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ゴシック建築けんちく

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フランスパリノートルダムだい聖堂せいどう
ドイツケルンケルンだい聖堂せいどう

ゴシック建築けんちく(ゴシックけんちく、英語えいご:Gothic Architecture)は、12世紀せいき後半こうはんから花開はなひらいたフランス発祥はっしょうとする建築けんちく様式ようしきもっと初期しょき建築けんちくは、パリちかくのサン=ドニ(せいドニ)だい修道院しゅうどういん教会堂きょうかいどう(Basilique de Saint-Denis)の一部いちぶ現存げんそんする。イギリス北部ほくぶおよび中部ちゅうぶイタリアドイツラインがわ流域りゅういきポーランドバルト海ばるとかい沿岸えんがんおよびヴィスワがわなどのだい河川かせん流域りゅういきにわたる広範囲こうはんい伝播でんぱした。

ゴシック」という呼称こしょうは、もともと蔑称べっしょうである。15世紀せいきから16世紀せいきにかけて、アントニオ・フィラレーテジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンスまえ中世ちゅうせい芸術げいじゅつ粗野そや野蛮やばんなものとみなすために「ゴートふうの」とんだことに由来ゆらいする。

ルネサンス以降いこう、ゴシック建築けんちくかえりみられなくなっていたが(この時期じきをゴシック・サヴァイヴァルとぶ)、その伝統でんとうつづけ、18世紀せいきになると、しゅとして構造こうぞう力学りきがくてき観点かんてんから、合理ごうりてき構造こうぞうであるとするさい評価ひょうかはじまった。18世紀せいきから19世紀せいきゴシック・リヴァイヴァルさいには、ゲーテフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンフリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部ないぶ空間くうかんヨーロッパくろもりのイメージにたとえられて賞賛しょうさんされ、当時とうじのドイツ、フランス、イギリスでそれぞれがみずからの民族みんぞくてき様式ようしきとする主張しゅちょうがるなどした。

概説がいせつ

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ゴシック建築けんちくは、歴史れきしてき区分くぶんとしては1150ねんころから1500ねんころまでの時代じだいし、フランス王国おうこくからブリテンとうスカンディナヴィア半島はんとうネーデルランドかみきよしマ帝国まていこくイベリア半島はんとうイタリア半島はんとうバルカン半島ばるかんはんとう西部せいぶ沿岸えんがんポーランドおよびポーランド・リトアニア共和きょうわこく版図はんとつたわった建築けんちく様式ようしきをいう。しかし、これら歴史れきしてき地理ちりてき条件じょうけんかならずしも相互そうご対応たいおうしないというてんや、建築けんちく形態けいたいてき技術ぎじゅつてき要因よういん図像ずぞうなどの美術びじゅつてき要因よういん定義ていぎづけがむずかしいというてんで、建築けんちく様式ようしきくらべるとかなり不明瞭ふめいりょう枠組わくぐみであるとわざるをない。とく後期こうきゴシックは、地方ちほう様式ようしきともから複雑ふくざつ現象げんしょうで、装飾そうしょく空間くうかん構成こうせい包括ほうかつてきべることはたいへんむずかしい。

ゴシック建築けんちくは、きたフランス一帯いったいにおいて着実ちゃくじつ発展はってんしていた後期こうきロマネスク建築けんちくのいくつかの要素ようそぎ、サン=ドニ修道院しゅうどういん付属ふぞく聖堂せいどうにおいてひとつの体系たいけいなかまれて誕生たんじょうした。12世紀せいき中葉ちゅうようから、サンスランパリ、そしてシャルトルランスアミアンでは、これにならってだい規模きぼかつ壮麗そうれい聖堂せいどうてられることになった。当然とうぜん西にしヨーロッパでは、このほかにもたくさんの建築けんちくぶつ建設けんせつされていたが、イル=ド=フランス地方ちほうをはじめとするフランス王国おうこく中心ちゅうしんにおいてのみ、初期しょきから盛期せいきにいたるゴシック建築けんちく首尾しゅび一貫いっかんした発展はってん状況じょうきょうることができる。

ミラノのドゥオーモ尖塔せんとうぐんはり

ゴシック建築けんちく伝播でんぱしたほか諸国しょこく政治せいじてき経済けいざいてき事情じじょう多様たようで、発達はったつ伝播でんぱ過程かてい複雑ふくざつ様相ようそうていし、後期こうきになるとこれが顕著けんちょあらわれる。しかし、それでもゴシック建築けんちく一定いってい建築けんちくてき構成こうせいをふまえつつ流布るふしたのは、国々くにぐにまたいで独自どくじ組織そしきもう構築こうちくしていた修道院しゅうどういん活動かつどうおおきかった。ロマネスク建築けんちく同様どうように、ゴシック建築けんちくにおいてもベネディクトかいシトーかい影響えいきょうおおきく、13世紀せいき以降いこうドミニコかいフランシスコかいなどが、ゴシック建築けんちく伝播でんぱ寄与きよすることになった。

ゴシック建築けんちくは、とがったアーチ(とんがあたまアーチ)、はりフライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学こうがくてき要素ようそがよくられており、これらは19世紀せいきのゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大かだい評価ひょうかされたため、あたかもそのような建築けんちく技術ぎじゅつてき特徴とくちょうのみがゴシック建築けんちく定義ていぎづけるとかんがえられがちである。しかし、ゴシック建築けんちく本質ほんしつは、これらのモティーフをふくめた全体ぜんたい美的びてき効果こうかのほうが重要じゅうようで、ロマネスク建築けんちく部分ぶぶん部分ぶぶんわせで構成こうせいされ、各部かくぶがはっきりとぶんされているのにたいし、ゴシック建築けんちくでは全体ぜんたい一定いっていのリズムで秩序ちつじょづけられている。

せいマリアのバシリカ聖堂せいどうグダンスク、14世紀せいき
ブリック・ゴシック建築けんちく典型てんけい

リューベックグダンスクトルンクラクフなど、きたドイツやポーランドを中心ちゅうしんとするバルト海ばるとかい沿岸えんがんおよびそのだい河川かせん流域りゅういきではブリック・ゴシックばれる、レンガもちいた独特どくとくのゴシック建築けんちく発展はってんした。

歴史れきし

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初期しょきゴシック建築けんちく

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ゴシック建築けんちく以前いぜん

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ロマネスク建築けんちくからゴシック建築けんちくへの転換てんかんは、11世紀せいき末期まっきから12世紀せいき初期しょきにかけて、イングランドノルマンディー地方ちほうにおいておこなわれた建築けんちく活動かつどうによってもたらされた。この地方ちほうでは、すでに交差こうさリブ・ヴォールト分厚ぶあつ構造こうぞうかべけるこころみがされていたが、それ自体じたいロンバルディアアルザスプファルツロマネスク建築けんちくにおいても同様どうようおこなわれている。しかし、ここではのちにゴシック建築けんちく共通きょうつうする、あるいはそれに発展はってんする要素ようそのいくつか(すなわち、フライング・バットレスに発展はってんするがわろう屋根裏やねうらもうけられたはりじょうひかえかべトリフォリウム発展はってんするじゅうシェルしきかべ(ミュール・エペ)など)が指摘してきされている。 これらの建築けんちく活動かつどうのちイル=ド=フランスがれ、ゴシック建築けんちく開花かいかすることになる。

イル=ド=フランスでのゴシック建築けんちく発展はってん

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1130ねん、サン=ドニ修道院しゅうどういんシュジェール院長いんちょうが、修道院しゅうどういん付属ふぞく聖堂せいどう現在げんざいだい聖堂せいどう)の改築かいちく工事こうじはじめた。現在げんざい、3つの広間ひろまおさめたぜんろう西にし正面しょうめん)と聖歌せいかたいせきふくめた一部いちぶ現存げんそんしている。最初さいしょ多数たすう巡礼じゅんれいしゃのためのおおきなくちつくられたが、これは円柱えんちゅうたばねた支持しじばしらささえられたとんがあたまリブ・ヴォールト空間くうかん分節ぶんせつしており、これがノルマンディーの後期こうきロマネスクをゴシック建築けんちく発展はってんさせたものになっている。1140ねん着工ちゃっこう1144ねん完成かんせいした内陣ないじんは、だい改修かいしゅうのためあまりのこっていないが、放射状ほうしゃじょうまつりしつ方形ほうけいまつりしつゆうするシュヴェで、ぜんろうおなじく革新かくしんてきなものだったらしい。しかし、サン=ドニ修道院しゅうどういん付属ふぞく聖堂せいどうはあまりにも早熟そうじゅくした建築けんちくであり、12世紀せいき後期こうきになるまで比較的ひかくてき小規模しょうきぼ教会きょうかいでひっそりと真似まねられるだけであった。

サン=ドニとおなごろ1130ねんころから1164ねん)に建設けんせつされたサンスのサンテティエンヌだい聖堂せいどうは、しゅう歩廊ほろうがあるもののそでろうはなく、だてめん強弱きょうじゃく[1]というロマネス建築けんちく特有とくゆう構成こうせいっている。ただし、ろくふんヴォールトと3そうにわかれたろうりつめんはゴシック建築けんちく要素ようそっており、これは以後いごのゴシック建築けんちく影響えいきょうおよぼした。

12世紀せいき後半こうはんになると、ブルゴーニュとノルマンディーでは活発かっぱつ建設けんせつ活動かつどうおこなわれ、初期しょきゴシック建築けんちく発展はってんうながしたが、これは個々ここ独自どくじせいやロマネスク建築けんちく伝統でんとう阻害そがいするものではなかった。ノワイヨンのノートルダムだい聖堂せいどうサンリスのノートルダムだい聖堂せいどう(16世紀せいき改築かいちくにより当時とうじ造形ぞうけいはあまりのこっていない)、トゥルネーのノートルダムだい聖堂せいどう、サン・ジェルメール・ド・フリなどは、それぞれロマネスク建築けんちく特有とくゆう構成こうせいつもの、あるいはぎゃくにその伝統でんとうてき形態けいたいまったうしなったものもある。

ランのノートルダムだい聖堂せいどう内部ないぶ
パリのノートルダムだい聖堂せいどう内部ないぶ空間くうかん
一番いちばん右側みぎがわはしらあいだ部分ぶぶんこうまどした円形えんけいまど)が初期しょき形状けいじょうのこしている。

これら初期しょきゴシックの教会堂きょうかいどう創建そうけん当時とうじのままのこっているものはひとつもないが、12世紀せいき後期こうき状態じょうたい比較的ひかくてきよく保存ほぞんしているのは、ノワイヨンのノートルダムだい聖堂せいどう、そしてランのノートルダムだい聖堂せいどうパリのノートルダムだい聖堂せいどうである。

ノワイヨンだい聖堂せいどうだいいち世界せかい大戦たいせんのちだい改装かいそうされたが、初期しょきゴシックの構成こうせいもっともよくのこしている。平面へいめんはロマネスク建築けんちく伝統でんとう色濃いろこのこしているが、ろうりつめんには初期しょきゴシック建築けんちく特徴とくちょうである、アーケード、ギャラリー、トリフォリウム、クリアストーリという4そう構造こうぞうがみられる。この手法しゅほうによって、壁面へきめんから重苦おもくるしいかんじがはらわれ、ロマネスク建築けんちくとはことなったおもむきせている。

ランのノートルダムだい聖堂せいどうは、ノワイヨンだい聖堂せいどう影響えいきょうけたもので、中央ちゅうおうにトゥール・ランテルヌ(ひかりとう)をいただてんはロマネスク建築けんちく影響えいきょうのこしているものの、ろう部分ぶぶん強弱きょうじゃくかえすパターンがまったられなくなり、すべてのはしら円柱えんちゅうわっている。そでろうには、ロマネスク建築けんちくでは滅多めった採用さいようされなかった円形えんけいまど採光さいこうようとしてもちいられており、これが13世紀せいきゴシック建築けんちく特色とくしょくとなる「ばらまど」の発展はってんだいいち段階だんかいとなった。ランだい聖堂せいどう初期しょきゴシック建築けんちくのまぎれもない傑作けっさくで、その形態けいたいロレーヌラインラント地方ちほうひろがり、以後いごすうじゅうねんわたって影響えいきょうあたつづけ、のちシャルトルノートルダムだい聖堂せいどうがれた。

パリのノートルダムだい聖堂せいどうは、しばしば初期しょきゴシック建築けんちく最高さいこう傑作けっさくであるとされる。この建築けんちくぶつたかつため、構造こうぞう観点かんてんからベイ(かくあいだ)が細分さいぶんされており、またクリアストーリこうまど)がたか位置いちにあるため、下部かぶ構造こうぞうによって採光さいこう不足ふそくしているという欠点けってんがあった。しかし、平面へいめんじゅうがわろうつという特殊とくしゅ形状けいじょうで、さらに、はじめからうすかべ意識いしきして設計せっけいされたらしく、上部じょうぶのヴォールト構造こうぞうささえつつしゅう歩廊ほろうがわろうまたひかかべ建設けんせつするためにフライング・バットレス(はり)を採用さいようしたほか、クリアストーリのトリフォリウムにあたる位置いち円形えんけいまど配置はいちするなど[2]、かなり野心やしんてき設計せっけいおこなわれていた。改装かいそうによって証明しょうめいできるものがうしなわれてしまったため、当時とうじのフライング・バットレスがどのようにけられていたかはかならずしも明確めいかくではないが、この形態けいたいはすぐに決定的けっていてきなものとなり、やがてパリ司教しきょうではこの聖堂せいどう影響えいきょうけた教会堂きょうかいどう建設けんせつされた。

イル=ド=フランスとその周辺しゅうへん初期しょきゴシック建築けんちくは、シャンパーニュひろがった。シャロン=アン=シャンパーニュのノートルダム=アン=ヴォー聖堂せいどうランスサン・レミだい聖堂せいどう後陣ごじんは、初期しょきゴシック建築けんちく最終さいしゅうてき完成かんせい形態けいたいで、両者りょうしゃともに後陣ごじんだてめんは4そう構造こうぞうで、おおきな開口かいこうることによってとりかごのようなせんてき軽快けいかい構造こうぞうとなっている。シャンパーニュでは、にソワッソンだい聖堂せいどうそでろうがこれとまったおな構成こうせいゆうしている。

ブルゴーニュおおやけりょう、アキテーヌおおやけりょう、イングランドその地域ちいき

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サント・マドレーヌだい聖堂せいどう内陣ないじん
カンタベリーだい聖堂せいどう内陣ないじん

ブルゴーニュではロマネスク建築けんちく高度こうど発展はってんしていたため、その伝統でんとうつづけた。ブルゴーニュにゴシック建築けんちく導入どうにゅうされるのは1170ねんころであり、これはヴェズレー建設けんせつされたサント・マドレーヌだい聖堂せいどう内陣ないじんることができる。全体ぜんたい構成こうせいはソワッソンだい聖堂せいどうそでろうちかいが、だてめんは3そう構造こうぞうで、せんてき要素ようそつよ意識いしきしたものになっており、これは13世紀せいき以降いこう、このさかんになる後期こうきゴシック建築けんちくのデザインにがれた。

ノルマンディでゴシック建築けんちく雛形ひながた形成けいせいされたにもかかわらず、プランタジネット勢力せいりょくにあったきた西にしフランスでゴシック建築けんちく導入どうにゅうされるのはおそかった。アンジューメーヌポワトゥーなどにゴシック建築けんちく建設けんせつされるのは13世紀せいき初頭しょとうになってからであるが、プランタジネット支配しはい形成けいせいされたゴシック建築けんちくは、イル=ド=フランスとはことなる形態けいたい獲得かくとくした。

プランタジネット・ゴシックの代表だいひょうてき建築けんちくぶつアンジェのサン・モーリスだい聖堂せいどうである。極度きょくど湾曲わんきょくしたヴォールトをいただろうだてめんには、アーケードやクリアストーリなどの分節ぶんせつられない。もともとたんろうしき木造もくぞう天井てんじょうった建築けんちくぶつであったらしく、この形状けいじょうはポワティエのサンティレール聖堂せいどう同様どうようで、ロマネスク建築けんちく伝統でんとうのこしている。アンジェだい聖堂せいどうとはことなる形式けいしきとして名高なだかいのがポワティエだい聖堂せいどうで、これは1162ねん起工きこうされたが、完成かんせいは13世紀せいきまつのことである。ほぼおなたかさ、おなはばろうがわろうで、のちにホールしきばれる教会堂きょうかいどう空間くうかんちかい。アンジェのサン=セルジュ聖堂せいどうはこの形式けいしきのっとった平面へいめんとなっているが、ほそはしらによって分節ぶんせつされたベイとえだリヴによって分節ぶんせつされたヴォールトが、さらに華美かび印象いんしょうあたえる。アンジェ、ポワティエともに、聖堂せいどう形式けいしきとしてはロマネスク建築けんちくにおいてられるものであり、細部さいぶについては洗練せんれんされているものの、全体ぜんたいとしての革新かくしんせいはイル=ド=フランスのゴシック建築けんちくえるものではない。プランタジネットあさ建築けんちく後期こうきロマネスク建築けんちく初期しょきゴシック建築けんちくとのあいだにそれほどのちがいがないことを証明しょうめいしている。

イングランド本土ほんど建設けんせつされた最初さいしょ本格ほんかくてきなゴシック建築けんちくは、1174ねん起工きこうされたカンタベリーだい聖堂せいどうである。最初さいしょ建設けんせつギョーム・ド・サンスによって設計せっけいされたが、不慮ふりょ事故じこによって工事こうじはイギリスじんのウィリアムにがれた。カンタベリーだい聖堂せいどう後陣ごじんじゅうシェルしきつくられており、全体ぜんたいとして彫塑ちょうそせいつよいイングランドのロマネスク建築けんちく伝統でんとうのこしている。リンカンだい聖堂せいどうはカンタベリーの後継こうけいであり、パリのノートルダムと対照たいしょうてきなロマネスク建築けんちくあつかべおもわせるクリアストーリ、屋根裏やねうらひらいたトリフォリウムなどの特徴とくちょうは、イングランの独自どくじせい物語ものがたっている。

盛期せいきゴシック(クラシカル・ゴシック)

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フランス王国おうこく古典こてんゴシック

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シャルトルだい聖堂せいどう

1194ねん火災かさいによってちたシャルトルのノートルダムだい聖堂せいどうは、1210ねんにはろう再建さいけんされ、1230ねんころにはおおよその完成かんせいをみた。盛期せいきゴシックの最高さいこう傑作けっさくばれるこのだい聖堂せいどうは、ランとパリのノートルダムだい聖堂せいどう踏襲とうしゅうした平面へいめんそでろうはラン、じゅうしゅう歩廊ほろうはパリ)をもっているが、内部ないぶはかなり独創どくそうてき空間くうかんになっている。

ろうがわはしらはヴォールトのはじまるたかさまでっすぐにびており、それまでの聖堂せいどうはしら独立どくりつした印象いんしょうあたえていたのにたいして、リブとともに垂直すいちょくせいたか輪郭りんかくとなっている。ろう壁面へきめんたかいアーケードとひくいトリフォリウム、そして採光さいこうるためにアーケードとおなたかさのクリアストーリをった3そう構造こうぞうとなっており、パリのノートルダムだい聖堂せいどうくらべると全体ぜんたいのプロポーションがさい構成こうせいされているのがわかる。ここにまれた166もの聖書せいしょのモティーフをちりばめたステンドグラスと多数たすう彫刻ちょうこくかざられたとびらこうによって、シャルトルだい聖堂せいどうは、しばしば中世ちゅうせいスコラがく世界せかい結晶けっしょうとみなされ、「こおれる音楽おんがく」ともひょうされる。なお、「こおれる音楽おんがく」という言葉ことばはドイツの哲学てつがくしゃシェリング由来ゆらいするとわれる。

13世紀せいきに、シャルトルだい聖堂せいどう当時とうじ流行りゅうこうした形式けいしき沿うようなだい規模きぼ改修かいしゅう計画けいかくされたが、だい聖堂せいどう内部ないぶ完成かんせいたかさが、それを断念だんねんさせるほどであった。外観がいかんについては、本来ほんらい7つのとうてられる予定よていだったが、こちらは完成かんせいわっている。シャルトルだい聖堂せいどう影響えいきょうおおきく、ソワッソンだい聖堂せいどう内陣ないじん、ランスとアミアンのノートルダムだい聖堂せいどうにそれをることができる。

ランスだい聖堂せいどう

ランスのノートルダムだい聖堂せいどうは、歴代れきだいのフランス国王こくおうせいべつする司教しきょうであり、政治せいじてき意味いみでも重要じゅうよう聖堂せいどうである。その平面へいめんだてめん構成こうせいは、シャルトルだい聖堂せいどうじゅんじたもので、装飾そうしょくのぞけば両者りょうしゃちがいはほとんどない。ランスだい聖堂せいどうは、シャルトルとは対照たいしょうてき内部ないぶ空間くうかんにも植物しょくぶつしたゆたかな装飾そうしょくをもっており、このてんシャンパーニュ地方ちほう特性とくせいしめしている。外観がいかんについても、シャルトルよりもゆたかな装飾そうしょくかざられており、フライング・バットレスをけるキュレのおさまりはより洗練せんれんされている。ただし建設けんせつ過程かてい複雑ふくざつで、4にん主任しゅにん建築けんちくわっており、これによる施工しこうじょう混乱こんらんられる。

アミアンのノートルダムだい聖堂せいどうは、盛期せいきゴシックのもっと洗練せんれんされただい聖堂せいどうである。1221ねんロベール・リュザルシュによって計画けいかくされたそのおおきさは、前述ぜんじゅつだい聖堂せいどうすべ凌駕りょうがしており、このためろうさい上部じょうぶ薔薇ばらまどよんくみまど追加ついかされている。ひとつのベイにたいしてふたつのさんくみアーチのまどけられ、これらをのぞいては、ほとんどシャルトルの形態けいたい共通きょうつうするが、その構成こうせい完全かんぜんなる均衡きんこうたもっている。内陣ないじんはすでにクラシカル・ゴシックのものではなく、レヨナンしきゴシックの段階だんかいたっしている。

シャルトルの系譜けいふつらなる最後さいごだい聖堂せいどうは、ボーヴェのサン・ピエールだい聖堂せいどうである。構造こうぞうてきには完全かんぜん失敗しっぱいさくで、1284ねんだい規模きぼ崩落ほうらくをおこしたが、そのまま16世紀せいきまで再建さいけんおこなわれなかった。このだい聖堂せいどう建設けんせつ以後いご、このたねだい聖堂せいどうはまったく建設けんせつされなくなった。

シャルトルはゴシック建築けんちくひとつの頂点ちょうてんであるが、これとはことなった系統けいとうぞくする聖堂せいどう存在そんざいする。盛期せいきゴシックは、シャルトルだい聖堂せいどう確立かくりつされた系譜けいふのみでかたれるものではなく、イングランドやノルマンディ、ラインがわ流域りゅういきやアルプスでは、まったべつ系統けいとう様式ようしき採用さいようされた。

ブールジュのサン・テティエンヌだい聖堂せいどう

ブールジュのサン・テティエンヌだい聖堂せいどうは、シャルトルとほぼどう時期じき建設けんせつされた。平面へいめんは、パリのノートルダムを直接ちょくせつ源泉げんせんとしているようにおもわれるが、そでろうはなく、しゅろうりつめんは、全体ぜんたいてきにほっそりとした印象いんしょうあたえる非常ひじょうたかいアーケードと、ひくいトリフォリウム、ちいさなクリアストーリからる。シャルトルにくらべると重量じゅうりょうかる構造こうぞう出来できており、このため構成こうせいはとても独創どくそうてきで、のいかなるゴシック教会堂きょうかいどうにもこれに類似るいじするものはなく、またこの構成こうせい真似まねたものもたいへんすくない。

ブールジュの影響えいきょうけた数少かずすくない建築けんちくぶつひとつに、ル・マンだい聖堂せいどうがある。この聖堂せいどう建設けんせつ経緯けいい複雑ふくざつなものであったらしく、ブールジュとの共通きょうつうてんたかいアーケードを保有ほゆうすることをおいてにない。この部分ぶぶんは、したがってブールジュの建築けんちくによるものとかんがえられる。こうまどたかくするためにトリフォリウムが排除はいじょされ、ろうりつめんはアーケードとトリフォリウムのそう構造こうぞうであるが、これはのレヨナン様式ようしき到来とうらいげるものである。

きたフランスとブルゴーニュ、およびアーリー・イングリッシュ

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ディジョンのノートルダム聖堂せいどう
リンカンだい聖堂せいどうろう

シャルトルをはじめとするだい教会堂きょうかいどう建設けんせつされていたころ、イングランドとノルマンディ、ラインがわ一帯いったい、そしてアルプス山脈あるぷすさんみゃく周辺しゅうへんでは、これらとはちがったゴシック建築けんちく形成けいせいされようとしていた。北方ほっぽう地域ちいきでは、ゴシック建築けんちく特有とくゆうとされるうすかべたいする意識いしきすくなく、むしろ構造こうぞうかべあつみを利用りようした意匠いしょうこのまれた。

オセールのサン・テティエンヌ聖堂せいどうは、1215ねん起工きこうされたもので、内部ないぶはクリアストーリ、トリフォリウム、アーケードの3そう構造こうぞうからるが、中間なかまのトリフォリウムはじゅうシェルしきかべ(ミュール・エペ)を意識いしきしており、通路つうろじょうたかく、しょう円柱えんちゅうによって分節ぶんせつされる。この教会堂きょうかいどうおなりつめんゆうするものが、1220ねんころ起工きこうされたディジョン教区きょうく教会堂きょうかいどうであるノートルダム聖堂せいどうである。ただし、こちらは下方かほうまど部分ぶぶんとトリフォリウムの上部じょうぶ(クリアストーリの下部かぶ)に通路つうろもうけられている。りょう教会堂きょうかいどうともに、その意匠いしょう初期しょきゴシックのもので、クリュニー修道院しゅうどういんのノートルダム聖堂せいどうリヨンだい聖堂せいどうろう部分ぶぶんシャロン=シュル=ソーヌだい聖堂せいどうなども、ほとんどおな意匠いしょう内部ないぶ空間くうかんつ。

カンタベリーでのだい聖堂せいどう建立こんりゅうによって、イングランドのゴシック建築けんちく1180ねんころから定着ていちゃくしはじめる。初期しょきイギリスしき(early english)とばれる段階だんかいにおける著名ちょめい建築けんちくぶつ1225ねんころ起工きこうしたリンカーンだい聖堂せいどうろうである。カンタベリーだい聖堂せいどう由来ゆらいする意匠いしょうつが、トリフォリウムはろう解放かいほうされた通路つうろじょうのものではなく、イングランドのロマネスク建築けんちくられる屋根裏やねうらひらいた開口かいこうとなっている。壁面へきめんはかなりあつつくられており、全体ぜんたいてきにずんぐりとした印象いんしょうで、シャルトルだい聖堂せいどうのような上方かみがたへの指向しこうせいはない。

ウェストミンスター寺院じいんは、このような初期しょきイギリスしき形態けいたいたいし、大陸たいりくのレヨナンしき意匠いしょう上手うま融合ゆうごうさせ、あらたな空間くうかん創出そうしゅつした。ウェストミンスターの様々さまざま要素ようそ、トリフォリウムやクリアストーリは典型てんけいてきなイングランドの形態けいたいであるが、三葉みつばがた多弁たべんかざりのふくあいトレーサリーといった装飾そうしょくや、後陣ごじんのヴォールト構はあきらかに大陸たいりく由来ゆらいのものである。とくまどのトレーサリーは、以後いごのイングランドのゴシック建築けんちくおおきな影響えいきょうあたえた。

後期こうきゴシック

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フランス王国おうこくのレヨナンしき

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サン=ドニだい聖堂せいどう内部ないぶ空間くうかん
クリアストーリが拡大かくだいされ、トリフォリウムも開口かいこうもうけられている。

1250ねんころはじまる後期こうきゴシック建築けんちくは、それまでのゴシック建築けんちく様相ようそうとは本質ほんしつてきことなる複雑ふくざつ現象げんしょうである。後期こうき教会堂きょうかいどう建築けんちくは、どちらかとうと小型こがた様相ようそうしめしており、これによって内部ないぶ空間くうかんだてめんうえなかした区切くぎ分節ぶんせつけ、装飾そうしょくたいする嗜好しこうせい全体ぜんたい空間くうかんたいする意識いしき凌駕りょうがするようになった。フランスの後期こうきゴシックを特徴とくちょうづけるのは、全体ぜんたいのダイナミックな躍動やくどうかんではなく、細部さいぶ技巧ぎこうてき洗練せんれん開口かいこう拡大かくだいである。このような現象げんしょう第一歩だいいっぽが1250ねんからはじまるレヨナンしきで、これは先行せんこうするいくつかの建築けんちくぶつにその萌芽ほうがられる。

サン=ドニだい聖堂せいどうは、シュジェール院長いんちょうによる工事こうじのち1231ねん教会堂きょうかいどうはさらに再建さいけん工事こうじおこなわれ、1281ねん竣工しゅんこうした。この工事こうじ内陣ないじん上部じょうぶなおされ、ろうそでろう新規しんき建築けんちくされた。ろうはクリアストーリが拡大かくだいされたため、トリフォリウムのうえすべてランセットまど構成こうせいされており、また、トリフォリウムの外側そとがわかべにも開口かいこうもうけられたため、ろうりつめん全体ぜんたい透明とうめいかべしている。サン=ドニのように質量しつりょうかんさないような意匠いしょうは、1235ねんころ建設けんせつされたサン・ジェルマン・アン・レーじょうかん礼拝れいはいどうにもることができる。礼拝れいはいどうまど西側にしがわのバラまどりはレヨナンしき意匠いしょうそのものであるが、一方いっぽうで、じゅうシェルしきかべ特有とくゆうの(とくにブルゴーニュ特有とくゆうの)特徴とくちょうをもそなえている。

サント・シャペル礼拝れいはいどう内部ないぶ空間くうかん
外部がいぶしたひかかべ鉄製てつせい補助ほじょざい仕様しようにより「とりかご」のようなかろやかな空間くうかん形成けいせいする。

サン=ドニもふくめた1230ねんから1250ねんごろ建築けんちくぶつは、レヨナンしきゴシックのぜん段階だんかいにあたるもので、コート・スタイルあるいはステイル・ロワイヤル(宮廷きゅうてい様式ようしき)ともばれる。聖王せいおうルイひがしマ帝国まていこくから購入こうにゅうしたキリストの荊冠けいかん保管ほかんしょとして、1242ねんころ建設けんせつされたサント・シャペル礼拝れいはいどうは、ひかえかべ鉄製てつせい補強ほきょうざいによって、かろやかな内部ないぶ空間くうかん形成けいせいしている。ステンドグラスと彫刻ちょうこく技巧ぎこうせいたかく、レヨナンしきゴシックへの傾向けいこう如実にょじつあらわしている。

パリにのこるこの時期じき建築けんちくぶつは、ノートルダムだい聖堂せいどうそでろうで、1245ねんから1250ねんにかけて建設けんせつされた。トリフォリウムに類似るいじするよこながいギャラリーと、その上部じょうぶもうけられた巨大きょだいなバラまど、そしてそのあいだのスパンドレルにももうけられた開口かいこうが、かべ重量じゅうりょう喪失そうしつさせる。また、そでろうのファサードは、のちにフランス国内外こくないがい模倣もほうされるほどの影響えいきょうりょくった。

サン=ドニとパリのノートルダムは、トロワだい聖堂せいどう内陣ないじん1236ねんころ起工きこうされたストラスブールのノートルダムだい聖堂せいどう影響えいきょうあたえている。とく後者こうしゃは、レヨナンしき影響えいきょう神聖しんせいマ帝国まていこく領内りょうない拡大かくだいさせたと意味いみ重要じゅうようである。オットーあさ時代じだい建設けんせつされた基礎きそうえ建設けんせつされたストラスブールだい聖堂せいどうは、ブルゴーニュ特有とくゆう意匠いしょう踏襲とうしゅうしつつ、コート・スタイルの要素ようそれたものとなっており、ファサードについてはパリのノートルダムだい聖堂せいどうそでろう影響えいきょうみとめることができる。

サン=ドニとサント・シャペルで高度こうど洗練せんれんされたレヨナンしきゴシックは、きたフランスとみなみフランス、そしてイングランドとかみきよしマ帝国まていこくにまでひろがる。同時どうじにイタリアやスペインでは、これに反抗はんこうするような意匠いしょう形成けいせいされたが、14世紀せいき前半ぜんはんになると、教義きょうぎてきべるほどに体系たいけいされた。このため、後期こうきゴシック建築けんちくは、教条きょうじょうてき懐古かいこ趣味しゅみてき批判ひはんされることもある。実際じっさいに、1284ねん完成かんせいしたボーヴェのサン・ピエールだい聖堂せいどう後陣ごじん、1272ねん起工きこうされたナルボンヌのだい聖堂せいどう、1280ねんごろ起工きこうされたボルドーのサンタンドレだい聖堂せいどう、1308ねん起工きこうのヌヴェールだい聖堂せいどうなど、レヨナンしき教会堂きょうかいどうげることができるが、これらにはとく目立めだった形態けいたい進展しんてんはない。

フランボワイアン・ゴシック

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1340年代ねんだい以降いこうは、ひゃくねん戦争せんそうもっと熾烈しれつ時期じきであり、また黒死病こくしびょう流行りゅうこうにともなってイングランドとフランスの建築けんちく活動かつどう完全かんぜん停滞ていたいした。ヨーロッパのあらゆる活動かつどうふたた活発かっぱつするのは15世紀せいきになってからであり、この時期じきまでおおくの計画けいかく放棄ほうきされたままであった。だい教会堂きょうかいどう建設けんせつされなかったが、この時期じきにいくつかの城郭じょうかく建築けんちく都市とし自治体じちたい公共こうきょう建築けんちくてられている。とく城郭じょうかく建築けんちくは、戦時せんじにおける火器かき使用しようによりとりでしきからりょう堡式に移行いこうしたが、その結果けっかとして居住きょじゅうせい重要じゅうようせいうしない、城郭じょうかく宮殿きゅうでんまったべつ系統けいとう建築けんちく乖離かいりしていった。

15世紀せいきにゴシック建築けんちく復活ふっかつするが、中世ちゅうせい末期まっき建築けんちく装飾そうしょく技巧ぎこうせい際立きわだつもので、一般いっぱんにフランボワイアン(火焔かえんしき)とばれる。フランスでは古典こてんゴシックの影響えいきょうつよく、トレーサリーは幾何きかがく模様もようのままだったのだが、14世紀せいきまつからからった曲線きょくせんこのまれるようになった。このような趣味しゅみは、レヨナンしき空間くうかんそのものにはあまり影響えいきょうあたえてはいないが、このレヨナンしきとフランボワイアンの混成こんせいが、バロック建築けんちく直接ちょくせつ源泉げんせんであるとする見方みかたもある。実際じっさいに、構造こうぞうてき意味いみがまったくないしょうはしらや、ヴォールトとはかかわりのないようなリブの構成こうせいなど、構造こうぞうてき合理ごうりせいよりも装飾そうしょくせいもとめるかんがえかたは、バロック建築けんちく共通きょうつうするものとえるであろう。

フランボワイアンの意匠いしょうはフランスでまれたものではなく、イングランドのトレーサリーや、かみきよしマ帝国まていこくのネット・ヴォールトをれたものである。1480ねん起工きこうされた、リューのシャペル=デュ=サンテスプリにられるつじかざりのついた扁平へんぺいほしがたヴォールトは、ドイツからもたらされた意匠いしょうで、このようなひくいヴォールトはシャンパーニュでこのまれた。フランス中心ちゅうしんでは、古典こてんゴシックから伝統でんとうてき垂直すいちょくせいへの嗜好しこうつよく、1489ねん以後いご起工きこうされたパリのサン・セヴラン聖堂せいどう、および1494ねん起工きこうのサン・ジェルヴェ聖堂せいどうルーアンサン・マクルー教会きょうかい、そしてモン・サン=ミシェルだい修道院しゅうどういん聖堂せいどう内陣ないじんなどが、このようなフランボワイアンのすばらしい作例さくれいとしてのこっている。

イングランドの装飾そうしょくしき、および垂直すいちょくしき

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エクセターだい聖堂せいどうろうとヴォールト
ブリストルだい聖堂せいどうがわろう
グロスターだい聖堂せいどう回廊かいろうのファン・ヴォールト

後期こうきにおいて、発展はってんてきべるゴシック建築けんちく潮流ちょうりゅうは、フランス本土ほんどではなくむしろイングランドのゴシック建築けんちくであった。 イングランドのゴシック建築けんちくは、伝統でんとうてきに3けられる。アーリー・イングリッシュにつづき、1290ねん以降いこう装飾そうしょくしき(decorated gothic)とばれる建築けんちく、そして1330ねんころから垂直すいちょくしき(prependicular gothic)とばれる建築けんちく発達はったつした。

イングランドでは、大陸たいりくのフライング・バットレスをあまり採用さいようせず、つねにかべあつさを想起そうきさせる意匠いしょうこのみ、また、おおくの場合ばあい湾曲わんきょくしたアプスではなくひらたいひがしはし採用さいようした。ほっそりしたプロポーションとうすかべ意匠いしょう意識いしきした例外れいがいてき作例さくれいは、ウェストミンスター・アビーのほかかぞえるほどしかない。装飾そうしょくしき意匠いしょうは、このような傾向けいこうのなかで形成けいせいされたイングランド独自どくじのゴシック建築けんちくであった。

1280ねんから1290ねんあいだ起工きこうされたエクセターだい聖堂せいどうは、初期しょきイギリスしき典型てんけいてき平面へいめんつが、ヴォールトをささえる(ようにえる)リブは、アーケード柱頭ちゅうとうおくうえからびており、ろうりつめん垂直すいちょくびるせんてき要素ようそよりも、めんてきえる。イングランドではおおきなまどめんこのまれたため、このだい聖堂せいどうでも湾曲わんきょくしたアプスはなく、おおきなステンドグラスを平面へいめんてき後陣ごじん採用さいようされている。1290ねん起工きこうされたヨークだい聖堂せいどうYork Minster)、リッチフィールドだい聖堂せいどうなどは、エクセターとまったおな構成こうせいで、ほとんどおな印象いんしょうける

イギリスのゴシック建築けんちく国民こくみんてき様式ようしきとされたのが、いわゆる垂直すいちょくしきである。イングランド南西なんせいロンドンでほぼどう時期じきられるため、どちらをその起原きげんとするかについては議論ぎろんがある。あえて直角ちょっかくてき構成こうせい採用さいようするなど、大陸たいりくのゴシック建築けんちく規範きはんからへだたった概念がいねんのもとに形成けいせいされているのだが、とくにファン・ヴォールトをもちいる場合ばあいは、天井てんじょうささえるのにヴォールトを必要ひつようとしなかったというてんで、すでにゴシック建築けんちくですらない。

1298ねん起工きこうし、1341ねん完成かんせいしたブリストルのセント・オーガスティンだい聖堂せいどうは、バシリカがたではなく、広間ひろまがた平面へいめんち、がわろうろうたかさがおなじためクリアストーリが欠如けつじょしている。したがって、内部ないぶ空間くうかん両者りょうしゃ鮮明せんめい区分くぶんすることはない。また、ブリストルの建築けんちくたちは、ゴシック建築けんちく特有とくゆう構成こうせいおどろくほど自由じゆう操作そうさし、たばばしらをヴォールトにまでばして、リブ・放射ほうしゃリブ・えだじょうリブというさん段階だんかいのヴォールト構をもちいた。がわろう荷重かじゅうは、簡素かんそほうつえによって横断おうだんアーチにわたされておりこれがトンネルのヴールトを形成けいせいしている。

荷重かじゅうかたつえによって簡潔かんけつ伝達でんたつし、これに美的びてき効果こうかをもたらしているもっと印象いんしょうてきれいは、ウェルズだい聖堂せいどうである。1338ねんに、交差こうさろう上部じょうぶひかりとう建設けんせつ計画けいかくされたが、このさいとう荷重かじゅうささえるため、交差こうさろうろうとのあいだ巨大きょだいほうつえけられた。そのかたち奇妙きみょうさと大胆だいたんさは、大変たいへんつよ印象いんしょうあたえる。

一方いっぽうで、ヴォールトにたいする自由じゆう発想はっそうは、グロスターだい聖堂せいどう回廊かいろうなどにもかされている。グロスターの回廊かいろうはファン・ヴォールト(扇形せんけいヴォールト)をもちいており、そこに交差こうさリブヴォールトにおおわれたゴシック建築けんちく典型てんけいてき構成こうせいることは不可能ふかのうである。垂直すいちょく様式ようしきでは、交差こうさリブヴォールトがまったてられたわけではなかったが、おおくの場合ばあい多数たすうつじかざりがもうけられており、その印象いんしょう木々きぎえだりにたとえられたネット・ヴォールトとわらないものとなった。垂直すいちょくしきのリブはヴォールト構とはもはやなんらの関係かんけいせいもなく、構造こうぞうてき合理ごうりせい説明せつめいできるものではない。

垂直すいちょくしきにおける最高さいこう傑作けっさくとして名高なだかいのが、ウェストミンスター寺院じいんひがしはしにあるヘンリー7せい礼拝れいはいどうである。壁面へきめんくす装飾そうしょくは、ほとんどくしるようであり、また天井てんじょうからは、鍾乳石しょうにゅうせきおもわせるいしかざりが、いくつもがっている。ここでは本来ほんらい石造せきぞう建築けんちくにおける力学りきがくてき都合つごうから誕生たんじょうしたヴォールトが、ほとんどその力学りきがく無視むしするかのような装飾そうしょくへと発展はってんしている。

かみきよしマ帝国まていこくとポーランド・リトアニア共和きょうわこく

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クラクフ(ポーランド)、せいマリアのバシリカ
煉瓦れんがづくりゴシック
クラクフ(ポーランド)、せいマリアのバシリカのろう

かみきよしマ帝国まていこくでは、1230ねんころまで、とく西方せいほう地域ちいきでゴシック建築けんちくへの反抗はんこう根強ねづよられた。かれらはゴシック建築けんちく関心かんしんというわけではなく、いくつかの教会堂きょうかいどうではゴシック建築けんちくから採用さいようされたとおぼしき装飾そうしょくられるが、あくまで部分ぶぶんてき採用さいようまり、構造こうぞうてき美術びじゅつてき原理げんりとしてゴシック建築けんちく全面ぜんめんてきもちいるということがなかった。バーゼルだい聖堂せいどう、リンブルク・アン・デア・ラーンだい聖堂せいどうボンだい聖堂せいどうなど、12世紀せいきと13世紀せいき初頭しょとうまでのこのような傾向けいこう建築けんちくぶつをトランジション・スタイル(移行いこう様式ようしき)とぶこともある。

13世紀せいき中期ちゅうきから後期こうきにかけて、帝国ていこくないでフランスのゴシック建築けんちく定着ていちゃくすることになったが、その伝播でんぱはいくつかの芸術げいじゅつ中心ちゅうしんからバラバラにひろがる傾向けいこうにあったため、ゴシック建築けんちく発展はってんじょうきょうは、帝国ていこく政治せいじ状況じょうきょうおなじくむら模様もようである。

いくつかの芸術げいじゅつ的中てきちゅう心地ごこちげると、まず、ハンザ同盟どうめい市民しみんによってきそうようにてられた巨大きょだい建築けんちくぶつのひとつ、リューベックのマリーエンキルヘがげられる。これは13世紀せいきまつから14世紀せいき初頭しょとうにかけて、バイエルンプロイセンポーランドデンマークスウェーデンフィンランドなどで、一般いっぱんにバックスタイン・ゴーティック(煉瓦れんがづくりゴシック、ブリック・ゴシック)とばれる建築けんちくひろめるきっかけとなった。構造こうぞうとして煉瓦れんがもちいているため、こまかい装飾そうしょくはぶかれ、むしろ構造こうぞう率直そっちょく表現ひょうげんする意匠いしょうとなっている。この様式ようしき北部ほくぶドイツからポーランド・リトアニア共和きょうわこく領域りょういき中心ちゅうしんとして分布ぶんぷしている。

1235ねんろう建設けんせつ着工ちゃっこうされたストラスブールだい聖堂せいどうは、14世紀せいきになっても依然いぜんとして帝国ていこくない最大さいだい建築けんちく工事こうじとして続行ぞっこうしており、これは15世紀せいき中期ちゅうきにまでおよんだ。サン=ドニだい聖堂せいどうとトロワだい聖堂せいどう規範きはんとしたろうだい聖堂せいどう造営ぞうえい工事こうじは、14世紀せいきなかばに技巧ぎこうてきには最盛さいせいむかえ、エスリンゲンのフラウエンキルヒェやウルムだい聖堂せいどうなど、アルザスやラインがわ上流じょうりゅう影響えいきょうあたえた。1400年代ねんだい建設けんせつされたストラスブールとウルムの西側にしがわりょう尖塔せんとうられる独特どくとく形状けいじょうは、その図像ずぞう芸術げいじゅつからヴァイヒャー・シュティル(Weicher Stil 、柔軟じゅうなん様式ようしき)ともばれる。建築けんちく自体じたい影響えいきょうりょくは、地域ちいきてきには限定げんていされていたものの、建築けんちく組合くみあい影響えいきょうひろがりをっていたらしく、1459ねんには、ウィーンケルンベルンプラハなどのだい聖堂せいどう建築けんちく工事こうじが、ストラスブールの建築けんちく組合くみあいによって管理かんりされることが決定けっていした。ただし、この決定けってい建築けんちく造営ぞうえいにどの程度ていど影響えいきょうあたえたのかはあまり明確めいかくではない。

1248ねん建設けんせつ開始かいしされたケルンだい聖堂せいどうもストラスブールと比肩ひけんしうるだい規模きぼ工事こうじで、フランスのアミアンだい聖堂せいどう依拠いきょし、装飾そうしょくについてはフランスを凌駕りょうがするほど壮麗そうれい部分ぶぶんもある。このだい聖堂せいどう影響えいきょうラインラントかぎられるが、オッペンハイムだい聖堂せいどうバヒャラッハのヴェルナーカペレなどの技巧ぎこうせいたか教会堂きょうかいどうのこる。アーヘンだい聖堂せいどう内陣ないじんもまた、ケルンだい聖堂せいどうとパリのサント・シャペルの影響えいきょうけたもので、カペッラ・ウィトレア(ガラスのまつりしつ)とばれる。

イタリア半島はんとうのゴシック建築けんちく

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アッシジサン・フランチェスコ聖堂せいどうろう
シエーナだい聖堂せいどうのファサード

イタリア半島はんとうでは、がいしてゴシック建築けんちくへの反応はんのう冷淡れいたんなものであったが、フランシスコかいドメニコかい活動かつどうによって、13世紀せいき中期ちゅうきから、きた、および中央ちゅうおうイタリアである程度ていど導入どうにゅうされるようになった。

ゴシック建築けんちく影響えいきょうけたイタリア最初さいしょ建築けんちくぶつは、1228ねん起工きこうされたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂せいどうである。ロマネスク建築けんちくられるたんろうしき平面へいめんであるが、とんがあたまリブ・ヴォールトとこれをささえるたばばしら、そして内部ないぶ空間くうかん一貫いっかんせいは、ゴシック建築けんちくれた独創どくそうせいたかいものとなっている。ただし、フランスのゴシック建築けんちくのように、うすかべ形成けいせいするための構造こうぞうてき努力どりょくはまったくられず、また、フレスコえがくために都合つごういためとおもわれるが、イングランドのようなかべむような造形ぞうけいへの関心かんしんうすい。したがって、サン・フランチェスコは、ゴシック建築けんちくというよりも、ゴシック建築けんちく造形ぞうけいれることによってロマネスク建築けんちく伝統でんとうから脱却だっきゃくした教会堂きょうかいどうであるとえる。

13世紀せいきになっても、イタリアでは典型てんけいてきなゴシック建築けんちくはめずらしい存在そんざいであった。1230ねんころ着工ちゃっこうされたパドヴァのサンタントニオだい聖堂せいどうはロマネスク建築けんちくとビザンティン建築けんちく混成こんせい様式ようしきであるし、1250ねんころ起工きこうされたシエーナのだい聖堂せいどうなどは、ファサードをのぞくとほとんどロマネスク建築けんちくのままである。オルヴィエートのだい聖堂せいどうも、ファサードはうつくしいゴシック芸術げいじゅつ作品さくひんであるが、内部ないぶはシエーナとおなじロマネスク建築けんちくである。

ただし、ゴシック建築けんちく空間くうかんまった無視むしされていたわけではない。13世紀せいきイタリアでゴシック建築けんちくとみなしうる教会堂きょうかいどうフィレンツェ存在そんざいする。ドメニコかい1279ねん創建そうけんしたフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂せいどうは、以後いごトスカーナ地方ちほう建設けんせつされるゴシック建築けんちくにきわめておおきな影響えいきょうりょくった教会堂きょうかいどう建築けんちくであった。がわろうたかいためちいさなまるいクリアストーリしかないろうは、装飾そうしょくがほとんどなく、はしらあいだひろくとられているので、フランスのゴシック建築けんちくくらべてゆったりとして簡素かんそ印象いんしょうである。

サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂せいどうのようなゴシック建築けんちくのスタイルは、以後いごトスカーナのゴシック建築けんちくがれた。これは1300ねんころ設計せっけいされたフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂せいどうと、1294ねん着工ちゃっこうされたサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうろうればあきらかである。サンタ・クローチェ聖堂せいどう造営ぞうえいはフランチェスコかいによるもので、サンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうには規模きぼてきにややおとるものの、きたヨーロッパのだい聖堂せいどう匹敵ひってきするおおきさである。シトーかい修道院しゅうどういん建築けんちくから着想ちゃくそうされたとおもわれるデザインで、これを構想こうそうしたのはサンタ・マリア・デル・フィオーレだい聖堂せいどうおなじくアルノルフォ・ディ・カンビオであるとかんがえられている。りょう教会堂きょうかいどう簡素かんそ広々ひろびろとした空間くうかんは、しばしばフランスのゴシック建築けんちく美意識びいしき対立たいりつするものとみなされ、ルネサンス建築けんちく先駆さきがけともひょうされる。1322ねんから開始かいしされたシエーナだい聖堂せいどう拡張かくちょう工事こうじも、完成かんせいしていれば、おそらくトスカーナのゴシック建築けんちく最良さいりょう作品さくひんのひとつになったとかんがえられる。

きたイタリアでは、14世紀せいき初頭しょとうまで宗教しゅうきょう建築けんちくそのものがあまり重要じゅうようせいたなかったが、ビザンティン建築けんちく伝統でんとうから脱却だっきゃくしつつあったヴェネツィア共和きょうわこくでは、きたイタリアに先駆さきがけて、やはり修道しゅうどうかいによってゴシック建築けんちく導入どうにゅうされる。14世紀せいき初頭しょとう起工きこうされたドミニコかいのサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂せいどうと、フランシスコかいにより1330ねんころ起工きこうされたサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ聖堂せいどうが、その代表だいひょうてき建築けんちくぶつである。

14世紀せいき後半こうはんになると、きたイタリアでもようやくだい規模きぼ宗教しゅうきょう建築けんちく建立こんりゅうされるようになる。1387ねんには、イタリア・ゴシック建築けんちくもっと有名ゆうめいミラノのだい聖堂せいどう建設けんせつはじまった。このだい聖堂せいどうは、中世ちゅうせい建築けんちくぶつとしては非常ひじょうめずらしいことだが、設計せっけい過程かていから職人しょくにんとの詳細しょうさいなやりりまで、建設けんせつかかわる綿密めんみつ記録きろくのこっており、イタリアのみならず、フランス、ドイツでのゴシック建築けんちくたいする認識にんしきることができる。構造こうぞう美術びじゅつてき審議しんぎ1401ねんからはじまり、パリからまねかれた審議しんぎいんはフランス伝統でんとう古典こてんゴシックの形態けいたいを、ドイツじん審議しんぎいんけるような垂直すいちょくせいたかいプロポーションを、イタリアの審議しんぎいん幾何きかがくからみちびかれるはばひろいプロポーションを主張しゅちょうしたことがれる。結果けっかてきに、このだい聖堂せいどうはイタリア独自どくじのゴシック建築けんちくというよりも、各国かっこくのゴシック建築けんちく美意識びいしきれた折衷せっちゅうてき性格せいかくつよいものとなっている。しかし、1858ねんまで延々のびのび工事こうじおこなってきたにもかかわらず、全体ぜんたいとしての完成かんせいはたいへんたかく、19世紀せいきついされたファサード部分ぶぶんもゴシック・リヴァイヴァルの最高さいこう傑作けっさくとして名高なだかい。

イギリスのゴシック建築けんちく

イギリスではゴシック建築けんちくが12世紀せいきまつから16世紀せいき中頃なかごろまでと、ヨーロッパでもっとなが展開てんかいした。さらにその伝統でんとうは19世紀せいきまで途絶とだえることなく、18、19世紀せいきのゴシックの復興ふっこうもそれに起因きいんしたといえる。ゴシックの特徴とくちょうのひとつであるリブ・ヴォールトをイギリスはいちはや採用さいようしたが、本格ほんかくてきなゴシックはフランスからもたらされた。しかしたかさと垂直すいちょくせいもとめたフランスとはことなり、イギリスの志向しこうはヴォールトなどのつくりだす豊穣ほうじょう空間くうかんせいにある。

イギリスでは、フランスの工匠こうしょうサンスのウィリアムがカンタベリーだい聖堂せいどう東端ひがしばた盛期せいきゴシック様式ようしきて、以後いご、この様式ようしきがチチェスター、ウィンチェスターのだい聖堂せいどう一部いちぶ採用さいようされたのち、ウェルズだい聖堂せいどう、リンカーンだい聖堂せいどうなどでイギリス独特どくとく形式けいしき完成かんせいした。すなわち、これらのだい聖堂せいどうろう比較的ひかくてき長大ちょうだい水平すいへいせいつよく、東端ひがしばたがフランスのだい聖堂せいどうのように半円はんえんがたでなく直角ちょっかくられ、西にし正面しょうめんには装飾そうしょくてき障壁しょうへきもうけ、また修道院しゅうどういん起源きげんのものがおおかったため、クロイスター(回廊かいろう)とはち角形かくがたあるいはじゅう角形かくがた参事さんじ会員かいいんどうそなえていた。こうしたイギリス独自どくじ様式ようしきを「初期しょきイギリスしきゴシック」とんでいる。

イギリスのだい聖堂せいどうおおくは修道院しゅうどういん付属ふぞくまちなかからはなれてち、修道院しゅうどういん参事さんじかい会堂かいどうなどとふく合体がったいをなしている。平面へいめんはバシリカ形式けいしきだが、はばたいして奥行おくゆきがおおきく、とくに内陣ないじん部分ぶぶんながられる。時期じきてき変化へんかは、ヴォールトと狭間はざまかざりによくしめされている。通常つうじょう、その発展はってん初期しょきイギリスしき装飾そうしょくしき垂直すいちょくしき、テューダーしきの4にわけられるが、ひとつの時期じき完成かんせいされたれいすくない。

ハンマー・ビーム・トラス(hammer beam truss)
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イギリスの中世ちゅうせい建築けんちく小屋こやぐみひとつで、かべ上端じょうたんからしたかたはり(ハンマー・ビーム)とアーチで構造こうぞうたいをつくり、よこざい省略しょうりゃくして小屋組こやぐみそのものを必要ひつようとしない構造こうぞう[3]

特徴とくちょう

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一般いっぱんにゴシック芸術げいじゅつばれているものに一貫いっかんしてもちいられる形態けいたいてき図像ずぞうがくてき特徴とくちょうはなく、実際じっさいにはゴシックとは、芸術げいじゅつ史家しかたちによって慣習かんしゅうてき使用しようされる概念がいねんである。今日きょうにおいても、ゴシック建築けんちく定義ていぎづけがおこなわれているが、その議論ぎろん多角たかくてきかつ複雑ふくざつである。

客観きゃっかんてき特徴とくちょう内部ないぶてきたかさとほそさの誇張こちょうにある。必要ひつよう以上いじょうほそはしら石造せきぞう天井てんじょう、およびそれらを構造こうぞうてき特徴とくちょう具体ぐたいてきには交差こうさリブヴォールトとヴォールトのよこへの応力おうりょく支持しじするための側壁そくへきまたはひかえかべバットレス)となる。これらはそれぞれ東方とうほう起原きげんっている。とんがあたまアーチはサーサーンあさペルシャ帝国ていこくにおいてすでもちいられており、ひかえかべビザンティン建築けんちくにおいて主要しゅよう構造こうぞうとしてられている。ゴシック建築けんちく特有とくゆうとされる特徴とくちょうにはほとんどの場合ばあい独自どくじ発明はつめいされたものはなく、それぞれをわせた独自どくじ美的びてき感覚かんかく空間くうかんせいにある。

交差こうさリブヴォールト

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ゴシック建築けんちく技術ぎじゅつてき特徴とくちょうは、11世紀せいき導入どうにゅうされたとんがあたまアーチ、およびこれを構成こうせいする交差こうさリブヴォールトである。ロマネスク建築けんちくにおいてもちいられた交差こうさヴォールトは、かべのうちよん支点してん荷重かじゅうける構造こうぞうになっている。この場合ばあい構造こうぞう安定あんていさせるためには、そのベイを正方形せいほうけいにしなければならなかった。長方形ちょうほうけい平面へいめんにヴォールトをける場合ばあいかくあたりじょう対角線たいかくせんじょうのヴォールトは、それぞれことなった半径はんけいち、かつ対角線たいかくせんじょうにあるヴォールトは、かなりつぶれたものにならなければならない。これは構造こうぞうじょうたいへん危険きけんである。

ゴシック建築けんちくでは、ベイにけるアーチをとんがあたまがたにすることによって、水平すいへい方向ほうこうにはたらく荷重かじゅう軽減けいげんし、長方形ちょうほうけいのベイにたいしては、たん角度かくどことなったアーチをければよいだけになった。また、これによって非常ひじょうたかいヴォールトをけることが可能かのうになり、そのたかさは、ランだい聖堂せいどうで24m、パリのノートル・ダムだい聖堂せいどうで35m、シャルトルだい聖堂せいどう36.55m、ランスだい聖堂せいどう37.95m、アミアンだい聖堂せいどうでは42.3mとなる。

アーチに付加ふかされているリブは、ヴォールトを造営ぞうえいさい重要じゅうよう役割やくわりたしている。建設けんせつでは、まずベイにたいして横断おうだんアーチとリブがけられるが、これは簡素かんそかりわくによる支持しじむ。天井てんじょうめん(セル)の造成ぞうせいは、すでにつくられたリブにかりわくけてむだけなので、非常ひじょう経済けいざいてきである。

この工法こうほうでは、あたかもリブとセルが独立どくりつしているようにかんがえられるため、19世紀せいきゴシック・リヴァイヴァルさいには、ヴィオレ・ル・デュクがリブを独立どくりつした構造こうぞうたいとみなし、ゴシック建築けんちく構造こうぞう露出ろしゅつがた正直しょうじき建築けんちくであると評価ひょうかした。ただし、戦時せんじちゅうばくげきけたゴシック教会きょうかいで、リブが破壊はかいされた場合ばあいでもセルが単独たんどくちこたえていたれいがあるため、今日きょうでは、リブは構造こうぞうてき解決かいけつさくというよりも、むしろ天井てんじょうかるせるという意匠いしょうてき意図いとのほうが重要じゅうようであるとかんがえられている。

ゴシック建築けんちく装飾そうしょく

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ゴシック建築けんちく達成たっせいは、中世ちゅうせいスコラ哲学すこらてつがく理念りねん、つまりかみ中心ちゅうしんとした秩序ちつじょ反映はんえいしたことにあるとえる。中世ちゅうせい人々ひとびとにとっては事物じぶつすべてに象徴しょうちょうてき意味いみがあり、ゆえに、ゴシック教会きょうかいいろど様々さまざま装飾そうしょくは、聖職せいしょくしゃたちの世界せかいたいする理解りかいそのものであった。かれらは、かみ創造そうぞう同義どうぎであるとかんがえ、教会きょうかい装飾そうしょくすることをかみへの奉仕ほうしとらえていた。したがって、とびらこうのマリアぞうせいペテロぞうせいニコラウスぞうステンドグラスえがかれたキリストの生涯しょうがいといったものは、けっして現代げんだいじん意味いみするところの「装飾そうしょく」などではなく、いしきざまれた中世ちゅうせい精神せいしん表象ひょうしょうなのである。

著名ちょめい建築けんちくぶつ

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フランス

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画像がぞうしゅう

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イギリス

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フランスとならびゴシック建築けんちくさかえた。

ドイツけん

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ながらくロマネスク様式ようしき名残なごりのこし、ちいさめのまど簡素かんそ装飾そうしょくのものがおおい。また西部せいぶではフランスの影響えいきょうおおきい。

イタリア

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イタリアではゴシックはあまり受容じゅようされなかった。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ロマネスク建築けんちく教会堂きょうかいどうもちいられるだてめん構成こうせいは、ろうがわろうはしらなどでけるさいに、そのはしら円柱えんちゅう-角柱かくちゅう-円柱えんちゅう、あるいは円柱えんちゅう-円柱えんちゅう-角柱かくちゅう-円柱えんちゅう-円柱えんちゅう配置はいちするなどにより、強弱きょうじゃくかえすパターンとなる。サンスだい聖堂せいどうでは、円柱えんちゅう-たばばしら-円柱えんちゅうたばばしらかえす。
  2. ^ 現在げんざいでは円形えんけいまどうしなわれ、巨大きょだいなクリアストーリになっている。
  3. ^ 戸谷とたに英世ひでよ竹山たけやま清明きよあき建築けんちくぶつ様式ようしきビジュアルハンドブック』株式会社かぶしきがいしゃエクスナレッジ、2009ねん、154ぺーじ 

参考さんこう文献ぶんけん

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  • ルイ・グロテッキちょ前川まえかわ道郎みちお 黒岩くろいわ俊介しゅんすけやく図説ずせつ世界せかい建築けんちく ゴシック建築けんちく』(ほんともしゃ
  • ニコラス・ペヴスナーちょ鈴木すずき博之ひろゆきわけ世界せかい建築けんちく辞典じてん』(鹿島かしま出版しゅっぱんかい
  • きりじき次郎じろうちょ建築けんちくがく基礎きそ3 西洋せいよう建築けんちく
  • 長尾ながおしげるたけし/ほし和彦かずひこ編著へんちょ『ビジュアルばん 西洋せいよう建築けんちく デザインとスタイル』(丸善まるぜん株式会社かぶしきがいしゃ

関連かんれん項目こうもく

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