粘土ねんどばん

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紀元前きげんぜん1033ねん土地とち売買ばいばい契約けいやくしょ。(だいえい博物館はくぶつかん所蔵しょぞう
天文学てんもんがくバビロニアの天文学てんもんがく英語えいごばん)について解説かいせつしている粘土ねんどばん研究けんきゅうしゃのあいだでは通称つうしょうで「MUL.APIN」(あるいは「Mul-Apin」)とばれている、一連いちれん粘土ねんどいたぐん最初さいしょのページ。Mul-Apinには、天球てんきゅうの3つの区分くぶん主要しゅようほしのぼ日付ひづけのリスト、グループでのぼしずほし々の日付ひづけのリスト、はくみち天球てんきゅうじょうつきかけのみち)がとお星座せいざ などについて記述きじゅつされている。左右さゆう2れつカラムけるようにしてかれている。ほしのデータから判断はんだんして、紀元前きげんぜん1000ねんころに編纂へんさんされたもののようだ、と研究けんきゅうしゃらからは判断はんだんされており、(こうした内容ないようしょなんうつされるものであるが)この個体こたい紀元前きげんぜん7世紀せいきころにうつされたものだと推定すいていされている。(だいえい博物館はくぶつかん所蔵しょぞう
バビロニア粘土ねんどばん YBC 7289 (紀元前きげんぜん1800-1600ねんごろ
2の平方根へいほうこん近似きんじは60しんほうで4けた、10しんほうではやく6けた相当そうとうする。1 + 24/60 + 51/602 + 10/603 = 1.41421296... [2]。(Image by Bill Casselman)

粘土ねんどばん(ねんどばん、シュメル:dub[1]えい: clay tablet)とは、古代こだいメソポタミアおよびその周辺しゅうへん地帯ちたいにおいて文字もじしるすためにもちいられた材料ざいりょう [2]。おもに楔形文字くさびがたもじしるすためにもちいられた[2]。「粘土ねんどしょいた」とも[2]

概要がいよう[編集へんしゅう]

粘土ねんどばんとは古代こだいメソポタミアおよびその周辺しゅうへん地帯ちたいから出土しゅつどする粘土ねんどでできたいたで、おも楔形文字くさびがたもじしるしているものをしている。そこにかれている文書ぶんしょは「粘土ねんどばん文書ぶんしょ」などとばれている。

粘土ねんどばん現代げんだいふううなら)文字もじ記録きろく媒体ばいたい[3][注釈ちゅうしゃく 1]文字もじ記録きろくしやすく、携帯けいたいすることも可能かのうであったため、紀元前きげんぜん3000ねん以前いぜんから西暦せいれき紀元きげん直後ちょくごまで、さまざまな言語げんご記録きろくもちいられた[3]使用しよう範囲はんい使用しよう言語げんご多様たようであるばかりでなく、西暦せいれき1世紀せいき2世紀せいきころにはいようになるまでの前後ぜんご3000ねん以上いじょうながきにわたってもちいられた材料ざいりょうであり、いままでのところ発見はっけんされている粘土ねんどばんだけでも40まんまいになるとわれており、今後こんごまだおおくが発見はっけんされる可能かのうせいがある[2]

出土しゅつどする粘土ねんどばん楔形文字くさびがたもじだけがきざまれているものが圧倒的あっとうてきおおいが、なかには地図ちずなどがきざまれたものもある。当時とうじあまりに一般いっぱんてき材料ざいりょうだったので、出土しゅつどする文書ぶんしょ比率ひりつとしては日常にちじょうてきでこまごましたもの、たとえば領収りょうしゅうしょ納税のうぜい記録きろくやメモきなどがおおいが、そうしたものばかりでなく、出土しゅつどする場所ばしょによってはもっと重要じゅうよう文書ぶんしょ、たとえば学術がくじゅつしょ外交がいこう文書ぶんしょ歴史れきししょなどの割合わりあいたかくなる。また「人類じんるいの(古代こだいの)文学ぶんがく史上しじょうかがや金字塔きんじとう」などと賞賛しょうさんされることのある『ギルガメシュ叙事詩じょじし』もこの粘土ねんどばんしるされたということは指摘してきしておくべきだろう。

歴史れきし

しばしば「粘土ねんどばんもちいた文書ぶんしょ作成さくせいメソポタミア楔形文字くさびがたもじ発生はっせいとともにはじまった」とわれている。 シュメール伝説でんせつでは英雄えいゆうエンメルカル使者ししゃ派遣はけんするさい使者ししゃ口上こうじょうおぼえられないために粘土ねんどばんしるしたとされている。また、発掘はっくつによって確認かくにんされた最古さいこの(楔形文字くさびがたもじの)粘土ねんどばん文書ぶんしょウルク遺跡いせきだい4そうから出土しゅつどし、紀元前きげんぜん3300ねんごろのものとされている[4]

ただし厳密げんみつなことをえば、粘土ねんどばん実際じっさい初期しょき歴史れきしはそれよりもさらにふるい。(上述じょうじゅつのように)最古さいこ楔形文字くさびがたもじ遺物いぶつはメソポタミアの古都ことウルク発見はっけんされたウルク文書ぶんしょのものとされるのにたいし、粘土ねんどばんはそれ以前いぜんから、楔形文字くさびがたもじ前身ぜんしんである絵文字えもじしるしたり印刻いんこくするためにももちいられていた[2]。とはえ、本格ほんかくてき大量たいりょうもちいられるようになったのは楔形文字くさびがたもじ書記しょきのためなので「粘土ねんどばんもちいた文書ぶんしょ作成さくせいはメソポタミアの楔形文字くさびがたもじ発生はっせいとともにはじまった」とってもさほど間違まちがっているわけではない。

(ウルク文書ぶんしょの)おも内容ないよう農作業のうさぎょう牧畜ぼくちくかんするものであり、伝説でんせつ考古学こうこがくいずれも実用じつよう目的もくてき由来ゆらいしているところが特徴とくちょうてきである。粘土ねんどばん文化ぶんかけんはメソポタミアを中心ちゅうしんとしてシリアアナトリアエラムにまたがる広範囲こうはんいなもので、時代じだい下限かげんアケメネスあさヘレニズムいたっている[4]

楔形文字くさびがたもじはまずはシュメールじんによりシュメール書記しょき体系たいけいてき使つかわれるようになり、その下記かき人々ひとびとによって、かれらがもちいる下記かき言語げんご書記しょきもちいられた[2]

また歴史れきしてき影響えいきょう観点かんてんから特筆とくひつすべきこととしては、粘土ねんどばんはエジプトにまではこばれアマルナ文書ぶんしょとなり、さらには、地中海ちちゅうかいクレタ文化ぶんかミケーネ文化ぶんかでももちいられて影響えいきょうおよぼし、せん文字もじB文書ぶんしょギリシア)などの作成さくせいにも使つかわれた、ということもある[2]

通常つうじょう自然しぜん乾燥かんそうほどこされたが、重要じゅうよう文書ぶんしょがためられて保存ほぞんせいたかめた[4]乾燥かんそうさせただけでは湿しめらせれば改変かいへん可能かのうであるため、かいざん防止ぼうし目的もくてきいたり粘土ねんどせい封筒ふうとうをかぶせることもあった[3]

製法せいほう使用しようほう保存ほぞんほう[編集へんしゅう]

  1. どろ用意よういする
    • なお、この段階だんかいくさくわえ、わくれていて乾燥かんそうさせると建築けんちくぶつつくるための「日干ひぼしレンガ mudbrick」となり、さらに焼成しょうせいすれば焼成しょうせい煉瓦れんがとなる。建築けんちく材料ざいりょうとなり、ジッグラト建設けんせつにも使つかわれた。
  2. ふるいにかけ、みずでよくあらい、不純物ふじゅんぶつ
    • この作業さぎょうは、メソポタミアの場合ばあいはぶくことが出来できた。なぜならかわどろはこんでくるときに十分じゅうぶん水洗みずあらいされ綺麗きれいになっているからである。
  3. いたかたちにする
    • 用途ようとおうじたおおきさでつくる。大抵たいてい場合ばあい,領収りょうしゅうしょなど日常にちじょうのちょっとした用途ようとなのでのひらにのるくらいのおおきさにつくり、学術がくじゅつしょ外交がいこう文書ぶんしょなどを作成さくせいする場合ばあいなどは大型おおがたいたをつくる。
  4. 楔形文字くさびがたもじきざ
    • 金属きんぞくあし(あし)のくきでできた道具どうぐけることによりくさびがたの「へこみ」をつくり文字もじとした[2]
  5. 重要じゅうよう文書ぶんしょ場合ばあい日干ひぼし」にしてき、そうでない場合ばあいたんに「陰干かげぼし」にしてかわかす

おも用法ようほう[編集へんしゅう]

ヴィンチャ文化ぶんか粘土ねんどばん[編集へんしゅう]

ヴィンチャ文化ぶんか粘土ねんどばん

紀元前きげんぜん4500ねんごろから紀元前きげんぜん4000ねんごろにかけてのヨーロッパしん石器せっき時代じだい農耕のうこうはさらにヨーロッパの内陸ないりくまでひろがり、ポーランドからドイツオランダにまで拡大かくだいしていき、その時期じきにはセルビアベオグラードちかいヴィンチャを中心ちゅうしんヴィンチャ文化ぶんか英語えいごばん発展はってんした。集落しゅうらく内部ないぶ土偶どぐう集中しゅうちゅうする箇所かしょがあったり、文字もじのような記号きごうこくされる粘土ねんどばん出土しゅつどしたりすることで注目ちゅうもくされる文化ぶんかである[5]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 後世こうせいひと感覚かんかくてきかるように比喩ひゆてき説明せつめいするなら、古代こだいエジプトひとには「パピルスのようなもの」、西洋せいよう中世ちゅうせい人々ひとびと説明せつめいするなら「羊皮紙ようひしのようなもの」、18世紀せいきころ~20世紀せいき人々ひとびと説明せつめいするなら「かみのようなもの」といったところになるであろう。それくらい一般いっぱんてき書記しょき材料ざいりょうだったのである。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 小林こばやし登志子としこ『シュメル―人類じんるい最古さいこ文明ぶんめい中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、2005。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ』(ニッポニカ)[1]
  3. ^ a b c 図書館としょかん情報じょうほうがく用語ようご辞典じてん
  4. ^ a b c 前田まえだとおる粘土ねんどばん文書ぶんしょ」『歴史れきしがく事典じてん 6 歴史れきしがく方法ほうほう弘文こうぶんどう、1998ねん、P494。
  5. ^ 大貫おおぬき(2009)pp.62-66

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大貫おおぬき良夫よしお渡辺わたなべ和子かずこ尾形おがたただしあきらほか世界せかい歴史れきし1 にんるい起源きげんとオリエント』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2009ねん4がつISBN 978-4-12-205145-4 
    • 大貫おおぬき良夫よしおだい1 人類じんるい文明ぶんめい誕生たんじょう」『世界せかい歴史れきし1 にんるい起源きげんとオリエント』中央公論ちゅうおうこうろんしんしゃ中公ちゅうこう文庫ぶんこ〉、2009ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]