メソポタミア

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メソポタミアギリシャ: Μεσοποταμίαラテン文字もじ転写てんしゃ: Mesopotamia、ギリシャで「複数ふくすうかわあいだ」)は、チグリスがわユーフラテスがわあいだ沖積ちゅうせき平野へいやである。現在げんざいイラク一部いちぶにあたる。

世界せかい最古さいこ文明ぶんめい発祥はっしょうしたであり、メソポタミアにまれた文明ぶんめい古代こだいメソポタミア文明ぶんめいぶ。文明ぶんめい初期しょき中心ちゅうしんとなったのは民族みんぞく系統けいとう不明ふめいシュメールじんである。シュメールののちも、アッカドバビロニアアッシリアなどに代表だいひょうされる国々くにぐに興亡こうぼうかえした。やがて周辺しゅうへん勢力せいりょく伸張しんちょうとともに独立どくりつ勢力せいりょくとしてのメソポタミアの地位ちい低下ていかしていき、紀元前きげんぜん4世紀せいきアレクサンドロス3せい大王だいおう)の遠征えんせいによってヘレニズム世界せかい一部いちぶとなった。

メソポタミアには、西にしのユーフラテスがわひがしのティグリスがわという2つのだい河川かせん南北なんぼくながれており、とくにしも流域りゅういきにはりょう大河たいがによって堆積たいせきした肥沃ひよく土壌どじょうひろがっている。地形ちけい平坦へいたん高低こうていすくないためかわどう変遷へんせんしやすく、河口かこうちかくでは広大こうだい湿地しっちたいひろがっている。またりょう大河たいがはメソポタミア南端なんたんペルシャ湾ぺるしゃわんそそいでいるが、非常ひじょうていたいらであるため海面かいめん変動へんどう影響えいきょうけやすく、海水かいすいめん上昇じょうしょうがピークにたっした紀元前きげんぜん3500ねんごろ(いわゆる縄文じょうもんうみすすむ)にはペルシャ湾ぺるしゃわん湾頭わんとうは200km以上いじょう西進せいしんした[1]植生しょくせいとしては気候きこう乾燥かんそうしているために森林しんりん存在そんざいせず、また地質ちしつまとには沖積ちゅうせき平野へいやであるために岩石がんせきのほぼ存在そんざいしないどろ平原へいげんとなっていて、金属きんぞく資源しげん存在そんざいしない[2]

降水こうすいりょう非常ひじょうすくなく、メソポタミアのほぼ中央ちゅうおうにあるバグダッド降水こうすいりょう年間ねんかん140mmにすぎない[3]。このため、南部なんぶメソポタミアでは灌漑かんがいなしで農業のうぎょうおこなうことはできない。降水こうすいりょうみなみからきたかうにつれておおくなり、北部ほくぶメソポタミアでは年間ねんかん200mmをえるため、天水てんすい農業のうぎょう可能かのうとなる。このため人類じんるい居住きょじゅう農耕のうこう発達はったつさせたのは当初とうしょきたメソポタミアであり、みなみメソポタミアへの入植にゅうしょくおくれた[4]。ただしみなみメソポタミアの土壌どじょう非常ひじょう肥沃ひよくであり、灌漑かんがいおこなえばりょう大河たいがみず洪水こうずい農耕のうこう利用りようすることもできたため、いったん入植にゅうしょく開始かいしされると豊富ほうふ収穫しゅうかくによってみなみメソポタミアが文明ぶんめい揺籃ようらんとなった。

ティグリスがわはユーフラテスがわたいしてかわきょう係数けいすうおおきく、源流げんりゅう山地さんちからの距離きょりみじかくて勾配こうばいきゅうであるため、洪水こうずいこしやすいあばかわであった。それにたいしユーフラテスがわはやや山地さんちからの距離きょりなが勾配こうばいゆるやかで、ティグリスがわよりも高地こうちながれていたため、シュメールのしょ都市としおおくはユーフラテス河畔かはんかその近辺きんぺん位置いちしていた[5]。ただしどちらの河川かせん氾濫はんらん頻繁ひんぱんき、とくに晩秋ばんしゅうきる洪水こうずいはシュメール時代じだい農耕のうこうにはなくてはならないものだったが、エジプトナイルがわのようなおだやかな洪水こうずいではなく、はげしい洪水こうずいですべてをながされることもめずらしくはなかった。こうした自然しぜん環境かんきょうからだい洪水こうずい神話しんわまれ、旧約きゅうやく聖書せいしょ創世そうせいノアの方舟はこぶねはなしにも影響えいきょうあたえたとかんがえられている[6]。メソポタミアは地形ちけい平坦へいたんうえ2ほん大河たいがながれる交通こうつう要衝ようしょうであり、さまざまな民族みんぞく流入りゅうにゅう活発かっぱつ交易こうえきおこなわれてきた[7]

古代こだい文明ぶんめい時代じだいには、地域ちいきてき現在げんざいのバグダッド付近ふきんさかいにして、北部ほくぶアッシリア南部なんぶバビロニアとされ、バビロニアのうち北部ほくぶバビロニアがアッカド下流かりゅう地域ちいき南部なんぶバビロニアがシュメールとさらにけられていた。文明ぶんめい揺籃ようらんさい南部なんぶしも流域りゅういきであるシュメールであり、ここから上流じょうりゅう北部ほくぶかって文明ぶんめいひろがっていった[8]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

こよみ[編集へんしゅう]

こよみ太陰たいいん太陽暦たいようれきもちいたが、太陰たいいん太陽暦たいようれきでは1ねんやく11にちみじかくなることが紀元前きげんぜん3000ねんにはすでにられていたため、調整ちょうせいのため適宜てきぎ閏月じゅんげつ挿入そうにゅうされていた[9]。シュメール時代じだいこよみかく都市としによってことなっており、新年しんねんのはじまりも春分しゅんぶんおおかったものの、夏至げし秋分しゅうぶん起点きてんとする都市とし存在そんざいした[10]。その、バビロンだいいち王朝おうちょう時代じだいにはバビロニアでこよみ統一とういつされ、のちに周辺しゅうへん地域ちいきにもひろまった[11]ろく十進法じっしんほうもメソポタミアでまれたものであり、現在げんざい時間じかん単位たんいもちいられている[12]いちしゅうあいだなな七曜しちよう)にしたのもシュメール時代じだいである[13]こよみとも占星術せんせいじゅつ天文学てんもんがく雛形ひながた)も発達はったつし、「カルデアじん智恵ちえ」とばれた。

言語げんご[編集へんしゅう]

楔形文字くさびがたもじでギルガメシュ叙事詩じょじし一部いちぶきざまれた粘土ねんどばん。アッカド

紀元前きげんぜん8000ねんから西にしアジア一帯いったい簿記ぼきのためのしるしとして使つかわれていたトークンばれる道具どうぐ印章いんしょうへと変化へんかし、さらにそのしるしいて絵文字えもじすることで、紀元前きげんぜん3200ねんごろにウルクにおいて最古さいこ文字もじとされるウルク古拙こせつ文字もじ誕生たんじょうした[14]。この文字もじ象形しょうけい文字もじひょう文字もじであったが、紀元前きげんぜん2500ねんごろにはこれを発展はってんさせた楔形文字くさびがたもじ誕生たんじょうした[15]楔形文字くさびがたもじ周辺しゅうへんしょ民族みんぞくにも表音ひょうおん文字もじとして借用しゃくようされ、紀元きげん1世紀せいきころまで西にしアジア諸国しょこくのさまざまな言語げんごあらわすのに利用りようされた[16]記録きろく媒体ばいたい粘土ねんどばんもちいられた。楔形文字くさびがたもじによってかれたものとしてはハンムラビ法典ほうてんがよくられている。

初期しょきメソポタミアでは、南部なんぶのシュメールじんたちは言語げんご系統けいとう不明ふめいシュメールを、北部ほくぶのアッカドじんたちはセム語族ごぞくアッカド使用しようしていた。シュメールはウルだいさん王朝おうちょうまでは日常にちじょうとして使用しようされていたものの、アッカドあらたに侵入しんにゅうしたアモリじん言語げんごなか埋没まいぼつし、イシン・ラルサ時代じだいには口語こうごとしては死語しごとなっていた。ただし法律ほうりつ言語げんご典礼てんれい言語げんごとしてはそのもシュメール使用しようされつづけ、しんバビロニア時代じだいまではその使用しよう確認かくにんされている[17]アッカドはそのひろ使用しようされ、さらにオリエント諸国しょこくにおける外交がいこう用語ようごとしてもちいられ、エジプトだい18王朝おうちょう外交がいこう文書ぶんしょアマルナ文書ぶんしょ)に、その言葉ことばしるされたものがのこっている。かく都市としには学校がっこう設立せつりつされ、文書ぶんしょあつかうための書記しょき養成ようせいされたが、識字しきじ能力のうりょくかれらの特殊とくしゅ技能ぎのうであり、一般いっぱん市民しみんのほとんどは文字もじきができなかった。これは王侯おうこう貴族きぞくにおいても同様どうようであり、まれ識字しきじ能力のうりょくったおうあらわれた場合ばあい、そのおう記録きろくにはそのことがたからかにうたわれることがあった[18]

経済けいざい[編集へんしゅう]

メソポタミアの土地とち肥沃ひよくであり、経済けいざい基盤きばん農業のうぎょうかれていた。降水こうすいりょうすくないため天水てんすい農耕のうこう不可能ふかのうであり、このためメソポタミアへの入植にゅうしょく灌漑かんがい技術ぎじゅつ獲得かくとくのこととなったが、そのゆたかな収穫しゅうかくおおくの人口じんこう扶養ふよう可能かのうとし、文明ぶんめい成立せいりつさせる基礎きそとなった。灌漑かんがい用水ようすい確保かくほのために運河うんがやためいけ整備せいびされ、家畜かちくによるすきこう条播じょうはによる播種はしゅおこなわれた[19]しゅこく大麦おおむぎで、その反収たんしゅうたかく、紀元前きげんぜん24世紀せいきごろ大麦おおむぎ収量しゅうりょう倍率ばいりつやく76ばい推定すいていされている[20]。ただし農地のうち多量たりょう塩分えんぶんふくまれていたためしおよわ小麦こむぎ栽培さいばいはできず、さらに時代じだいくだるにつれて土地とち塩化えんか進行しんこうしたため大麦おおむぎ反収たんしゅう減少げんしょうしていった[21]大麦おおむぎ主食しゅしょくとなるほか、この地域ちいき大変たいへんこのまれたビール原料げんりょうともなった[22]農作物のうさくもつとしてはナツメヤシ重要じゅうようで、食糧しょくりょう甘味あまみりょう酒造しゅぞう原料げんりょう救荒作物きゅうこうさくもつ保存ほぞんしょくなど食用しょくようとしての用途ようとほか[23]樹木じゅもくすくないメソポタミアにおいて建材けんざいなどにも使用しようされた[24]菜園さいえんではタマネギなどの野菜やさい栽培さいばいされたほか[25]家畜かちくとしてはひつじヤギうしブタなどが飼育しいくされ、またさかなひろ食用しょくようとされた[26]

メソポタミアには資源しげん非常ひじょうすくなく、金属きんぞく資源しげん木材もくざい石材せきざいといった基本きほんてき資源しげんさえ不足ふそくしていたため、周辺しゅうへん地域ちいきとの交易こうえきによって資源しげん確保かくほすることは不可欠ふかけつであった。貿易ぼうえき交易こうえき範囲はんい広大こうだいで、エジプト文明ぶんめいインダス文明ぶんめいとも交易こうえきおこなっている。交通こうつう大動脈だいどうみゃくはチグリス・ユーフラテスのりょうかわであり[27]、また河口かこうからペルシャ湾ぺるしゃわんとおってディルムン(現在げんざいバーレーン)などにも交易こうえきせんおくんでいる[28]貨幣かへいとしては古代こだいつうじてぎん基本きほんであり、初期しょき王朝おうちょう時代じだいから秤量ひょうりょう貨幣かへいとして使用しようされたが、どうなどの金属きんぞく貨幣かへいとして使用しようされることがあり、物々交換ぶつぶつこうかんさかんにおこなわれた[29]。シュメールやバビロニアでは食物しょくもつはじめとする必需ひつじゅひん貯蔵ちょぞうして宮殿きゅうでん都市としもんにおいて分配ぶんぱいし、バザール手工業しゅこうぎょうひん販売はんばいおこなった[30]タムカルムばれる身分みぶんがた交易こうえきしゃ存在そんざいし、仲買人なかがいにん代理人だいりにん競売きょうばいじん保管ほかんじん銀行ぎんこう仲裁ちゅうさいじん旅商人たびあきんど奴隷どれい取締とりしまりかんしるし税吏ぜいりなどを担当たんとうした。また、ハンムラビ法典ほうてんには、損害そんがい賠償ばいしょう負債ふさいし、報酬ほうしゅう等価とうか概念がいねんについての記述きじゅつがある。

都市とし[編集へんしゅう]

ウルジッグラトウルだいさん王朝おうちょう

メソポタミアにおける都市とし発達はったつ非常ひじょうふるく、エリドゥのようにウバイドからあつまりじゅうがはじまった集落しゅうらくさえある[31]紀元前きげんぜん3500ねんごろからのウルクはいるとあつまりじゅうはさらにすすみ、紀元前きげんぜん3300ねんごろにはウルクが完全かんぜん都市としとしての実体じったいそなえるにいたった[32]。その都市とし周辺しゅうへん各地かくち成立せいりつし、紀元前きげんぜん2900ねんごろからは各地かくち都市とし国家こっか分立ぶんりつしてこうそうかえすようになった[33]。この時期じきにはシュメールじんだい部分ぶぶん都市とし居住きょじゅうしており、かれらは都市としむことを文明ぶんめいじんのあかしとなしていた[34]

これらの都市としにはかんほりめぐらされ、日干ひぼしレンガによるたか城壁じょうへき都市としからの防御ぼうぎょをおこなっていた[35]。また都市とし中心ちゅうしんには神殿しんでん建設けんせつされ、基本きほんてき移転いてんすることはなく都市とし建設けんせつから消滅しょうめつまでおな位置いち存在そんざいしていた[36]神殿しんでん基壇きだんじょうてられており、その都市としランドマークとして機能きのうしていた。さらにウルだいさん王朝おうちょうはいると、基壇きだん多層たそうして巨大きょだいし、うえ神殿しんでんせたジッグラトばれるひじりとうとなった[37]

このころの有力ゆうりょく都市としとしては、きたからキシュニップルシュルッパクウンマラガシュウルクウルなどがげられる。このうちニップルがシュメールの北限ほくげんにあたり、キシュはアッカド地方ちほうぞくしていた[38]。やがてウルだいさん王朝おうちょう滅亡めつぼうすると中部ちゅうぶイシン南部なんぶラルサ強大きょうだいとなるが、きたのアッカド地方ちほうではバビロンが、きたメソポタミアではアッシュールが、西方せいほうではマリ強大きょうだいとなった。紀元前きげんぜん18世紀せいきはいるとバビロンを首都しゅととするバビロンだい1王朝おうちょう強大きょうだいし、ハンムラビおうしたでメソポタミアを統一とういつした。以後いご、バビロンはメソポタミアを代表だいひょうする都市としとなり、メソポタミア南部なんぶ地域ちいきそのものがバビロニアとばれるようになった。その繁栄はんえいはセレウコスあさ建国けんこくまでつづいた[39]

セレウコスあさはいるとバビロンのきたセレウキア建設けんせつされ、バビロンにわるメソポタミアの中心ちゅうしんとしてヘレニズム大都市だいとしとなった。パルティアはいるとセレウキアの対岸たいがんにクテシフォン建設けんせつされ、パルティアおよびサーサーンあさ首都しゅとかれた。正統せいとうカリフ時代じだいはいると中部ちゅうぶクーファ重要じゅうようせいしていき、だい4だいカリフのアリー時代じだいには一時いちじ首都しゅとかれ、またアッバースあさ建国けんこくにも再度さいど首都しゅとかれたものの、762ねんにはマンスールによってティグリス河畔かはん新都しんとバグダード造営ぞうえいされ、以後いごここがメソポタミアの中心ちゅうしん都市としとなった。

技術ぎじゅつ[編集へんしゅう]

メソポタミアに集落しゅうらく発達はったつはじめた時期じき金石かねいし併用へいよう時代じだいにあたり、どうぎん利用りようられていた。すでにウバイド遺跡いせきにおいて、銅器どうきどう工房こうぼうおお発見はっけんされている[40]。やがてすずどう合金ごうきんである青銅せいどう発明はつめいされ、メソポタミアは青銅器せいどうき時代じだいへと移行いこうする。その時期じきには諸説しょせつあるが、おおよそ紀元前きげんぜん3000ねん[41]から2500ねんごろ[42]初期しょき王朝おうちょう時代じだいであろうとかんがえられている。鉄器てっき利用りよう一般いっぱんしたのはずっとおくれ、紀元前きげんぜん1190ねんごろにヒッタイトが滅亡めつぼうしてはがね製造せいぞうほう周辺しゅうへん諸国しょこくつたわってからのこととなる[43]

交通こうつう手段しゅだんとしては、すでにウバイドにはふね河川かせん交通こうつうもちいられて、水上みずかみ交通こうつう主力しゅりょくとなっていた[44]紀元前きげんぜん3500ねんごろになると家畜かちくされたロバ出現しゅつげんし、またほぼ同時どうじ車輪しゃりん実用じつようがなされて、荷車にぐるま利用りようする陸上りくじょう交通こうつうもはじまった[45]

文化ぶんか[編集へんしゅう]

都市とし国家こっか成立せいりつ社会しゃかい複雑ふくざつしていくなかで、もめごと仲裁ちゅうさい規範きはんとするためのほう成立せいりつしていった。現存げんそんする最古さいこ法典ほうてんであるウル・ナンム法典ほうてんは、ウルだいさん王朝おうちょう建国けんこくしたウル・ナンムおうによって紀元前きげんぜん2100ねんごろ制定せいていされた。そのかく王朝おうちょうによってこうした法典ほうてん制定せいていされるようになり、紀元前きげんぜん1930ねんごろにはイシンだい1王朝おうちょうだい5だいおうリピト・イシュタルによってリピト・イシュタル法典ほうてんが、紀元前きげんぜん1780ねんごろにはエシュヌンナにおいてエシュヌンナ法典ほうてん制定せいていされ、そして紀元前きげんぜん1750ねんまでにはメソポタミアの法典ほうてんなかもっと名高なだかハンムラビ法典ほうてん制定せいていされた[46]

楔形文字くさびがたもじではさまざまな神話しんわ物語ものがたりまれるようになり、なかでもウルクの伝説でんせつてきおうであるギルガメシュ物語ものがたりであるギルガメシュ叙事詩じょじしはシュメールのみならず周辺しゅうへんしょ民族みんぞくにも翻訳ほんやくされつたえられた[47]

ギルガメッシュ叙事詩じょじし文字もじかたわらには、音楽おんがくかんする記号きごう指示しじられれる。このことから、弦楽器げんがっきリラの調しらべつるほう音階おんかい理論りろん整備せいびされ音楽おんがく芸能げいのうとしてあつかわれていたことがしめされる。しかし音楽おんがくしめかたり存在そんざいしたかは不明ふめい[48]

メソポタミアの歴史れきし[編集へんしゅう]

先史せんし時代じだい[編集へんしゅう]

北部ほくぶメソポタミアでは、後期こうきしん石器せっき時代じだいはいると紀元前きげんぜん6000ねんから紀元前きげんぜん5500ねんごろのハッスーナ紀元前きげんぜん5600ねんごろから紀元前きげんぜん5000ねんごろにかけてのサーマッラー、そして紀元前きげんぜん5500ねんごろから紀元前きげんぜん4300ねんごろにかけてのハラフの、3つの文化ぶんかさかえていた[49]

シュメール文明ぶんめい[編集へんしゅう]

天水てんすい農業のうぎょう可能かのう周辺しゅうへん地域ちいきことなり、乾燥かんそうした南部なんぶメソポタミアへの人類じんるい定着ていちゃくおくれ、紀元前きげんぜん5500ねんころはじまるウバイドはいってはじめて農耕のうこう開始かいしされた[50]。この時期じきにはエリドゥをはじめとしていくつかのだい規模きぼ定住ていじゅう誕生たんじょうし、やがてまちとなっていった。

紀元前きげんぜん3500ねんころにはウルクがはじまり、メソポタミアさい南部なんぶにシュメールじんによるいくつかの都市とし誕生たんじょうした。エリドゥ、ウルウルクなどがこの時期じき成立せいりつした都市としであり、ウルク代表だいひょうてき都市としであるウルク由来ゆらいするものである。紀元前きげんぜん3100ねんころにはジェムデット・ナスルがはじまり、都市としはバビロニア全土ぜんどひろがった。

紀元前きげんぜん2900ねんころには初期しょき王朝おうちょう時代じだいとなり、ウル、ウルク、ラガシュなどの多数たすう都市とし国家こっか成立せいりつしてないこうそうつづいた。紀元前きげんぜん24世紀せいきはいると統合とうごううごきがつよまり、ウンマのおうだったルガルザゲシ周辺しゅうへんしょ都市とし征服せいふくし、ウルク本拠ほんきょうつして「国土こくどおう」を名乗なのり、シュメールを統一とういつした[51]。しかし紀元前きげんぜん2350ねんころきたアッカドおうサルゴンがルガルザゲシを打倒だとうし、アッカド・シュメールりょう地域ちいき最初さいしょ統一とういつ王朝おうちょうであるアッカド帝国ていこく建国けんこくした[52]。この王朝おうちょうは150ねんほどつづき、だい4だいナラム・シンおうした周囲しゅうい進出しんしゅつしておおきく国土こくどひろげたものの[53]つぎだい5だいシャル・カリ・シャッリおう時代じだい東方とうほうから進出しんしゅつしたグティじんなどの侵攻しんこうによってアッカド帝国ていこく衰退すいたいし、100ねんほどの混乱こんらんはいった。この時期じきかく都市としふたた独立どくりつ割拠かっきょしたが、やがて紀元前きげんぜん2100ねんころ、シュメールじんによるウルだいさん王朝おうちょうウル・ナンムによっててられ、メソポタミアをさい統一とういつした[54]。ウルだいさん王朝おうちょうは2だいシュルギおう時代じだい最盛さいせいむかえたもののその衰退すいたいし、100ねんほどで滅亡めつぼうした[54]

バビロニア[編集へんしゅう]

セムじんけいアムルじん西方せいほうから進出しんしゅつし、紀元前きげんぜん2004ねんにウルだいさん王朝おうちょう滅亡めつぼうすると、みなみメソポタミアではアムルじんけい王朝おうちょうおおてられるようになった。この時期じきには中部ちゅうぶのイシンだいいち王朝おうちょう強大きょうだいとなりウルだいさん王朝おうちょう後継こうけいしゃ自任じにんしたものの、やがて南部なんぶのラルサも強大きょうだいとなり、この2強国きょうこく中心ちゅうしんにいくつかの都市とし国家こっか分立ぶんりつする情勢じょうせいとなった[55]イシン・ラルサ時代じだいである。おなじくアムルじんけいであるバビロンとするバビロニア王国おうこく(バビロンだい1王朝おうちょう)もこのころ建国けんこくされた。さらに、このころにはきたメソポタミアでアッシリア勃興ぼっこうした。

紀元前きげんぜん18世紀せいきはいると統合とうごううごきがつよまり、まず紀元前きげんぜん1794ねんにはイシンがラルサによってほろぼされた[56]ものの、やがてバビロンだい1王朝おうちょうだい6だいハンムラビおうもと強大きょうだいとなり、30年間ねんかんにわたる戦争せんそうのち紀元前きげんぜん1759ねんにメソポタミアを統一とういつした[57]ハンムラビ法典ほうてん(ハムラビ法典ほうてん。「にはを、にはを」の復讐ふくしゅうほう有名ゆうめい)はかれによってつくられた。ハンムラビの死後しごバビロンだい1王朝おうちょうすこしずつ衰退すいたいしていき、またきたのアッシリアはミタンニ王国おうこく支配しはいはいった。 紀元前きげんぜん1595ねんころ現在げんざいトルコにあったヒッタイトによりバビロニア帝国ていこくほろぼされる[58]

その紀元前きげんぜん1500ねんごろにはバビロニアでカッシートひと統一とういつ王朝おうちょうきずき、そのきたでは紀元前きげんぜん1340ねんにミタンニが滅亡めつぼうするとアッシリアが一時いちじちゅうおこした。この時期じきのオリエントはエジプトやヒッタイト、アッシリア、バビロニアといった大国たいこく併存へいそんしていたが、紀元前きげんぜん1200ねんごろぜん1200ねんのカタストロフき、オリエント一帯いったい動乱どうらん突入とつにゅうした。紀元前きげんぜん1155ねんにはカッシートあさ滅亡めつぼう[59]、イシンだい王朝おうちょう一時いちじ勃興ぼっこうしたものの、その滅亡めつぼうバビロニアはなが混乱こんらんはいった[60]。またアッシリアの勢力せいりょくもこの時期じき一時いちじ縮小しゅくしょうした。

アッシリア[編集へんしゅう]

アッシリアの勢力せいりょく範囲はんい

紀元前きげんぜん9世紀せいきうま戦車せんしゃ鉄器てっき使用しようし、残虐ざんぎゃく行為こういによっておそれられたアッシリアが勢力せいりょくひろげる。アッシリアの拡張かくちょうはそのつづき、紀元前きげんぜん745ねん即位そくいしたティグラト・ピレセル3せい時代じだいにアッシリア帝国ていこくはメソポタミア全域ぜんいきとシリア、パレスチナを支配しはいした。紀元前きげんぜん722ねんにはアッシリア帝国ていこくによりイスラエル王国おうこく分裂ぶんれつきた王国おうこく)がほろぼされた[61]紀元前きげんぜん671ねん、アッシリアのエサルハドンおう侵攻しんこうによりエジプトが支配しはいされ、アッシリア帝国ていこくはオリエント地域ちいき全体ぜんたい支配しはいするだい帝国ていこくになった[62]次代じだいアッシュールバニパルおう時期じきにアッシリア帝国ていこく最盛さいせいむかえるものの、治世ちせい後半こうはんから急速きゅうそく衰退すいたいしていく。

各地かくち地方ちほう勢力せいりょく独立どくりつし、紀元前きげんぜん625ねんにはナボポラッサルによってバビロンにしんバビロニア建国けんこくされる。紀元前きげんぜん612ねんしんバビロニアとメディア反撃はんげきにより、アッシリア帝国ていこく首都しゅとニネヴェ陥落かんらくして破壊はかいされる[63]紀元前きげんぜん609ねんにはアッシリア帝国ていこく完全かんぜん滅亡めつぼう[64]、オリエントはイラン高原こうげんのメディア、メソポタミアのしんバビロニア、しょうアジアのリュディアエジプトだい26王朝おうちょうの4帝国ていこく時代じだいむかえる。

しんバビロニア[編集へんしゅう]

しんバビロニアはだい2だいネブカドネザル2せい次代じだい最盛さいせいむかえた。ネブカドネザル2せい首都しゅとバビロンの再建さいけん積極せっきょくてきおこな一方いっぽう、シリアやパレスチナ方面ほうめんへと進出しんしゅつし、紀元前きげんぜん597ねんにはユダヤじんユダ王国おうこくみなみ王国おうこく)の首都しゅとエルサレムを占領せんりょうして、同国どうこく王族おうぞくとらえられてバビロンにおくられる。「バビロンしゅう」である。紀元前きげんぜん586ねんにはユダ王国おうこくふたた反乱はんらんこしたが再度さいどバビロニアに鎮圧ちんあつされ、のこ人々ひとびとしゅうとなってしんバビロニアのニップル付近ふきん強制きょうせい移住いじゅうさせられた[65]

ペルシャ[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん539ねんアケメネスあさペルシアのキュロス2せいしんバビロニアをほろぼし、メソポタミアをふくむオリエント全域ぜんいき領土りょうどとするだい帝国ていこくをきずきあげた[66]。アケメネスあさ支配しはいは200ねんほどつづいたが、紀元前きげんぜん331ねんマケドニア王国おうこくアレクサンドロス3せいがバビロンに入城にゅうじょうし、ペルシアの支配しはいわった。

アレクサンドロスの征服せいふく以降いこう[編集へんしゅう]

メソポタミアぞくしゅう

紀元前きげんぜん323ねんにアレクサンドロス3せい死去しきょするとかれ帝国ていこくはほどなくして瓦解がかいし、メソポタミアはディアドコイ国家こっかのひとつであるセレウコスあさによって支配しはいされることとなった。紀元前きげんぜん141ねんにはペルシア高原こうげんから侵攻しんこうしてきたパルティアがこの占領せんりょうした。116ねんトラヤヌスひきいるマ帝国まていこくぐんは、パルティアをやぶってメソポタミアを占領せんりょうするが、翌年よくねんトラヤヌスが死去しきょ(117ねん)すると、後継こうけい皇帝こうていハドリアヌスよく118ねんにメソポタミアから撤退てったいし、ふたたびパルティアりょうとなった。しかしそのもローマはしばしばパルティアへと侵攻しんこうつづけ、メソポタミアは基本きほんてきにはパルティアにぞくしながらもたびたび支配しはい勢力せいりょく変化へんかした。パルティアが滅亡めつぼうし、230ねんにメソポタミアがサーサーンあさ領土りょうどとなると、メソポタミア中部ちゅうぶ首都しゅとクテシフォンいて繁栄はんえいした。

636ねんイスラム帝国ていこくがクテシフォンに入城にゅうじょうし、以後いごウマイヤあさアッバースあさモンゴル帝国ていこくイルハンあさオスマン帝国ていこくなどのしょ帝国ていこく支配しはいけ、1920ねんにはイギリス委任いにん統治とうちりょうメソポタミア成立せいりつし、1932ねんイラク独立どくりつするとその領土りょうどとなった。

メソポタミアのかみ[編集へんしゅう]

多神教たしんきょうであったが、時代じだい支配しはい民族みんぞくによって、最高さいこうしんわっていった。

遺跡いせき[編集へんしゅう]

古代こだいメソポタミア時代じだいから存続そんぞくしている都市とし存在そんざいしないものの、メソポタミアには当時とうじ遺跡いせきがいくつか現存げんそんしている。そのうち、アッシュール(カラット・シェルカット)は2003ねん[67]バビロンは2019ねんにユネスコの世界せかい遺産いさん文化ぶんか遺産いさんとして登録とうろくされた[68][69]。また、ウル、ウルク、エリドゥの3都市とし遺跡いせきは、周辺しゅうへん湿地しっちたいとともにみなみイラクのアフワール:生物せいぶつ避難ひなんしょ古代こだいメソポタミア都市とし景観けいかんざんかげとして2016ねん世界せかい遺産いさんふくあい遺産いさん)に登録とうろくされた[70]

おおくの遺跡いせき発掘はっくつおこなわれているものの、ほとんどの遺跡いせきはイラク国内こくない存在そんざいするため、1990ねん湾岸わんがん戦争せんそうから2003ねんイラク戦争せんそうへとつづ政治せいじてき混乱こんらんにより遺跡いせき発掘はっくつはほとんどの場所ばしょ停止ていしし、また戦災せんさい略奪りゃくだつなどでおおくの遺跡いせき破損はそんしたうえ、適切てきせつ管理かんりおこなわれず放置ほうちされた遺跡いせきおお存在そんざいした[71]。その、2010年代ねんだいはいると情勢じょうせい安定あんていしたイラク南部なんぶにおいて発掘はっくつ再開さいかいされることもおおくなり、2015ねんにはウルの発掘はっくつ再開さいかいされた[72]一方いっぽう北部ほくぶ活動かつどうするISILイスラム教いすらむきょう以前いぜん遺跡いせき完全かんぜん破壊はかい目標もくひょうかかげており、2015ねんにはアッシリアの遺跡いせきであるニムルド遺跡いせき破壊はかいされ[73]、また出土しゅつどひん密売みつばい略奪りゃくだつ積極せっきょくてきおこなわれていた[74]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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  5. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 4-8.
  6. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 8-13.
  7. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 14-15.
  8. ^ 古代こだいメソポタミアぜん」p7-8 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2020ねん10がつ25にち初版しょはん
  9. ^ 文明ぶんめい誕生たんじょう」p63-64 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2015ねん6がつ25にち発行はっこう
  10. ^ 文明ぶんめい誕生たんじょう」p66-67 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2015ねん6がつ25にち発行はっこう
  11. ^ 文明ぶんめい誕生たんじょう」p71-72 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2015ねん6がつ25にち発行はっこう
  12. ^ 宇宙うちゅうかん5000ねん 人類じんるい宇宙うちゅうをどうみてきたか」p8 中村なかむら岡村おかむらじょうのり 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい 2011ねん12月26にち初版しょはん
  13. ^ 文明ぶんめい誕生たんじょう」p67 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2015ねん6がつ25にち発行はっこう
  14. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 36-38.
  15. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 40.
  16. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 48-50.
  17. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 274-275.
  18. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 200-203.
  19. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 59-63.
  20. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 59.
  21. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 59-60.
  22. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 56-57.
  23. ^ 『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい, p. 64.
  24. ^ 都市とし国家こっか誕生たんじょう」(世界せかいリブレット1)p69 前田まえだとおる 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1996ねん6がつ25にち1はん1さつ発行はっこう
  25. ^ 都市とし国家こっか誕生たんじょう」(世界せかいリブレット1)p68-69 前田まえだとおる 山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ 1996ねん6がつ25にち1はん1さつ発行はっこう
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  27. ^ 文明ぶんめい誕生たんじょう」p83-86 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2015ねん6がつ25にち発行はっこう
  28. ^ うみわたった人類じんるいはるかな歴史れきし 古代こだい海洋かいようみん航海こうかい」p225 ブライアン・フェイガンちょ 東郷とうごうえりかやく 河出書房新社かわでしょぼうしんしゃ 2018ねん2がつ20日はつか初版しょはん発行はっこう
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  31. ^ 古代こだいメソポタミアぜん」p16-17 小林こばやし登志子としこ 中公新書ちゅうこうしんしょ 2020ねん10がつ25にち初版しょはん
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  74. ^ https://www.sankei.com/premium/news/150320/prm1503200005-n1.html 「【イスラムこく偶像ぐうぞう敵視てきし資金しきんげん注目ちゅうもく…「イスラムこく」はなぜメソポタミア遺跡いせき破壊はかいするのか」産経新聞さんけいしんぶん 2015.3.20 2021ねん3がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

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  • カール・ポランニー しる玉野井たまのい芳郎よしお栗本くりもと慎一郎しんいちろう わけ人間にんげん経済けいざい I 市場いちば社会しゃかい虚構きょこうせい岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみモダンクラシックス〉、2005ねん7がつISBN 978-4000271363 
  • カール・ポランニー しる玉野井たまのい芳郎よしお中野なかのただし わけ人間にんげん経済けいざい II 交易こうえき貨幣かへいおよび市場いちば出現しゅつげん岩波書店いわなみしょてん岩波いわなみモダンクラシックス〉、2005ねん7がつISBN 978-4000271370 
  • 小林こばやし登志子としこ『シュメル 人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公新書ちゅうこうしんしょ〉、2005ねん10がつISBN 978-4121018182 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]