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ティムール朝 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ティムールあさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
イランおよびトゥーラーン
ایران و توران
ジョチ・ウルス
チャガタイ・ウルス
1370ねん - 1507ねん ブハラ・ハン国
黒羊朝
白羊朝
ムガル帝国
くに標語ひょうご: راستى رستى
ペルシア : 正直しょうじきすくいがある)
ティムール帝国の位置
最盛さいせいのティムールあさ支配しはい領域りょういき深緑しんりょく)と一時いちじてき占領せんりょう地域ちいきみどり
公用こうよう ペルシア
チャガタイ
ウズベク
アラビア
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうスンナ
首都しゅと サマルカンド
ヘラート
シャー
1370ねん - 1405ねん ティムール
1451ねん - 1469ねんアブー・サイード
1506ねん - 1507ねんムザッファル・フサイン
宰相さいしょう
1469ねん - 1489ねんナヴァーイー
面積めんせき
1405ねん4,400,000km²
変遷へんせん
成立せいりつ 1370ねん4がつ10日とおか
ティムール1405ねん2がつ18にち
分裂ぶんれつ1469ねん
滅亡めつぼう1507ねん
現在げんざいウズベキスタンの旗 ウズベキスタン
キルギスの旗 キルギス
カザフスタンの旗 カザフスタン
タジキスタンの旗 タジキスタン
トルクメニスタンの旗 トルクメニスタン
アフガニスタンの旗 アフガニスタン
パキスタンの旗 パキスタン
インドの旗 インド
イランの旗 イラン
イラクの旗 イラク
トルコの旗 トルコ
アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン
アルメニアの旗 アルメニア
ジョージア (国)の旗 ジョージア
ロシアの旗 ロシア
 ウクライナ
中華人民共和国の旗 中国ちゅうごく
イランの歴史
イランの歴史れきし
イランの歴史れきし
イランの先史せんし時代じだい英語えいごばん
はらエラム
エラム
ジーロフト文化ぶんか英語えいごばん
マンナエ
メディア王国おうこく
ペルシア帝国ていこく
アケメネスあさ
セレウコスあさ
アルサケスあさ
サーサーンあさ
イスラームの征服せいふく
ウマイヤあさ
アッバースあさ
ターヒルあさ
サッファールあさ
サーマーンあさ
ズィヤールあさ
ブワイフあさ ガズナあさ
セルジュークあさ ゴールあさ
ホラズム・シャーあさ
イルハンあさ
ムザッファルあさ ティムールあさ
くろひつじあさ しろひつじあさ
サファヴィーあさ
アフシャールあさ
ザンドあさ
ガージャールあさ
パフラヴィーあさ
イスラーム共和きょうわこく

ティムールあさ(ティムールちょう、ペルシア: تیموریانTīmūriyānウズベク: Temuriylar)は、中央ちゅうおうアジアマー・ワラー・アンナフル現在げんざいウズベキスタン中央ちゅうおう)に勃興ぼっこうしたモンゴル帝国ていこく継承けいしょう政権せいけんのひとつで、中央ちゅうおうアジアからイランにかけての地域ちいき支配しはいしたイスラム王朝おうちょう1370ねん - 1507ねん)。

その最盛さいせいには、版図はんと北東ほくとうひがしトルキスタン南東なんとうインダスがわ北西ほくせいヴォルガがわ南西なんせいシリアアナトリア方面ほうめんにまでおよび、かつてのモンゴル帝国ていこく西南せいなん地域ちいき制覇せいはした。創始そうししゃティムール在位ざいいちゅう国家こっかティムール帝国ていこくばれることがおお[1]

王朝おうちょう始祖しそティムールは、チャガタイ・ハンこくつかえるバルラス部族ぶぞく出身しゅっしんで、言語げんごてきテュルクし、宗教しゅうきょうてきイスラムしたモンゴル軍人ぐんじん(チャガタイじん)の一員いちいんであった。

ティムールいちだい征服せいふくにより、上述じょうじゅつだい版図はんと実現じつげんするが、その死後しご息子むすこたちによって帝国ていこく分割ぶんかつされたため急速きゅうそく分裂ぶんれつかって縮小しゅくしょうし、15世紀せいき後半こうはんにはサマルカンドヘラートの2政権せいけんのこった。

これらは最終さいしゅうてき16世紀せいき初頭しょとうウズベクシャイバーニーあさによって中央ちゅうおうアジアの領土りょうどうばわれるが、ティムールあさ王族おうぞく一人ひとりバーブルアフガニスタンカーブルインドはいり、19世紀せいきまでつづムガル帝国ていこくてた。

歴史れきし

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征服せいふく事業じぎょう

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14世紀せいき初頭しょとうにモンゴル王族おうぞくカイドゥ王国おうこくかたち中央ちゅうおうアジアの東西とうざいトルキスタン勢力せいりょく拡大かくだいしたチャガタイ・ハンこくは、1340ねんころにははやくも分裂ぶんれつかい、ひがしトルキスタンのひがしチャガタイ・ハンこくとマー・ワラー・アンナフルの西にしチャガタイ・ハンこくブルガリアばんwikidata[2]かれた。西にしチャガタイ・ハンこくではおおくの有力ゆうりょく部族ぶぞく地方ちほう割拠かっきょしたためにハンの権力けんりょく早々そうそう喪失そうしつし、各地かくちぶんりょう有力ゆうりょく遊牧ゆうぼく貴族きぞくによる群雄割拠ぐんゆうかっきょたいをなす。このなか盗賊とうぞくてき活動かつどうおこないながらちいさいながらも自己じこ勢力せいりょくきずきつつあったのが、チンギス・カンボルジギンどう家系かけいほこ名門めいもんバルラス部族ぶぞく出身しゅっしんであるが、ちちだいまでにすっかり零落れいらくしていた没落ぼつらく貴族きぞく息子むすこティムールであった。1360ねんひがしチャガタイ・ハンこくモグーリスタン・ハンこく)のトゥグルク・ティムール西にしチャガタイ・ハンこく侵攻しんこうし、一時いちじてきにチャガタイ・ハンこく東西とうざい統一とういつげると、ティムールはこれに服属ふくぞくしてバルラス旧領きゅうりょう回復かいふくする。

ティムールによるバルフ攻撃こうげき(ホーンダミール『清浄せいじょうえん』の16世紀せいき写本しゃほんより)

やがてトゥグルク・ティムールが本拠地ほんきょちひがしトルキスタンにかえると、ティムールはひがしチャガタイ・ハンこくから離反りはんし、西にしチャガタイ・ハンこくしょ部族ぶぞく同盟どうめい離反りはんかえしながら勢力せいりょくひろげ、1370ねんまでにマー・ワラー・アンナフルの覇権はけん確立かくりつした。かれはチンギス・カンの三男さんなんオゴデイ子孫しそんソユルガトミシュ西にしチャガタイ・ハンこくのハンとして擁立ようりつし、自身じしんはチンギス・カーンの子孫しそんむすめめとって、「ハン婿むこ婿むこ(アミール・キュレゲン)」という立場たちばにおいてマー・ワラー・アンナフルにむチャガタイじんしょ部族ぶぞく統帥とうすいけんにぎった。一般いっぱんに、このとしをもってティムールあさ確立かくりつとする。

しん王朝おうちょう確立かくりつ、ティムールはひがしトルキスタンに遠征えんせいしてモグーリスタン・ハンこく服属ふくぞくさせ、マー・ワラー・アンナフルの西にしホラズム征服せいふくした。さらにジョチ・ウルスから亡命ぼうめいしてきたトクタミシュ支援しえんしてジョチ・ウルスをさい統一とういつさせ、北西ほくせいキプチャク草原そうげん友好国ゆうこうこくとして中央ちゅうおうアジアの支配しはいかためた。

サマルカンドのグーリ・ミールびょう

つづいて、1335ねんフレグ王家おうけ断絶だんぜつイルハンあさ(イル・ハンこく、フレグ・ウルス)が解体かいたいしてしょ勢力せいりょく割拠かっきょしていたイラン方面ほうめん経略けいりゃく開始かいしし、1380ねんにはマー・ワラー・アンナフルからアムがわえてホラーサーン征服せいふく1388ねんまでにイランの全域ぜんいき服属ふくぞくさせ、アルメニアグルジアからアナトリア東部とうぶまでを勢力せいりょくいた。1393ねんにはイランのファールス地方ちほう支配しはいするムザッファルあさ征服せいふくしてイランの全土ぜんど完全かんぜん制圧せいあつし、さらにカフカスからキプチャク草原そうげんはいって、ホラズムの支配しはいをめぐってティムールと対立たいりつしたトクタミシュをち(トクタミシュ・ティムール戦争せんそう英語えいごばん)、ジョチ・ウルスのサライ破壊はかいした。

1398ねんには矛先ほこさきえてインドにも侵攻しんこうし、デリー・スルタンあさデリーなどを占領せんりょうした。1400ねんにはふたた西方せいほう遠征えんせいしてアゼルバイジャンからシリアイラク席巻せっけんしてマムルークあさやぶり、1402ねんにはアンカラのたたかオスマン帝国ていこくやぶって一時いちじてき滅亡めつぼうさせ(空位くうい時代じだい英語えいごばん)、シリア、アナトリアの諸侯しょこうこくにまで宗主そうしゅけんおよぼしてサマルカンドに帰還きかんした。こうしてティムールは30年間ねんかんでモンゴル帝国ていこく西にし半分はんぶんをほぼ統一とういつすることに成功せいこうした。

1404ねんには「ティムール紀行きこうスペインばん」でられるルイ・ゴンサレス・デ・クラヴィホがティムールあさおとずれたが、ティムールやまいためにフランスおうシャルル6せいとカスティーリャおうエンリケ3せいへの返書へんしょること帰国きこくした。あらためて東方とうほうのモンゴル帝国ていこくのカアン直轄ちょっかつりょうもと回復かいふくをこころざし、もとわって中国ちゅうごく支配しはいしたあきらへの遠征えんせいかう途上とじょう1405ねんにティムールは病死びょうしした。

シャー・ルフとウルグ・ベク父子ふし時代じだい

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ティムールは生前せいぜんから、あらたに征服せいふくした地方ちほう自身じしん王子おうじたちを知事ちじとしその支配しはいゆだねていたため、ティムールの死後しご各地かくち分封ぶんぽうされて勢力せいりょくたくわえていた王子おうじたちのあいだ後継こうけいしゃめぐあらそいがおこった。ティムールは自身じしん先立さきだってんだ王子おうじジャハーンギールピール・ムハンマド・ジャハーンギール後継こうけいしゃ指名しめいしていたが、ピール・ムハンマドはしょ王子おうじなかではちからよわく、権力けんりょく掌握しょうあくすることができなかった。かわって三男さんなんミーラーン・シャータシュケント知事ちじハリール・スルタン首都しゅとサマルカンドをうばい、ティムールの後継こうけいしゃとして即位そくいする。しかし、腹心ふくしん部下ぶかをもっていなかったハリールは、寵姫ちょうきシャーディ・ムルクえい: Shad Mulk)の政治せいじ介入かいにゅうゆるして首都しゅとでの支持しじうしなうと、ホラーサーン地方ちほう知事ちじでホラーサーン駐留ちゅうりゅう軍団ぐんだん統御とうぎょすることに成功せいこうしたティムールのよんなんシャー・ルフによって退位たいいさせられた。

1409ねんにサマルカンドを征服せいふく、ティムールあさの3だい君主くんしゅとなったシャー・ルフは、サマルカンドの支配しはい自身じしん長男ちょうなんウルグ・ベクまかせてホラーサーンにかえり、ホラーサーンの主要しゅよう都市としのひとつヘラートげんアフガニスタン西部せいぶ)を本拠地ほんきょちとしてティムールあささい統一とういつした。シャー・ルフは自身じしん子飼こがいの部将ぶしょうたちを将軍しょうぐん登用とうようして権力けんりょくかため、王朝おうちょう発祥はっしょうである中央ちゅうおうアジアの遊牧民ゆうぼくみん軍事ぐんじりょく背景はいけい地方ちほう割拠かっきょするさんにんあに子孫しそんたちから次第しだい権力けんりょくうばっていった。40ねんちかつづいたシャー・ルフの治世ちせいにはあかりとの外交がいこう樹立じゅりつされて商業しょうぎょう活動かつどう振興しんこうし、国際こくさい商業しょうぎょうオアシスゆたかな農業のうぎょう生産せいさんささえられた繁栄はんえい背景はいけい中央ちゅうおうアジアではイスラム文化ぶんかおおいに発展はってんした。1415ねん、1422ねん、1431ねんごろの3にわたりあかり永楽えいらくみかどいのちけたていかずホルムズおとずれている。

しかし、西方せいほう辺境へんきょうひがしアナトリアからイランの西部せいぶではティムールに打倒うちたおされたモンゴル貴族きぞくわってトゥルクマーン遊牧民ゆうぼくみん活動かつどう活発かっぱつし、くろひつじあさ英主えいしゅカラ・ユースフ英語えいごばんひきいられたかれらのによってアゼルバイジャン地方ちほうがティムールあさからうしなわれた。1447ねん、シャー・ルフがぼっするとふたたしょ王子おうじたちが各地かくち自立じりつして王位おういあらそはじめ、ティムールあさ支配しはいふたたらぐ。シャー・ルフがんだのち、その長男ちょうなんでサマルカンドを支配しはいしていたウルグ・ベクが正統せいとう後継こうけいしゃとして4だい君主くんしゅ即位そくいするが、まもなく1449ねんみずからの長男ちょうなんアブドゥッラティーフによって殺害さつがいされてしまった。翌年よくねんにはアブドゥッラティーフも暗殺あんさつされてシャー・ルフからは実力じつりょくしゃがいなくなり、混乱こんらんつづく。このあいだくろひつじあさ急速きゅうそく勢力せいりょくひろげ、イランの西部せいぶから東部とうぶまで進出しんしゅつしてホラーサーンのしゅ邑ヘラートまで占領せんりょうしていた。

サマルカンド政権せいけんとヘラート政権せいけん

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ヘラート政権せいけん確立かくりつしたスルターン・フサイン・バイカラ

1451ねん、シャー・ルフのあにミーラーン・シャーのまごアブー・サイードが、中央ちゅうおうアジアのトゥルクマーンとウズベクの支援しえんけてサマルカンドを奪取だっしゅ、シャー・ルフ王子おうじわってだい7だい君主くんしゅ即位そくいした。アブー・サイードはイスラム神秘しんぴ主義しゅぎ教団きょうだんのひとつナクシュバンディー教団きょうだん支持しじ獲得かくとくしてその宗教しゅうきょうてき権威けんいのもとにマー・ワラー・アンナフルの勢力せいりょくかため、1457ねんにはアゼルバイジャンで反乱はんらんおこったためにヘラートを放棄ほうきしてひがしイランに帰還きかんせざるをなくなったくろひつじあさ交渉こうしょうして、ヘラートをふくむホラーサーンをはじめとするイラン東部とうぶ返還へんかんされて、シャー・ルフぼつ以来いらいの10ねんぶりのティムールあさ単独たんどく君主くんしゅとなった。

アブー・サイードの治世ちせいでは、反乱はんらんやウズベクの侵入しんにゅうなやまされつつも統一とういつたもたれた。しかし、1467ねんにアゼルバイジャン方面ほうめんでトゥルクマーンのしろひつじあさくろひつじあさやぶって勢力せいりょく確立かくりつすると、これを東部とうぶイラン回復かいふく好機こうきたアブー・サイードは西方せいほうへと遠征えんせい敢行かんこうし、1469ねんしろひつじあさ英主えいしゅウズン・ハサンぐんによって大敗たいはいきっし、殺害さつがいされた。アブー・サイードの死後しご、その長男ちょうなんスルタン・アフマドがサマルカンドで即位そくいするが、もはやマー・ワラー・アンナフルを確保かくほするのが精一杯せいいっぱいで、ホラーサーンではヘラートを本拠地ほんきょちとするティムールの次男じなんウマル・シャイフの曾孫そうそんフサイン・バイカラ勢力せいりょく確立かくりつしていた。こうしてティムールあさはサマルカンド政権せいけんとヘラート政権せいけん分立ぶんりつ時代じだいはいる。

サマルカンド政権せいけんではウルグ・ベクの知事ちじ時代じだい繁栄はんえい絶頂ぜっちょうきわめていた都市とし文化ぶんか衰退すいたいかいつつあったが、ナクシュバンディー教団きょうだん権威けんいのもとで安定あんていたもたれた。しかし、1494ねんにアフマドがぼっすると王子おうじたちと有力ゆうりょく将軍しょうぐんたち、ナクシュバンディー教団きょうだん教主きょうしゅたちのあいだ王位おういめぐ内訌ないこう勃発ぼっぱつし、さらに北方ほっぽうのウズベクの南下なんか侵入しんにゅうによってサマルカンド政権せいけん支配しはい急速きゅうそく崩壊ほうかいしていった。1500ねん、サマルカンドはシャイバーンあさムハンマド・シャイバーニー・ハンによって征服せいふくされ、サマルカンド政権せいけんほろびる。1503ねんにはアブー・サイードのまごバーブルがサマルカンドを奪還だっかんするが数ヶ月すうかげつふたたびシャイバーニー・ハンに奪取だっしゅされ、中央ちゅうおうアジアはシャイバーンあさ制圧せいあつされてゆく。

一方いっぽう、ヘラート政権せいけんでは40ねんちかくにおよんだフサイン・バイカラの治世ちせいのもとで安定あんてい実現じつげんし、サマルカンド政権せいけんしろひつじあさとの友好ゆうこう関係かんけいのもと、首都しゅとヘラートではティムールあさ宮廷きゅうてい文化ぶんか絶頂ぜっちょうむかえた。しかし、平和へいわかげでヘラート政権せいけん次第しだい文弱ぶんじゃくしており、1506ねんにフサインがんだのちにはまったくそのちからうしなわれていた。よく1507ねん、ヘラート政権せいけんは、サマルカンドから南下なんかしてきたシャイバーニー・ハンのまえにあっけなく降伏ごうぶくし、こうして中央ちゅうおうアジアにおけるティムールあさ政権せいけん消滅しょうめつした。

1511ねんバーブルはイランの新興しんこう王朝おうちょうサファヴィーあさ支援しえんけてふたたびサマルカンドを奪還だっかんするが、サファヴィーあさ援助えんじょけるためにシーア改宗かいしゅうしていたために住民じゅうみん支持しじうしない、1512ねんふたたびサマルカンドをうしなった。バーブルはこれ以降いこう中央ちゅうおうアジアの支配しはい奪還だっかん断念だんねんし、南下なんかてんじる。アフガニスタンのカーブルを本拠地ほんきょちとしていたバーブルが、デリーのローディーあさやぶり、インドにおけるティムールあさとしてムガル帝国ていこくてるのは、その晩年ばんねん1526ねんのことである。

くにせい

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ティムールの宮廷きゅうてい

ティムールあさくにせいについては不明ふめいなところがおおく、現実げんじつにティムール以下いか歴代れきだい君主くんしゅおおくが確固かっこたる行政ぎょうせいじょう制度せいどさだめたこともなかったとかんがえられる。とくにティムールの時代じだいには、ティムールの息子むすこたち、腹心ふくしん部下ぶかたち、かれらにしたが遊牧民ゆうぼくみんたちが分封ぶんぽうされてカリスマてき軍事ぐんじ指導しどうしゃであるティムールの権威けんいふくしていたため、ティムールの没後ぼつごには容易ようい分裂ぶんれつかってしまうものであった。15世紀せいきまつにヘラートに首府しゅふいたフサイン・バイカラは軍務ぐんむ財務ざいむつかさど官庁かんちょう宗教しゅうきょう統括とうかつする「サドルしょく設置せっちした。フサインはティムールとおなじく皇子おうじたちを各地かくち分封ぶんぽうして、そこにもヘラートと同様どうよう行政ぎょうせい機関きかんもうけられて自治じちかれた。中央ちゅうおう統制とうせいおよばないため、1人ひとり皇子おうじ処刑しょけいされると皇子おうじ反乱はんらん連鎖れんさし、シャイバーンあさへの対応たいおうおくれをとった[3]

君主くんしゅ支配しはいかためる論理ろんりとして、モンゴルの伝統でんとうとイスラムの伝統でんとうというふたつの要素ようそ存在そんざいしたことはたしかである。いまだモンゴル帝国ていこく影響えいきょうがよくのこっていたティムールの時代じだいにはモンゴルの伝統でんとうとく強調きょうちょうされ、ティムールあさ君主くんしゅとはべつに、チンギス・カンの王子おうじたちのなかから名目めいもくじょうのハンが擁立ようりつされるとともに、ティムール王子おうじ名目めいもくじょうのハンやモグーリスタンのハンなどの様々さまざまなチンギス・カンの王家おうけから王女おうじょつまとしてむかえ、ティムール君主くんしゅはチンギス王家おうけむすめ婿むこにして最高さいこう将軍しょうぐんという立場たちばから支配しはいけん正統せいとうせいみとめさせていた。このためティムールのまご世代せだいからはははをチンギス・カン王女おうじょとするものすくなくなく、ムガル帝国ていこくひらいたバーブルもそのひとりである。このチンギス王家おうけむすめ婿むこという主張しゅちょうはティムールあさ君主くんしゅ一般いっぱんてきなものであるが、これにたいし、シャー・ルフはイスラムてき伝統でんとう、すなわちイスラムほうシャリーア)にもとづいた公正こうせい統治とうちしゃとしての君主くんしゅぞう協調きょうちょうしていたといわれ、アブー・サイードとその子孫しそんのサマルカンド政権せいけんはナクシュバンディー教団きょうだん宗教しゅうきょうてき権威けんいたよっていたと指摘してきされている。

政権せいけんささえた支配しはい階層かいそうは、セルジュークあさ以来いらいイラン高原こうげん遊牧ゆうぼくイスラム政権せいけん同様どうように、ターズィーク(タジク)とばれるペルシアけい定住ていじゅうみん出身しゅっしん行政ぎょうせい官僚かんりょうたちと、テュルクけい遊牧民ゆうぼくみん部族ぶぞくちょう遊牧ゆうぼく貴族きぞく)たちからなる将軍しょうぐん軍人ぐんじんたちからなっていた。ティムールあさはあくまでもモンゴル帝国ていこく伝統でんとうからっているのでがいして遊牧ゆうぼく貴族きぞく地位ちいたかくとられていたが、モンゴル帝国ていこくには遊牧ゆうぼく貴族きぞく地位ちいしめ称号しょうごうであったアミール将軍しょうぐん)がターズィークの高官こうかんさづけられた称号しょうごうになっているれい存在そんざいすることが指摘してきされており、ティムールあさ時代じだいには遊牧民ゆうぼくみん定住ていじゅうみん生活せいかつ文化ぶんか一体化いったいかすすみ、定住ていじゅうみん政権せいけんにおける地位ちい向上こうじょうしていた可能かのうせいたかい。

経済けいざいてきには遊牧ゆうぼく国家こっか伝統でんとうにのっとって通商つうしょう政策せいさく重視じゅうしした。とくにティムールあさはモンゴル帝国ていこく遊牧民ゆうぼくみんなかでも、とくに都市とし生活せいかつ馴染なじんだ西にしチャガタイ・ハンこくブルガリアばんwikidata[2]の「チャガタイじん」がおこした政権せいけんであったため、通商つうしょう基地きちとして重要じゅうよう都市とし整備せいびをきわめて積極せっきょくてきった。王朝おうちょうおおくの時代じだいにおいて首都しゅとであったサマルカンドはティムールの時代じだいからだい征服せいふくによって各地かくちから略奪りゃくだつされてきたとみ集積しゅうせきされ、さかんな建築けんちく事業じぎょう推進すいしんされて世界せかいでも屈指くっし大都市だいとしとして発展はってんした。

文化ぶんか

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ウルグ・ベクの天文台てんもんだいあと

ティムールあさ元来がんらい遊牧ゆうぼく政権せいけんでありながら都市としすぐれた文化ぶんか理解りかいしていたので、首都しゅとサマルカンドをはじ王族おうぞくたちが駐留ちゅうりゅうしたかく都市としではさかんな通商つうしょう活動かつどうささえられて学問がくもん芸術げいじゅつなどが花開はなひらいた。

とくに、自身じしん数学すうがく医学いがく天文学てんもんがくなどにつうじた学者がくしゃでもあったティムールのまごウルグ・ベクがサマルカンド知事ちじ時代じだいった文化ぶんか事業じぎょう名高なだかく、かれがサマルカンド郊外こうがい建設けんせつしたウルグ・ベク天文台てんもんだいでは当時とうじでは世界せかい最高さいこう水準すいじゅん天文てんもんひょう作成さくせいされていた。

また、都市としにはすぐれた宗教しゅうきょう教育きょういく施設しせつ建設けんせつされ、サマルカンドのグーリ・アミールびょうビービー・ハーヌム・モスクウルグ・ベク・マドラサ(イスラム学院がくいん)や、現在げんざいカザフスタン南部なんぶテュルキスタンホージャ・アフマド・ヤサヴィーびょうなどが名高なだかい。

しかし、このように都市とし文化ぶんかしたしみ、都市とし建築けんちくちからそそいだティムールあさ君主くんしゅたちも、一方いっぽうでは遊牧民ゆうぼくみん末裔まつえいであって、都市としなか窮屈きゅうくつ宮殿きゅうでんよりも都市とし周辺しゅうへんもうけた広大こうだい庭園ていえんなかくつろぐことをこのんだ。こうして大小だいしょう様々さまざま庭園ていえん建設けんせつされたが、サマルカンドのそれは、このまちまれそだったバーブルの自伝じでんバーブル・ナーマ』において詳細しょうさいえがかれ、その見事みごと様子ようす今日きょうつたえられている。

このようにティムールあさ時代じだいさかえた中央ちゅうおうアジアの宮廷きゅうてい文化ぶんか頂点ちょうてんたっしたのが、15世紀せいき後半こうはんのヘラート政権せいけんフサイン・バイカラ宮廷きゅうていにおいてであった。

ヘラートの宮廷きゅうていでは、モンゴル時代じだいのイランで中国ちゅうごく絵画かいが影響えいきょうけて発達はったつした細密さいみつミニアチュール)の技術ぎじゅつ移植いしょくされ、芸術げいじゅつてきにさらにたか水準すいじゅんたっした。フサインや、その乳兄弟ちきょうだい寵臣ちょうしんとして宰相さいしょうながつとめた有力ゆうりょくアミールのアリーシール・ナヴァーイーはいずれもすぐれた文化ぶんかじんで、かれらの文芸ぶんげい保護ほごによって文学ぶんがく繁栄はんえいした。

当時とうじ中央ちゅうおうアジアでは文化ぶんかペルシアであったが、ナヴァーイーらは当時とうじテュルクにペルシア語彙ごい修辞しゅうじほうくわえて洗練せんれんされた「チャガタイ」をもちいた文芸ぶんげい詩作しさくをもこのんでおこない、ティムールあさしたでチャガタイをアラビアやペルシア比肩ひけんしうるレベルまで文学ぶんがくてき地位ちい向上こうじょうさせた。チャガタイ散文さんぶん文学ぶんがくのひとつの頂点ちょうてんしめすのが、さきにもれたティムールあさ王子おうじバーブルの著書ちょしょ『バーブル・ナーマ』である。

シャー・ルフバイスングルのために献呈けんていされた『バイスングル・シャー・ナーメ』のいち場面ばめん

ティムールあさでは王朝おうちょうがわによる修史しゅうし事業じぎょうもまたさかんにおこなわれた。

シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記でんきである種類しゅるいの『勝利しょうりしょ』があらわされたのをはじめとして、シャー・ルフの時代じだいにはティムールあさチャガタイ・ウルス後継こうけい国家こっかとしての意識いしき一段いちだん顕著けんちょになった。シャー・ルフは歴史れきしハーフェズ・アブルー英語えいごばんらに『しゅう』をはじめとするイルハンあさ時代じだいからの歴史れきし情報じょうほうしょ資料しりょう総括そうかつめいじ、わせて『あつまり自体じたいもモンゴル帝国ていこくにおけるバルラス部族ぶぞくとチンギス・ハン関係かんけい強調きょうちょうしたかたちさい編集へんしゅうさせたバージョンを作成さくせいさせている。

この過程かていでモンゴルてき祖先そせん伝承でんしょう預言よげんしゃムハンマドとの血縁けつえんてき宗教しゅうきょうてき関係かんけい連動れんどうさせ強調きょうちょうする主張しゅちょうまれた。このたね主張しゅちょうはイルハンあさ時代じだい萌芽ほうががあったがティムールあさではより鮮明せんめいにされるようになった。

この影響えいきょうオスマンちょうサファヴィーあさシャイバーニーあさなどでも受継うけつがれていく。またこれらシャー・ルフ治世ちせいのヘラートでの修史しゅうし事業じぎょう伝統でんとうは、フサイン・バイカラの治世ちせいにナヴァーイーの保護ほご世界せかいてき通史つうしである『清浄せいじょうえん』をあらわしたミールホーンド英語えいごばんや、その外孫そとまごバーブルつかえた『伝記でんき伴侶はんりょ』の著者ちょしゃホーンダミールなどを輩出はいしゅつしている。

これらのたか文化ぶんか影響えいきょうは、ティムールあさ中央ちゅうおうアジアりょうをそのままいだシャイバーンあさのみならず、西にしサファヴィーあさみなみムガル帝国ていこくにまでおよんだ。こうしてティムールあさ滅亡めつぼうも、東方とうほうイスラム世界せかいばれる一帯いったい文化ぶんかけんすぐれたイスラム文化ぶんかつづいてゆく。また、ティムールあさ時代じだいすすんだ文学ぶんがく科学かがく言語げんごおなじくするアナトリアのトルコじんたちのあいだにもたらされたことが、当時とうじ勃興ぼっこう途上とじょうにあったオスマン帝国ていこく文化ぶんかあたえた影響えいきょうおおきい。

こうしたティムール帝国ていこく形成けいせいされ花開はなひらいたイスラーム文化ぶんかを、とくトルコ・イスラーム文化ぶんかという。

歴代れきだい君主くんしゅ

[編集へんしゅう]
  1. ティムール王家おうけはた
    ティムール(1370ねん - 1405ねん
  2. ハリール・スルタン(1405ねん - 1409ねん
  3. シャー・ルフ(1409ねん -1447ねん
  4. ウルグ・ベク(1447ねん - 1449ねん
  5. アブドゥッラティーフ(1449ねん - 1450ねん
  6. アブドゥッラー(1450ねん - 1451ねん
  7. アブー・サイード(1451ねん - 1469ねん

サマルカンド政権せいけん

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  1. スルタン・アフマド(1469ねん - 1494ねん、アブー・サイードの長男ちょうなん
  2. スルタン・マフムード(1494ねん - 1495ねん、アブー・サイードの次男じなん
  3. バイスングル(1495ねん -1496ねん、スルタン・マフムードの長男ちょうなん
  4. スルタン・アリー(1496ねん、スルタン・マフムードの次男じなん
  5. バイスングル(2かい、1497ねん
  6. バーブル(1497ねん - 1498ねんムガル帝国ていこく初代しょだい皇帝こうてい
  7. スルタン・アリー(2かい、1498ねん - 1500ねん

ヘラート政権せいけん

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  1. フサイン・バイカラ(1470ねん - 1506ねん
  2. バディー・ウッザマーンムザッファル・フサイン共同きょうどう統治とうち、1506ねん - 1507ねん

系図けいず

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ティムール1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャハーンギール
 
 
 
ウマル・シャイフ
 
 
 
ミーラーン・シャー
 
 
 
 
 
シャー・ルフ3
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムハンマド・スルタン
 
ピール・ムハンマド
 
バイカラ
 
ハリール・スルタン2
 
スルタン・ムハンマド
 
ウルグ・ベク4
 
イブラーヒーム
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
マンスール
 
 
 
 
 
アブー・サイード7
 
アブドゥッラティーフ5
 
アブドゥッラー6
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
フサイン・バイカラ8
 
スルタン・アフマド
 
スルタン・マフムード
 
ウルグ・ベク
 
ウマル・シャイフ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バディー・ウッザマーン
 
ムザッファル・フサイン
 
バイスングル
 
スルタン・アリー
 
 
 
バーブル
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ムガル帝国ていこく
 

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 加藤かとう和秀かずひで『ティームールあさ成立せいりつ研究けんきゅう』(北海道大学ほっかいどうだいがく図書としょ刊行かんこうかい, 1999ねん2がつ)、280ぺーじ
  2. ^ a b 西にしチャガタイ−ハンこく』 - コトバンク
  3. ^ 久保くぼ一之かずゆき「ティムール帝国ていこく」-『中央ちゅうおうアジア収録しゅうろく、p148-149

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 加藤かとう和秀かずひで『ティームールあさ成立せいりつ研究けんきゅう北海道大学ほっかいどうだいがく図書としょ刊行かんこうかい、1999ねん 
  • 久保くぼ一之かずゆき ちょ「ティムール帝国ていこく」、竺沙まさあきら間野まの英二えいじ へん中央ちゅうおうアジア同朋どうほうしゃ〈アジアの歴史れきし文化ぶんか8〉、1999ねん4がつ 

関連かんれん文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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