう じ、加 くわ えて脳 のう の損傷 そんしょう により精神 せいしん 障害 しょうがい をきたしたため、エリーザベト王妃 おうひ の判断 はんだん によって王 おう 弟 おとうと ヴィルヘルムが政務 せいむ を代行 だいこう するようになった。
フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 せい は1861年 ねん 1月 がつ 2日 にち 、ベルリン で崩御 ほうぎょ し、王 おう 弟 おとうと ヴィルヘルム1世 せい が後 ご を継 つ いだ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 せい とイギリス王 おう ジョージ1世 せい の王女 おうじょ ゾフィー・ドロテア の第 だい 11子 し 、第 だい 5王子 おうじ 。フリードリヒ2世 せい の弟 おとうと 。
兄 あに にアントン・ウルリヒ (アンナ・レオポルドヴナ の夫 おっと 、ロシア皇帝 こうてい イヴァン6世 せい の父 ちち )、姉 あね にエリーザベト・クリスティーネ (プロイセン王 おう フリードリヒ2世 せい 妃 ひ )がいる。また妹 いもうと にユリアーネ・マリー (デンマーク ・ノルウェー 王 おう フレデリク5世 せい 妃 ひ )がいる。
甥 おい (弟 おとうと の子 こ )にバイエルン国王 こくおう マクシミリアン1世 せい がいる。
妹 いもうと にヴィルヘルミーネ はロシア大公 たいこう パーヴェル(後 ご のロシア 皇帝 こうてい パーヴェル1世 せい )妃 ひ 。
妹 いもうと にシャルロッテ (英 えい :シャーロット)はイギリス 国王 こくおう ジョージ3世 せい 妃 ひ 。
1701年 ねん - 1772年 ねん :プロイセンの王 おう (König in Preußen)
1772年 ねん - 1918年 ねん :プロイセン国王 こくおう (König von Preußen)
1871年 ねん - 1918年 ねん :2.に兼 か ねてドイツ皇帝 こうてい (Deutscher Kaiser)
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^ Friedrich Wilhelm hatte angekündigt, „von den Ständen des Königreichs Preußen (Ostpreußen, Westpreußen und Litthauen) und von denen des Großherzogtums Posen am 10. September d. J. in Königsberg, von den Ständen aller übrigen Landesteile aber am 15. Oktober d. J. in Berlin die Huldigung einzunehmen“. Siehe Iselin Gundermann [Planung und Katalog der Ausstellung]: Via Regia. Preußens Weg zur Krone. Ausstellung des Geheimen Staatasarchivs Preußischer Kulturbesitz, Duncker & Humblot, Berlin 1998, S. 101, zur Wirkung Barclay (Literaturliste), S. 90–94
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全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た
^ 。ベルリン,ナショナル・ギャラリー : ナショナリズムとフリードリヒの受容 じゅよう 仲間 なかま 裕子 ゆうこ .立 たて 命 いのち 館 かん 産業 さんぎょう 社会 しゃかい 論集 ろんしゅう . 40(2)(121).2004-09