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マカバイ戦争せんそう

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マカバイ戦争せんそう

マカバイ戦争せんそう
とき紀元前きげんぜん167ねん紀元前きげんぜん160ねん
場所ばしょユダヤ
結果けっか ハスモンあさしたでのユダヤじんさい独立どくりつ
衝突しょうとつした勢力せいりょく
ユダヤじん セレウコスあさ
指揮しきかん
マタティア
ユダ・マカバイ 戦死せんし
ヨナタン(アッフス)
シモン(タシ)
ヨハネ(ガディ)
エレアザル(アウアラン)
アンティオコス4せい
アンティオコス5せい
デメトリオス1せい
戦力せんりょく
やく10,000-15,000 やく20,000
イスラエル歴史れきし
イスラエルの旗
この記事きじシリーズ一部いちぶです。

イスラエル ポータル

マカバイ戦争せんそう(マカバイせんそう、えい: Maccabean revolt)は、紀元前きげんぜん167ねん勃発ぼっぱつしたセレウコスあさたいするユダヤじん反乱はんらんとそれにつづ戦争せんそう主要しゅよう指導しどうしゃユダ・マカバイにちなんでマカバイ戦争せんそうとよばれる。この戦争せんそう結果けっか、ユダヤじん独立どくりつ勢力せいりょくハスモンあさ成立せいりつることになる。マカバイ戦争せんそうをユダヤがわからの視点してんえがいたものが旧約きゅうやく聖書せいしょ外典げてんの「マカバイ」である。

経緯けいい

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発端ほったん

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イスラエルディアドコイ戦争せんそうのちプトレマイオスあさ支配しはいするところとなっていた。その統治とうちにおいてユダヤじん生活せいかつ比較的ひかくてき平穏へいおんであったとかんがえられている。その数次すうじにわたるシリア戦争せんそうのち、イスラエルはセレウコスあさ支配しはいはいった。

イスラエルを征服せいふくしたセレウコスあさおうアンティオコス3せい地元じもと支持しじるためにユダヤじん寛容かんよう姿勢しせいってのぞんだが、かれ死後しご王位おういいだセレウコス4せい、そしてそのアンティオコス4せいエピファネス時代じだいはいると、ユダヤ教団きょうだん内部ないぶ対立たいりつはしはっしてにわかに情勢じょうせい変化へんかした。

セレウコス4せい時代じだいエルサレムだい祭司さいしであったオニアス3せい神殿しんでん総務そうむちょうであった名門めいもんビルガのシモンが人事じんじめぐって対立たいりつしていた。シモンはセレウコス4せいたいしオニアス3せい讒言ざんげんかえしたが、結局けっきょくオニアス3せいはシモンにたいして優位ゆうい維持いじした。

しかしあいだもなくセレウコス4せい死去しきょし、アンティオコス4せいおうとなると、だい祭司さいしオニアス3せいおとうとイアソン(ヤソン)はトビヤ支援しえんけ、莫大ばくだいみつぎ納金のうきんをセレウコスあさおさめてだい祭司さいししょくた。イアソンはさらにアンティオコス4せいたい自分じぶん権限けんげんギュムナシオン体育たいいくじょう)やエピペア青年せいねんだん)を設立せつりつし、エルサレム市民しみんアンティオキア市民しみんとして登録とうろくすることがゆるされるならばさらなるみつぎおさめおこなうと提案ていあんし、これがみとめられたために支配しはいけんにぎだい規模きぼなギリシア政策せいさく実行じっこうした。

その紀元前きげんぜん172ねんにはでシモンのおとうとであるメネラオスがイアソンを上回うわまわみつぎ納金のうきんおさめてだい祭司さいししょく、イアソンは地位ちいうしなった。メネラオスは(おそらくセレウコスあさ指示しじによってであるが)勝手かってにエルサレム神殿しんでん財産ざいさんすなどしたために敬虔けいけんのユダヤじん憎悪ぞうおった。そんななかエジプト遠征えんせいしていたアンティオコス4せい死亡しぼうしたといううわさがイスラエルにながれた。これを好機こうきたイアソンは地位ちい回復かいふく目指めざして挙兵きょへいし、エルサレムを一時いちじ占領せんりょうしたが結局けっきょくやぶられて死亡しぼうした。

ところがこのイアソンの挙兵きょへいはエジプト遠征えんせいちゅうのアンティオコス4せいに「ユダヤじん反乱はんらんこした」と報告ほうこくされた。実際じっさいアンティオコス4せいにしてみれば遠征えんせいちゅう後方こうほうこった騒乱そうらん、しかもかれ任命にんめいしただい祭司さいしたいして武力ぶりょく行使こうしおよんだイアソンの行動こうどう反乱はんらん以外いがい何者なにものでもなかったかもしれない。アンティオコス4せいはエルサレムに進軍しんぐんして神殿しんでん掠奪りゃくだつ多数たすうのユダヤじん殺害さつがいまた奴隷どれいとした。そして要塞ようさいきずいてユダヤじん駐留ちゅうりゅうさせ監視かんしさせるとともに、ユダヤじんたいユダヤきょうりつほうもとづいて生活せいかつすることを厳禁げんきんした。そしてエルサレム神殿しんでんゼウス神殿しんでんとされた。

こうしたなか紀元前きげんぜん167ねんに、セレウコスあさ将軍しょうぐんリュシアスは、アンティオコス4せい代理だいりとしてユダヤじんたちにゼウスしんへの奉納ほうのうめいじた。エルサレムの祭司さいしやヘレニズムてき貴族きぞくらはおやセレウコスあさ立場たちばってこれにしたがったが、地方ちほう都市としモディンの祭司さいしマタティアは、これを強制きょうせいしたセレウコスあさ役人やくにんとその仲間なかましんセレウコスあさてきなユダヤじん殺害さつがいした。そしてマタティアが5にん息子むすこたち(ヨハネ、シモンユダ、エレアザル、ヨナタン)ととも山中さんちゅうかくれると、セレウコスあさたいする敵意てきいつのらせていたユダヤじんがそこにあつまった。マタティアはこれをぐん組織そしきし、次第しだい本格ほんかくてき反乱はんらんとなっていった。

マカバイ戦争せんそう

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ユダ・マカバイ勝利しょうりギュスターブ・ドレ

マタティアは当初とうしょ息子むすこたちと小規模しょうきぼなゲリラせんおこなって異教いきょう神殿しんでん破壊はかいしていたが、もなく死去しきょした。かれ死後しごあといだ息子むすこのユダ(ユダ・マカバイ、ユダス・マッカベイオス)はちち勢力せいりょく継承けいしょうしてセレウコスあさからの独立どくりつ目指めざ戦争せんそう開始かいしした。ユダと兄弟きょうだいたちはセレウコスあさ将軍しょうぐんゴルギアスエマオのたたかやぶり、つづいてベト・ズルでリュシアスも撃破げきはし、紀元前きげんぜん165ねんすえにはエルサレムを包囲ほういしてセレウコスちょうぐん要塞ようさいふうめ、エルサレム市内しない入場にゅうじょうした。そして紀元前きげんぜん165ねん12月25にちエルサレム神殿しんでんからヘレニズムてき司祭しさい追放ついほうし、異教いきょう祭壇さいだん撤去てっきょすることで神殿しんでんきよめ、ふたたヤハウェかみ奉納ほうのうおこなった。この出来事できごといま記念きねんするのがハヌカーばれるユダヤきょうまつりである。

そのユダは周辺しゅうへんしょ地域ちいき兄弟きょうだい派遣はけんして支配しはい範囲はんいひろげたが、アンティオコス5せい治世ちせいはいるとリュシアスのしたでセレウコスあさ反撃はんげきてんじた。たたかいは一進一退いっしんいったいつづけ、リュシアスは一時いちじエルサレムを包囲ほういするなどの活躍かつやくせた。

デメトリオス1せい治世ちせいはいると、リュシアスはセレウコスあさ内部ないぶでの権力けんりょく闘争とうそうのため、ユダヤにかまけていられなくなったのでユダヤじんシリア宗主そうしゅけんみとめることとえに、ユダヤじん信仰しんこうみとめられるという条件じょうけん和議わぎむすんで撤退てったいした。ユダとともたたかったおおくのユダヤじんにとってここでこれまでのたたかいの目的もくてきだい部分ぶぶんたっせられたが、その方針ほうしんめぐってだい祭司さいしアルキモス中心ちゅうしんとする和平わへい維持いじと、ユダを中心ちゅうしんとする完全かんぜん独立どくりつ内紛ないふん発生はっせいした。

両派りょうは対立たいりつ次第しだい激化げきかし、ついにアルキモスはセレウコスあさ支援しえん要請ようせいするきょた。これにおうじたセレウコスあさ将軍しょうぐんバッキデス派遣はけんした。ユダは2わたってバッキデスひきいるセレウコスあさぐん撃退げきたいしたが、紀元前きげんぜん160ねんエラサのたたかではバッキデスにたいして大敗たいはいきっ戦死せんしした。こうしてアルキモスらの勢力せいりょく増大ぞうだいしたが、翌年よくねんにはアルキモスも死亡しぼうしてしまった。

このため指揮しきけんはユダのおとうとヨナタンがれた。ヨナタンはたくみな政治せいじりょくとセレウコスあさ内紛ないふんによって支配しはいけん確立かくりつした。そして紀元前きげんぜん152ねん、ヨナタンはアルキモス死亡しぼう以来いらい空位くういつづいていただい祭司さいししょく就任しゅうにんした。しかしマカバイ別名べつめいハスモン)は伝統でんとうてき祭司さいしではなく、この処置しょちにはユダヤじんがわからの反発はんぱつつよかった。立場たちばよわいヨナタンはこれまでのマカバイはんセレウコスあさ政策せいさく転換てんかんし、おやセレウコスあさてき政策せいさく採用さいようした。これによってセレウコスあさから「将軍しょうぐん」や「共同きょうどう統治とうちしゃ」の称号しょうごうさらにエルサレム教団きょうだんたいするセレウコスあさ特典とくてん更新こうしんした。

ヨナタンの死後しご、あとをいだシモンは「偉大いだいなるだい祭司さいし」や「将軍しょうぐん」などの称号しょうごうもちいるほど強力きょうりょく支配しはいけんにぎり、紀元前きげんぜん142ねんにはセレウコスあさぐんのエルサレムからの完全かんぜん撤退てったいをみた。このとしをハスモン元年がんねんとする独自どくじのコインを発行はっこうし、ローマとのあいだ外交がいこう関係かんけいむすぶなどして、ユダヤは事実じじつじょう独立どくりつ王国おうこくとなった。

マカバイ戦争せんそう位置いちづけ

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マカバイ戦争せんそうはユダヤじん弾圧だんあつはしはっし、最終さいしゅうてきにユダヤじん王国おうこく成立せいりつしたことからユダヤじん独立どくりつ戦争せんそうという位置いちづけがくなされる。しかし、その発端ほったん経過けいかにおいて、ヘレニズムてきなユダヤじん敬虔けいけんのユダヤじん対立たいりつがしばしばられるように、いちめんではユダヤじん内乱ないらんとしての側面そくめんっており、また証拠しょうこすくないながらヘレニズムの潮流ちょうりゅうなかで「ポリスてき」な変化へんかげるエルサレム社会しゃかいなかで、市民しみんとしての権利けんり獲得かくとくできなかった下層かそうみんと、つよくヘレニズムの影響えいきょうけた祭司さいし貴族きぞくたちとの対立たいりつという要素ようそがあったとも指摘してきされている。

またセレウコスあさによるユダヤじん弾圧だんあつが、「ヘレニズム」を目指めざしたセレウコスあさ政策せいさくもとづく宗教しゅうきょう弾圧だんあつであるというせつなが支持しじされてきたが、近年きんねんではセレウコスあさによる宗教しゅうきょう統制とうせい意思いしについては疑問ぎもんていされている。たとえばユダヤがわ記録きろくにはセレウコスあさがユダヤじんたいぶたべるよう強制きょうせいしたというものがあるが、ギリシアじん宗教しゅうきょうにおいてぶた特別とくべつ意味いみった痕跡こんせきはなく、またフェニキアじんかれらもぶた不浄ふじょう動物どうぶつとする習慣しゅうかんっていた)など周辺しゅうへん住民じゅうみんたいしてこれが強制きょうせいされた記録きろくまったいことから、こうした記録きろくをもってセレウコスあさがヘレニズムてき宗教しゅうきょう支配しはいけようとしたということはできないというのである。(そしてこれはギリシアじん宗教しゅうきょうが、現地げんち強制きょうせいされるよりもむし現地げんち宗教しゅうきょう同化どうかする傾向けいこうつよかったという事実じじつ符合ふごうする。)

こうしたユダヤきょうてき習慣しゅうかんけにさいしてはむし旧来きゅうらいのユダヤてき生活せいかつ変更へんこうしようとするヘレニズムてきなユダヤじんとの宗教しゅうきょう対立たいりつめんつよいとかんがえられている。

またセレウコスあさによるユダヤじん弾圧だんあつ動機どうきのひとつとして、アンティオコス4せい時代じだいにはセレウコスあさ財政ざいせいいちじるしく困窮こんきゅうしていたとかんがえられていることから、神殿しんでん財産ざいさん掠奪りゃくだつすることをおも目的もくてきにしたというせつもある。

こうした各種かくしゅ指摘してきられるように、マカバイ戦争せんそう単純たんじゅんにユダヤじん独立どくりつ戦争せんそう意見いけん過去かこのものとなりつつある。ただし、この戦争せんそう帰結きけつとしてハスモンあさ成立せいりつしたことも事実じじつであり、その意味いみにおいてユダヤじん独立どくりつ戦争せんそうという見解けんかい間違まちがいであるということもできない。史料しりょうかぎられていることもあり、マカバイ戦争せんそう詳細しょうさいについてはなお詳細しょうさい研究けんきゅうたれる分野ぶんやである。

関連かんれん項目こうもく

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