バヤズィト1世 せい (トルコ語 ご :I. Beyazıt、 1360年 ねん - 1403年 ねん 3月8日 にち )は、オスマン帝国 ていこく の第 だい 4代 だい 皇帝 こうてい (在位 ざいい : 1389年 ねん - 1402年 ねん )。日本語 にほんご ではバヤジット1世 せい とも表記 ひょうき される。ムラト1世 せい の子 こ 。
積極 せっきょく 的 てき な外征 がいせい と迅速 じんそく な決断 けつだん より、「雷 かみなり 帝 みかど 」「稲妻 いなづま 」(イュルドゥルム、イルディリム)と呼 よ ばれた[1] 。
即位 そくい 、オスマン宮廷 きゅうてい の「兄弟 きょうだい 殺 ごろ し」の始 はじ まり[ 編集 へんしゅう ]
1360年 ねん にオスマン皇帝 こうてい ムラト1世 せい とバルカン半島 ばるかんはんとう の奴隷 どれい 出身 しゅっしん の妃 ひ ギュルチチェク・ハトゥンの子 こ として産 う まれ、幼少 ようしょう 時代 じだい を第 だい 二 に 宮廷 きゅうてい のあったアナトリア半島 はんとう のブルサ で過 す ごしている。
王子 おうじ 時代 じだい より戦場 せんじょう で活躍 かつやく し、ビザンツ帝国 ていこく (東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく )の皇子 おうじ アンドロニコス と共謀 きょうぼう して反乱 はんらん を起 お こした長兄 ちょうけい サヴジ が処刑 しょけい されると、彼 かれ がムラト1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい される。ムラトが取 と り決 き めた政略 せいりゃく 結婚 けっこん によりゲルミヤン侯 こう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) の王女 おうじょ と結婚 けっこん 、婚 こん 資 し としてゲルミヤンの首都 しゅと であるキュタヒヤ などの都市 とし がオスマンに譲渡 ゆずりわた された[2] 。
1389年 ねん 6月15日 にち 、コソボの戦 たたか い の最中 さいちゅう 、ムラトがセルビア人 じん の貴族 きぞく によって暗殺 あんさつ されると、6月16日 にち にバヤズィトが即位 そくい した。コソボの戦 たたか いには彼 かれ 以外 いがい にヤクブら弟 おとうと たちも従軍 じゅうぐん していたが、即位 そくい 後 ご 直 ただ ちにバヤズィトは人望 じんぼう の厚 あつ いヤクブ[3] をはじめとする弟 おとうと たちを処刑 しょけい し、スルタンの地位 ちい を確 たし かなものとした[1] 。この弟 おとうと たちの粛清 しゅくせい が、彼 かれ の治世 ちせい 以降 いこう のオスマン帝位 ていい 継承 けいしょう に伴 ともな って起 お きる兄弟 きょうだい 殺 ごろ しの先例 せんれい となる[4] [5] 。
ムラトが暗殺 あんさつ された時点 じてん のオスマン軍 ぐん は、左翼 さよく がセルビア騎兵隊 きへいたい に撃破 げきは された危機 きき 的 てき な状況 じょうきょう にあったが、跡 あと を継 つ いだ彼 かれ は体勢 たいせい を立 た て直 なお してセルビアを破 やぶ り、セルビア公 こう ラザル・フレベリャノヴィチ ら捕虜 ほりょ とした貴族 きぞく を処刑 しょけい した[6] 。この時 とき にバヤズィトは自 みずか ら武器 ぶき を取 と って敵 てき 軍 ぐん に突撃 とつげき し、血路 けつろ を開 ひら いたと言 い われる[7] 。1390年 ねん 、バヤズィトはセルビア公 こう ラザルの娘 むすめ オリベーラ・デスピナ (トルコ語 ご 版 ばん ) を娶 めと り、義弟 ぎてい ステファン・ラザレヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) もバヤズィトに臣従 しんじゅう し、以後 いご セルビアはオスマン帝国 ていこく の属国 ぞっこく として存続 そんぞく することとなった。
バヤズィトの即位 そくい に際 さい して、ビザンツの宮廷 きゅうてい でも政変 せいへん が起 お きる。セリュンブリア (英語 えいご 版 ばん ) を統治 とうち していたアンドロニコスの子 こ ヨハネス7世 せい がオスマンに臣従 しんじゅう を誓 ちか い、バヤズィトはオスマンに完全 かんぜん に服従 ふくじゅう していなかった皇子 おうじ マヌエル の対立 たいりつ 帝 みかど としてヨハネス7世 せい を擁立 ようりつ した[6] 。オスマンに加 くわ えてジェノヴァ の支援 しえん を受 う けたヨハネス7世 せい は反乱 はんらん を起 お こして1390年 ねん 4月 がつ に即位 そくい 、ヨハネス7世 せい の治世 ちせい は5か月 げつ 余 あま りであったが、ヨハネス7世 せい が帝位 ていい を追 お われた後 のち もビザンツ帝位 ていい はオスマンの影響 えいきょう 下 か に置 お かれる[8] 。
アナトリア、バルカン半島 ばるかんはんとう での征服 せいふく 事業 じぎょう [ 編集 へんしゅう ]
即位 そくい 後 ご 、ムラト1世 せい の崩御 ほうぎょ を好機 こうき と見 み たアナトリア の領主 りょうしゅ たちが反 はん オスマンの動 うご きを見 み せ始 はじ める。
アナトリアにおける最大 さいだい のライバルであるカラマン侯 こう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) の君主 くんしゅ であり、バヤズィトの義弟 ぎてい でもあるアラー・アッディーン (英語 えいご 版 ばん ) はサルハン侯 こう 国 こく 、アイドゥン侯 こう 国 こく 、メンテシェ侯 こう 国 こく と共 とも にオスマン領 りょう に侵入 しんにゅう 、ゲルミヤンの君主 くんしゅ でバヤズィトの義兄弟 ぎきょうだい であるヤクブ2世 せい (トルコ語 ご 版 ばん ) もオスマンに割譲 かつじょう された都市 とし を奪回 だっかい する動 うご きを見 み せていた[9] 。バヤズィトはセルビア と和 わ 約 やく を結 むす んでアナトリアに渡 わた り、1390年 ねん より父 ちち の征服 せいふく 事業 じぎょう を引 ひ き継 つ いでのアナトリア遠征 えんせい を開始 かいし する。遠征 えんせい 軍 ぐん にはビザンツ帝国 ていこく 、セルビア、ブルガリア 、アルバニア などのバルカン半島 ばるかんはんとう の臣従 しんじゅう 国 こく も参加 さんか しており、アナトリアに残 のこ っていた最後 さいご のビザンツ領 りょう であるフィラデルフィア 攻略 こうりゃく にはビザンツの皇子 おうじ マヌエルも従軍 じゅうぐん していた[8] 。遠征 えんせい によってサルハン、アイドゥン、メンテシェ、ハミド侯 こう 国 こく といったアナトリアのベイリク を征服 せいふく し、ヤクブ2世 せい を逮捕 たいほ してイプサラ (英語 えいご 版 ばん ) に送 おく り、ゲルミヤンも支配 しはい 下 か に置 お いた。1391年 ねん にカラマンの首都 しゅと コンヤ を包囲 ほうい し、アラー・アッディーンにアクシュヒル (英語 えいご 版 ばん ) 、ニーデ 、アクサライ の割譲 かつじょう を認 みと めさせての有利 ゆうり な和 わ 約 やく を結 むす ぶ。
1391年 ねん にビザンツ皇帝 こうてい ヨハネス5世 せい が崩御 ほうぎょ すると、アナトリア遠征 えんせい に従軍 じゅうぐん していたマヌエルはバヤズィトに無断 むだん でブルサ を脱出 だっしゅつ し、コンスタンティノープル に帰還 きかん し帝位 ていい に就 つ いた。マヌエルの帰還 きかん 後 ご に7か月 げつ の間 あいだ コンスタンティノープルの包囲 ほうい するが、ハンガリーが軍事 ぐんじ 活動 かつどう を開始 かいし する動 うご きを見 み せると[9] 、貢 みつぎ 納 おさめ と引 ひ き換 か えにマヌエルの即位 そくい を認 みと めて包囲 ほうい を解除 かいじょ した[10] 、1393年 ねん 末 まつ よりモレアス専制 せんせい 公 こう テオドロス1世 せい がオスマンの従 したがえ 臣 しん を攻撃 こうげき して領地 りょうち を広 ひろ げると、マヌエル兄弟 きょうだい の反逆 はんぎゃく 行為 こうい に激怒 げきど したバヤズィトはバルカン半島 ばるかんはんとう の従 したがえ 臣 しん を召喚 しょうかん して彼 かれ ら兄弟 きょうだい に処罰 しょばつ を与 あた えようとした[11] 。マヌエル、テオドロスは臣従 しんじゅう の誓 ちか いを破棄 はき し、1394年 ねん 夏 なつ より7年 ねん にもわたるコンスタンティノープル包囲 ほうい が開始 かいし された。
コンスタンティノープル包囲 ほうい の間 あいだ にもバヤズィトは別働隊 べつどうたい をバルカン半島 ばるかんはんとう 各地 かくち に派遣 はけん し、テッサリア 、セルビア、ブルガリアを攻 せ めてドナウ川 がわ に至 いた る通行 つうこう 路 ろ を掌握 しょうあく した[10] 。オスマン帝国 ていこく に従属 じゅうぞく していたブルガリアが、バヤズィトがバルカン半島 ばるかんはんとう を留守 るす としたことを好機 こうき と見 み て[12] 1393年 ねん にハンガリーの支援 しえん を受 う けて反乱 はんらん を起 お こすと、ブルガリアに討伐 とうばつ 軍 ぐん が派遣 はけん される。3か月 げつ の包囲 ほうい の末 すえ に同年 どうねん 7月 がつ 17日 にち にブルガリアの首都 しゅと タルノヴォ を陥落 かんらく させ[13] 、ニコポリス に逃 のが れていたブルガリア皇帝 こうてい イヴァン・シシュマン (英語 えいご 版 ばん ) を一時 いちじ 的 てき に帝位 ていい に留 と める。
タルノヴォ攻略 こうりゃく 後 ご にバヤズィトはワラキア 国内 こくない に存在 そんざい するワラキア大公 たいこう ミルチャ1世 せい の政敵 せいてき を援助 えんじょ して反乱 はんらん を起 お こさせ[12] 、ワラキアへと軍 ぐん を進 すす めた。1395年 ねん 5月にオスマン軍 ぐん はミルチャ1世 せい に勝利 しょうり を収 おさ めるが、同年 どうねん 7月 がつ 17日 にち のロヴィネの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で敗北 はいぼく 、ドニエプル川 がわ 南岸 なんがん までの退却 たいきゃく を余儀 よぎ なくされる[14] 。また、ワラキア遠征 えんせい においてブルガリアに乱立 らんりつ していた僭主 せんしゅ 国 こく を併合 へいごう 、遠征 えんせい の帰路 きろ でイヴァン・シシュマンを処刑 しょけい してブルガリアの大 だい 部分 ぶぶん を手中 しゅちゅう に収 おさ める。ブルガリア内 ない で独立 どくりつ を保 たも っていた勢力 せいりょく はオスマンに臣従 しんじゅう を誓 ちか っていたヴィディン 王国 おうこく のみであった[13] 。
セルビア公 こう ステファン・ラザレヴィチ (英語 えいご 版 ばん ) に対 たい しては北 きた セルビアの領有 りょうゆう 権 けん を認 みと め、ラザレヴィチも貢 みつげ 納 おさめ と兵力 へいりょく の提供 ていきょう を積極 せっきょく 的 てき に行 い った。このため両国 りょうこく の間 あいだ には長期 ちょうき の平和 へいわ がもたらされ、セルビアは経済 けいざい 的 てき な繁栄 はんえい を享受 きょうじゅ する[15] 。
ニコポリスの戦 たたか い
こうしたバルカン半島 ばるかんはんとう でのオスマン帝国 ていこく の勢力 せいりょく 拡大 かくだい に対 たい して、バルカン半島 ばるかんはんとう の国家 こっか だけでなく西欧 せいおう も不安 ふあん を覚 おぼ え、ハンガリー 王 おう ジギスムント は教皇 きょうこう 庁 ちょう に十字軍 じゅうじぐん を要請 ようせい した。ローマ教皇 きょうこう ボニファティウス9世 せい とアヴィニョン の教皇 きょうこう ベネディクトゥス13世 せい はフランス 、イングランド 、サヴォイア などの西欧 せいおう 諸国 しょこく に十字軍 じゅうじぐん の結成 けっせい を呼 よ び掛 か け、西欧 せいおう より王族 おうぞく 、貴族 きぞく 、騎士 きし が参加 さんか を表明 ひょうめい した。1396年 ねん 7月 がつ 下旬 げじゅん から8月 がつ 上旬 じょうじゅん にかけて十字軍 じゅうじぐん はブダ に集結 しゅうけつ 、ワラキアの軍隊 ぐんたい と共 とも にジギスムント率 ひき いるハンガリー軍 ぐん に合流 ごうりゅう し、ヴィディンもオスマンへの臣従 しんじゅう を破棄 はき して十字軍 じゅうじぐん に参加 さんか した。
十字軍 じゅうじぐん はブルガリアに進攻 しんこう して領内 りょうない のイスラム教徒 きょうと 、キリスト教徒 きりすときょうと の双方 そうほう を殺害 さつがい し、9月 がつ 10日 とおか にはドアン・ベイ (英語 えいご 版 ばん ) が守 まも るニコポリスに迫 せま り、包囲 ほうい を布 し いた[16] 。コンスタンティノープル包囲 ほうい の指揮 しき を執 と っていたバヤズィトはただちに引 ひ き返 かえ し、自 みずか ら軍 ぐん を率 ひき いてニコポリスの救援 きゅうえん に向 む かった。9月24日 にち にバヤズィトはニコポリスに到達 とうたつ 、翌 よく 25日 にち にオスマン軍 ぐん と十字軍 じゅうじぐん が衝突 しょうとつ した(ニコポリスの戦 たたか い )。軍功 ぐんこう を求 もと めてジギスムントの忠告 ちゅうこく を無視 むし して個別 こべつ に突撃 とつげき をかけた西欧 せいおう の騎士 きし たちに対 たい し、バヤズィトは集団 しゅうだん 戦法 せんぽう によって彼 かれ らを撃破 げきは した。彼 かれ 自身 じしん も刀 かたな を手 て に取 と って負傷 ふしょう しながらも勇敢 ゆうかん に戦 たたか い[17] 、戦闘 せんとう はオスマン軍 ぐん の完勝 かんしょう に終 お わった[18] 。ブルゴーニュ の公子 こうし ジャン 、フランス陸軍 りくぐん 元帥 げんすい ブシコー (英語 えいご 版 ばん ) らを捕虜 ほりょ とし、彼 かれ らの釈放 しゃくほう と引 ひ き換 か えに多額 たがく の身代金 みのしろきん を得 え る[19] 。戦後 せんご ヴィディンを併合 へいごう してブルガリアの征服 せいふく を達成 たっせい し[13] 、またワラキアに臣従 しんじゅう を誓 ちか わせた。
アッバース家 か のカリフ ・ムタワッキル1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) はニコポリスでの勝利 しょうり を称賛 しょうさん し、バヤズィトにスルタンの称号 しょうごう を授 さづ けた。彼 かれ 以前 いぜん のオスマン帝国 ていこく の指導 しどう 者 しゃ であるオルハン 、ムラト1世 せい も碑文 ひぶん や貨幣 かへい でスルタンの称号 しょうごう を用 もち いていたが、後世 こうせい のオスマン帝国 ていこく の歴史 れきし 家 か はオスマン帝国 ていこく の君主 くんしゅ がスルタンを称 しょう した由来 ゆらい を、カリフからの称号 しょうごう 授与 じゅよ に結 むす びつけた[20] 。
ニコポリスの戦 たたか いの後 のち にオスマン軍 ぐん はミトロヴィツァ を攻略 こうりゃく 、さらにギリシャに進 すす み、1397年 ねん にラリサ 、パトラ 、アテネ を占領 せんりょう しペロポネソス半島 はんとう の大 だい 部分 ぶぶん を支配 しはい 下 か に置 お いた[21] 。1398年 ねん にオスマン軍 ぐん は内乱 ないらん で分裂 ぶんれつ 状態 じょうたい にあったボスニア に初 はじ めて侵入 しんにゅう し、これ以降 いこう ボスニアはオスマン軍 ぐん の内政 ないせい への介入 かいにゅう と奴隷 どれい 狩 か りに悩 なや まされることになる[22] 。
更 さら なる拡大 かくだい 、ティムールの出現 しゅつげん [ 編集 へんしゅう ]
アナドゥル・ヒサール (英語 えいご 版 ばん )
1397年 ねん から2年 ねん 以上 いじょう にかけて行 い った第 だい 三 さん 次 じ コンスタンティノープル包囲 ほうい では、コンスタンティノープル内 ない にトルコ人 じん の居住 きょじゅう 区 く とモスク を設 もう け、イスラムの法廷 ほうてい と法官 ほうかん (カーディー )を設置 せっち することを認 みと めさせる[23] [notes 1] 。1400年 ねん にマヌエル2世 せい が西欧 せいおう 諸国 しょこく に援助 えんじょ を求 もと めに出国 しゅっこく するとバヤズィトは4度目 どめ の包囲 ほうい を開始 かいし 、1402年 ねん に至 いた っても包囲 ほうい は続 つづ けられた。バヤズィトはコンスタンティノープル包囲 ほうい に際 さい してボスポラス海峡 かいきょう のアジア側 がわ にアナドゥル・ヒサールを築城 ちくじょう し、兵糧 ひょうろう 攻 ぜ めに持 も ち込 こ もうとするが、市域 しいき の広 ひろ いコンスタンティノープルは籠城 ろうじょう 戦 せん に耐 た え抜 ぬ き、攻略 こうりゃく に失敗 しっぱい した[24] 。後 のち に即位 そくい した曾孫 そうそん のメフメト2世 せい はバヤズィトの包囲 ほうい を教訓 きょうくん として、短期 たんき 決戦 けっせん によってコンスタンティノープルを陥落 かんらく させる[24] 。メフメト2世 せい のコンスタンティノープル攻略 こうりゃく においては城塞 じょうさい アナドゥル・ヒサール (英語 えいご 版 ばん ) も活用 かつよう され、城塞 じょうさい に配備 はいび された大砲 たいほう で敵 てき 軍 ぐん を牽制 けんせい した[25] 。
バルカン半島 ばるかんはんとう での軍事 ぐんじ 活動 かつどう と並行 へいこう して、アナトリア方面 ほうめん の征服 せいふく 活動 かつどう も依然 いぜん として続 つづ けられていた。ニコポリスの戦勝 せんしょう に遡 さかのぼ る1395年 ねん にはジャンダル侯 こう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) (イスフェンディヤール侯 こう 国 こく )が治 おさ めるアマスィヤ とカスタモヌ を占領 せんりょう 、1398年 ねん にエルテナ侯 こう 国 こく (英語 えいご 版 ばん ) の併合 へいごう を達成 たっせい する[26] 。ニコポリスの戦闘 せんとう 中 ちゅう にアラー・アッディーンがアナトリアのオスマン領 りょう を攻撃 こうげき しており、バヤズィトは戦後 せんご アナトリアに渡 わた り、コンヤ に進軍 しんぐん した。11日 にち に及 およ ぶ攻 おさむ 城 しろ 戦 せん の末 すえ に1398年 ねん にコンヤを攻略 こうりゃく 、服従 ふくじゅう を拒 こば んだアラー・アッディーンを処刑 しょけい し、彼 かれ の2人 ふたり の子 こ をブルサに送 おく り、カラマンを滅亡 めつぼう させる[17] 。1400年 ねん にエルズィンジャン を攻略 こうりゃく 、1402年 ねん にはオスマン帝国 ていこく より脱走 だっそう したヤクブ2世 せい が再建 さいけん したゲルミヤン侯 こう 国 こく を再 さい 征服 せいふく し、アナトリアの大 だい 部分 ぶぶん を制圧 せいあつ する[27] 。
しかし、東方 とうほう に大 だい 帝国 ていこく を打 う ち立 た てたティムール がアナトリアに現 あらわ れると、オスマン帝国 ていこく を取 と り巻 ま く情勢 じょうせい は一変 いっぺん する。1393年 ねん ごろにティムール朝 あさ とオスマン帝国 ていこく の接触 せっしょく が始 はじ まり[28] 、当初 とうしょ ティムールからは両国 りょうこく の間 あいだ に領域 りょういき を策定 さくてい しようという丁重 ていちょう な文面 ぶんめん の書簡 しょかん が送 おく られたが[29] 、バヤズィトは好意 こうい 的 てき な反応 はんのう を示 しめ さなかった[30] 。ムラト1世 せい とバヤズィトに滅 ほろ ぼされたベイリクの君主 くんしゅ たちはティムールに助 たす けを求 もと め、彼 かれ の力 ちから を借 か りて勢力 せいりょく を再建 さいけん しようとしていた[31] [32] 。一方 いっぽう 、ティムールに放逐 ほうちく された黒 くろ 羊 ひつじ 朝 あさ の君主 くんしゅ カラ・ユースフ (英語 えいご 版 ばん ) はバヤズィトに保護 ほご され、彼 かれ の力 ちから を借 か りて勢力 せいりょく を再建 さいけん しようとしていた。そのためにオスマンとティムールの両国 りょうこく 関係 かんけい は険悪 けんあく なものとなり[33] 、ついに激突 げきとつ した。
19世紀 せいき のヨーロッパの画家 がか によって描 えが かれたバヤズィトとティムール
1400年 ねん 8月 がつ からティムールは西進 せいしん してオスマンの領土 りょうど に侵入 しんにゅう 、スィヴァス を陥落 かんらく させ[31] 、スィヴァス攻略 こうりゃく 後 ご に一 いち 度 ど はマムルーク朝 あさ の支配 しはい するエジプト に軍 ぐん を進 すす めたためにティムールとの直接 ちょくせつ 対決 たいけつ は回避 かいひ される。ティムールはバヤズィトに帰順 きじゅん を求 もと める書簡 しょかん を送 おく るが、彼 かれ は勧告 かんこく を拒絶 きょぜつ し、1402年 ねん にティムールは再 ふたた びアナトリアに矛先 ほこさき を向 む ける。ティムールの要求 ようきゅう は以下 いか のようなものであった[34] 。
ジャライル朝 あさ のアフマド 、カラ・ユースフの引 ひ き渡 わた し
ティムールの名 な を刻 きざ んだ貨幣 かへい の鋳造 ちゅうぞう 、宗主 そうしゅ 権 けん の承認 しょうにん
王子 おうじ の1人 ひとり を人質 ひとじち として送 おく る
他 た のベイリクの領地 りょうち の返還 へんかん
コンスタンティノープルではマヌエル2世 せい の留守 るす 役 やく を任 まか されていたヨハネス7世 せい がコンスタンティノープルを明 あ け渡 わた す交渉 こうしょう を始 はじ めていたが[35] 、ティムールのアナトリア侵入 しんにゅう の報 ほう を受 う け取 と ったバヤズィトは包囲 ほうい を解 と いてアナトリアに駆 か けつけた。しかし、準備 じゅんび は万 まん 端 はし ではなく[36] 、長距離 ちょうきょり を行軍 こうぐん してきたティムールの軍 ぐん に先制 せんせい 攻撃 こうげき をかけず、好機 こうき を逃 のが す[32] 。
ティムールはかつてオスマンに滅 ほろ ぼされたベイリクの君主 くんしゅ を戦闘 せんとう に参加 さんか させることで他 た のベイリクからオスマンに仕官 しかん した騎士 きし に揺 ゆ さぶりをかけようとし、また常備 じょうび 軍 ぐん であるイェニチェリ も相次 あいつ ぐ遠征 えんせい で疲労 ひろう が高 たか まり、士気 しき は低 ひく かった[36] 。1402年 ねん 7月 がつ 20日 はつか にアンカラ 近郊 きんこう のチュブックでティムールの軍 ぐん と衝突 しょうとつ するが(アンカラの戦 たたか い )、他 た のベイリク出身 しゅっしん の騎士 きし たちは旧主 きゅうしゅ に寝返 ねがえ り、元々 もともと 数 すう でティムール軍 ぐん を下回 したまわ っていたオスマン軍 ぐん はさらに劣勢 れっせい となった[32] 。イェニチェリやラザレヴィチ率 ひき いるセルビア兵 へい らヨーロッパ出身 しゅっしん の兵士 へいし は奮戦 ふんせん するが[37] 、敗戦 はいせん の色 いろ が濃 こ くなると彼 かれ らは王朝 おうちょう を存続 そんぞく させるべく、王子 おうじ と大 だい 宰相 さいしょう を守 まも って戦場 せんじょう を脱出 だっしゅつ した[32] 。バヤズィトを守 まも るイェニチェリのほとんどは倒 たお れ、彼 かれ は妃 ひ のデスピナ、子 こ のムーサーとともにティムールに捕 と らえられる。
伝承 でんしょう によれば捕虜 ほりょ にされたバヤズィトは金 きむ 格子 こうし の藁 わら 小屋 こや に閉 と じ込 こ められて[10] 苦痛 くつう を与 あた えられたと言 い われるが、実際 じっさい には丁重 ていちょう に遇 ぐう されたようである[32] 。しかし、バヤズィトが逃亡 とうぼう を図 はか るに及 およ んで厳重 げんじゅう な監視 かんし が布 し かれ、夜間 やかん は足枷 あしかせ をはめられ[38] 、移動 いどう においては2頭 とう の馬 うま に曳 ひ かれた格子 こうし 付 づけ の駕 が 籠 かご に乗 の せられた[39] [notes 2] 。8か月 げつ の捕虜 ほりょ 生活 せいかつ の末 すえ にサマルカンド移送 いそう の途上 とじょう 、1403年 ねん 3月 がつ 8日 にち にアクシュヒルで没 ぼつ 、おりしもバヤズィトの釈放 しゃくほう のために身代金 みのしろきん の交渉 こうしょう がされていた時期 じき であった[38] 。死因 しいん はアンカラの戦 たたか い以前 いぜん より罹 かか っていた[40] 痛風 つうふう [3] 、あるいは指輪 ゆびわ の宝石 ほうせき の下 した に潜 ひそ ませていた毒薬 どくやく を呑 の んで自害 じがい したとも言 い われる[41] 。
バヤズィトの滅 ほろ ぼしたベイリクはティムールの手 て で再興 さいこう され、帝国 ていこく に残 のこ された領地 りょうち にはバヤズィトの四 よん 子 し スレイマン 、メフメト 、イーサー、ムーサーが割拠 かっきょ し、彼 かれ らは帝位 ていい を巡 めぐ って争 あらそ った。
発展 はってん 途上 とじょう の帝国 ていこく [ 編集 へんしゅう ]
バヤズィト治下 ちか のオスマン帝国 ていこく の支配 しはい は盤石 ばんじゃく ではなく、君主 くんしゅ が倒 たお れるとたちまち崩 くず れる不安定 ふあんてい なものであった[42] 。征服 せいふく 地 ち を帝国 ていこく に組 く み入 い れる制度 せいど は完成 かんせい しておらず、支配 しはい 組織 そしき も急速 きゅうそく に拡大 かくだい した領土 りょうど と領民 りょうみん を十分 じゅうぶん コントロールできるとは言 い い難 がた かった[43] 。しかし、オスマン帝国 ていこく 史 し の研究 けんきゅう 者 しゃ であるロベール・マントランは、次代 じだい のメフメト1世 せい より始 はじ まる帝国 ていこく の再建 さいけん 事業 じぎょう のスピードからアンカラでの敗戦 はいせん がオスマン帝国 ていこく の基礎 きそ を崩 くず すに至 いた らなかったと論 ろん じ、またオスマン1世 せい からバヤズィトまでの時代 じだい をオスマン帝国 ていこく の第 だい 一 いち 段階 だんかい と定義 ていぎ した[44] 。
イェニチェリの徴収 ちょうしゅう [ 編集 へんしゅう ]
常備 じょうび 軍 ぐん であるイェニチェリの徴収 ちょうしゅう 方法 ほうほう については当初 とうしょ 戦利 せんり 品 ひん として獲 え た捕虜 ほりょ の5分 ぶん の1を君主 くんしゅ が取 と るペンチック制度 せいど が実施 じっし されていたが[45] 、バヤズィトの治世 ちせい に人材 じんざい 登用 とうよう の手法 しゅほう に改良 かいりょう が加 くわ えられた[46] 。領内 りょうない のキリスト教徒 きりすときょうと の臣民 しんみん の子弟 してい の中 なか から宮廷 きゅうてい 奴隷 どれい に適 てき したものを強制 きょうせい 的 てき に徴収 ちょうしゅう する制度 せいど を実施 じっし し、トルコ語 ご で「集 あつ める」という意味 いみ の語 かたり である「デウシルメク」に由来 ゆらい する[47] デウシルメ制度 せいど と呼 よ ばれた。デウシルメ制度 せいど の正確 せいかく な開始 かいし 時期 じき については明 あき らかではないが、1395年 ねん に実施 じっし された徴収 ちょうしゅう が史料 しりょう で確認 かくにん できる最古 さいこ のものである[48] 。1360年代 ねんだい には1000人 にん だったイェニチェリは、バヤズィトの時代 じだい に5000人 にん に達 たっ した[49] 。
勇猛 ゆうもう な性格 せいかく であるとともに、神経質 しんけいしつ で頑固 がんこ な面 めん もあったと書 か かれている[41] 。また、彼 かれ はイスラム教徒 きょうと ではあったが飲酒 いんしゅ を好 この み[41] 、酒 さけ を嗜 たしな むようになったきっかけはセルビアから嫁 とつ いだ王女 おうじょ デスピナよりワイン の味 あじ を教 おし えられたためだという[50] 。
容貌 ようぼう については隻眼 せきがん 、あるいはやぶ睨 にら みであったと言 い われる[15] 。
バヤズィトは生前 せいぜん 、1391年 ねん から1395年 ねん にかけてブルサに自身 じしん の墓 はか (en:Bayezid I Mosque )を建立 こんりゅう していた。バヤズィトが没 ぼっ した時 とき に彼 かれ の遺体 いたい はイーサーに引 ひ き渡 わた されるが、当時 とうじ のアナトリアは王位 おうい を巡 めぐ っての内戦 ないせん 状態 じょうたい にあったため、遺体 いたい はブルサの宗教 しゅうきょう 施設 しせつ 群 ぐん の側 がわ に簡単 かんたん に埋葬 まいそう されただけであった。1406年 ねん 6月18日 にち に長子 ちょうし のスレイマンによって廟 びょう が建 た てられるが、1414年 ねん に略奪 りゃくだつ に晒 さら される。[51]
廟 びょう はメフメト2世 せい の治世 ちせい に再建 さいけん され、1855年 ねん の大 だい 地震 じしん によって被害 ひがい を受 う けたものの修復 しゅうふく され、今日 きょう に至 いた る。
デウレト・シャー・ハトゥン - ゲルミヤン侯 こう 国 こく の君主 くんしゅ スレイマン・シャーの娘 むすめ 。1381年 ねん 没 ぼつ 。
デウレト・ハトゥン - ゲルミヤン侯 こう 国 こく の君主 くんしゅ の娘 むすめ 。
ハフサ・ハトゥン - アイドゥン侯 こう 国 こく の君主 くんしゅ の娘 むすめ 。
スルタン・ハトゥン - ドゥルカディル侯 こう 国 こく の君主 くんしゅ の娘 むすめ 。
オリヴェラ・ラザレヴィチ・デスピナ・ハトゥン - セルビア公 こう ラザル・フレベリャノヴィチ の娘 むすめ
マリア
^ N.アクシトは、居住 きょじゅう 区 く 、モスク、法廷 ほうてい とカーディーは1391年 ねん に設置 せっち されたとしている。(N.アクシト『トルコ 2』、59頁 ぺーじ )
^ 格子 こうし 付 づけ の駕 が 籠 かご を指 さ す単語 たんご 「カーフェス」は、ハレム 内 うち に置 お かれた格子 こうし 付 づけ の窓 まど がある部屋 へや も指 さ す。そのため、「カーフェス」の誤訳 ごやく によってバヤズィトが檻 おり の中 なか に入 い れられたという俗説 ぞくせつ が生 う まれたとされる。(三 さん 橋 きょう 『トルコの歴史 れきし オスマン帝国 ていこく を中心 ちゅうしん に』、122頁 ぺーじ 及 およ びU.クレーファー『オスマン・トルコ 世界 せかい 帝国 ていこく 建設 けんせつ の野望 やぼう と秘密 ひみつ 』、58頁 ぺーじ )
^ a b F.トレモリエール、C.リシ『図説 ずせつ ラルース世界 せかい 史 し 人物 じんぶつ 百科 ひゃっか 1』、413頁 ぺーじ
^ N.アクシト『トルコ 2』、57頁 ぺーじ
^ a b 羽田 はた 「バヤジット1世 せい 」『アジア歴史 れきし 事典 じてん 』7巻 かん 収録 しゅうろく
^ R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、47頁 ぺーじ
^ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、50頁 ぺーじ
^ a b 尚 なお 樹 き 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』、852頁 ぺーじ
^ N.アクシト『トルコ 2』、57-58頁 ぺーじ
^ a b 尚 なお 樹 き 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』、853頁 ぺーじ
^ a b N.アクシト『トルコ 2』、58頁 ぺーじ
^ a b c F.トレモリエール、C.リシ『図説 ずせつ ラルース世界 せかい 史 し 人物 じんぶつ 百科 ひゃっか 1』、414頁 ぺーじ
^ 尚 なお 樹 き 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』、854頁 ぺーじ
^ a b 尚 なお 樹 き 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』、855頁 ぺーじ
^ a b c 森安 もりやす 、今井 いまい 『ブルガリア 風土 ふうど と歴史 れきし 』、138頁 ぺーじ
^ 尚 なお 樹 き 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』、856頁 ぺーじ
^ a b 三 さん 橋 きょう 『トルコの歴史 れきし オスマン帝国 ていこく を中心 ちゅうしん に』、113頁 ぺーじ
^ E.ハラム『十字軍 じゅうじぐん 大全 たいぜん 年代 ねんだい 記 き で読 よ むキリスト教 きりすときょう とイスラームの対立 たいりつ 』、500頁 ぺーじ
^ a b N.アクシト『トルコ 2』、59頁 ぺーじ
^ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、51-52頁 ぺーじ 林 りん 『オスマン帝国 ていこく 500年 ねん の平和 へいわ 』、59頁 ぺーじ
^ ジョゼフ・カルメット『ブルゴーニュ公国 こうこく の大公 たいこう たち』(田辺 たなべ 保 たもつ 訳 やく , 国書刊行会 こくしょかんこうかい , 2000年 ねん 5月 がつ )、96頁 ぺーじ
^ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、52頁 ぺーじ
^ R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、47-48頁 ぺーじ
^ S.クリソルド編 へん 『ユーゴスラヴィア史 し 』、74頁 ぺーじ
^ R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、48頁 ぺーじ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、53頁 ぺーじ
^ a b 林 はやし 『オスマン帝国 ていこく 500年 ねん の平和 へいわ 』、56-57頁 ぺーじ
^ T.ビタール『オスマン帝国 ていこく の栄光 えいこう 』、30頁 ぺーじ
^ 永田 ながた 、羽田 はた 『成熟 せいじゅく のイスラーム社会 しゃかい 』、55頁 ぺーじ
^ R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、48頁 ぺーじ
^ 加藤 かとう 『ティームール朝 あさ 成立 せいりつ 史 し の研究 けんきゅう 』、293頁 ぺーじ
^ 加藤 かとう 『ティームール朝 あさ 成立 せいりつ 史 し の研究 けんきゅう 』、298頁 ぺーじ
^ 加藤 かとう 『ティームール朝 あさ 成立 せいりつ 史 し の研究 けんきゅう 』、294頁 ぺーじ
^ a b R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、48-49頁 ぺーじ
^ a b c d e 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、54頁 ぺーじ
^ 三 さん 橋 きょう 『トルコの歴史 れきし オスマン帝国 ていこく を中心 ちゅうしん に』、118頁 ぺーじ
^ N.アクシト『トルコ 2』、60頁 ぺーじ
^ 尚 なお 樹 き 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』、858頁 ぺーじ
^ a b 林 はやし 『オスマン帝国 ていこく 500年 ねん の平和 へいわ 』、60頁 ぺーじ
^ R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、49頁 ぺーじ
^ a b 三 さん 橋 きょう 『トルコの歴史 れきし オスマン帝国 ていこく を中心 ちゅうしん に』、122頁 ぺーじ
^ 羽田 はた 「バヤジット1世 せい 」『アジア歴史 れきし 事典 じてん 』7巻 かん 収録 しゅうろく 三 さん 橋 きょう 『トルコの歴史 れきし オスマン帝国 ていこく を中心 ちゅうしん に』、122頁 ぺーじ
^ U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界 せかい 帝国 ていこく 建設 けんせつ の野望 やぼう と秘密 ひみつ 』、56頁 ぺーじ
^ a b c N.アクシト『トルコ 2』、61頁 ぺーじ
^ 林 はやし 『オスマン帝国 ていこく 500年 ねん の平和 へいわ 』、59頁 ぺーじ
^ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、55頁 ぺーじ
^ R.マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』、50頁 ぺーじ
^ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、49頁 ぺーじ
^ 永田 ながた 、羽田 はた 『成熟 せいじゅく のイスラーム社会 しゃかい 』、104頁 ぺーじ
^ 鈴木 すずき 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』、216頁 ぺーじ
^ 林 はやし 『オスマン帝国 ていこく 500年 ねん の平和 へいわ 』、76頁 ぺーじ
^ 永田 ながた 、羽田 はた 『成熟 せいじゅく のイスラーム社会 しゃかい 』、55,106頁 ぺーじ
^ U.クレーファー『オスマン・トルコ 世界 せかい 帝国 ていこく 建設 けんせつ の野望 やぼう と秘密 ひみつ 』、42頁 ぺーじ
^ T.ビタール『オスマン帝国 ていこく の栄光 えいこう 』、27頁 ぺーじ
井谷 いたに 鋼 こう 造 づくり 「トルコ民族 みんぞく の活動 かつどう と西 にし アジアのモンゴル支配 しはい 時代 じだい 」『西 にし アジア史 し 2 イラン・トルコ』収録 しゅうろく (永田 ながた 雄三 ゆうぞう 編 へん , 新版 しんぱん 世界 せかい 各国 かっこく 史 し , 山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ , 2002年 ねん 8月 がつ )
加藤 かとう 和秀 かずひで 『ティームール朝 あさ 成立 せいりつ 史 し の研究 けんきゅう 』(北海道大学 ほっかいどうだいがく 図書 としょ 刊行 かんこう 会 かい , 1999年 ねん 2月 がつ )
尚 なお 樹 き 啓 けい 太郎 たろう 『ビザンツ帝国 ていこく 史 し 』(東海大学 とうかいだいがく 出版 しゅっぱん 会 かい , 1999年 ねん 2月 がつ )
鈴木 すずき 董 ただし 『オスマン帝国 ていこく イスラム世界 せかい の「柔 やわ らかい専制 せんせい 」』(講談社 こうだんしゃ 現代新書 げんだいしんしょ , 講談社 こうだんしゃ , 1992年 ねん 4月 がつ )
永田 ながた 雄三 ゆうぞう 、羽田 はた 正 ただし 『成熟 せいじゅく のイスラーム社会 しゃかい 』(世界 せかい の歴史 れきし 15, 中央公論社 ちゅうおうこうろんしゃ , 1998年 ねん 1月 がつ )
羽田 はた 明 あきら 「バヤジット1世 せい 」『アジア歴史 れきし 事典 じてん 』7巻 かん 収録 しゅうろく (平凡社 へいぼんしゃ , 1959年 ねん )
林 はやし 佳世子 かよこ 『オスマン帝国 ていこく 500年 ねん の平和 へいわ 』(興亡 こうぼう の世界 せかい 史 し 10, 講談社 こうだんしゃ , 2008年 ねん 10月 がつ )
三橋 みつはし 富治 とみはる 男 おとこ 『トルコの歴史 れきし オスマン帝国 ていこく を中心 ちゅうしん に』(紀伊国屋 きのくにや 新書 しんしょ , 紀伊国屋 きのくにや 書店 しょてん , 1962年 ねん )
森安 もりやす 達也 たつや 、今井 いまい 淳子 じゅんこ 共 とも 訳 やく 編 へん 『ブルガリア 風土 ふうど と歴史 れきし 』(恒文社 こうぶんしゃ , 1981年 ねん 8月 がつ )
N.アクシト『トルコ 2』(永田 ながた 雄三 ゆうぞう 編 へん 訳 やく , 世界 せかい の教科書 きょうかしょ =歴史 れきし , ほるぷ出版 しゅっぱん , 1981年 ねん 11月)
テレーズ・ビタール『オスマン帝国 ていこく の栄光 えいこう 』(鈴木 すずき 董 ただし 監修 かんしゅう , 富樫 とかし 瓔子 ようこ 訳 やく , 「知 ち の再 さい 発見 はっけん 」双書 そうしょ 51, 創 つく 元 もと 社 しゃ , 1995年 ねん 11月)
スティーヴン・クリソルド編 へん 『ユーゴスラヴィア史 し 』(田中 たなか 一生 かずお 、柴 しば 宜 むべ 弘 ひろし 、高田 たかだ 敏明 としあき 訳 やく , 恒文社 こうぶんしゃ , 1980年 ねん 11月)
エリザベス・ハラム『十字軍 じゅうじぐん 大全 たいぜん 年代 ねんだい 記 き で読 よ むキリスト教 きりすときょう とイスラームの対立 たいりつ 』( 川成 かわなり 洋 よう 、太田 おおた 美智子 みちこ 、太田 おおた 直也 なおや 訳 やく , 東洋 とうよう 書林 しょりん , 2006年 ねん 11月)
ウルリッヒ・クレーファー『オスマン・トルコ 世界 せかい 帝国 ていこく 建設 けんせつ の野望 やぼう と秘密 ひみつ 』(戸 と 叶 かのう 勝也 かつや 訳 やく , 佑 たすく 学 がく 社 しゃ , 1982年 ねん 4月 がつ )
ロベール・マントラン『改訳 かいやく トルコ史 し 』(小山 こやま 皓 あきら 一郎 いちろう 訳 わけ , 文庫 ぶんこ クセジュ, 白水 しろみず 社 しゃ , 1982年 ねん 7月 がつ )
フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ『図説 ずせつ ラルース世界 せかい 史 し 人物 じんぶつ 百科 ひゃっか 1 古代 こだい - 中世 ちゅうせい アブラハムからロレンツォ・ディ・メディチまで』(原 はら 書房 しょぼう , 2004年 ねん 6月 がつ )
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 人物 じんぶつ その他 た