ミトラス神 しん 浮彫 うきぼり 2-3世紀 せいき (ルーヴル美術館 びじゅつかん )
牡 おす 牛 うし を屠 ほふ るミトラス神 しん と2人 ふたり の脇 わき 侍 さむらい 神 しん カウテス、カウトパテス。ルーヴル美術館 びじゅつかん ランス別館 べっかん 所蔵 しょぞう 。
ミトラ教 きょう またはミトラス教 きょう またはミスラス教 きょう (英語 えいご : Mithraism )は、古代 こだい ローマ で隆盛 りゅうせい した、太陽 たいよう 神 しん ミトラス (ミスラス)を主神 しゅしん とする密儀 みつぎ 宗教 しゅうきょう である。
ミトラス教 きょう は古代 こだい のインド ・イラン に共通 きょうつう するミスラ 神 かみ (ミトラ )の信仰 しんこう であったものが、ヘレニズム の文化 ぶんか 交流 こうりゅう によって地中海 ちちゅうかい 世界 せかい に入 はい った後 のち に形 かたち を変 か えたものと考 かんが えられることが多 おお い。
紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき には牡 おす 牛 うし を屠 ほふ るミトラス神 しん が地中海 ちちゅうかい 世界 せかい に現 あらわ れ、紀元 きげん 後 ご 2世紀 せいき までにはミトラ教 きょう としてよく知 し られる密儀 みつぎ 宗教 しゅうきょう となった。ロ ろ ーマ帝国 まていこく 治下 ちか で1世紀 せいき より4世紀 せいき にかけて興隆 こうりゅう したと考 かんが えられている。しかし、その起源 きげん や実体 じったい については不明 ふめい な部分 ぶぶん が多 おお い。
近代 きんだい になってフランツ・キュモン (英語 えいご 版 ばん ) が初 はじ めてミトラス教 きょう に関 かん する総合 そうごう 的 てき な研究 けんきゅう を行 おこな い、ミトラス教 きょう の小 しょう アジア起源 きげん 説 せつ を唱 とな えたが、現在 げんざい ではキュモンの学説 がくせつ は支持 しじ されていない。
ミトラス教 きょう は牡 おす 牛 うし を屠 ほふ るミトラス神 しん を信仰 しんこう する密儀 みつぎ 宗教 しゅうきょう である。信者 しんじゃ は下級 かきゅう 層 そう で、一部 いちぶ の例外 れいがい を除 のぞ けば主 おも に男性 だんせい で構成 こうせい された。信者 しんじゃ 組織 そしき は7つの位階 いかい を持 も つ(大 だい 烏 がらす 、花嫁 はなよめ 、兵士 へいし 、獅子 しし 、ペルシア人 じん 、太陽 たいよう の使者 ししゃ 、父 ちち )。また、入信 にゅうしん には試練 しれん をともなう入信 にゅうしん 式 しき があった。
ミトラス教 きょう はプルタルコス の「ポンペイウス 伝 つて 」によって紀元前 きげんぜん 60年 ねん ごろにキリキア の海賊 かいぞく の宗教 しゅうきょう として存在 そんざい したことが知 し られているが[1] 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく で確認 かくにん されるミトラス教 きょう 遺跡 いせき はイランでは全 まった く確認 かくにん されていないため、2世紀 せいき 頃 ごろ までの発展 はってん 史 し はほとんど明 あき らかではない。しかしミトラス教 きょう は2世紀 せいき 頃 ごろ にロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない に現在 げんざい 知 し られているのとほぼ同 おな じ姿 すがた で現 あらわ れると、キリスト教 きりすときょう の伸長 しんちょう にともなって衰退 すいたい するまでの約 やく 300年間 ねんかん 、その宗教 しゅうきょう 形態 けいたい をほとんど変化 へんか させることなく帝国 ていこく の広範囲 こうはんい で信仰 しんこう された。
キュモン以降 いこう 、ミトラス教 きょう はインド・イランに起源 きげん するミトラス神 しん や、7位 い 階 かい の1つペルシア人 じん をはじめとするイラン的 てき 特徴 とくちょう 、初期 しょき に下級 かきゅう 兵士 へいし を中心 ちゅうしん に信仰 しんこう されたという軍事 ぐんじ 的 てき 性格 せいかく から、古代 こだい イランのミスラ信仰 しんこう に起源 きげん を持 も つ宗教 しゅうきょう と考 かんが えられてきた。しかし両者 りょうしゃ の間 あいだ には宗教 しゅうきょう 形態 けいたい の点 てん で大 おお きな相違 そうい 点 てん があり、古代 こだい イランにおけるミスラはイランを守護 しゅご する民族 みんぞく の神 かみ であり、公的 こうてき 、国家 こっか 的 てき な神 かみ だったが、ロ ろ ーマ帝国 まていこく におけるミトラス教 きょう は下級 かきゅう 層 そう を中心 ちゅうしん とした神秘 しんぴ 的 てき 、秘 ひ 儀 ぎ 的 てき な密儀 みつぎ 宗教 しゅうきょう の神 かみ であり、公的 こうてき であるどころか信者 しんじゃ 以外 いがい には信仰 しんこう の全容 ぜんよう が全 まった く秘密 ひみつ にされた宗教 しゅうきょう であったし、民族 みんぞく 的 てき 性格 せいかく を脱 だっ した世界 せかい 的 てき な救済 きゅうさい 宗教 しゅうきょう としての素質 そしつ を備 そな えていた。こうした宗教 しゅうきょう としての根本 こんぽん 的 てき なちがいは研究 けんきゅう 者 しゃ にとって悩 なや みの種 たね であり、現在 げんざい ではキュモンのようにイランのミスラ信仰 しんこう から直接的 ちょくせつてき に発展 はってん したと捉 とら えることは困難 こんなん とされている。しかしミトラス教 きょう のイラン起源 きげん を全 まった く否定 ひてい することもできず、ミトラス教 きょう の黎明 れいめい 期 き に教祖 きょうそ ないし宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 者 しゃ が存在 そんざい したことを想定 そうてい する研究 けんきゅう 者 しゃ もいる[2] 。
他方 たほう 、エルネスト・ルナン の有名 ゆうめい な1節 せつ によって[3] 、ミトラス教 きょう がキリスト教 きりすときょう の有力 ゆうりょく なライバルであり、ロ ろ ーマ帝国 まていこく の国教 こっきょう の地位 ちい を争 あらそ ったほどの大 だい 宗教 しゅうきょう だったとする過度 かど な評価 ひょうか は現在 げんざい も根強 ねづよ い。「しかし現実 げんじつ では信徒 しんと 集団 しゅうだん はせいぜい100ほどの人間 にんげん しか集 あつ まらなかったことを考慮 こうりょ に入 い れておかなくてはならない。したがって、あるときには100所 しょ ほどの聖 ひじり 所 しょ が存在 そんざい したローマにおいてさえ、信徒 しんと の数 かず は一 いち 万 まん にも満 み たなかったのである」とミルチア・エリアーデは述 の べている。[4]
さらにキリスト教 きりすときょう との類似 るいじ からキリスト教 きょう の諸 しょ 特徴 とくちょう がミトラス教 きょう に由来 ゆらい するという説 せつ が論 ろん じられることも多 おお い。他 た 宗教 しゅうきょう との比較 ひかく という点 てん では、日本 にっぽん では以前 いぜん から大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう の弥勒 みろく 信仰 しんこう がインド・イランのミスラ信仰 しんこう に由来 ゆらい することが論 ろん じられてきたが、宗教 しゅうきょう 形態 けいたい の違 ちが いから、むしろ近年 きんねん ではミトラス教 きょう と比較 ひかく されることがある[5] 。
古代 こだい インド・イランのミスラ信仰 しんこう [ 編集 へんしゅう ]
元々 もともと 、ミトラス神 しん は、古代 こだい インド・イランのアーリア人 じん が共通 きょうつう の地域 ちいき に住 す んでいた時代 じだい までさかのぼる古 ふる い神 かみ ミスラ(ミトラ)であり、イラン、インドの両 りょう 地域 ちいき において重要 じゅうよう な神 かみ であった。特 とく に『リグ・ヴェーダ 』においてはアーディティヤ神 かみ 群 ぐん の一 いち 柱 はしら であり、魔術 まじゅつ 的 てき なヴァルナ 神 かみ と対 たい をなす、契約 けいやく ・約束 やくそく の神 かみ だった。アーリア人 じん におけるこの神 かみ の重要 じゅうよう 性 せい をよく示 しめ しているのがヒッタイト とミタンニ との間 あいだ で交 か わされた条約 じょうやく 文 ぶん であり、そこにはヴァルナ、インドラ 、アシュヴィン双 そう 神 かみ といった神 かみ 々とともにミスラの名前 なまえ が挙 あ げられている[6] 。
その後 ご 、インドにおいてはミスラの重要 じゅうよう 性 せい は低下 ていか したが、イランでは高 たか い人気 にんき を誇 ほこ り、重要 じゅうよう な役割 やくわり を持 も ち、多数 たすう の神 かみ 々のなかでも特殊 とくしゅ な位置付 いちづ けであった。ゾロアスター は宗教 しゅうきょう 観 かん の違 ちが いからアフラ・マズダー のみを崇拝 すうはい すべきと考 かんが えてミスラをはじめとする多 おお くの神 かみ 々を排斥 はいせき したが、後 のち にゾロアスター教 きょう の中級 ちゅうきゅう 神 しん ヤザタ として取 と り入 い れられ、低 ひく く位置 いち づけられはしたが、『アヴェスター 』に讃歌 さんか (ヤシュト (英語 えいご 版 ばん ) )を有 ゆう した。ゾロアスター教 きょう が浸透 しんとう していたアケメネス朝 あさ ペルシアでは、それまでアフラ・マズダーの信仰 しんこう だけが認 みと められていたが、紀元前 きげんぜん 5世紀 せいき 頃 ごろ のアルタクセルクセス2世 せい はミスラを信仰 しんこう することを公 おおやけ に許可 きょか した。さらにゾロアスター教 きょう がサーサーン朝 あさ ペルシア (226年 ねん -651年 ねん )の国教 こっきょう となると英雄 えいゆう 神 しん 、太陽 たいよう 神 しん として広 ひろ く信仰 しんこう された[7] 。
ミトラス教 きょう に関 かん する最古 さいこ の記録 きろく はプルタルコス の「ポンペイウス伝 でん 」である。これによるとポンペイウス の時代 じだい (紀元前 きげんぜん 106年 ねん ~前 まえ 48年 ねん )、ミトラス教 きょう はキリキア の海賊 かいぞく たちが信仰 しんこう した密儀 みつぎ 宗教 しゅうきょう の中 なか でも特 とく に重要 じゅうよう なものだった。海賊 かいぞく たちはミトリダテス6世 せい を支援 しえん し、広範囲 こうはんい にわたって海賊 かいぞく 行為 こうい を働 はたら いたため[1] 、前 ぜん 67年 ねん 、ポンペイウスによって掃討 そうとう された。
プルタルコスと同 どう 時代 じだい の詩人 しじん スタティウス の91年 ねん 頃 ごろ の作品 さくひん である『テーバイス 』(1・719-720)にはミトラス教 きょう について言及 げんきゅう している箇所 かしょ があるが、その内容 ないよう は後世 こうせい のミトラス神 しん の聖 せい 牛 うし 供 きょう 儀 ぎ と同一 どういつ のものである。この点 てん からミトラス神 しん の聖 せい 牛 うし 供 きょう 儀 ぎ の神話 しんわ がこの時代 じだい にすでに成立 せいりつ していたことがわかる。しかし79年 ねん にヴェスヴィオス火山 かざん の噴火 ふんか で滅 ほろ びたポンペイ からはミトラス教 きょう の遺跡 いせき が発見 はっけん されていないことから[8] 、この時点 じてん ではミトラス教 きょう はまだイタリアに伝 つた わっていなかったと見 み なす研究 けんきゅう 者 しゃ もいる[9] 。いずれにせよ、150年 ねん 頃 ごろ 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない に姿 すがた を現 あらわ したミトラス教 きょう はまたたく間 ま に全土 ぜんど へ広 ひろ がり、やがてローマ皇帝 こうてい たちも個人 こじん 的 てき ではあったが関心 かんしん を示 しめ すようになった。
発展 はってん と衰退 すいたい [ 編集 へんしゅう ]
コンモドゥス 帝 みかど (在位 ざいい 180年 ねん -192年 ねん )はローマ皇帝 こうてい で初 はじ めてミトラス教 きょう に儀式 ぎしき に参加 さんか した皇帝 こうてい とされ、オスティア の皇帝 こうてい 領 りょう の一部 いちぶ を寄進 きしん した[10] 。この時代 じだい 、ミトラス教 きょう の考古学 こうこがく 資料 しりょう は増大 ぞうだい し、中 なか には属 ぞく 州 しゅう でコンモドゥス帝 みかど のためにミトラスに奉納 ほうのう した旨 むね を伝 つた える碑文 ひぶん も発見 はっけん されている。ルキウス・セプティミウス・セウェルス 帝 みかど (在位 ざいい 193年 ねん -211年 ねん )の宮廷 きゅうてい にはミトラス教 きょう の信者 しんじゃ がいた。
しかし250年 ねん ごろからディオクレティアヌス 帝 みかど の統治 とうち が始 はじ まる284年 ねん ごろまでの間 あいだ はミトラス教 きょう 遺跡 いせき は激減 げきげん する。これはダキア にゲルマン民族 みんぞく が侵入 しんにゅう して帝国 ていこく の北方 ほっぽう 地域 ちいき が荒廃 こうはい したためである[11] 。ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス (在位 ざいい 270年 ねん -275年 ねん )は、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない の諸 しょ 宗教 しゅうきょう を太陽 たいよう 神 しん ソル・インヴィクトスのもとに統一 とういつ しようとしたが、これはミトラス神 しん ではない。太陽 たいよう 神殿 しんでん 跡 あと からはミトラス教 きょう の碑文 ひぶん が発見 はっけん されているが、それはコンモドゥス帝 みかど 時代 じだい のものである[12] 。その後 ご 、ディオクレティアヌス帝 みかど (在位 ざいい 284年 ねん -305年 ねん )は他 た の共同 きょうどう 統治 とうち 者 しゃ とともにロ ろ ーマ帝国 まていこく の庇護 ひご 者 しゃ である不敗 ふはい 太陽 たいよう 神 しん ミトラス(Dio Soli invicto Mithrae Fautor)に祭壇 さいだん を築 きず いた。
しかしこの時代 じだい が過 す ぎるとミトラス教 きょう は衰退 すいたい に向 む かった。ディオクレティアヌスやガレリウス はキリスト教 きりすときょう を迫害 はくがい したが、続 つづ く大帝 たいてい コンスタンティヌス1世 せい (在位 ざいい 306年 ねん -337年 ねん )はキリスト教 きりすときょう を公認 こうにん し(313年 ねん )、325年 ねん のニカイア公 こう 会議 かいぎ を主導 しゅどう 、死 し に際 さい してはキリスト教 きりすときょう の洗礼 せんれい を受 う けた。この時代 じだい 以降 いこう 、ミトラス神殿 しんでん がキリスト教徒 きりすときょうと によって襲撃 しゅうげき されるようになり、実際 じっさい にオスティアの神殿 しんでん の1つやローマのサンタ・プリスカ教会 きょうかい の地下 ちか から発見 はっけん された大神 おおがみ 殿 どの などには破壊 はかい の跡 あと がみられる。各地 かくち で碑文 ひぶん も減少 げんしょう し、増長 ぞうちょう するキリスト教会 きょうかい の特権 とっけん を廃 はい して古代 こだい の神 かみ 々の復権 ふっけん を図 はか った皇帝 こうてい ユリアヌス (在位 ざいい 361年 ねん -363年 ねん )の治下 ちか では増加 ぞうか するが、それは一 いち 代 だい のわずかな期間 きかん にすぎず[13] 、5世紀 せいき 頃 ごろ には消滅 しょうめつ してしまった。
ミトラス教 きょう の図像 ずぞう [ 編集 へんしゅう ]
牡 おす 牛 うし を屠 ほふ るミトラス(2世紀 せいき ごろ)。大 だい 英 えい 博物館 はくぶつかん 所蔵 しょぞう 。
獅子頭 ししがしら 神 しん 。人間 にんげん の体 からだ に獅子 しし の頭 あたま と、背中 せなか に翼 つばさ を持 も つ姿 すがた で描 えが かれる。またその体 からだ には蛇 へび が巻 ま き付 つ いている。バチカン美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう 。
ミトラス教 きょう の図像 ずぞう は主 おも に牡 おす 牛 うし を屠 ほふ るミトラス 、岩 いわ から生 う まれるミトラス 、獅子頭 ししがしら 神 しん が知 し られている。またミトラス神 しん の物語 ものがたり を描 えが いたミトラス神 しん 一代記 いちだいき と呼 よ ばれる一連 いちれん の図像 ずぞう 群 ぐん がある。
牡 おす 牛 うし を屠 ほふ るミトラス[ 編集 へんしゅう ]
この図像 ずぞう はミトラス神 しん による聖 せい 牛 うし 供 きょう 儀 ぎ の場面 ばめん を描 えが いている。ミトラス神 しん はペルシア風 ふう の衣装 いしょう に身 み を包 つつ んでおり、牡 おす 牛 うし の背中 せなか に乗 の りかかって左 ひだり 膝 ひざ をつきながら、右足 みぎあし で牡 おす 牛 うし の後 うし ろ脚 あし を押 お さえつけている。その左手 ひだりて は牡 おす 牛 うし の鼻面 はなづら をつかみ、右手 みぎて は牡 おす 牛 うし に剣 けん を突 つ き立 た てている。傷口 きずぐち からあふれる血 ち には犬 いぬ と蛇 へび が、また牡 おす 牛 うし の腹 はら の下 した ではサソリ が牡 おす 牛 うし の生殖 せいしょく 器 き に跳 と びかかっている。ミトラス神 しん の両側 りょうがわ には松明 たいまつ を持 も った2人 ふたり の脇 わき 侍 さむらい 神 しん カウテースとカウトパテースが侍 はべ り、またそれ以外 いがい にも太陽 たいよう と月 つき 、四方 しほう の風 ふう 、十二宮 じゅうにきゅう 、カラス などのシンボルを伴 ともな う。
この図像 ずぞう が聖 せい 牛 うし の供 きょう 儀 ぎ によって生命 せいめい 力 りょく が解放 かいほう されるさまを描 えが いていることから、ミトラス教 きょう は豊穣 ほうじょう 崇拝 すうはい と密接 みっせつ な関係 かんけい があると考 かんが えられる。これはミトラス教 きょう の図像 ずぞう の中 なか で最 もっと も重要 じゅうよう なもので、ミトラス教 きょう 神殿 しんでん の至 いたり 聖 ひじり 所 しょ 中央 ちゅうおう に必 かなら ずこの図像 ずぞう が配置 はいち され、その前 まえ で儀礼 ぎれい が執 と り行 おこな われた[14] 。
この獅子頭 ししがしら と翼 つばさ を持 も った異 い 貌の神像 しんぞう はこれまでに約 やく 40体 たい ほど発見 はっけん されているが[15] 、それにもかかわらず神 かみ 名 めい や、ミトラス教 きょう においてどのような役割 やくわり を持 も つのか、文献 ぶんけん による証言 しょうげん をはじめミトラス教 きょう の碑文 ひぶん に全 まった く現 あらわ れていないために、今 いま もってその正体 しょうたい は不明 ふめい である。キュモンの説 せつ ではこの神 かみ は時間 じかん 神 かみ クロノス =サトゥルヌス であり、イランの神 かみ ズルヴァーン に由来 ゆらい するという[15] 。
これに対 たい してアンラ・マンユ とする説 せつ もある。ミトラス教 きょう 碑文 ひぶん にはわずか5例 れい ながらアリマニウス (Arimanius)なる神 かみ 名 めい が現 あらわ れているが[16] 、これはプルタルコスが『イシスとオシリス』においてオロマスデス(アフラ・マズダー )の敵対 てきたい 者 しゃ として挙 あ げている神 かみ アンラ・マンユである。しかしミトラス教 きょう 碑文 ひぶん のアリマニウスが果 は たしてイランにおける悪神 あくじん アンラ・マンユと同 おな じ性格 せいかく を持 も つのか、したがってミトラス教徒 きょうと は悪魔 あくま 崇拝 すうはい をしたか、またゾロアスター教 きょう 的 てき な対立 たいりつ 構造 こうぞう を持 も っていたのか疑問 ぎもん が残 のこ る。ミトラス神 しん がイランのミスラとは異 こと なっているように、アリマニウスもまたヘレニズム的 てき な変化 へんか を遂 と げていたと考 かんが えられる[17] 。
碑文 ひぶん はいずれもアリマニウスを神 かみ として認 みと めていることがうかがえ、特 とく にローマ、ヨーク 、アクインクム から出土 しゅつど したものはアリマニウスに誓願 せいがん して神像 しんぞう を奉納 ほうのう した旨 むね が記 しる されている。この獅子頭 ししがしら 神像 しんぞう が碑文 ひぶん のアリマニウスであるという明確 めいかく な証拠 しょうこ はないが、ヨークから発見 はっけん された碑文 ひぶん は頭部 とうぶ を欠 か いた神像 しんぞう を伴 ともな っており、首 くび の部分 ぶぶん には獅子 しし のたてがみを思 おも わせるものが残 のこ っている[18] 。
信者 しんじゃ と信者 しんじゃ 組織 そしき [ 編集 へんしゅう ]
ミトラス教 きょう の信者 しんじゃ 層 そう は概 がい して下層 かそう の人間 にんげん を中心 ちゅうしん としていた。初期 しょき の信者 しんじゃ は下級 かきゅう 兵士 へいし たちであり、そこから軍人 ぐんじん たちや、商人 しょうにん 、職人 しょくにん たちに信者 しんじゃ を得 え ていった。後期 こうき には宮廷 きゅうてい 人 じん の入信 にゅうしん 者 しゃ が現 あらわ れ、さらに皇帝 こうてい たちからも関心 かんしん を得 え た。女性 じょせい の入信 にゅうしん 者 しゃ が例外 れいがい を除 のぞ けばほとんど見 み られないことから、原則 げんそく として女人 にょにん 禁制 きんせい であったと考 かんが えられる。信者 しんじゃ 組織 そしき は神官 しんかん 職 しょく (アンティステス、サケルドス)と7つの位階 いかい (父 ちち 、太陽 たいよう の使者 ししゃ 、ペルシア人 じん 、獅子 しし 、兵士 へいし 、花嫁 はなよめ 、大 だい 烏 がらす )に属 ぞく する入信 にゅうしん 者 しゃ たちで構成 こうせい され、これ以外 いがい にも入信 にゅうしん をしていない一般 いっぱん の信者 しんじゃ たちがいた。入信 にゅうしん 希望 きぼう 者 しゃ には目隠 めかく しのうえで厳 きび しい試練 しれん 的 てき 性格 せいかく の入信 にゅうしん 儀式 ぎしき が課 か せられた。(入信 にゅうしん しようとする者 もの は冠 かんむり を与 あた えられるが、ミトラが「彼 かれ の唯一 ゆいいつ の王 おう である」と述 の べて、それを辞退 じたい しなければならないということがわかっている。次 つぎ に、彼 かれ は赤 あか く焼 や けた鉄 てつ で額 がく に印 しるし をつけられるか(テルトゥリアヌス「異端 いたん 者 しゃ たちへの抗弁 こうべん 」四 よん 〇)、火 ひ のともったたいまつで浄 きよし められる(ルキアヌス「メニッポス」七 なな )[4] 。昇級 しょうきゅう の条件 じょうけん は不明 ふめい である。信者 しんじゃ たちは窓 まど のない神殿 しんでん で非公開 ひこうかい の儀式 ぎしき や礼拝 れいはい に参加 さんか したが、他 た の宗教 しゅうきょう に対 たい しては排他 はいた 的 てき ではなく、他 た の宗教 しゅうきょう の祭礼 さいれい や皇帝 こうてい 崇拝 すうはい にも参加 さんか したらしい。積極 せっきょく 的 てき な布教 ふきょう 活動 かつどう をしなかったため、キリスト教 きょう が受 う けたような弾圧 だんあつ はミトラス教 きょう 史 し を通 つう じて受 う けることはなかった。
オスティアのミトラス教 きょう 遺跡 いせき で発掘 はっくつ されたモザイク画 が 。7位 い 階 かい のシンボルが描 えが かれている。
アンティステス
サケルドス
ミトラス教徒 きょうと の7位 い 階 かい はそれぞれ太陽系 たいようけい の星 ほし を守護神 しゅごじん とした。またシンボリックな象徴 しょうちょう 物 ぶつ があり、たとえばオスティアの「フェリキッシムスのミトラス神殿 しんでん 」の床 ゆか 面 めん のモザイクには7位 い 階 かい の象徴 しょうちょう 物 ぶつ が描 えが かれている[19] 。以下 いか に各 かく 位階 いかい について説明 せつめい する。
父 ちち (パテル, pater)
守護神 しゅごじん は土星 どせい (サートゥルヌス )。シンボルは錫杖 しゃくじょう 、指輪 ゆびわ 。7位 い 階 かい のうち最 さい 上位 じょうい に位置 いち し、下位 かい の信者 しんじゃ たちの指導 しどう 者 しゃ 的 てき 立場 たちば にある。父 ちち は神官 しんかん 職 しょく になることもできた。碑文 ひぶん では「父 ちち 」位 い であり神官 しんかん 職 しょく アンティステスである者 もの がいた。また「父 ちち 」の中 なか で最 もっと も上位 じょうい にあたる「父 ちち の父 ちち 」と呼 よ ばれる者 もの もいた[20] 。
太陽 たいよう の使者 ししゃ (ヘリオドロモス, heliodromus)
守護神 しゅごじん は太陽 たいよう (ソール )。シンボルは 光背 こうはい 、ムチ。原義 げんぎ は「太陽 たいよう の(helio)・走路 そうろ (dromus)」。
ペルシア人 じん (ペルセス, perses)
守護神 しゅごじん は月 つき (ルーナ )。シンボルは月 つき 、鋏 やっとこ 、鎌 かま 。この位階 いかい 名 めい はミトラス教 きょう に存在 そんざい するオリエント要素 ようそ の1つである。
獅子 しし (レオ, leo)
守護神 しゅごじん は木星 もくせい (ユーピテル )。シンボルは燃料 ねんりょう 用 よう 受 う け皿 ざら 、シストルム(ガラガラ )、雷 かみなり 。獅子 しし の仮面 かめん をつける。「獅子 しし 」位 い の入信 にゅうしん のさいには「兵士 へいし 」位 い の者 もの によってハチミツ が捧 ささ げられた。ポルピュリウスの『妖精 ようせい たちの洞窟 どうくつ 』(15)によると「兵士 へいし 」の持 も つクラテールの中 なか で少量 しょうりょう のハチミツが水 みず に溶 と かれ、それを「獅子 しし 」位 い の者 もの の手 て に注 そそ ぐことで浄 きよし めとした。このため「獅子 しし 」位 い の者 もの はメリクリスス(ハチミツを注 そそ がれた者 もの )という戒名 かいみょう を持 も つ者 もの がいたという[21] 。
兵士 へいし (ミリス, miles)
守護神 しゅごじん は火星 かせい (マールス )。シンボルは背嚢 はいのう 、槍 やり 、兜 かぶと 。「兵士 へいし 」位 い は7位 い 階 かい 中 ちゅう 、下位 かい の召使 めしつか い役 やく を演 えん じる3位 い 階 かい の最 さい 上位 じょうい にあたり、上位 じょうい の4位 い 階 かい に奉仕 ほうし した。また「獅子 しし 」位 い の入信 にゅうしん の際 さい には浄 きよし めの儀式 ぎしき を行 おこな った。この位階 いかい 名 めい はキュモンによってミトラス教 きょう の軍事 ぐんじ 的 てき 性格 せいかく を示 しめ すものとされたが、実際 じっさい は豊饒 ほうじょう 女神 めがみ の信仰 しんこう に由来 ゆらい し、豊饒 ほうじょう 女神 めがみ の戦 せん 神 しん 的 てき 側面 そくめん を象徴 しょうちょう するものであるらしい[22] 。
花嫁 はなよめ (ニュンフス, nymphus)
守護神 しゅごじん は金星 かなぼし (ウェヌス )。シンボルは松明 たいまつ 、輝 かがや く冠 かんむり 、ランプ。シリア のドゥラ・エウロポス のミトラス教 きょう 資料 しりょう では12人 にん の「花嫁 はなよめ 」位 い の隠者 いんじゃ が知 し られている[23] 。ローマのサンタ・プリスカ教会 きょうかい (de:Santa Prisca )地下 ちか のミトラス神殿 しんでん から発見 はっけん された壁画 へきが には、花嫁 はなよめ 用 よう のヴェールをまとった「花嫁 はなよめ 」位 い の信者 しんじゃ がランプを持 も つ姿 すがた で描 えが かれており、そこには「金星 きんぼし の守護 しゅご を受 う ける花嫁 はなよめ たちに栄 さか えあれ」という碑文 ひぶん が付 ふ されている。また4世紀 せいき 前半 ぜんはん のユリウス・フィルミクス・マテルヌス (英語 えいご 版 ばん ) の『異端 いたん 誤謬 ごびゅう 論 ろん 』(19・1)では「花嫁 はなよめ 」位 い の者 もの が行 おこな う儀式 ぎしき の典礼 てんれい 歌 か について述 の べられている[24] 。
大 だい 烏 がらす (コラクス, corax)
守護神 しゅごじん は水星 すいせい (メルクリウス )。シンボルは酒杯 しゅはい 、杖 つえ (カドゥケウス)。大 だい 鴉 からす の仮面 かめん をつける。最下位 さいかい に位置 いち するカラスは、神 かみ 々の使者 ししゃ メルクリウスの代理 だいり としての役割 やくわり がある。
ミトラス教 きょう 遺跡 いせき [ 編集 へんしゅう ]
2013年 ねん に行 おこな われた英 えい ロンドン考古学 こうこがく 博物館 はくぶつかん の考古学 こうこがく チームが行 おこな ったロンドン中心 ちゅうしん 部 ぶ の金融 きんゆう 街 がい にあるビル建設 けんせつ 予定 よてい 地 ち の発掘 はっくつ 調査 ちょうさ では、1954年 ねん にミトラ教 きょう 寺院 じいん の遺跡 いせき が発掘 はっくつ され、1960年代 ねんだい に再建 さいけん されていたが、これを解体 かいたい して未 み 発掘 はっくつ だった場所 ばしょ も発掘 はっくつ した。ミトラ教 きょう 寺院 じいん はブルームバーグの新社屋 しんしゃおく が完成 かんせい した時点 じてん で再建 さいけん され、発掘 はっくつ で見 み つかった出土 しゅつど 品 ひん も一般 いっぱん に展示 てんじ された。[25]
ミトラス教 きょう とキリスト教 きょう [ 編集 へんしゅう ]
初期 しょき のキリスト教 きりすときょう とミトラス教 きょう との関係 かんけい 性 せい のアイデアは、キリスト教 きょう の「交 まじ わりの儀 ぎ 」を「悪魔 あくま 的 てき に模倣 もほう する」ミトラス教徒 きょうと を非難 ひなん した2世紀 せいき のキリスト教 きりすときょう 著述 ちょじゅつ 家 か ユスティノス の一時 いちじ の感想 かんそう を元 もと にしている[26] 。これをもとにエルネスト・ルナン は1882年 ねん に、二 ふた つの宗教 しゅうきょう をライバルとして描写 びょうしゃ をした。「もしキリスト教 きりすときょう の成長 せいちょう がいくつかの致命 ちめい 的 てき な病 やまい によって遅 おく らせられていたなら、世界 せかい はミトラス教化 きょうか されていただろう」[3] 。エドウィン・M・ヤマウチ (英語 えいご 版 ばん ) はルナンの著作 ちょさく について「刊行 かんこう されたのは150年 ねん 近 ちか く前 まえ のこと、典拠 てんきょ たる価値 かち は持 も ち得 え ない。彼 かれ (ルナン)はミトラス教 きょう についてほんの僅 わず かしか知 し らない…」とコメントしている[27] 。
ミトラスと処女 しょじょ からの誕生 たんじょう [ 編集 へんしゅう ]
ミトラス教学 きょうがく 者 しゃ ではないジョセフ・キャンベル はミトラスの誕生 たんじょう をイエスのそれのような処女 しょじょ からの誕生 たんじょう であると記述 きじゅつ した[28] 。彼 かれ はその主張 しゅちょう に、古代 こだい の出典 しゅってん を与 あた えていない。どの古代 こだい の原典 げんてん においてもミトラスが処女 しょじょ から生 う まれたとは考 かんが えられていない。むしろ、洞窟 どうくつ の岩 いわ から自然 しぜん に目覚 めざ めている[29] 。Mithraic Studies では、ミトラスは堅固 けんご な岩 いわ の中 なか から大人 おとな の姿 すがた で生 う まれてきたと述 の べられている。「プリュギア の帽子 ぼうし を被 こうむ り、岩 いわ の塊 かたまり から生 しょう じた。今 いま までのところではまだ彼 かれ の剥 む き出 だ しの胴 どう は見 み えない。めいめいの手 て で彼 かれ は灯 とも された松明 たいまつ を高 たか く掲 かか げる。風変 ふうが わりな細部 さいぶ として、ペトラ・ゲネトリクス(母 はは なる岩 いわ )から彼 かれ の周 まわ りに赤 あか い炎 ほのお が吹 ふ き出 で る」[30] 。デイヴィッド・ウランジーはこれが鍾乳洞 しょうにゅうどう で生 う まれたとするペルセウス 神話 しんわ から着想 ちゃくそう された信仰 しんこう であると推測 すいそく する[31] 。
ミトラスと12月25日 にち [ 編集 へんしゅう ]
ロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい 、12月25日 にち (冬至 とうじ )にはナタリス・インウィクティと呼 よ ばれる祭典 さいてん があった。この祭典 さいてん は、ソル ・インウィクトゥス(不敗 ふはい の太陽 たいよう 神 しん )の誕生 たんじょう を祭 まつ るものである。このソル・インウィクトゥス とミトラスの関係 かんけい をミトラス教徒 きょうと がどう考 かんが えていたかは、当時 とうじ の碑文 ひぶん から明白 めいはく である。碑文 ひぶん には「ソル・インウィクトゥス・ミトラス」と記 しる されており、ミトラス教徒 きょうと にとってはミトラスがソル・インウィクトゥスであった。ミトラス教徒 きょうと は太陽 たいよう 神 しん ミトラスが冬至 とうじ に「再 ふたた び生 う まれる」という信仰 しんこう をもち、冬至 とうじ を祝 いわ った(短 みじか くなり続 つづ けていた昼 ひる の時間 じかん が冬至 とうじ を境 さかい に長 なが くなっていくことから)。
現代 げんだい において、12月25日 にち は一般 いっぱん にイエス・キリスト の誕生 たんじょう 日 び とされキリスト教 きりすときょう の祭日 さいじつ 「クリスマス 」として認識 にんしき されている。しかし、これはキリスト教 きりすときょう が広 ひろ がる過程 かてい で前述 ぜんじゅつ の祭 まつり を吸収 きゅうしゅう した後 のち 付 つ けの習慣 しゅうかん である。『新約 しんやく 聖書 せいしょ 』にイエス・キリストが生 う まれた日付 ひづけ や時季 じき を示 しめ す記述 きじゅつ はなく、キリスト教 きょう 各 かく 宗派 しゅうは においてもクリスマスはあくまで「イエス・キリストの降誕 こうたん を記念 きねん し祝 いわ う祭日 さいじつ 」としており、この日 ひ をイエス・キリストの誕生 たんじょう 日 び と認定 にんてい しているわけではない。
ローマ のサンタ・プリスカ教会 きょうかい にあるミトラス神殿 しんでん 遺跡 いせき の壁 かべ に書 か かれた文章 ぶんしょう 、et nos servasti . . . sanguine fuso (そしてあなたは我 われ らを救 すく う……流 なが された血 ち によって)の意味 いみ ははっきりしていない。だけれども、他 た のいかなる出典 しゅってん でもミトラスの救済 きゅうさい について言及 げんきゅう はしておらず、おそらくミトラスによって殺 ころ された雄 お 牛 うし をさしている。
ロバート・ターカンによると[32] 、ミトラスの救済 きゅうさい は個々 ここ の魂 たましい における他 た の世界 せかい 的 てき な運命 うんめい にはほとんど関与 かんよ しなかったが、邪悪 じゃあく な力 ちから に相対 そうたい する、善 よ き創造 そうぞう の宇宙 うちゅう 的 てき な闘争 とうそう への人間 にんげん の参加 さんか についてのゾロアスター教 きょう の様式 ようしき には存在 そんざい していた[33] 。
ミトラスと十字 じゅうじ のしるし [ 編集 へんしゅう ]
テルトゥリアヌス はミトラスの信奉 しんぽう 者 しゃ が彼 かれ らの額 がく に様々 さまざま な方法 ほうほう で印 しるし をつけていたと書 か いている。ここにはそれが十 じゅう 字 じ か、烙印 らくいん か、刺青 しせい か、他 た の不変 ふへん な印 しるし であるのかというほのめかしは一切 いっさい 無 な い[34] 。
中世 ちゅうせい キリスト教 きりすときょう 美術 びじゅつ の中 なか のミトラス教 きょう モチーフ[ 編集 へんしゅう ]
18世紀 せいき 末 まつ から幾 いく 人 にん かの著述 ちょじゅつ 家 か たちが、中世 ちゅうせい キリスト教 きりすときょう 美術 びじゅつ の諸 しょ 要素 ようそ にミトラス教 きょう のモチーフの反映 はんえい があると示唆 しさ した[35] 。
その中 なか にはフランツ・キュモンもいた。しかし彼 かれ はいくつかの要素 ようそ の組 く み合 あ わせやそれらが様々 さまざま な方法 ほうほう でキリスト教 きりすときょう 美術 びじゅつ と結 むす びつくかとは関係 かんけい なく各々 おのおの のモチーフを研究 けんきゅう した[36] 。キュモンは異教 いきょう に対 たい する教会 きょうかい の大勝 たいしょう の後 のち 、芸術 げいじゅつ 家 か たちが元来 がんらい ミトラスから得 え られた蓄積 ちくせき されたイメージを『聖書 せいしょ 』の馴染 なじ みの無 な い新 あたら しい物語 ものがたり にあてはめたのだと言 い った。「仕事場 しごとば の締 し め付 づ け」は初期 しょき キリスト教徒 きりすときょうと の美術 びじゅつ が異教 いきょう 美術 びじゅつ に甚 はなは だしく負 お っていたことと「服装 ふくそう と姿勢 しせい での少数 しょうすう の変更 へんこう が異教 いきょう の背景 はいけい をキリスト教 きりすときょう 美術 びじゅつ に変化 へんか させた」ことを意味 いみ した[37] 。
以来 いらい 、一連 いちれん の学者 がくしゃ たちが中世 ちゅうせい ロマネスク美術 びじゅつ にあるミトラス教 きょう モチーフの有意 ゆうい な類似 るいじ 性 せい について議論 ぎろん している[38] 。フェルマースレン (ドイツ語 ご 版 ばん ) は同様 どうよう な影響 えいきょう の唯 ただ 一 ひと つ確 たし かな例 れい は、炎 ほのお のような馬 うま に引 ひ かれた戦車 せんしゃ に乗 の り、天 てん に昇 のぼ っていくエリヤ のイメージであると述 の べた[39] 。デマンは孤立 こりつ した要素 ようそ を比較 ひかく するのは無益 むえき であり、組 く み合 あ わせが研究 けんきゅう されるべきだと述 の べた。また彼 かれ はイメージの類似 るいじ は、思想 しそう の影響 えいきょう であるか技法 ぎほう 上 じょう の伝統 でんとう であるかを我々 われわれ に教 おし えることは無 な いと指摘 してき した。それから彼 かれ はミトラス教 きょう モチーフに類似 るいじ する中世 ちゅうせい のモチーフのリストを与 あた えたが、それらが主観 しゅかん 的 てき であることを理由 りゆう に結論 けつろん を引 ひ き出 だ すことを拒否 きょひ した[40] 。
弥勒 みろく 信仰 しんこう および マイトレーヤ信仰 しんこう との関係 かんけい [ 編集 へんしゅう ]
ミスラはクシャーナ朝 あさ ではバクトリア語 ご 形 かたち のミイロ(Miiro)と呼 よ ばれ、この語形 ごけい が弥勒 みろく の語源 ごげん になったと考 かんが えられ[41] 、クシャーナ朝 あさ での太陽 たいよう 神 しん ミイロは、のちの未来 みらい 仏 ほとけ 弥勒 みろく の形成 けいせい に影響 えいきょう を及 およ ぼす[42] 。ミイロの神格 しんかく は太陽 たいよう 神 しん であるということ以外 いがい 不明 ふめい であるが、定方 さだかた 晟 あきら はマニ教 きょう の影響 えいきょう なども考慮 こうりょ して、救世主 きゅうせいしゅ 的 てき 側面 そくめん があったのではないかと推測 すいそく している。[要 よう 出典 しゅってん ]
松本 まつもと 文三郎 ぶんざぶろう の仮説 かせつ では、このような比較 ひかく 神話 しんわ 学 がく および比較 ひかく 言語 げんご 学 がく の系統 けいとう 分析 ぶんせき によって、ミトラ教 きょう の神話 しんわ 体系 たいけい が仏教 ぶっきょう では菩薩 ぼさつ として受 う け入 い れられ、マイトレーヤを軸 じく とした独特 どくとく の終末 しゅうまつ 論 ろん 的 てき な「弥勒 みろく 信仰 しんこう 」が形成 けいせい されたとする[43] 。
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