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マムルークあさ

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マムルークあさ
سلطنة المماليك (アラビア)
1250ねん - 1517ねん オスマン帝国
エジプト・エヤレト
マムルーク朝の国旗 マムルーク朝の国章
国旗こっきくにあきら
マムルーク朝の位置
マムルークあさ版図はんと
公用こうよう アラビア
オグズぐん
コプト
アラム
国教こっきょう イスラム教いすらむきょうスンナ
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうシーア
イスラム教いすらむきょうアラウィー
キリスト教きりすときょう
ユダヤきょう
首都しゅと カイロ
スルタン
1250ねん - 1250ねん シャジャル・アッ=ドゥッル初代しょだい
1260ねん - 1277ねんザーヒル・バイバルスだい5だい
1389ねん - 1390ねんサーリフ・ハーッジー
だい30だい・バフリー・マムルークあさ最後さいご
1390ねん - 1399ねんザーヒル・バルクーク
だい31だい・ブルジー・マムルークあさ初代しょだい
1516ねん - 1517ねんアシュラフ・トゥーマーンバーイ
最後さいご
変遷へんせん
トゥーラーン・シャー暗殺あんさつ 1250ねん
バフリー・マムルークあさからブルジー・マムルークあさ1390ねん
だいいちオスマン・マムルーク戦争せんそう1485ねん - 1491ねん
だいオスマン・マムルーク戦争せんそう1516ねん - 1517ねん
滅亡めつぼう1517ねん1がつ22にち
先代せんだい次代じだい
アッバース朝 アッバースあさ
アイユーブ朝 アイユーブあさ
エルサレム王国 エルサレム王国おうこく
アンティオキア公国 アンティオキア公国こうこく
トリポリ伯国 トリポリはくこく
キリキア・アルメニア王国 キリキア・アルメニア王国おうこく
オスマン帝国ていこく オスマン帝国
エジプト・エヤレト エジプト・エヤレト

マムルークあさ(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプト中心ちゅうしんシリアヒジャーズまでを支配しはいしたスンナイスラム王朝おうちょう1250ねん - 1517ねん)である。首都しゅとカイロ。そのスルターンマムルーク奴隷どれい身分みぶん騎兵きへい)を出自しゅつじとする軍人ぐんじんと、その子孫しそんからたためマムルークあさばれる。一貫いっかんした王朝おうちょうではあるが、いくつかの例外れいがいのぞ王位おうい世襲せしゅうおこなわれず、マムルーク軍人ぐんじんちゅう有力ゆうりょくしゃがスルターンにいた。

歴史れきし[編集へんしゅう]

建国けんこく[編集へんしゅう]

13世紀せいきなかばにフランス国王こくおうルイ9せいひきいるだい7かい十字軍じゅうじぐんがエジプトに侵攻しんこうしてきたさいアイユーブあさのスルタンサーリフ急死きゅうしした。サーリフ子飼こがいのマムルーク軍団ぐんだんバフリーヤ(バフリー・マムルーク)は、サーリフの夫人ふじんであった奴隷どれい身分みぶん出身しゅっしん女性じょせいシャジャル・アッ=ドゥッル指導しどうしゃとし、1250ねんマンスーラのたたかつづファルスクールのたたか英語えいごばんでルイ9せい捕虜ほりょとしてらえ十字軍じゅうじぐん撃退げきたいすると、サーリフの遺児いじであるがシャジャル・アッ=ドゥッルのではないトゥーラーン・シャーをクーデターによって殺害さつがいし、シャジャル・アッ=ドゥッルを女性じょせいスルターンにててしん政権せいけん樹立じゅりつした[1]女性じょせいスルターンにはマムルーク以外いがいムスリム(イスラム教徒きょうと)の抵抗ていこうつよかったため、同年どうねんにシャジャル・アッ=ドゥッルはバフリーヤのさい有力ゆうりょく軍人ぐんじんアイバク再婚さいこんし、アイバクにスルターンゆずった[2]以後いご、マムルーク出身しゅっしんしゃがエジプトのスルターンにつようになるので、シャジャル・アッ=ドゥッルもしくはアイバクをマムルークあさ初代しょだいスルターンにかぞえる。

アイバクはかつてのバフリーヤの同僚どうりょうマムルークを追放ついほうし、自身じしん所有しょゆうする子飼こがいのマムルークをてて権力けんりょく確立かくりつしたが、バフリーヤの支持しじけて権力けんりょく保持ほじしつづけていたシャジャル・アッ=ドゥッルとも対立たいりつし、暗殺あんさつされた[3]。シャジャル・アッ=ドゥッルもすぐに殺害さつがいされ、やがてアイバクのマムルークのあいだからクトゥズ台頭たいとうしてスルターンとなる[3]

1260ねんモンゴルフレグぐんがシリアにせまると(モンゴルのシリア侵攻しんこう英語えいごばん)、クトゥズはバフリーヤの指導しどうしゃバイバルス和解わかいし、アイン・ジャールートのたたかでフレグの将軍しょうぐんキト・ブカひきいるモンゴルぐんやぶった。このたたかいの帰路きろでクトゥズとふたた対立たいりつしたバイバルスはクトゥズを陣中じんちゅう殺害さつがいし、みずからスルターンとなった[4]

マムルークあさ事実じじつじょう建設けんせつしゃとなったバイバルスは、フレグのひらいたイルハンあさや、シリアに残存ざんそんする十字軍じゅうじぐん国家こっか残滓ざんしたたかい、死去しきょする1277ねんまでにマムルークあさ支配しはい領域りょういきをエジプトからシリアまでひろげた。

バフリー・マムルークあさ[編集へんしゅう]

アイバク以降いこうのマムルークあさ前期ぜんきは、バイバルスをはじめとしておおくがアイユーブあさのサーリフがそうめたバフリーヤの出身しゅっしんしゃめたため、この時期じきのマムルークあさはバフリー・マムルークあさばれる。

バイバルスの死後しご、その遺児いじバラカサラーミシュ相次あいついでスルタンにち、バイバルスによるスルターン世襲せしゅうはかられたが、バイバルスの同僚どうりょうでバフリーヤの第一人者だいいちにんしゃであった将軍しょうぐんカラーウーンによって、かれらは相次あいついではいされ、1279ねん、カラーウーンがみずからスルターンのについた[5]。カラーウーンはバイバルスの政策せいさく継承けいしょうして、エジプトの国家こっか建設けんせつすすめるとともにシリアでの軍事ぐんじ作戦さくせんさかんにおこない、1291ねん、カラーウーンのアシュラフ・ハリールのときシリアにおける十字軍じゅうじぐん勢力せいりょく最後さいご領土りょうどであったアッカー征服せいふくして[6]アイユーブあさサラーフッディーン以来いらいたい十字軍じゅうじぐん戦争せんそう最終さいしゅう勝利しょうりみちびいた。

しかし、強力きょうりょく君主くんしゅであったカラーウーンの死後しご、マムルークあさ中央ちゅうおう政治せいじ混乱こんらんした。アシュラフは在位ざいいわずかにして殺害さつがいされ[7]おさなおとうとナースィル・ムハンマドてられるが、やがてカラーウーン子飼こがいのマムルークたちとアシュラフのマムルークたちとのあいだ政権せいけんめぐあらそいがおこり、ナースィルは廃位はいいされた[8]。やがてカラーウーンのマムルークが勝利しょうりしてナースィルは実権じっけんのないスルターンとして復位ふくいさせられ、1310ねんみずからクーデターをこしてようやく親政しんせい確立かくりつした[9]

ナースィルは自身じしん子飼こがいのマムルークを登用とうよう領内りょうない検地けんちおこなって忠実ちゅうじつアミール(マムルークの将軍しょうぐん)にイクター徴税ちょうぜいけん)を授与じゅよし、絶対ぜったいてき支配しはいけん確立かくりつした。ナースィルのもとでジョチ・ウルス同盟どうめいむすんでイル・ハンこくとの和解わかいもはかられ、マムルークあさ内外ないがい情勢じょうせい安定あんていし、首都しゅとカイロは国際こくさい商業しょうぎょう都市とし・イスラム世界せかい代表だいひょうする学術がくじゅつ都市としとしてさかえた。

1324ねんころメッカ巡礼じゅんれい途上とじょうだったマリ帝国ていこくマンサ・ムーサおうカイロり、ナースィルに大量たいりょうかねおくものをしたことでカイロのかね相場そうば下落げらくしたとつたえられている。そのためか、晩年ばんねんのナースィルは奢侈しゃしはしって財政ざいせいかたぶかせ、マムルークのちから強大きょうだいになった。

ナースィルの死後しごかれ子飼こがいのアミールたちはその子孫しそんをスルターンにてて傀儡かいらいとし、実権じっけんなきカラーウーン世襲せしゅう支配しはいが40ねんつづいた[10]。もっとも有力ゆうりょくなアミールはだいアミールアターベクねて国政こくせい実権じっけんにぎったが、その地位ちいめぐ政争せいそうはげしく、スルターンやだいアミールの失脚しっきゃくかえ発生はっせいした。

ブルジー・マムルークあさ[編集へんしゅう]

1382ねんバルクークはカラーウーンのスルターンをはいしてみずか王位おういいた[11]。バルクークはチェルケスじん主体しゅたいのブルジー軍団ぐんだん出身しゅっしんのマムルークで、バルクーク以降いこう、マムルークあさ主体しゅたいとなるマムルークがそれまでのバフリー・マムルークからブルジー・マムルークにうつるため、この時期じきのマムルークあさをブルジー・マムルークあさあるいはチェルケス・マムルークあさんでいる。

ブルジー・マムルークあさでは、スルタンの世襲せしゅうおこなわれなくなり、スルタンは有力ゆうりょくアミールのあいだから互選ごせんえらばれる第一人者だいいちにんしゃとなっていた。この制度せいどのため、アミールたちはスルタン候補こうほとなる有力ゆうりょくアミールのもとで軍閥ぐんばつ形成けいせいし、軍閥ぐんばつ同士どうし派閥はばつあらそいによってマムルークあいだ内紛ないふんはいっそうはげしくならざるをなかった。

15世紀せいきにはペスト流行りゅうこうをきっかけにカイロの繁栄はんえいかげりがはじめ、マムルークあさささえたエジプトの経済けいざい次第しだい沈降ちんこうかった。16世紀せいき初頭しょとうにはインド洋いんどよう貿易ぼうえきポルトガルじん参入さんにゅうし、1509ねんにはマムルークあさ海軍かいぐんインドディーウおきでポルトガルのフランシスコ・デ・アルメイダひきいる艦隊かんたいやぶれた(ディーウおき海戦かいせん[12]陸上りくじょうではオスマンちょうとの対立たいりつふかまり(オスマン・マムルーク戦争せんそう)、1516ねんきたシリアのアレッポ北方ほっぽうおこなわれたマルジュ・ダービクのたたかセリム1せいひきいるオスマンぐん大敗たいはいきっした[13]翌年よくねん、セリム1せいはカイロを征服せいふくし(リダニヤのたたか[14]、マムルークあさ滅亡めつぼうした。

マムルークあさくにせい[編集へんしゅう]

マムルークあさのスルタンは世襲せしゅうせずマムルーク出身しゅっしんであったため、支配しはいのエジプトにおいてはアラブけい外来がいらいしゃであった。そのため、バイバルス時代じだいアッバースあさ末裔まつえいムスタンスィル2せい)を首都しゅとカイロで名目めいもくじょうカリフ[15](マムルークあさにおけるカリフとスルタンの関係かんけいは、日本にっぽんにおける天皇てんのう征夷大将軍せいいたいしょうぐん関係かんけいカトリック教会きょうかいにおける教皇きょうこう神聖しんせいローマ皇帝こうてい関係かんけいたとえられることもある。)、またイスラム教いすらむきょうさんだい聖地せいちであるメッカ(マッカ)、メディナ(マディーナ)、エルサレム(クドゥス)の保護ほごしゃとしてイスラムの慣習かんしゅうのっとった支配しはいしゃとしての権威けんい保証ほしょうし、当時とうじのスンナイスラム世界せかいにおける盟主めいしゅとなった。

ムタワッキル3せいアッバースあさ最後さいごカリフ)は、1517ねんにマムルークあさほろぼされたときに、オスマン帝国ていこく皇帝こうていセリム1せいによってイスタンブールられたのち監禁かんきんされて子孫しそんへのカリフ継承けいしょう途絶とだえて消滅しょうめつした。

アイユーブあさからバフリー・マムルークちょうのマムルークは、テュルクけい遊牧民ゆうぼくみんやモンゴルじんクルドじん中心ちゅうしんで、ブルジー・マムルークちょうからオスマンちょうにはチェルケスじんなどきたカフカス出身しゅっしんものおおかった。奴隷どれい商人しょうにんでエジプトにれてこられたかれらはスルタンや有力ゆうりょくアミールによって購入こうにゅうされるとナイルがわ中州なかす(バフル)やカイロの城砦じょうさい(ブルジ)にもうけられた兵営へいえい軍事ぐんじ教練きょうれん[16]奴隷どれい身分みぶんから解放かいほうされてマムルーク軍団ぐんだん編入へんにゅうされ、とく能力のうりょくみとめられたものはスルタンの側近そっきんからじゅうにんちょうよんじゅうにんちょうひゃくにんちょうとアミールのへと昇進しょうしんすることができ[17]宮廷きゅうてい官職かんしょく地方ちほう総督そうとくしょくまかせられる有力ゆうりょくアミールへのみちすべてのマムルークにひらかれていた。かれらは解放かいほう奴隷どれいとしての購入こうにゅうしゃである主人しゅじんつよ主従しゅうじゅう関係かんけいち、またおな主人しゅじんをもつマムルーク同士どうしとは同門どうもんとしてかた同門どうもん意識いしきむすばれた、家族かぞくてき結合けつごうほこった。スルタンはかつておな主人しゅじんいただいた同門どうもんのマムルークたちの第一人者だいいちにんしゃであり、スルタン交代こうたいにあたっては、ぜんスルタンの盟友めいゆうぜんスルタン自身じしん子飼こがいのマムルークの有力ゆうりょくしゃってしんスルタンとなり、ふたたびスルタンを中心ちゅうしんとする同門どうもん意識いしきもとづいた人的じんてき結合けつごうきずきあげることによってマムルークあさ維持いじされた。

歴代れきだいスルターン[編集へんしゅう]

バフリー・マムルークあさ[編集へんしゅう]

  1. シャジャル・アッ=ドゥッルおんな)(在位ざいい1250ねん
  2. ムイッズ・アイバク在位ざいい1250ねん - 1257ねん
  3. マンスール・アリー在位ざいい1257ねん - 1259ねん
  4. ムザッファル・クトゥズ在位ざいい1259ねん - 1260ねん
  5. ザーヒル・バイバルス在位ざいい1260ねん - 1277ねん
  6. サイード・バラカハーン在位ざいい1277ねん - 1279ねん
  7. アーディル・サラーミシュ在位ざいい1279ねん
  8. マンスール・カラウーン在位ざいい1279ねん - 1290ねん
  9. アシュラフ・ハリール在位ざいい1290ねん - 1293ねん
  10. ナースィル・ムハンマド在位ざいい1293ねん - 1294ねん
  11. アーディル・キトブガー在位ざいい1294ねん - 1296ねん
  12. マンスール・ラージーン在位ざいい1296ねん - 1299ねん
  13. ナースィル・ムハンマド復位ふくい)(在位ざいい1299ねん - 1309ねん
  14. ムザッファル・バイバルス在位ざいい1309ねん - 1310ねん
  15. ナースィル・ムハンマド復位ふくい)(在位ざいい1310ねん - 1341ねん
  16. マンスール・アブー=バクル在位ざいい1341ねん
  17. アシュラフ・クジュク在位ざいい1341ねん - 1342ねん
  18. ナースィル・アフマド在位ざいい1342ねん
  19. サーリフ・イスマーイール在位ざいい1342ねん - 1345ねん
  20. カーミル・シャーバーン在位ざいい1345ねん - 1346ねん
  21. ムザッファル・ハーッジー在位ざいい1346ねん - 1347ねん
  22. ナースィル・ハサン在位ざいい1347ねん - 1351ねん
  23. サーリフ・サーリフ在位ざいい1351ねん - 1354ねん
  24. ナースィル・ハサン復位ふくい)(在位ざいい1354ねん - 1361ねん
  25. マンスール・ムハンマド在位ざいい1361ねん - 1363ねん
  26. アシュラフ・シャーバーン在位ざいい1363ねん - 1377ねん
  27. マンスール・アリー在位ざいい1377ねん - 1381ねん
  28. サーリフ・ハーッジー在位ざいい1381ねん - 1382ねん
  29. ザーヒル・バルクーク在位ざいい1382ねん - 1389ねん
  30. サーリフ・ハーッジー在位ざいい1389ねん - 1390ねん

ブルジー(チェルケス)・マムルークあさ[編集へんしゅう]

  1. ザーヒル・バルクーク在位ざいい1390ねん - 1399ねん
  2. ナースィル・ファラジュ在位ざいい1399ねん - 1405ねん
  3. マンスール・アブド・アルアズィーズ在位ざいい1405ねん
  4. ナースィル・ファラジュ復位ふくい)(在位ざいい1405ねん - 1412ねん
  5. ムアイヤド・シャイフ在位ざいい1412ねん - 1421ねん
  6. ムザッファル・アフマド在位ざいい1421ねん
  7. ザーヒル・タタール在位ざいい1421ねん
  8. サーリフ・ムハンマド在位ざいい1421ねん - 1422ねん
  9. アシュラフ・バルスバーイ在位ざいい1422ねん - 1438ねん
  10. ザーヒル・ジャクマク在位ざいい1438ねん - 1448ねん
  11. アズィーズ・ユースフ在位ざいい1448ねん
  12. ザーヒル・ジャクマク復位ふくい)(在位ざいい1448ねん - 1453ねん
  13. マンスール・ウスマーン在位ざいい1453ねん
  14. アシュラフ・イーナール在位ざいい1453ねん - 1460ねん
  15. ムアイヤド・アフマド在位ざいい1460ねん - 1461ねん
  16. ザーヒル・フシュカダム在位ざいい1461ねん - 1467ねん
  17. ザーヒル・ヤルバーイ在位ざいい1467ねん - 1468ねん
  18. ザーヒル・ティムルブガー在位ざいい1468ねん
  19. アシュラフ・カーイトバーイ在位ざいい1468ねん - 1495ねん
  20. ナースィル・ムハンマド在位ざいい1495ねん - 1498ねん
  21. ザーヒル・カーンスーフ在位ざいい1498ねん - 1499ねん
  22. アシュラフ・ジャーンバラート在位ざいい1499ねん - 1501ねん
  23. アーディル・トゥーマーンバーイ在位ざいい1501ねん
  24. アシュラフ・カーンスーフ・ガウリー在位ざいい1501ねん - 1516ねん
  25. アシュラフ・トゥーマーンバーイ在位ざいい1516ねん - 1517ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 大原おおはら、pp. 10 - 11
  2. ^ 大原おおはら、pp. 12 - 13
  3. ^ a b 大原おおはら、p. 17
  4. ^ 大原おおはら、p. 25
  5. ^ 大原おおはら、pp. 61 - 62
  6. ^ 大原おおはら、p. 48
  7. ^ 大原おおはら、p. 65
  8. ^ 大原おおはら、p. 67
  9. ^ 大原おおはら、pp. 71 - 72
  10. ^ 大原おおはら、p. 75
  11. ^ 大原おおはら、p. 81
  12. ^ 大原おおはら、p. 297
  13. ^ 大原おおはら、pp. 178 - 179
  14. ^ 大原おおはら、p. 184
  15. ^ 大原おおはら、p. 196
  16. ^ 大原おおはら、p. 220
  17. ^ 大原おおはら、p. 224

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 大原おおはら与一よいちろう 『エジプト マムルーク王朝おうちょう近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1976ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]