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サーサーン朝 あさ
𐭠𐭩𐭥𐭠𐭭𐭱𐭲𐭥𐭩
西暦 せいれき 620年 ねん 頃 ごろ のサーサーン朝 あさ の最大 さいだい 版図 はんと
サーサーン朝 あさ (サーサーンちょう, ペルシア語 ご : ساسانيان , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Sāsāniyān , 英語 えいご : Sassanid )は、イラン高原 こうげん ・メソポタミア などを支配 しはい した王朝 おうちょう ・帝国 ていこく (226年 ねん - 651年 ねん )。首都 しゅと はクテシフォン (現在 げんざい のイラク )。ササン朝 あさ ペルシア とも呼 よ ばれる。
サーサーン朝 あさ は、数 かず 世紀 せいき 前 まえ のアケメネス朝 あさ と同 おな じくイラン高原 こうげん ファールス地方 ちほう から勃興 ぼっこう した勢力 せいりょく で、その支配 しはい 領域 りょういき はエーラーン・シャフル (Ērān Šahr)と呼 よ ばれ、おおよそアナトリア 東部 とうぶ 、アルメニア からアムダリア川 がわ 西岸 せいがん 、アフガニスタン とトルクメニスタン 、果 は てにウズベキスタン 周辺 しゅうへん まで及 およ んだ。更 さら に最大 さいだい 版図 はんと は現在 げんざい のイランとイラクのすべてを包含 ほうがん し、地中海 ちちゅうかい 東岸 とうがん (エジプト を含 ふく む)からパキスタン まで、そしてアラビア南部 なんぶ の一部 いちぶ からコーカサス と中央 ちゅうおう アジア まで広 ひろ がっていた。
特 とく に始祖 しそ アルダフシール(アルダシール1世 せい )自身 じしん がゾロアスター教 きょう の神官 しんかん 階層 かいそう から台頭 たいとう したこともあり、様々 さまざま な変遷 へんせん はあったもののゾロアスター教 きょう と強 つよ い結 むす びつきを持 も った帝国 ていこく であった。
サーサーン朝 あさ の支配 しはい の時代 じだい はイランの歴史 れきし の最高 さいこう 点 てん と考 かんが えられており[1] 、多 おお くの点 てん でイスラム教徒 きょうと の征服 せいふく とその後 ご のイスラム化 か の前 まえ の古代 こだい イラン文化 ぶんか の最盛 さいせい 期 き であった。サーサーン朝 あさ は、多様 たよう な信仰 しんこう と文化 ぶんか を容認 ようにん し、複雑 ふくざつ で中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か された官僚 かんりょう 制度 せいど を発展 はってん させた。また帝国 ていこく の支配 しはい の正当 せいとう 化 か と統一 とういつ 力 りょく としてゾロアスター教 きょう を活性 かっせい 化 か させ、壮大 そうだい な記念 きねん 碑 ひ や公共 こうきょう 事業 じぎょう を建設 けんせつ し、文化 ぶんか 的 てき および教育 きょういく 的 てき 機関 きかん を優遇 ゆうぐう した。サーサーン朝 あさ の文化 ぶんか 的 てき 影響 えいきょう 力 りょく は、西 にし ヨーロッパ[2] 、アフリカ [3] 、中国 ちゅうごく 、インド [4] を含 ふく む領土 りょうど の境界 きょうかい をはるかに超 こ えて広 ひろ がり、ヨーロッパとアジアの中世 ちゅうせい 美術 びじゅつ の形成 けいせい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた[5] 。ペルシャ文化 ぶんか はイスラム文化 ぶんか の多 おお くの基礎 きそ となり、イスラム世界 せかい 全体 ぜんたい の芸術 げいじゅつ 、建築 けんちく 、音楽 おんがく 、文学 ぶんがく 、哲学 てつがく に影響 えいきょう を与 あた えた[6] 。
公式 こうしき には、帝国 ていこく はイラン帝国 ていこく (パフラヴィー語 ご : ērānšahr 、パルティア語 ご : aryānšahr )として知 し られていた。この用語 ようご は、王 おう が「私 わたし はイラン帝国 ていこく の支配 しはい 者 しゃ である」(パフラヴィー語 ご : ērānšahrxwadāyhēm 、パルティア語 ご : aryānšahrxwadāyahēm )というシャープール1世 せい のゾロアスターのカアバの碑文 ひぶん (英語 えいご 版 ばん ) で最初 さいしょ に言及 げんきゅう されている[7] 。
より一般 いっぱん 的 てき には、王朝 おうちょう はサーサーン にちなんで名付 なづ けられたという事実 じじつ のために、歴史 れきし 的 てき ・学術 がくじゅつ 的 てき な情報 じょうほう 源 げん ではサーサーン帝国 ていこく として知 し られている。
日本語 にほんご ではしばしばササン朝 あさ 、ササン朝 あさ ペルシア 、ササン朝 あさ ペルシャ とも呼 よ ばれる[8] 。単 たん にペルシア帝国 ていこく またはペルシャ帝国 ていこく といった場合 ばあい は、サーサーン朝 あさ か、数 かず 世紀 せいき 前 まえ のアケメネス朝 あさ を指 さ すことが多 おお い。
サーサーン朝 あさ の起源 きげん は不明 ふめい な点 てん が多 おお い。サーサーン朝 あさ を開 ひら いたのはアルダシール1世 せい だが、彼 かれ の出自 しゅつじ は謎 なぞ に包 つつ まれている。まず王朝 おうちょう の名 な に用 もち いられるサーサーンが何者 なにもの なのかもはっきりしない。サーサーンが王位 おうい に付 つ いた証拠 しょうこ は現在 げんざい まで確認 かくにん されておらず、サーサーンに関 かん する伝説 でんせつ でも、アケメネス朝 あさ の後裔 こうえい とするものやパールスの王族 おうぞく であったとするもの、神官 しんかん であったとするものなどがある。アルダシールの父親 ちちおや バーバク (パーパク)はパールス地方 ちほう の支配 しはい 権 けん を持 も った王 おう であり、サーサーン朝 あさ が実際 じっさい に独立 どくりつ 勢力 せいりょく となったのは彼 かれ の時代 じだい である。彼 かれ はサーサーンの息子 むすこ とも遠 とお い子孫 しそん ともいわれる。しかし、バーバクは間 ま もなくパルティア と戦 たたか って敗 やぶ れ、結局 けっきょく パルティアの宗主 そうしゅ 権 けん 下 か に収 おさ まった。そしてバーバクの跡 あと を継 つ いだアルダシール1世 せい がサーサーン朝 あさ を偉大 いだい な帝国 ていこく として興 おこ すことになる。
アルダシール1世 せい は西暦 せいれき 224年 ねん に即位 そくい すると再 ふたた びパルティアとの戦 たたか いに乗 の り出 だ し、エリマイス王国 おうこく などイラン高原 こうげん 諸国 しょこく を次々 つぎつぎ 制圧 せいあつ した。同年 どうねん 4月 がつ にホルミズダガンの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でパルティア王 おう アルタバヌス4世 せい と戦 たたか って勝利 しょうり を収 おさ め、「諸王 しょおう の王 おう 」というアルサケス朝 あさ の称号 しょうごう を引 ひ き継 つ いで使用 しよう した。この勝利 しょうり によってパルティアの大 だい 貴族 きぞく がアルダシール1世 せい の覇権 はけん を承認 しょうにん した。230年 ねん にはメソポタミア全域 ぜんいき を傘下 さんか に納 おさ め、ロ ろ ーマ帝国 まていこく セウェルス朝 あさ の介入 かいにゅう を排 はい してアルメニアにまで覇権 はけん を及 およ ぼした。東 ひがし ではクシャーナ朝 あさ ・トゥーラーン の王 おう 達 たち との戦 たたか いでも勝利 しょうり を納 おさ め、彼 かれ らに自 みずか らの宗主 そうしゅ 権 けん を承認 しょうにん させ、旧 きゅう パルティア領 りょう の大半 たいはん を支配 しはい 下 か に置 お くことに成功 せいこう した。
降服 こうふく するウァレリアヌス 帝 みかど らと騎乗 きじょう のシャープール1世 せい 。ナクシェ・ロスタム の磨 すり 崖 がけ 像 ぞう より
以後 いご サーサーン朝 あさ とローマ諸王 しょおう 朝 あさ (東 ひがし ローマ諸 しょ 王朝 おうちょう )はサーサーン朝 あさ の滅亡 めつぼう まで断続 だんぞく 的 てき に衝突 しょうとつ を繰 く り返 かえ した。アルダシール1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ シャープール1世 せい は、対 たい ローマ戦 せん で戦果 せんか を挙 あ げた。244年 ねん 、シリア地方 ちほう の安全 あんぜん 保障 ほしょう のためにサーサーン朝 あさ が占領 せんりょう していたニシビス (英語 えいご 版 ばん ) などの都市 とし を奪回 だっかい すべくゴルディアヌス3世 せい がサーサーン朝 あさ へと侵攻 しんこう した。これを迎 むか え撃 う ったシャープール1世 せい はマッシナの戦 たたか い でゴルディアヌス3世 せい を戦死 せんし させた。そして、新 しん 皇帝 こうてい フィリップス との和平 わへい において莫大 ばくだい な賠償金 ばいしょうきん を獲得 かくとく した。後 のち に皇帝 こうてい ウァレリアヌス が再度 さいど サーサーン朝 あさ と戦端 せんたん を開 ひら いたが、シャープール1世 せい は260年 ねん のエデッサの戦 たたか い で皇帝 こうてい ヴァレリアヌスを捕虜 ほりょ にするという大 だい 戦果 せんか を収 おさ めた。シャープール1世 せい は、馬上 もうえ の自分 じぶん に跪 ひざまず いて命乞 いのちご いをするヴァレリアヌスの浮 う き彫 ぼ りを作 つく らせた。そしてこれ以後 いご 、「エーラーンとエーラーン外 がい の諸王 しょおう の王 おう 」(Šāhān-šāh Ērān ud Anērān)を号 ごう するようになった。
王位 おうい 継承 けいしょう 問題 もんだい と弱体 じゃくたい 化 か [ 編集 へんしゅう ]
ナクシェ・ロスタムの「ゾロアスターのカアバ」en:Ka'ba-i Zartosht と呼 よ ばれる遺跡 いせき 。建物 たてもの の用途 ようと は不明 ふめい だが、下部 かぶ 壁面 へきめん にカルティールによって書 か かれた長大 ちょうだい なパフラヴィー語 ご 碑文 ひぶん がある
シャープール1世 せい の死後 しご 、長男 ちょうなん ホルミズド1世 せい (ホルミズド・アルダシール)が即位 そくい したが、間 ま もなく死去 しきょ したので続 つづ いて次男 じなん バハラーム1世 せい が即位 そくい した。バハラームの治世 ちせい ではシャープール時代 じだい に祭司 さいし 長 ちょう となっていたカルティール (キルデール)が影響 えいきょう 力 りょく を大幅 おおはば に拡大 かくだい した。絶大 ぜつだい な権勢 けんせい を振 ふ るった彼 かれ は王 おう と同 おな じように各地 かくち に碑文 ひぶん を残 のこ し、マニ教 きょう ・仏教 ぶっきょう ・キリスト教 きりすときょう などの排斥 はいせき を進 すす めた。マニ教 きょう の経典 きょうてん によればカルティールは教祖 きょうそ マニ の処刑 しょけい に関 かか わっていた。
バハラーム1世 せい の死後 しご 、その弟 おとうと ナルセ と、息子 むすこ バハラーム2世 せい との間 あいだ で不穏 ふおん な気配 けはい が流 なが れた。既 すで にバハラーム1世 せい の生前 せいぜん にバハラーム2世 せい が後継 こうけい に指名 しめい されていたが、ナルセはこれに激 はげ しく反発 はんぱつ した。しかしカルティールや貴族 きぞく の支持 しじ を得 え たバハラーム2世 せい が即位 そくい した。バハラーム2世 せい の治世 ちせい にはホラーサーン の反乱 はんらん や対 たい ローマ敗戦 はいせん などがあったが、ホラーサーンの反乱 はんらん は鎮圧 ちんあつ した。カルティールは尚 なお も強 つよ い影響 えいきょう 力 りょく を保持 ほじ し続 つづ けた。バハラーム2世 せい の死去 しきょ 後 ご 、反 はん カルティール派 は の中小 ちゅうしょう 貴族 きぞく から支援 しえん されたナルセはクーデター によって王位 おうい についた。ナルセ1世 せい はメソポタミア 西部 せいぶ やその他 た の州 しゅう の奪回 だっかい を目指 めざ して東 ひがし ローマ軍 ぐん と戦 たたか い、西 にし メソポタミアを奪回 だっかい 。一方 いっぽう でアルメニアを喪失 そうしつ し、両国 りょうこく の間 あいだ に和平 わへい 協定 きょうてい が結 むす ばれ、和平 わへい は40年間 ねんかん に渡 わた って維持 いじ された。
統治 とうち 体制 たいせい の完成 かんせい [ 編集 へんしゅう ]
ローマ皇帝 こうてい ユリアヌスの東方 とうほう 遠征 えんせい (363年 ねん )
その後 ご 、王位 おうい はシャープール2世 せい に引 ひ き継 つ がれた。シャープール2世 せい 胎児 たいじ の時 とき から即位 そくい が決 き まっており、彼 かれ の母親 ははおや の腹 はら の上 うえ に王冠 おうかん が戴せられ、兄 あに たちは殺害 さつがい ・幽閉 ゆうへい された。こうしてシャープール2世 せい は生誕 せいたん と同時 どうじ に即位 そくい し、サーサーン朝 あさ で史上 しじょう 最長 さいちょう の在位 ざいい 期間 きかん を持 も つ王 おう となった。少年 しょうねん 時代 じだい は貴族 きぞく 達 たち の傀儡 かいらい として過 す ごしたが、長 なが じるに順 じゅん (したが)って実権 じっけん を握 にぎ った。シャープール2世 せい はスサ の反乱 はんらん を速 すみ やかに鎮圧 ちんあつ し、城壁 じょうへき を破壊 はかい 。また前 ぜん 王 おう の死後 しご に領内 りょうない に侵入 しんにゅう していたアラブ人 じん を撃退 げきたい し、アラビア半島 はんとう 奥深 おくふか くまで追撃 ついげき して降伏 ごうぶく させた。ローマ軍 ぐん との戦 たたか いでは、363年 ねん にクテシフォンの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で侵攻 しんこう してきた皇帝 こうてい ユリアヌス を戦死 せんし させ、アルメニア支配 しはい 権 けん を握 にぎ った。東方 とうほう のトゥーラーンではフン族 ぞく の一派 いっぱ と思 おも われる集団 しゅうだん が侵入 しんにゅう したが、シャープールは彼 かれ らを同盟 どうめい 者 しゃ とすることに成功 せいこう した。
対外 たいがい 的 てき な成功 せいこう を続 つづ けたシャープール2世 せい は、領内 りょうない 統治 とうち に関 かん しては数 すう 多 おお くの都市 とし を再建 さいけん し各地 かくち に要塞 ようさい ・城壁 じょうへき を築 きず いて外敵 がいてき の侵入 しんにゅう に備 そな えた。また、ナルセ1世 せい 以来 いらい の宗教 しゅうきょう 寛容 かんよう 策 さく を捨 す て、ゾロアスター教 きょう の教会 きょうかい 制度 せいど を整備 せいび し、キリスト教 きょう ・マニ教 きょう への圧力 あつりょく を強 つよ めた。こうしてシャープールの治世 ちせい では、サーサーン朝 あさ の統治 とうち 体制 たいせい が1つの完成 かんせい を見 み たとされる。
ターク・イ・ブスタン 小洞 こぼら のシャープール3世 せい (左 ひだり )とその父 ちち シャープール2世 せい (右 みぎ )の像 ぞう 。像 ぞう の左上 ひだりうえ 、右 みぎ 上 じょう に各々 おのおの の像 ぞう 主 ぬし についてパフラヴィー語 ご 碑文 ひぶん が書 か かれている
バハラーム4世 せい の治世 ちせい に入 はい るとフン族 ぞく が来襲 らいしゅう したが、バハラームは彼 かれ らと同盟 どうめい を結 むす んだ。バハラームの死後 しご 、ヤズデギルド1世 せい が即位 そくい した。ヤズデギルド1世 せい は「罪人 ざいにん 」の異名 いみょう を与 あた えられているが、その真 しん の理由 りゆう は分 わ かっていない。友人 ゆうじん にキリスト教徒 きりすときょうと の医師 いし がいたためにキリスト教 きりすときょう に改宗 かいしゅう したからだとも言 い われ、またヤズデギルド1世 せい の許可 きょか の下 した で410年 ねん にセレウキア公 こう 会議 かいぎ (英語 えいご 版 ばん ) が開 ひら かれたためとも言 い われているが、ヤズデギルド1世 せい がキリスト教徒 きりすときょうと に特別 とくべつ 寛容 かんよう であったかどうかは判然 はんぜん としていない。
ヤズデギルド1世 せい の死後 しご 、再 ふたた び王位 おうい 継承 けいしょう の争 あらそ いが起 お き、短命 たんめい な王 おう が続 つづ いた後 のち バハラーム5世 せい が即位 そくい した。バハラーム5世 せい はゾロアスター教 きょう 聖職 せいしょく 者 しゃ の言 げん を入 い れてキリスト教徒 きょうと の弾圧 だんあつ を行 おこな ったため、多 おお くのキリスト教徒 きりすときょうと が国外 こくがい へ逃亡 とうぼう した。亡命 ぼうめい 者 しゃ を巡 めぐ ってサーサーン朝 あさ ・東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく テオドシウス朝 あさ 間 あいだ で交渉 こうしょう が持 も たれたが決裂 けつれつ 。422年 ねん にローマ・サーサーン戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) に敗北 はいぼく し領内 りょうない におけるキリスト教徒 きりすときょうと の待遇 たいぐう 改善 かいぜん を約束 やくそく した。
インド・エフタル ナプキ・マルカ (英語 えいご 版 ばん ) 王 おう (c.475-576)の貨幣 かへい 用 よう 合金 ごうきん ドラクマ
425年 ねん に、バハラーム5世 せい の治世 ちせい に東方 とうほう からエフタル の侵入 しんにゅう があった。バハラーム5世 せい はこれを抑 おさ えて中央 ちゅうおう アジア方面 ほうめん でサーサーン朝 あさ が勢力 せいりょく を拡大 かくだい したが、以後 いご エフタルがサーサーン朝 あさ の悩 なや みの種 たね となる。428年 ねん にアルサケス朝 ちょう アルメニア (英語 えいご 版 ばん ) が滅亡 めつぼう し、サーサーン朝 ちょう アルメニア (英語 えいご 版 ばん ) が成立 せいりつ 。
バハラーム5世 せい の跡 あと を継 つ いだ息子 むすこ のヤズデギルド2世 せい は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のテオドシウス2世 せい と紛争 ふんそう (東 ひがし ローマ・サーサーン戦争 せんそう (440年 ねん ) )の後 のち 、441年 ねん に相互 そうご 不可侵 ふかしん の約定 やくじょう を結 むす んだ。443年 ねん に、キダーラ朝 あさ との戦 たたか いを始 はじ め、450年 ねん に勝利 しょうり を納 おさ めた。国内 こくない において、アルメニア人 じん のキリスト教徒 きりすときょうと にゾロアスター教 きょう へ改宗 かいしゅう を迫 せま り動乱 どうらん が発生 はっせい した。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のテオドシウス朝 あさ がアルメニアを支援 しえん したが、451年 ねん にヤズデギルド2世 せい がアヴァライルの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で勝利 しょうり しキリスト教 きりすときょう の煽動 せんどう 者 しゃ を処刑 しょけい して支配 しはい を固 かた めた。
ヤズデギルド2世 せい の治世 ちせい 末期 まっき より、強大 きょうだい 化 か したエフタルはサーサーン朝 あさ への干渉 かんしょう を強 つよ めた。ヤズデギルド2世 せい は東部 とうぶ 国境 こっきょう 各地 かくち を転戦 てんせん したが、決定的 けっていてき 打撃 だげき を与 あた えることなく457年 ねん に世 よ を去 さ った。彼 かれ の二人 ふたり の息子 むすこ 、ホルミズドとペーローズ1世 せい は王位 おうい を巡 めぐ って激 はげ しく争 あらそ い、ペーローズはエフタルの支援 しえん で帝位 ていい に就 つ いた。
458年 ねん にサーサーン朝 ちょう アルメニアでゾロアスター教 きょう への改宗 かいしゅう を拒 こば むマミコニアン家 か (英語 えいご 版 ばん ) の王女 おうじょ が夫 おっと Varskenに殺害 さつがい された。エフタルの攻撃 こうげき を受 う けサーサーン朝 あさ が東方 とうほう に兵 へい を振 ふ り向 む けていたため、イベリア王国 おうこく の王 おう ヴァフタング1世 せい がこの争 あらそ いに介入 かいにゅう してVarskenも殺 ころ された。ペーローズ1世 せい はアードゥル・グシュナースプ (英語 えいご 版 ばん ) を派遣 はけん したが、ヴァハン・マミコニアン (英語 えいご 版 ばん ) が蜂起 ほうき してヴァフタングに合流 ごうりゅう 。アードゥル・グシュナースプは再 さい 攻撃 こうげき を試 こころ みたが敗 やぶ れて殺 ころ された。
ペーローズ1世 せい はエフタルの影響 えいきょう 力 りょく を排除 はいじょ すべく469年 ねん にエフタルを攻 せ めたが、敗 やぶ れて捕虜 ほりょ となり、息子 むすこ のカワードを人質 ひとじち に差 さ し出 だ しエフタルに対 たい する莫大 ばくだい な貢 みつぎ 納 おさめ を納 おさ める盟約 めいやく を結 むす んだ。旱魃 かんばつ により財政 ざいせい 事情 じじょう は逼迫 ひっぱく 、484年 ねん に再度 さいど エフタルを攻 せ めたが敗 はい 死 し した(ヘラートの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) )。485年 ねん にはヴァハン・マミコニアンがサーサーン朝 ちょう アルメニアのマルズバーン に指名 しめい される。
488年 ねん に、人質 ひとじち に出 で ていたカワード1世 せい (在位 ざいい :488年 ねん –496年 ねん 、498年 ねん -531年 ねん )がエフタルの庇護 ひご の下 した で帰国 きこく し、帝位 ていい に就 つ いた。しかし、マズダク教 きょう の扱 あつか いを巡 めぐ り貴族 きぞく 達 たち と対立 たいりつ したため幽閉 ゆうへい されて廃位 はいい された。幽閉 ゆうへい されたカワード1世 せい は逃亡 とうぼう してエフタルの下 した へ逃 のが れ、エフタルの支援 しえん を受 う け再 ふたた び首都 しゅと に乗 の り込 こ み、498年 ねん に復位 ふくい (重祚 じゅうそ )した。同年 どうねん 、ネストリウス派 は 総 そう 主教 しゅきょう がセレウキア-クテシフォン (英語 えいご 版 ばん ) に立 た てられた。カワード1世 せい は、帝位 ていい 継承 けいしょう に際 さい して貴族 きぞく の干渉 かんしょう を受 う けないことを目指 めざ し、後継 こうけい 者 しゃ を息子 むすこ のホスロー1世 せい とした。
502年 ねん に、カワード1世 せい はエフタルへの貢 みつぎ 納 おさめ 費 ひ の捻出 ねんしゅつ のため東 ひがし ローマ領 りょう へ侵攻 しんこう し(アナスタシア戦争 せんそう )、領土 りょうど を奪 うば うとともに領内 りょうない 各地 かくち の反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ した。この戦 たたか いがen:Byzantine–Sassanid Wars (502年 ねん –628年 ねん )の始 はじ まりであった。
526年 ねん に、イベリア戦争 せんそう (526年 ねん –532年 ねん )が、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく ・ラフム朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) 連合 れんごう 軍 ぐん との間 あいだ で行 おこ なわれた。530年 ねん 、Battle of Dara 、Battle of Satala 。531年 ねん 、Battle of Callinicum 。
カワード1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ ホスロー1世 せい (在位 ざいい :531年 ねん -579年 ねん )の治世 ちせい がサーサーン朝 あさ の最盛 さいせい 期 き と称 しょう される。ホスロー1世 せい は父 ちち の政策 せいさく を継承 けいしょう して大 だい 貴族 きぞく の影響 えいきょう 力 りょく の排除 はいじょ を進 すす め、またマズダク教 きょう 制 せい して社会 しゃかい 秩序 ちつじょ を回復 かいふく させ、軍制 ぐんせい 改革 かいかく にも取 と り組 く んだ。とりわけ中小 ちゅうしょう 貴族 きぞく の没落 ぼつらく を回避 かいひ するため、軍備 ぐんび 費 ひ の自己 じこ 負担 ふたん を廃止 はいし して武器 ぶき を官給 かんきゅう とした。一方 いっぽう 、宗教 しゅうきょう 政策 せいさく にも力 ちから を入 い れ、末端 まったん にも聖火 せいか の拝礼 はいれい を奨 すす めるなど神殿 しんでん 組織 そしき の再編 さいへん を試 こころ みた。
一方 いっぽう 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく ではキリスト教学 きょうがく の発展 はってん に伴 ともな う異教 いきょう 排除 はいじょ が進 すす み、529年 ねん にはユスティニアヌス1世 せい によってアテネ のアカデミア が閉鎖 へいさ された。ゆえに失業 しつぎょう した学者 がくしゃ が数多 かずおお くサーサーン朝 あさ に移住 いじゅう し、ホスローは彼 かれ らのための施設 しせつ を作 つく って受 う け入 い れた。それ以前 いぜん に、エジプトでも415年 ねん にヒュパティア がキリスト教徒 きりすときょうと により殺 ころ され、エジプトからも学者 がくしゃ が数多 かずおお くサーサーン朝 あさ に亡命 ぼうめい した。この結果 けっか 、ギリシア語 ご ・ラテン語 らてんご )の文献 ぶんけん が多数 たすう 翻訳 ほんやく された。
ホスロー1世 せい の狩猟 しゅりょう 図 ず を描 えが いた銀盤 ぎんばん
ホスロー1世 せい からホスロー2世 せい の時代 じだい にかけて、各地 かくち の様々 さまざま な文献 ぶんけん や翻訳 ほんやく 文献 ぶんけん を宮廷 きゅうてい の図書館 としょかん に収蔵 しゅうぞう させたと伝 つた えられている。宗教 しゅうきょう 関係 かんけい では『アヴェスター 』などのゾロアスター教 きょう の聖典 せいてん 類 るい も書籍 しょせき 化 か され、この注釈 ちゅうしゃく など各種 かくしゅ パフラヴィー語 ご 文書 ぶんしょ (『ヤシュト』)もこの時期 じき に執筆 しっぴつ された。『アヴェスター』書写 しょしゃ のためアヴェスター文字 もじ も既存 きそん のパフラヴィー文字 もじ を改良 かいりょう して創 そう 制 せい され、現存 げんそん するゾロアスター教 きょう 文献 ぶんけん の基礎 きそ はこの時期 じき に作成 さくせい されたと考 かんが えられる。現存 げんそん しないが、後 ご の『シャー・ナーメ 』の前身 ぜんしん 、古代 こだい からサーサーン朝 あさ 時代 じだい まで続 つづ く歴史 れきし 書 しょ 『フワダーイ・ナーマグ (英語 えいご 版 ばん ) 』(Χ かい wadāy Nāmag)は、この頃 ころ に編纂 へんさん されたと思 おも われる。[9]
タバリー などの後代 こうだい の記録 きろく では、ホスロー1世 せい の時代 じだい から(主 おも にホスロー2世 せい の時代 じだい にかけて)天文 てんもん ・医学 いがく ・自然 しぜん 科学 かがく などに関 かん する大量 たいりょう のパフラヴィー語 ご (中期 ちゅうき ペルシア語 ご )訳 やく のギリシア諸 しょ 文献 ぶんけん が宮廷 きゅうてい 図書館 としょかん に収蔵 しゅうぞう されたことが伝 つた えられており、さらに『パンチャ・タントラ』などのインド方面 ほうめん のサンスクリット 諸 しょ 文献 ぶんけん も積極 せっきょく 的 てき に移入 いにゅう ・翻訳 ほんやく されたという(この時期 じき のインド方面 ほうめん からの文物 ぶんぶつ の移入 いにゅう については、例 たと えば、チェス がインドからサーサーン朝 あさ へ移入 いにゅう された経緯 けいい が述 の べられているパフラヴィー語 ご のシャトランジ の歴史 れきし 物語 ものがたり 『シャトランジ解 と き明 あ かしの書 しょ (ペルシア語 ご 版 ばん ) 』(チャトラング・ナーマグ、Chatrang-namak)もホスローと彼 かれ に仕 つか えた大臣 だいじん ブズルグミフル・イ・ボーフタガーン (英語 えいご 版 ばん ) (ペルシア語 ご : بُزُرْگْمِهْر بُخْتَگان 、転写 てんしゃ : Bozorgmehr-e Bokhtagan )の話 はなし である)。
5世紀 せいき 前後 ぜんこう からオマーン やイエメン といったアラビア半島 はんとう へ遠征 えんせい や鉱山 こうざん 開発 かいはつ などのため入植 にゅうしょく を行 おこな わせており、イラク南部 なんぶ のラフム朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) などの周辺 しゅうへん のアラブ系 けい 王朝 おうちょう も傘下 さんか に置 お いた。
ホスロー1世 せい は、ユスティニアヌス1世 せい の西方 せいほう 経略 けいりゃく の隙 すき に乗 じょう じて圧力 あつりょく を掛 か け貢 みつぎ 納金 のうきん を課 か し、また度々 たびたび 東 ひがし ローマ領 りょう へ侵攻 しんこう して賠償金 ばいしょうきん を得 え た。ユスティニアヌス朝 あさ との間 あいだ に50年間 ねんかん の休戦 きゅうせん を結 むす ぶと、558年 ねん に東方 とうほう で影響 えいきょう 力 りょく を拡大 かくだい するエフタルに対 たい して突厥 西方 にしかた (現 げん イリ )の室 しつ 点 てん 蜜 みつ と同盟 どうめい を結 むす び攻撃 こうげき を仕掛 しか け、長年 ながねん の懸案 けんあん だったエフタルを滅亡 めつぼう させた。一方 いっぽう でエフタルの故 こ 地 ち を襲 おそ った突厥との友好 ゆうこう 関係 かんけい を継続 けいぞく すべく婚姻 こんいん 外交 がいこう を推 お し進 すす めたが、588年 ねん の第 だい 一 いち 次 じ ペルソ・テュルク戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) で対立 たいりつ に至 いた り、結局 けっきょく エフタルを滅 ほろ ぼしたものの領土 りょうど 拡張 かくちょう は一部 いちぶ に留 とど まった。569年 ねん からビザンチンと西 にし 突厥 は同盟 どうめい 関係 かんけい となっていたことから、ビザンチン・サーサーン戦争 せんそう (572年 ねん -591年 ねん ) (英語 えいご 版 ばん ) を引 ひ き起 お こした。
600年 ねん 前後 ぜんこう のサーサーン朝 あさ 周辺 しゅうへん
ホスロー1世 せい の孫 まご ホスロー2世 せい は即位 そくい 直後 ちょくご に、東方 とうほう でバフラーム・チョービーン (英語 えいご 版 ばん ) の反乱 はんらん が発生 はっせい したため東 ひがし ローマ国境 こっきょう 付近 ふきん まで逃走 とうそう し、王位 おうい は簒奪 さんだつ された。東 ひがし ローマのマウリキウス の援助 えんじょ で反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ したが、602年 ねん に東 ひがし ローマの政変 せいへん でマウリキウスが殺 ころ されフォカス が帝位 ていい を僭称 せんしょう すると、仇討 あだうち を掲 かか げて東 ひがし ローマ・サーサーン戦争 せんそう を開始 かいし 、フォカスは初戦 しょせん で大勝 たいしょう を収 おさ めたが、610年 ねん にクーデターでヘラクレイオス が帝位 ていい に即 そく き、ヘラクレイオス朝 あさ を興 おこ した。
連年 れんねん のホスロー2世 せい 率 ひき いるサーサーン朝 あさ 軍 ぐん の侵攻 しんこう によって、613年 ねん にはシリアのダマスカス 、シリア (英語 えいご 版 ばん ) 、翌 よく 614年 ねん には聖地 せいち エルサレム を占領 せんりょう した(エルサレム包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) )。この時 とき エルサレムから「真 しん なる十字架 じゅうじか 」を持 も ち帰 かえ ったという。
615年 ねん にエジプト征服 せいふく (英語 えいご 版 ばん ) が始 はじ まり、619年 ねん に第 だい 二 に 次 じ ペルソ・テュルク戦争 せんそう (英語 えいご 版 ばん ) が起 お こった。621年 ねん にサーサーン朝 あさ はエジプト 全土 ぜんど を占領 せんりょう し、アナトリアも占領 せんりょう して、アケメネス朝 あさ 旧 きゅう 領域 りょういき を支配 しはい 地 ち に組 く み入 い れた。一時 いちじ はコンスタンティノープル も包囲 ほうい し、ヘラクレイオス自身 じしん も故 こ 地 ち カルタゴ 逃亡 とうぼう を計 はか ろうとした。
しかし、622年 ねん にカッパドキアの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でヘラクレイオスが反撃 はんげき へ転 てん じ、被 ひ 占領 せんりょう 地 ち を避 さ け黒海 こっかい 東 ひがし 南部 なんぶ 沿岸 えんがん から直接 ちょくせつ 中枢 ちゅうすう 部 ぶ メソポタミアへ侵入 しんにゅう した。サーサーン朝 あさ はアヴァール と共同 きょうどう でヘラクレイオス不在 ふざい の首都 しゅと コンスタンティノポリス を包囲 ほうい し、呼応 こおう して第 だい 三 さん 次 じ ペルソ・テュルク戦争 せんそう も起 お こったが、撃退 げきたい される(コンスタンティノープル包囲 ほうい 戦 せん )。
627年 ねん に、サーサーン朝 ちょう 軍 ぐん はメソポタミアに侵攻 しんこう したヘラクレイオス親 おや 征 せい の東 ひがし ローマ軍 ぐん にニネヴェの戦 たたか い で敗北 はいぼく し、クテシフォン近郊 きんこう まで進撃 しんげき された。ホスロー2世 せい の長年 ながねん に渡 わた る戦争 せんそう と内政 ないせい を顧 かえり みない統治 とうち で疲弊 ひへい を招 まね いていた結果 けっか 、628年 ねん にクテシフォンで反乱 はんらん が起 お こりホスロー2世 せい は息子 むすこ のカワード2世 せい に裏切 うらぎ られ殺 ころ された。
ホスロー2世 せい を屈服 くっぷく させるヘラクレイオス1世 せい 。(十字架 じゅうじか に描 えが かれた七宝 しっぽう 製 せい 画像 がぞう 。12世紀 せいき 後半 こうはん )
カワード2世 せい は即位 そくい するとヘラクレイオス朝 あさ との関係 かんけい 修復 しゅうふく のため聖 せい 十字架 じゅうじか を返還 へんかん したが、程 ほど なく病死 びょうし して王位 おうい 継承 けいしょう の内戦 ないせん が発生 はっせい した(サーサーン内乱 ないらん )。長期 ちょうき に渡 わた る混乱 こんらん の末 すえ に、29代目 だいめ で最後 さいご の王 おう ヤズデギルド3世 せい が即位 そくい したが、サーサーン朝 あさ の国力 こくりょく は内乱 ないらん やイラク南部 なんぶ におけるディジュラ ・フラート河 かわ とその支流 しりゅう の大 だい 洪水 こうずい に伴 ともな う流 りゅう 路 ろ 変更 へんこう と農業 のうぎょう 適地 てきち の消失 しょうしつ (湿地 しっち 化 か の進行 しんこう )により消耗 しょうもう した。そこに新興 しんこう の宗教 しゅうきょう イスラム教 いすらむきょう が勃興 ぼっこう しサーサーン朝 あさ は最期 さいご の時 とき を迎 むか えることになる。
アラビア半島 はんとう に勃興 ぼっこう したイスラム共同 きょうどう 体 たい は勢力 せいりょく を拡大 かくだい し東 ひがし ローマ・サーサーン領 りょう へ侵入 しんにゅう 。633年 ねん にハーリド・イブン=アル=ワリード 率 ひき いるイスラム軍 ぐん がイラク南部 なんぶ のサワード地方 ちほう に侵攻 しんこう (イスラーム教徒 きょうと のペルシア征服 せいふく )、現地 げんち のサーサーン軍 ぐん は敗 やぶ れ、サワード地方 ちほう の都市 とし の多 おお くは降伏 ごうぶく 勧告 かんこく に応 おう じて開城 かいじょう した。翌 よく 634年 ねん にハーリドがシリア 戦線 せんせん に去 さ ると、イスラム軍 ぐん は統率 とうそつ を失 うしな い、進撃 しんげき は停滞 ていたい 、ヤズデギルド3世 せい は各所 かくしょ でこれらを破 やぶ り、一時 いちじ 、サーサーン朝 あさ によるイラク防衛 ぼうえい は成功 せいこう するかに見 み えた[10] 。しかし、同年 どうねん のアブー=バクル の死 し によるカリフ (正統 せいとう カリフ )のウマル・イブン・ハッターブ への交代 こうたい と共 とも に、ペルシア戦線 せんせん におけるイスラム軍 ぐん の指揮 しき 系統 けいとう は一新 いっしん され、636年 ねん のカーディシーヤの戦 たたか い で敗北 はいぼく 、首都 しゅと クテシフォンが包囲 ほうい されるに及 およ んでヤズデギルド3世 せい は逃亡 とうぼう 、サーサーン朝 あさ 領 りょう では飢饉 ききん ・疫病 えきびょう が蔓延 まんえん したという。クテシフォン北東 ほくとう のジャルーラーウでザグロス山脈 さんみゃく 周辺 しゅうへん から軍 ぐん を召集 しょうしゅう して反撃 はんげき を試 こころ みたが、イスラム軍 ぐん の攻撃 こうげき を受 う け大敗 たいはい した。
641年 ねん にヤズデギルド3世 せい はライ 、クーミス (英語 えいご 版 ばん ) 、エスファハーン 、ハマダーン などイラン高原 こうげん 西部 せいぶ から兵 へい を徴集 ちょうしゅう して6万 まん とも10万 まん とも言 い われる大軍 たいぐん を編成 へんせい 、対 たい するウマルも軍営 ぐんえい 都市 とし のバスラ 、クーファ から軍勢 ぐんぜい を招集 しょうしゅう する。
642年 ねん にニハーヴァンドの戦 たたか いでサーサーン軍 ぐん とイスラム軍 ぐん は会戦 かいせん し、サーサーン軍 ぐん は敗 やぶ れた。敗戦 はいせん 後 ご はエスファハーンからパールス州 しゅう のイスタフルへ逃 のが れたが、エスファハーンも643年 ねん から644年 ねん にかけてイスラム軍 ぐん に制圧 せいあつ された。ヤズデギルド3世 せい は再起 さいき を計 はか って東方 とうほう へ逃 のが れケルマーン やスィースターン へ赴 おもむ くが、現地 げんち 辺境 へんきょう 総督 そうとく (マルズバーン)の反感 はんかん を買 か って北 きた へ逃 のが れざるを得 え なくなり、ホラーサーンのメルヴ へ逃 のが れた。しかし、651年 ねん にヤズデギルド3世 せい はメルヴ総督 そうとく マーフワイフの裏切 うらぎ りで殺害 さつがい され、サーサーン朝 あさ は完全 かんぜん に崩壊 ほうかい した。東方 とうほう に遠征 えんせい 駐屯 ちゅうとん していた王子 おうじ ペーローズとその軍 ぐん はその地 ち に留 と まり反撃 はんげき の機会 きかい を窺 うかが い、さらに唐 とう の助勢 じょせい を求 もと め、自 みずか らが長安 ながやす まで赴 おもむ いて亡命 ぼうめい 政府 せいふ を設立 せつりつ したが、成功 せいこう することはなかった。『旧 きゅう 唐 とう 書 しょ 』には大 だい 暦 こよみ 6年 ねん (771年 ねん )に唐 とう に真珠 しんじゅ を献上 けんじょう した記録 きろく があり、このころまでは亡命 ぼうめい 政府 せいふ は活動 かつどう していたようである。
サーサーン朝 あさ の滅亡 めつぼう は、ムスリム にとってはイスラム共同 きょうどう 体 たい (帝国 ていこく )が世界 せかい 帝国 ていこく へ発展 はってん する契機 けいき となった栄光 えいこう の歴史 れきし として記憶 きおく された。
後世 こうせい への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
後期 こうき サーサーン朝 あさ では官僚 かんりょう 的 てき 中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か が進 すす み、その諸 しょ 制度 せいど は後 ご のアッバース朝 あさ などイスラム帝国 ていこく に引 ひ き継 つ がれた。また、後代 こうだい にはサーサーン朝 あさ 最後 さいご の君主 くんしゅ ヤズデギルド3世 せい の娘 むすめ シャフル・バーヌーがシーア派 は の第 だい 3代 だい イマーム ・フサイン の妻 つま の一人 ひとり となり、第 だい 4代 だい イマーム・アリー・ザイヌルアービディーン の生母 せいぼ となった、といったものやサファヴィー朝 あさ の宗祖 しゅうそ サイイド・サフィーユッディーン・イスハーク (1252/ 3年 ねん - 1334年 ねん )がサーサーン王家 おうけ の血 ち を引 ひ いているなどの伝承 でんしょう が生 う まれた。
特 とく にアッバース朝 あさ が衰退 すいたい をはじめる10世紀 せいき 以降 いこう もカスピ海 かすぴかい 南岸 なんがん の地域 ちいき ではズィヤール朝 あさ やマーザンダラーン のバーワンド家 か (英語 えいご 版 ばん 、フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (Bawandids 、8世紀 せいき -1349年 ねん )などサーサーン朝 あさ 時代 じだい まで遡 さかのぼ る名家 めいか が存在 そんざい しており、この地域 ちいき からイラン的 てき な習俗 しゅうぞく を強 つよ く持 も ったブワイフ朝 あさ が勃興 ぼっこう しイラクやイラン高原 こうげん 全域 ぜんいき を席巻 せっけん した。他 た の地域 ちいき 同様 どうよう 、アラブ征服 せいふく 時代 じだい 以降 いこう にイラン 方面 ほうめん まで進出 しんしゅつ したイスラム教 いすらむきょう の預言 よげん 者 しゃ ムハンマド の一族 いちぞく であるハーシム家 か などの後 のち にサイイド と呼 よ ばれる人々 ひとびと と婚姻 こんいん を結 むす んで来 き た歴史 れきし を持 も つ。
自国 じこく 史 し の編纂 へんさん [ 編集 へんしゅう ]
公正 こうせい なるヌーシルラワーンことホスロー1世 せい が大臣 だいじん ブズルグミフルのために宴席 えんせき を設 もう ける。(イルハン朝 あさ 時代 じだい の『シャー・ナーメ』の1写本 しゃほん 。1330年 ねん 作成 さくせい )
サーサーン朝 あさ の歴史 れきし についてはアッバース朝 あさ 時代 じだい のウラマー であるタバリーがアラビア語 ご で著 あらわ した『諸 しょ 使徒 しと と諸王 しょおう の歴史 れきし 』収録 しゅうろく の記事 きじ が現存 げんそん する「通史 つうし 」としては最古 さいこ であり、他 た にはサーサーン朝 あさ の歴代 れきだい 君主 くんしゅ が残 のこ した碑文 ひぶん 群 ぐん やマニ教 きょう 文書 ぶんしょ 、パフラヴィー語 ご による行政 ぎょうせい 文書 ぶんしょ などの史料 しりょう 群 ぐん 、パフラヴィー語 ご ・アルメニア語 ご ・シリア語 ご ・ギリシア語 ご ・ラテン語 らてんご などの年代 ねんだい 記 き ・通貨 つうか などにより歴史 れきし ・実態 じったい ・文化 ぶんか などが研究 けんきゅう されている。
パルティア語 ご やパフラヴィー文字 もじ 碑文 ひぶん などはサーサーン朝 あさ 草創 そうそう 期 き から存在 そんざい しているが、現存 げんそん するゾロアスター教 きょう 文献 ぶんけん などによると、古代 こだい イラン世界 せかい では文字 もじ は音声 おんせい を物質 ぶっしつ 化 か した賎 しず しむべきものと見 み なされていたようで、古代 こだい からの伝承 でんしょう は神官 しんかん (マギ )などが口伝 くでん で代々 だいだい 受継 うけつ がれていくものとされていたという。しかしながら、ホスロー1世 せい の時代 じだい から世界中 せかいじゅう の知識 ちしき を集積 しゅうせき しようというイデオロギー的 てき な動 うご きが見 み られ、パフラヴィー文字 もじ を改良 かいりょう したアヴェスター文字 もじ の発明 はつめい によりゾロアスター教 きょう 文献 ぶんけん 書籍 しょせき 化 か の契機 けいき が生 う まれたと考 かんが えられている。これに関連 かんれん して古代 こだい からサーサーン朝 あさ 時代 じだい までの歴史 れきし も編纂 へんさん する動 うご きがあったようで、歴史 れきし 書 しょ 『フワダーイ・ナーマグ』(Χ かい wadāy Nāmag)が製作 せいさく されたと伝 つた えられている。これが、アッバース朝 あさ 時代 じだい のタバリーなどのサーサーン朝 あさ 史 し の原典 げんてん となり、さらに後代 こうだい のフェルドウスィー などが著 あらわ した歴史 れきし 叙事詩 じょじし 『シャー・ナーメ』のルーツとなった。
そのため、現在 げんざい のイラン民族 みんぞく にとって、サーサーン朝 あさ が直接 ちょくせつ の国家 こっか 的 てき 祖先 そせん と見 み なされている。これは近代 きんだい 化 か の影響 えいきょう だけでなく、そもそもサーサーン朝 あさ 時代 じだい の歴史 れきし などを編纂 へんさん し始 はじ めた王朝 おうちょう 末期 まっき やアッバース朝 あさ 時代 じだい の頃 ころ には、すでにアケメネス朝 あさ 時代 じだい は神話 しんわ 化 か ・伝説 でんせつ 化 か し、セレウコス朝 あさ 時代 じだい ・パルティア時代 じだい も殆 ほとん ど忘 わす れ去 さ られていた状態 じょうたい で、過去 かこ への歴史 れきし 的 てき 憧憬 どうけい は神話 しんわ 時代 じだい を除 のぞ くとペルシア文学 ぶんがく ではサーサーン朝 あさ 後期 こうき のホスロー1世 せい の時代 じだい が特 とく に賞揚 しょうよう されてきた伝統 でんとう によっている。特 とく にホスロー1世 せい は「公正 こうせい なるアヌーシルワーン」(「不滅 ふめつ なる霊魂 れいこん 」を意味 いみ する中期 ちゅうき ペルシア語 ご 、アノーシャグ・ルワーン anōšag ruwān に由来 ゆらい するアラビア語 ご の訛音 かおん )とも呼 よ ばれ、統治 とうち 者 しゃ ・君主 くんしゅ の模範 もはん として仰 あお がれた。ペルシア語 ご の通用 つうよう したアナトリア・イラン高原 こうげん 以東 いとう の地域 ちいき では、フェルドウスィーの『シャー・ナーメ』の他 ほか に、ホスロー2世 せい を題材 だいざい にしたニザーミー の『ホスローとシーリーン 』などペルシア語 ご 文芸 ぶんげい とともにサーサーン朝 あさ 時代 じだい についての知識 ちしき が受容 じゅよう された。
サーサーン朝 あさ で育 はぐく まれた行政 ぎょうせい 組織 そしき や文化 ぶんか は後 ご のイスラム 時代 じだい にも多大 ただい な影響 えいきょう を残 のこ した。
サーサーン朝 あさ では、直径 ちょっけい 3㎝の大型 おおがた で薄 うす い高 こう 純度 じゅんど の銀貨 ぎんか を用 もち いた、1ドラクム銀貨 ぎんか を数多 かずおお く発行 はっこう した。図柄 ずがら は共通 きょうつう しており、片面 かためん には王冠 おうかん をかぶった王 おう の横顔 よこがお 胸像 きょうぞう と王 おう 名 めい 等 とう を示 しめ すパフラヴィー語 ご での銘文 めいぶん 、片面 かためん には拝 はい 火 ひ 檀 まゆみ 並 なら びに2名 めい の守衛 しゅえい 像 ぞう と、発行 はっこう 地 ち ・発行 はっこう 年 ねん を示 しめ すパフラヴィー語 ご 銘文 めいぶん を記 しる している。
三蔵 さんぞう 法師 ほうし 玄 げん 奘はペルシャ訪問 ほうもん の機会 きかい は無 な かったが、ペルシャの伝聞 でんぶん 情報 じょうほう を得 え ており、大 だい 唐 から 西域 せいいき 記 き 第 だい 11巻 かん 第 だい 20節 せつ には、波 なみ 剌斯国 こく (ペルシャ国 こく )の記録 きろく として、「良 よ い馬 うま ・駱駝 らくだ が多 おお く、貨幣 かへい は大 だい 銀 ぎん 銭 ぜに を使用 しよう する」と記載 きさい した。中国 ちゅうごく の方 ほう 孔 あな 円形 えんけい 銅貨 どうか と比 くら べると、サーサーン朝 あさ の1ドラクム銀貨 ぎんか は美麗 びれい であり巨大 きょだい である。
著名 ちょめい な貨幣 かへい 学者 がくしゃ マイケル・ミッチナーが編纂 へんさん した「東洋 とうよう 貨幣 かへい とその価値 かち 古代 こだい ・古典 こてん 期 き の世界 せかい 」には1ドラクム銀貨 ぎんか を中心 ちゅうしん に、サーサーン朝 あさ の貨幣 かへい 473点 てん を収録 しゅうろく しているが、近隣 きんりん の諸国 しょこく でもサーサーンに類似 るいじ した貨幣 かへい を多 おお く発行 はっこう した。サーサーンで発行 はっこう された銀貨 ぎんか は、ソグド人 じん などの中央 ちゅうおう ユーラシア社会 しゃかい における高額 こうがく 決済 けっさい 用 よう の基軸 きじく 通貨 つうか としても尊重 そんちょう された。
ガラス器 き や銀製 ぎんせい 品 ひん などの工芸 こうげい 品 ひん は、世界 せかい 史上 しじょう に残 のこ る工芸 こうげい 品 ひん である。7世紀 せいき の日本 にっぽん に渡来 とらい した文物 ぶんぶつ は、正 せい 倉 くら 院 いん に今 いま も収 おさ められている。またペルシャ錦 にしき といわれる織物 おりもの が成立 せいりつ した。
ホスロー2世 せい 時代 じだい に絢爛 けんらん 豪華 ごうか で洗練 せんれん された宮廷 きゅうてい 料理 りょうり が成立 せいりつ し、サーサーン朝 あさ 滅亡 めつぼう 後 ご もアッバース朝 あさ イスラム帝国 ていこく の上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう に引 ひ き継 つ がれ、後 のち には南 みなみ アジア、中東 ちゅうとう 、北 きた アフリカにまで影響 えいきょう を及 およ ぼした。記録 きろく に残 のこ っている料理 りょうり には、ケバブ やブドウ の葉 は のドルマ が含 ふく まれている[11] 。
サーサーン朝 あさ 時代 じだい は、西 にし からキリスト教 きりすときょう (ネストリウス派 は など)、東 ひがし から仏教 ぶっきょう が伝来 でんらい 。サーサーン朝 あさ はインド 、クシャーナ朝 あさ 、ロ ろ ーマ帝国 まていこく 、唐 とう 、突厥 など当時 とうじ の大国 たいこく と係 かか わりがあり、ユーラシア西部 せいぶ の文明 ぶんめい の一大 いちだい 中心 ちゅうしん 地 ち であり十字路 じゅうじろ でもあった。このような素地 そじ の中 なか で、キリスト教 きょう 、ゾロアスター教 きょう 、仏教 ぶっきょう などの世界 せかい 宗教 しゅうきょう を総合 そうごう するマニ教 きょう が誕生 たんじょう した。
サーサーン朝 あさ の国教 こっきょう
ズルワーン教 きょう はゾロアスター教 きょう に関連 かんれん する宗教 しゅうきょう 。善 ぜん と悪 あく は時間 じかん の神 かみ ズルワーン から生 う まれたと説 と いた[12] 。
紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき ごろの小 しょう アジア ・シリア ・メソポタミア 一帯 いったい で信仰 しんこう されていたとみられる。サーサーン朝 あさ 成立 せいりつ から5世紀 せいき にかけてギリシア語 ご ・ラテン語 らてんご ・アルメニア語 ご ・シリア語 ご ・アラビア語 ご などの外国 がいこく 語 ご 資料 しりょう が豊富 ほうふ に残 のこ っている。また、マニ教 きょう の教祖 きょうそ マニ も最高 さいこう 神 しん としてズルワーンに言及 げんきゅう している。一方 いっぽう 9~10世紀 せいき にかけてのゾロアスター教 きょう パフラヴィー語 ご 文献 ぶんけん ではズルワーン主義 しゅぎ に関 かん する資料 しりょう が残 のこ されておらず、後世 こうせい に伝 つた わる二元論 にげんろん 的 てき なゾロアスター教 きょう との関係 かんけい は分 わ かっていない。ズルワーン教 きょう に関 かん しては以下 いか のような説 せつ がある[12] 。
バハラーム1世 せい に召 め され、自 みずか ら著述 ちょじゅつ した画集 がしゅう 教典 きょうてん を王 おう に差 さ し出 だ す「絵師 えし マニ」(16世紀 せいき 、ミール・アリー・シール・ナヴァーイー 作 さく )
マニ教 きょう は、キリスト教 きょう ・ゾロアスター教 きょう ・仏教 ぶっきょう などの諸 しょ 宗教 しゅうきょう を混合 こんごう した世界 せかい 宗教 しゅうきょう 。教祖 きょうそ はマニ (216年 ねん 頃 ごろ - 274年 ねん ?)[13] 。
マニはアルサケス家 か の血 ち を引 ひ くパルティア人 じん で父 ちち と共 とも にユダヤ教 きょう 系 けい キリスト教 きりすときょう のグノーシス主義 しゅぎ 洗礼 せんれい 教団 きょうだん エルカサイ派 は に所属 しょぞく していた。24歳 さい の時 とき にエルカサイ派 は を離脱 りだつ した彼 かれ は、父親 ちちおや や仲間 なかま たちと共 とも にメソポタミア・メディア・インドなどを行 い き巡 めぐ り、キリスト教 きょう ・ゾロアスター教 きょう ・仏教 ぶっきょう など諸 しょ 宗教 しゅうきょう を混合 こんごう した新興 しんこう 世界 せかい 宗教 しゅうきょう (後 のち にマニ教 きょう と呼 よ ばれる)を開 ひら く。サーサーン家 か の人物 じんぶつ まで改宗 かいしゅう させた彼 かれ は、シャープール1世 せい にも謁見 えっけん し、廷臣 ていしん として取 と り立 た てられた。そして自 みずか ら聖典 せいてん を書 か きし、教団 きょうだん の組織 そしき 化 か と伝道 でんどう 活動 かつどう に従事 じゅうじ した。しかしシャープールの死後 しご 、ゾロアスター教 きょう 神官 しんかん カルティールが台頭 たいとう し、マニは処刑 しょけい されてしまう[13] 。
教祖 きょうそ の死後 しご 、マール・スィースィンが跡 あと を継 つ ぎ、アラブ人 じん 伝道 でんどう にも成功 せいこう するが、彼 かれ 自身 じしん は殺 ころ されてしまう。その後 ご 、マニ教会 きょうかい の資料 しりょう はほとんど残 のこ されておらず、キリスト教会 きょうかい に地盤 じばん を奪 うば われたとみられている[13] 。
マズダク教 きょう はカワード1世 せい の宰相 さいしょう マズダク により提唱 ていしょう された宗教 しゅうきょう 。カワードは平等 びょうどう を説 と くマズダク教 きょう を利用 りよう してゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん の抑 おさ え込 こ もうとしたが、それにより混乱 こんらん を深 ふか めた[14] 。
19世紀 せいき ペルシアのアッシリア人 じん (ネストリウス派 は )達 たち
サーサーン朝 あさ に広 ひろ まったキリスト教 きりすときょう は、ロ ろ ーマ帝国 まていこく で広 ひろ がったヘレニズム 的 てき なキリスト教 きょう とは一線 いっせん を画 かく すシリア 系 けい キリスト教 きりすときょう であった。彼 かれ らはイエスが使 つか った言語 げんご であるアラム語 ご (シリア語 ご )を用 もち い、パルティア時代 じだい からロ ろ ーマ帝国 まていこく におけるキリスト教 きりすときょう の文化 ぶんか 的 てき 中心 ちゅうしん 都市 とし エデッサ を起点 きてん に東方 とうほう との交流 こうりゅう を行 おこな っていた[15] 。
サーサーン朝 あさ にキリスト教 きりすときょう が広 ひろ まるきっかけとなったのは、260年 ねん にサーサーン朝 あさ がエデッサを占領 せんりょう してからである。またサーサーン朝 あさ に捕 と らえられたローマ兵 へい にもキリスト教徒 きりすときょうと がおり、彼 かれ らを通 とお して国内 こくない にキリスト教 きりすときょう が広 ひろ まるようになった。なお、キリスト教徒 きりすときょうと は一枚岩 いちまいいわ ではなく、文化 ぶんか 的 てき 背景 はいけい によって以下 いか のグループに分 わ かれ、それぞれ緊張 きんちょう 関係 かんけい にあった[15] 。
クリスティヤーン - ギリシア文化 ぶんか 圏 けん のキリスト教徒 きりすときょうと 。ロ ろ ーマ帝国 まていこく のキリスト教主 きょうしゅ 流派 りゅうは
ナズラーイ - シリア文化 ぶんか 圏 けん のキリスト教徒 きりすときょうと 。
アーリア人 じん のキリスト教徒 きりすときょうと
なお、当初 とうしょ のサーサーン朝 あさ はロ ろ ーマ帝国 まていこく で迫害 はくがい されるキリスト教 きりすときょう に好意 こうい 的 てき で、布教 ふきょう は順調 じゅんちょう に進 すす んだ。4世紀 せいき にはセレウキア -クテシフォンに府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ が設 もう けられた[15] 。
313年 ねん にロ ろ ーマ帝国 まていこく でのキリスト教 きりすときょう 公認 こうにん が行 おこな われると、サーサーン朝 あさ はキリスト教 きりすときょう の迫害 はくがい (339年 ねん -379年 ねん )に転 てん じる。当時 とうじ はアーリア人 じん の間 あいだ でもキリスト教 きりすときょう が広 ひろ まっており、ゾロアスター教 きょう を基盤 きばん とするサーサーン朝 あさ にとって死活 しかつ 問題 もんだい であった。シャープール2世 せい によって主導 しゅどう された弾圧 だんあつ はキリスト教徒 きりすときょうと の反乱 はんらん と多 おお くの殉教者 じゅんきょうしゃ を出 だ した[15] 。
(参考 さんこう )10世紀 せいき における東方 とうほう 教会 きょうかい の教会 きょうかい 管区 かんく
ヤズデギルド1世 せい の代 だい になると、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との関係 かんけい 改善 かいぜん のためにキリスト教徒 きりすときょうと の迫害 はくがい が停止 ていし された。また、教会 きょうかい 網 もう が整備 せいび され、以下 いか の6大 だい 教会 きょうかい が成立 せいりつ した[15] 。
しかし、ヤズデギルドの治世 ちせい 末期 まっき にはキリスト教会 きょうかい との衝突 しょうとつ や、ゾロアスター教徒 きょうと のキリスト教 きりすときょう 改宗 かいしゅう が相次 あいつ ぎ、再 ふたた び迫害 はくがい 策 さく (420年 ねん -484年 ねん )がとられた。また、ロ ろ ーマ帝国 まていこく で異端 いたん とされた非 ひ カルケドン派 は (合性 あいしょう 論 ろん 派 は )とネストリウス派 は がサーサーン朝 あさ のキリスト教 きりすときょう 界 かい に入 はい り込 こ み、事態 じたい はより複雑 ふくざつ 化 か した。5世紀 せいき 半 なか ばにはクテシフォンの府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ が非 ひ カルケドン派 は に交代 こうたい した。また、エデッサを追 お われたネストリウス派 は がニシビスに拠点 きょてん を移 うつ した。ネストリウス派 は はロ ろ ーマ帝国 まていこく と敵対 てきたい する別種 べっしゅ のキリスト教 きょう と解釈 かいしゃく され、サーサーン朝 あさ と結 むす びつき、クテシフォンの府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ を獲得 かくとく した(逆 ぎゃく に非 ひ カルケドン派 は の府 ふ 主教 しゅきょう は処刑 しょけい に追 お い込 こ まれた)。ネストリウス派 は はサーサーン朝 あさ に公認 こうにん された唯一 ゆいいつ のキリスト教 きりすときょう として勢力 せいりょく を拡大 かくだい し、クテシフォンの府 ふ 主教 しゅきょう 座 ざ は東方 とうほう 総 そう 主教 しゅきょう (カトリコス )の名称 めいしょう を用 もち いるようになった[15] 。
ネストリウス派 は はニシビス一帯 いったい に神学校 しんがっこう と修道院 しゅうどういん を整備 せいび したが、修道院 しゅうどういん 制度 せいど と禁欲 きんよく 主義 しゅぎ は元 もと ゾロアスター教徒 きょうと のアーリア人 じん キリスト教徒 きりすときょうと たちにはなじまず、486年 ねん にはいったん廃止 はいし された。しかし文化 ぶんか 的 てき 基盤 きばん であった修道院 しゅうどういん をなくすことはキリスト教会 きょうかい の文化 ぶんか 的 てき 活力 かつりょく を低下 ていか させたため、シリア系 けい キリスト教徒 きりすときょうと から反発 はんぱつ を受 う けた。そのため6世紀 せいき には修道院 しゅうどういん 制度 せいど が復活 ふっかつ し、ネストリウス派 は 神学 しんがく が確立 かくりつ されていった[15] 。
キリスト教 きりすときょう がサーサーン朝 あさ の領域 りょういき に広 ひろ まった理由 りゆう として次 つぎ の理由 りゆう が挙 あ げられる[15] 。
書物 しょもつ 文化 ぶんか の発達 はったつ - キリスト教会 きょうかい はユダヤ人 じん ・ギリシア人 じん の書物 しょもつ 文化 ぶんか を受 う け継 つ いでいたのに対 たい し、ゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん には碑文 ひぶん 以外 いがい の書物 しょもつ 文化 ぶんか が乏 とぼ しく、6世紀 せいき まではセム系 けい 文字 もじ の借用 しゃくよう に甘 あま んじていた
聖典 せいてん の確立 かくりつ - シリア語 ご 訳 やく 『ディアテッサロン 』(2世紀 せいき )、パフラヴィー語 ご 訳 わけ 『詩編 しへん 』(3~4世紀 せいき )、シリア語 ご 訳 やく 『聖書 せいしょ 』(5世紀 せいき )など、キリスト教会 きょうかい は聖典 せいてん 翻訳 ほんやく を積極 せっきょく 的 てき に行 い っていた。特 とく にパフラヴィー語 ご 訳 やく 『詩編 しへん 』は新 あら たに発明 はつめい された書物 しょもつ 用 よう のパフラヴィー文字 もじ をもとに書 か かれており(それまでパフラヴィー文字 もじ は碑文 ひぶん 用 よう のものしかなかった)、6世紀 せいき まで口伝 くでん 伝承 でんしょう しか持 も たなかったゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん を圧倒 あっとう していた(#自国 じこく 史 し の編纂 へんさん 参考 さんこう )。
ヘレニズム の知的 ちてき 遺産 いさん - キリスト教会 きょうかい はギリシア人 じん の学問 がくもん の成果 せいか を受 う け継 つ いでおり、神学校 しんがっこう ・修道院 しゅうどういん でそれらを継承 けいしょう ・発展 はってん させていった。そのため医者 いしゃ ・学者 がくしゃ ・占星術 せんせいじゅつ 師 し など知的 ちてき 職業 しょくぎょう に占 し めるキリスト教徒 きりすときょうと の割合 わりあい が高 たか くなり、これらの層 そう からも宣教師 せんきょうし が輩出 はいしゅつ された。なお、初期 しょき イスラム 文化 ぶんか もキリスト教徒 きりすときょうと によるヘレニズム文化 ぶんか のシリア語 ご 訳 やく に頼 たよ っていた。
これらの理由 りゆう からキリスト教会 きょうかい はゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん に対 たい して知的 ちてき 優位 ゆうい に立 た つことができた。ホスロー1世 せい のもとでゾロアスター教 きょう にギリシア哲学 てつがく やインド哲学 てつがく が取 と り入 い れられたり、キリスト教 きょう パフレヴィー文字 もじ を参考 さんこう にアヴェスター文字 もじ が発明 はつめい され、口伝 くでん 『アヴェスター』とそのパフラヴィー語 ご 注釈 ちゅうしゃく 『ザンド』が書籍 しょせき 化 か されたのも、キリスト教会 きょうかい に対抗 たいこう するためであったとされている[16] 。
208年 ねん :バーバクがパールス地方 ちほう を統一 とういつ 。サーサーン朝 あさ の基礎 きそ を起 お こす。
226年 ねん :アルダシール1世 せい がパルティア(アルサケス朝 あさ )を滅 ほろ ぼし、イラン・イラク を統一 とういつ 。
240年 ねん 頃 ごろ :シャープール1世 せい 、クシャーナ に遠征 えんせい し、ガンダーラ を奪 うば う。
260年 ねん :シャープール1世 せい 、エデッサの戦 たたか いでローマ軍 ぐん と戦 たたか い、ウァレリアヌスを捕 とら える。
350年 ねん 頃 ごろ :シャープール2世 せい 、クシャーナを破 やぶ り、再度 さいど 征服 せいふく 。
363年 ねん :シャープール2世 せい 、ユリアヌス を敗 はい 死 し させる。
409年 ねん :キリスト教 きりすときょう 寛容 かんよう 令 れい 。
425年 ねん :エフタルの侵入 しんにゅう 。
428年 ねん :アルメニア王国 おうこく を廃絶 はいぜつ し、サーサーン朝 あさ の知事 ちじ を置 お く。
484年 ねん :ペーローズ1世 せい 、 エフタルとの戦 たたか いで戦死 せんし 。
540年 ねん :ホスロー1世 せい 、アンティオキア を占領 せんりょう 。
567年 ねん :ホスロー1世 せい 、エフタルを滅 ほろ ぼす。
575年 ねん :ホスロー1世 せい 、イエメンを占領 せんりょう 。
616年 ねん :ホスロー2世 せい 、東 ひがし ローマ領 りょう のシリア 、エジプト を占領 せんりょう 。
627年 ねん :ニネヴェの戦 たたか いで東 ひがし ローマ・ヘラクレイオス朝 あさ のヘラクレイオスに敗 やぶ れ、クテシフォン近郊 きんこう への侵攻 しんこう を許 ゆる す。
628年 ねん :ホスロー2世 せい 暗殺 あんさつ 、息子 むすこ のカワード2世 せい はヘラクレイオスと和睦 わぼく 、占領 せんりょう 地 ち を奪回 だっかい される。
637年 ねん :カーディシーヤの戦 たたか いでイスラム軍 ぐん に敗 やぶ れ、クテシフォンを占領 せんりょう される。
642年 ねん :ハマダーン近 ちか くのニハーヴァンドの戦 たたか いで敗北 はいぼく 。
651年 ねん :ヤズデギルド3世 せい が逃亡 とうぼう 先 さき で暗殺 あんさつ され、サーサーン朝 あさ 滅亡 めつぼう 。
サーサーン朝 あさ 系図 けいず
歴代 れきだい 君主 くんしゅ の称号 しょうごう は全 すべ てシャーハンシャー (諸王 しょおう の王 おう )である。
アルダシール1世 せい (224年 ねん -241年 ねん )
シャープール1世 せい (241年 ねん -272年 ねん )
ホルミズド1世 せい (272年 ねん -273年 ねん )
バハラーム1世 せい (273年 ねん -276年 ねん )
バハラーム2世 せい (276年 ねん -293年 ねん )
バハラーム3世 せい (293年 ねん )
ナルセ1世 せい (293年 ねん -302年 ねん )
ホルミズド2世 せい (302年 ねん -309年 ねん )
アードゥルナルセ (309年 ねん )
シャープール2世 せい (309年 ねん -379年 ねん )
アルダシール2世 せい (379年 ねん -383年 ねん )
シャープール3世 せい (383年 ねん -388年 ねん )
バハラーム4世 せい (388年 ねん -399年 ねん )
ヤズデギルド1世 せい (399年 ねん -420年 ねん )
バハラーム5世 せい (420年 ねん -438年 ねん )
ヤズデギルド2世 せい (438年 ねん -457年 ねん )
ホルミズド3世 せい (457年 ねん -459年 ねん )
ペーローズ1世 せい (459年 ねん -484年 ねん )
バラーシュ (484年 ねん -488年 ねん )
カワード1世 せい (488年 ねん -497年 ねん 、499年 ねん -531年 ねん )
ジャーマースプ (497年 ねん -499年 ねん )
ホスロー1世 せい (531年 ねん -579年 ねん )
ホルミズド4世 せい (579年 ねん -590年 ねん )
ホスロー2世 せい (590年 ねん -628年 ねん )
カワード2世 せい (628年 ねん )
アルダシール3世 せい (628年 ねん -630年 ねん )
ボーラーンドゥフト (630年 ねん -631年 ねん 、女帝 にょてい )
ペーローズ2世 せい
ホスロー4世 せい
アーザルミードゥフト (631年 ねん -632年 ねん 、女帝 にょてい )
ヤズデギルド3世 せい (632年 ねん -651年 ねん )
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^ Will Durant, Age of Faith, (Simon and Schuster, 1950), 150; Repaying its debt, Sasanian art exported it forms and motives eastward into India, Turkestan, and China, westward into Syria, Asia Minor, Constantinople, the Balkans, Egypt, and Spain..
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^ a b c 前掲 ぜんけい 『新 しん ゾロアスター教 きょう 史 し 』144-157ページ。
^ 前掲 ぜんけい 『新 しん ゾロアスター教 きょう 史 し 』178ページ。
^ a b c d e f g h 前掲 ぜんけい 『新 しん ゾロアスター教 きょう 史 し 』157-168ページ。
^ 前掲 ぜんけい 『新 しん ゾロアスター教 きょう 史 し 』157-168ページ。
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