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バルクーク

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
バルクーク
الظاهر سيف الدين برقوق
ブルジー・マムルークあさスルターン
バルクークのだいいち治世ちせい鋳造ちゅうぞうされた硬貨こうか
在位ざいい 1382ねん - 1389ねん
1390ねん - 1399ねん

死去しきょ 1399ねん6がつ20日はつか
子女しじょ ファラジュ
アブド・アルアズィーズ
イブラヒム
ムハンマド
王朝おうちょう ブルジー・マムルークあさ
父親ちちおや アナス=ブン=アブドゥッラー
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バルクークアラビア: الملك الظاهر سيف الدين برقوق‎ Al-Malik Az-Ẓāhir Sayf ad-Dīn Barqūq、? - 1399ねん6がつ20日はつか)は、 マムルークあさスルターン君主くんしゅ在位ざいい1382ねん - 1389ねん1390ねん - 1399ねん)。

チェルケスじん出身しゅっしんで、マムルーク奴隷どれい軍人ぐんじん)としてマムルークあさ将軍しょうぐん購入こうにゅうされた。1382ねんにスルターン・カラーウーン一族いちぞくをはじめとするバフリー・マムルーク(アイユーブあさのスルターン・サーリフ購入こうにゅうしたマムルーク)出身しゅっしんしゃ構成こうせいされる王朝おうちょうバフリー・マムルークあさ)にわる、ブルジー・マムルーク(チェルケスじん構成こうせいされるマムルーク)がだい部分ぶぶんめる王朝おうちょうブルジー・マムルークあさ)を創始そうしした。

名前なまえ由来ゆらい

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バルクークの本来ほんらい名前なまえチェルケスで「ひつじい」を意味いみする「マッリー・クーク」だった[1]奴隷どれいとしてりにされたとき、マッリー・クークをアラビアおとうつした「バルクーク(アラビアでプラム(すもも)の[2])」と名付なづけられた。

バルクークはかれんだ奴隷どれい商人しょうにんファフルッディーン・ウスマーン・アル=アスアルディーを尊敬そんけいし、かれにあやかってアル=ウスマーニーとしょうしていた[3]

生涯しょうがい

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若年じゃくねん

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バルクークは黒海こっかい沿岸えんがんクリミア半島くりみあはんとう出身しゅっしん[3]、チェルケスじんのアナス=ブン=アブドゥッラーのとしてまれた[4]奴隷どれい商人しょうにん奴隷どれい商人しょうにんファフルッディーン・ウスマーン・アル=アスアルディーにより、エジプトカイロ奴隷どれいとしてりにされる。1362ねんごろ、バルクークはシャーバーン2せいのアタベク(そう司令しれいかん)として実権じっけんにぎっていたヤルブガー・アルハーッサキーにられた[4]

1367ねんにヤルブガー・アルハーッサキーが暗殺あんさつされたのちかれ所有しょゆうするマムルークは解散かいさんさせられ、よく1368ねんにバルクークは同僚どうりょうとともにカラク獄舎ごくしゃれられ、3年間ねんかんをカラクでごした[5]釈放しゃくほうされたバルクークはダマスカス総督そうとく仕官しかんし、シャーバーン2せいがヤルブガー配下はいかのマムルークたちの帰参きさんみとめるとエジプトに帰国きこくする。1376ねんにマムルークたちがくわだてたシャーバーン2せい追放ついほうにはバルクークもかかわっており、シャーバーン2せい死後しごマンスール・アリー擁立ようりつされるとかれつかえた[6]

即位そくいまえ

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マンスール・アリー即位そくい、アタベクとなったアイナバク・アルバダリーが国政こくせい実権じっけんにぎり、反対はんたい将軍しょうぐんたちに圧力あつりょくくわえられた[7]。バルクークはアイナバクから厚遇こうぐうされ、かれ抜擢ばってきされてよんじゅう隊長たいちょう地位ちい昇進しょうしんした[4]。アイナバクのせんせいたいして各地かくち反乱はんらんこり、ダマスカスでは総督そうとくのタシュタムルが反乱はんらんこした[6]。バルクークはアイナバクにダマスカスの反乱はんらん鎮圧ちんあつ指揮しきるようにすすめ、1377ねんにアイナバクはマンスール・アリーをともなってタシュタムルの討伐とうばつかった。バルクークは討伐とうばつたい従軍じゅうぐんしたヤルブガー・アンナーセリーやバラカ・アルジュバーニーなどの将軍しょうぐんとアイナバクへの反乱はんらん共謀きょうぼうし、アイナバクは進軍しんぐんちゅうきた反乱はんらんによって失脚しっきゃくした[8]

1378ねんにバルクークはアタベクの地位ちいき、バルクークの盟友めいゆうであるバラカ・アルジュバーニーはスルターンの親衛隊しんえいたいちょう、ヤルブガー・アンナーセリーはトリポリ総督そうとくにんじられた。バルクークと敵対てきたいする人間にんげんはバルクークとバラカの離間りかんくわだてて、バルクークもバラカがスルターン獲得かくとく障害しょうがいになるとかんがえるようになる[9]1380ねんにバルクークはバラカとの戦闘せんとう勝利しょうりし、バラカをアレクサンドリア獄舎ごくしゃ投獄とうごくし、暗殺あんさつした。

1381ねん一族いちぞくれたちちのアナスとアスアルディーがカイロにあらわれ、バルクークはよろこんでかれらをむかれた[9]。このときある将軍しょうぐん自分じぶん地位ちい領地りょうちをアナスにゆずることをもう、バルクークはかれさるれ、報酬ほうしゅうあたえた。同年どうねんにアスアルディーがくなり、バルクークは敬愛けいあいする人物じんぶつふかかなしんだ[3]

バラカを処刑しょけいしたすうげつにマンスール・アリーが病死びょうしし、民衆みんしゅうあいだにバルクークがあらたなスルターンとなるうわさながれた[10]有力ゆうりょくしゃたちはヤルブガー・アルハーッサキーのマムルークだったバルクークの即位そくい反対はんたいし、バルクークはマンスール・アリーのおとうとハーッジー2せい擁立ようりつし、バフリー・マムルークの勢力せいりょく減衰げんすいった[10]。ハーッジー2せい即位そくい、バルクークはアタベク・摂政せっしょうとして国政こくせい実権じっけんにぎり、自身じしん支持しじしゃ要職ようしょくけた。また民衆みんしゅう支持しじるために一部いちぶ税金ぜいきん廃止はいしされ、貨幣かへい良質りょうしつのものに改鋳かいちゅうされた[11]

バルクークの即位そくいによって地位ちい領地りょうちうしなうバフリー・マムルークたちはバルクークの追放ついほうくわだてたが、計画けいかく事前じぜん露見ろけんし、首謀しゅぼうしゃたちは失脚しっきゃくした。腹心ふくしん部下ぶかたちはバルクークに即位そくいすすめたが、バルクークはバフリー・マムルークたちの反撃はんげきあやぶんで即位そくいをためらっていた[11]。しかし、バフリー・マムルーク出身しゅっしん有力ゆうりょくしゃたちが相次あいついでくなり、バルクークはスルターンへの即位そくい決意けついする[11]。1382ねん11月にカリフ法官ほうかん将軍しょうぐん参列さんれつする会議かいぎでハーッジー2せい廃位はいいとバルクークの即位そくい満場一致まんじょういっち議決ぎけつされ、11月26にち[12]バルクークはスルターンに即位そくいする。即位そくいの2かげつまえちちのアナスはぼっしていた[9]

だいいち即位そくい

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即位そくい、バルクークはカリフや法官ほうかんたちに恩賞おんしょうあたえ、主要しゅよう支持しじしゃ政府せいふ要職ようしょくけた。敵対てきたいしゃたいしては当時とうじ慣習かんしゅうしたがって免職めんしょく投獄とうごくなどの処罰しょばつあたえたが、バフリー・マムルークの排除はいじょ性急せいきゅうすすめようとはせず、かれらの懐柔かいじゅうはかってスウドーン・アルファハリー、ヤルブガー・アンナーセリーらを要職ようしょく抜擢ばってきした[13]政情せいじょう安定あんていするとバルクークは方針ほうしん転換てんかんしてブルジー・マムルークを起用きようし、バフリー・マムルークたちの反乱はんらん相次あいついできる[14]1383ねん9月、バルクークを暗殺あんさつしてカリフ・ムタワッキル1せいあらたなスルターンに擁立ようりつするバフリー・マムルークの計画けいかく発覚はっかくする。首謀しゅぼうしゃ一人ひとりカルト・ブン・ウマル・アットルコマーニーを処刑しょけいし、ムタワッキル1せい処刑しょけいおこなおうとしたが、法官ほうかんたちの反対はんたいって処罰しょばつ投獄とうごく領地りょうち俸禄の没収ぼっしゅうめた[15]。バルクークはムタワッキル1せいはいしてワースィク2せいあらたなカリフに擁立ようりつし、バフリー・マムルークへの圧力あつりょくをよりつよめた[14]

1382ねんのバルクークの即位そくい直後ちょくごイフリーキヤ現在げんざいチュニジアアルジェリア東部とうぶにあたる地域ちいき)の歴史れきしイブン・ハルドゥーンがエジプトをおとずれていた。よく1383ねんにハルドゥーンと面会めんかいしたバルクークはかれ才能さいのうみとめ、保護ほご約束やくそくした[16]。バルクークはハルドゥーンからハフスあさマリーンあさなどのきたアフリカの国々くにぐに情勢じょうせい外交がいこう情報じょうほう[17]、ハルドゥーンにマグリブさん軍馬ぐんば輸入ゆにゅうについて意見いけんもとめた[18]1384ねん8がつには、ハルドゥーンをマーリクだい法官ほうかん任命にんめいした[19]

1386ねんマルディンから中央ちゅうおうアジアティムール帝国ていこく軍隊ぐんたいタブリーズ破壊はかいした報告ほうこくとどけられる[20]。イラクのジャライルあさからもティムール進軍しんぐんらせがとどき、ティムールから降伏ごうぶく勧告かんこくけられたスィヴァスエルテナこうこく英語えいごばんはマムルークあさオスマン帝国ていこくたすけをもとめた[21]。エルテナこうこく君主くんしゅブルハネッディンの要請ようせいこたえ、バルクークはディヤルバクルぐんおくった。マムルークぐん進軍しんぐんちゅうくろひつじあさカラ・ユースフ英語えいごばんやぶれたティムールぐん敗残はいざんへいらえ、1388ねんにカイロに帰国きこくした[22]同年どうねんにオスマン帝国ていこくムラト1せいからティムールの動向どうこうへの注意ちゅういうなが使者ししゃおくられ、バルクークはオスマン帝国ていこくへの協力きょうりょく約束やくそくした[23]

失脚しっきゃく

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バルクークはアレッポの総督そうとく任命にんめいしたヤルブガー・アンナーセリーをとく警戒けいかいし、1385ねんかれ総督そうとくしょくから解任かいにんして投獄とうごくした[14]くヤルブガーを釈放しゃくほうし、1387ねんマラティヤ総督そうとくミンターシュの反乱はんらん鎮圧ちんあつするため、かれふたたびアレッポの総督そうとく任命にんめいした[24]。1388ねんにアレッポに赴任ふにんしたヤルブガーはバルクークに反旗はんきひるがえし、ミンターシュ、シリア各地かくち総督そうとくベドウィンもヤルブガーに合流ごうりゅうし、反乱はんらんだい規模きぼなものとなる[24]。バルクークがおくった討伐とうばつたいおおくは反乱はんらんぐん寝返ねがえり、ダマスカスは反乱はんらんぐんちる。敗戦はいせんのちにバルクークはカイロでの支持しじしゃやすため、ムタワッキル1せい復位ふくいさせ、市場いちばぜい廃止はいししたが効果こうかがらなかった[25]。カイロ市民しみん配下はいかのマムルークにいしげて反乱はんらんぐん同調どうちょうはじめ、配下はいかのマムルークが逃走とうそう離反りはんするにおよんでバルクークは降伏ごうぶく決意けついする[26][27]。バルクークの退位たいいはハーッジー2せい復位ふくいし、1389ねん5がつ31にちにヤルブガーから助命じょめいされたバルクークはひそかにカイロの城砦じょうさいから脱走だっそうした。ハーッジー2せい復位ふくいにアタベクとなったヤルブガーはバルクーク配下はいかのマムルークをカイロから追放ついほうし、カイロ市内しない潜伏せんぷくしたバルクークの捜索そうさくおこなった。仕立したひそんでいたバルクークはらえられてカラクの獄舎ごくしゃおくられるが、ヤルブガーは将来しょうらいミンターシュとの戦争せんそうきたさいにバルクークを味方みかたけようとかんがえ、ヤルブガーの命令めいれいけたカラクの総督そうとくはバルクークを丁重ていちょうあつかった[28][29]

実権じっけんにぎったヤルブガー・アンナーセリーは肥沃ひよく農地のうち自分じぶん領地りょうちとして確保かくほし、協力きょうりょくしゃであるミンターシュには収入しゅうにゅうすくない領地りょうちあたえた[30]。このためカイロに潜伏せんぷくしていたバルクーク配下はいかのマムルークを味方みかたけたミンターシュが反乱はんらんこし、ヤルブガーをアレクサンドリアの獄舎ごくしゃ投獄とうごくした。バルクーク配下はいかのマムルークはミンターシュから褒賞ほうしょうあたえられず、かれがバルクークを釈放しゃくほうする約束やくそく反故ほごにしたため、ミンターシュの党派とうは攻撃こうげきした[31]。カラクの総督そうとくはヤルブガーの命令めいれいどおりにバルクークを釈放しゃくほうし、バルクークは民衆みんしゅうたすけをけてカラクを脱出だっしゅつする。ダマスカスにすすむバルクークのもとには続々ぞくぞく支持しじしゃあつまり、進軍しんぐんちゅう村落そんらく住民じゅうみんから食料しょくりょう提供ていきょうけた[32]

1390ねん1がつ2にち[33]にバルクークはダマスカス近郊きんこうでミンターシュのぐんやぶり、従軍じゅうぐんしていたハーッジー2せい、ムタワッキル1せい法官ほうかん捕虜ほりょとした[32]。バルクーク、ムタワッキル1せい法官ほうかん協議きょうぎ結果けっか、ハーッジー2せい退位たいいとバルクークの復位ふくい決定けっていされた[32]。2月1にちにバルクークはカイロに凱旋がいせんし、ミンターシュに投獄とうごくされていた将軍しょうぐんたちを釈放しゃくほうした[34]自分じぶん見捨みすてた将軍しょうぐんたちのほとんどに反乱はんらん以前いぜん地位ちい保証ほしょうしたが、ミンターシュが発行はっこうしたバルクークに宣戦せんせん布告ふこくをする文書ぶんしょ署名しょめいをしたイブン・ハルドゥーンらの法官ほうかんたちを免職めんしょくした[35]

だい即位そくい

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失脚しっきゃくしたミンターシュはシリアでバルクークにたいする反抗はんこうつづけており、1391ねんにバルクークはミンターシュの逃走とうそうたすけたヤルブガー・アンナーセリーを処刑しょけいする。ミンターシュの協力きょうりょくしゃであるベドウィンの族長ぞくちょうヌイールが領地りょうちえにミンターシュをわたすことをもう、バルクークは提案ていあんれた。1393ねんにアレッポの総督そうとくわたされたミンターシュは斬首ざんしゅされ、かれくびはカイロのザウィーラもんかかげられた[36]。バルクークはバフリー・マムルークを追放ついほうし、かれらの領地りょうち同郷どうきょうのブルジー・マムルークにあたえたが、なおも反乱はんらん対処たいしょしなければならなかった[37]

1392ねんにオスマン帝国ていこくバヤズィト1せいから使者ししゃおくられ、ティムールの侵攻しんこうそなえることをすすめられた。また、このときやまいなやむバヤズィト1せい医師いし派遣はけん要請ようせいし、バルクークは医師いしシャムスッディーンをオスマンの宮廷きゅうてい派遣はけんした[23]

1393ねんにティムールにやぶれて首都しゅとバグダードわれたジャライルあさ君主くんしゅアフマド・ブン・アウィスがカイロに亡命ぼうめいし、バルクークはアフマドをむかれてかれめいつまむかえた。バルクークはティムールとの戦闘せんとうそなえて軍隊ぐんたい再編さいへん着手ちゃくしゅし、ティムールのもとからつよ語調ごちょう降伏ごうぶくもとめる書簡しょかんおくられた[38]1394ねんにバルクークはアフマドに軍隊ぐんたい物資ぶっしあたえてバグダードにおくし、カラ・ユースフの支援しえんけたアフマドはバグダードを奪回だっかいした[39]同年どうねんにエジプトのベドウィンがカラク方面ほうめんのベドウィンと連携れんけいしての、バルクークがティムールとのたたかいでカイロを留守るすにするすきをついた反乱はんらんくわだてた[37]よく1395ねんにバルクークはみずからティムール討伐とうばつぐんひきいてアレッポにすすみ、情勢じょうせい静観せいかんした[39]。ティムールが本国ほんごくげたため、年末ねんまつにバルクークもカイロに帰国きこくした[39][40]

1398ねんだい厩舎きゅうしゃ長官ちょうかんヌールーズ・アルハーフェズィーが反乱はんらんこす。

1398ねんにバルクークはファラジュアブド・アルアズィーズ、イブラヒムへのスルターン継承けいしょう決定けっていし、かれらを後見こうけんする摂政せっしょういん設置せっちした[41]。1399ねん6がつ20日はつか、バルクークは食中毒しょくちゅうどくによって病没びょうぼつする[42]

政策せいさく

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バルクークは、政治せいじてきつよ影響えいきょうりょくゆうするスルターンの近衛このえマムルークへい統制とうせいこころみた。以前いぜんのスルターンたちのマムルークを追放ついほうし、即位そくいまえからの子飼こがいのマムルークを近衛このえたい編入へんにゅうし、かれらに配給はいきゅうする俸給ほうきゅう物資ぶっし管理かんりするムフラドちょう設置せっちすることで、近衛このえマムルークの安定あんていはかった[43]

バルクークは即位そくいまえから私有地しゆうち賃借ちんしゃく保有ほゆうしていたが、即位そくい設置せっちしたスルターンの私有しゆう不動産ふどうさん管理かんりするアムラークちょう機能きのうによって、よりおおくの財産ざいさん貯蓄ちょちくすることができた[44]財政ざいせい再建さいけんのため、国庫こっこ収入しゅうにゅうげんである国有こくゆう流出りゅうしゅつめようとしたが、決定的けっていてき成果せいかられなかった[45]

配下はいかのマムルーク

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バルクーク子飼こがいのマムルークのうち、以下いかの5めいがマムルークあさのスルターンの地位ちいいた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 佐藤さとう『マムルーク 異教いきょう世界せかいからきたイスラムの支配しはいしゃたち』、132ぺーじ
  2. ^ Petry, Carl F., ed. (2022), Synopsis of Events, Cambridge University Press, pp. 5–52, ISBN 978-1-108-47104-6, https://www.cambridge.org/core/books/mamluk-sultanate/synopsis-of-events/EFAB029E15449EA793225265E08B9226 2023ねん8がつ12にち閲覧えつらん 
  3. ^ a b c 佐藤さとう『マムルーク 異教いきょう世界せかいからきたイスラムの支配しはいしゃたち』、131ぺーじ
  4. ^ a b c 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、79ぺーじ
  5. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、77,79ぺーじ
  6. ^ a b 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、78-79ぺーじ
  7. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、78ぺーじ
  8. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、79-80ぺーじ
  9. ^ a b c 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、80ぺーじ
  10. ^ a b 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、78,80ぺーじ
  11. ^ a b c 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、81ぺーじ
  12. ^ 五十嵐いがらし中世ちゅうせいイスラーム国家こっか財政ざいせい寄進きしん 後期こうきマムルークあさ研究けんきゅう』、41ぺーじ
  13. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、81-82ぺーじ
  14. ^ a b c 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、82ぺーじ
  15. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、205ぺーじ
  16. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、151,457ぺーじ
  17. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、152ぺーじ
  18. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、153ぺーじ
  19. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、155ぺーじ
  20. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、107-108ぺーじ
  21. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、108ぺーじ
  22. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、108-109ぺーじ
  23. ^ a b 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、166ぺーじ
  24. ^ a b 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、82-83ぺーじ
  25. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、83ぺーじ
  26. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、84ぺーじ
  27. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、165-166ぺーじ
  28. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、85ぺーじ
  29. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、166ぺーじ
  30. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、86ぺーじ
  31. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、86-87ぺーじ
  32. ^ a b c 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、87ぺーじ
  33. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、167ぺーじ
  34. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、167ぺーじ
  35. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、167-171ぺーじ
  36. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、88ぺーじ
  37. ^ a b 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、88-89ぺーじ
  38. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、109-110ぺーじ
  39. ^ a b c 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、110ぺーじ
  40. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、175ぺーじ
  41. ^ 大原おおはら『エジプト マムルーク王朝おうちょう』、89ぺーじ
  42. ^ 森本もりもと『イブン=ハルドゥーン』、172ぺーじ
  43. ^ 五十嵐いがらし中世ちゅうせいイスラーム国家こっか財政ざいせい寄進きしん 後期こうきマムルークあさ研究けんきゅう』、45-48ぺーじ
  44. ^ 五十嵐いがらし中世ちゅうせいイスラーム国家こっか財政ざいせい寄進きしん 後期こうきマムルークあさ研究けんきゅう』、72-73ぺーじ
  45. ^ 五十嵐いがらし中世ちゅうせいイスラーム国家こっか財政ざいせい寄進きしん 後期こうきマムルークあさ研究けんきゅう』、40-44ぺーじ
  46. ^ 五十嵐いがらし中世ちゅうせいイスラーム国家こっか財政ざいせい寄進きしん 後期こうきマムルークあさ研究けんきゅう』、45-46ぺーじ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 五十嵐いがらし大介だいすけ中世ちゅうせいイスラーム国家こっか財政ざいせい寄進きしん 後期こうきマムルークあさ研究けんきゅう』(かたなすい書房しょぼう, 2011ねん1がつ
  • 大原おおはら与一よいちろう 『エジプト マムルーク王朝おうちょう』(近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ, 1976ねん10がつ
  • 佐藤さとうつぎだか 『マムルーク 異教いきょう世界せかいからきたイスラムの支配しはいしゃたち』(UPコレクション, 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい, 2013ねん8がつ
  • 森本もりもとこうまこと 『イブン=ハルドゥーン』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ, 講談社こうだんしゃ, 2011ねん6がつ
  • しんイスラム事典じてん』578-579ぺーじ収録しゅうろく系図けいず平凡社へいぼんしゃ, 2002ねん3がつ