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バヤズィト1せい

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バヤズィト1せい
بايزيد اول
オスマン皇帝こうてい
バヤズィト1せい
在位ざいい 1389ねん6月16にち - 1402ねん7がつ20日はつか

出生しゅっしょう 1360ねん
死去しきょ 1403ねん3月8にち
アクシュヒル
配偶はいぐうしゃ デウレト・シャー・ハトゥン
  デウレト・ハトゥン
  スルタン・ハトゥン
  デスピナ
  マリアなど
子女しじょ エルトゥールル
スレイマン・チェレビー
メフメト
イーサー
ムーサー
ムスタファ
家名かめい オスマン
王朝おうちょう オスマンちょう
父親ちちおや ムラト1せい
母親ははおや ギュルチチェク・ハトゥン
サイン
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バヤズィト1せいトルコ:I. Beyazıt、 1360ねん - 1403ねん3月8にち)は、オスマン帝国ていこくだい4だい皇帝こうてい在位ざいい: 1389ねん - 1402ねん)。日本語にほんごではバヤジット1せいとも表記ひょうきされる。ムラト1せい

積極せっきょくてき外征がいせい迅速じんそく決断けつだんより、「かみなりみかど」「稲妻いなづま」(イュルドゥルム、イルディリム)とばれた[1]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

即位そくい、オスマン宮廷きゅうていの「兄弟きょうだいごろし」のはじまり[編集へんしゅう]

1360ねんにオスマン皇帝こうていムラト1せいバルカン半島ばるかんはんとう奴隷どれい出身しゅっしんギュルチチェク・ハトゥンのとしてまれ、幼少ようしょう時代じだいだい宮廷きゅうていのあったアナトリア半島はんとうブルサごしている。

王子おうじ時代じだいより戦場せんじょう活躍かつやくし、ビザンツ帝国ていこくひがしマ帝国まていこく)の皇子おうじアンドロニコス共謀きょうぼうして反乱はんらんこした長兄ちょうけいサヴジ処刑しょけいされると、かれがムラト1せい後継こうけいしゃ指名しめいされる。ムラトがめた政略せいりゃく結婚けっこんによりゲルミヤンこうこく英語えいごばん王女おうじょ結婚けっこんこんとしてゲルミヤンの首都しゅとであるキュタヒヤなどの都市としがオスマンに譲渡ゆずりわたされた[2]

1389ねん6月15にちコソボのたたか最中さいちゅう、ムラトがセルビアじん貴族きぞくによって暗殺あんさつされると、6月16にちにバヤズィトが即位そくいした。コソボのたたかいにはかれ以外いがいにヤクブらおとうとたちも従軍じゅうぐんしていたが、即位そくいただちにバヤズィトは人望じんぼうあついヤクブ[3]をはじめとするおとうとたちを処刑しょけいし、スルタンの地位ちいたしかなものとした[1]。このおとうとたちの粛清しゅくせいが、かれ治世ちせい以降いこうのオスマン帝位ていい継承けいしょうともなってきる兄弟きょうだいごろしの先例せんれいとなる[4][5]

ムラトが暗殺あんさつされた時点じてんのオスマンぐんは、左翼さよくがセルビア騎兵隊きへいたい撃破げきはされた危機ききてき状況じょうきょうにあったが、あといだかれ体勢たいせいなおしてセルビアをやぶり、セルビアこうラザル・フレベリャノヴィチ捕虜ほりょとした貴族きぞく処刑しょけいした[6]。このときにバヤズィトはみずか武器ぶきっててきぐん突撃とつげきし、血路けつろひらいたとわれる[7]1390ねん、バヤズィトはセルビアこうラザルのむすめオリベーラ・デスピナトルコばんめとり、義弟ぎていステファン・ラザレヴィチ英語えいごばんもバヤズィトに臣従しんじゅうし、以後いごセルビアはオスマン帝国ていこく属国ぞっこくとして存続そんぞくすることとなった。

バヤズィトの即位そくいさいして、ビザンツの宮廷きゅうていでも政変せいへんきる。セリュンブリア英語えいごばん統治とうちしていたアンドロニコスのヨハネス7せいがオスマンに臣従しんじゅうちかい、バヤズィトはオスマンに完全かんぜん服従ふくじゅうしていなかった皇子おうじマヌエル対立たいりつみかどとしてヨハネス7せい擁立ようりつした[6]。オスマンにくわえてジェノヴァ支援しえんけたヨハネス7せい反乱はんらんこして1390ねん4がつ即位そくい、ヨハネス7せい治世ちせいは5かげつあまりであったが、ヨハネス7せい帝位ていいわれたのちもビザンツ帝位ていいはオスマンの影響えいきょうかれる[8]

アナトリア、バルカン半島ばるかんはんとうでの征服せいふく事業じぎょう[編集へんしゅう]

即位そくい、ムラト1せい崩御ほうぎょ好機こうきアナトリア領主りょうしゅたちがはんオスマンのうごきをはじめる。

アナトリアにおける最大さいだいのライバルであるカラマンこうこく英語えいごばん君主くんしゅであり、バヤズィトの義弟ぎていでもあるアラー・アッディーン英語えいごばんサルハンこうこくアイドゥンこうこくメンテシェこうこくともにオスマンりょう侵入しんにゅう、ゲルミヤンの君主くんしゅでバヤズィトの義兄弟ぎきょうだいであるヤクブ2せいトルコばんもオスマンに割譲かつじょうされた都市とし奪回だっかいするうごきをせていた[9]。バヤズィトはセルビアやくむすんでアナトリアにわたり、1390ねんよりちち征服せいふく事業じぎょういでのアナトリア遠征えんせい開始かいしする。遠征えんせいぐんにはビザンツ帝国ていこく、セルビア、ブルガリアアルバニアなどのバルカン半島ばるかんはんとう臣従しんじゅうこく参加さんかしており、アナトリアにのこっていた最後さいごのビザンツりょうであるフィラデルフィア攻略こうりゃくにはビザンツの皇子おうじマヌエルも従軍じゅうぐんしていた[8]遠征えんせいによってサルハン、アイドゥン、メンテシェ、ハミドこうこくといったアナトリアのベイリク征服せいふくし、ヤクブ2せい逮捕たいほしてイプサラ英語えいごばんおくり、ゲルミヤンも支配しはいいた。1391ねんにカラマンの首都しゅとコンヤ包囲ほういし、アラー・アッディーンにアクシュヒル英語えいごばんニーデアクサライ割譲かつじょうみとめさせての有利ゆうりやくむすぶ。

1391ねんにビザンツ皇帝こうていヨハネス5せい崩御ほうぎょすると、アナトリア遠征えんせい従軍じゅうぐんしていたマヌエルはバヤズィトに無断むだんブルサ脱出だっしゅつし、コンスタンティノープル帰還きかん帝位ていいいた。マヌエルの帰還きかんに7かげつあいだコンスタンティノープルの包囲ほういするが、ハンガリーが軍事ぐんじ活動かつどう開始かいしするうごきをせると[9]みつぎおさめえにマヌエルの即位そくいみとめて包囲ほうい解除かいじょした[10]、1393ねんまつよりモレアス専制せんせいこうテオドロス1せいがオスマンのしたがえしん攻撃こうげきして領地りょうちひろげると、マヌエル兄弟きょうだい反逆はんぎゃく行為こうい激怒げきどしたバヤズィトはバルカン半島ばるかんはんとうしたがえしん召喚しょうかんしてかれ兄弟きょうだい処罰しょばつあたえようとした[11]。マヌエル、テオドロスは臣従しんじゅうちかいを破棄はきし、1394ねんなつより7ねんにもわたるコンスタンティノープル包囲ほうい開始かいしされた。

コンスタンティノープル包囲ほういあいだにもバヤズィトは別働隊べつどうたいバルカン半島ばるかんはんとう各地かくち派遣はけんし、テッサリア、セルビア、ブルガリアをめてドナウがわいた通行つうこう掌握しょうあくした[10]。オスマン帝国ていこく従属じゅうぞくしていたブルガリアが、バヤズィトがバルカン半島ばるかんはんとう留守るすとしたことを好機こうき[12]1393ねんにハンガリーの支援しえんけて反乱はんらんこすと、ブルガリアに討伐とうばつぐん派遣はけんされる。3かげつ包囲ほういすえ同年どうねん7がつ17にちにブルガリアの首都しゅとタルノヴォ陥落かんらくさせ[13]ニコポリスのがれていたブルガリア皇帝こうていイヴァン・シシュマン英語えいごばん一時いちじてき帝位ていいめる。

タルノヴォ攻略こうりゃくにバヤズィトはワラキア国内こくない存在そんざいするワラキア大公たいこうミルチャ1せい政敵せいてき援助えんじょして反乱はんらんこさせ[12]、ワラキアへとぐんすすめた。1395ねん5月にオスマンぐんはミルチャ1せい勝利しょうりおさめるが、同年どうねん7がつ17にちロヴィネのたたか英語えいごばん敗北はいぼくドニエプルがわ南岸なんがんまでの退却たいきゃく余儀よぎなくされる[14]。また、ワラキア遠征えんせいにおいてブルガリアに乱立らんりつしていた僭主せんしゅこく併合へいごう遠征えんせい帰路きろでイヴァン・シシュマンを処刑しょけいしてブルガリアのだい部分ぶぶん手中しゅちゅうおさめる。ブルガリアない独立どくりつたもっていた勢力せいりょくはオスマンに臣従しんじゅうちかっていたヴィディン王国おうこくのみであった[13]

セルビアこうステファン・ラザレヴィチ英語えいごばんたいしてはきたセルビアの領有りょうゆうけんみとめ、ラザレヴィチもみつげおさめ兵力へいりょく提供ていきょう積極せっきょくてきった。このため両国りょうこくあいだには長期ちょうき平和へいわがもたらされ、セルビアは経済けいざいてき繁栄はんえい享受きょうじゅする[15]

ニコポリスのたたか[編集へんしゅう]

ニコポリスのたたか

こうしたバルカン半島ばるかんはんとうでのオスマン帝国ていこく勢力せいりょく拡大かくだいたいして、バルカン半島ばるかんはんとう国家こっかだけでなく西欧せいおう不安ふあんおぼえ、ハンガリーおうジギスムント教皇きょうこうちょう十字軍じゅうじぐん要請ようせいした。ローマ教皇きょうこうボニファティウス9せいアヴィニョン教皇きょうこうベネディクトゥス13せいフランスイングランドサヴォイアなどの西欧せいおう諸国しょこく十字軍じゅうじぐん結成けっせいけ、西欧せいおうより王族おうぞく貴族きぞく騎士きし参加さんか表明ひょうめいした。1396ねん7がつ下旬げじゅんから8がつ上旬じょうじゅんにかけて十字軍じゅうじぐんブダ集結しゅうけつ、ワラキアの軍隊ぐんたいともにジギスムントひきいるハンガリーぐん合流ごうりゅうし、ヴィディンもオスマンへの臣従しんじゅう破棄はきして十字軍じゅうじぐん参加さんかした。

十字軍じゅうじぐんはブルガリアに進攻しんこうして領内りょうないのイスラム教徒きょうとキリスト教徒きりすときょうと双方そうほう殺害さつがいし、9がつ10日とおかにはドアン・ベイ英語えいごばんまもるニコポリスにせまり、包囲ほういいた[16]。コンスタンティノープル包囲ほうい指揮しきっていたバヤズィトはただちにかえし、みずかぐんひきいてニコポリスの救援きゅうえんかった。9月24にちにバヤズィトはニコポリスに到達とうたつよく25にちにオスマンぐん十字軍じゅうじぐん衝突しょうとつした(ニコポリスのたたか)。軍功ぐんこうもとめてジギスムントの忠告ちゅうこく無視むしして個別こべつ突撃とつげきをかけた西欧せいおう騎士きしたちにたいし、バヤズィトは集団しゅうだん戦法せんぽうによってかれらを撃破げきはした。かれ自身じしんかたなって負傷ふしょうしながらも勇敢ゆうかんたたか[17]戦闘せんとうはオスマンぐん完勝かんしょうわった[18]ブルゴーニュ公子こうしジャン、フランス陸軍りくぐん元帥げんすいブシコー英語えいごばんらを捕虜ほりょとし、かれらの釈放しゃくほうえに多額たがく身代金みのしろきん[19]戦後せんごヴィディンを併合へいごうしてブルガリアの征服せいふく達成たっせい[13]、またワラキアに臣従しんじゅうちかわせた。

アッバースカリフムタワッキル1せい英語えいごばんはニコポリスでの勝利しょうり称賛しょうさんし、バヤズィトにスルタンの称号しょうごうさづけた。かれ以前いぜんのオスマン帝国ていこく指導しどうしゃであるオルハン、ムラト1せい碑文ひぶん貨幣かへいでスルタンの称号しょうごうもちいていたが、後世こうせいのオスマン帝国ていこく歴史れきしはオスマン帝国ていこく君主くんしゅがスルタンをしょうした由来ゆらいを、カリフからの称号しょうごう授与じゅよむすびつけた[20]

ニコポリスのたたかいののちにオスマンぐんミトロヴィツァ攻略こうりゃく、さらにギリシャにすすみ、1397ねんラリサパトラアテネ占領せんりょうしペロポネソス半島はんとうだい部分ぶぶん支配しはいいた[21]1398ねんにオスマンぐん内乱ないらん分裂ぶんれつ状態じょうたいにあったボスニアはじめて侵入しんにゅうし、これ以降いこうボスニアはオスマンぐん内政ないせいへの介入かいにゅう奴隷どれいりになやまされることになる[22]

さらなる拡大かくだい、ティムールの出現しゅつげん[編集へんしゅう]

アナドゥル・ヒサール英語えいごばん

1397ねんから2ねん以上いじょうにかけてっただいさんコンスタンティノープル包囲ほういでは、コンスタンティノープルないにトルコじん居住きょじゅうモスクもうけ、イスラムの法廷ほうてい法官ほうかんカーディー)を設置せっちすることをみとめさせる[23][notes 1]1400ねんにマヌエル2せい西欧せいおう諸国しょこく援助えんじょもとめに出国しゅっこくするとバヤズィトは4度目どめ包囲ほうい開始かいし1402ねんいたっても包囲ほういつづけられた。バヤズィトはコンスタンティノープル包囲ほういさいしてボスポラス海峡かいきょうのアジアがわにアナドゥル・ヒサールを築城ちくじょうし、兵糧ひょうろうめにもうとするが、市域しいきひろいコンスタンティノープルは籠城ろうじょうせんき、攻略こうりゃく失敗しっぱいした[24]のち即位そくいした曾孫そうそんメフメト2せいはバヤズィトの包囲ほうい教訓きょうくんとして、短期たんき決戦けっせんによってコンスタンティノープルを陥落かんらくさせる[24]。メフメト2せいのコンスタンティノープル攻略こうりゃくにおいては城塞じょうさいアナドゥル・ヒサール英語えいごばん活用かつようされ、城塞じょうさい配備はいびされた大砲たいほうてきぐん牽制けんせいした[25]

バルカン半島ばるかんはんとうでの軍事ぐんじ活動かつどう並行へいこうして、アナトリア方面ほうめん征服せいふく活動かつどう依然いぜんとしてつづけられていた。ニコポリスの戦勝せんしょうさかのぼる1395ねんにはジャンダルこうこく英語えいごばん(イスフェンディヤールこうこく)がおさめるアマスィヤカスタモヌ占領せんりょう1398ねんエルテナこうこく英語えいごばん併合へいごう達成たっせいする[26]。ニコポリスの戦闘せんとうちゅうにアラー・アッディーンがアナトリアのオスマンりょう攻撃こうげきしており、バヤズィトは戦後せんごアナトリアにわたり、コンヤ進軍しんぐんした。11にちおよおさむしろせんすえに1398ねんにコンヤを攻略こうりゃく服従ふくじゅうこばんだアラー・アッディーンを処刑しょけいし、かれ2人ふたりをブルサにおくり、カラマンを滅亡めつぼうさせる[17]。1400ねんエルズィンジャン攻略こうりゃく1402ねんにはオスマン帝国ていこくより脱走だっそうしたヤクブ2せい再建さいけんしたゲルミヤンこうこくさい征服せいふくし、アナトリアのだい部分ぶぶん制圧せいあつする[27]

しかし、東方とうほうだい帝国ていこくてたティムールがアナトリアにあらわれると、オスマン帝国ていこく情勢じょうせい一変いっぺんする。1393ねんごろにティムールあさとオスマン帝国ていこく接触せっしょくはじまり[28]当初とうしょティムールからは両国りょうこくあいだ領域りょういき策定さくていしようという丁重ていちょう文面ぶんめん書簡しょかんおくられたが[29]、バヤズィトは好意こういてき反応はんのうしめさなかった[30]。ムラト1せいとバヤズィトにほろぼされたベイリクの君主くんしゅたちはティムールにたすけをもとめ、かれちからりて勢力せいりょく再建さいけんしようとしていた[31][32]一方いっぽう、ティムールに放逐ほうちくされたくろひつじあさ君主くんしゅカラ・ユースフ英語えいごばんはバヤズィトに保護ほごされ、かれちからりて勢力せいりょく再建さいけんしようとしていた。そのためにオスマンとティムールの両国りょうこく関係かんけい険悪けんあくなものとなり[33]、ついに激突げきとつした。

アンカラの敗戦はいせん[編集へんしゅう]

19世紀せいきのヨーロッパの画家がかによってえがかれたバヤズィトとティムール

1400ねん8がつからティムールは西進せいしんしてオスマンの領土りょうど侵入しんにゅうスィヴァス陥落かんらくさせ[31]、スィヴァス攻略こうりゃくいちはマムルークあさ支配しはいするエジプトぐんすすめたためにティムールとの直接ちょくせつ対決たいけつ回避かいひされる。ティムールはバヤズィトに帰順きじゅんもとめる書簡しょかんおくるが、かれ勧告かんこく拒絶きょぜつし、1402ねんにティムールはふたたびアナトリアに矛先ほこさきける。ティムールの要求ようきゅう以下いかのようなものであった[34]

  • ジャライルあさアフマド、カラ・ユースフのわた
  • ティムールのきざんだ貨幣かへい鋳造ちゅうぞう宗主そうしゅけん承認しょうにん
  • 王子おうじ1人ひとり人質ひとじちとしておく
  • のベイリクの領地りょうち返還へんかん

コンスタンティノープルではマヌエル2せい留守るすやくまかされていたヨハネス7せいがコンスタンティノープルをわた交渉こうしょうはじめていたが[35]、ティムールのアナトリア侵入しんにゅうほうったバヤズィトは包囲ほういいてアナトリアにけつけた。しかし、準備じゅんびまんはしではなく[36]長距離ちょうきょり行軍こうぐんしてきたティムールのぐん先制せんせい攻撃こうげきをかけず、好機こうきのが[32]

ティムールはかつてオスマンにほろぼされたベイリクの君主くんしゅ戦闘せんとう参加さんかさせることでのベイリクからオスマンに仕官しかんした騎士きしさぶりをかけようとし、また常備じょうびぐんであるイェニチェリ相次あいつ遠征えんせい疲労ひろうたかまり、士気しきひくかった[36]。1402ねん7がつ20日はつかアンカラ近郊きんこうのチュブックでティムールのぐん衝突しょうとつするが(アンカラのたたか)、のベイリク出身しゅっしん騎士きしたちは旧主きゅうしゅ寝返ねがえり、元々もともとすうでティムールぐん下回したまわっていたオスマンぐんはさらに劣勢れっせいとなった[32]。イェニチェリやラザレヴィチひきいるセルビアへいらヨーロッパ出身しゅっしん兵士へいし奮戦ふんせんするが[37]敗戦はいせんいろくなるとかれらは王朝おうちょう存続そんぞくさせるべく、王子おうじだい宰相さいしょうまもって戦場せんじょう脱出だっしゅつした[32]。バヤズィトをまもるイェニチェリのほとんどはたおれ、かれのデスピナ、のムーサーとともにティムールにらえられる。

伝承でんしょうによれば捕虜ほりょにされたバヤズィトはきむ格子こうしわら小屋こやめられて[10]苦痛くつうあたえられたとわれるが、実際じっさいには丁重ていちょうぐうされたようである[32]。しかし、バヤズィトが逃亡とうぼうはかるにおよんで厳重げんじゅう監視かんしかれ、夜間やかん足枷あしかせをはめられ[38]移動いどうにおいては2とううまかれた格子こうしづけかごせられた[39][notes 2]。8かげつ捕虜ほりょ生活せいかつすえにサマルカンド移送いそう途上とじょう、1403ねん3がつ8にちにアクシュヒルでぼつ、おりしもバヤズィトの釈放しゃくほうのために身代金みのしろきん交渉こうしょうがされていた時期じきであった[38]死因しいんはアンカラのたたか以前いぜんよりかかっていた[40]痛風つうふう[3]、あるいは指輪ゆびわ宝石ほうせきしたひそませていた毒薬どくやくんで自害じがいしたともわれる[41]

バヤズィトのほろぼしたベイリクはティムールの再興さいこうされ、帝国ていこくのこされた領地りょうちにはバヤズィトのよんスレイマンメフメト、イーサー、ムーサーが割拠かっきょし、かれらは帝位ていいめぐってあらそった。

施政しせい[編集へんしゅう]

発展はってん途上とじょう帝国ていこく[編集へんしゅう]

バヤズィト治下ちかのオスマン帝国ていこく支配しはい盤石ばんじゃくではなく、君主くんしゅたおれるとたちまちくずれる不安定ふあんていなものであった[42]征服せいふく帝国ていこくれる制度せいど完成かんせいしておらず、支配しはい組織そしき急速きゅうそく拡大かくだいした領土りょうど領民りょうみん十分じゅうぶんコントロールできるとはがたかった[43]。しかし、オスマン帝国ていこく研究けんきゅうしゃであるロベール・マントランは、次代じだいのメフメト1せいよりはじまる帝国ていこく再建さいけん事業じぎょうのスピードからアンカラでの敗戦はいせんがオスマン帝国ていこく基礎きそくずすにいたらなかったとろんじ、またオスマン1せいからバヤズィトまでの時代じだいをオスマン帝国ていこくだいいち段階だんかい定義ていぎした[44]

イェニチェリの徴収ちょうしゅう[編集へんしゅう]

常備じょうびぐんであるイェニチェリの徴収ちょうしゅう方法ほうほうについては当初とうしょ戦利せんりひんとして捕虜ほりょの5ぶんの1を君主くんしゅるペンチック制度せいど実施じっしされていたが[45]、バヤズィトの治世ちせい人材じんざい登用とうよう手法しゅほう改良かいりょうくわえられた[46]領内りょうないキリスト教徒きりすときょうと臣民しんみん子弟していなかから宮廷きゅうてい奴隷どれいてきしたものを強制きょうせいてき徴収ちょうしゅうする制度せいど実施じっしし、トルコで「あつめる」という意味いみかたりである「デウシルメク」に由来ゆらいする[47]デウシルメ制度せいどばれた。デウシルメ制度せいど正確せいかく開始かいし時期じきについてはあきらかではないが、1395ねん実施じっしされた徴収ちょうしゅう史料しりょう確認かくにんできる最古さいこのものである[48]。1360年代ねんだいには1000にんだったイェニチェリは、バヤズィトの時代じだいに5000にんたっした[49]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

人物じんぶつぞう[編集へんしゅう]

勇猛ゆうもう性格せいかくであるとともに、神経質しんけいしつ頑固がんこめんもあったとかれている[41]。また、かれはイスラム教徒きょうとではあったが飲酒いんしゅこの[41]さけたしなむようになったきっかけはセルビアからとついだ王女おうじょデスピナよりワインあじおしえられたためだという[50]

容貌ようぼうについては隻眼せきがん、あるいはやぶにらみであったとわれる[15]

バヤズィトの遺体いたい[編集へんしゅう]

バヤズィトは生前せいぜん、1391ねんから1395ねんにかけてブルサに自身じしんはかen:Bayezid I Mosque)を建立こんりゅうしていた。バヤズィトがぼっしたときかれ遺体いたいはイーサーにわたされるが、当時とうじのアナトリアは王位おういめぐっての内戦ないせん状態じょうたいにあったため、遺体いたいはブルサの宗教しゅうきょう施設しせつぐんがわ簡単かんたん埋葬まいそうされただけであった。1406ねん6月18にち長子ちょうしのスレイマンによってびょうてられるが、1414ねん略奪りゃくだつさらされる。[51]

びょうはメフメト2せい治世ちせい再建さいけんされ、1855ねんだい地震じしんによって被害ひがいけたものの修復しゅうふくされ、今日きょういたる。

家族かぞく[編集へんしゅう]

父母ちちはは[編集へんしゅう]

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  • デウレト・シャー・ハトゥン - ゲルミヤンこうこく君主くんしゅスレイマン・シャーのむすめ。1381ねんぼつ
  • デウレト・ハトゥン - ゲルミヤンこうこく君主くんしゅむすめ
  • ハフサ・ハトゥン - アイドゥンこうこく君主くんしゅむすめ
  • スルタン・ハトゥン - ドゥルカディルこうこく君主くんしゅむすめ
  • オリヴェラ・ラザレヴィチ・デスピナ・ハトゥン - セルビアこうラザル・フレベリャノヴィチむすめ
  • マリア

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年表ねんぴょう[編集へんしゅう]

肖像しょうぞう[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ N.アクシトは、居住きょじゅう、モスク、法廷ほうていとカーディーは1391ねん設置せっちされたとしている。(N.アクシト『トルコ 2』、59ぺーじ
  2. ^ 格子こうしづけかご単語たんご「カーフェス」は、ハレムうちかれた格子こうしづけまどがある部屋へやす。そのため、「カーフェス」の誤訳ごやくによってバヤズィトがおりなかれられたという俗説ぞくせつまれたとされる。(さんきょう『トルコの歴史れきし オスマン帝国ていこく中心ちゅうしんに』、122ぺーじおよびU.クレーファー『オスマン・トルコ 世界せかい帝国ていこく建設けんせつ野望やぼう秘密ひみつ』、58ぺーじ

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b F.トレモリエール、C.リシ『図説ずせつ ラルース世界せかい人物じんぶつ百科ひゃっか 1』、413ぺーじ
  2. ^ N.アクシト『トルコ 2』、57ぺーじ
  3. ^ a b 羽田はた「バヤジット1せい」『アジア歴史れきし事典じてん』7かん収録しゅうろく
  4. ^ R.マントラン『改訳かいやく トルコ』、47ぺーじ
  5. ^ 鈴木すずき『オスマン帝国ていこく イスラム世界せかいの「やわらかい専制せんせい」』、50ぺーじ
  6. ^ a b なお『ビザンツ帝国ていこく』、852ぺーじ
  7. ^ N.アクシト『トルコ 2』、57-58ぺーじ
  8. ^ a b なお『ビザンツ帝国ていこく』、853ぺーじ
  9. ^ a b N.アクシト『トルコ 2』、58ぺーじ
  10. ^ a b c F.トレモリエール、C.リシ『図説ずせつ ラルース世界せかい人物じんぶつ百科ひゃっか 1』、414ぺーじ
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  13. ^ a b c 森安もりやす今井いまい『ブルガリア 風土ふうど歴史れきし』、138ぺーじ
  14. ^ なお『ビザンツ帝国ていこく』、856ぺーじ
  15. ^ a b さんきょう『トルコの歴史れきし オスマン帝国ていこく中心ちゅうしんに』、113ぺーじ
  16. ^ E.ハラム『十字軍じゅうじぐん大全たいぜん 年代ねんだいキリスト教きりすときょうとイスラームの対立たいりつ』、500ぺーじ
  17. ^ a b N.アクシト『トルコ 2』、59ぺーじ
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  23. ^ R.マントラン『改訳かいやく トルコ』、48ぺーじ 鈴木すずき『オスマン帝国ていこく イスラム世界せかいの「やわらかい専制せんせい」』、53ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]