ビザンティン建築けんちく

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ビザンティン建築けんちく(ビザンティンけんちく、英語えいご: Byzantine Architecture)は、ひがしマ帝国まていこく(ビザンツ帝国ていこく、ビザンティン帝国ていこく)の勢力せいりょくしたおこった建築けんちく様式ようしきである。5、6世紀せいきころから、コンスタンティノープル旧称きゅうしょうビュザンティオン)を中心ちゅうしんおこった。特色とくしょく正方形せいほうけいまたはギリシャ十字形じゅうじがた平面へいめん、ドーム、金地きんじ華麗かれいなモザイク、大理石だいりせきちょうせきなどである。日本語にほんごではビザンツ建築けんちくばれる場合ばあいもある。

4世紀せいきごろには帝国ていこく特恵とっけい宗教しゅうきょうであるキリスト教きりすときょう儀礼ぎれい空間くうかん形成けいせいし、そのいくつかは大幅おおはば補修ほしゅうけているものの、今日きょうにおいても正教会せいきょうかい聖堂せいどう、あるいはイスラム教いすらむきょうモスクとして利用りようされている。

ローマ建築けんちく円熟えんじゅくすぐれた工学こうがく技術ぎじゅつ継承けいしょうし、はや段階だんかい技術ぎじゅつてき成熟せいじゅくたっするが、そのひがしマ帝国まていこく国力こくりょく衰退すいたい隆盛りゅうせいによる影響えいきょうはあるものの、発展はってんすることも急速きゅうそく衰退すいたいすることもなく存続そんぞくした。

キリスト教きりすときょう布教ふきょう活動かつどうとともに、ブルガリアセルビアなどの東欧とうおうひがしマ帝国まていこく勢力せいりょくけんのみならずロシアあるいはアルメニアジョージアなど西にしアジアにも浸透しんとうしていった。その影響えいきょうりょくゆるやかなもので、地域ちいき工法こうほう技術ぎじゅつ融合ゆうごうしながら独自どくじ様式ようしき発展はってんさせた。また、初期しょきイスラーム建築けんちくにも影響えいきょうあたえている。

イスタンブールハギア・ソフィアだい聖堂せいどう 周囲しゅういの4ほんミナレットオスマン帝国ていこく時代じだいモスク転用てんようされたさいくわえられたもの。

概要がいよう

アギオス・ディミトリオス聖堂せいどう(テッサロニキ)初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくにおけるバシリカしき教会堂きょうかいどう
ハギア・ソフィアだい聖堂せいどう
ローマの建築けんちく技術ぎじゅつ結集けっしゅうした初期しょきビザンティン建築けんちく傑作けっさく。バシリカとドームの融合ゆうごうした教会堂きょうかいどう
オシオス・ルカス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう
中期ちゅうきビザンティン建築けんちくのスクィンチしきふくごうがた教会堂きょうかいどう

ビザンティン建築けんちくたん時代じだい区分くぶんとしてとらえた場合ばあいコンスタンティヌス大帝たいてい330ねん首都しゅとビザンティウム(のちコンスタンティノポリス)に移転いてんしたときから、1453ねんオスマン帝国ていこくによるマ帝国まていこく滅亡めつぼうまでのほぼ1100年間ねんかんにもおよ時代じだいしているが、「ひがしマ帝国まていこく」「ビザンツ(ビザンティン)帝国ていこく」といった呼称こしょうが、現代げんだい歴史れきし編集へんしゅうによって、東方とうほう世界せかい継承けいしょうされたマ帝国まていこく便宜上べんぎじょう区分くぶんしているだけであるのと同様どうように、ビザンティン建築けんちくについても、4世紀せいき時点じてんローマ建築けんちくとの様式ようしきてき工学こうがくてき転換てんかんてん明確めいかく存在そんざいするわけではない。

4世紀せいきから5世紀せいきにかけて、マ帝国まていこくでは国教こっきょうとなったキリスト教きりすときょう礼拝れいはい空間くうかん形成けいせいされ、今日きょう、これはとく初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくばれている。キリスト教徒きりすときょうと教会堂きょうかいどう建設けんせつするにあたって、ローマの世俗せぞく建築けんちくであるバシリカ採用さいようしたが、ユスティニアヌスみかど君臨くんりんした6世紀せいきに、宗教しゅうきょう空間くうかんとしてより象徴しょうちょうせいたかドームれた儀礼ぎれい空間くうかん創造そうぞうした。ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうはその嚆矢こうしであり、バシリカとドームを融合ゆうごうしたキリスト教きりすときょう礼拝れいはい空間くうかんはそれまでにないまったくあたらしい形態けいたいであった。これは、マ帝国まていこくからがれた高度こうど建築けんちく技術ぎじゅつによって完成かんせいしたものであり、初期しょきビザンティン建築けんちく傑作けっさくであるとともに、ローマ建築けんちく技術ぎじゅつてき最終さいしゅう到達とうたつてんであるといえる[1]

しかし、イスラム帝国ていこく民族みんぞく侵入しんにゅうによる国土こくど縮小しゅくしょう帝国ていこく政治せいじ機構きこう転換てんかんともなってビザンティン建築けんちく変容へんようし、やがて初期しょきビザンティン建築けんちくとはことなった特有とくゆう建築けんちく形態けいたい獲得かくとくするにいたった。初期しょきのビザンティン建築けんちく勢力せいりょくりめぐらされた建築けんちく材料ざいりょう流通りゅうつう経路けいろ建設けんせつのための高度こうど施工しこう技術ぎじゅつから、ローマの建築けんちく末期まっきローマ建築けんちく)でもあるといえる[2]のにたいし、7世紀せいきから9世紀せいきにかけてのひがしマ帝国まていこくは、古代こだい世界せかいとはことなった状況じょうきょうむかえているため[注釈ちゅうしゃく 1]、この暗黒あんこく時代じだいをビザンティン建築けんちくのひとつの分岐ぶんきてんとする指摘してきもある[3]

中期ちゅうき以降いこうひがしマ帝国まていこく地中海ちちゅうかい貿易ぼうえき優位ゆういせいうしない、唯一ゆいいつ大都市だいとしコンスタンティノポリスようする農業のうぎょうこくとなったため、初期しょき建築けんちくとは必然ひつぜんてきことなる様相ようそうせる。11世紀せいき初頭しょとうには皇帝こうていバシレイオス2せいもとひがしマ帝国まていこく最盛さいせいむかえるが、巨大きょだい公共こうきょう建築けんちくぶつ必要ひつようとされなくなり、建設けんせつ主流しゅりゅう貴族きぞく有力ゆうりょくしゃ個人こじん礼拝れいはいのための施設しせつけられた。これは9世紀せいきまでつづいたひじりぞう破壊はかい運動うんどう修道院しゅうどういん独立どくりつうながし、修道院しゅうどういん建設けんせつ移転いてん譲渡じょうと裕福ゆうふく寄進きしんしゃによっておこなわれるカリスティキアばれる制度せいど形成けいせいされたことによる。多数たすう人員じんいん収容しゅうようする必要ひつようがなくなったため、教会堂きょうかいどう小型こがたし、その結果けっか、それまでのバシリカは放逐ほうちくされ、内接ないせつじゅうがたとよばれるドームをいただ中小ちゅうしょう規模きぼ教会堂きょうかいどう建築けんちく主流しゅりゅうとなった。

9世紀せいきから13世紀せいきまでの中期ちゅうきビザンティン建築けんちくには、ほとんど変化へんかられなかったが[注釈ちゅうしゃく 2]十字軍じゅうじぐん侵略しんりゃくによる国家こっか分裂ぶんれつ西にしヨーロッパの宮廷きゅうていとのつながりなどにより、帝国ていこく末期まっき建築けんちくには多様たようせいられるようになった。帝国ていこく在留ざいりゅうする西欧せいおうじん自国じこく建築けんちく移植いしょくしたため、末期まっきビザンティン建築けんちくにはロマネスク建築けんちくゴシック建築けんちく影響えいきょうけたものも散見さんけんされるが、その発展はってん帝国ていこく滅亡めつぼうとともに途絶とだえ、東欧とうおう諸国しょこく建築けんちくにその影響えいきょうのこすのみとなった。

ひがしマ帝国まていこくでは、住宅じゅうたく宮殿きゅうでん貯水ちょすいそう要塞ようさい橋梁きょうりょう慈善じぜん施設しせつなどの建造けんぞうぶつつくられたことが豊富ほうふ文献ぶんけんよりあきらかであるが、こうした中期ちゅうき以降いこう世俗せぞく建築けんちくはほとんどのこっていない。また、ひがしマ帝国まていこく文書ぶんしょ細部さいぶ説明せつめい不明瞭ふめいりょうで、日常にちじょう生活せいかつについての記述きじゅつがほとんどないため、ビザンティン建築けんちく実情じつじょうをはっきりと説明せつめいできる建築けんちくぶつ残存ざんそんする教会堂きょうかいどう建築けんちくかぎられる。しかし、ひがしマ帝国まていこく人々ひとびと教会きょうかい建築けんちくしかつくらなかったわけではない。

歴史れきし

初期しょきビザンティン建築けんちく

4世紀せいきから6世紀せいきまでの初期しょきビザンティン建築けんちくは、末期まっきローマ建築けんちく要素ようそ初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちく混在こんざいしているが、両者りょうしゃ明確めいかく区別くべつはほとんど不可能ふかのうである。また、この時代じだい宮殿きゅうでん住居じゅうきょなどの世俗せぞく建築けんちく図版ずはん文献ぶんけんふくめてあまりのこっておらず、これについての記述きじゅつ今後こんご発掘はっくつ研究けんきゅうたねばならない。一方いっぽうで、今日きょう初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくばれる建築けんちくぐんについては、原型げんけいのままのこっているものはないものの、文献ぶんけん遺構いこう調査ちょうさによってその全貌ぜんぼうられている。

初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちく

サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどう
典型てんけいてきなバシリカ平面へいめん教会堂きょうかいどう内部ないぶこうまどのあるろうとそれよりひくがわろうからなる。

黎明れいめいキリスト教きりすときょう美術びじゅつたいして敵対てきたいてき独自どくじ宗教しゅうきょう美術びじゅつたず、文献ぶんけんなどから宗教しゅうきょう行事ぎょうじ比較的ひかくてきおおきな個人こじん邸宅ていたく借用しゃくようしていたとかんがえられている。しかし、布教ふきょう地域ちいき拡大かくだいするにつれて宗教しゅうきょう美術びじゅつ発展はってんはじめ、4世紀せいき前半ぜんはんにはローマのかみ々をまつ異教いきょう礼拝れいはいどうおもわせないバシリカ採用さいようすることで礼拝れいはい空間くうかん確立かくりつした。

ローマ建築けんちくにおけるバシリカはそもそも礼拝れいはい目的もくてきとした建築けんちくではなかったが、キリストきょう宗教しゅうきょう儀礼ぎれい一般いっぱん信徒しんと司祭しさい参加さんかする集会しゅうかいてき形態けいたいであったため、宗教しゅうきょう空間くうかんとしては有効ゆうこう機能きのうしたと推察すいさつされている[5]。ただし、これはキリスト教きりすときょう独自どくじ活動かつどうではなく、ユダヤきょうミトラきょう同様どうようで、ロンドンクイーン・ヴィクトリア・ストリート英語えいごばん存在そんざいするミトラきょう寺院じいん2世紀せいきごろ)の遺構いこうなどもバシリカしき神殿しんでんであることがられている。

初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくとしては、ローマはじめて建設けんせつされたローマ司教しきょう教会堂きょうかいどうであるコンスタンティヌスのバシリカ[注釈ちゅうしゃく 3]や、 450ねんごろにコンスタンティノポリス建設けんせつされたストゥディオス修道院しゅうどういん英語えいごばんのアギオス・ヨアンニス聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 4]どう時代じだいテッサロニキ建設けんせつされたアギイ・アヒロピイトス聖堂せいどうラヴェンナ550ねんごろけんされたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどうエルサレムせい墳墓ふんぼ聖堂せいどうなどがげられる[注釈ちゅうしゃく 5]。これらはすべてバシリカである[注釈ちゅうしゃく 6]。バシリカはキリスト教きりすときょう儀礼ぎれい空間くうかんとしての必要ひつようせいから採用さいようされたというよりも、むしろ建設けんせつ容易ようい比較的ひかくてき自由じゆうおおきさをめることができ、装飾そうしょくによって神聖しんせい空間くうかんやすく、儀礼ぎれい空間くうかんとして融通ゆうずうくという実際じっさいてき理由りゆうから大量たいりょう生産せいさんされたとかんがえられている[6]

サン・ヴィターレ聖堂せいどう
せいウィタリスの礼拝れいはいどう八角はっかくがた集中しゅうちゅうしき平面へいめんった教会堂きょうかいどうのひとつ。
シリアカラート・セマーン建築けんちくぐん
十字じゅうじがたふくあい建築けんちくぶつ中央ちゅうおうはち角形かくがた中庭なかにわとうとうしゃせいシメオンはしらがあった。

初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくとして特筆とくひつすべきもうひとつの重要じゅうよう建築けんちくは、聖地せいち殉教者じゅんきょうしゃ記念きねんとして建設けんせつされたマルティリウム(記念きねん礼拝れいはいどう)である。324ねんごろに建設けんせつされたローマのサン・ピエトロだい聖堂せいどうは、典礼てんれいおこなうための教会堂きょうかいどうではなく、ペテロ墓所はかしょ参拝さんぱいするための記念きねん礼拝れいはいどうとして建設けんせつされた。333ねんごろに起工きこうされたベツレヘムせい降誕こうたん教会きょうかいや、キリストが弟子でしたちに説法せっぽうおこなったとされる洞窟どうくつ収容しゅうようしたエレオナ教会きょうかい礼拝れいはいどう、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂せいどう5世紀せいき中期ちゅうき建設けんせつされたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂せいどうなどの建築けんちくはすべてマルティリウムであるが、崇拝すうはい対象たいしょうぶつ敷地しきち形状けいじょうしたがわなければならなかったため、バシリカ、八角やすみどう十字じゅうじがたなど、さまざまな形式けいしきつくられた。また、そのおおくは修道院しゅうどういん付属ふぞく教会堂きょうかいどうなど、徐々じょじょにさまざまな用途ようと建築けんちくしされ、だい規模きぼふくあい建築けんちくぶつとなった。5世紀せいき初期しょき建設けんせつされたとうとうしゃせいシメオン崇敬すうけいするための宗教しゅうきょう施設しせつであるカラート・セマーン建築けんちくぐんや、ルザファ建築けんちくぐん、ゲラサ建築けんちくぐんなどは、その好例こうれいである。

このようなマルティリウムの建設けんせつは、聖地せいちへの巡礼じゅんれい運動うんどう密接みっせつ関係かんけいがある。6世紀せいき末期まっきまで、コンスタンティノポリスからシリアにいたひがし地中海ちちゅうかい沿岸えんがんでは活発かっぱつ交易こうえきおこなわれており、港湾こうわん都市とし貿易ぼうえきによってにぎわった。これらの都市とし経由けいゆする聖地せいちへの巡礼じゅんれい大々的だいだいてきおこなわれており、ひとかね大動脈だいどうみゃく形成けいせいされていた。このため、沿岸えんがん港湾こうわん都市としには聖堂せいどう都市とし遺跡いせき数多かずおおのこる。エフェソスハリカルナッソスげんボドルム)のほか、日本にっぽん調査ちょうさたい発掘はっくつしたリキア地方ちほうゲミレルとうアンティオケイアなどに、その痕跡こんせきることができる。

アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大きょだい宗教しゅうきょう施設しせつは、5世紀せいきまつから急速きゅうそく繁栄はんえいしたきたシリアの経済けいざい発展はってんがもたらしたものであるが、5世紀せいきまつから6世紀せいき初頭しょとうキリスト教きりすときょう建築けんちくは、地域ちいき独自どくじせいというものも見過みすごすことのできないおおきな潮流ちょうりゅうとなっていた。これは地域ちいき経済けいざい活動かつどう修道院しゅうどういん主義しゅぎむすびつきや、帝国ていこく地政学ちせいがくてき要因よういん、あるいは神学しんがく論争ろんそう関連かんれんする(くわしくはキリスト教きりすときょう歴史れきし参照さんしょう)。とくに、へだたりをおおきくしたキリスト教きりすときょう各派かくは神学しんがく論争ろんそう地域ちいきせいふか影響えいきょうあたえており、カラート・セマーンのように皇帝こうてい経済けいざい援助えんじょける修道院しゅうどういんべつとして、この当時とうじシリアエジプト教会きょうかい建築けんちくはコンスタンティノポリスの影響えいきょうをほとんどけることがなかった。このような建築けんちくてき特徴とくちょうは、異端いたんとされたたんせいろん教会きょうかい活動かつどうと、シリアコプト成立せいりつとともに、民族みんぞく主義しゅぎてき傾向けいこう一端いったんとしてしばしば参照さんしょうされる[7]

ユスティニアヌスみかど時代じだい建設けんせつ事業じぎょう

ハギア・ソフィアだい聖堂せいどう
ドームをいただ集中しゅうちゅうしき平面へいめんがわろうつバシリカ平面へいめん融合ゆうごうプランをつ。キリストきょう礼拝れいはい空間くうかん転換てんかんてんとなったことでも重要じゅうよう建築けんちくぶつ
ハギア・エイレーネー聖堂せいどう
円蓋えんがいしきバシリカ平面へいめん教会堂きょうかいどう。ユスティニアヌスみかど時代じだい形成けいせいされた形態けいたいのひとつ。

553ねんからはじまるユスティニアヌスみかど時代じだいは、初期しょきビザンティン建築けんちく胚胎はいたいでありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィアだい聖堂せいどう、その先駆せんくてき建築けんちくつたえられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 7]、アギオス・ポリエウクトス聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 8]といった偉大いだいキリスト教きりすときょう建築けんちくぶつ建設けんせつされた。これら首都しゅと教会堂きょうかいどうは、皇帝こうていによる事業じぎょうという境遇きょうぐうや、そのおおきさからいって各地かくち安易あんい模倣もほうされるものではなく、プランについても当時とうじとしてはかなり大胆だいたんなもので、当時とうじのビザンティン建築けんちく一般いっぱんかいべるものではない。各地かくちでは、やはりバシリカがた教会堂きょうかいどう継続けいぞくして建設けんせつされつづけていた。しかし、ユスティニアヌスの時代じだい建設けんせつされた教会堂きょうかいどうには、以下いかげるような、のちにビザンティン建築けんちくでは一般いっぱんてきとなる特徴とくちょうみとめられる。

複雑ふくざつくみせき構造こうぞうのため、独立どくりつばしら水平すいへいはり衰退すいたいした。
ひがしマ帝国まていこくはギリシア世界せかいであったが、ギリシア建築けんちく由来ゆらい独立どくりつばしら水平すいへいはり構造こうぞうてき意味いみうしない、水平すいへいはりは6世紀せいきまつにまったく消滅しょうめつし、独立どくりつばしら副次的ふくじてき要素ようそでしかなくなった。コリントしきイオニアしき柱頭ちゅうとうもインポスト柱頭ちゅうとうにとってわられた。
バシリカとドームを融合ゆうごうするプランが形成けいせいされた。
ユスティニアヌスの時代じだいには首都しゅとかぎられた事象じしょうであるが、ドームをいただ集中しゅうちゅうがた教会堂きょうかいどうとバシリカがた教会堂きょうかいどうわせた円蓋えんがいしきバシリカ(ドーム・バシリカ)とばれる形式けいしき教会堂きょうかいどう建設けんせつされた。ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうもそのこころみのひとつで、より小型こがたのものでは皇帝こうてい宮殿きゅうでんがわ建設けんせつされたハギア・エイレーネー聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 9]がある。

ユスティニアヌスの時代じだいは、ベリサリウスつかえた歴史れきしプロコピオス著作ちょさくから、初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちく以外いがい世俗せぞく建築けんちくについての情報じょうほうられている。これによると、ユスティニアヌスの建築けんちくたいする主眼しゅがんは、あらゆる意味いみでの国家こっか防衛ぼうえい政策せいさくにあり、アナスタシウス1せいからいだ国境こっきょうせん防壁ぼうへき補強ほきょう事業じぎょうそそがれているというてん指摘してきされている[8]。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁じょうへきによって十分じゅうぶん拡張かくちょうされていたが、ユスティニアヌスは国境こっきょう防衛ぼうえいはかるため、地方ちほう都市とし城壁じょうへき首都しゅとならって増強ぞうきょうした。ユスティアナ・プリマ(げんツァリチン・グラード)やセルギオポリス(げんルザファ)、ゼノビア、アインタプ(げんガズィアンテプ)といった市街しがいには難攻不落なんこうふらく城塞じょうさい建設けんせつされ、意図いとてき破壊はかいされていないものは、現在げんざいでもその姿すがたにすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイさんえるしば記念きねんして建設けんせつされたハギア・エカテリニ修道院しゅうどういんも、帝国ていこく民族みんぞく侵入しんにゅうふせぐための防衛ぼうえい屯所とんしょであり、防壁ぼうへきかこまれた武装ぶそう修道院しゅうどういんとして設立せつりつされた。

システルナ・バシリカ
観光かんこう名所めいしょとなっている地下ちか貯水ちょすいそう天井てんじょうささえるはしらながさも様式ようしきもまちまちである。

ひがしマ帝国まていこく給水きゅうすい設備せつびについてはあまりよくかっていないが、ユスティニアヌスの時代じだいに2つのだい貯水ちょすいそうつくられたことがられている。ひとつは今日きょう地下ちか宮殿きゅうでん(イェレバタン・サラユ)とばれる138メートル×65メートルにもおよシステルナ・バシリカで、1れつ12ほんれつばしらを28れつそなえたものである。はしらはアカンサス柱頭ちゅうとうそなえた一見いっけん豪華ごうかなものもあるが、これは5世紀せいき流行りゅうこうしたかたで、当時とうじ石工せっこうっていた在庫ざいこひん処分しょぶんしたものであるとの見方みかた有力ゆうりょくである。もうひとつは、せん一本いっぽん円柱えんちゅう宮殿きゅうでん(ビンビルディレク)とばれるフィロクセノス貯水ちょすいそうである。こちらはインポスト柱頭ちゅうとうもちいた64メートル×56メートル貯槽であるが、構造こうぞうは2ほん円柱えんちゅう上下じょうげ連結れんけつした大胆だいたんなもので、天井てんじょうからゆかまでのたかさは15メートルにもたっする。このような危険きけん構造こうぞう採用さいようしたのは、15メートルちかはしら調達ちょうたつするよりもコストと手間てまはぶけるからである。

ユスティニアヌス時代じだい建築けんちくはビザンティン建築けんちくはじまりであるとともに、世界せかい帝国ていこくローマの、そしてローマ建築けんちく技術ぎじゅつてき可能かのうせい最終さいしゅう局面きょくめんであるといえる。以後いごのビザンティン建築けんちくは、この時代じだい技術ぎじゅつ革新かくしんによってもたらされた要素ようそ継承けいしょうしていくが、工学こうがくてきめんにおいて、これを発展はってんさせていくことはなかった。

暗黒あんこく時代じだい

テッサロニキのハギア・ソフィア聖堂せいどう
6世紀せいきから9世紀せいき過渡かと建築けんちくである円蓋えんがいしきバシリカ。
アルメニア・ズヴァルトノッツ教会堂きょうかいどう
外壁がいへき円筒えんとうがたであるがその内部ないぶ四葉よつばがた内陣ないじんがある特殊とくしゅ形式けいしき教会堂きょうかいどう

600ねん前後ぜんごはじまる暗黒あんこく時代じだいは、ひがしマ帝国まていこく建築けんちく活動かつどう完全かんぜん停滞ていたいをもたらした。ひがしマ帝国まていこく勢力せいりょく範囲はんいはそのだい部分ぶぶんウマイヤあさ民族みんぞくによって侵略しんりゃくけ、せんペスト流行りゅうこう旱魃かんばつ地震じしん被害ひがいによる人口じんこう減少げんしょうにより、都市とし生活せいかつ破壊はかいされた。これらの地域ちいき今日きょうまでのこ初期しょきビザンティン建築けんちくはほとんどないが、しょうアジア一帯いったいでは、ひがしマ帝国まていこく領土りょうど経済けいざい復興ふっこうしたさいに、廃墟はいきょとなった聖堂せいどうろうおよびがわろうが、近隣きんりん住民じゅうみん墓地ぼちとして利用りようされた[9]

コンスタンティノポリスや、テッサロニキ、モネンヴァシアアテナイなど、イスラームの侵略しんりゃくをはねのけた地域ちいきもあったが、地方ちほう都市とし都市とし生活せいかついとなむことができたかどうかは疑問ぎもんであり、あらたな教会堂きょうかいどう建設けんせつおこなわれなかったか、あるいはおこなわれたとしても施工しこう精度せいどわるいものであったとかんがえられる。この時期じき建設けんせつされた建物たてものくわしい年代ねんだい建設けんせつ意図いとだい部分ぶぶん資料しりょうすくなく、よくかっていない。6世紀せいきから9世紀せいき建設けんせつされたと確認かくにんできる教会堂きょうかいどうは、テッサロニキのハギア・ソフィア聖堂せいどうのほか、現存げんそんするものではデレアジの教会堂きょうかいどう現在げんざい廃墟はいきょ)やミュラ(げん・デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂せいどうなど、わずかしかられていないが、ハギア・エイレーネー聖堂せいどうられる円蓋えんがいしきバシリカ、あるいはクロス・ドーム・バシリカが各地かくち建設けんせつされた。この形式けいしきは、6世紀せいきから9世紀せいきにかけてのビザンティン建築けんちく過渡かと特徴とくちょうづけるものとかんがえられている。

暗黒あんこく時代じだいのビザンティン建築けんちくは、イスラームに包囲ほういされて疲弊ひへいした首都しゅとに、援軍えんぐんとしてむかえられたアルメニアじんグルジアじんによって保持ほじされた。かれらはつね独自どくじせいたもちながらひがしマ帝国まていこく文化ぶんかれ、帝国ていこくくら時代じだい突入とつにゅうするまさにその時期じき芸術げいじゅつ最盛さいせいむかえた。

アルメニアの教会きょうかい建築けんちくは5世紀せいきごろにまでさかのぼり、初期しょきにはトンネル・ヴォールトもちいたバシリカを採用さいようした。しかし、6世紀せいきまつにはバシリカはつくられなくなり、わってドームを集中しゅうちゅう形式けいしきこのまれるようになった。7世紀せいき東方とうほうキリスト教きりすときょう主導しゅどうするにいたったころには、三葉みつばがた四葉よつばがた八角やすみどうがた円筒えんとうがた四葉よつばがた内接ないせつじゅうがたの4つの形式けいしき発展はってんする。これらはアルメニアにおいて発展はってんした形跡けいせきがなく、メソポタミアからきたシリアにいたる東方とうほう形式けいしきれたものとかんがえられるが、これらの地域ちいき教会きょうかい建築けんちくがまったくのこっていないため、どのようなかたちでそれがアルメニア建築けんちくなかれられたのかはかっていない。かれらもまた、7世紀せいき後半こうはんにはイスラーム帝国ていこく侵略しんりゃくまえ屈服くっぷくし、その教会堂きょうかいどう大半たいはん放棄ほうきされ廃墟はいきょとなったが、その建築けんちくのアイディアはビザンティン建築けんちく本流ほんりゅうれられた[10]

中期ちゅうきビザンティン建築けんちく

アラブじん侵略しんりゃくによって国土こくど大幅おおはば縮小しゅくしょうしたひがしマ帝国まていこくは、9世紀せいき前半ぜんはんになってようやく安定あんていもどし、うしなわれた領土りょうど回復かいふくすすめていく。文化ぶんかめんでも古代こだいギリシャ・ローマ文化ぶんか復興ふっこう運動うんどう、すなわちマケドニアちょうルネサンスおこった。この帝国ていこく建築けんちく活動かつどうが7世紀せいきごろまで変遷へんせん過程かていにあったこと、その内接ないせつじゅうがたばれる独自どくじ建築けんちく平面へいめん獲得かくとくしたことを考慮こうりょし、7世紀せいき以降いこうから9世紀せいきにかけてのひがしマ帝国まていこく建築けんちくがビザンティン建築けんちくはじまりとかんがえることもできるとの指摘してきもある[11]

再生さいせい時代じだい教会きょうかい建築けんちく

パントクラトール修道院しゅうどういん聖堂せいどう
コムネノスあさ修道院しゅうどういん。3つのふくあい聖堂せいどう
カレンデルハネ・ジャーミイ(キリスト・アカタレプトス修道院しゅうどういん?)
オシオス・ルカス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう

マケドニア王朝おうちょう開祖かいそバシレイオス1せいマ帝国まていこく再生さいせいとなえ、ユスティニアヌスにならって建築けんちく活動かつどう積極せっきょくてきおこない、ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうをはじめとする荒廃こうはいした教会堂きょうかいどう修復しゅうふくし、あらたに教会きょうかい宮殿きゅうでん一角いっかく建設けんせつした。そう主教しゅきょうフォティオスした帝国ていこく栄光えいこう再生さいせい夢見ゆめみたが、ユスティニアヌスみかど建設けんせつ活動かつどうしゅとして巨大きょだい公共こうきょう建築けんちくであったのにくらべると、バシレイオスみかど建築けんちく活動かつどうははるかに規模きぼちいさく、私的してき建築けんちく活動かつどうぶべきものであった。宮廷きゅうてい建築けんちく活動かつどうはすでにかなり縮小しゅくしょうしており、その影響えいきょうりょく農業のうぎょう中心ちゅうしん地方ちほういきには波及はきゅうせず、ひがしマ帝国まていこくいち大都市だいとしであるコンスタンティノポリスに限定げんていされたものであった。このような私的してき援助えんじょ宮廷きゅうていかぎらず貴族きぞくによって模倣もほうされ、ビザンティン建築けんちくはこののち私的してき建築けんちく活動かつどうによって存続そんぞくすることになる。

976ねんからはじまるバシレイオス2せい治世ちせいになると、国庫こっこ収入しゅうにゅう改善かいぜんされ、セルジュークあさ侵入しんにゅういた1071ねんまで、ビザンティン建築けんちく活動かつどう最盛さいせいむかえることになる。バシレイオス2せい厳格げんかく軍人ぐんじん皇帝こうていであったため、その偉業いぎょうにもかかわらず、かれめいによる建築けんちく現在げんざいまで発見はっけんされていない。皮肉ひにくにも、中期ちゅうきビザンティン建築けんちく革新かくしんは、かれ後継こうけいしゃたちの散財さんざいによってもたらされた。11世紀せいき建築けんちく革新かくしんで、1028ねんロマノス3せいアルギュロスによるパナギア・ペリブレプトス修道院しゅうどういん1034ねんミカエル4せいによって建設けんせつされたアギイ・コスマス・ケ・ダミノス聖堂せいどうコンスタンティノス9せいモノマコスによるマンガナのアギオス・ゲオルギウス聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 10]などのだい規模きぼ壮麗そうれい教会堂きょうかいどう建設けんせつされた。これらはどれも現存げんそんしていないが、下部かぶ構造こうぞうからの推定すいていではアルメニアの影響えいきょうみとめられ、当時とうじ建設けんせつされた教会きょうかい建築けんちくおおきな影響えいきょうあたえたとかんがえられる[12]。そのいちれいとしては、ネア・モニ修道院しゅうどういん、オシオス・ルカス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうられるスクィンチしき教会堂きょうかいどう建築けんちくがある。

セルジュークあさ侵攻しんこういち十字軍じゅうじぐん派遣はけんという東西とうざい文化ぶんか軋轢あつれきなやまされるコムネノス王朝おうちょう時代じだいには、中期ちゅうきビザンティンの建築けんちく活動かつどう保守ほしゅてきになり、マケドニアちょう革新かくしんてき平面へいめん計画けいかくてられ、すでに確立かくりつした内接ないせつじゅうがた平面へいめんこのまれるようになった。キリスト・パンテポプテス修道院しゅうどういん聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 11]は、皇帝こうていアレクシオス1せいコムネノスははアンナ・ダラセーナによって1100ねん創建そうけんされたが、建築けんちく形態けいたい内接ないせつじゅうがたのうち4えんはしらしきばれる平面へいめんで、すでに暗黒あんこく時代じだい建設けんせつされていたもので、あたらしい要素ようそはまったくない。1124ねんごろに建設けんせつされたキリスト・パントクラトール修道院しゅうどういん[注釈ちゅうしゃく 12]きた聖堂せいどうである生神うるかみおんなエレウーサ聖堂せいどう同様どうよう平面へいめんである。また、コーラ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうとカレンデルハネ・ジャーミイのように、暗黒あんこく時代じだい流行りゅうこうしたクロス・ドーム形式けいしき教会堂きょうかいどう建設けんせつされた。このような状況じょうきょうは、西方せいほう東方とうほうからせま圧力あつりょくたいし、純粋じゅんすい正教会せいきょうかいのもの、ひがしマ帝国まていこくのものとおもわれたものを選択せんたくする意図いとがあったとかんがえられる[13]

中期ちゅうきビザンツの教会堂きょうかいどう私的してき礼拝れいはいのために建設けんせつされたため、だい規模きぼなものは存在そんざいしない。かりおおくの市民しみん収容しゅうようするような需要じゅようがあったとしても、古代こだい繁栄はんえいした都市としであれば、減少げんしょうした人口じんこう収容しゅうようできる程度ていど教会堂きょうかいどうはすでに存在そんざいすることがおおかった。なにより、この時代じだいひがしマ帝国まていこくはハギア・ソフィアのようなだい規模きぼ建築けんちくぶつてられるような国家こっか体制たいせいではなく、建築けんちくてき関心かんしん修道院しゅうどういん教会堂きょうかいどう建設けんせつけられていた。

修道院しゅうどういん建築けんちく活動かつどう

スルブ・ハツ聖堂せいどう
アルメニア特有とくゆうとが屋根やねった四葉よつばがた教会堂きょうかいどう
パナギア・ハルケオン聖堂せいどう
内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどう軒下のきしたいぬかざりなど、外部がいぶ装飾そうしょくたいする意識いしきられる。

修道院しゅうどういん建設けんせつ中期ちゅうきビザンティン建築けんちくしゅたる特徴とくちょうである。カルケドンこう会議かいぎ司教しきょう監督かんとくかれたかく修道院しゅうどういんは、ひじりぞう破壊はかい運動うんどう迫害はくがい忌避きひしてその管理かんりからのがれ、10世紀せいきごろまでにはかなりの独自どくじせいつようになっていた[注釈ちゅうしゃく 13]

スラブじんやブルガリア帝国ていこくから奪還だっかんされたバルカン半島ばるかんはんとうでは、961ねんせいアナスタシウスがラヴラ修道院しゅうどういん建設けんせつしたあと、ギリシャ正教せいきょう最高さいこう聖地せいちとなったアトスさん修道院しゅうどういんや、フォキスにあるオシオス・ルカス修道院しゅうどういんヒオスとうネア・モニ修道院しゅうどういんなど、おおくの修道院しゅうどういん建設けんせつされている。修道院しゅうどういんはさまざまな建築けんちくふく合体がったいであり、中央ちゅうおう教会堂きょうかいどう(カトリコン)をのこしてその施設しせつ消滅しょうめつしている場合ばあいもあるが、今日きょういたるまで残存ざんそんしているものもおおい。また、都市とし人口じんこう減少げんしょうによる空地くうち拡大かくだいともなって、都市とし開設かいせつされる修道院しゅうどういんみとめられるようになる。このような修道院しゅうどういん一部いちぶ裕福ゆうふくそうからの寄進きしんによって建設けんせつされたものもすくなくなく、寄進きしんしゃらに施設しせつそのものを不動産ふどうさんして譲渡じょうと売却ばいきゃくすることもおこなわれた。

コンスタンティノポリスでは、貴族きぞく出身しゅっしんのコンスタンティノス・リプスによっててられた修道院しゅうどういん[注釈ちゅうしゃく 14]きた教会堂きょうかいどうげられる。907ねん創建そうけんされた教会堂きょうかいどうはそれほどおおきなものではないが、けんじどうしき皇帝こうてい列席れっせきするほど壮麗そうれい建築けんちくで、大量たいりょう彫刻ちょうこく装飾そうしょく大理石だいりせき象眼ぞうがん、釉薬タイルによって装飾そうしょくされていた。コンスタンティノポリスのその修道院しゅうどういんとしては、ロマノス・レカペノス提督ていとく皇帝こうていロマノス1せい)のミュレレオン修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 15]、イサキオス・コムネノスによるコーラ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう[注釈ちゅうしゃく 16]などがげられる。地方ちほう都市としでは、テッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂せいどう、スクリプーのコイメシス聖堂せいどうなどで、貴族きぞく寄進きしんによる修道院しゅうどういん建設けんせつることができる。

貴族きぞく寄進きしんたよるこれら中期ちゅうきビザンティンの教会堂きょうかいどう建築けんちくだい規模きぼなものは存在そんざいしないが、そのわりに外部がいぶ空間くうかんはかなり意識いしきされるようになったようである。内部ないぶ空間くうかん重要じゅうようせいわりはなかったが、中央ちゅうおう聖堂せいどう修道院しゅうどういん中庭なかにわ孤立こりつして建設けんせつされたため、外部がいぶ装飾そうしょくする意識いしきまれたようである。オシオス・ルカス修道院しゅうどういん生神うるかみおんな聖堂せいどうでは、外壁がいへき煉瓦れんがみがクロワゾネとばれる技法ぎほうによって構成こうせいされ、クーファ文字もじをモティーフとしたりによって装飾そうしょくされており、同様どうようのモティーフはテッサロニキのパナギア・ハルケオン聖堂せいどうなど、バルカン半島ばるかんはんとうでよくられる。また、アクダマルとうのスルブ・ハツ聖堂せいどう外部がいぶうつくしいりでおおっている。

末期まっきビザンティン建築けんちく

12世紀せいき末期まっきになると、ひがしマ帝国まていこく政治せいじてきにはしょう公国こうこくのゆるやかな連合体れんごうたいとなり、これは1204ねんコンスタンティノポリス陥落かんらく以後いご、よりいっそう加速かそくされた。ニカイア帝国ていこくによって首都しゅと奪還だっかんされるものの、軍事ぐんじりょく経済けいざいりょくなどのめんで、帝国ていこく往年おうねん繁栄はんえいからは程遠ほどとおいまでに衰退すいたいしており、どう時代じだい壮麗そうれいイスラム教いすらむきょう礼拝れいはいどうやカトリック教会堂きょうかいどう凌駕りょうがするような建築けんちくてられなかった。

亡命ぼうめい政権せいけん各地かくち樹立じゅりつされることによって、ビザンティン建築けんちく必然ひつぜんてき多様たようすることになるが、とくに、ロマネスクやゴシックの影響えいきょうけた建築けんちくみとめられる。ラテン帝国ていこく建築けんちく活動かつどういちじるしくひくかったため、これらはきむかくわん居留きょりゅうしたヴェネツィアピサ、ガラタ地区ちくジェノヴァ人々ひとびとによる建築けんちく影響えいきょうけた可能かのうせい指摘してきされる。

分裂ぶんれつ時代じだいさい統一とういつ建築けんちく活動かつどう

コーラ修道院しゅうどういんうちナルテクス
末期まっきビザンティン美術びじゅつ代表だいひょうするフレスコとモザイクがのこる。
コンスタンティノス・リプス修道院しゅうどういん
右側みぎがわきた聖堂せいどう左側ひだりがわみなみ聖堂せいどう
ミストラのハギイ・テオドリ修道院しゅうどういん付属ふぞく聖堂せいどう
スクィンチしき教会堂きょうかいどうとしては最後さいごのビザンティン建築けんちくである。

ビザンツしょ公国こうこくのうちもっと活動かつどうてきであったニカイア帝国ていこくは、おおくの建築けんちく建立こんりゅうしたが、そのほとんどは現在げんざいにはのこっておらず、確実かくじつなことはいえない。

ニカイア帝国ていこく勢力せいりょくきそったエピロス専制せんせいこうこくは、王室おうしつ活発かっぱつ建築けんちく活動かつどうみとめられ、洗練せんれんされた建築けんちくぶつとはえないものの、礼拝れいはいどう建築けんちく数多かずおおのこる。アルタにはエピロス建築けんちく傑作けっさくとされるパリゴリティサ聖堂せいどうがあり、その近郊きんこうにはカト・パナギア聖堂せいどう(1231ねん)やブラケルネ修道院しゅうどういんトリカラにはポルタ・パナギア聖堂せいどう(1283ねん)がある。エピロス王室おうしつシチリアとうホーエンシュタウフェンヴィルアルドゥアンとの婚姻こんいん関係かんけいがあり、これらの建築けんちくには西欧せいおうふう特色とくしょくみとめられる。このため、エピロスの建築けんちく革新かくしんてきなものがおおいが、ニカイア帝国ていこくとのあらそいにやぶれ、消滅しょうめつしてしまったために、その建築けんちくさい末期まっきのビザンティン建築けんちく継承けいしょうされることはなかった。

トレビゾンド帝国ていこくには、首都しゅとトレビゾンド皇帝こうていマヌエル1せいによって建設けんせつされたハギア・ソフィア修道院しゅうどういんのカトリコンが現存げんそんしている。グルジア王国おうこく影響えいきょうけた平面へいめん構成こうせいみとめられるが、グルジア王国おうこくとルーム・セルジュークあさはさまれたこの帝国ていこくのその建築けんちく活動かつどうについては、あまり研究けんきゅうされていない。

1261ねんのニカイア帝国ていこくによるコンスタンティノポリス奪回だっかい、コンスタンティノポリスではビザンティン文化ぶんか最後さいごはな開花かいかした。いわゆる「パレオロゴスあさルネサンス」である。しかし、この時期じき建設けんせつされた教会堂きょうかいどうは、中期ちゅうきビザンティン建築けんちく伝統でんとう墨守ぼくしゅしたものであって、文化ぶんか活動かつどうられるような初期しょきビザンティンの、ましてや古代こだいローマの伝統でんとう復興ふっこうさせるようなものではなかった[15]。コンスタンティノポリスでの建築けんちく活動かつどう1261ねんから1330ねんごろまでのわずかなみとめられるのみで、以後いご完全かんぜん停滞ていたいした。

ミカエル8せいすめらぎテオドラの開設かいせつしたコンスタンティノス・リプス修道院しゅうどういんみなみ聖堂せいどう1280ねんだい建立こんりゅうおもわれ、既存きそんきた聖堂せいどう拡張かくちょうするように建設けんせつされた円蓋えんがいしきバシリカにちか聖堂せいどうである。1310ねん着工ちゃっこうされたパナギア・パンマカリストス修道院しゅうどういん付属ふぞく礼拝れいはいどうは4えんはしらしき教会堂きょうかいどうで、外観がいかんはほとんど立方体りっぽうたいちかく、バルカン半島ばるかんはんとうみとめられる模様もようみなどはみとめられない。これらの聖堂せいどうは、ほとんどが単純たんじゅん矩形くけいめんであり、外部がいぶのデザインを優先ゆうせんしてドームをおおくかつたか設計せっけいしているため、内部ないぶ空間くうかんにはひろがりがなく、井戸いどそこにいるかのような印象いんしょうける。そして、おそらくほかのよく残存ざんそんしている教会堂きょうかいどうおなじく、内部ないぶ説話せつわもとづく絵画かいがおおわれていた。

1316ねん起工きこうしたコーラ修道院しゅうどういんは、政治せいじテオドロス・メトキテスによって既存きそん教会堂きょうかいどう改築かいちくしたものである。建築けんちくてきるべきものはなにもないが、内部ないぶのフレスコ末期まっきビザンティン美術びじゅつ傑作けっさくといわれている。コーラ修道院しゅうどういん代表だいひょうされるパレオロゴスあさ壁画へきがでは、写実しゃじつせい向上こうじょうと、初歩しょほてきではあるものの遠近えんきんほう発達はったつみとめられ、これがのち西欧せいおうルネサンスつながるとされる由縁ゆえんとなっている。

パレオロゴスあさ皇子おうじたちふうじられたモレアス専制せんせいおおやけりょう首府しゅふかれ、ペロポネソス半島はんとう実効じっこう支配しはいしたミストラ城塞じょうさい都市としは、現在げんざいでは完全かんぜん廃墟はいきょであるが、末期まっきビザンティンの都市とし景観けいかんをもっともよくのこしている。ミストラの宮廷きゅうてい周囲しゅういのフランクしょ公国こうこくとの婚姻こんいん関係かんけいもあったため、宮殿きゅうでん建築けんちくには西欧せいおうふう要素ようそみとめられる。ミストラ宮殿きゅうでんは1250ねんごろから1350ねんごろ、1400ねんごろ、1460ねんごろの3にわたって建設けんせつされ、その構造こうぞうたいにはとんがあたまアーチのまど、リブ・ヴォールトといったゴシック建築けんちく要素ようそ散見さんけんする。宮殿きゅうでん内部ないぶ装飾そうしょくのこっていないため明確めいかくではないが、全体ぜんたいとしてはビザンティン建築けんちく伝統でんとうではなく、西欧せいおう宮殿きゅうでん建築けんちく影響えいきょうほうがむしろつよい。

末期まっきひがしマ帝国まていこく時代じだい建設けんせつされた修道院しゅうどういんとしては、せいアタナシオスの創建そうけんしたメテオラがある。もっともふるいイパパンティ修道院しゅうどういん1366ねん建設けんせつされ、1388ねんにはメテオラ最大さいだいとなるメガロ・メテオロン(メタモルフォシス修道院しゅうどういん)が建立こんりゅうされた。ひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼう(1453ねんも、14世紀せいきから18世紀せいきにかけて、さらに5つの修道院しゅうどういん建設けんせつされている。

末期まっきビザンティン建築けんちく特徴とくちょう

ポリフィロゲニトゥス宮殿きゅうでん
北側きたがわ正面しょうめんのポーティコ
ハギア・エカテリニ聖堂せいどう
ポーティコのあるしゅう歩廊ほろう

末期まっきビザンティン建築けんちく建築けんちくてき関心かんしん修道院しゅうどういん建築けんちくにあったが、そのほとんどは既存きそん教会堂きょうかいどう増築ぞうちく改築かいちくであった。このさい外部がいぶにナルテクス(廊下ろうかじょうまえしつ空間くうかん)か礼拝れいはいきょうされた通路つうろじょう建物たてものまわされ、ポーティコ(れつばしらのある玄関げんかんまたはアーケード)つきの正面しょうめん形成けいせいすることがおおく、この形状けいじょうはヴェネツィアからもたらされたのではないかとの指摘してきがある[16]

ポーティコづけファサードは、教会堂きょうかいどう以上いじょう住居じゅうきょ建築けんちく採用さいようされ、コンスタンティノポリスのポリフィロゲニトゥス宮殿きゅうでんげん・テクフルサライ)にもこの形状けいじょうみとめられる。12世紀せいき後期こうきかんがえられるこの宮殿きゅうでんは、3かいてでテオドシウス2せい城壁じょうへきあいだ建設けんせつされ、中庭なかにわめんした北側きたがわ城壁じょうへき連続れんぞくする南側みなみがわにポーティコづけ正面しょうめんみとめられる。

テッサロニキは、パレオロゴスあさ初期しょき繁栄はんえいはじめ、首都しゅとでの停滞ていたいあいだ修道院しゅうどういん付随ふずいする建築けんちく活動かつどう活発かっぱつおこなわれた。そのため、末期まっきのビザンティン建築けんちくるうえで重要じゅうよう建築けんちくぶつがいくつかのこっている。1315ねん創建そうけんされたハギイ・アポストリ教会堂きょうかいどうどう時代じだいかそれよりはや時期じきてられたとおもわれるハギア・エカテリニ教会堂きょうかいどうは、ともに典型てんけいてきよんえんはしらしき内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどうであるが、三面さんめんがドームをいただほうしのポーティコじょう廊下ろうかかこわれ(現在げんざいではほうしではなく、ガラスまれている)、その四隅よすみにドームをけている。教会きょうかい建築けんちくにおける、このようなしゅう歩廊ほろう機能きのうははっきりせず、首都しゅとでは墓所はかしょ使つかわれたようであるが、テッサロニキではそのような機能きのうみとめられない。

1262ねんひがしマ帝国まていこく移譲いじょうされたミストラには、ミストラがたばれる教会堂きょうかいどう建設けんせつされている。パナギア・オディギトリア聖堂せいどう(アフェンディコ聖堂せいどう)はブロントシオン修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうとして使つかわれ、その、ミストラに建設けんせつされた教会きょうかい模範もはんとなった「ミストラがた」の最初さいしょのモデルで、1かい円蓋えんがいしきバシリカ平面へいめんつが、2かい内接ないせつじゅうがた平面へいめん特殊とくしゅ形式けいしきである。13世紀せいきにバシリカとして建設けんせつされたアギオス・ディミトリオス聖堂せいどうは、15世紀せいきにミストラがたとして改修かいしゅうされた。

特徴とくちょう

ハギア・エイレーネー聖堂せいどう

ビザンティン建築けんちくは、ユスティニアヌス1せい時代じだいにおける宮廷きゅうてい建設けんせつ事業じぎょうによって急速きゅうそく開花かいかした。この時代じだい建築けんちく事情じじょうは、プロコピオスの『建築けんちくについて』(De aedificiis) や現存げんそんする建築けんちくぶつ、ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうやハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂せいどう、ハギア・エイレーネー聖堂せいどうなどによってられる。アーキトレーヴや柱頭ちゅうとうまれた植物しょくぶつ装飾そうしょくによって構造こうぞうたいからの独立どくりつせい強調きょうちょうするような、特徴とくちょうてき細部さいぶのデザインもこの時代じだい確立かくりつされたものである。バシリカがた教会堂きょうかいどうではろうがわろう分離ぶんりするために独立どくりつ円柱えんちゅう一定いってい役割やくわりたしていたが、ドームとバシリカのプランが融合ゆうごうされるにしたがって、構造こうぞうたいとしての役割やくわり角柱かくちゅうわり、オーダーはそこにされた装飾そうしょく一部いちぶとしてしか機能きのうしなくなった。ギリシア起原きげんであるにもかかわらず、中期ちゅうき以降いこうのビザンティン建築けんちくでは、オーダーはほとんど消滅しょうめつすることになる。

ビザンティン建築けんちく構成こうせい

ビザンティン建築けんちくには多様たようなプランがみとめられる[注釈ちゅうしゃく 17]が、以下いか形式けいしきはすべて教会堂きょうかいどうかんしてのものである。世俗せぞく建築けんちくがいかなる形式けいしきで、いかなる機能きのうゆうしたものであったかは、初期しょき段階だんかいではローマ建築けんちくとほとんどちがいがないということ以外いがいかっていない。これは、ビザンティンのぞく建築けんちくがミストラ以外いがいにはあまりのこっていないことによる。ミストラの建築けんちくおおくはフランクじんによって建設けんせつされたもので、これをビザンティンの世俗せぞく建築けんちく一般いっぱんなすことはむずかしい。

バシリカ

すでに初期しょきビザンティン建築けんちくこう説明せつめいしたとおり、初期しょきキリスト教徒きりすときょうと礼拝れいはいよう建築けんちくぶつ雛形ひながたとしてローマ建築けんちくバシリカ採用さいようした。このタイプの教会堂きょうかいどうは、長期間ちょうきかんわたってひろ地域ちいき建設けんせつされつづけた。いくつかの種類しゅるいみとめられ、代表だいひょうてきなものとして、ろうこうまどち、木造もくぞう小屋組こやぐみの屋根やねけられる「ヘレニスティック・タイプ」とばれるバシリカがある[17]。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどうサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどうなどがこれにあたる。だい規模きぼなものになると、きゅうサン・ピエトロだい聖堂せいどうルーマニアのトロパエウム(6世紀せいき)、アギオス・デメトリオス聖堂せいどうピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプト[注釈ちゅうしゃく 18]構成こうせいするものもある。

ビザンティン建築けんちくのバシリカしきとしてもっとも一般いっぱんてきなタイプは、ろう部分ぶぶんトンネル・ヴォールトけたがわろうのない、いわゆるたんろうしきバシリカで、「オリエンタル・タイプ」とばれ[17]12世紀せいきいたるまで建設けんせつされつづけた。これはアルメニアの初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくなどを起源きげんとし、カッパドキアの岩窟がんくつ修道院しゅうどういんはこのながれをんでいる。

円蓋えんがいしきバシリカおよびクロス・ドーム

ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうやハギア・エイレーネー聖堂せいどうこころみられたような、バシリカとドームを融合ゆうごうする形式けいしき古代こだいローマの世俗せぞく建築けんちくにおいてすでに確立かくりつされていたが、ビザンティン建築けんちく歴史れきしなか一般いっぱんてき形態けいたいとして確立かくりつされるのは6世紀せいきごろである[注釈ちゅうしゃく 19]

コンスタンティノポリスのハギア・エイレーネー聖堂せいどう内部ないぶ
円蓋えんがいしきバシリカの代表だいひょうてき教会堂きょうかいどう。ティンパヌム(ドーム下部かぶ半円はんえんがた外壁がいへき)はドームをささえる角柱かくちゅう外側そとがわりつけられているが、がわろうろうけるアーケードは角柱かくちゅう内側うちがわえられている。このため、がわろうろうへだてるアーケードが空間くうかんなかいている。

ドーム・バシリカあるいは円蓋えんがいしきバシリカ (Domed Basilica) とばれるこの形式けいしきは、トンネル・ヴォールトをけたろう中央ちゅうおうに、ろうはばおな直径ちょっけいのドームをいただ正方形せいほうけい長方形ちょうほうけい平面へいめん教会堂きょうかいどうである。がわろうえたおおきな角柱かくちゅうにアーチをけ、教会堂きょうかいどうたん方向ほうこうで、ろう横断おうだんするアーチはそのままなめらかにトンネル・ヴォールトに連続れんぞくするか、アーチが突出とっしゅつする。長手ながて方向ほうこうがわろうがわ)のアーチ下部かぶはティンパヌムを構成こうせいし、開口かいこうもうけられる。平面へいめんたんろうしきろうのみで構成こうせいされるもの)か3ろうしきろうとそれをかこがわろうから構成こうせいされるもの)である[19]。ハギア・ソフィアだい聖堂せいどう、およびハギア・エイレーネー聖堂せいどう基本きほんてきにこの形式けいしきである。

円蓋えんがいしきバシリカには、クロス=ドーム・バシリカ (Cross-Domed Basilica) とばれる、ろう部分ぶぶんギリシア十字じゅうじ平面へいめんちか形式けいしきになったものもある[19]。ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうでは、ろうがわろうけるアーケードとティンパヌムが、四隅よすみもうけられた角柱かくちゅう内側うちがわもうけられているため、角柱かくちゅうがわろうかくされ、南北なんぼくのアーチは内部ないぶには露出ろしゅつしていない。しかし、中小ちゅうしょう規模きぼ教会堂きょうかいどう同様どうよう形状けいじょうにすると、ろうがかなり狭苦せまくるしく、空間くうかんひろがりをたもつことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱かくちゅう外側そとがわ構成こうせいすることによって、ろう内部ないぶひろがりをたせたものである。この場合ばあい、やや奥行おくゆきのふかいアーチを空間くうかんたん方向ほうこうにもびるため、ろう十字じゅうじがた平面へいめんとなる。

ビザンティン様式ようしき発展はってんしたひがしマ帝国まていこくには、ローマン・カトリックとはことなり、現在げんざいのギリシア正教せいきょうやロシア正教せいきょうばれる東方とうほう教会きょうかいひろまっていた。[20][21]東方とうほう教会きょうかいかみ表現ひょうげんについてきわめて厳格げんかくであり、天国てんごく断層だんそう序列じょれつは、イエスをさい上位じょういとして、つぎにマリア、いでだい天使てんしミカエルとガブリエル、福音ふくいん史家しか使徒しとたち、旧約きゅうやく預言よげんしゃ聖者せいじゃ初期しょきキリスト教きりすときょう時代じだい教父きょうふじゅんさだめられていた。[22]また、初期しょきキリスト教きりすときょうのバシリカしき教会堂きょうかいどうのアプスじょうはんドームの象徴しょうちょうてき意味いみがますますつよ意識いしきされることとなっていき、東方とうほう教会きょうかいのドーム構造こうぞう重要じゅうよう要素ようそとなっていった。[23]

円蓋えんがいしきバシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀せいきまつから9世紀せいきまでビザンティン建築けんちく採用さいようされたが、内接ないせつじゅうがたがビザンティン建築けんちく主流しゅりゅうとして確立かくりつされるとすたれてしまった。しかし、12世紀せいきには一時いちじてきにリヴァイヴァルされている。現存げんそんする代表だいひょうてき円蓋えんがいしきバシリカは、上記じょうきげた聖堂せいどうのほか、ミュラげんデムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂せいどう(8世紀せいきごろか?)、デレアジ廃墟はいきょとなっている聖堂せいどう名称めいしょう不明ふめい、9世紀せいき初期しょき?)、721ねんごろに創建そうけんされたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂せいどうなどがある。とくにテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型てんけいれいとして引用いんようされる。12世紀せいきにリバイバルされたものでは、コーラ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(12世紀せいき初期しょき)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀せいき中期ちゅうき)がげられる。カレンデルハネではがわろううしなわれ、集中しゅうちゅうせいたかいギリシア十字じゅうじがた平面へいめんになっている。これらは、もはやバシリカとはえないような形式けいしきとなっているため、たんにクロス=ドーム (Cross-Domed Church) ともばれる[24]

内接ないせつじゅうがた

オシオス・ルカス修道院しゅうどういん付属ふぞく生神うるかみおんな聖堂せいどう内部ないぶ
ドームを直下ちょっかの4ほん円柱えんちゅうによってささえるよんえんはしらしき内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどう。ドームが教会堂きょうかいどうたいしてちいさい。
パレルモマルトラーナ内部ないぶ
よんえんはしらしき内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどう

内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどう(Cross-Inscribed または Cross-in-square、あるいは Quincunx)は、それまで標準ひょうじゅんてきであったバシリカを駆逐くちくし、中期ちゅうきビザンティン時代じだい標準ひょうじゅん形式けいしきとなった教会堂きょうかいどう形式けいしきである。一般いっぱんに、「ギリシア十字じゅうじかた教会堂きょうかいどう」を場合ばあいや、ビザンティン様式ようしき、ビザンツ様式ようしきとして紹介しょうかいされる教会堂きょうかいどうは、このタイプをすことがおおい。正方形せいほうけい平面へいめんなかにギリシア十字じゅうじがたろうそでろう内包ないほうしており、中央ちゅうおうペンデンティヴそなえたドームを支持しじする円柱えんちゅうまたはピア(しゅはしら)がある。円柱えんちゅう2ほん内壁ないへきによってドームをささえるものはえんはしらしき教会堂きょうかいどう (Two-Column Church)、ドームの荷重かじゅうを4ほん円柱えんちゅう保持ほじするものはよんえんはしらしき教会堂きょうかいどう (Four-Column Church) とばれるが[25]後者こうしゃほう一般いっぱんてき形式けいしきである。よんえんはしらしき教会堂きょうかいどうには、さらにろうとアプスのあいだにベイがまれる形式けいしきと、追加ついかベイがないものにけられる。おおむねえんはしらしきはベルカン半島はんとう南部なんぶに、よんえんはしらしき追加ついかベイのないものはセルビアからイタリア半島はんとう南部なんぶかぎられ、追加ついかベイのあるえんはしらしきはビザンティン文化ぶんかけんひろ範囲はんいわたってみとめられる[26]

内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどう起源きげん明確めいかくではないが、ビザンティン建築けんちくにおいてこの形式けいしき導入どうにゅうされたのは8世紀せいきまつから9世紀せいきごろである。経済けいざい復興ふっこうした9世紀せいき後半こうはん以降いこうおおくの教会堂きょうかいどう内接ないせつじゅうがた建設けんせつされている。コンスタンティノポリスでは、バシレイオス1せい880ねんけんじどうしたネア聖堂せいどうが、文献ぶんけん記述きじゅつから、おそらくこの形式けいしきつくられたと推定すいていされている。現在げんざいにものこ修道院しゅうどういん聖堂せいどうとしては、えんはしらしき教会堂きょうかいどうとして、 マニにあるアギオス・ストラテゴス聖堂せいどう、ミストラのペリブレプトス修道院しゅうどういん付属ふぞく聖堂せいどうなどがある。よんえんはしらしき教会堂きょうかいどう数多かずおおのこっているが、おもなものをげると、10世紀せいき中期ちゅうき建設けんせつされたオシオス・ルカス修道院しゅうどういん生神うるかみおんな聖堂せいどうのほか、1028ねん建設けんせつされたパナギア・ハルケオン聖堂せいどう1100ねん建設けんせつされたキリスト・パンテポプテス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうげん・エスキ・イマレト・ジャーミイ)、12世紀せいき初期しょき建設けんせつされたパントクラトール修道院しゅうどういん南北なんぼくりょう聖堂せいどうげん・ゼイレク・キリッセ・ジャーミイ)がある。また、ビザンティン建築けんちくではないが、サン・ピエトロだい聖堂せいどうについても、ドナト・ブラマンテによる最初さいしょ計画けいかくは、内接ないせつじゅうがたといって平面へいめん教会堂きょうかいどうであった。

内接ないせつじゅうがたは、ひがしマ帝国まていこく職人しょくにんたちが円柱えんちゅううえに3.5メートル以上いじょうはばのアーチをけることを忌避きひしたため、その構造こうぞうから小規模しょうきぼ教会堂きょうかいどうにしか適用てきようできず[注釈ちゅうしゃく 20]内部ないぶ空間くうかんがほとんど単一たんいつとなる。バシリカのように空間くうかんろうがわろうけることができないため、必然ひつぜんてき集中しゅうちゅうせいたか性格せいかく建築けんちくぶつとなっている。しかしミストラでは、ミストラがた教会堂きょうかいどうばれるバシリカと内接ないせつじゅうがたこん成形せいけいしき教会堂きょうかいどう存在そんざいする。この形式けいしき教会堂きょうかいどうは、1かい部分ぶぶん円柱えんちゅうならべてろうがわろう区分くぶんしており、1かい部分ぶぶん平面へいめんのみをるとバシリカになっている。しかし、2かいになると角柱かくちゅうもうけて内接ないせつじゅうがた平面へいめん構成こうせいしており、内部ないぶ印象いんしょうはハギア・エイレーネー聖堂せいどうちかいものとなっている。

スクィンチしき

ヒオスとうのネア・モニ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう
スクィンチしき聖堂せいどうれい西側にしがわにナルテクス、東側ひがしがわにアプスのある単純たんじゅんがた形式けいしき

スクィンチしき教会堂きょうかいどう (Church on Squinches) は中期ちゅうきビザンティン時代じだい形成けいせいされたもので、平面へいめん形態けいたいではないが、内接ないせつじゅうがたならび、ビザンティン建築けんちく主要しゅよう形式けいしきのひとつである。正方形せいほうけい平面へいめん四隅よすみもうけたスクィンチ多角たかくがた構造こうぞう正方形せいほうけい平面へいめん上部じょうぶせるためにななめにかれたアーチ)が形成けいせいする八角はっかくがた平面へいめんうえどうかべきのドームをけたものをおもとする教会堂きょうかいどう形式けいしきである。内接ないせつじゅうがたでは、ドームの直径ちょっけい最大さいだいでも4メートル程度ていどのものしかつくれないとかんがえられていたようであるが、スクィンチしき教会堂きょうかいどうのドームは、これよりもおおきい直径ちょっけい8メートル程度ていどのドームをけることができる。

ひがしアプス西にしにナルテクスを構成こうせいする単純たんじゅんがたと、南北なんぼく付属ふぞくしつのあるふくごうがたがある。前者ぜんしゃ形式けいしきとして、1042ねん建設けんせつされたネア・モニ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう1090ねん建設けんせつされたキプロスのクリソストモス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうがある。後者こうしゃ代表だいひょうてきれいとしては、11世紀せいき初期しょき建設けんせつされたと推定すいていされるオシオス・ルカス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう、11世紀せいきまつかんがえられるアテネ近郊きんこうのダフニ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう、ミストラのアギイ・テオドリ聖堂せいどうがある。

ひがしマ帝国まていこく都市とし

ひがしマ帝国まていこくおおくの都市としは、マ帝国まていこく時代じだいから継承けいしょうされたものである。マ帝国まていこく混乱こんらんによって、3世紀せいき後半こうはんから4世紀せいきにかけてローマ時代じだい都市とし広範囲こうはんい衰退すいたいしたが、5世紀せいきから6世紀せいきになるとひがしマ帝国まていこく勢力せいりょく範囲はんいないでは経済けいざい再生さいせいし、これにともなって建築けんちく活動かつどうさかんになった。交易こうえき活性かっせいは、みなみイタリアからバルカン半島ばるかんはんとう沿岸えんがん、コンスタンティノポリスからアナトリア半島はんとう沿岸えんがん、シリア一帯いったいられるが、ひがしマ帝国まていこくとサーサーンあさ衝突しょうとつ民族みんぞく侵入しんにゅうなどによって安定あんていせず、大局たいきょくてきには地方ちほう都市とし徐々じょじょ衰退すいたいしていったといってよい。このような地方ちほう経済けいざい低下ていかは、地方ちほう都市とし公共こうきょう業務ぎょうむになであった裕福ゆうふく市民しみんそう減衰げんすいまねいた。中央ちゅうおう政府せいふ介入かいにゅう増大ぞうだいしたため、公共こうきょう活動かつどう中央ちゅうおう官庁かんちょう官僚かんりょう組織そしき、あるいは教会きょうかい組織そしき継承けいしょうされたが、フォルムやクリアなどのだい規模きぼ公共こうきょう建築けんちくぶつひがしマ帝国まていこく時代じだいには建設けんせつされなくなった。

都市とし生活せいかつ自体じたいマ帝国まていこく時代じだいから変化へんかしており、体育館たいいくかん競技きょうぎじょう利用りよういちじるしく低下ていかした。劇場げきじょう競技きょうぎじょうよりは活用かつようされたが、上演じょうえんされるのは喜劇きげき卑猥ひわい演目えんもくになったため、教会きょうかいからたびたび禁止きんしれいされ、やがて放棄ほうきされていった。ローマ都市とし中心ちゅうしんにあった神殿しんでんは、キリストきょう国教こっきょうになったためにすたれ、392ねんテオドシウス1せい異教いきょう崇拝すうはい禁止きんしはっしたあと、廃棄はいきされるか破壊はかいされた。

このような変化へんかともなって、古代こだい建設けんせつされた公共こうきょう建築けんちくには徐々じょじょ住居じゅうきょまれるようになり、人口じんこう密度みつどたかくなったが、公共こうきょうスペースの喪失そうしつによって市街地しがいち縮小しゅくしょうした。異教いきょう神殿しんでんは6世紀せいきごろにキリスト教きりすときょう聖堂せいどうとして使用しようされるようになったアテナイパルテノン神殿しんでんやテッサロニキのロトンダ、ローマのパンテオンなどをのぞいて、いしじょう、あるいははしら彫刻ちょうこくなどの転用てんようざい集積しゅうせきじょうとなった。

テオドシウスの城壁じょうへき
コンスタンティノポリスを防衛ぼうえいしていた大市おおいちかべ
ミストラ全景ぜんけい
右手みぎて山頂さんちょうにあるのが宮殿きゅうでん距離きょり300メートルないで240メートルもの高低こうていのあるきゅう傾斜地けいしゃち市街地しがいち形成けいせいされている。

このような古代こだい都市としくらべ、ひがしマ帝国まていこく時代じだい新設しんせつされた都市とし、あるいは古代こだい町村ちょうそん拡張かくちょうした都市としすくない。また、首都しゅとコンスタンティノポリスをのぞけば、ひがしマ帝国まていこく時代じだい都市としは、古代こだいローマ時代じだい都市としよりもずっと小規模しょうきぼである。ほとんどがユスティニアヌスみかどによってひらきされたが、ユスティアナ・プリマセルギオポリスダラ、ゼノビア(げんハラビエ)といった新設しんせつ都市としは、国境こっきょう防衛ぼうえいのための軍事ぐんじ拠点きょてんであった。一般いっぱんに、強固きょうこ城壁じょうへきかこまれた場所ばしょには兵舎へいしゃ建設けんせつされ、ローマの都市としおなじくカルドデクマヌスじくとする規則正きそくただしい都市とし計画けいかく採用さいようされている。一般いっぱん市民しみんはその外側そとがわ生活せいかつをおく農民のうみんで、緊急きんきゅうには城壁じょうへきない避難ひなんする生活せいかつであった。

ひがしマ帝国まていこくは6世紀せいき衰退すいたいはじめ、都市とし経済けいざい活動かつどう完全かんぜん停滞ていたいした。サーサーンあさペルシャとの戦乱せんらんまれたシリアからアナトリア半島はんとう都市とし壊滅かいめつ状態じょうたいのまま国家こっか統制とうせいから排除はいじょされ、イスラム帝国ていこく勃興ぼっこうしてからはシリア、エジプトの海上かいじょう拠点きょてん制圧せいあつされた。バルカン半島ばるかんはんとう北方ほっぽうからの侵入しんにゅうしたブルガリアじんマジャールじんなやまされただけでなく、沿岸えんがん地域ちいきからはイスラム帝国ていこく攻撃こうげきされた。貿易ぼうえき完全かんぜん停止ていしし、地中海ちちゅうかい貿易ぼうえきによってっていた古代こだい都市としは、略奪りゃくだつされ、あるいは経済けいざいてき停滞ていたいによって完全かんぜん衰退すいたい放棄ほうきされた。とく北方ほっぽうから来襲らいしゅうしたスラブじん勢力せいりょくかれたバルカン半島ばるかんはんとう都市としは10世紀せいきまで荒廃こうはいした状態じょうたいにあり、住居じゅうきょ粗悪そあくなものであったため、建物たてもの平面へいめんですら確認かくにんするのが困難こんなんである。このような緊張きんちょう状態じょうたいにあって、ローマ時代じだいからつづ都市とし完全かんぜん要塞ようさいし、城壁じょうへきかこまれた軍事ぐんじ拠点きょてんとそれをかこ一般いっぱん住宅じゅうたくという中世ちゅうせい都市としのスタイルが一般いっぱんした。

このようなひがしマ帝国まていこく中世ちゅうせい都市とし雰囲気ふんいきをよくのこしているのが、ペロポネソス半島はんとうモネンヴァシアや、ギョーム2せいヴィルアルドゥアンによって建設けんせつされたミストラである。ミストラは完全かんぜん中世ちゅうせいのものではなく、また、ノルマンじんによって建設けんせつされたものではあるが、末期まっきひがしマ帝国まていこく都市としるうえで重要じゅうよう手掛てがかりとなる。まち高低こうてい240メートルの急斜面きゅうしゃめんにあり、はっきりした街路がいろ計画けいかく中心ちゅうしんもない。貴族きぞく庶民しょみんもつましい生活せいかつおくっていたらしく、住居じゅうきょおおきな居間いまが1つで、独立どくりつした部屋へやはなく、食事しょくじ睡眠すいみん排泄はいせつもそこでおこなわれていた。

修道院しゅうどういんでの慈善じぜん施設しせつ

マ帝国まていこくでは、公共こうきょう業務ぎょうむ都市とし有力ゆうりょく市民しみんそうによって運営うんえいされていたが、都市とし衰退すいたいとともに有力ゆうりょく市民しみんそう没落ぼつらくすると、それは教会きょうかいによって維持いじされることになった[注釈ちゅうしゃく 21]。キリストきょう組織そしきは、すでに国教こっきょう以前いぜんから積極せっきょくてき慈善じぜん活動かつどうおこなっていたが、4世紀せいきから5世紀せいきになると、かく地域ちいき主教しゅきょう慈善じぜん施設しせつ設立せつりつについて重要じゅうよう役割やくわりたすようになり、病院びょういん救貧きゅうひんいんといった施設しせつ創設そうせつし、これを管理かんりするようになった。これをけて、451ねんカルケドンこう会議かいぎでは、主教しゅきょう慈善じぜん施設しせつ運営うんえい責任せきにんつことが成文せいぶんされ、さらに544ねんにユスティニアヌスみかど発令はつれいした教会きょうかい機関きかんたいする法令ほうれいにおいて、主教しゅきょう教会きょうかい内部ないぶ宿泊しゅくはく施設しせつ救済きゅうさい施設しせつ病院びょういん孤児こじいん養老ようろういんといった施設しせつもうけ、これらを維持いじするようにはからう責任せきにんがあることが明確めいかくしめされた。さらに、慈善じぜん施設しせつは、設置せっちする基準きじゅんとしてその運営うんえい能力のうりょく証明しょうめいする必要ひつようせいがあったが、活動かつどう慈善じぜん目的もくてきかぎられており、これを逸脱いつだつするような場合ばあい主教しゅきょう運営うんえい介入かいにゅうする権限けんげんゆうすることも記載きさいされている[28]

しかし、このような制度せいど形骸けいがいし、11世紀せいきには私的してき慈善じぜん施設しせつたいする主教しゅきょう権限けんげん剥奪はくだつされた。どの時点じてんから主教しゅきょう権限けんげん低下ていかはじまったのかは資料しりょうすくないため不明瞭ふめいりょうであるが、すくなくとも9世紀せいきには制度せいど変節へんせつみとめられ、中世ちゅうせいひがしマ帝国まていこく時代じだいになると、裕福ゆうふくそう寄進きしんによって設立せつりつされた修道院しゅうどういん慈善じぜん施設しせつ国家こっか教会きょうかい権力けんりょくから独立どくりつした事業じぎょうとして認識にんしきされている。皇帝こうてい私的してき設立せつりつした修道院しゅうどういんですら、皇帝こうてい自身じしん私有しゆう財産ざいさんなされ、必要ひつよう収入しゅうにゅう確保かくほできるように資産しさん管理かんりおこなわれていた。皇帝こうていロマノス1せいレカペノス設立せつりつしたミュレレオン修道院しゅうどういん病院びょういん施設しせつ付随ふずい)やヨハネス2せいコムネノス設立せつりつしたパントクラトール修道院しゅうどういん病院びょういん施設しせつ養老ようろういん浴場よくじょう付随ふずい)がその代表だいひょうてきれいである。

パントクラトール修道院しゅうどういん1118ねんから1124ねんにかけてヨハネス2せいコムネノスによって建設けんせつされた南側みなみがわのパントクラトール聖堂せいどうと、1136ねん以前いぜんにコムネノス墓所はかしょとして建設けんせつされた中央ちゅうおうのアギオス・ミハイル聖堂せいどう、そして北側きたがわのエウレーサ聖堂せいどうの3つの聖堂せいどうからなるが、これに今日きょうではのこっていないコンスタンティノポリスの病人びょうにん収容しゅうようする病院びょういん(パントクラトール・クセノン)と養老ようろう施設しせつ(ゲロコミオン)が付属ふぞくしたふくあい建築けんちくぶつであった。パントクラトール・クセノンは規模きぼおおきく、またその運営うんえいしるした『規律きりつしょ(ティピコン)』や当時とうじ歴史れきしニケタス・コニアテス著作ちょさくによってその実態じったい推測すいそくすることができる。パントクラトールの病院びょういんは、外科げかてき治療ちりょうちょうなどの疾患しっかん治療ちりょう女性じょせい患者かんじゃ治療ちりょう、そのの5部門ぶもんかれ、せんもん医師いし助手じょしゅ補助ほじょいん女性じょせいスタッフらが常駐じょうちゅうする。入院にゅういん患者かんじゃのために合計ごうけいで50しょうのベッドが用意よういされ、院内いんないには暖房だんぼうよう暖炉だんろ男性だんせいように2つ、女性じょせいように1つもうけられる。トイレは男性だんせいよう女性じょせいようがそれぞれ1かしょあり、夜間やかんでもかりがともされていた。治療ちりょうには入浴にゅうよく重要じゅうようされていたため、浴室よくしつ設置せっちされていた。しゅ聖堂せいどうとはべつに、患者かんじゃのために男性だんせいよう女性じょせいよう教会堂きょうかいどうがそれぞれ設立せつりつされていた。おもに貧困ひんこんそう対象たいしょう(とはいえ、極貧ごくひんもの対象たいしょうではなく、かならずしもすべての患者かんじゃ貧困ひんこんそうというわけでもなかったが)にした医療いりょう機関きかんであるが、かなりの運営うんえい費用ひようてられており、また今日きょう病院びょういん匹敵ひってきするほどの高度こうど組織そしきてき運営うんえいおこなわれていたとする研究けんきゅうもある[29]

モルタルと煉瓦れんが

ビザンティン建築けんちく建築けんちく方法ほうほうは、基本きほんてきにはローマ建築けんちくのものと大差たいさない。各地かくち建築けんちく工房こうぼうにおいて、石造せきぞう煉瓦れんがづくり交互こうご使用しようする工法こうほう確立かくりつされていたため、時代じだい推移すいいにかかわらずビザンティン建築けんちく施工しこうつね安定あんていしていたようである。おおまかに、シリア、パレスティナ、アルメニアやジョージアなどのいし構造こうぞうと、その地域ちいき煉瓦れんがいし構造こうぞうとにけられる。

ビザンティン建築けんちくにおいてもっともポピュラーなのは後者こうしゃで、長方形ちょうほうけい石材せきざいへんわくとしてげ、その内部ないぶにモルタルとあらせきながみ、いで煉瓦れんがを5だん程度ていど積層せきそうし、さらに石材せきざいげモルタルをながむことをかえすことによって外壁がいへき形成けいせいした。ほとんどの場合ばあい外壁がいへきには漆喰しっくいやモルタルがられなかったため、この石材せきざい煉瓦れんが交互こうご配列はいれつ水平すいへい方向ほうこうしま模様もようとなって、ビザンティン建築けんちく外部がいぶ色彩しきさいてき特徴とくちょうとなっている。この建築けんちく方法ほうほうは、初期しょき時代じだいから11世紀せいきごろにいたるまでまったく変化へんかしておらず、建築けんちく工法こうほうによる建築けんちくぶつ時代じだい特定とくてい困難こんなんなものにしている。

古代こだいローマでもちいられたローマン・コンクリートは、ポッツォラーナによって均質きんしつ凝固ぎょうこせいしめすが、ビザンティンでもちいられるモルタルはしょう石灰せっかいすなによるもので、ローマン・コンクリートほどの耐久たいきゅうせいしめしていない。また、石灰せっかいによるモルタルは硬化こうかしたあとに風雨ふううにさらされると分解ぶんかいするため、構造こうぞうたい石材せきざいなどの外装がいそう付与ふよする必要ひつようせいがあった。さらに、かべ仕上しあげと一体化いったいかした煉瓦れんがモルタル目地めじは、建築けんちくコストをげるために徐々じょじょ多量たりょうもちいられる傾向けいこうにあり、モルタル硬化こうか乾燥かんそう収縮しゅうしゅくによって建築けんちくぶつ精度せいど低下ていかした。

ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうのようなだい規模きぼ建築けんちくぶつにとっては、このような建物たてものゆがみは致命ちめいてき欠陥けっかんであり、事実じじつ最初さいしょけられたドームは建築けんちく途中とちゅうにおいてもすでに湾曲わんきょくし、その結果けっか、わずか20ねん崩壊ほうかいした。再建さいけんには、だい聖堂せいどうそのものの建設けんせつどう程度ていど時間じかんようしている。崩壊ほうかい原因げんいんはドームをささえる支柱しちゅう傾斜けいしゃ原因げんいんであったが、この垂直すいちょく傾斜けいしゃ今日きょうでもそのままのこっている(この強度きょうど不足ふそくは、バットレス補強ほきょうすることによって解決かいけつされている)。

建築けんちく装飾そうしょく

主要しゅよう建築けんちくぶつ

ここでは、すべて現存げんそんするか、あるいは上部じょうぶ構造こうぞうがほとんどのこっている建築けんちくぶつげている。ビザンティン建築けんちく代表だいひょうするものであっても、基礎きそ構造こうぞうしかのこっていないもの、内部ないぶ空間くうかん把握はあくできないものは対象たいしょうとしていない。かっこないは、建築けんちくぶつのある都市とし建設けんせつされた年代ねんだいげん〜と表示ひょうじしているものは、現在げんざい名称めいしょう

前期ぜんきビザンティン建築けんちく

アヒロピイトス聖堂せいどう
フィロクセノス貯水ちょすいそうげん・ビンビルディレク)
  • ストゥディオス修道院しゅうどういんのアギオス・ヨアンニス聖堂せいどう(イスタンブール、げんイムラホール・ジャーミイ、450ねんごろ完成かんせい
  • アヒロピイトス聖堂せいどう(テッサロニキ、5世紀せいき中期ちゅうき
  • アギオス・デメトリオス聖堂せいどう(テッサロニキ、5世紀せいき中期ちゅうき
  • カラート・セマーン修道院しゅうどういん建築けんちくぐん(カラート・セマーン、5世紀せいき後期こうき
  • サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどう(ラヴェンナ、490ねん建設けんせつ
  • サン・ヴィターレ聖堂せいどう(ラヴェンナ、526ねん起工きこう・574ねん完成かんせい
  • アギイ・セルギオス・カイ・バッコス聖堂せいどう(イスタンブール、げんキュチュック・アヤソフィア・ジャーミイ、527ねんから536ねんごろ)
  • ハギア・エイレーネー聖堂せいどう(イスタンブール、げんアヤイリニ博物館はくぶつかん、532ねんごろ起工きこう
  • ハギア・ソフィアだい聖堂せいどう(イスタンブール、げんアヤソフィア・ジャーミイ、532ねん起工きこう・537ねん完成かんせい
  • サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂せいどう(ラヴェンナ、534ねんごろ起工きこう
  • ハギア・エカテリニ修道院しゅうどういん(シナイさん、548ねん起工きこう・565ねん完成かんせい
  • カスル・イブン・ワルダン(シリア、561ねん起工きこう・564ねん完成かんせい
  • せい降誕こうたん聖堂せいどう(ベツレヘム、6世紀せいき
  • システルナ・バシリカ(イスタンブール、げんイェレバタン・サライ、6世紀せいき
  • フィロクセノス貯水ちょすいそう(イスタンブール、6世紀せいき

暗黒あんこく時代じだい

  • スルブ・フリプシメ聖堂せいどう(エチミアジン、618ねん起工きこう・630ねん完成かんせい
  • 本来ほんらいめいしょう げんグリーゴル聖堂せいどう(ズヴァルトノッツ、645ねん起工きこう・660ねん完成かんせい
  • ハギア・ソフィア聖堂せいどう(テッサロニキ、8世紀せいき末期まっき
  • 本来ほんらいめいしょう げんファティエ・ジャーミイ(トリエ、8世紀せいき末期まっき

中期ちゅうきビザンティン建築けんちく

ミュレレオン修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうげん・ボドルム・ジャーミイ)
せいパンテレイモンだい聖堂せいどう
アテネのアギイ・アポストリ聖堂せいどう
  • アギオス・アンドレアス聖堂せいどう(ペリステレ、871ねん完成かんせい
  • パナギア・クーベリディキ聖堂せいどう(カストリア、9世紀せいき中期ちゅうき
  • アクシアルヒス聖堂せいどう(カストリア、9世紀せいき
  • コイメシス聖堂せいどう(スクリプ、874ねんごろ完成かんせい
  • コンスタンティノス・リプス修道院しゅうどういんきた聖堂せいどう(イスタンブール、げんフェナリ・イサ・ジャーミイ、907ねん完成かんせい
  • スルブ・ハツ聖堂せいどう(アクダマルとう、915ねん起工きこう・921ねん完成かんせい
  • ミュレレオン修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(イスタンブール、げんボドルム・ジャーミイ、920ねんごろ完成かんせい
  • オシオス・ルカス修道院しゅうどういん生神うるかみおんな聖堂せいどう(フォキス、10世紀せいき中期ちゅうきごろ)
  • ラヴラ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(アトスさん、10世紀せいき中期ちゅうきごろ)
  • ハギイ・アナルギリ聖堂せいどう(カストリア、10世紀せいきまつ
  • アニだい聖堂せいどう(アニ、988ねん起工きこう・1000ねん完成かんせい
  • パナギア・マヴリオティッサ聖堂せいどう(カストリア、1000ねんごろ完成かんせい
  • パナギア・ハルケオン聖堂せいどう(テッサロニキ、1028ねん完成かんせい
  • アギオス・ニコラオス・ティス・ステギス聖堂せいどう(キプロスとう、11世紀せいき完成かんせい
  • パナギア・アンゲロクティトス聖堂せいどう(キプロスとう、11世紀せいき完成かんせい
  • ネア・モニ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(キオスとう、11世紀せいき完成かんせい
  • オシオス・ルカス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(フォキス、10世紀せいき中期ちゅうきごろ
  • ダフニ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(アテネ近郊きんこう、11世紀せいきまつ完成かんせい
  • カプニカレア聖堂せいどう(アテネ、11世紀せいき完成かんせい
  • キリスト・ポンテポプテス修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(イスタンブール、げんエスキ・イマレト・ジャーミイ、1100ねんごろ完成かんせい
  • スヴェティ・パンテレイモン修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(ネレズィ、1164ねん完成かんせい
  • パントクラトール修道院しゅうどういん(イスタンブール、げんモッラー・ゼイレク・ジャーミイ、1120ねんごろ起工きこう・1136ねんごろ完成かんせい
  • コーラ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(イスタンブール、げんカーリエ美術館びじゅつかん、12世紀せいき前期ぜんきごろ)
  • ハギア・ソフィア聖堂せいどう(モネンヴァシ、12世紀せいき中期ちゅうき
  • パナギア・トゥ・アラコス聖堂せいどう(キプロスとう、12世紀せいき後期こうき
  • アギオス・エレフテリオス聖堂せいどう(アテネ、12世紀せいき完成かんせい

末期まっきビザンティン建築けんちく

メタモルフォシス修道院しゅうどういん変容へんよう修道院しゅうどういん、メガロ・メテオロン)中央ちゅうおう聖堂せいどう
  • ブラケルネ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(アルタ、13世紀せいき初期しょきさい整備せいび
  • カト・パナギア修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(アルタ、1250ねんごろ起工きこう・1270ねんごろ完成かんせい
  • ハギア・ソフィア聖堂せいどう(トラブゾン、1250ねんごろ完成かんせい
  • コンスタンティノス・リプス修道院しゅうどういんみなみ聖堂せいどう(イスタンブール、げんフェナリ・イサ・ジャーミイ、1282ねんごろ)
  • ポルタ・パナギア聖堂せいどう(トリカラ、1283ねん完成かんせい
  • パナギア・パリゴリティサ聖堂せいどう(アルタ、1282ねん起工きこう・1289ねん完成かんせい
  • アギオス・バシリオス聖堂せいどう(アルタ、13世紀せいき
  • ハギイ・テオドリ聖堂せいどう(ミストラ、1290ねんから1295ねんごろ完成かんせい
  • アギオス・ディミトリオス聖堂せいどう(ミストラ、13世紀せいき後半こうはん
  • アギオス・エウゲニオス聖堂せいどう(トラブゾン、13世紀せいきまつ
  • コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの宮殿きゅうでん(イスタンブール、げんテクフルサライ、13世紀せいきまつ
  • パナギア・パンマカリストス付属ふぞく礼拝れいはいどう(イスタンブール、げんフェティエ・ジャミィ、1310ねんごろ完成かんせい
  • ブロントシオン修道院しゅうどういんパナギア・オディギトリア聖堂せいどう(ミストラ、1310ねんごろ完成かんせい
  • アギイ・アポストリ聖堂せいどう(テッサロニキ、1310ねん起工きこう・1314ねん完成かんせい
  • コーラ修道院しゅうどういん修復しゅうふく工事こうじ(イスタンブール、げんカーリエ博物館はくぶつかん 1316ねん起工きこう・1321ねん完成かんせい
  • パナギア・ペリブレプトス聖堂せいどう(ミストラ、1350ねんから1375ねんごろ完成かんせい
  • ネア・モニ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(テッサロニキ、げんプロフィティス・イリアスと推定すいてい、1360ねんごろ完成かんせい
  • ヴラタドン修道院しゅうどういん(テッサロニキ、1360ねんごろ完成かんせい
  • イパパンティ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(メテオラ、1366ねん完成かんせい
  • アギオス・アサナシオス・トゥ・ムザキ聖堂せいどう(カストリア、1384ねんごろ完成かんせい
  • メタモルフォシス修道院しゅうどういん変容へんよう修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(メテオラ、1388ねん完成かんせい
  • パンタナッサ修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどう(ミストラ、1428ねん完成かんせい

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ この時代じだい歴史れきしについては不明ふめい部分ぶぶんおおいが、帝国ていこく社会しゃかい構造こうぞう文化ぶんか変容へんようしたことはうたがいない。ひがしマ帝国まていこく政治せいじ社会しゃかいてき状況じょうきょうについては、ゲオルグ・オストロゴルスキー『ビザンティン帝国ていこく』、J.M.ロバーツ『世界せかい歴史れきし4ビザンティン帝国ていこくとイスラーム文明ぶんめい』p86-p92など。およびひがしマ帝国まていこくこう参照さんしょう
  2. ^ 11世紀せいきにスクィンチしき建築けんちく構成こうせいされるなどの革新かくしんもあり、建築けんちく活動かつどう停滞ていたいしていたというわけではないが、このころのビザンティン建築けんちくはおよそ400ねんわたってきわめてゆっくりと変化へんかした[4]
  3. ^ 現在げんざいサン・ジョバンニ・イン・ラテラノだい聖堂せいどう伝承でんしょうによれば312ねん建設けんせつされたが、内外ないがい徹底的てっていてき改編かいへんされている。バシリカであること以外いがい創建そうけん当時とうじ面影おもかげはない。
  4. ^ 現在げんざいはイスラム寺院じいんイムラホール・ジャーミイであるが、廃墟はいきょとなっている。
  5. ^ せい墳墓ふんぼ教会きょうかいについては現存げんそんしているものの、なが歴史れきしなか破壊はかい再建さいけんかえされ、バシリカの部分ぶぶんうしなわれてしまった。
  6. ^ 初期しょきキリスト教きりすときょう建築けんちくのバシリカとしては、たとえばローマではつぎのものがある。サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラだい聖堂せいどう(385ねん〜400ねんごろ)、サンタ・マリア・マッジョーレだい聖堂せいどう(432ねん-440ねんごろ)、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂せいどう(4世紀せいき)、サン・クレメンテ聖堂せいどう(4世紀せいき)、サンタ・サビーナ聖堂せいどう(5世紀せいき)。いずれものちだい規模きぼ改装かいそうをされている。そのしょうアジアからヨーロッパまで、かなりのかずのバシリカが残存ざんそんする。
  7. ^ オルミダス宮殿きゅうでん付属ふぞく礼拝れいはいどうとして、テオドラのいのちにより建設けんせつされた。現在げんざいはイスラム寺院じいんキュチュック・アヤソフィア・ジャーミイ。きゅうアヤソフィアのであり、ハギア・ソフィアだい聖堂せいどう先駆せんくてき建築けんちくぶつとされるが確証かくしょうはない。
  8. ^ 現存げんそんしない。しかし、一辺いっぺんが50m四方しほう正方形せいほうけい平面へいめん巨大きょだい建築けんちくぶつで、平面へいめん規模きぼはハギア・ソフィアだい聖堂せいどう匹敵ひってきする。11世紀せいきには放棄ほうきされていたが、だい4かい十字軍じゅうじぐんによってさらに徹底的てっていてき略奪りゃくだつされ、彫刻ちょうこく部材ぶざいなどはヴェネツィアにもたらされた。代表だいひょうてきなものとしてピラストリ・アクリタニとばれるはしらざいがある。
  9. ^ げんアヤイリニ博物館はくぶつかん
  10. ^ 現存げんそんせず。コンスタンティノス9せいによりハギア・ソフィアだい聖堂せいどう匹敵ひってきする教会堂きょうかいどうとして建設けんせつされた。平面へいめん規模きぼは23m×33mとだい聖堂せいどうよりもちいさいが、多額たがく費用ひよう投入とうにゅうしたにもかかわらず皇帝こうていにいらなかったため2にわたって建設けんせつをやりなおし、国庫こっこだい打撃だげきあたえた。
  11. ^ 現在げんざいはイスラム寺院じいんエスキ・イマレト・ジャーミイ。
  12. ^ 現在げんざいはイスラム寺院じいんゼイレク・キリッセ・ジャーミイ。
  13. ^ 修道院しゅうどういんによる活動かつどう暗黒あんこく時代じだい活性かっせいし、その拠点きょてんはビテュニアにあった。C.マンゴーは、内接ないせつじゅうがた教会堂きょうかいどう空間くうかん分節ぶんせつようしないことから、この形式けいしき教会堂きょうかいどう修道院しゅうどういん成立せいりつしたと推定すいていする[14]
  14. ^ 現在げんざいはイスラ寺院じいんファナリ・イサ・ジャーミイ。
  15. ^ 現在げんざいはイスラム寺院じいんボドルム・ジャーミイ。
  16. ^ オスマン帝国ていこく時代じだいはイスラム寺院じいんカーリエ・ジャーミイ。現在げんざい美術館びじゅつかんとして一般いっぱん公開こうかいされている。
  17. ^ ビザンティンの教会堂きょうかいどう建築けんちくおも平面へいめん形式けいしきとしては、つぎのようなものがある。十字じゅうじがたコンスタンティノポリスせい使徒しと聖堂せいどう形式けいしきで、ラテンじゅうまたはギリシア十字じゅうじ平面へいめんち、中央ちゅうおうとそれぞれのうで部分ぶぶんにドームをいただく。エフェソスのアギオス・ヨアンニス・オ・テオロゴス聖堂せいどうクレタとうゴルテュナのアギオス・ティトゥス聖堂せいどうヴェネツィアサン・マルコだい聖堂せいどうがある。三葉みつばがた(トラコンチ)あるいは四葉よつばがた(テトラコンチ):アトスさん修道院しゅうどういんぐん中央ちゅうおう聖堂せいどうられる形式けいしきラヴラ修道院しゅうどういんのほか、ヴァトペディ修道院しゅうどういんイヴィロン修道院しゅうどういん中央ちゅうおう聖堂せいどうにおいて採用さいようされ、現在げんざいでも正教せいきょうけんではひろ普及ふきゅうしている。
  18. ^ 十字じゅうじがた平面へいめん計画けいかくで、よこした部分ぶぶんそでろう、あるいはつばさろうという。
  19. ^ 現在げんざいられているかぎり、最初さいしょ事例じれいはミリアムリクにある教会堂きょうかいどうで、5世紀せいき後期こうきのものである[18]
  20. ^ 大型おおがた内接ないせつじゅうがた聖堂せいどうでも、ドームの直径ちょっけいが4mをえるのはまれである。
  21. ^ 有力ゆうりょく市民しみん没落ぼつらくについては、ローマ都市とし活動かつどうになである都市とし参議さんぎ会員かいいん現象げんしょう明確めいかくあらわれているが、これは経済けいざいてき疲弊ひへいというよりも古代こだい世界せかい都市とし構造こうぞう転換てんかんにあるとされる[27]

出典しゅってん

  1. ^ J・B・ウォード・パーキンズ『図説ずせつ世界せかい建築けんちくローマ建築けんちく』p225
  2. ^ 図説ずせつ西洋せいよう建築けんちく』p49「古代こだい最後さいごかがやき」。
  3. ^ C・マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p5。ただし、著者ちょしゃ自身じしんは7世紀せいき以後いごをビザンティン建築けんちく区分くぶんするほう都合つごうがよいとしつつも、ユスティニアヌスみかど時代じだいふくめた4世紀せいき以降いこうをビザンティン建築けんちくとして記述きじゅつしている。N・ペヴスナー『世界せかい建築けんちく辞典じてん』p358「ビザンティン建築けんちく」では、ユスティニアヌスみかど時代じだい初期しょきキリスト教きりすときょう絶頂ぜっちょうかつビザンティン建築けんちくの胎胚とする。R・クライトハイマーはユスティニアヌスみかど時代じだいである6世紀せいきをビザンティン建築けんちくはじまりとする。Eary Christian and Byzantine Architecture, p204
  4. ^ 図説ずせつ世界せかい建築けんちく5ビザンティン建築けんちく』p135およびp181。
  5. ^ ジョン・ラウデン『岩波いわなみ世界せかい美術びじゅつ初期しょきキリスト教きりすときょう美術びじゅつ・ビザンティン美術びじゅつ』p34。
  6. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p41-p43。
  7. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p93。
  8. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p60。
  9. ^ 浅野あさの和生かずお『サンタクロースのしま 地中ちちゅう海岸かいがんビザンティン遺跡いせき発掘はっくつ』p209-p216。
  10. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p115。
  11. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p5
  12. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p137。
  13. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p147。マラズギルトのたたかでセルジュークあさ敗退はいたいしたのが1071ねんだい1かい十字軍じゅうじぐん派遣はけんされ、十字軍じゅうじぐん国家こっか樹立じゅりつされるのが1101ねんである。帝国ていこく崩壊ほうかいアレクシオス1せいコムネノスヨハネス2せいコムネノス帝国ていこく再編さいへんによってめられるが、1204ねん破局はきょくむかえる。
  14. ^ 図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p106。
  15. ^ C.マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p159-p160
  16. ^ C・マンゴー『図説ずせつ世界せかい建築けんちくビザンティン建築けんちく』p166。13世紀せいきのヴェネツィアの邸宅ていたく採用さいようされていたものが、東方とうほう伝達でんたつされたと推定すいていしている。
  17. ^ a b 長塚ながつか安司やすし円熟えんじゅくむかえる首都しゅと周辺しゅうへん」『世界せかい美術びじゅつだい全集ぜんしゅう 西洋せいようへん6 ビザンティン美術びじゅつ』149-150ぺーじ
  18. ^ R. Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture, p. 245.
  19. ^ a b J. A. Hamilton, Byzantine Archtecture and Decoration, p. 55.
  20. ^ “キリストきょう東西とうざい分裂ぶんれつはつ会談かいだん和解わかい 思惑おもわく緊張きんちょう交錯こうさく マ法王まほうおうとロシア正教せいきょう”. 日本経済新聞にほんけいざいしんぶん. (2016-2-13) 
  21. ^ ハンス・ユルゲン・マルクス (1980). 中世ちゅうせいにおける東西とうざい分裂ぶんれつ. 
  22. ^ しの野史やしろう (1990). “初期しょきキリスト教きりすときょうマ帝国まていこく集中しゅうちゅう形式けいしき宗教しゅうきょう建築けんちくにおける内部ないぶ造形ぞうけい理念りねん”. 日本にっぽん建築けんちく学会がっかい計画けいかくけい論文ろんぶん報告ほうこくしゅう410かん: 125. 
  23. ^ 増補ぞうほ新装しんそうカラーばん西洋せいよう建築けんちく様式ようしき美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1995ねん3がつ25にち、58ぺーじ 
  24. ^ R. Krautheimer, Eary Christian and Byzantine Architecture, pp. 292-295.
  25. ^ J. A. Hamilton, Byzantine Architecture and Decoration, pp. 55 f.
  26. ^ J. A. Hamilton, Byzantine Architecture and Decoration, pp. 56 f.
  27. ^ 大月おおつき康弘やすひろ帝国ていこく慈善じぜんビザンツ』54ぺーじ
  28. ^ 大月おおつき康弘やすひろ帝国ていこく慈善じぜんビザンツ』180-183ぺーじ
  29. ^ 大月おおつき康弘やすひろ帝国ていこく慈善じぜんビザンツ』154-177ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

関連かんれん項目こうもく

日本にっぽん正教会せいきょうかいニコライどう東京とうきょう千代田ちよだ)。日本にっぽん最大さいだいのビザンティン建築けんちくによるだい聖堂せいどう

ビザンティン建築けんちくかかわる世界せかい遺産いさん

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