ヒスパニア・タラコネンシス

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ヒスパニア・タラコネンシスぞくしゅう位置いち(125ねんごろマ帝国まていこく

ヒスパニア・タラコネンシス(Hispania Tarraconensis)は、マ帝国まていこくぞくしゅうのひとつ。皇帝こうていぞくしゅうである。

現在げんざいスペイン大半たいはんバレンシア地方ちほうガリシア地方ちほうカタルーニャ地方ちほうなど)とポルトガル北部ほくぶふくんだ地域ちいき該当がいとうする。南方なんぽうには現在げんざいのポルトガル南方なんぽう相当そうとうするルシタニア現在げんざいではアンダルシア地方ちほうばれるヒスパニア・バエティカと、北方ほっぽうには現在げんざいフランス西部せいぶであるガリア・アクィタニアガリア・ナルボネンシスせっしている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

帝政ていせい初期しょき

ローマがこの影響えいきょうまえは、先住民せんじゅうみんぞくイベリアじんほかに、紀元前きげんぜん8世紀せいきから紀元前きげんぜん6世紀せいきまでのあいだフェニキアじん地中海ちちゅうかい沿いの海岸かいがん地域ちいき植民しょくみん建設けんせつした。

ローマは紀元前きげんぜん2世紀せいきごろ、この影響えいきょうりょくつようになる。当初とうしょエブロがわ以西いせいには進出しんしゅつしないとカルタゴ協定きょうていむすんでいたが、だいポエニ戦争せんそうのちになるとおもイベリア半島はんとう南部なんぶ地方ちほう支配しはいき、その共和きょうわせい後期こうき南西なんせいヒスパニア・ウルテリオル南東なんとうヒスパニア・キテリオルというでローマのぞくしゅうとしてくわえられた。アウグストゥス治世ちせいにイベリア半島はんとうをほぼ制圧せいあつ、そのローマりょうさい構築こうちくにより、紀元前きげんぜん27ねんよりヒスパニア・タラコネンシス名付なづけられ、ぞく州都しゅうとをタラコ(げんタラゴナ)へ設置せっちした。

現在げんざい[いつ?]のイベリア半島はんとう北部ほくぶ当初とうしょローマ領内りょうないではなかったが、紀元前きげんぜん29ねんから紀元前きげんぜん19ねんまで現地げんちのカンタブリじん抵抗ていこう制圧せいあつにローマに編入へんにゅう、ヒスパニア・タラコネンシスの管轄かんかつはいった。

よん皇帝こうていとししょうされた69ねんには、この地方ちほうおさめていた総督そうとく元老げんろういん議員ぎいんであったガルバ皇帝こうてい擁立ようりつされ、ローマ皇帝こうていにほんの短期間たんきかんいた。

ディオクレティアヌス以降いこう

ディオクレティアヌス治世ちせいにはガッラエキア英語えいごばんヒスパニア・カルタギネンシス英語えいごばん、ヒスパニア・タラコネンシスと分割ぶんかつされる。そして407ねんよりカンタブリじん、バスクじん反乱はんらん、その西にしゴートじんピレネー山脈さんみゃくえて西方せいほうより侵入しんにゅう西にしゴート王国おうこくりょうとなった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]