この
記事 きじ には
複数 ふくすう の問題 もんだい があります。
改善 かいぜん や
ノートページ での
議論 ぎろん にご
協力 きょうりょく ください。
フランス ・パリ のノートルダム大 だい 聖堂 せいどう
ドイツ ・ケルン のケルン大 だい 聖堂 せいどう
ゴシック建築 けんちく (ゴシックけんちく、英語 えいご :Gothic Architecture)は、12世紀 せいき 後半 こうはん から花開 はなひら いたフランス を発祥 はっしょう とする建築 けんちく 様式 ようしき 。最 もっと も初期 しょき の建築 けんちく は、パリ 近 ちか くのサン=ドニ(聖 せい ドニ)大 だい 修道院 しゅうどういん 教会堂 きょうかいどう (Basilique de Saint-Denis)の一部 いちぶ に現存 げんそん する。イギリス 、北部 ほくぶ および中部 ちゅうぶ イタリア 、ドイツ のライン川 がわ 流域 りゅういき 、ポーランド のバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん およびヴィスワ川 がわ などの大 だい 河川 かせん 流域 りゅういき にわたる広範囲 こうはんい に伝播 でんぱ した。
「ゴシック 」という呼称 こしょう は、もともと蔑称 べっしょう である。15世紀 せいき から16世紀 せいき にかけて、アントニオ・フィラレーテ やジョルジョ・ヴァザーリ らが、ルネサンス 前 まえ の中世 ちゅうせい の芸術 げいじゅつ を粗野 そや で野蛮 やばん なものとみなすために「ゴート風 ふう の」と呼 よ んだことに由来 ゆらい する。
ルネサンス以降 いこう 、ゴシック建築 けんちく は顧 かえり みられなくなっていたが(この時期 じき をゴシック・サヴァイヴァルと呼 よ ぶ)、その伝統 でんとう は生 い き続 つづ け、18世紀 せいき になると、主 しゅ として構造 こうぞう 力学 りきがく 的 てき 観点 かんてん から、合理 ごうり 的 てき な構造 こうぞう であるとする再 さい 評価 ひょうか が始 はじ まった。18世紀 せいき から19世紀 せいき のゴシック・リヴァイヴァル の際 さい には、ゲーテ 、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン 、フリードリヒ・シュレーゲル らによって、内部 ないぶ 空間 くうかん はヨーロッパ の黒 くろ い森 もり のイメージに例 たと えられて賞賛 しょうさん され、当時 とうじ のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自 みずか らの民族 みんぞく 的 てき 様式 ようしき とする主張 しゅちょう が挙 あ がるなどした。
ゴシック建築 けんちく は、歴史 れきし 的 てき 区分 くぶん としては1150年 ねん 頃 ころ から1500年 ねん 頃 ころ までの時代 じだい を指 さ し、フランス王国 おうこく からブリテン島 とう 、スカンディナヴィア半島 はんとう 、ネーデルランド 、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、イベリア半島 はんとう 、イタリア半島 はんとう 、バルカン半島 ばるかんはんとう 西部 せいぶ 沿岸 えんがん 部 ぶ 、ポーランド およびポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の版図 はんと に伝 つた わった建築 けんちく 様式 ようしき をいう。しかし、これら歴史 れきし 的 てき ・地理 ちり 的 てき 条件 じょうけん が必 かなら ずしも相互 そうご に対応 たいおう しないという点 てん や、建築 けんちく の形態 けいたい 的 てき ・技術 ぎじゅつ 的 てき 要因 よういん 、図像 ずぞう などの美術 びじゅつ 的 てき 要因 よういん の定義 ていぎ づけが難 むずか しいという点 てん で、他 た の建築 けんちく 様式 ようしき に比 くら べるとかなり不明瞭 ふめいりょう な枠組 わくぐ みであると言 い わざるを得 え ない。特 とく に後期 こうき ゴシックは、地方 ちほう 様式 ようしき とも絡 から む複雑 ふくざつ な現象 げんしょう で、装飾 そうしょく や空間 くうかん の構成 こうせい を包括 ほうかつ 的 てき に述 の べることはたいへん難 むずか しい。
ゴシック建築 けんちく は、北 きた フランス一帯 いったい において着実 ちゃくじつ に発展 はってん していた後期 こうき ロマネスク建築 けんちく のいくつかの要素 ようそ を受 う け継 つ ぎ、サン=ドニ修道院 しゅうどういん 付属 ふぞく 聖堂 せいどう において一 ひと つの体系 たいけい の中 なか に組 く み込 こ まれて誕生 たんじょう した。12世紀 せいき 中葉 ちゅうよう から、サンス やラン 、パリ 、そしてシャルトル 、ランス 、アミアン では、これに倣 なら って大 だい 規模 きぼ かつ壮麗 そうれい な聖堂 せいどう が建 た てられることになった。当然 とうぜん 、西 にし ヨーロッパでは、このほかにもたくさんの建築 けんちく 物 ぶつ が建設 けんせつ されていたが、イル=ド=フランス 地方 ちほう をはじめとするフランス王国 おうこく の中心 ちゅうしん 地 ち においてのみ、初期 しょき から盛期 せいき にいたるゴシック建築 けんちく の首尾 しゅび 一貫 いっかん した発展 はってん の状況 じょうきょう を見 み ることができる。
ミラノのドゥオーモ の尖塔 せんとう 群 ぐん と飛 と び梁 はり
ゴシック建築 けんちく が伝播 でんぱ した他 ほか の諸国 しょこく の政治 せいじ 的 てき ・経済 けいざい 的 てき 事情 じじょう は多様 たよう で、発達 はったつ や伝播 でんぱ の過程 かてい は複雑 ふくざつ な様相 ようそう を呈 てい し、後期 こうき になるとこれが顕著 けんちょ に現 あらわ れる。しかし、それでもゴシック建築 けんちく が一定 いってい の建築 けんちく 的 てき 構成 こうせい をふまえつつ流布 るふ したのは、国々 くにぐに を跨 また いで独自 どくじ の組織 そしき 網 もう を構築 こうちく していた修道院 しゅうどういん の活動 かつどう が大 おお きかった。ロマネスク建築 けんちく と同様 どうよう に、ゴシック建築 けんちく においてもベネディクト会 かい やシトー会 かい の影響 えいきょう は大 おお きく、13世紀 せいき 以降 いこう はドミニコ会 かい 、フランシスコ会 かい などが、ゴシック建築 けんちく の伝播 でんぱ に寄与 きよ することになった。
ゴシック建築 けんちく は、尖 とが ったアーチ(尖 とんが 頭 あたま アーチ)、飛 と び梁 はり (フライング・バットレス )、リブ・ヴォールト などの工学 こうがく 的 てき 要素 ようそ がよく知 し られており、これらは19世紀 せいき のゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大 かだい に評価 ひょうか されたため、あたかもそのような建築 けんちく の技術 ぎじゅつ 的 てき 特徴 とくちょう のみがゴシック建築 けんちく を定義 ていぎ づけると考 かんが えられがちである。しかし、ゴシック建築 けんちく の本質 ほんしつ は、これらのモティーフを含 ふく めた全体 ぜんたい の美的 びてき 効果 こうか のほうが重要 じゅうよう で、ロマネスク建築 けんちく が部分 ぶぶん と部分 ぶぶん の組 く み合 あ わせで構成 こうせい され、各部 かくぶ がはっきりと分 ぶん されているのに対 たい し、ゴシック建築 けんちく では全体 ぜんたい が一定 いってい のリズムで秩序 ちつじょ づけられている。
聖 せい マリアのバシリカ聖堂 せいどう (グダンスク 、14世紀 せいき ) ブリック・ゴシック建築 けんちく の典型 てんけい
リューベック 、グダンスク 、トルン 、クラクフ など、北 きた ドイツやポーランドを中心 ちゅうしん とするバルト海 ばるとかい 沿岸 えんがん およびその大 だい 河川 かせん の流域 りゅういき ではブリック・ゴシック と呼 よ ばれる、レンガ を用 もち いた独特 どくとく のゴシック建築 けんちく が発展 はってん した。
ロマネスク建築 けんちく からゴシック建築 けんちく への転換 てんかん は、11世紀 せいき 末期 まっき から12世紀 せいき 早 さ 初期 しょき にかけて、イングランド とノルマンディー 地方 ちほう において行 おこな われた建築 けんちく 活動 かつどう によってもたらされた。この地方 ちほう では、すでに交差 こうさ リブ・ヴォールト を分厚 ぶあつ い構造 こうぞう 壁 かべ に架 か ける試 こころ みが成 な されていたが、それ自体 じたい はロンバルディア やアルザス 、プファルツ のロマネスク建築 けんちく においても同様 どうよう に行 おこな われている。しかし、ここでは後 のち にゴシック建築 けんちく に共通 きょうつう する、あるいはそれに発展 はってん する要素 ようそ のいくつか(すなわち、フライング・バットレスに発展 はってん する側 がわ 廊 ろう の屋根裏 やねうら に設 もう けられた梁 はり 状 じょう の控 ひかえ 壁 かべ とトリフォリウム に発展 はってん する二 に 重 じゅう シェル式 しき 壁 かべ (ミュール・エペ)など)が指摘 してき されている。
これらの建築 けんちく 活動 かつどう は後 のち にイル=ド=フランス に引 ひ き継 つ がれ、ゴシック建築 けんちく を開花 かいか することになる。
イル=ド=フランスでのゴシック建築 けんちく の発展 はってん [ 編集 へんしゅう ]
1130年 ねん 、サン=ドニ修道院 しゅうどういん のシュジェール 院長 いんちょう が、修道院 しゅうどういん 付属 ふぞく 聖堂 せいどう (現在 げんざい は大 だい 聖堂 せいどう )の改築 かいちく 工事 こうじ を始 はじ めた。現在 げんざい 、3つの広間 ひろま を納 おさ めた前 ぜん 廊 ろう (西 にし 正面 しょうめん )と聖歌 せいか 隊 たい 席 せき を含 ふく めた一部 いちぶ が現存 げんそん している。最初 さいしょ に多数 たすう の巡礼 じゅんれい 者 しゃ のための大 おお きな入 い り口 くち が造 つく られたが、これは円柱 えんちゅう を束 たば ねた支持 しじ 柱 ばしら に支 ささ えられた尖 とんが 頭 あたま リブ・ヴォールト が空間 くうかん を分節 ぶんせつ しており、これがノルマンディーの後期 こうき ロマネスクをゴシック建築 けんちく に発展 はってん させたものになっている。1140年 ねん に着工 ちゃっこう し1144年 ねん に完成 かんせい した内陣 ないじん は、後 ご の大 だい 改修 かいしゅう のためあまり残 のこ っていないが、放射状 ほうしゃじょう の祭 まつり 室 しつ と方形 ほうけい の祭 まつり 室 しつ を有 ゆう するシュヴェ で、前 ぜん 廊 ろう と同 おな じく革新 かくしん 的 てき なものだったらしい。しかし、サン=ドニ修道院 しゅうどういん 付属 ふぞく 聖堂 せいどう はあまりにも早熟 そうじゅく した建築 けんちく であり、12世紀 せいき 後期 こうき になるまで比較的 ひかくてき 小規模 しょうきぼ な教会 きょうかい でひっそりと真似 まね られるだけであった。
サン=ドニと同 おな じ頃 ごろ (1130年 ねん 頃 ころ から1164年 ねん )に建設 けんせつ されたサンス のサンテティエンヌ大 だい 聖堂 せいどう は、周 しゅう 歩廊 ほろう があるものの袖 そで 廊 ろう はなく、立 だて 面 めん の強弱 きょうじゃく [ 1] というロマネス建築 けんちく 特有 とくゆう の構成 こうせい を持 も っている。ただし、六 ろく 分 ふん ヴォールトと3層 そう にわかれた身 み 廊 ろう 立 りつ 面 めん はゴシック建築 けんちく の要素 ようそ を持 も っており、これは以後 いご のゴシック建築 けんちく に影響 えいきょう を及 およ ぼした。
12世紀 せいき 後半 こうはん になると、ブルゴーニュ とノルマンディーでは活発 かっぱつ な建設 けんせつ 活動 かつどう が行 おこな われ、初期 しょき ゴシック建築 けんちく の発展 はってん を促 うなが したが、これは個々 ここ の独自 どくじ 性 せい やロマネスク建築 けんちく の伝統 でんとう を阻害 そがい するものではなかった。ノワイヨン のノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 、サンリス のノートルダム大 だい 聖堂 せいどう (16世紀 せいき の改築 かいちく により当時 とうじ の造形 ぞうけい はあまり残 のこ っていない)、トゥルネーのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 、サン・ジェルメール・ド・フリなどは、それぞれロマネスク建築 けんちく 特有 とくゆう の構成 こうせい を持 も つもの、あるいは逆 ぎゃく にその伝統 でんとう 的 てき 形態 けいたい を全 まった く失 うしな ったものもある。
ランのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 内部 ないぶ
パリのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう の内部 ないぶ 空間 くうかん 一番 いちばん 右側 みぎがわ の柱 はしら 間 あいだ 部分 ぶぶん (高 こう 窓 まど の下 した に円形 えんけい 窓 まど )が初期 しょき の形状 けいじょう を残 のこ している。
これら初期 しょき ゴシックの教会堂 きょうかいどう で創建 そうけん 当時 とうじ のまま残 のこ っているものはひとつもないが、12世紀 せいき 後期 こうき の状態 じょうたい を比較的 ひかくてき よく保存 ほぞん しているのは、ノワイヨンのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 、そしてランのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 、パリのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう である。
ノワイヨン大 だい 聖堂 せいどう は第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の後 のち に大 だい 改装 かいそう されたが、初期 しょき ゴシックの構成 こうせい を最 もっと もよく残 のこ している。平面 へいめん はロマネスク建築 けんちく の伝統 でんとう を色濃 いろこ く残 のこ しているが、身 み 廊 ろう 立 りつ 面 めん には初期 しょき ゴシック建築 けんちく の特徴 とくちょう である、アーケード、ギャラリー、トリフォリウム、クリアストーリという4層 そう 構造 こうぞう がみられる。この手法 しゅほう によって、壁面 へきめん から重苦 おもくる しい感 かん じが取 と り払 はら われ、ロマネスク建築 けんちく とは異 こと なった趣 おもむき を見 み せている。
ラン のノートルダム大 だい 聖堂 せいどう は、ノワイヨン大 だい 聖堂 せいどう の影響 えいきょう を受 う けたもので、中央 ちゅうおう 部 ぶ にトゥール・ランテルヌ(光 ひかり 塔 とう )を頂 いただ く点 てん はロマネスク建築 けんちく の影響 えいきょう を残 のこ しているものの、身 み 廊 ろう 部分 ぶぶん は強弱 きょうじゃく を繰 く り返 かえ すパターンが全 まった く見 み られなくなり、全 すべ ての柱 はしら が円柱 えんちゅう に変 か わっている。袖 そで 廊 ろう には、ロマネスク建築 けんちく では滅多 めった に採用 さいよう されなかった円形 えんけい 窓 まど が採光 さいこう 用 よう として用 もち いられており、これが13世紀 せいき ゴシック建築 けんちく の特色 とくしょく となる「ばら窓 まど 」の発展 はってん の第 だい 一 いち 段階 だんかい となった。ラン大 だい 聖堂 せいどう は初期 しょき ゴシック建築 けんちく のまぎれもない傑作 けっさく で、その形態 けいたい は ロレーヌ やラインラント 地方 ちほう に広 ひろ がり、以後 いご 数 すう 十 じゅう 年 ねん に渡 わた って影響 えいきょう を与 あた え続 つづ け、後 のち にシャルトル のノートルダム大 だい 聖堂 せいどう に引 ひ き継 つ がれた。
パリ のノートルダム大 だい 聖堂 せいどう は、しばしば初期 しょき ゴシック建築 けんちく の最高 さいこう 傑作 けっさく であるとされる。この建築 けんちく 物 ぶつ は高 たか い背 せ を持 も つため、構造 こうぞう の観点 かんてん からベイ(格 かく 間 あいだ )が細分 さいぶん 化 か されており、またクリアストーリ (高 こう 窓 まど )が高 たか い位置 いち にあるため、下部 かぶ 構造 こうぞう によって採光 さいこう が不足 ふそく しているという欠点 けってん があった。しかし、平面 へいめん は二 に 重 じゅう の側 がわ 廊 ろう を持 も つという特殊 とくしゅ な形状 けいじょう で、さらに、はじめから薄 うす い壁 かべ を意識 いしき して設計 せっけい されたらしく、上部 じょうぶ のヴォールト構造 こうぞう を支 ささ えつつ周 しゅう 歩廊 ほろう と側 がわ 廊 ろう を跨 また ぐ控 ひか え壁 かべ を建設 けんせつ するためにフライング・バットレス(飛 と び梁 はり )を採用 さいよう したほか、クリアストーリ下 か のトリフォリウムにあたる位置 いち に円形 えんけい 窓 まど を配置 はいち するなど[ 2] 、かなり野心 やしん 的 てき な設計 せっけい が行 おこな われていた。後 ご の改装 かいそう によって証明 しょうめい できるものが失 うしな われてしまったため、当時 とうじ のフライング・バットレスがどのように架 か けられていたかは必 かなら ずしも明確 めいかく ではないが、この形態 けいたい はすぐに決定的 けっていてき なものとなり、やがてパリ司教 しきょう 区 く ではこの聖堂 せいどう に影響 えいきょう を受 う けた教会堂 きょうかいどう が建設 けんせつ された。
イル=ド=フランス とその周辺 しゅうへん 部 ぶ の初期 しょき ゴシック建築 けんちく は、シャンパーニュ に広 ひろ がった。シャロン=アン=シャンパーニュ のノートルダム=アン=ヴォー聖堂 せいどう とランス のサン・レミ大 だい 聖堂 せいどう の後陣 ごじん は、初期 しょき ゴシック建築 けんちく の最終 さいしゅう 的 てき な完成 かんせい 形態 けいたい で、両者 りょうしゃ ともに後陣 ごじん の立 だて 面 めん は4層 そう 構造 こうぞう で、大 おお きな開口 かいこう を取 と ることによって鳥 とり 籠 かご のような線 せん 的 てき で軽快 けいかい な構造 こうぞう となっている。シャンパーニュでは、他 た にソワッソン大 だい 聖堂 せいどう の袖 そで 廊 ろう がこれと全 まった く同 おな じ構成 こうせい を有 ゆう している。
ブルゴーニュ公 おおやけ 領 りょう 、アキテーヌ公 おおやけ 領 りょう 、イングランドその他 た の地域 ちいき [ 編集 へんしゅう ]
サント・マドレーヌ大 だい 聖堂 せいどう の内陣 ないじん
カンタベリー大 だい 聖堂 せいどう の内陣 ないじん
ブルゴーニュ ではロマネスク建築 けんちく が高度 こうど に発展 はってん していたため、その伝統 でんとう が生 い き続 つづ けた。ブルゴーニュにゴシック建築 けんちく が導入 どうにゅう されるのは1170年 ねん 頃 ころ であり、これはヴェズレー で建設 けんせつ されたサント・マドレーヌ大 だい 聖堂 せいどう の内陣 ないじん に見 み ることができる。全体 ぜんたい の構成 こうせい はソワッソン大 だい 聖堂 せいどう の袖 そで 廊 ろう に近 ちか いが、立 だて 面 めん は3層 そう 構造 こうぞう で、線 せん 的 てき な要素 ようそ を強 つよ く意識 いしき したものになっており、これは13世紀 せいき 以降 いこう 、この地 ち で盛 さか んになる後期 こうき ゴシック建築 けんちく のデザインに受 う け継 つ がれた。
ノルマンディでゴシック建築 けんちく の雛形 ひながた が形成 けいせい されたにもかかわらず、プランタジネット家 か の勢力 せいりょく 下 か にあった北 きた 、西 にし フランスでゴシック建築 けんちく が導入 どうにゅう されるのは遅 おそ かった。アンジュー 、メーヌ 、ポワトゥー などにゴシック建築 けんちく が建設 けんせつ されるのは13世紀 せいき 初頭 しょとう になってからであるが、プランタジネット家 か の支配 しはい 下 か で形成 けいせい されたゴシック建築 けんちく は、イル=ド=フランスとは異 こと なる形態 けいたい を獲得 かくとく した。
プランタジネット・ゴシックの代表 だいひょう 的 てき な建築 けんちく 物 ぶつ はアンジェ のサン・モーリス大 だい 聖堂 せいどう である。極度 きょくど に湾曲 わんきょく したヴォールトを頂 いただ く身 み 廊 ろう の立 だて 面 めん には、アーケードやクリアストーリなどの分節 ぶんせつ 化 か が見 み られない。もともと単 たん 廊 ろう 式 しき で木造 もくぞう 天井 てんじょう を持 も った建築 けんちく 物 ぶつ であったらしく、この形状 けいじょう はポワティエのサンティレール聖堂 せいどう も同様 どうよう で、ロマネスク建築 けんちく の伝統 でんとう を残 のこ している。アンジェ大 だい 聖堂 せいどう とは異 こと なる形式 けいしき として名高 なだか いのがポワティエ の大 だい 聖堂 せいどう で、これは1162年 ねん に起工 きこう されたが、完成 かんせい は13世紀 せいき 末 まつ のことである。ほぼ同 おな じ高 たか さ、同 おな じ幅 はば の身 み 廊 ろう と側 がわ 廊 ろう で、後 のち にホール式 しき と呼 よ ばれる教会堂 きょうかいどう の空間 くうかん に近 ちか い。アンジェのサン=セルジュ聖堂 せいどう はこの形式 けいしき に則 のっと った平面 へいめん となっているが、細 ほそ い柱 はしら によって分節 ぶんせつ されたベイと枝 えだ リヴによって分節 ぶんせつ されたヴォールトが、さらに華美 かび な印象 いんしょう を与 あた える。アンジェ、ポワティエともに、聖堂 せいどう の形式 けいしき としてはロマネスク建築 けんちく において見 み られるものであり、細部 さいぶ については洗練 せんれん されているものの、全体 ぜんたい としての革新 かくしん 性 せい はイル=ド=フランスのゴシック建築 けんちく を超 こ えるものではない。プランタジネット朝 あさ の建築 けんちく は後期 こうき ロマネスク建築 けんちく と初期 しょき ゴシック建築 けんちく との間 あいだ にそれほどの違 ちが いがないことを証明 しょうめい している。
イングランド本土 ほんど に建設 けんせつ された最初 さいしょ の本格 ほんかく 的 てき なゴシック建築 けんちく は、1174年 ねん に起工 きこう されたカンタベリー大 だい 聖堂 せいどう である。最初 さいしょ の建設 けんせつ はギョーム・ド・サンス によって設計 せっけい されたが、不慮 ふりょ の事故 じこ によって工事 こうじ はイギリス人 じん のウィリアムに引 ひ き継 つ がれた。カンタベリー大 だい 聖堂 せいどう は後陣 ごじん が二 に 重 じゅう シェル式 しき で造 つく られており、全体 ぜんたい として彫塑 ちょうそ 性 せい の強 つよ いイングランドのロマネスク建築 けんちく の伝統 でんとう を残 のこ している。リンカン大 だい 聖堂 せいどう はカンタベリーの後継 こうけい であり、パリのノートルダムと対照 たいしょう 的 てき なロマネスク建築 けんちく の厚 あつ い壁 かべ を思 おも わせるクリアストーリ、屋根裏 やねうら に開 ひら いたトリフォリウムなどの特徴 とくちょう は、イングランの独自 どくじ 性 せい を物語 ものがた っている。
シャルトル大 だい 聖堂 せいどう
1194年 ねん の火災 かさい によって焼 や け落 お ちたシャルトルのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう は、1210年 ねん には身 み 廊 ろう が再建 さいけん され、1230年 ねん 頃 ころ にはおおよその完成 かんせい をみた。盛期 せいき ゴシックの最高 さいこう 傑作 けっさく と呼 よ ばれるこの大 だい 聖堂 せいどう は、ランとパリのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう を踏襲 とうしゅう した平面 へいめん (袖 そで 廊 ろう はラン、二 に 重 じゅう 周 しゅう 歩廊 ほろう はパリ)をもっているが、内部 ないぶ はかなり独創 どくそう 的 てき な空間 くうかん になっている。
身 み 廊 ろう 側 がわ の柱 はしら 身 み はヴォールトの始 はじ まる高 たか さまで真 ま っすぐに伸 の びており、それまでの聖堂 せいどう の柱 はしら が独立 どくりつ した印象 いんしょう を与 あた えていたのに対 たい して、リブとともに垂直 すいちょく 性 せい の高 たか い輪郭 りんかく となっている。身 み 廊 ろう の壁面 へきめん は高 たか いアーケードと低 ひく いトリフォリウム、そして採光 さいこう を得 え るためにアーケードと同 おな じ高 たか さのクリアストーリを持 も った3層 そう 構造 こうぞう となっており、パリのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう と比 くら べると全体 ぜんたい のプロポーションが再 さい 構成 こうせい されているのがわかる。ここに嵌 は め込 こ まれた166もの聖書 せいしょ のモティーフをちりばめたステンドグラスと多数 たすう の彫刻 ちょうこく で飾 かざ られた扉 とびら 口 こう によって、シャルトル大 だい 聖堂 せいどう は、しばしば中世 ちゅうせい スコラ学 がく 世界 せかい の結晶 けっしょう とみなされ、「凍 こお れる音楽 おんがく 」とも評 ひょう される。なお、「凍 こお れる音楽 おんがく 」という言葉 ことば はドイツの哲学 てつがく 者 しゃ シェリング に由来 ゆらい すると言 い われる。
13世紀 せいき に、シャルトル大 だい 聖堂 せいどう は当時 とうじ 流行 りゅうこう した形式 けいしき に沿 そ うような大 だい 規模 きぼ な改修 かいしゅう が計画 けいかく されたが、大 だい 聖堂 せいどう 内部 ないぶ の完成 かんせい 度 ど の高 たか さが、それを断念 だんねん させるほどであった。外観 がいかん については、本来 ほんらい 7つの塔 とう が建 た てられる予定 よてい だったが、こちらは未 み 完成 かんせい に終 お わっている。シャルトル大 だい 聖堂 せいどう の影響 えいきょう は大 おお きく、ソワッソン大 だい 聖堂 せいどう の内陣 ないじん 、ランスとアミアンのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう にそれを見 み ることができる。
ランス大 だい 聖堂 せいどう
ランスのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう は、歴代 れきだい のフランス国王 こくおう を聖 せい 別 べつ する司教 しきょう 座 ざ であり、政治 せいじ 的 てき な意味 いみ でも重要 じゅうよう な聖堂 せいどう である。その平面 へいめん と立 だて 面 めん の構成 こうせい は、シャルトル大 だい 聖堂 せいどう に準 じゅん じたもので、装飾 そうしょく を除 のぞ けば両者 りょうしゃ の違 ちが いはほとんどない。ランス の大 だい 聖堂 せいどう は、シャルトルとは対照 たいしょう 的 てき に内部 ないぶ 空間 くうかん にも植物 しょくぶつ を模 も した豊 ゆた かな装飾 そうしょく をもっており、この点 てん はシャンパーニュ 地方 ちほう の特性 とくせい を示 しめ している。外観 がいかん についても、シャルトルよりも豊 ゆた かな装飾 そうしょく で飾 かざ られており、フライング・バットレスを受 う けるキュレの修 おさ まりはより洗練 せんれん されている。ただし建設 けんせつ 過程 かてい は複雑 ふくざつ で、4人 にん の主任 しゅにん 建築 けんちく 家 か が入 い れ替 か わっており、これによる施工 しこう 上 じょう の混乱 こんらん が見 み られる。
アミアンのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう は、盛期 せいき ゴシックの最 もっと も洗練 せんれん された大 だい 聖堂 せいどう である。1221年 ねん にロベール・リュザルシュ によって計画 けいかく されたその大 おお きさは、前述 ぜんじゅつ の大 だい 聖堂 せいどう を全 すべ て凌駕 りょうが しており、このため身 み 廊 ろう 最 さい 上部 じょうぶ の薔薇 ばら 窓 まど 下 か に四 よん 組 くみ 窓 まど が追加 ついか されている。一 ひと つのベイに対 たい して二 ふた つの三 さん 組 くみ アーチの窓 まど が取 と り付 つ けられ、これらを除 のぞ いては、ほとんどシャルトルの形態 けいたい と共通 きょうつう するが、その構成 こうせい は完全 かんぜん なる均衡 きんこう を保 たも っている。内陣 ないじん はすでにクラシカル・ゴシックのものではなく、レヨナン式 しき ゴシックの段階 だんかい に達 たっ している。
シャルトルの系譜 けいふ に連 つら なる最後 さいご の大 だい 聖堂 せいどう は、ボーヴェのサン・ピエール大 だい 聖堂 せいどう である。構造 こうぞう 的 てき には完全 かんぜん な失敗 しっぱい 作 さく で、1284年 ねん に大 だい 規模 きぼ な崩落 ほうらく をおこしたが、そのまま16世紀 せいき まで再建 さいけん は行 おこな われなかった。この大 だい 聖堂 せいどう の建設 けんせつ 以後 いご 、この種 たね の大 だい 聖堂 せいどう はまったく建設 けんせつ されなくなった。
シャルトルはゴシック建築 けんちく の一 ひと つの頂点 ちょうてん であるが、これとは異 こと なった系統 けいとう に属 ぞく する聖堂 せいどう も存在 そんざい する。盛期 せいき ゴシックは、シャルトル大 だい 聖堂 せいどう で確立 かくりつ された系譜 けいふ のみで語 かた れるものではなく、イングランドやノルマンディ、ライン川 がわ 流域 りゅういき やアルプスでは、全 まった く別 べつ 系統 けいとう の様式 ようしき が採用 さいよう された。
ブールジュのサン・テティエンヌ大 だい 聖堂 せいどう
ブールジュのサン・テティエンヌ大 だい 聖堂 せいどう は、シャルトルとほぼ同 どう 時期 じき に建設 けんせつ された。平面 へいめん は、パリのノートルダムを直接 ちょくせつ の源泉 げんせん としているように思 おも われるが、袖 そで 廊 ろう はなく、主 しゅ 廊 ろう 立 りつ 面 めん は、全体 ぜんたい 的 てき にほっそりとした印象 いんしょう を与 あた える非常 ひじょう に高 たか いアーケードと、背 せ の低 ひく いトリフォリウム、小 ちい さなクリアストーリから成 な る。シャルトルに比 くら べると重量 じゅうりょう の軽 かる い構造 こうぞう で出来 でき ており、このため構成 こうせい はとても独創 どくそう 的 てき で、他 た のいかなるゴシック教会堂 きょうかいどう にもこれに類似 るいじ するものはなく、またこの構成 こうせい を真似 まね たものもたいへん少 すく ない。
ブールジュの影響 えいきょう を受 う けた数少 かずすく ない建築 けんちく 物 ぶつ の一 ひと つに、ル・マン大 だい 聖堂 せいどう がある。この聖堂 せいどう の建設 けんせつ 経緯 けいい は複雑 ふくざつ なものであったらしく、ブールジュとの共通 きょうつう 点 てん は高 たか いアーケードを保有 ほゆう することをおいて他 た にない。この部分 ぶぶん は、従 したが ってブールジュの建築 けんちく 家 か の手 て によるものと考 かんが えられる。高 こう 窓 まど を高 たか くするためにトリフォリウムが排除 はいじょ され、身 み 廊 ろう 立 りつ 面 めん はアーケードとトリフォリウムの二 に 層 そう 構造 こうぞう であるが、これは後 ご のレヨナン様式 ようしき の到来 とうらい を告 つ げるものである。
北 きた フランスとブルゴーニュ、およびアーリー・イングリッシュ[ 編集 へんしゅう ]
ディジョン のノートルダム聖堂 せいどう
リンカン大 だい 聖堂 せいどう の身 み 廊 ろう
シャルトルをはじめとする大 だい 教会堂 きょうかいどう が建設 けんせつ されていた頃 ころ 、イングランドとノルマンディ、ライン川 がわ 一帯 いったい 、そしてアルプス山脈 あるぷすさんみゃく 周辺 しゅうへん 部 ぶ では、これらとは違 ちが ったゴシック建築 けんちく が形成 けいせい されようとしていた。北方 ほっぽう 地域 ちいき では、ゴシック建築 けんちく 特有 とくゆう とされる薄 うす い壁 かべ に対 たい する意識 いしき は少 すく なく、むしろ構造 こうぞう 壁 かべ の厚 あつ みを利用 りよう した意匠 いしょう が好 この まれた。
オセール のサン・テティエンヌ聖堂 せいどう は、1215年 ねん に起工 きこう されたもので、内部 ないぶ はクリアストーリ、トリフォリウム、アーケードの3層 そう 構造 こうぞう から成 な るが、中間 なかま 部 ぶ のトリフォリウムは二 に 重 じゅう シェル式 しき 壁 かべ (ミュール・エペ)を意識 いしき しており、通路 つうろ 状 じょう で背 せ が高 たか く、小 しょう 円柱 えんちゅう によって分節 ぶんせつ される。この教会堂 きょうかいどう と同 おな じ立 りつ 面 めん を有 ゆう するものが、1220年 ねん 頃 ころ に起工 きこう されたディジョン の教区 きょうく 教会堂 きょうかいどう であるノートルダム聖堂 せいどう である。ただし、こちらは下方 かほう の窓 まど の部分 ぶぶん とトリフォリウムの上部 じょうぶ (クリアストーリの下部 かぶ )に通路 つうろ が設 もう けられている。両 りょう 教会堂 きょうかいどう ともに、その他 た の意匠 いしょう は初期 しょき ゴシックのもので、クリュニー修道院 しゅうどういん のノートルダム聖堂 せいどう やリヨン の大 だい 聖堂 せいどう の身 み 廊 ろう 部分 ぶぶん 、シャロン=シュル=ソーヌ の大 だい 聖堂 せいどう なども、ほとんど同 おな じ意匠 いしょう の内部 ないぶ 空間 くうかん を持 も つ。
カンタベリーでの大 だい 聖堂 せいどう 建立 こんりゅう によって、イングランドのゴシック建築 けんちく は1180年 ねん 頃 ころ から定着 ていちゃく しはじめる。初期 しょき イギリス式 しき (early english)と呼 よ ばれる段階 だんかい における著名 ちょめい な建築 けんちく 物 ぶつ は1225年 ねん 頃 ころ に起工 きこう したリンカーン大 だい 聖堂 せいどう の身 み 廊 ろう である。カンタベリー大 だい 聖堂 せいどう に由来 ゆらい する意匠 いしょう を持 も つが、トリフォリウムは身 み 廊 ろう に解放 かいほう された通路 つうろ 状 じょう のものではなく、イングランドのロマネスク建築 けんちく に見 み られる屋根裏 やねうら に開 ひら いた開口 かいこう 部 ぶ となっている。壁面 へきめん はかなり厚 あつ く作 つく られており、全体 ぜんたい 的 てき にずんぐりとした印象 いんしょう で、シャルトル大 だい 聖堂 せいどう のような上方 かみがた への指向 しこう 性 せい はない。
ウェストミンスター寺院 じいん は、このような初期 しょき イギリス式 しき の形態 けいたい に対 たい し、大陸 たいりく のレヨナン式 しき の意匠 いしょう を上手 うま く融合 ゆうごう させ、新 あら たな空間 くうかん を創出 そうしゅつ した。ウェストミンスターの様々 さまざま な要素 ようそ 、トリフォリウムやクリアストーリは典型 てんけい 的 てき なイングランドの形態 けいたい であるが、三葉 みつば 形 がた と多弁 たべん 飾 かざ りの複 ふく 合 あい トレーサリーといった装飾 そうしょく や、後陣 ごじん のヴォールト架 か 構は明 あき らかに大陸 たいりく 由来 ゆらい のものである。特 とく に窓 まど のトレーサリーは、以後 いご のイングランドのゴシック建築 けんちく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。
サン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう の内部 ないぶ 空間 くうかん クリアストーリが拡大 かくだい され、トリフォリウムも開口 かいこう 部 ぶ が設 もう けられている。
1250年 ねん 頃 ころ に始 はじ まる後期 こうき ゴシック建築 けんちく は、それまでのゴシック建築 けんちく の様相 ようそう とは本質 ほんしつ 的 てき に異 こと なる複雑 ふくざつ な現象 げんしょう である。後期 こうき の教会堂 きょうかいどう 建築 けんちく は、どちらかと言 い うと小型 こがた 化 か の様相 ようそう を示 しめ しており、これによって内部 ないぶ 空間 くうかん の立 だて 面 めん を上 うえ ・中 なか ・下 した と区切 くぎ る分節 ぶんせつ は解 と け、装飾 そうしょく に対 たい する嗜好 しこう 性 せい が全体 ぜんたい の空間 くうかん に対 たい する意識 いしき を凌駕 りょうが するようになった。フランスの後期 こうき ゴシックを特徴 とくちょう づけるのは、全体 ぜんたい のダイナミックな躍動 やくどう 感 かん ではなく、細部 さいぶ の技巧 ぎこう 的 てき 洗練 せんれん と開口 かいこう 部 ぶ の拡大 かくだい である。このような現象 げんしょう の第一歩 だいいっぽ が1250年 ねん から始 はじ まるレヨナン式 しき で、これは先行 せんこう するいくつかの建築 けんちく 物 ぶつ にその萌芽 ほうが が見 み られる。
サン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう は、シュジェール院長 いんちょう による工事 こうじ の後 のち 、1231年 ねん に教会堂 きょうかいどう はさらに再建 さいけん 工事 こうじ が行 おこな われ、1281年 ねん に竣工 しゅんこう した。この工事 こうじ で内陣 ないじん の上部 じょうぶ が建 た て直 なお され、身 み 廊 ろう と袖 そで 廊 ろう が新規 しんき に建築 けんちく された。身 み 廊 ろう はクリアストーリが拡大 かくだい されたため、トリフォリウムの上 うえ が全 すべ てランセット窓 まど で構成 こうせい されており、また、トリフォリウムの外側 そとがわ の壁 かべ にも開口 かいこう が設 もう けられたため、身 み 廊 ろう 立 りつ 面 めん の全体 ぜんたい が透明 とうめい な壁 かべ と化 か している。サン=ドニのように質量 しつりょう 感 かん を出 だ さないような意匠 いしょう は、1235年 ねん 頃 ころ に建設 けんせつ されたサン・ジェルマン・アン・レー城 じょう 館 かん の礼拝 れいはい 堂 どう にも見 み ることができる。礼拝 れいはい 堂 どう の窓 まど と西側 にしがわ のバラ窓 まど の浮 う き彫 ぼ りはレヨナン式 しき の意匠 いしょう そのものであるが、一方 いっぽう で、二 に 重 じゅう シェル式 しき 壁 かべ に特有 とくゆう の(特 とく にブルゴーニュ特有 とくゆう の)特徴 とくちょう をも備 そな えている。
サント・シャペル礼拝 れいはい 堂 どう の内部 ないぶ 空間 くうかん 外部 がいぶ に張 は り出 だ した控 ひか え壁 かべ と鉄製 てつせい 補助 ほじょ 材 ざい の仕様 しよう により「鳥 とり 籠 かご 」のような軽 かろ やかな空間 くうかん を形成 けいせい する。
サン=ドニも含 ふく めた1230年 ねん から1250年 ねん 頃 ごろ の建築 けんちく 物 ぶつ は、レヨナン式 しき ゴシックの前 ぜん 段階 だんかい にあたるもので、コート・スタイルあるいはステイル・ロワイヤル(宮廷 きゅうてい 様式 ようしき )とも呼 よ ばれる。聖王 せいおう ルイ が東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から購入 こうにゅう したキリストの荊冠 けいかん の保管 ほかん 所 しょ として、1242年 ねん 頃 ころ に建設 けんせつ されたサント・シャペル礼拝 れいはい 堂 どう は、控 ひかえ 壁 かべ と鉄製 てつせい 補強 ほきょう 材 ざい によって、軽 かろ やかな内部 ないぶ 空間 くうかん を形成 けいせい している。ステンドグラスと彫刻 ちょうこく は技巧 ぎこう 性 せい が高 たか く、レヨナン式 しき ゴシックへの傾向 けいこう を如実 にょじつ に現 あらわ している。
パリに残 のこ るこの時期 じき の建築 けんちく 物 ぶつ は、ノートルダム大 だい 聖堂 せいどう の袖 そで 廊 ろう で、1245年 ねん から1250年 ねん にかけて建設 けんせつ された。トリフォリウムに類似 るいじ する横 よこ に長 なが いギャラリーと、その上部 じょうぶ に設 もう けられた巨大 きょだい なバラ窓 まど 、そしてその間 あいだ のスパンドレルにも設 もう けられた開口 かいこう 部 ぶ が、壁 かべ の重量 じゅうりょう を喪失 そうしつ させる。また、袖 そで 廊 ろう のファサードは、後 のち にフランス国内外 こくないがい で模倣 もほう されるほどの影響 えいきょう 力 りょく を持 も った。
サン=ドニとパリのノートルダムは、トロワ大 だい 聖堂 せいどう の内陣 ないじん と1236年 ねん 頃 ころ に起工 きこう されたストラスブールのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう に影響 えいきょう を与 あた えている。特 とく に後者 こうしゃ は、レヨナン式 しき の影響 えいきょう を神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の領内 りょうない に拡大 かくだい させたと言 い う意味 いみ で重要 じゅうよう である。オットー朝 あさ 時代 じだい に建設 けんせつ された基礎 きそ の上 うえ に建設 けんせつ されたストラスブール大 だい 聖堂 せいどう は、ブルゴーニュ特有 とくゆう の意匠 いしょう を踏襲 とうしゅう しつつ、コート・スタイルの要素 ようそ を取 と り入 い れたものとなっており、ファサードについてはパリのノートルダム大 だい 聖堂 せいどう 袖 そで 廊 ろう の影響 えいきょう を認 みと めることができる。
サン=ドニとサント・シャペルで高度 こうど に洗練 せんれん されたレヨナン式 しき ゴシックは、北 きた フランスと南 みなみ フランス、そしてイングランドと神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく にまで広 ひろ がる。同時 どうじ にイタリアやスペインでは、これに反抗 はんこう するような意匠 いしょう も形成 けいせい されたが、14世紀 せいき 前半 ぜんはん になると、教義 きょうぎ 的 てき と呼 よ べるほどに体系 たいけい 化 か された。このため、後期 こうき ゴシック建築 けんちく は、教条 きょうじょう 的 てき で懐古 かいこ 趣味 しゅみ 的 てき と批判 ひはん されることもある。実際 じっさい に、1284年 ねん に完成 かんせい したボーヴェのサン・ピエール大 だい 聖堂 せいどう の後陣 ごじん 、1272年 ねん に起工 きこう されたナルボンヌの大 だい 聖堂 せいどう 、1280年 ねん 頃 ごろ に起工 きこう されたボルドー のサンタンドレ大 だい 聖堂 せいどう 、1308年 ねん 起工 きこう のヌヴェール大 だい 聖堂 せいどう など、レヨナン式 しき の教会堂 きょうかいどう を挙 あ げることができるが、これらには特 とく に目立 めだ った形態 けいたい の進展 しんてん はない。
1340年代 ねんだい 以降 いこう は、百 ひゃく 年 ねん 戦争 せんそう の最 もっと も熾烈 しれつ な時期 じき であり、また黒死病 こくしびょう の流行 りゅうこう にともなってイングランドとフランスの建築 けんちく 活動 かつどう は完全 かんぜん に停滞 ていたい した。ヨーロッパのあらゆる活動 かつどう が再 ふたた び活発 かっぱつ 化 か するのは15世紀 せいき になってからであり、この時期 じき まで多 おお くの計画 けいかく が放棄 ほうき されたままであった。大 だい 教会堂 きょうかいどう は建設 けんせつ されなかったが、この時期 じき にいくつかの城郭 じょうかく 建築 けんちく と都市 とし 自治体 じちたい の公共 こうきょう 建築 けんちく が建 た てられている。特 とく に城郭 じょうかく 建築 けんちく は、戦時 せんじ における火器 かき の使用 しよう により砦 とりで 式 しき から稜 りょう 堡式に移行 いこう したが、その結果 けっか として居住 きょじゅう 性 せい は重要 じゅうよう 性 せい を失 うしな い、城郭 じょうかく と宮殿 きゅうでん は全 まった く別 べつ 系統 けいとう の建築 けんちく に乖離 かいり していった。
15世紀 せいき にゴシック建築 けんちく が復活 ふっかつ するが、中世 ちゅうせい 末期 まっき の建築 けんちく は装飾 そうしょく の技巧 ぎこう 性 せい が際立 きわだ つもので、一般 いっぱん にフランボワイアン(火焔 かえん 式 しき )と呼 よ ばれる。フランスでは古典 こてん ゴシックの影響 えいきょう が強 つよ く、トレーサリーは幾何 きか 学 がく 模様 もよう のままだったのだが、14世紀 せいき 末 まつ から絡 から み合 あ った曲線 きょくせん が好 この まれるようになった。このような趣味 しゅみ は、レヨナン式 しき の空間 くうかん そのものにはあまり影響 えいきょう を与 あた えてはいないが、このレヨナン式 しき とフランボワイアンの混成 こんせい が、バロック建築 けんちく の直接 ちょくせつ の源泉 げんせん であるとする見方 みかた もある。実際 じっさい に、構造 こうぞう 的 てき 意味 いみ がまったくない小 しょう 柱 はしら や、ヴォールトとは関 かか わりのないようなリブの構成 こうせい など、構造 こうぞう 的 てき な合理 ごうり 性 せい よりも装飾 そうしょく 性 せい を求 もと める考 かんが えかたは、バロック建築 けんちく と共通 きょうつう するものと言 い えるであろう。
フランボワイアンの意匠 いしょう はフランスで生 う まれたものではなく、イングランドのトレーサリーや、神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のネット・ヴォールトを取 と り入 い れたものである。1480年 ねん に起工 きこう された、リュー のシャペル=デュ=サンテスプリに見 み られる辻 つじ 飾 かざ りのついた扁平 へんぺい 星 ほし 形 がた ヴォールトは、ドイツからもたらされた意匠 いしょう で、このような背 せ の低 ひく いヴォールトはシャンパーニュで好 この まれた。フランス中心 ちゅうしん 部 ぶ では、古典 こてん ゴシックから伝統 でんとう 的 てき に垂直 すいちょく 性 せい への嗜好 しこう が強 つよ く、1489年 ねん 以後 いご に起工 きこう されたパリのサン・セヴラン聖堂 せいどう 、および1494年 ねん 起工 きこう のサン・ジェルヴェ聖堂 せいどう 、ルーアン のサン・マクルー教会 きょうかい 、そしてモン・サン=ミシェル の大 だい 修道院 しゅうどういん 聖堂 せいどう の内陣 ないじん などが、このようなフランボワイアンのすばらしい作例 さくれい として残 のこ っている。
イングランドの装飾 そうしょく 式 しき 、および垂直 すいちょく 式 しき [ 編集 へんしゅう ]
エクセター大 だい 聖堂 せいどう の身 み 廊 ろう とヴォールト
ブリストル大 だい 聖堂 せいどう の側 がわ 廊 ろう
グロスター大 だい 聖堂 せいどう 回廊 かいろう のファン・ヴォールト
後期 こうき において、発展 はってん 的 てき と呼 よ べるゴシック建築 けんちく の潮流 ちょうりゅう は、フランス本土 ほんど ではなくむしろイングランドのゴシック建築 けんちく であった。
イングランドのゴシック建築 けんちく は、伝統 でんとう 的 てき に3期 き に分 わ けられる。アーリー・イングリッシュに続 つづ き、1290年 ねん 以降 いこう に装飾 そうしょく 式 しき (decorated gothic)と呼 よ ばれる建築 けんちく 、そして1330年 ねん 頃 ころ から垂直 すいちょく 式 しき (prependicular gothic)と呼 よ ばれる建築 けんちく が発達 はったつ した。
イングランドでは、大陸 たいりく のフライング・バットレスをあまり採用 さいよう せず、つねに壁 かべ の厚 あつ さを想起 そうき させる意匠 いしょう を好 この み、また、多 おお くの場合 ばあい 、湾曲 わんきょく したアプスではなく平 ひら たい東 ひがし 端 はし 部 ぶ を採用 さいよう した。ほっそりしたプロポーションと薄 うす い壁 かべ の意匠 いしょう を意識 いしき した例外 れいがい 的 てき な作例 さくれい は、ウェストミンスター・アビーのほか数 かぞ えるほどしかない。装飾 そうしょく 式 しき の意匠 いしょう は、このような傾向 けいこう のなかで形成 けいせい されたイングランド独自 どくじ のゴシック建築 けんちく であった。
1280年 ねん から1290年 ねん の間 あいだ に起工 きこう されたエクセター の大 だい 聖堂 せいどう は、初期 しょき イギリス式 しき の典型 てんけい 的 てき な平面 へいめん を持 も つが、ヴォールトを支 ささ える(ように見 み える)リブは、アーケード柱頭 ちゅうとう の持 も ち送 おく り の上 うえ から伸 の びており、身 み 廊 ろう 立 りつ 面 めん は垂直 すいちょく に伸 の びる線 せん 的 てき な要素 ようそ よりも、面 めん 的 てき に見 み える。イングランドでは大 おお きな窓 まど 面 めん が好 この まれたため、この大 だい 聖堂 せいどう でも湾曲 わんきょく したアプスはなく、大 おお きなステンドグラスを持 も つ平面 へいめん 的 てき な後陣 ごじん が採用 さいよう されている。1290年 ねん に起工 きこう されたヨーク の大 だい 聖堂 せいどう (York Minster )、リッチフィールド の大 だい 聖堂 せいどう などは、エクセターと全 まった く同 おな じ構成 こうせい で、ほとんど同 おな じ印象 いんしょう を受 う ける
イギリスのゴシック建築 けんちく 、国民 こくみん 的 てき 様式 ようしき とされたのが、いわゆる垂直 すいちょく 式 しき である。イングランド南西 なんせい 部 ぶ とロンドン でほぼ同 どう 時期 じき に見 み られるため、どちらをその起原 きげん とするかについては議論 ぎろん がある。あえて直角 ちょっかく 的 てき 構成 こうせい を採用 さいよう するなど、大陸 たいりく のゴシック建築 けんちく の規範 きはん から隔 へだ たった概念 がいねん のもとに形成 けいせい されているのだが、特 とく にファン・ヴォールトを用 もち いる場合 ばあい は、天井 てんじょう を支 ささ えるのにヴォールトを必要 ひつよう としなかったという点 てん で、すでにゴシック建築 けんちく ですらない。
1298年 ねん に起工 きこう し、1341年 ねん に完成 かんせい したブリストル のセント・オーガスティン大 だい 聖堂 せいどう は、バシリカ型 がた ではなく、広間 ひろま 型 がた の平面 へいめん を持 も ち、側 がわ 廊 ろう と身 み 廊 ろう の高 たか さが同 おな じためクリアストーリが欠如 けつじょ している。従 したが って、内部 ないぶ 空間 くうかん は両者 りょうしゃ を鮮明 せんめい に区分 くぶん することはない。また、ブリストルの建築 けんちく 家 か たちは、ゴシック建築 けんちく 特有 とくゆう の構成 こうせい を驚 おどろ くほど自由 じゆう に操作 そうさ し、束 たば ね柱 ばしら をヴォールトにまで伸 の ばして、リブ・放射 ほうしゃ リブ・枝 えだ 状 じょう リブという三 さん 段階 だんかい のヴォールト架 か 構を用 もち いた。側 がわ 廊 ろう の荷重 かじゅう は、簡素 かんそ な方 ほう 杖 つえ によって横断 おうだん アーチに渡 わた されておりこれがトンネルのヴールトを形成 けいせい している。
荷重 かじゅう を方 かた 杖 つえ によって簡潔 かんけつ に伝達 でんたつ し、これに美的 びてき 効果 こうか をもたらしている最 もっと も印象 いんしょう 的 てき な例 れい は、ウェルズ の大 だい 聖堂 せいどう である。1338年 ねん に、交差 こうさ 廊 ろう の上部 じょうぶ に光 ひかり 塔 とう の建設 けんせつ が計画 けいかく されたが、この際 さい 、塔 とう の荷重 かじゅう を支 ささ えるため、交差 こうさ 廊 ろう と身 み 廊 ろう との間 あいだ に巨大 きょだい な方 ほう 杖 つえ が架 か けられた。その形 かたち の奇妙 きみょう さと大胆 だいたん さは、大変 たいへん 強 つよ い印象 いんしょう を与 あた える。
一方 いっぽう で、ヴォールトに対 たい する自由 じゆう な発想 はっそう は、グロスター の大 だい 聖堂 せいどう 回廊 かいろう などにも生 い かされている。グロスターの回廊 かいろう はファン・ヴォールト(扇形 せんけい ヴォールト)を用 もち いており、そこに交差 こうさ リブヴォールトに覆 おお われたゴシック建築 けんちく の典型 てんけい 的 てき な構成 こうせい を見 み ることは不可能 ふかのう である。垂直 すいちょく 様式 ようしき では、交差 こうさ リブヴォールトが全 まった く捨 す てられたわけではなかったが、多 おお くの場合 ばあい 、多数 たすう の辻 つじ 飾 かざ りが設 もう けられており、その印象 いんしょう は木々 きぎ の枝 えだ 張 ば りに例 たと えられたネット・ヴォールトと変 か わらないものとなった。垂直 すいちょく 式 しき のリブはヴォールト架 か 構とはもはやなんらの関係 かんけい 性 せい もなく、構造 こうぞう 的 てき 合理 ごうり 性 せい で説明 せつめい できるものではない。
垂直 すいちょく 式 しき における最高 さいこう 傑作 けっさく として名高 なだか いのが、ウェストミンスター寺院 じいん の東 ひがし 端 はし にあるヘンリー7世 せい 礼拝 れいはい 堂 どう である。壁面 へきめん を埋 う め尽 つ くす装飾 そうしょく は、ほとんど櫛 くし の目 め を見 み るようであり、また天井 てんじょう からは、鍾乳石 しょうにゅうせき を思 おも わせる石 いし 飾 かざ りが、幾 いく つも垂 た れ下 さ がっている。ここでは本来 ほんらい 、石造 せきぞう 建築 けんちく における力学 りきがく 的 てき な都合 つごう から誕生 たんじょう したヴォールトが、ほとんどその力学 りきがく を無視 むし するかのような装飾 そうしょく へと発展 はってん している。
神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく とポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく [ 編集 へんしゅう ]
クラクフ (ポーランド)、聖 せい マリアのバシリカ煉瓦 れんが 造 づくり ゴシック
クラクフ (ポーランド)、聖 せい マリアのバシリカの身 み 廊 ろう
神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく では、1230年 ねん 頃 ころ まで、特 とく に西方 せいほう 地域 ちいき でゴシック建築 けんちく への反抗 はんこう が根強 ねづよ く見 み られた。彼 かれ らはゴシック建築 けんちく に無 む 関心 かんしん というわけではなく、いくつかの教会堂 きょうかいどう ではゴシック建築 けんちく から採用 さいよう されたと思 おぼ しき装飾 そうしょく も見 み られるが、あくまで部分 ぶぶん 的 てき な採用 さいよう に止 と まり、構造 こうぞう 的 てき ・美術 びじゅつ 的 てき な原理 げんり としてゴシック建築 けんちく を全面 ぜんめん 的 てき に用 もち いるということがなかった。バーゼル の大 だい 聖堂 せいどう 、リンブルク・アン・デア・ラーン大 だい 聖堂 せいどう 、ボン の大 だい 聖堂 せいどう など、12世紀 せいき と13世紀 せいき 初頭 しょとう までのこのような傾向 けいこう を持 も つ建築 けんちく 物 ぶつ をトランジション・スタイル(移行 いこう 様式 ようしき )と呼 よ ぶこともある。
13世紀 せいき の中期 ちゅうき から後期 こうき にかけて、帝国 ていこく 内 ない でフランスのゴシック建築 けんちく が定着 ていちゃく することになったが、その伝播 でんぱ はいくつかの芸術 げいじゅつ の中心 ちゅうしん 地 ち からバラバラに広 ひろ がる傾向 けいこう にあったため、ゴシック建築 けんちく の発展 はってん 状 じょう 況 きょう は、帝国 ていこく の政治 せいじ 状況 じょうきょう と同 おな じく斑 むら 模様 もよう である。
いくつかの芸術 げいじゅつ 的中 てきちゅう 心地 ごこち を挙 あ げると、まず、ハンザ同盟 どうめい の市民 しみん によって競 きそ うように建 た てられた巨大 きょだい 建築 けんちく 物 ぶつ のひとつ、リューベック のマリーエンキルヘが挙 あ げられる。これは13世紀 せいき 末 まつ から14世紀 せいき 初頭 しょとう にかけて、バイエルン とプロイセン 、ポーランド 、デンマーク 、スウェーデン 、フィンランド などで、一般 いっぱん にバックスタイン・ゴーティック(煉瓦 れんが 造 づくり ゴシック、ブリック・ゴシック)と呼 よ ばれる建築 けんちく を広 ひろ めるきっかけとなった。構造 こうぞう として煉瓦 れんが を用 もち いているため、細 こま かい装飾 そうしょく は省 はぶ かれ、むしろ構造 こうぞう を率直 そっちょく に表現 ひょうげん する意匠 いしょう となっている。この様式 ようしき は北部 ほくぶ ドイツからポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく の領域 りょういき を中心 ちゅうしん として分布 ぶんぷ している。
1235年 ねん に身 み 廊 ろう の建設 けんせつ が着工 ちゃっこう されたストラスブール大 だい 聖堂 せいどう は、14世紀 せいき になっても依然 いぜん として帝国 ていこく 内 ない で最大 さいだい の建築 けんちく 工事 こうじ として続行 ぞっこう しており、これは15世紀 せいき 中期 ちゅうき にまで及 およ んだ。サン=ドニ大 だい 聖堂 せいどう とトロワ大 だい 聖堂 せいどう を規範 きはん とした身 み 廊 ろう を持 も つ大 だい 聖堂 せいどう の造営 ぞうえい 工事 こうじ は、14世紀 せいき 半 なか ばに技巧 ぎこう 的 てき には最盛 さいせい 期 き を迎 むか え、エスリンゲン のフラウエンキルヒェやウルム の大 だい 聖堂 せいどう など、アルザスやライン川 がわ 上流 じょうりゅう 部 ぶ に影響 えいきょう を与 あた えた。1400年代 ねんだい に建設 けんせつ されたストラスブールとウルムの西側 にしがわ 両 りょう 尖塔 せんとう に見 み られる独特 どくとく の形状 けいじょう は、その図像 ずぞう 芸術 げいじゅつ からヴァイヒャー・シュティル(Weicher Stil 、柔軟 じゅうなん 様式 ようしき )とも呼 よ ばれる。建築 けんちく 自体 じたい の影響 えいきょう 力 りょく は、地域 ちいき 的 てき には限定 げんてい されていたものの、建築 けんちく 組合 くみあい の影響 えいきょう は広 ひろ がりを持 も っていたらしく、1459年 ねん には、ウィーン 、ケルン 、ベルン 、プラハ などの大 だい 聖堂 せいどう の建築 けんちく 工事 こうじ が、ストラスブールの建築 けんちく 組合 くみあい によって管理 かんり されることが決定 けってい した。ただし、この決定 けってい が建築 けんちく の造営 ぞうえい にどの程度 ていど 影響 えいきょう を与 あた えたのかはあまり明確 めいかく ではない。
1248年 ねん に建設 けんせつ が開始 かいし されたケルン大 だい 聖堂 せいどう もストラスブールと比肩 ひけん しうる大 だい 規模 きぼ 工事 こうじ で、フランスのアミアン大 だい 聖堂 せいどう に依拠 いきょ し、装飾 そうしょく についてはフランスを凌駕 りょうが するほど壮麗 そうれい な部分 ぶぶん もある。この大 だい 聖堂 せいどう の影響 えいきょう はラインラント に限 かぎ られるが、オッペンハイム の大 だい 聖堂 せいどう 、バヒャラッハ のヴェルナーカペレなどの技巧 ぎこう 性 せい の高 たか い教会堂 きょうかいどう が残 のこ る。アーヘン大 だい 聖堂 せいどう 内陣 ないじん もまた、ケルン大 だい 聖堂 せいどう とパリのサント・シャペルの影響 えいきょう を受 う けたもので、カペッラ・ウィトレア(ガラスの祭 まつり 室 しつ )と呼 よ ばれる。
アッシジ のサン・フランチェスコ聖堂 せいどう 身 み 廊 ろう
シエーナ大 だい 聖堂 せいどう のファサード
イタリア半島 はんとう では、概 がい してゴシック建築 けんちく への反応 はんのう は冷淡 れいたん なものであったが、フランシスコ会 かい とドメニコ会 かい の活動 かつどう によって、13世紀 せいき 中期 ちゅうき から、北 きた 、および中央 ちゅうおう イタリアである程度 ていど 導入 どうにゅう されるようになった。
ゴシック建築 けんちく の影響 えいきょう を受 う けたイタリア最初 さいしょ の建築 けんちく 物 ぶつ は、1228年 ねん に起工 きこう されたアッシジのサン・フランチェスコ聖堂 せいどう である。ロマネスク建築 けんちく に見 み られる単 たん 廊 ろう 式 しき の平面 へいめん であるが、尖 とんが 頭 あたま リブ・ヴォールトとこれを支 ささ える束 たば ね柱 ばしら 、そして内部 ないぶ 空間 くうかん の一貫 いっかん 性 せい は、ゴシック建築 けんちく を取 と り入 い れた独創 どくそう 性 せい の高 たか いものとなっている。ただし、フランスのゴシック建築 けんちく のように、薄 うす い壁 かべ を形成 けいせい するための構造 こうぞう 的 てき な努力 どりょく はまったく見 み られず、また、フレスコ画 が を描 えが くために都合 つごう が良 よ いためと思 おも われるが、イングランドのような壁 かべ を彫 ほ り込 こ むような造形 ぞうけい への関心 かんしん も薄 うす い。従 したが って、サン・フランチェスコは、ゴシック建築 けんちく というよりも、ゴシック建築 けんちく の造形 ぞうけい を取 と り入 い れることによってロマネスク建築 けんちく の伝統 でんとう から脱却 だっきゃく した教会堂 きょうかいどう であると言 い える。
13世紀 せいき になっても、イタリアでは典型 てんけい 的 てき なゴシック建築 けんちく はめずらしい存在 そんざい であった。1230年 ねん 頃 ころ に着工 ちゃっこう されたパドヴァ のサンタントニオ大 だい 聖堂 せいどう はロマネスク建築 けんちく とビザンティン建築 けんちく の混成 こんせい 様式 ようしき であるし、1250年 ねん 頃 ころ に起工 きこう されたシエーナの大 だい 聖堂 せいどう などは、ファサードを除 のぞ くとほとんどロマネスク建築 けんちく のままである。オルヴィエートの大 だい 聖堂 せいどう も、ファサードは美 うつく しいゴシック芸術 げいじゅつ の作品 さくひん であるが、内部 ないぶ はシエーナと同 おな じロマネスク建築 けんちく である。
ただし、ゴシック建築 けんちく の空間 くうかん が全 まった く無視 むし されていたわけではない。13世紀 せいき イタリアでゴシック建築 けんちく とみなしうる教会堂 きょうかいどう がフィレンツェ に存在 そんざい する。ドメニコ会 かい が1279年 ねん に創建 そうけん したフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂 せいどう は、以後 いご トスカーナ地方 ちほう で建設 けんせつ されるゴシック建築 けんちく にきわめて大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく を持 も った教会堂 きょうかいどう 建築 けんちく であった。側 がわ 廊 ろう が高 たか いため小 ちい さな丸 まる いクリアストーリしかない身 み 廊 ろう は、装飾 そうしょく がほとんどなく、柱 はしら 間 あいだ が広 ひろ くとられているので、フランスのゴシック建築 けんちく に比 くら べてゆったりとして簡素 かんそ な印象 いんしょう である。
サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂 せいどう のようなゴシック建築 けんちく のスタイルは、以後 いご トスカーナのゴシック建築 けんちく に受 う け継 つ がれた。これは1300年 ねん 頃 ころ に設計 せっけい されたフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂 せいどう と、1294年 ねん に着工 ちゃっこう されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大 だい 聖堂 せいどう の身 み 廊 ろう を見 み れば明 あき らかである。サンタ・クローチェ聖堂 せいどう の造営 ぞうえい はフランチェスコ会 かい によるもので、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大 だい 聖堂 せいどう には規模 きぼ 的 てき にやや劣 おと るものの、北 きた ヨーロッパの大 だい 聖堂 せいどう に匹敵 ひってき する大 おお きさである。シトー会 かい の修道院 しゅうどういん 建築 けんちく から着想 ちゃくそう されたと思 おも われるデザインで、これを構想 こうそう したのはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大 だい 聖堂 せいどう と同 おな じくアルノルフォ・ディ・カンビオ であると考 かんが えられている。両 りょう 教会堂 きょうかいどう の簡素 かんそ で広々 ひろびろ とした空間 くうかん は、しばしばフランスのゴシック建築 けんちく の美意識 びいしき と対立 たいりつ するものとみなされ、ルネサンス建築 けんちく の先駆 さきが けとも評 ひょう される。1322年 ねん から開始 かいし されたシエーナ の大 だい 聖堂 せいどう 拡張 かくちょう 工事 こうじ も、完成 かんせい していれば、おそらくトスカーナのゴシック建築 けんちく の最良 さいりょう の作品 さくひん のひとつになったと考 かんが えられる。
北 きた イタリアでは、14世紀 せいき 初頭 しょとう まで宗教 しゅうきょう 建築 けんちく そのものがあまり重要 じゅうよう 性 せい を持 も たなかったが、ビザンティン建築 けんちく の伝統 でんとう から脱却 だっきゃく しつつあったヴェネツィア共和 きょうわ 国 こく では、他 た の北 きた イタリアに先駆 さきが けて、やはり修道 しゅうどう 会 かい によってゴシック建築 けんちく が導入 どうにゅう される。14世紀 せいき 初頭 しょとう に起工 きこう されたドミニコ会 かい のサンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂 せいどう と、フランシスコ会 かい により1330年 ねん 頃 ころ に起工 きこう されたサンタ・マリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ聖堂 せいどう が、その代表 だいひょう 的 てき な建築 けんちく 物 ぶつ である。
14世紀 せいき 後半 こうはん になると、北 きた イタリアでもようやく大 だい 規模 きぼ な宗教 しゅうきょう 建築 けんちく が建立 こんりゅう されるようになる。1387年 ねん には、イタリア・ゴシック建築 けんちく で最 もっと も有名 ゆうめい なミラノの大 だい 聖堂 せいどう の建設 けんせつ が始 はじ まった。この大 だい 聖堂 せいどう は、中世 ちゅうせい の建築 けんちく 物 ぶつ としては非常 ひじょう に珍 めずら しいことだが、設計 せっけい 過程 かてい から職人 しょくにん との詳細 しょうさい なやり取 と りまで、建設 けんせつ に関 かか わる綿密 めんみつ な記録 きろく が残 のこ っており、イタリアのみならず、フランス、ドイツでのゴシック建築 けんちく に対 たい する認識 にんしき を知 し ることができる。構造 こうぞう と美術 びじゅつ 的 てき な審議 しんぎ は1401年 ねん から始 はじ まり、パリから招 まね かれた審議 しんぎ 員 いん はフランス伝統 でんとう の古典 こてん ゴシックの形態 けいたい を、ドイツ人 じん の審議 しんぎ 員 いん は突 つ き抜 ぬ けるような垂直 すいちょく 性 せい の高 たか いプロポーションを、イタリアの審議 しんぎ 員 いん は幾何 きか 学 がく から導 みちび かれる幅 はば の広 ひろ いプロポーションを主張 しゅちょう したことが読 よ み取 と れる。結果 けっか 的 てき に、この大 だい 聖堂 せいどう はイタリア独自 どくじ のゴシック建築 けんちく というよりも、各国 かっこく のゴシック建築 けんちく の美意識 びいしき を取 と り入 い れた折衷 せっちゅう 的 てき 性格 せいかく の強 つよ いものとなっている。しかし、1858年 ねん まで延々 のびのび と工事 こうじ を行 おこな ってきたにもかかわらず、全体 ぜんたい としての完成 かんせい 度 ど はたいへん高 たか く、19世紀 せいき に追 つい 補 ほ されたファサード部分 ぶぶん もゴシック・リヴァイヴァルの最高 さいこう 傑作 けっさく として名高 なだか い。
イギリスのゴシック建築 けんちく
イギリスではゴシック建築 けんちく が12世紀 せいき 末 まつ から16世紀 せいき 中頃 なかごろ までと、ヨーロッパで最 もっと も長 なが く展開 てんかい した。さらにその伝統 でんとう は19世紀 せいき まで途絶 とだ えることなく、18、19世紀 せいき のゴシックの復興 ふっこう もそれに起因 きいん したといえる。ゴシックの特徴 とくちょう のひとつであるリブ・ヴォールトをイギリスはいち早 はや く採用 さいよう したが、本格 ほんかく 的 てき なゴシックはフランスからもたらされた。しかし高 たか さと垂直 すいちょく 性 せい を求 もと めたフランスとは異 こと なり、イギリスの志向 しこう はヴォールトなどの創 つく りだす豊穣 ほうじょう な空間 くうかん 性 せい にある。
イギリスでは、フランスの工匠 こうしょう サンスのウィリアムがカンタベリー大 だい 聖堂 せいどう の東端 ひがしばた 部 ぶ を盛期 せいき ゴシック様式 ようしき で建 た て、以後 いご 、この様式 ようしき がチチェスター、ウィンチェスターの大 だい 聖堂 せいどう の一部 いちぶ で採用 さいよう されたのち、ウェルズ大 だい 聖堂 せいどう 、リンカーン大 だい 聖堂 せいどう などでイギリス独特 どくとく の形式 けいしき を完成 かんせい した。すなわち、これらの大 だい 聖堂 せいどう は身 み 廊 ろう 部 ぶ が比較的 ひかくてき 長大 ちょうだい で水平 すいへい 性 せい が強 つよ く、東端 ひがしばた 部 ぶ がフランスの大 だい 聖堂 せいどう のように半円 はんえん 形 がた でなく直角 ちょっかく に切 き られ、西 にし 正面 しょうめん には装飾 そうしょく 的 てき な障壁 しょうへき を設 もう け、また修道院 しゅうどういん 起源 きげん のものが多 おお かったため、クロイスター(回廊 かいろう )と八 はち 角形 かくがた あるいは十 じゅう 角形 かくがた の参事 さんじ 会員 かいいん 堂 どう を備 そな えていた。こうしたイギリス独自 どくじ の様式 ようしき を「初期 しょき イギリス式 しき ゴシック」と呼 よ んでいる。
イギリスの大 だい 聖堂 せいどう の多 おお くは修道院 しゅうどういん に付属 ふぞく し街 まち なかから離 はな れて建 た ち、修道院 しゅうどういん や参事 さんじ 会 かい 会堂 かいどう などと複 ふく 合体 がったい をなしている。平面 へいめん はバシリカ形式 けいしき だが、幅 はば に対 たい して奥行 おくゆ きが大 おお きく、とくに内陣 ないじん 部分 ぶぶん が長 なが く取 と られる。時期 じき 的 てき な変化 へんか は、ヴォールトと狭間 はざま 飾 かざ りによく示 しめ されている。通常 つうじょう 、その発展 はってん は初期 しょき イギリス式 しき 、装飾 そうしょく 式 しき 、垂直 すいちょく 式 しき 、テューダー式 しき の4期 き にわけられるが、ひとつの時期 じき で完成 かんせい された例 れい は少 すく ない。
ハンマー・ビーム・トラス(hammer beam truss)[ 編集 へんしゅう ]
イギリスの中世 ちゅうせい 建築 けんちく の小屋 こや 組 ぐみ の一 ひと つで、壁 かべ の上端 じょうたん 部 ぶ から突 つ き出 だ した片 かた 持 も ち梁 はり (ハンマー・ビーム)とアーチで構造 こうぞう 体 たい をつくり、横 よこ 架 か 材 ざい を省略 しょうりゃく して小屋組 こやぐ みそのものを必要 ひつよう としない構造 こうぞう 。[ 3]
一般 いっぱん にゴシック芸術 げいじゅつ と呼 よ ばれているものに一貫 いっかん して用 もち いられる形態 けいたい 的 てき 、図像 ずぞう 学 がく 的 てき な特徴 とくちょう はなく、実際 じっさい にはゴシックとは、芸術 げいじゅつ 史家 しか たちによって慣習 かんしゅう 的 てき に使用 しよう される概念 がいねん である。今日 きょう においても、ゴシック建築 けんちく の定義 ていぎ づけが行 おこな われているが、その議論 ぎろん は多角 たかく 的 てき かつ複雑 ふくざつ である。
客観 きゃっかん 的 てき な特徴 とくちょう は内部 ないぶ 的 てき な高 たか さと細 ほそ さの誇張 こちょう にある。必要 ひつよう 以上 いじょう に細 ほそ い柱 はしら 、石造 せきぞう 天井 てんじょう 、およびそれらを為 な し得 え る構造 こうぞう 的 てき 特徴 とくちょう 、具体 ぐたい 的 てき には交差 こうさ リブヴォールトとヴォールトの横 よこ への応力 おうりょく を支持 しじ するための側壁 そくへき または控 ひかえ 壁 かべ (バットレス )となる。これらはそれぞれ東方 とうほう に起原 きげん を持 も っている。尖 とんが 頭 あたま アーチはサーサーン朝 あさ ペルシャ 帝国 ていこく において既 すで に用 もち いられており、控 ひかえ 壁 かべ はビザンティン建築 けんちく において主要 しゅよう 構造 こうぞう として見 み られている。ゴシック建築 けんちく に特有 とくゆう とされる特徴 とくちょう にはほとんどの場合 ばあい 独自 どくじ に発明 はつめい されたものはなく、それぞれを組 く み合 あ わせた独自 どくじ の美的 びてき 感覚 かんかく や空間 くうかん 性 せい にある。
ゴシック建築 けんちく の技術 ぎじゅつ 的 てき な特徴 とくちょう は、11世紀 せいき に導入 どうにゅう された尖 とんが 頭 あたま アーチ、およびこれを構成 こうせい する交差 こうさ リブヴォールトである。ロマネスク建築 けんちく において用 もち いられた交差 こうさ ヴォールトは、壁 かべ のうち四 よん 支点 してん に荷重 かじゅう を架 か ける構造 こうぞう になっている。この場合 ばあい 、構造 こうぞう を安定 あんてい させるためには、そのベイを正方形 せいほうけい にしなければならなかった。長方形 ちょうほうけい 平面 へいめん にヴォールトを架 か ける場合 ばあい 、各 かく 辺 あたり 上 じょう と対角線 たいかくせん 上 じょう のヴォールトは、それぞれ異 こと なった半径 はんけい を持 も ち、かつ対角線 たいかくせん 上 じょう にあるヴォールトは、かなり潰 つぶ れたものにならなければならない。これは構造 こうぞう 上 じょう たいへん危険 きけん である。
ゴシック建築 けんちく では、ベイに架 か けるアーチを尖 とんが 頭 あたま 型 がた にすることによって、水平 すいへい 方向 ほうこう にはたらく荷重 かじゅう を軽減 けいげん し、長方形 ちょうほうけい のベイに対 たい しては、単 たん に角度 かくど の異 こと なったアーチを架 か ければよいだけになった。また、これによって非常 ひじょう に高 たか いヴォールトを架 か けることが可能 かのう になり、その高 たか さは、ラン大 だい 聖堂 せいどう で24m、パリのノートル・ダム大 だい 聖堂 せいどう で35m、シャルトル大 だい 聖堂 せいどう 36.55m、ランス大 だい 聖堂 せいどう 37.95m、アミアン大 だい 聖堂 せいどう では42.3mとなる。
アーチに付加 ふか されているリブは、ヴォールトを造営 ぞうえい の際 さい に重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たしている。建設 けんせつ では、まずベイに対 たい して横断 おうだん アーチとリブが架 か けられるが、これは簡素 かんそ な仮 かり 枠 わく による支持 しじ で済 す む。天井 てんじょう 面 めん (セル)の造成 ぞうせい は、すでに造 つく られたリブに仮 かり 枠 わく を取 と り付 つ けて塗 ぬ り込 こ むだけなので、非常 ひじょう に経済 けいざい 的 てき である。
この工法 こうほう では、あたかもリブとセルが独立 どくりつ しているように考 かんが えられるため、19世紀 せいき のゴシック・リヴァイヴァル の際 さい には、ヴィオレ・ル・デュク がリブを独立 どくりつ した構造 こうぞう 体 たい とみなし、ゴシック建築 けんちく を構造 こうぞう 露出 ろしゅつ 型 がた の正直 しょうじき な建築 けんちく であると評価 ひょうか した。ただし、戦時 せんじ 中 ちゅう に爆 ばく 撃 げき を受 う けたゴシック教会 きょうかい で、リブが破壊 はかい された場合 ばあい でもセルが単独 たんどく で持 も ちこたえていた例 れい があるため、今日 きょう では、リブは構造 こうぞう 的 てき な解決 かいけつ 策 さく というよりも、むしろ天井 てんじょう を軽 かる く見 み せるという意匠 いしょう 的 てき な意図 いと のほうが重要 じゅうよう であると考 かんが えられている。
ゴシック建築 けんちく の達成 たっせい は、中世 ちゅうせい スコラ哲学 すこらてつがく の理念 りねん 、つまり神 かみ を中心 ちゅうしん とした秩序 ちつじょ を反映 はんえい したことにあると言 い える。中世 ちゅうせい の人々 ひとびと にとっては事物 じぶつ の全 すべ てに象徴 しょうちょう 的 てき な意味 いみ があり、故 ゆえ に、ゴシック教会 きょうかい を彩 いろど る様々 さまざま な装飾 そうしょく は、聖職 せいしょく 者 しゃ たちの世界 せかい に対 たい する理解 りかい そのものであった。彼 かれ らは、美 び を神 かみ の創造 そうぞう と同義 どうぎ であると考 かんが え、教会 きょうかい を装飾 そうしょく することを神 かみ への奉仕 ほうし と捉 とら えていた。従 したが って、扉 とびら 口 こう のマリア像 ぞう や聖 せい ペテロ像 ぞう 、聖 せい ニコラウス像 ぞう 、ステンドグラス に画 えが かれたキリストの生涯 しょうがい といったものは、決 けっ して現代 げんだい 人 じん の意味 いみ するところの「装飾 そうしょく 」などではなく、石 いし に刻 きざ まれた中世 ちゅうせい 精神 せいしん の表象 ひょうしょう なのである。
アミアン大 だい 聖堂 せいどう
アンジェ大 だい 聖堂 せいどう
バイユー大 だい 聖堂 せいどう
シャルトル大 だい 聖堂 せいどう
クータンセ大 だい 聖堂 せいどう
ル・マン大 だい 聖堂 せいどう
ランス大 だい 聖堂 せいどう
ソワソン大 だい 聖堂 せいどう
フランスと並 なら びゴシック建築 けんちく が栄 さか えた。
長 なが らくロマネスク様式 ようしき の名残 なごり を残 のこ し、小 ちい さめの窓 まど と簡素 かんそ な装飾 そうしょく のものが多 おお い。また西部 せいぶ ではフランスの影響 えいきょう が大 おお きい。
イタリアではゴシックはあまり受容 じゅよう されなかった。
^ ロマネスク建築 けんちく の教会堂 きょうかいどう で用 もち いられる立 だて 面 めん の構成 こうせい は、身 み 廊 ろう と側 がわ 廊 ろう を柱 はしら などで分 わ ける際 さい に、その柱 はしら を円柱 えんちゅう -角柱 かくちゅう -円柱 えんちゅう 、あるいは円柱 えんちゅう -円柱 えんちゅう -角柱 かくちゅう -円柱 えんちゅう -円柱 えんちゅう と配置 はいち するなどにより、強弱 きょうじゃく を繰 く り返 かえ すパターンとなる。サンス大 だい 聖堂 せいどう では、円柱 えんちゅう -束 たば ね柱 ばしら -円柱 えんちゅう 束 たば ね柱 ばしら を繰 く り返 かえ す。
^ 現在 げんざい では円形 えんけい 窓 まど は失 うしな われ、巨大 きょだい なクリアストーリになっている。
^ 戸谷 とたに 英世 ひでよ ・竹山 たけやま 清明 きよあき 『建築 けんちく 物 ぶつ ・様式 ようしき ビジュアルハンドブック』株式会社 かぶしきがいしゃ エクスナレッジ、2009年 ねん 、154頁 ぺーじ 。
ルイ・グロテッキ著 ちょ ・前川 まえかわ 道郎 みちお 黒岩 くろいわ 俊介 しゅんすけ 訳 やく 『図説 ずせつ 世界 せかい 建築 けんちく 史 し ゴシック建築 けんちく 』(本 ほん の友 とも 社 しゃ )
ニコラス・ペヴスナー著 ちょ ・鈴木 すずき 博之 ひろゆき 訳 わけ 『世界 せかい 建築 けんちく 辞典 じてん 』(鹿島 かしま 出版 しゅっぱん 会 かい )
桐 きり 敷 じき 真 ま 次郎 じろう 著 ちょ 『建築 けんちく 学 がく の基礎 きそ 3 西洋 せいよう 建築 けんちく 史 し 』
長尾 ながお 重 しげる 武 たけし /星 ほし 和彦 かずひこ 編著 へんちょ 『ビジュアル版 ばん 西洋 せいよう 建築 けんちく 史 し デザインとスタイル』(丸善 まるぜん 株式会社 かぶしきがいしゃ )
ウィキメディア・コモンズには、
ゴシック建築 けんちく に
関連 かんれん する
メディア および
カテゴリ があります。
古代 こだい 中 ちゅう 近世 きんせい 地域 ちいき 別 べつ
日本 にっぽん 古代 こだい 中 ちゅう 近世 きんせい
屋根 やね 近 きん 現代 げんだい
近 きん 現代 げんだい