サーサーンあさ

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サーサーンあさ

𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩
224ねん - 651ねん 正統カリフ
クシャーノ・サーサーン朝
イベリア公国
ダブワイド朝
ペルシアの位置
西暦せいれき620ねんごろのサーサーンあさ最大さいだい版図はんと
公用こうよう パフラヴィー
パルティアじゅん公用こうよう
ギリシャコイネー
宗教しゅうきょう ゾロアスターきょう公式こうしき
ズルワーンきょう公式こうしき
マニきょう
仏教ぶっきょう
キリスト教きりすときょうネストリウス
ユダヤきょう
マズダクきょう
首都しゅと イスタフル224ねん - 226ねん
クテシフォン(226ねん - 642ねん
シャーハンシャー諸王しょおうおう
226ねん - 241ねん アルダシール1せい
241ねん - 272ねんシャープール1せい
309ねん - 379ねんシャープール2せい
531ねん - 579ねんホスロー1せい
632ねん - 651ねんヤズデギルド3せい
面積めんせき
550ねん3,500,000km²
620ねん7,400,000km²
人口じんこう
7世紀せいき25,000,000にん
変遷へんせん
建国けんこく 226ねん4がつ28にち
エデッサのたたかマ帝国まていこく勝利しょうりする260ねん
ホスロー2せい治世ちせいでサーサーンあさ最大さいだい版図はんと実現じつげん620ねん
ニハーヴァンドのたたか事実じじつじょう崩壊ほうかいする642ねん
イスラム帝国ていこくによって滅亡めつぼう651ねん
通貨つうかディルハム銀貨ぎんか
現在げんざいイランの旗 イラン
イラクの旗 イラク
クウェートの旗 クウェート
アフガニスタンの旗 アフガニスタン
パキスタンの旗 パキスタン
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
ウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
アルメニアの旗 アルメニア
ジョージア (国)の旗 ジョージア
サウジアラビアの旗 サウジアラビア
バーレーンの旗 バーレーン
カタールの旗 カタール
アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長しゅちょうこく連邦れんぽう
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
アルメニアの旗 アルメニア
シリアの旗 シリア
レバノンの旗 レバノン
イスラエルの旗 イスラエル
ヨルダンの旗 ヨルダン
トルコの旗 トルコ
 エジプト
イエメンの旗 イエメン
先代せんだい次代じだい
パルティア パルティア
インド・パルティア王国 インド・パルティア王国おうこく
クシャーナ朝 クシャーナあさ
アルメニア王国 アルメニア王国おうこく
イベリア王国 イベリア王国おうこく
カフカス・アルバニア王国 カフカス・アルバニア王国おうこく
エフタル エフタル
ラフム朝 ラフムあさ
東ローマ帝国 ひがしマ帝国まていこく
正統せいとうカリフ 正統カリフ
クシャーノ・サーサーンあさ クシャーノ・サーサーン朝
イベリア公国こうこく イベリア公国
ダブワイドあさ ダブワイド朝
イランの歴史
イランの歴史れきし
イランの歴史れきし
イランの先史せんし時代じだい英語えいごばん
はらエラム
エラム
ジーロフト文化ぶんか英語えいごばん
マンナエ
メディア王国おうこく
ペルシア帝国ていこく
アケメネスあさ
セレウコスあさ
アルサケスあさ
サーサーンあさ
イスラームの征服せいふく
ウマイヤあさ
アッバースあさ
ターヒルあさ
サッファールあさ
サーマーンあさ
ズィヤールあさ
ブワイフあさ ガズナあさ
セルジュークあさ ゴールあさ
ホラズム・シャーあさ
イルハンあさ
ムザッファルあさ ティムールあさ
くろひつじあさ しろひつじあさ
サファヴィーあさ
アフシャールあさ
ザンドあさ
ガージャールあさ
パフラヴィーあさ
イスラーム共和きょうわこく

サーサーンあさ(サーサーンちょう, ペルシア: ساسانيان, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Sāsāniyān, 英語えいご: Sassanid)は、イラン高原こうげんメソポタミアなどを支配しはいした王朝おうちょう帝国ていこく(226ねん - 651ねん)。首都しゅとクテシフォン現在げんざいイラク)。ササンあさペルシアともばれる。

サーサーンあさは、かず世紀せいきまえアケメネスあさおなじくイラン高原こうげんファールス地方ちほうから勃興ぼっこうした勢力せいりょくで、その支配しはい領域りょういきエーラーン・シャフル(Ērān Šahr)とばれ、おおよそアナトリア東部とうぶアルメニアからアムダリアがわ西岸せいがんアフガニスタントルクメニスタンてにウズベキスタン周辺しゅうへんまでおよんだ。さら最大さいだい版図はんと現在げんざいのイランとイラクのすべてを包含ほうがんし、地中海ちちゅうかい東岸とうがんエジプトふくむ)からパキスタンまで、そしてアラビア南部なんぶ一部いちぶからコーカサス中央ちゅうおうアジアまでひろがっていた。

とく始祖しそアルダフシール(アルダシール1せい自身じしんゾロアスターきょう神官しんかん階層かいそうから台頭たいとうしたこともあり、様々さまざま変遷へんせんはあったもののゾロアスターきょうつよむすびつきをった帝国ていこくであった。

サーサーンあさ支配しはい時代じだいはイランの歴史れきし最高さいこうてんかんがえられており[1]おおくのてんイスラム教徒きょうと征服せいふくとそののイスラムまえ古代こだいイラン文化ぶんか最盛さいせいであった。サーサーンあさは、多様たよう信仰しんこう文化ぶんか容認ようにんし、複雑ふくざつ中央ちゅうおう集権しゅうけんされた官僚かんりょう制度せいど発展はってんさせた。また帝国ていこく支配しはい正当せいとう統一とういつりょくとしてゾロアスターきょう活性かっせいさせ、壮大そうだい記念きねん公共こうきょう事業じぎょう建設けんせつし、文化ぶんかてきおよび教育きょういくてき機関きかん優遇ゆうぐうした。サーサーンあさ文化ぶんかてき影響えいきょうりょくは、西にしヨーロッパ[2]アフリカ [3]中国ちゅうごくインド[4]ふく領土りょうど境界きょうかいをはるかにえてひろがり、ヨーロッパとアジアの中世ちゅうせい美術びじゅつ形成けいせいおおきな影響えいきょうあたえた[5]ペルシャ文化ぶんかはイスラム文化ぶんかおおくの基礎きそとなり、イスラム世界せかい全体ぜんたい芸術げいじゅつ建築けんちく音楽おんがく文学ぶんがく哲学てつがく影響えいきょうあたえた[6]

名称めいしょう[編集へんしゅう]

公式こうしきには、帝国ていこくイラン帝国ていこく(パフラヴィー: ērānšahrパルティア: aryānšahr)としてられていた。この用語ようごは、おうが「わたしイラン帝国ていこく支配しはいしゃである」(パフラヴィー: ērānšahrxwadāyhēm、パルティア: aryānšahrxwadāyahēm)というシャープール1せいのゾロアスターのカアバの碑文ひぶん英語えいごばん最初さいしょ言及げんきゅうされている[7]

より一般いっぱんてきには、王朝おうちょうサーサーンにちなんで名付なづけられたという事実じじつのために、歴史れきしてき学術がくじゅつてき情報じょうほうげんではサーサーン帝国ていこくとしてられている。

日本語にほんごではしばしばササンあさササンあさペルシアササンあさペルシャともばれる[8]たんペルシア帝国ていこくまたはペルシャ帝国ていこくといった場合ばあいは、サーサーンあさか、かず世紀せいきまえアケメネスあさすことがおおい。

歴史れきし[編集へんしゅう]

起源きげん[編集へんしゅう]

サーサーンあさ起源きげん不明ふめいてんおおい。サーサーンあさひらいたのはアルダシール1せいだが、かれ出自しゅつじなぞつつまれている。まず王朝おうちょうもちいられるサーサーンが何者なにものなのかもはっきりしない。サーサーンが王位おういいた証拠しょうこ現在げんざいまで確認かくにんされておらず、サーサーンにかんする伝説でんせつでも、アケメネスあさ後裔こうえいとするものやパールスの王族おうぞくであったとするもの、神官しんかんであったとするものなどがある。アルダシールの父親ちちおやバーバク(パーパク)はパールス地方ちほう支配しはいけんったおうであり、サーサーンあさ実際じっさい独立どくりつ勢力せいりょくとなったのはかれ時代じだいである。かれはサーサーンの息子むすこともとお子孫しそんともいわれる。しかし、バーバクはもなくパルティアたたかってやぶれ、結局けっきょくパルティアの宗主そうしゅけんおさまった。そしてバーバクのあといだアルダシール1せいがサーサーンあさ偉大いだい帝国ていこくとしておこすことになる。

アルダシール1せい西暦せいれき224ねん即位そくいするとふたたびパルティアとのたたかいにし、エリマイス王国おうこくなどイラン高原こうげん諸国しょこく次々つぎつぎ制圧せいあつした。同年どうねん4がつホルミズダガンのたたか英語えいごばんでパルティアおうアルタバヌス4せいたたかって勝利しょうりおさめ、「諸王しょおうおう」というアルサケスあさ称号しょうごういで使用しようした。この勝利しょうりによってパルティアのだい貴族きぞくがアルダシール1せい覇権はけん承認しょうにんした。230ねんにはメソポタミア全域ぜんいき傘下さんかおさめ、マ帝国まていこくセウェルスあさ介入かいにゅうはいしてアルメニアにまで覇権はけんおよぼした。ひがしではクシャーナあさトゥーラーンおうたちとのたたかいでも勝利しょうりおさめ、かれらにみずからの宗主そうしゅけん承認しょうにんさせ、きゅうパルティアりょう大半たいはん支配しはいくことに成功せいこうした。

降服こうふくするウァレリアヌスみかどらと騎乗きじょうのシャープール1せいナクシェ・ロスタムすりがけぞうより

以後いごサーサーンあさとローマ諸王しょおうあさひがしローマしょ王朝おうちょう)はサーサーンあさ滅亡めつぼうまで断続だんぞくてき衝突しょうとつかえした。アルダシール1せい後継こうけいしゃシャープール1せいは、たいローマせん戦果せんかげた。244ねんシリア地方ちほう安全あんぜん保障ほしょうのためにサーサーンあさ占領せんりょうしていたニシビス英語えいごばんなどの都市とし奪回だっかいすべくゴルディアヌス3せいがサーサーンあさへと侵攻しんこうした。これをむかったシャープール1せいマッシナのたたかでゴルディアヌス3せい戦死せんしさせた。そして、しん皇帝こうていフィリップスとの和平わへいにおいて莫大ばくだい賠償金ばいしょうきん獲得かくとくした。のち皇帝こうていウァレリアヌス再度さいどサーサーンあさ戦端せんたんひらいたが、シャープール1せい260ねんエデッサのたたか皇帝こうていヴァレリアヌスを捕虜ほりょにするというだい戦果せんかおさめた。シャープール1せいは、馬上もうえ自分じぶんひざまずいて命乞いのちごいをするヴァレリアヌスのりをつくらせた。そしてこれ以後いご、「エーラーンとエーラーンがい諸王しょおうおう」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)をごうするようになった。

王位おうい継承けいしょう問題もんだい弱体じゃくたい[編集へんしゅう]

ナクシェ・ロスタムの「ゾロアスターのカアバ」en:Ka'ba-i Zartoshtばれる遺跡いせき建物たてもの用途ようと不明ふめいだが、下部かぶ壁面へきめんにカルティールによってかれた長大ちょうだいなパフラヴィー碑文ひぶんがある

シャープール1せい死後しご長男ちょうなんホルミズド1せい(ホルミズド・アルダシール)が即位そくいしたが、もなく死去しきょしたのでつづいて次男じなんバハラーム1せい即位そくいした。バハラームの治世ちせいではシャープール時代じだい祭司さいしちょうとなっていたカルティール(キルデール)が影響えいきょうりょく大幅おおはば拡大かくだいした。絶大ぜつだい権勢けんせいるったかれおうおなじように各地かくち碑文ひぶんのこし、マニきょう仏教ぶっきょうキリスト教きりすときょうなどの排斥はいせきすすめた。マニきょう経典きょうてんによればカルティールは教祖きょうそマニ処刑しょけいかかわっていた。

バハラーム1せい死後しご、そのおとうとナルセと、息子むすこバハラーム2せいとのあいだ不穏ふおん気配けはいながれた。すでにバハラーム1せい生前せいぜんにバハラーム2せい後継こうけい指名しめいされていたが、ナルセはこれにはげしく反発はんぱつした。しかしカルティールや貴族きぞく支持しじたバハラーム2せい即位そくいした。バハラーム2せい治世ちせいにはホラーサーン反乱はんらんたいローマ敗戦はいせんなどがあったが、ホラーサーンの反乱はんらん鎮圧ちんあつした。カルティールはなおつよ影響えいきょうりょく保持ほじつづけた。バハラーム2せい死去しきょはんカルティール中小ちゅうしょう貴族きぞくから支援しえんされたナルセはクーデターによって王位おういについた。ナルセ1せいはメソポタミア西部せいぶやそのしゅう奪回だっかい目指めざしてひがしローマぐんたたかい、西にしメソポタミアを奪回だっかい一方いっぽうでアルメニアを喪失そうしつし、両国りょうこくあいだ和平わへい協定きょうていむすばれ、和平わへいは40年間ねんかんわたって維持いじされた。

統治とうち体制たいせい完成かんせい[編集へんしゅう]

ローマ皇帝こうていユリアヌスの東方とうほう遠征えんせい363ねん

その王位おういはシャープール2せいがれた。シャープール2せい胎児たいじときから即位そくいまっており、かれ母親ははおやはらうえ王冠おうかんが戴せられ、あにたちは殺害さつがい幽閉ゆうへいされた。こうしてシャープール2せい生誕せいたん同時どうじ即位そくいし、サーサーンあさ史上しじょう最長さいちょう在位ざいい期間きかんおうとなった。少年しょうねん時代じだい貴族きぞくたち傀儡かいらいとしてごしたが、ながじるにじゅん(したが)って実権じっけんにぎった。シャープール2せいスサ反乱はんらんすみやかに鎮圧ちんあつし、城壁じょうへき破壊はかい。またぜんおう死後しご領内りょうない侵入しんにゅうしていたアラブじん撃退げきたいし、アラビア半島はんとう奥深おくふかくまで追撃ついげきして降伏ごうぶくさせた。ローマぐんとのたたかいでは、363ねんクテシフォンのたたか英語えいごばん侵攻しんこうしてきた皇帝こうていユリアヌス戦死せんしさせ、アルメニア支配しはいけんにぎった。東方とうほうのトゥーラーンではフンぞく一派いっぱおもわれる集団しゅうだん侵入しんにゅうしたが、シャープールはかれらを同盟どうめいしゃとすることに成功せいこうした。

対外たいがいてき成功せいこうつづけたシャープール2せいは、領内りょうない統治とうちかんしてはすうおおくの都市とし再建さいけん各地かくち要塞ようさい城壁じょうへききずいて外敵がいてき侵入しんにゅうそなえた。また、ナルセ1せい以来いらい宗教しゅうきょう寛容かんようさくて、ゾロアスターきょう教会きょうかい制度せいど整備せいびし、キリストきょう・マニきょうへの圧力あつりょくつよめた。こうしてシャープールの治世ちせいでは、サーサーンあさ統治とうち体制たいせいが1つの完成かんせいたとされる。

ちゅうあいだ[編集へんしゅう]

ターク・イ・ブスタン小洞こぼらシャープール3せいひだり)とそのちちシャープール2せいみぎ)のぞうぞう左上ひだりうえみぎじょう各々おのおのぞうぬしについてパフラヴィー碑文ひぶんかれている

バハラーム4せい治世ちせいはいるとフンぞく来襲らいしゅうしたが、バハラームはかれらと同盟どうめいむすんだ。バハラームの死後しごヤズデギルド1せい即位そくいした。ヤズデギルド1せいは「罪人ざいにん」の異名いみょうあたえられているが、そのしん理由りゆうかっていない。友人ゆうじんキリスト教徒きりすときょうと医師いしがいたためにキリスト教きりすときょう改宗かいしゅうしたからだともわれ、またヤズデギルド1せい許可きょかした410ねんセレウキアこう会議かいぎ英語えいごばんひらかれたためともわれているが、ヤズデギルド1せいキリスト教徒きりすときょうと特別とくべつ寛容かんようであったかどうかは判然はんぜんとしていない。

ヤズデギルド1せい死後しごふたた王位おうい継承けいしょうあらそいがき、短命たんめいおうつづいたのちバハラーム5せい即位そくいした。バハラーム5せいはゾロアスターきょう聖職せいしょくしゃげんれてキリスト教徒きょうと弾圧だんあつおこなったため、おおくのキリスト教徒きりすときょうと国外こくがい逃亡とうぼうした。亡命ぼうめいしゃめぐってサーサーンあさひがしマ帝国まていこくテオドシウスあさあいだ交渉こうしょうたれたが決裂けつれつ422ねんローマ・サーサーン戦争せんそう英語えいごばん敗北はいぼく領内りょうないにおけるキリスト教徒きりすときょうと待遇たいぐう改善かいぜん約束やくそくした。

エフタルの脅威きょうい[編集へんしゅう]

インド・エフタル ナプキ・マルカ英語えいごばんおう(c.475-576)の貨幣かへいよう合金ごうきんドラクマ

425ねんに、バハラーム5せい治世ちせい東方とうほうからエフタル侵入しんにゅうがあった。バハラーム5せいはこれをおさえて中央ちゅうおうアジア方面ほうめんでサーサーンあさ勢力せいりょく拡大かくだいしたが、以後いごエフタルがサーサーンあさなやみのたねとなる。428ねんアルサケスちょうアルメニア英語えいごばん滅亡めつぼうし、サーサーンちょうアルメニア英語えいごばん成立せいりつ

バハラーム5せいあといだ息子むすこヤズデギルド2せいは、ひがしマ帝国まていこくテオドシウス2せい紛争ふんそうひがしローマ・サーサーン戦争せんそう (440ねん))ののち441ねん相互そうご不可侵ふかしん約定やくじょうむすんだ。443ねんに、キダーラあさとのたたかいをはじめ、450ねん勝利しょうりおさめた。国内こくないにおいて、アルメニアじんキリスト教徒きりすときょうとにゾロアスターきょう改宗かいしゅうせま動乱どうらん発生はっせいした。ひがしマ帝国まていこくのテオドシウスあさがアルメニアを支援しえんしたが、451ねんにヤズデギルド2せいアヴァライルのたたか英語えいごばん勝利しょうりキリスト教きりすときょう煽動せんどうしゃ処刑しょけいして支配しはいかためた。

ヤズデギルド2せい治世ちせい末期まっきより、強大きょうだいしたエフタルはサーサーンあさへの干渉かんしょうつよめた。ヤズデギルド2せい東部とうぶ国境こっきょう各地かくち転戦てんせんしたが、決定的けっていてき打撃だげきあたえることなく457ねんった。かれ二人ふたり息子むすこ、ホルミズドとペーローズ1せい王位おういめぐってはげしくあらそい、ペーローズはエフタルの支援しえん帝位ていいいた。

458ねんにサーサーンちょうアルメニアでゾロアスターきょうへの改宗かいしゅうこばマミコニアン英語えいごばん王女おうじょおっとVarskenに殺害さつがいされた。エフタルの攻撃こうげきけサーサーンあさ東方とうほうへいけていたため、イベリア王国おうこくおうヴァフタング1せいがこのあらそいに介入かいにゅうしてVarskenもころされた。ペーローズ1せいアードゥル・グシュナースプ英語えいごばん派遣はけんしたが、ヴァハン・マミコニアン英語えいごばん蜂起ほうきしてヴァフタングに合流ごうりゅう。アードゥル・グシュナースプはさい攻撃こうげきこころみたがやぶれてころされた。

ペーローズ1せいはエフタルの影響えいきょうりょく排除はいじょすべく469ねんにエフタルをめたが、やぶれて捕虜ほりょとなり、息子むすこのカワードを人質ひとじちしエフタルにたいする莫大ばくだいみつぎおさめおさめる盟約めいやくむすんだ。旱魃かんばつにより財政ざいせい事情じじょう逼迫ひっぱく484ねん再度さいどエフタルをめたがはいした(ヘラートのたたか英語えいごばん)。485ねんにはヴァハン・マミコニアンがサーサーンちょうアルメニアのマルズバーン指名しめいされる。

488ねんに、人質ひとじちていたカワード1せい在位ざいい488ねん496ねん498ねん-531ねん)がエフタルの庇護ひごした帰国きこくし、帝位ていいいた。しかし、マズダクきょうあつかいをめぐ貴族きぞくたち対立たいりつしたため幽閉ゆうへいされて廃位はいいされた。幽閉ゆうへいされたカワード1せい逃亡とうぼうしてエフタルのしたのがれ、エフタルの支援しえんふたた首都しゅとみ、498ねん復位ふくい(重祚じゅうそ)した。同年どうねんネストリウスそう主教しゅきょうセレウキア-クテシフォン英語えいごばんてられた。カワード1せいは、帝位ていい継承けいしょうさいして貴族きぞく干渉かんしょうけないことを目指めざし、後継こうけいしゃ息子むすこのホスロー1せいとした。

502ねんに、カワード1せいはエフタルへのみつぎおさめ捻出ねんしゅつのためひがしローマりょう侵攻しんこうし(アナスタシア戦争せんそう)、領土りょうどうばうとともに領内りょうない各地かくち反乱はんらん鎮圧ちんあつした。このたたかいがen:Byzantine–Sassanid Wars(502ねん628ねん)のはじまりであった。 526ねんに、イベリア戦争せんそう(526ねん532ねん)が、ひがしマ帝国まていこくラフムあさ英語えいごばん連合れんごうぐんとのあいだおこなわれた。530ねんBattle of DaraBattle of Satala。531ねんBattle of Callinicum

最盛さいせい[編集へんしゅう]

カワード1せい後継こうけいしゃホスロー1せい在位ざいい:531ねん-579ねん)の治世ちせいがサーサーンあさ最盛さいせいしょうされる。ホスロー1せいちち政策せいさく継承けいしょうしてだい貴族きぞく影響えいきょうりょく排除はいじょすすめ、またマズダクきょうせいして社会しゃかい秩序ちつじょ回復かいふくさせ、軍制ぐんせい改革かいかくにもんだ。とりわけ中小ちゅうしょう貴族きぞく没落ぼつらく回避かいひするため、軍備ぐんび自己じこ負担ふたん廃止はいしして武器ぶき官給かんきゅうとした。一方いっぽう宗教しゅうきょう政策せいさくにもちかられ、末端まったんにも聖火せいか拝礼はいれいすすめるなど神殿しんでん組織そしき再編さいへんこころみた。

一方いっぽうひがしマ帝国まていこくではキリスト教学きょうがく発展はってんともな異教いきょう排除はいじょすすみ、529ねんにはユスティニアヌス1せいによってアテネアカデミア閉鎖へいさされた。ゆえに失業しつぎょうした学者がくしゃ数多かずおおくサーサーンあさ移住いじゅうし、ホスローはかれらのための施設しせつつくってれた。それ以前いぜんに、エジプトでも415ねんヒュパティアキリスト教徒きりすときょうとによりころされ、エジプトからも学者がくしゃ数多かずおおくサーサーンあさ亡命ぼうめいした。この結果けっかギリシアラテン語らてんご)の文献ぶんけん多数たすう翻訳ほんやくされた。

ホスロー1せい狩猟しゅりょうえがいた銀盤ぎんばん

ホスロー1せいからホスロー2せい時代じだいにかけて、各地かくち様々さまざま文献ぶんけん翻訳ほんやく文献ぶんけん宮廷きゅうてい図書館としょかん収蔵しゅうぞうさせたとつたえられている。宗教しゅうきょう関係かんけいでは『アヴェスター』などのゾロアスターきょう聖典せいてんるい書籍しょせきされ、この注釈ちゅうしゃくなど各種かくしゅパフラヴィー文書ぶんしょ(『ヤシュト』)もこの時期じき執筆しっぴつされた。『アヴェスター』書写しょしゃのためアヴェスター文字もじ既存きそんのパフラヴィー文字もじ改良かいりょうしてそうせいされ、現存げんそんするゾロアスターきょう文献ぶんけん基礎きそはこの時期じき作成さくせいされたとかんがえられる。現存げんそんしないが、の『シャー・ナーメ』の前身ぜんしん古代こだいからサーサーンあさ時代じだいまでつづ歴史れきししょフワダーイ・ナーマグ英語えいごばん』(Χかいwadāy Nāmag)は、このころ編纂へんさんされたとおもわれる。[9]

タバリーなどの後代こうだい記録きろくでは、ホスロー1せい時代じだいから(おもにホスロー2せい時代じだいにかけて)天文てんもん医学いがく自然しぜん科学かがくなどにかんする大量たいりょうのパフラヴィー中期ちゅうきペルシアやくのギリシアしょ文献ぶんけん宮廷きゅうてい図書館としょかん収蔵しゅうぞうされたことがつたえられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面ほうめんサンスクリットしょ文献ぶんけん積極せっきょくてき移入いにゅう翻訳ほんやくされたという(この時期じきのインド方面ほうめんからの文物ぶんぶつ移入いにゅうについては、たとえば、チェスがインドからサーサーンあさ移入いにゅうされた経緯けいいべられているパフラヴィーシャトランジ歴史れきし物語ものがたりシャトランジかしのしょペルシアばん』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローとかれつかえた大臣だいじんブズルグミフル・イ・ボーフタガーン英語えいごばんペルシア: بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان‎、転写てんしゃ: Bozorgmehr-e Bokhtagan)のはなしである)。

5世紀せいき前後ぜんこうからオマーンイエメンといったアラビア半島はんとう遠征えんせい鉱山こうざん開発かいはつなどのため入植にゅうしょくおこなわせており、イラク南部なんぶラフムあさ英語えいごばんなどの周辺しゅうへんのアラブけい王朝おうちょう傘下さんかいた。

ホスロー1せいは、ユスティニアヌス1せい西方せいほう経略けいりゃくすきじょうじて圧力あつりょくみつぎ納金のうきんし、また度々たびたびひがしローマりょう侵攻しんこうして賠償金ばいしょうきんた。ユスティニアヌスあさとのあいだに50年間ねんかん休戦きゅうせんむすぶと、558ねん東方とうほう影響えいきょうりょく拡大かくだいするエフタルにたいして突厥西方にしかたげんイリ)のしつてんみつ同盟どうめいむす攻撃こうげき仕掛しかけ、長年ながねん懸案けんあんだったエフタルを滅亡めつぼうさせた。一方いっぽうでエフタルのおそった突厥との友好ゆうこう関係かんけい継続けいぞくすべく婚姻こんいん外交がいこうすすめたが、588ねんだいいちペルソ・テュルク戦争せんそう英語えいごばん対立たいりついたり、結局けっきょくエフタルをほろぼしたものの領土りょうど拡張かくちょう一部いちぶとどまった。569ねんからビザンチンと西にし突厥同盟どうめい関係かんけいとなっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争せんそう (572ねん-591ねん)英語えいごばんこした。

滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

600ねん前後ぜんこうのサーサーンあさ周辺しゅうへん

ホスロー1せいまごホスロー2せい即位そくい直後ちょくごに、東方とうほうバフラーム・チョービーン英語えいごばん反乱はんらん発生はっせいしたためひがしローマ国境こっきょう付近ふきんまで逃走とうそうし、王位おうい簒奪さんだつされた。ひがしローマのマウリキウス援助えんじょ反乱はんらん鎮圧ちんあつしたが、602ねんひがしローマの政変せいへんでマウリキウスがころされフォカス帝位ていい僭称せんしょうすると、仇討あだうちかかげてひがしローマ・サーサーン戦争せんそう開始かいし、フォカスは初戦しょせん大勝たいしょうおさめたが、610ねんにクーデターでヘラクレイオス帝位ていいそくき、ヘラクレイオスあさおこした。

連年れんねんのホスロー2せいひきいるサーサーンあさぐん侵攻しんこうによって、613ねんにはシリアのダマスカスシリア英語えいごばんよく614ねんには聖地せいちエルサレム占領せんりょうした(エルサレム包囲ほういせん英語えいごばん)。このときエルサレムから「しんなる十字架じゅうじか」をかえったという。

615ねんエジプト征服せいふく英語えいごばんはじまり、619ねんだいペルソ・テュルク戦争せんそう英語えいごばんこった。621ねんにサーサーンあさエジプト全土ぜんど占領せんりょうし、アナトリアも占領せんりょうして、アケメネスあさきゅう領域りょういき支配しはいれた。一時いちじコンスタンティノープル包囲ほういし、ヘラクレイオス自身じしんカルタゴ逃亡とうぼうはかろうとした。

しかし、622ねんカッパドキアのたたか英語えいごばんでヘラクレイオスが反撃はんげきてんじ、占領せんりょう黒海こっかいひがし南部なんぶ沿岸えんがんから直接ちょくせつ中枢ちゅうすうメソポタミアへ侵入しんにゅうした。サーサーンあさアヴァール共同きょうどうでヘラクレイオス不在ふざい首都しゅとコンスタンティノポリス包囲ほういし、呼応こおうしてだいさんペルソ・テュルク戦争せんそうこったが、撃退げきたいされる(コンスタンティノープル包囲ほういせん)。

627ねんに、サーサーンちょうぐんはメソポタミアに侵攻しんこうしたヘラクレイオスおやせいひがしローマぐんニネヴェのたたか敗北はいぼくし、クテシフォン近郊きんこうまで進撃しんげきされた。ホスロー2せい長年ながねんわた戦争せんそう内政ないせいかえりみない統治とうち疲弊ひへいまねいていた結果けっか、628ねんにクテシフォンで反乱はんらんこりホスロー2せい息子むすこカワード2せい裏切うらぎられころされた。

ホスロー2せい屈服くっぷくさせるヘラクレイオス1せい。(十字架じゅうじかえがかれた七宝しっぽうせい画像がぞう。12世紀せいき後半こうはん

カワード2せい即位そくいするとヘラクレイオスあさとの関係かんけい修復しゅうふくのためせい十字架じゅうじか返還へんかんしたが、ほどなく病死びょうしして王位おうい継承けいしょう内戦ないせん発生はっせいした(サーサーン内乱ないらん)。長期ちょうきわた混乱こんらんすえに、29代目だいめ最後さいごおうヤズデギルド3せい即位そくいしたが、サーサーンあさ国力こくりょく内乱ないらんやイラク南部なんぶにおけるディジュラフラートかわとその支流しりゅうだい洪水こうずいともなりゅう変更へんこう農業のうぎょう適地てきち消失しょうしつ湿地しっち進行しんこう)により消耗しょうもうした。そこに新興しんこう宗教しゅうきょうイスラム教いすらむきょう勃興ぼっこうしサーサーンあさ最期さいごときむかえることになる。

アラビア半島はんとう勃興ぼっこうしたイスラム共同きょうどうたい勢力せいりょく拡大かくだいひがしローマ・サーサーンりょう侵入しんにゅう633ねんハーリド・イブン=アル=ワリードひきいるイスラムぐんがイラク南部なんぶのサワード地方ちほう侵攻しんこうイスラーム教徒きょうとのペルシア征服せいふく)、現地げんちのサーサーンぐんやぶれ、サワード地方ちほう都市としおおくは降伏ごうぶく勧告かんこくおうじて開城かいじょうした。よく634ねんにハーリドがシリア戦線せんせんると、イスラムぐん統率とうそつうしない、進撃しんげき停滞ていたい、ヤズデギルド3せい各所かくしょでこれらをやぶり、一時いちじ、サーサーンあさによるイラク防衛ぼうえい成功せいこうするかにえた[10]。しかし、同年どうねんアブー=バクルによるカリフ正統せいとうカリフ)のウマル・イブン・ハッターブへの交代こうたいともに、ペルシア戦線せんせんにおけるイスラムぐん指揮しき系統けいとう一新いっしんされ、636ねんカーディシーヤのたたか敗北はいぼく首都しゅとクテシフォンが包囲ほういされるにおよんでヤズデギルド3せい逃亡とうぼう、サーサーンあさりょうでは飢饉ききん疫病えきびょう蔓延まんえんしたという。クテシフォン北東ほくとうのジャルーラーウでザグロス山脈さんみゃく周辺しゅうへんからぐん召集しょうしゅうして反撃はんげきこころみたが、イスラムぐん攻撃こうげき大敗たいはいした。

641ねんにヤズデギルド3せいライクーミス英語えいごばんエスファハーンハマダーンなどイラン高原こうげん西部せいぶからへい徴集ちょうしゅうして6まんとも10まんともわれる大軍たいぐん編成へんせいたいするウマルも軍営ぐんえい都市としバスラクーファから軍勢ぐんぜい招集しょうしゅうする。

642ねんにニハーヴァンドのたたかいでサーサーンぐんとイスラムぐん会戦かいせんし、サーサーンぐんやぶれた。敗戦はいせんはエスファハーンからパールスしゅうのイスタフルへのがれたが、エスファハーンも643ねんから644ねんにかけてイスラムぐん制圧せいあつされた。ヤズデギルド3せい再起さいきはかって東方とうほうのがケルマーンスィースターンおもむくが、現地げんち辺境へんきょう総督そうとく(マルズバーン)の反感はんかんってきたのがれざるをなくなり、ホラーサーンのメルヴのがれた。しかし、651ねんにヤズデギルド3せいはメルヴ総督そうとくマーフワイフの裏切うらぎりで殺害さつがいされ、サーサーンあさ完全かんぜん崩壊ほうかいした。東方とうほう遠征えんせい駐屯ちゅうとんしていた王子おうじペーローズとそのぐんはそのまり反撃はんげき機会きかいうかがい、さらにとう助勢じょせいもとめ、みずからが長安ながやすまでおもむいて亡命ぼうめい政府せいふ設立せつりつしたが、成功せいこうすることはなかった。『きゅうとうしょ』にはだいこよみ6ねん(771ねん)にとう真珠しんじゅ献上けんじょうした記録きろくがあり、このころまでは亡命ぼうめい政府せいふ活動かつどうしていたようである。

サーサーンあさ滅亡めつぼうは、ムスリムにとってはイスラム共同きょうどうたい(帝国ていこく)が世界せかい帝国ていこく発展はってんする契機けいきとなった栄光えいこう歴史れきしとして記憶きおくされた。

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

後期こうきサーサーンあさでは官僚かんりょうてき中央ちゅうおう集権しゅうけんすすみ、そのしょ制度せいどアッバースあさなどイスラム帝国ていこくがれた。また、後代こうだいにはサーサーンあさ最後さいご君主くんしゅヤズデギルド3せいむすめシャフル・バーヌーがシーアだい3だいイマームフサインつま一人ひとりとなり、だい4だいイマーム・アリー・ザイヌルアービディーン生母せいぼとなった、といったものやサファヴィーあさ宗祖しゅうそサイイド・サフィーユッディーン・イスハーク1252/3ねん - 1334ねん)がサーサーン王家おうけいているなどの伝承でんしょうまれた。

とくにアッバースあさ衰退すいたいをはじめる10世紀せいき以降いこうカスピ海かすぴかい南岸なんがん地域ちいきではズィヤールあさマーザンダラーンバーワンド英語えいごばんフランス語ふらんすごばんBawandids8世紀せいき-1349ねん)などサーサーンあさ時代じだいまでさかのぼ名家めいか存在そんざいしており、この地域ちいきからイランてき習俗しゅうぞくつよったブワイフあさ勃興ぼっこうしイラクやイラン高原こうげん全域ぜんいき席巻せっけんした。地域ちいき同様どうよう、アラブ征服せいふく時代じだい以降いこうイラン方面ほうめんまで進出しんしゅつしたイスラム教いすらむきょう預言よげんしゃムハンマド一族いちぞくであるハーシムなどののちサイイドばれる人々ひとびと婚姻こんいんむすんで歴史れきしつ。

自国じこく編纂へんさん[編集へんしゅう]

公正こうせいなるヌーシルラワーンことホスロー1せい大臣だいじんブズルグミフルのために宴席えんせきもうける。(イルハンあさ時代じだいの『シャー・ナーメ』の1写本しゃほん1330ねん作成さくせい

サーサーンあさ歴史れきしについてはアッバースあさ時代じだいウラマーであるタバリーがアラビアあらわした『しょ使徒しと諸王しょおう歴史れきし収録しゅうろく記事きじ現存げんそんする「通史つうし」としては最古さいこであり、にはサーサーンあさ歴代れきだい君主くんしゅのこした碑文ひぶんぐんやマニきょう文書ぶんしょ、パフラヴィーによる行政ぎょうせい文書ぶんしょなどの史料しりょうぐん、パフラヴィーアルメニアシリア・ギリシアラテン語らてんごなどの年代ねんだい通貨つうかなどにより歴史れきし実態じったい文化ぶんかなどが研究けんきゅうされている。

パルティアやパフラヴィー文字もじ碑文ひぶんなどはサーサーンあさ草創そうそうから存在そんざいしているが、現存げんそんするゾロアスターきょう文献ぶんけんなどによると、古代こだいイラン世界せかいでは文字もじ音声おんせい物質ぶっしつしたしずしむべきものとなされていたようで、古代こだいからの伝承でんしょう神官しんかんマギ)などが口伝くでん代々だいだい受継うけつがれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1せい時代じだいから世界中せかいじゅう知識ちしき集積しゅうせきしようというイデオロギーてきうごきがられ、パフラヴィー文字もじ改良かいりょうしたアヴェスター文字もじ発明はつめいによりゾロアスターきょう文献ぶんけん書籍しょせき契機けいきまれたとかんがえられている。これに関連かんれんして古代こだいからサーサーンあさ時代じだいまでの歴史れきし編纂へんさんするうごきがあったようで、歴史れきししょ『フワダーイ・ナーマグ』(Χかいwadāy Nāmag)が製作せいさくされたとつたえられている。これが、アッバースあさ時代じだいのタバリーなどのサーサーンあさ原典げんてんとなり、さらに後代こうだいフェルドウスィーなどがあらわした歴史れきし叙事詩じょじし『シャー・ナーメ』のルーツとなった。

そのため、現在げんざいイラン民族みんぞくにとって、サーサーンあさ直接ちょくせつ国家こっかてき祖先そせんなされている。これは近代きんだい影響えいきょうだけでなく、そもそもサーサーンあさ時代じだい歴史れきしなどを編纂へんさんはじめた王朝おうちょう末期まっきやアッバースあさ時代じだいころには、すでにアケメネスあさ時代じだい神話しんわ伝説でんせつし、セレウコスあさ時代じだい・パルティア時代じだいほとんわすられていた状態じょうたいで、過去かこへの歴史れきしてき憧憬どうけい神話しんわ時代じだいのぞくとペルシア文学ぶんがくではサーサーンあさ後期こうきのホスロー1せい時代じだいとく賞揚しょうようされてきた伝統でんとうによっている。とくにホスロー1せいは「公正こうせいなるアヌーシルワーン」(「不滅ふめつなる霊魂れいこん」を意味いみする中期ちゅうきペルシア、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来ゆらいするアラビア訛音かおん)ともばれ、統治とうちしゃ君主くんしゅ模範もはんとしてあおがれた。ペルシア通用つうようしたアナトリア・イラン高原こうげん以東いとう地域ちいきでは、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』のほかに、ホスロー2せい題材だいざいにしたニザーミーの『ホスローとシーリーン』などペルシア文芸ぶんげいとともにサーサーンあさ時代じだいについての知識ちしき受容じゅようされた。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

サーサーンあさはぐくまれた行政ぎょうせい組織そしき文化ぶんかイスラム時代じだいにも多大ただい影響えいきょうのこした。

銀貨ぎんか[編集へんしゅう]

サーサーンあさでは、直径ちょっけい3㎝の大型おおがたうすこう純度じゅんど銀貨ぎんかもちいた、1ドラクム銀貨ぎんか数多かずおお発行はっこうした。図柄ずがら共通きょうつうしており、片面かためんには王冠おうかんをかぶったおう横顔よこがお胸像きょうぞうおうめいとうしめすパフラヴィーでの銘文めいぶん片面かためんにははいまゆみならびに2めい守衛しゅえいぞうと、発行はっこう発行はっこうねんしめすパフラヴィー銘文めいぶんしるしている。

三蔵さんぞう法師ほうしげん奘はペルシャ訪問ほうもん機会きかいかったが、ペルシャの伝聞でんぶん情報じょうほうており、だいから西域せいいきだい11かんだい20せつには、なみ剌斯こく(ペルシャこく)の記録きろくとして、「うま駱駝らくだおおく、貨幣かへいだいぎんぜに使用しようする」と記載きさいした。中国ちゅうごくほうあな円形えんけい銅貨どうかくらべると、サーサーンあさの1ドラクム銀貨ぎんか美麗びれいであり巨大きょだいである。

著名ちょめい貨幣かへい学者がくしゃマイケル・ミッチナーが編纂へんさんした「東洋とうよう貨幣かへいとその価値かち 古代こだい古典こてん世界せかい」には1ドラクム銀貨ぎんか中心ちゅうしんに、サーサーンあさ貨幣かへい473てん収録しゅうろくしているが、近隣きんりん諸国しょこくでもサーサーンに類似るいじした貨幣かへいおお発行はっこうした。サーサーンで発行はっこうされた銀貨ぎんかは、ソグドじんなどの中央ちゅうおうユーラシア社会しゃかいにおける高額こうがく決済けっさいよう基軸きじく通貨つうかとしても尊重そんちょうされた。

手工しゅこうげい[編集へんしゅう]

ガラス銀製ぎんせいひんなどの工芸こうげいひんは、世界せかい史上しじょうのこ工芸こうげいひんである。7世紀せいき日本にっぽん渡来とらいした文物ぶんぶつは、せいくらいんいまおさめられている。またペルシャにしきといわれる織物おりもの成立せいりつした。

料理りょうり[編集へんしゅう]

ホスロー2せい時代じだい絢爛けんらん豪華ごうか洗練せんれんされた宮廷きゅうてい料理りょうり成立せいりつし、サーサーンあさ滅亡めつぼうもアッバースあさイスラム帝国ていこく上流じょうりゅう階級かいきゅうがれ、のちにはみなみアジア、中東ちゅうとうきたアフリカにまで影響えいきょうおよぼした。記録きろくのこっている料理りょうりには、ケバブブドウドルマふくまれている[11]

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

サーサーンあさ時代じだいは、西にしからキリスト教きりすときょうネストリウスなど)、ひがしから仏教ぶっきょう伝来でんらい。サーサーンあさインドクシャーナあさマ帝国まていこくとう突厥など当時とうじ大国たいこくかかわりがあり、ユーラシア西部せいぶ文明ぶんめい一大いちだい中心ちゅうしんであり十字路じゅうじろでもあった。このような素地そじなかで、キリストきょうゾロアスターきょう仏教ぶっきょうなどの世界せかい宗教しゅうきょう総合そうごうするマニきょう誕生たんじょうした。

ゾロアスターきょう[編集へんしゅう]

サーサーンあさ国教こっきょう

ズルワーンきょう[編集へんしゅう]

ズルワーンきょうはゾロアスターきょう関連かんれんする宗教しゅうきょうぜんあく時間じかんかみズルワーンからまれたといた[12]

紀元前きげんぜん4世紀せいきごろのしょうアジアシリアメソポタミア一帯いったい信仰しんこうされていたとみられる。サーサーンあさ成立せいりつから5世紀せいきにかけてギリシアラテン語らてんごアルメニアシリアアラビアなどの外国がいこく資料しりょう豊富ほうふのこっている。また、マニきょう教祖きょうそマニ最高さいこうしんとしてズルワーンに言及げんきゅうしている。一方いっぽう9~10世紀せいきにかけてのゾロアスターきょうパフラヴィー文献ぶんけんではズルワーン主義しゅぎかんする資料しりょうのこされておらず、後世こうせいつたわる二元論にげんろんてきなゾロアスターきょうとの関係かんけいかっていない。ズルワーンきょうかんしては以下いかのようなせつがある[12]

マニきょう[編集へんしゅう]

バハラーム1せいされ、みずか著述ちょじゅつした画集がしゅう教典きょうてんおうす「絵師えしマニ」(16世紀せいきミール・アリー・シール・ナヴァーイーさく

マニきょうは、キリストきょう・ゾロアスターきょう仏教ぶっきょうなどのしょ宗教しゅうきょう混合こんごうした世界せかい宗教しゅうきょう教祖きょうそマニ(216ねんごろ - 274ねん?)[13]

マニはアルサケスくパルティアじんちちともにユダヤきょうけいキリスト教きりすときょうのグノーシス主義しゅぎ洗礼せんれい教団きょうだんエルカサイ所属しょぞくしていた。24さいときにエルカサイ離脱りだつしたかれは、父親ちちおや仲間なかまたちとともにメソポタミア・メディア・インドなどをめぐり、キリストきょう・ゾロアスターきょう仏教ぶっきょうなどしょ宗教しゅうきょう混合こんごうした新興しんこう世界せかい宗教しゅうきょうのちにマニきょうばれる)をひらく。サーサーン人物じんぶつまで改宗かいしゅうさせたかれは、シャープール1せいにも謁見えっけんし、廷臣ていしんとしててられた。そしてみずか聖典せいてんきし、教団きょうだん組織そしき伝道でんどう活動かつどう従事じゅうじした。しかしシャープールの死後しご、ゾロアスターきょう神官しんかんカルティールが台頭たいとうし、マニは処刑しょけいされてしまう[13]

教祖きょうそ死後しご、マール・スィースィンがあとぎ、アラブじん伝道でんどうにも成功せいこうするが、かれ自身じしんころされてしまう。その、マニ教会きょうかい資料しりょうはほとんどのこされておらず、キリスト教会きょうかい地盤じばんうばわれたとみられている[13]

マズダクきょう[編集へんしゅう]

マズダクきょうはカワード1せい宰相さいしょうマズダクにより提唱ていしょうされた宗教しゅうきょう。カワードは平等びょうどうくマズダクきょう利用りようしてゾロアスターきょう神官しんかんだんおさもうとしたが、それにより混乱こんらんふかめた[14]

ユダヤきょう[編集へんしゅう]

キリスト教きりすときょう[編集へんしゅう]

19世紀せいきペルシアのアッシリアじん(ネストリウスたち

サーサーンあさひろまったキリスト教きりすときょうは、マ帝国まていこくひろがったヘレニズムてきなキリストきょうとは一線いっせんかくシリアけいキリスト教きりすときょうであった。かれらはイエスが使つかった言語げんごであるアラムシリア)をもちい、パルティア時代じだいからマ帝国まていこくにおけるキリスト教きりすときょう文化ぶんかてき中心ちゅうしん都市としエデッサ起点きてん東方とうほうとの交流こうりゅうおこなっていた[15]

サーサーンあさキリスト教きりすときょうひろまるきっかけとなったのは、260ねんにサーサーンあさがエデッサを占領せんりょうしてからである。またサーサーンあさらえられたローマへいにもキリスト教徒きりすときょうとがおり、かれらをとおして国内こくないキリスト教きりすときょうひろまるようになった。なお、キリスト教徒きりすときょうと一枚岩いちまいいわではなく、文化ぶんかてき背景はいけいによって以下いかのグループにかれ、それぞれ緊張きんちょう関係かんけいにあった[15]

  • クリスティヤーン - ギリシア文化ぶんかけんキリスト教徒きりすときょうとマ帝国まていこくのキリスト教主きょうしゅ流派りゅうは
  • ナズラーイ - シリア文化ぶんかけんキリスト教徒きりすときょうと
  • アーリアじんキリスト教徒きりすときょうと

なお、当初とうしょのサーサーンあさマ帝国まていこく迫害はくがいされるキリスト教きりすときょう好意こういてきで、布教ふきょう順調じゅんちょうすすんだ。4世紀せいきにはセレウキア-クテシフォンに主教しゅきょうもうけられた[15]

313ねんマ帝国まていこくでのキリスト教きりすときょう公認こうにんおこなわれると、サーサーンあさキリスト教きりすときょう迫害はくがい(339ねん-379ねん)にてんじる。当時とうじアーリアじんあいだでもキリスト教きりすときょうひろまっており、ゾロアスターきょう基盤きばんとするサーサーンあさにとって死活しかつ問題もんだいであった。シャープール2せいによって主導しゅどうされた弾圧だんあつキリスト教徒きりすときょうと反乱はんらんおおくの殉教者じゅんきょうしゃした[15]

参考さんこう)10世紀せいきにおける東方とうほう教会きょうかい教会きょうかい管区かんく

ヤズデギルド1せいだいになると、ひがしマ帝国まていこくとの関係かんけい改善かいぜんのためにキリスト教徒きりすときょうと迫害はくがい停止ていしされた。また、教会きょうかいもう整備せいびされ、以下いかの6だい教会きょうかい成立せいりつした[15]

しかし、ヤズデギルドの治世ちせい末期まっきにはキリスト教会きょうかいとの衝突しょうとつや、ゾロアスター教徒きょうとキリスト教きりすときょう改宗かいしゅう相次あいつぎ、ふたた迫害はくがいさく(420ねん-484ねん)がとられた。また、マ帝国まていこく異端いたんとされたカルケドン合性あいしょうろん)とネストリウスがサーサーンあさキリスト教きりすときょうかいはいみ、事態じたいはより複雑ふくざつした。5世紀せいきなかばにはクテシフォンの主教しゅきょうカルケドン交代こうたいした。また、エデッサをわれたネストリウスがニシビスに拠点きょてんうつした。ネストリウスマ帝国まていこく敵対てきたいする別種べっしゅのキリストきょう解釈かいしゃくされ、サーサーンあさむすびつき、クテシフォンの主教しゅきょう獲得かくとくした(ぎゃくカルケドン主教しゅきょう処刑しょけいまれた)。ネストリウスはサーサーンあさ公認こうにんされた唯一ゆいいつキリスト教きりすときょうとして勢力せいりょく拡大かくだいし、クテシフォンの主教しゅきょう東方とうほうそう主教しゅきょうカトリコス)の名称めいしょうもちいるようになった[15]

ネストリウスはニシビス一帯いったい神学校しんがっこう修道院しゅうどういん整備せいびしたが、修道院しゅうどういん制度せいど禁欲きんよく主義しゅぎもとゾロアスター教徒きょうとのアーリアじんキリスト教徒きりすときょうとたちにはなじまず、486ねんにはいったん廃止はいしされた。しかし文化ぶんかてき基盤きばんであった修道院しゅうどういんをなくすことはキリスト教会きょうかい文化ぶんかてき活力かつりょく低下ていかさせたため、シリアけいキリスト教徒きりすときょうとから反発はんぱつけた。そのため6世紀せいきには修道院しゅうどういん制度せいど復活ふっかつし、ネストリウス神学しんがく確立かくりつされていった[15]

キリスト教きりすときょうがサーサーンあさ領域りょういきひろまった理由りゆうとしてつぎ理由りゆうげられる[15]

  • 書物しょもつ文化ぶんか発達はったつ - キリスト教会きょうかいユダヤじんギリシアじん書物しょもつ文化ぶんかいでいたのにたいし、ゾロアスターきょう神官しんかんだんには碑文ひぶん以外いがい書物しょもつ文化ぶんかとぼしく、6世紀せいきまではセムけい文字もじ借用しゃくようあまんじていた
  • 聖典せいてん確立かくりつ - シリアやくディアテッサロン』(2世紀せいき)、パフラヴィーわけ詩編しへん』(3~4世紀せいき)、シリアやく聖書せいしょ』(5世紀せいき)など、キリスト教会きょうかい聖典せいてん翻訳ほんやく積極せっきょくてきっていた。とくにパフラヴィーやく詩編しへん』はあらたに発明はつめいされた書物しょもつようパフラヴィー文字もじをもとにかれており(それまでパフラヴィー文字もじ碑文ひぶんようのものしかなかった)、6世紀せいきまで口伝くでん伝承でんしょうしかたなかったゾロアスターきょう神官しんかんだん圧倒あっとうしていた(#自国じこく編纂へんさん参考さんこう)。
  • ヘレニズム知的ちてき遺産いさん - キリスト教会きょうかいはギリシアじん学問がくもん成果せいかいでおり、神学校しんがっこう修道院しゅうどういんでそれらを継承けいしょう発展はってんさせていった。そのため医者いしゃ学者がくしゃ占星術せんせいじゅつなど知的ちてき職業しょくぎょうめるキリスト教徒きりすときょうと割合わりあいたかくなり、これらのそうからも宣教師せんきょうし輩出はいしゅつされた。なお、初期しょきイスラム文化ぶんかキリスト教徒きりすときょうとによるヘレニズム文化ぶんかのシリアやくたよっていた。

これらの理由りゆうからキリスト教会きょうかいはゾロアスターきょう神官しんかんだんたいして知的ちてき優位ゆういつことができた。ホスロー1せいのもとでゾロアスターきょうギリシア哲学てつがくインド哲学てつがくれられたり、キリストきょうパフレヴィー文字もじ参考さんこうアヴェスター文字もじ発明はつめいされ、口伝くでん『アヴェスター』とそのパフラヴィー注釈ちゅうしゃく『ザンド』が書籍しょせきされたのも、キリスト教会きょうかい対抗たいこうするためであったとされている[16]

年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

  • 208ねん:バーバクがパールス地方ちほう統一とういつ。サーサーンあさ基礎きそこす。
  • 226ねん:アルダシール1せいがパルティア(アルサケスあさ)をほろぼし、イラン・イラク統一とういつ
  • 240ねんごろ:シャープール1せいクシャーナ遠征えんせいし、ガンダーラうばう。
  • 260ねん:シャープール1せい、エデッサのたたかいでローマぐんたたかい、ウァレリアヌスをとらえる。
  • 350ねんごろ:シャープール2せい、クシャーナをやぶり、再度さいど征服せいふく
  • 363ねん:シャープール2せいユリアヌスはいさせる。
  • 409ねんキリスト教きりすときょう寛容かんようれい
  • 425ねん:エフタルの侵入しんにゅう
  • 428ねんアルメニア王国おうこく廃絶はいぜつし、サーサーンあさ知事ちじく。
  • 484ねん:ペーローズ1せい、 エフタルとのたたかいで戦死せんし
  • 540ねん:ホスロー1せいアンティオキア占領せんりょう
  • 567ねん:ホスロー1せい、エフタルをほろぼす。
  • 575ねん:ホスロー1せい、イエメンを占領せんりょう
  • 616ねん:ホスロー2せいひがしローマりょうシリアエジプト占領せんりょう
  • 627ねん:ニネヴェのたたかいでひがしローマ・ヘラクレイオスあさのヘラクレイオスにやぶれ、クテシフォン近郊きんこうへの侵攻しんこうゆるす。
  • 628ねん:ホスロー2せい暗殺あんさつ息子むすこのカワード2せいはヘラクレイオスと和睦わぼく占領せんりょう奪回だっかいされる。
  • 637ねん:カーディシーヤのたたかいでイスラムぐんやぶれ、クテシフォンを占領せんりょうされる。
  • 642ねん:ハマダーンちかくのニハーヴァンドのたたかいで敗北はいぼく
  • 651ねん:ヤズデギルド3せい逃亡とうぼうさき暗殺あんさつされ、サーサーンあさ滅亡めつぼう

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

サーサーンあさ系図けいず

歴代れきだい君主くんしゅ称号しょうごうすべシャーハンシャー諸王しょおうおう)である。

  1. アルダシール1せい (224ねん-241ねん
  2. シャープール1せい (241ねん-272ねん
  3. ホルミズド1せい (272ねん-273ねん
  4. バハラーム1せい (273ねん-276ねん
  5. バハラーム2せい (276ねん-293ねん
  6. バハラーム3せい (293ねん
  7. ナルセ1せい (293ねん-302ねん
  8. ホルミズド2せい (302ねん-309ねん
  9. アードゥルナルセ (309ねん
  10. シャープール2せい (309ねん-379ねん
  11. アルダシール2せい (379ねん-383ねん
  12. シャープール3せい (383ねん-388ねん
  13. バハラーム4せい (388ねん-399ねん
  14. ヤズデギルド1せい (399ねん-420ねん
  15. バハラーム5せい (420ねん-438ねん
  16. ヤズデギルド2せい (438ねん-457ねん
  17. ホルミズド3せい (457ねん-459ねん
  18. ペーローズ1せい (459ねん-484ねん
  19. バラーシュ (484ねん-488ねん
  20. カワード1せい (488ねん-497ねん、499ねん-531ねん
  21. ジャーマースプ (497ねん-499ねん
  22. ホスロー1せい (531ねん-579ねん
  23. ホルミズド4せい (579ねん-590ねん
  24. ホスロー2せい (590ねん-628ねん
  25. カワード2せい (628ねん
  26. アルダシール3せい (628ねん-630ねん
  27. ボーラーンドゥフト (630ねん-631ねん女帝にょてい
  28. ペーローズ2せい
  29. ホスロー4せい
  30. アーザルミードゥフト (631ねん-632ねん女帝にょてい
  31. ヤズデギルド3せい (632ねん-651ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Chronique d'Agathias.
  2. ^ Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain..
  3. ^ "Transoxiana 04: Sasanians in Africa". Transoxiana.com.ar. Retrieved 16 December 2013.
  4. ^ Sarfaraz, pp. 329–330
  5. ^ "Iransaga: The art of Sassanians". Artarena.force9.co.uk. Retrieved 16 December 2013.
  6. ^ Abdolhossein Zarinkoob: Ruzgaran: tarikh-i Iran az aghz ta saqut saltnat Pahlvi, p. 305
  7. ^ ĒRĀN, ĒRĀNŠAHR – Encyclopaedia Iranica”. www.iranicaonline.org. 2019ねん11月9にち閲覧えつらん
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関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]