(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ルシタニア - Wikipedia コンテンツにスキップ

ルシタニア

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルシタニアぞくしゅう(120ねん

ルシタニアラテン語らてんご: Lusitania)は、古代こだいローマぞくしゅう現在げんざいポルトガルおよびスペイン西部せいぶ現在げんざいエストレマドゥーラしゅう)に該当がいとうする。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

ルシタニアじん

[編集へんしゅう]

最初さいしょにこのにやってきた人種じんしゅはルシタニぞくばれている。インド・ヨーロッパ語族ごぞくということからアルプスより移動いどうしてきた可能かのうせいはある。紀元前きげんぜん6世紀せいきことわれるが、歴史れきしがく考古学こうこがくとしてはいまだ時代じだい裏付うらづけはさだまっていない。ルシタニぞくカルタゴ傭兵ようへいとしてはじめてティトゥス・リウィウス記述きじゅつてくる。

紀元前きげんぜん179ねんルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスがルシタニぞく撃破げきはした功績こうせきだいいちケルティベリア戦争せんそう)により凱旋がいせんしき敢行かんこうしている。しかし紀元前きげんぜん155ねんにルシタニぞくジブラルタルまで南下なんかしたが、紀元前きげんぜん153ねん同地どうちでそのとしプラエトルであったルキウス・ムンミウスやぶれた。

セルウィウス・スルピキウス・ガルバはルシタニぞく同盟どうめいむすぶとだましてルシタニぞくやぶり、捕虜ほりょにしたもの奴隷どれいとしてはらったが、これがさらなる反乱はんらんこした(ルシタニア戦争せんそう)。そのデキムス・ユニウス・ブルトゥス・カッライクスガイウス・マリウス紀元前きげんぜん113ねん勝利しょうりげ、このころまでにルシタニアのだい部分ぶぶんがローマりょうとなった。

ローマぞくしゅう

[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん70年代ねんだいにローマへ反乱はんらんこしたクィントゥス・セルトリウス支配しはい体制たいせい強固きょうこにし、紀元前きげんぜん60ねんにはガイウス・ユリウス・カエサルがルシタニぞくガッラエキぞく英語えいごばん討伐とうばつした[1]最終さいしゅうてきアウグストゥスによってイベリア半島はんとう全域ぜんいきがローマの支配しはいはいり、イベリア半島はんとうは3分割ぶんかつされて、きた東方とうほうは「タッラコネンシス」、南方なんぽうは「バエティカ」、西方せいほうは「ルシタニア」と名付なづけられた。ルシタニアぞくしゅう州都しゅうとはエメリタ・アウグスタ(Emerita Augusta、げんメリダ)にかれた。

皇帝こうていネロ時代じだいにはネロの友人ゆうじんでもあったオト総督そうとくとしてこの地域ちいき統治とうち善政ぜんせいいた。しかし、タッラコネンシスの総督そうとくであったガルバがネロに反旗はんき、オトもガルバを支持しじ、ネロは元老げんろういんより「国家こっかてき」と宣言せんげんされ、自殺じさつする。そしてユリウス=クラウディウスあさ断絶だんぜつ内戦ないせん幕開まくあけとなった。

ルシタニアを題材だいざいとした作品さくひん

[編集へんしゅう]

ポルトガルの国民こくみん詩人しじんルイス・デ・カモンイス有名ゆうめい「ウズ・ルジアダス」がある。

ルシタニアに由来ゆらいする命名めいめい

[編集へんしゅう]

このつイギリス船籍せんせき客船きゃくせんこったルシタニアごう事件じけんが、だいいち世界せかい大戦たいせんにおけるアメリカ参戦さんせん契機けいきとなった。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ プルタルコス英雄えいゆうでん」カエサル 12

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]