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しんバビロニア

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
しんバビロニア王国おうこく
新アッシリア帝国 ぜん626ねん - ぜん539ねん アケメネス朝
カルデアの位置
公用こうよう アッカドアラム
首都しゅと バビロン
君主くんしゅ
ぜん626ねん - ぜん605ねん ナボポラッサル初代しょだい
ぜん604ねん - ぜん562ねんネブカドネザル2せいだい2だい
ぜん562ねん - ぜん560ねんアメル・マルドゥクだい3だい
ぜん556ねん - ぜん556ねんラバシ・マルドゥク
ぜん555ねん - ぜん539ねんナボニドゥス最後さいご
変遷へんせん
成立せいりつ ぜん626ねん
滅亡めつぼうぜん539ねん
しんバビロニア (みどり)とリディア、メディア、エジプトのよん大国たいこく
イラク歴史れきし

この記事きじシリーズ一部いちぶです。
先史せんし

イラク ポータル

しんバビロニア(しんバビロニア、紀元前きげんぜん625ねん - 紀元前きげんぜん539ねん)は、ナボポラッサルによりメソポタミア南部なんぶバビロニア中心ちゅうしん建国けんこくされ、アケメネスあさペルシアのキュロス2せいによって征服せいふくされるまで、地中海ちちゅうかい沿岸えんがん地域ちいきいた広大こうだい領土りょうど支配しはいした帝国ていこくである。首都しゅとバビロン以前いぜんカルデア王国おうこくともばれたが、現在げんざい研究けんきゅうによればナボポラッサルはカルデアじんではなく、この呼称こしょうただしいとはいえない。

歴史れきし

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しんバビロニア帝国ていこく成立せいりつまで

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紀元前きげんぜんいち千年紀せんねんき初頭しょとうのバビロニアは、強力きょうりょく中央ちゅうおう権力けんりょく存在そんざいせず、おおくの短命たんめい王朝おうちょう興亡こうぼうする、不安定ふあんてい状況じょうきょうにあった。バビロニアの政治せいじてき神学しんがくてき中心ちゅうしん都市としはバビロンであり、「バビロンのおう」がバビロニアおうとみなされたが、実際じっさいには、しょ都市とし独立どくりつした状態じょうたいにあった。さらに、元々もともと遊牧民ゆうぼくみんであったアラムじんやカルデアじんしょ部族ぶぞくがバビロニアに定住ていじゅうし、とくにカルデアじん政治せいじてき重要じゅうよう役割やくわりたすことになる。

アッシリアによる征服せいふく

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バビロニアの北部ほくぶには、強大きょうだいしんアッシリア帝国ていこくがあり、あれこれ口実こうじつをつけてバビロニアに軍事ぐんじ介入かいにゅうおこなっていた。カルデアじんのメロダク・バルアダン2せいがエラムの支持しじ即位そくいすると、アッシリアのサルゴン2せいだい規模きぼなバビロニア遠征えんせいおこない、メロダク・バルアダン2せい逃亡とうぼう。そのエラムのたすけでふたたびバビロニアにもどり、反乱はんらんこすが、アッシリアおうセンナケリブによって鎮圧ちんあつされる。

センナケリブは、長男ちょうなんアッシュール・ナディン・シュミをバビロニアの王位おういにつけるが、アッシュール・ナディン・シュミは、侵入しんにゅうしてきたエラムぐん連行れんこうされてしまった。これに激怒げきどしたセンナケリブは、報復ほうふくのためエラムに侵攻しんこうおおくの都市とし略奪りゃくだつ破壊はかいした。さらにアッシリアぐんはバビロンを包囲ほういし、バビロンは15ヶ月かげつ陥落かんらくした。

センナケリブのつぎのアッシリアおうエサルハドンは、バビロンの再建さいけんおこなった。かれは、した息子むすこアッシュールバニパルをアッシリアおううえ息子むすこシャマシュ・シュム・ウキンをバビロンのおう後継こうけいしゃ任命にんめいした。しかし実際じっさいのところ、バビロニアおうはアッシリアおう従属じゅうぞくする立場たちばであり、バビロニアでの最終さいしゅう決定けっていけんっていたのはアッシュールバニパルであった。シャマシュ・シュム・ウキンは、ぜん652ねん、アッシリアからの独立どくりつ宣言せんげんして反乱はんらんこした。バビロニアのしょ都市としアラムじん、カルデアじんしょ部族ぶぞく(すべてではない)がはんアッシリアぐんくわわった。とくにカルデアじんのナブー・ベール・シュマーティは、シャマシュ・シュマ・ウキンとならぶ、もうひとりの反乱はんらん首謀しゅぼうしゃとしてアッシリアに認識にんしきされていた。

ぜん650ねんのアッシリアぐんのバビロン包囲ほういにより、餓死がし疫病えきびょう多数たすう死者ししゃた。そしてその2ねん、シャマシュ・シュム・ウキンが王宮おうきゅう火事かじんだことにより、反乱はんらんわりをげた。アッシュールバニパルはエラム制圧せいあつし、略奪りゃくだつ破壊はかいした。エラムにかくまわれていたナブー・ベール・シュマーティも自殺じさつした。

反乱はんらんのち、カンダラヌという人物じんぶつがバビロニアおうになるが、この人物じんぶつだれかはよくかっていない。アッシュールバニパルがぬと、アッシリアでは王位おういめぐあらそいがこり、バビロニアも混乱こんらんまれた。

ナボポラッサル

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このような状況じょうきょうなか、アッシリアへの反乱はんらん主導しゅどうしゃとして登場とうじょうしたのがナボポラッサル在位ざいい紀元前きげんぜん625ねん - 紀元前きげんぜん605ねん)である。

かれは、みずからを「だれでもないもの息子むすこ」と碑文ひぶんいており、その素性すじょうなぞつつまれている。カルデアじんであるとか、アッシリアの将軍しょうぐんであったというせつもあるが、現在げんざい研究けんきゅうでは、バビロニア南部なんぶにあるウルク有力ゆうりょく一族いちぞく出身しゅっしんであったとかんがえられている。ウルクはおやアッシリアであり、元々もともとアッシリアであったという過去かこかくすため、みずからの出自しゅつじかくしたとみられる。

バビロンのおうとしてまえ626ねん即位そくいしたのちも、すべてのバビロニアの都市とし支配しはいにおいたわけではなく、アッシリアとのこうそうつづいたが、アッシリアにたいして優位ゆういつようになった。

紀元前きげんぜん612ねんにメディア王国おうこく同盟どうめいむすんでアッシリアのおうみやこニネヴェ攻撃こうげきして陥落かんらくさせ(ニネヴェのたたか)、そのもバビロニアによるアッシリア征服せいふくつづいた。こうしてアッシリアは滅亡めつぼうし、その、かつての栄光えいこうもどすことはなかった。

しんアッシリア滅亡めつぼう、バビロニアはシリアパレスティナ侵攻しんこうした。シリア・パレスティナ諸国しょこくうしたてはエジプトだった。紀元前きげんぜん605ねん、ナボポラッサルは長男ちょうなんネブカドネザル(ナブー・クドゥリ・ウツル)をけ、バビロニアぐんカルケミシュのたたかでエジプトに勝利しょうりをおさめる。しかし、同年どうねんナボポラッサルは急死きゅうし息子むすこのネブカドネザル2せい即位そくいした。

ネブカドネザル2せい

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即位そくいしたのちネブカドネザル2せいNebuchadnezzar II)はシリア・パレスティナ諸国しょこく遠征えんせいかえし、次々つぎつぎ掌握しょうあくしていく。紀元前きげんぜん604ねん破壊はかいされたペリシテじんアシュケロンでは現在げんざい当時とうじ遺構いこう発掘はっくつちゅうである[1][2]

このような状況じょうきょうで、ユダ王国おうこく反乱はんらんこした。バビロニアはユダをめ、ぜん597ねんエルサレム陥落かんらく。バビロニアは、ユダのおうエホヤキンはじおおくの住民じゅうみんをバビロニアに連行れんこうした(バビロンしゅう)。このときバビロニアによってユダの王位おういについたゼデキヤも、のち反乱はんらんこしたため、ぜん586ねん、ネブカドネザルはエルサレムと神殿しんでん破壊はかいふたた住民じゅうみん強制きょうせい連行れんこうした。

しんバビロニアのおうおう碑文ひぶんにおいて、もっぱらみずかおこなった建築けんちく事業じぎょうについてべており、軍事ぐんじ遠征えんせいなどの政治せいじてき内容ないようにはほとんど言及げんきゅうしていないが、いくつかの間接かんせつてき言及げんきゅうとうから、かつてのしんアッシリア同様どうようぜんメソポタミア・シリアをふく広大こうだい領土りょうど支配しはいしていたことがかる。

また、バビロンのイシュタルもんやそこからつづ大通おおどおり、神殿しんでんとう数々かずかず建築けんちくおこなった。有名ゆうめい空中くうちゅう庭園ていえんは、その存在そんざいははっきり証明しょうめいされておらず、ニネヴェの庭園ていえんあやまってバビロンとされた、というせつもある。

いずれにせよ、このおう時代じだいしんバビロニアの最盛さいせいといえる。

アメル・マルドゥク、ネリグリッサル、ラバシ・マルドゥク

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ネブカドネザル2せい死後しご、バビロニアはふたた政治せいじてき不安定ふあんてい状態じょうたいおちいった。ネブカドネザルの息子むすこアメル・マルドゥク即位そくいするが、治世ちせい2ねんにして暗殺あんさつされる。アメル・マルドゥクを暗殺あんさつして即位そくいしたのは、ネブカドネザルのむすめ婿むこといわれる高官こうかんネリグリッサル(ネルガル・シャラ・ウツル)だった。しかしかれは、即位そくいした時点じてんすで高齢こうれいだったとおもわれ、その在位ざいいながつづかなかった。その、ネリグリッサルの息子むすこラバシ・マルドゥク即位そくいするが、ナボニドゥス(ナブー・ナーイド)とその息子むすこベルシャザル(ベール・シャラ・ウツル)によるクーデターでたおされた。

ナボニドゥス

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ナボニドゥスはラバシ・マルドゥクをたおして紀元前きげんぜん555ねん即位そくいしたが、かれ自身じしん王家おうけ人間にんげんではなかった。その素性すじょうははっきりしないが、かれははアダド・グッピは、名前なまえからはかるにアラムけいであり、ハランという都市とし出身しゅっしんで、つきかみシンを信仰しんこうしていたことが、彼女かのじょ自身じしん自伝じでんともいえる碑文ひぶんからかっている。

即位そくいまもなく、遠征えんせい出発しゅっぱつしたままアラビア半島はんとうテイマというオアシス都市としに10年間ねんかん滞在たいざい。その理由りゆうかんしては諸説しょせつあるが、はっきりしていない。ナボニドゥスがバビロンを留守るすにしているあいだ皇太子こうたいしのベルシャザルがバビロニアをおさめたが、新年しんねん祭儀さいぎおう不在ふざいおこなわれることはなかった。

ぜん541ねんごろバビロンに帰還きかんしたのち神殿しんでん改革かいかくなどをおこなうが、とくにがつかみシンをマルドゥクのわりに最高さいこうしんとしたことが、バビロニア住民じゅうみん(とくに神官しんかん)の反感はんかんった。アケメネスあさペルシアキュロス2せいは、この住民じゅうみんたちの反感はんかん利用りようし、ぜん539ねんバビロンに無血むけつ入城にゅうじょうすることに成功せいこうした[3]

統治とうち体制たいせい

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しんバビロニアの粘土ねんどぞう

しんバビロニアの領内りょうない統治とうちシステムはじつはあまりよくかっていない。行政ぎょうせいけられ、長官ちょうかん任命にんめいされた。地中海ちちゅうかい沿岸えんがん地域ちいきやカルデアじん・アラムじん地域ちいきでは、地元じもと有力ゆうりょくしゃおうによって任命にんめいされた。

バビロニアの都市とし行政ぎょうせいは、かく都市とし市長しちょうもしくは神殿しんでん長官ちょうかん頂点ちょうてんとし、都市とし有力ゆうりょくしゃからなる集会しゅうかいによって決定けっていされていた。

社会しゃかい構造こうぞうおおまかに自由じゆうみん奴隷どれい小作こさくじんからなった。

自由じゆうみん

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都市とし市民しみん階級かいきゅう(マール・バーニ)。免税めんぜいなど様々さまざま特権とっけん享受きょうじゅしていた。神殿しんでん高級こうきゅう官僚かんりょう王室おうしつ官僚かんりょう職人しょくにん商人しょうにんなどによって構成こうせいされる[4]みずからの名前なまえともに、父親ちちおや名前なまえおよび先祖せんぞ名前なまえ(ファミリーネーム)で呼称こしょうされる。伝統でんとうてき一族いちぞくは、神殿しんでんの「聖職せいしょくろく」を保有ほゆうしていた。

奴隷どれい

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奴隷どれいは、王室おうしつ奴隷どれい神殿しんでん奴隷どれい個人こじん所有しょゆう奴隷どれい分類ぶんるいできる。

私有しゆう奴隷どれい

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個人こじん所有しょゆう奴隷どれいは、主人しゅじん家族かぞくともらし、家事かじとう従事じゅうじする。売買ばいばい譲渡じょうと主人しゅじん借金しゃっきん担保たんぽ対象たいしょうとなり、みずからの身柄みがらかんして決定けっていけんがない。財産ざいさんとしての価値かちたかく、アメリカの黒人こくじん奴隷どれいのようにむちたれたり迫害はくがいされることはない。結婚けっこんして家族かぞくつくることができる。解放かいほうされて主人しゅじん養子ようし縁組えんぐみをし、主人しゅじん老後ろうご世話せわをする場合ばあいなどもあった。れいすくないが、自分じぶん財産ざいさんつこともできた[4]。 

神殿しんでん奴隷どれい

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神殿しんでん従属じゅうぞくし、祭儀さいぎなどの宗教しゅうきょう関係かんけい以外いがい雑用ざつよう従事じゅうじする。

王室おうしつ奴隷どれい

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王宮おうきゅう従属じゅうぞくして、雑務ざつむ従事じゅうじしたとおもわれるが、王室おうしつ奴隷どれいかんしてはあまりかっていない。

小作こさくじん

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王室おうしつ神殿しんでんだい土地とち所有しょゆうする個人こじんやとわれる。都市とし周辺しゅうへん農村のうそん地帯ちたいんで土地とち耕作こうさくし、収穫しゅうかくぶつ大麦おおむぎ、ナツメヤシとう)を小作こさくりょうとしておさめた。これは神殿しんでん王室おうしつにとっての主要しゅよう財源ざいげんであった。実際じっさいにはこまかい制度せいどじょう差異さいによってさら細分さいぶんされていた[5]

しんバビロニアのおう

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  1. ナボポラッサル(Nabopolassar) 紀元前きげんぜん625ねん - 紀元前きげんぜん605ねん
  2. ネブカドネザル2せい(Nebuchadnezzar II) 紀元前きげんぜん604ねん - 紀元前きげんぜん562ねん
  3. アメル・マルドゥク(Amel-Marduk) 紀元前きげんぜん562ねん - 紀元前きげんぜん560ねん
  4. ネルガル・シャレゼル(Nergal-sharezer) 紀元前きげんぜん560ねん - 紀元前きげんぜん556ねん
  5. ラバシ・マルドゥク(Labashi-Marduk) 紀元前きげんぜん556ねん わずか9ヶ月かげつ暗殺あんさつされた。
  6. ナボニドゥス(Nabonidus) 紀元前きげんぜん555ねん - 紀元前きげんぜん539ねん 息子むすこベルシャザル摂政せっしょう)と共同きょうどう統治とうち

系図けいず

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ナボポラッサル
 
 
 
 
 
 
 
 
ネブカドネザル2せい
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アメル・マルドゥク
 
むすめ
 
ネルガル・シャレゼル
 
 
 
 
 
ナボニドゥス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ラバシ・マルドゥク
 
 
 
 
 
 
 
ベルシャザル
 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Beaulieu 2005, pp. 57–58.
  2. ^ Stager 1996, pp. 57–69, 76–77.
  3. ^ 前田まえだら 2000, pp.151-152
  4. ^ a b 前田まえだら 2000, p.154
  5. ^ 前田まえだら 2000, pp.152-153

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 前田まえだとおる川崎かわさき康司こうじ山田やまだ雅道まさみち小野おのあきら山田やまだ重郎しげお鵜木うのきもとひろ歴史れきし現在げんざい 古代こだいオリエント』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねんISBN 978-4-634-64600-1 
  • 山田やまだ重郎しげお世界せかいリブレットじん003 ネブカドネザル2せい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2017ねん
  • Beaulieu, P. A. (2005). “World Hegemony, 900–300 BCE”. In Snell, D. C.. A Companion to the Ancient Near East. Oxford University Press. ISBN 978-1-4051-6001-8 
  • Stager, L. E. (1996). “The fury of Babylon: Ashkelon and the archaeology of destruction”. Biblical Archaeology Review 22 (1).