ゾロアスター教 きょう (ゾロアスターきょう、ペルシア語 ご : دین زردشت Dîn-e Zardošt 、ドイツ語 ご : die Lehre des Zoroaster/Zarathustra 、英語 えいご : Zoroastrianism )、祆教 (けんきょう、拼音 : xiān jiào シェンジャオ )または拝 はい 火 ひ 教 きょう (はいかきょう)は、古代 こだい ペルシア が起源 きげん の、ザラスシュトラ (ゾロアスター、ツァラトゥストラ)がアフラ・マズダー を信仰 しんこう 対象 たいしょう として創設 そうせつ した宗教 しゅうきょう である。ネオペイガニズム を除 のぞ く現存 げんそん する宗教 しゅうきょう の中 なか では最長 さいちょう の歴史 れきし を持 も つとされる。聖典 せいてん は『アヴェスター 』。
聖火 せいか 台 だい 跡 あと (イラン)
チャクチャク (ヤズド州 しゅう )
イラン高原 こうげん に住 す んでいた古代 こだい アーリア人 じん はミスラ やヴァーユ など様々 さまざま な神 かみ を信仰 しんこう する多神教 たしんきょう (原 はら イラン多神教 たしんきょう [ 1] )であった[ 2] 。この原 はら イラン多神教 たしんきょう を基 もと に、ザラスシュトラ (ゾロアスター、ツァラトゥストラ)がアフラ・マズダー を信仰 しんこう 対象 たいしょう として紀元前 きげんぜん 7世紀 せいき 頃 ごろ に創設 そうせつ したのがゾロアスター教 きょう のルーツである[ 3] 。
紀元前 きげんぜん 6世紀 せいき のアケメネス朝 あさ ペルシア 成立 せいりつ 時 じ 、既 すで に王家 おうけ と王国 おうこく の中枢 ちゅうすう をなすペルシア人 じん のほとんどが信奉 しんぽう する宗教 しゅうきょう であったとも言 い われている[ 4] 。これに対 たい し、3世紀 せいき のサーサーン朝 あさ 成立 せいりつ まで、長 なが らくアーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう の一派 いっぱ に過 す ぎなかったとする見方 みかた もある。このため21世紀 せいき 初頭 しょとう のゾロアスター研究 けんきゅう では、古代 こだい アーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう を記述 きじゅつ することでアーリア人 じん の民族 みんぞく 宗教 しゅうきょう 研究 けんきゅう に奥行 おくゆ きを持 も たせようとする傾向 けいこう がある[ 5] 。紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき に成立 せいりつ したアルサケス朝 あさ パルティア でもヘレニズム の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けつつアーリア人 じん の信仰 しんこう は守 まも られた。3世紀 せいき 初頭 しょとう に成立 せいりつ したサーサーン朝 あさ ペルシアでは国教 こっきょう とされ、王権 おうけん 支配 しはい の正当 せいとう 性 せい を支 ささ える重要 じゅうよう な柱 はしら とみなされた[ 4] 。サーサーン朝 ちょう 期 き には聖典 せいてん 『アヴェスター 』が整備 せいび された。また、活発 かっぱつ なペルシア商人 しょうにん の交易 こうえき 活動 かつどう によって中央 ちゅうおう アジア ・中国 ちゅうごく へも伝播 でんぱ していった。
7世紀 せいき 後半 こうはん 以降 いこう 、アラブ人 じん イスラム教徒 きょうと の支配 しはい でゾロアスター教 きょう は衰退 すいたい し、その活動 かつどう の中心 ちゅうしん はインド に移 うつ った。17世紀 せいき 以降 いこう 、イギリス のアジア 進出 しんしゅつ のなかで、イギリス東 ひがし インド会社 かいしゃ とインドのゾロアスター教徒 きょうと の関係 かんけい が深 ふか まり、現在 げんざい も少数 しょうすう 派 は ながらインド経済 けいざい 社会 しゃかい で少 すく なからぬ影響 えいきょう 力 りょく を持 も つ[ 6] 。聖地 せいち はイラン、ヤズド近郊 きんこう に位置 いち するチャクチャク [ 7] 。
ゾロアスター教 きょう は光 ひかり (善 ぜん )の象徴 しょうちょう としての純粋 じゅんすい な「火 ひ 」(アータル 、アヴェスター語 ご : ātar )を尊 とうと ぶため、拝 はい 火 ひ 教 きょう (はいかきょう)とも呼 よ ばれる。ゾロアスター教 きょう の全 ぜん 神殿 しんでん には、ザラスシュトラが点火 てんか したとされる火 ひ が絶 た えることなく燃 も え続 つづ け、神殿 しんでん 内 ない には偶像 ぐうぞう はなく、信者 しんじゃ は炎 ほのお に向 む かって礼拝 れいはい する[ 6] 。中国 ちゅうごく では祆教 (けんきょう)とも筆写 ひっしゃ され、唐 とう 代 だい には「三 さん 夷 えびす 教 きょう 」の一 ひと つとして隆盛 りゅうせい した。他称 たしょう としてはさらに、アフラ・マズダー を信仰 しんこう するところからマズダー教 きょう の呼称 こしょう がある。ただし、アケメネス朝 あさ の宗教 しゅうきょう を「ゾロアスター教 きょう 」とは呼 よ べないという立場 たちば (たとえばエミール・バンヴェニスト )からすると、ゾロアスター教 きょう はマズダー教 きょう の一種 いっしゅ である。また、この宗教 しゅうきょう がペルシア起源 きげん であることから、インド亜 あ 大陸 たいりく では「ペルシア」を意味 いみ する「パールシー (パースィー、パーシー)」の語 かたり を用 もち いて、パールシー教 きょう ないしパーシー教 きょう とも称 しょう される。
今日 きょう 、世界 せかい におけるゾロアスター教 きょう の信者 しんじゃ は約 やく 10万 まん 人 にん と推計 すいけい されている[ 6] 。インド・イラン・欧米 おうべい 圏 けん などにも信者 しんじゃ が存在 そんざい するが、それぞれの地域 ちいき で少数 しょうすう 派 は にとどまっている。
その来世 らいせ 観 かん ・終末 しゅうまつ 論 ろん がセム的 てき 一神教 いっしんきょう や仏教 ぶっきょう などに影響 えいきょう を与 あた えたという説 せつ もある[ 8] 。善 ぜん 悪 あく 二元論 にげんろん を特徴 とくちょう とするが、善 ぜん の勝利 しょうり と優位 ゆうい が確定 かくてい されている。「世界 せかい 最古 さいこ の一神教 いっしんきょう 」とも言 い われることもある。
ザラスシュトラの教 おし え(原 はら ゾロアスター教 きょう )がどのようなものだったのか、聖典 せいてん 『アヴェスター 』が極 きわ めて難解 なんかい なことから、今日 きょう では正確 せいかく には分 わ かっていない。様々 さまざま な宗教 しゅうきょう の影響 えいきょう を受 う けて、6~9世紀 せいき にようやく教義 きょうぎ が確立 かくりつ したとする向 む きもある。
ここではゾロアスター教 きょう の主 おも な教義 きょうぎ を記述 きじゅつ したのち、その教義 きょうぎ 史 し について概観 がいかん する。
ゾロアスター教 きょう で最 さい 重要 じゅうよう の儀式 ぎしき とされるのがジャシャン である。これは、「感謝 かんしゃ の儀式 ぎしき 」とも呼 よ ばれ、物質 ぶっしつ 界 かい ・精神 せいしん 界 かい に平和 へいわ と秩序 ちつじょ をもたらすと考 かんが えられている[ 6] 。ゾロアスター教徒 きょうと は、この儀式 ぎしき に参加 さんか することで生 い きていることの感謝 かんしゃ の意 い を表 あらわ し、儀式 ぎしき のなかでも感謝 かんしゃ の念 ねん を捧 ささ げる[ 6] 。ゾロアスター教 きょう 祭司 さいし は、白衣 はくい をまとい、伝統 でんとう 的 てき な帽子 ぼうし をかぶり聖火 せいか を汚 よご さぬよう白 しろ いマスク をして儀式 ぎしき に臨 のぞ む[ 6] 。ここでは清浄 せいじょう さが求 もと められる。
7歳 さい から12歳 さい ころまでにかけてゾロアスター教 きょう 入信 にゅうしん の儀式 ぎしき 「ナオジョテ (ナヴヨテ)」が行 おこな われる。儀式 ぎしき で入信 にゅうしん 者 しゃ は純潔 じゅんけつ と新生 しんせい の象徴 しょうちょう である白 しろ い糸 いと (クスティ)と神聖 しんせい な肌着 はだぎ (スドラ)を身 み につけ、教義 きょうぎ ・道徳 どうとく とを守 まも ることを誓願 せいがん する[ 6] 。
ペルセポリス にのこされたゾロアスター教 きょう の守護 しゅご 霊 れい フラワシ像 ぞう
ゾロアスター教 きょう の守護 しゅご 霊 れい は、善 ぜん を表 あらわ し、善 ぜん のために働 はたら く「フラワシ 」である[ 6] 。フラワシはこの世 よ の森羅万象 しんらばんしょう に宿 やど り、あらゆる自然 しぜん 現象 げんしょう を起 お こす霊的 れいてき 存在 そんざい として神 かみ の神髄 しんずい を表 あらわ し、助 たす けを求 もと める人 ひと を救 すく うであろうと信 しん じられている[ 6] 。
ゾロアスター教 きょう の礼拝 れいはい は、「拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん 」と称 しょう される礼拝 れいはい 所 しょ で行 おこな われる。神殿 しんでん は信者 しんじゃ 以外 いがい は立入禁止 たちいりきんし で、信者 しんじゃ は礼拝 れいはい 所 しょ に入 はい る前 まえ 、手 て ・顔 かお を清 きよ め、クスティ と呼 よ ばれる祈 いの りの儀式 ぎしき をおこなう。クスティののち履物 はきもの を脱 ぬ いで建物 たてもの に入 はい り聖火 せいか の前 まえ に進 すす んで、その灰 はい を自分 じぶん の顔 かお に塗 ぬ って聖 せい なる火 ひ に対 たい して礼拝 れいはい を捧 ささ げる[ 6] 。
ヤズド (イラン)の「沈黙 ちんもく の塔 とう 」
ゾロアスター教 きょう の葬送 そうそう は、鳥 とり 葬 そう ・風葬 ふうそう である[ 6] 。この葬送 そうそう は、遺体 いたい を埋納 まいのう せず野原 のはら などに放置 ほうち し、風化 ふうか ないし、鳥 とり がついばむなど自然 しぜん に任 まか せるもので、そのための施設 しせつ が設 もう けられることもある[ 6] 。この施設 しせつ は一般 いっぱん に「沈黙 ちんもく の塔 とう (ダフマ)」と呼 よ ばれ、屋根 やね を設 もう けず、石板 せきばん の上 うえ に死者 ししゃ の遺体 いたい を置 お き、上空 じょうくう から鳥 とり が降下 こうか して死体 したい をついばむ構造 こうぞう となっている[ 6] 。ゾロアスター教 きょう の教義 きょうぎ 上 じょう 、人間 にんげん はその肉体 にくたい もアフラ・マズダーなど善 ぜん 神 かみ 群 ぐん の守護 しゅご のもとにあるため、清浄 せいじょう な創造 そうぞう 物 ぶつ である遺体 いたい に対 たい して不浄 ふじょう がもたらされないよう、鳥 とり 葬 そう ・風葬 ふうそう がされると説明 せつめい されている[ 6] 。
ゾロアスター教 きょう の聖典 せいてん 『アヴェスター 』のヴェンディダード (除 じょ 魔 ま の書 しょ )などでは、自分 じぶん の親 おや ・子 こ ・兄弟 きょうだい 姉妹 しまい と交 まじ わる最近 さいきん 親 おや 婚 こん を「フヴァエトヴァダタ」と呼 よ び、最大 さいだい の善徳 ぜんとく と説 と いた。アケメネス朝 ちょう 期 き の伝承 でんしょう を綴 つづ った『アルダー・ウィーラーフの書 しょ 』では、ニーシャープール の聖職 せいしょく 者 しゃ ウィーラーフの高徳 こうとく の中 なか で、最 もっと も称賛 しょうさん されるのが7人 にん の姉妹 しまい と近親 きんしん 婚 こん したこととされる[ 9] 。また、彼 かれ は冥界 めいかい の旅 たび の中 なか で天国 てんごく で光 ひか り輝 かがや く者 もの 達 たち を見 み たが、その中 なか に住 す まう者 もの として近親 きんしん 婚 こん を行 おこな った者 もの の姿 すがた があった。反対 はんたい に、近親 きんしん 婚 こん を破算 はさん にした女 おんな が地獄 じごく で蛇 へび に苛 さいな まれている記述 きじゅつ があり、その苦痛 くつう は永遠 えいえん に続 つづ くという。ゾロアスター教 きょう の影響 えいきょう 下 か にあった古代 こだい ペルシャでは、王族 おうぞく 、僧侶 そうりょ 、平民 へいみん など階級 かいきゅう の区別 くべつ なく親子 おやこ ・兄弟 きょうだい 姉妹 しまい 間 あいだ の近親 きんしん 婚 こん が行 おこな われていた。
善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん とゾロアスター教 きょう の神 かみ 々[ 編集 へんしゅう ]
ゾロアスター教 きょう の教義 きょうぎ の最大 さいだい の特色 とくしょく は、善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん と終末 しゅうまつ 論 ろん である[ 6] 。世界 せかい は至高 しこう 神 しん アフラ・マズダー率 ひき いるスプンタ・マンユ と悪 あく の霊 れい アンラ・マンユ (アフリマン)、およびそれに率 ひき いられる善 ぜん 神 かみ 群 ぐん (アムシャ・スプンタ )と悪神 あくじん 群 ぐん (ダエーワ )の両 りょう 勢力 せいりょく が互 たが いに争 あらそ う場 ば で、生命 せいめい ・光 ひかり と死 し ・闇 やみ との闘争 とうそう とされる[ 6] [ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。
最初 さいしょ に2つの対立 たいりつ する霊 れい があり、両者 りょうしゃ が相互 そうご の存在 そんざい に気 き づいたとき、善 ぜん の霊 れい (知恵 ちえ の主 あるじ アフラ・マズダー )が生命 せいめい ・真理 しんり などを選 えら び、それに対 たい してもう一方 いっぽう の対立 たいりつ 霊 れい (アンラ・マンユ )は死 し ・虚偽 きょぎ を選 えら んだ[ 12] 。アフラ・マズダーは、戦 たたか いが避 さ けられないことを悟 さと り、戦 たたか いの場 ば とその担 にな い手 て として天 たかし ・水 みず ・大地 だいち ・植物 しょくぶつ ・動物 どうぶつ ・人間 にんげん ・火 ひ の7段階 だんかい からなるこの世界 せかい を創造 そうぞう した。各 かく 被 ひ 造物 ぞうぶつ はアフラ・マズダーの7つの倫理 りんり 的 てき 側面 そくめん により、特別 とくべつ に守護 しゅご された[ 12] 。対 たい してアンラ・マンユは大地 だいち を砂漠 さばく に、大海 たいかい を塩水 えんすい にし、植物 しょくぶつ を枯 か らして人間 にんげん や動物 どうぶつ を殺 ころ し、火 ひ を汚 けが すという攻撃 こうげき を加 くわ えた。しかしアフラ・マズダーは世界 せかい を浄化 じょうか し、動物 どうぶつ や人間 にんげん を増 ふ やすなど、不断 ふだん の努力 どりょく でアンラ・マンユのまき散 ち らす衰亡 すいぼう ・邪悪 じゃあく ・汚染 おせん などの害悪 がいあく を、善 よ きものに変 か えていった。このように、歴史 れきし を創造 そうぞう された「この世界 せかい 」を舞台 ぶたい とした2大 だい 勢力 せいりょく の戦 たたか いと理解 りかい した。
アフラ・マズダー(右 みぎ )より王権 おうけん の象徴 しょうちょう を授受 じゅじゅ されるサーサーン朝 あさ のアルダシール1世 せい (左 ひだり )のレリーフ(ナクシェ・ロスタム )
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教 きょう の主神 しゅしん 。みずからの属性 ぞくせい を7つのアムシャ・スプンタ(七 なな 大 だい 天使 てんし 、不滅 ふめつ なる利益 りえき 者 しゃ たち)という神 かみ 々として実体 じったい 化 か させ、天空 てんくう ・水 みず ・大地 だいち ・植物 しょくぶつ ・動物 どうぶつ ・人 ひと ・火 ひ の順番 じゅんばん で創成 そうせい した、世界 せかい の創造 そうぞう 者 しゃ である[ 6] 。
アフラ・マズダーを補佐 ほさ する善 ぜん 神 しん (アムシャ・スプンタ)としては、次 つぎ の7神 かみ がある。
スプンタ・マンユ : 人類 じんるい の守護神 しゅごじん 。「聖霊 せいれい 」を意味 いみ する。アフラ・マズダーと同一 どういつ 視 し されることもある[ 6] 。
ウォフ・マナフ : 動物 どうぶつ 界 かい の統治 とうち 者 しゃ 。「善 ぜん なる意思 いし 」を意味 いみ し、アフラ・マズダーの言葉 ことば を人類 じんるい に伝達 でんたつ する役割 やくわり 。常 つね に人間 にんげん の行為 こうい を記録 きろく し、やがて訪 おとず れる「最後 さいご の審判 しんぱん 」でその記録 きろく を詠 よ みあげるとされる[ 6]
アシャ・ワヒシュタ (アシャ) : 「聖 せい なる火 ひ 」の守護神 しゅごじん 。「宇宙 うちゅう を正 まさ しく秩序 ちつじょ づける正義 まさよし 」に由来 ゆらい し、天体 てんたい の運行 うんこう や季 き 節 ぶし の移 うつ り変 か わりを司 つかさど る。虚偽 きょぎ の悪魔 あくま ドゥルジに対峙 たいじ する[ 6] 。
スプンタ・アールマティ : 大地 だいち の守護神 しゅごじん 。代表 だいひょう 的 てき な女神 めがみ (女性 じょせい 天使 てんし )。「献身 けんしん 」「敬虔 けいけん 」の名 な の通 とお り、宗教 しゅうきょう 的 てき 調和 ちょうわ や信仰 しんこう 心 しん の強 つよ さ、さらに信仰 しんこう そのものを顕現 けんげん する。「背教 はいきょう 」と「推測 すいそく 」の悪魔 あくま タローマティと対立 たいりつ する[ 6]
クシャスラ (フシャスラ・ワルヤ) : 金属 きんぞく ・鉱物 こうぶつ の守護神 しゅごじん 。「理想 りそう 的 てき な領土 りょうど ないし統治 とうち 」に由来 ゆらい し、「天 てん の王権 おうけん 」を象徴 しょうちょう する。アフラ・マズダーによる「善 ぜん の王国 おうこく 」建設 けんせつ のために尽力 じんりょく する[ 6]
ハルワタート : 水 みず の守護神 しゅごじん 。「完璧 かんぺき 」を意味 いみ する女性 じょせい の大 だい 天使 てんし 。アムルタートとは密接 みっせつ 不可分 ふかぶん とされる[ 6]
アムルタート : 植物 しょくぶつ の守護 しゅご 天使 てんし 。主神 しゅしん アフラ・マズダーの子 こ 。名 な は「不死 ふし 」に由 よ る。ハルワタートと力 ちから を合 あ わせて地上 ちじょう に降雨 こうう をもたらす[ 6] また、善 ぜん 神 しん の象徴 しょうちょう は炎 ほのお とされ、そこから火 ひ の崇拝 すうはい が生 う まれている
悪神 あくじん アエーシュマ の影響 えいきょう で成立 せいりつ したと考 かんが えられる。
善 ぜん 神 しん と対峙 たいじ する悪魔 あくま は、以下 いか の通 とお り。
アンラ・マンユ (別名 べつめい :アフリマン、アーリマン) : ゾロアスター教 きょう における大 だい 魔王 まおう 。虚偽 きょぎ ・狂気 きょうき ・凶暴 きょうぼう ・病気 びょうき など、あらゆる悪 あく や害毒 がいどく を創造 そうぞう する[ 6] 。
アエーシュマ : 怒 いか りと欲望 よくぼう を司 つかさど り、人間 にんげん を悪行 あくぎょう にいざなう。天使 てんし スラオシャ とは対立 たいりつ 関係 かんけい にある[ 6] [ 注釈 ちゅうしゃく 2]
アジ・ダハーカ : 3頭 とう 3口 くち を有 ゆう し、口 くち からは毒 どく を吐 は き出 だ す。残忍 ざんにん でずる賢 かしこ く、地上 ちじょう にあっては人間 にんげん の姿 すがた をして善人 ぜんにん をそそのかす悪魔 あくま である[ 6]
ジャヒー : 女 おんな 悪魔 あくま で売春 ばいしゅん 婦 ふ の支配 しはい 者 しゃ 。婦人 ふじん に月経 げっけい の苦 くる しみをあたえたとされる[ 6]
タローマティ : アヴェスター語 ご で「背教 はいきょう 」を意味 いみ する。女性 じょせい 天使 てんし アールマティと対立 たいりつ 関係 かんけい にある[ 6]
ドゥルジ : 疫病 えきびょう をもたらす女 おんな の悪魔 あくま 。天体 てんたい 運行 うんこう をになうアシャとは対立 たいりつ 関係 かんけい にある[ 6]
パリカー : 女 おんな 悪魔 あくま の総称 そうしょう 。ドゥルズーヤー、クナンサティー、ムーシュは、そのなかでも「三 さん 大 だい パリカー」として恐怖 きょうふ の対象 たいしょう となった[ 6]
ゾロアスター教 きょう の歴史 れきし 観 かん では、宇宙 うちゅう の始 はじ まりから終 お わりまでの期間 きかん は1万 まん 2000年 ねん とされ、3000年 ねん ずつ4つに区切 くぎ られ、「(霊的 れいてき +物質 ぶっしつ 的 てき )創造 そうぞう (ブンダヒシュン)」「混合 こんごう (グメーズィシュン)」「分離 ぶんり (ウィザーリシュン)」の3期 き に分 わ けられ、現在 げんざい は「混合 こんごう の時代 じだい 」とされる。アフラ・マズダーによる「創造 そうぞう 」によって始 はじ まった「創造 そうぞう の時代 じだい 」は完璧 かんぺき な世界 せかい だったが、アンラ・マンユの攻撃 こうげき 後 ご は「混合 こんごう の時代 じだい 」に入 はい り、善悪 ぜんあく が入 はい り混 ま じって互 たが いに闘争 とうそう する時代 じだい となる。全 ぜん 人類 じんるい は人生 じんせい においてこの戦 たたか いに否応 いやおう なく参加 さんか することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝 すうはい して悪徳 あくとく を自 みずか らの中 なか から追 お い出 だ し、善 ぜん が勝 か つよう神 かみ 々とともに悪 あく に打 う ち克 か つ努力 どりょく をしなければならない。死後 しご 、楽土 らくど へ向 む かう「チンワト橋 きょう (選別 せんべつ 者 しゃ の橋 はし )」でミスラの審判 しんぱん を受 う けて善行 ぜんこう を積 つ んできた者 もの は、自分 じぶん 自身 じしん の意識 いしき が形 かたち となった美 うつく しい少女 しょうじょ ダエーナー に導 みちび かれて[ 13] 楽土 らくど (天国 てんごく )へ渡 わた り、悪 あく を選 えら んだ者 もの は橋 はし から落 お ちて地獄 じごく に向 む かう。そして将来 しょうらい 的 てき には「治癒 ちゆ 」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼 よ ばれる善 ぜん の勝利 しょうり と歴史 れきし の終末 しゅうまつ が起 お こり、それ以後 いご の「分離 ぶんり の時代 じだい 」には善悪 ぜんあく は完全 かんぜん に分離 ぶんり し、アンラ・マンユと悪 あく を選 えら んだ者 もの たちは消滅 しょうめつ し、世界 せかい は再 ふたた び完璧 かんぺき で理想 りそう 的 てき なものとなって、「分離 ぶんり の時代 じだい 」は永遠 えいえん に続 つづ くと考 かんが えられた。
ゾロアスター教 きょう では、善 ぜん 神 かみ 群 ぐん と悪神 あくじん たちとの闘争 とうそう 後 ご 、最後 さいご の審判 しんぱん で善 ぜん の勢力 せいりょく が勝利 しょうり すると考 かんが えられ、その後 ご 、新 あたら しい理想 りそう 世界 せかい への転生 てんせい が説 と かれる[ 6] 。そして、そのなかで人 ひと は、生涯 しょうがい において善 ぜん 思 おもえ ・善 ぜん 語 ご ・善行 ぜんこう の3つの徳 とく (三徳 さんとく )の実践 じっせん を求 もと められる。人 ひと はその実践 じっせん に応 おう じて、臨終 りんじゅう に裁 さば きを受 う けて、死後 しご は天国 てんごく か地獄 じごく のいずれかへか旅立 たびだ つと信 しん じられた[ 6] 。世界 せかい の終末 しゅうまつ には総 そう 審判 しんぱん (「最後 さいご の審判 しんぱん 」)がなされる。そこでは、死者 ししゃ も生者 しょうじゃ も改 あらた めて選別 せんべつ され、すべての悪 あく が滅 ほろぼ したのちの新 しん 世界 せかい で、最後 さいご の救世主 きゅうせいしゅ によって永遠 えいえん の生命 せいめい をあたえられる[ 6] 。
ゾロアスター教 きょう は自然 しぜん 崇拝 すうはい の原 はら イラン多神教 たしんきょう を母体 ぼたい とし、ザラスシュトラがそれを体系 たいけい 化 か したと考 かんが えられる[ 14] 。原 はら イラン多神教 たしんきょう の天 てん の神 かみ ヴァルナの信仰 しんこう は、ザラスシュトラらによって道徳 どうとく 的 てき 意味 いみ を付与 ふよ されアフラ・マズダーという宇宙 うちゅう 創造 そうぞう の至高 しこう 神 しん の地位 ちい をあたえられた[ 14] 。ゾロアスター教 きょう においては、火 ひ のみならず、水 みず 、空気 くうき 、土 ど もまた神聖 しんせい なものととらえられている[ 14]
原 はら ゾロアスター教 きょう の教義 きょうぎ [ 15]
ザラスシュトラはアヴェスター語 ご の口伝 くでん 『アヴェスター』の『ガーサー』部分 ぶぶん を遺 のこ しているが、その正確 せいかく な意味 いみ は現在 げんざい では失 うしな われている。また『ガーサー』は世界 せかい に秩序 ちつじょ をもたらす呪文 じゅもん に過 す ぎず、まとまった思想 しそう 内容 ないよう を見出 みいだ すのは困難 こんなん である。以下 いか にザラスシュトラが説 と いたと思 おも われる思想 しそう を記述 きじゅつ するが、これがどこまでザラスシュトラ本人 ほんにん によるものかは分 わ からない。紀元前 きげんぜん 500年 ねん ごろ(アヴェスター語 ご が口語 こうご として機能 きのう していたと考 かんが えられる最後 さいご の時期 じき )、神官 しんかん たちによって口伝 くでん アヴェスターが一貫 いっかん したストーリーとして編集 へんしゅう され、以下 いか のストーリーを成立 せいりつ させたとする説 せつ もある
最高 さいこう 神 しん アフラ・マズダー から善 ぜん の霊 れい スプンタ・マンユ と悪 あく の霊 れい アンラ・マンユ が生 う まれ、相 そう 争 あらそ う。アフラ・マズダーは、混沌 こんとん とした宇宙 うちゅう に秩序 ちつじょ をもたらそうと苦労 くろう する存在 そんざい として描 えが かれ、スペンタとアンラの争 あらそ いも傍観 ぼうかん しているだけである。原 はら イラン多神教 たしんきょう の神 かみ 々は善 ぜん 側 がわ と悪 あく 側 がわ に再編 さいへん され、それぞれスペンタとアンラに仕 つか える存在 そんざい とさせられた。人間 にんげん はそのどちらかにつく自由 じゆう 意志 いし であり、善 ぜん につけば天国 てんごく 、悪 あく に就 つ けば地獄 じごく へ死後 しご 向 む かうと定 さだ められた。
なお、ザラスシュトラはアフラ・マズダーのみを崇 あが める拝 はい 一神教 いっしんきょう 的 てき な教 おし えを説 と いたが、弟子 でし たちによって原 はら イラン多神教 たしんきょう の神 かみ 々が取 と り入 い れられたとする説 せつ もある[ 16] 。
マゴス神官 しんかん 団 だん の影響 えいきょう (後述 こうじゅつ )
イラン高原 こうげん に住 す んでいたメディア王国 おうこく では、マゴス族 ぞく (マゴス神官 しんかん 団 だん )が祭儀 さいぎ を担 にな っていた。ヘロドトス やストラボン によるとマゴスは鳥 とり 葬 そう 、清浄 せいじょう 儀礼 ぎれい 、悪 あく なる生物 せいぶつ の殺害 さつがい 、最近 さいきん 親 おや 婚 こん など独自 どくじ の儀式 ぎしき を持 も っていた。これらの教義 きょうぎ がゾロアスター教 きょう に混入 こんにゅう した可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている
ズルワーン教 きょう の教義 きょうぎ (参照 さんしょう )
サーサーン朝 あさ 時代 じだい には狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう (ザラスシュトラの教 おし え)が国教 こっきょう となるが、外国 がいこく 語 ご 資料 しりょう ではズルワーン が最高 さいこう 神 しん として描 えが かれる。アフラ・マズダーはスペンタ・マンユと混同 こんどう し、善 ぜん 神 しん オフルマズドとして悪神 あくじん アフレマン(アンラ・マンユ)と同格 どうかく になった。ズルワーン教 きょう にはヘレニズム やインド思想 しそう の影響 えいきょう が指摘 してき されている。
二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう の教義 きょうぎ [ 17]
6~9世紀 せいき 、ゾロアスター教 きょう から中立 ちゅうりつ な最高 さいこう 神 しん が消滅 しょうめつ し、善 ぜん なる最高 さいこう 神 しん オフルマズドと悪 あく の最高 さいこう 神 しん アフレマンが並立 へいりつ する純粋 じゅんすい な二元論 にげんろん が成立 せいりつ する。この教義 きょうぎ は豊富 ほうふ なパフレヴィー語 ご 資料 しりょう によって現代 げんだい まで詳細 しょうさい が伝 つた わっており、善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん として一般 いっぱん 的 てき にイメージされるゾロアスター教 きょう もこれに近 ちか いと思 おも われる。
また、近年 きんねん ではマニ教 きょう から二元論 にげんろん を取 と り入 い れたとする説 せつ もある[ 18]
ゾロアスター教 きょう の聖典 せいてん は『アヴェスター 』である。ザラスシュトラの言葉 ことば と彼 かれ の死後 しご に叙述 じょじゅつ された部分 ぶぶん で構成 こうせい され、サーサーン朝 ちょう 期 き に編纂 へんさん されたと考 かんが えられる。全 ぜん 21巻 かん とされ、そのうち約 やく 4分 ぶん の1が現存 げんそん する[ 6] [ 8] 。書籍 しょせき 化 か にあたり、古代 こだい アヴェスター語 ご をパフラヴィー文字 もじ に書 か き換 か えるとき、表記 ひょうき できない音 おと が合 あ ったため、キリスト教 きょう パフラヴィー文字 もじ やギリシア文字 もじ を借用 しゃくよう して、新 あら たにアヴェスター文字 もじ が作 つく られた。アヴェスター語 ご の方 ほう が遥 はる かに古 ふる いものの、表記 ひょうき 用 よう の文字 もじ が発明 はつめい されたのはパフラヴィー語 ご の後塵 こうじん を拝 はい した[ 19] 。しかし、『聖書 せいしょ 』や『クルアーン 』のように当初 とうしょ から教徒 きょうと の間 あいだ で広 ひろ くその権威 けんい が認 みと められたわけではなかった。『アヴェスター』が書 か かれたペルシア州 しゅう の遠方 えんぽう では、8世紀 せいき になっても一般 いっぱん 信徒 しんと の間 あいだ で『アヴェスター』の存在 そんざい が知 し られておらず(または理性 りせい 的 てき に語 かた る聖典 せいてん とは見 み られておらず)、ザラスシュトラも(少 すく なくとも預言 よげん 者 しゃ としては)認識 にんしき されていなかった。さらに神官 しんかん でも『アヴェスター』を知 し らず、それとかなり異 こと なる教義 きょうぎ を信 しん じていた節 ふし がある[ 19] 。
メソポタミア神話 しんわ ・エジプト神話 しんわ ・ギリシア神話 しんわ の信仰 しんこう が失 うしな われた今日 きょう 、ゾロアスター教 きょう はヒンドゥー教 きょう と並 なら び現存 げんそん する世界 せかい 最古 さいこ の体系 たいけい 的 てき 宗教 しゅうきょう ・経典 きょうてん 宗教 しゅうきょう とも言 い われる[ 14] 。ただし、聖典 せいてん の確立 かくりつ と明確 めいかく な教義 きょうぎ の整備 せいび という点 てん では、後発 こうはつ のキリスト教 きりすときょう ・仏教 ぶっきょう ・マニ教 きょう などに数 すう 世紀 せいき の遅 おく れをとった[ 19] 。
ゾロアスター教 きょう に関 かん する資料 しりょう は以下 いか の3時代 じだい に偏 かたよ って存在 そんざい する[ 20]
原 はら ゾロアスター教 きょう 時代 じだい (紀元前 きげんぜん 1000年 ねん 前後 ぜんこう 数 すう 世紀 せいき ) - 原始 げんし 教団 きょうだん によって保存 ほぞん され、6世紀 せいき に文字 もじ 化 か された『アヴェスター』(アヴェスター語 ご )
ズルワーン教 きょう 時代 じだい (3〜5世紀 せいき ) - 外部 がいぶ 資料 しりょう (パフレヴィー語 ご ・アルメニア語 ご ・シリア語 ご ・アラビア語 ご )とわずかな内部 ないぶ 資料 しりょう (ペルシア語 ご )
二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう 時代 じだい (6〜10世紀 せいき ) - 豊富 ほうふ なパフレヴィー語 ご 資料 しりょう
このうち原 はら ゾロアスター教 きょう 研究 けんきゅう は未 いま だ安定 あんてい 段階 だんかい に達 たっ しておらず、『アヴェスター』その中 なか でも特 とく にザラスシュトラ直伝 じきでん と思 おも われる「ガーザー」の解釈 かいしゃく については決定的 けっていてき な説 せつ が存在 そんざい しない。ズルワーン主義 しゅぎ についても内部 ないぶ 資料 しりょう が少 すく ないため正確 せいかく なことは分 わ かっていないが、現代 げんだい にまで伝 つた わる二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう とはかなり差 さ があると考 かんが えられる[ 20]
アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう には様々 さまざま な形態 けいたい があり、時代 じだい によって大 おお きな変化 へんか を遂 と げ、また地域 ちいき 差 さ も大 おお きかったと考 かんが えられている[ 5] [ 21] [ 1] 。ここでは、アーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう について想定 そうてい される宗派 しゅうは を一覧 いちらん 化 か する。
崇拝 すうはい 対象 たいしょう による分類 ぶんるい
名称 めいしょう
崇拝 すうはい 対象 たいしょう
備考 びこう
出典 しゅってん
原 はら イラン多神教 たしんきょう
アフラ・マズダー ミスラ ヴァルナ など
古代 こだい アーリア人 じん によって信仰 しんこう された宗教 しゅうきょう マズダー教 きょう ・原 はら ゾロアスター教 きょう などの源流 げんりゅう として想定 そうてい されている
後述 こうじゅつ
マズダー教 きょう
アフラ・マズダー
アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう のうち、特 とく にアフラ・マズダーを崇拝 すうはい した宗教 しゅうきょう 原 はら ゾロアスター教 きょう の源流 げんりゅう としても想定 そうてい される アケメネス朝 あさ の国教 こっきょう とする説 せつ もある
[ 1]
ミスラ教 きょう
ミスラ
アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう のうち、特 とく にミスラを崇拝 すうはい した宗教 しゅうきょう パルティア・アルメニアなどの国教 こっきょう とする説 せつ もある
後述 こうじゅつ
ズルワーン教 きょう
ズルワーン
アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう のうち、特 とく にズルワーンを最高 さいこう 神 しん として崇拝 すうはい した宗教 しゅうきょう サーサーン朝 あさ の国教 こっきょう とする説 せつ もある
地理 ちり ・時代 じだい ・民族 みんぞく による分類 ぶんるい
名称 めいしょう
崇拝 すうはい 対象 たいしょう
備考 びこう
出典 しゅってん
原 はら ゾロアスター教 きょう
アフラ・マズダー
ザラスシュトラによって開 ひら かれたゾロアスター教 きょう のルーツ ナオラタ部族 ぶぞく 国家 こっか の国教 こっきょう 狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう はこの流 なが れを汲 く む宗派 しゅうは のみを指 さ す
後述 こうじゅつ
アケメネス朝 あさ の国教 こっきょう
アフラ・マズダー
アケメネス家 か に信仰 しんこう されたマズダー教 きょう 狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう であるかは議論 ぎろん がある
後述 こうじゅつ
インドのイラン系 けい 宗教 しゅうきょう
ミヒラ(ミスラ?)など
インドのイラン系 けい アーリア人 じん によって信仰 しんこう された宗教 しゅうきょう パールシー以前 いぜん 2、3の集団 しゅうだん について記録 きろく が残 のこ っている
後述 こうじゅつ
パルティア の国教 こっきょう パルティア的 てき ゾロアスター教 きょう
ミスラなど?
アルサケス家 か に信仰 しんこう されたアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう アルメニアの国教 こっきょう と近 きん 縁 えん とされる狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう であるかは議論 ぎろん がある
後述 こうじゅつ
アルメニア の国教 こっきょう アルメニア的 てき ゾロアスター教 きょう
ミスラなど
前 ぜん 1世紀 せいき - 後 こう 4世紀 せいき にアルメニアの王族 おうぞく 達 たち に信仰 しんこう されたアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう ミスラの地位 ちい が高 たか いため、ミスラ教 きょう ともされる アルメニアのキリスト教 きりすときょう 化 か に伴 ともな い衰退 すいたい
ミヒラ教 きょう
ミヒラ(ミスラ?)
アーリア系 けい 遊牧 ゆうぼく 国家 こっか エフタル の王 おう ミヒラクラ が信仰 しんこう した宗教 しゅうきょう 太陽 たいよう 崇拝 すうはい を伴 ともな うミスラ崇拝 すうはい と思 おも われる インドに残 のこ った集団 しゅうだん はガンダーラ・ブラーフマガと呼 よ ばれた
[ 22]
サーサーン朝 あさ の国教 こっきょう ペルシア的 てき ゾロアスター教 きょう
アフラ・マズダー
サーサーン家 か に信仰 しんこう された狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう ペルシアのイスラム化 か に伴 ともな い衰退 すいたい
後述 こうじゅつ
二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう
オフルマズド
一神教 いっしんきょう 的 てき 要素 ようそ を排除 はいじょ したゾロアスター教 きょう 善 ぜん の最高 さいこう 神 しん オフルマズド(アフラ・マズダー)を崇 あが める サーサーン朝 あさ 後期 こうき に成立 せいりつ したと思 おも われる
後述 こうじゅつ
メソポタミア的 てき ゾロアスター教 きょう
ズール(ズルワーン?)
サーサーン朝 あさ 期 き にメソポタミア で信仰 しんこう されたと思 おも われるゾロアスター教 きょう (ズルワーン教 きょう ?) ズールなる神 かみ に生贄 いけにえ を捧 ささ げる
ホラーサーン的 てき ゾロアスター教 きょう
イスラム統治 とうち 時代 じだい 初期 しょき にホラーサーン で信仰 しんこう されたと思 おも われるゾロアスター教 きょう 預言 よげん 者 しゃ も啓 けい 典 てん もないとされるため、二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう とは異 こと なる
[ 注釈 ちゅうしゃく 3]
パールシー
アフラ・マズダー
イスラムの支配 しはい を逃 のが れインドに移 うつ ったゾロアスター教徒 きょうと のグループ狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう の国教 こっきょう の流 なが れを汲 く む
後述 こうじゅつ
ソグド的 てき ゾロアスター教 きょう
ソグド人 じん に信仰 しんこう されたアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう 中国 ちゅうごく では祆教 と呼 よ ばれた中央 ちゅうおう アジアから唐 とう 代 だい の中国 ちゅうごく まで広 ひろ がった中央 ちゅうおう アジアのイスラム化 か により衰退 すいたい
後述 こうじゅつ
宋 そう 代 だい 漢 かん 民族 みんぞく 的 てき ゾロアスター教 きょう
ソグド的 てき ゾロアスター教 きょう が宋 そう 代 だい までに漢 かん 化 か したもの引 ひ き続 つづ き祆教と呼 よ ばれた
後述 こうじゅつ
クルド人的 じんてき ゾロアスター教 きょう
クルド人 じん に信仰 しんこう されていたアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう 詳細 しょうさい 不明 ふめい 後 のち にイスラム教 いすらむきょう と混濁 こんだく してヤズィーディー に変化 へんか する
後述 こうじゅつ
ザラスシュトラは全 まった く新 あたら しい宗教 しゅうきょう を創設 そうせつ したわけではなく、既存 きそん 宗教 しゅうきょう (原 はら イラン多神教 たしんきょう )の祭司 さいし として『アヴェスター』で描 えが かれる。この宗教 しゅうきょう は、「インド・イラン人 じん の宗教 しゅうきょう 」や「アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう 」、「ヴェーダ 型 かた の多神教 たしんきょう 」、「先 さき ガーサー の宗教 しゅうきょう (pre-Gathic religion)」などとも呼 よ ばれ、多神教 たしんきょう で太陽 たいよう ・火 ひ ・水 みず ・雷 かみなり ・嵐 あらし などを崇拝 すうはい していた。インド古代 こだい 宗教 しゅうきょう との類似 るいじ 点 てん も指摘 してき される[ 1] 。そして「三 さん 大 だい アフラ」として叡智 えいち の神 かみ アフラ・マズダー 、火 ひ の神 かみ ミスラ 、水 みず の神 かみ ヴァルナ が存在 そんざい していた[ 注釈 ちゅうしゃく 4] [ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。
メアリー・ボイス によれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱 はしら の「主 あるじ 」は、極 きわ めて倫理 りんり 的 てき な存在 そんざい で、「自然 しぜん 法則 ほうそく 」(イランではアシャ、インドではリタ、と称 しょう する)を擁護 ようご しつつ、自 みずか らもこれに従 したが う。こういった高度 こうど な観念 かんねん は、原 はら インド・イラン語族 ごぞく が早 はや くも石器 せっき 時代 じだい に発展 はってん させたものと考 かんが えられ、その末裔 まつえい の宗教 しゅうきょう に深 ふか く織 お り込 こ まれていると考 かんが えられる[ 24] 。そのため、単 たん にアフラ・マズダーやミスラを信仰 しんこう するだけでは、厳密 げんみつ にはゾロアスター教徒 きょうと と言 い えない。
「異教 いきょう 時代 じだい 」と呼 よ ばれる過去 かこ のイラン人 じん と区別 くべつ するための判断 はんだん 基準 きじゅん は、ゾロアスター教 きょう 信仰 しんこう 告白 こくはく 「フラワラーネ 」にあらわれる。そこでは5条件 じょうけん が挙 あ げられた[ 注釈 ちゅうしゃく 6] 。すなわち、
アフラ・マズダーを礼拝 れいはい すること
ゾロアスターの信奉 しんぽう 者 しゃ であること
好戦 こうせん 的 てき で不道徳 ふどうとく な神 かみ ダエーワ と敵対 てきたい すること
アフラ・マズダーが創造 そうぞう した偉大 いだい な7つ(ないし6つ)の存在 そんざい アムシャ・スプンタ (「聖 せい なる不 ふ 死者 ししゃ 」)を礼拝 れいはい すること
すべての善 ぜん をアフラ・マズダーに帰 き すること
である。
この5つに加 くわ え、アフラ・マズダー を創造 そうぞう 主 ぬし と捉 とら えたことが、原 はら イラン多神教 たしんきょう と著 いちじる しく異 こと なる。[ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。
原 はら イラン多神教 たしんきょう がいつどのようにザラスシュトラの創設 そうせつ した「原 はら ゾロアスター教 きょう 」へ引 ひ き継 つ がれたのかは学説 がくせつ が分 わ かれている。「2段階 だんかい 説 せつ 」では、原 はら イラン多神教 たしんきょう がザラスシュトラに直接 ちょくせつ 引 ひ き継 つ がれたことになっている。これに対 たい してザラスシュトラ以前 いぜん からアフラ・マズダーを崇拝 すうはい したマズダー教 きょう が存在 そんざい したとして、原 はら イラン多神教 たしんきょう →マズダー教 きょう →原 はら ゾロアスター教 きょう の順 じゅん に成立 せいりつ したと見 み る「3段階 だんかい 説 せつ 」もある。この説 せつ に従 したが えば、ザラスシュトラ以降 いこう 、3者 しゃ が並存 へいそん した時期 じき がある可能 かのう 性 せい もある[ 1]
原 はら ゾロアスター教 きょう の最高 さいこう 神 しん と二元論 にげんろん [ 27]
太字 ふとじ は最高 さいこう 神 しん
中立 ちゅうりつ 的 てき なアフラ・マズダーが宇宙 うちゅう を秩序 ちつじょ 化 か その下 した で善 ぜん の霊 れい と悪 あく の霊 れい が争 あらそ う
ザラスシュトラの肖像 しょうぞう (3世紀 せいき )。「ゾロアスター教 きょう 」の呼称 こしょう も彼 かれ の名 な に由来 ゆらい するが、その生涯 しょうがい は今 いま となっては不明 ふめい な部分 ぶぶん も多 おお い[ 6] [ 8]
ゾロアスター教 きょう の開祖 かいそ ザラスシュトラ・スピターマ やゾロアスター教 きょう の成立 せいりつ に関 かん しては、不明 ふめい な部分 ぶぶん が少 すく なくない[ 8] 。ザラスシュトラの誕生 たんじょう 地 ち は、アゼルバイジャン 説 せつ ・スィースターン 説 せつ ・中央 ちゅうおう アジア説 せつ などがある。活動 かつどう 時期 じき は言語 げんご 学 がく 的 てき 見地 けんち から紀元前 きげんぜん 1000年 ねん 以前 いぜん とする説 せつ と伝承 でんしょう などから紀元前 きげんぜん 1000年 ねん -前 ぜん 6世紀 せいき とする説 せつ がある。ザラスシュトラは、原 はら イラン多神教 たしんきょう を改革 かいかく し、倫理 りんり 的 てき 要素 ようそ を付加 ふか した二元論 にげんろん ・終末 しゅうまつ 論 ろん を軸 じく とする新 しん 宗教 しゅうきょう (原 はら ゾロアスター教 きょう )を創設 そうせつ した[ 1] 。
ハエーチャスパ族 ぞく の神官 しんかん 一家 いっか に生 う まれたザラスシュトラは、20歳 さい で放浪 ほうろう の旅 たび に出 で た[ 28] 。彼 かれ は、唯一 ゆいいつ 神 かみ アフラ・マズダーの啓示 けいじ を伝 つた える使者 ししゃ を名乗 なの り、この世界 せかい は善悪 ぜんあく 二 に 神 かみ の争 あらそ いの場 ば であると説 と いた[ 12] 。このような世界 せかい 観 かん は、一神教 いっしんきょう 的 てき 二元論 にげんろん とも言 い われる[ 29]
ザラスシュトラが42歳 さい の時 とき 、ナオラタ族 ぞく の王 おう カウィ・ウィーシュタースパに登用 とうよう され、宰相 さいしょう とも婚姻 こんいん 関係 かんけい を結 むす び権力 けんりょく の後 うし ろ盾 たて を得 え た。ザラスシュトラの死後 しご 、娘 むすめ 婿 むこ (宰相 さいしょう )のジャーマースパ・フウォーグワが教団 きょうだん を引 ひ き継 つ いだ。教祖 きょうそ が死 し んでも国家 こっか 権力 けんりょく を背景 はいけい としていた教団 きょうだん が揺 ゆ らぐことは無 な かったと見 み られている[ 28] 。ゾロアスター教 きょう 発祥 はっしょう の地 ち と信 しん じられているアフガニスタン 北部 ほくぶ の古代 こだい バルフ (Balkh、ダリー語 ご ・ペルシア語 ご :بلخ )に、ザラスシュトラが埋葬 まいそう されたと伝 つた えられている。この地 ち はゾロアスター教徒 きょうと から神聖 しんせい 視 し されてきた。
ジャーマースパ以降 いこう 、教団 きょうだん 指導 しどう 部 ぶ は教 きょう 勢 ぜい 拡大 かくだい のためにザラスシュトラの急進 きゅうしん 的 てき な教 おし えを軟化 なんか させ、原 はら イラン多神教 たしんきょう の神 かみ 々に独自 どくじ の機能 きのう とそれに捧 ささ げる伝統 でんとう 的 てき 呪文 じゅもん を認 みと めた。これにより原 はら イラン多神教 たしんきょう と原 はら ゾロアスター教 きょう の融和 ゆうわ を図 はか ったが、両者 りょうしゃ の区別 くべつ はあいまいになった[ 16] 。
その後 ご 、ナオラタ部族 ぶぞく 国家 こっか は歴史 れきし から姿 すがた を消 け した。ゾロアスター教団 きょうだん は権力 けんりょく 基盤 きばん を失 うしな い、弱 よわ い立場 たちば に立 た たされたと見 み られている。歴史 れきし 資料 しりょう にザラスシュトラが登場 とうじょう するのは、前 ぜん 5世紀 せいき のギリシア語 ご 文献 ぶんけん に「偉人 いじん ゾロアストレス」として言及 げんきゅう されるまで待 ま たなければならない[ 30] 。
アーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう の展開 てんかい [ 編集 へんしゅう ]
他 た 宗教 しゅうきょう への影響 えいきょう と同様 どうよう 、ゾロアスター教 きょう の政治 せいじ への影響 えいきょう 力 りょく の大 おお きさも、研究 けんきゅう 者 しゃ によって意見 いけん が分 わ かれる。一般 いっぱん に古代 こだい の政治 せいじ -宗教 しゅうきょう 関係 かんけい は密接 みっせつ であったため、他 た 宗教 しゅうきょう への影響 えいきょう が大 おお きいと考 かんが える研究 けんきゅう 者 しゃ ほど、その政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう も強 つよ かったと考 かんが える傾向 けいこう にある。歴代 れきだい 王朝 おうちょう 下 か でゾロアスター教 きょう は常 つね に国教 こっきょう 的 てき 役割 やくわり を担 にな ったと考 かんが える者 もの もいるが、見解 けんかい は統一 とういつ されていない。青木 あおき 健 けん は、古代 こだい アーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう とゾロアスター教 きょう の境界 きょうかい は曖昧 あいまい で、サーサーン朝 あさ 成立 せいりつ まで、そのどちらとも取 と れるような諸 しょ 宗教 しゅうきょう が人々 ひとびと に幅広 はばひろ く受容 じゅよう されていたとしか言 い えないと指摘 してき している[ 31] 。
ギリシア の歴史 れきし 家 か ヘロドトス によるとアーリア系 けい のメディア王国 おうこく (前 ぜん 715年 ねん 頃 ごろ - 前 ぜん 550年 ねん 頃 ごろ )にはマゴス族 ぞく とよばれる神官 しんかん たちがいた。彼 かれ らは拝 はい 火 ひ 儀礼 ぎれい 、鳥 とり 葬 そう 、清浄 せいじょう 儀礼 ぎれい 、悪 あく なる生物 せいぶつ (カエル ・サソリ ・ヘビ など)の殺害 さつがい 、最近 さいきん 親 おや 婚 こん 、牛 うし の犠牲 ぎせい 獣 じゅう 祭 さい といったメディア人 じん の宗教 しゅうきょう 行為 こうい を担 にな っていたが、拝 はい 火 ひ 儀礼 ぎれい ・犠牲 ぎせい 獣 じゅう 祭 さい 以外 いがい は原 はら イラン多神教 たしんきょう に見 み られない独自 どくじ の風習 ふうしゅう であるとされる。非 ひ インド・ヨーロッパ語族 ごぞく 的 てき な名称 めいしょう を持 も ち、独特 どくとく な風習 ふうしゅう を持 も つことから、マゴスはアゼルバイジャン 付近 ふきん の土着 どちゃく 民族 みんぞく であったとする説 せつ もある。東方 とうほう からメディアに来 き たと思 おも われるゾロアスター教団 きょうだん はマゴス神官 しんかん 団 だん の権勢 けんせい に圧倒 あっとう され、爬虫類 はちゅうるい 殺害 さつがい や最近 さいきん 親 おや 婚 こん を取 と り入 い れ、葬式 そうしき は土葬 どそう から鳥 とり 葬 そう 、犠牲 ぎせい 獣 じゅう 祭 さい も羊 ひつじ から牛 うし に転換 てんかん したとみられている[ 15] 。
メディア王家 おうけ の血 ち を引 ひ くペルシア王 おう キュロス2世 せい (大王 だいおう 、在位 ざいい 前 まえ 550年 ねん - 前 ぜん 529年 ねん )は紀元前 きげんぜん 550年 ねん にメディアを滅 ほろ ぼし、アケメネス朝 あさ ペルシア (前 ぜん 550年 ねん -前 ぜん 330年 ねん )を建国 けんこく した。キュロスは小 しょう アジア から中央 ちゅうおう アジア に至 いた る空前 くうぜん の大 だい 帝国 ていこく を建設 けんせつ し、史上 しじょう 初 はじ めてイラン高原 こうげん とメソポタミア平原 へいげん の両方 りょうほう を支配 しはい した[ 32] 。
キュロス王家 おうけ の信仰 しんこう は不明 ふめい なところが多 おお い。ボイスはキュロスがゾロアスター教徒 きょうと であったと主張 しゅちょう している。また、考古学 こうこがく 的 てき な見地 けんち からはキュロスの建造 けんぞう した拝 はい 火 ひ 壇 だん やキュロスの墓 はか はバビロニア 的 てき 要素 ようそ が含 ふく まれているとされる。一方 いっぽう 、キュロスの息子 むすこ カンビュセス2世 せい (在位 ざいい 前 まえ 529年 ねん 頃 ごろ - 前 ぜん 522年 ねん )は実姉 じっし アトッサ や実妹 じつまい ロクサーナ と近親 きんしん 婚 こん しており、マゴス神官 しんかん 団 だん の影響 えいきょう がうかがえる。また「マゴス神官 しんかん 団 だん ガウマータ」が王族 おうぞく スメルディス に成 な りすましたとされていることから、キュロス王家 おうけ ではマゴス神官 しんかん 団 だん が重用 じゅうよう されていたとみる向 む きもある[ 33] 。
ただしキュロス王家 おうけ は臣民 しんみん たちに改宗 かいしゅう を強制 きょうせい せず、キュロスがバビロン を征服 せいふく した紀元前 きげんぜん 536年 ねん には、バビロン捕 と 囚 しゅう にあっていたユダヤ人 じん たちを解放 かいほう している。また、進 すす んだ文明 ぶんめい を持 も つメソポタミアやエジプト の信仰 しんこう を尊重 そんちょう し、政治 せいじ 的 てき な中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん と文化 ぶんか 的 てき な地方 ちほう 分権 ぶんけん を敷 し いたとされる[ 34] 。このようなことから、キュロス王家 おうけ がゾロアスター教徒 きょうと だったとしても「支配 しはい 者 しゃ の宗教 しゅうきょう 」という意味 いみ に限定 げんてい される。この結果 けっか 、シンクレティズム が促 うなが されてユダヤ教 きょう エッセネ派 は が隆盛 りゅうせい し、キリスト教 きりすときょう に継承 けいしょう されたとも言 い われる[ 注釈 ちゅうしゃく 8] 。アケメネス朝 ちょう 期 き のギリシアにおけるピタゴラス教団 きょうだん ・オルフェウス教 きょう 、さらにペルシャ高原 こうげん 東部 とうぶ では大乗 だいじょう 仏教 ぶっきょう 伝播 でんぱ にともなう弥勒菩薩 みろくぼさつ 信仰 しんこう と結 むす びつき、マニ教 きょう もゾロアスター教 きょう の影響 えいきょう を強 つよ く受 う けたとされる[ 注釈 ちゅうしゃく 9] 。イスラム教 いすらむきょう もまたマニ教 きょう と並 なら んでゾロアスター教 きょう の影響 えいきょう も受 う けており、啓 けい 典 てん 『クルアーン 』(コーラン)にもゾロアスター教徒 きょうと の名 な が登場 とうじょう する。
ダレイオス1世 せい によるベヒストゥン碑文 ひぶん 。自 みずか らの即位 そくい の経緯 けいい と正当 せいとう 性 せい を主張 しゅちょう する文章 ぶんしょう とレリーフが刻 きざ まれている
キュロスの後継 こうけい 者 しゃ カンビュセス2世 せい は妹 いもうと で妻 つま のロクサーナを「殺害 さつがい 」、その後 ご 「自殺 じさつ 」した。後継 こうけい 者 しゃ として王 おう の弟 おとうと スメルディス(にそっくりの神官 しんかん ガウマータ)が即位 そくい するも、カンビュセスの元 もと 親衛隊 しんえいたい 長 ちょう ダレイオスに「偽物 にせもの と見破 みやぶ られ」、殺害 さつがい される。その後 ご 、アケメネス朝 あさ 傍流 ぼうりゅう を名乗 なの るダレイオスは、9人 にん のライバルを倒 たお し、ダレイオス1世 せい (在位 ざいい 前 まえ 522年 ねん - 前 ぜん 486年 ねん )として大王 だいおう (皇帝 こうてい 、諸王 しょおう の王 おう )に即位 そくい した。これによりアケメネス朝 あさ 直系 ちょっけい のキュロス王家 おうけ は途絶 とだ え、ダレイオス家 か に王位 おうい が移 うつ った[ 37]
ダレイオス王家 おうけ の大王 だいおう たちはアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう を信仰 しんこう していた形跡 けいせき があるが、その一派 いっぱ であるザラスシュトラの教 おし え(狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう )に帰依 きえ していたかどうかには議論 ぎろん がある。なお、アケメネス朝 あさ の碑文 ひぶん にはアフラ・マズダー(正確 せいかく にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラム ・メソポタミア の神 かみ 々の名 な が登場 とうじょう し、諸 しょ 民族 みんぞく の多様 たよう な宗教 しゅうきょう に配慮 はいりょ していたことがうかがえる。仮 かり にザラスシュトラの教 おし えがその中 なか に含 ふく まれていても、数 かず ある中 なか の一 ひと つに過 す ぎなかったと考 かんが えられる[ 38]
ダレイオス王家 おうけ の歴代 れきだい 大王 だいおう たちが、狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう に帰依 きえ していたとする根拠 こんきょ には以下 いか のものがある。
これらの根拠 こんきょ に対 たい して、以下 いか のような反論 はんろん も提出 ていしゅつ されている。
アケメネス朝 あさ の遺構 いこう ・遺物 いぶつ は、ダレイオス1世 せい がアフラ・マズダーを信仰 しんこう する「マズダー教徒 きょうと 」だった証拠 しょうこ にはなっても、「ゾロアスター教徒 きょうと 」であった証拠 しょうこ とはならない[ 8] [ 注釈 ちゅうしゃく 10] 。
火 ひ の祭壇 さいだん は、ザラスシュトラ以前 いぜん から原 はら イラン多神教 たしんきょう で用 もち いられる[ 注釈 ちゅうしゃく 11] 。
アケメネス朝 あさ の古代 こだい ペルシア語 ご の碑文 ひぶん にはザラスシュトラの名 な が1度 ど も現 あらわ れない[ 42]
ダレイオス1世 せい の孫 まご ・アルタクセルクセス1世 せい (在位 ざいい 前 まえ 465年 ねん ‐前 ぜん 424年 ねん )はダエーワ崇拝 すうはい を禁止 きんし した。これについてはペルシア人 じん の崇拝 すうはい 対象 たいしょう をアフラ・マズダーに限定 げんてい したと解釈 かいしゃく できる[ 43] 。この政策 せいさく はアルタクセルクセス2世 せい (在位 ざいい 前 まえ 404年 ねん - 前 ぜん 358年 ねん )の頃 ころ に変更 へんこう され、アナーヒター やミスラへの崇拝 すうはい も奨励 しょうれい されるようになった[ 44] 。アルタクセルクセス3世 せい (在位 ざいい 前 まえ 359年 ねん ‐前 ぜん 338年 ねん )の代 だい にはアナーヒター崇拝 すうはい が省略 しょうりゃく され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝 すうはい が奨励 しょうれい された[ 45] 。
なお、歴史 れきし 家 か ヘロドトスは、「ペルシア人 じん はこどもに真実 しんじつ を言 い うように教 おし える」「ペルシア人 じん は偶像 ぐうぞう をはじめ、神殿 しんでん や祭壇 さいだん を建 た てるという風習 ふうしゅう をもたない」と記 しる している[ 12] 。しかし、古代 こだい メソポタミア のイシュタル 信仰 しんこう がペルシアにも影響 えいきょう してアナーヒター信仰 しんこう と同一 どういつ 視 し されたのもこの時期 じき である。アナーヒター像 ぞう を置 お いた神殿 しんでん が築 きず かれ、それまで竈 かまど の火 ひ を日々 ひび の儀式 ぎしき に使 つか い、祭礼 さいれい では野外 やがい に集 あつ まっていたペルシア人 じん も、メソポタミアの偶像 ぐうぞう ・神殿 しんでん を伴 ともな う信仰 しんこう に対抗 たいこう して、火 ひ を燃 も やす常設 じょうせつ の祭壇 さいだん を設 もう けた特別 とくべつ な建物 たてもの を造 つく るようになった。やがて、こうした火 ひ ・建物 たてもの が神聖 しんせい 視 し されるのである(ただし、ゾロアスター教 きょう で寺院 じいん ・偶像 ぐうぞう 崇拝 すうはい が認 みと められたのは、ギリシア文明 ぶんめい ・インド文明 ぶんめい の影響 えいきょう とする説 せつ もある[ 46] )。
名前 なまえ にミスラを含 ふく むパルティア大王 だいおう 、ミトラダテス1世 せい のコイン
紀元前 きげんぜん 4世紀 せいき 後半 こうはん 、マケドニア王国 おうこく のアレクサンドロス3世 せい (大王 だいおう 、在位 ざいい 前 まえ 336年 ねん - 前 ぜん 323年 ねん )によってアケメネス朝 あさ が滅 ほろ ぼされた。後世 こうせい の資料 しりょう ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本 しゃほん が焼 や かれたとされているが、アケメネス朝 あさ では文字 もじ の使用 しよう が一般 いっぱん 化 か していなかったため、創作 そうさく と思 おも われる。またギリシア神話 しんわ とアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう が混濁 こんだく し、ゼウス とアフラ・マズダー、アポロン とミスラなどが同一 どういつ 視 し された。大王 だいおう の死後 しご 、その王国 おうこく は四分五裂 しぶんごれつ し、セレウコス1世 せい によって小 しょう アジア からペルシアに至 いた るヘレニズム 国家 こっか セレウコス朝 あさ シリア(前 ぜん 312年 ねん -前 ぜん 63年 ねん )が建国 けんこく された。セレウコス朝 あさ の歴史 れきし は、東方 とうほう におけるギリシア人 じん 政治 せいじ 勢力 せいりょく の後退 こうたい の歴史 れきし でもあった。なお、ギリシア人 じん によると、この頃 ころ のマゴス神官 しんかん 団 だん はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体 しょうたい 不明 ふめい )の教 おし えを奉 ほう じていたという[ 47] 。
紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 、ペルシア人 じん と同系 どうけい であるパルティア人 じん の族長 ぞくちょう アルサケス1世 せい がセレウコス朝 あさ の支配 しはい から自立 じりつ し、ミフルダートキルト 周辺 しゅうへん にアルサケス朝 あさ パルティア (紀元前 きげんぜん 247年 ねん -紀元 きげん 後 ご 226年 ねん )を建国 けんこく した。5代目 だいめ ミトラダテス1世 せい のときに東西 とうざい に領土 りょうど を拡 ひろ げ、共和 きょうわ 政 せい ローマ の侵攻 しんこう やマカバイ戦争 せんそう に忙殺 ぼうさつ されていたセレウコス朝 あさ からメディアとメソポタミアを奪 うば った。そしてセレウコス朝 あさ の中核 ちゅうかく 都市 とし だったセレウキア の対岸 たいがん に新 しん 首都 しゅと クテシフォン を建設 けんせつ した[ 48]
パルティアの君主 くんしゅ たちはアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう を信仰 しんこう していた。しかしパルティアの宗教 しゅうきょう 資料 しりょう は乏 とぼ しく、「ゾロアスター教 きょう 」と称 しょう しうる宗教 しゅうきょう が信仰 しんこう されていたかは、なおも見解 けんかい が分 わ かれる[ 49] 。アルサケス朝 あさ にはティリダテス 、ミトラダデス、アルタバノス など、それぞれ「水星 すいせい 」、「ミフル(ミスラ 神 かみ )」、「天 てん 則 そく 」の意味 いみ を持 も つ、原 はら イラン多神教 たしんきょう 的 てき な名 な がみられる。また、アレクサンドロスの影響 えいきょう でアルサケス朝 あさ の君主 くんしゅ たちは神 かみ を自称 じしょう するようになり、後世 こうせい のサーサーン朝 あさ にも影響 えいきょう を与 あた えた。ただし、アルサケス朝 あさ は自 みずか らの信仰 しんこう を住民 じゅうみん たちに強制 きょうせい せず、その影響 えいきょう は王族 おうぞく の私的 してき 領域 りょういき に留 とど まったと考 かんが えられている[ 50]
紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき 以降 いこう 、アナトリアのカッパドキア やティアナ などで諸 しょ 言語 げんご によってミスラ神 しん に捧 ささ げた碑文 ひぶん が残 のこ されている。古典 こてん 的 てき な説 せつ によれば、アナトリアに侵攻 しんこう したローマ兵 へい たちがミスラ神 しん を持 も ち込 こ みミトラス教 きょう に発展 はってん した[ 51] 。
アルメニア的 てき ゾロアスター教 きょう の神 かみ 々
太字 ふとじ は最高 さいこう 神 しん
神 かみ 々の家族 かぞく 関係 かんけい が強調 きょうちょう 特 とく にミフルが崇 あが められた
パルティアの宗教 しゅうきょう が隣国 りんごく アルメニア王国 おうこく では神 かみ 々の一族 いちぞく 関係 かんけい が重視 じゅうし され、「すべての父 ちち 」と称 しょう されていたアラマズド (アフラ・マズダー)とアナヒット (アナーヒター)が夫婦 ふうふ 、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子 むすこ ・娘 むすめ とされた。ミフルは特 とく に重要 じゅうよう な地位 ちい を占 し めていた。アルサケス家 か のアルメニア国王 こくおう ティリダテス1世 せい (在位 ざいい 52年 ねん – 58年 ねん 、62年 ねん - 82年 ねん )は、3000人 にん のパルティア兵 へい に護衛 ごえい されながらローマ皇帝 こうてい ネロ (在位 ざいい 54年 ねん - 68年 ねん )と謁見 えっけん したとき、跪 ひざまず いてギリシア語 ご でミフルを崇 あが めるようにローマ皇帝 こうてい を崇 あが めると演説 えんぜつ した。また、終末 しゅうまつ にはヴァン湖 こ に潜 ひそ むミフルが救世主 きゅうせいしゅ として表 あらわ れると信 しん じられていた。ヴァハグン (ウルスラグナ)にはミフルと同 おな じ太陽 たいよう 神 しん の役割 やくわり が与 あた えられたため、混同 こんどう が生 しょう じてしまった[ 49] 。
青木 あおき 健 けん は、パルティアの宗教 しゅうきょう がアルメニア王国 おうこく の宗教 しゅうきょう と非常 ひじょう に近 ちか いものであったと指摘 してき している。アルメニアの宗教 しゅうきょう にはパルティア語 ご の借用 しゃくよう が多用 たよう され、66年 ねん 以降 いこう はアルサケス家 か がアルメニア王位 おうい を占 し めていたからである。また両国 りょうこく では、後 ご のゾロアスター教 きょう では避 さ けられる偶像 ぐうぞう 礼拝 れいはい や土葬 どそう が行 おこな われていたと見 み られている[ 49] 。青木 あおき はアルメニアの宗教 しゅうきょう を分析 ぶんせき し、アフラ・マズダーが尊崇 そんすう 対象 たいしょう となっている点 てん ではゾロアスター教 きょう のようにもみえると前置 まえお きしつつ、ヤシュトの段階 だんかい でやっと復権 ふっけん したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝 すうはい 対象 たいしょう になっていると指摘 してき した。特 とく に宗主 そうしゅ 国 こく ローマ の皇帝 こうてい をミスラになぞらえた点 てん を重視 じゅうし し、アルメニア的 てき ゾロアスター教 きょう ≒パルティア的 てき ゾロアスター教 きょう の主神 しゅしん はミスラであり、厳密 げんみつ には「ゾロアスター教 きょう 」でなく「ミスラ教 きょう 」と称 しょう すべき信仰 しんこう であったと論 ろん じている[ 49] 。
4世紀 せいき にアルメニアはキリスト教 きりすときょう 合性 あいしょう 論 ろん 派 は (アルメニア使徒 しと 教会 きょうかい )を国教 こっきょう 化 か して、アルメニア的 てき ゾロアスター教 きょう は衰退 すいたい したが、近親 きんしん 婚 こん などの風習 ふうしゅう は20世紀 せいき まで残 のこ っていたと言 い われている[ 49] 。
ナクシェ・ロスタム (イラン)に所在 しょざい する「ゾロアスターのカアバ (英語 えいご 版 ばん ) 」と称 しょう される遺構 いこう 。建物 たてもの の用途 ようと は不明 ふめい だが、下部 かぶ の壁面 へきめん にカルティール によって書 か かれた長大 ちょうだい なパフラヴィー語 ご (中世 ちゅうせい ペルシア語 ご )碑文 ひぶん がある
ペルシア州 しゅう エスタフルの拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん 神官 しんかん であったサーサーン は、ペルシス王国 おうこく の有力 ゆうりょく 豪族 ごうぞく バーズランギー家 か と婚姻 こんいん 関係 かんけい を結 むす び、興隆 こうりゅう の基礎 きそ を得 え た。その息子 むすこ パーパク はパルティアに反乱 はんらん を起 お こし、さらにその息子 むすこ のアルダシール1世 せい (在位 ざいい 226年 ねん - 242年 ねん )はクテシフォンを征服 せいふく してサーサーン朝 あさ ペルシア (226年 ねん -651年 ねん )を建国 けんこく した[ 52] 。。
サーサーン朝 あさ はアケメネス朝 あさ の後継 こうけい 者 しゃ という地位 ちい とゾロアスター教 きょう に正統 せいとう 性 せい を求 もと めた。そして非 ひ ペルシア的 てき な異邦 いほう 人 じん 王朝 おうちょう パルティアを倒 たお して伝統 でんとう 的 てき 信仰 しんこう を復興 ふっこう したと主張 しゅちょう した。実際 じっさい にはパルティアの貴族 きぞく 階級 かいきゅう ・政治 せいじ 機構 きこう ・文化 ぶんか ・社会 しゃかい は多 おお くの点 てん でサーサーン朝 あさ に引 ひ き継 つ がれていたが、このアケメネス朝 あさ -サーサーン朝 あさ を正統 せいとう とする歴史 れきし 観 かん は後世 こうせい のイラン世界 せかい にも大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。なお、この時代 じだい の口語 こうご はパフラヴィー語 ご に変質 へんしつ し、古代 こだい ペルシア語 ご の口伝 くでん 『アヴェスター』「ガーサー」は既 すで に解読 かいどく 困難 こんなん だったと考 かんが えられる。この時代 じだい 、隊商 たいしょう などペルシア商人 しょうにん の活発 かっぱつ な活動 かつどう で、中央 ちゅうおう アジア ・中国 ちゅうごく へゾロアスター教 きょう が伝播 でんぱ し、西方 せいほう に対 たい してはロ ろ ーマ帝国 まていこく など地中海 ちちゅうかい 世界 せかい との交流 こうりゅう ・抗争 こうそう により、教義 きょうぎ 面 めん などで互 たが いの影響 えいきょう を受 う けたと考 かんが えられる。
サーサーン朝 あさ では実際 じっさい に機能 きのう したかは定 さだ かではないが、神官 しんかん たちは上 うえ から順 じゅん に「神官 しんかん 」「軍人 ぐんじん 貴族 きぞく 」「農民 のうみん 」「商人 しょうにん ・職人 しょくにん 」の階級 かいきゅう を想定 そうてい していた。この中 なか で神官 しんかん は官僚 かんりょう 層 そう である上級 じょうきゅう のモウベド神官 しんかん 、神殿 しんでん の管理 かんり や庶民 しょみん の宗教 しゅうきょう 教育 きょういく に携 たずさ わる下級 かきゅう のヘールベド神官 しんかん に分 わ けられた。農民 のうみん たちは大地 だいち を耕 たがや すとして称賛 しょうさん されていた一方 いっぽう で、商人 しょうにん ・職人 しょくにん たちは神官 しんかん から蔑視 べっし されていた。そのためアーリア人 じん ゾロアスター教徒 きょうと からあまり商人 しょうにん ・職人 しょくにん が輩出 はいしゅつ されず、セム系 けい やローマ人 じん 、ソグド人 じん などに頼 たよ っていた。また、このことが商人 しょうにん ・職人 しょくにん 層 そう のキリスト教 きりすときょう 改宗 かいしゅう を促進 そくしん した面 めん もある[ 53] 。260年 ねん 、サーサーン朝 あさ はロ ろ ーマ帝国 まていこく からキリスト教 きょう 文化 ぶんか の中心 ちゅうしん 都市 とし エデッサ を奪 うば い取 と り、国内 こくない に多 おお くのキリスト教徒 きりすときょうと を抱 かか えた。キリスト教会 きょうかい は長 なが い歳月 さいげつ をかけて培 つちか われたセム人 じん の書籍 しょせき 文化 ぶんか とギリシア人 じん の活発 かっぱつ な知的 ちてき 活動 かつどう の成果 せいか を受 う け継 つ いでおり、聖典 せいてん の書籍 しょせき 化 か 、神学 しんがく の発展 はってん 、知的 ちてき 水準 すいじゅん などの面 めん でゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん は劣勢 れっせい に立 た たされ、ゾロアスター教徒 きょうと のキリスト教 きりすときょう 改宗 かいしゅう が相次 あいつ いだ(逆 ぎゃく にローマでキリスト教徒 きりすときょうと がゾロアスター教徒 きょうと に改宗 かいしゅう したという記録 きろく は存在 そんざい しない)。[ 54] 。このことが国教 こっきょう であるゾロアスター教 きょう にとって大 おお きな脅威 きょうい であり、4世紀 せいき (ローマでのキリスト教 きりすときょう 公認 こうにん )以降 いこう 、国家 こっか 権力 けんりょく を背景 はいけい とした迫害 はくがい (339年 ねん -379年 ねん 、420年 ねん -484年 ねん )やゾロアスター教 きょう の改革 かいかく などが行 おこな われた。
ナクシェ・ラジャブ磨 すり 崖 がけ レリーフのカルティールの肖像 しょうぞう
70年 ねん に渡 わた り君臨 くんりん したシャープール2世 せい の胸像 きょうぞう
サーサーン朝 あさ はアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう を信仰 しんこう していた形跡 けいせき があるが、その一派 いっぱ であるザラスシュトラの教 おし え(狭義 きょうぎ のゾロアスター教 きょう )に一貫 いっかん して帰依 きえ していたかはなおも異論 いろん がある。少 すく なくとも初期 しょき においてはザラスシュトラに関 かん する記録 きろく が残 のこ されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝 すうはい 者 しゃ の神 かみ なるアルダシール、アーリア民族 みんぞく のシャーハンシャー 、神 かみ 々の末裔 まつえい 」と刻 きざ んだコインを発行 はっこう した[ 55] ことから、マズダー崇拝 すうはい 者 しゃ (詳細 しょうさい 不明 ふめい )のシャーハンシャー(皇帝 こうてい 、諸王 しょおう の王 おう )を神 かみ としていたことは分 わ かっている[ 56] 。
アルダシール1世 せい と大 だい 神官 しんかん タンサール の元 もと 、ゾロアスター教 きょう は体系 たいけい 化 か されたとされる。サーサーン朝 あさ 君主 くんしゅ が発行 はっこう する貨幣 かへい の裏面 りめん に拝 はい 火 ひ 壇 だん が刻印 こくいん され、ゾロアスター教 きょう が世俗 せぞく 支配 しはい でも重要 じゅうよう な役割 やくわり を担 にな っていたと推測 すいそく される[ 8] 。
アルダシールの息子 むすこ ・シャープール1世 せい (在位 ざいい 242年 ねん - 270年 ねん )はアルサケス朝 あさ と同 おな じく首都 しゅと をメソポタミアのクテシフォンに定 さだ めた。しかしメソポタミアではセム系 けい が多数 たすう を占 し め、ユダヤ教 きょう ・キリスト教 きりすときょう ・マンダ教 きょう ・グノーシス主義 しゅぎ といった様々 さまざま な宗教 しゅうきょう 団体 だんたい が乱立 らんりつ していた(結局 けっきょく メソポタミアのセム系 けい 庶民 しょみん にゾロアスター教 きょう が定着 ていちゃく することなかったと思 おも われる)。穀倉 こくそう 地帯 ちたい で政治 せいじ 的 てき 経済 けいざい 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい も高 たか いメソポタミアを安定 あんてい 的 てき に統治 とうち するため、シャープールは穏当 おんとう な宗教 しゅうきょう 政策 せいさく をとった。そしてニシビスのユダヤ人 じん 指導 しどう 者 しゃ や新興 しんこう 宗教 しゅうきょう (後 のち にマニ教 きょう と呼 よ ばれる)の教祖 きょうそ マニ を招 まね き、彼 かれ らの宗教 しゅうきょう 活動 かつどう を容認 ようにん した[ 57] 。
サーサーン朝 あさ シャーハンシャーたちは先祖 せんぞ 伝来 でんらい の地 ち ペルシア州 しゅう に磨 みがけ 崖 がけ レリーフ を造 つく り、叙任 じょにん の儀式 ぎしき を行 おこな っていた[ 52] 。バハラーム1世 せい のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配 しはい 権 けん を委 ゆだ ねられた姿 すがた が描 えが かれている。バハラーム2世 せい の造 つく ったリレーフには、叔父 おじ のアルメニア国王 こくおう ナルセ(ナルセ1世 せい )らサーサーン家 か の面々 めんめん と並 なら び、神官 しんかん に過 す ぎないカルティール が、それもかなり高 たか い席次 せきじ で描 えが かれていた。このことからシャープールの死後 しご 、カルティール率 ひき いる神官 しんかん 団 だん が台頭 たいとう していたことがうかがえる。権勢 けんせい を増 ま し加 くわ えたカルティールは「バハラームの霊魂 れいこん を救済 きゅうさい するオフルマズド・モウベド神官 しんかん 」「エスタフルのアナーヒター拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん の神官 しんかん 」の称号 しょうごう を得 え た。シャーハンシャーの霊魂 れいこん を左右 さゆう し、サーサーン朝 あさ の祖先 そせん が務 つと めていた神殿 しんでん の神官 しんかん 職 しょく を名乗 なの るようになったのである。また、彼 かれ はマニを処刑 しょけい するなど異教 いきょう 弾圧 だんあつ に熱心 ねっしん で「ユダヤ教徒 きょうと ・仏教徒 ぶっきょうと ・ヒンドゥー教徒 きょうと ・シリア系 けい キリスト教 きりすときょう ・ギリシア系 けい キリスト教徒 きりすときょうと ・洗礼 せんれい 教徒 きょうと ・マニ教徒 きょうと 」を駆逐 くちく したとする碑文 ひぶん を帝国 ていこく 各地 かくち に建 た てた。そして帝国 ていこく 各地 かくち に聖火 せいか と神官 しんかん たちを派遣 はけん したと書 か きしているが、具体 ぐたい 的 てき にどのような教 おし えを信 しん じていたのかは記録 きろく がない[ 58] 。
ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚 しっきゃく したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん の神官 しんかん 」の称号 しょうごう はナルセに引 ひ き継 つ がれた[ 59] 。
カルティールの死後 しご もゾロアスター国教 こっきょう 化 か 路線 ろせん は維持 いじ された。9代目 だいめ シャープール2世 せい (在位 ざいい 309年 ねん - 379年 ねん )の時代 じだい には、大 だい 神官 しんかん アードゥルバードのもと、口伝 くでん アヴェスター の結集 けっしゅう と教義 きょうぎ の確立 かくりつ が行 おこな われた[ 60] 。また、シャープールは見 み る人 ひと が限 かぎ られるレリーフを造 つく るよりも、自身 じしん の描 えが かれた銀 ぎん 食器 しょっき や胸像 きょうぞう を帝国 ていこく 各地 かくち にばらまくことに積極 せっきょく 的 てき だった。これによりサーサーン家 か とペルシアの関係 かんけい 性 せい は薄 うす れ、シャーハンシャーの神秘 しんぴ 性 せい はかえって失 うしな われたと考 かんが えられている[ 61] 。
ゾロアスター教 きょう ズルワーン主義 しゅぎ の最高 さいこう 神 しん と二元論 にげんろん [ 27]
太字 ふとじ は最高 さいこう 神 しん
アフラ・マズダーが善 ぜん 神 しん に降格 こうかく 中立 ちゅうりつ 的 てき な最高 さいこう 神 しん ズルワーンのもと善 ぜん 神 しん と悪神 あくじん が争 あらそ う
ただし国教 こっきょう 化 か によっても、古来 こらい から続 つづ く帝国 ていこく 内 ない の多様 たよう なアーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう は均一 きんいつ 化 か されなかった。周辺 しゅうへん の外国 がいこく 語 ご 文献 ぶんけん によれば、サーサーン朝 あさ 初期 しょき ~5世紀 せいき 頃 ごろ まで、時間 じかん の神 かみ ズルワーン が崇拝 すうはい されていた。このズルワーン教 きょう と呼 よ ばれるアーリア人 じん の宗教 しゅうきょう の一派 いっぱ は、9~10世紀 せいき のゾロアスター教 きょう 文献 ぶんけん に記述 きじゅつ がなく、両者 りょうしゃ の関係 かんけい は分 わ かっていない。インド思想 しそう カーラ 、ギリシア思想 しそう アイオーン の影響 えいきょう も指摘 してき される。完全 かんぜん に独立 どくりつ した宗教 しゅうきょう であるという説 せつ から、サーサーン朝 あさ 初期 しょき ~中期 ちゅうき の国教 こっきょう であったという説 せつ まで様々 さまざま な見解 けんかい が存在 そんざい する[ 54] 。
ジャーヒリーヤ 時代 じだい 以降 いこう に書 か かれたアラビア語 ご 古詩 こし には、バタバタと独特 どくとく な歩 ある き方 かた をしながら、ズーンなる偶像 ぐうぞう 神 しん に牛 うし を捧 ささ げ、熱心 ねっしん に祈 いの るメソポタミアのゾロアスター教 きょう 神官 しんかん の姿 すがた が描写 びょうしゃ されている。ズーンとはアラビアで信仰 しんこう された魚 さかな の神 かみ 、またはズルワーンがアラビア語 ご で省略 しょうりゃく された形 かたち であるとみられる。いずれにしろペルシア的 てき ゾロアスター教 きょう とはかなり異 こと なる「メソポタミア的 てき ゾロアスター教 きょう 」が信仰 しんこう されていたと思 おも われる。その他 た の地域 ちいき にも独自 どくじ の宗教 しゅうきょう が存在 そんざい したと考 かんが えられ、ペルシア州 しゅう の官 かん 団 だん を頂点 ちょうてん にアーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう をゾロアスター教 きょう の名 な で緩 ゆる やかに統合 とうごう していたとする説 せつ もある[ 21] 。
サーサーン朝 あさ (橙 だいだい )とクシャーノ・サーサーン朝 あさ (青 あお 、紫 むらさき )の領域 りょういき
サーサーン朝 あさ の分家 ぶんけ クシャーノ・サーサーン朝 あさ では、シャーのバハラーム2世 せい (在位 ざいい 360年 ねん 頃 ごろ )が「カイ・バハラーム・クーシャン・シャー」と刻 きざ んだコインを発行 はっこう していた。「カイ」とは、『アヴェスター』に関 かん する伝承 でんしょう に登場 とうじょう するザラスシュトラの庇護 ひご 者 しゃ カウィ王朝 おうちょう の中世 ちゅうせい ペルシア語 ご である。このことから、クシャーノ・サーサーン朝 あさ では、ザラスシュトラ伝説 でんせつ を王権 おうけん の正当 せいとう 性 せい を支 ささ えるイデオロギーとして採用 さいよう したと考 かんが えられている[ 62] 。
その後 ご 、本家 ほんけ サーサーン朝 あさ のヤズデギルド2世 せい (在位 ざいい 438年 ねん - 457年 ねん )も「マズダー崇拝 すうはい の神 かみ たるカイ」と銘打 めいう ったコインを発行 はっこう している。ヤズデギルドは東方 とうほう 遠征 えんせい を繰 く り返 かえ したり、北 きた 魏 たかし (中国 ちゅうごく )に使節 しせつ 団 だん を送 おく って貿易 ぼうえき を促進 そくしん しようとするなど東方 とうほう への関心 かんしん が強 つよ かった。こうした中 なか で、中央 ちゅうおう アジアに残 のこ されたザラスシュトラ伝説 でんせつ やクシャーノ・サーサーン朝 あさ の国家 こっか イデオロギーに触 ふ れたものと思 おも われる。こうしてシャーハンシャーは神 かみ 々の末裔 まつえい を名乗 なの ることを止 と め、ザラスシュトラの庇護 ひご 者 しゃ の末裔 まつえい を称 しょう するようになった[ 62] 。
二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう における最高 さいこう 神 しん と二元論 にげんろん [ 27]
太字 ふとじ は最高 さいこう 神 しん
中立 ちゅうりつ 的 てき な最高 さいこう 神 しん が消滅 しょうめつ 善 ぜん の最高 さいこう 神 しん と悪 あく の最高 さいこう 神 しん が争 あらそ う
6世紀 せいき のサーサーン朝 あさ は、ビザンツ帝国 ていこく に借金 しゃっきん をして東方 とうほう の遊牧 ゆうぼく 国家 こっか エフタル に朝貢 ちょうこう するほど国力 こくりょく が衰 おとろ えた。カワード1世 せい (在位 ざいい 488年 ねん - 496年 ねん 、498年 ねん - 531年 ねん )はマズダク教 きょう を唱 とな えたマズダク を宰相 さいしょう に登用 とうよう して改革 かいかく を試 こころ みた。カワードは平等 びょうどう を説 と くマズダク教 きょう を利用 りよう してゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん の抑 おさ え込 こ もうとして大 おお きな反発 はんぱつ を食 く らい、かえって混乱 こんらん を深 ふか めた[ 63] 。
カワードの息子 むすこ ホスロー1世 せい (在位 ざいい 531年 ねん - 579年 ねん )は税制 ぜいせい ・軍制 ぐんせい 改革 かいかく に成功 せいこう し、サーサーン朝 あさ の中興 ちゅうこう を果 は たした。ホスローのもとでキリスト教 きりすときょう パフレヴィー文字 もじ を参考 さんこう にアヴェスター文字 もじ が発明 はつめい され、口伝 くでん 『アヴェスター』とそのパフレヴィー語 ご 注釈 ちゅうしゃく 『ザンド』が書籍 しょせき 化 か された。さらに西方 せいほう からギリシア哲学 てつがく を、東方 とうほう からインド哲学 てつがく をゾロアスター教 きょう に取 と り入 い れ、知的 ちてき 水準 すいじゅん においてもキリスト教会 きょうかい に対抗 たいこう できる体制 たいせい を整 ととの えた[ 63] 。
ホスロー1世 せい の頃 ころ にゾロアスター教 きょう の一神教 いっしんきょう 的 てき 要素 ようそ (最高 さいこう 神 しん としてのアフラ・マズダー、またはズルワーン)が排除 はいじょ され、善 ぜん 神 しん オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神 あくじん アフレマン(アンラ・マンユ)の対立 たいりつ を軸 じく とした真 しん の意味 いみ で二元論 にげんろん 的 てき な教義 きょうぎ が確立 かくりつ したとみられている。ゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん はこれによって悪 あく の存在 そんざい を説明 せつめい でき、その点 てん でセム的 てき 一神教 いっしんきょう に優位 ゆうい に立 た てると考 かんが えた。またズルワーン教 きょう の悲観 ひかん 的 てき 世界 せかい 観 かん ・人間 にんげん 観 かん から脱 だっ し、物質 ぶっしつ 存在 そんざい の肯定 こうてい と楽観 らっかん 的 てき な終末 しゅうまつ 論 ろん が唱 とな えられた[ 20] 。このような世界 せかい 観 かん は楽天的 らくてんてき 善悪 ぜんあく 二元論 にげんろん とも呼 よ ばれ、台頭 たいとう する一神教 いっしんきょう のキリスト教 きりすときょう に対抗 たいこう るするために、一神教 いっしんきょう 要素 ようそ を排除 はいじょ して二元論 にげんろん を強調 きょうちょう したとする見方 みかた もある[ 64] 。
ソグディアナ はザラスシュトラの出身 しゅっしん 地 ち に近 ちか いと考 かんが えられており、ペルシアよりもその教 おし えが古 ふる い形 かたち で残 のこ っていたと考 かんが えられている。また、ソグド語 ご 資料 しりょう にはザラシュストラの物語 ものがたり が書 か かれており、『アヴェスター』の散逸 さんいつ 部分 ぶぶん のソグド語 ご 版 ばん である可能 かのう 性 せい もある。また、ソグド人 じん はアフラ・マズダーやズルヴァーン、ミスラのほか、ヒンドゥー教 きょう の神 かみ 々も祀 まつ っていた[ 65] 。
敦煌 とんこう 出土 しゅつど の祆教の女神 めがみ 像 ぞう (広東 かんとん 語 ご 版 ばん )
5世紀 せいき ・6世紀 せいき 頃 ころ 、交易 こうえき 活動 かつどう のために多数 たすう のペルシア人 じん がトルキスタン から現在 げんざい の甘粛 かんせい 省 しょう を経 へ て中国 ちゅうごく へ渡 わた り、華北 かほく の北 きた 周 あまね ・北 きた 斉 ひとし にゾロアスター教 きょう が広 ひろ まったという[ 66] 。信者 しんじゃ は相当 そうとう 数 すう いたものと思 おも われ、唐 とう 代 だい には「祆教 (けんきょう)」と称 しょう された[ 66] 。「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」(詳細 しょうさい 不明 ふめい )を指導 しどう 者 しゃ とする教団 きょうだん も存在 そんざい した[ 66] 。隋 ずい ・唐 とう の時代 じだい 、薩宝(薩甫、薩保)は官職 かんしょく と認 みと められ、ペルシア人 じん やイラン系 けい の西域 せいいき 出身 しゅっしん 者 しゃ (ソグド人 じん など)に官位 かんい が授 さづ けられ、祆教寺院 じいん や礼拝 れいはい 所 しょ (祆祠)の管理 かんり を任 まか された[ 66] 。首都 しゅと 長安 ながやす や洛陽 らくよう ・敦煌 とんこう ・涼 りょう 州 しゅう といった都市 とし に寺院 じいん ・祠 ほこら が設 もう けられ、長安 ながやす には5カ所 かしょ 、洛陽 らくよう には3カ所 かしょ の祆祠 (けんし)があったと言 い われている。しかし、ゾロアスター教徒 きょうと は中国 ちゅうごく においてはほとんど伝道 でんどう 活動 かつどう をおこなわなかったらしい[ 4] 。
唐 とう においては、景 けい 教 きょう (ネストリウス派 は キリスト教 きりすときょう )・マニ教 きょう とあわせて三 さん 夷 えびす 教 きょう 、その寺 てら を三 さん 夷 えびす 寺 てら と呼 よ び、国際 こくさい 都市 とし 長安 ながやす を中心 ちゅうしん に多 おお くの信者 しんじゃ を有 ゆう した。西北 せいほく 部 ぶ に居住 きょじゅう するトルコ族 ぞく の国 くに ウイグル (回 かい 鶻、現在 げんざい の新疆 しんきょう ウイグル自治 じち 区 く )では、マニ教 きょう とともにゾロアスター教 きょう も広 ひろ く信仰 しんこう された。
吐火羅 ら ・舎 しゃ 衛 まもる などのペルシア人 じん が古代 こだい 日本 にっぽん にも訪 おとず れており、なんらかの形 かたち での伝来 でんらい が考 かんが えられている。松本 まつもと 清張 せいちょう は古代 こだい 史 し ミステリーの代表 だいひょう 的 てき 長編 ちょうへん 『火 ひ の路 みち 』でゾロアスター教 きょう が日本 にっぽん に来 き ていたのではないかという仮説 かせつ を取 と り入 い れている。イラン 学者 がくしゃ 伊藤 いとう 義教 よしのり は、来朝 らいちょう ペルシア人 じん の比定 ひてい 研究 けんきゅう などをふまえて、新 しん 義 ぎ 真言宗 しんごんしゅう の作法 さほう やお水 みず 取 と り の時 とき に行 おこな われる達 たち 陀の行法 ぎょうほう は、ゾロアスター教 きょう の影響 えいきょう を受 う けているのではないかとする説 せつ を提出 ていしゅつ している[ 67] 。
中国 ちゅうごく における祆教の信者 しんじゃ は、多 おお くの場合 ばあい ペルシア人 じん や西域 せいいき 出身 しゅっしん 者 しゃ だったが、当初 とうしょ は隊商 たいしょう の商人 しょうにん が多数 たすう を占 し め、のちには唐 とう に亡命 ぼうめい 政府 せいふ を樹立 じゅりつ したサーサーン朝 あさ からの難民 なんみん などが加 くわ わったものと思 おも われる[ 66] 。
武 たけ 宗 はじめ の廃 はい 仏 ぼとけ (会 かい 昌 あきら の廃 はい 仏 ぼとけ )のときに、仏教 ぶっきょう とともに三 さん 夷 えびす 教 きょう も弾圧 だんあつ を受 う け、以後 いご は衰退 すいたい していった。また、西域 せいいき では11世紀 せいき - 13世紀 せいき に西域 せいいき のイスラム化 か が進行 しんこう した。
宋 そう の時代 じだい になると担 にな い手 て の漢 かん 化 か が進 すす み、「宋 そう 代 だい 漢 かん 民族 みんぞく 的 てき ゾロアスター教 きょう 」ともいえる形態 けいたい に変化 へんか した[ 5] 。
祆教は、14世紀 せいき ころまで開封 かいふう ・鎮江 などに残 のこ っていたと記録 きろく されているが、その後 ご の消息 しょうそく は掴 つか めていない[ 66] 。なお、唐 とう 代 だい から元 もと 代 だい にかけて対外 たいがい 貿易 ぼうえき 港 こう だった福建 ふっけん 省 しょう 泉州 せんしゅう 市 し 郊外 こうがい に波 なみ 斯荘という村 むら があり、現在 げんざい でもペルシア人 じん の末裔 まつえい が暮 く らしているという。彼 かれ らは現在 げんざい 、言語 げんご ・形質 けいしつ 面 めん では漢 かん 族 ぞく に同化 どうか しているが、イスラム教 いすらむきょう を奉 ほう じており回 かい 族 ぞく と認定 にんてい されている。彼 かれ らの宗教 しゅうきょう 儀式 ぎしき にはゾロアスター教 きょう の名残 なごり がみられるともいわれる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
ホスロー1世 せい の孫 まご ・ホスロー2世 せい (在位 ざいい 590年 ねん 、591年 ねん - 628年 ねん )は国力 こくりょく に余裕 よゆう のある状態 じょうたい でシャーハンシャーになることができた。しかし、即位 そくい 当初 とうしょ から部下 ぶか の反逆 はんぎゃく に遭 あ い、求心力 きゅうしんりょく を高 たか めるために新 あら たな皇帝 こうてい イデオロギーを創出 そうしゅつ する必要 ひつよう 牲に迫 せま られた。そこで彼 かれ はキリスト教 きりすときょう 国家 こっか 東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と戦争 せんそう (602年 ねん -628年 ねん )を開始 かいし し、エルサレム 攻略 こうりゃく によってイエス・キリスト が磔刑 たっけい に処 しょ せられたとされる「ゴルゴタ の聖 せい 十字架 じゅうじか 」を奪取 だっしゅ し、穀倉 こくそう 地帯 ちたい エジプトも占領 せんりょう 。首都 しゅと コンスタンティノープル 対岸 たいがん のカルケドン まで進軍 しんぐん して東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく を滅亡 めつぼう 寸前 すんぜん に追 お いやった。この大 だい 勝利 しょうり によってシャーハンシャーの威信 いしん は絶頂 ぜっちょう を迎 むか え、ホスローがアフラ・マズダーよりも一段 いちだん 上位 じょうい の台座 だいざ に立 た つレリーフが建造 けんぞう された[ 52] 。
なお、この頃 ころ はゾロアスター教 きょう からキリスト教 きょう への改宗 かいしゅう が相次 あいつ いでいた。特 とく にゾロアスター教 きょう から軽蔑 けいべつ されていた商人 しょうにん ・職人 しょくにん 層 そう に顕著 けんちょ で、職人 しょくにん 団体 だんたい の長 ちょう にもキリスト教徒 きりすときょうと が多 おお かった[ 68] 。
東 ひがし ローマ皇帝 こうてい に即位 そくい したヘラクレイオス (在位 ざいい 610年 ねん - 641年 ねん )は反転 はんてん 攻勢 こうせい に出 で たが、シリア・メソポタミアからクテシフォン方面 ほうめん に向 む かうことはせず、623年 ねん にタウルス山脈 さんみゃく 沿 そ いに進軍 しんぐん してシーズを急襲 きゅうしゅう 。拝 はい 火 ひ 壇 だん は破壊 はかい され、「シーズの聖火 せいか 」のみ辛 かろ うじてクテシフォン近郊 きんこう に避難 ひなん された。これによりサーサーン朝 あさ の威信 いしん は大 おお いに揺 ゆ らいだ[ 52] 。この戦争 せんそう により両 りょう 大国 たいこく の力 ちから は消耗 しょうもう し周辺 しゅうへん 国 こく では自立 じりつ の動 うご きが活性 かっせい 化 か した。国力 こくりょく を浪費 ろうひ させたホスローは皇太子 こうたいし によって暗殺 あんさつ され、内乱 ないらん に陥 おちい った[ 69] 。
サーサーン朝 あさ の内乱 ないらん を何 なに とか平定 へいてい したホスロー2世 せい の孫 まご ヤズデギルド3世 せい (在位 ざいい 632年 ねん - 651年 ねん )は、633年 ねん よりアラビア半島 はんとう の新興 しんこう 世界 せかい 宗教 しゅうきょう イスラム教 いすらむきょう を奉 ほう じるアラブ人 じん の侵攻 しんこう に直面 ちょくめん した。サーサーン朝 ちょう 側 がわ は長年 ながねん の内戦 ないせん で疲弊 ひへい しており、637年 ねん には首都 しゅと クテシフォンを奪 うば われた。ヤズデギルドは税収 ぜいしゅう の3割 わり を担 にな っていたメソポタミアを放棄 ほうき し、イラン高原 こうげん で体制 たいせい の立 た て直 なお しを図 はか った。イラン高原 こうげん に進軍 しんぐん したイスラム軍 ぐん は連戦 れんせん を重 かさ ね、ニハーヴァンドの戦 たたか い でサーサーン朝 あさ を打 う ち破 やぶ った。この時 とき 、落馬 らくば して捕虜 ほりょ となれば身代金 みのしろきん を払 はら って解放 かいほう されるという当時 とうじ の慣例 かんれい に従 したが って多 おお くの将兵 しょうへい (封建 ほうけん 領主 りょうしゅ と自由 じゆう 農民 のうみん から成 な る)がわざと落馬 らくば したが、アラブ人 じん はこのルールを知 し らず、必要 ひつよう 以上 いじょう に多 おお くのペルシア軍 ぐん が虐殺 ぎゃくさつ された。これによってサーサーン朝 あさ の軍事 ぐんじ 組織 そしき とペルシア人 じん の経済 けいざい 社会 しゃかい システムは崩壊 ほうかい し、サーサーン朝 あさ はイスラム勢力 せいりょく に抵抗 ていこう する力 ちから を失 うしな った。ヤズデギルドは逃亡 とうぼう 中 ちゅう の651年 ねん にメルブ で殺 ころ され、キリスト教徒 きりすときょうと シーリーン の孫 まご であることから現地 げんち 民 みん によってキリスト教 きょう 式 しき に埋葬 まいそう されたという。ヤズデギルドの息子 むすこ ペーローズ3世 せい と孫 まご ナルシエフ は唐 とう に逃 のが れ、疾 やまし 陵 りょう (所在 しょざい 不明 ふめい )にサーサーン朝 あさ 亡命 ぼうめい 政府 せいふ を置 お くも、アラブ人 じん イスラム教徒 きょうと に占領 せんりょう され、ペルシア帝国 ていこく 復活 ふっかつ の望 のぞ みは完全 かんぜん に絶 た たれた[ 70] 。
アラブ人 じん イスラム教徒 きょうと による侵攻 しんこう 時 じ に、旧来 きゅうらい の支配 しはい 階級 かいきゅう だったアーリア人 じん たちは「イスラム教 いすらむきょう への改宗 かいしゅう 」「貢 みつぎ 納 おさめ 」「徹底 てってい 抗戦 こうせん 」の選択肢 せんたくし を余儀 よぎ なくされた。改宗 かいしゅう 者 しゃ は少 すく なく、多 おお くが貢 みつぎ 納 おさめ によって信仰 しんこう を維持 いじ したといわれる。アラブ人 じん たちは宗教 しゅうきょう 的 てき に放任 ほうにん 策 さく で、従来 じゅうらい の信仰 しんこう はおおむね維持 いじ された[ 71] 。
サーサーン朝 あさ 崩壊 ほうかい から8世紀 せいき までゾロアスター教 きょう に関 かん する資料 しりょう はほとんど残 のこ っていない。しかし8世紀 せいき になるとフーデーン・ペーショーバーイ を中心 ちゅうしん とするゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん たちがパフレヴィー語 ご 文献 ぶんけん を精力 せいりょく 的 てき に執筆 しっぴつ し、「パフレヴィー語 ご 文学 ぶんがく ルネッサンス 」と呼 よ ばれる文化 ぶんか 的 てき 発展 はってん 期 き を迎 むか えた。知 し られる限 かぎ り最初 さいしょ のフーデーン・ペーショーバーイであるアードゥル・ファッローバイは、イラン高原 こうげん 全体 ぜんたい のゾロアスター教徒 きょうと を指導 しどう しており、『デーンカルド 』最初 さいしょ の著者 ちょしゃ でもあった。彼 かれ の後継 こうけい 者 しゃ たちも書簡 しょかん 集 しゅう 『リバーヤト』、『ブンダヒシュン 』、『宗教 しゅうきょう 問答 もんどう 集 しゅう 』など様々 さまざま な文献 ぶんけん を残 のこ している。10世紀 せいき になるとアラビア語 ご 文献 ぶんけん でしかフーデーン・ペーショーバーイの名 な が知 し られなくなる。そして936年 ねん に処刑 しょけい された祖父 そふ の跡 あと を継 つ いだエーメードを最後 さいご に、フーデーン・ペーショーバーイの記録 きろく は残 のこ っていない[ 72] 。
なお、9~10世紀 せいき の文献 ぶんけん には二元論 にげんろん 的 てき ゾロアスター教 きょう の世界 せかい 観 かん が描 えが かれており、5世紀 せいき まで外国 がいこく 語 ご 文献 ぶんけん で度々 たびたび 描写 びょうしゃ されていたズルワーン崇拝 すうはい に関 かん する記述 きじゅつ が存在 そんざい しないため、様々 さまざま な議論 ぎろん を呼 よ んでいる[ 73] 。
ゾロアスター神官 しんかん 団 だん を経済 けいざい 的 てき に支 ささ えたのは、アルダフシール・ファッラフ -シーラーフ を繋 つな ぐ通商 つうしょう 路 ろ であった。この地 ち はサーサーン朝 あさ 崩壊 ほうかい 後 ご に建 た てられた拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん が連 つら なり、神官 しんかん 団 だん と商人 しょうにん たちによって共同 きょうどう 管理 かんり されたとみられている。しかしこのルートがブワイフ朝 あさ の国家 こっか 管理 かんり に置 お かれたことで寂 さび れてしまい、10世紀 せいき 後半 こうはん の地震 じしん でシーラーフが壊滅 かいめつ したことによりとどめを刺 さ された。かつての通商 つうしょう 路 ろ には廃墟 はいきょ と化 か した拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん が点在 てんざい する不毛 ふもう の地 ち となり、経済 けいざい 的 てき 基盤 きばん を失 うしな ったゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん は消滅 しょうめつ した。それによりパフレヴィー語 ご 文学 ぶんがく ルネッサンスは終焉 しゅうえん を迎 むか え、『アヴェスター』も大半 たいはん が散逸 さんいつ した[ 74] 。
ウマイヤ朝 あさ からアッバース朝 あさ の転換期 てんかんき (アッバース革命 かくめい )、アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう の信者 しんじゃ たちによる反乱 はんらん が相次 あいつ いだ。この頃 ころ 、ゾロアスター教 きょう 神官 しんかん のベフ・アーフリードが活躍 かつやく した[ 75] 。
反乱 はんらん を起 お こしたイラン人 じん にはホラーサーン周辺 しゅうへん で原始 げんし 的 てき ゾロアスター教 きょう や太陽 たいよう 崇拝 すうはい 、マズダク教 きょう を旗頭 はたがしら にすることが多 おお く、サーサーン朝 あさ 崩壊 ほうかい 後 ご には様々 さまざま なアーリア人 じん の諸 しょ 宗教 しゅうきょう が台頭 たいとう していた可能 かのう 性 せい がある。しかし9世紀 せいき 半 なか ば以降 いこう は反 はん イスラムを掲 かか げた反乱 はんらん も起 お こらなくなる[ 76] 。
イスラム教徒 きょうと の支配 しはい 下 か でゾロアスター教徒 きょうと たちは経済 けいざい 的 てき 利益 りえき や身 み の安全 あんぜん のため次々 つぎつぎ と改宗 かいしゅう していった。イスラム側 がわ は彼 かれ らを改宗 かいしゅう させるため、ヤズデギルド3世 せい の娘 むすめ 達 たち が正統 せいとう カリフ 、アリー・イブン・アビー・ターリブ の一族 いちぞく と結婚 けっこん したという説話 せつわ を流布 るふ させた。ゴム ではアーリア人 じん への虐殺 ぎゃくさつ ・追放 ついほう が行 おこな われ、代 か わりにアラブ人 じん の移住 いじゅう が促進 そくしん された。これによってこの街 まち はシーア派 は の一大 いちだい 拠点 きょてん となった。10世紀 せいき にはゾロアスター教 きょう の牙城 がじょう だったペルシア州 しゅう でゾロアスター教徒 きょうと の血 ち を引 ひ くイスラム教徒 きょうと のガーゼルーニーが布教 ふきょう 活動 かつどう を行 おこな った。ゾロアスター教 きょう 神官 しんかん 団 だん は彼 かれ を暗殺 あんさつ ・逮捕 たいほ しようとしたが失敗 しっぱい し、最後 さいご の基盤 きばん も切 き り崩 くず されていった。12世紀 せいき にはこの地 ち の農村 のうそん 部 ぶ にもモスクが立 た つようになり、ペルシアのイスラム化 か は不 ふ 可逆 かぎゃく 的 てき に進 すす んだ。これに伴 ともな い、アーリア人 じん の伝統 でんとう 的 てき 階級 かいきゅう 社会 しゃかい は解体 かいたい され、民族 みんぞく の誇 ほこ りも失 うしな われて自称 じしょう が「アジャム(非 ひ アラブ)」と主体性 しゅたいせい のないものに置 お き換 か えられた。サーサーン朝 あさ の豊 ゆた かな文化 ぶんか はイスラム文化 ぶんか に吸収 きゅうしゅう された(イラン・イスラーム文化 ぶんか )[ 77] 。
近代 きんだい に至 いた り、イラン社会 しゃかい も世俗 せぞく 化 か の流 なが れの中 なか でジズヤが廃止 はいし され、ようやくムスリムとは法的 ほうてき に対等 たいとう の権利 けんり を得 え た。
ムンバイ (インド)に建設 けんせつ された「沈黙 ちんもく の塔 とう 」
イラン高原 こうげん の政治 せいじ 勢力 せいりょく はインド亜 あ 大陸 たいりく に度々 どど 進出 しんしゅつ しており、インドの歴史 れきし 書 しょ では好戦 こうせん 的 てき なパルサヴァ族 ぞく (アケメネス朝 あさ のペルシア人 じん ?、前 ぜん 5世紀 せいき )、アーリア人 じん の祭祀 さいし を無視 むし しクシャトリヤ から格下 かくさ げされたパフラヴァ族 ぞく (パルティア人 じん ?、前 ぜん 2・3世紀 せいき 以降 いこう )、ムレーッチャ(塞外 さいがい 異 い 民族 みんぞく )のパーラスィーカ族 ぞく (サーサーン朝 あさ のペルシア人 じん ?、4世紀 せいき 以降 いこう )などとして記録 きろく されている。そうした中 なか で、インドにもイラン系 けい アーリア人 じん の宗教 しゅうきょう を信 しん じる集団 しゅうだん がいくつか確認 かくにん されている。サーサーン朝 あさ 滅亡 めつぼう までに以下 いか の集団 しゅうだん がインドにおいて存在 そんざい していた[ 22]
マガ・ブラーフマガ - 前 ぜん 1世紀 せいき 頃 ごろ 、イラン高原 こうげん 東部 とうぶ からインドに移住 いじゅう 。原 はら イラン多神教 たしんきょう の流 なが れを汲 く むミスラ崇拝 すうはい 者 しゃ と思 おも われる
ボージャカ - 6世紀 せいき 前半 ぜんはん -7世紀 せいき 末 まつ にインド移住 いじゅう 。原 はら ゾロアスター教 きょう の流 なが れを汲 く む。マガ・ブラーフマガと融合 ゆうごう
ガンダーラ・ブラーフマガ - 5世紀 せいき 半 なか ば-567年 ねん に北 きた インドを支配 しはい したエフタル の「ミヒラ教 きょう 」祭司 さいし 集団 しゅうだん の残党 ざんとう 。マガ・ブラーフマガと同一 どういつ 集団 しゅうだん ?
サーサーン朝 あさ 滅亡 めつぼう 後 ご 、イランのゾロアスター教徒 きょうと にはインド 西海岸 にしかいがん グジャラート へ退避 たいひ する集団 しゅうだん があった。彼 かれ らをパールシー (「ペルシア人 じん 」の意 い )という。Qissa-i Sanjan の伝承 でんしょう では、ホラーサーン のサンジャーン (英語 えいご 版 ばん ) から、4、5隻 せき の船 ふね に乗 の りグジャラート南部 なんぶ のサンジャーン (英語 えいご 版 ばん ) にたどり着 つ き、現地 げんち を支配 しはい したヒンドゥー教徒 きょうと の王 おう ジャーディ・ラーナーの保護 ほご を得 え て、周辺 しゅうへん 地域 ちいき に定住 ていじゅう したと言 い われる[ 78] 。グジャラートのサンジャーンに5年間 ねんかん 定住 ていじゅう した神官 しんかん 団 だん は、使者 ししゃ を陸路 りくろ イラン高原 こうげん のホラーサーン に派遣 はけん し、同地 どうち のアータシュ・バフラーム級 きゅう 聖火 せいか をサンジャーンに移転 いてん させたと言 い われている[ 79] 。
パールシーのコミュニティーは以後 いご 1000年間 ねんかん 信仰 しんこう を守 まも り続 つづ けている。彼 かれ らはイランでは多 おお く農業 のうぎょう を営 いとな んでいたと言 い われるが、移住 いじゅう を契機 けいき に商 しょう 工業 こうぎょう に進出 しんしゅつ し、土地 とち の風習 ふうしゅう を採 と り入 い れてインド化 か していった[ 46] 。それに伴 ともな いグジャラート語 ご を使用 しよう するようになった彼 かれ らの多 おお くは、旧来 きゅうらい のゾロアスター教 きょう 資料 しりょう を読 よ めなくなった。二元論 にげんろん ・終末 しゅうまつ 論 ろん といった教義 きょうぎ への探求 たんきゅう はほとんど行 おこな われなり、代 か わりに神官 しんかん 団 だん は一般 いっぱん 信徒 しんと にとって重要 じゅうよう だった祭儀 さいぎ の継承 けいしょう に力 ちから を注 そそ いだ。また知的 ちてき 活動 かつどう を支 ささ える余裕 よゆう が無 な くなったため、祭儀 さいぎ に関 かん するものと残 のこ された書籍 しょせき の写本 しゃほん 作成 さくせい を除 のぞ いて、文献 ぶんけん 執筆 しっぴつ はほとんど行 おこな われなくなった[ 79] 。
パールシーはカースト制 せい に組 く み込 こ まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内 ない で婚姻 こんいん するようになった。このカーストと族 ぞく 内 ない 婚 こん によってパールシーの人々 ひとびと は同化 どうか 圧力 あつりょく の強 つよ いヒンドゥー教 きょう 社会 しゃかい の中 なか で独自 どくじ 性 せい を維持 いじ することができた[ 79] 。
ヤズィーディー教 きょう は原 はら イラン多神教 たしんきょう と12世紀 せいき にスーフィー の指導 しどう 者 しゃ アディー・イブン・ムサーフィル (英語 えいご 版 ばん ) が作 つく ったアダウィーア教団 きょうだん の教 おし えが融合 ゆうごう したクルド人 じん の宗教 しゅうきょう である。クルド人 じん は言語 げんご 学 がく 的 てき に古代 こだい アーリア人 じん の分派 ぶんぱ であり、ザラスシュトラ以前 いぜん の教 おし えを保存 ほぞん していると考 かんが えられている。ヤズィーディー教 きょう の聖典 せいてん には原 はら イラン多神教 たしんきょう とよく似 に た教義 きょうぎ や物語 ものがたり が多 おお く登場 とうじょう するが、固有名詞 こゆうめいし がイスラム風 ふう のものに入 い れ替 か わっているものが少 すく なくない。インドにおいては口伝 くでん の中 なか にいくつも神 かみ 々の名前 なまえ を登場 とうじょう させ、改竄 かいざん ができないよう注意 ちゅうい を払 はら われていたが、同 おな じアーリア系 けい でもイランではそのような注意 ちゅうい を欠 か いていたことが原因 げんいん であるとされている[ 80]
トビリシ (グルジア共和 きょうわ 国 こく )のゾロアスター神殿 しんでん
近代 きんだい 以前 いぜん からゾロアスター教 きょう が信仰 しんこう されていた地域 ちいき は、以下 いか の通 とお りである。
イラン :かつてゾロアスター教 きょう を国教 こっきょう としたサーサーン朝 あさ ペルシア帝国 ていこく の中心 ちゅうしん 地 ち 。ヤズド を中心 ちゅうしん に信徒 しんと 数 すう 3万 まん ~6万 まん 人 にん [ 81] 。
インド :10世紀 せいき 頃 ごろ にイランを脱出 だっしゅつ したゾロアスター教徒 きょうと がグジャラート州 しゅう に移住 いじゅう 。ペルシア人 じん を意味 いみ するパールシー (教徒 きょうと )と呼 よ ばれる。現在 げんざい はパールシーの経済 けいざい 的中 てきちゅう 心地 ごこち ・ボンベイ(ムンバイ )を主 しゅ たる拠点 きょてん として、信徒 しんと 数 すう 7万 まん 5千 せん 人 にん [ 81] 。
パキスタン :英 えい 領 りょう インド がインド共和 きょうわ 国 こく とパキスタン に分離 ぶんり して独立 どくりつ 国 こく となった際 さい 、2,500人 にん から6,000人 にん のパールシーがパキスタンの領域 りょういき に住 す んでおり、パキスタン国民 こくみん となった。中心 ちゅうしん 地 ち はカラチ である[ 81] 。
アゼルバイジャン ・ジョージア国 こく ・イラク :若干 じゃっかん 名 めい
近代 きんだい 以降 いこう 、多 おお くのパールシー教徒 きょうと が英語 えいご 圏 けん の各地 かくち に、イラン本国 ほんごく のゾロアスター教徒 きょうと がドイツ に移民 いみん として移住 いじゅう したことにより、信者 しんじゃ の分布 ぶんぷ 地域 ちいき は拡大 かくだい していった[ 81] 。
イギリス :約 やく 5,000人 にん [ 81] 。
北米 ほくべい 大陸 たいりく (アメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく ・カナダ ):約 やく 10,000人 にん [ 81] 。
オーストラリア :約 やく 2,500人 にん [ 81] 。
シンガポール ・香港 ほんこん ・日本 にっぽん ・ドイツ :若干 じゃっかん 名 めい [ 81] 。
ヤズドのゾロアスター教 きょう 神殿 しんでん
イランのゾロアスター教 きょう は、イスラム化 か の進展 しんてん によって少数 しょうすう 派 は に転落 てんらく した。今日 きょう 、小規模 しょうきぼ の信徒 しんと 共同 きょうどう 体 たい が残存 ざんそん し、現代 げんだい ペルシア語 ご で「ゾロアスターの教 おし え ,ディーネ・ザルドゥシュト (دین زردشت )」と呼 よ ばれる。イラン中央 ちゅうおう 部 ぶ のヤズド 、南東 なんとう 部 ぶ のケルマン 地区 ちく を中心 ちゅうしん に数 すう 万 まん 人 にん の信者 しんじゃ が存在 そんざい する。ヤズドでは人口 じんこう (30万 まん 人 にん )の約 やく 1割 わり がゾロアスター教徒 きょうと とされる。ヤズド近郊 きんこう にはゾロアスター教徒 きょうと の村 むら がいくつかあり、拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん は信者 しんじゃ 以外 いがい にも開放 かいほう され、1500年 ねん 前 まえ から燃 も え続 つづ けているという「聖火 せいか 」を見 み ることができる。
ダフメ(daχ かい mah いわゆる「沈黙 ちんもく の塔 とう 」)による鳥 とり 葬 そう は、1930年代 ねんだい にパフラヴィー朝 あさ のレザー・シャー により禁止 きんし され、以後 いご はイスラム教 いすらむきょう 等 とう と同様 どうよう に土葬 どそう となった。現在 げんざい は活用 かつよう されず、観光 かんこう 施設 しせつ として残 のこ されるにとどまる。
ゾロアスター教徒 きょうと は近代 きんだい 化 か の進展 しんてん によりムスリムと同等 どうとう の法的 ほうてき 権利 けんり を獲得 かくとく したが、イスラム革命 かくめい により再 ふたた び隷属 れいぞく 的 てき 地位 ちい におかれてしまう。
かつての世界 せかい 宗教 しゅうきょう ・ゾロアスター教 きょう はイスラーム教徒 きょうと による宗教 しゅうきょう 的 てき 迫害 はくがい によって信徒 しんと 資格 しかく を血縁 けつえん に求 もと める民族 みんぞく ・部族 ぶぞく 宗教 しゅうきょう へと後退 こうたい した。現在 げんざい 、ゾロアスター教 きょう では信徒 しんと を親 おや に持 も たない者 もの の入信 にゅうしん を受 う け入 い れていない。
一方 いっぽう で、シーア派 は が政治 せいじ 権力 けんりょく を握 にぎ り人々 ひとびと を抑圧 よくあつ しているにもかかわらず、多 おお くのシーア派 は が水面 すいめん 下 か で棄教・改宗 かいしゅう したとする調査 ちょうさ もある。それによればイスラム教 いすらむきょう シーア派 は を自認 じにん する人 ひと は3分 ぶん の1に満 み たず、国民 こくみん の8%がゾロアスター教徒 きょうと を自称 じしょう した(イラン政府 せいふ の公式 こうしき 発表 はっぴょう では2万 まん 3000人 にん )。彼 かれ らはイラン発祥 はっしょう のゾロアスター教 きょう に誇 ほこ りを持 も ち、アラブ人 じん が持 も ち込 こ んだとしてイスラム教 いすらむきょう に反発 はんぱつ する者 もの もいる。また、火 ひ の回 まわ りで祈 いの りをささげるゾロアスター式 しき の結婚式 けっこんしき が流行 りゅうこう したため、当局 とうきょく によって禁止 きんし されている(2019年 ねん )。水面 すいめん 下 か ではキリスト教 きりすときょう や非 ひ シーア派 は のイスラム教 いすらむきょう も拡大 かくだい しており、イラン政府 せいふ の厳格 げんかく な宗教 しゅうきょう 政策 せいさく が却 かえ ってシーア派 は から人々 ひとびと を遠 とお ざけているとみられている[ 82] 。
インドにおけるパールシー入信 にゅうしん のナオジョテ の儀式 ぎしき [ 注釈 ちゅうしゃく 12]
現在 げんざい 、インドはゾロアスター教徒 きょうと 数 すう の最 もっと も多 おお い国 くに である。今日 きょう では同 おな じ西海岸 にしかいがん のマハーラーシュトラ州 しゅう ムンバイ (旧称 きゅうしょう ボンベイ)にゾロアスター教 きょう の中心 ちゅうしん 地 ち があり、開祖 かいそ ザラスシュトラが点火 てんか したと伝 つた えられる炎 ほのお が消 き えることなく燃 も え続 つづ けている。ゾロアスター教 きょう は、インドではペルシア人 じん を意味 いみ する「パールシー」と呼 よ ばれ、パールシー同士 どうし だけで婚姻 こんいん し、周囲 しゅうい とは異 こと なるパールシー共同 きょうどう 体 たい を形成 けいせい している[ 14] 。少数 しょうすう ながら商業 しょうぎょう ・貿易 ぼうえき ・知的 ちてき 職業 しょくぎょう に就 つ く人 ひと が多 おお く、裕福 ゆうふく 層 そう や政治 せいじ 力 りょく をもった人々 ひとびと の割合 わりあい が多 おお い[ 14] 。インド国内 こくない で少数 しょうすう 派 は ながら富裕 ふゆう 層 そう が多 おお く社会 しゃかい 的 てき に活躍 かつやく する人 ひと が多 おお い点 てん は、シク教 きょう 徒 と と類似 るいじ し、インド2大 だい 財閥 ざいばつ のひとつタタ・グループ は、パールシーの財閥 ざいばつ である。パールシーは同 おな じ教徒 きょうと 同士 どうし の堅固 けんご な結合 けつごう と相互 そうご 扶助 ふじょ もあって、彼 かれ らの社会 しゃかい には生活 せいかつ において貧窮 ひんきゅう する者 もの がいないと言 い われる[ 14] 。
神殿 しんでん はマハラシュトラ州 しゅう のムンバイとプネー にいくつかあり、ゾロアスター教 きょう 共同 きょうどう 体 たい を作 つく っている。神殿 しんでん にはゾロアスター教徒 きょうと のみが入 はい ることができ、異教徒 いきょうと の立 た ち入 い りは禁 きん じられている。神聖 しんせい な炎 ほのお は全 すべ ての神殿 しんでん にあり、ペルシアから運 はこ ばれた炎 ほのお から分 わ けられたものである。神殿 しんでん 内 ない には偶像 ぐうぞう はなく、炎 ほのお に礼拝 れいはい する。パールシーのほとんどはムンバイとプネーに在住 ざいじゅう している。またグジャラート州 しゅう のアフマダーバード やスーラト にも神殿 しんでん があり、周辺 しゅうへん に住 す む信者 しんじゃ により運営 うんえい されている。
一方 いっぽう 、パキスタン(人口 じんこう 1億 おく 3,000万 まん 人 にん )のゾロアスター教徒 きょうと は5000人 にん で、主 おも にカラチ 一帯 いったい に居住 きょじゅう しており、イランからの信者 しんじゃ 流入 りゅうにゅう により教徒 きょうと 数 すう は増加 ぞうか 傾向 けいこう にある。
19世紀 せいき 後半 こうはん から20世紀 せいき 前半 ぜんはん にかけては上海 しゃんはい ・広州 こうしゅう などにインド亜 あ 大陸 たいりく から渡来 とらい したパールシー商人 しょうにん が、租界 そかい を中心 ちゅうしん に独自 どくじ のコミュニティを築 きず いていた。現在 げんざい でも香港 ほんこん には「白頭 はくとう 教徒 きょうと 」と呼 よ ばれる数 すう 百 ひゃく 人 にん のパールシーが定住 ていじゅう し、コーズウェイベイ (銅鑼 どら 灣 わん )の商業 しょうぎょう ビル(善 ぜん 楽 らく 施 ほどこせ 大 だい 厦)の一角 いっかく に拝 はい 火 ひ 神殿 しんでん が、ハッピーバレー (跑馬地 ち )に専用 せんよう 墓地 ぼち が存在 そんざい する。マカオ には現在 げんざい パールシーは居住 きょじゅう していないが、東洋 とうよう 望 もち 山 やま に「白頭 はくとう 墳 ふん 場 じょう 」と呼 よ ばれる墓地 ぼち があり、香港 ほんこん が貿易 ぼうえき 拠点 きょてん として発展 はってん する以前 いぜん はパールシー商人 しょうにん が居留 きょりゅう していたものと考 かんが えられる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
近代 きんだい の日本 にっぽん では、戦前 せんぜん からインド・ゾロアスター教徒 きょうと により、神戸 こうべ 在住 ざいじゅう の貿易 ぼうえき 商 しょう として定住 ていじゅう がはじまり、その子孫 しそん の人々 ひとびと は現在 げんざい でも健在 けんざい である。在日 ざいにち も3世代 せだい 目 め ないし4世代 せだい 目 め となり、日本 にっぽん 生 う まれの日本 にっぽん 育 そだ ちとしてすっかり日本 にっぽん 文化 ぶんか にとけ込 こ んでいるが、国籍 こくせき はインド を維持 いじ し、祭祀 さいし の際 さい などにはムンバイ に帰 かえ ってゾロアスター教 きょう の儀礼 ぎれい に参加 さんか している[ 84] 。
1990年代 ねんだい 後半 こうはん にプロの霊感 れいかん 占 うらな い師 し 幹 みき 野 の 秀樹 ひでき [ 85] によって日本 にっぽん ゾロアスター教団 きょうだん [ 86] が設立 せつりつ されたが、2017年 ねん 現在 げんざい その活動 かつどう は確認 かくにん することが出来 でき なくなっている。
19世紀 せいき 以降 いこう 、インドからのパールシーの移住 いじゅう に伴 ともな い、北米 ほくべい には18,000-25,000人 にん の南 みなみ アジア・イラン系 けい の信者 しんじゃ 、オーストラリア(主 おも にシドニー )には3,500人 にん の信者 しんじゃ が在住 ざいじゅう している。
1990年 ねん 、アリー・A・ジャファリーによって、ロサンゼルス においてゾロアスター教 きょう 系 けい 新興 しんこう 教団 きょうだん ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立 せつりつ された[ 87] 。ガーサーのみを聖典 せいてん とし、入信 にゅうしん 儀式 ぎしき を得 え れば民族 みんぞく ・国籍 こくせき 問 と わずに誰 だれ でも会員 かいいん となることができるとされている[ 88] 。
原始 げんし 教団 きょうだん
ザラスシュトラ - 教祖 きょうそ
ジャーマースパ・フォーグワ - ザラスシュトラの娘 むすめ 婿 むこ
以後 いご 、記録 きろく なし
大 だい 神官 しんかん (サーサーン朝 あさ 時代 じだい )[ 89]
カルティール -
アードゥルバード - シャープール2世 せい 時代 じだい
ザルドシュルト - アードゥルバードの息子 むすこ ?
アードゥルバード - ザルドシュルトの息子 むすこ ?。5世紀 せいき
アードゥル・ファッローバイ - ヤズデギルド2世 せい 時代 じだい
フダード - ヤズデギルド2世 せい 時代 じだい
アードゥル・ボーセード
マルドブード -ペーローズ1世 せい 時代 じだい
アードゥルバード - マルドブードの息子 むすこ
フーデーン・ペーショーバーイ (イスラム支配 しはい 時代 じだい )[ 90]
アードゥル・ファッローバイ -アッバース朝 あさ マアムーン 時代 じだい
ザルドシュルト - アードゥル・ファッローバイの息子 むすこ 。イスラム教 いすらむきょう に改宗 かいしゅう
ジュワーンジャム
マヌシュチフル - ジュワーンジャムの息子 むすこ
エーメード - ジュワーンジャムの孫 まご
アードゥルバード
エスファンディヤール - アードゥルバードの息子 むすこ 。アッバース朝 あさ ラーディー により936年 ねん 処刑 しょけい
エーメード - エスファンディヤールの孫 まご
以後 いご 、記録 きろく なし
^ なお、ゾロアスター教 きょう の影響 えいきょう を受 う けたマニ教 きょう も徹底 てってい した二元論 にげんろん 的 てき 教義 きょうぎ を有 ゆう し、宇宙 うちゅう は光 ひかり ・善 よし ・精神 せいしん と闇 やみ ・悪 あく ・肉体 にくたい の2つの原理 げんり の対立 たいりつ に基 もと づき、それぞれ画然 かくぜん と分 わ けられていた始原 しげん の宇宙 うちゅう への回帰 かいき と、マニ教 きょう 独自 どくじ の救済 きゅうさい とを教義 きょうぎ の核心 かくしん とする[ 10] [ 11] 。
^ アエーシュマは、『旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ 』に登場 とうじょう するアスモデウス の前身 ぜんしん とも考 かんが えられる[要 よう 出典 しゅってん ] 。
^ イスラム統治 とうち 時代 じだい 初期 しょき のホラーサーン では、イスラム教 いすらむきょう との比較 ひかく で「我々 われわれ には理性 りせい 的 てき に語 かた る啓 けい 典 てん も神 かみ から遣 つか わされた預 あずか 者 しゃ 者 しゃ もない」と語 かた るゾロアスター教徒 きょうと のヘラート 貴族 きぞく の発言 はつげん が残 のこ されている(パフレヴィー語 ご 文献 ぶんけん ではザラスシュトラが預言 よげん 者 しゃ とされている)。そしてホラーサーンから原 はら ゾロアスター教 きょう とマゴス神官 しんかん 団 だん の教 おし えを峻別 しゅんべつ し、後者 こうしゃ を禁 きん じたベフ・アーフリードが登場 とうじょう する。さらに彼 かれ は『アヴェスター』の存在 そんざい を無視 むし して、それとは別 べつ の聖典 せいてん を独自 どくじ に書 か こうとしていた。これらのことから、『アヴェスター』を軸 じく とした国教 こっきょう たるペルシア的 てき ゾロアスター教 きょう はイラン高原 こうげん 南部 なんぶ でのみでしか浸透 しんとう しておらず、ホラーサーンには独自 どくじ の「ホラーサーン的 てき ゾロアスター教 きょう 」が存在 そんざい していた可能 かのう 性 せい が指摘 してき されている。[ 21] 。
^ ゾロアスター教 きょう の至高 しこう 神 しん アフラ・マズダーは、バラモン教 ばらもんきょう の聖典 せいてん 『リグ・ヴェーダ 』で「アスラ(Asura)=主 あるじ 」と記 しる された神 かみ で、『リグ・ヴェーダ』の詩句 しく では、このミスラとヴァルナの下位 かい の「主 あるじ 」は、次 つぎ のような言葉 ことば で語 かた りかけている。「あなたたち二 に 神 かみ は、アスラの超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 力 りょく を通 とお して空 そら に雨 あめ を降 ふ らせる。…あなたたち二 に 神 かみ は、アスラの超 ちょう 自然 しぜん 的 てき 力 りょく を通 とお して、あなたたちの法 ほう を守 まも る。リタ(=自然 しぜん の法則 ほうそく )を通 とお して宇宙 うちゅう を支配 しはい する 」(『リグ・ヴェーダ』5:6,3:7)
^ 青木 あおき 健 けん は、アフラ・マズダーをザラスシュトラが創案 そうあん した神格 しんかく であると述 の べている[ 23] 。
^ ヤスナに記 しる されたフラワラーネは「私 わたし は自 みずか ら、マズダーの礼拝 れいはい 者 しゃ であり、ゾロアスターの信奉 しんぽう 者 しゃ であり、ダエーワを拒否 きょひ し、アフラの教義 きょうぎ を受 う け入 い れることを告白 こくはく します。アムシャ・スプンタを礼拝 れいはい します。善 ぜん にして宝 たから にみちたアフラ・マズダーに、すべての良 よ きものを帰 き させます 」というものである[ 25] 。
^ ボイスによれば、ゾロアスター教 きょう 信仰 しんこう 告白 こくはく において、アフラ・マズダーは創造 そうぞう 主 ぬし として尊 たっと ばれているが、異教 いきょう 時代 じだい のイラン人 じん にとって創造 そうぞう 主 ぬし とみなされていたとは考 かんが えられない、という。もし異教 いきょう 時代 じだい のイラン人 じん が、どれか1つの神 かみ に創造 そうぞう 的 てき な活動 かつどう を担 にな わせようとするならば、その神 かみ は三 さん 大 だい アフラのなかでおそらくは最 もっと も遠 とお く離 はな れてある「叡智 えいち の主 あるじ 」の命令 めいれい を実行 じっこう する神 かみ ヴァルナであったろうというのがボイスの見解 けんかい である。さらに、このことがゾロアスターの教義 きょうぎ のなかでも際立 きわだ った特徴 とくちょう のひとつであったとも指摘 してき している[ 26] 。
^ ボイスによれば、キュロスの宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう 策 さく により、「ユダヤ人 じん はこの後 のち もペルシア人 じん に好感 こうかん を持 も ち続 つづ け、ゾロアスター教 きょう の影響 えいきょう を一層 いっそう 受容 じゅよう しやすくなった」という[ 35] 。ただし、ボイスが自著 じちょ でその前提 ぜんてい 条件 じょうけん に次 つぎ の点 てん を挙 あ げた。ザラスシュトラ出生 しゅっしょう が紀元前 きげんぜん 1500年 ねん ~1200年 ねん であること、キュロスがゾロアスター教徒 きょうと であったこと、そしてこの時 とき 既 すで にゾロアスター教 きょう 救済 きゅうさい 主 ぬし 思想 しそう が成立 せいりつ していたことである[ 36] 。ただし、こうした前提 ぜんてい 条件 じょうけん は、見解 けんかい の相違 そうい するところでもある。
^ こうした影響 えいきょう に関 かん する最新 さいしん の論文 ろんぶん として Werner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, Journal of the Royal Asiatic Society vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照 さんしょう 。
^ ゾロアスター教徒 きょうと の信仰 しんこう 告白 こくはく の一節 いっせつ に「マズダー教徒 きょうと でありゾロアスター教徒 きょうと である私 わたし は」というい回 いまわ しがある[ 26] 。マズダーはザラスシュトラ以前 いぜん からアーリア人 じん に信仰 しんこう されており、マズダー崇拝 すうはい だけではゾロアスター教徒 きょうと と断定 だんてい できない。またP・R.ハーツは、著書 ちょしょ 『ゾロアスター教 きょう 』で、ダレイオス1世 せい をゾロアスター教徒 きょうと とみなしている。しかし、訳者 やくしゃ の奥西 おくにし 俊介 しゅんすけ は「訳者 やくしゃ あとがき」で次 つぎ のように指摘 してき している。現 げん ゾロアスター教徒 きょうと が自分 じぶん たちの守護 しゅご 霊 れい フラワシの像 ぞう とみなしている有 ゆう 翼 つばさ 円盤 えんばん 人物 じんぶつ 像 ぞう は、アケメネス朝 あさ の遺跡 いせき で多 おお く確認 かくにん される。しかし、多 おお くの研究 けんきゅう 者 しゃ は有 ゆう 翼 つばさ 円盤 えんばん 人物 じんぶつ 像 ぞう をアフラ・マズダー像 ぞう とみなしており、ダレイオス1世 せい がマズダー信者 しんじゃ だったとしても、ゾロアスター教徒 きょうと であったかどうかは明白 めいはく ではない[ 40] 。
^ ボイスは、ザラスシュトラ以前 いぜん よりイラン人 じん 祭司 さいし は神 かみ 々に対 たい して礼拝 れいはい 式 しき を捧 ささ げたが、火 ひ と水 みず に対 たい し決 き まった供物 くもつ を捧 ささ げる儀礼 ぎれい 自体 じたい は変 か わらなかったのではないかとしている[ 41] 。
^ 19世紀 せいき から続 つづ く神官 しんかん 一族 いちぞく ジャーマースプ・アーサー家 か の第 だい 6代 だい カイ・ホスロウによる入信 にゅうしん 式 しき [ 83] 。
ウィキメディア・コモンズには、
ゾロアスター教 きょう に
関連 かんれん する
メディア および
カテゴリ があります。
宗教 しゅうきょう 神 かみ 々聖典 せいてん と宗教 しゅうきょう 文書 ぶんしょ 文学 ぶんがく と図像 ずぞう 人物 じんぶつ 教義 きょうぎ 儀礼 ぎれい 歴史 れきし